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2016/06/23(木) 22:28:52.69 ID:CAP_USER9
鳩山邦夫氏死去 政治家・大仁田の生みの親…政界最後の大仕事は東大同級生・舛添氏への引導
東京スポーツ:2016年06月23日 17時30分
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/557207/
法相や総務相を歴任した自民党衆院議員の鳩山邦夫氏が21日、十二指腸潰瘍のため東京都内の病院で死去していたことが22日に明らかになった。67歳だった。
邦夫氏は、祖父が鳩山一郎元首相、父・威一郎氏は元外相、兄の由紀夫氏も元首相という“華麗なる政治家一族”の出身。
思い起こされるのは、東大法学部の同級生で先ごろ東京都知事を辞職した舛添要一氏(67)とのライバル関係。
邦夫氏の政治家として最後の仕事が、疑惑まみれの舛添氏を辞めさせたことだったという。
邦夫氏と舛添氏はともに1948年生まれで、東大法学部では同級生だった。
邦夫氏が首席で卒業したが、在学当時は舛添氏との交友はなかったという。
邦夫氏は東大卒業後、田中角栄元首相、父の鳩山威一郎元外相の秘書を経て、76年の衆院選で初当選。
宮沢内閣で文相を務めた。
93年に自民党を離党し、94年の羽田内閣で労相に就任した。
“華麗なる一族”で、豊富な資金力をバックに政界エリートを突き進んだ邦夫氏に対し、叩き上げの舛添氏は国際政治学者として、テレビで名をはせると99年の都知事選で2人は激突した。
自民党関係者は
「鳩山氏は都知事選で環境問題に重点を置いたスローガン『東京浪漫革命』を掲げ、街頭演説で当時、テレビプロデューサーのテリー伊藤氏を『副知事にする』と公約した。さらに副知事を支える行政監視役を7人作ると。これを『7人の侍』と名付けた。政策がとてもユニークだった」と語る。
邦夫氏は約85万票、舛添氏は約83万票で166万票の石原慎太郎氏(83)の前に仲良く涙をのんだ。
その後、舛添氏が参院議員に当選するや、2007年の安倍内閣では邦夫氏が法相、舛添氏が厚労相で再びイスを並べ、ともに注目を集める看板大臣となった。
00年に復党した邦夫氏が10年に自民党を再び離党し、その1か月後には舛添氏も離党。
邦夫氏は舛添氏にラブコールを送り、新党を結成するかに見えたが、誕生した「新党改革」に邦夫氏が名前を連ねることはなかった。
もっとも陰では邦夫氏が多額の資金を援助し、その年の参院選には長男の太郎氏も同党から出馬していた。
その後も邦夫氏と舛添氏の良好な関係は続いていた。
舛添氏が都知事選に出馬する前には邦夫氏の政治団体が計2000万円を寄付し、選挙でも物心両面で支えた。
ただ、最近の2人は絶縁状態だったという。
「舛添氏は邦夫氏のバックアップがあってこそ都知事のイスを射止めたにもかかわらず、就任後はてんぐとなって、ソデにしたんです。これには邦夫氏も愛想を尽かした。舛添氏の政治資金私的流用疑惑で最後は自民党がハシゴを外したが、都議会に強い影響力を持つ邦夫氏が引きずりおろしたといってもいい」(永田町関係者)
この2か月は舛添氏の問題で、邦夫氏は気苦労があったようだ。
くしくも邦夫氏が亡くなったのは舛添氏が都知事を辞職した21日。
引導を渡し、“製造物責任”だけは果たしたともいえそうだ。
また邦夫氏といえば、プロレスラーの大仁田厚(58)を政治家にした責任者でもある。
01年の参院選に自民党から比例代表で出馬し、“小泉チルドレン”の一人となった。
本紙の取材に大仁田は
「俺は鳩山さんが仲介してくれて小泉さんに会って、自民党公認が決まった。ユニークな人だったよ。兄の由紀夫さんと正反対の人だった。兄が首相になりライバル心もあったと思う。過保護のお兄さんに比べ、野武士のような人だった。その後はいろいろあったけど、俺が政治家になったのは鳩山さんの力が一番大きかったし、かわいがってもらいましたよ。本当にお世話になりました。心からご冥福をお祈りいたします」と語った。
(略)
東京スポーツ:2016年06月23日 17時30分
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/557207/
法相や総務相を歴任した自民党衆院議員の鳩山邦夫氏が21日、十二指腸潰瘍のため東京都内の病院で死去していたことが22日に明らかになった。67歳だった。
邦夫氏は、祖父が鳩山一郎元首相、父・威一郎氏は元外相、兄の由紀夫氏も元首相という“華麗なる政治家一族”の出身。
思い起こされるのは、東大法学部の同級生で先ごろ東京都知事を辞職した舛添要一氏(67)とのライバル関係。
邦夫氏の政治家として最後の仕事が、疑惑まみれの舛添氏を辞めさせたことだったという。
邦夫氏と舛添氏はともに1948年生まれで、東大法学部では同級生だった。
邦夫氏が首席で卒業したが、在学当時は舛添氏との交友はなかったという。
邦夫氏は東大卒業後、田中角栄元首相、父の鳩山威一郎元外相の秘書を経て、76年の衆院選で初当選。
宮沢内閣で文相を務めた。
93年に自民党を離党し、94年の羽田内閣で労相に就任した。
“華麗なる一族”で、豊富な資金力をバックに政界エリートを突き進んだ邦夫氏に対し、叩き上げの舛添氏は国際政治学者として、テレビで名をはせると99年の都知事選で2人は激突した。
自民党関係者は
「鳩山氏は都知事選で環境問題に重点を置いたスローガン『東京浪漫革命』を掲げ、街頭演説で当時、テレビプロデューサーのテリー伊藤氏を『副知事にする』と公約した。さらに副知事を支える行政監視役を7人作ると。これを『7人の侍』と名付けた。政策がとてもユニークだった」と語る。
邦夫氏は約85万票、舛添氏は約83万票で166万票の石原慎太郎氏(83)の前に仲良く涙をのんだ。
その後、舛添氏が参院議員に当選するや、2007年の安倍内閣では邦夫氏が法相、舛添氏が厚労相で再びイスを並べ、ともに注目を集める看板大臣となった。
00年に復党した邦夫氏が10年に自民党を再び離党し、その1か月後には舛添氏も離党。
邦夫氏は舛添氏にラブコールを送り、新党を結成するかに見えたが、誕生した「新党改革」に邦夫氏が名前を連ねることはなかった。
もっとも陰では邦夫氏が多額の資金を援助し、その年の参院選には長男の太郎氏も同党から出馬していた。
その後も邦夫氏と舛添氏の良好な関係は続いていた。
舛添氏が都知事選に出馬する前には邦夫氏の政治団体が計2000万円を寄付し、選挙でも物心両面で支えた。
ただ、最近の2人は絶縁状態だったという。
「舛添氏は邦夫氏のバックアップがあってこそ都知事のイスを射止めたにもかかわらず、就任後はてんぐとなって、ソデにしたんです。これには邦夫氏も愛想を尽かした。舛添氏の政治資金私的流用疑惑で最後は自民党がハシゴを外したが、都議会に強い影響力を持つ邦夫氏が引きずりおろしたといってもいい」(永田町関係者)
この2か月は舛添氏の問題で、邦夫氏は気苦労があったようだ。
くしくも邦夫氏が亡くなったのは舛添氏が都知事を辞職した21日。
引導を渡し、“製造物責任”だけは果たしたともいえそうだ。
また邦夫氏といえば、プロレスラーの大仁田厚(58)を政治家にした責任者でもある。
01年の参院選に自民党から比例代表で出馬し、“小泉チルドレン”の一人となった。
本紙の取材に大仁田は
「俺は鳩山さんが仲介してくれて小泉さんに会って、自民党公認が決まった。ユニークな人だったよ。兄の由紀夫さんと正反対の人だった。兄が首相になりライバル心もあったと思う。過保護のお兄さんに比べ、野武士のような人だった。その後はいろいろあったけど、俺が政治家になったのは鳩山さんの力が一番大きかったし、かわいがってもらいましたよ。本当にお世話になりました。心からご冥福をお祈りいたします」と語った。
(略)