古墳文化の象徴的な存在が前方後円墳。国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)は世界文化遺産となり、海外でも「KOFUN」として知られる。前方後円墳はいつ、どこで生まれたのか。
「纒向(まきむく)=奈良県桜井市=以外に考えられない」というのが、寺沢薫・纒向学研究センター所長。纒向遺跡は奈良盆地東南部に位置し、邪馬台国(やまたいこく)の有力候補地。女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、同約280メートル)をはじめ、3世紀の最古級の前方後円墳が集中する。
なかでも箸墓古墳は、国内最初の巨大前方後円墳とされながら、なぜ突然出現したのかが謎だった。奈良では2世紀まで、5〜10メートル規模の方形周溝墓しかほぼなかったからだ。
寺沢さんが着目したのが、纒向遺跡にある墳丘長100メートル近い前方後円墳。纒向石塚古墳(同99メートル)、ホケノ山古墳(同80メートル)などは発掘調査で、箸墓古墳より古い3世紀前半の可能性が高まった。
2022/1/20 07:00
https://www.sankei.com/article/20220120-DNUINY4TPBJFNIHXRPRGUVSOQA/
★1:2022/01/24(月) 06:59:16.39
http://2chb.net/r/newsplus/1643212621/ 昔から思ってたんだが、前方後円墳って方の部分に石棺あって円の所に人が集まって拝んでたとか言うじゃん。
じゃあ円墳ってなんなの?
。ジャップで米兵がジャップ女をレイプしても、
ジャップの警察は手を出せない
事実上やりたいほうだい
実際、沖縄はハーフまみれ
これに沈黙するネトウヨ
こんなジャップのどこが大国なわけw
米兵が自由にジャップ女をレイプできないと
東アジアの共産化を防げないとでもいうのか?
死ねクズども。
ジャップの支配層はいまだに日帝主義者だから、
「ジャップは最初から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし『魏史』倭人伝の邪馬台国の記述は、
明らかにそれに都合が悪い。
どうみても九州のほうにいたと思われる
卑弥呼が「倭女王」だとはっきり書かれてる。
そこで、ジャップの支配層は「邪馬台国は近畿にあった」
という無理な主張をして、自分たちの妄想を守ろうと悪あがきをする。
「とっくの昔から近畿説が学会の総意」というような嘘を書き連ねる。
邪馬台国ネタは、
ジャップの支配層、天皇を頂点とする上流国民が、
いかに幼稚で愚かか、ということを暴露してくれる話題。
だからネットでもどこでも 繰り返し蒸し返される。
ネトウヨは性懲りもなくバカをさらしに集まってくる。
とりあえず独自研究の九州説はスレ違いだから来ないでね
なぜ四角の方が前で、円の方が後ろと分かるの?
円が前で、四角が後ろもあり得るんじゃないの?
1 卑弥呼の墓は奴婢100人とともに殉葬
こんな墓は日本列島には一基たりともない
2 邪馬台国では鉄器使用(製鉄技術もあった)
砂鉄を用いたたたら製鉄ができるのは6世紀以降
3 撰者陳寿は洛陽以北へは一歩出てない(伝聞)
呉を牽制するための作り話がほとんど
いい加減にしろ池沼ども
邪馬台国の風習
・冬でも生野菜を食べる
・全身刺青
これで奈良はちょっと無理ないか?
「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読むヤツはいろいろと馬鹿。
まず原資料の表記は、邪馬「台」国じゃなくて 邪馬「壹」国。「一」の難しい漢字。
で、これは中国の史書に出てきた用語。当時の中国語で読むのが当然。
だから例の国の名前が「ヤマタイコク」である可能性はほぼゼロ。ゼロ。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
いずれにせよ「ひみこ」なんて読み方はありえない。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方みたいにしてんじゃねーぞ、糞ジャップ
中国で三国志の英雄達が覇を競っていた頃に日本では原始宗教で土人を治めていた
刷り込みって凄いな
未だに邪馬壹國が日本列島にあったと信じ込んでる馬鹿ばっかりだから
3世紀の鉄器を収めてなおかつ殉葬してる墓なんて日本列島にないぞ
鉄器使用(製鉄技術を擁していた)
卑弥呼の墓は殉葬
日本列島にはそんな遺構はない
邪馬台国じゃなくて邪馬壹國
壹は冊封体制の表現の壹で、本当の女王の都は邪馬國
つまり八女市のあの伝説がそのまま卑弥呼なのだよ。
海外じゃいろいろ残ってるのになんも残ってないよな日本って
>>13
ウイグルにも🇬🇷ギリシャ人に似ている人達いるよな 最近では前方後円墳は水利施設って話もあるな
そっちの方がしっくりくるような
>>28
同時代だから想像が膨らんで面白いよね
ファミコンの天地を食らうだと孔明たちが邪馬台国にきて大蛇倒してたなw 神奈川の昔話背中の赤い蟹は興味深い
神奈川には白サギから守ってくれる鐘を大切にする蟹たちが住んでいた
ある日火が起こり、鐘を守ろうと蟹たちは必死で戦ったが多くの蟹は亡くなり、生き残った蟹の背中は赤くなっていた
神奈川も弥生時代末期まで銅鐸の文化であり銅鐸も複数見つかっている
銅鐸の集落は弥生時代末期に営みが突然終わる
ちょうど同じ時期東海の土器が主体の集落が作られるが営まれたのは短期間だったようだ
背中の赤い蟹と同じことが弥生時代末期に神奈川で起きたのでは?
1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭国王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国が対立
4世紀 仲哀天皇が九州遠征で熊襲の矢に当たり亡くなる、神功皇后の三韓征伐
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜南東北を平定 雄略天皇「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
9世紀 最後の朝貢を持って隼人の名が消える、北海道と南西諸島を除く日本統一
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) 神奈川と同じことが弥生時代末期の近畿地方で起きている
巨大銅鐸の見つかった滋賀の伊勢遺跡も2世紀末には終わる
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落は弥生時代末期に営みが終焉し貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落で6cm大の巨大勾玉が出土している
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている
奈良の唐古・鍵遺跡、褐鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた
弥生時代末期に勾玉は消えるが仁徳天皇の時代に考古学的に再び勾玉ブームが起きる
どういう意味があるのか?
>>33
帯方太守王頎は毌丘倹の部下だからね
もう続三国志だよ >>35
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
倭国王師升は垂仁天皇のことな
倭国大乱と言うか倭国が乱れたのはその先代の崇神天皇の時から
疫病が蔓延して多くの日本人が死んだ
そのために諸国で造反が相次いだ >>40
大陸訓読みあったんじゃないの?
会話成り立たない 奴国が突如実権を失い、王子たちが何で東を目指したのかが日本国成立の重要なキーであって
その後の空白を一時的にまとめただけのローカル連合は地元史の範疇でしょ
なんでその地方史に纏向を持ち出して必死に近畿が背乗りしようとするのか理解できない
磐井は今の福岡県粕屋郡から菊池川の上流まで支配してた。
太宰府が置かれたのは磐井が滅んだあと。
大和王権は継体天皇末期までは九州を制圧できてなかったのでは
三国時代って実は日本にものすごく大きな影響を及ぼしてるな
同時代なのもそうだし、中国が分裂して隋の統一まで内戦してたから日本には脅威がなく300年間で国をまとめることができた
これで晋が安定してたらまた違った世界になってただろうな
新の王莽の圧政で人の大移動が起こったんだろうね
フン族のおかげでゲルマン民族が移動したように
>>45
東方見聞録のジパングみたいなレベルだよな 人は記憶型と思考型に大別できる
現在の日本、国を表すのに「わ」「やまと」「にほん」
三つも使ってる
これは「にほん」が「やまと」を取り込み、「わ」の全域を支配化に治めた結果
問題は畿内の「にほん」が何時から「やまと」を使い出したかだ
日本が外圧を気にせずに国づくりができる余裕を与えてくれたと考えると、孫権と劉備は日本の恩人かもしれないな
赤壁で曹操が天下統一してたら晋よりも更に積極的な国になりそうだし
下手すると曹操の侵略をうけたかもしれないな
>>1
魏志倭人伝を書いたのは陳寿という中国人だろ
中国人が倭といえばどの地域か中国人視点で考える必要があると思うんだよね
中国人視点では倭といえば九州、つまり倭国大乱も倭国30ヵ国が共立した邪馬台国の卑弥呼も九州と考えるのが妥当なんだ
i.imgur.com/ly93RKH.jpg 歴代倭国の覇者は
1世紀 漢委奴国
2世紀 倭面土国←元祖ヤマト
3世紀 邪馬台国←西ヤマト、畿内には東ヤマト
つまり倭面土国が東西に分裂したんだろう
九州で統治者不在の空白地が生まれて後継者争いが勃発
卑弥呼が共立されて西ヤマトは邪馬台国に
その頃分裂した一族の片割れは奈良にたどり着きハツクニシラススメラミコトが東ヤマトを建国したわけだ
近畿地方は芦原中津国のモデルでしょう
ヤマト政権の前にあった国
なにわの枕詞は芦が散る
国津神の元に留まったアメノホヒの後裔の土師氏の拠点も畿内だしね
>>47
歴史は繋がってるからね
玉突き現象がよく起こる
日本は東の果ての島国で中国が分裂したことや朝鮮半島があったことがちょうどいい緩衝材になってるから直接的な影響を免れた感がある
隋唐の積極的外征の姿勢が出てくると日本が初めてその脅威に向き合う事になってる >>54
んじゃ「ひのもと」かい
当時はどうだったかな??? 20年前に畿内説は破綻して邪馬台国は存在しない説に昇華したよ
>>54
大和という漢字は、知らなければ「やまと」とは読めないよな
本来の漢字に読みとは全然違う読み方で「やまと」と読ませている
つまり機内の大和は本来の「やまと」という地オリジナルのやまとの
コピーした地域と推測される >>56
そうだね。
外圧から律令国家になり倭から日本になったんだろうね
日本書紀はほぼ中国向けのパンフレット笑 晋の時代になると邪馬台国からの朝貢は少ししか書かれておらず
東夷各国がやたら朝貢してきたことが書かれている
卑弥呼の没後すぐに殺しあいを始めた女王国連合の各国は自分勝手に倭国王を名乗って晋に朝貢し始めたのではなかろうか?
そうなるとトヨがどれだけ頼み込んでも大倭国王(だいわこくおう)とは認めて貰えず
金印貰えなかったのかもね
纒向遺跡は記紀に書いてある通り崇神、垂仁天皇の都でいいと思う
出土する土器も支配地域と一致するわけだし
邪馬台国はまた別の場所の話
「やまとこく」の「ひめみこ」じゃないの?
野蛮な国だと見做してあの漢字になっただけで
晋が持っていた東夷の情報はほぼ張華が集めていた
張華が殺されてからはもう全然ダメ
陳寿も幽州太守だった張華からいろいろ教えてもらったはず
>>50 の続き
畿内政権の「やまと」という名称の思いいれは強い
それだけブランド価値があったんだろうね
「やまと」は正式名称じゃねーのに未だによく使われてるもんな〜 >>65
オリジナルは、九州なんだよな
なぜか九州の地名がそのまんま畿内の地名になっている
おそらく九州にあった王権が畿内に引っ越した
そんな感じがする >>66
「九州」と「近畿」の地名類似についても有名です。
単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、
春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田
→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米
→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田
→山田市→田原と続く地名連鎖が存在します。
>>67
「畿内」でも全く同様に「笠置(笠置山)」→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田
→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)
→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。
そして、現在は存在しない邪馬台国(ヤマト)と近畿の大和があります。 >>56
いや弥生時代も古墳時代も渡来人の影響モロに受けてるだろ >>1
神門5号墳の存在理由を説明出来ない仮説は全て間違ってる 河内と大和はセット
古代は水系に沿って地域が形成される傾向があったんだな
大和盆地の大部分と河内の大部分は大和川水系
生駒金剛山系を中心に鏡のように奈良と大阪は同じ地名があるのだ
大和川と河内湖の内側にある土地でカワチ
生駒金剛山系の向こう側、外側にある土地でヤマト
チは内の意、トは外の意
音で漢字を当てるからヤマトは山外という漢字表記にはならないが
大国主とスクナヒコナが国作りに際して色々名付けた=言葉を共通化した時の地名だとしたらワクワクするよね
これはどう見ても子宮だよな
死者の再生を願っている
カワチは古いだろうね
とても古い物にはチがつくみたいだ
手名椎、足名椎、オロチ、オオナムチ
こういうスレにわざわざ来るのだから去年の正月にやっていた邪馬台国サミットという番組を観た人は多いはず
その番組で中国鏡の分布の推移を紹介していた
この分布図を見てもまだ九州だと言い張る人は、中立公平に物事を判断する意思がない偏屈人間と断言してもいいだろう
日本は2つの勢力が日本の歴史を隠したがる。まずは、GHQの忠実な憲兵隊である反日左翼。そして男系男子y遺伝子真理教のカルトウヨクのバカ。
日本は神功大女王を母とする女系の国である。
>>74
というか邪馬台国スレは君も含めていつものメンバーが会話を成立させずに自分の珍説を叫びつづけるだけのスレだから
もういつものメンバーが集結してるみたいだw 九州には女酋長が多いんだよなあ
女酋長の元となるオナリ神信仰はもともと古代九州で栄えていたんだろう
>>22
その邪馬壹國ネタなかなか流行らないね
後漢書や隋書には邪馬臺国とあって
邪馬壹國は12世紀に魏志倭人伝が復刻された時に生じた誤記というのがわかってる >>50
大いに間違ってる。
はじめに中国に倭(ワ)と名付けられた。
その国が邪馬台(ヤマタイ転じてヤマト)だから倭にも倭(ヤマト)と言う訓読みを当てた。
倭(ワ(ヤマト))は中国が付けた蔑称だから同音異句の和(ワ(ヤマト))に置き換えた。
大はただの置字で大倭から大和になった。
日本は倭国より東(北日本から東日本)にあった国。
日本は倭国により併合されたが東アジア外交をするのに日出ずる国をアピールするのが好都合なために倭国は日本から国号を盗った。
これにより日本まで日本(ヤマト)と当てられた。
その後中国式音読みを採用しニホンないしニッポンと呼称するようになった。
ワ、ヤマト、日本がそれぞれ使われてるのはネームロンダリングの痕跡。 母系か
昨年発表された母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
大阪と京都は東北グループと奈良グループの交わる辺りに位置しやや東北グループ寄り
東北と言えば縄文時代の三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は遼河文明の影響が強い遺跡で、遼河文明の特徴は龍トーテムとヒスイなどの玉製品
大阪は東北に地理的に近い北関東や東北からの移住が多い東京よりはるかに東北に近いという衝撃の結果だった
まだやるの〜?
よくそんなに話があるな
卑弥呼は日巫女で太陽女神の巫女だよ
終わり。
>>74
邪馬台国はトヨの時代にはもう晋から相手にされなくなった(金印貰えなかった)国ですよ >>81
あんたも邪馬台国は九州だあああ
って叫んでいきなさいよ!w 書いてる内容を見てみるとだいたい邪馬台国スレは「常駐」してるのが6人くらいいるなw
どんなタイミングにスレ立っても必ず出てくる人とかもいるし
まとめて列挙してみたら面白そうだな
>>65 >>66
九州説の学者は、考古学的証拠と「常識」(注)だけですでに十分と考えているから、
あまりこのことは言わないが、
これだけの数の名前が方角と順序を含めて一致するということは、確率的に見て
大変なことだぞ
(注) 北九州の地名はやたら詳しく出てくるのに、瀬戸内海以東の記述はゼロ!
旅行者にとって最も大事な「方角を間違え」とか・・・
人間の集団が移動したり、植民した時には、新しい土地に元の土地の名前を付ける
米国の地名の半分はそうだ あとは原住民の呼び名 新しい命名はあまりない
九州の邪馬台国が東遷したことは、99.9%間違いない
畿内説は、内心反対でもミスギヨスギの学者と糖質系の素人 頑固そうな方々ばかり。歴史は浪漫。想像と妄想だから。
倭国大乱の時期はミニ氷河期
縄文時代より人口が多い上に、暖かい縄文時代と違い食べ物が不足していた可能性が高い
その頃日本海側から朝鮮半島に行った人々もいたようだが日本以上に食べ物は無かっただろうね
何もないから戻ってきたスサノオの話は実話かもしれん
九州南部の投馬国が九州北部よりはるかに人口が多いのも気温と関係があるかもねえ
奈良や大阪には弥生時代最大級の水田跡がごろごろある
当時は屈指の水田地帯で大阪湾や河内湖の恵みもあり食べ物が他より豊富だったと思われる
食国
笠朝臣金村が難波宮で読んだ歌で、なにわは芦垣、食国と歌われている
日本書紀に夜の食国を治めたのは月夜見とある
>>79
倭って字は、にんべんに委ねるで、全然悪い意味は含まれてないんだよな >>80
主成分分析の散布図上での距離関係は系統関係を表さないって授業で習わなかったか? >>56
ミャンマーは防衛上の理由で首都を海の近くから内陸部の盆地に移転したけど
もしかしたらヤマトもそういう防衛の理屈で移したかも
北九州じゃ大陸に近すぎる、もっと東の盆地が安全ってことになったんじゃないかな いつまでやるつもりだ、魏志倭人条とは、
まず、卑弥呼は、鬼道。7歳で父張魯から教わり、217年曹操、父張魯の死をキッカケに五斗米道を極める為に本土を離れ列島にやってきて22年、女王にまでなり、曹魏に朝貢し、皇帝曹叡から我甚哀汝と称えられ、曹魏を忘れぬ忠孝に親魏を与えらた。邪馬薹は卑弥呼の道観の薹。女王の都とする邸、その足元で弟が統治を左(たす)ける、狗奴国王卑弥弓呼が河内。曹魏と巫女の話なんだよ。列島最初の大王、女王卑弥呼の比定者は、歴史上ただ1人、五斗米道張魯の娘、張h瑛。寝るぞ!
>>14
「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平
が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われ
た。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、
前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形
部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代
にそのような車は存在しなかったと考えられてい
る。
昔は飛行機がないから横から見たイメージで考え
た呼び名。 >>90
旧唐書に、日本人が「倭国」の名前を嫌がって「日本」に国号を変えたって書いてあるから、あんまり良い字とは思われてなかったんだろう
中国がつけた蔑称だったのかどうかは分からないけど 長江を下る船すらまともなもんが作れなかった魏が、直接海の向こうの話を見てくるなんてできるわけねえよな
いいとこ、呉から出航して台湾とその周辺地域を探索するくらいが関の山
与那国島海底にも遺跡っぽいのがあるから、ここが基点というのならわからなくもないな
海の向こうってのはこの辺のことを指しているんじゃね?
与那国に那国とがっつり入っているし任那がここの出向地だったとしても頷ける話になるだろ
倭人もこの辺の海賊という話だしな
ま、畿内ってこたぁ十中八九ねぇよ
海流の関係で東に向かっているのが多少北上しちまうってのはあっただろうけどな
黄巾の乱の発生地域が山東半島から遼東半島にかけてで、
倭にけっこう近いのもいろいろ影響があったかなあ。
まあ、倭が一番影響を受けたのは公孫氏の動向だろうけど。
旧来、日本が交易可能だった中国は魏呉蜀の内の呉だけ
それが魏が帯方を手中に収めたことによって魏とも交易可能になった
そのことを失念してるとトンデモ説を主張することになるw
九州説の人はおいといて
畿内説前提で話を進めると前方後円墳が吉備の祭祀で作られていることに
注目すべきだと思う
吉備が支配していないと突如墓が変わるというのは考えにくい
>>103
正直、寺澤氏の吉備の評価は過大だと思う
楯築遺跡もあれ山の形を利用した墳墓で前方後円墳の原型じゃないと思う
そもそも形違うし、比率だって纏向型と違う
巨石の配列もしてないしね
吉備は土器や弧文板や埴輪とか纏向に影響が大きいのは確かだけどそこまで意味があると思えない
だいたい古墳の大きさだって纏向や古墳時代初期に大したものがない
瀬戸内海の連合のひとつに過ぎないくらいの扱いだと思う >>90 >>97
委はなよなよ、柔らか
矮で低い劣る短い
人偏になって「コビト」のことだよ
いいわけないだろー 吉備でいうと神武天皇の東征は吉備国からの描写がリアルでそれまでは付け足しのように読める
なぜか3年間もそこに止まってるしね
孝霊天皇やモモソ姫の伝承も兵庫から瀬戸内がほとんどであるし
モモソ吉備津彦は吉備出身ではないかと疑っている
出雲を手中に収めた異国人が、青谷上寺地要塞を打ち破って近江に侵入
一方で、出雲から吉備にも侵攻して鬼と呼ばれた
そう考えるのが自然
神話をあんまり当てはめるのは危険だけど吉備は神話も手薄だしね
最初は景行天皇の后妃とか出てくるくらいだし
そもそも彦五十狭芹彦命に征服される地
どうも纏向段階でそんなに凄いようには思えない
俺は逆でさ
卑弥呼が倭人伝に記載されていると知りながら記紀で正確な記述がないのは
後に滅ぼされた国だからだろうと思ってるよ
伝承が今も沢山残っている孝霊天皇が記載ゼロの理由って他に考えにくい
特に漢末期の霊帝の贈り名も酷い扱いだし
その娘のモモソの扱いも酷い
>>109
日本の古語でも「ヒキヒト(ひくきひと)」でコビト(低身長)を指す 卑弥呼って、張角一味の残党だろ
太平道が日本では鬼道と呼ばれた
>>85
ぜひ常駐者を列挙してください
特徴と信頼度も含めて 高天原から日向高千穂(当時の鹿児島宮崎)に降臨したニニギ(天孫族)とコノハナサクヤヒメ(阿多隼人族)との間にホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)が産まれ
ホオリと豊玉姫(海神族=安曇族)の間にウガヤフキアエズが産まれ
ウガヤフキアエズとタマヨリヒメ(海神族=安曇族)の間にイワレビコ(神武天皇)が産まれ
イワレビコは日向でアヒラツヒメ(阿多隼人族)を妃とし、間に産まれたタギシミミと共に東征を開始
道中でヒメタタライスズヒメ(出雲族)を正妃とし、大和橿原宮で即位した。
そう、邪馬台国と卑弥呼のストーリーが魅力的過ぎて
後の時代から見るとそんな存在が古代日本にあったなら今の皇室と関係があるんだろうと先に結論ありきで考えるからおかしなことになる
国粋主義者の本居宣長なんかは皇室が中国に朝貢してたなんてあり得ないと
魏志倭人伝に出てくる卑弥呼は卑弥呼を騙った偽物だとか荒唐無稽なことを言い始める始末
>>28
難升米が命がけで中国まで行って金印とか鏡とかたくさんもらって帰国したんだからすごい優秀だよな
もちろん運が良かったのもあるだろうけど体張ってるし
今も国内で発掘される邪馬台国に関する考古学系の物証は全てと言ってもいいぐらい難升米が残してくれたようなものなんだよな
なのに日本書紀とかではまったく無視されてるからひどい >>120
倭国大乱下で呉と結びついてた勢力が優勢だったところで、もう一方の勢力が決死の覚悟で魏と同盟を結ぼうとしてして、それが成功したことで歴史が変わったんだろうな >>103
前方後円墳のベースは吉備の楯築遺跡ではなく、東瀬戸内の円形周溝墓というのが主流の説じゃないかな
ようやく奈良盆地でも見つかって、円形周溝墓から発展説の弱点が埋められたと思う 奴国は那の津で博多湾一帯だと思う。卑弥呼の邪馬台国は宇佐だから、宇佐を軸足に穏やかな瀬戸内海を行き来して畿内まで平定した証が纏向だな。
>>113
吉備の伝承と実際の考古学的な発見はむしろ整合性があると思う
吉備で大型の古墳が出てくるのは、それこそ吉備津彦命のものとされる中山茶臼山古墳だけどこれは定型化後
なので纏向段階ではやはり大した物がない
埴輪にしても宮山型は、肝心の吉備ではひとつだけで纏向に多いのでむしろ纏向が先行してる可能性もある
孝霊天皇でいうなら磯城県主の子が吉備津彦命やヤマトトヒモモソヒメなので、大和→吉備という考古学的実態に合致すると思う