毎日新聞 2022/12/30 08:00
https://mainichi.jp/articles/20221227/k00/00m/040/116000c
仏文学者の桑原武夫(1904~88年)や、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(07~81年)らが、旧制京都一中時代に手がけた同人誌がある。後に日本の各界で活躍する俊英たちが小説や評論などで才能を発揮したが、活動は大正期の数年で終わった上、現物はごく一部しか残っておらず、謎が多い。
散逸した中には、少年時代の湯川が書いた「幻の童話」など貴重な資料があるとみられ、文理の枠を超えた研究者が協力し、創刊100年を経た同人誌捜しに乗り出した。
⬛各号1冊の貴重誌 現存は10冊のみ
同人誌名は「近衛(このえ)」。桑原や、後の大蔵官僚で北海道銀行初代頭取などを歴任した島本融(とおる)ら在校生が中心となり、19(大正8)年1月に創刊した。誌名は当時の学校所在地(京都市左京区吉田近衛町)や、正門に面した近衛通にちなむ。
内容は各自が持ち寄った小説や詩、天下国家や野球に関する評論、旅行記、エッセーなど硬軟を織り交ぜ、表紙や口絵も自分たちで描いた。印刷せず手書きの生原稿をとじて製本したため、各号1冊ずつしかない。各自が順番に読む「回覧誌」で、欄外に読後感や批評を書き込んだ。
メンバーには、戦中戦後に各界で名を成した人が多い。仏文学者で広辞苑も編集した新村猛(しんむらたけし)、法制局で憲法制定に携わり文部次官も務めた井手成三、湯川の実兄で中国史学者の貝塚茂樹らが確認されている。桑原と、2学年下の湯川らが活動の中心だったとみられるが、やがて解散。各号を仲間たちが分けて持ち帰ったため、散逸したとされる。
その後、50(昭和25)年に桑原が一部を集め、後に所長を務める京都大人文科学研究所の図書室に納めた。新村も55年に所有分を寄贈し、19年1月の創刊号から21年9月号まで計10冊が残っているが、全体で何号まで出たのかは分かっていない。
さらに、20年12月号が「15号」なのに対し、21年9月号は「第3巻第3号」と記載されるなど不明点も多く、制作頻度や参加した同人の総数も謎のままだ。
掲載された文章は、中学生とは思えない早熟ぶりが目立つ。創刊号で、島本は「本誌は自由である。米国のように偽自由じゃない、従つて会則等の必要を認めない」と発刊方針を宣言。
中心メンバーの桑原は「中学生と読書」と題した評論で、「先哲(せんてつ)曰(いわ)く、『読書は青年の糧也(なり)』と。実に然(しか)りである。之(これ)を取る事無からんか、吾人(ごじん)は精神的に飢死するをまぬがれぬのである」として読書の必要性や方法を論じた。
一方、湯川については21(大正10)年に新入生として加わったとの記載がある。湯川本人は自伝「旅人 ある物理学者の回想」=58(昭和33)年=の中で、「近衛」の活動と童話を書いたことに触れ、「意識して童話を書いた時代があるということは、私にとっては記念すべきことだ。――いや、文学的な『美』も、理論物理学が私たちに見せてくれる『美』も、そんなに遠いものではない」「暇ができたら、童話でも作りたいという気持は、今でも私の心の底に残っている」と述懐している。思い入れの強さがうかがえるが物語の内容は記しておらず、その存在は確認されていない。
そこで、湯川研究の第一人者で元日本物理学会長の小沼通二(みちじ)・慶応大名誉教授が「湯川の幻の童話を調べたい」と、「近衛」の保存活用を進める京大人文研の藤原辰史(たつし)准教授(農業史)に相談。他の研究者らも加わり、行方が分からない他の号を捜すことになった。メンバーの遺族を訪ねるほか、京都一中の後身である京都府立洛北高(京都市左京区)、同窓会などにも協力を依頼する予定だ。
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