0001樽悶 ★
2023/12/30(土) 23:38:29.00ID:3hQUVdUg9日本の歴史を『古事記』の天孫降臨から始めるのは「歴史学」ではないが、戦前の日本はこれを学校で大真面目に教えていた。そしてイスラエルでは、いまでも旧約聖書の物語が“公式”の歴史観となっている。それによれば、「ユダヤ人の起源」は次のように説明される。
紀元前2000年頃、テラと呼ばれる男が、その息子アブラハムと妻サラ、孫のロト(アブラハムの甥)を連れて当時の文化の中心バビロニアを去り、ユーフラテス川を越えて現在のトルコ南部にあたるハランにやってきた。彼らは「イヴリム(川向うから来た人々)」すなわち「ヘブライ人」と呼ばれた。
父のテラが死んだあと、70歳代になったアブラハムは神ヤハウェ(エホバ)に出会い、神の戒律(男児は誕生から8日目にかならず割礼しなければならない)を守るならば子孫を神の「選民」として庇護するという契約を結び、カナンの地が約束された。
紀元前16世紀、アブラハムのひ孫ヨセフが古代エジプトの副王にとりたてられ、飢餓に襲われたヘブライ人を呼び寄せた。だがエジプトで新しい王が権力を握ると、ヘブライ人は奴隷にされてしまう。
それから400年後の紀元前12世紀、ヘブライ人はモーセというリーダーに率いられてエジプトを脱出した(「出エジプト」)。モーセはシナイ山で神の戒律を記した十戒の石版を受け取り、カナンを征服して「約束の地」に帰還した。
その後、12支族による族長時代の「連邦制」を経て、カナンはダビデによって統一された。だがダビデの子で「知恵の王」とも称されたソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダという2つの王国に分裂してしまう。
イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、歴史から消滅した。これに対してユダ王国は、紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザルに攻略されるまで持ちこたえ、住民たちがバビロニアに虜囚されてからも独自の一神教を保持しつづけた。このとき、「約束の地」から追放されたユダ王国の子孫が「ユダヤ人」になる。
だが、これらは歴史的な事実なのか、それとも旧約聖書に書かれたたんなる神話なのか。この問いが重要な意味をもつのは、この「公的」な歴史観が、ユダヤ人が「約束の地」に自らの国家をもつシオニズムの根拠とされているからだ。
■聖書における「出エジプト」はすべて創作なのか
(省略)
では逆に、エジプトのカナン攻略以前に、モーセがユダヤ人を率いて「約束の地」に帰還したとしたらどうだろう。これなら石碑とのつじつまは合うが、今度は、聖書にこの大事件の記載がいっさいないことを説明できなくなる。エジプトでの奴隷状態からようやく逃れてきたのに、ふたたびエジプトの支配下に置かれることになったことを、なぜ無視するのか。
このように考えれば、「合理的」な解釈はひとつしか残されていない。聖書における「出エジプト」はすべて創作なのだ。しかしこれでは、モーセの存在も、シサイ山での十戒の石版も、ヤハウェの命令によるカナン征服も、すべてつくり話になってしまう。
■イスラエル王国以前に強力な統一王国はなく、しかもイスラエル王国は「ユダヤ教」ではなかった
モーセが架空の存在であったとしても、ユダヤ人が古くから「約束の地」で暮らしていたことは、族長時代を経て、「威厳に満ちたサウル、勇気あるダビデ、賢いソロモン王」という3人の王が、北のイスラエルと南のユダを統一し、紅海からアッシリアのダマスコ(ダマスカス)に至る大帝国をつくったことで明らかだとされる。
(省略)
イスラエルの公式史観にとって都合の悪いことに、さまざまな考古学的発掘の結果は、カナンのひとびとが一神教を信じていたのではなく、当時、中東で一般的だった多神教徒だったことを示している。そのなかでもっとも人気のある神がヤハウェで、「それがギリシア人におけるゼウスやローマ人におけるユピテルと同じように、徐々に主神になっていった」のだ。
このようにして、モーセだけでなくダビデやソロモンも架空の人物になってしまった。「栄光に満ちた統一王国は決して存在したことがなく、ソロモン王は、700人の妻と300人の側妻を住まわせるほど広い宮殿をもっていなかった」とサンドはいう。「イスラエル王国」はたしかに存在したものの、そこにいたのは「異教徒」だった。なぜなら、「ユダヤ教」がまだ成立していなかったからだ。(以下ソース)
2023.12.28 4:30
https://diamond.jp/articles/-/336689