ここをみれば、近畿でないことが明快です。 VIDEO
国土の大きさの指標としての表現なら 基準となる魏に比べての表現で申告し 記録されるときに適当にいじられてる可能性の方が大きいw
>>218 大和って奈良盆地の事やろ?
人口で言えば大阪平野の次が筑紫平野
の方が規模が大きいわw
>>223 実際、大阪の方が古くデカい遺跡が発見されてる
考古学会は大々的な発表はせず黙ってる
確信犯だよ
>>213 >棺有り槨無しは庶民の墓についての記述
庶民の墓についての記述って何処に書いてあるの?
書いても無いことを創らないようにね。
>>103 >確かに当時ここに権力がある国はあったんだろうけど そんな立派なものは無い。 そんな権力を持てるような環境にない。 @阿波 結局、邪馬台国という名を商売に使いたくて仕方ないんだよなあ 金金金
>>225 棺有り槨無しは庶民の生活の紹介の中にある
十日間肉を食べないとか、歌って踊って酒を飲むとかな
卑弥呼の死から始まる段落には、墓の構造については書いてない
段落が全く違う
庶民の墓は甕棺墓だったりで、たしかに記述で合っている
支配階級が同様の埋葬方法だったかどうかはわからん
勝手につなげて、勝手に断定するのは違うわ
>>198 いや、前方後円墳なんて区分け自体比較的最近の物。実際江戸時代の絵図では箸墓も円墳で描かれたりしている。
違うよアポロンウィンドウだ ロックをすればマグネットパワーを封印できる
>>188 欠字を補ったり、漢音と呉音を混ぜてワカタケルと無理矢理読んでるけど
ワカタケルが雄略天皇だとの証拠は無い
文章の内容からは地方豪族の若さまの意味ではないかと考えられる。
>>127 >「日本」の成立は、どの地域から始まりその覇権はどのように展開拡大して >いったかを研究、解き明かす方が普通に重要と思うんだが。 それがまさに、「阿波」。 @阿波 >>232 創世記のバベルの塔の下りでもあるだろ
言語を乱して、意思の疎通を阻害する事で撹乱させる
唐タブガチって何者?
>>233 大王と書いてるのに豪族の若様とかないわー
磯城宮も書いてあるんで、どうあがいても無理
そもそも、漢ですら、 もっと中央アジアの人達じゃないの? 金属メッキの文化残ってない。 電池無いと作れない
>>198 >卑弥呼の墓は、前方後円墳出現以前の円墳とみるのが自然じゃなかろうか 至極当然。 @阿波 >>244 両方じゃない?トヨタのマークみたいに。
>>238 ナイナイ、モモソヒメが又の名を日女命と文献が残っている以上は卑弥呼と比定せざるを得ない。
まあ卑弥呼とは役職名だろうが、箸墓の規模や場所的にも間違いなく卑弥呼。
だれか前に書いてたけど円墳が墓で、方墳は祭壇かも知れない。
卑弥呼(いやしく行き渡る声) 邪馬台国(邪な馬の馬の如き形の台島の国) 魏にとっては異国の邪教の巫女ってとこか
倭国も小さい国って、中国では最大の侮蔑だよな。大和とかきたくなかった中国の意図の現れだな。
魏の役人が意図的に嘘を書いたとは思わない ただ見た人聞いた人に依って違って来るだろうしそれを陳寿が理解出来ない
まあ今でも小日本とか日本鬼子とか やってる事は変わんねえな
魏志倭人伝で邪馬台国は1回しか出てこない 他は全て女王国だから陳寿は邪馬台国がなんなのかよくわからなかったんじゃないか
前方後円墳は筑紫、吉備、出雲の墓制を統合して纒向で誕生したといえば印象も変わるよな 巨大墳墓が権力を誇示し見る者を威圧するためだとすればこれもまた印象が変わる 大和の民は威圧された側やん 墓制を統合し大和の民を威圧した者の本拠の方こそ重要かもね
>>252 中国人にとっては中華こそが世界の中心
その外の蛮族は蔑むのが当たり前って感覚
倭人という言葉自体は紀元前11世紀頃には使われていた(初出は論衡)
周の成王に倭人が薬草を献上しに来たとある
ただしこの倭人が日本列島から人間なのかは定かではない
「ヤマトに服属」定説に一石か 福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状 今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。 「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」
https://www.uyemura.co.jp/contents/story/chapter02/#: ~:text=%E3%80%8C%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AF%E5%8F%A4%E3%81%8F,%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
めっき
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、 大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。 なんでかな〜 @阿波
>>204 畿内説はなんで方向も距離もデタラメだと言う癖に
戸数と径は正確だと思うの?
つまりあれか 箸墓古墳を卑弥呼の墓だと主張することが無理になってきたから今度は纏向だと言い始めたわけか 畿内説のいつものパターンだよなwww
>>262 お前は全国遺跡発掘総覧の検索の使い方を学べ
条件検索で、奈良県、弥生時代、集落で検索すればいい
たぶんお前は知っていながらミスリードしてるんだろうけどさぁ
>>12 貴族でも字という概念すら知らないのがほとんどだったからな
>>252 大和と言う当て字はもっとずっと後に登場してる
>>267 だからあの人は可哀想な人なんだから相手にしちゃだめ
モモソヒメの父親が孝霊天皇だが、その名前も大陸側の桓帝と霊帝から取っている可能性は高いだろう。 ちょうどこの時代は倭国大乱の時代に当てはまる。 日本の記紀では孝霊天皇の記述が記紀には殆んど記されてない。 だが西日本各地には孝霊天皇やその皇子皇女に関する伝承は神社に数多く残っているからな。 そもそも江戸時代まで浮世絵で富士山といえば孝霊天皇とセットで描かれている。 皇子の吉備津彦は鬼退治のモデルだし。 箸墓のモモソヒメもその一人で、本来の活躍舞台は讃岐近辺で瀬戸内海での話。だが記紀には若い頃の逸話が何故かスルーされている、極めて不自然な状態なんだよな。
大陸が島国に対して「大」の字は使いたくなかっただろうなあ
ブラタモリでは邪馬台国はどこにあった事になってるんだ?
邪馬台国なんて不吉な字当事者がつけるはずない 当て字よ それはどういうことか
>>264 俺は畿内説ではないぜ?
>>178 に、はじめっから宣言してるわけだが。。。
>>271 崇神の時代には逆に四道将軍で吉備に攻め込んでるのが興味深い
畿内ヤマトが九州を支配下に置くのはもっと後の時代だろうな
>>274 そもそも魏なんてのも良くない文字使うだろ。
〖魏〗 ギ 1. 高く大きい。「巍」に同じ。 「魏魏・魏然」 言う程良くないか?
>>207 短里で考えると一歩は77cmになるらしいんよね
つまり径百歩で約77m
畿内派は短里を否定したいだろうが短里で計算しないと帯方郡から海を渡り始めるまでの計算が合わないので
魏志倭人伝は短里で距離を書いてあると考えるのが無難
>>275 なるほど失礼しました
纒向は九州との関係が極端に薄いのもポイントだよね
>>276 記紀でも内容が違うからな、孝霊天皇が吉備に行く記述がある。
また中国、出雲地方では孝霊天皇が賊を退治したり隠岐では月支国の船団と遭遇した話も残されている。
また出雲には弥生時代後期、九州吉野ケ里遺跡より広大な妻木晩田遺跡があるが、この名前の由来は孝霊天皇の嫁とり話からの名前だからな。
また九州では唯一阿蘇神社に関しては創建に孝霊天皇の名前が見える。
孝霊天皇の記紀のスルーの仕方が半端ないw
邪馬台国は後の大和政権だと思い込んでるから間違いを犯すんだよな
>>281 短歩を編み出すなら、ちゃんと倍率くらい揃えたら?
一里=434mを70mと解釈するのが短里・・・約1/6
一歩=144cmを77cmと解釈するなら・・・約1/2
倍率をそろえるなら1短歩=26cm
そもそも短歩の根拠となる基準点は存在しない
福岡の3世紀末の遺跡にある墓は方形周濠墓であり、畿内との共通点は無かった事が判明している。 しかし同じ福岡には3世紀初頭の前方後円墳もある。 つまり政権と宗派は関係ないという事であり、墓の共通性を政権と見なしている考古学者はかなりのアホ そもそも考古学を専攻するのは低偏差値な連中だからな
>>284 イコールではないけど無関係とも思えんのよな
邪馬台国、というか九州で築かれた文化がどう大和政権に繋がっていくのかは気になるところ
つか、支那より🇯🇵日本列島へ先にたどり着いてる? 西から
>>288 畿内勢力が邪馬台国を滅ぼしたんだろうな
出雲を滅ぼしたのと同じように
で、出雲の国譲りと同じような形で、東遷説をでっち上げた
どちらも、相手が祟らないためというのが理由
>>107 箸墓はいわる「定型化」された古墳の最初
全国の古墳が箸墓の形状にならってその縮小型として作られる秩序が成立してると考えられる
その前の古墳はその規格が定まってない
べつに箸墓が前方後円墳の元祖などと言う話ではない
ゆえに箸墓の出現が大和を中心とする全国的なある程度の秩序の成立を意味すると考えらえれる
卑弥呼がどうのを抜きにしても日本史において大きな画期とされてる
>>286 弥生時代中期以降、方形周溝墓は畿内から東海に多い様式なんだが?
>>273 ブラタモリでは言及ないけど
纒向関連放送するときに邪馬台国と関連付けせず
大和王権誕生の地と特集などでは言ってる
10年くらいまでは纏向は邪馬台国か?!てな感じで煽ってたけど変わりつつある
畿内説ではないと踏んでるんだろう
前方後円墳はただの流行だろ どの勢力の影響だったとかの要素は少ない 理由は、神社の鳥居 神社の鳥居は様々な種類があるが、 鳥居の形式でどの系統であるかを決めることはできない程度にはテケトーである 前方後円墳も同じ それなりに威厳のある墓っぽいイメージがあるから、当時全国で流行しただけだ
>>285 すまんすまん、間違えた
その26cmだ
ほんで一歩を26cmと仮定すると祇園山古墳の約25mが卑弥呼の墓として候補にあがってくるんよね
http://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja& ;webView=&content_base_id=100199&content_part_id=0&content_pict_id=0
ベルトは?
>>295 違うよ、邪馬台国と関連つけて触れると九州説の自称研究者からクレームが酷いからw
畿内説はおしまい 22 :ニューノーマルの名無しさん :2022/01/24(月) 19:08:43.71 ID:t+kGvkwl0 > 女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、同約280メートル)をはじめ、3世紀の最古級の前方後円墳が集中する。 未だに箸墓の炭素年代法の結果を受け入れてないのは いかがなものか? nihonkodaishi.net/info-research/ronbun-pdf/koseikyokusen.pdf INTCAL20 によって、箸墓築造が 従来通説の4世紀前半に戻ったことを意味する。
>>294 アホか方形周濠墓の原型は山陰であり、その後はどこにでもあるわ
前方後円墳の前身は前方後方墳であり、それは東から西へと広まっている
>>286 > つまり政権と宗派は関係ないという事であり、墓の共通性を政権と見なしている考古学者はかなりのアホ
自分もこの事がかなり不満がある
墓の形式一つでかなり越境気味に文献史学の範囲まで犯して政体を推測しすぎている
>>288 従属関係となっただけ
>>297 祇園山古墳は円墳ではなく方墳なんだけどな
後、出土品がしょぼすぎて残念古墳だったり
三角縁神獣鏡がでてきたと言われてたり
期待値はあるけど、アタリかどうかは微妙な気がする
考古学で発表説明会があると、内容はお構い無しに俺様の考えた邪馬台国論を始める輩が多くて皆困ってたから。 だから考古学者は基本邪馬台国や卑弥呼には殆んど触れない。でも大半は既に畿内説だからな。
>>303 なんだモモソ馬鹿の頼みの綱はとっくに断ち切られとるやん
オモシロ畿内説まとめ Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう? A:そんなん知らへん!! Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね? A:知らんのや!! Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか? A:知りまへん!! Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか? A:知りまへんのや!! Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか? A:知らんちゅうとんねん!! Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか? A:知らへんのや!! Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは? A:知らへんゆうとるやろが!! Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか? A:あったで(ドヤッ Q:ではその証拠は? A:知らへん!!知らんがな!!知っとるかいな!!
畿内説とか宗教団体じゃないの? それに気が付いて学会も距離を起き始めただけじゃね?
>>303 考古学者の関川尚功氏も最近の著作で考古学の立場から箸墓古墳は4世紀の遺跡だと論じているね
考古学会側からも畿内説には疑問が付きつつあるようだ
〜 記録に残されている卑弥呼時代の墓に関する記述 〜
■倭人の墓
有棺無槨 封土作「冢」
訳:棺有り槨(石室など)は無し、土を盛って封じた冢である
■卑弥呼の死に関する記述
卑彌呼以死 大作「冢」 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
訳:墓は大きく造り、大きさは約百歩、殉葬者は100人余り。
■結論
同じ「冢」という表記が使われているので、構造に大きな違いは無いと考えられる
前方後円墳でない事は確かです。
■国内の参考事例
祇園山古墳)
すげーw先進国じゃん
>>309 考古学者の大半の人は興味ないし専門外だぞ
一部の畿内説を唱えてる人に形式的に従っているだけ
そんなことも分からないから畿内説に騙されるんだよ
>>294 その通りだな
方形周溝墓は弥生前期の九州を通り越して近畿や東海に広く分布する
その後で九州にも現れるという図式になってる
九州は地下式で地表に何か多くの物を置くことが少ない墓制だった
だから前方後円墳の出現は今までの九州の文化と全く違うものがもちこまれた形
>>303 箸墓の年代比定は古墳上に散乱していた特殊器台なんだけどな。
四世紀にすると讃岐辺りの特殊器台の年代と合わないから三世紀半ばだね。
他国に類型のない前方後円墳だったなら 径100歩みたいなさらっとした説明では終わらんだろうになwww 円墳に祭壇を付け足した変な形の墓 みたいな記述になるだろ
卑弥呼の墓は現存しないって事で良いんじゃないか それを踏まえて何処に卑弥呼は居たのか
炭素年代ナントカって理研と学習院が始めたらしいな ナントカありまーすとゴッドハンドのコラボつうか始まりだね やっとまともに戻ったようだ
>>309 「邪馬台国はどこか」なんて内容を主に論じてる考古学者はいないからな
考古学は発掘物の集成とその変化を元に当時の状況を考える学問
当時はこう言う状況だった、故にもし邪馬台国と言うのがあるとするなら…という流れで言及するだけ
倭人伝を好き勝手に「解釈」して学問に満たない想像をしてる人間が騒いでるだけ
前方後円墳が畿内ヤマトの支配を表すののなら 畿内でこそ一番多く作られてそうなもんだが 最初期の前方後円墳は別にそんなことはないという
>>316 違うね、考古学的に見ると弥生時代前、中期に大陸から半島をへて北部九州、瀬戸内海から畿内へ向かう流れは明白にある。
例えば硯なんかでも北部九州や出雲から確認出来るが、墨書文字が書かれた出土品は三重に多かったり。
大陸からの鏡や貨泉なんかも九州から東へ向いている。
なので九州内で何もかも完結したがる邪馬台国九州説はあり得ない、という話。
>>314 > 同じ「冢」という表記が使われているので、構造に大きな違いは無いと考えられる
> 前方後円墳でない事は確かです。
おれはこの考えが腑に落ちない
庶民と支配階級が同じ埋葬の仕組みだったのか?
普通に考えると違って当然なんよ
庶民と同じなら卑弥呼も甕棺に入ってたという事になる
祇園山古墳は石棺、埋葬の仕方に大きな違いが出てる
槨の有無に固執のあまり、棺が違う事を失念してないか?
卑弥呼の埋葬方法は書かれていないので「わからない」が正解だよ
>>320 上でも書いたが邪馬台国探しなんて誰もしてない
邪馬台国を探してるんじゃなくて、考古学的な発見を積み重ねて当時の状況を想定してる
その研究の上で畿内を中心に全国的な古墳や土器などの斉一的な分布がみられる
〜 記録文献を無視している畿内説は単なる妄想作文である 〜
■史書に基づけば九州説以外有り得ません
倭人伝における最大の謎「水行陸行」の行程は朝貢に来た倭人の説明を書き記したものであり、その開始点は帯方郡である。
・帯方郡を出て
↓南に船で20日
・半島南部の投馬国
↓南に船で10日
・末盧国に上陸し、伊都国の入国管理局で停留
↓入国許可が出て迎えが来る
・女王の都へ(約1か月後)
つまり中国は対馬海峡の両岸の総称を女王国と呼び、
倭人は半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいた。
女王の都とは、この邪馬台国の中にあった首都である。
位置関係の図:
※半島南部の投馬国がのちの任那になったと思われる
■魏志韓伝の記述
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里〜」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝の記述
@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜投馬国は女王国より北にある)
A@以外は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜は女王国の東・西部にある)
B女王国より南には敵対する狗奴国がある
C女王国の東には海があり、その先にまた倭種の国々がある
■その他の記録文献より
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
>>324 なんで九州で完結していると俺が主張してると思い込むんだ?
そうやっていきなり決めつけをしてくるあたりが
いつもの畿内説の無能と同じじゃないかwww
九州の勢力と畿内の勢力が存在してて
互いに交易してただけだろ
そう考えるだけでお前の主張と矛盾することがなくなる
その程度なんだよ畿内説はw
>>324 むしろあの時代に九州から東海北陸まで支配するような巨大な勢力を想定する畿内説が無理
崇神朝の時でさえ四道将軍を東西に派遣してたくらいの勢力で
これは纒向の調査結果からわかる勢力圏と同じ
>>325 >普通に考えると違って当然なんよ
それそれ、その普通ってやつがバカの証拠だ
畿内説が現代人間隔のバカを基準として物事を考えてる証拠よ
>>318 単に讃岐の年代が間違ってただけだろそれ
そうやって科学を否定するから畿内説は敗れ去ったんだよ
>>323 知識が40年古い
「大和中心」「大和の支配」などという考えはもはや取られてない
寺澤氏などが提唱してるように初期の畿内に出現した古墳勢力は大和が突出してたからできたんじゃない
大和、九州北部、瀬戸内海の地域が連合して成立した物と考えられている
なので大和が文化的に先進だったからとか、強大だったからそこに中心が生まれたわけじゃない
恐らく瀬戸内海と東海の勢力のちょうど中間地点だったから立地面で選ばれたのだろう
邪馬台国は宇佐なので、卑弥呼が畿内まで平定した証として纏向を位置付けるべき。
>>267 消滅遺跡など及びじゃない。 3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、 大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。 なんでかな〜 @阿波 >>327 奴国が狗奴国の境界線という記述があるなら九州の中部より南側だろう。
傍国の説明は西日本、中国地方の地名で説明出来るからな。
畿内説でも狗奴国東海説は間違いだと思っているぞw
宇佐は瀬戸内海航路の要衝で渡来系が多かった地域でもある
>>332 甕棺と石棺を同じ埋葬方式だと思う人にはわからんだろうね
庶民と同じ埋葬方式であるなら、石棺に納められているはずがない
槨の有無以前に棺が全然異なるのに、それに目を瞑ってるのは馬鹿だ
宇佐神宮の本殿が立っている丸い形の小山は古墳だし 大きさはちょうどいい具合に径百歩くらいなんだよな
祇園山古墳を卑弥呼の墓と言っているのは殉葬墓の数が倭人伝の数に近いと 言う理由だけ、殉葬墓数が倭人伝の記載と一致する墓は見つかってはいないから 殉葬墓数は無視して副葬品で決めるしか無い訳だ。つまり平原王墓が 卑弥呼の墓に最も相応しいと考えるのは当然の事だろう そうなると平原王墓に近い吉野ヶ里が卑弥呼の宮殿と言う事になる
>>336 ちゃんと中を見ろ
その遺跡が弥生時代の遺物までなのか、奈良時代まで続いてるのかくらい書いてあるぞ
>>337 でも狗奴国を募集してたよな
岐阜まで立候補してたけど
>>334 前方後円墳は畿内ヤマトの支配を表すという前方後円墳体制とやらが
銅矛文化圏みたいに時代遅れの理論として廃れるならいいことだな
簡単に書くとこうなる 大和、瀬戸内海、北九州勢力の連合→纏向に祭祀の中心が出来る ・纏向型前方後円墳の時代 ↓ 大和の中心地がより確固たる体制を形成する ・箸墓に始まる定型化された古墳の時代 と言うことになる 大和が強大だから日本を支配したのでも、誰かが日本を支配したのでもない 日本的な連帯がこの頃に生まれた形になる
>>340 前方後円墳に殉葬とみなせる事例は無い
時代錯誤のバカ乙
誰が見ても箸墓もホケノ山も4世紀以降で間違いない
>>326 >その研究の上で畿内を中心に全国的な古墳や土器などの斉一的な分布がみられる それは、「倭人(阿波勢力)」の全国展開を物語っている事象。 @阿波 箸墓の成立によって大和の中心性が急速に高まる 古墳の分布のうごきから崇神天皇の頃の事績によく似ている 恐らくこの段階で原始的な大和朝廷の土台が出来上がったのではないだろうか その前の纏向型の段階がシャーマニズム的な思想による地域の緩やかな連帯の時代と思われる
>>333 勿論他の地方の出土品も研究して決めている年代だけど?
信用に値しないなら九州説は今後出土品を一切物証として採用しない方がいいだけの話。
>>334 >大和、九州北部、瀬戸内海の地域が連合して成立した物と考えられている 連合?? 馬鹿馬鹿しい。 「倭人(阿波勢力)」の進出現象にすぎん。 @阿波 プラモデルを手順書を見ずに組み立てて全く違うものを作ってしまったのが畿内説
>>354 分かる
東や南にしか進まないのに北上するのが畿内説だもんな
>>342 祇園山古墳の周囲の墓が、殉葬者の墓であってるのか?
埋葬者の遺骨が調べられているわけだが、男性の遺骨がある
親子が一緒に入ってる、宝飾品を身に着けた遺骨がある
殉葬は奴婢100人であるはず
卑弥呼の身の回りの世話をしたのは、女性の奴婢が千人のはず
この遺骨は本当に卑弥呼の奴婢なのか?
>>300 どう見てもそんな作りじゃないけど
纏向大和王権と邪馬台国は別もの扱い
クレームで変えるわけないだろアホなの?
>>343 奈良時代で消滅。 そんな遺跡は及びじゃない。 3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、 大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。 なんでかな〜 @阿波 >>350 つまり九州内部から南側が狗奴国エリアで説明出来るからな。
伊都や奴国がある北部九州が女王国連合、だから銅鐸や神獣鏡の出土も多い。
>>358 お前たまには自分の間違いを認めないと相手してあげないよ?
>>351 卑弥呼は鬼道
それを撃退する武器は桃
要するに纒向は反卑弥呼派だ
>>358 瀬戸内文化圏であり、瀬戸内国家連合な倭人たちが、
奈良の誰も住んでない辺鄙な土地にニュータウンを造ろうとしたんだよ
渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ この記事中にある図の北陸近畿の濃いオレンジ色地域こそが畿内ヤマトだろう 四国の渡来人DNAは知らね 長宗我部の秦氏かなんかか
>>331 崇神、四道将軍は出土と記紀と一致してるわけで
ここは外せないベースポイントだよな
伊都国の隣が邪馬台国と言っているのだから畿内はあり得ない。 そも当時の土着民は顔や体に入れ墨(隈取り?)をしていると描画している。 ゆえに夏は上半身、裸?、畿内系にはそんな人物描画は存在していない。 南方系の人物が遠い昔に土着したと思われる。縄文前期の遺跡が我が郷土で発見される。 また、帯方郡(今のソウル周辺)絡みの韓ものと言われるものは九州でしか発見 されていない。つまり帯方郡と交易があった証しでもある。畿内持ち込みはなかった! 魏の時代は戦乱の真っただ中、古代中国人は難民と化して九州に押し寄せたに違いない。 それまでの縄文人はおだやかな生活を送っていた人々で生活様式が一変したことが 伺える。ゆえに騒乱を鎮めるために卑弥呼さんを擁立・祭り挙げたのだろう。
>>360 お前、「邪馬臺国」の遺跡が奈良畿内にないことを認めないと相手してあげないよ? わははははは @阿波 >>362 >奈良の誰も住んでない辺鄙な土地にニュータウンを造ろうとしたんだよ なんでかな〜 @阿波 >>366 俺は畿内説じゃないってのw
>>178 をみろ
おまえが「わははは」と言い出すと
大体反論できなくなった時のパターン
>>363 >渡来人、四国に多かった? そりゃ、仏教伝来に伴って、倭国(阿波)へ大勢来たことだろう。 @阿波 考古学以前に邪馬台国は大和、これは中国の史書に明記されてる 最初から謎も何もない 上でも書いたがもう一度書いておく 『所在地』 @アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書) Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書) A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書) ↓ 邪馬台国は大和 『一大卒』 @一大卒は中国の刺史と同じ(魏志) Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書) ↓ 一大卒のいるところは大和の政権の属国 『日本と倭』 @日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書) A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史) B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀) C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降) Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降) ↓ 改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事 九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない
>>370 そんな辺鄙なところへ行かんでも、常世の国「阿波」へ来い。 悪いようにはせん。 わははははは @阿波 >>372 九州の邪馬台国を畿内の玉と政権が滅ぼして
でも祟りを恐れて
東遷したという歴史をねつ造して
そのねつ造した歴史を中国にも説明してたってだけじゃないか
>渡来人、四国に多かった? そりゃ、仏教伝来に伴って、倭国(阿波)へ大勢来たことだろう。 @阿波
>>376 中国からすりゃ、世界中のどの国も属国の扱いだろ
当たり前だが巻向は邪馬台国ではないよ、あくまで邪馬台国でも卑弥呼が鬼道を使う為の宮。 邪馬台国の人口集積地は河内や奈良盆地一帯に及ぶエリアだろう。 葛城、二上山から生駒山周辺だね。 河内と奈良盆地では地名の一致も極めて多いエリアだからな。 そこは後々蘇我や物部の拠点となる事からも判る。 弥生時代中期の時点で鏡も出土してるし、朱丹も確認済み。特に河内南部は海人集落も多い。
だから阿波を相手にするなっつってるだろうが 阿波と同じレベルに堕ちたいのか
<箸墓古墳で馬具出土> 2001年12月 「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」 奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、 木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、 「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具 である可能性が高い」 と発表した。 <参考> ・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片とともに埋もれていた。 ・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。 <馬具研究史より> 樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に 鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に 足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、 中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。 奈良が半島より先に馬を導入していた事にしてしまう捏造考古学バカ
令和の巨大便器見ればわかるだろ オリンピックやった あれが都だと言ってるようなもんだぞ畿内説はw
>>380 心配スンナ。 アホのお前は相手にしてやらんから。 わははははは @阿波 >>379 でもさぁ
東や南にしか進まないのだから、畿内にはたどり着けないんだよ
うん、共立というかたちで広域連合王国ができている、というのがかなりユニークなんだよね。 こういうことが可能であった条件、っていうのももっと議論されていい。 奈良は僻地とかいうが、「国の最中」という意味で、かなり重要な位置付けであったかもだし (纏向以前からなんか国のまほろば的なw)
纏向については寺澤氏がかなり勇み足だと思う あれは都市ではない 定住のあとがほぼ皆無の状態ではとても都と呼べない なので纏向は古墳と祭祀のために作られた巨大遺跡 「祭祀による日本の全国的な統合」がなされた場所と考えられる
卑弥呼の時代頃は筑後川の南側は狗奴国の領土になっていた可能性がある 邪馬台国と狗奴国との戦争で狗奴国が有利だったから元々は邪馬台国の 領土だった筑後地方は狗奴国に奪われたと考えている
弥生時代は鉄器文化の時代です。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
>>372 中国の史書をいっぱい繋ぎ合わせれば、余計に信憑性が落ちるよ?
元々書いてる内容の全てが正しいってわけじゃないんだからね
>>386 祭祀で全国を統合したって事は
今の天皇家だろ?
という事は、卑弥呼は天皇の系譜として記録に残ってないといけない
しかし残っていない
つまり、卑弥呼は天皇家の系譜ではない
他所の勢力だったということが分かるわけで
無理矢理卑弥呼や邪馬台国と絡めない方がマトモな主張になると思うよ
>>385 いや、奈良は僻地ではない
「先進」「最強」という存在ではないだけで充分に地域的な発展を遂げている
銅鐸などの分布においては中心地として機能している
中西秋津遺跡などは弥生時代屈指の面積を誇る水田の跡もみつかっている
僻地なのは纏向
ここは縄文時代からだれも住んでない湿地
使い物にならない土地だから「無駄な」巨大古墳や祭祀遺跡を作る場所として最適だったんだろう
桓霊の間(146-189)に大乱があったような地域で共立されたのが卑弥呼 その時代に大乱があるような地域は畿内ではなく九州ぽい
>>378 その中華思想でも微妙なのが東側にある扶桑国、神仙思想では仙人が住む憧れの国だからな。
日の昇る東の国は特別視しているんだよ。
多分これが邪馬台国を南側に間違えた真相。
まあだから後々匈奴系?のブレーンを持つ聖徳太子がわざと日の出処なんて用いて漢民族を怒らせた訳だがw
東夷とは単に蔑視ではなく実は微妙な表現だから。
金属器時代という視点でも日本史はユニークなんだよね。 普通は石器-青銅器-鉄器と時代が推移していく文明だけど、 日本の場合は、石器も青銅器も鉄器も同時存在している社会なんだよねw
>>391 それが女王国の東の海を渡ったところにあった「倭種の国々」だ
>>390 これも邪馬台国を語る人がいつも勘違いしている部分
「大和朝廷は卑弥呼の後継など名乗ってない」
上で記載した中国の歴史においても日本は系譜を提出してるわけだが、卑弥呼も台与も一文字も書いてない
始祖はあくまでも神武天皇で卑弥呼など無関係
むしろ積極的に無視してる
>>386 >「祭祀による日本の全国的な統合」がなされた場所と考えられる 違う。 「阿波」の有力豪族による、古墳の展覧会場だな。 @阿波 >>388 「阿波は鉄器鍛冶王国」 阿波は、遺跡発掘が少ない発掘後進県にも関わらず、 阿波一国だけで現在、阿波各地10か所もの弥生時代鉄器鍛冶炉遺構が出土している。 「加茂東原遺跡」・「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」 ・「庄、蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 このように阿波は、他地域に見られない最高・最新の文化水準を誇り、まさに「邪馬臺国」に相応しいと言える。 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>396 つまり、
畿内大和や纏向遺跡は
邪馬台国や卑弥呼とは別の勢力、存在だったという事だよな
>>392 > その時代に大乱があるような地域は畿内ではなく九州ぽい
この時期最大の戦乱は実は鳥取
>>391 >「先進」「最強」という存在ではないだけで充分に地域的な発展を遂げている 「倭人(阿波勢力)」の進出のお陰でな。 @阿波 >>380 踊らにゃ損々と囃すもんだからつい踊らされるわけですね、ハハハ
天皇家の祭祀は、物部氏のそれを完全コピーみたいに引き継いでるから、 問題なのは物部氏はどこからきたか、だよね。 長髄彦に入婿してた饒速日尊のことがどうしても浮上してくるわけで…。
>>403 阪大の学者が纒向は古墳造営キャンプ場だと言ってたな
>>394 これも大切な所だから指摘しておく必要がある
「弥生時代の鉄器など石器の代替品程度で大した意味のあるものではない」
と言う事
この頃の冶金の技術は大変稚拙で金属加工など研ぐか叩くくらいの事しかできてない
弥生の鉄器は「手斧、細い棒、ヤリガンナ」が大半で鋤クワなどの開墾道具は弥生時代の後期後葉に登場して全く使われてない
鎌でさえも登場は後期後半
「鉄器によって農地が拡大して王権が云々」など全く事実と異なる
まだ鉄器の研究が進んでない頃に昔の中東を意識したイメージによって過大評価されてる
弥生時代は石と木の時代
スキタイ、アルタイ、ヤマタイで鉄器ガラスルートなんじゃないの? ガラスがよく出る伊都国周辺だろ
>>405 >天皇家の祭祀は、物部氏のそれを完全コピーみたいに引き継いでるから、 そりゃ、みんな「倭人(阿波勢力)」なんだから。 @阿波 >>406 いや、「古墳造営前線基地」だと言っている。 @阿波 例の高地性遺跡の分布は圧倒的に瀬戸内海沿岸部と大阪湾岸だから。 まあ高地性遺跡の出現が倭国乱と関係しているかどうか、ってことも問題なわけだが。
〜 よくわかっている人ほど纒向説には否定的である 〜 坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5) 著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、 現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。 近年、纏向遺跡における箸墓古墳の発見以降、多くの学者が邪馬台国とヤマト王権を同一視し、邪馬台国大和説をとっています。 その中で、橿原考古学研究所の職員として纏向遺跡の発掘にも携わってきた著者が、考古学の立場から邪馬台国とヤマト王権の違いや、 邪馬台国北部九州説を説得力を持って証明していることは重要です。 著者は次のように指摘します。 「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、 きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。 楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。 邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。 邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。 さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、 兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
>>403 飯場にしてはでかすぎる・・・
何十万人も使役したのかよ
>>400 だが、箸墓の被葬者がモモソヒメである以上は日女命、魏志倭人伝におけるヒミコの墓には間違いない。
場所的には隋書倭国伝にあるように、邪馬台国とは後のヤマトの事と解釈するのが普通だよ。
孝霊天皇やモモソヒメの伝承範囲の広さを考慮しても、倭国大乱の時代の王は孝霊で卑弥呼とは皇女モモソヒメの事。
>>400 だからこそそう言えるというのはあるかもしれんし
日本書紀成立から500年も前のことなんで
きれいさっぱり忘れ去られてただけと考えるのが普通だな
なんせ200年前の先祖がどう死んだのかもわからんと書くくらいだし
>>411 高地性集落への移行はいわゆる「南海トラフ大地震」の教訓だと思うよ
>>414 モモソ姫だから卑弥呼だという考え方が理解不能だな
邪馬台国はまず万二千里(洛陽から万七千里)という距離ありきの話だろう 西の大月氏国に張り合うように距離と戸数を報告した 魏志東夷伝の序文に「不明だった東夷のことがわかるようになったので詳細を記す」と書かれており暗に司馬懿の功績を仄めかして書かれている だから魏志倭人伝は時代も場所も様々な情報が切り貼りされて水増しに水増しを繰り返し書かれている 例えば刺史の記述は漢代のものだったり 里数のあとに日数という別資料の情報を切り貼りしてつけ加えている 東南海中の島々も古代の伝説からとってきてつけくわえた
>>413 >飯場にしてはでかすぎる・・・ なにがでかいんだ?? @阿波 >「纏向は古墳と祭祀のために作られた巨大遺跡 違う。 「阿波」の有力豪族による、古墳の展覧会場だな。 @阿波
さらっと邪馬台国はうちって言ってて草 九州しかありえんわ
墓の大きさは、臣下豪族の勢力次第。 だから、奈良盆地も河内も古墳の大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。 これらがもし、歴代続く大王陵・天皇陵ならば、陵墓の大きさ・向き・墳型など一定の規則性があるはず。 「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波
>>400 上で書いた図式で説明すると
大和、瀬戸内海、北九州勢力の連合→纏向に祭祀の中心が出来る
・纏向型前方後円墳の時代
↓
大和の中心地がより確固たる体制を形成する
・箸墓に始まる定型化された古墳の時代
この状態の後者が大和朝廷の成立で、その前段階が「共立」によるシャーマニズムの時代と想定できる
そもそも卑弥呼は高齢の子供のない独身女性
台与の血の繋がりのない宗女と言う立場
なので世襲ではなく一代限りの呪術的カリスマの代表者なのだろう
なので世襲の大和朝廷と卑弥呼の邪馬台国に系譜的な繋がりはないが所在地は同じと言うことになる
足利尊氏が源頼朝に倣ってショーグンになったら同一人物だってくらいアホらしい
>>418 だから他の魏の史書を比較して
魏時代の倭に関する記事を改めて検討しないとな
邪馬台国、女王国(女国)、卑弥呼それぞれがどこにいたかわからんけど
北九州の勢力と畿内勢力をごっちゃにしてるっぽいし
>>401 その鳥取、戦乱の地で名前が多く残ってる人物が孝霊天皇だからな。
そもそも鳥取の地名も元々奈良と大阪の県境、大坂山辺りの集落から。
孝霊天皇の墓もこの近所にある。
>>423 世襲の天皇家と無理矢理に関連を持たせようとするからおかしな説明になっている
天皇家と卑弥呼は完全に別物だと認めたら気持ちが楽になるぞwww
>>413 箸墓やその他の纏向型古墳、祭祀、宮殿の遺跡など大量の人員が必要とされる
それだけの規模が必要だったと考え何もおかしくない
ここで重要なのは「生活に全く必要のない物を莫大な資源と労力をもって作れた」という点
なのでこの纏向遺跡を作っていた勢力はただの一地方の勢力の規模ではありえない
それこそ全日本的な動員力、資源の供給力を持っていた事が分かる
ただの環濠集落レベルの弥生時代のクニの概念を超えた巨大な勢力であることが理解できるだろう
記紀書いた連中すら 系譜から読み取れず 神功皇后のところでちょっと扱ってるレベルだぞw モモソ姫=卑弥呼なら どうどうと、そう書くだろwwwwwwwwww
>>415 きれいさっぱり忘れられてるのに
卑弥呼は天皇家だったという事だけは忘れてないの?
おかしいだろ
だから畿内説って言われるんだぞw
>>425 南に敵対勢力がいて手に負えない
東に海をわたるとまた倭人の国がある
こういうマクロな記述を見ると畿内では無さげ
>>426 弥生時代最大の戦乱跡は青谷上寺地遺跡にある
日本海側の海沿いで近畿地方からは遥か彼方
孝霊天皇の墓とも無関係
>>417 日女命だからヒミコ、日の巫女で問題あるかな?
他の日本語呼称でこれ以上近い物はないだろう。
>>428 纏向やモモソ姫にしても、別名は大市
纏向は飯場ではなく、市場・交易の場がメイン
古墳を除いてもまだ半分の発掘が終わってないので後はわからん
〜 投馬国は半島南部沿岸部の総称 〜
魏志韓伝 弁辰伝
「韓国は(帯方)郡の南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する」
「涜盧国は倭と界を接す」
いまでも当時の対馬海峡沿岸部は倭人居住区だったと考えられている
よって投馬国は半島南部沿岸部の総称と考えられる
位置関係の図:
※半島南部の投馬国がのちの任那になったと思われる
>>436 その前の時点の話
>モモソヒメである以上は日女命
これが理解できないんだわ
ただの言葉遊びだろ
>>435 妻木晩田遺跡は孝霊天皇の嫁とり話から名前がつけられているよ。また半島からのくにびき話でも、スサノオ以外で唯一出てくる。
また月支国との船団話でも当事者として出てくる。出雲地方でここまで具体的に逸話が残っている者はいない。
倭王武の上表文(478)にはこうある ご先祖様が東に55ヵ国、西に66ヵ国、海を渡って95ヵ国を征服しました…… 畿内ヤマトが西に66ヵ国を征服したのは崇神朝より後の時代だろうなあ
北部九州勢力が他地域と連合を組む必要がないんだよな 連合は北部九州の中での話で他地域は倭国の属国だと思うよ 隋書でも書いてるよね 筑紫より東は皆倭の属国だと
〜 魏志倭人伝の1里が短いのは普通です 〜 ■日本書紀より 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
繰り返し書いてるように 「大和朝廷は卑弥呼など系譜にない存在だとして一切無視してる」 繋がりなどない よく「大和朝廷は卑弥呼の後継者を僭称した」「邪馬台国の振りをしてる」などと意味不明ことを言う人がいるが全く見当違い むしろ大和朝廷は卑弥呼など全く関係ないとしてる この卑弥呼から大和朝廷のうごきは、非世襲の一代限りの共立段階から、世襲の王家が取って代わったという事だろう その動きは共立され血縁によるものではない即位をした卑弥呼、台与の継承の流れからも読み取れる そして中国の史書では台与の後に特に何もなく男性王が即位しているが血縁は示されない その後の五王で世襲の血縁が明記される 大和の中で政権の形が変容したことが伺える、
>>442 >隋書でも書いてるよね
>筑紫より東は皆倭の属国だと
そうそう、そういう記録をことごとく無視してる畿内説はもう犯罪に近いと思うよ
旧石器時代捏造事件2とか言われてたな
>>429 何故卑弥呼の名前を隠したか?
簡単な話、ヤマトの主権が九州からの狗奴国系だから。
クナがクニになる、簡単だろ。
だから対立していたヒミコは歴史から消されただけの話。
それが最近やっと海部氏系図が公開され、実はモモソヒメがヒミコ、日女命と判ったんだよな。
畿内ヤマトが北陸東海から九州までの巨大勢力だったなら 征服された西の66ヵ国は九州南部の狭い地域にぎゅうぎゅう詰めだったのだろうか
卑弥呼 = 姫子 ヒメヒコで ヒコは魏志倭人伝でも見えるのに ヒメが見えないのはおかしい 魏略では卑弥弓呼を「女男子」とも書いてる 女男子って「姫」姓か、「女に化けたヤマトタケル」くらいだ このことからも 卑弥 = 姫 読みが一番あってる
>>441 ちょっと気になってたんだけど
倭王武・・・第21代雄略天皇
第10代崇神天皇(倭王武から見るとご先祖様)
崇神天皇と誰かを誤解してない?
>>437 まぁ出てこないとは言い切れないが、ここまで定住跡がゼロなのは現実
出てくるのは2間程度の小さな大きさの移動された後の複数ある柱跡
これは作業員が雨風を防ぐためのテントとして使われた物だろう
定住跡は全く無いのに逆に炊事道具は物凄い数見つかる
これもまた露天で作業員が炊事をして食事をした痕跡とみるのが自然だろう
いわゆる宮殿の跡も宮殿の周りに他の役所や邸宅が存在しない
これだけがある状態
なので都の中心部というわけではなく、高貴な人々が祭祀の際に集まる場所だったのではないかと思われる
纏向は空前絶後の規模の遺跡ではあるがその目的は祭祀と古墳の築造の為で都ではない
>>334 あくまで祭祀の中心だからそうなんだろうな
その前の伊勢遺跡なんかも
>>450 しゃーないやん
古墳を除くとまだ10%とかしか発掘できてないんやで?
隋書など史書の話をするのであれば
>>372 で書いたが全く議論の余地はない
邪馬台国論争など最初から一切ない
>>449 崇神の時代の畿内ヤマトの大きさは
九州まで含んでいるのかそれともいないのか
崇神 四道将軍を北陸東海吉備丹波に派遣
垂仁
景行 九州征伐
成務
仲哀 九州征伐
神功 三韓征伐
>>36 漫画をソースにするとは漫才ネタだなwww
畿内説で北部九州が女王国連合説、狗奴国九州南側説なら、卑弥呼と狗奴国が対立する図式も簡単に説明出来るからな。 狗奴国は半島への近道を抑えられている。 だから後々狗奴国側の連中が邪馬台国=ヤマトの主権を握って卑弥呼はモモソヒメとして名前が残されたんだろう。
>>453 新唐書を混ぜると大事故を起こすよ?
あれは使えない史書
魏志倭人伝にはヒナモリ(鄙守)の記述があるがこれって同盟の地方豪族に与えられたものだったのかもね
>>451 指摘の通り伊勢遺跡などにその共通性を見いだされる事が多い
纏向は完全オリジナルなどではなく、それこそ九州から関東に至る広域地域の祭祀の集合体と言えるだろう
寺澤氏が指摘しているようにむしろ「弥生時代の大和と、纏向の大和は文化が全く違う」という通り
完全に上書きされてるに近い
なので弥生時代の大和→纏向ではなく、弥生時代の大和→×。纏向と言う断絶がある
これも大和が中心なのではなく全国的な連合がそこに中心を設定したという現われだろう
>>457 邪馬台国はのちのヤマト政権につながりうる畿内勢力で
女王がいる国は北九州なんだろ
そういう説もある
>>454 含んでないんじゃね?
崇神後に行ってるやん?
>>459 畿内ヤマトからみたら九州北部の伊都国なんかまさにヒナモリ置きそうなもんなのにな
だからさー 卑弥呼なんて日本神話小耳に挟んだ魏人のでっち上げだよ
>>464 3世紀段階で日本神話なんて全然成立してないだろ
>>457 違うよw
北部九州には伊都や奴国があり、三世紀には畿内にある邪馬台国と連合していた説。
北部九州から瀬戸内海、畿内が女王国という説。瀬戸内海はモモソヒメの活躍エリアだしな。
狗奴国と女王国連合にある境界線が後の山門。
なんで隋と唐とで、呼び方揺らいでるんだw 隋書書いたのは唐だろwwww
>>432 >こういうマクロな記述を見ると畿内では無さげ だから、「阿波」一択。 @阿波 >>438 >※半島南部の投馬国がのちの任那になったと思われる 「阿波」の美馬(みま)だな。 @阿波 だって、隋とか、蜀とか日本の記録残ってないでしょ? どんな国?国名ではない?
そもそも、君達は漢字が表意文字だって 分かってるのか…?😅
>>45 寿命を平均すると短くなるが、昔は新生児の生存率が低く、幼年期も今と比べて遥かに生存率が低い、
成人に達せず亡くなる人の数が多かったので平均寿命は短くなるが、成人まで生き延びた人物の寿命は意外と長くなる。
はやり病や、ガンにかからなければ60〜70までは生き延びられる。
>>464 日本神話が出てくるのは卑弥呼の時代から数世紀、待たないと
歴史上には出てこない。
そも日本という呼称すらない。
逆に言えば大和政権が確立するまでには数世紀のタイムラグがあるってことだ。
卑弥呼没→台与没→(その後、空白時代〜)→大和政権樹立→以下略
>>450 >高貴な人々が祭祀の際に集まる場所だったのではないかと思われる こんな辺鄙のうら淋しい湿地帯に、わざわざ高貴な人々が馳せ参じる訳が無い。 何を考えているのやら。 @阿波 >>452 >古墳を除くとまだ10%とかしか発掘できてないんやで? 鮎喰川下流域こそだ。 @阿波 >>477 記録されないだけで太陽女神の神話はあったと考えるのが普通でそ
文字がなくても神話を持たない民族なんかいないよ
>>469 口伝の世界最長記録は1500年
ついでに
日本書紀の中には古い記録を整理している描写があり
文字が違うため苦労していることも書いてある
どの天皇だったか忘れた
>>466 北部九州に卑弥呼がいた邪馬台国があり、その後畿内勢力が征服したという九州説でも同じ説明で済むんだよな
日本神話は口伝として伝えられたって言うけど、神武天皇の宮殿やお墓はどこにあるのか誰もわからないんですよねw
>>432 東の本州の漠とした記述の中に、倭国大乱で邪馬台を
覇権放棄に追い込み、邪馬台の博多港を支配している
謎の勢力「大倭(ダイワ)」の所在地が隠されている。
そう、奈良の大倭(ダイワ)だ。
教科書に書いてある4世紀の倭国統一、その100年以上
前の2世紀末(倭国大乱)には、奈良が実質的に倭を
統一していた訳である。
4世紀に華北崩壊で東亞の秩序が消失した隙に、奈良は
邪馬台(やまと)を滅ぼし、その権威ある名を奪い、
名実ともに倭を統一した訳である。
>>450 >高貴な人々が祭祀の際に集まる場所だったのではないかと思われる こんな辺鄙のうら淋しい湿地帯に、わざわざ高貴な人々が馳せ参じる訳が無い。 何を考えているのやら。 @阿波 >>482 邪馬台国が九州にあり、その後ヤマト王権に従属しただけ
筑紫城に歴代天皇がいたわけでもない
魏志倭人伝の卑弥呼やトヨの話を信じると、昔は血のつながりがない女王を有力豪族が共立していたということになる 隋書で倭の使節が力説していたような万世一系の伝承と矛盾が生じちゃうから色々まずかったんだろうな
>>118 の続き
近畿が使ってる名称
漢字・・・日本、大和、倭
よみ・・・にほん、やまと、わ
なんで複数あるかだ
答えは簡単、日本が倭の権益を踏襲したからだろうな
>>488 俺は邪馬台国九州説だよ
ただし邪馬台国が東遷したとかは否定するだけ
卑弥呼の前の倭国大乱より前は男王の治世が約80年あったからね その点を無視したらいけないよな
>>480 それは当然にあると思うよ。
しかし、学問的に裏付けされないと信ぴょう性に欠けるってことだ。
文字はなくてもなんらかの記号や絵文字はあっていい。
好例がギリシャ遺跡が物語っている。この時代は権力になるモノの
存在がなかった?
もともと卑弥呼の墓があった上に、仁徳天皇陵を作ったので 卑弥呼の墓とか、金印とかが発見されていないんだろ
>>490 あぁ
>>466 とは別人なのか
俺は東遷を文字通りの意味で信じてるわけではない
出雲の国譲りと同じく
畿内大和勢力が邪馬台国その他を征服したか滅ぼしたかまでは知らんが
その事実を、東遷したという形に作り上げたんだろうと考えている
北部九州と北九州は明確に区別すべき 北九州と言えば北九州市の事 そして最近は南九州市まで出来てるから これも、南部九州や九州南部と呼ばないといけない
>>492 だったら卑弥呼の方が信憑性ないんじゃない
太陽女神は日本でずっと信仰されてるが
卑弥呼の痕跡なんか日本国内にない
から論争になるんで
卑弥呼なんかいなかったんだよ
地元が奈良なので推したいところだが邪馬台国は九州なんだろうなと思ってる
>>429 >>446 そりゃないわ、逆だぞ逆
卑弥呼なんて皇族であっても軍を持たない弱い国司レベルの地位の人間
狗奴国の男子王の卑弥弓呼に弾圧されるレベル
当時の真の女王の神功皇后ではないからな
本当の女王でないから魏の国に援軍を求めた
>>494 ヤマト王権は別に他の集団を滅亡させるのが目的ではない
従うならそれで良しとして、臣下に加えていくだけ
歯向かうなら争いになっただろうけど
ただそれで邪馬台国の独立した立ち位置は消滅したと言えるんだろうけど
>>489 の続き
こんな感じかな
┌─────わ─────┐
│┌───┐ ┌───┐ │
││やまと │ │にほん│ │
│└───┘ └───┘ │
└───────────┘
>>496 卑弥呼はいたけど実は真の女王の神功皇后を騙る国司レベルの皇女
もしくは本居宣長が主張するように九州の山門=ヤマトのタブラツ姫
狗奴国の男子王の卑弥弓呼に弾圧されるレベル
当時の真の女王の神功皇后ではないからな
本当の女王でないから魏の国に援軍を求めた
だから卑弥呼は魏の国に援軍を求めた直後に処刑された
それを見抜いたのが神功皇后が伊都国に設置した一大卒
その機関に魏国を騙しての反乱を見抜かれてすぐに処刑された
魏の国から来た張政は高い塀に囲まれた屋敷にもてなされて
実は逆に幽閉されていた
だから張政は日本で本も書物も目にすることなく
馬に乗る事すらなかった
>>499 争ったからこそ
出雲の国譲りという話が作られたんだと思うよ
出雲の王が祟り神にならないように
同様に、邪馬台国も争いがあったんだと考えている
だから「東遷」をでっち上げた
>>494 征服したってことでもないんじゃないの?
お台与さんの亡き後の継承者がいなくなり衰退した?
九州では再び小乱はあっただろうが権力者を擁立するには至らなかった?
そして、いつしか中国皇帝への朝見もなくなり帯方郡との交易も途絶えた。
その後、奈良に大和政権が樹立したのでは〜とおれは思っているが〜。
史実です
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった
太陽神はもともと男神で、たとえば饒速日がそう。 別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。 天照国照、太陽神そのもの。 その後、太陽神は女神へと変わっていく。で、天照大御神。
>>502 出雲を滅ぼすのが目的ではなく、支配地域を広げるのが目的
Noならそりゃ争うだろうけど、根切にするわけでもなく
負けを認めれば生かしてる
邪馬台国も争ったろうけど、物理的な滅亡ではなく従属関係で収まったんだろ
>>436 「日女命」→ヒノメミコトかな?
うーん、そこまで確信する程関連があるとは思えないわ…
>>496 その考えが正しい
卑弥呼は悪人として処刑されたので日本では存在が忘れ去られた
その証拠が魏志倭人伝の記述
狗奴国の男子王の卑弥弓呼に弾圧されるレベル
当時の真の女王の神功皇后ではないからな
本当の女王でないから魏の国に援軍を求めた
だから日本では第二次世界大戦で日本が負けるまで神功皇后や日本書記が正史
しかし神功皇后や神武天皇の存在をGHQが削除するときに魏志倭人伝の卑弥呼の存在が利用された
罪人である卑弥呼を持ち上げて
日本書紀や古事記が嘘で虚偽だと主張するために
戦後は日本は敗戦国なので仕方なくGHQの言う事が間違えているとわかっていたのだが
受け入れるしかなかった
戦後直後はな
北部九州にあった伊都国や奴国は 隋書の頃には筑紫国になっていた この間に北部九州は畿内ヤマトに征服されてしまい 恭順した国々は筑紫国として統合 歯向かった国々は土蜘蛛や熊襲として滅ぼされたのかもしれない
>>504 そこらへんはどうでもいいんだよ
枝葉末節だ
吸収されたか隷属したか、滅ぼされたか征服されたか
それは、邪馬台国が九州にあったかどうかとは関係のない部分だ
太陽の末裔を自称し太陽の鬼神を信仰していたのは殷だな 殷では巫女の地位が高く軍を率いて戦場に立つこともあったらしい 卜占、生贄祭祀、殉葬も殷で見られた風習 殷のシンボルカラーは白
>>507 出雲の国の人間を皆殺しにしたとは言ってないんだがな
王族が支配されることを拒否して王族だけを殺したとかそういう事だろう
それだけで国譲りの説明が出来る
>>509 神功皇后が三国時代の人物なら、何で魏書は神功皇后の朝鮮遠征を書いてないんですかねw
>>496 ハイハイ
ひみこさんは存在してますよ。子なしのおばさんですけどね。
帯方郡(いまのソウル周辺)からもその痕跡が出て来ています。
当時は帯方郡と交易があったため。そんなニュースは当の昔に
報道されていますがな〜?。
魏の国にも使者を遣わし朝見しています。お土産付きでね。w
これ見ても当時は半島とは仲良しこよし、いまの韓国人なんざ足元に
お帯びませんせぬなぁ〜!。ww
>>505 中国の史書はあまり真に受けるな
間違いが紛れ込んでるのははっきりしているのに
真偽の確認ができないケースが多いんだ
例
狗奴国の場所
魏志倭人伝:女王国と南で対峙
後漢書:東に海を隔てた向こう
時代の順番とは逆に魏志倭人伝よりも後漢書の方が
編纂年は後になる
魏志倭人伝の誤りを後発の後漢書が訂正したとすると
狗奴国の場所が一気に変わってしまう。
どちらかの記述が間違っていることは断定できる
でも本当のところは確認しようがない
>>502 出雲神話や国譲りはむしろ出雲がヤマト政権にとって無視出来ない力のある重要な地域だったから取り入れられたので
征服の記録じゃないよ
>>509 真の女王とかちょっと変な考え方だな
小国が乱立していた当時なら、卑弥呼も邪馬台国の正当な女王だろ
神功皇后の系譜が天皇家になっただけだ
>>505 中国側は日本の事は何も知らないからな
そういう推測をしただけだぞ
実際には日本は昔から日本で中国側が日本を倭と呼ぶのが気に入らずに
倭を和と自称して大和つまりヤマトとした
そこから日本を倭ではなく大和そして日本と呼ぶようにと中国側に勧告しただけだ
それをGHQの操り人形の裏切り者のバカがアホな事を主張しているだけだ
出雲のイザナミは黄泉に逃れたんでしょ 黄泉に逃れたイザナミさんを守り一緒に国作りを始めた これが国を譲られた理由じゃないかな 玉鉾の道から玉迎え鳥へ
>>518 取り入れるってどういう事?
自国の勢力下に置いたって事だろ?
それ、征服と言ってもおかしくないぞ
>>519 バカは黙っていろよ
マジで
神功皇后の系譜なんてないぞ
日本の天皇の系譜は昔から神武天皇が発祥
神功皇后も開化天皇の孫だから神武天皇の系譜だからな
>>524 神功皇后は謎の新羅王子アメノヒホコの末裔だろ
>>314 >墓は大きく造り
漢文の文法的にその翻訳、解釈は大間違い!
「大作冢」という具合に「大」と「冢」の間に
「作」が挟まっている。だから「大」は動詞である「作」を
修飾する副詞である。
>墓は大きく造り
曲解も甚だしい。
大きな墓墳を造ったという意図で漢文を書くなら「作大冢」と書かないとダメ!
「大」作冢とは「大いに冢を作る」と読まなければいけない。
「大作冢」は「盛大に」「鳴り物入りで墓墳を作った」という意味だ。
唐代中期の詩人元稹の詩《蛮子朝》に
「朝望烟尘上高冢」という句がある。
「烟尘」は「煙や塵」のこと
「上」は動詞で「上る」と読む。
意味は「朝、高い冢に煙や塵が(風に乗って)上るのが見える」だ。
>>520 自国の勢力下に入れる
滅亡させる
豊田秀吉が九州を征服し
滅亡させられた九州の大名も存在するって言うのと同じだ
その言葉にそれほど大きな違いはない
俺は、
邪馬台国は後の畿内勢力に支配されたと言っているだけだ
征服されたのか滅亡させられたのか
服従したのか隷属したのかはどうでもいい
自滅した可能性もある
なんでそんなしょうもない部分にばかりお前らは拘ってレスするんだろ?
邪馬台国は九州に存在してて
畿内勢力はその後日本在胎を勢力下に治めた
邪馬台国の卑弥呼と畿内勢力に直接のつながりはない
と言ってるだけなんだがな
鎮火祭の祝詞の通りじゃないの? 皇御孫命は豊葦原乃水穂国を安国と平けく知食せと、天下寄さし奉りし時に、 事寄さし奉りし天都詞太詞事を以て申さく、 神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命、妹背二柱嫁継ぎ給ひて、国の八十国・嶋の八十嶋を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、 麻奈弟子に火結神を生み給ひて、美保止焼かえて石隠り坐して、 夜は七夜昼は七日、吾をな見給ひそ、吾が奈^背乃命と申し給ひき。 此の七日には足らずて、隠り坐す事奇しとて、見そなはす時に、火を生み給ひて、御保止を焼かえ坐しき。 如是る時に、吾が名^背乃命の吾を見給ふなと申すを、吾を見阿波多志給ひつと申し給ひて、吾が名^背能命は上津国を知食すべし。 吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して思食さく、吾が名^背命の知食す上津国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣りたまひて、返り坐して、更に子を生みたまふ。 水神・匏・川菜・埴山姫、四種の物を生み給ひて、此の心悪しき子の心荒びそば、水神匏、埴山姫川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき。
>>524 馬鹿だなぁ
神功皇后の系譜ってのは神武の系譜って事だろ
卑弥呼はそもそも神武の系譜ではないって意味だよ
読解力の無い奴だなぁ
>>510 伊都は怡土郡として交通の要衝だし奈良時代には怡土城が築かれている
奴国は那の津という名が残ってる通り
>>527 その区分なら邪馬台国は大和王権に征服されたんじゃないかな?
>>525 だからバカは黙っていろ
神功皇后の母がそうなだけであって
神功皇后の父は開化天皇の子孫だぞ
そして神功皇后は仲哀天皇の后だからな
初めから民間の血筋のモノではないからな
>>531 征服されたかどうかまで興味はないんだよ
だからそのあたりの事はどうでもいいと言っているんだ
>>436 卑弥呼ほ古代中国語の発音だとピミカな。
怡土の県主も天日槍の末裔 由来があるからこそ倭国が半島で荒ぶっていたわけで
>>530 伊都国なんか王さま居たのに
地名だけ残して国が無くなっちゃったんだろうな
大和の勢力の上に君臨するのが筑紫やん 前方後円墳の副葬品がなぜ筑紫様式なのかみんな考えないのかね?
>>529 卑弥呼も皇族だと思われるぞ
当時の国司は皇族が多かったからな
実際に卑弥呼の悩みの原因の狗奴国の男子王の卑弥弓呼も名を見てわかるように
卑弥呼の親族つまりは皇族だった
つまりは山田太郎と山田太子みたいな関係
つまりは二人ともやはり神武天皇の系譜のモノだった
>>500 の続き
東夷と縄文人の混血
これが倭人だろうな
>「纏向は古墳と祭祀のために作られた巨大遺跡 違う。 「阿波」の有力豪族による、古墳の展覧会場だな。 @阿波
墓の大きさは、臣下豪族の勢力次第。 だから、奈良盆地も河内も古墳の大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。 これらがもし、歴代続く大王陵・天皇陵ならば、陵墓の大きさ・向き・墳型など一定の規則性があるはず。 「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波
>>536 国王=豪族だから後の時代だと県主とか、そのあとだと国造とか呼ばれるようになる
7世紀までは九州の倭国が日本列島と朝鮮南部のの覇者だった。 ただ663年白村江の戦いで唐新羅連合軍に敗れて国力が衰退した。 やがて倭国は奈良の小国日本に吸収併合された。 倭国は中国の史料にも登場する堂々たる古代の大国だったんだ。 だから日本が倭国を併合したとしても、倭国とは名乗れなかった。
>>512 太陽信仰は世界中にあったからね、南米にもあるし、古代エジプトにもある
仏教が東アジアに入ってくる前のメジャーな宗教の一つだろうし
信仰がどういう分布で広がってたかはヒントになるかもしれない
>>537 日本書記見てみると
200年に神功皇后は三韓征伐をしている
つまり九州の筑紫に御所=首都を置いてそこで戦いの準備しているんだけどな
>>539 想像するのは自由だけど、それは歴史ではなく、物語、な。
>>539 卑弥呼と卑弥弓呼は皇族とは完全に違う系統の親族だった可能性もあるじゃん
皇族だったと決めつける根拠はない
>>544 後の時代では筑紫国として統合されてしまいました
>>512 まあ日本は殷と交易を成していたからね
殷と日本との関係は現代人が考えるよりはるかに深いよ
>>547 日本書紀の年代比定はデタラメ、というのが歴史学の定説だけどね。
卑弥呼って一人なん? 日巫女とかで伊勢神宮の分社の宮司を日巫女と呼んでたりして。
>>544 後の時代に筑紫国造磐井ってのも出てくるね
>>523 違う
ヤマト王権が編纂した史書に
日本の物語として記録すると言うこと
出雲を尊重していたからに他ならない
>>549 卑弥呼も邪馬台国も記紀には出てこない。
注釈として、魏志倭人伝との類推が書かれているだけ。
記紀編纂時には、卑弥呼も邪馬台国も、まったく忘れられていた。
つまり、ヤマト政権と邪馬台国は無関係ということ。
墳墓の形と墳墓の装飾と副葬品とではどれが一番被葬者の死生観を表すかと言えば副葬品でしょう 棺も熊本産だったりする 墳墓の形から吉備がキャスティングホートを握ってたとかいってるけどせいぜい古墳築造の現場監督くらいじゃないか 吉備の監督、畿内の奴隷によって作られた前方後円墳に眠るのは筑紫の王族じゃないか
>>549 まあ日本書紀をよく見てみればわかるけど
当時の日本は既に国として成っていた
それが崇神天皇の時代に天災と流行り病が発生して乱れた
神功皇后の時代には北海道を除く本州はだいたい把握されていた
それでも九州で倭国大乱の元となった熊襲の反乱が発生
仲哀天皇は九州に入れずに山口県に御所を置くくらいひどい戦いだった
それを今の現代人は知らんのな
>>555 滅ぼした相手からの祟りを恐れて、丁重に祀るというのがヤマト天皇家の伝統だね。
>>556 忘れ去られたと言うか半分無視な
ただの内乱の首謀者が卑弥呼だったから
魏の国はただ卑弥呼に騙されただけなんだけどな
>>555 それ、結果だけを見てるからそういう間違いを犯す
ではなぜ出雲を尊重してたんだ?
俺は、
出雲を、出雲の医師とは関係なく畿内勢力の支配下に置いたから
祟り神にならないように
国を譲ったという事に歴史を改ざんしたと考えているんだよ
で、こういう考え方なら
お前が言ってるように(結果だけを見て)出雲を尊重しているように見えるだろ
邪馬台国も同じ
この時は「東遷」したという話にして相手の怒りを鎮めようとしている
>>558 当時の日本というのは、記紀編纂時の日本、だね。
>>561 そのわりには、書紀の編纂者は卑弥呼をなんとか姫に擬えてるけどな。
>>558 日本書紀は卑弥呼の時代の何百年もあとに作られたものだろ
もうちょっと勉強した方がいい
>>531 どうして戦争しなきゃいけないんだ?
邪馬台国と大和はヤマトの当て字が違うだけで同じだよ
ジャポンとジャパンは同じ日本、向こう側のローマ字の当て字が違うだけ
>>567 邪馬台国というのは、邪馬臺国の略字な。
ヤマトと読ませるのは相当に無理がある。
>>565 卑弥呼は半分無視されているぞ
>>566 お前はアホか
お前がもっと勉強しろよ
記紀は聖徳太子などが編纂した記紀の大元となる天皇記などが火事で焼かれたために
新たに編纂された歴史書だぞ
バカは黙っていろ
>>569 新たに編纂されたという事は
過去の歴史を都合よく作り直してるって事だぞ
記紀の内容はすべて正しいと思い込むのが間違いだと言ってるんだよ
勉強しなさいとはそういう意味
>>540 の続き
『晋書』
其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
女王国は泰始(266年)まで朝貢してたってことね
別の条項で東夷が朝貢を始める
(276年)咸寧二年・・・東夷八國歸化
(290年)太康十年・・・・東夷絶遠三十餘國
女王国は滅んだな
>>563 文字は神武天皇の時代からあった
それは漢字な
正確に言うと殷が利用していた甲骨文字
>>572 神武天皇って、、、、
初代神武のことか?
>>494 オレの場合は北部九州に存在するのが伊都であり奴国。三世紀時点でこの2国は畿内勢力とは協力関係にあるから女王国という考え方。
邪馬台国とはヤマトの事であり三世紀には間違いなく畿内に存在している。
北部九州や畿内で神獣鏡が出たりしても、微妙に文化圏が違うのは、それは国が違う証拠だからだよ。
九州中南部辺り狗奴国も倭人の強国だから、後々ヤマトの主導権を握り、記紀を纏めるにあたって狗奴国系の
崇神天皇とルーツである神武天皇をハツクニシラスと明示した、という考え方だね。
戦後「記紀はぜんぶ嘘」といって考古学研究を進めてきたら「わりとあってるじゃん」ってなってるのが今
>>568 略字だから違うというのは意味が分からんよ
台と臺の発音は同じらしい、今でも同じなのになぜ違うといえる?
子音がこれだけ類似してるのは関連性があると考えるのが筋
>>569 >卑弥呼は半分無視されている
無視じゃなくて、編纂者にもまったく分からなかったんだよ。
だから、なんとなく、なんとか姫に擬えてみた。
>>569 >聖徳太子などが編纂した記紀の大元となる天皇記などが火事で焼かれた
ないものになにが書いてあったのかはわからないが、少なくとも内容をすべて忘れてしまうほど、当時の編纂者はバカではあるまいよw
大略は前の史書と変わらないはずだが、変わったとすれば、それは政権が変わったから。
>>577 >台と臺の発音は同じらしい
台も臺も「ダイ」だよ。
>>575 >>482 でも書いたけど
北部九州に卑弥呼がいた邪馬台国があり、その後畿内勢力が征服したという九州説でも同じ説明で済むんだよな
>>215 中華の一里は1km足らずのはず
日本の4kmではない
>>580 壱の旧字としてる文書もあるため写しミスと考えられる
壱の旧字のつくりは豆
登山の例のとおり、「と」とも読む
>>582 歴史的な事実は無視することが重要だ、ということかw
争いが減ったから環濠集落やら高地性集落が減っていったんやで
邪馬台国の卑弥呼は 倭姫命(ヤマトノヒメミコ)として 記紀に明記されている。
>>585 おいおいw
壹なら「ヤマイ」であって、ますますヤマトから離れるw
>>578 それは記紀の編纂者
その当時でも卑弥呼は無視すべき存在だったという事だ
記紀の中身見てわかると思うが
当時の歴史書の中身もかなり膨大なものだぞ
卑弥呼如きの存在は忘れ去られて当然のレベルのものだった
>>581 その考え方は魏志倭人伝における行程や戸数数字に矛盾があるから同じではないよ。
北部九州に奴国から投馬、邪馬台国を収める事は戸数的には100%不可能だろう。
また畿内説でモモソヒメ=卑弥呼説をとるなら、モモソヒメの瀬戸内海での逸話を無視できない。
倭国大乱は狭穂彦王の乱として 記紀に記録されている。
>>588 それは全然違う人物だから
卑弥呼は実は日本では小物レベルでただの内乱の首謀者だから
魏国を騙して張政を日本に引っ張ってきただけだから
>>591 そこらへんなら過去にさんざんやりつくしたけど
数字は誇張するものだから戸数は大げさに書かれているだけだという事で終わり
北部九州に邪馬台国があったという事で変わらないね
邪馬台国の長官伊支馬は生目として記紀に記録されている。 邪馬台国の副長官彌馬升は御間城として記紀に記録されている。
>>568 古代日本語に母音連続はないから
YAMATAIと言う発音はない
YAMATOと読むので正しい
>>590 想像で歴史を語るのは無理。
中国(魏)にとっては倭人伝として章立てするほどの王権のことを、ヤマト王権が知らなかったとみるべき。
まあ、無視したにしろ知らなかったにしろ、ヤマトと邪馬台国はなんの関係もないということ。
>>595 オマエのああ思うこう思うはどうでもいい。
>>594 壹
ピンイン: y? (yi1)
ウェード式: i1
広東語
イェール式: yat1, yik1
>>545 >https:::://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/ff7d72c1dd78790aa0023f83ad748b04
>問題の『旧唐書(完成奏上は945年・開運2年6月)』日本国伝の
>別種の記録をみてみよう。
>日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
>或曰:倭国自惡其名不雅、改為日本。
>或云:日本舊小國、併倭国之地。
>(日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるをもって、
> 故に日本をもって名となす。
> 或いは曰く:倭国自からその名の雅ならざるを憎み、
> 改めて日本となす。
> 或はいう:日本もと小国、倭国の地を併わすなり)。
>>580 辞書の発音では台も臺も tai だな
現代の読みで、邪馬臺 邪马台 Xie ma tai
中国語のローマ字表記でも多少のずれはあるし
xとyは時代の変化で微妙にずれる可能性があるわな
それを考慮しても、mとtはヤマトと一致だろ
これだけ類似してたらかなりの割合で同じことだと考えるほうが自然
>>598 畿内勢力が後に邪馬台国を僭称したってだけだろうな
>>598 またデタラメをw
「オオミ」ひとつでわかる嘘だぞ?
>>567 これは日本特有ではなく世界的な必然
数こそが正義だからだよ
小さな勢力では、周りの小さな勢力から資源や人を奪われる
特に農耕民族において水資源と肥沃な土壌を確保することは必須
規模が大きくなれば住民を植えさせずに発展が望める
干ばつや洪水、冷害などの飢饉が起こっても住民を救える
分業化による効率化が見込める
国が大きくなっていくのは当たり前っちゃ当たり前
>>603 それだと記紀に出てこない理由がなくなるよ。
>>600 それはこっちのセリフだぞ
お前の妄想なんぞどうでもいいわ
倭の小国百余国が、次第に連合し始め、 その途中で一時だけ生まれ、2、3代で滅んだのがどこにあるか不明の卑弥呼の女王国。 存続した期間が短く、最終的にはヤマト王権に飲まれたので記紀に痕跡が残ってない。 もしヤマトとつながってるなら、何かしら記録が残るよ。
>>608 記紀はヤマト政権のプロパガンダだから、自分たちのほかに親魏倭王がいたなんて隠して当然
>>599 だからお前はちゃんと日本書紀読めよ
特に神功皇后の章の部分をな
それ読めばお前のようなGHQの言う妄想を元にした主張なんかできなくなるから
>>609 邪馬台国の卑弥呼は
記紀に倭姫命(ヤマトノヒメミコ)として記録されているという事実だ。
記録を妄想というオマエがデタラメなのである。
>>596 それか希望的推測にすぎないだろw
七万戸だってむしろ少なく見てる可能性だってあるからな。
戸数や距離的に畿内にあるヤマトを邪馬台国とみるべきで、方角だけは意図的、もしくは勘違いで変えている、とみるべき話。
また卑弥呼が死んで四世紀以降に狗奴国が東側に勢力を伸ばし、ヤマトの主権を握ったとすれば、女王の記録が消された理由が説明出来るだろう。
またモモソヒメが属する欠史の記録に乏しい理由も。
>>613 魏志倭人伝の卑弥呼がGHQのプロパガンダだぞ
まあよくあんな張政が書いた手記を元にした魏志倭人伝をそのまま受け入れられるよな
戦後でもないのにマジでアホだろう
>>615 なぁ、
それ本当に卑弥呼の事なのか?
ただの願望じゃね?
>>484 全部書いてあるじゃん?
倭国語と日本語は違う言語である事を証明すればいいのかな?
>>617 ほう、GHQがシナの古文書を改ざんしたのか
おめでたいな
>>608 大陸側が日本についてどういう記載をしてきたかは日本側が分かることじゃない
向こうの時代も違うし統治も違う
日本側の記録が大陸の当て字にまで解説してるはずがないだろ?
日本人は当たり前にヤマトと呼んでたわけで
ジパングからジャポンに変わったミステリーなんて言わないよな、単に当て字が違うだけ。
>>615 >記紀に倭姫命(ヤマトノヒメミコ)として記録されているという事実だ。
この記録はホントにあるのかいw
つか、どうみても🇭🇺ハンガリーやんw 妙な人民解放軍
>>616 卑弥呼時代つまりは神功皇后の時代の日本書記は結構詳しいけどな
その当時の重要な事件はだいたいまとめられている
卑弥呼は魏の国に援軍を求めて日本を転覆させようとした国司レベルの女性
それなりの地位や責任はあったが魏の国に援軍を求めたことが伊都国の監視システムの一大卒により発覚
すぐに処刑された
ただそれだけの事だからな
>>484 ダイワじゃないよ
オオヤマだぞw
倭人 = ヤマト
※隼人(ハヤト)と同じで「人=ト」
大倭はオオヤマ = オオヤマツミ でーす
答え出てますw
我々は、記紀に倭姫命(ヤマトノヒメミコ) と書かれているという事実を受け入れるしかない。 伊支馬、ああ生目な、彌馬升、ああ御間城なと、 書いてあるという事実を受け入れるしかない。 記紀に倭姫命、生目、御間城と書いてあるのに、 ソレを見えない、見えませーんと言っている奴が、 妄想しているだけでしかないのである。
>>616 それこそ願望
方角は正しく数字だけ誇張していると考える方がより正しい
そもそも戸数なんてのは、多いか少ないかが分かればいいんだから
>>621 日本書紀は大陸の史書をかなり参考にしてるし
魏志倭人伝も当然承知してる
>>622 倭姫命は実際に出てくるが、全然関係のない人物
水神天皇の娘にして伊勢神宮初代斎宮
ヤマトタケルに女装させた人物
>>615 こういうバカが出てくるように仕向けたのが戦後のGHQ
魏志倭人伝はマジで混乱の元な
そもそも卑弥呼は同族の卑弥弓呼に嫌がらせをされていたモノ
纏向は崇神垂仁の時のヤマト王権の中心地。 これははっきりしてんでないか。 邪馬台国の女王国が出てくる必要性がない。土地・遺跡・三輪山・古墳の由来、記紀でだいたい矛盾ない。 というか合いすぎて凄いなあとか思うんだが。
>>631 まだGHQいってるのか
邪馬台国論争は江戸時代からあることを知らないようだ
>>626 役回りも立ち回りも全然違ってて
読み方だけが似ているから同一人物だって言ってるようなものだぞ
玉木宏と玉置宏を
同一人物だと言ってるのと同じ
イワレヒコは広島は阿岐國に最初建国した
中華思想で言う倭国の中心がここだと思って!
オオヤマツミの神社も一緒に真ん中でしょ?
↓当時の倭国支配地域の答え出てますw
↓このことから、卑弥呼時代はまだ西日本のみとわかるね倭国範囲w
畿内は倭国の端っこ、まだw
ここまで答え出てますw
倭姫命は熊襲征伐で倭健命に策を授けた事が記紀に記録されている。 コレも魏志倭人伝の狗奴国との戦いが そまま書かれていると言っていいだろう。 また、博多祇園山笠の伝承では、 夷狄との戦いで活躍した家臣に旗を与えて大幡主命と名乗らせたと伝わっており、 コレが魏志倭人伝でいう張政が狗奴国との戦いで授けた黄幢である事も間違いないだろう。 また、倭姫命は年の離れた弟を 執事させた事も伝承として伝わっている。 コレラの伝承から、倭の姫命が邪馬台国の卑弥呼である事は 100パー確定できる。
>>633 本居宣長や新井白石が言うように卑弥呼は偽女王
邪馬台国論争はマジでどうでもいい
そもそも魏志倭人伝がデタラメだらけなのだから
>>628 だったら漢字を読めるようになってからは、邪馬台国の漢字はよろしくない意味だと分かって
「大和」に変えたんだろう
>>638 どうでもいいのに、なんでこのスレにいるんだ?
ちなみに、女王卑弥呼が登場する史書は魏志倭人伝だけだ
記紀には出てこない
>>638 偽女王って言い方がすでに無学
天皇家の系統とは違ってたとしても
その当時は今の天皇家の先祖が日本全国を支配していたわけではないのだから
他の勢力の女王を偽女王と呼ぶのは勉強不足だぞ
文献や物証がないことには「ぼくのかんがえたさいきょうのやまたいこく」話になっちゃうのが厄介なところだな(´・ω・`)
>>627 行程で方角が正しいとすると場所は九州より南の海中になるだろw
つまら九州説の場合は距離と戸数に曲解する必要があり、具体的に該当する場所、古墳や人物がいない。
畿内説の場合は方角だけが間違いとするだけで、しかも数世紀後の倭国伝では方角も訂正して邪馬台国とはヤマトであると書かれている。
また箸墓やモモソヒメという、ある程度場所や人物も比定出来る状態だからな。
>>627 行程で方角が正しいとすると場所は九州より南の海中になるだろw
つまら九州説の場合は距離と戸数に曲解する必要があり、具体的に該当する場所、古墳や人物がいない。
畿内説の場合は方角だけが間違いとするだけで、しかも数世紀後の倭国伝では方角も訂正して邪馬台国とはヤマトであると書かれている。
また箸墓やモモソヒメという、ある程度場所や人物も比定出来る状態だからな。
>>643 方角間違えるような連中は、当時の船で海を渡れない
そもそも、太陽を見れば誰にでも分かる
倭の姫命が卑弥呼であれば、 倭国大乱で狭穂彦王が殺された後、 戦いに勝った生目が、 彦坐王の娘と婚姻して、 その間に出来た倭の姫命を、 邪馬台国の女王にした、 その政治も理解する事が出来るようになる。
>>642 そこが重要な部分で
魏志倭人伝にしか出てこないからマトモに邪馬台国を研究する方法がない
なので考古学者は邪馬台国を専門に研究する人などほとんど存在しない
しかしなぜか邪馬台国スレでは
考古学者のほとんどは畿内説だ
という頭の悪い主張をする奴がよく出てくる
畿内説を支持している人の方が多いという主張をする奴かどうか?
というのが頭の悪い奴かどうかを区別する手段となるわけだよ
>>641 そもそも神武天皇が九州の日向出身だからな
景行天皇も神武天皇の故郷の九州には数年滞在していた
あと卑弥呼を神功皇后を騙った偽女王と表現しても問題はないだろうよ
>>646 邪馬台国は高良山周辺を王都とし、
東は宇佐大分まで広がる地域の事である。
>>649 太陽は東から登って西に沈むんだよ
知らなかったのか
>>645 当事海を渡って計測する技術はないけどな。
また方角間違い例なんて普通にある。
何より倭国伝では行程の方角を南から東へ訂正してるぞw
>>648 日本国内には記紀があるし
記紀編纂以前から日本にはたくさんの書物があったんだけどな
しかも年代付きで
>>643 それも散々やりつくしたけど
現代の舗装された道路じゃないのだから
海岸線に沿ったり、山や川を超えるために大きく迂回すればそのくらいになるんだよ
南の海中になるのは直線距離の場合
古墳時代の人は山や川も気にせず一直線で進めたんですか?www
それに、どれもこれも百里単位
計測方法までは知らんけど
一日歩けは百里とかそんな数え方だったんじゃないか?
ということで説明できてる
神功皇后は丹波氏出自の姫であり、 その当時まで、邪馬台国の勢力が、 倭で外戚として大きな力を持っていたことが分かるのだ。
>>412 > 楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
卑弥呼の使者は最初楽浪郡と交易していたようなんだよな。魏が楽浪郡を支配下に置くとそのまま魏に乗り換えて朝貢するようになったから楽浪形土器の存在は重要視だね。
> 邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
最近は考古学者の側からこういう事を一般向けに発信してくれるようになったな。
こういう事はもっと一般にアピールして欲しいな
>>643 畿内説は、
三角縁神獣鏡が出土するたびに
ここが卑弥呼の墓だと大騒ぎしては、無かったことにするの繰り返し
このスレでは、最後の拠り所だった箸墓古墳も、どうやら卑弥呼の墓ではないという事実を認めてるって訳だし
具体的な場所が無いのは畿内説もそう変わらない
>>654 訂正じゃなく、当時の地理観で著者の見解を書いただけだろ
なにしろ現地にいってない
>>634 記紀の記録と伝承に基づくものであり、
オマエのああ思うこう思うとは、
レベルが違う話なんだよ。
専門家ですら棚上げしてる問題をお前らど素人が断定できる訳ねーだろw
>>661 女王だったことをうかがわせる記述が、記紀には全くない
>>650 出雲の国譲りと同じ
九州の邪馬台国を乗っ取ったから「東遷」したという事にしているだけだ
邪馬台国の関係者が祟り神にならないようにするためにな
>>659 三角縁神獣鏡を持ち出すと祇園山古墳も被弾するからやめてもろてw
1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる 2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱 3世紀 倭国王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国が対立 4世紀 空白の世紀 5世紀 奈良の大和王権が北九州〜南東北を平定 雄略天皇「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」 6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱 7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂 8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱 9世紀 最後の朝貢を持って隼人の名が消える、北海道と南西諸島を除く日本統一
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
>>661 記録と伝承を読む限り
魏志倭人伝の卑弥呼とは別人だと分かるんだけどな
>>656 結局推論だけでは話にならないよ。
倭人伝の南から倭国伝で東に訂正、
古の邪馬台国をヤマトと記してるのは紛れもない事実だからな。
それを否定するのが九州説、まあ、北部九州説は行程も戸数も実際は、100%証明不可能な説だよ。
>>666 つまりさぁ
畿内説も九州説も
具体的な比定地はない
という事だろ
両者ともに具体的な場所が無いのに
九州説はどうだとか言うのがおかしいという話だよ
分かりましたか?
>>670 お前の言ってる事も推論なんだよな
倭国伝で訂正?
倭国伝で誤記したんじゃないのか?
訂正したというのはお前の推論
こういうことになる
>>670 訂正じゃないんだって
なんたって現地にいってない
当時の地理観から誤りじゃないのかと考察してるだけだ
>>671 俺は曖昧だったり捏造だったり、断定できない事なら
九州説だろうと噛みついてるけどねw
だからわざわざ皮肉交じりに
>>666 と書いた
名前が似てるってだけで結びつけるのは、こじつけでしかないのだよ。
>>659 箸墓は今も卑弥呼候補であるモモソヒメの墓だけど、
九州説では何も無いから結局推測願望に頼るしかないんだろ?
>>673 そんな個人的な推論、願望を押し付けられてもね。
>>677 訂正したというのが推論だろ
現地にいったという記録は何もないのだから
>>672 つまり九州説では倭人伝、倭国伝も誤記してくれて初めて成立するなんだな。
ご都合主義にも程があるぞ、それじゃ話にならないな。
>>676 という事は、
箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないとなったら畿内説は終わりでいいのかな?
他に有力な古墳が出てきても
箸墓ではないなら畿内説ではないと?
>>668 奈良飛鳥も渡来人の痕跡だから。 @阿波 >>679 逆だろ
太陽見れば分かる方角をなぜか何ヶ月も間違え続けたという曲解をしないと畿内説は成立しない
>>679 中国が書いた日本や倭人の記述で一字一句間違いのない歴史書って存在してるのかな?
>>678 意味不明なんだが。
推論ではなく行程において方角記述が南から東に変わっているのは事実だw
>「纏向は古墳と祭祀のために作られた巨大遺跡 違う。 「阿波」の有力豪族による、古墳の展覧会場だな。 @阿波
墓の大きさは、臣下豪族の勢力次第。 だから、奈良盆地も河内も古墳の大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。 これらがもし、歴代続く大王陵・天皇陵ならば、陵墓の大きさ・向き・墳型など一定の規則性があるはず。 「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波
>>679 そうか
魏志倭人伝で記述間違いがないと成立しないのが畿内説って事だよな?
数字は誇張してるのだから間違いではないし
伝聞なら記述間違いというわけでもないしな
魏志倭人伝を素直に読めば九州説
という事だよ
>>684 現地にいって記録した魏志倭人伝を
現地にいかず机上だけで独自の解釈で修正あるいは誤記した
これ以外にどう考えるんだよ
>>684 魏志倭人伝では南や東にしか進んでないんだが
倭国伝ではどうなってるんだ?
南を東にしてて
では東は?
北に書き換えてるの?
纏向遺跡が邪馬台国かどうかというのは、九州説畿内説とは別の話。 遺物からして大陸や九州の影響が少なく、これを邪馬台国とするのは無茶もいいところと思う。
〜 中文を読めない畿内説は単なる妄想作文である 〜
■史書に基づけば九州説以外有り得ません
倭人伝における最大の謎「水行陸行」の行程は朝貢に来た倭人の説明を書き記したものであり、その開始点は帯方郡である。
・帯方郡を出て
↓南に船で20日
・半島南部の投馬国
↓南に船で10日
・末盧国に上陸し、伊都国の入国管理局で停留
↓入国許可が出て迎えが来る
・女王の都へ(約1か月後)
つまり中国は対馬海峡の両岸の総称を女王国と呼び、
倭人は半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいた。
女王の都とは、この邪馬台国の中にあった首都である。
位置関係の図:
※半島南部の投馬国がのちの任那になったと思われる
■魏志韓伝の記述
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里〜」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝の記述
@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜投馬国は女王国より北にある)
A@以外は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜は女王国の東・西部にある)
B女王国より南には敵対する狗奴国がある
C女王国の東には海があり、その先にまた倭種の国々がある
■その他の記録文献より
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
>>680 終わる訳がない、あくまで箸墓は物証の一つ。
現実的には墓の候補が無いともいえない。例えば平城京や藤原京は古墳が下にあることが判っているからな。
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。 「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、 奈良盆地には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波
丹波国造氏は神功皇后の時代にも、 天皇家の外戚として強い力を発揮し キングメーカーとして君臨していた。 それを遡っていくと、 倭健命の東征を成功させたのは、 丹波氏と御間城氏の連合軍だった事も分かる。 そうなると、熊襲征伐に対峙し、 大幡主命に旗を授け、 歳の離れた弟を執事させていた倭姫命が、 その名の通り、邪馬台国の卑弥呼である事は、 100パー間違いのない歴史の事実として、 確定する事が出来るのである。
>>693 つまり、卑弥呼の墓っぽければどこでもいいというのが畿内説って事じゃないか
九州説を笑えるものではないwww
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。 「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、 奈良盆地には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波
>>428 纏向の施設を造れるとしてそれが「全日本的な動員力」になるのは発想が飛躍しすぎ
>>696 卑弥呼の墓候補なんていっぱいあっても、どれも断定に至ってない
祇園山古墳にしても平原にしてね
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、 大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。 なんでかな〜 @阿波
畿内は九州みたいな田舎と違うから遺跡が見つかりにくいんだろうな
>>687 倭人伝では畿内説は方角だけ。北部九州説では戸数と日程と距離を曲解しないと成立しないだろ。
九州南部でも七万に該当するような集落はなし。もしくは行程的には海中w
しかも弥生時代の丹山は紀伊半島や四国にしか確認されてないからな。
単純に素直に読めば九州説なんて100%無理があるだろ。
>>699 特にそれが問題とは考えてないけどな
畿内政権に征服された側の墓なので現存してない可能性もある
だからどこかの古墳がそうだと決めつける必要もない
考古学以前に邪馬台国は大和、これは中国の史書に明記されてる 上でも書いたがもう一度書いておく 『所在地』 @アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書) Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書) A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書) ↓ 邪馬台国は大和 『一大卒』 @一大卒は中国の刺史と同じ(魏志) Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書) ↓ 一大卒のいるところは大和の政権の属国 『日本と倭』 @日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書) A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史) B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀) C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降) Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降) ↓ 改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事 九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない
倭姫命が卑弥呼であれば、 伊支馬は生目であり、 彌馬升は御間城である事も分かるし、 倭国大乱も狭穂彦王の乱である事も分かるし、 107年に朝貢した倭面土国王師升も、 ヤマト国の日子坐王である事も分かる。 この様に、日本の弥生の歴史の謎を、 全て氷解させるのは、 倭姫命を邪馬台国の卑弥呼とした場合のみなのである。
>>704 正しい
古墳の多くはこれまでに潰されてきているので、卑弥呼の墓が現存していない可能性もある
魏志倭人伝を素直に読めば九州しかない 九州までは田舎を含め詳細に経路書いてるけど、出雲や吉備は無視だからな
隋書で方向を訂正なんかしていない そもそも通ったルートが全く違う 魏志倭人伝はコジェ島から南に渡海して 末盧國へ 隋書倭国伝はチェジュ島を見ながら東に渡海して筑紫国へ 邪馬台国は南にあり畿内ヤマトは東にあっただけのはなし
>>703 あのな
畿内説だと、逆に距離が短すぎ
中国自動車道が開通してないと畿内までたどり着けないよwww
それから
大分県には丹生という地名があるし
豊後国風土記にもかつて丹あったという記述がある
風土記が書かれた時点での昔の話なのだから
古墳時代にはすでに存在していたことを否定はできない
中央構造線に沿っているのだから九州で出ていないと考える方が知識不足
>>706 新唐書混ぜたらゴミに成り下がるんよ?
あれは偽書に騙されて書かれてるんでアテにも拠り所にもできない
>>696 単純に候補の層が厚いだけだろw
なりふり構わず箸墓を否定せざるを得ない、九州説とはレベルが違うんだよ。
>>1 > 海外でも「KOFUN」として知られる。
また産経新聞か、と思って見たら、やっぱり惨刑だったわw
>>706 「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、 奈良盆地には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。 @阿波 >>713 遺跡がでるたび「ここが卑弥呼の墓だ!」を繰り返すのが畿内説
>>704 それでは永遠に九州説なんて成立しないよ、まあ今も終わった話なんだけどね。
>>713 層が厚いという事は決めきれないとも言える
どれだけ言い訳しても、卑弥呼の墓っぽければどこでもいいという事を否定できてないな
鉄器等の出土状況を考えると、何らかの勢力が九州から畿内に移ったのだと思うけどね 地名の移転も西から東と思えるし、曹操の副葬品と同種の鉄鏡が出土したのも九州
>>711 >中央構造線に沿っているのだから九州で出ていないと考える方が知識不足 弥生時代に「丹」を採取していたのは、「阿波」だけ。 たとえ山に「丹」鉱脈が有ろうとも、採取していなければ只の山。 @阿波 >>709 詳細に語って温泉も火山の記述も無し、まあ九州の話ではないよね。
丹山も無いんだしなw
邪馬台国が狗奴国に負けたってのは無理がある そうであれば卑弥弓呼が王になれば良いのに台与を王にしてる 俺は卑弥呼と卑弥弓呼は王位継承を争った近い人物だと思ってる だから同じ組織内の権力争いでお互いが大嫌いだった
>>720 >鉄器等の出土状況を考えると、何らかの勢力が九州から畿内に移ったのだと思うけどね 九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 九州での鉄器製作、ほとんど無し。 @阿波 倭国大乱の狭穂彦王の乱で、 邪馬台国彦坐王の嫡男、 狭穂彦王が生目に敗れ死亡した。 生目は彦坐王の娘を戦利品として 人質に取ったのである。 しかし、自ら邪馬台国の王になるだけの力は持っていなかったので、 そのヒバヅメの姫との間の娘倭姫命を 邪馬台国の女王にした。 ソレが女王共立で間違いないだろう。
>>722 魏志倭人伝の時代に阿蘇山が大噴火してたのかね?
それから、
魏志倭人伝は観光ガイドではない
>>723 >だから同じ組織内の権力争いでお互いが大嫌いだった 「卑彌呼」と「卑彌弓呼」の一時代だけな。 それ以外は、仲が良い。 @阿波 >>720 倭人伝には鉄に関する記述なんてないけどな。
あっても鉄鏃、石や骨と同列扱いだぞ。
鉄に関しては九州説の連中のミスリードだね。
それに二世紀時点で淡路島と近江で鉄工房が確認済みだし、鉄は邪馬台国論とはもはや無関係だよ。
そして、 和気清麻呂がわざわざ宇佐神宮に行ったという事は 天皇家の形式上のルーツもそちらにあるという根拠でもある
>>728 >それに二世紀時点で淡路島と近江で鉄工房が確認済みだし 「阿波」をわざわざ避けてるな。 怖いのか? わははははは @阿波 >>726 温泉辺りは記述があっていいだろとは思わないのかな?詳細に回ったならね。
まあ海人の記述で一番合致するのは紀伊半島南部や四国東南辺り。
冬温暖で朱丹を使う海人集落だろ、これはガチな話だ。
狗奴国は仲哀の時代に勝った。 と言う事は、生目や倭姫命の時代に は負けたのである。 邪馬台国は熊襲征伐で成果を上げたから、 倭健命の東征に繋がった訳で、 記紀の通り垂仁にしても倭健命にしても、 邪馬台国は狗奴国に勝ったというのが 理論的に正しいだろう。
>>729 >台与が王になってるんだからな 「壹與」の時代に、粟国(「邪馬臺国」)と長国(「狗奴国」は統一された。 @阿波 >>598 魏志倭人伝に「アイと言う」と書かれてたと思うが?
高貴な者が下々の者から声をかけられた時に返す言葉がアイ、って話だったかな
そもそも九州に邪馬台国を設定する根拠はない
>>706 上に書いたように土台から中国の史書は邪馬台国は大和であると明記してる
鏡や絹はむしろ九州が弥生時代後期から急激に衰退してる証拠にしかなってない
鉄も弥生の鉄器は石器の延長線上の稚拙な物でしかなく先進性の証でも何でもない
土器から墓制まで独自方式を失っている状態で九州に中心性など皆無
何をもって九州などと言ってるのかそもそもが分からない
>>732 宮崎あたりじゃないのかな?
で、畿内に温泉は存在しないの?
有馬温泉とかだと親和の時代から存在してたはずだけど
記述がないって事は畿内説は成り立たないって事でいいのかな?
>>731 いや阿波レベルなら畿内信貴山もだよw
しかも鉄の神、金山彦、金山媛神社の所在地だし、金屎なら普通に出土してる。
>>638 デタラメっていうか、
🌾🇯🇵上代日本語で説明出来ない所あるよなw
正確な発音が分かる🇯🇵日本だからこそバレる。
>>737 オレは倭人伝では役人が中国地方を詳細に回ったなんて一度も主張してないぞw
>>740 なら、温泉の記述が無くてもいいんじゃないの?
>>737 >有馬温泉とかだと親和の時代から存在してたはずだけど >記述がないって事は畿内説は成り立たないって事でいいのかな? 同じ理由で、九州もな。 @阿波 武帝から授かった金印は安曇族の氏神のある 志賀島から出土した。 と言う事は、奴国とは、安曇族を主体とする、 博多湾周辺の海人族だった事が分かる。 そして海人族は弥生中期より、 博多湾から日本全国に進出して行った事も分かっており、 それら海人族の勢力拡大の結果、 武帝に朝貢して金印を授かるという結果に 結びついた事が分かる。
>>728 國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭
魏書東夷伝
>>738 「阿波は鉄器鍛冶王国」 阿波は、遺跡発掘が少ない発掘後進県にも関わらず、 阿波一国だけで現在、阿波各地10か所もの弥生時代鉄器鍛冶炉遺構が出土している。 「加茂東原遺跡」・「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」 ・「庄、蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 このように阿波は、他地域に見られない最高・最新の文化水準を誇り、まさに「邪馬臺国」に相応しいと言える。 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 「九州は鏡が沢山出る」
「絹が沢山ある」
「鉄器が多い」
を九州の根拠だと思ってる人が沢山いるようだが全く見当違い
出土物をちゃんと調べたのかと聞きたくなる
・鏡は邪馬台国から100年は前の古い物を打ち割った鏡片や小形?製鏡ばかり。まともな新式の完形鏡が出るのは古墳出土
・絹は最盛期の中期から激減し、麻布よりも稚拙な断片が出るのみ。これなら纏向の絹の巾着でも大した差が無い
・鉄器は繰り返し指摘してるように原始的な石器の代替品でいわゆる鋤クワは後期後葉の出現で全国でも20例程度しかおらず社会に何の影響も与えてない
そもそも
>>706 で記載したように中国は邪馬台国は大和であると認識してるので九州など最初から範疇にさえない
これに加えて生活土器も墓制も今まで全く存在してなかった畿内の物に塗り替えられてる状態で九州にはなんの中心性も存在しない
このような状態でなぜ九州だというのか全く理解に苦しむばかり
>>746 冬でも生野菜とか、裸足とか
畿内じゃないね
>>740 佐賀から福岡に入るコースに温泉なんてない
武雄はぐっと南だしな
阿蘇のイメージだろそれ
また、弥生の博多湾周辺の海人族は、 銅剣銅鉾を祭祀の道具とする 部族である事も分かっている。 かつて銅剣銅鉾文化圏と言われた地域は、 弥生中期後期の海人族の拡大の範囲を 示している事が分かるのだ。 その中でも、大阪湾周辺に、 特徴的な銅戈を祭祀の道具とする部族があった。 コレラは一部、長野県の安積野でも出土している。 コレラ、弥生中期後期に大阪湾に進出し、 一部長野県安積野に進出していった部族とは、 ズバリ物部氏の祖先である饒速日の部族であり、 饒速日の天孫降臨として、 記紀や伝承として記録が残っているモノである。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、 九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いという。 なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか? 九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波
>>724 原材料の話ではなく、時代が古いと九州の方が鉄器の出土品が多いのよ
時代が下ると畿内が多くなるから、畿内勢力が強大になっていったのが分かる話な
徳島は萩原墳墓群や丹といったものがあるから、邪馬台国に関係した土地の可能性は大きいと思う
粟が豊富で阿波という地名も素晴らしく、忌部氏とも関連がある土地だ
ただ、近畿式銅鐸の分布に徳島も入っているから畿内勢力だったのでは?
文化圏=勢力圏内という考え方は違うが、勢力圏内の目安と仮定すると徳島は大和朝廷の基礎に関わりが大きいのでは?
国生みの島である淡路島は、阿波路としか言いようがないし、徳島はかなり重要な土地には違いないと思う
この様にして、饒速日の天孫降臨が、 銅剣銅鉾を祭祀の道具とする 博多湾の海人族の西日本への進出という 考古学上の事実として確定した訳だが、 天皇家は、高天原で、この饒速日と 同族であったと言う訳だ。 と言う事で、高天原とは、ズバリ、 博多湾周辺である事も歴史の事実として確定する。
>>747 気候は根拠に使えない
1.奈良盆地も福岡市内も冬の平均気温はほぼ変わらない
2.雪が降りやすいのは福岡>奈良
九州説は人口面で成り立たないんだよな まして北部九州説はどんな過密人口だったんだよってレベル
>>751 >ただ、近畿式銅鐸の分布に徳島も入っているから畿内勢力だったのでは? 何をとぼけたことを。 銅鐸ももちろん、「阿波」発祥。 「阿波」は、銅鐸王国。 @阿波 奴国不弥国は実際そんな国があったかどうかも疑ってるんだけど まあそれは良いとして奴国が金印貰ったてのは違うでしょ もし貰ってたら何故魏志に書かないんだ? 記述があまりに素っ気ない
>>754 邪馬台国の卑弥呼とは
倭人の小国の連合国家が共立した女王
今で言うと
EUの大統領みたいなもんだ
ECの中にドイツやフランスが存在するように
倭人の連合国家の中の一つが邪馬台国だし、
もしかしたら畿内勢力の国も含まれてたかもしれない
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個(29遺跡)が出土している。 古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数の銅鐸が出土するのだろうか? @阿波
・倭国は西日本の豪族の連合体だが、北部九州が加わっていたのはいつからか? ・豪族連合の祭祀の中心が畿内になったのはいつからなのか? 今は邪馬台国がどうこうなんかよりこっちのほうがメインじゃないのかね
銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡の多さに驚かされる。 まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。 @阿波
じぶんで、匈奴に拉致されたとか書いてるし 支配できてないんだろう。城郭の内側だけ。
「徳島県出土の同范銅鐸」 川島銅鐸(吉野川市) − 加茂岩倉遺跡銅鐸(島根県雲南市) 伝脇町銅鐸(美馬市) − 荒神谷遺跡銅鐸(島根県出雲市) 安都真1号銅鐸(徳島市) − 種松山銅鐸(岡山県倉敷市) 伝榎瀬銅鐸(徳島市) − 山町銅鐸(奈良県奈良市) 倭国(阿波)から各地へ拡がっていった銅鐸たち。 @阿波
古墳をやめることができたのは仏教のおかげ。 寺院建築の伽藍を真似て神社も建築化した。 神社は、だから、前方後円墳と同じ構造物。 前方後円墳の謎は神社建築に埋め込まれている。 あれは女体と魔羅に他ならない。 ホトを突く=版築であり、心御柱はファルス。 材を切り出して運ぶ姿は金精様の山車に異ならず、かなまら祭りまんま。 古墳から遺体を取り除いたのが神社。
>>756 銅鐸は中国発祥だよ
それに、近畿式銅鐸は畿内で生産されていた
徳島発祥というのは、何か重大な物が出土したの?
>>766 福岡の遺跡からオンドルの跡が出てきたけど、気候的にあわなかったのか普及はしなかったみたいやね
>>768 「名東銅鐸」 名東銅鐸は、弥生集落の一角から出土したもので、扁平鈕式という型式に分類されます。 高さ39.3a、重さは877.8cしかありません。 裾内部に突帯が一つあり、音を鳴らすための機能は備わっているのですが、使用した形跡はみられません。 「見る銅鐸」だったのでしょうか。 鮎喰川流域では「聞く銅鐸」も「見る銅鐸」も出土しています。 「阿波」における銅鐸のまつりが変化する様相を観察できる地域として注目されます。 @阿波 >>766 宮崎の太平洋側の南部とか
あるいは大分県の旧海部郡あたりとか
黒潮の流れの具合によっては南国気分だな
中央集権で男子承継のヤマト政権 連合国家で女王も擁立する邪馬台国 国のかたちが別物
箸墓古墳を空けると、そこに一本の古びたビデオテープが 再生してみると「ナイスですね」の叫び声
また、天皇家が、高天原から高千穂に天孫降臨する際、 道案内をして伊勢に帰っていった猿田彦という部族が居た。 弥生中期に、沖縄から北海道まで、 日本全国に、貝の道という 物流網があった事が考古学的に分かっており、 猿田彦が南方系のC1a1系の部族である事も分かるのである。 また、C1a1系の歴史上の有名人は 羽柴秀吉であり、これもまた猿と呼ばれており、 C1a1系の部族が猿の風貌をしていた事が分かる。
>>771 九州は全般的に雪も降るんよ
イメージは南国かもしれないけど、実態としては
ちゃんとスキー場(天然雪)もできるくらい雪がある
日本列島には倭と大和と二つの国が存在していた説を支持します
>>772 貴重な銅鐸なんだな
>>765 を見ると、徳島から畿内に進出したとも思える
香川の石も石棺として各地で出土しているな
言える事は、何らかの勢力の重要地だった
>>750 それは単に遷都したからだろう
九州がいくつかの火山の噴火とか地震とか台風とか災害のオンパレードでとても永年住める環境になかったんだろう
特に台風洪水は毎年のことだからな
で、色々探しているうちに九州を離れたんだろうな
当時は関門トンネルなんてねえし、高速道路もねえからな
瀬戸内を中心に周囲を探索していけば阿波も丹波も引っかかるだろうしな
当時の船は大航海時代の荒海を渡る帆船のようなものはなく殆どがガレータイプの漕ぐ船だろう
ということは、その時期の海流によって行き先が結構変わるんだよ
今みたいに灯台とかあるわけじゃねぇんだから海上での方向性は日中はともかく夜間なんか当てにならねえだろうな
後になってなんで九州方面に行幸に行かないかって?
そりゃ、海賊の巣窟になったからだろ
金品運んであんな穏やかな海を行ったり来たりしたらしょっちゅう襲われるからな
邪馬台国に話しを戻すと、 狗奴国の長官が狗古智卑狗と明記されている為、 久々知の豪族である事が分かり、 現在の菊池の豪族である事が分かるので、 弥生中期後期に菊池を勢力範囲とするクニは、 熊襲であると確定する事が出来る。
銅鐸でも、四国の阿波 稲作でも、四国の阿波 行程でも、四国の阿波 海人でも、四国の阿波 鉄器でも、四国の阿波 辰砂でも、四国の阿波 土器でも、四国の阿波 勾玉でも、四国の阿波 神社でも、四国の阿波 古墳でも、四国の阿波 木簡でも、四国の阿波 石器でも、四国の阿波 鯨面でも、四国の阿波 神道でも、四国の阿波 寺院でも、四国の阿波 気候でも、四国の阿波 植生でも、四国の阿波 地勢でも、四国の阿波 銅剣でも、四国の阿波 銅鏡でも、四国の阿波 風土記でも、四国の阿波 魏との交流でも、四国の阿波 天皇家大嘗祭でも、四国の阿波 ※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波
>>777 特に福岡は玄界灘の風が寒いよな
鹿児島までいくと本当に南国だが
過大評価はしたくないが、古代人の航海術は結構凄いよね 殷墟から沖縄の貝殻が出てきたのは驚いた
>>779 狗奴国を熊本や鹿児島に比定すれば
狗奴国から攻められている邪馬台国はそこに隣接した場所
つまり、宮崎県南部でも
それほどおかしくない
九州を半分にぶった切って南側を狗奴国とすれば
旧海部郡が隣接する場所だと言ってもおかしくない
また投馬国とは、宇美より水行20日で、 古代の水行34日が岡田宮から高千穂であるので、 その2/3の位置の美々津が投馬国と言う事になる。 また投馬国の長官副長官は 彌彌、彌彌那利であり、美々津耳川周辺の豪族である事が分かる。 また耳川周辺には妻やキ間神社があり、 古代に投馬国があったのは間違いないだろう。
>徳島発祥というのは、何か重大な物が出土したの? 「名東銅鐸」 名東銅鐸は、弥生集落の一角から出土したもので、扁平鈕式という型式に分類されます。 高さ39.3a、重さは877.8cしかありません。 裾内部に突帯が一つあり、音を鳴らすための機能は備わっているのですが、使用した形跡はみられません。 「見る銅鐸」だったのでしょうか。 鮎喰川流域では「聞く銅鐸」も「見る銅鐸」も出土しています。 「阿波」における銅鐸のまつりが変化する様相を観察できる地域として注目されます。 @阿波
>>777 天然雪のスキー場なんてない
天山は人工雪だ
>>785 玄界灘の湿った空気と上空の寒気が重なると雪になる
寒気の下がり方次第で雪になる
>>790 日本最南端の天然雪ゲレンデは宮崎にある
これらは、鮎喰川流域の「聞く銅鐸」だろう。 後ろの数値は銅鐸の高さ(cm) @阿波 安都真2号銅鐸 徳島市入田町安都真 21.7 安都真3号銅鐸 徳島市入田町安都真 24.6 安都真4号銅鐸 徳島市入田町安都真 21
この様にして、對馬国も壱支国も 末盧国も伊都國も奴国も 不彌国も投馬国も狗奴国もどの地域か分かる。 ソレらを、白地図に塗りつぶしていった時、 山門八女から宇佐大分に空白地が出来、 ソレが邪馬台国と言う事になり、 狗奴国と南で接し、對馬国、壱支国、 末盧国、伊都國、奴国、不彌国を 一大率を置いた北の国とする地域で、 東に1000里海を渡って倭種の国があるという地理関係が、 現代に再現できる事になる。
もう畿内説を真面目な顔で言ってる学者も寺澤氏ぐらいになったな とにかく纏向遺跡から本当に何も出てこないから畿内説の学者は狂ってしまった 今は何とか九州と結びつけようとアホな論を展開しているが 見るも無残なゴミ論文の山と化している 特に年代測定と鏡の議論で畿内説の学者は叩きのめされて散っていった
四隅突出墳丘墓は弥生時代後期に入り広島と島根の県境近くから始まったんだよな その後、広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山と広がっていく 紀元前後に出雲地方で栄えた集落が営みを終焉するのと入れ替わるように広がっていく四隅突出型墳丘墓 四隅突出型墳を作った集団は、イザナミが黄泉に逃れた後山陰を支配した勢力なんじゃないか?
>>795 そのうち、「阿波」に取って代わるよ。 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。 記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。 旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波 >>796 湖に遺跡があったり古墳があるなら、邪馬台国は空の上かもな
アホなネタにいつまでしがみついてんのさ
>>798 >「阿波」に跪くのは、時間の問題。
つまり現時点で跪いてるのは誰もいないって事www
また、邪馬台国より南に4000里に、 小人の国侏儒国があると言う。 近年、山門八女から280km南の種子島の 広田遺跡より、弥生中期後期の、 小人大人が埋葬された集団墓地が発掘された。 侏儒国=種子国、 4000里=4000x70m=280km、 ドンピシャである。 種子島は実際には侏儒国=シュジュコク から来た地名である事もわかってしまったのである。
>>750 卑弥呼の時代は天皇じゃなく「おおきみ」だ。
中国様の神話をパクって天皇と自称する様になったのは
天武天皇から、まあ8世紀からだな。
>>797 >四隅突出墳丘墓は弥生時代後期に入り広島と島根の県境近くから始まったんだよな その「突出墓」も倭国(阿波)発祥! 萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳・曽我氏神社1号墳 @阿波 >>799 遺跡が出来たのは奈良盆地湖が
土砂で埋まってからの事。
卑弥呼の時代じゃない、残念w
という事で、反論が出てこなかったので 冬でも生野菜や裸足なのだから九州だという事
ハッキリ言って、 日本の弥生は、ここまで分かっているのだ。 しかし、邪馬台国は謎だらけで、 何がなんだかさっぱりわからないと言うことにすると、 これらの考古学的な発掘成果が、 全て無駄になる事になる。 日本の弥生の考古学を前進させる為にも、 我々の手で、考古学界の闇を 1秒でも早く振り払わなければいけないだろう。
邪馬台国は大和のことで、神功皇后が卑弥呼なのだ。宇佐神宮では天照大神を真ん中に、八幡様と卑弥呼である神功皇后を祀る。中国が又聞きで変な名前を記しただけのこと。九州から畿内までを平定し、三韓征伐を成し遂げた神功皇后を纏向で埋葬したのだ。
>>720 繰り返し書いてるように弥生の鉄器に大した意味はない
冶金技術のレベルが低い事は各鍛冶遺跡の状態から分かってる
そして発掘される鉄器がその技術レベルを証明してる
なので「まだ見ぬ凄い鉄器」等も存在しない
「鉄器」などと雑な表記がされる事が多いから分からない事が多いがその内容は
「手斧、ヤリガンナ、細い棒」という程度の物しかない
農具とされるものも鎌で後期になってようやく登場する
開墾道具の鋤クワなどはもう古墳時代直前にようやく前段階の道具が全国で20例程度見つかる程度
なので「鉄器による農地拡大による王権誕生」等と言うのは現実に全くそぐわないイメージに過ぎなかった事は既に判明してる
「鉄が出る=凄い」などという図式は全く成り立っていない
鉄の量が何かしかの先進の証拠ではない
そもそも邪馬台国や倭国が大和朝廷ならば なぜ記紀にそう書かないの? 倭国は古代の大国なんだよ、 事実ならば恥ずかしがらずに一言書けば良いのに、書いていない。 つまり記紀にはその大嘘は書けなかったんだよ。
鉄は前スレあたりで書いてる人がいたけど丹波やら琵琶湖沿岸の研究が更に進むと面白いな
既出だけど、住居跡が出土しないというのは纏向遺跡は箸墓古墳の祭司場だろう 巨大な墓を作るのに適した平地がそこにあったというだけの土地じゃなかろうか 多分、都は別のところにあるんでは あんたちも墓は結構離れた地にあるだろ?
鉄器がその真価を発揮するのは古墳時代に入ってから この段階になると開墾道具としての鉄器が技術的進歩によって威力を発揮するようになる 国家的な鉄の入手と道具の生産が行われ鉄器の使用が行われるようになる 王権伸長に寄与したのはこの段階 仁徳天皇の時代に大規模な開墾が行われてる記事が多いのもそれを裏付けていると考えられる
古代の東アジアでは 邪馬台国や倭国が日本=大和とは違うというのが 常識だったんだ、と言うより当たり前なんだよ。
>>809 「ひょっとしたら魏志倭人伝の卑弥呼って神功皇后のことかもね。知らんけど」みたいなことはちゃんと書いてある
皇国史観を破壊する為の邪馬台国畿内説が流布された結果、 卑弥呼の墓の祇園山古墳は 20%も削り取られてしまったのである。 嘘デタラメがまかり通ると、 歴史的な遺跡が消滅する事にもなりかねない。 日本の歴史の為に、 畿内説等は1秒でも早く潰さないといけないだろう。
>>809 いつも勘違いしてる人がいるが
「卑弥呼と大和朝廷は系譜的に無関係」
これは大和朝廷自身がむしろ積極的に無関係と主張してる
中国に提出されている系譜はあくまでも神武天皇が始祖で、卑弥呼も台与も一文字も書かれてない
なので書く必要などないのは当然だろう
流れ的には
一代限りの宗教的カリスマの代表者→世襲の王家
という風に変化したと考えられる
>卑弥呼の墓の祇園山古墳 そういうあんたもなにかに染まってる
>>813 倭国じゃなくて、
東の太陽より東にある国って呼ばれてるんだよなw
>>819 隋書の記述もそうだが古代は「やまと」という発音じゃなく「やまとぅ」という感じだったんだろうな
そもそも3世紀以前のヤマトが何処だったかは不明 カモメが飛んでいたそうだが? ■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り 『倭』 19首(1) 『山跡』 18首 『日本』 14首 『夜麻登』 5首 『八間跡』 1首(1) 『也麻等』 1首 『夜萬等』 1首 『夜未等』 1首 例) 大倭には 群山あれど、 とりよろふ 天の香具山。 登り立ち 国見をすれば、 国原は 煙立ち立つ。 海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。 可怜し国ぞ。 あきづしま大倭の国は。
また、吉備特有の特殊器台埴輪や、 桃の種、犬の骨等が発掘され、 外来土器の出土状況が、 四道将軍を派遣した範囲に一致する纏向遺跡は、 100パー、御間城崇神朝の王都で間違いないだろう。 私のように、何の偏見もしがらみも無く、 弥生の考古学上の成果と、 記紀や、各種伝承や魏志倭人伝に接すれば、 理路整然と弥生の歴史を机上に 再現する事が出来るようになる。 早く畿内説というトンデモ宗教から解き放たれよ。 ホケノ山から槨が発掘されのは、 もう22年も前の事だぞ。
大宰府に残されていた文献に邪馬台国の場所が記されています。 ◆張楚金の『翰苑』 660年以前に成立。平安時代初期(9世紀)頃に転記。 邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。 廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。 ※中国の史書において連続した行程の場合は「又〜至る」と記述される ※伊都国は福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている 邪馬台国も卑弥呼も複数存在したと考えたらどうよ?まあ九州でそこにとどまるグループ と東上して奈良までいったグループに分かれたとすれば、卑弥呼も二人必要になってくる んとちゃうの?祭祀王はグループごとに必要でしょ。あんまり魏志倭人伝に拘る必要はな いんじゃね?どうせ自分たちに都合よく書いてあるだろうし、距離とか時間とか曖昧すぎ。
>>809 自分の国の正史に「私達は中国の歴史書を見ながら書きました」とは書けないだろう
■新唐書 其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、 彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。 彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。
そもそも中国の史書をみれば日中ともに大和朝廷と卑弥呼を無関係としてる事は瞭然
位置については
>>706 で書いたように大和である事は明記されているが、
その政権の系譜については違う物であると書かれている
大和に成立した宗教的な連合が、世襲王家に変ったと解するのが自然
これは史書さえ読めば当たり前に理解できるものでなぜこの程度の事さえも知らないで説を唱えているのが理解できない
邪馬台国の位置論争が学問扱いされてないのも当然だろうと思われる
日本武尊時代の倭王は筑紫城に住んでいた。 称号を「天皇」と改めた時代に大和洲に移ったとのこと。 天皇という称号を最初に使ったのは天武天皇だよな?
>>829 そりゃまぁ神武天皇にしろ雄略天皇にしろあとの時代につけた名前だし
また、邪馬台国の超重要拠点たる伊都國の、 卑弥呼の死亡時期と同時期に築造された平原遺跡の墓が、 ただの方墳である事で、 邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を 権力の象徴とする勢力なる畿内説の理論は、 完・全・崩・壊した。
北部九州邪馬台国時代を作ったのは中国系渡来人
「自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫」
いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。
※倭人は呉・越の出身と言っていたという
しかし畿内は半島系渡来人の巣窟だ
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
>>832 平安時代くらいまでは対外的に「姫氏国」と名乗っていたと日本の文献にもあるし古代中国とは何かしら関係はあるんだろう
>>827 天御中主は神代の古事記に最初に登場する神様、宇宙を統一する宇宙神だぞ。
その前は無。高祖元主元無極主大御神。人神さまじゃない。道真に見限られた唐の書物
なんぞ怪し杉。
また、邪馬台国の外交上の超重要拠点として、 大陸からの贈り物を管理していた伊都國の、 卑弥呼の死亡時期と同時期に埋葬された舶載鏡の数々の中に、 三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が1枚も無い事で、 卑弥呼の鏡が三角縁神獣鏡で、 それらが大量に出土する畿内が邪馬台国なる畿内説は、 完・全・崩・壊したのである。 これらをベースに畿内説を唱えている輩は、 脳が破壊されている為に、 正しい思考をする事が出来ない人間である事を 露呈してしまっているのである。
〜卑弥呼時代を根拠もなく華やかな統一国家だと妄想してる畿内説はおそらく頭の病気〜 卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。 その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。 しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。 海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。 少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。 なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。 AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た 248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。 そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。 しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。 卑弥呼時代は受難の時代だったのです。 記録文献には、臺与時代にようやく平和になったと書いてある。
>>836 新唐書
>>827 が日本記のオリジナルであり、現存する日本書紀は改ざん後のもの
歴代天皇が筑紫城に住んでいたというのは偽書「王年代記」からの引用 宋代に修学した僧侶「然が献上したとされるが 王年代記は「然もしくはその近辺によって作り出されたもの 10世紀の僧侶によってみんな騙されてる 「然のせいで日本は黄金にあふれた国と誤解され後の元寇につながった
結局の所、畿内説とは学問ではなく宗教であり、 洗脳が起こってしまった。 それ故に、一部の人間の脳が破壊を受け、 畿内説という損傷が残ってしまったのである。
畿内説に頭を侵された人は、一度基本に帰りましょう。
【基礎知識1】
参考:
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)
・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」として記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
>>838 「王年代記」は800年代から900年代頃に書かれたもの
根拠史料として時代が逆行している
邪馬台国は纏向遺跡を中心とした大和盆地で畿内ではないわな 邪馬台国の南の狗奴国は広い意味での大和川の南の河内でしょう
>>842 願望や希望的観測を「主張」と勘違いしてるようなお前は畿内説でも相手にされないよ
>>844 では「王年代記」がいつ書かれたものだと思ってんのさ?
>>840 カルト政党みたいなもんだな。
そうかそうか。
>>845 王年代記を偽書とする証拠を具体的に示せよ
こういう教科書にでも書いてあったのか?
山川出版社版の歴史総合の3種中1種が唯一「慰安婦」の強制性に言及している。
この教科書は脚注(位置は教科書の右側)で「各地の戦場では、慰安所が設けられ、日本や朝鮮、台湾、占領地の女性が慰安婦として集められた。
強制されたり、だまされて連行されたりした例もある」と述べている。
歴史なんてどんどん変わるし一般人が九州だ近畿だと話すのはナンセンス
>>841 その大倭、邪馬台の使いのように書いてるが、嘘と解る。
政治の記述から、大倭は明らかに倭国大乱で邪馬台を覇権放棄
に追い込み、覇権放棄の証として邪馬台に男王を禁止し、
邪馬台の力の源泉だった博多港を実効支配している。
で、かつて邪馬台が配下の奴国の名で漢に朝貢した様に、
大倭はその正体を魏に隠し、軍門に下した邪馬台の名で
魏に朝貢している。
だがこの魏への朝貢、邪馬台は名目だけ。
大倭はその代官「(一)大率」に朝貢と港の交易全てを管理
させてて、魏の遣いを、女王からも、漢の時代の(名目上の)
朝貢国・奴国からも完全に遮断している。
>>848 470年頃、雄略天皇が磯城宮に住んでいた事は物証が出てる
この時点で「筑紫城に歴代天皇が住んでいた」は間違い⇒偽書で確定
また歴代天皇の名前が漢風諡号になっているが
天皇に漢風諡号を行ったのは淡海三船が770年頃
ここから恐らくは800年代から900年代に書かれたことがわかる
古事記や日本書紀よりももっと後ってことだよ?
この時点で根拠史料が逆転していることがわかる
>>851 現実に存在する歴史的記録文献と、お前の根拠不明な妄想を信じろとでも言いたいのか?
だから畿内説は頭の病気だなどと罵られるんだよ
>>851 >>853 訂正
現実に存在する歴史的記録文献を無視して、お前の根拠不明な妄想を信じろとでも言いたいのか?
だから畿内説は頭の病気だなどと罵られるんだよ
>>854 こんなもん学者連中が知らないわけがないだろw
稲荷山銘鉄剣は国宝だぞ?
淡海三船なんて漢風諡号を行った人物としてメジャー人物(皇族だし)
九州王朝なんて学者連中は誰もまともに取り合ってない
まとわりついているのは、アマチュア歴史愛好家
物証が出てても文献にしがみつくのは諦めが悪い
願望ありきになってるのは君だよ
ヤマト政権は奈良を征伐して始まると記紀にある 大阪で負けたので一体の国だった奈良を先に征伐したとも書かれている 卑弥呼の邪馬台国はヤマト政権の始まり 2世紀末纏向遺跡の始まりの頃に奈良を征伐した卑弥呼と大阪側との睨み合いの膠着状態が、約半世紀続いたんだろうね 邪馬台国と狗奴国
>>856 願望ありきじゃ済まないレベルの畿内説が何を言ってんだかw
381 名前:ニューノーマルの名無しさん[] 投稿日:2022/01/26(水) 11:04:14.03 ID:kXaVmO740
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<参考>
・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片とともに埋もれていた。
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
奈良が半島より先に馬を導入していた事にしてしまう捏造考古学バカ
鉄器時代の現実を見た畿内説学者が願望ありきで放ったトンデモ理論w 『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、 卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、 「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。 春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』
>>858 俺は邪馬台国の場所については畿内説ではないと何回も書いてるけど?
ただし九州説にもウソや矛盾が多いのも事実だから
そういうのには噛みついているだけ
その中で一番イタイのは九州王朝説を信望している君みたいな連中
一括りに九州説論者に纏められるのはいい迷惑
距離の離れた稲荷山古墳と江田船古墳の2か所を捏造したとか
余計に自説の信憑性を下げるだけだぜ
畿内説に都合の悪いものは埋め戻すニダw
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
>>860 俺は九州王朝説なんて知らないよ
現実に残されている書物を読んで聞かせてやってるようなもんだ
それに対し妄想根拠で反論してくるのがほとんど畿内説だからな
>>821 原文: 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者 これは、「大和」ではなく、 「山常」・「八間跡」で舒明天皇が詠んだ歌である。 小松島は、海原に、鴎立ち立つ「飛鳥の地」。 小松島は、香具山・畝傍山・耳成山(日の峰山・中津峰山・津の峰山)を見渡せる「飛鳥の地」。 @阿波 常に負けてるこの板の住人が九州説だらけ…これは畿内説確定だな
「遠都祖神社」「「東宮神社」「西宮神社」「建嶋女祖命神社(嶋の宮)「杵築神社」「蛭子神社」「事代主神社」等々 まあ、これだけこの辺りに曰くありそうな神社が集中してりゃ、 そりゃここが「飛鳥の宮地」だって誰でも思うわな。 しかも、海辺で、大和三山も揃ってりゃ、疑うほうがどうかしている。 @阿波 小松島市の神社一覧 https://jinja-ichiran.com/tag/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7/ 邪馬台国=ヤマト王権ってのがおかしいのでは?記紀につながりなんか書いてないような
>>862 筑紫城に歴代天皇がいたってのは、九州王朝説じゃなくて何なん?
書物に残されている事がすべて正しいわけではない
熊本と埼玉の2か所から出ている物証よりも書物が強いわけがない
他にも書物の矛盾については今日いくつか書いたりもしたけど
中国の史書が全て正しいと鵜呑みにすることは危険
文献と発掘と風土史の3つが揃って歴史になる
当時の出来事を時系列的に見ると
天皇の名前を漢風諡号で載せるのは800年以降じゃないと不可能
記紀よりもかなり後になってから書かれたという事は明白
>>868 説じゃなくて記録文献「新唐書」だろバカ
>>869 きみは吉備団子くって相撲でもとっていなさい。
>>870 「新唐書」が事実と異なるソースを元に書いてある
アテにならない記録文献ってことだよ
>大和には 群山むらやまあれど >とりよろふ 天あめの香具山 >登り立ち 国見くにみをすれば >国原くにはらは 煙けぶり立ち立つ >海原うなはらは 鴎かまめ立ち立つ >うまし国ぞ 蜻蛉島あきづしま 大和の国は 原文: 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者 これは、「大和」ではなく、 「山常」・「八間跡」で舒明天皇が詠んだ歌である。 小松島は、海原に、鴎立ち立つ「飛鳥の地」。 小松島は、香具山・畝傍山・耳成山(日の峰山・中津峰山・津の峰山)を見渡せる「飛鳥の地」。 @阿波
魏略など中国史書には、倭人は呉・越の末裔だったと記されている
ハプログループの解析によれば、渡来人は大きく二つのグループに分けられる
@弥生初期に呉・越から直接九州へと渡ってきた渡来人
A半島へ渡り弥生後期頃に山陰〜近畿に入植してきた渡来人
@が邪馬台国民で、Aが大和民族ということだな
現代においても近畿で半島系DNAが濃いのは、先祖Aの名残りとも言える
参考図:ハプログループ
>>873 >事実と異なるソース
と言い切ってる状況が希望的観測を基準としている状態ということだ
いい年して自分で気付けよバカw
>>876 物証を覆せなくて悔しくてバカバカ言ってるだけってことは分かった
九州王朝はお前の願望の中にだけあるよw
まあ畿内説で確定なのは間違いないな。 九州は大宰府と同じでヤマトの出張所だよ。 それに半島情勢も絡むから常に戦乱の危機がある。 そんな場所に女王の宮なんて有るわけがない。
任那やカラがシンラに乗っ取られたら日本に亡命してるよね。
>>867 だから内容記述がない欠史八代が怪しいという事。場所も葛城地方が舞台だし、その血統の中にモモソヒメもいるからな。
>>879 神功皇后は北九州に宮つくったけど?
記録に残ってますよw
邪馬台国が九州だったと示唆する史料はいくらでも出てくるのに畿内説しかも奈良を示唆する史料は皆無 ただただたまたま掘り出した無関係な遺物を握りしめて空想を展開するだけの畿内説カッコ悪いですよねえ
>>879 太宰府は都督府だったから
701年以前は全国の評督を治めてたんだ。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、 九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いという。 なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか? 九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波
>>885 ちょっと意味がわからない
それは邪馬台国がヤマト王権につながる王権だという前提に立っているだけの話だろ
邪馬台国がヤマト王権とはまるで別の王権だったばあいは別に不思議でも何でもないだろ
邪馬台国は九州全土を支配していたわけではない 人口比 1:70 対馬国 1000戸 邪馬台国 7万戸 1:452 対馬市 3.155万人 九州 1426万人
>>887 今の対馬と、当時の対馬では要所の度合いが違う
隋書で都から阿蘇山が見えるって言ってるから九州しかないだろ
史書の話をするなら最初から邪馬台国は大和と明記されてる 九州など全く関係ない 『所在地』 @アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書) Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書) A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書) ↓ 邪馬台国は大和 『一大卒』 @一大卒は中国の刺史と同じ(魏志) Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書) ↓ 一大卒のいるところは大和の政権の属国 『日本と倭』 @日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書) A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史) B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀) C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降) Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降) ↓ 改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事 九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない
>>889 有阿蘇山其石無故火起接天者
都から見えるなんて書いてないよ
嘘ばっかり書くやつが多いのが九州説の辛いところ
史書の都合のいいところだけどピックアップしてつなげたらなんとでも言えるわな
>>886 >邪馬台国がヤマト王権とはまるで別の王権だったばあい 倭国はどこなんだ? @阿波 >>894 日本人から見たら倭国は日本列島全域だけれど
中国人から見たら倭国は九州であって
本州は日本という常識をもっていた
i.imgur.com/v00ASRx.jpg
倭国の真ん中にあって皆が畏敬を持って眺めてる阿蘇山が都と関係ないわけないだろ
>>883 ふとノストラダムスを思い出した
思い込みは恐ろしい
>>895 >日本人から見たら倭国は日本列島全域だけれど >中国人から見たら倭国は九州であって お前の妄想に過ぎん。 @阿波 >>895 >日本人から見たら倭国は日本列島全域だけれど >中国人から見たら倭国は九州であって お前の 逃げの妄想に過ぎん。 @阿波 >>898 妄想だったらこんな地図は残っていないだろ
>>895 なるほど。この地図が全てだ。謎は解けた
九州から東に海を渡った地の住民も同じ倭種といってるので 倭国は九州だ 海を渡った地が本州か四国かは不明 どっちにしても倭種だ
>>904 「丹」や「タチバナ」や「クスノキ」は? @阿波 東日本のことを 日ノ本 とは言ってた 日ノ本 = 毛人の地域 ヤマト王権は日ノ本と言う地名を自分のモノにした (ヤマトタケルも頂戴してるだろ?w)
阿蘇山については隋書、南史の記載にある通り「噴火し民が困って祭祀を行ってる」と言う通り、訪問時に噴火をしてる姿を特異な物として記載している
この前後の他の史書には特に記載がない点などから、その時の噴火の様子が記録されているだけと見るべきだろう
例えば日本に訪問した際に通天閣の記録があれば日本が通天閣周辺だと思うだろうか?
日本の特徴的な物が有ればそれを書き留めていくだけの事だろう
また上記
>>890 のようにこの時代の王であるアメノタリシヒコについては大和にいる用明天皇
なのでこの記録は阿蘇山のある地域も大和の影響下にあるという事を示していると分かる
>>903 規制が厳しくて 直接リンクが張れない このURLの前に エッチテテーピー コロン スラッシュ スラッシュ の記号をつければ見られる 初期の倭国(衆夷)が西日本全域なのは
イワレヒコの東征から特定できる
635 ニューノーマルの名無しさん 2022/01/26(水) 13:58:10.38 ID:Hu8P7RXO0
イワレヒコは広島は阿岐國に最初建国した
中華思想で言う倭国の中心がここだと思って!
オオヤマツミの神社も一緒に真ん中でしょ?
↓当時の倭国支配地域の答え出てますw
まだ、諦めずにしぶといのう、本土中国人からみりゃあ、位置なぞ半島の先の海の向こうの辺境で十分なんだよ、また、陳寿の言う鬼道は、五斗米か太平と考え、で彦巫女制度は五斗米、卑弥呼は7歳で鬼道の教育を受けているはずなんですよ。記紀には、そんな姫はいません。
「見えん」とか おっさんネット初心者か URLボックスにコピぺしたらエエんやでwww
卑弥呼とはユタだった。 だから女王なんてものではなく 聞得大君だったのだろう。
第73代武内宿禰の本読んだ あれに答えが書いてある
>>901 >妄想だったらこんな地図は残っていないだろ 日本人だろうが中国人だろうが、 倭が四国で、日本が本州だ。 この地図は、「阿波」から避難疎開遷都した8世紀以降に書かれているはずだ。 @阿波 隋書は秦王国がどこなのか未だによくわからんのが面白いな
>>895 九州や沖縄、台湾、フィリピンまで、ごっちゃになってる可能性はある
この絵の意味することは、中華は大陸の中心だと言いたいわけよ、大陸と周りの小島という対比
正確に日本の位置や大きさを描いたという図ではない
>>901 >妄想だったらこんな地図は残っていないだろ 日本人だろうが中国人だろうが、 倭が四国で、日本が本州だ。 この地図は、「阿波」から避難疎開遷都した8世紀以降に書かれているはずだ。 @阿波 魏書も隋書も日本を四方を海に囲まれた島国だと断言してるから、シンプルに近畿はあり得ないよね
九州南部は投馬国でミミ、ミミナリの国やろね 鹿児島から航海10日陸行1か月で奈良に行く方法があるということだな 軽石と同じかもな
>>922 >鹿児島から航海10日陸行1か月で奈良に行く方法があるということだな お前も、地獄の奈良盆地がお好みか? 「蓼食う虫も好き好き」かww @阿波 >>917 島の形、位置から見たら
明かに九州=倭、本州=日本だろ
倭と書かれた南には
大琉球と小琉球が描かれているので
フィリピンを倭を描いたわけではなくて
九州を倭と描いていることは明らかだろ
>>924 日本人だろうが中国人だろうが、 倭が四国で、日本が本州だ。 この地図は、「阿波」から避難疎開遷都した8世紀以降に書かれているはずだ。 @阿波 >>866 おまはんの提示したリストには、「西宮神社」は載ってないけど、どうなってるん?
この地図見ると、どう考えても九州です。本当にありがとうございました。 ★3まで張り付いてて良かったわ。 測量の精度がどうこうってより、ざっくりとでも当時の中国人の多くが、こう考えてたって共通認識が全て
www、>「阿波」から避難疎開遷都した8世紀以降 は、流石に欲張りすぎてあきれるわ〜。
>>926 載っとるわ。 スクロールしてもっと上を見てみい。 @阿波 >>885 実は初期の天皇らは九州に参拝していた
景行天皇やその子のヤマトタケルノミコトやその子の仲哀天皇まで
しかし仲哀天皇が熊襲の戦いで戦死したので
それ以降九州への巡幸がなくなった
神功皇后辺りが最後の巡幸組である
ところで聖徳太子以前の歴史書を焚書にしたやつは誰なんだよ
>>928 「遠都祖神社」「「東宮神社」「西宮神社」「建嶋女祖命神社(嶋の宮)「杵築神社」「蛭子神社」「事代主神社」等々 まあ、これだけこの辺りに曰くありそうな神社が集中してりゃ、 そりゃここが「飛鳥の宮地」だって誰でも思うわな。 しかも、海辺で、大和三山も揃ってりゃ、疑うほうがどうかしている。 @阿波 >>930 >実は初期の天皇らは九州に参拝していた こら! 堂々と嘘こくな! @阿波 >>930 討伐や平定を行幸とは言わんだろ・・・
それは多分征旅というんじゃないかな?
日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」
>>910 まだあの魏志倭人伝を丸々信じているバカがいるのかよ
方位距離都市名ほとんどがデタラメなのにな
正確なのは伊都国とか朝鮮半島と接する国くらいだ
それでだいたい正しい記紀を批判するアホがいるのな
神功皇后とか卑弥呼なんかよりはるかに重要な存在なのにな
アホが記紀に卑弥呼の記述がないとか言うけど
別になくてもいいだろうよ
卑弥呼なんて狗奴国の男子王の卑弥弓呼と不和で悩んで
魏に援軍を要請してそれが一大卒でバレて
すぐさま処刑された反乱の首謀者だからな
そんな奴は記紀にも載せられないよ
マジで
つうか長年卑弥呼は忌み嫌われて記紀に載せてもらえなかっただけなんだがな
>>934 >討伐や平定を行幸とは言わんだろ・・・ そもそも、大王・天皇が海を超えた九州くんだりまで行く訳ないだろうがよ。 あほちゃうか? @阿波 >>931 これなる金の板にイサクとヨセフ記す
ここにわがクルの宝あつめしめ
のちの世に伝へて礎たらしめむ
ヤハウェを我らの神とあがめよ
>>934 景行天皇は日向の地で数年間はのんびり暮らしていたよ
しかし時々盗賊とかが出るので退治しただけ
若い頃九州に行った時に、熊本のとある老人と話す機会があったが、その時にその老人は九州人は他県でも皆同じ九州人って気持ちを持っているが、薩摩だけはわからんと言っていた。薩摩だけは異質な者達って。 これはどうしょうもない、そこで産まれ育った者でしか分からん体験と言うか実感なのであろう。 そこにヒントが隠されているんだと思う。 けっきょく、文献やら何やらいくら掻き回しても何の答えもでんよ。 リアルに住んでる人の言葉にはかなわん。
>>931 火事で宮廷の文書が燃えただけ
数々の歴史書が燃えてなくなった
だから欠史八代と呼ばれる8代の天皇の業績が失われた
神武以前の物語も多くは無くなり系図だけが残った
私は、薩摩から宮崎(天孫降臨)、そこから機内に大和政権を作り、九州(邪馬台国)を滅ぼしたのだろうと思う。 だから邪馬台国の歴史はプツリと切れて謎になったわけだ。滅んだのだから当然だ。 今の天皇の先祖は薩摩なのだろう
>>943 >日本書紀くらい読めよ 日本書紀に、日向「国」とあるか? アホも休み休み言え! @阿波 >>944 日本の歴史に一番近いのは日本書紀と古事記
神々の時代の部分は半分がデタラメで中身も薄い
しかし神武天皇以降は年月と業績が書かれていて半分以上は事実
卑弥呼の時代と被る神功皇后の章も正しく
実際のその当時の支配者は神功皇后
卑弥呼は神功皇后の名を騙り魏に援軍を求めた裏切り者
伊都国の一大卒でその悪事がバレて
張政が来日する前に処刑された
そんな人物だから日本では軽視されて無視されていた
記紀の元の天皇記などの作者も書き忘れたんじゃないか?というくらい存在だった
>>945 >みつからん。通称か何か ああ、この神社リストか。 これには無いのかもしれん。 しかし、地図にあっただろうがよ。 @阿波 >>948 卑弥呼は神功皇后の名を騙り魏に援軍を求めた裏切り者
伊都国の一大卒でその悪事がバレて
張政が来日する前に処刑された
そんな人物だから日本では軽視されて無視されていた
記紀の元の天皇記などの作者も書き忘れたんじゃないか?というくらいの存在だった
>>947 あながち間違いでもないんだよな
近いと言える
卑弥呼と卑弥弓呼は実は親族でどちらも国を任されていた
まあ親族みたいなもので神功皇后の信頼もあった
そもそも卑弥呼は魏への貢物を任されるほど神功皇后の信頼も厚かったと予想される
しかし卑弥呼は裏切り魏の国の張政を日本に招き入れた
だからすぐに処刑されて張政は卑弥呼の埋まった塚を見ただけであった
>>947 魏志倭人伝でもなぜか?
狗奴国の男子王の卑弥弓呼の動向が書かれていない
つまり卑弥弓呼は気軽に処刑できない高い地位だったという事
まあここらへんで実際に何が起きたのかは記紀と魏志倭人伝と読み比べるしかない
ちなみに神功皇后には弟も妹の豊姫=台与もいる
今はまだGHQの呪縛が解けていないから説明する気もないが
あと10年くらいしたら日本書記が正しかったとわかると思うよ
>>953 魏志倭人伝にも書いてあるが
狗奴国の男子王の卑弥弓呼は卑弥呼の軍を総動員しても勝てない軍事力を持っていた
だから卑弥呼は魏に援軍を求めた
後継者選びにも口を出せる立場
魏志倭人伝でもいろいろ揉めたと書かれているが
その中で狗奴国の男子王の卑弥弓呼は後継者選びに口を出せた数少ない地位の高い皇族だった
>>948 また妄想かよw
神功皇后は卑弥呼の時代よりも100年も後の人物なのは明らか
なぜなら日本書記や古事記の内容を読めば、そんなことは誰でもわかる
住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服(降伏)して朝貢を誓い、
高句麗・百済も朝貢を約したという
>百済【くだら】 朝鮮半島の南西部に4世紀前半から660年まで存続した国。
卑弥呼の時代に百済は存在しなかったのに
神功皇后は百済に朝貢を約束させたと書かれているんだぞ
三韓征伐をしたとされる神功皇后は、百済が成立した後の時代の人
つまり、卑弥呼と神功皇后は全然別の時代の人物ってこと
>>957 三国史記の百済本記を読むとその謎が溶けるよ
紀元前後辺りからずっと、倭国はチョコチョコ半島に攻め入ってる
後世の歴史書が国号でずれるのは、それこそ筑紫という国名でも当たり前に起こってる
>>957 お前がバカなのは誰でもわかる事なんだがな
俺はただ単に記紀に記されている年数から言っているだけ
でアホはお前なんだがな
ちなみに百済なんだが今のアホのお前には理解できないだろうから
ちゃんと勉強しなおしてからこい
後に編纂された『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年に千寛宇、李鍾旭らがこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説の1つである。
ちなみに
肖古王166-214 / 仇首王214-234 / 沙伴王234 / 古尓王234-286
肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)であり、先代の蓋婁王の子。
>>957 こういうGHQに毒されたアホがいるから話が進まんのな
言っている事も無茶苦茶でデタラメだという事を本人が気づかないからな
魏志倭人伝に関する謎も解けるわけない
>>961 だからさw
記紀に記された年号が間違っているってことだよ
内容と記紀に記された年号が合っていない
だったら内容のほうを正しいとするのが当たり前だろ
卑弥呼の時代には存在していないかった
百済を従わせたという記述があるんだから
神功皇后は4世紀前半以降の人物ってこと
それをお前は内容を無視して記紀にはこういう年号で書かれているから
卑弥呼と同時代の人間だ
卑弥呼を殺したのは神功皇后だという妄想を後生大事に抱えているんだろ?wキチガイすぎるだろ
内容を読めば、全然違う人物だと理解できるから
そんな妄想自体あり得ないってこと
理解できた?
>>962 お前の脳内ではな
お前のような妄想バカがいるから話が進まんのだよ
>>957 高句麗も魏に追いやられて朝鮮を放棄して沿海州方面に敗走してるしな
>>961 低能猿は反論できなくなると
とたんにアホだの馬鹿だの連呼で
内容のあるレスができなくなる典型がこれですw
>>964 うるせーよ、キチガイのバカが話しかけてくんな
うぜえんだよ
だから俺の話の矛盾点をかけよ
つうか百済は神功皇后の時代には存在していたぞ
温祚王(おんそおう、生年未詳 - 後28年)は百済の初代の王(在位: 前18年 - 後28年)。
肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)であり、先代の蓋婁王の子。
だからな
邪馬台国は近畿で決まり手として、狗奴国はどこだろうな 愛知か静岡あたりか
>>968 低能のキチガイはお前だろうが
お前のようなアホにアホと言って何が悪いんだよ
内容のあるレスできないのはお前だろうが
>>971 前方後方墳が広がる東海地方ではないかと言うのが有力な説だね
ただ対立してたというよりも積極的に連帯を模索してるように見える
前方後方墳と前方後円墳の同時期の築造や庄内式の伝播など融合が進んでいく様子が見て取れる
纏向は主に東海勢力との和解を目指して作られた祭祀遺跡ではないかと思う
>>971 >邪馬台国は近畿で決まり手として、狗奴国はどこだろうな トンデモには、永久に分らん。 諦めろ。 @阿波 東海勢が主体で作られたのが纏向遺跡だからね 邪馬台国の母体が東海でしょう 邪馬台国の南の狗奴国は纏向遺跡の南に広がる河内と和泉でしょうね
>>978 トンデモには、永久に分らん。 諦めろ。 @阿波 >>978 東海って尾張でさえ長いこと蛮族の地だったんやで
>>980 東海忌部が開拓しとる。 バカにすな。 @阿波 纏向が発展し庄内、前方後円墳が発展すると、東海ではそれに対抗するようにS字甕、前方後方墳が発展する 東海の勢力は大和に出現した勢力に対抗するために地縁的な連帯を強めて急速に大きな勢力を形成したのではないかと思う ただその展開は畿内ほど強力ではなく緩やかな物で、畿内勢力と和解し急速に吸収合併されたのではないかと思う 纏向の土器が50%ほど東海系である事から、その吸収合併を進めるための場ではなかったかと思う
>>982 >纏向が発展し庄内、前方後円墳が発展すると、東海ではそれに対抗するようにS字甕、前方後方墳が発展する 先進文化を持った「倭人(阿波勢力)」の進出だ。 簡単な話。 @阿波 ヤマト政権は河内で負けてヤマトを平定して始まるみたいだからね ヤマト政権と対立していたのは河内側でしょう ヤマタノオロチの神霊が眠る伊吹山の荒ぶる神も最後までヤマト政権に抗っていたと日本書紀にありますね 個人的には応神はこちらの系譜じゃないかと思うけどね 畿内の在地の人々と伊吹山はずっ友かも
神奈川も弥生時代末期まで銅鐸文化圏だったみたいだね 銅鐸の集落はその頃に営みを終焉する 同じ頃東海の土器が主の集落が作られたがこれは短期間だったようだ 相模原辺りの昔話、背中の赤い蟹と同じようなことがその頃起きたのかもしれない 神奈川には蟹が住んでいて白サギから守ってくれる鐘を大切にしていた ある日火が起こり鐘を守ろうと蟹たちは必死で戦ったが、多くの蟹が亡くなり生き残った蟹の背中は赤くなっていたという話 簡単に言えば戦国時代と同じことが倭国大乱で起きたんじゃないか?
>>936 お前
尻尾生えた類人猿とか三本足のカラスとか
首八本ある大蛇とか数百歳にもなる天皇書いてる月刊ムー並みの与太話より魏志の方が真面な史書だと思えないのか
>>986 考古学的に見ると庄内式が成立するのが河内で纏向の成立に多大な影響を与えている
ただ神武東征を見ると指摘の通り侵入を妨害する勢力として登場するね
逆に紀伊から北上して宇陀に至るルートに東海系土器の分布がある
そう考えると神武東征のルートには東海系の影響を垣間見ることが出来るかもしれない
ただ神話に何でも結びつけるのは危険なのであくまでもただの想像だと念を押したい
狗奴国は河内は河内でも大和川より南だよ 大和川より北側は神武東征神話でも拠点を築かれ=制圧されている
>>188 この発見により、前方後円墳が関東で唯一埼玉だけにある理由が解明されたらしいな。
『耶律羽之墓誌銘』(会同 5 年(942))に「其先宗分佶首〔契丹人の始祖奇首可汗を指す〕、派出石槐。 歴漢魏・随〔隋〕唐已来、世為君長。」
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