「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。
■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う
だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。
邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。
「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。
使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。
実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。
本書では、ここでユニークな仮説を立てている。
わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)
つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。
本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。
本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
◇
邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。
この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部)
2022.07.16 15:00
https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html
★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68
http://2chb.net/r/newsplus/1658032059/ 邪馬台国って、弥生人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者の扱い
その程度なのに、邪馬台国がどうとか
自慢して恥ずかしくないの?
世界を支配するイギリス(イルミナティ)の手先のジョンソン首相が辞任した翌日
同じく手先である安倍晋三が銃弾に撃たれる
安倍晋三が銃撃された場所は、大和西大寺駅は逆五芒星のド真ん中の橿原神宮(平城京跡)のすぐ近く
初代・神武天皇が即位した日本のはじまりの地
なになに今度は邪馬台国韓国説?卑弥呼は韓国人だった?
昭和に教えていた歴史的ジジツが今では随分書き換わっているからなぁ
やまとぅ=大和
壹 いち
やまとぅ
やまとぅ
ヤハウェの民というヘブライ語説
途中までは粗方正確に距離書いてるのに途中から水行だの言い始めるから距離書いてるところまでは自分達で踏破してその後は日本人に聞いた話なんだろう
でも方角も暦も日本と中国全く違うから話がグッチャになったと
大和国は、各国が話し合いで1人の女性を共立してスタートしました
こんな始まり方の国、世界中探しても何処にもないんだわ
聖徳太子(天足彦)が「以和貴」って言ったのも、このような日本の始まり方に根ざしてたんだね
魏の使者は卑弥呼に会ってるよ
親魏倭王の称号与えて相手がどんな奴か知らないなんてあり得んでしょ
そもそも中国の文献だぞ
今となってはどのような読みが正しいかは推測するしかないが当時の中国の読みで字が当てられていたはずだから「ヤマタイ」でも「ヤマトゥ」でもあるまい
>>6
日本は素晴らしい国だと思う。他方、皇室が日本一般市民の素晴らしさの足を引っ張ってる。 最初からずっとそう思ってた
古代中国的に異民族は下に見て卑しい文字を当てたからな
大和て言ったのを邪馬台て字を当て
姫巫女て言ったのを卑弥呼て字を当てる
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C
九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。
大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある。
井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している[19][20][21]。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。
神籠石
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。
古代の日本の中心はやっぱり九州だね >>6
ヨーロッパはそのあと1000年くらい退行するじゃん >>38
子供の頃、邪馬台国はムー大陸って聞いたが。 日本語の起源
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
彼らは、地名研究によって抽出された日本語に類似する単語が朝鮮半島中部に特に多いことを指摘し、これらの地名が高句麗語を反映したものではなく、朝鮮半島中部および南部における先高句麗の集団を反映したものであるとの仮説を唱えた。
Vovin, Alexanderは日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張している[50]。
朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[51][52][53][54][55]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
古代では朝鮮半島南部に日本民族が残っていたみたいだね 自分の都合のいいようにここは書き間違いだったとか
議論になるわけがない
旧唐書
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8
「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
小国の日本が倭国を併合したという説があるね
当時の天皇は神の子孫だと主張するカルト国家だったから、前の国の業績も自分のものに取り込んでいるかもしれない >>40
それで間違い無いだろうね。縄文人が元々、九州に住んでいたわけだし。。。 >>30
音読みって古い中国の読み方からきとるんやで つーか、文字がないから渡来した中国人が漢字をあてはめただけ
邪悪の邪、
馬鹿の馬、
という漢字を使ったのもそういうわけ
大和魂「ヤマトダマシイ」とは言うけど日本魂「ニホンタマシイ」とは言わんからね、「ヤマト」には特別な意味が込められているのは明白な事実。
ヤマタイコクなんていう国はそもそもなく、江戸時代の国学者達が言い出した説。
>>37
そこに大和朝廷があったから奈良をヤマトと言ってるだけで順番が逆 大和をヤマトと読ませるのはいつからか?
文献学的にはどうなの?
コイツらそうとうな馬鹿だな(笑)
邪馬台国と言われているものが奈良以外にあるというのであれば、それはヤマト王権に倒された負け犬どもの勢力にすぎないってことなんだよ。
だが、邪馬台国が後のヤマト王権だというのなら別に矛盾はない。
勝者の歴史。 敗者が後になって何をほざいても敗者は敗者だ。
>>45
イギリスでもそう分析されてたね。。。ケンブリッジ大学とか。
近年の日本皇室の姿を見ると、単なる窃盗犯と犯罪者の集いにしか見えない。
日本皇族の印象≠日本人の印象、なんだけど、この辺を海外から区別つけてもらわないと困るよね。。。
幸運にも、眞子小室問題で、海外でも「日本皇族と日本国民の不仲で眞子が海外へ逃げ出した」と報道されてるからよかった。
今では、日本皇族が悪くて、日本国民が正しかったってことが、世界的に有名になったからね。 神功皇后のように見せかけ、かつ田油津ヒメのように見せかけ、みたいな白々しさがヤマトではなかったのじゃないかと思わせるんだよな
読みは普通にヤマトだろうけど、九州からヤマトが畿内にやってきてそこがヤマト朝廷になったんでしょ
落ち着いて考えればそれほど重要なことでもないしな
へたに不十分な事実があるからミステリーになるだけ
邪馬台国と書いても魏の地方では「やまどゥ」みたいに発音したらしい
文字はわざと卑しい字を当てたんだが
>>48
音読みの入ってきた時代と弥生時代では数百年離れてるし呉音、漢音がそれぞれ入ってきた時代の中国の中心地と魏では地理的に離れてるからあまり参考にならないのでは 邪馬台国は中国人がつけた名前だから中国読みがなんなのかということが問題
邪馬臺はヤマトの音写
これは教科書に載るレベルで既に定説
九州説とか畿内説とかは関係ない
倭国において女王が都するところ=邪馬臺国
>>58
おそらくそんな簡単な話じゃないから、解明されない。
ヤマト諸国の有力者達が寄ってたかって新たに都と定めたのが今の奈良県。 大和は大倭 倭国であるのは間違いない
じゃあ、何故「だいわ」と発音しない? 邪馬台が倭国だから?
そこまでは知らん
>>70
そういう事でしょ
倭は日本ではヤマトと読む これが邪馬台国へのルート
倭人伝の位置情報からは九州しかねえだろ
いくらでも後付けが出来る読みから位置情報をねじ曲げるなよ
>わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
>何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。
中国歴代王朝の正史は次の王朝が編纂する(ちなみに日本も次の天皇の代以降に編纂する)
魏志を編纂したのは魏を乗っ取り呉を滅ぼした晋の時代
だから魏が呉にバレたくなくてウソを書いたなんてのは珍説にもほどがある
西ローマ帝国がなぜ大秦と当て字されたのか
そのあたりからなにかヒントはないものか
畿内説なら壹からではなく臺から攻めた方が得策だと思うがねw
大和がヤマトと読めるなら大秦だってロマじゃなくヤマトでもアハでも何でも読めるワイ
卑弥呼の娘の台代はトヨなんだから邪馬台はヤマトでいいよね
「我が国」って言葉があるように、「わ=wa、wo」が昔の日本人が自分達の国を指す言葉だったんだろう
外国人にお前達のクニの名前は?と聞かれて「我=わのくに」と答えた
中国人は、わ=wo=waの音写に当時の日本人の印象も加えて「倭」の字を当てた
後に漢字を知った日本人は倭という文字を嫌がり「和」と当て、その前に大をつけて自らの国を「大和」と漢語表現した
で合ってる?
>>80
そうだよ
明らかにヤマトと言う言葉に後から文字をあてたんだよ 日本もにほんとにっぽんと2つ読みがあんだから
2つ読みを許容してもいいだろ
>>58
縄文以後に大規模移民が3回あったと思われる
純長江文明系→長江・黄河混血系→黄河系の順
邪馬台国や初期大和朝廷がどの祖先をルーツにもってたがハッキリしてない
だから場所の特定も困難 >>58
まあそんな感じ
カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。
呉を騙すためというより、魏内のライバルを意識して司馬懿グループが嘘をついた
司馬懿は晋の高祖だから晋の時代に書かれた三国志でも訂正されることはなかった
この説なら別に矛盾もないしあり得そうだけどな
倭、倭国は当時の倭人が下手な中国語で「我、我国」と言ってたのを四声が間違ってたから「ワ(Wo)」というのがこいつらの自称なんだな、と勘違いされた可能性大
ヤマトは山戸、山門、山外
山あいの峠の不毛とかその向こう辺り、みたいな意味で日本中にそんな地名はあったんじゃないかな
これだけじゃ九州とも畿内とも言えない
倭の音読みがワで訓読みがやまと(山門のこと)
元々は大倭と書いてやまとと読んだ
大は単にgreatの意味
倭の漢字が雅で無いのでこれを大和に変えた
だから大和をやまとと読むわけな
奈良(畿内)以外で邪馬台国を主張している勢力って明らかに日本転覆を狙っているよな。
チョンと変わらん
邪馬台国は現在の宮崎県宇佐にあった。
宇佐神宮が祀ってる謎の主女神が卑弥呼で間違いない
>>105
そもそも卑弥呼のルーツの可能性がある苗族のグループが1箇所にしかなかったという証明はされていない
当時、卑弥呼と同様なシャーマンが日本各地に複数いたとしても不思議ではない 邪馬台国=山門国
奴国=那国
狗奴国=球磨国
投馬国=妻国
不弥国=宇美国
侏儒国=四国高知西部の幡多地方のこと
ワダツミとは「幡多つ宇美」のこと
海は宇美が語源で、元々は博多湾のこと
海の中道は宇美の中道のこと
裸国、黒歯国はハワイのこと
>>12
こういうのってよく見るけどすぐ近く、て言うのはずるくね?
きっちりと真ん中じゃないとなぁ 山人かも知れんし語源はどうでも良い
邪馬壹も倭面土もそんな意味じゃないから
邪馬台国の台は台与(とよ)の「と」
だと思っていたが
奈良県の大和朝廷と考えるから難しくなる。
播磨灘とか大阪湾岸にあった大和朝廷の前身なんでねーの。
>>108
卑弥呼の墓は円墳。
箸墓古墳は前方後円墳。
一致しないので無理がある。 トゥ?…だと!?
あーあやはりキリストが日本へ教えに来ていたか
ヤァマゥトゥ
アクセントに注意しろ!全く別の意味になるからな
>>102
邪馬台国に先立つこと10年前に金印を授けた
司馬懿のライバル曹真が担当していた西域の大国、大月氏国に対抗して
報告盛ったんだろうな 日本の歴史を知るには、葦原中国の歴史を取り戻す必要があるかもねえ
卑弥呼の前、倭国大乱の前に男王の治世が約80年あった
天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
国の始まりは国作りで記紀でいう葦原中国の建国
大国主は葦原醜男
葦が散るはなにわの枕詞で、アシ引きのは山にかかる枕詞
葦原はアイヌ語でサル、山王の使いはサル
ひるこが乗っていた船は古事記で葦船、日本書紀で磐樟船
枯野伝説で楠から作られたのは軽船、播磨風土記でははや鳥という船
サルがつく神さまと言えばサルタヒコだが、もう1人いる
スサノオの子の八島士奴美神
イワナガヒメと同じと考えられているコノハナチルヒメとスサノオの子
八島士奴美神、又の名は清之湯山主三名狹漏彦八嶋、又の名は篠清之繁名坂軽彦八嶋手命
サル彦であり坂軽彦であり
ここで興味深いのは、湯山という言葉。湯の山
スサノオの眉マユから生まれたのが楠で用途は船と定められた
弥生時代末期に営みが終焉した池上曽根遺跡
弥生時代最大級の神殿、楠の巨大井戸、蛸壺、石器の祠、鉄工房、ヒスイの勾玉が見つかった大遺跡
池上曽根遺跡が位置するのはマユ摩湯丘陵の海側
摩湯丘陵には以下の伝承が残っている
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
正に湯の山
楠は古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している
>>110
宇佐は確かに怪しいけど卑弥呼の最終到達地なのだと思うわ
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田の古墳から出土したと言われているけどあれは本拠地を追われた卑弥呼たちが下したものかも
とすると筑後流域から宇佐まで移動した晩期弥生遺跡は邪馬台国の人民の痕跡だった気がするんだよね
あるいは出雲方面への亡命だったのかも
宇佐のある地が後に豊の国と呼ばれたのも感慨深いものがある 鬼界アカホヤ噴火で縄文後期の九州の人口が少なかったと過程すると、
弥生系の可能性高い卑弥呼が九州にいた気はする
>>83
そいう話は聞くね
野々村みたいに我がーを連呼してたんかな
あとは単に小さい国(人)というあだ名付けられたとか 最後に一つだけ言っておく。
歴史の改変作業を許されるのは勝者側なのだよ。
これだけは世界中どこでも同じだ。そろそろ現実を見たまえ。
外国人が映画の予告で日本語を発音したようなヤマトゥ
>>21
魏志倭人伝の作者(編集者)は複数の元資料を参照しているが、作者の解釈ミスおよび元資料の誤認から意味不明になってる感があるよね。 邪馬台国と天皇の関係はどうなんだ
4世紀に日本をおさめていたのは天皇じゃなく
卑弥呼だったのか?
卑弥呼が天皇を抑え込んでいたのか?
4世紀って歴史的資料がないんだろ
韓国にある石碑の碑文くらいしかないって聞いたが
のちの皇族が4世紀の日本の資料を破棄したんじゃないか
つまり4世紀皇室は邪馬台国によって制圧されていたとか
邪馬壹国の壹は台の書き間違えだと言う
なんの根拠も無い説がまかり通り
邪馬台国と言う言葉が広まってるが
「壹」を古代中国語読みで「とぅ」と発音するって
またまた捏造もいいとこ
発音は「yi」だから日本語でイかイーだ
日本神話の天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
日本列島で人々が暮らし始めたのは縄文時代よりはるか前の最終氷期
最終氷期の瀬戸内海は陸地で、淡路島と四国、四国と本州は陸続きだった
瀬戸内海ではサヌカイトの石器が作られていた時代
瀬戸大橋の建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
サヌカイトの2大産地は香川と、奈良と大阪の間にある二上山
二上山の大阪側からは日本最古の竪穴式住居が見つかっている
今の瀬戸内海周辺で大繁栄した集団がいたんじゃないか?
これが日本人の最古層で磐根だろう
どれもこれも男塾に出てきそうな地名だなあ
記録官「ええと對馬国、撲針愚国、壱岐国、羅惧美偉国、末羅国…あれ?何か?
羅惧美偉国
・里数は5、6倍の数字になっている
・呉を牽制するために嘘をついた可能性がある
ここまで考えてだよ、
水行二十日、水行十日陸行一月の数字は正しく、方角だけ嘘だと思うのってよほどの馬鹿か知的誠実さの欠如したやつかって思うんだよね
>>132
支持されないと思うけど記述内容から正しいのは末盧国まで
対馬国と一支国は対馬と壱岐で間違いない
その後は無いな
伊都国は詳しく書いてるから日本の何処かにあっただろうけど >>37
神功皇后の時から福岡にもヤマトはあるんだよなあ…
しかも伊都国の南側に 氷河期、バイカル湖付近から来たブリアート人が
カムチャツカー千島列島ー北海道ー本州ときて
南から沖縄や琉球諸島経由で弥生人が来て
名古屋当たりで弥生人と縄文人が戦争して
負けた弥生人が北へ敗走してアイヌになったって
NHK日本人遥かなる旅でやってたと思うが
そういやアイヌ人ってなんか南方系っぽいし
顔に入れ墨入れるのも北方系民族よりは南方系っぽい
>>5
「南」が「東」の間違いだっていうのも畿内説の定番だね
「間違い」が「嘘」に代わっただけで >>23
倭人は顔に入れ墨
邪馬壹国に馬はいないと書いてあるからな
それに大阪から奈良県に入るのに
どうして紀伊半島の東側に回って険しい山地を越える必要があるねん > 本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
文字がないレベルの蛮族がなんの脅威になるんだよ
纏向は吉備と東海の影響の強い新興都市
そこで作られた前方後円墳は墳墓と祭祀の融合を示唆している
逆に考えると祭祀と墳墓は別形態であったものが統合された当時の新しい概念で、それは権力者の俗世的な偉大さを称えているように思う
天照の伊勢にその痕跡がないのはそもそも天照がその概念の外にあり、古墳とは別の神宮という形式で祀られていることが興味深い
要するに古墳文化とは祭祀的カリスマである邪馬台国の興亡を目の当たりにした人々が感じた前時代的国家観に対してのアンチテーゼなのかもしれない
宇佐神宮は欽明天皇の時代に、応神天皇を祀るところから始まってる
そして次に宗像三女神、三番目に神功皇后が祀られた
それが九州地方の土着の信仰と結びついた
欽明天皇というのは継体天皇の子供で3人目の天皇
26代 継体天皇(父) → 27代 安閑天皇(子) → 28代 宣化天皇(子) → 29代 欽明天皇(子)
継体新王朝が、前王朝の祟りを鎮めるために建立したんじゃねーのこれ
大和言葉の音に漢字を当てただけやろ。普通に同じやと思う。
>>5
これは江戸時代の国学者の説で、それ以前にはない
珍説や 卑弥呼は邪馬台国じゃなくて倭国の女王(事実)
邪馬台国には王も女王もいない(記録なし)
倭に属するただの小さな村島だから見つかるはずも無い
天照は馬に乗って降臨したんだっけ
当時日本には馬はいなかったんじゃないか
天照は半島系だろ
それにたいして大国主はもともとの日本の神だろ
邪馬台国って大国主の系統じゃないのか
4世紀に本来の大和の神の系統である邪馬台国が
一時的に天照系の皇室を抑え込んだんじゃないか
だから後年皇室が4世紀の日本の資料を破棄した
だからほとんど4世紀の資料が残ってないとか
倭人は黥面文身してるんだが
畿内のどこにそんな部族あるんや
建物が木造だと残りにくいのが難点だよなー
石造りなら結構簡単に見つかったかもしれん
>>21
まあ、九州にある末盧国や伊都国、奴国まではおおよそ議論の余地はなく確定出来るのに、投馬国と邪馬臺国で急によく分からなくなる時点で大体の察しはつくよね
邪馬臺国が九州内で奴国や伊都国の近くなら何の争いもなく比定できてるはず
それが投馬国より先は急に文献で曖昧になる、何故なら投馬国や邪馬臺国は奴国などの北九州から遠く離れたところにあった、と >>149
そうだとするといろいろ繋がってくるけど
トヨの存在が神話に存在しないのは気になる そもそも稲も文化も文字も九州経由で来たのに機内に王朝があるのは無理がある
邪馬台国九州だろうが畿内だろうが大和王朝と関係無いと思うけど
やまとは単に山の入り口の意味であって日本中にある。
何も、奈良県の大和の専売特許ではない。
倭の女王卑弥呼は中国語、日本ではヤマトの女王日巫女
この説ってなんか井沢元彦がだいぶ前に著書で言ってたような
>>118
円墳じゃないよ
丸みを帯びた方墳
この当時はごくありふれた形 >>160
九州で入墨してたなら畿内説では九州まで勢力範囲なんだからヤマトの説明で九州のことを語っててもおかしくないだろ >>120
翰苑が正しい
已百支では無く巴百支国でハハキ国(伯耆国)のこと >>162
無闇にアンカー打つな読み方の話などしとらん やまいち説は聞いたことあったけどこういう説もあるんか
>>30
隋書には魏志の邪馬台は邪摩堆(大和)の事であると書いてるよ >>174
府中、伏見、富士とかもな
土地名から推定するのは無理だと思う
古代日本では九州と秋津島は明確に別の島で国扱いされてるのに統一政権があるわけないと思うけど 高天原が高千穂なんだから九州以外にありえんだろーが
馬鹿な畿内爺が意地になってるだけだろ
>>182
隋は聖徳太子の時代で大和王朝確定だからだろ 邪馬台国卑弥呼と狗奴国卑弥弓呼
狗奴国、クナ
クナが付く神さまが延喜式に登場する
道饗祭
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・【久那斗、クナト】と御名は申して辞竟へ奉らくは、
興味深いのは湯津磐村、湯と磐
また延喜式には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたと書かれている
下津とはなんなのかということだが、同じ延喜式にイザナミの件で以下のように書かれている
吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して
イザナミが逃れたのは記紀では黄泉の国、延喜式では下津国
黄泉に逃れたイザナミの名は道敷大神
道の枕詞は玉鉾の
時鳥の別名はタマムカエ鳥で、時鳥は冥土=黄泉に来訪する鳥と言われている
>>167
岩戸から出てきたのがトヨという解釈があるね >>182
記紀ですらわからない邪馬台国なのに
隋が同じ国かどうかわかるわけないやん
適当に憶測書いてるだけ >>184
それだと邪馬臺国は宮崎?皇室の祖先は狗奴国?
九州ってざっくりし過ぎやろ >>160
近畿から出る埴輪には、顔面に入れ墨が入っているものが多い
5世紀中ごろから人物埴輪が畿内に現れる
だからといって、魏志の卑弥呼が畿内にいたとは思わないが >>186
静岡で最近発掘された高尾山古墳は狗奴国の卑弥呼子ではとも言われとる >>160
アイヌに入墨文化が残ってたから、
縄文系に入墨があった可能性が高い
畿内に縄文系が多かったかは不明 俺が教えてやろうか?
邪馬台国の場所
いいか今から日本地図を広げてダーツで刺さったところが邪馬台国だ
漢委奴国王印も志賀島、君が代のルーツも志賀島なんだよなあ
だとすると邪馬台国はやっぱ九州かなあ
>>194
その可能性より普通にその部族が多かったあたりの方が可能性高くない?個人的には宗像氏か秦氏だと思うんだけど >>1
珍説どころかアホ説だろ。
230年頃に呉は倭に人員不足の為、倭に人狩りに行ってんだろ?
場所を知られたくないとか、三国志の聞き齧り程度の知識でしかねーだろ。 ちなみに天照大神は纏向以後に確立された新興祭祀でその前は女神ではなかった伝承も多い
なぜ女神として確立されたかというところに面白味があるのだが、一つの考えとしては卑弥呼の持っていた権威そのものが大王の権威として利用され天照と融合した可能性がある
それが崇神の代で王権が確立し不必要になったので畿内から伊勢に遷された
その「遷す」という概念もそもそも九州から大和へ遷された権威だからと考えるとストーリーとして整合性が見えてくるんだよね
史実がどうかは別の話だけど
総合して考えると大和の王権は卑弥呼の邪馬台国をリスペクトして作られた新興国ということになる
>>194
>>148で書いたが、アイヌはもともと南方系からきた弥生人で
バイカル湖付近から来た縄文人と名古屋のへんで戦争して
負けて北へ逃げてアイヌになったってNHK日本人遥かなる旅ではいってたがなあ
まあほかにも説はあるようだが
あとミトコンドリアの解析では
やっぱアイヌ人は琉球人に近いってのは確からしい >>198
え?
今皇紀2600年とかってんじゃないの?w >>196
弥生人が中国の南部から九州に来た可能性ある そもそも日本で最初の人類も鹿児島県北部だからな
鬼界カルデラ噴火で滅んだが
>>191
そこはもう誤写と認めようよ
12世紀宋代の魏志の写本のみこそが正で、それ以前の魏志を引用したありとあらゆる全ての写本が誤り、とするのはさすがに無理があると思うよ >>185
まるでイミフ
倭国王は男w
推古天皇は女w >>162
倭はヤマトではないんだよ
倭国とは中国から見た東にある島々のこと
だから奈良の王権だって対外的には 倭国。
奈良のヤマトという地名は中国から見りゃ知ったことではない >>201
あれ?
アイヌが1番縄文人に近くなかったっけ?
2番は琉球人 北斗七星から降りてくる乾光と南十字星から降りてくる坤光の交わる場所
そこが邪馬台国
あの時代は人が空を自由に飛べたんだよなぁ
『魏志』で、入れ墨をしていると書かれているのは
倭人のほかには、馬韓の人々
馬韓は後の百済
邪馬台国ヤマト読みや、卑弥呼日巫女アマテラス説なんて昔からあった気がしてたんだが、記憶違いですかね
狗奴国は球磨国のこと
狗古智卑狗はククチヒコで菊池彦のこと
卑弥弓呼は分からないが恐らく卑弓弥呼の間違いで彦御子だろう
卑弥呼に釣られて誤記したのだと思われる
糸島を伊都国とする根拠は名前が似てるだけ
魏使者の上陸地点が唐津ならそこから糸島へは山越え
https://www.google.com/maps/@33.4333524,130.0311195,33643m/data=!3m1!1e3
(今は海岸沿いに道路があるが当時はもちろんない)
そもそも船で唐津まで来てるんだからそのまま船で行ったほうがいい
倭人伝には伊都国は「東南へ500里」と書いてる。だが唐津→糸島は北東。
そして地図を見ると、ちゃんと唐津から東南へ道が伸びてる。
素直に読めばこの道を東南へ進んだと思える。
そうして行き着くのが佐賀平野。ここなら国があってもおかしくない。
(吉野ケ里遺跡もすぐ近く)
さらに佐賀の南には、山門(ヤマト)、八女(ヤメ)、山鹿(ヤマガ)といったあやしげな地名が並ぶ。
山鹿の南には菊池市があるが、邪馬台国の南にあった狗奴国の狗古智卑狗(クコチヒコ)こそキクチヒコのことで、菊池ではないかという説は根強い
山鹿・菊池あたりには、ワカタケル大王と記した剣を出土した江田船山古墳をはじめ鞠智(ククチ)城、チブサン古墳、岩原古墳、トンカラリンなど史跡が多く分布している
>>210
記紀は乙巳の変以前の王制をかなり中国風に改めてると思う
改めたけど女王的巫女の存在を完全に消し去ることはできなかった
魏志倭人伝の卑弥呼の記述、神功皇后の事跡、推古女王の存在を >>212
倭は朝鮮半島を含んでるから範囲は違うかもな
日本人は自分の国を倭(ワ)なんて言ってないでしょ
ヤマトだよ >>167
邪馬台国も卑弥呼もトヨも、九州の豪族の一つであり滅んだし、天皇家とも何ら関係ない
だから神話になんか出てくる訳がないんだわあ 海外にまでその存在が重要視されわざわざ記録に残されたカリスマだから
神話の中にまぎれてるはず
黥面土器が多いのは東海と吉備だね
ヤマト政権誕生の地纏向遺跡の外来系土器で多いのも東海と吉備
東海と吉備は下戸が多い地域でもある
黥面、ヤマト政権、下戸は関係あるかもね
>>226
邪馬台国が天皇家と関連あるかは不明
女系シャーマンの家系が神道と密接な関係の可能性あり >>230
吉備は纏向よりずっと大きな都市だったはずなのに
魏志倭人伝には経過地としても出てこないね
九州説だと当然なんだけど
畿内説だとしても魏志倭人伝の原資料は
九州に偏ってたんじゃないかと思わせるね >>202
天皇なんて名乗ったのはずいぶん後で、その頃は蘇我氏や内部抗争に必死なただの豪族みたいなもんよ
つか豪族よ 『魏志』によると、弁辰も入れ墨だ。
馬韓
弁辰
倭
東夷のなかでは、以上3つのグループが入れ墨
>>234
三輪政権の場合は導水施設と巫女の関係性が高そう 大和朝廷に入れ墨の風習が引き継がれていないようだから、
邪馬台国=纏向からの大和朝廷は無理があると思う。
2019年10月twitter開始ってここで五毛党が散々世論操作してたのに野党が選挙でズタボロに負けた3ヶ月後か
選挙じゃ勝てないから殺せと中国に命じられてそう
ちなみにこの統一教会と関係ありだとオバマだのトランプだのポンペオだの
米国のトップやインドのトップそのたもろもろいるけどね
おそらく影響力ありそうな人らに声かけして講演してくださいと言って回ってるだけ
日本でいうと左派系はカスとみなされて呼ばれてるのこいつくらい?まあ事実カスだししゃーなしだが
【パヨク悲報】鳩山由紀夫元首相 統一教会決起大会に出席していた [157995642]
http://2chb.net/r/news/1657774182/
第七波が発生しました
>>1-3>>1000
コロナマップ(世界の感染者数をまとめたマップ)
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-world-map/
日本人全員(1億2500万人)がワクチン未接種だった場合、新型コロナウィルスに感染すると↓
1750万人 死亡 (イタリア政府報告 参照)
1650万人が退院後、140日以内に死亡(英レスター大と国家統計局 参照)
5400万人 呼吸困難の後遺症(イタリア・ジェメッリ大学病院報告 参照)
5000万人 味覚障害(イタリア・パドヴァ大学報告参照)
1800万人 透析(米国医療法人報告 参照)
3400万人 関節痛の後遺症(イタリア・ジェメッリ大学病院報告 参照)
6600万人 疲労系の後遺症(イタリア・ジェメッリ大学病院報告 参照)
2500万人 精神疾患 患(英オックスフォード大学と英国立衛生研究所報告 参照)
2600万人 胸痛の後遺症(イタリア・ジェメッリ大学病院報告 参照)
1700万人 聴覚障害(英国マンチェスター大学報告 参照)
1250万人 神経障害(イタリアのジョバンニ病院報告 参照)
1100万人 運動能力障害(イタリアのジョバンニ病院報告 参照)
3100万人 脱毛の後遺症 (日本国立国際医療研究センター報告 参照)
8250万人 心筋炎 (日本国立国際医療研究センター報告 参照)
3750万人が退院後、140日以内に再発症(英レスター大と国家統計局 参照) このスレでも結構言われてるけど魏志倭人伝はいろんな資料を元に書かれていると思う
九州までの道程がかなり正確なのにそれ以降あやふやなのは当時勃興して間もない畿内ヤマトのことは情報が少なくよくわからなったからでそれ以前に倭の先進地域だった北九州の情報は多く持っていた
なので倭の風俗を書いてある部分も九州のことについて書かれている
箸墓古墳の年代が同時期らしいとなった辺りで
位置論争から大和王権との繋がりに興味が移ってしまったわ
伊勢神宮も時期的に同じ女性を神として祭る為の施設っぽいし
>>237
倭国の五つの大王の攻防とかって
石森正太郎のマンガ日本の歴史で見たが 「やまとぅ」なら大和国じゃね
つまり邪馬台国は奈良
大阪側で戦で負けて迂回して先に奈良を平定してヤマト政権が始まる
初期のヤマト政権はまだ大阪側を支配下に置けていない状態
瀬戸内海から奈良入りするのは難しいんだな
また日本書紀に伊吹山には最後までヤマト政権に抗った荒ぶる神がいたとある
日本海、若狭から琵琶湖を経て奈良入りするのも難しい状況
奈良平定時と同じく魏の使者を紀伊半島から奈良入りさせるしか方法がなかったんだろう
九州南端から南に航海して黒潮に乗り紀伊半島に上陸したんだろうね
古墳時代竹内宿禰が南海道を使い九州から紀伊の港に帰還している
>>244
天皇とは同時代の資料には書いてないね
稲荷山古墳出土鉄剣だと大王
血統はある程度は重視されてるが誰がなるかは合議制
それから女王並立の時代があった可能性が高い
女王あるいは皇后の血統に女系があったかどうかは不明 >>248
正確かどうかわからん
奴国不弥国投馬国は長官と次官と戸数しか書いてない
記述内容が違うのはバラバラで一貫性がないんだろ 神話なんて民族の離散や統合で混ざったり削れたりするし由来も複数あるかもよ
>>260
天皇という言葉を史書に使ったのは持統天皇 どっかの漢字研究者が「薹」って陳寿が書いた当時の発音だと「ダー」みたいな発音のはずって聞いたことあるなー
マジだとすると、ヤマダーみたいな発音の山鹿市あたり匂うなーとか思ったり
どうあれ、畿内のヤマトとは全然違う勢力だと思うな
ヤマタ国がアホ中国人にはヤマタイ国に聞こえて
邪馬台国って低能な当て字をしたんだよ
ヤマタノオロチって知ってるだろ
あのヤマタだよ
中国では邪馬の発音はシエマーなんだけどね
こじつけもいいところ
学者の説ではないよな
また、『魏書』によると、魏が帯方を回復すると、
景初中(237年~239年)に韓(馬韓、辰韓、弁辰)の諸国から使者がやってきて、
魏の明帝から王の印綬を授かったという。
しかし、諸国にわかれていたという韓のどの王に印綬を授けたのかがあいまいだ。
複数であるとしかわからない。
同時期に倭人も帯方に使者を送ったとあり、倭人で帯方郡と使節の往来があるのは30国とあるうち、
邪馬台国の卑弥呼にのみ印綬を授けたのか、それぞれに地位を与えたうち邪馬台国のみ書き残したのか、あいまい。
>>260
別に天皇でも大王でもええやん
とにかく天皇系と邪馬台国の関係が気になるんだよなあ
卑弥呼も天皇だったのか?
それとも天皇は大陸系で卑弥呼は大国主命系で
卑弥呼が4世紀に天皇系を抑え込んだのか?とか >>6
おじさん
ローマという国家も文化もうないですよ >>247
👑🤴王様がちんちん切るのか?
その前にやるべき事あるようなw >>74
魏志倭人伝じゃ九州は通り過ぎてるし沖縄あたりになる位置に邪馬台国があると書いてるよ
通り過ぎてる九州はある意味邪馬台国とするには地球上で最も不適当 天皇って皇帝をパクったものだから紀元前3世紀以前にはない
夏王朝の王を皇帝って言うようなもの
ヘブライ語とか持ち出しても今さらじゃね?
もうみんな聞いたことある話だし
ここにいる奴らも中国語知らないから馬鹿な自説レスしてて笑てまう
>>252
つまり飛鳥平定するだけで四苦八苦してた数ある王の一つてこと
蘇我氏や物部氏や長屋の王との勢力争いで四苦八苦 そんな大昔の話、どうでもいいだろ
九州なら当時の地方豪族
大和なら大和政権に繋がる勢力
それだけの話
>>278
かんのわのなのいんも
君が代もルーツは志賀島なんだが 女王ヒミカの治める地底王国だよ。
早く見つけないとハニワ原人が攻めてくるぞ。
3世紀の中国の正確な発音なんて中国人も知らないだろ
邪馬台国のスレって最近多いね
専門の学者教授て普段なにやってのw
>>275
そう
古代の出雲大社のあった場所がヤマタ国 >>1
ユニークな新説とか馬鹿かおまえ
とっくにヤマト言われてるは >>273
卑弥呼は何をしたわけでもない
邪馬台国は倭の中でも多少有力だっただけの地方王国
そんなもんが奈良です奈良ですと騒いで楽しい? >>284
だから魏の国は
ケンカばっかしてる大王どじゃ無く
日本本来の神である
卑弥呼のほうに使いをやったわけか どこでもいいよ
どうせ位置わかったところで
他に情報源ないんだし
それ以上の発見もない
奈良にできたのはタイワだろうが
文字がそれを示している
>>273
全然良くない
卑弥呼と弟は「天皇」とは全然違う 書に書かれてるのは嘘で実は陰謀があったのだ、って"説"ですらないだろ
これをユニークと思ってるなら研究者辞めちまえ
>>293
「やまたいこく」って「やまとこく」が訛ったものだよね
「やまとこく」→「やまとこく」→「やまとこく」→「やまたいこく」
これが正解 『魏書』を信じるのならば、
魏が帯方郡を通じた支配を回復したのち、
馬韓、辰韓、弁辰、倭の諸王たちが、こぞって使者を送ってきて、明帝からの印綬を授かり臣下に下った。
このとき、帯方郡と往来した倭人の国は30か国であった。
つまり、朝鮮半島南部と日本列島の諸王たちが挨拶に来たという景初中(237年~239年)には、
倭人領域には統一王朝は存在せず、バラバラにクニが乱立していたと推察できる。
後の大和王権との関係もなにもない。
世襲の統一王朝が存在しないから。
>>295
当時魏の国は中国でも勢力を誇ってたんだろ
それが地方の小国に使いを出すかね?
金印も君が代も志賀島だから
邪馬台国はやっぱ九州かなあと思ってますが 邪馬台まだまだ安いんだ
邪馬台の安さはハンパじゃないよ
でんでんでんきは邪馬台だな
邪馬台国はみんなの近くにあるよ
日本にも万能壁画あればよかったのにな
これ系の学者達の争いはあっち系とよく似てる
「……朕はまたこのように聞いている。人に必ず名があるのは、思いを述べて自らのことを記し、(それによって)尊敬の念をもって天と人とに仕えるからであると。……今、朕は神々を祀り安んじ、天帝の命に答えその心を民に広く知らしめた。天地人の三霊が朕を慈しんで恵みを垂れ、万国の使者が来朝してきている。(今こそ)正しき名分の決まりに応じて、政の道義をあまねく広めるのにふさわしい。(よって)朕は曌と名乗ることにする。……古の帝王の徳化に返ることを思い、末世の風習を改めようと望んではいるが、習俗は非常に長い時が経ってしまっているので、すぐに改めることは非常に難しい。(そこで)独自に文字12字を作り、諸侯百官に模範を示すことにする。(これは)古代の字体によりつつも、新たな文字に改めることで、長く続くべき基礎を保持することを願い、古の醇朴な精神に戻ることを表明することにほかならない。……」
ざっとスレ見た感じ出雲だな遷都の歴史も考えれば出雲で決まりにしとけ
>>301
大和でヤマトって普通読まんからな
当て字にすらなってない
邪馬台はヤマトの当て字 >>287
君が代のルーツとか何言ってんだ?
あれは読み人知らずの歌で、金印は邪馬台国とは全然関係ない奴国の出土品 >>302
倭が日本列島かわからん
朝鮮半島も倭だと中国は認識してた 魏が後漢の後継を主張するためには、東夷を再び傘下に治めた事実は重大。
馬韓も弁韓も倭もこぞって使者をよこしたのだと。
>>285
どうでもいいなら開くなよ
書き込むなや
頭が虫以下か >>314
『魏書』では、朝鮮半島が倭だという認識がない。
そもそも「倭」という国が存在するとの認識がない。 >>318
バカチョンの起源説みたいで
気持ち悪いからな 古事記は持統天皇の影響が強い
あの当時の皇室は女系血統の意味も強かった可能性ある
この女系血統=女系シャーマンの血統?
>>6
その頃のドイツ人(ゲルマン民族)は
森の中に暮らす狩猟採集民で
男は童貞が尊敬されて
高齢まで童貞を守り通した男には
特別な力が宿るとして尊敬されたそうだぞ
お前もその時代のゲルマン民族に生まれればよかったのにな >>220
🇱🇹🤷🏻♀🤷🏻🤷🏻♂『家具よ?👉』🇷🇺🤪🤪🎶✨📺📻📷📹 >>319
倭の北岸狗邪韓国
魏志韓伝、倭と接する >>328
孝謙天皇は確実に武則天を先例にしている 『魏書』の東夷伝は、
韓を地域名、倭人を民族名として記述している。
「韓」の条の次が「倭人」の条
>>273
卑弥呼は内親王殿下だった可能性
敬宮愛子内親王みたいな感じ >>285みたいな頭の悪いやつがちょいちょいいることに驚く
おまえら虫以下か >>296
卑弥呼が日本古来の神であるとか思い違いも甚だしいの
周りも敵に囲まれたどーでもいいその辺のローカル地方王権で
有名なのは魏志倭人伝に載ってて、女王がいたから そんだけ。
それがヤマト王権だとして何が嬉しいの?何が誇らしいの? >>334
何度か倭国って出てくるぞ
倭地というのもあるし倭とも書かれてる >>330
『魏書』
「韓」の条
韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。
「倭人」の条
帯方郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国を経てたちまち南し、
その北岸の狗邪韓国に至る。7千里にして、始めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に至る。
このとおり、朝鮮半島が倭国であるとの認識はない。 >>308
出雲地方で栄華を極めていた集落は紀元前後に営みを終焉しているからね
その後、加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかっている
魏志倭人伝当時から2世紀以上前の話
1世紀になると近畿地方から環濠がなくなり、巨大銅鐸とヒスイの勾玉の文化が花開く
巨大銅鐸が見つかった伊勢遺跡は首長連合の祭祀場跡と考えられている
近畿地方に逃れてきた出雲の人々と近畿の在地の人々が協力して国作りを始めたんだろうね >>1
違うな
使節の奴らがかかった日数の言い訳でその日数にした
普通のごまかしだわな
邪馬台国はヤマトを名乗ったから縄文人の畿内ヤマトに滅ぼされた
なぜ邪馬台国が亡くなったか考えろよ
ヤマトを名乗る国が二つになったら正当性をかけて戦うしかないわ >>343
たしかに倭国という記述があるな。
倭種、倭人、なども。 朝鮮半島は和人の草刈り場
その後も時代でも鉄を獲りに行き来してたんだし言わば、植民地
★魏志倭人伝の末盧国とは呼子(よぶこ)の波戸岬のこと
■まず、唐津平野では絶対にない。
理由その1:「草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。」
唐津平野では、この魏志倭人伝の記述と全く合わない。
理由その2:魏志倭人伝の記述では末盧国から南東に伊都国があることになっているのだが、
唐津平野から南東へ行くとどのように考えても山の中に入ってしまい方角が合わない。
魏志倭人伝の記述する伊都国は港湾都市であり(恐らく志登支石墓のあたり)、山の中なわけがない。
■呼子の波戸岬から見ると伊都国は東南東になり、
これを魏志倭人伝では東南と表記したのだと考えたらムリが無くなる。
■また「上手に魚やアワビを捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。」
この魏志倭人伝の記述は、リアス式海岸であり三大朝市である呼子朝市が開かれる呼子地方のイメージと非常に良く合致する。
恐らく呼子で朝市が開かれるのは古代の末盧国の記憶が住民にあるのだろう。
魏志倭人伝「また、南に一海を渡ること千余里、、、、、一大国(壱岐国)に至る。
、、、、、、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。」
この壱岐国から見て南北のうちの南ってのがまさしく呼子のはず。
■狗邪韓国(現在の釜山市あたり)から単純に南→南→南、、、と行ったら呼子に行き当たる(方角的に話しが簡単)。
■朝鮮半島から見て九州本土で一番距離的に近いのは呼子。
■呼子の波戸岬は一応外洋なのだが馬渡島とか加唐島とかの周りにある幾つかの島が
天然の防波堤になってて波がかなり静か。
波戸岬は外洋に突き出している割に海が静かで、
外から訪れる人のための目印の機能と、舟をつけるという機能の
どちらにも絶好の場所。
■また古来より呼子は九州から半島へ行く際のお決まりのコースだった。
だからこそ豊臣秀吉は朝鮮出兵の際の拠点になる名護屋城を
呼子に作ったわけだから。
結論:魏の使節は波戸岬に舟をつけたに違いない。
倭人の王たちが朝鮮南部の支配権を主張しはじめたことが正史に記述されるのは、『魏書』の時代ではなく、
『宋書』の倭の五王の時代
まーたお前ら日本史板、古代史板、世界史板、考古学板、文化人類学板、オカルト板の過疎板から集まって来てんのかよ
注意1:これで分かるように魏志倭人伝の〜〜国に着くとは、その国の地理的な真ん中や王墓や王都のことなどではない。
一番最初に行き着くその国の目印になる場所や入り口の意味のこと。
例えばアメリカに行くなら、
ワシントンD.C.に着いたとき「アメリカに着いた」と表現しているのでは無く、
自由の女神像に着いたときに「アメリカに着いた」と表現する、
そういう表記の仕方を魏志倭人伝はしているはず。
だから例えば「伊都国へ到る」とあるのは三雲や平原のことではない。
多分、志登支石墓の辺りにあった港湾都市のことを指している。
注意2:恐らく「呼び込む」から呼子(よぶこ)の地名が出来た。
google mapの3Dとかで朝鮮半島側から九州を見て見ると良く分かる。
呼子の波戸岬がちょうど招き入れるようにこちら側に突き出している。
壱岐島から舟で来るというパターンだと
波戸岬はこっちに突き出して呼び込み、招き入れるような格好になっている。
恐らくこれが呼子の地名の由来だろう。
呼子笛(よぶこぶえ、よびこぶえ)の呼子と同じ語源。
(つまり元々呼子とは波戸岬のことだったのだろう。)
注意3:ただし、これだと壱岐島〜波戸岬が千余里だと言うのが全然合わなくなる。
これは正直理由は良く分からない。
例えば、魏志倭人伝では対馬と壱岐島の大きさが4:3になっているのだが、
これはどう考えてもおかしい。
対馬は壱岐島より面積が遥かに大きい上に、南北に長い。
壱岐島は面積がずっと小さい上に丸い形をしている。4:3なんて数字は出て来ようがない。
例えば5:2とかになるはず。
このように元々海上での計測は非常に誤差が大きかったのだろう。
とりあえずこれが理由だとしか考えられない。
恐らく海流に流され流されで計測して六、七百里くらいになって、
それを千余里(約千里)と表記したのだろう。
(流されることを考えずに地図上で測ったら五百里くらいになる。)
海上では地上と違って障害物が無く、壱岐島から南へ行ったらどのみち九州へ着かざるを得ないのだから
これで用が足りたのだろう。
>>344
何が言いたいのかわからんが半島全部が倭だとは言わないよ >>301
倭国はヤマトと呼んだ!
違いますよw
倭国は倭国であってそれは中国目線で東にある島々の総称。
ヤマトとは、遥かに遠い奈良の地方名。
魏人が奈良とか言う極小地域の地名を、東方の秋津洲全体に用いる事はないんだ
ましてや九州を倭(奈良ヤマト)と呼ぶ訳がないでしょうがw >>355
『魏書』には、朝鮮南部が倭だと解釈できる記述が存在しないと言いたい。
一部でも倭だという記述がない。 >>356
大和朝廷があったから奈良が大和と言われてるだけで順序が逆だ 弁辰は、韓、ワイ、倭人がいて鉄を取っている、と記述されてる。
>>1
よーく考えろ
使節団が帰国した日数に辻褄合わせないとならんだろ
な、よーく考えろ >>358
おまえいつもの奴だな
おまえを説得するつもりはない >>1
まずさ、邪馬台国が消えた理由も考えろ
ヤマトを名乗る渡来人コロニーが福岡辺りにできたんだろ
そうなったら畿内の縄文人ヤマトは潰すしかないよな >>363
>朝鮮半島も倭だと中国は認識してた
出典なし
言い募るのみ 新説をでっち上げて本を売るって
マナー講師ビジネスと同じよね
>>366
要出典
>朝鮮半島も倭だと中国は認識してた
『三国志』にかような記述なし >>303
邪馬台国は九州であるのはその通りだ
そして魏志倭人伝は邪馬台国への使いの記述じゃない
使いは邪馬台国の存在を知ってたわけじゃなく、当然目的地でもなく
さらには「聞いた話によると~」という他の国からの聞き伝えにすぎんの。
邪馬台国に行って卑弥呼と会いましたなんて何処にも書いてません。 中国人は方角は間違わない
よって九州しかあり得ない
>>359
じゃあ山城朝廷があったから京都が山城と言われてたのか >>370
それだって憶測にすぎんだろww
これは答えが出ない無益な論争だww
まあ何か確定的証拠が出るまではね >>372
中国人は大袈裟に言うから割り引いて考えんといかんよ >>371
主張するなら出典を示せ
『三国志』に卑弥呼が登場する時代の話で、
>朝鮮半島も倭だと中国は認識してた
と言い募るのなら、『三国志』からそのような記述を出せ >>370
魏の使いが親魏倭王がどんな奴か知らないなんて有り得ないでしょ >>372
東南の大海の中にあるのがヤマトだからそこは間違ってないよ >>359
いいや。ヤマトにあったからヤマト王権ですw
ちょっと勉強して。 >>370
たしかに、
帯方郡の太守弓遵は健中校尉を遣わし、明帝の詔と印綬を倭の国に持って行かせた、
とはあり、
「卑弥呼王と為りて自り以来、見ゆること有る者少なし」ともあり、
帯方の使者が卑弥呼に会ったとは書いてないな。 >>364
いいや?
邪馬台国はヤマトとは関係ないし、渡来人コロニーではないし、
仮にヤマト王権が奈良にあったとして「名前がかぶるから」てアホな理由で西伐に赴く合理的理由が皆無
大体ヤマト王権の西伐はずっと後で、その頃には邪馬台国は滅んでた >>370
会って無くても卑弥呼の墓は見てるだろがアホ >>376
ばかんとべんかんの南に接していたと書いてあったんじゃないか 『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
魏の使いの方が立場は上だぞ
会わずに返すなんて有り得ないでしょ
少なくとも唐会要には事実上邪馬台国は九州だと書いてある
>>383
卑弥呼の時代、すなわち『三国志』に記述された時代につき、
>朝鮮半島も倭だと中国は認識してた
との主張に、『三国志』からの出典を求めたところ、
>バカかお前はw
とのレス帰る
出典なしに、
>朝鮮半島も倭だと中国は認識してた
と信ぜぬ者は、バカであるとのことだ
また、この人物は、
>邪馬台国に行って卑弥呼と会いましたなんて何処にも書いてません。
との指摘に関し、
>魏の使いが親魏倭王がどんな奴か知らないなんて有り得ないでしょ
との返答を返す
これもまた信念なるか。 いや新説じゃねーだろ
昭和の昔から言われてた一つだ
九州説、なおかつ南九州の鹿児島や宮崎だと思うけどな
船で南に20日間というのは途中道草喰いまくったからだろ
九州の、特に西側なんて入り組んだ地形ばっかで迷いやすい
福岡をスタート地点だとして、西側は現在の長崎県や熊本県は小島が沢山あるから
鹿児島の桜島なんて神秘的だしさ
邪馬台国と大和の発音が似ているってことに関しては、1700年前はヤマトって名前の王朝が流行ったってことじゃないのか?
日本人の別名も「大和民族」なわけだし
そもそも大和はダイワであって「ヤマト」とは読まないはずだしさ
桜島の噴火を見て「山ト」と思いついたとか
それがいつの間にか「ヤマタイ」になり・・・
>>390
バカかお前は
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」
>>390
半島にあった倭の記載ちゃんと見つけられた? >>377
魏が邪馬台国を目指して使節を組んだとか妄想も甚だしいわ
>>374
「卑弥呼に会いに行きました」なら記述あんだろ
倭人伝によると、もっぱら伝え聞きであって伝聞の羅列に終わってる。
つまり邪馬台国なんか周辺国から初めて聞いただけ。目的地?知らん国なのに? また
>>386
から言っても倭国は新羅と接してるんだから狗邪韓国は倭国だな 帯方郡の使者と邪馬台国の使者は、伊都国で会うのが決まりなのな。
おそらく糸島。
それ以上のことはわからない。
>>382
軽く考えすぎ
ダブルんじゃない、ヤマト=列島の代表、特に本州のな
何で大陸のお墨付きを縄文人がもらう必要がある?
完全に渡来人のコロニーが大陸を引き合いに列島の代表面したわけよ
潰すしかないだろ >>384
卑弥呼の墓を見たという記述がどこにあんの?
デマカセ吐かないでくんねえ? 九州にあったとして
九州がその頃の日本の最大都会で日本代表面してたのに
なんで急に田舎の奈良みたいなとこにいったんだろうか
金印なんて縄文人からしたら、何だそれ?食えんのか?レベルだぞ
>>400
志登支石墓のあたり
あそこらへんは卑弥呼の時代にはもっとくびれてて
海岸がすぐ近くだった
舟を停める場所の遺跡とかも出てる >>402
記述があるんだから見てるだろが
バカかおまえは
お前こそ見てないと言う証拠を出せ 縄文人が何で魏のお墨付きもらう必要があるんだ?
完全に渡来人コロニーの似非ヤマトだろ
それが邪馬台国
無かった南京大虐殺をでっち上げるようにシナはでかい嘘付く
数字も3万から30万になり60万や100万になってる
シナの研究者も逝ってるけど昔から数字でかくするんでシナの話に出る数字は信じるな
なんで正体も分からん謎の国と女王がこんなに注目されて
初めての歴史書を作って日本の事実上のスタートになってる
中大兄、大海人の兄弟は注目されんの?
昔は聖徳太子がその立場だったんだろうけど架空の人扱いで今じゃ透明人間状態だし
お前らだって営業日報偽造するだろ
使節団はもう許せ
>>12
いまそいつらを弾劾してる連中もイルミナティのくせに何いってんだ >>401
ヤマトじゃなく倭だと言ってんだろ
日本列島(特に本州笑)を認識してた国なんかねえよバーカ
地元でも平定に5世紀まで掛かったヤマト王が西伐なんかする余裕ねえわアホが
それも「邪馬台国じゃなくってヤマトだもんっ!」つう頭悪い理由でw >>417
トヨが正しい
台与な
ヤマイ国ってのはあれはネタだよ
間違い >>410
そのエセ大和がいまの日本人の祖先だが? うちの田舎では、内地のことをヤマトゥって言うな
本土の言葉はヤマトゥグチ
そもそも「ヤマト」ってのは古代日本が国の名前として用いてたんじゃないか?
古代中国には「倭国」と呼ばれてたけど、蔑んだ名称なわけだし、もっと立派な名前をってことで「ヤマト」が広まったって
各地にヤマト国ができたけど、口伝えだったから奈良には「ヤマト」と伝わり、九州には「ヤマタイ」と伝わったって
大化の改新で国名が正式に「日本」になったわけだけど、それ以前は「ヤマト」
>>409
それ、一連の伝聞の一つであって「墓だけは見た」なんて考える頭がおかしい
ぜーんぶ伝え聞きなのに墓だけ見に行ったんかw 「佐平」などの位階につく「上=ヲ、中=シソ、下=アルシ」は古代百済語かと想像される。 これらのよみは、〈釈紀〉の編者(卜部兼方)が百済出身者の末裔から得たことが考えられる。
同じ上中下でも、上部・中部・下部は「シヤウホウ・チウホウ・カホウ」で音読みである。 なお、「部=ホウ」は「部」を「丘」の意味で使うときの発音で、音読みである。
卜部兼方はチャックマクニケー知っていたのか??
なんか勘違いしているヤツがいるが
『隋書』で、唐(618年 - 907年)が
奈良の飛鳥京の「邪靡堆」と
魏志の女王国の「邪馬臺」は
同じ場所であると断定したのも
『旧唐書』で、後晋(936年- 946年)が
奈良から続く大和政権の「日本国」と
古の倭奴国(九州の漢委奴国王の倭奴国)は
別の国であると断定したのも
奈良から続く大和政権のことを
おまえら
220年から265年までのたった45年しか続かず
それも後漢の皇帝から司馬懿が無理矢理、毟り取った魏王朝から印綬を賜り、
たった20年ぐらいしか「親魏倭王」でいなかった
魏志の女王国の「邪馬臺」の末裔だろー
m9(^Д^)プギャーwww
って、バカにしてるんだからな
>>421
馬鹿なやつ、緩い連合国家のヤマトの名を語って、大陸のお墨付きを貰ったら潰すしかないだろ
アホでもわかる理由だ
倭なんて大陸がつけただけだ、だから大倭、大和と変遷する 「倭・韓は遂に帯方に属す」
帯方郡を魏が設置して以来、朝鮮半島南部および倭の諸国も帯方郡に所属するとの世界観だ。
少なくとも『魏書』ではそう。
邪馬台国という世襲の古代統一王権が倭に存在したとの記述ではない。
>>370
お前こそなんの根拠も無いだろがw
カタワかこいつwww で
984年に第64代「円融天皇」(在位:969年- 984年)が
5、6人の留学僧に銅器・延喜式「職員令」などとともに「王年代紀」を持たせて北宋(960年 - 1127年)に派遣して
いやいや我々、奈良の大和政権から続く
京都の平安京の日本は
紀元前208年から220年まで同じ血筋の人物によって維持された漢王朝から印綬を賜り
160年間以上も代々「漢委奴国王」であった北部九州の倭奴國の末裔であり
正統な倭王である
と説明し
北宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に完成した『新唐書』では
日本は、古の倭奴国である筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治している
>>424
縄文人と共存した渡来人の方な
渡来人主体のコロニーは全滅した >>1
使節団が長居して費やした期間を行程にもってんのよ
当然だわな >>426
ぜんっぜん前後関係が違う。
全国的にヤマトが広まったのはヤマト政権が勢力を伸ばしたからで
それ以前は倭国だよ
邪馬台国すら、倭国の中の一地域。
つまり邪馬台国とヤマト王権は相並ぶ時期はありません >>438
それは魏志倭人伝では臺が皇帝の居る場所の意味で使われているので忌避したんだろな
古代日本語に連母音は無い
だから邪馬壹は間違い
よって壹與も間違い >>433
違うぞ
公孫氏が制圧した帯方郡を
後漢の丞相「曹操」が後漢の献帝に
後漢の正式な行政区としてとりつぎ
公孫氏は、後漢の襄平侯・左将軍に任命された >>440
?
九州倭国と近畿日本は何百年も併立してるよ >>431
わかりやすい
女王が共立され、その死後に混乱があり、女王の親戚の台与が立ち、安定した。
という邪馬台国。
魏から唐の世界観では、男系の世襲王朝でない女王国に、後継政権が誕生しようもない。
同じ倭種なのか?という疑問を抱くのはわかるが、同じ王権であるかといった疑問を持ちようもない。 >>427
一連の伝聞などとそれこそどこに書いてあるキチガイ
お前が勝手に思いこんでるだけだろが
墓の規模や造りなどを詳細に記述してるんだから見てるだろがアホ
お前がまず見てないと言う根拠を出せキチガイ つか、「やまと」一択じゃないの?
なんで「やまたい」にしたがるのかわからん。そんな音列は1000年以上日本人は耳にしてないだろ
ただ、奈良県(大和国、やまとのくに)かどうかはわからん
九州にも山門があるし、つまりなんの解決もしてないただの遊びだろ
>>442
建安中はその通り
書いたのは、その跡の、景初中の記述 万葉集(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ
古事記(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ
日本書紀(中古音) 夜摩苔 jĭa muɑ dʱɑ̆i
隋書倭国伝(中古音) 邪靡堆 jĭa mie̯ tuɑ̆i
魏志倭人伝(上古音) 邪馬壹 jĭa ma dʱɑ̆i
シルクロード とかも
日本人がデマ言いふらしてんだよな 🐫
>>448
景初中(237年~239年)に、倭から帯方郡と往来したのは30国とある。
この30国が卑弥呼を共立していたのか、バラバラだったのかが、そのうちの一つが邪馬台国なのか、
『三国志』からは不明。
邪馬台国が伊都国を押さえていたのは確かなんだが。 >>434
伝聞ですけど。
地域文化羅列しただけの記録に過ぎない。あとは周辺国の位置のみ。
それにも関わらず「墓だけは見たはず」なんでやんw >>446
大陸も倭なんて名付けてないぞ?
「東の太陽よりさらに東にある国」って名付けてる >>12
伊勢 熊野 淡路 はわかった
右上左上はどこよ >>443
だから九州倭国って何だよ
ヤマト王権は九州平定してから日本国号宣言したの。
それまではヤマトだって倭国なんだから九州倭国と近畿日本が併立したとかおかしいだろうが。 大陸式の支石墓から縄文ゲノム100%の大友人や糸島新町人が見つかっている
普通に稲作と鉄器、大陸文化を受け入れた縄文弥生混合コロニー
>>447
墓の規模や作りなんか伝聞で十分だろが
もっと文化の事も記述してるが、現地に行ったというエビデンスがないね
目的地が邪馬台国つう根拠も出せないし、わざわざいく必要が全くない >>455
逆だキチガイ
何で墓だけ見て後が伝聞なんだw
カタワかお前はw >>465
ただの伝聞であるという証拠を
まずお前が出せキチガイ >>444
順序立てて解説する
順帝・桓帝の間に高句麗が遼東へ進攻
帯方県(平壌あたり)知事を殺し、略奪行為を働くも
169年、漢帝国から遼東へ本軍が派遣され、高句麗王伯固は降伏
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が、出雲から隠岐を経由して新羅を訪れる
184年 黄巾の乱を経て後漢が衰退
189年 後漢の遼東太守の公孫氏が、中央が放棄した朝鮮半島へ進出
204年 彊盛となって郡県では制御できなくなった韓・濊(扶余毛民族)を、公孫氏が制圧して帯方郡とする
207年 朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築いたのち
公孫氏は、後漢の丞相「曹操」へ恭順し、曹操が後漢皇帝献帝に取り次いで、
公孫氏は、後漢の丞相「曹操」から襄平侯、後漢の官職「左将軍」に任命され
帯方郡は正式に後漢の行政区となる
同時期に司馬氏も曹操へ出仕して、曹操の息子の曹丕に仕える 237年に明帝が帯方郡と楽浪郡を設置すると、韓や倭の諸国は使者を送って恭順を示した、というストーリーが『三国志』
現在の奈良に本拠地があり、北九州の対半島貿易玄関口伊都国を支配する統一王権が出現していたとした、
そんなに焦って帯方郡に奴隷を献上しには行かない気がする。
九州にあり、帯方郡のお墨付きの有無で国勢が左右する国だったのだと思うがな。
理にかなった流れを考えると
奈良に中央政権を創設し、大倭としよう。
倭は中国の当て字として意味が良くないから和に変えよう
遣隋使、遣唐使の時代にはかつて金印をいただいたヤマトを受け継ぐものとして名乗るために
大和と書いてヤマトと名乗ることにする。
意味不明な見解
ヤマトは中国の漢字邪馬壹と表記されてるがもっと奇麗な字に変えよう
そうだ大和がいい
おかしいって
>>460
九州に倭国があって近畿に日本があったんだから
九州倭国と近畿日本だろが
お前が何のことだキチガイ >>466
墓も文化状況も全部伝聞つってnだろが
日本語できるか? >>454
そうなんだ
詳しいね勉強になる
邪馬台国以外のことはあんまりわかっていないんだね >>474
だから全部伝聞である根拠を出せキチガイ
皇帝の命で使節が送られてるんだろが
なぜ行きもせず伝聞で済ませるんだキチガイ >>470
邪馬台国が帯方郡に使者を送るのは、曹丕の息子の曹叡の死の直前。
司馬懿に公孫を鎮圧させた後のこと。 >>454
不明ではない
倭国の都が女王国と書いてあるし
唐会要や隋書などからも邪馬台国に従属していると
書いてある >>466 468
>>469
連投我慢できん位に死ぬほど悔しい、ってのは読み取れたw
探検隊じゃあるめえし伝聞で情報得られたクニならいく必要ないだろうがバカかテメエ? >>482
お前な猿w
ならなぜ使節を寄越したんだバカ猿www
大和なんて漢字輸入後の表記だろ
やまとことば基準で考えれば
九州の山門のやまとのほうがしっくりくる
倭表記が嫌で和にしてから大をつけたのが大和
>>470 つづき
220年 【後漢の丞相「曹操」が死去すると】
司馬氏が仕えていた曹丕が魏王に即位、
後漢の献帝に皇位の禅譲を迫り魏の初代皇帝(文帝)になる
226年 曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、司馬氏は本格的に暗躍しだし、
存在を誰も知らなかった長男の曹叡を皇太子に立てて皇帝に即位(明帝)させる
235年 司馬懿は三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなる
237年 後漢の丞相「曹操」に仕えていた公孫氏は、司馬懿と曹叡(明帝)に激しく反発
自らを燕王を称し、支配下に置く韓と倭(筑紫城・漢委奴国王)に玉璽を与え、曹叡(明帝)と司馬懿からの独立を宣言し挙兵する
238年 曹叡(明帝)は司馬懿に全権を託し公孫氏を滅亡させ、燕王とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)から倭王の座を剥奪
奈良の邪馬台国の卑弥呼が、出雲から隠岐を経由して魏に貢を奉り朝賀し
魏の皇帝「曹叡(明帝)」から印綬を賜った
246年、司馬懿が韓を滅亡させるも、対馬経由で韓から北部九州の筑紫城・漢委奴国王の元に、大量の韓人が逃げ込んで
247年、奈良の親魏倭王の邪馬台国は、北部九州の筑紫城・漢委奴国王と戦争状態に突入し、卑弥呼は出雲から隠岐を経由して使者を派遣して、帯方郡太守の王頎に報告する 昔四国説とか伊豆説とか聞いたことあるんだがネタとしてはハワイ説とかも捨て難い
>>470
晋の成立あたりでその辺の漢民族が阿智使主と渡来してるんだよな >>482
お前低脳は糞食って死ねば治るよ
死ねよ猿w >>477
皇帝の命で「辺境の倭国とかいうトコの邪馬台国つうクニに行って来い」と言われた?
はーーーーーー?
んな訳あるかあ?初めて行くのにかw
もうバカはどうしようもないなw >>487
赤壁の戦いの時代にハワイまで直行できる航海術があれば
朝鮮半島を陸伝いに行く必要なんかないだろw >>491
それが根拠かw
いよいよど低脳だなこいつww >>491
あのなバカ猿
お前殺してやるわw
伝聞が正しいことをどうやって確かめるのバカの猿?w
>>29
会っていない可能性もあるぞ。
魏の使者が詔書を渡したのは邪馬台国ではなく倭国。当時の倭国の範囲は朝鮮半島南部から本州にかけてだから、魏の使者が詔書を渡した場所は朝鮮半島の可能性が高い。 あと倭国の真の支配者は伊都国の一大率のほうだろ。卑弥呼はお飾りにすぎない。
>>484
「周辺国の文化程度調べて見聞録書いてこい」
これが使節ならマゼランも使節だなw
おまけに「卑弥呼に会って貢ぎ物贈って欲しい」?
卑弥呼なんて当時どこの誰が知ってんだよ?基地外かあ? >>500
大丈夫だ
そんな怖がるな
糞食って死ねば治るんだからまあ落ち着けw >>498
なら、卑弥呼亡き後、一大率だけで治められなかったのはなぜ? 書いたのは魏の使者じゃなくて陳寿だから伝聞が正しい
>>497
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)
には
魏の使者は行かないし、行けない >>495
たりめーじゃん。
どこにあるか何て国だか誰が王なのか、文化程度も分からん国に使節送るか?
お前、使節の何たるかを何も分かってないんじゃね? >>497
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)
には
魏の使者は行かないし、行けない
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する対馬では無い
- 海を渡る1000余里 「一大国」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する壱岐では無い(見島もしくは隠岐)
- 海を渡る1000余里 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する九州ではない
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊 道順が詳細なところは中国人の商人か誰かが
自分たちの航海術を使って実際に行ったエリアで
距離の単位が雑な日数になるところは
倭人しか行ったことがないエリアだろう
当時の母音は今のように5音じゃなくてオ甲とオ乙が別れてて使われる文字も区別されてた
邪馬台はオ乙音、山門はオ甲音と言われてるので、これが同一かどうかは微妙
山門には魏志倭人伝の邪馬台国みたいな大規模遺跡も見つかってないし
まず、魏使が倭国を訪問したのは何月頃かを考える必要がある。
俺は梅雨明けの8月上旬と思っている。その理由は春は突風が吹き
玄界灘は大荒れし、その次は梅雨に成り道はぬかるむので歩めない
梅雨明けにやって来て10月中に帰国している。11月からは玄界灘は
時化が多くなる。従って倭国にいるのは僅か2ヶ月足らずなので末廬国に
到着して北部九州の国々を歩き回る暇は無い。邪馬台国が奈良にあるなら
さっさと大阪まで船に乗って行く。
>>507
そんなどうでもいい国の記事を
確かめもせずただの伝聞で正史にわざわざ載せるわけかw
さすが頭のおかしいバカ猿だなこいつww
>>503
それは曹操が皇帝になれなかったようなもんだな。
>>505
朝鮮半島南部なら青州からいける。
田豫の軍事行動から青州の東端は公孫淵の勢力圏ではなくなっていることがうかがえる。 >>496
おーっとおお?
悔しくって悔しくって、憤怒極まって血の涙を流すID:fiMf1nDn0が殺人予告ですってw
あー笑えるwww
殺したい位自尊心を傷つけられて、それでも反論できずにストレス溜まる気分ってどんな感じ?
ねえどんな感じ? >>511
甲音と乙音は決めてにはならない
良い例がツクヨミ
三貴子の一人なのに甲音と乙音が
書物によってバラバラでいい加減 >>511
邪馬台がそこまで正確な音を反映しているかはかなり怪しい
悪い意味の文字を使うことを優先した可能性のほうが高い >>515
お前恥ずかしいヤツだな
さすがバカ猿w >>506
グヌヌ死にたいくらいぐうの音も出ないです、まで読んだ。
あースッキリするわぁー♪
な?
近畿パーってただのウソつきのバカだろ?
ww
>>511
筑後国山門県には田油津媛がいたんだから何かはあった 伊都国まで詔と印綬を届けに来たのは、魏の使者というより、帯方郡太守の使者だな。
使者の身になれば、どういう仕事かと。
洛陽からは、明帝は死の床にあり、後継定まらず、ついに司馬氏に禅譲か?の報があり、
ボスの帯方郡太守の地位も不安定な情勢。
律儀に倭国調査をして正確な報告書を洛陽に送るよりも、
さっさと帯方郡に帰還して今後の混乱に備えたいだろう。
>>513
どうでも良くても伝聞だろうが知ったんだから記載するだろ?
いちいち論破されてアホなの?w
ああアホか。 >>518
グヤヂイヨーう
でも言い返せないよーう
ああ爽快爽快w >>514
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)
には、魏の使者は行かないし、行けない
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する対馬では無い
- 海を渡る1000余里 「一大国」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する壱岐では無い(見島もしくは隠岐)
- 海を渡る1000余里 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する九州の整備された港ではない
「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところに遭難寸前で上陸する
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊
ちなみにこれ
スサノオが新羅に渡って戻ってきたルート
生口を160人とか連れていける漢委奴国王の対馬ルートと違って
生口は10人連れていくのが精一杯のルートでもあるし
援軍を送ってくれと頼んでも、たった一人の役人が、手紙を持ってくるのが精一杯のルートでもある 卑弥呼より200年前の時代、新羅の建国に携わった瓠公という倭人が日本のどこから来たのか
四代新羅王の脱解も倭人説があるが倭国の東北一千里のところにある多婆那国出身らしい
倭国の範囲が当時どこまでで多婆那国がどこにあったのかは不明
>>520
いや九州説派ですけどw
まさかそんな事も読み取れずにレスしてたとか、さすがやねw 明帝の死に乗じて帯方郡が再び混乱に陥れば、使者は朝鮮半島南部を通過できず、
倭に取り残される。
さっさと帰るよ。
>>448
出雲国や吉備国が当時あった
魏志倭人伝にこの大国がいずれも登場しないことが
畿内説の大きな欠点 >>528
残念でした、九州説派ですわw
バカにも程があるw >>530
いやいやお前みたいなウソつき猿の総称だよ近畿パーって 20年くらい前にはもう学校でそういう説もあると習ったぞ
卑弥呼の妹かなんかが台の字使ってとと読ませる名前なんだろ
>>535
へえ、じゃお前が筆頭の近畿パー(笑)だな
ブーメランぶっ刺さりw 魏志倭人伝には2回の使者による記録が混在していると考えられる
伊都国に滞在し、その道中の記録と、貢物を都国王が女王へ送り届ける
この記述は正始元年 太守弓遵の派遣によるもの
卑弥呼は女王国にいると記載されている
一方2回目の使者は、狗奴国との戦闘状態にある邪馬台国を支援するもの
30国を支配下におさめる国が苦戦しているのだから、狗奴国はそれに匹敵する連合国ということ
それに対して、邪馬壹國が30国の連合国家として解釈するのが正しい。
つまり日程記載における、投馬国や邪馬壹國、そして狗奴国は連合国家の呼び名である。
倭人伝において邪馬壹國が一度しか記載されていない不自然さも考えると合理的な解釈だといえる。
だって近畿パーってデタラメを垂れ流して撹乱して
「ほら分からないでしょ?だから近畿ね」
ってやるキチガイ猿のことだからな
デタラメ垂れ流すのが目的なのに「オレ九州説だから」とか
それ自体がデタラメw
>>537
473 ニューノーマルの名無しさん[] 2022/07/18(月) 02:03:25.60 ID:fiMf1nDn0
>>460
九州に倭国があって近畿に日本があったんだから
九州倭国と近畿日本だろが
倭国と日本は併存しないの。理解できたかぁ? いや元々ヤマトって読んでたんだろ?
台与がトヨなんだから普通に読めばヤマトだ。
それを江戸末期だか明治あたりの国粋主義者が、日本が中国に朝貢してたなんて歴史があってはならん、あれはヤマト朝廷より始まる我が国とは別のヤマタイなる国だ、ってことにしたって聞いたぞ
ていうか、この漢字の当て方って明らかに蔑視してるよな
>>542
『魏志』(倭人伝と韓伝を含む)が書き上げられたのは297年
邪馬台国の卑弥呼が魏に貢を奉り朝賀し
魏の皇帝「曹叡(明帝)」から印綬を賜った
238年から、わずか59年後
中国の正史で唯一、
経験した出来事を、経験した人たちが、
忘れないうちにオンタイムで書き残したのが
『魏志』(倭人伝と韓伝を含む) >>540
当時の丸木舟レベルの航海術で韓国からいきなり島根に行けるわけないだろ
それができるなら朝鮮半島沿いには行かない 魏志倭人伝か、三国志は中国にしてはよくできた作り話だからな、歴史書として扱ってる日本は最初から騙されてるのかも知れんな
>>5
ヤマト イ国だって話なら大昔からあった。
だから次代の臺與がイヨって読まれてたんだし。 >>544
スレ遡って俺が畿内説唱えてると思うんか?
読解力決定的に欠けてんな。
おまけに連呼してバカ丸出しw >>524
↑
これな
どうでも良いことだけど聞いたから正史に載せるんだとwwww
な?
これがあのデタラメで有名な近畿パーなww
>>533
畿内説だと投馬がィヅモなんじゃないのか? >>553
どうでも良いけど聞いたから正史に載せる近畿パーが
何かほざいてますwwwwwwwww
>>555
他のどうでもいい国も倭人伝に載ってるだろうがw
頭畿内説かよw 魏使は瀬戸内海を通らずに日本海沿いに京都方面まで行って奈良まで陸路を
南下したと言う者がいるが、遣隋使や遣唐使も瀬戸内海を使っているから
卑弥呼の時代も瀬戸内海航路を使ったはず、しかし邪馬台国は吉野ヶ里なので
日本海航路も瀬戸内海航路も使ってはいない。
>>556
涙拭けよどうでも良いけど聞いたから正史に載せる近畿パーwwwwwwww
もう結論出てんのにまだ近畿説とか言ってんのか
20世紀かよ
>>559
何をほざいてるんだキチガイ
こいつガチで壊れてやんの
臭いバカだなしかし >>563
イが落ちるのはそんなにふしぜんじゃないし、馬をモと読んでたなら違いすぎるということはないだろう 原文:安乎尔余志 奈良能美夜古尔多奈妣家流 安麻能 之良久毛 見礼杼安可奴加毛
青🟦なのか?青🟩なのか?
>>560
あのね
ヤマトタケルの西征によって
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家が
出雲・邪馬台国の流れを汲む天皇家によって平定される
で
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
煬帝の勅使「裴世清」が同行して帰国 邪馬台国はヤマト国と読んで
位置はともかく大和政権につながるもの
卑弥呼はヒメミコ、女性か女王か巫女かのことであって(男性はヒコ)
おそらく固有名詞ではない、女王の名前として挙がってるのはトヨのみ
諸説ありますって高校の授業で習った
しかしどうでも良いけど聞いたから正史に載せるまで言い出すとは思わ無かったな
まあカタワですなカタワwwww
>>568
そりゃ糸魚川のヒスイが全国に流通していたんだから
海路はあっただろう
でも航海術は丸木舟レベルだから
対馬から壱岐までを晴れた日の日中に一気に渡るのが精一杯
途中無寄港で隠岐には時間的に行けない >>571
神話がソコソコ整合性あるってやつでしょ
天照大神がヒミコ、宰相に男の兄弟、
天照大神(大和)の親族の娘と大国主(出雲)の姻戚関係で同盟 >>531
なんとかのヒメだらけな時代に
卑はないだろ
日本人は訓読みで当てた字は姫か媛だし
音読みでなら比売あたり 邪馬台国が近畿だと、九州、中国地方が敵対勢力なので大陸と交流できない
なので近畿説はありえない
>>571
アマノウズメのヌードダンスで引きこもりをやめたんだからな セーケイ人の起源は諸説ある。かってはアッティラが率いたフン族の子孫というのが広く知られていたが、現在ではルーマニアの圧力およびハンガリー本国の周囲との平和を望む意図もあって概ね否定されている(セーケイ人たちには今もフン族の子孫である言い伝えを守っている者は多い)。最近ではアヴァール説が新たに登場しているが、他にトルコ、スキタイといった説がある。また、マジャル人の分派がトランシルバニアで独自の文化をもったと言う説もある。いずれにせよ、これらの諸説は伝説の域を出ず、セーケイ人以外のハンガリー人も、セーケイ人自らもハンガリー建国以来セーケイ人をハンガリー人として捉えている。ちなみにハンガリー人にはセーケイ人以外にもチャーンゴー人、パローツ人、マチョー人、クン人、ヤース人、ハイドゥー人等、色々なエスニック・グループが存在するので、セーケイ人だけが特別なわけではない。
>>579
だから出雲と同盟結んだって言うのが近畿説なのでは 近畿説なら九州北部も邪馬台国の支配圏あるいは同盟勢力じゃないと不自然だろうね
魏志倭人伝には邪馬台国は楼観城柵を厳しく設け、兵士が24時間見張りをしている
との記載があるが纏向遺跡には楼観・城柵跡は見つかってはいない
単なる大型の建物だけで環濠も無いので、弥生末期の混乱が終わった時代の建物と判る
纏向は箸墓古墳を築造する時、労働者が寝泊まりした単なる宿泊所。
こういう歴史ミステリーって今になって解明する事あるのか?
本能寺の変の謎とか
むしろ日本人にとって疑問なのは大和朝廷はなぜ過去の歴史を闇に葬らねばならなかったのかだよな。
>>572
「邪馬台国が大和政権につながる」だけが怪しいな
当の大和政権側の資料にその痕跡がない
つながっているのなら天皇の正統性のためだけに書かれた
記紀に記載があるはず >>570
漢の時代は100国邪馬台国時代にはわずか30国
道中に記載されている数国の規模は魏志韓伝に出てくる国の規模と合致する
100国あった漢委奴国王が大和政権に統治されて30国とはお笑いだな まあ漢字を当てただけだしね
ヤマトと発音するのが妥当
まあ記紀に邪馬台国が出てこないのは不可解だよな
多分書いてあるんだろうけど魏志の記録と同定できない
なぜ豊後水道を挟んで北部九州と本州の勢力が対立したのかと考えると
民族が違っているから.恐らく言語もかなり違っていた可能性が高い。
>>585
百済と姻戚関係作ってた北九州と出雲大和連合で争って
百済が攻め取られた事から勢力均衡が崩れて大和政権で統一が
以前は通説扱いになってた >>594
記紀には邪馬台国というか大陸との交流という重大事項すら書かれていない
魏志倭人伝には九州の要である筑紫という地名が一切出てこない 新説じゃねえよ!
はるか昔からの説を自分のもののように言っている奴は恥を知れ
>>591
邪馬台国と大和政権が繋がってたかはわからないが、
卑弥呼と祖先のルーツが同じ可能性がある稗田家とは繋がっていた >>598
ひめみこ、やまと、きくちひこ、とも読めそうなところからして
やまとことばではあったんじゃない?
方言はきついだろうけど 日本での水稲稲作栽培は佐賀県唐津市菜畑遺跡が最初で、奈良で栽培されるまでに
四百年もの年月がかかっている。水稲稲作を九州に伝えたのは上海付近に暮らして
いた江南人が戦乱で中国から逃れて北部九州に来た時に始まった。
もし江南人が大勢来たのなら奈良まで四百年もかかるはずが無い。江南人は
北部九州にしか住まなかった。要するに北部九州と本州は異民族だった。
この状態が卑弥呼の時代まで続いていたと言う事だ
邪馬台をやまたいって読むのはそもそも日本での漢字の読み方では
古代中国語でやまとぅと発音するって根拠があるのか?
>>588
民俗学や考古学分析化学等と併せて検証していくものだから
新説が出がちなのは考古学的発見だけど
遺物や古文書には詐欺が付き物なので飛びつくのは危険
ブームが去ってからが検証タイム >>589
朝鮮半島から来た天孫族天皇に背乗りされた そもそも当時の日本は
扶桑、ヤマトはもっと後
意図的に勘違いさせようとしてる
>>604
中国に長期間安定した表音文字がないから正確なところはわからないだろうな >>608
魏志倭人伝の頃は、扶桑は国を指す言葉ではなく、太陽の出現点である木の名前
架空の黒歯国の北に生えているとされていた
魏志倭人伝では、倭国から黒歯国へは船で1年 卑弥呼の時代の弥生末期は北部九州の南方系倭人、関西を中心にした本州にいた
ツングース系倭人、関東・東北・南九州の縄文系倭人と多様だったが
大和朝廷が成立して古墳時代以降に混血が進んで現在の日本人に近くなった。
畿内説は根拠に乏しいんだよなあ
三角縁神獣鏡と箸墓古墳を根拠にしたいんだろうけど弱い
今のところ吉野ケ里のほうが強い
>>589
蘇我氏vs物部氏の戦いで書庫を焼いたんじゃなかったっけ?
そこにあるのも記紀レベルだったかもしれないけど >>6
自慢はしとらん。むしろ自国の歴史でありながら解明できてなくて恥ずかしいかんじだろ。未だに専門家同士でガチバトル繰り広げてるし >>1
> 福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。
普通に沖縄にあったかも知れないのになんなのw
首里城の地下に何かあるかも知れないだろ >>6
邪馬台国より前が三国志だから
中国のほうがはるかに発展していたことは
皆知っているだろ
孔明が築いた用水路などはどう見ても
当時の日本にはない 国記だけ難を逃れたけど行方不明
なんでも鑑定団に出品を期待
大和言うたらなら南の方か。
橿原とか天理には天皇の古墳いっぱいあるしな。
それがどないしたっちゅう話やけど。
古くさい
風頼りの古代なら沖縄は交通の要衝だろうし、邪馬台国が沖縄でも何もおかしくない
邪馬台国の末裔の神武が沖縄から宮崎の日向に上陸したというならすべてスッキリする
っていうか「邪馬台=ヤマトであり、いわゆる『大和朝廷』(今は『ヤマト王権』と言うのか?)の直系の前身である」
みたいな言説は大昔から割とちょいちょいあったもんだよな
主に「故にこの国に『ヤマト』以前の統一国家は存在しなかった」みたいな事を言いたい人の間で時々流行って
その場合は記紀における神功皇后が卑弥呼に比定されたりして、まあ大概与太話で片付けられる程度のもんなんだけど
なんか新たな物証かなんか出てきたりしたのか?
>>623
「邪馬台=ヤマト」に屁理屈くっつけて深みを与えたんだって 九州説:やまたいこく
近畿説:やまとぅこく
関東説:やまてえこく
>>628
親魏倭王が呉に朝貢したら魏からは
親魏倭王の地位を剥奪されるだろうし
呉志に記録が残るのでは
琉球だったら九州経由で魏に行くよりは
台湾経由で呉だろうし >>1
なにその若手芸人が学祭で変顔して言いそうな発音は 記紀に記述が無い口寄せシャマ土人卑弥呼は蛮族
一方、記紀に記述されている神功様は英雄
以上
天照大神=則天武后だから
武周以前の倭猿の歴史は全て捏造な
ヤマト王権に征伐された地域って一体何時の時代を生きているんだ?
もしかして…1000年恨むとかいうあの民族と一緒か?(笑)
中国が付けた蔑称っぽいもんな
"卑しい"だの"邪"だのマイナスイメージの漢字使って
書物に書かれているという事が事実であるかどうかは
同時期の他の書物にも同様の記載があった場合のみで
ただ一冊の記録など参考にもならない
ヒミコとトヨがちょうど日向と豊の国だっていうのは面白い
>>1
行った当人じゃなくて後世の作家が書いたわけだから、
当時地図があった半島の先までの陸路と交易港がある九州上陸までは地図でなぞりながら正確に書けて、
その後の行程はデタラメになるのはごく普通の事だろ。 邪馬壱國って言う誤記っぽい記述のところから
山一だから破綻解散したとかいう珍説を以前見たか聞いたかした。
中国の西側の国とか見てると文字が全然違うんだよな
それに対して韓国と日本は共通点が多い
邪馬って単語も韓国にも出てくる
ゆえに邪馬台国これはヤマトとか日本特有のものじゃなく
韓国にもある感じの発音だと思われる
縄文人が植林してましたとかの方がまだ面白い
こんなの陰謀論と変わらんし、こじ付けの根拠同士で毎度バトルして何が楽しいんだ
どうせ根拠となる重要遺跡なんて高度成長期にそこらの建設会社がぶち壊して無くなってるよ
>>6
日本人は自慢なんかしてないぞ
ただ、自分たちの祖先の歴史がどうだったか強い興味をもっているだけ 呉なんて兵士1万渡海させて人を8千人さらって兵士は疫病で全滅するって無能なお国だし
気にしすぎじゃね?
使節は一大率の伊都国より先には行っていない。
つまり邪馬台国の位置を伊都国の官人に聞いただけだ。
その伝聞を元に陳寿が魏士倭人伝を編纂した。
邪馬台国が畿内ならばヤマト王権に繋がる勢力で良い。
しかし、九州だと言うのであればヤマト王権に弓引く蛮族国家に過ぎないのである。それは何故か。理由は次の二通りである。
1 当時の邪馬台国の意向により、使節に嘘の道筋を教えていたから(大陸国家による侵略を恐れていた為)
2 魏の司馬懿の意向により、邪馬台国が本来の東ではなく、南に存在したほうが都合が良かったから(呉に対する牽制の為)
>>6
自慢に聞こえちゃうところが朝鮮人の僻みなんだろな チョンは属国の歴史だしな。
まぁ悔しいのは分かるけどな
邪馬台は当て字だけど
中国語発音のはずじゃん
魏の時代の読みで読んだらいいよ
それが答えだよ
魏志倭人伝を鵜呑みにして九州に住みついたチョンを征伐したの話が神功様の英雄伝なのである。
>>6
おまえみたいな馬鹿、たまに見るわ
世界一の何かを持ち出してそれに比べて日本は~、ってやつ
日本とそれ以外の世界の人口比、面積比など全く頭にない 日本は神様がかき混ぜて創ったのは知ってるが
こんなよくわからん曖昧なのは教科書に載せんなよ?
>>458
右上伊吹山
左上元伊勢外宮
この二つは直線でつないだら
出雲大社と富士山にそれぞれ届くんだってさ 大和朝廷の始まりとすると天皇家の始祖が卑弥呼になるはずだけど
そんなのは古事記にも日本書紀にも書いてない
だから大和ではない
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされたんだよ
日本武尊の息子仲哀天皇は再び叛いた熊襲(邪馬台国)を討伐する為に九州へ出征
しかし邪馬台国の反撃に合い矢で射抜かれて崩御
私の立案した作戦を無視したからだと遠征に同行していた神功皇后が熊襲討伐を引き続き見事目的達成
その勢いをかって朝鮮半島にも攻め入り新羅、百済、高麗をも屈服させてしまったというスーパー女帝
大陸からの干渉を排除しなければ再び九州は叛くと考えての行動だったろうね
という事で邪馬台国は九州にあったのであーる
そしてヤマト王権に征伐された九州熊襲の後継者が隼人である。
畿内なら邪馬台国の南にあったっていう侏儒国はどこだよ
淡路島か?w
なんで歴史学者ってマウンティングオナニーみたいな事を繰り返すん?
魏志倭人伝という中華の史書を鵜呑みにして九州に住み着いている馬鹿ってなんなん?
あいつら歴史的に反逆ばっかりしてるじゃん。
そろそろ令和に従いなよ。
ほぼ宇宙人論争とおなじで、もはや大喜利だな
「いるけど隠れてるんだ」の世界
>>674
神功皇后に討たれた「田油津媛(たぶらつひめ)」が邪馬台国の女酋の
成れの果てだという説はある >>542
九州は玄関で奈良が本州の中心
地図見ればわかるだろ >>673
畿内派は孝霊天皇皇女のヤマトトヒモモソヒメが卑弥呼だと言ってる >>690
箸墓が魏志倭人伝に書いてあった卑弥呼の墓と同じ大きさとか聞いてたがよく聞いてみると
墓の「方墳」部分だけを指して朝日系列の学者が主張してんだってな
そりゃ無理筋だろ >>690
当時のモモソファミリー全部
皇室
ヤマト朝廷だから 本当は邪馬台国じゃなくて
邪馬たい!たいは方言じゃない?
ちなみにワシは「神武=崇神狗奴国出身説」をとる。
神武は東征時、最終的に和歌山から北上したがそのあたりに熊野大社が
あるのは「狗奴=隈=熊」だからなのである
このネタに熱心な奴ってよくわからん
何処でも、まあ日本でしょ?
どうせ、確認の発掘許可とか下りないんだしさ
>>598
台湾ですらあの数なんだから
単一なわけないよ?
例へば、石川弁とか「~じ」?
モンゴル語? >>1
南を東と読み替えるなんて出涸らしの仮説やろが。なにがユニークだ
あと、魏史を編纂したのは後世の人間だから、三国間の張り合いとか無意味 >>664
中国の研究家に読んで貰ったと称する説はいくつかあったはず >>673
神話時代の天皇たちが古代天皇と同じくらいの在位期間であれば、卑弥呼は天照大神のいた時代の人物 >>695
熊だろうね
でも昔の人が奈良盆地の南のジャングル南下して海まで到達したとは思えない
今でも恐ろしいジャングル 学者があーでもないこーでもない言うて単純なはずの事実をぐちゃぐちゃに複雑にしてわけわからんくした
中学生くらいに事実だけ与えて推測してもらった方が事実に近いこと言うだろ
>>703
ヤマト朝廷の事をヤマタイとか言い出すから誤認が生まれた
愚かな話だよ 畿内ヤマトが入れ墨を施した蛮族や獣の名を冠した民族なわけないじゃん(笑)
>>41
キリスト教のせいで科学技術が退行した
その頃は中東の方が先進国だった
キリスト教原理に縛られないプロテスタントの台頭から復活した >>703
魏の人が日本の原住民に聞いたら
ヤマトの国ですーというから
邪馬台 ってちょい格下感ある当て字にした
いちおう王がいるぽいので金印あげておいたんだゾ!
と魏で記録した。というだけの話
スレタイの「邪馬台ではなくヤマト…」はなんの意味もない文章だよ…
最初からヤマトなんだよ。
日本に文字がないからヤマトの国があるぞ!ってまともに記録してないだけ 未開・土人国家の過去など議論するだけ無駄
何の記録も残っとらん
日本の古代の言語とかの研究は全然進んでなくて
とりあえず今と全然発音が違ってたりするらしい
YouTubeで研究してるぽい人が動画あげてるけど
中国語みたいに発音が複雑だったみたい
だから邪馬台国がヤマトで九州にあって
あとから近畿の纏向が
ヤマトをパクったんだよ
大和でヤマトなんて読まんだろ。完全に当て字だよ。
>>711
陰謀論だと古代の朝廷のことは詳しくしらべる流れになると困る勢力がいるから
永遠にコレはよくわからんまま古い歴史となっていくんだよ 300年頃には滅んでる九州の小国
その後に遣いを送った五王らが「邪馬台国?」と聞かれて「うんそう」と詐称してきた
>>703
これは
金印が発掘隊されるまで
終わらない >>711
数百万人の人間を統治出来るのは土人国では無理
それなりに発展していたと思われる
ほぼ記録が残ってないので議論が不毛なのは同意 実は、大和も当て字であって
漢字そのままの音では、
倭、日本、和、大養德、大和
全てヤマトとは読まない。
ヤマトと読める漢字がつけられたことはない。
これは漢字が当てられた後の平安時代に
ヤマトと読むように変わったと思われる
ちなみに、漢字伝来以前から、チクシなどはあり
筑志、竹志など、チクシに合わせた国名が
つけられていた記録が残る。
また、肥も、火、日とする文献は多い。
>>721
考古学で捏造するような東北土人は黙っとけ 何で昔の人はわざわざヤマタイなんて呼んだんだろうな
普通にヤマトやん
九州の山門郡は、和名抄に残された郡名であり
ヤマトと読める文字が当てられている。
つまり漢字で地名をつけられる以前から
ヤマトと呼ばれており、
漢字をつける段階でヤマトの音に合う
漢字が選ばれた。
奈良のヤマトはその頃には
まだヤマトと呼ばれていなかったので
ヤマトに合う漢字が当てられなかった。
陳寿の使った原資料に「邪馬台国は伊都国のすぐ南」とあること
研究家でも知らん人多い(畿内論者)からテンプレ化して
陳寿バージョンの倭人伝は写本が新しいものしかなく、中国の学者は「写本時に文体の違う行が挿入されているいる」となっている
写本時には畿内にヤマト国が東遷しているので修正したのか偶然なのか
倭国と日本国って別の国だったんだろ
倭国が日本国を併合して、名前は日本国の方を引き継いだと推定
神話に出てくるヤマタノオロチて、邪馬台国に根差してるのかな。
パート1のスレで多投していた畿内論者まだいる?
・卑弥呼を古墳時代の人と思っている
・古墳時代の畿内の古墳から鉄器が出る(当たり前)
・ゆえに卑弥呼の時代の畿内は九州より鉄が多い!
と主張
当然、弥生時代と古墳時代の区別と突っ込まれるが、それでも気付かず
流石にもう気づいて消えた?
邪馬台国と大和国が同じなのかどこにあったのかとはまた別問題として
邪馬台はヤマトと読むべき
ヤマトを最初に名乗った都は奈良である。
いくら古くからヤマトを名乗っていたとしてもそれは地方部族集落だ。
>>701
一応海の方は安曇族(海洋民族)が先に住んでたはず >>716
そうだよな。
詐称って言うか防犯の観点からも正直に邪馬台国の
位置をいうわけない。
九州の大きめの集落を「ここがそうだ」
って言ってただけだ。 ローマ製法の紫wwww
おっちゃーん…ウソついてね?
>>716
俺も乗っ取り説を支持するわ。
邪馬台(やまと)国は元々九州の最大勢力国 最初にエウロペと名乗った地域がギリシャだとしても、今はヨーロッパだ。
そしてギリシャ等いまとなってはヨーロッパのお荷物なのである。
>>722
>>また、肥も、火、日とする文献は多い。
昔の日本も日の国を自称していたからその辺が中心地だったのかな?
それとも火山で火を当てたのか >>588
歴博の人「金印が出ても移動するからわからない。邪馬台国の位置が書かれた
古代中国の当時の地図が出ないかぎり確実な所在はわからないだろう」 あと卑弥呼の「墓」は宇佐神宮で、伊勢神宮は宇佐神宮に合わせて
大和(奈良)から見て東側の半島の付け根という立地で選ばれたと
考えている。
つまり邪馬台国自体は宇佐神宮(卑弥呼の墓)から見て西側の
盆地、すなわち現在の日田市がなのであろう
>>744
日の国が日本のルーツになった
可能性はありますね。 >>733
魏志倭人伝に邪馬台国なんて一言も書かれてない無いのに
邪馬台=ヤマトと読みたい畿内説派の根拠の無い妄想
邪馬壹国が広まってきて畿内説派が
壹はトゥと読むなんて捏造をまたやってる
中国語で壹はトゥなんて発音しないから 豆がついてるから壹はトゥと読む
これはわりとユニークじゃないか
学会がー教科書がー学者がーでわりと畿内説は有利に見せかけてる中でこんな珍説を披露する意味が分からんが
>>716
邪馬台国から150年以上経ってたら遣いを送ってる方も前がどんなだったか分かってないだろうからな
昔のこと分からん新興国と思われるより記録残ってる国を継承してきたことにした方が手続きも楽だろうし 卑弥呼の時代(弥生時代)
鏃、刀、絹、魏晋鏡、庄内期出土の鏡、ガラス製勾玉、翡翠製勾玉などが畿内からほとんど出土しない
※卑弥呼を古墳時代と思っている人がいたので注意
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古墳時代になっても初期はまだ奈良は田舎。吉備の方が強い
中期になると奈良で急激に古墳が増え、急激に減る
奈良の有力者たちが大量に殺されたか?
邪馬台国、東遷説
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>>748
ただし「日本」は「日の本(ひのもと)」であって、つまりその場所を
西側の地域から見て名付けたものと考える方が自然ではないか。
もちろん国号なので名付けた地域(西側)が中国や半島であるとは
考えにくいので、そうなると九州にあった倭が東側の大和(奈良)を
「ひのもと」であると思った結果なのではないのだろうか。 >>756
ひのもとは、東日本の毛人の国地方の別称
ヤマト王権は西日本のヤマトをパクって
そのあと東日本のひのもとをパクった そんなことより
安倍→ジューシー→銃死
この方がミステリーだろ。
自分の都合の良いように間違ってただの嘘をついただので自論を展開するのは普通のことなのか?裏付けもなしに
>>758
安倍「ジューシー」
岸田「チューシー」
テレビ「エーシー」 >>722
倭に漢字がなかったころに山の入り口という意味のやまとに
中国からつけてもらった倭という漢字を当ててやまとと読んでいた
のちに大をつけて大倭
さらに倭は小さいという意味である事を知って倭を和に変えて大和 >>716
当時は地域によって文化レベルや食料調達方法も千差万別だったのに
九州から近畿まで1つの国家で且つ数百年そのまま存続したって方が不自然だよなぁ >>747
俺も最初に邪馬台国宇佐説聞いた時は「そんなアホな」って思ったけど、調べれば調べるほどメチャクチャありうると思えてくる。 >>732
そもそも卑弥呼が埋葬されたのは径百歩(140m)の墓
つまり古墳なんだが?
この規模からすると前方後円墳だな 発音が先で字が当て字だろ
外人の発音なんてまともに聞き取れないんだからもともと間違ってる可能性は高い
ヤマト=ヤマタイは普通に可能性高い
>>765
高木彬光の「邪馬台国の秘密」「古代天皇の秘密」はもちろん創作だけど
「上手くできてるわー」と思っちゃうよね。 邪馬薹、邪馬壹、邪馬壱、山市、山一、どれでも間違いではありません。全て原始道教、老子道徳経につながります。
箸墓が卑弥呼の墓です。
卑弥呼は最期に契約を結び神になったんですよ。
列島初代大倭王は五斗米道巫女であり、実在する人物から張盧の娘しかおりません。邪馬台国女王卑弥呼は張琪瑛です。
>>540
畿内説とした場合に、魏志倭人伝に
女王卑弥呼を擁立した大国の名前が書いてありますか?
女王国に至る道程でその大国の名前が挙がってますか?
その大国の情報はどんなことが書かれていますか? >>766
古墳ていうのは今の学問では「古墳時代に作られた墳丘墓」の事なので、弥生時代の墓は厳密には「古墳」とは呼ばない。
なんか本末転倒なんだが、仕方がない。弥生時代の墳丘墓は、あくまで墳丘墓。 そもそも、当時の中国は周辺国を野蛮人とか非文明人扱いしてわざと悪い意味のある字を発音に合わせて当て字してた
もっと当時の中国の発音を勉強するべきだと思う
そういう意味で九州に邪馬台国の発音に該当する地名は残ってるのか?
奴国二万戸(那の津、福岡市を中心に北九州一円)
↓水行20日
投馬国五万戸(?)
↓水行10日陸行1月
邪馬臺国七万戸(??)
まとまりつつある時代の
いくつかなんじゃないの?
それぞれの勢力図が入れ替わる過程で
頂点を指してヤマトと呼称したかもしれない
>>772
畿内説の人は箸墓古墳が卑弥呼の墓だから
畿内の古墳時代が遡って
卑弥呼は古墳時代の人って解釈じゃないのかな
年代推定の議論はまだ決着付いてないようだが >>772
そんで弥生時代と古墳時代をどう区分するの?
弥生時代に作られたから規模の大きな前方後円墳でも墳丘墓
というのは本末転倒
古墳時代とは前方後円墳が作られ始めた時代だから
昔は4世紀と言われてたけど今では前方後円墳は3世紀前半あたりから作られてる事がわかってるから
それで言うなら卑弥呼の時代3世紀中ごろは古墳時代に当たる >>765
宇佐説はあまり知らないけど日本書紀の景行天皇の九州巡幸で豊前国府辺りを京(みやこ)と呼んだりしてるよな
国東(くにさき)半島の神夏磯媛が三種の神器持って景行天皇を出迎えてるし ヤマトは中華から金印もらって後ろ盾になってもらってたから
外交ではブランド化してたんだよ
それで邪馬台(ヤマト)国が滅んで
中華の魏も滅んで王朝変わったから
その挨拶に近畿の大倭(ダイワ)が行ったときに
「あー以前取引してたあの倭のヤマトさんですか?」
「そうそう、大倭でヤマトって読むんですわ。よろしくねー」
とか言ってヤマトブランドをパクったんだよ
>>157
逆だ馬鹿
本居宣長が邪馬台国と大和王朝を別の物だと言い出して、それが定着してしまっただけ
それ以前は別の存在だとする発想自体ない 東夷はもとは半島のことをいい、初め箕子(中華人)朝鮮が纏め、漢代倭が登場するが楽浪海中100ヶ国の倭奴国は最南端とされていたふしがある。倭人伝陳寿は地理情報が日本海、瀬戸内ルートもごっちゃになっている感がみえるので地理で邪馬台を追うのは間違いを起こしやすい。あくまでも卑弥呼は鬼道で民を纏めたのであり、その後の列島にその痕跡を遺している場所をまず考えるべきであり、それはもう巻向以外にない。
本居宣長や新井白石のいわゆる国学者は
嘘で歴史を滅茶滅茶にしてやるという悪意を持った
中国か朝鮮渡来の儒教思想者のスパイだった可能性
今の九州説もそれと同じかも知れないよ
まあ確かに何かとヤマトヤマト言う日本でヤマタイはおかしいと俺も思ってたよ
ヤマト国だったんだよ
司馬懿の功績を主張するために著者の陳寿が意図的に遠く巨大な国として書いたって説が信憑性高いと思う(※陳寿は司馬懿に不利な情報を隠している)
まあこれ言うと元も子もないからスルーされることもあるけど前提として知っておくべき
そもそも中国の史書なんか次の王朝が伝聞情報集めただけの物
距離だの日数だの、正確なわけねーじゃん
凄く近い時代の清朝が書いた明書の秀吉の項目なんかひでーもんだぞ
古事記や日本書紀は事実として認識してないのに、何故中国の史書を全て事実として捉えているのかと
ざっくりとした伝聞を一字一句事実として捉えるアホな事もうやめるべき
邪馬台…ヤマトに音で漢字を当てた
山門…ヤマトに意味で漢字を当てた(ヤマトに意味的に対応する中国文字を日本語読みした。いわゆる訓読み)
大和…中国における日本の国号「倭」を好字の和に変え大をつけて「大和」とし、それを日本における国号「ヤマト」で読んだ
陳寿は三國志完成は呉吸収後であり、個人的に書いていた物で晋に不利になることがあるなら、それは後で書き換えたものであろう。また呉を牽制とか、倭人の航海は持衰で神頼みの技術であり、呆れた妄想としか思えない。
>>787
逆だろ
旧唐書に普通に倭と日本は別の国とある
九州に今の天皇家と別の王朝があって
それが本当のヤマトでしたとか都合悪いからな
国学として 邪馬台国を大和国と認めたくないのは九州説
それは嘘やデタラメで人を操ってバカにしてやろうという思想の
カルト宗教系工作員かもよ
どうでもいい
それに決着がついたら失われた30年が戻ってくるのか?
>>782
記紀では北九州で活躍した神功皇后が卑弥呼であるように書いてるから記紀を編纂した人達は卑弥呼は九州北部と考えてる
景行天皇記の部分もだが天皇が九州に行って10年近く都を留守にする不自然な現象が起こってる
これらは九州に残ってた神話や伝承を天皇史観に無理矢理取り入れた所から来てるのでは? 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
邪馬台からパクって名前を付けようとしてちょっと迷走してる感がある
>>778
本末転倒なのは分かってるが、俺が決めた定義じゃないので俺に言われても困るw
まあでも、そのうち「古墳時代」という歴史区分が消滅するんでないかな? 侏儒国→福井(少名彦の一族)
裸国→新潟(裸で過ごす習慣があった)
黒歯国→東北、北海道(アイヌ)
>>795
日本側の資料的には持統天皇が国号を倭から日本に改めたとあるから
倭と日本は同じ国となるよ >>799、その後述、地勢東高西下、であるから奈良盆地と考えます。 そもそも九州の日向から四男坊の神武が東征してんだから
九州に最初に王朝があったんだよ
東征とか言ってるけど
纏向が邪馬台国(ヤマト)ブランドの血が欲しくて婿入りを要請したんだろ
それで邪馬台国も都合いいから分家の日向の四男坊の神武を纏向にやった
そしたらそれに反対した勢力の長髄彦と喧嘩になったってだけ
>>795
そもそも旧唐書の言わんとするところの倭は
1世紀のころに漢に朝貢した倭奴国の事を指してるんだろ
それと畿内の大和国は別のとこにある国と言ってるわけで
九州説が妄想するように6世紀や7世紀に九州に別の王朝があったという事を言ってるわけではないと思うよ >>802
天皇家側が同じ国にしたかったってだけでしょ
磐井の乱とか調べたら普通におかしいと分かる >>803
ヤピタイが奈良であることは否定してないよ 九州の倭奴国と言える国がリードしていた時期があった、というのは畿内説でも考えています。その後107年帥升ら100ヶ国があり、混乱期を迎え、倭国乱歴年主無し、全体を纏める王不在が何年も続いたわけです。
其処で突然、前方後円墳を創り出す連中が現れたってのが畿内説の1つの考えです。卑弥呼宗教教団が邪馬薹(宗教道観)を中心として倭国を纏めたのです。ですから九州の力は卑弥呼の時代には一大率に統治されています。
>>695
そうだね
天皇の出身は九州南側の狗奴国
だから九州北側の邪馬壹国の歴史を背乗りして
後からわざわざ日向の地名を作った
奈良県にも九州北側から地名をもってきた
そうすることであたかも古代から続く邪馬壹国に成りすます
歴史書も編纂させた
でも大分県にあるのは壱与の古墳じゃないかなぁ
壱与の祟りを怖れて宇佐神宮に天皇家は参拝しているんだと思う 古代中国は他国の名前に悪い意味の漢字を当てるそうな
糞陰険で素晴らしい
卑弥呼も日巫女なんだろうな
日本を憎んで自分らの考えた嘘の歴史を吹き込んで
騙されてる人間を見てあざ笑ってマウント取りして支配してやろうという
カルト思想の九州説
どうやらカルト宗教は見てるとそういう思想らしいな
嘘を世間に吹聴して引っかかってる人間を見て
バカにして精神的な安堵と自信を得るといったような
だから真実を猛烈に嫌っていて嘘が暴かれそうになると火がついたように反抗する
そんなのかも知れないな
また、勾玉の一般的な形も3世紀から出てきます。老子道徳経の万物を生み出す物の形と考えます。列島の池の形も瓢箪や子宮の形をモチーフにしています。仙人思想、老子道徳経を持ち込み国家として纏める理念を広めたのが卑弥呼です。
>>815
随分と憎々しげに書くねぇw
でも文章下手だから印象操作に成功してない >>819
でも文章下手だから印象操作に成功してない
という印象操作も成功してないみたいだよ 邪馬台国である為の条件は
1.宮殿・楼観・城柵がある事
2.内乱が起きた形跡がある事
3.邪馬台国の特産品の絹織物、鉄の鏃などの鉄製品が出土している事
以上の僅か三項目を満たしているのは吉野ヶ里遺跡だけ
纏向遺跡は何1つ満たしてはいない
>>824
そういえば吉野ヶ里で始まった手つかずだった神社の
発掘調査どうなったんだろ 「邪馬台国(ヤマタイコク)」は、江戸時代の中二病こじらせたような国学者が唱えだした説で、旧来の国名・地名と比較しても異質、
だが、その異質さ故か、人々の心を揺さぶる存在となった。
「ヤマトコク」では当たり前すぎて、心に引っかからないのかもしれない。
九州に山門があるし、女性がトップだった地域が歴史に残ってたりしてる
諏訪産の黒曜石を物々交換というか貨幣的依り代にした、全国的ネットワークが7000年前から2000年前にあったと考古学的に証明された。
土器で精神世界を表現していたと推察される文化的証拠もある。
昔は邪馬台国が最古の統一国家と考えられていたから重要視されてたけど、
今は国家というより、ゆるい枠組みのネットワークが中国の伝説の夏王朝やエジプト文明と同じくらい古い時代にあったとわかったから邪馬台国の位置の日本史的重要性が減ってしまった。
この手のスレが立つたびに
歴史マニアの多さと、持論への執着心に驚く
>>826
魏志倭人伝に出てくるのを新井白石と本居宣長が調べ直しただけ
そこに女の歯が黒い黒歯国だの、
小人がいる侏儒国だの蓬莱国だの書いてあるから、
史実と考えてこなかった
江戸時代に水戸光圀が大日本史編纂するにあたって邪馬台国ってなによ?ってなった
新井白石説 日本と無関係→佐賀山門じゃないか?
本居宣長説 日本を詐称した団体
ここで朝廷の歴史たる日本書紀にすっぽり抜けていた
ところが物語に大問題が江戸時代に起こるのか?
漢の奴国の倭王印が志賀島で見つかってしまう
さてこれ日本書紀にはないが漢の時代に服属政権が存在したってことで盛り上がってんの 昔も吃音症でコミュ症の人達がいたのかもね
俺は嫌われていない?
>>821
畿内説というか、奈良大和なら畿内じゃないよ
怪外
奈良大和に比定しようと箸墓古墳を発掘した結果、
一枚の銀鏡もなく、当時の大きさにも合わず、
しかもヤマトトモモソヒメの墓として昔から知られてて
吉備津彦の母親で、吉備国の鬼退治を息子がしてんだから笑う
地元の人間の言うこと聞かずに馬鹿にして掘り返した挙句、
3世紀より前の桃の種が遠くに見つかって喜んでるんだもん 中高の同級生で山田泰司ってやつがいて
ヤマタイって呼ばれてた
>>826
本居宣長や新井白石は実は悪意持った朝鮮渡来の儒教朱子学者で
日本の歴史に出鱈目を吹聴してやるという意志を持った
中国とか朝鮮のスパイだったのかも知れないよ >>773
福岡は儺県(なのあがた)と呼ばれていて、邪馬台国レベルになると、地域を総称する地名として
残ってないとおかしい。
そうなると、大和しかない。 投馬国=宮崎県西都市妻
これは譲れん
西都原古墳群造った勢力が闇に消える
>>837
国粋的なのは見せかけだけかも知れないよ
国学者の正体は日本の思想支配を企む李氏朝鮮の儒教朱子学者だったのかも 「ヤマタイコク」っていう言葉の響きは外国っぽくてエキゾチックだからね、「ヤマトコク」では普通過ぎて引っ掛からない。
>>835
直接継いだなら歴史として残ってないのがおかしいので無いだろ >>838
朱子学はそういうものだからおかしくない >>815
文化言語的に日本人のルーツは南から来てるんだから九州が古代において栄えてるのは何もおかしくないが おかしいだろwwwww
抑、西洋人みたいなんだけどなあ、黄金ベルトとか
>>832
箸墓は立ち入り調査しかしてない
多分ホケノの発掘調査と勘違いしてる
木槨、石棺、鉄副葬品、画紋帯同向式神獣鏡が見つかった
古くは鉄の多さから4世紀と見られてた >>842
九州は漢の時代に栄えてた倭の奴国や伊都国だったかも知れないけど
邪馬台国ではないね >>839
何が外国っぽくてエキゾチック?
当時の日本にとっての外国というと中国だけなわけだが、ピンイン表記で全然違うぞ
邪馬台国はxie ma tai guo
シェマタイグオ(四声無視)
まぁ、これは戦後にシンガポールやマレーシアも含む中華圏で「普通話」として制定された北京語読みなのだが
ちなみに、大和国はdai he guo
ダイフーグオ(四声無視) 北部九州には山戸の地名がいくつかあるんでしょ
やまとぅの音に邪と動物の馬の漢字をあてたんだろう
邪馬台(やまたい)がそもそもまちがいというほうが腑に落ちる
キタイを契丹、トルコ(テュルク)を突厥みたく中国人は聞いた音を忠実に漢字に当ててるから邪馬台もヤマトと読んで良いと思う。
遺跡として何があれば「やまたいこく」と認定されるわけ?
ウィグル アルマトゥイ
イスラエルーシルクロードー(半島)日本
先住南方系との融合?
>>610
> 魏志倭人伝では、倭国から黒歯国へは船で1年
現代のアメリカかな? >>852
それならシェマタイグオ国とやらはここだと示して欲しいね 卑弥呼が都を置いた
官がちょっと多め
邪馬台国の固有の情報って実は少ないんだよな
地理情報が当てにならんとなれば難しい
>>744
日本は日の本であって日の国を自称したことはないだろ >>858
アラビア文字でハンガリー語を記録した文章あるだろ?
>>852
つか、古代の文章は🇻🇳ベトナム読みした方がいい説wwwww >>859
丸木舟の1年だから到達不能の意味だろうな 九州は金印が見つかってるから邪馬台国じゃなくて奴国で確定
魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる
これは魏志と違い連続で、伊都國又南至邪馬嘉國と書いてるから覆すことは極めて難しい。
したがって、邪馬台国は九州以外あり得ない。
>>867
奴国の位置だけでなく、
九州の小国が金印をもらっていたことが確定 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官(CIAのようなもの)と書いており、魏の時代は刺史は行政官(県知事のようなもの)だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは前漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった部分も付け加えたのである。
よって、「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。
魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる
これは魏志と違い連続で、伊都國又南至邪馬嘉國と書いてるから覆すことは極めて難しい。
したがって、邪馬台国は九州以外あり得ない。
>>872
中国の史書において数字ほどあてにならないものはない
根拠なく数字を鵜呑みにするのは危険 『旧唐書』には、倭国伝と日本伝がありますが、日本伝の書き出しは、【日本国は倭国の別種である。】
なぜ、日本国は倭国の別種と書いたのか色々考えてみましたが、分かってみれば簡単なことでした。卑弥呼は九州にいたので中国人は九州弁を聞いていた。唐代には畿内で倭人が関西弁を喋るので、倭の別種と書いたのです。
19世紀に琉球を訪れたペリー提督やヨーロッパの人々も、「琉球語は日本語の亜種である」とか、「日本人と琉球人はさほど変わらない」と書いている。
九州の一番大きなとこは
漢の倭の奴国王の金印が見つかってるから奴国で確定
邪馬台国は大和
そもそも大昔の書物は、まあいまでもだろうけど
平易に記録されたものとは思えない
ときの権力者の指示で編纂されたんだろうから
都合よく改竄されたり誤魔化されたりしてるはず
>>872
奴国が小国としか書いていないよ
邪馬台国は連合国としてはそれなりの規模はあったんだろう
熊本といい勝負程度の規模だけど >>854
山門は盆地地形を意味する一般名詞が由来
それこそ日本各地に山門はあった
ただ今となっては、寺院の山門が由来の土地との区別がつかない状況になってる
また現在の土地の漢字表記は、713年の諸国郡郷名著好字令(通称:好字令・好字二字令)によって変化した後のもの
その為、漢字表記から推測することは不可能だし、ナンセンスな事になってる >>878
魏志倭人伝の場合は、権力者の都合というより、
途中までしか魏の人が行っていないだけだと思う
最後まで行っていれば、魏の測量術で最後まで記載された 邪馬台国への距離の記述はまったく信用できないぞ、親魏大月氏王の金印とガンダーラ美術で有名なクシャーナ朝は中央アジアと北インドを支配する大国だったからな。そのクシャーナ朝に匹敵する大国に仕立て上げられた邪馬台国に実際到達されて嘘がバレたら困る訳で、その道程は永遠にたどり着けない出鱈目でなければならなかった。
>>868を参考に以下の記述を見てみよう。
『魏略』と『広志』と『魏志倭人伝』の共通点。
『広志』
・伊都国に至るのあと→また南に行くと邪馬嘉国がある→これより北はその詳細を記すことができる。
『魏略』
・伊都国に至るのあと→官僚の名前→皆女王国に属す。
『魏志倭人伝』
・伊都国に至るのあと→官僚の名前→皆女王国に属する。 >>874
中国の史書は数字を過大に盛る傾向があるので
数字が出てきたら過少に見積るくらいの姿勢でいい
107年 倭面土国が献上した生口は160人
238年 邪馬臺国が献上した生口はたったの10人
これをさらに過少に見積ったら生口2人とか3人になってしまうが
いずれにしろ邪馬臺国なんて弱小集団ということがわかる 中国漢字は、日本漢字と違い原則的に読み方は1つである!
さて、現代中国語を翻訳にかけてみよう。
◯カッコ内が中国の史書に書かれている漢字。
◯→の所は、現代中国語翻訳
・チンギスハーン(成吉思汗)→チョンギスハン
・テムジン(鉄木人)→テムジン
・イト(伊都)→イートー
・対馬(都斯麻)→トゥイスーマ
・阿蘇(阿蘇)→アースゥ
・日本国(日本国)→ジーベングゥオ※ジパングの語源
・博多(好古都)→ハクゥトゥ
・菊池彦(狗古智卑狗)→クゥクチピィーコ
・羽地(怕尼芝)→はねじ※琉球三山時代の山北王・はねじがそのまんま読みが一致❗
・サバチ(尚巴志)→シャンパージ※琉球三国を統一した中山の王
↑
以上のことから、昔の史書に書かれている中国語漢字を現代翻訳にかけても、さほど変わらないことが分かる。
>>891
他は絶縁で詳細がわからないと書かれている
ちなみに邪馬臺国連合は、狗奴国一国に対抗するのもツライ程度の勢力しか持っていなかった >>877
吉野ヶ里のほうが大きいだろ
ここがなんという国だったかはともかく 糸島から南の方で耶馬溪があるんだから大分で良かろう
国名+峡谷でホニャララ峡はポピュラーな名付け
台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのもかなり遅かったはずで、
邪馬台国を、外国との出先機関である伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は北部九州であると結論づけている。
>>895
だから邪馬台国は筑紫平野とするとサイズや位置関係が合う >>575
北九州の筑紫城の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)と
その息子の神武も、
魏の第2代皇帝「曹叡(明帝)」と司馬懿も
そう思っていたんだろうな
ところが
奈良盆地(天照大神の高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸に帰ってくるなど、古さでは対馬ルートに劣らない
しかも、宗像氏の祖先は、出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、隠岐の島の吾田片隅(アタカタス)
【狗邪韓国】が【曾尸茂梨】
【絶海の孤島の対海國】 は【磯竹(五十猛イソタケル)島(鬱陵島)】
【末廬国~伊都国~奴国】が【古代出雲(葦原中国)】
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部) 卑弥呼時代は
たかだか10国程度の連合国家なのに
まだ畿内説とか言ってんの?w
>>899
奈良を制圧した神武は
紀元前208年から220年まで
同じ血筋の人物によって維持された漢王朝
から印綬を賜り
160年間以上も代々「漢委奴国王」であった
北部九州の倭奴國(筑紫城)の皇子 だから岩手の八幡平が邪馬台国だって何度言えばわかるんだよ
>>895
少なくとも現代の人類学者の推計した当時の人口から見ると、九州全域での総人口は10万人しかいない
たった一国でその数を超えてしまうような魏志倭人伝の記述はアテにできるものじゃないね 江戸の学者ごときが邪馬台国論争を蒸し返したお陰で面倒なことに付き合わされる西日本であった
南北朝時代ですら九州の親王を日本国王に任命するぐらい分かってないんだろ
てか中国から見ると九州の比重が凄く重いのかもな
九州の支配者=日本の支配者程度だったかも
>>905
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させた >>914
だからって神武天皇の遺品を雑に扱ったらダメだろw
正倉院くらいには入れておかないと 倭国は中国語で日本人は自分の国を邪馬壹とか倭面土とか言ってたんだよ
そもそも「邪馬◯国は存在したのか?」
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
>>893
中国語の発音に着目するのは正しいけど、現代の中国語と当時の中国語の発音の違いと言う差も考える必要がある
3世紀の中国は上古語から中古語に変化している最中とされ、今の所どう読むのが正しいのかわからない
この発音や読み方を専門に研究する、音韻学と言う歴史学の一つの分野がある モンゴル帝国軍の遺骨調べれば💀
イギリス人って一発判明するんじゃ無いの?
>>689
畿内まで片道2か月の移動中、何か国あるんだって話だよ
畿内は九州制圧するのに途中の国々は無視してんのか?
しかも女王国以北は詳細を得てるがそのほかは遠くてよくわからないという記述から
奈良まで数国しかなく、奈良の先に20国あるという構図を妄想してるんですか?
お前ら常に妄想が前提となって書き込んでんじゃねーよ
記述の内容に沿って返せ。 >>917
女王国が見つかってもいいよ
現代日本人はそれを邪馬台国と呼んでいるだけだから >>884
魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の西暦260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 >>689
日本全体ではそうだったとしても
魏は知らなかったんだろ >>920
制圧したなんてどこに書いてあるんだ?共立だぞ >>920
無視してる
水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬壹国
それが行程 『広志』(『廣志』)によると、
「廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也」
伊都國のすぐ南に邪馬嘉國があり、続けて、
斯馬國→巴百支國→伊邪國→西南に海行一日で伊邪分國とある。
この西南に海行1日の伊邪分國は、隋書流求國伝の「夷邪久國」である。
『隋書流求國伝』の記載↓
中国の官僚が小野妹子に聞いた。「流求に行って、この布甲を持ち帰ってきたんだが、どこの物か知ってる?」
すると、小野妹子は答えた。「それは、夷邪久國の人が使うものです」
夷邪久國は、屋久島である。
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させ、返す刀で
対馬航路を完全掌握して用がなくなった出雲の一族も討伐しち舞う
で、第33代推古天皇が
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
煬帝の勅使「裴世清」が同行して帰国
608年
煬帝の勅使「裴世清」が同行して
奈良の飛鳥京から再び小野妹子が遣隋使として派遣
>>922
帯方郡から約12,000里って言い切っちゃっている
盛りたいなら、ここから盛るし、途中に適当な国を捏造して並べれば信ぴょう性も増す >>931
東南の大海の中迄の距離が12,000里 >>915
金印持って対馬ルートで半島に逃げようとしたんだろね
で戦いの混乱で金印は行方不明になった
ちなみに
奈良の第12代景行天皇が
息子のヤマトタケルに討伐させた
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家は
神武東征のときに北九州に戻って
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の跡を継ぎ「漢委奴国王」になった
神武の兄の三毛入野命の子孫
まあ奈良の天皇家にとっちゃ、滅亡させなきゃならん黒歴史なわけだ 道程問題は300年研究されてても解決されて無いのに
いまだに道程を語ってるヤツってアホだと思う
>>932
水行20日で朝鮮半島南端の投馬国、水行10日で日本上陸、陸行1月で邪馬壹国 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壹(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
伊都國はどの資料でも伊都國である。
仮に、卑弥呼がいた国が「ヤマト」という国名であったならば、「邪」(シェイ)を「ヤ」と発音するにしても、「邪馬都」と書けばヤマトと読めるのに、そうしなかった。
すなわち、ヤマタイとかヤマトなるものはただのこじつけに過ぎない。
>>926
出発点が九州だとその後の記述と整合性がとれないからお前らの負けって話をずっとしてるんだが? >>933
伊都国までで10,500里を使い果たしている まだ話してんのか…
興味深い話題ではあるけど、新しい遺跡でも出てこないと話すことないだろ
>>872
その大国の連合国それぞれについて全く記述がない
九州の国々はそれぞれについて記述してるのに >>941
その行程不弥国でお終いだからなんも関係ない >>946
東南の大海の中迄が12,000里だって (ある程度精巧な)地図を各国が持っている、それはごまかせない
という感覚で捉えるからおかしくなるって話なのでは?
自分が邪馬台国の人なら、国境からまともな道程で首都まで案内しようとは考えない
何故ならその道は容易に進軍路に化けるし、国力の露呈でもある
なんつーか東京駅から新宿駅まで案内するとして中央線ではなく、京葉線で千葉まで行って
東西線に乗り換えてとかして欺瞞に欺瞞を重ねる感じ
>>877
いや他にも見つかってないところがあった可能性は否定できないだろ
むしろ九州は全ての国に倭の○×国の王だという金印が渡されていた可能性が高い 日本は「倭(わ)=小さい」と呼ばれてたから
「大和=大きい和(わ)」と当て字をして表記を変えた
読み方は邪馬台(ヤマテ)をあてて「ヤマト」にした
中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官(CIA、KGB)と書いているが、
刺史が監察官だったのは前漢の時代までで、魏または三国時代の「刺史」は行政官(県知事)だったのであるから、この部分は前漢、つまり200年〜400年前に書かれた倭国に関する竹簡であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった部分も付け加えたのである。
よって、「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。
昔の発音が違うとかいうのを聞いてヤマタイ→ハカタイ→ハカタって思った
そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。
>>956
その通りだろうけど距離から日数に変わってるのは付け足してて
投馬国→邪馬台国はまとめてあったんでしょう >>956
やまとぅー国騒動は中国人の杜撰さと
日本人の律儀さが相見えて訳のわからんものになってる 海幸彦は隼人の始祖
山幸彦はヤマトの始祖
隼人の兄弟が奈良なんて所に居たとは思えない
かつては日向の地がヤマトで、そこから奈良へ引っ越した
>>880
田油津媛の山門郡は盆地じゃないよね?
和名類聚抄の訓注は「夜万止」
大神、山門、草壁、鷹尾、大江の五郷を併記だから
場所の比定は間違ってないと思うが
盆地というより山の際の地形 >>884
塞曹掾史の張政は邪馬台国と狗奴国と和睦のために来たのに
邪馬台国に来てないの? ヤマトを大和、倭、日本と色々な漢字に当てはめようとしてるのみると、元々あったところから無理矢理言い換えようとしてる気がするんだけどね。
九州説はそろそろカルト宗教の工作員という事がバレ始めてるぞ