https://news.yahoo.co.jp/articles/cd6bfe0e4e2155e587eb46d2425f76b573c7e727
(平井 敏晴:韓国・漢陽女子大学助教授)
コロナが終わったら、花蓮(かれん、ホワリエン)に行こう。
【写真】映画『湾生回家』のDVDパッケージの写真。花蓮に港がない時代は、ロープのようなものを使って浜から船を人力で引っ張っていた。
台湾の東海岸に面するこの街は、戦前は花蓮港市と呼ばれた。太魯閣(タロコ)観光の拠点として知られているくらいで、街中に取り立てて何かがあるというわけではないが古き面影が残り、最近は小洒落た建物も目立つようになった。市街地には、かつて港まで伸びていた線路の跡がそのまま残され、市民の憩いの場となっている。
初めて訪ねたときから、この街にどことなく惹かれてしまった。そして何度か訪ねるうちに、かつて移り住んだ日本人の営みを知るようになった。
4月2日に花蓮で特急列車が脱線して、50人の方が亡くなり、200人以上が負傷した。日本では、この悲惨な事故によって花蓮の名が一躍知られることになってしまったが、戦前に花蓮と日本の間に深い関わりがあったことは、ほとんど語られない。今回は、知られざる“花蓮開拓”の歴史を紹介したい。
■ 過酷を極めた原野の開墾
花蓮はもともと日本人がつくった街だ。
清から割譲された1895年まで、漢人たちは西海岸に住みつき、東海岸一帯は手つかずの自然が広がっていた。海沿いを南北に40キロほど延びる平野では、亜熱帯の樹木が伸びたい放題の原野だった。当然、根っこも張っている。まだ重機などなかった時代、現地に移住した日本人は、それを1本ずつ人力で引き抜いて、開墾にとりかかったのだ。1910年頃、つまり、日本が韓国を併合する前後のことだった。
それはまさに「生存をかけた暮らしの始まり」だったと、戦前の花蓮の日本人を描いて台湾でベストセラーになった『湾生回家』で綴られている。移民者の暮らしは過酷を極めた。昆虫の大発生や洪水、伝染病にも見舞われた。台湾原住民との鍔迫り合い(つばぜりあい)や、野獣の襲来で命を落とす者も少なくなく、「死体が転がっていると、五体満足なものは一つもなかった」という。
日本人の足跡を案内をしてくれたのは、現地で民宿を経営している日本人だ。花蓮市街地から五キロほど西に行った山の中腹で車を降りると、眼下に広がる平野では、集落が点在する以外は一面田んぼで、長方形や正方形できれいに仕切られている。しかも田んぼや灌漑は当時の日本人が作ったそのままで、「まだ十分に使える」と、花蓮市の役人のお墨付きなのだそうだ。
■ 韓国の町で使われる「収奪」という言葉
花蓮を訪れた私が見聞きしたことは、驚きの連続だった。私が普段暮らす韓国では起こり得ない体験が続いたからだ。
(略)