古代の方が世界的に国際交流が盛んだったのは
何故なんだろ?
おまいら内行花紋八葉文鏡を見てみな
まるでマンホールのフタだぜ
>>1
福岡は地面を掘れば、古代の遺物がすぐに出て来て工事がストップするのでみんな掘りたがらない
出て来ても知らんぷりして工事を進めてしまう
それが考古学上どんなに貴重なモノであってもだ
福岡あるある ようするに狭い地区でしか移動していないていないような定説はくつがえるってこと
そもそもカザフスタンまでは交易してたんだからな
>>15
大阪平野〜奈良盆地はマジで笑えないレベルだが、福岡はそこまで多くないよ >>6
伊都国は九州説だろうが近畿説だろうが糸島付近でほぼ争いないだろ。
ついでに次の奴国も福岡付近でほぼ争いはない。志賀島で金印見つかったし。
問題は不彌国からだ。 >>4
大規模なロストジェネレーションが発生したと思われ
今でいう就職氷河期世代みたいなもん 伊都国(現在の福岡県糸島市)、そして奴国(現在の福岡県福岡市付近)は、
2世紀後半の倭国大乱で畿内勢力に敗れるまでは、国内の中心だったところだからな・・・
邪馬台国は普通に九州
畿内説を主張してる学者は知恵遅れ
しかし瑠璃の杯はきれいだな
正倉院展で見て惚れたわ
>>23
こういう妄想狂しかもう畿内説には残ってないんだよな
3世紀の鉄器保有量は北部九州が圧倒的で畿内が軍事的に勝てるわけないんだがw >>20
むしろ朝鮮から王族の人質を連行してくるレベルだった。
というか新羅に助けてくれと言われたり、百済から助けてくれと言われたりして
朝鮮の内戦に500年ぐらい延々と付き合わされてた感じだったな >>1
北海道の遺跡でもヒスイが出土するんだけど
でも北海道ではヒスイって産出しないんだよな
つうか日本で産出するは新潟県くらい
縄文時代の丸木舟で北海道と新潟県を行き来できるはずがないし
やっぱゴールドフィンガーの仕業なのかね? >>27
九州説って邪馬台国の位置がブレまくり諸説ありでワケワカメじゃないの
おまいはどこにあったと思ってるの?当時沼地の筑紫平野か? まあ邪馬台国は北部九州で間違いないだろ
南の狗奴国と争っていた形跡も見つかってるし
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
>>32
邪馬台国とか金印貰っただけの未開文明では
大和がどこかの方が重要 >>29
北海道でもごく少量ヒスイが取れるのかもしれない。
でも、陸路で青森までヒスイが運ばれ、そのうちの一部が津軽海峡渡ったとと言うのが自然だ。 古代 小倭列島は 大韓に平定され 倭猿は文明を与えられた 証拠があちこちで出土しますです
>>32
>当時沼地の筑紫平野か?
まずそれが嘘じゃん
筑後側の比較的海岸に近い場所にも弥生遺跡があるから当時の海岸線は現在とさほどの差は無い
この図で一番海よりの扇ノ内遺跡も弥生時代
柳川市公式ウェブサイト / 柳川の遺跡
https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kyoiku/rekishibunka/rekishi/iseki.html
>海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により
>弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。
>徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。
>調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。
>また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。
>約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。
>蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。
>先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。
>これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、
>扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。 免田式土器という弥生土器のグループがある
卑弥呼の時代に作られた土器であり、古墳時代に入ると消滅する
その分布を見ると、免田式土器は狗奴国の土器であると考えられる
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同lじ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇地域
菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれはそこで生産されたのではなく交易などによって散発的に拡散したものだろう 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 渡来人のスケール、技術格差、邪馬台国衰退の理由
近畿に渡来人が沢山集まって最新の技術を使って栄えた?
>>36
魏志倭人伝によると半島は倭の統治下にあったようだけど 免田って球磨郡あさぎり町だよね
水害でぐちゃぐちゃになったところ
NHK BSプレミアムでシルクロードの再放送をしている。
今行くには危なそうなところばっかりだ。
>>43
球磨(クマ)は魏志倭人伝でいうところの狗奴(クナ)国で
記紀でいうところの熊襲だね >>29
ロシアのウラジオストク近郊にある縄文時代の遺跡から本州産黒曜石の石器が出土している 当時の日本海交易をなめてはいけない >>33
こんなんあるんか
なんでこんなにハッキリしているのに邪馬台国は畿内ニダ!とか意味の分からんことを言ってるんだ?
日本の考古学者ってアホしかおらんの? 纏向からショボい建造物や桃の種、犬の骨 魚の骨が出土したので調査員は
大喜びして調べたんだが、纏向に住んでいたのは犬食い民族だと判って
急激に纏向説は萎んでしまい、今でも喚いているのは世の中の流れに取り残された
知恵遅れの原住民達だったと言う事
>>50
日本史ってその辺なんかおかしいのよ
竹島だって文献その他全部状況証拠揃ってるのにああだし 後漢書の奴国より1世紀後、魏志倭人伝の邪馬台国より1世紀前、
吉野ヶ里遺跡でも唐古鍵遺跡でも環壕を巡らせて物見櫓を建てて臨戦態勢だった倭国大乱時代の
伊都国にそんな貿易の証拠かぁ…
ロマンがあるねぇ
古事記と日本書紀が嘘だらけだから
日本人って大昔から公文書改ざん大好きだよな
倭国大乱時代が大和朝廷の拡大の時代だとして、
その最前線が吉野ヶ里遺跡や鍵唐古遺跡で、
伊都国あたりは内地で平和だったのかねぇ
というか九州説なんか言ってるのはアマチュア考古学者だけだよw
まぁ九州説が不運だったのは古田武彦みたいなトンデモ系が旗振り役だったこと
ムー大陸とはちがうんだから・・・
>>1
な、渡来人国家が北九州には多々あった、邪馬台国もそう
それで勝手にヤマトを名乗って大陸からお墨付きを貰って
日本列島を支配しようとしたから、畿内ヤマトに滅ぼされた >>17
>>1のどこをどう解釈したら、定説がくつがえるんだよ?
1ミリもくつがえらねーよバカが。 当時の日本は銅山が未発見だったから銅器の原料銅は大陸との交易で入手していた こんなん別に不思議でもなんでもない
吉野ヶ里に行けば判るが、大量の木を使って宮殿や城柵を作っているし
土地は綺麗にならしている、恐らく昔も土地を平坦にしていたと思っている
山に行って大量の木を伐採し、ノコギリも金槌もスコップも無い時代に
あれだけの工事をした理由は遺跡の主人である邪馬台国王が住んでいた証拠だな
今後、吉野ヶ里のような遺跡が見つかるとは思えない
>>17
何言ってんだ? この時代もうとっくに中国からローマの間の国々でシルクロードを通じた東西交易やってたんだよ みんな福岡市って言うけど奴国といえば春日市なんだが
鹿児島はかなり時代が下るまで大和の勢力外だったんだよね
熊本県球磨郡の遺跡と鹿児島県曽於郡の遺跡の様式の違いから、「クマソ=球磨郡+曽於郡」説は完全に否定されて
「クマソ=クマソ語の尊称+曽於郡」説が有力
だから邪馬台国時代の九州中部に戦争の遺跡があるからって、巻向遺跡の否定にも何もならない
奈良や京都に首都が移ってからも、意外に紀伊半島は支配が及んでいたと言い難かったみたいに、
邪馬台国がはるばる狗奴(毛野)まで行って攻略中にクマソがまだ支配下でないなんてことも有り得る
ていうか記紀神話では日本武尊のクマソ退治とヤマソ退治が同時代なんだから、
邪馬台国がクマソと毛野とを同時に攻略中でも何も矛盾しない
>>62
畿内勢力(ヤマト王権)が勃興する前はガチで栄えてたけど
倭国大乱以降、いわゆる邪馬台国の頃はもう衰退しちゃってたよ。
魏志倭人伝の記述の最後にあたる、古墳時代初期には
吉野ヶ里遺跡の集落は消滅してたもんで時代が合わない。 >>29
縄文人なめたらあかん
海流にのれば対馬から蝦夷までもラクラクスイスイじゃよ
太平洋側から沿岸流で南下もできる
北海道の貝殻が宗像で発掘されてる
では海を渡れるのかと言う話だと、出雲とウラジオストックは交易してて壱岐産の黒曜石が沿海地方で発掘されている
日本列島津々浦々というのは本当の話 >>40
地図の邪馬台国としている菊地に立派な山城跡があるんだよ。読めば朝鮮から攻撃に備えて築城され見張ってたと。こんなとこで朝鮮の攻撃に備えるか? どうみてもクナ国からの攻撃に備えてたとしか思えない。 ウスリー川(黒竜江)の部族と東北民は交易もするが、しばしば海洋戦争もしている
山幸と崇神と神武は同一人物で東征は3世紀終わりから4世紀初頭に実際にあった
東征を実際に指揮したのは山幸の妻である豊玉姫(卑弥呼)
神功皇后伝説の仲哀天皇が熊襲討伐で早世している内容とリンクしてくるが
狗奴国と敵対していた卑弥呼の夫である崇神(山幸)は東征をすることなく九州で死亡
遺志を継いだ卑弥呼が東征を行うが卑弥呼も志半ばで死亡
卑弥呼の親族である台与(豊鍬入り姫)は兄豊城入彦とともに東征に成功
近畿の磯城王朝を倒すが崇神天皇の子である垂仁天皇が台与や豊城入彦から
近畿の支配権を奪って大和が成立する
重要なことは、古墳時代になってからの晋書には卑弥呼のあとの女王である台与が朝貢した記述があるから
魏志とは連続性がある。つまり卑弥呼も台与もヤマト王権側の人物ということが解るわけだ。
ちなみに古墳時代になってから、九州にも畿内と同じ前方後円墳が作られるようになるが、
弥生時代には隆盛を極めた北部九州を含めて、サイズが小さいものばかりになってしまう・・・
(むしろ東国の方がデカい古墳が大きい)
例外的に宮崎県にはいくつか大規模古墳があるから、よく言われるとおりなにかヤマト王権とは関係が有るんだろう。
>>29
wikiの「ヒスイ製勾玉」の説明文に「蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており」って書いてあるよ。 おっとw
×デカい古墳が大きい
○デカい古墳が多い
いやあ、邪馬台国東遷説なんて、北部九州説と畿内説の折衷案みたいでヨタ話かと思っていたけど、
2世紀に伊都国ないし筑紫のどこかが中心地で吉野ヶ里遺跡や鍵唐古遺跡が最前線、
3世紀に巻向遺跡が中心で東海か南関東が最前線ということになると
東遷説も真実味を帯びてくる
ヤマト(山門)という地名が九州にあるとか
祓詞でイザナギが御祓を行った場所を「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」って言っていたり
神話の上で筑紫が何時大和に屈服したのか全く分からなかったり
大和の先祖は筑紫なんだろうね
>>68
ブラタモリで淡路島やってた時に航海術について少し話してたな >>4
国境、民族といった概念が希薄で、人間の流動性が高かったから >>33
太宰府じゃね、街が有って道路とかなインフラも集まってるから、余程のことがないと動かないと思うんだ
それに水城より南なのは確かだろしね 漢帝国末期の平和な時代の名残かな。
その後は大陸動乱で貿易どころではなくなるから。
縄文人は海賊(海幸)と山賊(山幸)が中心
文明人の海神は、自分の娘を山幸と結ばせることに決めた
これが皇室の始まり
3世紀にも伊都国には王がいたと魏志には書いてあるが、
平原が2世紀なら3世紀の王の墓はどこに当てるの?
なんか福岡の遺跡は古く古くもっていってないかい?
卑弥呼の時代と重ならないように
2世紀でシルクルロード?
バカかな?
少なくとも3世紀中期だろ。
怡土のあたりは奈良時代に城が気づかれたり貿易の重要地点だったからそりゃまぁ色々出てくるだろうとしか
九州という辺境の単なる地方豪族だぞ?
大陸に近いから先進地域と言うのは、癬人の発想と同じ
奈良文化財研究所の田村朋美の発掘はゴッドハンドの可能性が極めて高い。
早急に操作を開始せよ。
ゴッドハンド藤村も学会が腐ってだからこそ出来た芸当だしな
真ん中だから中心(中央)、端だから地方、こういう考え方はまるで小中華思想のチョンみたいだな
>>35
数千年続いた縄文時代で物々交換で伝搬していけば十分おかしくない。
珍しいものほどそれを持たない人は欲しくなるからね >>88
2世紀ごろと比定される硯や机や
木簡を削りだすための柵刀が
糸島市より大量に出土したら考えてやんよ 根本的に綿密に精査された甕棺墓の時代編年を150年も繰り上げるのは不可能であり、
また、邪馬台国の外交上の重要拠点の出土品に相応しい平原遺跡の出土品を、
邪馬台国に関係ない2世紀の伊都国の王のモノとした場合、
じゃあ3世紀中期の卑弥呼の時代の邪馬台国の
外交上の超重要拠点の伊都国の埋蔵品は何処にあるのか?
という話しになる。
考古学を生業にする研究員が
こんな簡単なことを間違えるはずがなく、
奈良文化財研究所の田村朋美はヤヴァいヤツで
結論付けられるのは間違いないだろう。
>>82
半島との往来貿易を仕切ってた金持ちがワダツミなんやな >>49
継体天皇の出自と大王になれたことから当時の関西はそっちルートが強かったのかも知れない ジャマディー国は女王国かもしれないが、ヤマトのクニは男王国だろ
ガラス製品とか宝飾関係は金属製品の発展と歩調が合うわな。
地中海沿岸が元とすれば、大体はギリシャかエトルスカンの出土品は宝石貴金属の加工技術の
点で優れてる。中国やディアンやドンソンの青銅文化の青銅品のアイデアは素晴らしいが、青
銅のドラムの蓋や青銅の鏡の元もエトルスカンのphiale(libation bowl献杯用の盃)から、来た
ものではないか?
古墳時代の北九州にしろ、畿内にしろ、どっちが日本の金属文明への傾斜の道筋を作ったとか、
ハッキリ言えるほど、両者の文化レベルに顕著な差は無いし、ディアンやドンソンに遥かに劣
る青銅製品のデザインの多様さでは、邪馬台国の本家争いも醜いだけに見えるが。
こりゃ一度は否定された江上波夫の騎馬民族征服王朝説の復活かな?
古墳時代に大量移住があったという最新研究結果も出たことだし。
>>102
日本人は馬の世話が世界的に見ても下手だし
山がちで道が無いカイバ育ちにくい土地を
騎馬民族が征服したとは考えにくいな
平安時代ですら牛車やで
ウマが気性粗過ぎて扱えんかったからや 奈良土人御自慢の纏向遺跡から出土したのは土器のかけらと大量の桃の種と
犬の骨ww 僅かこれだけしか出土が無いのに未だに邪馬台国は奈良とほざいている
脳が腐りまくって救いようが無い
紀元前1世紀から後3世紀頃には日本各地でガラスは出てきてるんだけど?
ついでに唐古鍵からもね
京都の長岡京市からはローマングラスすら出てる
今更また増えたってねぇ
怡土には高祖神社があって天日槍が祀られてる
土地柄渡来してきた人も多かっただろうな
厳密に言えば弥生時代の奈良から鉄製品は全く出土が無い
倭人伝には倭人は鉄の鏃を使っていると記載があるので
倭人とは北部九州の住民の事を指している、関西地域の弥生人は
倭人では無くて韓人だが魏使は本州には行ってはいないから倭人伝には
全く触れられていない
もう九州か近畿に卑弥呼の名前入り金印や鏡でも見つからないと論争に終止符なんて打てんだろうよ?
歴史や考古学は嫌いじゃないが、よくこんな根拠薄弱にしかならん議論で下らん争いが出来るな?
紀元前二世紀には福岡市の吉武高木遺跡等の遺跡でもガラスは出てるね
中国の研究者が春秋の筆法に基づいて邪馬台国は九州だったと断言してるからな
邪馬台国について書いた中国側が九州と言ってるんだから九州で確定だろう
弥生時代の三種の神器(剣 鏡 勾玉)がセットで出土した古墳は
以下のとうり
1.吉武高木遺跡 福岡市西区・・・・・弥生初期
2.三雲南小路遺跡 糸島市
3.井原遺跡 糸島市
4.須玖岡本遺跡 春日市
5.七ケ瀬遺跡 佐賀市大和町・・・・・弥生晩期
6.平原遺跡 糸島市 ・・・・・弥生晩期
奈良の弥生遺跡からは桃の種や犬の骨の出土はあるが
三種の神器の出土は無しwww
平原は2世紀あたりの女王の墓と思しきものがあるんだっけ。
太陽神信仰のようなものも見えるし、規模からいってもナ国と並んで、
大和王権以前の主要地域だろうな。
天皇家は三種の神器が出土した糸島出身の豪族であり
東征時には糸島市と福岡市の間の日向峠を越えて行ったので
神武東征は日向からとなっているが宮崎では無く日向峠の事
>>1
そりゃ当たり前だろ。
ローマ帝国の侵攻、および、逆にローマ帝国の滅亡から
逃れてきた中東人がいっぱいいるんだからな。
っておい、「伊都国の王墓」かどうか、確定していないだろ。 >>72
>弥生時代には隆盛を極めた北部九州を含めて、
>サイズが小さいものばかりになってしまう・・・
>(むしろ東国の方がデカい古墳が大きい)
そりゃ、当時の基準で過密都市だった北九州に
巨大な古墳を作るスペースなんか無いだろ。
…当時も地上げ屋とかいたのかなw >>29
>縄文時代の丸木舟で北海道と新潟県を行き来できるはずがないし
伊豆七島の縄文遺跡から、長野県産の黒曜石が出てるんだけど。
スンダランドから、はるばるミクロネシア、南米まで行った人々の子孫だぜ?
>>84
ローマ時代にはすでにあったぞ。 >>104
去勢すら知らんかったらしいから、馬の扱いを知る人間は殆ど入っては来てないやろうね >>118
それにしちゃ阿曇氏など北部九州系の扱いがぞんざいなんだよなぁ
高市皇子とか母方が阿曇系だからトップにはなれなかったし 歴史皆無で野蛮な南九州系ネシア人が、有能な北部九州系を蹂躙したからだろうな
なんで邪馬台国と大和朝廷がつながってないとアカンの?という根本的疑問
野蛮な民族ほど無駄なマウントをとってくるからな
それに、御輿は軽いほうがいいし(笑)
トップにならずに支える側で結構
アホウヨお決まりの縄文時代に南から丸木船で渡ってきたという馬鹿理論はどうしたw
ショーマン人は歩いてやってきただけなのに笑える
>>131
2パターンいるかな?
1.畿内派
中国の歴史書に出てくるような国は大和朝廷とつながっているはず
2.九州派
九州王朝が天智天皇の頃に東遷した事にしたい
(卑弥呼アマテラス説など諸派混とんとしている) 沿海州経由だろ
そっちの方が後年まで陸続きだったのだから
>>4
なんでそう思うの?
食糧もエネルギーも工業原料もほとんど輸入してる国に住んでて
こんな舶来品を当時庶民が持ってたとでも思うのか 細石刃技術は北海道からシベリアに伝わったのだから
そっちは普通にずっと繋がってたのだろう
半島方面から人が来たのはかなり後年になってから
>>139
「王朝」という表現を使うから話がおかしくなる
まだ日本が統一されていない時代で地方豪族がいっぱいいて
その中で有力な存在も何名かいただけ
そういう存在が九州にだっていただろうってだけの事だと思うよ 九州には
ガラスを贈られる権力者がいたか?ガラスを手に入れる財力があったか?
奈良には
カエルを食ってる野蛮人がいたか?
>>131
三種の神器が共通ポイント 弥生時代は糸島周辺でしか見られなかった
三種の神器の風習が大和朝廷で天皇家の神宝になっている 弥生時代の王の墓ってのが何気に凄い
見学に行ってみたいよ
>>145
知らない土地に列車で行く時には、観光案内所の場所とレンタサイクルがあるのか
を確かめた方が良い、伊都国歴史博物館は駅から遠いし、バスも少ないので
レンタサイクルがお勧め 吉野ヶ里や平塚川添は駅から近い。 >>145
行ってみると良いよ
平原はがっかり感もあるかもしれないけど
当時の王墓と呼ばれるものがどんなものなのか
ちゃんと現物を見る事は大事だと思う
(1700年前ならこんなものかと思う事も大事だと思う) 結果としてチャンコロと繋がっていた河野を落とせたらよしとする。
河野は総理大臣には今後もなれないだろう
>>104
それ考えると、甲信越地方の馬牧場は異例だよね
大和・京あたりとは別人種なのかと。 伊都国古代ツーリングは前原駅前でレンタサイクルを借りて約50分ほどで
伊都国歴史博物館、その後細石神社、平原古墳を見学して前原に戻る
3時間もあれば充分だろう
古墳は外観よりもどんな副葬品が出土したかが最重要 平原古墳の外観は
大した事は無いが副葬品がすごい、宮地嶽古墳の副葬品も立派だった
糸島の墓を見に行くならついでに、博多湾周辺の元寇関係にも行ってみるとよい
当時の記録に載っている町(姪浜、鳥飼など)や神社なども残っているし、歴史好きなら面白いと思う
元寇防塁は見てもつまらんが
博多湾は太古の昔から外国とのつながりが大きい
邪馬台国は佐賀南部、熊本北部あたりで、大和王朝は宮崎の日向あたりが起源。
どちらも九州。
>>19
畿内よりもっともっと古い遺跡が出るのが福岡 >>156
> 畿内よりもっともっと古い遺跡が出るのが福岡
古さ自慢だと出雲が日本最古だったりする
弥生時代に限定して遺跡の数が一番多いのなら福岡
畿内全部と比べたらさすがに福岡でも負けるよw >>160
出雲から出てる12万年前の遺跡が日本最古だよ
三丸は縄文遺跡としては素晴らしいけど >>150
東国は半島からの移民を入植させたからその関係かもな
榛名山から出てきた武人の遺骨も大陸系の特徴だったとか それにこれは弥生時代のお話
その時代は福岡市〜唐津市間の江辻遺跡、菜畑遺跡、板付遺跡、那珂遺跡が日本最古の部類だよ
>>21
不彌国(ふみ)は普通に今の宇美(うみ)なんじゃね? >>155
筑紫平野や熊本平野の様な気候も温暖で広大で肥沃な大地を押さえた
勢力ってのは当時としても相当強大な力を持っただろうね。 >>20
14世紀の李氏チョンが弥生時代にタイムスリップかよ >>1
キルギスには日本人と同祖という伝説があり
日本人とキルギス人は似ているという話がある
kwsk 邪馬台国は、地理的に真ん中を押さえ、全てを支配独占するような強欲者の国かもね
>>67
それは逆に卑弥呼がいた証拠じゃないの?
縄文時代から栄えていた場所が急に消えるのはおかしい
卑弥呼は狗奴国との戦争中に死んでる
太宰府まで攻め上りたい狗奴国としては邪魔だから潰したのでは? >>52
歴史学者は伝統的に左翼が多いからだろうな >>44
東京から移住したサーファー多いらしいけどマジ? >>110
根拠は文献にも物証にもたくさんあるよ
歴史学者が神武東遷神話を否定したくて九州説じゃ困るという事情があるだけ
根拠がないんじゃなくて思想がありすぎる もう世界中の常識だからw
いつまでも隣国みたいにファンタジーやってればぁ?
>>175
東京からのサーファー移住って外房九十九里じゃね? 古代の糸島周辺はジュラシックパークみたいだったと思う
>>7
高千穂から笠狭に行くので
どう考えても鹿児島 >>13
魏志倭人伝の記述からするとあり得ない話でもないんよな
方角的には糸島より少し正しい >>23
倭国大乱ってのは九州内だけの争いやろ
当時の状況でどうやって畿内と九州で戦争すんだよ >>188
倭国大乱の詳細がわからんのよ
同時期に鳥取の青谷上寺地遺跡でも争乱の痕跡が見つかってる 「男王じゃだめだ」ってことで斎王中心になった時期があっただけかもな
宮崎の弥生遺跡は縄文遺跡とほぼ同じで非常に原始的なので
日向から東征したと言うのは糸島市の日向峠(ひなたとうげ)を
越えて行ったと言う事の間違い
>>191
日向峠説は間違いだよ
ルートが全然合わない >>143
弥生時代って長いんだけどな。
1300年もあるぞ >>189
そりゃ部族同士の小競り合いなんてどこでも起きるもんやろ >>191
日向が今の日向の国と同じってことじゃない >>102
騎馬民族征服王朝説はないな、
来たとしても少数で征服は出来ない。
馬の去勢が日本に入っていないのがなによりの。 環濠集落跡一つ見ても、博多湾沿岸から瀬戸内海沿岸〜大阪湾と西から東に移動していく
西は古いけど小規模集落、東はそれよりも新しく大規模集落
これがいわゆる神武東征じゃないの
>>167
不彌国(ひみ)は樋井(ひい)で福岡県福岡市城南区だろ
距離的に宇美町はあり得ない >>187
呼子付近に上陸したと考えると糸島市南西部が伊都国
距離的にもピッタリ >>32
トンカラリンさんの画期的な九州説
;t=477s みんな歴史詳しいな
学校ではそこまで教えてくれないだろ
どこで習った?
>>195
青谷上寺地遺跡の騒乱跡って、一応弥生時代最大規模って言われてるんだけどね 東大寺山古墳から後漢霊帝時代の鉄剣が出てるけどあれは何なんだろうな
倭国大乱のころ
>>200
呼子から東南に陸行500里だと
たとえ単里70mでも佐賀県の多久市辺りに着くよ
糸島とはかなり離れてる >>4
(´・ω・`)超古代文明がほろびて、生存確認のためお互い流通しあった シタ「土から離れては生きられないのよ!」
ムス「ラピタは滅びぬ!何度でも甦るさ!」
国境の概念が今とは違うんだろうな
倭人が半島の南部にいたのが大きいんだろうけど
朝鮮南部はどちらかというと遠征される側なのよな
百済も新羅も航海の技術があまりなかったので
磁石もスケールも無い時代なので方角も距離もある程度大雑把に
なるのは仕方が無い45度以内の誤差は認めないと吉野ヶ里が伊都国
とかバカな事を言い出すようになる、吉野ヶ里が伊都国ならば平原遺跡の
ある糸島は何国になると言うのか?糸島は伊都国と志摩国が合併して
出来た地域。城柵、楼観のある吉野ヶ里が邪馬台国だ。
>>213
城柵、楼観は決め手にはならんやろ
吉野が里が邪馬台国ではなかった場合も邪馬台国に属する国であった可能性は高い訳で
そうなると文化圏が同じになるから城柵、楼観があっても不思議じゃない
まあかと言って吉野が里は邪馬台国ではない、と言い切れるほどの証拠もないのだけれど 宮崎市に住んでると神武さん祭りとか
お船出とか東征にまつわるイベントが多い
西都原古墳群とかの前方後円墳など見ると
この辺で野心や一旗挙げたい神武天皇兄弟が
美々津を船出して宇佐、門司、瀬戸内海を東に進んだ
という物語が身近になる
九州の遺跡からはお宝がザクザク出て来るのに
奈良の遺跡からは土器しか出てこないんだよな
>>216
藤の木古墳忘れないでprpr
つか宮内庁管轄の陵墓は発掘できないし 発掘されても骨董品として売られてしまっていたからね。実態はもうわからない
>>213
誰かが間違えた可能性はあるけど実際に行った人は間違わないと思う
それに何故水行ではなく陸行なのかもわからん >>218
金印みつけた百姓も庄屋もよくちゃんと届けたよね
見つけた百姓の名前書けという受験問題出しても俺は許す
どうせみんな書けないしw >>217
奈良の弥生遺跡の事を書いているんだが、古墳時代の遺跡は関係無い
勘違いが酷すぎる 宮崎は弥生遺跡は殆ど無い、そんな文化の遅れた地域から東征など出来る
訳が無いし三種の神器の出土も無い、皇室の祖先は三種の神器が出土した
糸島の出身で間違いない
アフガニスタンはこの時代から
通行料取って生活してた
米なんか作らん
奈良の弥生人ってお宝に関心なかった感じあるね。祭器はあれど、私財を持たない
>>1
秦氏の祖である弓月君の祖国と言われる弓月国は
カザフスタンとウイグルに掛けて存在していたそうだから
大昔からカザフスタンの方と交流も有ったんだろうね >>214
倭人伝の記載を無視して、楼観・城柵の無い遺跡に卑弥呼が住んでいたとでも
言いたいようだな >>213
吉野ヶ里遺跡の楼閣って、唐古・鍵遺跡がら出土した絵画土器に描かれている3層2層建ての楼閣の絵を参考に
唐古・鍵遺跡で復元された楼閣の図面をベースに作ったもの。
吉野ヶ里から絵画土器が出てきたわけでもなく、柱の穴があった所に、多分こうだろうという願望で建てた >>234
吉野ヶ里の楼閣に登ったことあるけど、あれはやはり3階建てであるべき。
なぜなら3階だとちょうど筑紫山地の尾根を広く見渡せる高さで、先祖の魂が帰るといわれる山と向かいあって霊感を得るには相応しい。
2階だと、まだ土俗感が残る。 不弥国は宇美国で旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)のこと
なぜ淤能碁呂島のような重要な島が強国奴国の領地ではなく不弥国の領地なのかはいずれオレが説明する
元々当然奴国の領地で、聖地だったわけな
手放したんだよ倭国大乱の後ね
>>213
吉野ヶ里パーは死んでいいよ
邪馬台国は御井だと何遍言わせるんだ
邪馬台国は移動している
吉野ヶ里は代々の王の墓があり、邪馬台国では到底あり得ない
唐古・鍵遺跡の楼閣も見てきたけど、あれはあの高さで納得。祭祀は広場に人を集めて銅鐸ならしてオメコオノコが楼閣に上がって儀式を執り行うから、それが高すぎてはいけない。
道の駅のテラスからでも部屋全体が見渡せる。
田原本は盆地の中心かつ1番平坦な地域であるし、遺跡公園が盛り土されている分を見越しても、あの楼閣が防衛上も十分機能してたのがわかる。
>>230
中国の本物の秦氏と全く無関係な奴らばかりだからな
DNA鑑定ができる時代でまだ言い張るかってレベルで >>238
卑弥呼がいたかどうかはともかく、王家の谷的テーマパークではあっただろうね。
墓があり、向こうには山並みが見え、それらと対面する形で楼閣が建てられている。
盆や正月には卑弥呼も墓参りに来ていただろうw >>215
宮崎は宮崎市の生目古墳群の方が卑弥呼の時代に近く、
生目=伊支馬で活目入彦五十狭茅天皇=垂仁で間違いないだろう。
また、生目から30日で岡田宮とすると、
不彌国から投馬国美々津まで水行20日という魏志倭人伝の記述で一致するので、
天皇家は生目出身の豪族で間違いないだろう。 >>241
邪馬台国は御井で一ミリの疑いもない
いい加減にしてくれ >>1
ルートがあるなら当然そっち系の人種も日本に入ってきていただろうに
何故か渡来人は中韓系ばかり強調されてるよな
卑弥呼の時代の邪馬台国は
御井で完全に結論出ている
いい加減にしろお前ら
吉野ヶ里周辺は広大な平野で、山からミネラルを豊富に含んだ水が供給され、南向きで日当たり抜群という最高の穀倉地帯。
栄えないわけがない。
ただし非常に攻められやすい地形、よって強固な防衛策が必要。何重にも張り巡らされた杭柵、そして弓矢が届かない距離に建てられたより遠くまで見渡せる高い楼閣。
まあ、あの当時じゃ南方と中国と人と物が入って来る九州が派遣を取るのは当たり前だな。
あそこから東へ東へと侵攻していって京都で落ち着いたんだろう。
>>229
伊都国から100里+100里で不彌国だろ
1里80mとして16kmでは糸島から宇美には着けない 話を戻すけど、広く交易品が伝わっているのは貨幣がなかったからではないだろうか?
貨幣があればその流通圏内が限定され、交易経路も分断されてしまう。人と人のつながりも局所的なものになってしまい、それは言葉の違い以上に大きな制限ができてしまったのではないだろうか?
漢の時代にシルクロードが開通したんだから、三国志のころに日本までつながっててもおかしくないだな
お前ら魏志倭人伝の適当距離信用しすぎだろ
最初の海渡る時点でとりあえず1000里連発するくらいだぞ
後から持ち込まれたものと言うよりご先祖様から代々受け継いできた宝物だったりして
>>247
当時は海に面していた筈だから漁場
海運の拠点にもなっていたろう >>254
そうだ。近くでは銅器も作られていたし、軍港でもあった説あるね >>254
ならなおさら高い楼閣が必要だね。敵が海から船でやってくるかもしれないんだから いくら文明が発達していない時代とはいえ
そんな簡単に外から攻め入られるようなところに首都をおかないだろ
ただの貿易の拠点
>>4
日本にまでは奇抜なものは届かなくなった、求めなくなったってことだよ
弥生時代は特に銅鏡をはじめとした中国由来の珍品が権力の象徴で、それを持てる伊都国、奴国が強い勢力を持った。
珍品を求める風潮は正倉院に見られるように奈良期まで続いたが、日本でも独自の律令制を整備したことでは中国皇帝の権威を背景にする必要がなくなり珍品を求める必要性が薄れ、むしろ欲しいものが仏教経典などに映っていった。そして遣唐使の中止によって冊封体制で下賜されるほどの高級なものは手に入らなくなり民間の貿易によって交換されるものへと映っていった。
鎌倉期は宋銭が一番の輸入品になりさらに禅の流行で茶の湯が流行るにしたがって陶磁器の需要も高まった。
戦国期からはよく知られるように南蛮貿易も並行して行われて多様なものが交換されるようになる。 >>258
確かに巫女様は山にこもってても国の経済に影響しないし >>252
うん
確かに海上計測はかなりいかがわしい
陸上計測は正確だよ
陸行は餘(約の意味)が付いてないだろ >>258
でもなんで貿易の拠点に王君が代々埋葬されてんの? >>258
それも相手方の拠点な
北部九州の古代の防備施設はどれも対馬海峡を背に南と東からの侵攻に備える形になってる
つまるところ、北部九州は古代中国の植民地兼流刑地だったのだろう >>264
植民地だったら邪馬台国というクニが興るまで放置しておかないでしょ >>4
それは簡単な話だ
大陸で大きな侵略戦争が何度も起きたからだよ
日本が防衛を固めたのは義務教育で学んだだろう >>263
末盧国の王墓とか大仙や古市の古墳とかも当時の海岸や湖岸沿いに作られているから
水辺の近くに埋葬するのが当時の流行りだったんじゃね >>247
卑弥呼がいたからあそこまで頑丈な造りにしたんだよ、単なる平民だけなら
他の環濠集落と同じ造りになる 弥生時代はまだ豪族はいないので平民と国王だけ >>257
宇美町だと距離的に不彌国ではあり得ないには同意? >>262
東征によると宮崎市生目から岡田宮まで31日なので、
不彌国から投馬国の美々津まで水行20日はかなり正確と言えるだろう。 この時代の出土品の価値って
平原の出土品と奈良で出土全部と同じくらいの価値あるんじゃねw
>>270
被葬者が代々の王でないなら代々の豪商かなと思ったけど 騎馬民族征服説は当たらずといえども遠からず
が真相っぽいな
御井に邪馬台国があったとか誰もそんなアホな事を言った奴はおらんよ
いたとすればキチガイ扱いされ、即逮捕 精神病院送りだろうなww
>>233
そんなことは言ってない
上でも書いてる通り吉野が里が邪馬台国であることを完全には否定しない(可能性は低いとは思うが)
ただ邪馬台国には城柵、楼観の痕跡がなくても不思議ではないとも思う
卑弥呼がいた土地=邪馬台国は争乱の中心でもあるわけだから
倭国の乱で徹底的に破壊されたとしたら痕跡がなくても不思議じゃなかろ?
むしろ吉野が里は争乱とは縁が薄い土地だったから城柵、楼観の痕跡が残されたとも言える >>272
長距離は日数で修正が効くから返って正確になる
海上計測は対馬と壱岐島が4対3になっているようにかなりいいかげん
狗邪韓国から南へ行ったらどの道対馬→壱岐島→九州と成らざるを得ないから
いい加減でも用が足りたのだと思われる そういやさ
緊急事態宣言終わったしそろそろ九州行ってもいいよな
ずっと我慢していた吉野ヶ里と壱岐行きてーんだよ
>>282
去年ならリスク少なかったしガラガラだったのに シルクロードで産物が運ばれてくるなら
当然人間も来るんだよ
すべてが中継貿易というわけではない
各地ごとの時代ごとの成分表って有るんだろうか?
比較データベースを作っておけば特定が楽そう
邪馬台国が御井だと言うと逮捕されるんだってwww
なにこのここ掘れワンワンwwwww
近畿パー「邪馬台国が御井だと言うと即逮捕されて精神病院送りです。定説です。」
近畿パー「いいか押すなよ。絶対絶対押すなよ。絶対だぞ。」
不弥国までと投馬国邪馬台国の記述は別の資料だと思うけどな
邪馬台国は7万戸なんだから広大な領土で銅鐸をカンカン鳴らして聞こえる程狭くないよ
まあそれ言うと奴国の2万戸も謎なんだけど
>>290
人口の問題は解決済みだよ
別に特段の謎などない 文字もない時代にどうやって7万戸もの人口を確認してたのか謎ではある
>>292
確認では無く概算だな
戸数記録は至る所にあり、別に不審な点は何もない
ただの妄想 宮崎の諸県はヒナモリのアガタが語源という話もある
鄙守というくらいだから地方の豪族
田舎はお国自慢に必死だねぇ
ファンタジー崇めて信じ混ませ、補助金や観光でお金を稼ぎたいんだろうな
ポッケナイナイかな?w
>>297
あり得ないのはお前の脳みそだから大丈夫だよチョン猿w うるさくて野蛮なのが取り柄のお前らが、尊い皇室に関係あると思うな土人
>>302
おまえうるさくて野蛮なのが取り柄だよなチョン猿ww >>303
オウム返しお疲れ
猿真似ってやつか(笑) とりあえずID真っ赤にしてずっと人を罵倒してる奴はNGにしとく
発掘調査も大きく進歩した現代に記紀の神武東征を素直に信じる者はいない
九州からの東征はあったが宮崎では無くて伊都国からだ
勿論伊都国以外の邪馬台連合国も同行しているだろう。
>>304
涙拭けようるさくて野蛮なのが取り柄なチョン猿ww >>306
進化した・・・かなあ
むしろ自分らにとって都合の良いように捻じ曲げてばっかだから学者の意識的には退化してる感ある >>306
東征も東遷もない
考古学的に証明済みだよチョン猿w だから卑弥呼なんて存在しない
邪馬台国も存在しない
あったの日の巫女とヤマト国
あと朝鮮半島は百済も新羅も伽耶も倭人の国で
百済も新羅も創設から倭人が建てたとハッキリ
してるんだよな
高句麗が扶余人が南下して建てた国でその出は
かなり北方に住むエベンキ族の派生で今の朝鮮族は
扶余人でありエベンキ族
高句麗に追われて同族の日本に百済も新羅もかなり
逃げて来てる
古代の北部九州の繁栄ぶりは半端ない。
そして北部九州のみならず九州全体も繁栄し、邪馬台国と言う九州全土を支配下に置くような大きな国が高千穂で生まれ、やがて近畿地方へ延岡辺りから船出して新たに国を作り大和政権が誕生したんだから凄いよな。
ロマンがあるぜ。
大陸で大きな戦乱がなくて流通が安定していたのかもしれない
古墳時代末期築造の祇園山古墳にどうやれば弥生末期に死んだ卑弥呼が埋葬出来るのか?
当時は時空ワープ技術でもあったんだろうか?
>>318
祇園山はどうだか知らんけど100年200年後に古墳をつくって改葬あるいは昔のものを副葬というのはあるかもしれない
例えば東大寺山古墳なんか霊帝時代の鉄剣が出てて数百年のずれがある 平原は副葬品の内容では弥生王墓の頂点にある
卑弥呼の墓で間違いないだろう
>>318
俺の知る限り祇園山古墳は三世紀中頃(弥生時代後期)に建造されたものと言われてるけどその古墳時代後期だとするソース教えて 弥生時代のシルクロードはシルクロードって言わないだろ
さまざま検討しても平原遺跡>>>>祇園山古墳と圧倒しており
卑弥呼の墓は平原古墳で決定、祇園山古墳は地元豪族の墓だな
>>32
畿内説もブレまくりだけどな
三角縁神獣鏡が出土したら、そのたびに、ここは卑弥呼の墓だと言って大騒ぎしてたんだから
箸墓古墳ももうちょっとしたらなかったことにして別の古墳を卑弥呼の墓だと言い始めるよ
畿内説ってそんなものだから 文化財の成分分析とかその気になればいくらでもできるのにあんまり進まない不思議
遺伝子解析で生物の系統図が一新されたのと比べて歴史学考古学は科学的なアプローチが弱いなぁ
それは男のロマンがかかってるからねぇ
夢は壊されたくないもの
ゴッドハンド以降人気下がって優秀な人少なくなったのもあるのか
>>239
吉野ヶ里にせよ、唐古・鍵にせよ、実物がどんなものなのかはわからんのだけどね
唐古・鍵から出た絵画土器をヒントに、想像で図面を引いて建てたにすぎない
実際にはどっちも楼閣があった証拠もなかったりする
あったのは柱を置いた穴だけだから 平原古墳からは日本最大の八咫の鏡が四面も出土しているので
天照大神の墓に間違いない。平原古墳>>>>祇園山古墳で勝負にならんよ
>>333
日本に八咫の鏡と呼ばれるものは2つしかない
伊勢神宮に一つと皇居に一つ
実際には消失して作り直されたことはあるけど、八咫の鏡という種類の鏡があるわけではないよ
八咫の鏡のモデルが大型内行花文鏡ではないか?という話と混ざってないか? 奈良の遺跡からは城柵があった痕跡が無いので邪馬台国は
奈良では無いのは間違いない。
>>335
無茶苦茶だなぁ
纒向も唐古・鍵も環濠で囲まれてた
非畿内であること自体は全然同意だけど、嘘八百で塗り固めるのは馬鹿の所業だと思うよ 福岡市の博多湾周辺は「フン族」の血が大変濃い
博多湾はフン族の生まれ故郷であり、世界征服を企む蛮族の末裔なのである
古代、現代の日本を大乱に巻き込んだり、ユーラシア大陸で暴れたり
いい加減にしたまえよFuckoka土人
>>336
環濠集落は日本中の弥生遺跡から発見されているが、城柵のある
集落は吉野ヶ里以外には見つかってはいない。 一般住民が住んでいる
集落に城柵など必要無いからな。相当身分の高い者が住んでいた証拠だ >>29
縄文時代の日本海側の交易ルートは有名だろ
黒曜石とか翡翠とか大陸の方まで交易ルートが出来てる やはり陛下と似ておられる
間違いなく、博多湾沿岸が神武天皇のふるさとでしょうな
倭国乱により畿内へ逃れたと推察する
何にしても、九州島が蛮族地帯なのは変わりあるまい エタヒニン以下のクソフクオカンコクFuckata蛮族は自重しろ
伊都国て糸島やろ
あんな田舎に古代のガラスがあったのか
>>328
具体的になんの成分分析をすれば何がわかるっていうの? 伊都物語はうまいけど濃すぎる
あれじゃ牛乳というより生クリーム
6世紀の須恵器の中に金属の表面を模倣した作品や、東南アジアのdianやdong sonのブロン
ズ作品のデザインを真似た須恵器が多いのを見ると、須恵器のアイデアは朝鮮からだけじゃ
なく東南アジアから来たものも多かったのではないかと思うと同時に、日本の金属文化は古
墳時代の後期に一気に進んだのではないかと推測する。
縄文文化が金属器を拒んでいたって言う説もあるね
その勢力が消えてしまって一気に文化的革命が起こった
つまり新しい文明に乗っ取られた。という
>>345
知り合いの分析屋教授がいくつか論文書いてるのよね。
あくまで歴史学者の手伝いという立場だけど。
この記事にも書いてるやろ。
ガラスとか鉄とか成分調べれば産地が分かるのよ。
知り合いは古い貨幣とかの分析してたわ。 >>343
糸島というか半島になる前の向かい側というか。
古代は大陸交易の重要拠点 >>349
なるほど
貨幣とかはまだしも結局日本は遺物自体が少ないんだろうな 伊都国歴史博物館には五年前に行っただけなので 又行きたくなった
だいぶ涼しくなったから十月半ば頃に行こうと思っている
帰りには前原駅周辺の焼き鳥屋で焼酎を飲み飲み焼き鳥を食って
近くのラーメン店でラーメンを食って博多行きの電車と乗り間違えて
西唐津行きの電車に乗って西唐津駅で朝まで待つことになるだろう
>>15
なんで工事に立ち会わないの?
埼玉県の市だけど市立博物館の学芸員が工事全部に立ち会う規程になってる
出てくるのは縄文だけど >>29
縄文時代は神津島の黒曜石加工場が三浦半島にあったレベル
新潟から北海道なら陸がずっと目視出来るし問題ないような >>354
立ち会ってるよ
福岡市で何が出てきてもメディアも国民も興味無いからな
別にいいんじゃね 昔からだし 前方後円墳がある都道府県は下記の通り
奈良県
大阪府
京都府
兵庫県
埼玉県(東日本唯一)
意外にもたった5府県しか無いのである
>328
文学部だからなぁ科学とは最も遠い。
数字より情緒が優先される世界。
はっきり言って老害と世捨て人の巣。
トカナとかムーと対して変わらんよ。
纏向遺跡にも砦らしきものと広義で捉えた場合の城柵もあったみたいだけど
それ以前に7万戸との記録もある集落跡がないから邪馬台国ではなかろ
>>360
纏向と邪馬台国の関連性は横においておくけど
纏向がまだ全体の20%程しか発掘が終わってないって事は理解しておいた方が良いよ
平原や吉野ヶ里のようなただの空き地って訳じゃない私有地だから
建物の建替えや農地の発掘調査の許可が得られないと発掘調査ができないし
纒向が巨大過ぎるということと、発掘調査の予算がそもそも国からではなく、県や市の予算だからね? >>4
古代人の方が自由だからでしょうね
中世以降の民衆は領主の所有物なので移動出来ません 全国方言アクセント分布図
シオツチとワタツミの関係性が面白いね >>363
赤の地域は朝鮮語のアクセントと同じと言う事だな フムフム >>364
なんでもチョン関連に見える頭病気なのかお前
まるで朝鮮人だな >>4
溜め込んだものを見て交流が盛んとか言わんでくれ。 >>361
纏向遺跡を邪馬台国と見る奴はまずそれが見つかってから主張すべきだな
それがあったとしても畿内はあり得ないけど >>367
邪馬台国との関連性は横に置いとけと、態々書いてんのにね
邪馬台国が絡むと、余計なフィルターがかかるから、事実ベースで見ればいい。
纒向に城柵跡もあるし、発掘進捗率が低いのも事実だ 太宰府近くが地元だけど家建てる時にいろんなものが出てくることがよくあるから暗黙の了解で何も言わず埋める
>>368
真面目な話今纏向遺跡は邪馬台国だ箸墓古墳は卑弥呼の墓だと言ってる奴は歴史研究を阻害してるから学者を辞めた方がいいと思う
発見したものに対して正しい考察をしない学者など存在意義がないどころかむしろ害悪でしかない 平原が卑弥呼の墓なら、伊都国は邪馬台国の監視下に置かれた属国だみたいな先入観は見直さないとな
伊都国の王墓以上の副葬品を持つ墳墓がない
奴国以上に遺跡の規模密度を持つ国がない
伊都国王だけ王号が許されてる
これらの点を踏まえるとむしろ邪馬台国の方が属国じゃないのかとすら思える
そうだとしても魏志とは大きな齟齬もないだのだし、かえって邪馬台国の情報が少ない点も合点がいく
数百年かけて属国の所在地論争したとか、古代の年代を改竄してまで属国を誘致したとか、失笑ものだけどな
>>370
完全に確認された事実だけをベースに、多方面の資料もきっちり比較分析すると
邪馬台国が何処にあるのかなんて答えには全くたどり着いてるわけじゃないからね
それは纏向だろうか北九州のどこだろうが一緒
色んな人が好き勝手言い合ってるだけだから、何説は辞めろとは言えないなぁ 動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波
>>370
文献史学にはそういうアプローチしかないんだから仕方ない
むしろ「魏志倭人伝」などと呼んで絶対化して
他の史書との比較をしようともしない、その記述の正確性について疑いもしない
そういうアマチュア愛好家あたりが酷い >>375
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>356
城柵とは吉野ヶ里のような大規模な物を指すんだよ、魏使はそれを見て
驚いた訳だ、唐古・鍵遺跡のショボすぎるやつが城柵とか魏使が思う訳が無い >>374
御蓋山でも採れるわい
吉野地域には丹生川もある
福岡さんは? 城柵もなにも魏使は邪馬台国までは行ってないんだから又聞きだぞ
普通に一番大陸と行き来しやすいのは九州北部地域だからな
伊都辺りもっと大々的に調査すればお宝沢山出て来そう
>>358
滋賀はおそらくあったけど無くなったんだろう >>382
「忌部一族(阿波勢力)」が進出したところはあるよ。 @阿波 伊都国は別格なんだよね
でも1000戸しかなくて隣りの奴国は20000戸もある
>>377
そう断定的に過去の人の行動を書くのは、余計に信憑性が落ちるからやめたほうが良いと思うよ >>382
北海道、青森県、秋田、沖縄を除く43都道府県にあるよ
滋賀県でも13個ほど確認されてる >>371
それらの国全部合わせて邪馬台(ヤマト)国かもしれん まあ出雲大社辺りの宝物殿みたいな所に行くと中央アジアや中近東っぽい装飾品とかでいっぱいだもんな。
まあシルクロードから朝鮮半島を経由したからウリらが文明を教えたニダってなるんだけど。
>>384
戸数の記述はマジで当てにならん
松浦市とか現代においても2万人強しか人口いないのに当時で4000戸、10000人前後の人間が住んでたと思うか?
ましてや7万戸だぞ?
邪馬台国と目される九州中北部各市の現在の人口の2〜3倍やぞ?
あり得んやろ >>389
変だとは思うけど全く出鱈目を書いてるとも思わない
嘘を書く理由が無さそうだし
何か解釈が間違ってるんじゃないかな >>249
それは魏志倭人伝の読み方が間違ってる
魏志倭人伝を含む東夷伝の各国間の距離は基本的に「国境線から首都までの距離」が書いてある
末廬国〜伊都国だけは道に迷わないよう上陸地点から書いてあるようだがね
例えば高句麗伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/gisi_kokuri.htm
「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下 方可二千里」
高句麗の位置が遼東の東1000里と記されているが、この距離は遼東と高句麗の国境から高句麗首都の丸都までの距離が短里で記されている
遼東の都襄平から丸都までだと230kmほどなので短里でも長里でも一致しないし、方可二千里は短里でなければ遼東をも飲み込んでしまうのでそもそも長里ではあり得ない
襄平起点だと東に短里1000里の地点は丸都から短里2000里近く離れているので高句麗領の方可二千里が成立しなくなるから「首都から国境までの距離」というのも違う
高句麗伝の記載と一致するのは「遼東と高句麗の国境線から高句麗首都・丸都までの距離」一択
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/kokuri.gif
丸都は現在の集安市であり鴨緑江のほとりなのでこの図の高句麗版図のほぼ中央
方二千里の国土の中央なので遼東郡との国境線から丸都までの距離が千里ということ
上記を当てはめると奴国への東行百里は「伊都国と奴国の国境から奴国首都の春日丘陵までの距離」ということになる >>392
そう、中国側からするとそこで嘘をつく理由がない
だから何かの間違いだと思う 距離や戸数を百や千単位で適当に書いているから方角も日数も適当
>>249
>>395のように文献の書き方を正しく見ていくと伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約8km)しかないのだから
奴国の王都である春日丘陵からの距離を逆算して考えると西新町遺跡(福岡市早良区)あたりまではまだ伊都国であったことが分かる
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に8kmだと天神あたりまでしか届かない
糸島〜早良区あたりまで伊都国で、弥生遺跡が密集し弥生銀座と呼ばれる春日市一帯が奴国
不弥国はそこから東百里なので宇美町で合う >>394
何故それを間違ったかなんだけど伊都国と奴国に境界なんてあってないようなものじゃ無いかな
争うわけでもなく伝える人に依って変わるほどいい加減 所詮、奴国も伊都国も、吉武高木遺跡の委奴国王都の分国にしかすぎないのよ
>>392
これまでに確認されている遺跡や散布地人骨なんかを元に、当時の人口推計が過去に行われていて魏志倭人伝とは全然合わない
この手法自体は全世界で過去の人口推計で使われてるものなので、この推計そのものを否定するのはかなり難しい
また戸数という概念自体は、(前)漢書地理志でも使われていて、都市の戸数と人口の記録が残ってるため
戸数と人口は別のものと区別されていたこともはっきりしてる
一戸=5人平均くらいになる
嘘を付く必要性は、九州説の重要な根幹である短里にある
中国人の知らない短里で書かれた中国の歴史書である以上、読者は長里で解釈する
その時距離の割に戸数が少なすぎればそこの矛盾に気が付く そういや邪馬台国までの距離を短里とするなら一歩は25〜30cm
径百歩で25〜30mと祇園山古墳とサイズが合うんだな
>>403
全部6倍して記録したとすればね
誰が何のためにそんなことをする必要があったのか?って問題は残るけど、一つの考え方としてはあり 出先でID変わってた
ID:vQrO8+oq0です
>>402
その可能性もあると思ってて実は伊都国が100戸で奴国が2000戸かもしれない
でもそれでも力のバランスがとれてるのは変でしょ >>402
人数を表す単位は口でしょ
戸は明らかに建物を示す >>24
畿内説は当時に大きな都があったら邪馬台国に違いないみたいな短絡的な論理で主張してるから話にならんわな
勢力的には邪馬台国より狗奴国の方が大きいんだわ >>33
境界だけで戦争発生するわけじゃないので明らかに間違い 邪馬台国論争はエビデンスに基づかず非論理的な妄想を語りがちだから「ぼくのかんがえたさいきょうのやまたいこく」になりがちなのが何だかな
奈良の研究者に発見されたなら必ず邪馬台国と別物認定される。
奴らは捏造しても纏向を邪馬台国にする。
>>33
というか山も平地も関係なく直線的にしか落ちてないってあり得ないだろうに >>406
当時の伊都国と奴国の正確な領域はわからんから、なんとも言えないけど、距離と戸数の矛盾はすぐおかしいってバレるよね
そこをどこかの誰かが、何らかの意図を持って書き換えた事はあると思うよ >>407
1戸5人て説もあるね
だとすると戸数が書いてある多くの地域で現在の人口をはるかに上回ることになる >>413
距離がおかしいと言い出すと帯方郡から狗邪韓国までの7000里もおかしいんでしょ
ここ嘘書いてバレない? すごい説あった。
学研全訳用例漢和辞典 【戸】4.成人男性
>>415
バレるかもしれないと思うけど、中国人は過去の間違った記録でも裏取りせずに信用してるから
或いはずっと調べもせず鵜呑みにしてた可能性もある
距離だけだったら、実際に測量しなければばれないし、態々国外の蛮族の土地まで手を出してないだけかもしれないしね 戸が成人男性人口であるならば、それはすなわち兵力、あるいは労働人口を意味するね
地名としてマツロ、イト、ナとか言ってただけじゃないの?
例えば、男手が大量に必要な城柵土塁の造営、灌漑工事、城郭陵墓の建設には、あらかじめ必要な人数と期間を計算する。
それで中央が何ヶ月何千戸と計上して地方に要請する。女子供を除く労働力という意味で戸を使っていたとか。
陳寿が意図的に嘘を書いたとは思ってないんだけど
70000戸がもし有り得ない数字であれば書かないと思ってる
>>421
陳寿は別に三国志にまとめる前に日本を訪れて記録の正否を確かめたわけでもないけどね >>4
古代の10年単位でやってる流通は現在は1月もかからずにやってるんだが
王族レベル限定された物品や文化とかの移動に関わらず、
庶民が求める食材ちかハーブとかレベルまではばひろくq >>421
当時洛陽で20万人を超える人口がいたそうだから計算方法がどうなのかにもよるけどあり得ないって程の数字でもないかもしれない >>380
平原遺跡や吉野ヶ里もも昔から土器などが結構出土していたが、なかなか
発掘調査するまでには至らなかった、税金を使うならそれなりの結果が
出ないと行かんからだ、平原遺跡は原田大六氏が身銭を使って発掘調査を
始めた。だからこのスレでもあそこを掘ればどえらい物が出て来るぞとか
無責任に書き込む奴を見かけるが、それは税金を当てにせず自分の金で
掘れと言いたい 纏向遺跡の発掘調査は何回も行われたが思うような結果が出せていないので
これ以上の調査は税金をドブに捨てるのと同じなのでしないはず。
>>426
そもそも当時の九州北部の人口推計人数と開きが大きすぎる
1996年に出された最新の推計でも2〜3世紀の九州北半分の人口は40500人ぐらい >>429
数はそれ程重要じゃないと思ってる
揉めるのは土地でしょ
土地が足りないから揉めてる訳でそこに何人住んでたかは重要じゃない >>429
そりゃ当時魏志を書いた奴からすりゃ2000年先の状況なんて分からんからな
俺が言ってるのは陳寿?がその人口をどう思ったかだから >>429
>1996年に出された最新の推計でも2〜3世紀の九州北半分の人口は40500人ぐらい
誰の推計か知らないがその推計明らかにおかしい
一桁間違えてるだろ
405,000人? >>386
「忌部一族(阿波勢力)」が進出したところはあるよ。 @阿波 畿内説はこのくらいの時期におそらく全国の豪族が集まってたんでしょう
そうなると九州だけが勝手に朝貢したりしてたのか疑問なんだわな
>>431
まー数が嘘っぱちでも全然いいんだけどね
ただ魏志倭人伝に書いてあるからって鵜呑みにできないって一例だと思うよ
>>432
陳寿にとっての100里は短里ではないんよ
その陳寿から見て違和感のない人口と映ったんだと思うよ
つまり距離だけでなく人口も誰かに操作された可能性がある
>>433
経済学と歴史人口学の専門の鬼頭宏だよ
古代の人口推計の手法としては一般的に、遺跡の規模や散布物、遺体の数、遺跡間の距離から当時の人口を推計する
このやり方自体は世界中どこでも使われてるもので、アマチュアが個人的な思いで否定できるものではない
実際に鬼頭宏は古田武彦とも対談してるし、その際にこの人口推計の誤差範囲について古田武彦は鬼頭宏にも質問してたりする。
昨今の九州説のドン的な古田武彦すら、魏志倭人伝の戸数は違うって理解してたってことだよ >>435
霊帝の時代の鉄剣が東大寺山古墳から出てたりするからかなり早い時期に畿内に集まっていたのかもしれない
もっとも、副葬されるのとかなりライムラグがあるようだが なるほど
畿内ヤマトは霊帝の子孫か
日本人ですら無かったんだな
霊帝の一族が博多湾の倭奴国を滅ぼして畿内へ進出
畿内ヤマトは漢民族の王朝そのものだろうな
これでハッキリしたな
倭人の委奴国を滅ぼしたのは、大陸から渡来した”漢民族そのもの”だったということがな
>>427
原田大六の平原の本を父親が持ってて
それ読んで邪馬台国九州派になったわ >>436
陳寿はどのくらいの距離を想定してたかわからない
仮に長里だと朝鮮半島が無茶苦茶大きくなるしこんな間違いをするとは考え難い >>433
中華はすぐに桁を水増しするから7000戸が正しいのかもな
そうすると辻褄が合う 中央の官僚が、そんな漢字を理解するのがやっとな極東の島人を。10倍も水増して報告する?
何の意図が
日本はすぐに仲介業者をたてるからな
何も信用できん
中華→九州には大国が存在した!
日本→畿内こそ邪馬台国であり、九州にあったのは仲介派遣奴隷だ!
↑www
でも実際、大和王朝が発足した後も中国と折衝してたのは博多太宰府だと思うけどね
人口を水増しする意味
もし倭国担当の官吏が、統括地域の規模に合わせた予算をもらえるのであれば、水増しして報告するよね
人口を水増ししたり大国に思わせる意味
そうすることで侵略を思い止まらせる抑止力となる
外交は金儲けだけが目的ではないんで
もっとも大事なことは国を守るということ
>>442
陳寿自身は単に過去の文献や残ってた公文書の記録だったりをまとめた人で、国外のことまで調査なんかしてないでしょう キルギスには肉が好きなものがキルギス人になり
魚が好きなものが日本人になった
という言い伝えがある
>>448
古来大陸の玄関口ではあったが、道真の時代でも礼儀の無い野蛮人みたいな書かれ方だし
博多に潜入していた元寇のスパイも「山ばかりで貧しくて侵略する価値はない」と報告していたんだよな
魏志倭人伝では奴国ですら副官がヒナモリだし田舎扱い ヴェニスのマルコ・ポーロはフビライに謁見して「東の国に黄金の国がある」と言ってたらしいけどね
ポーロと接触してたスパイは安藤氏だったかな
元寇の真の目的は、元により滅亡した南宋との交易ルート上の博多の街を潰すこと
最終到達点が日本だから
日本のものはすべてどこかの国の起源に行き着く
道真って左遷されて梅が恋しいと言って方?
へー 今頃、「比治山」あたりにいるのかね?(笑)
逆に日本発で西に広がったものなんて何一つないもんな
肉を切っても血を出すな
しゃ李族 とアントー族には困ったもんだねぇ(笑)
>>389
呉都の建業で五万戸
それなりに脅威となる勢力になるように見せないと相手にしてもらえないわな >>458
ただそれが余りにも古すぎて、大陸じゃもう痕跡すら残ってないんだがな
そもそも縄文人って漢民族が来る遥か昔からこの地に定住してたのだから どうせモンゴルで掘り出したモノを埋めてから発掘したってオチだろ?
>>461
そうかな?
世界最古の漆塗りと磨製石器、釣り針は日本だよ?
もちろん今の所って注釈は付くけど、世界最古の漆の木も日本のものが一番古い 外洋に面して暖流の影響を受け、かつ火山帯の日本列島が氷河期を一番先に終えて人が定住してたからじゃない?
>>468
中国から伝わった漆塗りなのに?w
石器も釣り針も文明の利器じゃないし >>471
日本では9000年前の漆器が出土してて中国最古の漆塗りは7400年前の弓ってwikiに出てた。 >>471
もうちょっと歴史の勉強しろよ
釣り針も骨を削って作られたものの世界最古は日本だし、石器ってのは人類最初の道具だ 纏向遺跡から関東から九州までの土器の破片が出土したから
いろんな地域の人間が纏向に集まった証拠だとかほざいているが
纏向を発掘しても土器片すら出なかったから調査員が全国に
出向いて土器の破片を拾い集めて纏向にばらまいたと考えている
とにかくあそこほど疑わしい遺跡は無い
>>475
土器が出たのが出てないのかどっちだよw >>475
そこまではしないけど
北九州や山陰の遺跡でも普通に各地の土器は出てくるから
纏向は特別でもなんでもない でっかい宮殿は何の為に建てたんだって話しだしそこまで否定するのはどうかな
それと魏志の投馬国邪馬台国の記述はおそらくつなぎ合わせたもので
場所が全くわからんし5万戸7万戸だとかなりでかい国なんだろう
まあ奈良時代の仏師(木工技士)とかは
大陸から連れてこられた色目人(目が青い人々、つまりイラン系)って話だから
古くから西域(中央アジア諸国)との文化交流はしてただろうな
この手の古代史の話になると途中の通り道にすぎないシナやK-POP国が口を挟んでウザいが
イスラム化する前の多神教期のイランとかの品物が最も保管されてるのは日本やぞ
那珂八幡古墳てのがある
古墳に価値は無いから今まで無視してた(笑)
>>478
>場所が全くわからんし5万戸7万戸だとかなりでかい国なんだろう
どっちも、温暖な黒潮流れる太平洋側の四国だ。 そんな所でないと、そんなでかい国にならん。 @阿波 >>477
そんな事はしないとか、どうして断定出来るんだ?お前は調査員なのか
纏向遺跡は不審な遺跡で決定だ 紀元前後の唐古・鍵遺跡ですでに北陸尾張備後の土器が出ている。三輪纏向はそもそも海柘榴市で栄えていたんだから各地の土器が出土してもなんら不思議はないし、邪馬台国を名乗る証左にはならない。
>>483
邪馬台国を忘れると見えてくることがある
弥生時代後期の近畿地方に、本州各地と交易を行う中心都市があった ということで、一握りの徐福伝説ファンが邪馬台国を掘り下げることに拘っていたというオチでよござっしょ?w
唐古・鍵の遺跡は楼閣跡で、吉野ヶ里は倭人伝に記載のあるとおり
楼観跡、楼閣と楼観では全く違うを判ってない者が多い
世の中で俺しか言ってない。
クルガン=古墳仮説が立証されたやん!!。
クルガンが渡来しているのに何故日本は、
インド・ヨーロッパ語族ではないのか?
考古学こそ歴史。本当に面白い。
>>487
その唐古鍵遺跡の復元図面から建てた吉野ヶ里がなんだって? 唐古鍵遺跡には楼閣はあるが楼観は無い、吉野ヶ里は楼観、楼閣どちらもある
吉野ヶ里は唐古鍵を真似てはいない、ウソをつくのも大概にしろ
>>490
どっちもどっち。 目くそ鼻くそ。 大概にしろ! @阿波 地理的に考えても空を飛ばない外国との交流は福岡の方が関西よりも格段にしやすいからねえ
>>490
吉野ヶ里歴史公園のHPにちゃんと書いてあるから見ておいで >>474
歴史の勉強ワロタ
外国行って言ってこい
釣り針は日本起源ってw腹抱えて笑われるから
だからその石器が日本から世界に広がったのか? >>494
そうだな
釣り針にせよ石器にせよ、世界各地で独自に発明され進化しているもので、偶々現状最も古いとされる遺物が日本国内で発見されているに過ぎないと考えるのが合理的だわ 吉野ヶ里遺跡は縄文時代早期からの遺跡だから新参者の唐古鍵遺跡など
格の違いが大きすぎる
>>494
話がそれるけど、縄文式の火炎土器がエクアドル周辺に伝わっているから、新石器時代では日本が最先端の文化を持っていたのは間違いない