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【邪馬台国】纒向遺跡「古代都市」裏付け、外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備など [樽悶★]YouTube動画>2本 ->画像>8枚
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邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(桜井市)の「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果、他地域から運ばれた外来系のものが全体の10%近くを占めることが分かった。胎土を分析するとより増える可能性がある。同遺跡が幅広い地域と結びついた古代の「都市」がったことが改めて裏付けられた。
纒向遺跡では東海や北陸、関東など広範囲の外来系土器が出土しており、その割合はこれまで15〜30%前後とされてきた。
巻野内家ツラ地区は纒向遺跡の北東部に位置。大型建物群(3世紀前半〜中ごろ)が確認されている「辻地区」に続く、3世紀後半の中枢部とされる。昭和62年に導水施設が見つり、水を用いた祭祀(し)の場だったと考えられている。
桜井市教委文化財課の橋本輝彦課長は、平成8年度に巻野内家ツラ地区の溝から出土した土器を分析。土器の様式は「布留0式期」(3世紀後半)に位置付けられ、器種が確認できる口縁部の破片全1687点をカウントした。
その結果、全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が最も多く43%で、河内系13%、山陰系11%、近江系8%、吉備系7%などだった。阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
昭和51年刊行の纒向遺跡の報告書「纒向」では外来系土器の比率の多さと、搬入地域の広範囲性が指摘され、同遺跡が3世紀の日本列島において中心的な地だったことを示す特徴の一つとされてきた。
橋本課長は「(すべてを調査対象にする)悉皆(しっかい)的な調査だが、従来のデータと変わらない数値が得られた。研究も進み大和と他地域の関わりがより厳密に分かるようになってきており、アップデートする作業が重要になる」と話している。
分析の成果は、桜井市纒向学研究センターの紀要「纒向学研究第9号」に掲載された。
奈良新聞 2021.08.10
https://www.nara-np.co.jp/news/20210810090736.html 2021年8月10日 16:30
https://note.com/naranewspaper/n/n497963d6218b 文字はなくてもかなり流通があって広範囲を支配してたんだろうな
>>1 巻向は倭国大乱後に女王卑弥呼を共立する際に作られた新首都
共立した各国から搬入土器が持ち込まれた
邪馬台国はその内の一つ
地方の同時代遺跡でも同じ傾向のような気もする
単に活発に交易してたんじゃねーの?という
>>7 論理パズルを解いた結果の答えだよ
文系は論理パズルとか苦手だからなw
馬と紅花が出ているなら5世紀だろ?
四道将軍を派遣した大和朝廷なら当然だよな。
>>1 邪馬台国誘致に向け調査分析が行われております
邪馬台国はヤマト政権の始まりで東海勢の西征でできた政権かな
狗奴国は元々畿内一帯にあった在地の国かもねえ
>>15 漢時に100国を支配してた倭国が大乱で分裂したのが奴国と狗国だから
崇神が四道将軍で周辺制覇
そもそもこれは魏志倭人伝に全く出てこない
なぜなら魏志倭人伝の時代の後に起きたことだから。
つまり纒向の崇神時代は魏志倭人伝と無関係
もちろん箸墓古墳も無関係
当時の福岡も吉備瀬戸内海系と東海の土器が見つかっている
畿内の土器はまだないみたい
瀬戸内海〜九州北部を支配下に置いた吉備と奈良を支配下に置いた東海が手を組んで卑弥呼を担いでできたのが女王国かもねえ
大化の改新でそれまでの歴史書を全部焚書したせいでこんなことに
よって日本の歴史は1370年くらい
しかし、チャンコロのコレでもかと言わんばかりの凶悪な当て字センスって
今のパヨチンに通じるものがあるな
付けたほうが痛々しい当て字ばかり
最近の畿内説は、何の説得力の無い寂しいネタしか出て来ないなw
纏向は九州や半島や大陸と疎遠だったとしか言いようが無いもんな
そもそも魏志倭人伝と全く関係ない話ばかりだし
縄文時代が長すぎる
邪馬台国は九州北部
邪馬台国と大和朝廷は別
翡翠の産地は日本
多くの歴史学者の言説は科学的検証技術、地質学、DNA解析の進歩から、
近い将来完全に覆される
>>27 平原は方形周溝墓だろ?
元は本州の支配下だったってことだぜ
邪馬台国がその後大和朝廷になるなら、記紀にデカデカと書くよな。
正倉院とか皇居に魏から もらった金印だって保管されてるはず。
東海系43%
河内系13%
山陰系11%
近江系8%
吉備系7%
阿讃系(13%)
関東系(2%)
相変わらず纏向は九州とは縁が薄そうだなあ
そもそも日本の有史を邪馬台国から始めることに問題がある
中国に朝貢したことが日本の始まりとはお笑い草
日本書紀や古事記や考古学的調査やDNA解析や地質学や三国志以外の近隣諸国の文献は、
明確に違うことを言っているが、なぜか今の日本史は邪馬台国を異常に有り難がっている
なぜ天皇から始めないのか?
実は天照大神って当時の中国の則天武后の影響が色濃いと思うんだよね
則天武后は近年では善政を敷いた強力な女帝として中国でも人気化してる(かつては三大悪女だった)
この則天武后は非常に独特なセンスがあり国名も王朝名も官名も自分の美意識に合わせて変更するという
まさに空前絶後といってもいい権力を振るった
天智天武は彼女に苦しめられた被害者だがその強大なイメージは深く刻み込まれただろう
これが天照大神による天孫神話に影響してると思うんだね
>>32 公孫氏の子孫は常世氏だぜ
元々豊前が本拠地
なんで三国志が日本の始まりなんだろうな?
日本の始まりは天皇でしょ
蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´)
東アジアのハプログループNの身に、
何があったのか……
李淵の遺伝子はハプログループNの様だが。
唐の滅亡までに皆殺しにされた?
>>39 倭王帥升
帥=将軍
升=登る
倭国の王は将軍が登りつめた存在だと書いてある
日本の始まりは天皇
邪馬台国と大和朝廷は別物
日本史は三国志ではなく古事記、日本書紀
縄文時代でもそれくらい交易はしてるだろ
黒曜石の産地の分析で出ている
>>44 陳寿は帯方郡にやって来た難升米は倭国からの使者だと特定してるんだよなぁ
ソグド人の墓からもハプログループN出てるんだよな。
土器は権力の象徴として下賜されたり古墳みたいに統一させられたりするものではなかったのか、まだヤマトの権力はそこまでのものではなかったのか
連合王国の中心という位置付けだったのか
興味は尽きないな
>>47 ソグドってシルクロードで公益を生業にしてた奴らじゃなかったっけ?
>>31 石高を考えても圧倒的なのよ。
こんな大勢力に北九州だけで対抗できるわけがないのよ。
それこそ磐井の乱みたいになるのがおちなのよ。
近畿派は卑弥呼と朝廷を意地でも繋げたがってる様に見えるけど
邪馬台国は大陸との交易が便利で当時の先進国九州に有ったでしょ
でも、九州は台風銀座だからね
今だって大きな被害が出るんだから、例えば邪馬台国の半分が死ぬような壊滅的な打撃を受けてもおかしくない
そうして多くが埋まっちゃって復旧は難しいとしたらどうする?
親戚筋を頼って安全なところへ移住するだろ
それが奈良だよ
南北朝辺りの出土品って
アヴァールに似てるんだよな。極東も。
>>55 邪馬台国=大和国。
卑弥呼=天照大御神。
これほど大きな部分が一致しているのに別物と主張する九州説の連中には説得力が無いからね。
日本における翡翠の産地は新潟県糸魚川や長野県白馬村
アジア全域で見ても硬度の高いものは、
日本の上記の産地か、ミャンマーでしか採れない
つまり翡翠の勾玉は、基本的に全て日本産
これが日本全国各地と朝鮮半島で見つかっている
日本における翡翠の加工品は5000年前のものが見つかっている
つまり縄文時代に始まり、飛鳥時代あたりまでは、盛んに行われていたことが、
遺跡などから発掘されている
奈良時代以降の遺跡からは、なぜか翡翠の加工品が発掘されなくなるが、
卑弥呼の時代は北信越で採掘される翡翠の加工品が、
日本全国ならびに朝鮮半島に流通していた
これを可能にしていた当時の日本の中心が邪馬台国であった可能性は低い
もし倭人伝の女王国が三輪地域にあるなら当然倭人伝に明記されたように九州諸国を傘下においたはずである
しかし纒向から九州系土器が全く出ず、東海北陸吉備方面ばかりである
この矛盾は言うまでもなく、
そもそも九州と無縁の三輪政権でありもちろん倭人伝の女王国では無いとしか言いようが無い
既に纒向倭人伝女王国説は纒向学者自身の発掘により死んでしまったのである
>>60 九州系土器も出土しているよ。
桜井市の研究センターのHPを見てみ?
邪馬台国は九州北部の一勢力
大和朝廷とは別物
当時も日本の中心は天皇
反九州連合じゃん邪馬台国じゃない証拠がまた一つ増えたな
どう見ても反九州の盟主
九州を領域に含む邪馬台国「ではない」証拠
黒曜石時代から還日本海公益圏ってものがあったと思ってる
>古代の「都市」がったことが改めて裏付けられた。
ゴッドハンド
>>58 箸墓=卑弥呼=モモソヒメだろ
天照大神が女神になったのは日本書紀成立のころだろう
纏向面白いよね。
このころ、纏向を中心としてヤマト=日本の成立があったんじゃないか。
邪馬台国を大和朝廷に結びつけようとするから無理が出る
大和と山門は別物なんだよ
なんつーか、畿内説の俺もどこかで九州の勢力が大和を乗っ取っただろうとは思うわけよ。
記紀に神武帝の東征が記されている限りはね。
その部分は十津川村の住人が何か隠していると睨んでいる。
神武帝の東征の際に熊野から奈良盆地へ侵攻する神武帝を助けたのを始まりとして、日本の歴史の転換点に必ず登場するのが十津川村の住人だ。
壬申の乱、南北朝、そして幕末にも十津川村の住人が必ず登場する。
ただ十津川村の住人にそのことを訊ねても何も答えてくれないのよな。
邪馬台国の文化とは違う感じ
海人系だよね
古墳っぽい墳墓は違うのかもしれんけど
3世紀の奈良は東国人勢力のど真ん中
巨大な邪馬台国は存在し得ない
>>31 縁がないどころか明らかに反九州の盟主として勢力を集めてるわな
>>3 当時は日本に百いくつの国があったんだよな。
そしてほぼ戦なしに統一されて日本ができたんだっけか
そもそも新羅と出雲と吉備が繋がってるんだよ
巻向は、そもそも三輪山の麓にいた大王家に、その出雲吉備勢力が合流した連合政権で、10代崇神から12代景行までの初代大和王朝
北部九州は、そもそもは百済、任那と繋がってて、3世紀は奈良よりも圧倒的に文明が進んでる邪馬台国
台与の後で衰退し、神宮皇后と共に河内にやってきた
15代応神から19代反正までの、河内王朝が北部九州出身で、邪馬台国の末裔
>>68 時期が合わないね
崇神の治世は3世紀後半
箸墓古墳は当然それ以降
卑弥呼はその前に死んでいる
なんとか卑弥呼没年に合わせようと
必死で箸墓古墳の年代を繰り上げたが成功していない
そもそも纒向が全く九州と無縁である点から倭人伝の女王国とは考えられない
そうすると
記紀のとおり孝霊天皇の縁者で三輪信仰の重要な巫女が死んだので
崇神は最大級の敬意を払ったという説明で全く矛盾が無いのである
キープ(縄文字)とかが出土してくれたら解析進歩するんだろうけどね
解読がまた難しいかもしれないが
>>71 十津川村はものすごくRPGの勇者旅立ちの地のイメージだわ
畿内人「桃うめえ!墓掘り頑張るぞ!」
↑古代人の価値観なんてこんなもんだろ?
>>33 そうすると日本の有史は7世紀末からってことになるが?
まさか神武から始めろという訳じゃ無かろうな?
>>33 その天皇の始まりが神武天皇とかいう存在すらあやふやなもんだからなあ
九州にいた勢力と天皇が無関係とも思えないけど
ヤマト=山の麓
このヤマトの当て字を奈良時代に日本を使い始めた
日の本、つまり日が昇る場所が山の麓ってわけ
平城京の東にちょうど山があるから、多分あのあたりがヤマトだよ
>>81 別に西暦0年が日本の始まりでもないしそれでいいんじゃね
畿内「やっぱり邪馬台国は畿内しかないよな」
九州「いや、九州だ、史書から見ても、出土品からしても九州しかないんだ」
畿内「じゃあ 九州ってことで」
九州「・・まだだ、まだ終わらんよ」
畿内 「・・・・」←今ここ
畿内はこれだけでいい
>>9 その論理パズルとやらの詳細を解説してもらおうか
ただ今回の調査で東海地方の可能性も高くなったな
ちょうど平城京から山を超えて東側にあるし
国宝建造物数
近畿 160棟
首都圏 4棟(鎌倉時代の国宝建造一つもナシw)
あ、また纒向遺跡かw
こういうのは炭素年代測定で年代判明してから公表しようね
巻向の初代大和王朝の始祖は10代崇神天皇
記紀をよく読むと、その崇神は巻向で疫病が流行った際に、天照の祟りだと恐れて、天照の鏡を遠ざけている
つまり、崇神は天照大御神の子孫ではなく、祟を恐れる他部族の長
崇神は三輪山を神としていた縄文時代からの土着民の子孫だと思われ
神武以下の天孫降臨神話を持った部族は、崇神ではなく、崇神を支えてた物部氏だろう
卑弥呼は北部九州
畿内は神武天皇
その間に吉備国
この連携ネットワーク
>>91 九州からも炭素年代測定できるようなレベルのものが出土すればいいね^^
こりゃ決定だわ。邪馬台国は畿内にあった。
当時から各地方の豪族を繋ぐ日本の中心地だったんだわ。
倭国大乱の時、争いを鎮めるため女王を立てた。
それこそ畿内に邪馬台国が存在した証拠である。
歴史マニアの論争は楽しいだろう
しかし生きてるうちに結論の出ない話ってむなしくならないのか
まだ太陽系に異星人が本当にいるのかの方が答えが出そう・・・・
東海との繋がりが強く吉備との繋がりが薄いという事は、弥生人が来る前の縄文系の遺跡では?
無人都市という新しい概念を古代に生み出した基地外集団
一家に一台の農機具レベルの鉄器の九州と、4世紀まで出てこない畿内って
だけでも、どうやって実は結構でかい日本列島を支配したのかと
馬鹿なの畿内説って?
すぐ二言目には学会ガー言ってるけどさ、実際の考古学会とか歴史学会なんて、
討論どころか質問も出来ない小学生の発表会なんだよね
発掘土方の教委の埋蔵物担当が、予算と理論的根拠が欲しいから畿内説言ってる
だけだよ
奈良大出なんてめっちゃ頭悪いし
少なくとも西側の最果ての九州がヤマト=日本である可能性は低い
むしろあえて日本などという当て字を用いて東側を強調したのも、西側にヤマト王権に抵抗した熊襲がいるから
まさに当時の首都って感じ
人や物が集まり文化が花開いていくのは基本中の基本だからな
大阪や東京は元々は何もないところだったがそこから大都市になっていった
やっぱり日本最初の大都市は浪漫溢れるな
出雲=吉備=鬼勢力は奈良時代まで抵抗を続けてたからな
>>101 そもそも公孫氏や司馬懿にとっての
蓬莱は
対馬の向かいの九州に決まってるだろ
邪馬台国時代の纒向はこれだよ
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
道も十分じゃない3世紀に日本中から纏向に人が集まったのが面白いよな。
そうするだけの理由が何かあったんだろう。
俺の読んだ本では北九州に侵入した朝鮮勢力に対抗するためみたいに理由付けしてたように思う。
>>106 九州が近いからといってそこが首都なわけないのは大陸みればわかるだろ
大陸からみてもたんなる玄関口
蓬莱山とか神秘的に思われるのは、もっと奥にあるから
つまり富士山だよ
鬼って兜に鍬形付けて闘ってた勢力のことかな
温羅も東北地方へ逃げたって話もあるし、その勢力が後の東国武士になったのかな
>>36 はあ?
天照大神は「太陽神 + 弥勒菩薩」
聖徳太子が弥勒菩薩を信仰してた弥勒菩薩のエピソードが大きな影響を与えている
弥勒菩薩は「洞窟の大きな岩」の中から生まれたが
それが天照が大きな岩の中の洞窟に隠れるエピソードに転用されている
九州説は邪馬台国の場所を特定できないのがイタイよな
伊都国に中国の役人が頻繁に訪れてたが
邪馬台国の場所はわかりませんってアホかよ
>>111 則天武后も極めて熱心な仏教信者なんだが
>>113 そもそも畿内に行く経路は無い
というか全くカスリもしないね
>>113 何でそんな変な解釈がまかり通ってるんだろ?
帯方郡へやって来た難升米は普段は伊都国に滞在してるからみやこのことは知らないって書いてあるんだよ
そして陳寿は、他の資料から都のこと知ることが出来た、エッヘン、ってやってるんだよ
>>115 ルートはあったよ。まさか畿内は、九州に寄らずに朝鮮半島に渡っていたと思うのか
>>99 農耕は縄文時代からあった
つまりより多くの農具が出土されるのは九州にすでに縄文時代からの原住民が勢力もってた証拠
そこに大陸から来た人間が定着するわけない
東に移動して当然
>>118 倭人伝をどのように見れば畿内ルートがあるのか
妄想以外で
>>120 なんで倭人伝だけに頼ってんだよ
いろんな資料をもとに論理的に考えてみろよ
>>91 纏向から出た大量の桃の実は
卑弥呼の時代と一致したよな
>>121 女王国の話だろ
畿内ルートが倭人伝に書いてあるんでしょ
>>120 倭人伝読んだことある?
邪馬台国は北部九州から船で30日の場所だよ
北部九州から船で30日間進むと北部九州に着くのかよ笑
>>125 三通りの行程は日本海ルート、瀬戸内海ルート、瀬戸内海沿岸陸地ルートだろうね
>>124 船で30日と書いた文献は見たことが無い
>>127 方角が正しいんなら九州じゃなく沖縄のほうになるが
なので方角は間違ってることが確実
>>130 方角が大幅に間違うと畿内に着くと
そこは笑うところかいw
>>129 君は水行は船じゃないと思ってるのね?笑
>>131 方角、一箇所間違ってたら畿内に着くよ
大幅に間違える必要なんてない
>>127 陳寿が、奴国の南に狗奴国があると書いてあるのを見つけて曲解したんだろ
実際は高地性集落の分布から瀬戸内海を挟んで南北で争ってたわけだからね
狗奴国の方が邪馬台国だからね
魏の敵である呉と結びついてた奴国、その敵である狗奴国から使者が来たことで魏はあれほどまでに喜んだわけで
>>133 沖縄と関西を間違うほどの地理音痴が書いたんでしょうかw
まぁ畿内に邪馬台国がある事は間違いない話だが、纏向の土器に九州の土器がないのは説明が難しいところだな
畿内だとすると方角1箇所間違ってれば着くが
北部九州だとすると方角の他に水行30日も間違ってるってことになるんだよな
>>137 随分都合のいい結論ありきの畿内説だねw
北部九州説は厳しいな
伊都国に中国の役人がいたのに
北部九州なら伊都国から遠くないはずなのに邪馬台国の場所も特定できてないし
>>138 ただの罵倒だけになってるぞ笑
もしかして反論できなくなってきた?
>>139 では記述では絶対にたどり着けない畿内説の王都はどうやって特定できるのかな
邪馬台国は日中の文献、考古学的な発見から、畿内を中心に九州から関東に至る地域を影響下に入れてる勢力なのは最早疑問の余地はない
ただその中心地の纏向に九州の土器がない事の理由は分からないな
北部九州の古墳を調査すると漢の時代(邪馬台国よりも前の時代)のものばかりが出てくるしねw
物的証拠からも北部九州の可能性はほとんどない
>>143 何が言いたいの?揚げ足取るしかなくなった?笑
>>144 一大率に監視させてたくらいだから、北部九州は警戒されてて
畿内の邪馬台国から色々制限されてたんじゃね
>>148 まだ答えがないのでもう一度
旅程記事では絶対に到着しない畿内説の王都はどのように特定できるのかな
>>147 史実だと水行30日だな笑
20日と10日を足すと30日になるのは小学生でもわかる
>>148 水行30日、船で30日でもいいけど
どこに書いてあるのか?
教えて欲しい
>>148 纏向遺跡は都市じゃなくて祭祀と古墳のための土地だからね
そうなると祭祀に参加できるのは中心的なクニグニだけという事かも知れない
だから属国の九州に参加資格はないという解釈も出来なくはない
>>149 ???
北部九州から水行30日で畿内着くぞ
北部九州には着かないが
>>152 要するに九州との関係の証拠が
何も無いということになるんだがw
http://www.policy.hu/filtchenko/khanty_language.htm 文化は言語と密接に識別されており、言語の存続は文化の存続を示すためによく使用されます。世界の推定元の15,000言語の半分以上がすでに消えています。
現在、世界中で約6500の言語が話されています。これらの言語のほとんどは21世紀に絶滅すると考えられます。
先住民の権利と文化を保護するために重要な措置が講じられない限り、言語学者と人類学者は、約6,500の言語のうち5〜10パーセントだけが今後50年間生き残ると予想されています。
>>153 答えられ無いということでいいかな
沖縄に行くつもりで関西に着いたという不可解な説が畿内説であると
あーあ、俺もゴッドハンドになってバカな連中騙して楽して儲けたいwww
>>139 当たり前だろ
伊都国だって本当に糸島かどうか分からん
>>155 20日と10日はどこから出てきたん?
もしかして、水行10日と陸行一月(当然30日)を足したんだろうか?
10日分、水行か陸行か行方が行方不明なことになっとることになるがね
ただ九州には纏向の最古級の古墳とほぼ同時期に出来た那珂八幡古墳もある
完全にハブられてるという扱いとは思えない
畿内を中心とする邪馬台国連合にかなり早い段階から参加してると言える
東西南北の同族が集まり易い場所が奈良だったんだろ
飲み会でも集まりやすい場所でやるだろうが
>>164 那珂八幡のほうが古い形態なんじゃないの
>>1 そんなの誰もがわかってるし誰がどう見たって間違いなく中央=ヤマト政権発祥の地
でも魏志倭人伝の邪馬台国とはちゃいますよってだけで
上で書いたように纏向遺跡は都市じゃなくて祭祀と古墳のための場所
見つかる土器は生活土器で祭祀用じゃない
祭祀の土器は主に畿内の物
それ以外の土器は周辺の地域から祭祀場や古墳を作るために集まった労働者の土器と言える
そうなると九州の土器は単に遠隔地過ぎて労働者が来てないと判断するのが妥当だろう
>>169 つまり九州との関係の証拠が何もないというとですねw
三輪山の元山が三河の石巻山なのが、鍵を握る
三河はもちろん東海だ
大阪滋賀和歌山、関東から岡山、北陸、東海つーと、集まる場所は奈良しかない
>>167 久住編年によるとほぼ同時
石塚が多少先行する形になる
九州はいち早く古墳体制に参加してる地域と言える
神武天皇が最初に旗揚げしたのが
今で言う広島県
中華思想の影響を受け、倭国の中心だと思ったから
吉備を仲間に入れ、出雲を征する途中で
この日本列島の新たな地形知識を得たのだろう
毛人の領域も取り込めば
倭国の中心はもっと東、そう畿内だと
そこから畿内征伐へと進み安住の都を得る
畿内でも不便極まるド僻地の三輪にわざわざ東海や吉備から遺物があるのは
この地に崇神という強力な独裁者がいたからでしょうね
この崇神は倭人伝では台与の時代になるはずだが
倭人伝のどこに出てくるんでしょうかw
>>170 九州はそれまでの土器の様相が一変し、畿内の庄内式に変わる
これは生活様式が畿内のものに変化したことを意味する
その後に古墳が出現するという流れになっている
なので九州は関係がないどころか、全国で最も畿内の影響を強く受けた土地だといえる
>>145 魏と交流できたのは247年からせいぜい10数年レベルだからな
言うまでもない話だが古墳の様な埋葬方式は九州に一切存在していなかった
九州の埋葬は墳丘を持たない地下式のものが主体
巨大な墳丘を持つような墳墓は吉野ヶ里の大型の墳墓を除けば、古墳の出現が初現
それまでの埋葬方式を外来のものに一変させている
これは単なる埋葬の方法というだけでなく、権力の継承の方法が外のものにとってかわられたことを意味する
九州が畿内の影響の下に生活から祭祀、権力構造まで根底から変えられたことが見て取れる
それが邪馬台国の時代
>>79 十津川村の特徴として皇室の危機的状況の時にだけ動くんだよね。
それ以外の勢力の乱や天下取りなんかにはまったく絡んでこない。
その割にはあの豊臣秀吉でさえ十津川村から年貢は一切取らなかったというから不可侵領域的な何かがあるんだよね。
奈良県民の友人に十津川村のことを聞いても選挙カーさえ行かない聖域だとのことだった。
↓これ結構説得力あるよな。畿内説の人はどう反論してるの?
墓誌により西暦300年頃と分かってる洛陽晋墓から出土した銅鏡は蝙蝠紐座内行花文鏡と位至三公鏡が多い。全体の3分の1が位至三公鏡という。
これらには南方の銅が使われており、呉が滅んだ280年以降に作られたと思われる。
日本では蝙蝠紐座内行花文鏡と位至三公鏡は福岡に分布の中心がある。
このあとに画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡など南方系の時代となる。
これらは317年に西晋が滅びたあとの建康(南京)を首都とする東晋の時代のものと考えられる。
日本の銅鏡の年代比定は100年くらいズレている。
ちなみに崇神治世の最初に非常に大規模な疫病があったことは明らかで
このことはもし三輪が王都なら当然魏の使者も知ってるはずだが
これは倭人伝のどこに出てくるんでしょうかw
>>176 そこは重要な点だと思う
邪馬台国と魏の交流はとても短い
晋にしても建国してすぐに八王の乱が起こって崩壊する
なのでこの時代の魏晋の文物の総量は大したものにならないと思われる
>>1 まさしく連合国邪馬台(やまと)、後の大和朝廷だね
>>180 崇神の頃は卑弥呼やイトの頃に相当すると個人的に思ってる(後漢末期)
帯方郡の支配が崩壊して阿知使主の人らが入ってきた頃に相当すると思う
記紀だと応神朝ということになってるけど
その辺の前後関係は奈良時代ではよく分からなかったのかも
彼らが馬や牛を持ち込んで、古墳時代(古墳文化はさらに前の人たちが持ち込んで発展した)に移行したんだろうか
当然、新しい疫病も持ち込んだのかな
ちなみに、この頃、九州の王朝に比べると、近畿の豪族は下っ端的な扱いだったと思う
近畿勢力が九州勢力に打ち勝つのは国内(列島)的には雄略天皇の頃
国外的には天武天皇の頃まで遅れると思う
その間に白村江という大乱があった
聖徳太子の頃は倭と日本が並列していて、中国の王朝は、早くまとまれって思ってた感じ
誰も続きを書き込んでくれないのは何故?
それは置いといて
インドで牛をトーテムとした産鉄民族がいたのね
アーシュラ族に追い立てれた連中が江南まで移ってきて
江南で青銅文化を発展させた
彼らが蚩尤として北の蛮族(黄帝)に攻撃された
蚩尤の産鉄文化はスサノオや牛頭天王として越や呉や楚に受け継がれ
日本でもいろんな神様として尊ばれるようになった
特に、蘇民将来とか疫病忌避の信仰にもなった
コロナ、早く収束するといいね
外から来てるから都
外から来てるから支配されてた
もう少しkwsk
朝鮮半島南部 = 加羅
対馬国 = 対馬
一大国 = 壱岐
末廬国 = 松浦
伊都国 = 糸島
奴国 = 福岡
斯馬国 = 志摩
姐奴国 = 佐賀
対蘇国 = 鳥栖
躬臣国 = 玖珠
烏奴国 = 大野
狗奴国 = 熊襲
邪馬台国 = 筑後山門、肥後山門
東海の土器が多いという事は外に目が向いてない
朝鮮との関係があり西に重心がある後の大和王朝とは違い、東側に重心がありドメスティックな印象を受ける
大和王朝の勢力が畿内にやってくる前の遺跡ではないのか
畿内というか奈良を含め近畿一円は元々勾玉と近畿式銅鐸、方形周溝墓の文化圏
1世紀中頃〜環壕が消え、首長連合の祭祀場跡と考えられる伊勢遺跡もある
倭国大乱を経て弥生時代末期になると畿内にあ銅鐸とヒスイの勾玉の集落は突然営みを終焉し、 貴重な勾玉が放置された状態で見つかっている
勾玉と銅鐸、方形周溝墓から鏡と前方後円墳へ
倭国大乱で何かあったんじゃないかな
邪馬台国は三国志に出てくる女王の国で、今の筑後山門、備後山門にあった
これは天皇、大和朝廷とは別の九州北部の勢力で、魏に朝貢していた
出雲地方の変化は近畿より早く起きている
紀元前後出雲地方で栄華を極めていた集落は突然営みを終焉する
その後出雲地方の加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかるようになる
そして近畿地方から環壕が無くなり巨大銅鐸と勾玉の文化が花開く
考古学の研究によれば強い権威のある地域は争いが少なくなる傾向があるみたいだね
出雲地方から移ってきた人々の権威を以って在地の人々と協力し近畿地方では1世紀半ばに統一がいっきに進んだのかもしれないね
これが国作り神話の元であり、まぼろしの出雲王国なんじゃないかな
杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかない
山陰の八雲を出た人々がいたのかもね
雲を出る、出雲
もう一度書くが、硬度の高い翡翠の産地はアジアでは日本とミャンマーしかない
日本における翡翠の勾玉は基本的にすべて国産
これは5000年前から飛鳥時代ぐらいまでの遺跡から発掘され、奈良時代以降の遺跡からは発掘されない
主に縄文時代の文化であって、これが日本全国各地から発掘されている
産地は新潟県糸魚川、長野県白馬村、小谷村と北信越に限定されている
つまり縄文時代には、北信越原産の鉱物の加工品が日本全国に流通していたということ
これを可能にしていた権力は九州北部にあった邪馬台国ではない
山陰から近畿地方移ってきた人々は記紀でいうイザナミなんじゃないかな
黄泉の国、与美津枚坂に逃れたイザナミは黄泉の主祭神、道敷大神となる
源氏物語には常世=黄泉を詠んだ歌がいくつか書かれている
その歌には雲や雁、道が詠み込まれている
心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな
常世出でて旅の空なるかりがねも列に遅れぬほどぞなぐさむ
あかりなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ
明治天皇の歌にも道や雁が詠み込まれたものがある
人もわれも 道を守りてかはらずば この敷島の国はうごかじ
葦原のみづほの國の萬代もみだれぬ道は神ぞひらきし
月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり
倭人伝に記載のある鉄の鏃の出土数は北部九州400に対し奈良4 www
絹織物の破片は北部九州100に対して奈良0 www
こう言う物言わぬ事実があるにも関わらずいまだに妄想畿内説を唱えるキチガイ
予告、
このあと畿内説と九州説が泥仕合を繰り広げ、飛び入りで阿波説が乱入して、スレが伸びます。
かなり見苦しい状態になりますので、よいこの皆様は、スレをそっと閉じてください。
>>189
>東海の土器が多い
実は、どれもこれも「東阿波型土器」が原型。 「忌部一族(阿波勢力)」がもたらしたものに過ぎない。 @阿波 >>190
>勾玉と銅鐸、方形周溝墓から鏡と前方後円墳へ
すべて、考古学に裏付けられた、倭国(阿波)の発祥文化。 @阿波 >>193
>巨大銅鐸と勾玉の文化が花開く
取りも直さず、「出雲忌部」の進出の表れ。 @阿波 >>195
>これを可能にしていた権力は九州北部にあった邪馬台国ではない
つまり、「阿波」の三谷遺跡周辺の勢力によるものである。 @阿波 >>197
北部九州などは、鉄器王国「阿波」からの鉄器被供給地域に過ぎない。 @阿波 俺の部屋にもJA阿蘇だの北海道産新じゃがだの各地の地名が書かれた段ボールが集まっているけど
もしかしたら…
>>75 当時のクニという単位は、今で言う市区町村レベル
百や二百では効かんよ
>北部九州の古墳を調査すると漢の時代(邪馬台国よりも前の時代)のものばかりが出てくるしねw
>物的証拠からも北部九州の可能性はほとんどない
九州が大いに栄えたのは西暦0年頃だったんだな
西暦0年以前も人類は楽しく戦もしながら暮らしていたから
奈良までなんか楽々船でも歩いてでも移動できる、現代人の俺でも楽々移動できるよ。
>>207
>当時のクニという単位は、今で言う市区町村レベル
その通り!
「邪馬臺国」は、大河吉野川流域の弥生集落遺跡群から成る。 @阿波 日本の中心だったんだな。物流の発達していない時代だから、物だけ動くはずはなく、全国から人が集まっていたのだろう
徳島の吉野川流域は、度重なる洪水・氾濫で、水耕稲作には適さず、阿波の先進的な民は、新天地を求め、畿内や関東に拡散した。
拡散したことによって族としてのまとまりをなくし、徐々に落ちぶれた・・・ていうのが真実。
吉野川流域だけで7万戸の集落とか、無理なんです。
>>211
>吉野川流域だけで7万戸の集落とか、無理なんです。
全国津々浦々見渡しても、大河吉野川流域の弥生集落遺跡群に匹敵するものはどこにも存在しない。 @阿波 >>81 神武創業当時は大和のいち豪族として、第十代祟神天皇から大和王権による本州(東北除く)統一って感じじゃないかな。
古代の天皇の在位期間を現実的な値に変えていくと神武創業は紀元前1世紀頃になるが
紀元前1世紀頃の祭壇や戦争後の遺跡が大阪から出ているため、神武創業も全くの荒唐無稽ではない。
橿原周辺の遺跡調査ができると何か出てくるかもしれんけど、当時は奈良と大阪くらいしか支配してないだろうから大したものは出ないかな。
案外九州の影響のあるものが出るかもしれんけど。
関東から中国四国の一部までにまたがる大帝国か
スゲェな
>>211
>拡散したことによって族としてのまとまりをなくし、徐々に落ちぶれた・・・ていうのが真実。
とんでもない話。 8世紀の奈良大和遷都まえまで、「阿波」に倭国王権が存続していた。 @阿波 >>215 いい加減夢から覚めよう、
まあそれが可能なら、いまごろ5chで電波発信しながらうだうだやってるわけ無いか・・・。
>>214 関東はおまけ
吉備から尾張までの連合王国だろうとは言われてるな
江戸は日本の中心だけどもともと三河にいた勢力が作った街だし
東京も薩長閥が主導して整備した街
古代大和地方が発展していたのは事実だが
大和地方の豪族が勝ち残ったかどうかはわからない
>>216
>まあそれが可能なら、いまごろ5chで電波発信しながらうだうだやってるわけ無いか・・・。
そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 >>219 伝承から推察すると最新水稲耕作技術を手土産に現地の豪族に婿入りしながら勢力拡大したっぽいね。
神武天皇も日向から連れてきた嫁と長男差し置いて、大物主神の娘を后にその子を後継者にしている。
その為に跡目争いもあったけど、大物主神の孫が勝ってるね。
纏向は吉備出身の豪族、
御馬城崇神の王都で間違いないだろう。
外来土器の出土が、
崇神の派遣した四道将軍の範囲と一致する事から、
それが裏付けられたと言える。
それが魏志倭人伝では、
邪馬台国の副長官の彌馬升と
ハッキリ明記されているのだから、
纏向を王都として、本州を支配した彌馬升に、
副長官の地位を授けた邪馬台国が別にあった事が
確定したと言えるだろう。
>>213 > 橿原周辺の遺跡調査ができると何か出てくるかもしれんけど
普通に橿原遺跡とか出てる訳だが?
>>219
>古代大和地方が発展していたのは事実だが
巨大古墳があるだけ。 古代大和地方は巨大墓地に過ぎん、寒村。 @阿波 >>222 吉備上道連の祖である吉備津彦命の姉、倭途途日百襲比売命が権力中枢で活躍してたなら、吉備の影響が強いのも説明できるが。
モモソヒメはチンコ大物主のチンコを見て
年甲斐もなく発情して死んでしまったので、
卑弥呼には相応しくない。
卑弥呼は丹波氏と伊支馬垂仁の間の姫、
倭姫命で間違いないだろう。
>>226 >阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
阿讃というのは「阿波・讃岐」のこと、四国北東部の勢力だよ。
>>225
>吉備上道連の祖である吉備津彦命の姉、倭途途日百襲比売命が権力中枢で活躍してたなら
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命・神皇産霊尊・高皇産霊尊
徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。
現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。
ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。 @阿波 母の意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
日子刺肩別尊は、高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。弟は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波
>>223 基本的に遺跡ってのはたまたま掘ったところから出てきたものを調査できてるだけで
民家などが建っている下は調査できないんだよ。
当然肝心な橿原神宮の下なんかも。
あの辺りは幕末から明治にかけて大和朝廷発祥の地として開発されてるため、今さら掘れない所が多いんだ。
田んぼなんかは区画整理をしながら発掘調査できるが、区画整理の計画自体が結構な大事業になるからなかなかやれない。
纏向遺跡は小学校のプールを作っててたまたま掘り出した遺跡だし。
>>226
>見事に九州、四国が無いな
見事に、「東阿波型土器」だな。 @阿波 『魏志倭人伝』邪馬台国 卑弥呼 倭国が共立した女王 鬼道で衆を惑わす 非婚 弟が補佐
『魏志倭人伝』邪馬台国 男王 卑弥呼の次に立てられる 国が治まらず誅殺される
『魏志倭人伝』邪馬台国 壹与(台与) 卑弥呼の宗女 13歳で王に立てられる 国が治まる
およそ1世紀後
『日本書紀』山門県(筑後国) 田油津媛 土蜘蛛の女王 軍事は兄夏羽が担う 神功皇后に討たれる
記紀も天皇家を邪馬台国・卑弥呼の末裔といってないし
日中両国の史書は嘘書いてないんだよね
佐伯(さえき)←わけわからない事を言う人と言う意味
日本語以外を話す日本人集団がいた?
倭姫命は天照大御神を祀っていた巫女であり、
熊襲征伐において倭健命に策を授け、
また大幡主の命には黄色い軍旗を
授けた事も分かっている。
また大幡主の命の弟は、
卑弥呼の世話を担当した伝承も残っており、
全てが魏志倭人伝の卑弥呼の記述に一致する。
卑弥呼は倭姫命で確定した。
卑弥呼の謎は無くなったと言えるだろう。
>>231
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 >>235
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、
旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり。
百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた
徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。
王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。 @阿波 近畿地方のヤマトだ
後のヤマト政権
九州地方のヤマタイとは別の国であるのは記紀に明記されている
https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=A%20kir%C3%A1ly%20%C3%A9s%20csal%C3%A1dja%20a%20kir%C3%A1lyi%20palot%C3%A1ban%20%C3%A9l.&op=translate
キライだよねwwwwお殿様威張っちゃって
>>239
>近畿地方のヤマトだ
近畿地方に「倭大國魂神社・倭大國敷神社」がない。 あるのは「阿波」だけ。 @阿波 つまり大和盆地の連中が、岡山は「黍の国」、和歌山は「木の国」、徳島は「粟の国」と特産品で命名していき、
支配地域の果てである愛知を「終わりの国」にしたんだな。
彌馬升崇神は桃太郎伝説で知られ、
纏向からは吉備との関連を特徴づける
特殊器台埴輪、桃の種が出土し、
また桃太郎が引き連れた犬の骨が出土、
猿は猿田彦の本拠地であった伊勢の土器が数多く出土する事で、
ソレが裏付けられたと言える。
キジは鳥飼部辺りでキジ関連の
何かが出土する事で確定するだろう。
>>237 古墳なんかはわざわざ掘らなくても見えてるし宮内庁管理でなきゃ発掘調査も進んでいる。
また周辺の神社の伝承や創建時期からも古墳時代初期が最盛期と考えられるね。
最盛期を過ぎたからと言って人がいなくなったわけでもなかろうが。
この時代の天皇は都を気軽に転々とさせてるのは伝承にもある通り。
景行天皇は纏向から滋賀に都を移し、仲哀天皇は九州遠征で出突っ張り、応神天皇からは大阪に都を移して、しばらく奈良が都ではない時代が続いたね。
しかし、弥生時代の出来事が、
桃太郎伝説として現代まで語り継がれているのだから、
日本の歴史は奥が深いんだよ。
日本人の祖先は朝鮮人という大嘘
1970年、韓国の東三洞貝塚遺跡で、私たちの常識を覆す考古学的発見がありました。
それは、私たちが教わってきた歴史の教科書に書かれているような、
「縄文時代の日本人は狩猟採取を行なっており、原始人の延長に過ぎなかった」
「一方、先進的な朝鮮人は稲作や鉄器などの進んだ技術や文化を持っていた」
「そんな朝鮮人が日本にやって来て文明を伝え、現地の住民と混血して日本人の祖先になった」
これらの渡来人説が、事実に基づかない嘘・偽りだったという内容でした。
その証拠となった考古学的発見とは、一体どのようなものなのか?
それは、本来日本人がいなかったはずの朝鮮半島で、大量の縄文土器が見つかったことです。
しかも、それは日本人が現地で生産していたとしか考えられないほどの量でした。
縄文土器は古代の日本人が食料を調理するために使っていたもので、世界最古の土器と言われています。
祭祀用に作られたと思われる芸術的な土器も見つかっており、新潟県の「火焔型土器」は国宝に指定されています。
このような日本人の痕跡が朝鮮半島の南部や北朝鮮など、半島のあちこちに残っており、
縄文土器だけでなく、九州産の黒曜石や新潟産のヒスイさらには当時の日本人と思われる人骨までもが発掘されているのです。
このように、朝鮮半島から渡来人がやって来たのではなく、むしろ話は逆で、朝鮮半島に
日本人が続々と移り住んでいったということが、近年の考古学によって実証されつつあります
。このことは、今まで教わってきた話とはあまりに異なるので、すぐには信じられないかもしれません。
そして、これらの不可解な事実は、彼らが決して知られたくないことなのです。
>>248 古事記に収録された神話は、各有力部族の神話を再編集したものだが、
この「神代」は縄文時代まで遡る・・・かも知れない。
>>214 そう
邪馬台(ヤマト)は大陸への交易路を確保したいと言う目的を一にした本州大連合国家
そして見事、北九州奴国を打ち破った
しかしその時、連合に参加しなかった強国がある、出雲だ
出雲は直接大陸へ行く事ができたから
この事が連合国入りを遅らせ、後の大国主命の国譲りとなる
>>247 だから橿原遺跡がありそうな場所の上には橿原神宮を建てちゃって発掘調査ができないでしょ。
調査できても幕末から明治の工事で既に壊れてる可能性もあるし。
そも神武天皇の御陵とされる場所は幕末にいくつかの候補地から政治的な決断で現在のものに比定されているが
墓守の子孫(同和部落)の伝承に依れば畝傍山山中の盛り土の様なところが神武天皇の御陵とされ、本当はどこが御陵かも解らないし
この時代はまだ前方後円墳ではないし、勢力範囲も狭くて豪族の墓と区別がつかないんだよね。
ドリフターズでも島津がネタにされるくらいだから
やっぱ九州はないわ
魏志倭人伝には彌馬升(御馬城崇神)が副長官であり、
伊支馬(生目垂仁)が長官であったと明記されている。
コレは生目が御馬城の子供であった記紀の記述と合わない。
生目は御馬城の甥の吉備津彦の姫と
自分の息子景行を婚姻させているので、
この縁戚を持って、大和に進出していった、
日向の豪族と言う事になるだろう。
つまり、吉備の豪族の物語と、
日向の豪族の物語を1系でまとめたのが、
日本書紀や古事記と言う事になる。
>>246
>景行天皇は纏向から滋賀に都を移し、仲哀天皇は九州遠征で出突っ張り、応神天皇からは大阪に都を移して、しばらく奈良が都ではない時代が続いたね。
お前、ほんとうにそれを信じているのか? わははははは @阿波 >>253 橿原遺跡は発掘調査済みなんだが?
そもそも諸天皇の陵墓の比定の元になった資料は江戸でも明治でもなく、平安時代に纏められた延喜式だぞ
トンデモ本に毒されすぎてるんじゃねーの?
邪馬台国が九州なら、東遷説を採用しない限りその後の大和朝廷と邪馬台国は無関係ということに。
邪馬台国は、日本史に措いて重要度低い存在ということになりはすまいか?
>>139 北部九州地域全体が邪馬台国で伊都国に卑弥呼が住んでいたんだよ
伊都国の王が倭王の卑弥呼だね。
纏向遺跡は、要するにサミット会場だよ
オリンピックのために大きな国際競技場をつくり、
国際会議のために大きな会議場をつくるのと同じだ
纏向遺跡は「邪馬台国もあった時代に使われていた複数勢力の首長や王の会議場」だよ
だから纏向遺跡そのものが、邪馬台国なわけではない
邪馬台国の本拠地論争には、ある意味で無関係だろう
邪馬台国自体は、大和朝廷の前身だとは思うがな
>>261 九州倭国と近畿日本は別の国だよ
旧唐書、新唐書にある通り
>>263 アホは口閉じてろな
邪馬台国は御井で結論出てる
>>259 橿原遺跡って言っても橿原市内全部掘り返したわけじゃないだろ。
まだ掘っていない所の方が多く、その中に重要なものが埋まっている可能性もある。
一方で大和朝廷と呼べる程の勢力がまだなくピンポイントに当時の集落の中心を掘り当てないとおもしろいものなんて出ないだろ。
>>261 北部九州の邪馬台国の一部の勢力が東方へ植民して大和朝廷の基となったんだよ。
>>264 7世紀には九州から植民した勢力が大和朝廷へ発展していたんだ。
初期大和王権ってのは、初期山口組みたいなもんで、
崇神が山口組三代目・田岡一雄みたいなもんだな。
まあ、その後もしばらくは有力な組、すなわち阿波讃岐吉備大和あたりの
有力な豪族から組長が出て、時には名古屋からも出たんだろうw
>>268 九州倭国と近畿日本は別の国だよ
旧唐書、新唐書にある通り
生目は宮崎県生目の豪族であり、
これと戦った狭穂彦王が、
西都原古墳群の勢力である。
この狭穂彦王の乱が倭国大乱で、
この日向の戦いを征した生目が、
邪馬台国の長官としてのし上がって行ったのだろう。
ちなみに西都原古墳群の男狭穂塚女狭穂塚は
5世紀の古墳と言うことで、
狭穂彦王と狭穂姫の死亡から
2世紀以上経っており、
ソレを記念する古墳であるので、
恐らく埋葬者は出土しないのではないか。
>>270
その初期山口組みたいなものが、「忌部一族(阿波勢力)」だな。 @阿波 纏向と邪馬台国は別物と考えるのが普通。魏志倭人伝や記紀を無視する態度
は異常。邪馬台国は中北部九州と見做すのが自然な比定。
>>271 九州倭国から一部の勢力が東方へ植民して発展したのが大和朝廷
一時期には併存していたが大和朝廷の勢力が九州倭国を凌ぐようになり
8世紀には九州倭国を併合したんだよ
>>276
>邪馬台国は中北部九州と見做すのが自然な比定。
碌な弥生集落遺跡や資源の無いくせに。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>277
碌な弥生集落遺跡や資源の無いくせに。 なにを考えているんだか。 @阿波 わりとマジで邪馬台国は九州の御井で狗奴国が熊本かも
>>280 3世紀の本州は未だ縄文系人の世界
北部九州地域が倭人の世界です
>>259 平安時代に一度延喜式で定められてはいるけど、その後の戦乱で管理を維持できず江戸時代に再整備しようとしたらまた解らなくなってただろ。
幕末当時最大6つ候補地があったが、幕末の人間にはそもそも平安時代の延喜式が何処を指してるのかがよく解らないんだよ。
邪馬台国が北部九州はねえわ
九州だとしても南部だろ 魏志倭人伝の記載と矛盾するしな
福岡のアホ以外は北部説みたいな間抜けな説は信じてねえだろ
>>285
>幕末の人間にはそもそも平安時代の延喜式が何処を指してるのかがよく解らないんだよ。
天皇家は、知っていたよ。 江戸幕府も知っていた。 「阿波」にあると。 @阿波 日向の豪族生目は、
纏向政権の御馬城の甥の
吉備津彦の娘と生目の息子の景行を
婚姻させる事で繋がり、
大和に進出していったと言える。
だから、四道将軍で征していたはずの地域に、
倭健命を派遣しなければいけなかったのは、
吉備の豪族御馬城王朝から、
日向の豪族生目王朝に交代したからだろう。
倭種
土蜘蛛 熊襲 隼人 肥人 九州
毛人 東日本
>>286 北部九州地域全体が邪馬台国だよ
魏志倭人伝の記述とも矛盾しない
北部九州まで丁度12000里だ
12000里行くのに水行20日+水行10日、陸行1日掛かるんだよ。
>>282 確かに高良大社とかみやま市とか怪しいんだよな。
纏向論者には現在の政治思想が絡んでいる人が多い。自虐史観の人が多い。
少なくとも3世紀には文明国家であった中国の歴史書を無視して近畿に持って
くるのはあまりにも非科学的。
いやー、どう考えても大和朝廷は奈良勢力だと思うがな
東海系土器が多いのになぜ吉備中心の連合と学者連中が口を揃えて言うかといえば、祭祀面が吉備だからだよ
王墓が吉備の形式で祀られてるから、そこに葬られた長が吉備系統だろうと
3世紀、本州には中国地方の倭種がいてその他の地域には縄文系の国があった
倭人は朝鮮半島南部の投馬国や北部九州地域の邪馬台国にいた。
3世紀の関西は大陸との交流の形跡が全く無い
魏志倭人伝の邪馬台国の記述と大きく違うね
前方後円墳が、古代の交易路の目印だからなぁ
王墓というのも間違いのない事実ではあるが・・・
「遺跡」というものの、傾向と意味づけの変化も出てきてはいるよね
>>291 それトンデモ説だからやめたほうがいいよ
中国の学者にそういう読み方をする人が1人もいないので。
君は中国の学者たちよりも漢文に詳しい?
>>295 従来そう考えられてのをぶっ飛んばしたが、この纏向遺跡だよ
ヤマト王権自生説が否定されてしまった
>>300 畿内説の変な読み方に引きずられてる人が多いな
漢文自体の読み方の問題じゃなくて文章の読解力の問題だよ
今回もやっぱりあぼーんだらけで草
みんなもちゃんとNGワード登録しとけよwwwww
>>297 投馬国はtuma国で西都原の妻のこと
はい、論破w
>>301 たぶん、中央集権化の時期が違うんだと思うけどねぇ
>>298 近畿日本の先祖だね
九州倭国とは別の国
投馬国は朝鮮半島南部地域で
対馬国とは投馬国に対面している国って意味だ
>>303 いや漢文自体の読み方の問題だよ
例えば陸行一月は陸行一日の単なる写本時における写し間違い
十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い
>>306 大和朝廷の中央集権は成立直後の700年代だけだからな
前方後円墳が邪馬台国を象徴する構造物ならば、
邪馬台国の超重要拠点たる伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた、
当時の豪華な埋葬品が出土する、
平原遺跡が方墳であるである事と辻褄が合わなくなる。
つまり、邪馬台国は前方後円墳の築造を
象徴とする勢力ではなかったのである。
邪馬台国畿内説は完全崩壊したと言っていいだろう。
>>291
>魏志倭人伝の記述とも矛盾しない
うそこけ! 「丹」もなけりゃ、「橘」もない。 @阿波 邪馬台国が奈良にあって九州まで勢力下だとしたら 北部九州で大量に
出土する鉄製品が奈良からは殆ど出土していない理由付けが出来ん
支配下の国の方から大量に出土して本国からは土器と桃の種しか
出土しないとはあり得ん事だ。しかも九州からは文字を書いた木簡も
経机も出土しているから文字を使った高度な生活をしていた訳だ
まだ邪馬台国が大和にあったとか寝言言ってる学者がいるのか?
戦国時代みたいにあちこちに小国とその王がいて交流したり揉めたりしてたってことだろ
最初から大和王朝あり気の古事記日本書紀と矛盾がでてくるからあまり掘り下げられずタブーだったけどこれからはどんどん明らかにすべき
出雲もいろいろ謎が多いしな
>>296
土器も祭祀も墳墓構造も「阿波」の専売特許。 @阿波 >>315 まあ、硯が出ている点は北部九州の強みだな。
>>304
だれもそんなことはせんよ。 お前だけしとけ、あほんだら! @阿波 また、邪馬台国の外交上の拠点として、
大陸の贈答品を数えていた伊都國の、
邪馬台国の時代の遺跡の平原遺跡において、
数々見つかる豪華な舶載鏡の中に、
日本で500枚以上見つかる三角縁神獣鏡が
一枚もない事を持ってして、
卑弥呼に贈られた鏡は三角縁神獣鏡であるという
畿内説の理論も完全崩壊した。
7月22日をもって、畿内説は
この私が完全論破して、
終わりを迎えたのである。
>>311 漢文の文法の話だよ
直訳は同じでも解釈が全然違って来ている
「丗有王 皆統屬女王國」の場合
直訳すると「世、王有り。皆、女王国に統属す」
畿内説の解釈だと「代々、王が有り、代々の王はみな女王国に従属している。」だが
「魏の世に王あり、倭の国々はみな女王国に従属している。」とも解釈できる。
>>312 その視点で議論するなら、天武天皇の時代のみだろうな
>>319 首都から行政に必要な硯等の文房が出土しないのはおかしいよね。
>>1 で、北九州にはどのくらいの外来系土器が出てるの?
>>324 文法の問題では全然ない
漢文は簡潔に書くことを良しとする
分かりきったことを長々と書かない
それは
>「魏の世に王あり、倭の国々はみな女王国に従属している。」
とは読めない
それならそう必ず書く
それが漢文の書き方
不自然な読み方であると言うことが、間違った読み方である証拠
>>324 >「魏の世に王あり、倭の国々はみな女王国に従属している。」
魏が倭国の女王の属国だったと魏の歴史書に書いてあるって言おうとしてるわけか?w
>>328 >とは読めない
それは貴方が先人の誤った解釈に毒されて思い込みが邪魔してるからだよ
漢文は簡潔に書かれているから、誤った解釈も起きやすいんだよな。
漢文は簡潔に達意に書くことが良いことという一般法則がある
自然な読み方をすれば文脈から分かることを
長々と書かない
正史なら尚更
不自然な読み方であると言うことは、それ自体が間違った読み方である証拠
>>332 違うよ
バカはお前な
>>324 >「魏の世に王あり、倭の国々はみな女王国に従属している。」
魏が
倭国の女王の属国だったと
魏の歴史書に書いてあるって言おうとしてるわけか?w
>>329 伊都国に付いての文章だから
「伊都国には魏の世に王あり、倭の国々はみな女王国(伊都国)に従属している。」って意味だよ
王とは魏の皇帝の家臣のことだよ。
>>266 橿原遺跡は神武天皇が即位したとされる畝傍山周辺の発掘ででたもんだ
市内全域を掘らないとーとか頭湧いてるだろw
>>285 延喜式にはある程度の陵の場所であったり大きさなんかも書いてある
畝傍山東北陵
畝傍橿原宮御宇神武天皇在大和国高市郡兆域東西一町南北二町守戸五姻
こんな感じで殆どの皇族の陵墓が大量に纏められてる
大まかな所在と大きさ、守戸の追跡で比定していったんだよ
邪馬台国=やまとのくに=奈良県
纏向は邪馬台国だな。
>>335 王がいるけど女王が居るニダ?
は?
バカ?
wwwwww
九州の倭国を凌ぐ国との意味で新興勢力の関西の豪族が大和を名乗ったんだ。
漢文は簡潔に達意に書くことが良いことという一般法則がある
自然な読み方をすれば文脈から分かることを
長々と書かない
正史なら尚更
不自然な読み方であると言うことは、それ自体が間違った読み方である証拠
>>339 畿内説だと王の下に王がいると訳の分からない解釈になっている
皇帝の下が王であり、王の下の王とかないからね。
近畿パー「王が居るけど女王が居るニダ
意味が分からないヤツは低脳!」
邪馬台国の範囲は南を狗奴国と接すると明記してあり、
狗奴国は狗古智卑狗=鞠智(菊池)の豪族を長官とする勢力であるので、
筑後平野南部の山門八女を本拠地とし、
熊襲と接する勢力である事が分かる。
>>343 だからただの間違い
伊都国パー「あ、それ事実陳列罪!ロジハラ!」
>>341 畿内説みたいな王の下に王がいると訳の分からない解釈は誤りだよな。
旧石器捏造事件が強烈すぎて
日本での土器の出土は胡散臭く見えてしまう
漢文は簡潔に達意に書くことが良いことという一般法則がある
自然な読み方をすれば文脈から分かることを長々と書かない
正史なら尚更
不自然な読み方であると言うことは、それ自体が間違った読み方である証拠
テンプレな
こいつら研究予算の捻出のために
邪馬台国とは別の遺跡であると推察していながら予算確保のために
邪馬台国の名前を利用しているだけだ。
>>349 邪馬台国は御井とかそんな狭い範囲じゃなくて
北部九州地域全体が邪馬台国だよ。
また、投馬国は彌彌、彌彌那利を長官副長官にする国であり、
投馬=妻、都間で、彌彌、彌彌那利は、
美々津、耳川周辺の豪族であると考えられるので、日向で確定できる。
不彌は宇美の事で、
宇美国から投馬国まで地理的に豊の国があるはずだが、
コレが魏志倭人伝に登場せず、
邪馬台国の女王に豊の姫が収まる事を持ってして、
当時の邪馬台国が、豊の国を含む範囲である事が
確定できるのである。
>>334 どこをどう読んだらそういう和訳になるんだ?w
>>352 邪馬台(山門)国は卑弥呼の時代は御井な
発祥が山門
その後甘木、朝倉地方へ移った(安本美典の言う邪馬台国)
最後は奴国と融合して太宰府へ都を置き(倭京)そこで滅んだ
江戸時代の漢文の得意な学者も北部九州の女酋長とか言ってたから
伊都国の王が卑弥呼と解釈してたんだろうな
王の下の王とかは明治以降の漢文の不得意な人の解釈だな。
魏志ばかり話題に出るが広志は知らない人が多いのかな?
また、地理的には奴国のすぐ南が
邪馬台国であるのに、
直接南下出来る行程で描かれていないのは、
九州一の暴れ川、筑後川を渡河するこ経路が無かった事を意味し、
それが水行10日陸行1月という行程に繋がってくるので、
邪馬台国の北限は筑後川と言う事になるのである。
邪馬台国九州説をとるとして、
その後の日本の中央政権として支配域を拡げていったのは畿内大和だったのは間違いない訳で
九州説の人はこの間をどう説明するのかね。
神武東征が史実だったとするのか
逆に邪馬台国が畿内大和に滅ぼされるか、征服されて支配下に置かれたとするのか
その辺りあまり有力な説がないよね。
別に九州説を否定する訳ではないが聞いてみたい。
色んなパー「王が居るけど女王が居るニダ!
定説です!」
>>360 どうもしない
事実に従う
色んなパーのように捏造をやらない
はい、論破w
>>359 里数による行程と日数による行程は同じ行程を距離と時間で説明したもので続けて読むのは間違い
畿内説の人が関西に邪馬台国を誘致する為に編み出したウルトラCだよ。
>>359 高良大社を挟んで筑後川の対岸にある千栗八幡宮とか怪しいよな。
その説だと、何か重要な施設の後のような気がする。
■邪馬台国は御井
■神武は東征したのではなく、近畿日本に招かれて頭に据えて貰った雇われ店長
■神武は王族でありながら、自国と敵対する可能性のある国へ寝返ったクズで、近畿では志村のバカ殿みたいな存在だった
■しかし、そのクズの神武のおかげで近畿日本と九州倭国は分裂、対立せずにすんだ
こう言うこと
卑弥呼は天照大御神
モモソ姫は天照大御神ではなく
オオモノヌシを神降ろした根子であり
まったく逆説
>>360 701年大和朝廷成立説を支持している
九州倭国が唐との闘いに敗北して衰退
九州倭国内の内乱に乗じて姻戚関係にあった畿内大和が政権を奪い
記紀を編纂して九州倭国が無かったことに。
九州の先進国に対し畿内のど田舎が国の中心なんて考えられない。
九州の勢力がどのようにして大和に進出していったかは、
記紀を崇神を吉備の豪族、
生目を日向の豪族、
丹波氏を邪馬台国の豪族と読んでいけばいい。
生目が丹波氏の娘ヒバヅメノヒメと婚姻して邪馬台国の長官になり、
その息子の景行を崇神の甥の吉備津彦の娘と婚姻させて、
纏向政権と繋がって、
畿内に進出していったと言えるだろう。
神武をわざわざ九州から招いて頭に据えたと言うことは
近畿日本は国力をカサに着て九州倭国を攻め滅ぼしたりする意図がないという明確なサインになっている
これが九州倭国と近畿日本との深刻な対立を防ぐ重要な要になっている
クズの神武が、日本を救ったわけだ
>>1 交易でもたらされた物で特別な意味は無いよな
縄文系の交易圏の範囲が分かる
この交易圏が九州や大陸とは断絶していたって事は重要だな。
邪馬台国までの行程だが、
先ず不彌から投馬国まで水行20日であるので、
投馬国の都だった美々津という港まで、
陸路なしの20日というのはドンピシャ美々津である。
>>337
>畝傍山東北陵
初代神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
崇神の四世紀には既に近畿日本は九州以外の西日本全体を影響圏においている
しかし、近畿日本は九州倭国が白村江で自滅するまでまった
あるいは磐井の乱の時に九州倭国をついでに攻め滅ぼしても良かったはずだ
九州倭国と近畿日本との全面対立を避ける意図があった
>>345
>狗奴国は筑後平野南部の山門八女を本拠地とし、
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 >>377 陸行でも水行でも1日最低15km以上は行くよw
また、陸行1月というのは、
隋書や唐書にかかれている通り、
当時の倭国が東西5月行南北3月行であるので、
古代の倭国の1月行は距離にして百数十キロという事になる。
>>352
>北部九州地域全体が邪馬台国だよ。
妄想だけならだれでも言える。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
神武を九州から招いたのは日本人の叡智だった
しかし、副作用も大きかった
欠史八代と仲哀天皇暗殺だ
>>380 崇神とかは九州倭国の歴史からの借り物だよ
神武〜欠史八代〜天武が大和の歴史だな。
結局、狗奴国と南を接する邪馬台国へ、
百数十キロ陸行して、水行10日の出発点は宇美と言う事になり、
宇美からの行程水行10日、陸行1ヶ月が、
魏志倭人伝に書かれているのだなと言う事になる。
九州ってラーメンしか取り柄の無い博多とかいう地方都市ぐらいしか無いド田舎だからな
何の価値も無い九州にコンプレックスしか無いド田舎の九州土人が
まるで韓国人のように九州起源説を主張してるだけだろ
土人の感情論なんか相手する価値も無いんだから邪馬台国は奈良で確定だよ
>>32 別にそんなに変じゃ無いかもよ
任那が倭領だったりするのも
歴史を知らないパンピーには不思議だったし
というか韓国から北九州にかけての広い範囲が
倭だったりしてね
日本人の一部に征韓派・嫌韓派がいるけど
実は高句麗・新羅・任那の末裔なんじゃと
思う時があるな
自分ではわからずに大陸にシンパシーや
戻りたいという気持ちや
張り合う気持ちがあるとか
自分からしたら南北朝鮮は外国で余所事なので
↑も不思議で
神武を招いたのは裏技としては度が過ぎていた
煬帝は別にそんなことやらなくても近畿(秦王国)の繁栄を知って九州倭国から近畿日本へ鞍替えしてるし
九州倭国と近畿日本の深刻な対立を防いだと言っても
近畿日本のほうが国力が優っているんだから九州倭国を単に捨ておいて泳がせて自滅を待てば良かっただけ
だから叡智と言っても実は微妙wwwwww
>>384 >>389 隋書の倭国が東西5月行南北3月行も東西5日行南北3日行の誤記だよな
月だと倭国が超大陸級の大きさになる
隋書も北部九州地域くらいを倭国としている。
>>390
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 世界三大敗北者
火拳のエース
たけのこの里
邪馬台国九州説
>>391 何も無い奈良より福岡の方が都会なんだが。
>>394 ただ二箇所も写し間違えるかなってのはある
>>391 今でも人が住んでないのに奈良を中心に発展するはずがないな。
>>400 昔は木簡や竹簡に書かれていたから
字が滲んで日と月だと間違い安い
神武を九州から招いたのは近畿日本の叡智だった
しかし、副作用も大きかった
欠史八代と仲哀天皇暗殺と日本の正史である記紀がウソだらけになったこと
神武を招いたのは裏技としては度が過ぎていた
煬帝は別にそんなことやらなくても近畿(秦王国)の繁栄を知っただけで九州倭国から近畿日本へ鞍替えしてるし
(隋書)
九州倭国と近畿日本の深刻な対立を防いだと言っても
近畿日本のほうが国力が優っているんだから九州倭国を単に捨ておいて泳がせて自滅を待てば良かっただけ
実際そうしたわけだし
だから叡智と言っても実は微妙wwwwww
お前ら、魏志倭人伝をちゃんと読め!
邪馬台(やまと)は、倭国大乱(2C後半)で負け、
覇権放棄の証として、女王を即位させてる。
(女王「共立」は「倭国みんなで異論なく決めました」と
魏にアピールする為のフィクション。)
倭国大乱は、教科書で習ったように邪馬台内の三十数カ国の
内乱じゃなくて、外部の勢力との大乱。つまり列島の大乱だわ。
勝者は大倭。ちゃんと魏志に登場してる(正体を偽装してるがね)。
大倭(ダイワ)とは、後の大和(ダイワ=やまと)、つまり奈良だよ。
魏志倭人伝(と後漢書)からこれが読み解けない奴は、
歴史を語る資格が無い。てか資質が無い。
奈良って人より鹿の数が多い田舎だけど福岡のほうが栄えとる。
魏志の信憑性が低いのに、それにすがる九州説が不憫でならない
>>406
>魏志の信憑性が低いのに
そう思いたいのは、トンデモだから。 @阿波
倭国大乱は福岡平野の奴国と筑紫平野の邪馬台国との戦乱
発端は邪馬台国側の巫女の誣告
誣告に怒り狂った奴国王が巫女を斬り殺して戦争が止まらなくなった
>>410
>倭国大乱は福岡平野の奴国と筑紫平野の邪馬台国との戦乱
妄想だけならだれでも言える。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 倭国大乱というのは、記紀に大きく描かれている戦乱、
狭穂彦王の乱で間違いないだろう。
この妻国の戦いを征した生目が、
邪馬台国の丹波氏の娘と婚姻し、
長官となって、その娘を邪馬台国の
女王にした。
ソレが邪馬台国卑弥呼=ヤマトノヒメミコ=倭姫命である。
もう間違いない事だろう。
倭国大乱は福岡平野側の奴国と筑紫平野側の邪馬台国との戦乱
発端は邪馬台国側の巫女の誣告
誣告に怒り狂った奴国王が巫女を斬り殺した
これが「巫女が口から糞を吐いて奴国王に斬り殺された」
と言う話しに変わり
更に神話用に変質したものがウケモチやオオゲツヒメの神話
この当時巫女殺しは正視に耐えない凄惨極まりない出来事だったので、神話用に話しが大きく変質している
ツクヨミ(奴国王のこと)がウケモチを斬り殺したときアマテラスは怒り狂って
「汝悪しき神なり」と言って絶交したと言うところが
倭国大乱を表している
(神話上では邪馬台国と奴国は姉弟設定なので、凄惨な戦闘の描写は神話の都合上出来ない)
恐らくお互いの巫女の殺し合いをやって戦争が止まらなくなってしまった
>>414
>倭国大乱は福岡平野の奴国と筑紫平野の邪馬台国との戦乱
妄想だけならだれでも言える。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 卑弥呼の用いた鬼道とは降霊術のこと
奴国との戦乱を収めるために卑弥呼が使った
■奴国は邪馬台国を自分より格上扱いする
■その代わりに邪馬台国側は歴代の奴国王を邪馬台国の先祖として崇める
こういう交換条件
卑弥呼が、高価な鏡や様々な演出を凝らした降霊術を使って奴国王を丸め込んだ
戦乱に倦んでいた奴国王はこれをウソだと知りながら呑んだ
これが「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」の意味
隋書にあるアマタラシヒコとは
天(邪馬台国)が地上に垂らし(実務の長として任命し)た彦(王)と言う意味で
奴国王のこと
つまりこれは大統領のような名誉職と
宰相のような実務の長とを分けた
恐らく世界最初の例
アメノミナカヌシとかタカミムスビとか
別天津神は始祖であってチョー重要なはずなのにイマイチ地味なのは
邪馬台国側から見たら所詮は他人の王(歴代の奴国王)だから
>>84 700年以前は歴史じゃなくて神話だよな
未だに日本は神話と歴史をごちゃ混ぜにしてる
韓国を笑えないな。
狗奴国との戦いにおいて、
張政が卑弥呼に授けた黄幢は、
倭の姫命が大幡主に授けた黄色い旗として、
博多祇園山笠で見る事が出来るのである。
弥生の時代の出来事が、
今現在まで伝承として残っているのだ。
コレが日本の歴史の奥深さであろう。
>>417
>700年以前は歴史じゃなくて神話だよな
間違い。 倭国(阿波)の時代だ。 @阿波 また、弥生の風習として残っているものに、
鏡開きがある。
日本各地から見つかる銅鏡は大抵割られて埋葬されている。
コレは弥生時代から行われているモノである。
今現代において、正月明けに丸い餅を割るのを鏡割とか鏡開きとか言う訳だが、
この鏡を割るという風習は、
弥生時代が起源なのである。
>>417 さすがに700年前後は文献、考古学的にある程度推定できる。神話時代
なんて言い過ぎw
もう終わりにしろよ
アメリカ合衆国みてーなものなんだから
ニューヨークとロサンジェルスとシカゴで争ってもしょうがねえだろ
どこでもアメリカなんだから
もう終わりにしろよ
アメリカ合衆国みてーなものなんだから
大和忌部と筑紫忌部とで争ってもしょうがねえだろ
どこでも「忌部一族(阿波勢力)」なんだから @阿波
また、丹後の国には、
八人の天女が、絹織物と酒の製法を
伝えたという伝承がある。
天橋立の天女伝説である。
絹織物の日本の発祥の地は、
弥生の北部九州である事が、
考古学的に確定しているので、
弥生時代に北部九州の八人の女性が、
絹織物と酒の製法を丹後に伝えた事が
確定するのである。
そして八人の天女=八女である。
倭の那の国王
のを外してみろよ
罠だぜ
オマイラ騙されてるんだよ
また、酒の製法を古来より伝える集団として、
丹波の杜氏が知られている。
丹波に酒の製法を伝えたのは、
弥生時代の北部九州の酒の製法を伝えた女工であるので、
灘の酒もまた、弥生時代の邪馬台国から
受け継がれたものなのである。
なんで桜井のここなんだろうな?
大神神社があるから?
都市ではなく市という発想がなぜできないのか
魏志に邪馬臺の北部で定期的な市が開かれ租税を集めると書いてあるじゃないか。
纏向が大市と呼ばれていたことを何故否定するのか
吉備の豪族御馬城崇神は、
物部氏の娘と婚姻して、
大和に進出して行った事が分かる。
そして、物部氏は天皇家に先駆けて、
大和に進出していた事も分かっている。
さらに、天孫降臨の際には、
河内の住吉神社から
大和に進出していった伝承も残っている。
そして実際に、考古学的にも、
紀元前後1世紀に、博多湾周辺の銅剣勢力が、
河内の住吉神社に拠点を作っていた事も分かっている。
吉備の豪族御馬城氏が纏向に拠点を作ったのは、
ズバリ、他の大和の地域は物部氏が支配していたからなのである。
飛鳥時代には、畿内を防御するために設置されたとされている東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関のうち古くから大和朝廷と関係が深かった北陸道を除いた鈴鹿・不破両関よりも東を東国と読んでいた
畿内より東に対して警戒し境界線を作っていたわけだ
しかし、纒向遺跡では東海の土器が一番多く、東国との繋がりを感じる
これが、どうも釈然としない
纒向遺跡の時代には東国との繋がりが強かった畿内の土着豪族が、後に西からの東征してきた連中に乗っ取られた結果、畿内と東国との緊張関係が生まれたのではないだろうか
>>438 暴力団の歴史を想定すると理解できるよ
山口組は神戸から名古屋に本拠地が移って分裂した
各地の傘下の団体は「どちらにつくか」を迫られた
名古屋の山口組は東京の稲川会の会長と懇親会をやった
当時の「クニ」なんてのはこんなようなもんなんだと思う
近代以降は法律と行政でガチガチに固めてるから「国家」が「国家」として固定的なものとして成り立ってるけど
法律も行政もろくにない時代には「新しい王様気に入らない」ってだけで造反、分裂は容易に起きてただろう
九州の土器が出ない、大陸半島のものもない、鉄器が出ない、絹が出ない
周辺国の中心にはなってただろうけど、列島の中心と呼べるかね?
先に配下になった吉備の勢力を使って行われた九州倭国による本州経営の中心地
のような解釈がしっくりくる
ヤマト朝廷が熊襲討伐というか、九州出兵を何度も何度もやってたのは
つまり九州は何度も何度もヤマト朝廷を離反して独立を企ててたってことだよ
そりゃそうだ
法律も行政もろくにない時代に、離反を防ぐ方が難しいだろう
「なんで税金なんか払わなきゃいけないんだ」って思ったら「俺らなんか税金払わないし、むしろヤマト側の船がうちらの港から韓国行くなら通行料取るから」
って言っておしまいだよ
分裂や離反なんか簡単にできる
「新しい王様気に入らない」「税金取られて気に入らない」「うちの港勝手に使われて気に入らない」
こんなんですぐ分裂だよ古代国家なんか
逆に、古代国家において「遠隔地統治」ってどうやってやってたんだろうな
不思議だわ
>>440 属人制は分離された形だけど、大衆、指導層の気分一つ、政治状況で国家なんて
容易く瓦解してしまうもろい存在だと思う。
リベラルとかいう人たちは、国家への懐疑が強いようでいて逆に万古不変のよう
に安泰なもんだと考えている臭い。
>>442 中間にある「阿波」は、税金払わなくていいのか? 王都
>>442
中間にある「阿波」は、税金払わなくていいのか? 王都だからか? わははははは @阿波 国家が分裂すれば、各地の傘下の部落は「どちらにつくか」を迫られることになる
>>441 自らの祭祀や代々続く墓の形式を捨て、配下のそれに丸投げすることはないわな
>>30 500年位期間があるって理解してる
文字の無い時代も含めてなのに
今だと関が原より前だ
>>445 >>446 なんだろうな
「中心があって、そこから徐々に拡大していき、西日本を統一しました」という一方通行的なストーリーは想定できないと言ってる
統一→分裂→統一→分裂を当然繰り返してただろうし、
それこそ大王が代替わりする度に、各地の豪族は
「先代の大王様にはお世話になったけど、なんでその息子のバカな若造に偉そうにされなきゃいけないんだ」って思っただろう
中心だって、山口組が神戸から名古屋に本拠地が移ったように、当然移動し続けるわけで
お前の押しの阿波だって、
本拠地がいろいろと移動する中で一時期本拠地だったことがあるのかもしれない
確かに古代の地名で「倭(ヤマト)」といえば四国だよ
奈良は「大倭(オホヤマト)」だからな
>>425 忌部は本来祭祀する氏族だったが、なぜか中臣に取って変わられたな。
吉備にあった勢力が突如大和に進出したというだけで、当時、吉備氏は存在してない
>>425 >>452 儀式ドラッグがいつからか大麻から酒に変わったんだと思うぞ
大麻を司ってたのが忌部
酒を司ってたのが中臣じゃないか?
現代だってお祭りのときにはお酒をみんなで飲んで酔っぱらうことでお祭りの特別な空気を作るだろう?
儀式、祭祀には神経中枢ドラッグが必須で
稲作の伝来によって日本原産の大麻から米を原料とした酒に儀式ドラッグが変わったんだろう
>>431 あの辺一帯は昔から聖地だったんだろうな。大神神社って山全体が御神体。明日香も近いし、遺跡がたくさんある。
そして、
大麻から酒に変わる過程の一時期に「桃」がドラッグとして使われたのかもしれない
桃は桃源郷という言葉があるくらい、ドラッグに近い作用がある
巻向遺跡や箸墓古墳は桃というドラッグで人を集め、一体感を演出して造営された
>>455 聖地というには山が低すぎる
富士山が聖地とか、阿蘇山が聖地ならわかるが
三輪山は標高も低いし、特別な山じゃない
吉備討伐なんざ、明治に政府が薩摩に軍事進行した西南戦争と変わらない
>>422 日本書紀で一番信用出来ないのが最後の700年前後頃なんだよ。
>>55 今はもう「近畿派」とか「畿内説」とかないんだよ。
>>1 「神の手」で、あちこち滅茶苦茶にされたんじゃないの?
記紀は信用出来ないけど
魏志倭人伝は信用出来るって不思議だよね
魏志倭人伝って別冊に僅か数行書かれてるだけで
証明も出来てないのに
>>457 ああいうのは高すぎてもダメなんじゃないか?人間を寄せ付けないスケールは人外の世界で、人間が適度に登れるような里山的な方が祀りやすい。
認識が違うんだよ
邪馬台国は魏と国交を結んだというだけで倭国を支配してた訳はない
>>67 偽物を自分で埋めたゴッドハンドと違って、奈良には発掘された実物があるからねw
>>69 談合政権を作ることにして、それに同意した各地の有力者が集まった感じだな。
>>464 低い山ならいくらでもある
三輪山が聖地になった理由がないんだよね
>>466 邪馬台国が当時の倭国を代表するクニという解釈が違うのかもしれないね。有力なクニの一つでしかなかったかもしれない。
>>466 さらに言えば、王が女性という記述からイメージを妙に膨らませて、
実像以上のものに仕立て上げている。
ヤマト王権が利用したのは
天照大御神信仰
宗教的な儀礼で連合統治した
ただ疾病流行によって
天照大御神の神通力もなく
祟りを恐れて、大国主も同時に祀ったりしたが意味なく
結果2柱は放り出され、オオモノヌシを降ろすことになるが
その間に吉備国含め連合国が離反した
奴国と喧嘩してた邪馬台国は魏の支援が必要だった
日食が起こり邪馬台国は滅んだ
後に統一された倭国の中で東征に近い事が起こった
記紀に出てくる出自の違う神様って、要は当時のそれぞれのクニの権力者を神格化してたってことなのかな。征服とか連合していく中で、神様にして習合していった。
それぞれに候補地が有っても良いじゃん
九州の場合上陸地点からそんなに遠くない
近畿の場合纏向遺跡か滋賀の伊勢遺跡
うどんだったら和風なイメージだから少しは歴史も感じるが
ラーメンしか取り柄の無い九州は香川県以下だもんな
そもそも九州は日本本土から切り離された離島なんだから
香川以下の離島に邪馬台国なんて存在するはず無いわな
>>474 そして擬似的な兄弟、親子関係を作って同盟を組んでいったわけだ
スサノオとアマテラスが姉弟とか、大国主とスサノオが親子とか
各地の勢力を無理やり統一するための方便
だからヤクザに近いんだよ
ヤクザは「兄弟盃」「親子盃」で疑似親子関係を結んで同盟していくだろ?
北部九州は、吉備と協力して
畿内に連合国家体制を作り上げたが
ほどなくして疾病流行で瓦解
吉備が離反したせいで
北部九州は一時的に、畿内との連携が取れなくなる
その頃が魏志倭人伝に描かれた倭地
現代の企業連合だって同じで
「親会社」「子会社」って言葉自体が疑似親子関係を想定してる
もちろん会社法で子会社は株式の過半を親会社に握られてるから造反できないんだけど
でもその法律論よりもモチーフが大事ってことだよ
疑似的な親子というモチーフが
>>478 その仁義なき戦のあとで、盃儀式を執り行うのが巫女だったかもな。
>>54 それを無視する人が多いね。
確かに弥生初期は九州が優位だったんだろうけど。
人口が増えてきて生産性の高い土地では増え方が大きい。
土地に関してもそうだ。
今の九州の平野部は、筑紫平野の多くは海の中で、頻繁な洪水にも見舞われた。
糸島半島は名前の通り島だった。
奈良は、水の少なさゆえ、初期にはそれほど良い土地ではなかっただろう。
巻向に集まる土器の地域は、記紀に登場する地域とも一致している。
そして、「水不足になりにくい土地」「稲作のために水が得られる土地」であることが重要。
現在の「大河の大平野」は、まだ海の下だったり、当時の人達には制御できない規模。
開拓が大きく進むのは、国家統一以降だな。
今は僻地のど田舎扱いの山陰の出雲や丹波(昔の丹波は今の丹後、丹波、但馬を含む)が登場するのは、
豪雪地帯ゆえ、春に水に恵まれていたから。
吉備も近江も上流には豪雪が積もる地域を持つ。
遠賀川式土器が広がった地域とも一致する。
つまり金属器を持った九州武人軍団に対して
畿内東海組は木の棒で対抗して数で勝ったということか
九州って日本本土から切り離された離島だろ
北海道民が邪馬台国起源説を叫ぶようなレベルの話だぞ
琉球民族のくせに日本の歴史に口を挟むとか
ド田舎の土人の分際で厚かましいな
前々から感じてたが畿内説をとる動機って差別心なのかね?
>>480 古典的な子会社というのは会社がある事業を分離・独立するために設立された会社、会社が会社を生むという意味で文字通り親会社・子会社ではあった。
ただ、すでに存在する会社の株を買い取って支配下に置くことと会社を設立して支配下置くことは経緯は違っても事実上全く同じことなので同じように子会社と呼んでいるだけ。
会社の買収が盛んに行われる今では会社が会社を生むことよりも会社が会社を買い取ることの方が圧倒的に多くなったので実質的に判断されてるだけで、別に擬似的な親子関係を例えたというわけではない。
>>463 三國志は同時代記録が複数あるが記紀以外の記録は全て焚書されてるし
500年後に書かれたものだから当然でしょ。
北九州だと小さすぎるんだよ
だから、邪馬台国は更に大きな勢力に飲み込まれたと考える
そういや筑紫平野って吉野ケ里遺跡が見つかったころは
弥生時代は大半が海の底って言われたけど
今は、沈降を繰り返してる地形で、弥生後期には
干拓地除いてあまり今と変わらないってわかってるんだよね
弥生後期の各種分布をみればよくわかる
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から、対馬に渡り壱岐を経由して九州に至るルートは
57年に後漢に貢を奉り朝賀して、光武帝から「漢委奴国王」の印綬を賜った九州の奴国にとって
朝鮮半島と繋がる最大のルートだったはず
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されているがそこには
朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、
「漢委奴国王」の印綬を賜った【九州の奴国の海人たち】も、こぞって進出していた。
そうして、富を蓄えた上での朝貢であり
107年には、生口を160人も連れて安帝に謁見した。
対馬に渡り壱岐を経由して九州に至るルートは、これほど発達していたにもかかわらず
九州本土の交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない
『魏志』(倭人伝を含む)には
帯方郡ー韓国−対海國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て、邪馬壱國
と書かれてあるが
対海國は、対馬國では無いし
一大国は、一支国では無い
>>438 東海含む地域の談合政権w
記紀で「尾張氏の祖」と出てくる丹後の海部氏の一派が
東海に進出して、開拓を進めて勢力が大きくなったんじゃないかな。
談合政権の中心は、大和、近江、河内、丹後、出雲、吉備、瀬戸内、尾張、阿波wなど。
正体のよくわからない「息長氏」の近江は、弥生のでかい遺跡がある。
銅鐸の生産を担ってた可能性もある土地。
冶金の神様を祀る神社もある。
>>463 魏志倭人伝は信用出来るよ
はい、論破w
なぜ大和王朝があずまえびすと見下して呼んでいた東国の土器が纒向遺跡には大量にあるのか
43%もあるのであれば、もはやあずまえびすそのものである
纒向遺跡は畿内がまだまだあずまえびすの領域だった時代の遺跡ではないのか
>>465 糞食って死ねさっさとキチガイ野郎
はい、論破w
>>492 帯方郡ー狗邪韓国−対馬國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国
帯方郡ー投馬国(朝鮮半島南部)−邪馬壱國(北部九州地域)
だよ
>>495 纒向遺跡は毛人の遺跡だな
キチガイ近畿パーがカミングアウトしててワロタw
チャンコロがカミングアウトしてるみたいwww
>>30 記紀が書かれたのは、8世紀だな。
まとめよと言われたのは7世紀。
500年はたってるわけだ。
文字のそれほど普及していない時代、口承で受け継がれた氏族の言い伝えだ。
確かなことは、崇神以前は、天皇家は「大王」ではなかったらしいこと。
卑弥呼がいたなら、崇神の2世代か3世代前の時代で、
天皇家は談合政権の一翼を担っていたくらいだな。
そのころの墓についての伝承とか見れば、天皇家は先祖について
でっち上げはしていない。
余るほどのどでかい前方後円墳がたくさんあるにも関わらず、
弥生の墓のような場所にあるあるとしている。
また、倭奴國と中国皇帝の間をとりもった「帯方郡」の成立過程を見てみても
後漢の末期、中平6年(189年)に、中国東北部の遼東太守となった地方官の公孫氏は、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出
まずは現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置き
西暦204年に
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて新たに帯方郡を設けて辺境の治安を強化
後漢の郡や県が制御することが出来なくなり、朝鮮半島で好き勝手な振る舞いをする倭と韓を制圧して
帯方郡に帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築く
つまり、朝鮮半島に進出していた【九州の漢委奴国王の倭奴國】は
公孫氏の帯方郡の属國であったのだ
そして公孫氏は
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
そして西暦220年に後漢の献帝から曹操の息子の曹丕が禅譲を受けて初代魏皇帝になり、後漢は滅び、魏が生まれた
魏の誕生期には、公孫氏の帯方郡の属國であった朝鮮半島に進出していた【九州の漢委奴国王の倭奴國】は、帯方郡とともに、魏の支配下にあった
>>487 会社は人間じゃないのに「親」「子」という言葉を使うこと自体が疑似親子関係だってこと
親子をモチーフにしてイメージで人に訴えた方が企業の平和的な運営につながるという
>>501 北部九州地域では紀元前後くらいから硯などの文房が使われ始めている
金印を貰ってるし紀元前後には文字使用が開始されてる
記紀が書かれた8世紀には豊富な歴史資料が残っていたはずなんだ
口伝とか焚書した事を隠す為の嘘だな。
>>504 >>505 お前ら魏志倭人伝の読み込みが足らないなw
>>507 お前は魏志倭人伝の読み込みが足らないよな
はい、論破w
纏向が畿内と東海地方を合わせた政権なら圧倒的だ。
羽柴秀吉と松平家康を合わせたような勢力だよ?
そこに山陽山陰地方の勢力まで加わったとなったらね。
薩摩隼人を除外した九州地方だけの勢力で対抗できるわけがない。
唯一、九州説が生き残れる道は「卑弥呼が邪馬台国を偽称して魏に使節を送った説」のみだ。
それだって本家本元の邪馬台国は大和国であるという結論になってしまう。
日本の起源は名古屋にある熱田神宮とも言われているから
どれがほんとなのか分からん
投馬国はtuma国で西都原の妻のこと
神武の故郷で隼人=囎唹のことでもある
>>510 3世紀だから畿内や東海地方は未だ未開の地
合わせても大したことないし
単なる交易圏で政権なんてない
>>511 >日本の起源は名古屋にある熱田神宮とも言われているから
その割には、古い記録を見ても
熱田神宮の神階はそう高くないね
クマソは球磨国(狗奴国)+囎唹(隼人、妻国)のこと
近畿の大和朝廷とクマソとのアンビバレントな関係は
一、妻国は山門国と同盟関係にあり、元々球磨国とは敵対関係
二、神武の故郷がそもそも妻国
三、近畿の大和朝廷の北からの圧迫で南下した球磨国が山門国が滅んで敵対する意味が無くなり妻国と同化して行ってクマソになった
この複雑な関係が原因
>>514 邪馬台国論争は今の現実の生活の役に立つ
特に、ウソつき野郎がどのくらい多量に居るかを知るのはとても良いこと
倭国大乱の前には九州から関東までの大きな国があった
>>516 無いよw
今も昔も田舎だよ
>>519 あったらいいなw
お前朝鮮人みたいな奴だなwww
朝鮮人とか論破とか普通の奴が使わない言葉を多用するよな
言ってだろwww
文字もねぇばか日本人が勝手に解釈してんじゃねぇよwww
ほら見ろよ。
>>514 邪馬台国論争は今の現実の生活の役に立つ
特に、ウソつき野郎がどのくらい多量に居るかを知るのはとても良いこと
>>502 つづき
しかし、西暦226年、曹操の息子である初代魏皇帝「曹丕」が病に倒れると、有力な将軍であった司馬懿は
初代魏皇帝「曹丕」は、徐姫夫人の子供である京兆王曹礼を後継ぎにしたいという気持ちをもっていたにもかかわらず
曹丕に誅殺された甄夫人の子供で、その存在すら知られていなかった「曹叡」を次の皇帝にしようと皇太子に復活させたため
「後漢の左将軍・襄平侯」として、倭と韓を配下に、朝鮮半島南半から北部九州まで統治していた公孫氏は、猛反発
曹丕の死後、司馬懿たちのゴリ押しで、曹叡が皇帝に即位(明帝)すると公孫氏は、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、
2代魏皇帝「曹叡(明帝)」から「大司馬・楽浪公」を賜ることを断り
ついには帯方郡が統治している倭と韓とともに魏に反旗を翻して独立を宣言
西暦237年に、遼東の襄平城において自らを「燕王」と名乗った
そのため魏の2代皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は西暦238年、倭と韓とともに独立を宣言した公孫氏の征討を開始
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して襄平城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧
この戦乱により、帯方郡に属していた九州の「漢委奴国王」の倭奴國には、対馬から壱岐を経由して大量のた人々が「帯方郡」から避難してきて、なかば立て籠るに暮らすこととなり
北部九州の「漢委奴国王」の倭奴國は、反魏の温床になるかわからない注意するべき倭國【狗奴国】と呼ばれるようになった
変な奴をNGにしたら2割くらいしか残らないのは邪馬台国スレによくあること
いい加減、纏向の枕詞に邪馬台国を付けるのをやめたら良いのに…
論点が邪馬台国になって結局それ以外の論議がされなくなってる。。
>>451 そうじゃなくて、外戚が実権を握ってたかもしれんな。
狭穂彦でも武埴安彦命にしろ、母方の豪族の主導権争いというか。
外戚ってのもおかしいな。
平安時代ほどに天皇の権威が固定してたとは思えんからな。
卑弥呼の一族に連なる有力豪族が主導権争いをしていたと見るべきか。
狭穂彦のときに、狭穂姫が垂仁に丹波から嫁を取れと言って死んでいった。
その後は争いが書かれていない。
日葉酢媛の墓と伝わる佐紀陵山古墳は、全国の初期の古墳に相似形がとても多いらしい。
このころに、それなりに談合政権が「安定した」のかしれん。
>>514 邪馬台国論争は今の現実の生活の役に立つ
特に、ウソつき野郎がどのくらい多量に居るかを知るのはとても良いこと
論争が起こるから面白い
龍馬暗殺も見廻り組と決めてしまったら終わりだしな
>>538 ?
止めただろ
畿内説は纏向学と名前を変えて邪馬台国論争からは遁走したよ
>>543 お前らのはただの妄想
論争じゃない
はい、論破w
>>88 巻向そのものは、なにもない土地に作られた都だと言われてるな。
田んぼや耕地を潰して作ることを嫌ったんじゃ?
だから、荒れ地に立てた。
近くには唐古・鍵遺跡があるけどな。
布留遺跡とか大福遺跡もあるが、規模がでかい。
邪馬台国が直結の祖と考えると変な感じなんだよな
想像以上の紆余曲折がある
オモシロ九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!!
九州系の土器が出ないとダメでしょ
畿内から九州はコントロールできないどころか疎遠なんだよ
そんなに疎遠でどうやって遣使とかするの?
畿内説に拘泥するのは、冤罪の犯人をニヤニヤしながらいたぶって真犯人をみすみす逃すマヌケな検察に似ている
>>551 糞食って死ねば治るよ
はい、また論破w
>>495 あずまえびすというか、東海、尾張だな。
あずまえびすは、箱根の関の向こう側w
>>549 九州倭国と近畿日本は当然別の国だよ
何ほざいてんの?
因みに
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
纒向遺跡遺跡は後の大和王朝とは直接繋がらないと思うよ
ドメスティックな政権が空白の4世紀を経て突然チャイニーズスタイルの統治機構に変身するのは無理があるからね
なお、空白の4世紀には高句麗の南下に伴う民族大移動が起きてる
北からの玉突きで日本にも影響はあったはずだ
朝鮮が陸続きでありながら別れてるんだ
なぜ、日本は列島でありながら国として動けたのか
>>515 それは貴族時代だな
熱田生まれの頼朝が武家政権作って熱田の格爆上げ
神剣草薙の剣があり武神スサノオ、ヤマトタケルが祭神なのもあり武家の最高格式社に
神器繋がりもあり総本山伊勢の兄弟社という待遇になった
織田家は熱田守護だし関白もらった豊臣家が熱田民という別格の扱い
>>513 未開の地ではないな。
河内の池上曽根遺跡、大和の唐古・鍵遺跡、
近江の伊勢遺跡、下之郷遺跡、愛知の朝日遺跡・・・
7000+1000+(400×2)+1000+(300×2)+1000+500+100=12000
奴国までで12000里はお終い
水行20日+水行10、陸行1日は帯方郡からの再スタート
投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬台国は北部九州地域
女王の都する所とは投馬国に対して邪馬台国側に女王の都があるとの意味
女王卑弥呼は伊都国に居て、女王国とは伊都国、奴国等の倭国の首都圏のこと。
>>552 >九州系の土器が出ないとダメでしょ
なぜ?
何でもいいから文句つけてるだけだろ?
九州系の土器が出る必要がある理由を明確に頼む
>畿内から九州はコントロールできないどころか疎遠なんだよ
専門知識どころか基礎知識さえないド素人が考古学者の見解と
正反対なことを言い張りたいなら明確な根拠が必要
どうせwikipediaあたりをかじった程度で、論文とか全然読んでないんだろうけど
>>510 畿内、山陰、瀬戸内、東海の談合政権だな。
>>557 倭人が北部九州地域から日本列島へ広がったんだな
>>562 九州系の土器だけでなく大陸との交流を示す物が何も出ないからね
魏使が来ていた痕跡が全くない
完全に孤立してるね。
>>543 あれは見廻り組のやつが自白したんじゃ・・・
奴国は那の津と呼ばれた博多湾の近く。今も那珂川の名で地名に残っている。
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」に、反旗を翻して独立を宣言した
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操と
後漢の献帝から禅譲を受けて初代魏皇帝になった曹操の息子の曹丕に恭順して
半独立政権「帯方郡」を樹立して朝鮮半島南半から北部九州までを統治していた公孫氏
を
「曹叡」を、魏の2代皇帝(明帝)にした司馬 懿が征討する「遼隧の戦い」
による戦乱により、
対馬から壱岐を経由して、大量に朝鮮半島から逃げてきた人々が大量に暮らしていた
57年に後漢に貢を奉り朝賀して、光武帝から印綬を賜った北部九州の、漢委奴国王と奴国は
魏の皇帝や、その後、西晋の皇帝となる司馬氏からすれば、いつまた反魏の温床になるかわからない、信用なら無い人たち
そんな北部九州の倭國を魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿が、親魏倭王にするわけがない
なので「魏」は【狗奴国】と呼び、その男王は「卑弥弓呼」と呼んだ。
>>564 倭人はもっと前から日本列島に広がっている。
>>567 明治の時から今井が自白してたらしいし佐々木只三郎も何か書いてたけどまだ分からないw
>>571 3世紀だと大半は縄文系だよ
縄文系の人達が稲作を行っていたんだ
倭人が本格的に日本列島へ広がったのは4世紀以後だね。
だったら狗奴国は三重和歌山?
狗奴=熊襲国だろ。熊本じゃね?
纒向遺跡が3世紀のヤマト王権の権勢を示すものであった、それはいい
でもそれと邪馬台国なんの関係も無いよねw
なぜこの2つを強制的に結びつけたがるのかさっぱりわからんのだが
>>512 昔の曽於は今の旧国分市のあたり
曽於郡とは場所が違う
またこのへんは後の世に隼人族と同化した熊襲の地だよ
神武天皇(のモデル)の出身地は阿多つまり薩摩半島南部だよ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)
>>566 畿内には大陸との交流を示すものがないって、九州説ド素人の同好会の中だけで言われてるデマだろ
九州説信者って、胡散臭いネットのガセネタ集めばっかりしてるが全部ウソだから
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
まーた溝とか種とか破片で都市まで妄想しちゃって…
九州と違って肝心のモノがでない
鏡も矛も金装飾も馬具も印も鋳鉄も行政記録木簡も全部圧倒されてるじゃん
>>583 トヨは宇佐神宮の比売大神がそれ
具体的に言うと宗像三女神のイツキシマヒメがトヨ
>>582 圧倒も何も畿内説は否定証明済み
学説としては存在してない
畿内説論者のソース=学者の論文や文献
九州説カルトのソース=ド素人の同好会HP、個人ブログ、胡散臭いネット情報
会話が成り立つはずがない
必死にガセネタ、嘘、デマを集めて九州だ、九州だと喚いていればいい
>>581 今や論破王が論理破綻王と呼ばれバカにされまくっている時代に
論破繰り返しは印象悪いね
九州女王国が3世紀半ばに畿内に東遷して邪馬台国になった
九州にある内は女王国であって邪馬台国とは名乗ってはいないんだから、邪馬台国は畿内で決定
魏志倭人伝はこのプロセスを記述していない
東遷後の元女王国は空っぽになるわけもないのは、推戴した周辺諸国がもぬけのからにならないのと同じ
引き続き5世紀初頭までは九州が外交主体
3世紀後半の段階でもう半島にガンガン間断なく攻め込んでいることから分かる
5世紀に半島で倭人掃討があって、新羅倭人、任那伽耶倭人、百済倭人などが大量に列島に流入
これを戦後、騎馬民族説だと唱えたもんだ
このとき、確かに畿内に渡来系がわんさかとやってきた
中心地も河内に移動した
まあ、これもある種の東遷と言ってもいいわな
それでも、引き続く倭の五王は相も変わらぬ九州勢なんだよね
畿内大和が見るに見かねて身を乗り出し、直接やるからどけ、となったのは6世紀頭の磐井の乱からだよ
もう一つ言えるのは、なんと6世紀まで出雲が依然独立国の体であったことだ
畿内が本気出したのは継体朝からだ
それまでは九州勢はグズグズと新羅重視で、「だって連中鉄資源を握ってるんだもん」とコントロールされっぱなし
ばかやろう!鉄なんて採掘から国産化できとるわい!出雲だって見て見やがれ国産化しておろうが!
オマエらだけだ。半島にしがみついとるのはとどやされた
>>586 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>587 お前ら近畿パーってウソつきばっかで印象悪いよなw
はい、また論破w
半独立政権「帯方郡」を樹立して、倭と韓を帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州までを統治していた公孫氏は
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操と
後漢の献帝から禅譲を受けて初代魏皇帝になった曹操の息子の曹丕に恭順していたが
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」には、反旗を翻して独立を宣言した
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿が、
半独立政権「帯方郡」に属していた北部九州の倭國を
15歳以上の男子を皆殺しにして制圧することはあっても
親魏倭王にするわけがない
>>590 他のコピペじゃ分からんか
反射で論破というのはやめたほうがいいよ
いや本当
>>593 効いてる効いてるww
はい、また論破w
>>589 邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
ならば
邪馬台国も伊都国も
半独立政権「帯方郡」を樹立して、倭と韓を帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州までを統治していた公孫氏の支配下ということであり
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿にとっては【朝敵】なんですけど
>>577 そうなると人口七万戸(35万人)ある国がもう一つないとダメ
全国規模まで領土を広げてないと達成できない人口なんだよね
>>589 邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
ならば
邪馬台国も伊都国も
半独立政権「帯方郡」を樹立して、倭と韓を帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州までを統治して
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」に、反旗を翻して独立を宣言した公孫氏の支配下ということであり
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿にとっては【朝敵】なんですけど
>>595 Wikipedia 帯方郡
魏の直轄経営
襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉マと鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、
両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。
帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守・劉マは、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは
邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述は誤りで、
景初3年が正しいとする説もある)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣したわけである。
はい、また論破w
>>596
人口の問題は解決済み
1. 女王の領域は山陰も含む。筑紫平野+山陰が女王の領域。
2. 人口は一般的に指数関数的に増加すると考えられているが、実際はもっと遥かに裾野が緩やかで双曲線関数的に増加することが分かっている。
3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
4. 奈良時代の耕作地面積と三世紀の耕作地面積との比較による考察から、両者の時代の人口はそんなに違わず、後者が前者のザックリ2/3程度であることが分かっている。
奈良時代の九州+山陰の人口が105万人くらい。
この2/3は70万人くらい。さらに、この時代は九州や山陰は先進地域だったからもっと人口が多くてもおかしく無いだろう。
奴国が二万戸
妻国(投馬国)が五万戸
狗奴国が多分三万〜四万戸
女王の領域が七万戸
その他諸々が一万戸
全部で17万戸〜18万戸
一戸が四人として68万人〜72万人
ピッタリ合う。
少なくとも、魏志倭人伝の記述を疑わなくてはならないような深刻な矛盾など、別段何も無い。
卑弥呼は、古事記や日本書紀の上では天の鈿女、つまり猿田彦の妻として登場してる。
この夫婦は見ての通り男根信仰の半神半人みたいな存在だろう。
一方で箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命は箸で女陰をついて亡くなったと言われてるが、
古代の箸は男根信仰のシンボルとして用いられることもあったのではないか。(伊勢や
賀茂のミアレ木は二つの棒を結び合わせたものだという。ソースは金関丈夫の「箸・櫛
・つるぎ」)。
卑弥呼も倭迹迹日百襲姫命もphallusファルス男根を象ったカルト・シンボルが彼等のト
レード・マークだったのでは?
前方後円墳の形そのものが男根のシンボルとしか見えんだろ。
卑弥呼の「卑」は「下世話な」の意味だった。
>>563 となると、倭国大乱の後に女王が即位して連合政権となったという魏志倭人伝と状況が一致するよね。
まさに邪馬台国近畿説を補強してしまうことになる。
>>596 人口七万戸(35万人)くらいなら北部九州全域が邪馬台国と考えれば事足りる
奴国だけで二万戸なんだからなw
大切なことは特に
3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。
三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
これな
従来の人口推計が単に間違っているだけ
三世紀の人口はもっとずっと多い
>>496 糞食いはウンコ食わされて
全裸オナニーさせられて
バックドロップされとけボケが
>>603 壱岐とか3000家と魏志倭人伝に書かれてるけど
1家5人として15000人だから中世の人口と変わらん人口があったみたいだな
3世紀には既に北部九州地域では人口が相当増えていたようだな。
>>576 そこは球磨の名が残る熊本南部じゃないかとは思ってる
>>605 奴国は首都圏だけど王は伊都国の方に居たと書かれてるね
北部九州地域は稲作の開始が早かったから3世紀には他の地域よりも人口密度が高かったみたいだね
>>602 1、邪馬台国と女王の領域とを分けよう邪馬台国自体は小国だよ 御井周辺 首都だからね
2、女王の領域は山陰+筑紫平野な
山陰を入れるように
邪馬台国の超重要拠点た伊都國の
卑弥呼の死亡時期と時代を同じくする
平原遺跡が方墳である事で、
邪馬台国は倭国の統一王朝で
巨大な前方後円墳の築造が権威を裏付けるなる理論を完全に破綻させてしまったのである。
畿内説は終了したと言えるだろう。
>>605 邪馬台国が女王の領域の首都
奴国は形式的には属国扱いだろな
>>604 お前はバックドロップ要らないから今すぐそこで死ね
糞食い野郎
>>610 邪馬台国は北部九州全域
女王国は伊都国、奴国(糸島市、福岡市、那珂川市、春日市付近)
女王国とは邪馬台国の首都圏のこと
邪馬台国は女王の領域の首都
女王の領域は山陰+筑紫平野
>>614 間違い
ただし、ここは魏志倭人伝の表記がおかしいのが原因だけどね
東海系土器の代表、S字甕は尾張平野が多く見つかってるな。
製造武器庫か狗奴国か。
プレヤマト王権といったものが存在したのかもね
邪馬台国とは関係なさそうだけど
古代日本のヤマト王権の伸長が見られるような遺物かもですね
>>615 それ間違ってるな
邪馬台国は女王の都のある国で北部九州地域
首都は伊都国で首都圏を女王国と呼んでいる
>>618 ?
奴国だよそれは
別天津神と神代七代の男は全部奴国王だよ
>>619 全然間違い
伊都国から水行十日陸行一日で邪馬台国なんだから
邪馬台国=女王国
邪馬台国≠女王の領域
邪馬台国=女王国は女王の領域の首都
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
南に邪馬壹国、女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。
伊都国から出発して南へ行くと邪馬台国=女王が居る国へつく
吉備津彦の娘と、景行との間の子供の
倭健命が、景行の妹の倭姫命の助言を受け、
熊襲を征伐し、その後、古事記によると、
出雲を制圧した事になっている。
この時使った謀略が、
出雲建の刀を、飾りは豪華だが刃の無い刀に取り替えて、
出雲を制圧したと書かれているのである。
コレが近年、出雲の荒神谷遺跡から見つかった、
X印の付いた大量の銅剣の出土で証明されたと言えるだろう。
当時、祭祀の道具と化していた銅剣の
一大生産地は博多湾周辺の奴国であり、
それを傘下に収めていた邪馬台国が、
飾りは豪華だが刃のない刀=祭祀の道具と化していた銅剣を送り、
出雲はその見返りに鉄剣を邪馬台国に贈ってしまって、
いざ戦いとなった時に刃のない銅剣にXを付けて
これでは戦えないとなり、
荒神谷遺跡に放棄されたのだろう。
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
纏向から時代を経た古墳時代に大土木事業が行われて人口が急増していく
前方後円墳でも後方墳でも何でもいいけど、それが顕著でない尾張、三河は人口も大したことない田舎だよ
後の律令国で伊勢は大国だが、尾張、三河は格下
戦国時代のイメージで語るアホを見かけたので注意しておくよ
いや、別に戦国時代のイメージで語っても構わないが、尾張、三河は天下取ってないから
論破くんは阿波基地外には言い返せないのか
なんか草
>>615 女王は卑弥呼のことだが邪馬台国と同じ意味で使わてもいる
女王が邪馬台国と同じ意味で使われている例
去女王四千餘里
此女王境界所盡
女王国は邪馬台国の首都圏(伊都国、奴国)
邪馬台国は北部九州地域
この認識で魏志倭人伝に書かれている
>>569 その論理は危うい、那賀川・中川・那珂川等、日本各地にある。
阿波のおっさんが、奴国は阿波南部の長国のことで、当時の都は名方(なかた)郡とか言い出しかねない。
まぜ金印が九州で見つかったというと、金印を返しに行くはずの船が難破して・・・など、いくらでもこじつけ可能になるだろが。
纏向の外来土器の範囲は、
御馬城崇神の四道将軍の派遣の範囲と一致し、
それは本州一帯を収めていたと言えるものだか、
逆に言えば、その力を持ってしても、
九州には進出する事ができないぐらい、
九州vs本州の間には、大きな力の差があったと言い切れるのである。
結局、崇神に副長官の地位を与える立場の女王が、
北部九州にいたのが裏付けられたと言えるだろう。
そもそも全国統一などは16世紀の秀吉まで無かったのだから、3世紀なんて群雄
割拠もいいとこだったと考えるのが普通でしょ。邪馬台国は九州のどこかは議論が
あるのだろうが九州にあったことはガチ。纏向は大和王権の初期の遺跡でしょ。
なぜ、邪馬台国論争が起こるのかサッパリ解らん。
>>622 12000里は奴国までで説明が終了だから女王国へも到着済
つまり奴国は女王国に含まれる
次に帯方郡から投馬国へ、投馬国から邪馬壹国への説明
「南至邪馬壹國 女王之所都」・・・邪馬壹国に女王の都(伊都国)がある(投馬国にはない)
魏志倭人伝に出て来る奴国と漢委奴国王は同じなのか?
もし同じなら何故記述が無いんだ?
考えられるのは陳寿が金印を貰ったのを知らなかったかそれ以前の史料か
九州に原爆落として水没させろ
これが日本国民の総意
>>632 そもそも3世紀には未だ日本列島に倭人(現代日本人)は広がってない
先住民の縄文系の人が殆どの地域を占めていた
纏向は先住民の縄文系の人の遺跡だな。
金印は志賀島から見つかったが、
志賀島には、奴国を構成していたと考えられる、
海人族の安曇族の氏神を祀っている
志賀海神社があるので、
金印が志賀島から出たのは
考古学的にリン叶っている事なのである。
>>634 金印を貰ったのは委奴国
委奴国が伊都国になり、奴国は伊都国から分離された国だろうな
伊都国が王都、奴国が庶民の国
天皇って地名は日本にないのに
朝鮮半島南端部にうじゃうじゃあるのはなぜ?
お前らいっとくが
行き着く結論はひとつだからな
声を大きくしてあーだこーだ言っても仮設主張してもそれは科学や数学では真実とはならない
>>639 俺もそれ思った
だって伊都国には代々王が居たんだもんな
>>642 世有王は代々王が居たの意味じゃなくて
魏使が来た魏の世に女王卑弥呼が伊都国に居たって意味ですよ。
畿内大和の外交、戦闘記事は神功皇后までほとんどないんじゃない?
七支刀の金石文史料以外にある?
河内の応神だって渡来人記事だけ。
継体天皇までは直接半島へ派兵もない。
倭の五王は畿内大和の大王の仕業だと勝手に決めて比定するだけ。
>>643 それだと邪馬台国って何って話しになるし居たかも知れんし別の国かも知れんしそこは分からん
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
↓これが邪馬台国
>>633 まるでイミフ
はい、論破w
>>646 邪馬台国は卑弥呼が治め北部九州地域あって伊都国に都の在った国だよ
伊都國には一大率を置いて支配していたと明記されている以上、
伊都國は邪馬台国の都では無い。
漢文は簡潔に達意に書くことが良いことという一般法則がある
自然な読み方をすれば文脈から分かることを長々と書かない
正史なら尚更
不自然な読み方であると言うことは、それ自体が間違った読み方である証拠
伊都国に到着して、そこから南へ出発してまた伊都国に着いた
このようなイミフな読み方は無効
はい、論破w
>>647 12000里は奴国までで説明が終了だから女王国へも到着済
(7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000)
つまり奴国は女王国に含まれる
距離の説明が終わったので次に時間の説明
帯方郡から投馬国へ、投馬国から邪馬壹国へと説明
「南至邪馬壹國 女王之所都」・・・邪馬壹国に女王の都(伊都国)がある(投馬国にはない)
「南至邪馬壹國 女王之所都」は時間の説明の投馬国と邪馬壹国だけが対象に書かれてる文
>>650 >伊都國には一大率を置いて支配していたと明記されている以上
伊都國に一大率を置いたとか魏志倭人伝には書かれていない
一大率を置いたのは女王国以北の諸国だよ
伊都国で諸国を治めたとある
>>625 足利尊氏
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
>>654 それは間違った解釈であり、
伊都国にも一大率を置いて支配していたのは間違いない事であり、
また伊都國が邪馬台国の都とは書いてない以上、
伊都國は邪馬台国の都では無いと言い切れる。
>>625 源頼朝
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
魏志倭人伝から分かるのは伊都国は特別なのよ
卑弥呼がそこに居たと確信してる訳では無いけど
>>1 これずいぶん前から言われてるだろ
ソースにも↓書いてあるし、何がニュース?講演会とかシンポがあったとも書いてない
>全体の10%近くを占めることが分かった。(略)これまで15〜30%前後とされてきた
漢文は簡潔に達意に書くことが良いことという一般法則がある
自然な読み方をすれば文脈から分かることを長々と書かない
正史なら尚更
不自然な読み方であると言うことは、それ自体が間違った読み方である証拠
伊都国に到着して、そこから南へ出発してまた伊都国に着いた
このようなイミフな読み方は無効
単に間違った読み方なだけw
はい、論破w
また、伊都國の王とは、三雲井原遺跡を中心とする王であり、
実際に男性が埋葬されている事でわかる。
>>656 「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
明確に女王国以北に一大率を置いたと書かれていますし
常に伊都国で治めたともあります
伊都国の説明には「丗有王」と王が伊都国に居たと書かれてます
伊都國は邪馬台国の都だと無いと言い切れますねw
奈良からは中国や朝鮮との交流があった品物の出土が無いので
こんな所に邪馬台国があるはずが無い 妄想畿内説はすでに破綻している
>>640 クダラって「失敗」だろwwwwww
https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=De%20voltak%20m%C3%A1s%20okai%20is%20ok%2C%20ami%C3%A9rt%20a%20Sz%C3%B6vets%C3%A9g%20kudarcot%20vallott.&op=translate
しかし、同盟が失敗した理由は他にもありました。
>>662 全然全く邪馬台国の都ではないとしか読み取れないが?
>>665 自女王國以北 特置一大率
常治伊都國
丗有王
>>564 北部九州の倭人がチャイニーズスタイルの統治機構を作るのは無理だよ
それが可能なのはチャイニーズスタイルの統治機構を知ってる人々だ
例えば、滅ぼされた帯方郡の公孫氏の遺臣がもし日本に逃れたのなら?可能かもしれない
>>653 一万二千余里は帯方郡から邪馬台国までの距離
はい、論破w
来る人来る人
領土の広さを自慢するが、我々は疑っている。
邪馬台国の都と言うのは、
楼閣があって、城壁が張り巡らされ、
女王が住んでいると明記されている、
邪馬台国の都であって、一大率を置いて、支配し、
外交上の重要拠点であった伊都國ではない。
>>667 だから女王国より北は伊都国に治めさせているって文章じゃんそれ
>>667 あなたはそれを邪馬台国の都と読んでしまうのは
全く脳が破壊されているとしか言いようが無い事だぞ。
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
↓これが邪馬台国
そもそも特置一大率って軍隊が常駐してたって意味でしかない。
大事に考えすぎなんだよ。
なんか畿内か畿内以外かになってるよな
北九州どこいった?
畿内説が声でかいだけか?
>>676 糞食って死ねば治るから大丈夫だよ
お大事にね
>>662 邪馬台国が女王の都だろ?
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
よっぽど地獄だったのか、極東ウラル語族の痕跡消えちゃってるねw
正直、魏志倭人伝を読んで、
伊都国が邪馬台国の都だったとか、
言うやつはイネーだろ。
どう読んだらそうなる訳だよ。
南至邪馬壹國 女王之所都と明記されている以上、
邪馬台国に女王の居る都がある訳で、
伊都國は一大率を置いて外交上の
拠点がある場所としか読みようがない。
>>672 女王国以北の諸国は一大率を使い伊都国で治めてるとありますねw
>>675 一大率って軍隊じゃないよ
「於國中有如刺史」と書いてるだろ
>>679 邪馬台国は女王の都ではない
邪馬台国は女王の都のある国(投馬国にはないの意味)
畿内説は、邪馬台国の重要拠点たる伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同じくして作られた平原遺跡が、
ただの方墳であることを持ってして、
巨大な前方後円墳を築造する勢力こそが、
日本で最初の統一政権の邪馬台国である
と言う理論を完全に破綻させてしまったのである。
最早、邪馬台国畿内説は、完全論破されてしまい、
学会で持ち出す学者は居なくなるだろう。
>>681 >南至邪馬壹國 女王之所都と明記されている以上
それ邪馬台国は女王の都のある国けど投馬国にはないの意味ね
>伊都國は一大率を置いて外交上の
伊都国に一大率は置かれてないよw
>>655 三河君、纏向遺跡の時代に尊氏も頼朝もいないから
ましてや、そこから時代を経た古墳時代もそんなのもいない
当時は北関東よりも見劣りするのでないか
>>685 全くでたらめな解釈で、
失笑しか起こらない。
>>684 ⛏シャベル ホッスー 🕳ホル ホッスー
>>687 残念だな
纒向を語るには、大神神社、三輪山を抜きにしては語れないよな
関係ないか?
大神神社社伝
「三河県豊橋市の石巻山は三輪山の元山である」
三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であり、、三輪山は石巻山(神山(ミワヤマ))から名付けられたと大神神社の社伝に記載されている
神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな
>>571 何時、倭人が日本列島へ広がったと考えてるの?
>>690 先住民の縄文人に大陸系が混じって現代日本人が生まれてるね
地域によって割合が違うね
先住民はアイヌじゃなくて縄文人だね
アイヌにも大陸系が混じってる
また、邪馬台国の重要拠点であり、
大陸からの贈り物を管理したと明記されている伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時代に作られたとされる平原遺跡に埋葬された、
数多くの豪華な舶載鏡の中に、
日本から500枚以上発見されている三角縁神獣鏡が1枚もない事を持ってして、
三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼に贈られた鏡なる論は、
完全崩壊したと言い切れるのである。
畿内説は終わった、この私が完全に終わらせたのである。
もう学会で、三角縁神獣鏡が
卑弥呼に贈られた鏡などと言う学者は
居なくなるだろう。
>>696 三角縁神獣鏡のような記年鏡は日本独特の鏡であり中国での出土例は無いんだよな。
>>682 邪馬台国が女王の都とはっきり書いてるじゃねーかw
お前の目は節穴かw
>>699 それは里での行程と日での行程を続けて読んだ為の解釈の間違いだな
奴国までで12000里が終わっているから
日での行程の行程文は切り離して読まないといけない
投馬国に対して邪馬台国側に女王国の都が在るって意味だ
>>700 行き方、官吏の名前、戸数まで書いてんのに屁理屈にもほどがあるわ
これだから糸くずってんだよw
邪馬台国てのはデカい国だと思うがなあ
もしかするとやまと国かも知れない
また、曹操集約注には、貴人公主に9寸の鉄鏡を贈ったと書かれており、
まさに、日田のダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が9寸の鉄鏡で、
公主たる邪馬台国の卑弥呼に贈った鏡に相応しい。
>>694 本家は北九州、分家は畿内
気付いたら、分家の方がおっきくなちゃった
>>701 行き方は帯方郡から
官吏は国の役人(伊都国や奴国の役人は地方役人)
戸数には可が付いてるから推定した数
実際には数えられないくらいの広い範囲の国なんだ
理解できましたか?
しかし纒向の範囲って広いな。
箸墓から1.2キロかよ。
>>706 ことごとくお前の想像で語ってるだけじゃねーかw
官と副に勝手に新たな役職を作るとか、苦し紛れの屁理屈しか捏ねられない糸くずってのは程度がしれてるんだよ
七万「余」戸の時点で約でしかないが、お前の都合のいい解釈にはならない
>>693 へえ、神社は古墳なんだ、纏向も神社なんだ
いやあ、古墳の上に祠をもうけているところもあるけどさ(笑)
君は頭の病気だと思うよ
>>708 想像じゃなくて、そう書いてある
地方官と国の官は当然別にいるよね
可と有じゃ意味が違うからね
有だと確認している、可は「ほどか」で推定
一つの集落で七万戸とか3世紀の日本には存在しなからね
曹操の墓から出土した金象嵌の鉄鏡が、
この日田の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡に酷似している事から、
日田の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は
魏から公主に贈られた鉄鏡である事が確定した。
魏の公式ルートでしか手に入れることができない金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡がまさに卑弥呼に送られたことが間違いないことになり、
日田鉄鏡はただの鉄の塊論に終止符が打たれた事になった。
魏志韓伝によると
帯方郡の南の半島は馬韓(50国10万戸)辰韓と弁辰(あわせて24国4から5万戸)の3韓に別れ、南は倭に接する(渡海ではない)
辰韓では鉄があり、韓、?、倭が取って二郡へも供給しているとある。
一方魏志倭人伝によると
漢の時代は百国であったが、魏に朝見するときは30国であったとされる。
前には男王がいたが倭国が乱れ女王を立てることでなり立っている
30国の南には狗奴国があって今でも戦争状態である
といういことから、100国というのは紀元年前後から3世紀にかけて鉄が出土する範囲でありおおよそ九州と山陰西部までであることがわかる
その大きさから30国というのは九州の北部で港を抑えている勢力であり当時の人口や国の規模からすると
30国で7万戸というのがちょうど当てはまる。
そもそも、邪馬壹國という国は日程記載のときに1度っきりしか出てこない。
投馬国と邪馬壹國と狗奴国はそれぞれ100国から分裂した連合国家であり
投馬国は半島南部を管轄し、海を渡って邪馬壹國と投馬国は戦争状態であったということだろう。
このような状態であったとき、半島南部の利権を確保するためにも大陸の覇者である後ろ盾を欲するのは当然であるが
投馬国レベルでは、漢の時代の前歴もなく、漢の金印を所持する邪馬壹國とは協力関係であったと推察される。
倭人に首都という概念があったのか怪しいよな
倭人はとりあえず王がいるところを「みやこ」と呼んだが、魏使からみて伊都国が事実上の首都だった
そこら辺の混乱が今まで続いてるような気がする
九州って平野が多いと思ってる人達が以外と多いみたいだけど
九州って中央部山岳なんだよ
博多から大分までだてに電車が海岸部走ってる訳じゃない
それ故に博多から大分は特急でも高速バスでも移動時間はあまり変らない
冬は雪が降るし、降雪で通行止めになる道路もある
曹操の墓に埋葬するのと同等の、
格式の高い鉄鏡を贈った事が確定したので、
ペラペラで誤字脱字満載の、
格の著しく低い三角縁神獣鏡を
魏が送って来たと言う学者は、
金輪際居なくなるだろう。
>>640 それは始めて天皇を名乗ったのが天智天皇で、白村江で百済を支援したからでしょ。
この時代まで百済は倭人の支配地だった。
近江近辺には天皇神社というのがあり。
https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇神社_(大津市)
日吉大社の御輿が逃れてきた神社であること。天皇神社となったのは明治時代。
日吉大社は崇神天皇が創建で天智天皇が神社を拡大した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日吉大社
こういうところを見ると崇神天皇というのはもちろん即位の時は大王だったわけだが、
天皇(日本)の成立と深いかかわりがあることがわかり現在にもつながっていることがわかる。
大和朝廷の近くに、卑弥呼の時代にこれだけの規模の遺跡があり。
この時点で九州の土器がほぼないのだとすると。
邪馬台国九州説を採るなら、この時代以降に滅ぼされた国だということになる。
とすると、邪馬台国が争っていた相手は句奴国で大和朝廷は句奴国の末裔ということにならないか?
>>687 三河をセンゴク(笑)でしか語らない、お前の頭が田舎猿脳だろ
違うか?
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
纏向は誰がどう見ても、
吉備の豪族で、
四道将軍を派遣して
本州を支配した
御馬城崇神の王都であり、
桃太郎→桃の種
犬→犬の骨
猿→猿田彦の本拠地の伊勢の土器
等が出土し、
後はキジの羽が出土して
コンプリートとなるだろう。
>>709 物を知らない田吾作脳
違うか?
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
>>550 答えるって何に?
お前の言う論理パズルとやらを披露してみろと言ったんだけど、日本語が理解出来ないのか?
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。
昔は百余国あり、漢王朝時代に朝見しに委奴国や帥升が来た
、今は倭国大乱で分裂し、交流可能な国は邪馬台国連合の30国である
都市があったのは確かだろうけど、なんで邪馬台国って断言できるんだ?
邪馬台国の「台」という要素は段々状の吉野ヶ里遺跡の方に強いような。
>>629
>阿波のおっさんが、奴国は阿波南部の長国のことで
阿呆玉よ、長国は「狗奴国」じゃ。 よく覚えておけ! @阿波 倭という概念はあの時代にあったんだよ
そうでなければ朝鮮でも何でもいいんだから
>>723 断言はしてないよ
中心が巻向にあったろうという話で
そもそも、今時の大学関係で邪馬台国なんて語ってる場合は予算獲得の時のみ
ぶっちやけ結論は付いてないよとした方が都合が良い
今の研究テーマは巻向がどう大和朝廷になったか
変る事無く邪馬台国に拘ってるのは向かえが近い老害だけ
>>727 巻向は大和朝廷には繋がないな
大和朝廷以前の遺跡だな。
>>726 中国から見てだから日本ではどうだったか分からん
>>729 中国にも日本を示した偽書みたいなのがある
youtubeの動画を漁ってても出てくる
>>729 中国人から見て明らかに韓と倭は違っていたから書き分けたんだね
>>731 ごめん、このレス関係ないなw
ちょっと酔ってる
>>731 倭って何?我々はヤマト民族だって言ってたかも知れない
老害は研究が進んで答えが変ると
嘘ついたんだーとか騒ぎ出すんだよね
ごく普通の事なのに
例えば鎌倉幕府の成立は老害は1192年と思ってるかもしれないけど
今は1185年に変った。研究が進んだ事による
あとは織田信長とか
以前は革新的で既存の体制を壊すとか天下統一を望んでたとか
今は保守的で体制を守り、天下統一なぞ望んでなかったとなってる
研究が進むと変る事もあるんだよ
わかるかな?
100国でまとまっていた、「漢の時代に鉄の出土がない地域」から7万戸の巨大国家が生まれて
なぜか30国だけを制覇して魏と交流することなどありえんのだよ。
>>734 戦後みたいに教科書でここは日本です、なんて教えてないんだよ
列島で離れ小島でも同じ国、同じ民族という意識があった
微かに言えそうな理屈があるんだけど微か過ぎて正しいか分からない
鉄が国家なりってのは最近の話ね
鉄といっても品質があるんだよ
一律だと思ってるのかもしれないけど
北九州大雨特別警報のニュース観てたら、あの時代あの地域でそんなに大きな集落(都市)は出来ないように思えてきた
やはり日本列島内でも大和盆地は突出して自然災害が少ない地域だよね
古代国家揺籃の地と言われるのも納得だわ
纏向の外来土器の出土状況は、
まさに御馬城崇神が四道将軍を派遣して、
本州を一帯を支配していた事を
考古学的に証明しており、
なおかつ、その中に九州の土器がほぼ無い事で、
御馬城崇神が九州に進出できなかった事も
裏付けられたと言えるのである。
それはまた、九州に、御馬城崇神が
進出できない程の
軍事的に強大な勢力があった事を意味し、
ソレが、北部九州の邪馬台国に、
副長官の地位を授けられた纏向の御馬城崇神を
歴史的に決定したと言えるだろう。
>>740 ソレは逆だ。
むしろ筑後川が暴れ川である事を再認識する事で、
奴国から邪馬台国に直接南下できなかった意味を理解する事で、
宇美から水行10日、陸行1ヶ月の意味を
再認識するのである。
>>739 >鉄が国家なりってのは最近の話ね
最近といってもヒッタイトで鉄が使われ始めてからだな。
>>1 な?九州と東北がないだろ?
つまりヤマト王権は日本統一できてない時代ってこと
これだと楽浪郡に渡れない
雄略が統一したのが
生年月日: 西暦418年
死亡日: 西暦479年8月7日
それより前の時代ってこと
弥生時代の超大国の基本条件は、水田稲作の大産地である事である
畿内は弥生時代までは、河内湖・奈良湖という巨大淡水湖が存在していた
後にその水が引いて、平坦で水はけの悪い沖積平野となった
それは天然の水田稲作に最適な土地であり、古墳時代・飛鳥時代へとつながった
しかし、纒向遺跡の時代の畿内はまだ、淡水湖の水が引いておらず、水田稲作の大産地にはなっていなかった
九州に目を転じると、筑後平野の下流域のについては、弥生時代にはまだ有明海の底だった
また、甘木・朝倉地域を含む筑前の国は、弥生時代も広大な平野だったが、江戸時代でさえ、わずか52万石しかなかった
北部九州も、水田稲作の大産地という弥生時代の超大国の基本条件を満たしていなかった
>>743 鉄は国家なりは19世紀の話
あとヒッタイトも滅びたでしょ
そのヒッタイトも滅ぼして鉄を取得したみたいだいし
鉄にも品質があるんだよ
未だに鉄がぁーとか言ってるのは
情報が更新されない老害
>>743 ヒッタイトは鍛鉄とか鋳鉄じゃなくて、
隕鉄を砕いて残りを整形したもの
そのあと紀元前のカタストロフで鉄器は地中海に広がった
スパルタは鉄貨だし、
中華文明では秦と漢の時代に地方では鉄貨
19世紀の話を混同してんだよね
鉄に品質があるとか、少数でも絶対とか思い込んでる
いい加減老害は情報を更新して欲しいわ
世の中研究が進んでるんだよ
中国が北方騎馬民族を嫌ってたように文明が進んでた=強かった訳では無い
邪馬台国は北九州でもいいと思うんだが途中で譚絶したんだ
記紀っていうのは、
神武から続く万世一系の天皇家の
日本統一ストーリーが描かれているのは
誰しもが分かる事で、
逆に言えば、崇神、垂仁、倭姫命の下りは、
吉備の豪族御馬城崇神と、
日向の豪族生目垂仁と、
高良山の豪族の丹波氏の、
3氏族のストーリーを、
一つに繋げて書いてあるのだなと
解釈する事が出来るのである。
>>749
>世の中研究が進んでるんだよ
その通り! 鉄器王国は、「阿波」一択。 @阿波 有明海、筑紫平野が開発されるのは
4世紀になってからだろう。
3世紀ころに吉野ヶ里、鳥栖と
みやま市、大牟田周辺で鉄器武器や
戦争痕が多く出土する。
この時代は多くの戦争が行われていた
ことがうかがえる。
これに決着をつけたのが
景行天皇のモデルとなった筑紫豪族で
長い時間を経て、筑紫平野中央部である
久留米高良山を奪取した。
その後、熊襲などを平らげ九州を統一する。
景行天皇の息子のヤマトタケルが
熊襲を潰し、成務、仲哀、神功皇后は
すべて福岡の話である。
これらの話が、記紀に組み込まれたのだろう。
>>745 ところが稲作の話は魏志倭人伝にほとんど書いてない
『魏志』には、日本人(倭人)の食文化についてこのように書いています。
倭国には良い田んぼが少ないため、海に潜って貝類などの海産物を採って食べていた。
魚やハマグリ、サザエを採取し、男たちは大きな魚や水鳥を追い払うために全身に奇抜な入れ墨をしていた。
>>714 九州山地の話してんの?
奈良盆地はどうなんの?
倭人は長江から日本海まで股に掛けた海洋民族だったという話もあるし
魏志倭人伝だけじゃ語れないんだよね
>>753 いんや
吉野ヶ里はもうすこしはやい
>紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。
頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。
というわけで、箸墓より前
奈良の大神神社が最古の~社のように大嘘を書く者がいるが
大神神社は大己貴神社と書き、筑前町の大神神社は
於保奈牟知神社と延喜式神名帳に記載があるので奈良の
大己貴神社は筑前町の於保奈牟智神社の分社と言う事だ
筑前町に住んでいた北方系民族が奈良に移住して大己貴神社を
作った訳だ
狭穂彦王の乱は投馬国の西都原古墳群の狭穂彦と、
生目古墳群の生目氏との争いであり、
ソレに勝った生目氏が、
邪馬台国の丹波氏の娘、
ヒバヅメノヒメと婚姻して、
邪馬台国の長官に収まって、
その間に生まれた娘の倭姫命を
邪馬台国の女王にしたというのが、
そこから読み取れる生目氏の
九州成り上がり物語である。
>>754
>ところが稲作の話は魏志倭人伝にほとんど書いてない
だから、大洪水などで灌漑稲作は壊滅した と何度言えばw @阿波 >>758
>大神神社は大己貴神社と書き
阿呆玉よ、
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、
この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
これは取りも直さず、文武天皇(七〇二年)の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことを表す。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm >>745 あ、そうだ
きちんと調べてみて
難波津こと大阪から山科までが琵琶湖だから。
大阪平野埋め立てたのは太閤秀吉
そら難波津から上がって熊野まで行ってから、
奈良盆地に落ち着くわけだよ
京都に遷都するのは平安期
弥生時代の佐賀平野になんて住居ない
まず吉野ヶ里の位置から調べて。
ヤマト郡のあたりだから
>>758 なんで北方系なの?
なんで天皇家はモガリするの?
奈良「大神神社」 神社名からして、お粗末。
奈良「大神神社」 神紋(杉)からして、お粗末。
「大御和神社」は鍵紋。 まさに「印鑰大明神」たる由縁。 @阿波
また、生目とヒバヅメノヒメの間に生まれた男子は景行天皇で、
コレが吉備の豪族吉備津彦の娘と婚姻したのが、
纏向と繋がる第二段階であり、
この縁戚を通じて、日向の豪族大和に進出したのが、
第二段階と言えるだろう。
この政権移行に対して、
本州各地で反乱が起こったのが第三段階で、
それを平定しに行ったのが、
景行天皇と吉備津彦の姫との間に生まれた、
倭健命と言う事になる。
ニニギも天照の子孫ではあるけど直系の孫ではないんだよな
バラバラなのをまとめたんだよな
景行天皇には美濃の豪族の姫の間に
男子がいて、こちらの方を跡継ぎにしたので、
吉備津彦の姫との間に生まれた倭健命は、
景行の妹の倭の姫巫女の方に養子に出されてしまったのである。
この倭健命が、丹波氏の支援を得て、
倭の姫巫女助言を貰い、熊襲征伐を行い、
プラス吉備津彦関係の支援を得て、
東征を行ったのが第4段階になる。
>>765
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命・神皇産霊尊・高皇産霊尊
徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。
現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。
ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。 @阿波 日子刺肩別尊の母である意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。弟は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。
日子刺肩別尊は、高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。 @阿波
北九州は鉄器がじゃんすか出て来るのに
真紀無化は土器しか出てこないからな
>>771
>北九州は鉄器がじゃんすか出て来るのに
鉄器王国「阿波」から下賜してやったからな。 @阿波 倭健命と丹波氏と吉備津彦の子孫達は、
日本各地反乱を抑えて、
大和に入ろうとしたが、
その力を恐れた景行によって
大和入りを阻まれてしまったのが第5段階であるが、
それが逆に、纏向をセルフ兵糧攻めにしてしまって、
倭健命が支配した大和以外の日本から、
物資が一切入って来なくなり、
纏向が衰退して、政権は丹波氏の支援する
倭健命の系統に王朝移ったのが第6段階になる。
四国は巨石文明があったかもしれないというムーレベルで我慢してくれ
その後、丹波氏が外戚となって、
力を発揮し、熊襲に攻め込まれて、
仲哀天皇が戦死した危機を乗り切って、
倭の5王の時代へと移行し、
大和政権を確立するのが第7段階である。
コレに奴国王と安曇族の進出と
物部氏の大和天孫降臨を組み合わせたのが
日本の古代史であり、
これらが考古学的発掘をベースににして、
教科書に載せられたときが、
日本の古代史の夜明けとなる。
>>539 大王家なんてものはなくて、
ふわっとした血縁相続の関係性の中で権力争いがあったってことじゃないか?
『日本古代史を科学する』の九州宮崎説はそれなりに納得した。
>>749 鉄器が石器よりも生産性が格段に高いことは変わってないけど
武器としても優れているな
どんな研究が進んで鉄の価値が下がったんだい?
【畿内説は大間違い】
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
謎の水行陸行の箇所は、魏に朝貢に来た倭人から得た最新情報であり、その起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
図解:
帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日数で距離を示した(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国
このスレの1割近く書いてる時点で異常
老害は他にする事ないのかもしれないけど落ち着け
血管切れるぞ
>>681 伊都国パーも宇佐パーも吉野ヶ里パーも
いくらでも湧いてくるよ
パーだから
>>785 だからそれは投馬国が間違いだつってるだろが猿
>>782 間違いだからしなくてよい
そこは投馬国
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の跡
↓これが邪馬台国
>>785 邪馬台国と女王国の関係が変だね
女王国以北の諸国は何処なんだ?
魏志倭人伝が間違いかもと言ってる中国人や台湾人もいるなしな
やっぱり、纏向の方が大きいよね
外来系土器が出た
邪馬台国で間違いない!
↑
頭が飛んでる?
>>795 東海っていっても大概尾張じゃないの?
尾張は昔から大国だし
あそこの土地はチート
畿内説って言ってて恥ずかしくないのかな?
どうかんがえても九州だろ。ヒムカのいたところは。
纏向が3世紀の最大都市で確定でよいのだと思う。
米の生産高、人の動員力、土器その他の文物の流通量などが国内最大。
でも、最大だから邪馬台国だとは限らない。
魏志倭人伝は、「倭人の国は100余り、漢の時代に皇帝に拝謁する者あり。いま魏に通じるは30国」とある。
邪馬台国が帯方に使者を派遣したのは、遼東の公孫が司馬仲達に滅ぼされた年。
公孫にふさがれていた中原へのルートが開けると、すかさず魏の半島出張所である帯方に使者を送ったわけだ。
邪馬台国だけでなく、30国もすばやく魏と連絡をとったということだろう。
半島情勢に敏感な30国がひしめき、そのうちの一つが邪馬台国。
九州勢では?
では、のこりの70国はどうしたのか。
A:漢代に100あった国々は、大和大乱を経て、三国時代には30に統合されていた。
B:すでに呉と通じており、魏には使者を送らなかった。
C:大陸との外交には興味がなかった。
纏向はBかCではないか。
俺は畿内説ではなく北九州かもしれんけど滅ぼされた後に纏向に移った論者だから
どう考えても
壱岐、伊都以降
話を盛った工程でしかないのに
むりやり近畿に話持っていって
大和政権との話の整合性なくしてでも
近畿にしたい 涙目の
自称 研究家のお爺さんたち。。。。
悲惨
>>784 なぜ纏向が衰退してしまったのかを考えた時、
倭健命の大和入りを拒んでしまった事が、
逆に纏向をセルフ兵糧攻めにしてしまったのだなと、
感付く事が歴史を思考する上で重要な事だぞ。
>>804 九州北岸の国名はすべて明示されていて邪馬台国ではない。
邪馬台国は九州だが北九州ではない。
東渡海して倭人の国たくさんだから、九州東岸になる。
>>812 纒向には西日本全域から土器が集まっているが
九州のものは僅かしか無い。
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。
東征も東遷も無い。
纒向遺跡が考古学的に否定した。
>>811 >東渡海して倭人の国たくさんだから、九州東岸になる。
普通の知能のある人ならこれだけで九州だって分かるんだが
畿内説の人は知恵遅ればかりだからなwww
>>814 説明になってないなw
真面な説明も出来ない知恵遅れだな
>>818 説明になってない知恵遅れはお前だ猿
纒向には西日本全域から土器が集まっているが
九州のものは僅かしか無い。
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。
東征も東遷も無い。
纒向遺跡が考古学的に否定した。
>>797 三河の間違いだろ
東海の強さは、三河の強さ
現代においてもな
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
魏志倭人伝の最大の謎は、糸島までが詳細な記録で、邪馬台国に近づくにつれて、なぜかぼんやりおおざっぱな記録になってしまうのかという点。
帯方太守の弓遵が、詔や印綬、そして下賜品を邪馬台国の女王に授けに出向いた記録であるのに、肝心の邪馬台国の位置がわからず、その都の様子すらわからない記録となっている。
なぜだ。
>>823 そこは全然謎じゃない
伊都国にとどまって、以降は倭人からの伝聞で記事を書いたから
帯方太守によって邪馬台国に派遣されたのは、建中校尉。
大事なお使いなのに、報告書がなってない。
>>823 おそらくだけど、女王共立以前は毎回北九州から王が出ていたんだろう。
だから北九州の地理には詳しい。何度も行っているから。
いきなりド田舎の女王を共立するもんだから詳しくない記述になってしまったのでは?
>>826 寝言は寝て言え猿
報告書は素晴らしかった
魏志倭人伝は正確無比
>>823 そこは全然謎じゃない
伊都国にとどまって、以降は倭人からの伝聞で記事を書いたから
東海系土器の代表、S字甕は尾張国から大量に見つかっている。
邪馬台国はもう奈良で決まりなんだよwww
乞食の九州土人はいい加減あきらめろwww
>>819 九州のものは無い。・・・九州との交流がない
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。・・・記紀に書かれている
東征も東遷も無い。・・・結論の連呼だけw
纒向遺跡が考古学的に否定した。・・・証拠示さずw
猿の恵遅れはお前だなwww
>>823 伊都国が目的地で伊都国で卑弥呼と逢ってるからだよ。
>>833 説明になってない知恵遅れはお前だ猿
纒向には西日本全域から土器が集まっているが
九州のものは僅かしか無い。
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。
東征も東遷も無い。
纒向遺跡が考古学的に否定した。
>>823 ソレは読み手がぼんやりしているからで、
投馬国が妻国、都間国であり、
彌彌、彌彌那利が美々津耳川周辺の豪族だから、
投馬国まで水行20日というのは、
宇美から美々津までの行程の事だなと理解すれば、
後は水行10日が宇美から美々津までの半分の距離だなと気付き、
後は陸行1月は、日本の東西5ヶ月行、
南北3ヶ月行で百数十キロだなとなって、
邪馬台国の位置は鮮明に見えて来る事になる。
>>803 漢の時代の100国は、後漢時代のことではなく、漢書地理志からの引用じゃないかな?
そうであれば紀元前のこと
日本列島は数百年かけて小国乱立状態から国が淘汰されていき
3世紀には7万戸だとか5万戸の大国も存在していたということになるだろう
>>828 帝の詔や魏正規軍軍旗を運ぶ大役を賜ったと言うのに、
本店には行かず、糸島出張所のおっさんに渡して帰り、「ずっと南にあるデカい国らしいです」との報告書を提出した。
リーマンのカラ出張もビックリ。
>>833 あのな知恵遅れの猿
征服者でありながら
他の地域の人間は土器を多数持ち込んでいるのに
自分たちの土器はなぜ全然持ち込まなかったのか
合理的な説明をすればいいだけだよウソつきの猿
>>823 倭人からの伝聞を疑わせる日数表記、
一国ではなく領域としか思えないほど大きな戸数、
魏略に記載がないなど
倭国を代表する王都とは思えんよね
たぶん倭国にとって侵略地、植民地、属国に類するものだろうと思うよ
貧しくて未開の九州には文明がなかったので土器が発掘されないんだよwww
>>839 いやウソつきの猿は糞食ってればいいだけだよ
>>838 君は考えが幼稚すぎるなw
文章も日本語として意味が分からんよ
卑弥呼の墓が邪馬台国に作られたとか一言も書いてないよな
>>840 涙拭けよ貧しくて文明のない知恵遅れの猿www
>>823 糸島が出先機関としての機能を果たしてたからそれで十分だったとか?
他に中心部まで魏に把握されると植民地にされる危険性を考えて、敢えて深く交流しなかった可能性もあるのかも
>>842 お前は猿だから考えが幼稚だな
文章も猿語かなんかかそれ?イミフだわw
征服者でありながら
他の地域の人間は土器を多数持ち込んでいるのに
自分たちの土器はなぜ全然持ち込まなかったのか
合理的な説明をすればいいだけだよウソつきの猿
>>836 韓の馬韓が10万戸だから7万戸はそこそこの広さが必要だね。
>>845 妄想は思考とは違うよ猿w
因みに魏からの遣いは二度来ており、二度目は奴国から陸路で御井の邪馬台国まで行っている
距離が放射読みのやつと一万二千余里のヤツと二通りあるのはこれが理由
皇帝が「親魏倭王」の地位を正式に与えるのに、国の位置もわからないのはおかしいと思った。
>>840 九州の土器が発掘されないのは纒向遺跡なんだがw
>>845 3世紀に九州と関西で往来してた形跡なんて皆無なんだよw
糸島が出先機関とかないないwww
>>848 精神病むな猿www
病院へ行けさっさと精神病www
征服者でありながら
他の地域の人間は土器を多数持ち込んでいるのに
自分たちの土器はなぜ全然持ち込まなかったのか
合理的な説明をすればいいだけだよウソつきの猿
逆に畿内の大王墓の副葬品のみ筑紫の痕跡があるって、王者として相応しい気がする
因みに
帯方郡から伊都国まで一万五百里前後
伊都国から陸路で御井まで千里くらい
合わせて一万二千里くらい
ピッタリ
一回目は奴国と邪馬台国との戦乱である倭国大乱が治まったばかりで
陸路は物騒だったから伊都国に止まって倭人からの伝聞を記事にし、
不弥国と奴国は近くだから分遣隊を出した
こう言うことな
九州は貧しい島だったので文明がうまれなかったwww
魏志倭人伝は正確無比
自然な読み方をして、現実の地理とバチバチ合う
ウソつき近畿パーが魏志倭人伝を嫌うのは
当然と言えば当然w
纒向は奈良百済の拠点だった場所
だから朝鮮からの下賜品が出てくる
>>847 そうなんだよ。7万戸は大国。
同時代の中原付近の強国河内でも2万戸だし。
報告書を読む人には、呉との激突時に抑えの兵員を半島に出せる国とうつるサイズ。
先ず纏向の外来土器に九州の土器が
ほぼ全く無い事をどう捉えるかだが、
コレはまず第一には、
「あ、崇神が四道将軍を派遣した範囲に九州が入ってないな」と、
感づかなければいけないのである。
それに気付く事で、
「ああ、日本書紀の崇神の四道将軍の記述は、歴史の事実だったのだな」と
気付く必要がある。
そういう事の積み重ねが、
日本の古代史を紐解いていく上で重要なのである。
ぼんやりしていると、
纏向の外来土器が東海、河内、山陰、近江、吉備、南関東、
それが何?と言うことで御仕舞になってしまうのである。
つうか、晋書に卑弥呼=公孫氏と書いてないか?
漢文読めない?
奈良新聞の記事だからだろうが、纒向(まきむく)遺跡にはフリガナが欲しい
>>860 書いてない。
太伯の後裔とある。
太伯は、周王朝出身で呉の祖。
倭はそもそも呉との関係が深いとみなされていたところ、魏に朝貢してきたから歓待したのかもしれない。
そもそも、魏志倭人伝には
狗邪韓国=金官伽耶、
對海國=対馬国、
一支国=壱岐国、
末廬国 =松浦国、
伊都国=糸島・怡土、
奴国=那の津・那珂、
投馬国=妻・都間国、
邪馬臺国=山門国、
侏儒国=種子国と、
現代まで残る地名が鮮明に記載されており、
コレをぼんやりしているというのは、
明らかに、畿内説のプロパガンダにハマってしまっているのであって、
それ自体がもう畿内説のプロパガンダに気が付けない
ぼんやりさんなのである。
>>864 近畿が関係ないならないで良い
ただこれはあくまで魏との関係だし俺はやっぱりヤマトが引っかかる
>>863 帯方郡の使者が常駐したという「伊都国」(糸島)からの行程がちょっとなあ。
伊都国から、100里の位置に奴国
奴国から東に行くと不弥国
不弥国から南に水行20日で投馬国
さらに南に水行10日+陸行1月で邪馬台国の都
糸島半島から山門郡に行くのに、このルートはない
畿内は関係あるんだよ
どうして畿内に移ったのかが誰も説明できない
土器くらい縄文時代からあるものなので弥生時代は日本全土から
出土しても不思議では無いのに何故朝鮮系奈良土人は大騒ぎを
するんだろうか?
>>867 ソレはアナタがぼんやりしているからで、
近代まで、筑後川を渡河するルートは無かったのだから、
宇佐や大分から日田を回って山門に行くのだなと
理解できるのが歴史の素養がある人間と言えるのである。
>>867 水行とかの記述はおかしい
なんで伊都国まで水行しないんだ?
>>870 糸島→宇佐→大分→日田→山門?
筑紫からいったん九州東岸に出て、陸路突っ切って西岸に行くのか。
遠回りだあな
正しい議論を述べる事を喧嘩というのは間違いだ。
我々は正しい事を理路整然と述べるだけでしかない。
それを理解できるかどうかは読み手の脳の問題で、
それは陳寿も畿内説派に対して感じる事だろうな。
ヤマト政権が畿内で起こってるからな
北九州だと出自が中国でもイスラエルの失われた10支族でも何でもよくなってしまう
だから纏向は出雲国だって。
出雲は日本海沿岸を北上、信濃川経由で関東甲信に勢力を伸ばしている。
>>873 それが近代までのルートであり、
歴史の事実として受け入れるしか
我々には方法が無い。
あたかも古代にまるで現代のように、
筑後川を渡河して山門まで行くような
ルートがあったかのような嘘を付き続けないと成立しない反論は歴史の事実として受け入れる事は有り得ない事を理解してほしいな。
>>871 帯方から伊都国までは、詳細な記述あり。
馬韓から出発し、対馬や壱岐に水行してる。
>>875 だから記紀には天孫族が出雲から政権を簒奪しましたってかいてあるやん
纒向遺跡から出土する外来系土器になぜ九州系の土器が少ないのか?
仮説1:九州はヤマト政権に関心がなかったから
仮説2:九州は中央の政治に参加させてもらえなかったから
北部九州が3世紀前半から畿内文化にどっぷり浸かった状態になってしまうことを考えると仮説1はないかも
配布された銅鏡の大きさによる序列を考えると、仮説2は十分ありえる
ただし、そこそこの規模の古墳であることを考えると、仮説2は微妙
>>877 日田にヤマトゥの都があったとする方が、納得できる。
>>879 その経緯は倭人伝からでもおおよそわかるように思う。
中華皇帝が黄色い旗かなんか贈って、統一に役立てろみたいなこと言ってるじゃん。
もらってしまった以上、東を攻めてみたら、東側諸国も
(自分たちの方が強いようなきがするけど)
中華皇帝が後ろ盾ならあんたが盟主でいいよってことになったんじゃないかな。
で婚姻同盟という流れ。
>>880 纒向遺跡からは北部九州では普通に出土する硯などの文房類や鉄器が出土しない
畿内で文字が普及したり鉄器が普及するのは5世紀から
この時期に神武東征が行われ文明が畿内に流入したものと考えられる。
最初の国生みが淡路島で畿内寄りだし邪馬台国を最初に持ってくると変なんだよな
>>871 伊都国の近くに良港がなかったし
長い航海で早く上陸したかったから
天然の良港の呼子付近に上陸し陸路で卑弥呼の待つ伊都国へ向かった。
九州勢は半島の情勢変化に機敏に対応しなければならなかった。
漢の後裔の魏が半島に押し出てきたのだから、使者を送って挨拶しないわけにはいかない。
まず魏が一気に南下する可能性を考えねばならない。
では、西の纏向勢はどうか。
魏呉蜀三国のうちどこが勝者となるか見極めてから動いた方がよい。
あせって動かねばならない局面ではない。
邪馬台国は九州だよ。
>>880 仮説2が正しいんじゃない?
例えば今だってトルコのEU参加に反対の国もあれば賛成の国もあるように、
出雲にも北部九州と大いに付き合うべしという勢力もあれば反対という勢力もあったと思う。
神武一行はおそらく親北部九州派に招かれて畿内に向かったのだろうが、反対派も強力で、
大和川経由ダメ、紀ノ川経由ダメ、結局昼なお暗い吉野の山中を経由して畿内に入っている。
>>884 九州と近畿の交流が遮断してたとすると地理的要因とは思えない
関門海峡を渡れない訳無いし何か他に理由があるんじゃないか
>>887 オノコロ島は博多湾の能古島のことだよ
能古島⇒御能古島⇒オノコノ島⇒オノコロ島
「の」は古代は「ろ」と言っていた。
邪馬台国は豊の国を含む範囲であるので、
もちろん日田も邪馬台国の一部であるが、
都に相応しい遺跡は無い。
やはり筑後の要害である高良山で、
筑紫の一の宮たる高良大社があり、
麓に卑弥呼の墓に比定できる祇園山古墳があって、
古来より丹波氏の領地たる高良山周辺が
邪馬台国で間違いないだろう。
磐井の乱の際には、この周辺の豪族の
筑紫の君磐井が、
福岡市の糟屋に領地を持っていた事も分かっている。
ここが、古代の北部九州中心地だったのである。
最近読んだ論文だと
「邪馬台国」は後のヤマト王権でもあり畿内にあったが
女王卑弥呼の存する「女国」は北九州にあった
という話だったな
>>892 3世紀当時には北部九州地域は倭人の国、近畿は縄文系の人の国だからな。
完全に魏志倭人伝にある海を渡った東にある倭種の国ってやつだな
ここまで証拠でてるのになぜ邪馬台国みたいなチンケな地方国家にこだわるのか
原始日本国ともいうべき東の倭種の国について真面目に研究しろよ…
>>894 邪馬台国には豊の国を含むし筑後も含んだよ
>>889 >では、西の纏向勢はどうか。
>魏呉蜀三国のうちどこが勝者となるか見極めてから動いた方がよい。
>あせって動かねばならない局面ではない。
畿内から配布されたとみなされている銅鏡に景初三年、景初四年、正始元年の年号が入っていることをどう評価する?
むしろ機敏に対応した証ではないか?
>>864 3世紀の日本なんて不統一で未だ殆どの地域が縄文系の人の世界なんだよな。
>>893 少なくとも西日本一帯に倭という概念がありそこに邪馬台国は飲み込まれた
そうすると淡路島でもオノコロ島でもどっちでもいいような気がする
>>901 景初4年がとても面白い。
大陸情勢に詳しい勢力が、おおざっぱで疎い勢力をだましたようで面白い。
畿内で三角縁神獣鏡の製造工房が出るんじゃないかな。
>>902 銅鐸は中国の銅を輸入して作られていた
銅鐸の鋳型が北部九州地域で見つかっているな
>>880 九州の古墳分布は興味深いことが分かる
九州最初期の物は那珂八幡古墳で畿内の影響の色濃い奴国の領域に出現する
古墳時代に本格的に入ると日向や豊前に代表的な古墳が出現する
そして筑前の古墳は一貴山銚子塚など平原の曽根古墳群から離れたところに現れる
これを簡単に表すと
@畿内の影響が特に強い奴国に最古級の那珂八幡が現れる
A瀬戸内海から九州に至るルートに古墳が現れる
B伊都国を包囲し監視するような位置に出現する
という点が浮き上がる
つまり、畿内から進出してきた勢力の進出ルートに現れている
伊都国の状態などは一大卒に監視されて怯える姿を如実に示しているといえるだろう
なので九州の代表的古墳は畿内の同盟者や派遣された人間のもので九州独自の勢力の存在を示す物ではないと思われる
そのために纏向の祭祀という最重要な行事に九州の人間がいないという事に不思議は無いといえる
>>909 交易で流れていったんだろうな
北部九州と近畿で直接の交流はなかった
>>890 神武天皇は北部九州とは対立してる側でしょ。
北部九州から山陰にいたグループとは異質。
邪馬台国九州説なら宮崎は熊襲側。
邪馬台国機内説でも支援グループは熊野。
いずれも狗奴国と名前が似ているのが興味深い。
吉備は両グループの接点だともいえる。
どちらにつくかが勝敗の帰趨を握る。
日本書紀ですっとぼけているのは
もともとが大陸と対立してたグループであるから。
時代背景的には白村江で対立していたことが生々しい時代。
>>909 交流していたのはハプログループNだろ?
日本の歴史は東西ではなく、南北で見るべきですよ。
縄文土器だって日本海側と太平洋側は全く違う。
太平洋側の縄文土器は非常に簡素な装飾で実利的。
後の弥生土器との類似性が大きい。
>>911 縄文とか弥生とかが交流を疎外する原因になってないな
纏向から九州の遺物が出ないのはその時代は交流が薄かったとも考えられる
纏向はあぶみが出てるから卑弥呼関係ない。
卑弥呼の時代に日本に馬はいなかった。
日本が馬を入れたのは391年の倭・高句麗戦争以降。
倭・高句麗戦争では、倭軍は歩兵しかいなかったことが記録されている。
よって、纏向は卑弥呼の墓ではなく。
400年以降の墓。
>>899 いや広志 邪馬台国ってググったらすぐでてくるやつ
関門海峡を配下に納め。瀬戸内海を制覇しで太平洋側の勢力をまとめたのが神武天皇の物語りでしょ。
南にこだわる理由。
>>908 なるほどね
ただ、関東や北陸からも纏向に人が来てたのに、九州がそこまで虐げられていたとはどうしても思えないんだよな
纒向は邪馬台国ではなく大和王権と関連付けて研究すべきだよなあ
そういう真面目な学者ってどれだけいるんだ
纒向が邪馬台国という説が有力かと思ったらネットだと九州説を主張する人が多くて気になっていたけど、
一昔前は吉野ヶ里なんかが有力って言われてたんだな
>>924 邪馬台国はヤマト王権だったんだよ
その後の中国も魏書の邪馬台国はそうだろうって書いてるし
でも当時の卑弥呼が都する国は北九州にあって
どこどこまで〇里っていうのがそれだけど
水行一月とか長くかかっていく遠い国の記事と混同してるんだよ
>>927 問いで、答えも変わる
Q1:魏に使者を送った人物の支配した土地はどこか?
Q2:魏に使者を送った時代に列島を支配した勢力の本拠地はどこか?
A1:九州の糸島に常時アクセスのある誰か。
A2:畿内。
当時は中央集権ではなかった。
支配とかじゃなく緩い連合国家じゃ無いのかな
九州だけが揉めてて本州の国が邪馬台国にはよどうにかせいやって言ってたとか
>>920 纏向からはベニバナの花粉も出土してたな
ベニバナは3世紀には中国西方に伝わって
日本への伝来は5世紀以後だからな
>>908 大陸の大帝国に常駐された土地「伊都国」をジワジワと畿内勢が囲っていくイメージ。
伊都国付近から直接大陸や半島と結んで、畿内と対抗しようとする勢力がときどき出る。
>>924 下手に邪馬台国を絡めて神学論争になってるから、いったん切り離してヤマト王権として焦点を絞った方が良い
研究が進めば、結果として邪馬台国かどうかわかることだから
邪馬台国と狗奴国は元々揉めてたんじゃ無く
卑弥呼が卑弥弓呼の事が大嫌いだっただけじゃないの?
いまだに
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
自郡至女王國 萬二千餘里
この二つがわざわざ記載されているのに無視する奴がいるんだね
とすれば,非漢人であった彼らに,はたして先祖代々の記録を,きちんと残していたのか,疑問が生じよう。
というのは,一般 に非漢人出自の人々が漢人の名族の出身に仮託することはよく見られる現象であるが,それと は反対に漢人が「本蕃大首領」と自称することは,まずないからである。
邪馬台(ヤマト)国を倒すために集結したのが纏向遺跡の大倭(ダイワ)連合
そんで邪馬台(ヤマト)国を滅ぼして中国から権威づけされてるヤマトをパクって
大倭を大和(ヤマト)と読ませた。
オンドルグループが倭人のフリしたりしてたんじゃないの?
大倭連合の大倭(大和)は
>外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備
とあるようにこれらの国の倭人が集まってできた連合国の総称なので
大日本帝国みたいに大倭帝国って意味合いから来てる。
その初代皇帝(天皇)が神武。
>>943
>外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備
それ全部、「忌部一族(阿波勢力)」が焼いた「東阿波型土器」 @阿波 邪馬台国は豊の国(豊前、豊後)とかは含まない、奴国や伊都国も
邪馬台連合国家ではあっても邪馬台国では無い、邪馬台国は吉野ヶ里を
中心とした近隣にあった三十余国の環濠集落のあった国家の事だ
倭国とは九州島の事を指しており邪馬台国と敵対していた狗奴国も
倭国に入る
>>936
>卑弥呼が卑弥弓呼の事が大嫌いだっただけじゃないの?
兄弟げんかだよ。 @阿波 狗奴国は球磨(きゅうま)かな?
熊襲(くまそ) = 球磨(きゅうま) + 贈於(そお)
らしいからこの九州南部と敵対してたって事だとおもうけど
>>947
>狗奴国は球磨(きゅうま)かな?
阿呆玉よ。 そんなクソ田舎に強大国「狗奴国」があるか! 分をわきまえよ。 @阿波 >>947 最新の隼人研究では
クマソのクマは強さを意味する接頭辞で
曽於地方のみを指すとされてるな
>>598 そうですよ
対馬から壱岐を経由して、朝鮮半島から
大量の半独立政権「帯方郡」の残党が
九州に逃げ込んだんです
だから
238年に司馬懿が遼東公孫氏を皆殺しにした後に、
新たに(帯方郡)太守として司馬懿が派遣した弓遵に
九州の倭國が
天子にお目通りして献上品をささげたいなんつっても
半独立政権「帯方郡」の残党と怪しまれるだけで
取り次ぎなんかしてもらえません
釜山→対馬→隠岐→出雲→奈良説も有力視されているのでこれも考える必要があるな
一大国は隠岐の事だし、伊都国は出雲のことになるし、奴国はどの辺になるんだろうか
>>954
釜山→対馬は、対馬海流に流されて無理。 @阿波 「邪馬台国」のブランド名にあまりこだわらず、先入観なしで調査研究を続けてもらいたい
同時期にすでに日本各地に進んだ都市国家的なものが存在し、「邪馬台国」は、たまたま
そのうちの一つが、記録に残されたにすぎないのではないだろうか
纏向学研究センターのクラウドファウンディングは44人しか支持されていない。
1億分の44だ。
もう畿内説は終わったんだよ。
邪馬台国はヤマト政権で奈良のこと
狗奴国は元々畿内一帯にあった国で芦原中津国のことだろう
>>957 邪馬台国は都市国家的なものではなく都市国の集まった領域国家です
>>958 言ってる事が滅茶苦茶だから一般人には支持されないな
>>908 当時の九州は現代のウイグルみたいなもんだな
文化も宗教も変えられてしまった
植民地みたいなところに倭国王はいません
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に、
司馬 懿に、遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃
その真っ只中の6月に
卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が、劉マの後に帯方郡の太守となった劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送り
8月に、
司馬 懿は、公孫淵を破り、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した
つまり邪馬台国と卑弥呼は、
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】とは無関係と魏に判断されて
魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を許されたわけだ
邪馬台国が奈良とかお目出度いよなw
後漢書では、奴国が倭国代表として漢に朝貢したとある。
魏志でバレるのは、奴国は、邪馬台の配下だった事!
つまり、漢の時代、邪馬台が奴国の裏で倭の覇権を握ってた。
邪馬台の覇権の範囲は、地政学を考えれば、交易(特に鉄)を
独占して、九州のみならず本州にまで及んでいたのは自明。
漢の時代、邪馬台は列島の覇権国だった訳だ。
が、魏誌では、その邪馬台が何故か自ら朝貢してる!!
よく読めば、倭国大乱で邪馬台は負け、覇権放棄の証で女王を
立ててる。(女王=剣を持たぬ王・祀るだけの王)
つまり、列島の新覇権国から、邪馬台が朝貢に出されてる訳だ。
かつて邪馬台が奴国を使ってやってたように。
新覇権国は誰?
そりゃ、邪馬台の交易港(博多)を牛耳る大倭(!)でしょ。
大倭は、正体を偽装し、魏への説明でぼやかしてる本州の状況、
その中に自らの所在地を隠している。
大倭(ダイワ)とは、後の大和(ダイワ・やまと)だわな。
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃
その真っ只中の6月に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、太守の劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送る
その後8月に
司馬 懿は、公孫淵を破り、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した
つまり、朝鮮半島で戦闘中の魏の軍勢は
始めて聞く倭國の邪馬台国とその女王卑弥呼のことを
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州の漢委奴国王の倭奴國とは無関係と判断して
魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を許したわけだ
>>964 つづき
そして新たに(帯方郡)太守となった弓遵が240年に
建中校尉梯儁等を邪馬台国に派遣してみたら
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して
九州ではなく山陰に上陸し、
出雲まで、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩かされる
マジで、公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州とは無関係の畿内の倭國だった
>>965 ;h=402&auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&q=45&fit=crop&bg=FFFFFF&ixlib=js-1.4.1&s=0944a45f8586c9b26f1389f9fd79c614
若狭湾より上陸して琵琶湖経由で畿内に入る方が楽
それに、若狭湾〜能登半島のエリアは渡来人が多い地域
渡来人の上陸拠点だったから渡来人が多い地域になったのだろう
>>128 『肥前国風土記』に大山田姫という女土蜘蛛が出てくる
後はお前らに任せた
>>966 その後、公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州の倭奴國の漢委奴国王は
出雲を併合して山陰から
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して
朝鮮半島に渡り、親魏倭王となった畿内の卑弥呼と対立して戦争となり
九州から東征して畿内を制圧したからだよ
>>968 公孫淵が燕王を名乗り魏から独立したのはたった2年間だけ。
237年に独立し卑弥呼の使いが帯方郡に挨拶に来た238年に滅亡してる。
236年までは単なる魏の配下の家臣だよ。
立派な遺跡だが邪馬台国ではない
邪馬台国にさして価値もない
そもそも邪馬台ってヤマタイじゃなくヤマトと読んだんじゃないのか?
世界的に見ると、最近のアジアでは南シナ海文化圏(紀元前500−紀元後200年)の
考古学研究が凄く盛んになってる。
一方で、日本を含む北東アジアは邪馬台国論争を見る限り、停滞してるとしか見えな
い。
日本は海を渡って移住してきた者達の国に過ぎないのに、邪馬台国を日本文明の発生
拠点とか考えるから、ゴチャゴチャ争うことになるんじゃ?。邪馬台国は渡来人が最
初に作ったある程度の規模のコロニーに過ぎない。そこを出発点、あるいは発射台と
して各地に移住し、勢力を広げていっただけ。九州にしろ、畿内にしろ、遺跡から出
るのは中国、朝鮮、東南アジアから来たものばかりだろ。
ここで一度、紀元後200年前後の日本の南シナ海文化圏との関りも検討して良いんじゃ
ないか?
>>971 倭国というのは中国から見た国
日本というのは日本側の国
しかも中国人は広大な自国領土の統治で手一杯で国外の事には関心が無いので適当な事しか書いてないし
古い伝説伝承と事実の切り分けしかできてない
北九州から沖縄に行くより大阪堺港に行く方が楽だろ
100万円と休日をくれれば手漕ぎ船で大阪堺に行くが
沖縄は現在のナビが無ければ1億円貰っても俺は行かない。
狗邪韓国(釜山)→對馬国(対馬)→一大国(隠岐)→末廬国(米子市)
→伊都国(鳥取市)→奴国(豊岡市)→不弥国(福知山市)
→投馬国(京都市)→邪馬台国(桜井市)
これが邪馬台国奈良説の最終決定版だな
>>979
>狗邪韓国(釜山)→對馬国(対馬)
対馬海流に流されて、対馬に着けない。 無理。 @阿波 >>980 日本海流は西→東に流れているので漕がなくても東に行ってしまう
>>981
だから、対馬海流に流されて、対馬に着けない。 無理。 @阿波 >>980 対馬海流は西→東に流れているので漕がなくても東に行ってしまう
>>983
だから、対馬海流に流されて、対馬に着けない。 無理。 @阿波 >>976 悪いが形は定型だわな。
東アジアの青銅ないし銅文明は型にはまってる。
同時代の滇王国の青銅文明のデザインの多彩さと
対照的だ。
>>103 難波津、住吉津は朝廷の玄関になってて上町台地に
仁徳天皇が難波高津宮
孝徳天皇が難波長柄豊碕宮
聖武天皇が難波宮
をみやこにして生國魂神社、坐摩神社、住吉大社、四天王寺とかもあった。
桓武天皇が難波宮を解体して難波宮の大極殿などを長岡宮に移築して
その後、平安時代になってから上町台地の辺りは
嵯峨源氏源融流の渡辺氏(渡辺党)が本拠地にするようになって渡辺津が栄えてた。
>>979
>狗邪韓国(釜山)→對馬国(対馬)
対馬海流に流されて、対馬に着けない。 無理。
だから、狗邪韓国順天)あたりから出航した。 @阿波 狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの朝鮮半島着岸地である。 @阿波
>>863 それ凄く良い線だけど最後の侏儒国が違う
侏儒国は高知西部の幡多地方
>>863
末廬国 =福津市辺り・万津浦 わははははは @阿波 >>991
そう言うお前はNGにしないで、よく見てるな。 わははははは @阿波 >>863 魏志倭人伝の記述からの推定
狗邪韓国=巨済島
對馬國=対馬市
一支国=壱岐市
末廬国 =松浦市、糸島市西部
伊都国=糸島市南東部
奴国=早良区南部・那珂川市、春日市
不弥国=早良区北部
投馬国=朝鮮半島南部
邪馬壹国=北部九州地域
倭種=山口県
侏儒国=四国
>>971
>倭国と日本国で、なんで分かれているんだろう。
8世紀奈良遷都まえが倭国(阿波)
8世紀奈良遷都以降が日本国 @阿波 >>998 ほとんど間違いだな
ワロタ
はい、論破w
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