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【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 ★6 [樽悶★]YouTube動画>2本 ->画像>22枚
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考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)
江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半〜248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2〜3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4〜23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19〜26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/ 2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70 ★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
http://2chb.net/r/newsplus/1626093787/ 【補陀落渡海】
・仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。
南方に在る浄土の地とは、ファンタジー・邪馬台国だったのか?
佳子さまをアマテラス1世として第二次邪馬台国として高千穂で神権政治を行う事にしました
こいつ元々から畿内説唱えてるやつやんけ
色眼鏡で見てるから信用できんわ
卑弥呼は天照大御神のモデル
天照大御神じたいは元からいたが
卑弥呼の逸話がプラスされて
new天照大御神として習合、記紀に残され書かれた
そして、ヤマト王権の礎を作ったのは
天照大御神の子孫であるイワレヒコこと神武天皇
卑弥呼の邪馬台国を権威や国名さえも
イワレヒコが継承したのだ(東遷ではなく!)
俺の「邪馬台国 継承説」爆誕中!!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
アフー知恵ぬくろに、こんな質問があった
>昔の中国の国名
>
>何故、同じ名前が何度も出てくるのでしょう?
>例えば、魏なら、春秋戦国時代、三国時代、南北時代など
そう「邪馬台国 継承説」とはこういうことである
古代中国の真似をして、国名を再利用した
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
もう答えでちゃったねw
637 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/13(火) 11:55:44.77 ID:EYApAmaG0
北九州の宗像以西 卑弥呼の支配域 ヤマイチ、ヤマイツ国
↓
北九州の宗像以東 大国主の支配域 ヤマタイ、ヤマダイ国
↓
卑弥呼の継承国 俗に言う畿内ヤマト王権 ヤマアト、ヤマト国
もう結論出てるのねw
639 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/13(火) 11:59:27.69 ID:EYApAmaG0
卑弥呼の支配域国 ヤマの斎(イツ)国
大国主の支配域国 ヤマの大(タイ)国
卑弥呼の斎国を継承した ヤマの跡(アト)国
もう結論出てるのねw
邪馬台国も卑弥呼も中国人による当て字だからね
「ヤマタイ」はおそらく「ヤマト」を音で充てたんだろうと想像できるけどね
「ヒミコ」もシャーマンだから日(ヒ) 巫女(ミコ)、御子(ミコ)、神子(ミコ)みたいな意味だったところを中国側が勝手に卑弥呼と当て字を充てた事まではわかってるんだけどね
ヤマトもたぶん福岡の山門地方の事だよ
古代日本人、当時的には
倭 = 山跡 = 山は邪麻、跡は止 と発音する
>日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。m倭意未詳。
或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云【山跡】。
山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。
故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。
>>10 new天照大神の前に『天照御魂神』がおわしました。天照国照天火明命(天火明命)説・天照大神説・天日神命説。
>>12 ピーミーフーに相当する当時の日本語は何だったのか
ヤマトィに相当する当時の日本語を今の発音に直すとどうなるか
なんであった事前提なの?無かったかもしれんだろ。
中国の一冊の歴史書にしか出てこないんだろ?年代ごとの歴史書に頻繁にでてくるならまだしも
>渡海だろ。
いや、沿岸水行だ。 だから没。 ちなみに渡海は、絶海を渡ること。 @阿波
福岡が有力かなとじゃ思うけど
お調子者の福岡人が図に乗るのはシャクなので却下w
ヤマトが邪馬臺って当て字だったんじゃないの?
しかし大和をヤマトって読むのは?だな。
普通に大和をヤマトなんて読む要素がないのにヤマト。
九州確定だな
https://www.asahi.com/articles/ASP7B75J6P7BTTHB00K.html 佐賀市教育委員会は9日、同市の七ケ瀬(しちがせ)遺跡で確認された弥生時代後期(1〜2世紀ごろ)の集団墓地の甕棺(かめかん)や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉(まがたま)が出土した、と発表した。
「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。
>>24 日本人はヤマトのことを
夜麻登、野麻登、椰麼等、夜麻苔、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡
などと表記してたのに、いつから「倭」と書いてヤマトと読むようになったんだろうな
>>12 ミコ説は無理。文法的に不可能。
他国の王や各クニの長官の多くが、今の音で「○○ヒコ」
=お日様の息子なので、それとの対比で考えればすぐわかる。
卑彌呼(ピミク)=今の音でヒメコ(お日様の娘)
ヒメコを略してヒメだわ
卑彌弓呼(ピミkク)=今の音でヒメヶコ
=ヒメの子=女王から位を継いだ息子(男王) てな具合だ。
燕王公孫淵が呆気なく司馬懿に滅ぼされたと聞いて邪馬台国の首領は震え上がっただろうな
>>29 倭国まで連絡が行く前に洛陽まで連れて行かれてそう
で、金印と銅鏡100枚貰って帰って来た時に燕王滅亡してたわーと事後報告したと見た
>>25 ちがう。
大倭→大和
魏志倭人伝に出て来る、博多港を牛耳る謎の存在だ。
邪馬台は倭国大乱に負けて覇権放棄を飲まされてる。
その証として女王(=剣を持たぬ王)を立ててる。
ということは、大倭が大乱の勝者だと透けて見える。
倭国の大部分を手中に収めたので、大倭を名乗ったんだろ。
女王共立とか言ってるのは、魏への都合の良い説明であって、
実態は上記。 日本の学者たちのナイーブな説を信じちゃいけない。
>>14 邪馬台国にたどり着くまでの魏志倭人伝の記述を引用してくれ。
瀬戸内海と照らし合わせていこうではないか
卑弥呼は超美人のお姉さん。
そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。
邪馬台国は無かった説が一番腑に落ちるけどな
小さい国がいくつもあって、当時は統一国家はまだ出来てなかった
卑弥呼もいなかった
畿内説は神武天皇の東征伝承と辻褄が合わないんだよなぁ
燕国,秦国,魯国,魏国,呉国,隋国,前漢国,後漢国,北斉国,燕相国,周国
唐人,長安人,漢城人,西漢人
韓国,弓月国
百済国
高句麗国,高麗国,高麗帯方国,狛国
新羅国
任那国,御間名国,弥麻奈国
『新撰姓氏録』に見える国名
>>34
残念ながら、「阿波」にあったんだよ。 ごめんな。 @阿波 邪馬台国はどう考えても九州
畿内説を唱えている奴らはなかよし学級の卒業生
「邪」も「卑」も「倭」も全部中国側からみた日本人を蔑んだ当て字というのがシャクにさわるよな
まぁ九州なのは確定で、畿内説がどんな珍論を出してくるかを楽しむスレ
当時、九州にも近畿にも大がかりな遺跡が見つかっているのに何をもって近畿とかw
>>40 東夷だから仕方無い、通称魏志倭人伝も正式には東夷伝倭人の条だから
>>31 そのような土人がつけた博多のような当て字では無く、好古都もしくは覇家台。
中華も一目を置く名称だ。
>>40 でも倭人の倭って大陸の少数民族のワ族ぽくね
>>27 邪馬台国(ヤマト国)を倒した時じゃないの?
邪馬台国の後にヤマト王権が成立してるから
大陸との繋がりがあった邪馬台国(ヤマト国)をそのまま名乗った。
邪馬台国を倒すために近畿を中心とした倭の連合組織が大倭
後の時代になって都合が悪いので無理矢理ヤマトと読ませた。
日本もヤマトと読む
日本武尊でヤマトタケル、無理ある。武尊もクマソタケルからパクったし。
もともとヒノモトって国で邪馬台国(ヤマト国)潰してパクった。
7世紀の白村江の戦いで大陸との繋がりを無くしたから
もとの日本という国号に戻した。
川上・七ガ瀬ショックで、
大和説も畿内説も、終了、終了・・、
正月のBS-NHKの邪馬台国スペシャルで言ってたけど、
当時の中国では、南に行くほど、
男女比で女が多くなって行くと考えられてて、
一番南には、男がいなくなって女だけの「女人国」があると考えられてたらしい。
史記や三国志は中国国内のことは正確に書いているが、
中国外のことは、かなりいい加減に書いてるみたいだな。
倭人伝も話し半分どころか、話十分の一くらいだろな。
ヤマトは小中華思想を取り入れた土人である。
中華思想に習い、中央から離れた地域を蝦夷 熊襲 隼人のように呼んでいたしな。
近畿にはもうすでに沢山の世界遺産があるじゃん
邪馬台国ぐらい九州に華持たせてよ
>>36 陳国が抜けてるな。
明らかに西洋人らしき人も
>>37 阿波にも国はあったが、他にもあった
邪馬台国は無かったけど
エセ秦氏、エセ漢氏が主張するファンタジーが多いよな
皇統として神武から始まるけど最初のなんだいかは血は繋がりないよね。名前も日本ぽくない。
🇩🇪👴「Geruch Geruch...」
👑👱🇯🇵「この者は何と申しておるのじゃ?」
(香りがする/におふぅ申しておるのか…)
↓
とか?🤔
古事記と日本書紀なんて藤原一族の創作だから
あてにすんなよ
>>50 入植した欧米人がネイティブ人種を…
(肌の色による人種差別)
どこぞの国ががウイグル人を支配…
(自治区と言いながら自治させていない)
九州? いらんな 阿倍麻呂サンが唐代に持ち帰った中国地名のパクりだし
シュメールの子孫ではなく
日本の皇族がスメル人としてメソポタミア文明で活躍したが最近の定説です
現代なら中国人にこのクニの名前は何だと聞かれたら、ヤマったいと方言で九州人なら絶対答えるw
>>35 バッチリ辻褄が合うじゃん。
3世紀に起きた出来事。
・近畿で盛んに製造されていた銅鐸が3世紀に突然製造されなくなった。
・倭国大乱の後に卑弥呼が統合の象徴として即位した。
・邪馬台国と交流のあった公孫淵の遼東が魏によって滅ぼされた。
邪馬台国は大和に遷都したんだよ。
>>60 そもそも中華もゲルマンも同じような土人じゃね
藤原が蘇我氏の歴史を全て葬ったから
日本の歴史なんてわかるわけがない
>>49 あの番組で、他の時代やってる学者だと思うんだけど、
司会の横に居た人が、邪馬台の時代やってる学者たちが、
邪馬台は連合国家とか言ってることに対して
「みなさん紳士でいらっしゃる」
完全に馬鹿にしててワロタw
俺も日頃、「女王共立」と書いてあるから連合国家だ、
という話は噴飯ものと思っていたので、何と云うか、
我が意を得たりだったわ。
邪馬台国がヤマトとなってその後の朝廷に繋がるわけだろ
朝廷は連綿と畿内にあり続けたわけだから深く考えることなく大和だろ
>>57 名前は8世紀になって淡海三船が漢風に名付けただけなので
神武なんかヒコホホデミ(幼名サノ)やで
綏靖はようわからんけどヌナカワミミとかそんなん
畿内にあったのはもともと大和朝廷だよ 神武朝が九州宮崎鹿児島が不況不作の大地となりBC80年に関西畿内に上陸 それから何代にも渡り地方豪族と掛け合わせ戦わすして強大国家が形成されていきました。
大和朝廷は、全く入墨も入れてませんし
朝貢もおこなっていません
ですから神武朝には卑弥呼もいないしトヨもいません
日本が変なネズミに乗っ取られたから、辛うじて海人の血と繋がってた継体朝がネズミを熨してやったよ。
>>71 それは
卑彌弓呼 の方 =ヒメッコ or ヒメヶコ (今の音で)
まさに姫の子(息子)。
※ ヒメコ=お日さまの娘 → 略して ヒメ
同様の略し方の例:
をとこ(若つ子)・・・ 元来、若い男性の意味。
をとめ(若つ女)
むすこ(産す子)
むすめ(産す女)
邪馬台国があった当時、日本領任那国は存在したのか?
邪馬台国は何処かに敗れた?
敗れた国がヤマト王権として全国を制覇した?
そもそも魏志倭人伝の真偽は?
史記ほどの正確性には欠ける。
古事記はどうかと思うが、日本書紀はある程度正しい。日本書紀は邪馬台国に値するような国を言及しているのか?
大和に辿り着くには、出雲の国、吉備の国など実在の国の記述がなさ過ぎでは?
そうであれば、邪馬台国とはただ九州地方の出来事を記したのが魏志倭人伝では?
邪馬台国は大和であってほしい
その当時、すでに中央集権国家が存在したと思うから
他国を併合してデカイ国になるには日本の中央に位置しないと地理的に無理
九州の豪族が日本各地を鎮圧して勢力伸ばすことは考えられない
九州から出ても全国を見渡せる大和に居住したろう
さすがは時代遅れ小小中華思想のヤマトさんですな(笑)
本居宣長「邪馬台国は朝廷を騙った熊本の豪族だわ」
江戸時代から邪馬台国は九州が通説だぞ。
畿内説なんて補助金目当ての卑しい関西人の戯言だろ。
>>81 願望で歴史が語れるのは邪道だろう。
先ずは箸墓古墳を調査するしかないのでは?
邪馬台国とは実は小さな国だったのでは?
シャーマンが収められる国
そんなレベルでヤマト王権が収められるとは到底思えない。
>>6 皇室に1番近い男系子孫の1つが高千穂神社の高千穂家
東山天皇の子孫で今上天皇と10代くらいしか離れてない(旧皇族は25代くらい離れてる)
家祖は後伏見天皇の皇子で(初代伏見宮は後伏見天皇の曾孫)
藤原氏の地明院家から養子が入ったあと東山天皇の子孫の鷹司熙通が養子になって
再度藤原氏の滋野井家から養子が入ったあと東山天皇の子孫の徳大寺実麿が養子になって今に続く
>>81 崇神の時に東西に四道将軍を派遣してる
その頃の畿内ヤマトの勢力圏はせいぜい奈良伊勢東海くらいだったのを
西は吉備丹波但馬あたり、東は会津くらいまで侵攻したかも
九州と大和が戦って九州が勝てるとは思えない
大和は本州全土からの兵士を集結
しかし九州は九州全土しかない
逃げ場もない
大和に参りました、するしかない
古事記日本書紀見ても邪馬台国の事なんぞ一言も書かれてないが
関西のわけない
>>24 昔は日本と書いてヤマトと呼んでたこともある
倭の五王は朝貢勢力のくせに金印ひとつ貰えなかった雑魚らしいしな
お前らが銅鐸とか言ってるの、あれ大砲だから。
大口径砲を作れる大和が九州を圧倒して支配下に置いてたんだよ。
>>88 と言う事はだ。
邪馬台国が負けた国とは、隼人の人々か、ヤマト王権に破れたのでは?
イト壱与?が後継?
女帝が2代続いたヤマト王権?考えられぬ。
九州の邪馬台国(山門)が勢力拡大して東に移って大和やろ
普通に考えて
嫁の数とか黥面 からみ特に つまり文化面に関しては
中華思想入りまくりだから、まったく信用したらだめだよw
始めから嘘八百
卑弥呼はあの中国と交渉できた人物
中国がいかに強大かを知っていたろうし
優秀な官僚を多く抱えていただろう
卑弥呼は政治家なんだよ
>>67 スメル人と日本人の親和性を見つけたのは出島に来ていたドイツ人の
ケッペルでした それから大正時代に三島先生がスメル スメラミコトの関係性について書きました
日本ではその本が飛ぶように売れました
始めての世界文明と日本文明がほぼほぼ共通していること
日本文明を基礎として全ての宗教 科学 発酵食品 天文学が形成されている事が書かれていました
戦後アメリカはこの説を恐れ焚書扱いにしました。
そしてスメルだと天皇家と共通するのでシュメールと文字を変えて結びつきを断とうとやっきになりました
最近九州や山口を中心にシュメール文字が書かれた岩が出て来ており
それも神社の御神体にスメル語で書かれた岩が大量に発見されました
これをどう解釈するかが今後の私達にかかっています
>>81
>九州から出ても全国を見渡せる大和に居住したろう
奈良盆地は最低最悪の土地だ。 墓地ぐらいにしか使い道がない。 @阿波 >>56 天理スタミナラーメンの悪口はそこまでだ!
妄想が妄想を産んで倭人伝の記載から大きく逸脱している
もう一度倭人伝を読み直せば邪馬台国畿内説など
あり得ない事が判る
日本武尊命が山門八女の兵力を率いたら
余裕で本州制圧できましたって、
記紀に書いてあります。
邪馬台国や卑弥呼は中国の書で記されてるだけだからね
日本の国造りには古代の神社に祀られてる神様が関わっている
ここに関係のない地域はそもそも候補地にもならない
>>105 日本が金属器を使い始めるのはシュメールに遅れること数千年だ
>>105 私もスメル文明なんて最古の文明で
宗教の大本ですから信じられませんでした
最近焚書扱いされていた文献が手に入りましたので読んでいるところです
それから岩刻の件は 私の母校の英語の先生が有名な方で 本を何冊も出されています 吉田さんと言います
彦島 宇佐神宮には間違いなくシュメールがありましたよ
ヤマト王権は2世紀後半、ヒミコの推戴をもって始まった。
ヒミコ(陽巫女)は天照大御神のモデルであり、ゆえに皇室は天照大御神を祖先神とし、歴代
天皇はヒミコの後継者として、シャーマンとしての役割を代々継承してきたのである。
父系社会が強まっていく時代の圧力に抗して、女神を祖先神としたのは強力なパワーをもった
女性が皇室祖先として存在したことを示唆しており、それはヒミコ以外にありえない
稲荷山古墳出土鉄剣によると、
雄略天皇の時代には関東から東まではヤマト王権が制覇していたのは確実。
西暦418年御生れとなると、西暦250年前後、420-250=160〜170年
1つの王権が30年位として6-7代前?
仲哀天皇はほほ実在。
やはり卑弥呼と邪馬台国は九州地方の一地方の物語なのでは?
女帝が当てはまらない。武の権力の時代にシャーマン王権? 次も女帝?
ヤマト王権とはとても考えられない。
神武天皇だって実在してるよ
年代や業績がその通りだったか はともかくな
>>103 堺を港にし金剛山地を砦に奈良に都を築く
天然の要塞じゃね?
>>77 何か俺の習った日本史と違うのだがw
戦前の国史と比較しても、神武朝とやらの年代が500年新しくなってるし、そもそも紀元前に遡る宮殿跡は何処にあるの?
橿原神宮造営時に張り切って発掘調査したけど、あの辺りは紀元前には湿地帯で、集落跡さえ出なかったぜww
>>115 実在するわけないだろ
史記で初代皇帝として架空の黄帝を置いたように、日本書紀でも架空の神武天皇を置いただけ
卑弥呼を天照大御神とすればだいたい記紀と整合性とれるだろ
そもそも畿内と邪馬台国は別勢力だが、両国統合を円滑に行うための同祖論を持ち出しただけ
そもそもさぁ、大和説における邪馬台国王都の有力候補地が纒向遺跡な訳だろ?
九州説での候補地は何処なのよ?
そいつが発見されない限り、大和説の優位性は揺るがないんじゃないの?
>>122 整合性なんてまったく取れねぇよ
そんなもん総合性が取れたら何百年論争しても解決しないなんて現状になるか
つーか記紀も三国史も読んだことないだろお前
>>101 時間軸が合いませんね。
シュメールは実在のウル王朝でさえBC2000は行く。
その頃の鉄剣、白内障の手術記録などが日本書紀、古事記にあれば認めますがね。
邪馬台国も九州の一部族の物語でしょう。
シャーマンで王権は創れない。
>>121 継体以降はともかく、それ以前の大王位が一系というのは完全なフィクションに過ぎないから、問題にもならない
>>126 例えばそれが特定の人物ではなく国家や民族や一族のことを指しているとしたら?
>>24 文字の無い時代の日本側は自分達の地を「やまと」と称した
大陸人は日本列島を倭と称した
日本に漢字が伝わり、じゃあ「やまと」を漢字で表すのに「倭」でいいじゃんと日本側
しかし「倭」という漢字は縁起がわるい そこで同音の「和」にした
「和」一字だけでは少々寂しい じゃあ「大」をつけるかとなった
それで「大和」になり ここで「やまと」を漢字で表す時は「大和」となった
日本人が自分達の地をどういう理由で「やまと」と称したかは色々説があって定かではない
烏帽子はサカのとんがり帽子にそっくり
とんがり帽子を被った髭もじゃでワンピースに腰ベルトの服装の埴輪が見つかっている
ラテン語では人を示す単語にイをつける
ラテン語でサカイはサカの人と意味
アサカは聖なる人という意味、サカ族の国家名、民族名そのものらしい
堺にはアサカの地名が残っている
オスのニワトリの頭にある赤いやつ、元はサカと呼ばれていた
今でもトサカのことを烏帽子と呼ぶ地方もある
烏帽子とサカ、何か関係があるかも
>>114
>雄略天皇の時代には関東から東まではヤマト王権が制覇していたのは確実。
「忌部一族(阿波勢力)」だ。 @阿波 >>123 纒向を掘り尽くした纒向の研究者が、考古学的根拠を元に纒向は邪馬台国ではないと断言している
スメル文明で話がそれましたが
本題に戻しますね
最近 古代中国語で読む魏志倭人伝という本がありまして 中島証文さんという方が書かれてます
かなりの歴史家や小説家の著名人の方が、古代中国語を無視して解釈しているので大きな間違いを侵しているとのことです
水行の定義ですが、川に限定で土手を歩くとのことです。
みんな海を渡らせていませんか?(笑)
邪馬台国は間違いなく福岡南部です
それから海人族ですから入墨を入れています
また卑弥呼は奴隷を朝貢していました
天照大神と卑弥呼は全く別人です
それから残念ですが邪馬台国は東征はしておりません
なぜなら神功皇后期までには邪馬台国の大半は土蜘蛛征伐で殺されました
邪馬台国が治めていた百済新羅日本府
に大和朝廷が攻め入るからです
邪馬台国を無実の罪で滅ぼしたとは
大和朝廷も流石に言えず神社を作り
上宮下宮にヒメ大神を祀っています
でも結局これで良かったのです
大和朝廷はシナに一度も朝貢してませんし立派な天皇陵も作られした
感謝感謝です
今神武朝の前のウガヤフキアエズ朝も
研究したら面白いですよ
>>123 九州説の場合、遺跡が発見されてないだけだという言い訳を延々と続けるんでしょ
数字は単なる目安として応神を400年で固定して20年ごとに区切ってるだけだが
おおよそのイメージは掴めると思う
400 応神 ←倭の五王 讃か?
380 仲哀(神功) ←三韓征伐
360 成務
340 景行 ←九州侵攻
320 垂仁
300 崇神 ←箸墓古墳、四道将軍を東西に派遣
280 開化
260 孝元 ←台与、モモソの時代
240 孝霊 ←卑弥呼死亡(248年)
220 考案
200 考昭
180 懿徳 ← 卑弥呼が20歳で共立されたなら190年頃か
160 安寧 ← 卑弥呼が仮に80歳で死んだなら170年頃誕生か
140 綏靖 ← 146-189年頃、倭国大乱、後継者争い勃発
120 神武 ← 神武一族が東に放浪開始
107 倭面土国王帥升 ←これ九州ヤマトだろ
*57 漢委奴国
>>117
それを、最低最悪の土地と言うのだ。 @阿波 継体朝で糟屋屯倉の本拠地を取り戻したからな。
そもそも内陸部は必要の無い土地だ。
馬鹿だしな
>>124 整合性なんて記紀の中でさえとれていない
創世神話から天孫降臨あたりなんかいろんな氏族を統合するためのでっち上げだから
卑弥呼が天照で、その子孫の神武が九州から畿内に入って両国が統合される、つまり邪馬台国は九州じゃないと話が合わない
>>128 その時々の有力部族の王が大王位に就いたことを表現しているとしたら、まさに事実通りなんだろうけど、一所懸命系図を改竄して万世一系を創造した記紀編纂者の努力は無駄になるなw
>>100 交渉なんかしてない。頼むからせめて倭人伝だけでも読んでから書き込んで
日印協会の講演会の抜粋
インド亜大陸のほぼ中央、マールワーの丘陵地帯のひとつサーンチー丘に、前 3 世紀アショーカ王が建立した仏舎利塔(ストゥーパ)を、前 2 世紀に直径をほぼ 2 倍に増広した塔と周囲の僧院跡が遺っています。
舎利塔とは、釈尊が亡くなったあと信者がその遺骨を納めて建立した、基壇上に覆鉢を置き頂上に傘を立てた巨大建造物です。
以後仏教教団の中心をなし、仏教が異文化圏に展開する場合の先兵のような役目をになった礼拝対象で、その起源には先住ドラヴィダ文化の樹神信仰も濃厚に関わっています。
時代と地域を経て法隆寺などに見られる五重塔や三重塔に変容してきたものです。
サーンチー大塔の北門の西柱に、完成した塔と上空を飛ぶ半鳥半神、その前で祝賀する一群の人物の彫刻があります。
13 人の群像の一人はとんがり帽子とワンピース風の服にベルト、すねに紐でまきつけた布という典型的な中央アジア騎馬民族で、一つの吹き口に二本のたて笛がつく逆V字型の笛を吹いているのが特徴的です。
その顔はなぜかしわが深く、目が落ちくぼんでいる点が他の人物とまったくちがっている不思議な存在です。
とんがり帽子の騎馬民族は、前 5 世紀のペルシア碑文やギリシア歴史書に出てくる、戦闘と交易に長けた中央アジアの移動民で、
前 2 世紀ごろからインドに進入、インダス水系のガンダーラ、ガンジス水系のマトゥラー、西海岸地帯などに政権を持ったサカ族で、イラン系の民族と思われています。
彼らが紀元前から仏教を信奉したことを物語る碑文や彫刻など、いくつかの痕跡がインド各地に遺されています。
>>133 纒向遺跡発掘割合は5パーセント程度なんだけど
サカの服装は平安時代の烏帽子に狩衣姿にそっくりなんだよな
鷹狩りの埴輪も見つかっているから古墳時代には既に鷹狩りはあったようだ
>>145
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 >>136 未だに邪馬台国王都に相応しい3世紀の遺跡が一切発見されないって事実から、元々そんなものは存在しないという結論を導き出すのが合理的思考だと思うのだがな
>>137 応神、仁徳天皇辺りを400年で固定するのはいかがなものでしょう?
雄略天皇が479没なのに。
>>146 古代の歴史書は聖書もヒストリアも史記も記紀も皆架空の存在を始祖に置いている
チミはノータリンだから知らないだろうけど
>>134 北部九州と大和の地名の一致はどういうこと?
>>145 掘れば掘るほど邪馬台国ではない証拠が出てくる
纏向は崇神朝の王都なのだから、
別の邪馬台国の都を探さないといけないぞ。
「やまと」
自分達の民族を「やまと」と称したのか
土地(当時の日本列島)を「やまと」と称したのか
その両方を「やまと」と称したのか これも諸説あって定かではないな
>>133 関川の説は編年が余りにもおかしいから他の考古学者にまったく相手にされてないだろ
邪馬台国どうこうの話じゃなく、日本の古代史を根本的に否定してるようなもの
サカ族は中国でいは塞
日本の塞の神はクナトの神
延喜式の道饗祭に、八衢彦、八衢姫、クナトが登場する
出雲地方の伝承によればサルタヒコは出雲の姫神の幸神と東から来て文物をもたらしたクナトの神の子
記紀によればサルタヒコが発見されたのは天の八衢
八衢は道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違幸大神が祀られている
伊勢でサルタヒコに関係するのが
阿射加神社、大阿坂、小阿坂
上町台地〜泉北丘陵
大阪オオサカ、浅香アサカ、小阪コサカが並んでいる
サカ、塞、クナト、八衢、アサカ、烏帽子、鳥
全部繋がるのだ
偶然にしろ興味深い
>>139 まあ数字は意味のない羅列だからw
かりに崇神を250年として20年ごとに区切ってみるとこうなるかな
350 応神 ← 倭の五王 讃か?
330 仲哀(神功) ← 三韓征伐
310 成務
290 景行 ← 九州侵攻
270 垂仁
250 崇神 ← 卑弥呼死亡(248年)、台与、箸墓古墳、四道将軍を東西に派遣
230 開化
210 孝元 ← モモソの時代
190 孝霊 ← 卑弥呼が20歳で共立されたなら190年頃か
170 考案 ← 卑弥呼が仮に80歳で死んだなら170年頃誕生か
150 考昭 ← 146-189年頃、倭国大乱、後継者争い勃発
130 懿徳
110 安寧
107 倭面土国王帥升
*90 綏靖
*70 神武 ← 神武一族が東に放浪開始
>>120 スメルのことを書いてたら遅くなっちゃいました(笑)
皇統記と西暦の違いでしょうか?
2660年といいますよね
ただ私の立場でいくと春秋年で2年年取った天皇を一年に修整していきます
それから百済の年号との確認をしていきます
先程誰かが書いていましたが、紀元前に大阪は湖になります
その状態出ないと日本書紀の状態になりません。
そうして調整するとBC78年頃になります
その後ではダメなんです。
その後がスッキリします。
>>157 つーか、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないのに箸墓に同定するのはあまりにもお粗末だよ
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波
纏向はどこをどう切り取っても、
崇神朝の四道将軍を派遣した範囲の
王都である。
コレは考古学的に確定している。
>>149 私もそう思いますね。
何らかの卑弥呼大王墓の伝承が無くてはならない。
ない。
箸墓古墳と言われているが、では発掘調査してみるしかない。
卑弥呼の事が魏志倭人伝だけで、肝心の古事記、日本書紀に無い。
蘇我系を消すために編纂したとしても、卑弥呼はもっと古いので中臣、藤原家系には関係ないはず。
九州という狭い島国の中で奴国、邪馬台国、などがあった。
風土記みたいなものが、魏志倭人伝では?
わりと崇神帝くらいからが本物の大王で、その前は全部作りモノ
ってことで通るんだよな
纏向遺跡の大きな特徴が、纏向大溝という巨大な水路が見つかったこと。
幅5m、深さ1.2mの水路で総延長2.6キロにも及ぶ
おそらく大和川につながり運河として利用されていた
こんな特徴的なものが、「魏志倭人伝」には一言も書いていない
>>153 ヤマト王権のヤマトタケルの東征物語は本当の実話と言うことでしょう。
邪馬台国などは、九州地方豪族の魏志の風土記だったのでは?
>>149 存在しない説も充分ありえると思います
それか新権力が完全に跡形もなく破却したか
スメルは都知事が専門家だから
記者さんたちに頼んで一度聞いて見てはいかが?
そして魏志倭人伝には
彌馬升=御馬城=崇神が、
邪馬台国の副長官であると、
ハッキリ明記してあるのだ。
吉備、出雲、丹波、越、伊勢、尾張辺を制していても、
邪馬台国から副長官の地位を与えられたにしか過ぎない。
それは、邪馬台国がチョチョッと遠征したら、
あっという間に制圧できた程度の勢力でしかなかった事が、
記紀に明記してあるのだ。
畿内説は終わった事。
早く纏向は崇神朝の王都としての発掘に
切り替えて、日本の弥生の考古学を、
次のステージに進めていかなければいけない。
邪馬台国が奴国や伊都国を統率していたのが邪馬台国ならば、3世紀の畿内には中国との交流の痕跡が決定的に欠けている
3世紀までは近畿地方に比べて北九州地域の発展が圧倒的だったのに、4世紀以降、一気に突然に近畿地域が大発展を遂げるという事の意味を解決しないといけない
邪馬台国は日本書紀もサラッとしか触れてないし纏向なわけないやんw
>>125 神武朝から考えると無理がありますね
でも縄文文明 今の研究は凄いものがあり大分解明されてきてますよ
ウガヤフキアエズ王朝をちょっと入れるとすぐに埋まるんですね
その辺の文献を読んでくれると
邪馬台国問題は簡単に解けるんだがね
>>171 うーん、、、、
シャーマンに操られた武力の王権がハッキリしていて、
本部のシャーマン卑弥呼王権が首都もハッキリせず、王墓の伝承も無い?
うーん、、
卑弥呼の王都と王墓はどこだとお考えなのですか?
>>150 崇神を250年ごろにしてみよう
まあ数字に意味はないので深く考えることもないが
470 雄略
450 安康
430 允恭
410 反正
390 履中
370 仁徳
350 応神 ← 倭の五王 讃か?
330 仲哀(神功) ← 三韓征伐
310 成務
290 景行 ← 九州侵攻
270 垂仁
250 崇神 ← 卑弥呼死亡(248年)、台与(13歳)、箸墓古墳、モモソ60歳頃か、四道将軍を東西に派遣
230 開化
210 孝元 ← モモソの時代
箸墓って何年なんだっけ?桃の分析で西暦135〜230年なんだっけか?
>>176
>東征ですか?
「忌部一族(阿波勢力)」が進出しただけだよ。 @阿波 >>172 正月にやってた邪馬台国サミットというテレビ番組見てないのか?
>>173 家康が転封される前と後の江戸みたいなもんじゃね
>>181 2世紀前半から2世紀後半ってなにがあったっけ?
↓
倭国大乱(146-189頃)やん!
↓
140年あたりに神武が東遷したんやろなあ・・・
邪馬台国の王都は山門八女。
コレは6世紀に北部九州を制していた
筑紫の君磐井が都を置いていた事からもわかる。
そして筑紫の要害、高良山に
高良大社を開いた丹波氏が、
邪馬台国の支配者であり、
弥生後期に60人以上の殉死が推定出来る
祇園山古墳が卑弥呼の墓で間違いない。
>>175 では、ここは議論の場なので、仮説で行くと邪馬台国は何処で縄文時代とはどんな時代だったのですか?
私が不思議に思っているものは1点のみ。縄文土偶の目とシュメール人の目です。
この頃の物はなぜ世界的に目が強調されておるのか? 謎です。
>>153 もともと九州の倭国連合は弥生時代から発生しています
神武の東征はBC100頃とは言え九州宮崎鹿児島エリアの出身で宇佐黒崎岡田
で各一年位は生活しています
それから畿内入りしたあとも人的交流や宗教上の繋がりはあったとみています
更に邪馬台国を滅ぼしたときに祭祀地名等は、畿内へ持っていき祟られないようにお祀りしたと考えられます
伊勢神宮は宇佐神宮の写しです
弥生時代から近畿は弥生時代最大級クラスの水田跡がゴロゴロあるからねえ
弥生時代前期末には2の累乗の重さの分銅も作られていたし数学的な知識もあったと思われる
木棺も灌漑設備も金属器を使った製板技術があった証だし
近畿は弥生時代からかなりの先進地域だよ
>>181 コレは三角縁神獣鏡を漢鏡と嘘を付いている図だ。
抗議する必要がある。
>>186 ふつうにこっちだろ
>>190 それは全くの間違い。
大陸からの文化が畿内に伝わるようになったのは、
晋の時代以降の話である。
>>181 九州地方豪族の風土記が邪馬台国、奴国など。
日向から神武系部族が九州に飽き足らず、東征した。 地名の酷似はその名残り。
神武系、何処かで直系途絶える。
庶子流継体系が、大和本家と合流?
所詮この理論で行くと、邪馬台国は九州の一シャーマン部族であったと説明が付きますけどね。
>>188 どうかなぁ
卑弥呼は関係ない気もするけど
冷静に考えて『邪馬台国・卑弥呼女王』と『欠史○代〜万世一系』は全く別系統の話。そこに『記紀における神話』が絡んでくるので話がややこしくなってくる。
仮に邪馬台国が華やかなりし時代に九州に在ったとしても大和政権とは別世界。(日本と百済が主従関係の時代はあったようだが、)大和政権と九州が主従関係にあった可能性は低いと考える。
但しその後に大和政権が西征し邪馬台国を滅亡させた可能性はあるが、さらに年月が経ち菅原道真公を大宰府に送り込み最終的に『梅の神紋』大宰府天満宮を創建したのは何か因縁めいたものがある…
そこで『卑弥呼』と『桃』そして大宰府天満宮の『梅』の相関関係の有無を考えた時、「卑弥呼はピーチピチぢゃなくて梅干しババアだったのか」、と一人笑いした w
>>191 苦し紛れにそんな幼稚なウソをでっち上げて難癖つけるんだから九州説は信頼されないんだ
邪馬台国になりたい!とか言って、必死になって”村おこし”誘致活動していた地域は本当に笑える(笑)
まぁ 記録に残ってるからいつでも見れるよw
魏志倭人伝には伊支馬=生目=垂仁が、
邪馬台国の長官であったと明記してあるのである。
崇神の子供が垂仁という記紀の設定が、
完全に崩れてしまっている事が分かるのだ。
生目は宮崎生目の豪族であり、
同時代に大和纏向では崇神が、
一方、日向、九州では生目が、
と記紀を読む必要があるのである。
後漢どころか前漢鏡ですら博多湾沿岸からは腐るほど出ているよw
>>184 その辺が邪馬台国の限界でしょうねぇ。
邪馬台国を美化し、過大視していませんか?皆さん。
多分本当に重要なのはやはり東征を行い、ヤマト王権の元となった神武系が日本史の本流なのでは?
都知事さんは確かにスメル文明詳しいかもなぁ!
十六菊花紋が重要なんだよなんて
崇神が四道将軍を派遣して制圧した範囲は、
邪馬台国の丹波氏が日本武尊命をサポートして
チョチョッと遠征したら、
制圧できた地域でしかなかった事が
記紀に明記してある。
その後も丹波氏は、神功皇后の際も、
非常に強い政治力を発揮した事が分かっている。
そして、崇神朝はほぼ一代で滅んでしまった程度のものであったのである。
磐井の都?そんなモノには一切価値は無いな。
乗っ取られた古代の港を取り戻したからそれでいいのよ。
>>200 そうだな
紀元前から2世紀前半までは九州全盛期だったな
倭国大乱の時期を境にして九州は没落し、畿内が台頭する
>>199 こうは考えられませんか?
九州で歴史の黎明期を迎える。
九州から出た一族がヤマト王権と武力政権と本家となっていく。
元々親戚のような邪馬台国は九州から出ることはなく、庶流、地方豪族の一つの伝説となった。
が、九州には常に大陸からの力学があったので、東征したヤマト王権としても時折、武力行使の必要があった。
倭国の大乱≒九州豪族の大乱
邪馬台国滅亡、卑弥呼伝説と謎へ。
神武系と九州部族の一部は(特に北部)は、縁戚関係にあったかも。
邪馬台国や奴国など沢山王国があったが、東征していくほどの力を持ったのが神武系だった。
卑弥呼の墓があるとすれば、九州の北半分でしょう。隼人の国はまた別系列、熊襲になるから。
コレも記紀に書かれている通り、
邪馬台国本国の山門八女は、
熊襲に攻め込まれてしまい、
仲哀天皇は殺害されてしまったのである。
本州のその他大勢より、
熊襲は何倍も強かったのである。
その熊襲に対峙していた戦力を、
日本武尊命の時代に本州に向けたら、
あっという間に関東甲信越まで制圧する事ができた。
それが当時の日本のパワーバランスだったのである。
東遷は首都があるのが前提だけど当時そんなものがあったのだろうか
>>209 うん
港が変なのに乗っ取られたから、仕方ないから本拠地を捨てて有能だけが畿内に移ったんだろうね
>>203 卑弥呼だけ北九州から畿内に引っ越したんだろ。
3世紀になり纏向古墳群ができはじめたなら、卑弥呼はそちらで死んだ。
>>205 八頭八首(8+8)が十六菊花紋に代わった…
いや、十六菊花紋を導くために八頭八首を引用したのかも知れませんね…
>>209 多分倭国の大乱とは九州部族の大乱でしょう。
大和に大乱があった跡がない。
それより、出雲の国との和合制圧など、東へ東へ進んでいる。雄略帝では、埼玉に護衛させた者が眠った鉄剣が史実としてある。
邪馬台国とは九州部族の物語でしょう。東に広がる伝説ではないと思う。
多分箸墓古墳も東征した、ヤマトを名乗る東征した大王の墓に違いない。
卑弥呼ではない。
あれ?
皇室の菊紋は後鳥羽上皇の菊好きからじゃなかったの?
古代に菊紋があったなら、それは太陽紋じゃね。
【逆流性食道炎予防の八箇条】
食の欧米化やストレス社会により新たな国民病となりつつある逆流性食道炎をみんなで予防しましょう
其の1:食べすぎないよう腹八分目
其の2:消化のよい食事を心がける
其の3:ゆっくりよく噛んで食べる
其の4:就寝前の食事は避ける(就寝前2〜3時間)
其の5:食後すぐに横にならない(逆流を防ぐ)
其の6:逆流を起こしやすい食品(※)は控えめに
其の7:肥満に気をつける
其の8:喫煙を控える
※…アルコール、コーヒー、チョコレート、炭酸飲料、香辛料などの刺激物、高脂肪食、甘いもの、酸味の強い食品 等
「逆流性食道炎」の予防・対処法を解説 | ロート製薬: 商品情報サイト
https://jp.rohto.com/learn-more/gastrointestinal/stomach/care/ 食事と生活習慣に気をつけて逆流性食道炎を予防|おとなの安心倶楽部|セコム
https://www.secom.co.jp/otona/health/no19_1409.html 熊襲に高良山を蹂躪された際に、
そこらの巫女は丹波氏が進出した
本州各地に散らばって行った。
コレが各地に伝わる元伊勢神社の伝承である。
>>209 大乱があったのは没落した九州だろうね
長年王様を決めることができずにお互いに争っていたのだから
その地域一体が没落するのは当然ではある
もちろん女王を共立したのも大乱があった九州
一方、その間に力を蓄えた畿内は東西への侵攻を開始した
長年争い合って没落した九州は一時女王を共立してまとまったものの
その女王が死んでしまえば再び争い始める始末
魚と海に泳いでる動物の区別もわからない人達
これが邪馬台国系の人達かもね
倭国大乱は記紀で言う狭穂彦の乱である。
コレは実際には投馬国日向の西都原の狭穂彦と、
宮崎生目との戦いであった。
この戦いを制して投馬国の実権を握り、
宇佐の妻垣に進出した生目が、
邪馬台国の長官になったのである。
>>211 ある意味正しいでしょう。
仲哀天皇の伝説は熊襲に敗れています。
ヤマト王権の初めの頃は全て大王。天皇ではない。
ヤマトは東征することによって逆に力を得て九州討伐を成し遂げたかもしれませんが、
だから邪馬台国がヤマトであるとか、卑弥呼シャーマン、二代目女王もシャーマンが後の大和王権というのは無理があり過ぎ。
やはり、九州の中の邪馬台国であり、東征した部族が結果的に大王から天皇本流になっていったのでは?
チマチマ掘って無いで一気に掘れよ
何百年掛かる研究やってんだ、これただの穴掘り利権だろ、研究費一生貰う為にチマチマやってるとしか思えない
>>89 邪馬台国=やまと国だし
卑弥呼=日巫女=天照大神だぞ
ちゃんと古事記にも日本書紀にも邪馬台国のことは書いてある
ヒミコ→トヨ
女系はおかしいし、違う流れでしょうね。
>>222 もうその頃、邪馬台国は滅亡していたのでは?
卑弥呼ー台与ー??後がありません。
しかも武力ではなく、シャーマン家系。倭国大乱の前に存在したが、大乱によって完全に消えたのでは?
>>217 太陽紋(天照御魂神):シュメールのシンボル
十六菊花紋(天照大御神):皇室のシンボル
似て非なる
宇佐に進出した生目は、
邪馬台国の丹波氏の娘と婚姻し、
その間に出来た長男を日向の王にする一方、
自らが邪馬台国の王になるのではなく、
次女の姫命を、邪馬台国丹波氏の女王にした。
コレが卑弥呼なのである。
>>137 卑弥呼が天照大神だから、神武天皇は5代後で約100年後だよ
そして三韓討伐やって広開土王と何度も戦ったライバルは神后じゃない崇神天皇だ。
トヨだかイヨだかは知らんが、九州→四国→和歌山に行ったんじゃね
邪馬台国東北説とか沖縄説もあるので、もうどこの自治体も観光誘致に使えばいいと思う
九州での出来事
↓神武一族が九州から居なくなる →東遷開始
↓空白地域となった九州で後継者争い、倭国大乱が勃発、九州没落
↓卑弥呼共立
↓卑弥呼死亡、後継者争い
↓台与
神武一族の東遷
↓神武一族が九州を出発
↓吉備に居候
↓河内を追い出される
↓奈良に流れ着いてモモソが大物主一族と婚姻
↓ハツクニシラしてしまう
畿内ヤマトの征西
↓崇神、四道将軍の派遣
↓景行、九州征伐
↓神功、三韓征伐
↓倭王武の上表文(先祖が西に66国平定した)
>>203 卑弥呼=天照大神が奈良盆地で王朝つくってて、その息子の一人でで奈良盆地から追放されたやつがニニギ
ちなみに弟のスサノオも奈良盆地から追放されてる。
ニニギの子孫の神武が奈良盆地の先祖の敵の兄の王朝を滅ぼして大和王朝をつくったわけだ。
これが西暦320年頃で、380年頃が崇神天皇で大和王朝は大勢力になって朝鮮進出して広開土王と争った
どーせユタとかアペフチとかの”口寄せ”稼業でしょうね
>>220 その間に力を蓄えたというより
強大な勢力が近畿にやって来て近畿に拠点を構えたというほうが妥当かと
近畿の原住民勢力が徐々に勢力を強めていったわけでは無いだろう
>>227 トヨの系統が奈良盆地に土着として残ってた勢力だろう
それらは追放されて恨み骨髄のニニギの子孫の神武が全部滅ぼしてしまってなり変わられてしまった。
>>236 とても面白い説ですね。
それで行くと、九州から出た神武系大王系は畿内で隆盛を極めた天皇家とどう繋がっていくのでしょう?
>>137 漢委奴国王が神武天皇だと思うよ
理由
・初めて金印をもらった倭王を初代天皇とするのは妥当である
・日本側の資料に神武天皇の兄は新羅王(57年に即位)になったという記録が残ってる
神武天皇の兄はが新羅王(57年に即位)なら、当然、神武天皇は漢委奴国王(57年に金印を授かった)だろう
姉妹など女の親族が男首長の霊的守護者として
祭祀の頂点におかれる形態は古代日本から琉球王国まで
普通にある
女王ではない
魏人の勘違い
>>231 大乱後、台与を畿内に連れていったのかもな。シャーマンは必要だから。
纏向には防御の柵の遺構がないし、九州の土器なども出てないんだろ。
>>236 倭国大乱の原因としては、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある
その頃は高句麗の南下で朝鮮半島でも南下してくる人々により混乱が起きており、それによる玉突きの民族大移動で北部九州にも渡来人が来て縄張り争いが発生していた可能性がある
そもそも、占いを疑っただけで殺されるなんて前代未聞だから。
>>242 ほう、、それまた面白い。
カンノナノワノコクオウが神武であり、57年に金印を貰った。
紀元前の歴史はどう説明されますか?57年前までの歴史は何がありましたでしょうか?
>>137 俺が作った年表
〜57年 倭国の首都は伊都国
57年 漢から金印を授かったことにより新王朝スタート。初代は神武天皇(漢委奴国王)。首都は筑紫。
107年 第6代の孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢
177年 第10代の崇神天皇が即位
181年 ニュージーランドのタウポ破局噴火。全世界で大飢饉発生
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱。
184年 大噴火の影響で大飢饉が起こり崇神天皇が権威を失った。巫女の卑弥呼が女王になった。新王朝スタート。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年 崇神天皇が崩御。
199年 第11代の垂仁天皇が即位(倭王ではなく女王の卑弥呼の政治を補佐する官のトップ)
202年 『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米)
237年 垂仁天皇が崩御。
238年 第12代の景行天皇が即位。(女王・卑弥呼を補佐する官のトップ)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※卑弥呼死亡後の後継者争いによって男王制度が廃止された。景行天皇の息子で英雄のヤマトタケルが天皇になれなかったのはそのため。
※約100年間の男王(天皇)不在の空白期間
390年 応神天皇が即位。新王朝スタート
>>247 神武が東遷を決断したのは天候不良から九州を捨てて逃げ出したのかもな
タウポ火山の噴火もこの頃なんだっけか
滅ぼしてはならないものを滅ぼしてしまった。
委奴=ユダヤと読めるのは面白い。
>>249 57年以前は伊都国王が倭国の最高権威だったと思われる。
筑紫の王(のちの神武天皇)が金印を授かったことにより伊都国王より偉くなってしまった。
ここから新王朝スタート
>>242 この説も面白いですね。兄は新羅王になったと。
その頃から証明されるならば、任那や朝鮮半島は倭人の殆どが植民地かその親類であったわけであり、
隣国が恐れて前方後円墳を塞ぎ壊してしまった恐怖も分かる。
今まで大陸から伝えたと自負していたものが、その大陸とは朝鮮半島ではなく、前漢、後漢の直轄地と湊から交流があったのであり、朝鮮半島は倭人の地であったことになりますね。
うーん、その説も面白い。
双子姫のイヨとトヨが合体してイト国なんだよ
謎は全て解けた
願望を持つのは自由だけど現実的に考えたらまず間違いなく九州なんだよなあ
神武がやったという東征は矛盾してることがあって、5世紀に雄略大王が
「私は九州を征服した」と中国に明言して、実際に熊本の古墳から雄略の時代の鉄剣が見つかり
熊本の南九州一帯がヤマトの支配下になったことが学術的に明らかなのだが
そうすると神武の子孫であるはずの雄略大王は、なぜか自分の国の初代神武の故郷を征服したという矛盾になってる
神武が東征後に違う王が建ったなんてどこにも書かれてない
>>259 何世代も昔に捨てた故郷なんかもう赤の他人よ
雄略ってさ
何か対等な奴が居なかった?
何なら向こうが格上の奴がさ
>>253 本土日本には、では紀元前には統一王朝はなく、出雲の国や吉備の国、その他が跳梁跋扈していたと。
ところが箸墓古墳纏向の頃200後半から3世紀には巨大な本土王朝、のちの天皇家の始祖が統一を成し遂げつつあったと。
そして、
>>251さんの意見
九州と言う領土では収まりつかなくなった領土と火山噴火による領土拡大が東征にも一役買っているかもしれない説。
面白いですねぇ。
>>259 雄略天皇のお妃からして、名前は吉備 稚媛
つまり、東征神話にあるように、また人間的現実から見ても、東征に伴って神武大王系は各地豪族と和合、血族となっていったのではないでしょうか?
となると、雄略天皇の頃には九州は遥か昔の祖先の地であり、自分の出自とも言い切れない一地方になっていたのでは?
古事記神話時代が神武系を語り、
日本書紀が大和政権誕生後を語るのではないでしょうか?
>>252 その時代、「奴」はドと読まない。
ヌに近い音のはず。
>>247 玉突きで渡来人が渡ってきて九州の人口が増大するも
天候不良で不作が続いていた、と
半島の故郷を捨てて九州に渡るも飯が食えない
となるとさらに九州を捨てて新天地を目指そうという機運が生まれて
九州から移動開始か?
まあ、大和朝廷のルーツは九州にあり、九州から畿内に移った歴史はそのままにしているからな。
九州に多数の部族が割拠していたのはたしかでしょ。
邪馬台国は北九州にあった連合国の一国で卑弥呼が住んでいたというのが妥当。
大和朝廷は畿内に移動してから台与を迎えたということだろな。
トヨの名が付く天皇がいるし。
邪馬台国が九州に在ったのか、畿内に在ったのか分かったところで私の生活は変わらない。ただそれにより皇室の位置付けが悪化するのなら、それは一大事なので闇に葬りってほしい。
ところで邪馬台国の比定地、私個人的には元々畿内説派でしたが最近は四国説派に心が揺らいでいます。剣山伝説、四国八十八ヶ所霊場、元宮創始の地(阿波国)、いざなぎ流、そして白鳳地震で沈んだ黒田郡(土佐国)等、まだまだ謎めいた歴史的遺産・伝承が多くあり調べれば調べるほど何か出てきそうですからね…
薩摩沖の鬼界カルデラは約7300年前
当時の縄文人はどうしただろうな
大倭をヤマトと無理矢理読ませるのは
ヤマトが大倭を乗っ取ったからだろう。
ヤマトは山門か、山人か、山都か。
>>270 殆どその説が正しいでしょうね。日本の神話は九州から始まった。
気候変動や領土拡大に於いて、九州から東征し、和合、血族化し、大王系は天皇系へ進化した。それが確定してきた頃が、箸墓纏向の頃、そして前方後円墳の絶大な王権の頃が応神天皇、仁徳天皇、任那にも波及した。
大大和政権は九州神話から畿内でほぼ全土を統一し、日本書紀の編纂に寄与していった。勿論、古事記の神武東征の頃を始祖として、古事記として遺しながら。
邪馬台国も実在した。多分北半分九州の何処かに。
素晴らしい事です。
邪馬台国の卑弥呼は勝手に大陸の魏と交流してたから
近畿の中央王権にしばかれた説
もう交流しちゃったもんは仕方ないから邪馬台国を征伐してその名を継承してヤマトとするしかなかった説
>>273 天皇家が今までの話で位置づけが悪くなるような事は何もありませんでしたよ。
むしろ、壮大な日本国の元、神話時代から大和政権 倭の国がどのように体現されていったのか、逆にやはり皇室を国体として日本国があるのだと実感した、皆さんのお知恵の想像の旅でした。
確かに、では四国の位置づけはどうだったのか?という興味も湧いてきますね。
四国にもやはり大王系から共に血族となりて天皇家の始祖となりた豪族がいたのかも知れませんね。
未詳の経緯で大乱を収拾した国が大きいか小さいかも不明だし
無文字社会じゃ印綬でも出土しない限りケリはつかんよな
水行だって古代の山陰>山陽な実態をかんがえれば日本海航路で辻褄あうし
近畿は縄文時代から人口の極だったので当時の日本史の主舞台であっても不思議はない
大陸に近いほうが文明化が早い〜とかいう戦前の説のはいまや迷信だぞ
当時の記録を現在の技術などに当てはめて推察している奴がいて笑える
水行10日陸行30日と書いてあったら、海上10日もあったら大連辺りから福井まで行けるとか
陸を30日も進めば、下関から京都奈良辺りまで行けるとか
当時の技術では水行10日でも、せいぜい大連辺りから壱岐や唐津まで
陸行でも唐津から北九州までは30日以上かかるだろう
さらに栄養学的に言えば、九州から広まった米作のお陰で、知的水準は九州の方が近畿圏よりもはるかに進んでいる
地名の一致などを考えても、中国の歴書に書かれていることは北部九州のことで間違いないだろう
卑弥呼と称された人物がいたのは、北部九州で間違いない
邪馬台国は九州北部に在ったのはほぼ間違いないわな
学者は考古学会の出世に響くから近畿説を唱えてるけど
>>284 歴史は謎多き、そして人を探究させるから神秘じゃないですか。分からないからこそ人は探究する。答えは消えてしまっていても。
アレクサンダー大王の言葉です。
私の体を埋葬し、記念碑は建てるな
世界を整復した人間でも
死んだら何も残らないということが
人々がわかるように
アレクサンダー大王の墓は見つからないでしょう。遺言通りなら。歴史は謎が多いから歴史。それで良いではありませんか。
まず日本の文献は一切信用するな
いい加減な日本の文献に振り回されてるだけだ
>>270 畿内に移動してから邪馬台国ができたというのも考えられるよね。神武東征があったとして、東征のちに畿内に拠点ができたら邪馬台国の可能性あり
>>283 当方、邪馬台国は近畿
卑弥呼と称された人物がいたのは、北部九州で間違いない
ここのみ同意
>>289 纏向は3世紀に入ってからの遺構だからね。
邪馬台国ならもっと古い遺構がないとおかしいんでは。
しかも既出だが、畿内から北九州は遠すぎる。
他の豪族の領土が北九州に比定されていて、畿内だけポツンと一軒家(一豪族)で邪馬台国と言われてもピンとこない。
纒向遺跡も箸墓古墳も
邪馬台国とは時代が違うんじゃないの?
>>291 3世紀以前の大きな遺跡はねーんかな、畿内には。
>>281 四国に関する情報が少ないのは…?
神武東征が在ったとして瀬戸内海を九州〜畿内へと移動するわけですが、本州側(山陽)の情報しか無く、対岸に在る愛媛・香川の記録が表立って出てこないのは何故なのでせうか?
>>283 水行10日陸行30日て途中から里数から変わってるから、邪馬台国に行きついておらず、伝聞だという説もあるけどな。魏の使者が卑弥呼に会ったわけでもない
>>295 当方、近畿説
使者と会っている。死後 冢も見ている。
>>294 単純に考えて、陸路や湊を跨ぎながら大きな勢力(安芸の国、吉備の国)辺りを陸路水路で行くと対岸の四国は表舞台に出ないよね。でもそれが四国には何も無かったという証拠にもならない。
そのへんを探るには讃岐国の風土記とか伊予国の風土記に自国の歴史が書かれていれば何かヒントがあるかも?
>>269 そんな状況で遠くまで移動するわけないだろ
今の豪雨被害を受けた人達の行動から大体察することが出来る
>>251 北九州とか魏や朝鮮から近いから、外国からの防衛的にも九州は悪い、近畿に移動すれば下関とかで戦える。普通に考えて都にするには場所が悪い
>>296 かりに箸墓が230年ごろに造営されたなら
卑弥呼が生きてるうちに作られてるよな
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。じゃなくて
大いに冢を作りて卑弥呼以て死す。になっちゃう
一大卒って誰なんだろうね
警戒していた諸国の中に邪馬臺国も含まれているんだろうか?
>>302 >女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる
>奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め〜4世紀初め)で
>出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、
>西暦135〜230年とみられることがわかった。
135〜230年ですってよ
>>303 伊都国にあったてあるなあ。九州諸国の検察をしてたと。邪馬台国が北九州にあるなら、なぜ、邪馬台国におかずに伊都国においたのか。邪馬台国が近畿にあるとすれば遠方の監視拠点がいるから伊都国に任せたと考えると自然な気もするなあ
とっくの昔に畿内説はファンタジーって結論に達したろ
>>297 風土記が山程出て来たらすべて国宝だよ。逆に言えば風土記でさえ出て来ないのだから、邪馬台国物語はいつも論戦になる。仕方ない、確定的なものが出て来ないのだから。
>>292 日本人が馬にはじめて出会ったのは高句麗と戦争した400年ころなのよ
そこから馬を輸入して飼いならすまで10年かかったとすると410年
卑弥呼の時代から160年後
いまから160年前って江戸時代だぞ?
新国立競技場が江戸時代に立てられたとかいってるようなもん
なんで馬具が出たという事実を無視して延々と我田引水な荒唐無稽を垂れ流すのか
学問に対する冒涜だろう
邪馬台国近畿に遷都説。
・九州は自然災害が多い。
・隼人や熊襲などまつろわぬ民がすぐ近くに存在する。
・公孫氏の遼東が魏に滅ぼされ超大国の脅威がすぐ近くにまで迫る。
・渡来系遺伝子は近畿と四国に多くて北九州には少ない。
・卑弥呼が魏に朝貢した3世紀は日本でかなり大きな変革があった事は発掘調査ではっきりしている。
>>306 ファンタジー扱いは九州説な
正確には東大ファンタジー九州説
今は騙したバカを見捨てて京大と一緒に畿内説を唱えてる東大w
>>303 一大率=伊都国王=難升米=卑弥呼の弟
というのを何かの本でみて妙に腑に落ちたことがあるw
簡単に他国には詳細な位置を教えないものなんですよ。
それでは攻めて来いと言っているようなものですし。
どこかの誰かさんが伊能忠敬の地図を持ち出したから黒船に来られたし。
他国に情報を握られてどうする。
所詮馬鹿なんですよ、薩長土肥なんて。
>>308 なんで無視になるのか?
外周だろー。水害や修理、修繕、投棄がありゃ
後の時代のもんが混ざる。
>>305 でも畿内の大和の出先機関だとすると、九州説の場合には邪馬臺を超越する存在がいると中国側でも知っているにも関わらず邪馬臺を倭国の代表者として認めて金印を送ったということ?
>>311 元々畿内だよ。九州には田舎の小勢力と呉の流刑地(現在の宮崎県)があっただけ
>>181 これ重要。
倭国大乱が起きたのは2世紀末だという。魏志を見れば、
邪馬台がこの大乱で負け覇権放棄(女王即位)している。
新覇権国となった大倭が(魏に正体を隠しているが)
博多港を押さえている。朝貢の下賜品やら交易品を大倭の
本拠地・奈良に持ち去ったであろうことは容易に想像できる。
>>181の分布の遷移は、このこととぴたりと合致する。
>>315 それな、教えてない可能性もある。防衛上の観点から、教えるのはよくない。邪馬台国の位置を偽装した可能性も充分ある。邪馬台国に行き着いたなら、その様子ももっと具体的に書いてないとなあ。
盛り土が得意なんだからずーっと古墳を崇めてなよ(笑)
北部九州に水稲稲作を伝えた江南人のお墓は合わせ口の甕棺墓だが
六百年間もあった弥生時代に福岡県中部を流れる遠賀川の東岸からの
出土は無い、つまり水稲稲作を本州に伝えたのは江南人では無くて
別の民族だったと言う事。例えば朝鮮北部から北部九州に渡来した
北方系民族の可能性が非常に強い。
>>194 九州の地名は泊付けのために改名されまくってるからアテにするな
特に惟宗氏→島津氏は所領ほぼ全域の地名を改名してるので南九州の地名は考古学的にはほぼデタラメ
北部九州に関しては福岡藩黒田氏が金印を捏造した辺りでだいぶ弄られてしまった
当時の状況を普通に考えて、中国大陸と日本の交流は九州で完結するだろう
当時の北部九州には優れた文化があった事は立証されている
それなのにわざわざ苦労して近畿圏に行くのかと
北部九州、引いては九州全域(佐賀や熊本、鹿児島)との取引だけで、当時は一杯一杯だろう
必然的に歴書に記されるのは、北部九州のことになる
もちろんその後の遷移があって、近畿圏に文化が栄えたのは歴史的にも事実
でも卑弥呼と称されるものが居たのは北部九州で間違いないだろう
>>325 当時、黒田家は「魏に朝貢していたとはけしからん!」
こんなこと言ってたらしいけど。
魏では無く漢なのに頭悪いよね。
いつ頃まで
ハプログループNは中国にいたんだろう…
>>303 倭人伝の文脈からして、一大率(一人の大率)は、
博多港を押さえる謎の勢力「大倭」の恐ろしい代官様だよ。
倭国大乱の後に女王卑弥呼が即位で戦が止み、その死後に
男王が立ったら戦に成り、また負けて女王に戻してる。
このことから、邪馬台は倭国大乱に負け、覇権放棄(男王禁止)
の条件で存続を許されたと解る。女王=剣を持たぬ王が即位。
となると、博多港を押さえる「大倭」こそが大乱の勝者だと解る。
大倭とは、後に大和に改字する畿内勢力のことだわな。
>>卑弥呼と称されるものが居たのは北部九州で間>>違いないだろう
そこだけ同意。
行っていないだろー
纏向の発掘された部分に
九州、及び大陸のもんはないだろー。
虚國岳→韓國岳
覚頭→加久藤
砥島→都島→都城
深池→御池
祁答院→宮城→宮之城
などなど
と、このように惟宗氏・島津氏はよほど何もない島津荘にコンプレックスがあったのだろう
事あるごとに地名を変更してそれっぽい名前や漢字を割り当てていったのだ
>>325 全ては風土記があればある程度解明出来ただろうに。
漢の奴の倭の国王
魏志倭人伝
なぜ魏に行ったのか?蜀は外してもいいが、呉にはなぜ行かなかったか?
三国の中で魏が突出していると分かっていた?
遷都論?それも可能性はある。九州が狭すぎた、防衛上?それもある。
が、邪馬台国で女王でシャーマンで倭を束ねていたのが祈りで畿内と言うのは無理があり過ぎ。それならさっさと箸墓古墳を再調査すべき。半島系はほぼ関係ないはず。
正確な場所を教えない。教えなくても魏の国使は正確に書くだろう?
倭の大乱?播磨国風土記やほぼ完本の出雲国風土記に倭国大乱の事書かれてる?書かれてなかったら、九州内部の戦争のことだと思うよ。
魏志倭人伝に記載された当時の邪馬台国が近畿にあったと考える学者はバカ
邪馬台国は吉野ヶ里だが、卑弥呼の死体は背振山地を山越えして
生まれ故郷の伊都国に埋葬された、お墓は糸島市曽根にある平原王墓
>>333 倭国大乱の断片は描かれているじゃないか。
須佐之男命に手を焼いた天照大御神。
因幡の白兎伝説や大国主命。
>>336 漢字は一つのヒントだと思うんだよね。魏志倭人伝でもはっきりと、邪馬台国と書かれてる。象形文字の漢字の邪が当てられていると言う事は、魏は邪馬台国が大国ではないことを知っていたのでは?それこそ、大麻草吸ってサイコキネシスみたいに、祈祷で国政を占っておる。とか情報があったのではないか?馬が分からぬ台国は台地の国ではないのかなぁ。
>>338 じゃあ、それを収めたのがシャーマンの国邪馬台国だと?ちょっとなぁ、、
もう、誰か古代にタイムワープ出来る人居ないの?(笑)
>>337 移動先が箸墓と推測。
或いは壹与。
魏志では筑紫の記はない。
筑紫、竹斯国ができた頃(壹与以降)
箸、竹から渡てきた者
>>341 治めたといっても国家基盤はかなり脆弱だったろ。
倭の五王でさえも盛んに朝貢して自らの権威付けに必死だった様子。
500年代に入っても磐井の乱なんてものが起きるレベルだからね。
>>294 弥生末期の瀬戸内沿岸部には多くの高地性集落があった 九州からの襲撃が
起きたらそこに逃げ込んでいた訳だ
暴れ土人を止めるはめんどくさいからやるだけやらせて最後に始末。
>>216 帥升は天皇の事だよ九州に天皇がいたんだよ
>>338 それは違う。
天照とスサノヲの誓約で、スサノヲの剣を
を天照が噛砕き、そこから宗像三女神が生まれる。
つまり、地政学からして博多港の旧支配者宗像が
邪馬台の軍門に下った際の話だわ。
このプロセスの詳細は、海幸彦・山幸彦の神話に
描かれていて、邪馬台(日田→筑紫平野)=山幸彦が
博多港を手に入れる為に、半島に渡って政治工作、
鉄(釣針)と朝貢(玉)を手に入れ、みなとの支配権を
海幸彦(=宗像=スサノヲ)から奪ったとわかる。
これで邪馬台が列島での覇権を握ることに成る。
>>4 あの辺って弥生時代は海だったらしいが。魏志の米土国って目たつばる
>>344 500年代ってまだ統治が始まったばかりの頃だろ。
>>27 ヤマトの人はヤマトと自称してたが、
自国の文字がない
中国は日本を倭と名付けて、ワと呼んだ
だから、国内では倭の字を使って
ヤマトと読むようにした
そういやこっちのスレは阿波基地外はいるが
西都原くんとか来ないんだな
乱
九州以外に青谷上寺地遺跡ぐらい。
邪馬台国には乱の跡はない。
女王国の北部九州とその南の狗奴国とはある。
>>216 大和(というか大倭)に大乱は無い。
大乱の主要な戦いは出雲と邪馬台の間の戦いと推測する。
というのは、奈良は鉄を豊富には握っていなかった。
因幡の白兎にある様に、出雲は因幡に新羅人(しらうさぎ)を囲い、
邪馬台(倭人・ワニン)の管理する交易ルート(一列に並んだワニ)
上で密貿易させ豊富に鉄を得た。邪馬台と戦える力を得た。
因幡の渡来人虐殺跡が出てきていることから推測すると、
出雲と邪馬台が完全に消耗しきったところで、背後から因幡を襲い
鉄を奪い、これで出雲を滅ぼし、結果、邪馬台は万事休すとなり、
覇権を奈良に明け渡したと推測する。
逆に言うと、大倭は、出雲を滅ぼすだけで精いっぱいだったはず。
普通に考えれば分かること
中国から荒れる海を経由して、他国の文化と接するのであれば近いほど良い
何で無理して近畿の方まで行くのか
その考え方以前に、北部九州で文明が栄えていたのであれば、北部九州にあった国と交流を深めた方が良いことは当たり前であろう
確かに天皇が記された時代は近畿圏が政治の中心であったのであろうが、中国の歴書に書かれていることは北部九州のことで間違いないだろう
>>351 3世紀に九州や関東にも前方後円墳ができてる
直接統治はまだだろうが、最も国力があった証拠
吉野ヶ里に天皇がいたらしいし
少なくともここに皇子が誕生してる
>>344 5世紀の倭の五王は、権威付けじゃなくて、
半島の権益確保だよ。
4世紀に半島進出したが、5世紀頭に高句麗との戦争で
ボロ負けしたので、半島南部の権益を安泰にする為、
それまで無視していた南朝に朝貢し出したもの。
使者が不弥国止まり
当然、北部九州の情報が多いが
倭人から聞き取り九州以外の情報が
山に丹あり、東に海渡り倭種。
後漢書では
東渡り千里で狗奴国?
道案内だけで精一杯です(笑)
マウントの取り合いはごめん被る
高句麗の好太王の碑には、
4世紀に倭が百済と新羅を臣下にしたと
書かれている
4世紀、百済から倭に贈られた刀は奈良県にある
漢の奴隷国という金印大事にしてるのが日本人だよ
中国人の奴隷国家から独立したのはすごいと思うけど
>>333 魏に行ったのは呉に対抗するため
呉は当時国力が魏に劣っていたことに危機感を覚え、台湾方面で人口増加を目指して人狩りをしていた
これは史実だが、その際に人狩りが南西諸島まで及んでいた可能性もある
または人狩りを逃れて南西諸島に難民が流れてきたのかも知れない
いずれにせよ邪馬台国のあった北部九州と南西諸島は縄文時代から交流があるので、邪馬台国もこの呉の侵略に対抗する必要があった
そこで呉の敵対国である魏に使者を送って支援を要請したのであろう
魏としても本来東夷の蛮族に「親魏倭王」の金印を与える義理はなかったのだが、対抗する呉に国力をつけさせることは避けたかったので一応同盟国としての待遇を与え、万一呉の侵略があった場合は支援する約束を取り付けたのでは?
>>358 山口県の長府に皇居があったしな。邪馬台国が博多から佐賀あたりの連合国で初期の大王家が関門海峡利権を持っていた豪族。
まぁ 昔から外交音痴は変わらんな
鎖国してみればいいんじゃね
入ってくるものも全てストップになるけどな
産業の米騒動は大変ですな(笑)
箸墓は時代的には崇神天皇時代だから魏志よりもかなり後だろ。
そんで魏にとっては邪馬台国の存在は一応、万が一の時の為の呉に対抗する手段として軍事支援も視野に入れていたので、正確な位置関係は記せなかった
ので当時の資料では邪馬台国の正確な位置がわからないように記されている
「暗号」として部分的に昔から知られていた「短里」を組み込むことでそれを知る者以外にはわからないように記されている
陳寿はそれを知らないまま、そのまま記載してしまった
と、妄想
長門はモノノフの墓だろう
カシワが好きなシャーマン部族じゃね
山陰に渡来人が来て弥生人になっていつの間にか九州に天皇が誕生したなら
大陸に未練があったと思うけど渡来人は稲作してるから畿内に移動してしまった
今みたいな田んぼは邪馬台国の時代からだろうな
九州はそんなに稲作難しかったのかな
日本の考古学者が異常なほど「邪馬台国」をありがたがっているのが、いまいち理解できない
のんびり平和にしていたら戦士を名乗る蛮族が入ってきたしな
そもそも古代の日本が今のような形だったのかという、根源的な疑問があるんだよな
こんな形だったんだよ
これで魏志倭人伝を読み解くと、すべての「つじつま」があってくる
>>374 魏の人間の末裔だと主張したいからだと思う
魏は騎馬民族だからいわゆる戦士なんだろうね
ペルシャとかスンダランド繋がりで
名誉アリア人は大人しくバッハさんに従っとけばいいんじゃね?
外交音痴のお馬鹿さん?w
その時代に各地にいろいろな勢力があったんじゃね?
1つだけじゃなく
オリンピック級郵便沈没船の映画見てくるわ。
その後はもののけ姫とポニョと千と千尋と鬼滅。
>>374 ロマン。
考古学やる動機なんてどうせそんなもん。
特に邪馬台国関連は拡大解釈可能なミステリアスで僅かな資料とほぼ全てが未知の年代の話と言う自由度が自説、持論の乱舞を可能にする。
逆に言うと飛鳥、奈良、平安のような1000年以上前の正史が、ある程度正確な資料と共にはっきり解ってる国なんて世界でも少ない。
特に紙の資料が普通に残ってたりするのは世界に類を見ない。
その時代の研究は世界的には充分に考古学だが日本では単なる歴史学になる。
日本で考古学ロマンを味わうなら神話時代に足を踏み入れるしかなく奈良から先の歴史を闇の奥に隠してる原因の一つには天皇家関連古墳の調査がほぼタブーと言うのもありこの闇としての天皇家の存在が延々と論争を続かせているとも言える。
あと地中海や中東なら粘土板や写しで紀元前の記録なんてザラにあるし
アルプスの北のド田舎でも千年前の羊皮紙くらい残ってる
>>369 という話にしてるのだが、
神武東遷以前を「神代」、東遷以降を「人代」と
明確に区分してるから、邪馬台は滅ぼされたとわかる。
名前と権威だけ頂いた。
神武とそれ以前の登場人物は実在しないか、実在の人物を
モチーフに作られた存在。
例えば、天照は、語り継がれていた女王卑彌呼(&臺與?)を
モチーフに、大和が継いだ邪馬台の権威の象徴として作られた。
邪馬台国に権威なんてないよ
畿内のヤマトと名前が似ているのはただの偶然だろう
>>363 ところが、朝貢しているようで、していなかったんだわw
漢の時代、奴国が朝貢していたが、魏志倭人伝でバレるのは、
奴国は邪馬台配下のクニに過ぎなかったということw
つまり、奴国の裏に邪馬台が居て、自らは朝貢せず、つまり
漢の臣下には成らずに朝貢の利だけ頂き、漢の権威も利用して
列島に君臨していたわけだ。
だが、その邪馬台も、倭国大乱に敗れ、今度は自分が魏に
朝貢に出されるという憂き目にあう。哀れな邪馬台w
当時、大陸に認められて朝貢できるってのは名誉なことだよ
>>385 邪馬台は漢の時代の覇権国だわ。
鉄輸入独占と漢への朝貢を握り、これで列島に君臨した。
だが、鉄の独占が崩れて行き、漢末に倭国大乱が起きて、
邪馬台は覇権を失った。権力無き権威に落ちた。
覇権放棄の証として女王(剣を持たぬ王)即位だ。
大倭(畿内)は、魏志倭人伝にちゃんとが出て来てる。
(魏には正体を隠してるが)大倭は伊都国に代官「大率」を
置き博多港を押さえている。この大倭が倭国大乱の勝者だ。
4世紀頭に華北が異民族侵入で完全崩壊、朝貢秩序消失。
この隙に、大倭は用済みの邪馬台を滅ぼし、その権威を
継承したのは自明。
大倭(大和)と書いて、やまと(邪馬台)と呼ばせることに。
そして遣隋使の朝貢船を無かったことにして遣唐使朝貢船時代となる。
菅さんが廃止した←いまここ
>>389 倭の五王は5世紀。
大和朝廷は、5世紀頭に高句麗との戦争にボロ負けして、
半島南部の権益喪失の危機を感じ、権益の安泰を図る為に、
4世紀頭からずっと無視して来た南朝に朝貢したもの。
もっともこの倭の五王、直接、南朝に朝貢したのか、
それとも、漢の時代の邪馬台や魏の時代の大倭のように、
配下の者を朝貢に出したのか、それは不明。
>>393 きっと大陸で居場所を失った負け組連中なんだろうね。
内弁慶だから日本国内では偉そうにしているけど外国相手には弱い。
>>329 具体的にそれを示す原文の該当部分はどこですか?
大倭は国々の市場とか交易を監視するという文脈で出てきますよね
他の勢力というよりもそういう官職?みたいな印象で、一大卒との関係を読み取れませんでした
一大卒は女王国と大陸との交流を管理する立場のようです
なぜ諸国から忌憚されているのか不思議ですが、大倭という別勢力の刺史だと魏が解釈しているなら
>>317の疑問が生じました
>>395 大倭の記述に続けて一大卒の記述が出て来る。つまり、
ここで大倭による管理の詳細を記述しているということ。
一大卒は、大倭の代官だわ。
紛らわしいのは、大倭を「使って」交易を監理していると
書いている点だ。だがどう考えて不自然。そもそも倭国=邪馬台
と言う設定なのに、家来か配下の者が、女王国を差し置いて「大倭」
を名乗る筈もなく、大倭は邪馬台の配下ではないと透けて見える。
また、倭国大乱とその後の展開を見れば、邪馬台は倭国大乱に負けて
覇権放棄の証として女王を即位させたのは自明で、すると、この大倭は、
倭国大乱の勝者だと理解できる。
漢の時代は、邪馬台はその存在を隠し、配下の奴国に朝貢させた。
それがバレるのは魏志倭人伝でだ。今度は大倭が邪馬台を朝貢させたと解る。
魏の役人も馬鹿じゃない。それを薄々理解したから読めば分かる様に記録に
残しているわけだ。
だが、魏にとって大事なのは形式。倭国が魏の臣下だという形式さえ作れば
それでいい。後は倭国内の細かいゴタゴタは捨て置けばいい。
魏と大倭、奇妙なwin-win関係w ま、外交なんて今でもそんなもの。
倭国造のことでは?
博多から繋がるとすればここですな
魏志には出雲の記はない。
国譲りというから、
現在の場所とは違う。
伊都国が移動したんじゃないか?
千余戸 王ありなのに、一大率おかれる。
諸国が、使者も集まる。
すなわち、それを神々が集まる場所として比喩。
立ち退きで現出雲へ
構想建築が存在したのに潰された! カネよこせニダ!
捏造出雲はこんなところだろうな
したたかな、もとは小国の近畿邪馬台国の戦略。
戦乱地域の九州で
鬼道を使い人心を掴む。共立させるように
卑弥呼を共立王にさせる。
一大率と大倭で鉄の入手が始まる。
それに気がついたのが狗奴国。
史跡優先はG県S町みたいに過疎るだけ歴史ロマンに思いをはせる余裕有る時代終わってんだよ未来を見ろ
>>400 卑彌呼は、実は、「共立」したんでもなんでもないw
魏からすんなり親魏倭王に任じて貰う為に言ってるだけ。
@力で統一したのではなく弱小国の連合に過ぎません
なので魏に歯向かうような力など到底ありません
A倭国みんなで異論なく女王を共立したんです
ですので、親魏倭王に任じて下さい
ってな具合。
「共立」を言ってるのは日本に限った話ではないと、
中国やってる学者が言ってた。
ミヤコドリの正体が実はユリカモメのことだと知ったときはさすがに笑ったwww
>>205
>十六菊花紋が重要なんだよなんて
「神武天皇を祀る樫原神社」
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが
「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武天皇の元名・「神倭伊波礼毘古命」とし、菊の十六紋を神紋とする。 @阿波
http://www.awainbe.jp/info/20190426/
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ 天照大神=卑弥呼=神功大王(天皇、皇后)
神武天皇=天武天皇
>>294
>対岸に在る愛媛・香川の記録が表立って出てこないのは何故なのでせうか?
「阿波」の大河吉野川北岸の戦闘だったから。 @阿波 >>295
>魏の使者が卑弥呼に会ったわけでもない
魏の使者が卑弥呼に会おうが会うまいが、大陸と「阿波」は通通の間柄だ。 「阿波」を知り尽くしているよ。 @阿波 結局、邪馬台国論争で研究費を稼ぎたかっただけですね
>>405 地名の「樫原」が先にあったという証拠は?
>>402 なんだ受け入れかいな。
裏では、物資の独占戦略
又日本側使者は、司馬懿の戦略とそのあとの
旧権力者への徹底的な処遇見て、脅威だったと思う。
徳島平野の吉野川沿いってわかりやすいよな。
ある意味貴重。
都を移す時って大体醜い自然破壊やってるもんね。
筑後川沿いとか、遠賀川沿いも(笑)
>>307
>逆に言えば風土記でさえ出て来ないのだから、邪馬台国物語はいつも論戦になる。仕方ない、確定的なものが出て来ないのだから。
※各地の風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ。
アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申
天山 (釋日本紀 卷七)
伊予の國の風土記に曰はく、
伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。 @阿波
この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになる。
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要がある。
もちろん「倭」とは、「倭大國魂・倭大國敷神社」が鎮座する阿波である。 @阿波 そのうち雷に打たれるからいいと思うよ
戦時中も空から雷が落とされたし
罰は守銭奴に向かうから大丈夫
守山
>>369
>九州にいた天皇が東征して畿内に遷都
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いという。
なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>384 神武以降にも神様は出てくるんですけどね。
それこそヤマトトトヒモモソヒメの旦那の
オオモノヌシとか
>>412
>地名の「樫原」が先にあったという証拠は?
何が言いたいんだ? @阿波 >>417 九州遠いじゃん?道後温泉は戦のついでだし。
>>421 樫原神宮が明治に作られたのと同様に、その四国の樫原も
記紀編纂以降に社が作られてその地名が「樫原」になった
可能性もあるよね?
>>422
>九州遠いじゃん?
??
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 理系なら「不定」の一言で終わる無駄で無益な議論を
馬鹿文系は延々と続けるww
>>374 たぶん女王国ってところにロマンを感じるんだろう
もしも魏の記録にオッサンの王がいて、邪馬台国を治めていたと
記述されていたとしたら、こんなに燃え上がっていなかっただろうな
>>423
>樫原神宮が明治に作られたのと同様に、
いっしょにすんな!
>その四国の樫原も記紀編纂以降に社が作られてその地名が「樫原」になった可能性もあるよね?
そんなことを考える前に、樫原神社が明治以前に「阿波」にしかないことを考えろ。
この神社だけ、「菊の十六紋」を神紋とすることを考えろ。 アンポンタンよ。 @阿波 >>425 真に帰納法で考えられる理系なら、文系理系の区分が無意味と諭す
>>422
>九州遠いじゃん?道後温泉は戦のついでだし。
畿内説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
畿内には近場の有馬温泉や白浜温泉があるのに、
なんで、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、天皇行幸がずっと遅れたのだろうか?
畿内に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>407 九州説の恥部
起源を福岡に持って行きたくなる朝鮮人みたいな発想。
>>428 菊自体、奈良時代に入ってきたもので、天皇の紋として使い始めたのは後鳥羽より後になってから
つまり、その程度の歴史しかない証拠
>>433
>つまり、その程度の歴史しかない証拠
お前のところはその歴史もないところだ。 控えよ!
そんなことを考える前に、樫原神社が明治以前に「阿波」にしかないことを考えろ。
この神社だけ、「菊の十六紋」を神紋とすることを考えろ。 アンポンタンよ。 @阿波 そもそも”九州”なんて中国名由来の地域から抜けたいんだけどな。
中国からもって帰ってきた名称を有り難がるなんてまるでパクり朝鮮人みたいw
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
◆倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。
>>437 当然、邪馬台国は日本、
もとは小国、倭を併合。
好古都とか覇家台で十分(笑)
密貿易できなくなり、お薬切れたお偉い土人はお疲れ〜
>>439 好古都の発音はハカタ(博多)しか無いそうだ
>>440 うん 中国からそう呼ばれてたんだから好い心持ち。
渡来系の遺伝子の分布を見ると、ヤマト王権は九州からの移転ではなく、九州弥生人とは別の渡来人が近畿地方にやってきたのでは?という気もするのだが
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>>437 倭国はシナに朝貢してたから、別国だと強調してみせた
日出ずる処の天子の誕生だな
>>442 江南系の下戸遺伝子分布と比較してみる
畿内は江南からの影響が強い
ところがゲノム解析では日本人は南方ではなく北方系のミックスだ
南方の下戸遺伝子がどういうルートで畿内に上陸したんだろうな
記録文献によれば、邪馬台国時代の倭人は呉・越の末裔とのこと。
呉・越から九州に直接渡ったのが邪馬台国の倭人。
女王国の東の倭種の国である山陰〜畿内は、半島を経由して遅れて来た渡来人の国である。
世界漢字学会会長 蔵克和教授
・魏志倭人伝の解読し、九州北部と断定。
古代文字がどう発音していたか、国名を解読。
邪馬台国の「ヤマ」と言う音は九州北部一帯を
呼び表す。マツラ国やイト国などは九州の地名である。
中国魏晋南北朝史学会 副会長 陳長崎教授
・魏志倭人伝の記述は漢・三国・晋の時代の事が混在している。
資料として矛盾してる部分があり、一人で書かれたものではない。
各国の位置関係にしても最初は「里」を使っているが、途中から
日数になったりしている。
邪馬台国の場所は北九州が理にかなっている。
奈良と福岡の地名を見比べてほしい。
福岡の笠置山、住吉神社、田原、三輪、朝倉、配置の仕方まで
奈良へコピーしている。邪馬台国が九州から後に機内へ移動した
ことを示している。
台湾大学 周徳望教授
・中国の歴史書に書かれた、距離の記述はいつもあいまい。
距離を信じてはいけない。方角に注目するのが良い。
会稽、東冶之東(長江の出口付近の東)に邪馬台国があるという
記述に注目すべき。海流で北に多少流されることを考えると、
北九州しかない。良い田んぼがなく魚をよく食べ、男子は身分に
関係なく顔に入れ墨をしていたと記述がある。
入れ墨の風習は機内にはない。イト国は現在の福岡県糸島市だろう。
伊都国にはニキという役職を置いており、一大率という行政官も
おいており、代々王がいて邪馬台国に属していると。
伊都国が海外の窓口になっていたとすると、そのような重要な国を
遠くから管理するはずがない、邪馬台国には牛馬がいないという
記述から、伊都国の近くに邪馬台国があったと考えるのが理に
かなっている。
>>446 でも出雲大社は、タイのアカ族の穀物倉庫と同じルーツなんだよな。
>>449 構造がそのまんま同じ。
高床式は多湿地帯で必要とされるものだしな。
>>440 「卑弥呼だの邪馬台国だの日本を下に見てるからひどい字を当ててる」と言ってるやつは
好古都国だの伊都国だの、良い字の国もあることは無視
>>447 阿保過ぎ。
近いなら一大率、大倭を置く必要はない。
>>451 友好的な態度の国だったんだろ
会わないと通告してきたヒミコには、無礼者と思っただろうな
>>437 日本条の間を切っての意識操作は見苦しい。
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
倭国自ら字が悪いから改名したか、若しくは日本が倭国を併合した。
要するに倭国と日本の区別について、旧唐書ではよくわからんというオチしかない。
インドのストゥーパの門は鳥居にそっくり
日本で文献に残る最古の鳥居は四天王寺の鳥居で、12世紀木造の鳥居を石造に建て替えたという記述
四天王寺は創建当時から鳥居があったらしい
鳥居のルーツはストゥーパかもしれない
とんがり帽子のサカ族、鳥をモチーフにした遺物がたくさん残っている
アカ族、ミャオ族、女性のとんがり帽子、元は既婚女性が被るものだったとか
鳥の神さまがやってきたという伝承もある
鳥居に似たゲートに鳥形、鳥信仰かと思いきやそうではなくアミニズム
長江辺りでサカと出会っていた可能性もあるかも
一緒に日本列島にやって来たのか?
>>452 いずれにせよ、あの建築が朝鮮半島からでてこないから、出雲系が朝鮮からきたように思えない。
>>457
>インドのストゥーパの門は鳥居にそっくり
神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」 @阿波 ■メタップス <6172> [東証M]
持ち分法適用関連会社pringの全保有株をアルファベットC傘下のグーグルへ売却することに伴い、21年12月期第3四半期に売却益34.5億円をその他収益に計上する。
>>446 「纏向遺跡は、大陸との交流はなかった」という人物の間違いがわかる。
>>455 まあ、
「倭国者,古倭奴国也。」であり邪馬台国ではない。
2人の女性が一時的になっただけ。
魏志の本来男王と合致する。
>>446 刺青の風習とかも一致するし
長江下流域は稲作が盛んだからそうなんだろな
>>447 その中で古代史を研究してるのは陳長崎教授のみ
他の2人は、言語学者と政治学者であり、古代史の分野は素人
さらに言えば、3人とも日本の古代史に関しては完全に素人
学者という肩書きはあるが、専門外の分野については知識がない
諸説ありというバラエティー番組で、素人が諸説を語っただけのこと
>>464 「帯方郡から女王国にいたるまで一万二千里余りある」というが、不弥国までの距離を足しあわせると、すでに1万里を超えており、残りは1300里しかありません
刺青してたんなら漢民族とは関係ないからなおさら最高だよな。
>>465 倭国は異なるルーツを持つ人の
集まりだな。
>>463 倭国条のその続きを読んで違和感ないかい?
唐の時代になっても、未だに去京師一萬四千里だぜ?
中国人はまともに日本の事を記録してないんだよ。
あんまり中国の正史だからって鵜呑みにしない方がいい。
>>466 畿内はそれすらない妄想じゃん
大体三国志は中国人向けに書かれたものだからな
>>437 日本武尊(ヤマトタケル)が卑怯な戦法で
熊襲討伐したからあってる。
日本でヤマトなんて読まない。もとはヒノモト。
タケルもクマソタケルからパクったものだし
ヤマトも邪馬台国(ヤマト)からパクったもん
白村江の戦い以降に完全に九州、朝鮮南部の倭国の権益を失ったから
元の日本としただけ。
だから何?女王国の境
その南に狗奴国。
ピッタリ。
邪馬壹国は、そこから南に水行、陸行が必要。
○邪馬壹國の読み
・中国の隋唐音(高本説)読み
「ジィーア マ イエット」
「イア マ イエット」
・日本の万葉仮名読み
「ザ マ ト」
「ザ メ ト」
「冒頭がザ行」「真ん中がマ」「語尾がト」は共通してる
「ザマト」か「ジャマト」っぽいか
魏志倭人伝を読み解かず邪馬台国探しをするのは愚か者。
魏志倭人伝の冒頭〜不彌国までは中国側で分かっていた情報のコピペ。
その後の投馬国と邪馬台国は、魏に朝貢に訪れた倭人から得た情報。
水行の起点は帯方郡であり、投馬国は半島南部の倭人居住区(のちの任那)。
邪馬台国は北部九州一帯を指す。
倭人の説明例)朝貢に来た倭人曰く
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。
この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載した
(記載漏れ)倭人曰く帯方郡から
南に水行20日で投馬国
南に水行10日(計1か月−20日)で邪馬台国
(陳寿の勘違い)陸行1か月で女王の都
■参考
張楚金が書いた『翰苑』で引用されている廣志によると、「邪馬臺国」の位置は
伊都国の又南と記載されている。
このジジイ、関大の文学部しかでてないただの文系だろ
なに研究者のフリしてるんだよ
>>1 邪馬台をヤマタイと読んじゃいけないよ
書かれてるのは現中国の文献だからね
>>477 胡散くさい
正史とした文献でお願いします。
>>453 近いといっても外交窓口である伊都国に置く監察官(一大卒)と
各国に置く税務官みたいなもん(大倭)だろ
そら置くよ
租税、賦役を収め、そのための建物(倉)がたてられ、国々には物資を交易する市があり、大倭に命じて、これを監督させている。
女王国より北には、とくに一大率をおいて諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国におかれるが、これは中国の州の刺史のようだ。女王が使を遣わして、洛陽や帯方郡からの使が倭に来たばあい、何れも伊都国の港頭で臨検し、文章や賜物を調べ、女王のもとに届けるものが、これと違わないようにした。
>>396 後の大和政権がすでに九州を支配しており、すでに大倭と呼ばれていて、魏もそれを把握していたということですか?
いろいろ矛盾が生じる気もしますがそういう説も成立するのかも知れませんね
個人的には、大倭もしくは使大倭という役職名か、あるいは固有名詞というよりは一般名詞と考えて大(偉い、権力の強い) 倭(倭人)を使って交易を監視して税を徴収していた女王国の支配体制の説明と読むのが自然なように思いました
邪馬台国(ヤマト国)をヤマタイと読ませたり
無理筋の近畿説を学会が押し通したり
ヤマト王権の成立過程を空白の4世紀としてるのは
現王朝にとって色々と都合悪いから。
■記録によると、邪馬臺国は伊都国のすぐ南です
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国は福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
>>477 邪馬台国を女王国として都を邪馬台国にしたら良さげ
あと投馬国の比定ができればいいんだがな
どの文献記録とも整合しない畿内説は
韓国式歴史捏造サークルが作った作文です
そもそも議論の必要がなかった。「邪馬台=ヤマト」こんなん当たり前だわ
>>480 ・「邪馬台」の読み
現代日本語「ジャ マ タイ」
現代中国語「シェン マー タイ」
隋唐中国語「ジィーア マ ティ」「ジィーア マ イ」「イア マ ティ」「イア マ イ」
どこを根拠にしても「ヤマタイ」とは読めない
なんで「ヤマタイ」と読むのか理解できないわ
>>488 中国の教科書の半島の歴史の箇所に
「半島にはかつて倭人が住んでいた」
と書いてあるそうだ
韓国がそれを発見して怒って修正を要求したらしいが
>>484 不弥国までは現地を見てる書き方になってる
>>491 本当の漢字を書き換えられてんだろうな
「耶」とかだったのかも
>>492 日数の部分は別資料から引用してきた部分だから
里数の部分と行程をくっつけてはいけないという視点は素晴らしいと思う
>>490 ヤマトという地名は何処にでもある
3世紀時点で奈良がヤマトと呼ばれていた証拠は無い
>>495 隋書では、倭人は里を知らず日を以て距離を示したと書いてある
だから日数表記の箇所は倭人による行程説明だと思う
万ニ千里の内訳だよ
邪馬台国は、パプアニューギニアだと思うけどね
刺青してるし
>>491 ヤマダ → ヤマダイだな
日本はアジアの歴史の坩堝かな
畿内とか縄文時代からの人々、様々な時代の帰化人が混在し共存してきた痕跡があちこちに残っている
王朝が何度も変わっている国=全世界の国
万世一系=日本国
>>486 >翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)によると、
>邪馬臺国は伊都国のすぐ南です
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※「倭国東南陸行五百里、到る伊都国」の文言どおり、伊都国は佐賀県佐賀市大和町川上あたりと考えられるようになりました。
>>459 脱税は阿波人の十八番
「鬼滅の刃」制作会社脱税 カフェ売り上げ除外 社長と法人在宅起訴
阿波国戸籍(あわのくにこせき)
阿波国(徳島県)板野郡田上郷延喜二年(902年)戸籍のこと。
紙背文書として、五戸分の断簡のみが残る。
女性に比べて課口である男性の数が圧倒的に少なく、その男性も税が軽い高齢者が多い。
偽籍の代表的な戸籍とされる。
そうなんですか。
竈門兄妹、義勇、不死川が生き残ったお話は中々興味深いフィクションでしたよ(笑)
弥生文化は韓半島起源だからな
もうだいぶ前から考古学的に弥生文化は韓半島南部の無文土器文化の亜種だというのが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から支配階級は韓半島南部が起源の松菊里型住居に住んでいて
被支配階級が縄文型住居に住んでいたと分かっている
弥生文化人は韓半島からの移住者で縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていく
そしてそこで一時停滞したあと弥生文化は一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文明などとあほヌカすがジャップは韓半島起源の弥生人で縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも弥生語より古い日本語が弥生文化以前の韓半島に存在していたことが確実視されている
だからwikipediaにもPeninsular Japonicで記事が作られている
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic 低学歴低脳底辺のネトウヨは日本語版もあるから言語切り替えて読んでみろ
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は韓半島なんだよな
縄文人はプレアイヌというべき人たちでジャップの先祖は縄文人をジェノサイドした側の末裔だから
ネトウヨのいう縄文文明とかお笑いだよな
ジャップの神話は韓半島系の神話で縄文文化の要素はゼロ
何故ならジャップの先祖は縄文アイヌを虐殺するか奴隷化して民族浄化をしたから
日本書紀や古事記に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
更に土蜘蛛は手足の長い狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
土蜘蛛ってのは縄文系のアイヌだろうよ
天ころの先祖が原住民を葛で作った罠に嵌めて火を放って焼き殺したとかそれで葛城という地名が出来たとかジェノサイドの自白がてんこ盛りだわ
韓半島南部の全羅道や済州島の古代の言語は日本語と同系であったと推測されている
ネトウヨは韓民族の先祖を小便で顔を洗う不潔な穢人だと書いているが
言語学的には穢は韓半島で韓民族と混住していた日本語系の人たちだと推定されている
皮肉なことに不潔な穢はジャップの親戚だったという訳だ
日本語や琉球語の故地は韓半島なのは確実で更にその前の日本語話者は山東にいたんだろ
中国の周王朝の時代に山東半島は漢民族の支配下に入る
その原住民は東夷と言われていた
彼らは漢民族に同化するか渤海の対岸に移住していった
移住先は農耕に適した遼河下流域や韓半島南部
その頃の遼寧の文化と無文土器文化は共通点が多く同系という事まで考古学的には判明している
山東の東夷→韓半島の無文土器文化人→弥生人→現代のジャップだ
日本の教科書では未だ日本民族は太古の昔から日本に住んでいてとか大嘘書いてるからな
歴史を歪曲してるのはジャップの方なんだよな
日本列島で誕生した縄文文化人が弥生文化人になりクニが生まれて統一されて
天ころが生まれて日本国になるなどというお伽話が普通に教科書になっているからな
そんな訳ねーだろ
ジャップは韓半島起源の弥生人が縄文アイヌを悉く殺戮や奴隷化した末に若干の混血で産まれた民族
そして九州から南に行ったのが琉球人になる
蝦夷は本州アイヌに違いなくその存在は倭人の弥生時代からのジェノサイドが平安時代まで続いたということを意味している
今の東北列島人は征服された蝦夷の末裔ではなく後から入植した倭人の末裔
そして本州アイヌの民族浄化が終わった頃から倭人は北海道に進出して北海道アイヌの浄化に入りその完了形が日帝の北海道内地化だ
ジャップそのものが半島起源なんだがネトウヨの寝言が糞笑える
>>509 日本の弥生時代に相当する時代の朝鮮半島の住民と、今の韓国人は、同じじゃないからw
今の韓国人は、モンゴル帝国の支配の間にモンゴル化が進行してる。
>>509 口は悪いが言ってる内容はほぼ正しい
だから神功皇后の三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵や明治政府の日韓併合はレコンキスタ(国土回復運動)だな
渡来系弥生人と原住諸族の縄文人とのハイブリッドが日本で
渡来系弥生人の末裔が朝鮮半島南端部
北方系が入ってきたのが朝鮮半島南部のソウルあたり
さらに別の北方系が今の北朝鮮のあたりだろう
大雑把にいうと朝鮮半島の北と南はルーツが違う
さらに言うと南端部と西日本はルーツが近い
>>508 >>509 意見が長文となるのはIQが低い出来損ない文系の特徴
>>33 マンガの影響でヒミコがすらっとした美人で
後継のイヨ?がぽっちゃり系のイメージ
>>509 濊な。字が違う。
濊は北東部で後の高句麗とかに続く民族。
半島から来た日本の主な祖先は南部にいた倭人と扶余。
今の朝鮮人の祖先が濊・濊貊・挹婁とか
この時、北部にいて人尿洗顔をしてた部族。
残念ながら日本にそんな風習残ってない。
朝鮮は李朝の時代でもその風習は残ってて
ちゃんと朝鮮紀行って本に載ってる。
韓国が起源を主張する焼肉の炙貊(メッチョ)も
「貊」文字のとおり濊貊の民族の風習。
残念でした。
>>482 卑弥呼どこにいる?
邪馬台国までは水行しかない。
万二千余里は女王国となっている。
縄文時代の帰化人にも弥生時代の帰化人にも黒潮経由の南方系と日本海を越えてきた北方系がいるんじゃないかな
稲作に使う石包丁で長江流域と畿内でしか見つかっていないタイプもあるからねえ
邪馬台国は大和
他の畿内は邪馬台国じゃないだろう
その辺は正解さが必要
邪馬台国、大和国の南の狗奴国は河内と和泉じゃないか
共立王の卑弥呼が伊都国から
不弥国のどこかに定住。
邪馬台国は近畿。
>>523 アンチ畿内説派だが、その設定なら狗奴国は熊野の方がいい。
>>508 >>509 そもそも朝鮮半島南部に「朝鮮人の国」があったという記録がない。
最も古い中国の記録では朝鮮半島南部には「倭人の国」があると書いてある。
シベリアみたいに極寒の気候だった朝鮮半島が徐々に温暖化していき
誰が最初に国を作ったのか?
朝鮮半島南部に一番最初に国を作ったのはそもそも九州人だと思うよ。
あなたが書いている通り朝鮮半島南部の遺伝子や言語は日本に近いから証拠になる
戦力的に1世紀以前に侵略戦争したとは考えにくいんだよね
朝鮮半島南部に最初に大きな国を作ったのは倭人と考えるのが妥当
>>520 そもそも古事記の神話からして、東南アジアの影響が強いからな。
>>39 九州説とは
→何ら具体的な証拠を出さない
→大和朝廷との連続性が無い
→九州内の何処なのか確定してない
これが九州説の実体です
>>526 逆だよ
朝鮮半島の日本語族が九州に移動した
邪馬台国と大和朝廷との関係が不明だからな
もしも邪馬台国と大和朝廷が同一なら畿内で当然だし、
別物なら九州にあった方が自然だ
>>523 広さが現奈良の範囲とは限らない。
唐書で大和州、州つまり県レベルではない。
九州程度の大きさ。さらに記紀を参考に
歴代天皇が移動している。
>>523 九州が北で近畿方面が南だとする畿内説に順ずると、
九州が邪馬台国で近畿が狗奴国だな
邪馬台国が中国に助けを求めるほど、狗奴国はデカかったわけだから
>>526 そもそも朝鮮半島を南下してきた連中が、航海技術をどうやって獲得したのかという話があるよな。
邪馬台国=大和の国じゃないだろ
なんか言葉が似てるからなんとなく近畿っていってるだけやん
常識的に考えても九州北部に間違いないだろ
蒙古襲来も福岡あたりだし、大陸や半島から日本に来るには一番安全で近道
>>528 「帯方郡から女王国にいたるまで一万二千里余りある」というが、不弥国までの距離を足しあわせると、すでに1万里を超えており、残りは1300里しかありません
この記述から九州としか考えられませんし、少なくともシナ人はそういう認識で書き残しています
>>530 同一だよ。
でも共立王の卑弥呼は北部九州。
>>529 どっちでも良いわ
気がついたら半島と九州にまたがる倭国ができていた
>>537 纏向から遺跡がでたからここが邪馬台国、は通じないよな。
>>540 あれは初期ヤマト政権の可能性も高いしな
>>537 そこが邪馬台国の記はない。
女王国の記はある。
>>541 古事記にカムヤマトイワレヒコが来る前にニギハヤヒの王権があったと明記されているから、別の王国でいいと思うんだ。
>>541 初期大和は佐賀だな
【三種の神器】弥生時代の墓群から鏡、剣、勾玉が一緒に出土 佐賀県内初 [ごまカンパチ★]
http://2chb.net/r/newsplus/1626047399/ >>514 現代人のDNA見ると西日本でも九州は縄文系の血が濃い
日本海側の北陸山陰から近畿が渡来系の血が濃いから実は渡来系は日本海は来たと推測する
>>515 ちゃんと論拠を説明すればある程度は長文になる
脊髄反射の短文しか書けないのは池沼
YouTube見てる感じだと九州っぽいけどな
地名なんかもかなり残ってるし
距離も記述通りに追うとやっぱり九州
今の近畿には別の国があったのだろう
それと混同してるんじゃないの?
これ
https://horubai.jp/content/nnp_news/36https://www.asahi.com/articles/ASNBP71JDNBPTIPE00P.html
>>545 意味不明
邪馬壹国の王は卑弥呼ではない。
欠史の天皇
卑弥呼は共立王
邪馬台国?、うちの近所に卑弥呼の店あったよ。
協力金もらってた癖に、闇営業してやがった。
都合悪いものはぶっ壊す 捏造する 焚書にする
秦氏の文化ですな。
>>537 魏志倭人伝には、邪馬台国は、北部九州から船で30日かかると書いてあり
北部九州説はありえません
シナ人はそう書いています
>>558 途中まで距離で記し、途中から時間で記してる
実際の見聞と、伝聞の差でなければなんだと?
邪馬台国が近畿説の人って畿内から九州まで支配が及んでたと考えてんの?w
>>551 別の国だな
伊都国が窓口になって中国から来た使者が常駐してたと史書に出てる。
そこから近畿まで連絡取り合ってたとは到底考えられない。
無理ある。邪馬台国は普通に九州にあった考えるのが妥当。
近畿のは別の国でこっちが今の天皇家に続く国。
それで景行天皇から仲哀天皇(神功皇后)のときに西征して邪馬台国を滅ぼした。
>>529 諦めろ
ソウル大学の調査でも5000年前は朝鮮半島南部に大きな国がなかったことが判明している
朝鮮半島南部に「朝鮮人の国」があったという物的証拠はゼロだし
中国の記録では「倭人の国」があったことになってる
日本人が最初に朝鮮半島南部に大きな国を作った可能性が非常に高い
>>567 朝鮮人って誰の事を指すんだ?
百済から大量に入ってきた人たちは文化的に重要だが、彼らは、半島に住んでたというだけで、今でいう「朝鮮人」ではないと考えてるが
>>567 朝鮮人(畿内説)固有の遺伝子の分布図
>>565 考えていない。
もうちょい跡、壹与あたりから
>>564 それは中国人の学者でそういう読み方をする人がゼロなので
トンデモ説としか言いようがない
邪馬台国は北部九州から船で30日の場所にある
ちなみに当時の航海技術でも30日あれば畿内に着く
畿内説は何でもウリナラ起源説を主張する某半島人そっくり
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
>>572 朝鮮人にその理屈は通じないらしい。
インディアンを古代アメリカ人と言うのと一緒と言っても理解できない。
>>565 卑弥呼の時代ではないよ。
壹与以降あと推測
考古学は証拠から理論を組み立てる理系的センスが必要
バカ養成所の私大文学部出身じゃあ、解明困難でしょ
理系のやつにやらせろって
”陸地で繋がっていた”所を掘る掘るして現在の関門海峡を作り、瀬戸内海を抜けて畿内の湊に通れるようにしたのが秦氏だな。
当然、瀬戸内海という名称も無いし、今よりもずっと航路も狭かっただろうな。
”靹”あたりで潮待ちしてたんじゃねーの。
当時は内海用の小舟でも、”難破”が多かったと聞くが(笑)
>>577 そういや韓国人がエベンキ族を子孫だと言ってたことがあったな
逆だろって
魏志倭人伝や記紀をキチンと読めば
自然と福岡南部なんですが お金が絡んでるので大人の事情があるのでしょう
水行の定義は川や川沿いを行く
この当時の海は河川敷を指しています
皆さんが大きく間違うのは海を行ってしまうから違った結果になります
海を行く場合、 大海と表現します
現に対馬 壱岐 松浦に行く際
大海 一海〜 一海〜一海〜 という繰り返し文を使い海を渡って行きます
その言葉の語義を含み置いていただくと助かります
参考になれば幸いです
あんまりアホなもんだから継体朝あたりで西日本纏めて潰してやったわ(笑) わりいわりいw
>>558 筑紫に足止めされて朝廷の許可をもらってようやく出発できる
みたいな体制だと七世紀でもそれくらいかかるよね
>>565 もちろん
北部九州は、奈良(邪馬台国)の支配下にあった
魏志倭人伝にもはっきり北部九州は、一大卒が支配してることが書かれているし
奈良が魏志倭人伝に登場する支配者層「大倭」を名乗ったことも重要
魏志倭人伝は中国の正史の一部であり「大倭」が偶然一致することはありえない
これが決定的な証拠のひとつ
>>181 邪馬台国は畿内
今も昔も海の道は大事ですな
現代も昔のようにお偉いさん方の”密貿易”をそろそろ締め付けるから(笑)
まぁ 覚悟しときなよ
筑紫に足止め?都に連絡?w
やっぱり今と変わらずに縦割りすぎてるのかい?(笑) そろそろ進化しましょうね
>>590 後世でも外国人は難波津で一旦待機し、迎えが来るのを待っている
そのまた後世の元の使者が来た時も、幕府からの迎えが来るまで大宰府で待たされている
卑弥呼と面会するまで、一月ほど伊都国で待たされるのは有り得る話だ
>>591 奈良が北部九州を支配してたたなら痕跡があるやろ
倭国動乱も九州から奈良ということになる
そんなもんはない
>>544 ニギハヤヒやナガスネヒコは奈良盆地でももっと北西の
鳥見白庭山周辺が拠点で纏向とは全然違う。
時代が違うし場所が違う。
>>575 むしろ、方向間違えた、のほうがトンデモだな
そんな方向音痴じゃ対馬にさえたどり着けない
海の正倉院ってなんだっけ
そもそも正倉院って泥棒倉庫?
纏向遺跡は3世紀後半〜4世紀初頭に利用された痕跡しかない
卑弥呼の死(248年)の後であり、隋書の邪摩堆とも関係ない
畿内説によると東海が敵対していた狗奴国だそうだが、纏向遺跡からは東海土器が大量に出土している
畿内説は妄想だよ
>>181 中国と交流してたのは九州で、畿内には大きな国があったかもしれないが中国とは交流がなかったから
畿内の国は魏志倭人伝には載ってないって、九州説がよく言ってるが全部ウソだったんじゃん
邪馬台国は畿内で確定
>>597 痕跡はあるじゃん
例えばこれ
>>181 明らかに倭国の権力が畿内に移行した。
ちなみに伊都の平原遺跡の調査結果も同様だよ
物的証拠から北部九州の王朝は、邪馬台国以前に衰退が始まっている
>>605 2世紀後半から3世紀は卑弥呼は死んだあとだろw
考古学みたいなポンコツ学問、自浄能力すら無いんだから全員クビにすればいいのに
>>605 最終的に日本を統一した勢力の拠点が畿内にあったのだから、
持ち込んだかぶんどったかで、畿内に運ばれたのは自然なこと
そうでしたか
精々、世界中誰も興味が無い”地面から沸いて出てきた”と言う貴重品を眺めていましょうね(笑)
九州が畿内の支配下にあったなら鏡は最初から畿内にあるだろ
>>181 九州が没落してのち、畿内が栄えた
その時代にあったことは倭国大乱(146-189年頃)だよ
有力者たちが相争った結果、その地域は没落した
つまり大乱があった場所は九州
すると女王が共立された場所も当然大乱があった九州だな
一方、畿内にはそれまでなかった鏡の文化が栄えた
これは九州からの文化の東遷があったことが伺える
もしかしたら大乱から逃れていった有力者でもいたのかもしれないな
邪馬台国は福岡南部
大和朝廷が畿内に並立していた
これが正解
畿内に邪馬台国はないし
卑弥呼にそこまでの魅力もない
投馬国は宮崎鹿児島だろう
都万やミミが地名に残る
九州南部から南へ船で10日
黒潮で1日に150km流されて自然と潮岬に接岸し10日で紀伊半島に上陸できる
そこから歩いて1ヶ月で邪馬台国、船で行けない内陸の地
大和やね
不可思議な水行以降
間違いでなく意図的かな?
陳寿 会稽東の観念が強く書き換えた。
>>605 卑弥呼が死んだ後に邪馬台国が衰退したから
近畿に権力が移行したって証明だな。
だから九州に邪馬台国があったという事なんだよね。
>>608 それだと戦勝国側の北方四島や、主権回復寸前に奪われた竹島は取り返せないね
あと、これから何がおきても勝ったものの歴史に書き換えるからな
>>523 邪馬台国が「ヤマタイコク」と読むのは
どうも「邪馬台国は大和国のことだろう」と
思われていたの一点だけらしい
じゃあ「ヤマタイコク」と読むこと自体が
間違いではないだろうか?
邪馬台国 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD#%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%83%BB%E8%A1%A8%E8%A8%98 >古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていた
>江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する
>当時の中国語に基づき音読した[注釈 2]ことから
>「やまたいこく」の読み方が広まった。
>>483 何も矛盾しません。
大陸の鏡の国内分布が、2世紀前半までは北部九州に
集中していたのが、2世紀後半〜3世紀前半になると
いきなり畿内に変わります。
(前スレ236)
この事実ともちゃんと合致します。
魏志倭人伝から読めるとおり、2世紀末頃の倭国大乱で、
列島の実質権力が邪馬台(九州北部)から大倭(畿内)に
遷移したと考えて間違いないでしょう。
魏志倭人伝の邪馬台(3世紀)は、新覇権国の大倭(畿内)
に港を押さえられた哀れな邪馬台末期の姿です。
4世紀前半、華北崩壊で朝貢秩序が消失すると、朝貢用に
存続させていた九州邪馬台(やまと)は用済みで、
大倭により滅ぼされ、大倭にその権威を奪われます。
大倭あらため大和と書いて、やまと(邪馬台)と読ませる。
>>181 何をもって中国鏡としてるのか分からんが
中国産銅を使った国産鏡を作るのが
畿内で流行しただけではないだろうか?
>>605 邪馬台国の時代に九州が衰退してると
どうして邪馬台国が畿内になるのか分からん?
九州説でも邪馬台国は卑弥呼直後に滅んだ国
=衰退期の国やろ
所詮、烏合の衆か…
このコロナ禍でハッキリとわかった
有事に弱い内弁慶民族だ
>>615 日本国は別の勢力に併合されたり、滅ぼされたりしてないぞ
邪馬台国と違ってな
>>617 末ろ国、伊都国、奴国、不弥国でせ?
邪馬台国の記は、水行のみ。
邪馬台国女王の記録は3世紀後半すぐで終わってる
8世紀に現れる日本なんか無縁過ぎる
>>617補足
前スレ236のリンクは、本スレ
>>181のリンクと
同じです。
九州説の人に質問
畿内の国は魏志倭人伝に載ってないと言いたいなら、なぜだと思うの?
日本列島で最大の国が載ってないっていう解釈は不自然
>>621 そうですか
じゃあどうして中国共産党と手を組んだの?
台湾と北朝鮮とは国交が無いのに、勝手に干渉してたのはなぜ?
外交しらずのお馬鹿さんかな ”八方美人”という相応しい言葉をくれてやろう
>>625 そのころはまだ最大じゃなかったか、ギと交流がなかった
>>625 九州の女王国の傍らの国は絶遠にして詳らかならずって書かれてるよ
また本州の描写に関しては
女王国から東に海を千里わたるとまた倭種の国々がある
それら倭地をめぐると五千余里にもなるだろうと書かれているが
九州から海を渡って本州を五千余里いっても到達できないほどの遠くの国が奈良だ
だって、堀や柵の跡が出てこないし、鉄器もない、矢が刺さった死体も出てこない。
倭国大乱に全く関係ない地域でしょ。
>>625 単純に魏と公孫氏が最終決戦してるどさくさに
帯方郡を魏が制圧した直後に挨拶に行けたのが九州北部ってだけ。
卑弥呼が使いを送る前から、帯方郡を制圧した魏の太守は
周辺の村々に印綬をしまくって、取込工作を始めてる。
自分たちも挨拶して印綬貰っちゃおう!ってノリで行っただけ。
大ボラ吹いて、めっちゃ遠くから来ました!って言ったら
洛陽にまで報告が行って、大歓迎されちゃったw
それが記録として残ってて魏志倭人伝に至る。
>>630 じゃあ日本列島の中に存在したらしい国を勝手に滅ぼすなよ(笑)
>>376 左右どちらが魏志倭人伝の伝える倭だと?
邪馬台国の頃の海岸線はどちら?
では博多津はどこ?
>>627>>628
考古学的事実を無視した妄想に説得力はありません
>>625 九州邪馬台国が朝鮮半島へのルートを抑えていたからだろ?
魏志倭人伝にも「女王国より先のことはよくわからない」
みたいに書かれている
1000年以上後になっても九州しか抑えてない
懐良親王を「日本国王」認定するのが中国
大陸の玄関口を抑えているだけの権力者を
日本代表にしてしまうのは中国がよくやるミス
女王国以北=女王国の北部は戸数まで確認出来たとある
そしてその他の国は詳細不明で名称のみを紹介している
これは使者が女王国の北部に停留している事を示している
詳細不明な国々は筑後川の南側、そして長崎方面、大分方面の国々であると言える
>>634 考古学的根拠しか認めないなら
「邪馬台国はなかった」という結論しか出てこないやろ
「魏志倭人伝」という歴史書に依拠しないと
邪馬台国の存在は証明できない
九州とか畿内の概念が無いときに九州説とか畿内説とかいうファンタジー思い付くのはどうして?
やっぱりチョンと近いの?w
九州説って、考古学的事実を無視した文献解釈をしてる珍説だと証明されたな
陳寿が倭国を遠いが大国だと思わせるために書いたらしいね。
魏の司馬懿による遠交近攻策で倭国と軍事同盟を結んだのだが、敵対する呉への備えには大国の方がハクがつくから強大な国土に見せたかったらしい。
当時は単里と長里があったから上手く使い分けられた。
晋は司馬氏の国だからね。
>>354
この当て字も解せない。
邪馬台国 邪
狗奴国 狗
どちらも象形文字としての発生の経緯は 卑しむ感じ から発生しているのでは?
魏志倭人伝をそういう感覚で読むと、
野蛮な国々が沢山あった中で、邪馬台国とか狗奴という国もあった。と。
伊都国だけ、まともな当て字。
特に都が入っている。伊都国こそ、古代九州の国家で最もマトモだと認識されていたのでは? 邪馬台国は覇権を争う1つの国に魏使節団が招かれただけでは? >>638 そうなんだよね。「邪馬台国」ってのは魏志倭人伝の中にある国名だもんね。
>>616 いや、古代中国語は日本語読みだったかも知れないぞw
ウラル語族の文字みたいだからなw
>>1 八女しかないと思ってる
あの辺りフィールドワークしてみろよ面白いもんが沢山見つかる
ただあの辺りの住人は古墳壊して畑にしてきたから一斉に口を閉ざしてるけどね生きるためだったら仕方ないけど
>>642 西晋の頃に書かれた書物で、それよりも前の三国時代の牽制ができるロジックを知りたい。
>>634 九州抑えるか同盟結ぶかしなければシナと交流できないのは、誰にでも分かることだぞ
敵対国であれば、当然、妨害するからな
>>642 素直に読んだら沖縄か台湾あたりの国だからね
>翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
・邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
・廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※「倭国東南陸行五百里、到る伊都国」の文言どおり、
伊都国は、倭国上陸地(佐賀県唐津市)の東南500里の佐賀市大和町川上あたりと考えられるようになりました。
そしてこの佐賀川上の伊都国の南に、女王の邪馬臺国が有りました。
「魏志倭人伝」から推察するに、九州説と畿内説の二つがある。
以下のワードを使って説明しなさい。(20点)
村西とおる
卑弥呼
桜樹ルイ
乃木真理子
【ココ!】試験に出る!!
>>650 素直に読んだら巨大な九州が存在してるだけ
素直に読んだら、水行が海路とは限らない
流れに逆らったり険しければ、時間がかかる
>>650 んじゃ、素直に読んだら、そのころの沖縄や台湾はどのあたりにあったの・・?
使節を迎えたという伊都国は邪馬台国の都の北側にあったらしいけどw
>>625 漢の時代を考えるべし。
奴国が倭国代表として朝貢していた。だが魏志倭人伝でバレるのは、
奴国は邪馬台配下の国だった事。邪馬台はその存在を隠し、配下に
朝貢させ、つまり、自身は漢の臣下に成ることなく、朝貢の利だけ
得て、列島に君臨したと解る。
大陸の臣下に成らないないことが、列島内の政治で重要だった様だ。
それと同じ。
魏志倭人伝では、邪馬台が朝貢国なのだが、よーく読むと、
倭国大乱の勝者が大倭で邪馬台が敗者と透けて見える。
大倭はその正体を隠して、邪馬台の博多港を完全に押さえている。
(
>>396辺りを参考のこと)
邪馬台が漢に対して行ったように、大倭は魏に自身の正体を隠し、
軍門に下した旧覇権国邪馬台を朝貢させたわけだ。しかし、港を
押さえて、朝貢の下賜品などは、ごっそり奈良に持ち去ったwww
倭国大乱のあった2世紀後半以降、大陸製の鏡の分布
>>181が
九州から畿内に切り替わるのと見事に合致する。
>>658 委奴国の時代に後の邪馬台国が存在したという珍説ですな(笑)
北方から来た後の勢力の邪馬台国が、ぬっころした委奴国王に成り済まして朝貢し、”魏”という地域国家から金印をもらったというアホですよん(笑)
阿倍こんべですな
魏にとって、敵国・呉の圧力になるためには、
邪馬台国が「どこにあるか」では無く、
「どこにあるべきか」が重要。
だとしたら、倭人伝の工程は間違っていないのでは?
>>639 今でいう九州に邪馬台国があった説が九州説
畿内も同じだ
石野とか言う老害ジジイも先が長くは無いから言いたい放題だな
>>476 本当に、ト で合ってるのかな?
前スレで、当時の発音では ジャマイン って書かれたレスがあったし、
違う人のレスで山門が該当するとあって、山門も シャンモン って感じで近い気がした
>>658 その時代に博多港があったという証拠とかありますか。
奴国の奴国は野方で、不弥国は板付だろうと想像できますが、博多港があったか否かは
わからないのではないですか。
>>657 そう。
邪馬台は地政学から考えると、日田に起こり、筑紫平野
を押さえて、最後に博多平野を手に入れ列島に君臨することに。
博多を得るプロセスは、海幸彦・山幸彦の神話に書いてある。
半島で政治工作して鉄利権と朝貢を握り、これで港の旧支配者
を軍門に下したと解る。
博多を得て以降、経済の結節点にして、軍事の最重要拠点の
大宰府辺りが、政治の中心地としても機能した筈。古都は日田。
伊都国は港のすぐ横。糸島。
港を押さえた大倭は、漢の時代に朝貢してた奴国を港の管理から
外し、お目付け役のヒナモリまで置いて監視対象にしてる。
そして大倭自身がその代官「一大率(一人の大率)」を港の横の
伊都国に置いて、魏の使いをここに留め置き、内陸に行かせない。
北方から来た民族らしいけど、司馬懿にとっちゃ南にあったほうが都合が良いから利用したんだろうな。
ホント外交音痴も甚だしい(笑)
情報操作があるにしても呉を意識したというよりも
司馬懿がライバルの曹真を意識したという説のほうが説得力を感じる
曹真が担当していた西域から、大月氏国、洛陽から万七千里、10万戸、金印
その十年後
司馬懿が担当している東夷から、倭国、洛陽から万七千里、15万戸、金印
>>658 その頃の玄関口って、博多じゃなくて呼子だろ。
大和にデカイ勢力があったから中国の文献に載ってるはずだというなら
東北にもデカイ勢力がいたのだから載ってないとおかしい
>>662 呉を牽制って、、、
台湾は言わずもがなとして、台湾の先に与那国があり、石垣、宮古とたどれば沖縄だ
そんな国なんてないこと、呉のほうが知ってる
>>568 そう
朝鮮半島の原住民(江南由来の倭人)が日本語族という事
彼らが日本に移動して弥生人となった
使節を迎えるのにわざわざ都に近い港に直接乗り付けさせないのでは?(笑)
>>566 畿内説は今の皇室を邪馬台国と結び付けるためのものなのかね
騎馬民族征服説がショックすぎたんだろ
たぶん
だから邪馬台国からの連続性にこだわる
>>492 朝鮮半島は倭人の国だったでしょうね。
神武の兄が新羅王、高句麗碑文に百済、新羅は倭人の領土と国
倭人とは九州北部から日向あたりまで。
熊襲、隼人は鹿児島、熊本あたり?
大なる倭は大和のことでしょう。
何にせよ、皇室の始祖は半島系ではなく、日本を創る力があった。
倭人とは九州北部の人達の総称。大倭、それを束ねた人々。
邪馬台国に夢を持ちすぎていませんか?
邪馬台国が大和王権に関わるなら入れ墨の風習も引いてるはず。
邪馬台国とはローカルな地方のローカルなお話。
大倭人が北部九州から日向から東征し、大和王権の始祖だった事は間違いないでしょう。
大和地方の地名より。
倭人と大倭人は親和性のある部分と無い部分がある。
邪馬台国がヤマタイコクと読むんだと誰が提唱したのです?
>>675 当時はシナのほうが強い立場
日本がカイ秩序から脱却するのは飛鳥時代
>>677 逆じゃないかな
東亜の覇者であるべき大日本帝国が、朝貢国であったはずがないと
だから、空気読んでヤマタイと読ませだしたのだと思う
>>674 (739年、年足が貧しい人に食料配給した際の報告書だが)
渡来人が住み着いて大きな勢力持っていた可能性も
全く無い。
>>447 中国の学者の話を聞くと九州説以外はあり得ない気がする
魏の文書を読んでる量が違うだろうし
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 国内最古の三種の神器発掘の早良王国跡らへんの出身だがあのへんは土遊びとかすると勾玉とかうじゃうじゃ出てきて親から土遊び禁止されてたな
理由は発掘となるとその土地では農業も建築も数十年できなくなるため
結構このたぐいの話は土地の扱いにも関係してくるんだろうな
邪馬台国は、当初北九州に生まれて、たたら式製鉄の進化と共に畿内へ移動して行った。
だから、九州説も畿内説も正しいと言うことなんですか?
当時の日本列島には沢山の国があったのだろう
邪馬台国は九州にあったその内の一つの国に過ぎない
ヤマタイ国なんて最初からないんだろ?
学者が勝手に呼んだだけで
あったのは最初からヤマト国ってオチ
宇佐や宗像に卑弥呼が祭られているしな。
魏時代の鉄製の鏡も宇佐に近い日田で出土しているしな。
>>673 江南は多分あまり関係ない。
弥生人が半島中南部で出来たというのは間違いない。
弥生人は、華北辺りの集団とスンダランド人の混血。
しかし日本人とチョンは遺伝子的に全く別の人種ってことが科学的に証明されてるのが面白いよな
日本人のルーツはアフリカからアジアを通って南の海からやってきた世界を旅した海洋民族
>>673 江南から朝鮮半島経由すると、
長江からベトナムの間→華北→蒙古→満州→高句麗
→南韓→北九州
のルートになるんだけど、
なんでそんな遠い旅で異民族を抜けてくの?
江南→東南アジア→台湾→沖縄→九州か
江南から沿岸航海して威海衛東でいいじゃん
漢の楽浪郡がなんで南韓にあったのか考えてくれや
ちなみに南韓としてるのは三韓の南半分って意味な?
朝鮮半島最南端のこと
>>694 そのころには畿内のヤマト政権が統一してただけのこと
当時の邪馬台国とは関係ない
>>659 理解できないのか。お気の毒。
邪馬台が博多港を手に入れるプロセスは、
海幸彦・山幸彦の神話に記されてるよw
>>694 どの文献に出ていますか?
古代中国の文献は邪馬台国は
福岡南部にあると書いてありますよ
教えて下さいね
>>692 まったく別ではないよ
来た時期と上陸地によって違いがある
氷河期は陸路だから北からオホーツク文明、
南から古モンゴロイドが来た
当時の朝鮮半島は先土器時代
日本も同じ
次に氷結終わって融解すると縄文海進が始まる
と、これはポリネシアンと東南アジア人
ここが海洋民族時代
それからさらに陸地が増えたので人口増えたのが弥生時代
その後に古墳時代に渡来人が一気に増える
飛鳥時代から平安時代に朝鮮系な?
こっちは新モンゴロイド
>>492 日本の歴史において、もはやいまの韓国、北朝鮮系の民族と関係があると言う説は有り得ないでしょう。
倭人の領土となっていた半島にいずれの時にか来たのが今の半島人。
渡来系という祖先とは違う。
ある程度の天皇陵墓は発掘調査されるべき。
百済、新羅は我々の旧日本人の祖先でしょう。
>>689 ジャマインからヤマト読みに変えたと思う
イワレ(ヘブル)彦を立てるにあたって
ヤ(ヤハウェ)ゥマト(民)
>>695 邪馬壹国者とある
旧唐書でも日本が
邪馬台国。
>>693 漢の楽浪郡は、今の平壌だよ。
その南に帯方郡があった。
>>691 スンダランドって1万年以上前でしょ
ちょっと無理あるんじゃない。
>>701 今でもヤマト国だろ
卑弥呼が治めた邪馬台国と領土も国体も別
邪馬台国から大和国へ変化して
九州のヤマト国が衰退し
畿内のヤマト国が成長しただけだよ
>>619 もう一回
>>181をよく見ろ
卑弥呼が現役の時代にはすでに畿内に権力が移行してる
>>699 くだら(百済)、加羅(任那)、新羅、耽羅(たんら=済州島)
これらに共通する語末の「ら・羅」は、日本語な。
俺ら、お前ら、と言う時の「ら」。集団を表す。nら=むらと同じ。
百済は支配層は高句麗系だが、民の多くは倭人(資料に書かれてる)。
加羅、新羅、耽羅では日本語(or日本語系言語)使ってたのは
研究で明らかになってる。
>>685 卑弥呼が貰ったのは銅鏡
日田から出てきたのは鉄鏡
銅鏡百枚については、魏志倭人伝の制詔の中に書かれており
この分は種類や数を正確に書き記している。
銅鏡百枚だけが適当な書き方になってるわけがない。
もし卑弥呼が貰ったのなら銅鏡百枚とは別に鉄鏡一枚と書いてるさ。
卑弥呼が貰ったものはこんな感じで書かれてる。
絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹
紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤
畿内の邪馬台国や卑弥呼をあげる考古学者ってのはかなりの悪だよな
予算が出るからって悪質だな
存在したかどうか怪しい歴史上のファンタジー四天王
聖徳太子 卑弥呼 神武天皇 天照大神
>>614 もう一回よく見ろ
>>181 卑弥呼が現役の頃にすでに権力は畿内に移行してる
邪馬台国は畿内しかありえない
>>509 歴史にジャップなどという言葉を持ち出して、
ドヤ顔するのなら、
他のスレに行ってほしいもんですな。
それならば、閉じた前方後円墳を全部開けたらどうです?
他のスレへ退場されよ。
>>694 隋唐には邪馬台国と出てこない
「倭」と出てくる
しかも首都はどこかもはっきりしない
隋書では「俺たちが倭なんよー。魏志倭人伝に書いてあったじゃん」と自称したが、筆者は疑っている
遣隋使の伝・聖徳太子書状から日本と国号を定めたのは701年とされる
遣唐使の時には
「俺たちは倭と別種。名前を倭から日本に変えたんでシクヨロ」とか言ってる
ここからが日本の有史年代
>>709 ソースに書いてあるよ
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
>>703 人口が増えるのには時間がかかるからな
なので人口が増える時間がなさすぎるので、弥生人は朝鮮人説はありえないが
弥生人は5000年前にはすでに中国大陸から日本列島に移住してきていて
日本列島で人口増えた人たちでしょ
>>715 ソースまで読んだから
3行目以降に理由を書いたんだけど、そこくらい読んでくれないか?
>>715 潘氏の説が強引すぎるな
まともな学者なの?
>>707,712
倭国大乱で衰退したのが九州なら
女王が共立されたのも大乱のあった九州
畿内は大乱を免れた地域なので女王も共立されていない
>>703 氷河期が終わってスンダランドが水没したのが約1万年前で、
そのためスンダランド人は、泰平洋の広い地域に船で渡った。
半島、日本列島、南はNZのマオリまで、方々に。
スンダランド人が:
@日本列島で原住のシベリア人と混血したのが縄文人。
A半島で原住の華北辺り由来の集団と混血したのが弥生人の基。
邪馬台国は九州に決まりだ。
弥生時代の奈良盆地は湖だぞ、バカチ○ンw
魏志で万ニ千余里が
邪馬台国と勘違いが多い。
1300里には狗奴国との紛争地域。
不弥国から南へ水行と日数に変わる。
卑弥呼が伊都国等に共立王だか定住。
邪馬台国に行く必要性もない。
紛争地域の視察、不弥国からの帰国。
有明の引潮にのって、長崎の西に
出て黒潮に乗る
又、有明海から沿岸航法で南に行くと
狗奴国の水軍に遭遇。
なので聞いたのみか?
>>696 博多ってのは当時にはありませんよ そんなことも理解できないのかい?
>>718 読んだよ?
素人の〜わけがないという決め付けより研究者の言うことを信じるわ
全く戦支度の痕跡がない畿内が邪馬台国なはずがない。
>>708 日本語って言い方は甚だおかしいぞ
まず日本語=標準語なので明治以降に人工的に作られてる
奈良の言葉なら大和言葉か上代日本語というべきで、
さらにそれは日本列島固有なのか、日本から三韓地域を含めた広域言語なのか、奈良近辺の近畿古方言なのかも釈然としない
河内弁、泉州弁、舟場言葉、東関東方言、西関東方言、
千葉でも総州と房州で言葉が違う上に松戸や柏の北西部、
東葛飾は江戸時代は東京だから下町言葉
こんなのを一つにまとめて、しかも俺様が言語先進国とは笑わせる
民族は南から来てても言葉は大陸から来てる場合もあるんだが。
高句麗と新羅と百済で数詞が違うの知ってるか?
>>720 ???
九州は倭国大乱前に衰退したっていう物的証拠だが
これは平原遺跡の発掘調査結果とも一致してる
倭国大乱の頃にはすで北部九州は衰退してる
九州の弱小国連合がヤマト朝廷を詐称して魏に朝貢したのが真実だと思う
そもそも「九州」のどこなのかすらわからんのに
何故「九州なのは確実」なのか、未だにわからん
孫権も日本っぽい謎の島に派兵してるんだってね
すごいね
>>720 正確には共立したのではなく、
魏に対して、倭国が共立したことにしたもの。
実際は、大倭(奈良)が倭国大乱で邪馬台を覇権放棄
に追い込み、覇権放棄の証(剣を持たぬ王)として
即位した(というよりさせられた)女王。
大倭は魏に正体を隠し、交易港の博多港を押さえている。
>>725 他の贈り物がことごとく種類と個数を正確に書いてあるのに
銅鏡百枚だけが鉄鏡も混ざってますってどんな理屈だよ?
コメントしてる学者が曹操の専門家ではあっても
魏志倭人伝や邪馬台国については対象外でよく知らんのだろ。
>>731 女王国の東に海を渡るとまた倭種の国々があるのは九州だから
奈良ではそうはいかない
廣志曰:
「倭国東南陸行500里、到る伊都国・・、」
伊都国は、倭国上陸地(佐賀県唐津市)の北東の糸島でなく、
廣志や魏略や倭人伝の文面通り、東南陸行500里の佐賀市大和町川上付近にあったと考えられるようになりました。
邪馬台国=倭国は663年の白村江で敗戦国になり衰退。
それも日本が併合した。
倭国は堂々たる古代の大国だから
日本が倭国を併合しても、過去の倭国の歴史まではパクれなかった。
やれば中国に笑われたと思う、だからやれなかった、やりたくてもw
うふふ キチンと事実を”書留”ましょうね
郵便やさーん ハガキが1500枚落ちました〜
>>726 戦乱なくても必要。
九州は食糧調達等
九州以外でも戦争がなければ安定した物流がもたらされる。
又、狗奴国との戦いで後方支援。兵の供給等。
魏志倭人伝は複数の記録の寄せ集めである
はじめは「有〜家」「有〜戸」と表記されていた戸数が、投馬国と邪馬台国の箇所で突然「可〜戸」と表記されている
「可〜戸」はざっくりとした規模的な表現であり、この2国の行程部分のみ後から追記されたものと考えられる
ちなみに対馬の官にだけ「大」がついている
これが一大率のことかもしれない
>>735 国があるのは畿内でも同じじゃね。
問題はどこなのかまーーーーったく不明なのに
「とにかく九州にあった」というだけ、というなんかもう説としてはムー大陸とかそういうレベルじゃんw
>>729 衰退した時期なんて何も証明してない
たとえば、今日本が滅亡したら、皇居から国宝がザクザク出土するけど、その製造時期に、日本の中枢が東京にあったとは言えない
>>728 文献での古名はこう
> 当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、
現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。
日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。
万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。
これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。
新羅になったのは西暦500年だからね
>>735 女王国の範囲は近畿
伊勢志摩だからね。理由は山に丹あり。
>>742 それを当てはめたら九州説も畿内説ももう全部終わるんじゃね?w
>>741 「帯方郡から女王国にいたるまで一万二千里余りある」
該当するのは九州だけ
というか、太陽見れば分かる方角を間違えたという時点で、畿内説はあり得ない
>>728 こういうことだよ
筑紫の別名は、白日別(シラヒワケ)
新羅は、シロ
57年に筑紫で漢委奴国王になったのは神武天皇
57年に新羅王に即位したのは倭人(神武天皇の兄)
日本側の資料に神武天皇の兄は新羅王になったと書いてある
初めて金印をもらった倭国の王を初代・神武天皇として数え始めたのも妥当だろう
>>708 私もそう思う。遺伝子工学が進んだ今、日本人と言われる人々が、今の半島に住んでいる人々の願望とは違う遺伝子構成だと分かってきた今、
宮内庁指定のある程度の陵墓の発掘こそが日本の古代を知る鍵になる。
特に箸墓古墳辺りは調査すべき。
半島人には半島の前方後円墳を調査する勇気がないようだから仕方ない。
今の半島人と日本人では風習も違いすぎる。似が寄るところが全く無い。
特に歴史を語るスレに於いて、ジャップ呼ばわりするような方は、他のスレに移動すべきだ。
>>741 後漢の時代の倭は100国
魏に朝貢した女王国は30国
畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無かった
それだけのこと
>>741 奈良の東に海はないし海を越えてまた国々もない
>>751 いいんだよ。
大国に見せたかったんだから。
司馬懿の権威を高めるには大国の必要がある。
>>729 >九州は倭国大乱前に衰退したっていう物的証拠だが
>これは平原遺跡の発掘調査結果とも一致してる
倭人伝の時代には衰退していたド田舎の平原を根拠にしても、全く意味がない。
帯方郡と厚誼を結んでいた伊都国は、中国史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里の佐賀川上だったのだ。
この事実を押さえてから論ぜよ!
>>751 畿内だと陸行一月はどこからどこまでなの?
残念〜 筑紫は築秦からの派生 つまり秦のパクり
それより郵便マリオごっこしよー
タイタニック号が泣くぜ(笑)
>>749 意味がわからんので、とりあえず邪馬台国が九州のどこにあったのかだけ教えて?
>>750 縄文時代奈良は湖のソコにあったといわれている。
弥生時代には大半は陸地になっていたといわれているが
飛鳥時代まで大きな湖があった、という説もあるから
それを海と思ったんかもね
>>752 はみでたら九州じゃないじゃんw
>>755 ?
九州の話してるんだけど?
>>509 大体、我々の祖先と豪語するならば、
韓国併合の時に殆どの技術を、文字(ハングル)を与えたのではなく、技術も文字も古代文字も持っていなければならない。
歴史をなにかのプライド、葛藤、劣等感で歪めるのは本国だけにしてほしいですな。
ここは、古代日本を探るスレです。
自分の都合のいい説を通すならゴッドハンドと変わらねええ
邪馬台国なんぞより未だに稲作が朝鮮半島由来だとする旧態依然とした学会の風潮を何とかしようぜ
>>758 畿内だと陸行一月はどこなのか言えないのに九州には問うの?
>>746 間違てないと思う。
意図的なもん
或いは、陳寿 会稽の東の観念が強く書き換え
不弥国から1300里、そこは狗奴国と紛争地域。
投馬国五万戸、邪馬台国7万戸
これが九州から船で一月以上かかる場所にある
投馬国は出雲か鞆か広島か吉備か
九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:陸行1月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!!
これが「邪馬台国九州説」です
考古学の事実としてはっきりしているのは
卑弥呼の時代に畿内には大きな勢力が確実にあったこと
�サこは後に倭国の本拠地になったこと
�ラ馬台国の時代に畿内と九州はつながりがあったこと
そして船で、最低でも九州から畿内は1ヶ月以上はかかる距離にある
九州(中国全体の意)を持って帰ってきた阿倍麻呂さん ご苦労様(笑)
パクりでしたね。
中国史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里の佐賀川上一帯が伊都国だったのだ。
偉大なる古典をねじ曲げて何の学問か、この事実を押さえてから論ぜよ!
>>747 では、日向、高千穂地方をどう説明されますか?
陳寿「諸葛亮伝や周瑜伝なら気合いを入れて書くがぶっちゃけ倭人の記録なんて過去のそれらしい文献を適当に斜め読みしてつなげただけだからw」
>>741 とにかく九州にあった、ではなくて
「実在して場所が他の文献や現在の地名として確認できるのは北九州まで」が正解
「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、
畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、
伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。
だいたい、狗奴国が毛野国だとすると
「国境を南(方角説で東)に国境を接し」となる
関東って縄文海進で埼玉行田より南は海
貝塚は群馬で出る
まあ、魏志は不弥国までだから
北部九州の情報が多くなるのは当然。
後は倭人から聞くしかない。
卑弥呼も共立王として北部九州に定住。
邪馬台国に行く必要性もない。
>>768 畿内でも陸行一月は言えないのに九州にだけ問うの?
>>747 ねえねえ
だとしたら、なんでヤヒロノオオワニが南韓国の神話には出てこないの?
女性が統治してたといえば佐賀の土蜘蛛
まつろわぬ民だということでヤマトタケルのミコトに虐殺蹂躙されましたの
女戦士や巫女さんたちになんてことを・・
とにかくこの土蜘蛛
卑弥呼からの流れをくむもので間違いありませんの
>>776 倭人は西晋に来てないからインタビュー出来ない
>>729 だから真相は魏志倭人伝に書いてあるんだよ。
奴国が漢に朝貢した時代の影の覇権国であった九州邪馬台は、
倭国大乱(2世紀後半)で大倭(奈良)に敗れ、覇権放棄。
その証として女王即位。今度は、自身が魏に朝貢に出された。
邪馬台の博多港は、大倭が伊都国に置いた代官「大率」に
完全に押さえられていて、下賜品、交易品は全部奈良へw
2世紀後半から鏡の分布が畿内に移った原因は、これ!
邪馬台は、魏が存在する間は、倭国代表として朝貢。
4世紀、朝貢秩序完全消失の折、邪馬台は用済みで滅ぼされる。
だが、卑弥呼や臺與が権力無き権威であったが故に、大倭の
思惑とは逆に、その権威が神聖化され、邪馬台を滅ぼした後、
大倭にはその権威を継ぐ以外に選択の余地は無かった。
大倭あらため大和と書いて「やまと(邪馬台)」と読ませた。
さらには、卑彌呼(や臺與)をモチーフに天照を作り、
天皇の祖先神に位置付けた。
畿内説もわかりやすく図解しろよ低脳
水行の起点は帯方郡であり、投馬国は半島南部の倭人居住区(のちの任那)。
邪馬台国は北部九州一帯を指す。
バベルの塔はいつかは崩れるんですよ
そういう番組を敦クンにやらせてました(笑)
偉大なる中国古典をねじ曲げて何の学問か・・、
倭人伝。魏略、廣志の三史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里の佐賀川上一帯が正真正銘の伊都国だったのだ。
この事実を押さえてから論ぜよ!
>>781 倭国動乱は1世紀後半以前だろ
卑弥呼が2世紀半ばに死んでるんだから
>>781 それはない。鉄鏃等皆無。
農業と土木工事、古墳造りの為の交通インフラ整備等で忙しい。近郊の東海あたりから人集め
なんで、東海系の土器が多い。
>>726 そうなんですよね。そこは一理ある。
奈良の箸墓古墳の頃は絶大な王権が出来ていたと断定できるでしょう。
でないと前方後円墳を作る費用も戦費に出ているはず。
邪馬台国とは九州の一部族の国です。
魏はそれを知っていて、当て字に邪を当てている。多分。
邪馬台国と並行して大王権があったとしたら、大王権、大王圏はすでに畿内で確立しており、九州地方の小競り合い、正当性を海外に求めたものが魏志倭人伝に書かれているだけでは?
もしかしたら、神武系古事記伝承は、本当に日本の大和王権の始まりを語っているかもしれない。
そもそも奴国とは一体何者なのか、ちなみに漢の時代に西方を席巻していた異民族フンをかの国は匈奴と表記している
>>785 とりあえず屋根の上に何かの巴を乗っけることは教えた
>>769 ない
卑弥呼の時代にはない
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があり、
この古墳が卑弥呼の墓とすれば『魏志倭人伝』の「石棺はあるが槨が無い」との記載とは矛盾する。
この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。
何より殉死がゼロ
箸墓古墳がなくなると物証ゼロ
>>788 古事記の黄泉の国に出てくる墓は石室がある
後世の作り話なのは確かだろう
3世紀のヤマトの記録なんて何も残って無いんだよ
>>558 船で10日、歩いて1か月だよね。
10日というのは途中にある海岸沿いのクニあるいは集落が9か所あるということでは。
>>781 滅ぼした国の古事記を乗っ取る必要などないのでは?
書き換えるでしょう?
邪馬台国や九州地方の小国は大和王権に従いながらも独自の外交もしていた。
魏としては立てられているのだから史書に残すが 正当な王権とは言い難いので邪馬台国とシャーマンの国と素直に書き記した。
伊都国が大和王権の出先外交支国として認定されていたのでは?
倭国大乱とは、倭人の北九州から熊襲辺りまで九州地方の小国の大騒乱だったのでは?
邪馬台国と大和朝廷は並立していたが卑弥呼没落後徐々に弱くなり
大和朝廷は卑弥呼没落後日に日に強大化してる
最終的には倭国連合の邪馬台国は
大和朝廷の神功皇后に田油津姫が
殺され、生き残った磐井の一族も
滅ぼされる
宇宙の起源と同じくらいどうでもいいことだね
遠い未来も遠い過去もまったくどうでもいい
人生80年程、この瞬間を生きることの方が大事
>>792 邪馬台国は
避難地、開拓地からのスタートだよ。
縄文期もんの出土が少ない。ほとんど湖で
海とつながる。卑弥呼
あたりから農業生産等が増えた。
もとは小国です。
>>797 お前が言ってることは全部畿内説の布教マニュアルに書いてある
1つの事実と99の嘘で人を丸め込む手法は霊感商法の手口と一緒
>>779 ヤマトタケルに倒されたのは熊襲
土蜘蛛は神功皇后
>>793 では、なぜ卑弥呼の活躍した時代とそう変わらない頃に、箸墓に
現在の我々でさえ確認できる前方後円墳の絶大な痕跡が残っておるのですか?
邪馬台国が九州で覇権を争っていた頃、本州は蛮族の地、未開の地だったと?
それも理屈になりません。
>>794 日本書紀が嘘っぱちとすれば可能
その場合、日本の萬世一系も否定されるし、
聖徳太子もいなかったし、三韓征伐も嘘
天皇家の皇統を証明できないし、日本のオホキミですらなくなるよ
神武東征は熊野灘、三輪山、難波津、都をヤマトとしたってとこまで日本書紀書いてあるしな
”物部”同士で争わせてたのは謝るわ(笑)
だって野蛮なんだもんトライ土人w
>>693 江南から山東に流れ着いた部族がたくさんいた
そいつらが戦乱で黄海を渡って逃げた
つまり丸木舟を操れた
つうか、🐴契丹語でナラ(ナア)って
☀太陽だっけ?
>>804 さっきも書いてたんだけど?
後漢の時代の倭は100国
魏に朝貢した女王国は30国
畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無かった
その強大な勢力は東の倭種の国だろ
もしかするとヤマトが狗奴国だったのかもしれないが
重い石より
木を多用する。櫃石でなく木。
石を使い出すのは後の時代。
>>658 2世紀の倭国大乱で畿内が九州を征服したというなら
どうして三世紀になっても
九州の方が鉄器の出土が多いのだろうか?
・邪馬台国時代前後の鉄器の出土
畿内が強い武器である鉄器を
持たないと九州を征服できないやろ
偉大なる中国古典をねじ曲げて何の学問か・・、
倭人伝、魏略、廣志の三史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里の佐賀川上一帯が正真正銘の伊都国だったのだ。
この事実を押さえてから論ぜよ!
>>801 近畿の悪口はやめよう
縄文後期に絶滅してるからね
>>802 ん?私は邪馬台国は九州説ですよ?
そして伊都国が大和王権の太宰府。
倭国大乱は九州地方の小国の大乱。
それと同時に東征を終えたヤマト王権が
もう一度九州地方の征伐へ。
例え、ヤマト王権が始祖が九州としても、本州に渡って出雲、吉備、四国と血族となって強くなったヤマト王権に九州は一地方となっていた。
磐井の乱もそんな大陸と独自外交をやっていた磐井をヤマト王権が征伐した話でしょう?
邪馬台国に夢を見過ぎていませんか?
邪馬台国≒大和王権が仮定が違いすぎるのでは?
>>809 後漢書ではそういうふうに読めるよ
でも倭種止まりで属せずのみ。
さらに大倭王居邪馬台国の記がある。
クグテみて。
>>721 半島にそのころ何の痕跡もないよ
8000年前くらいから土器が出てくるけど
これ縄文人の隆起文土器
争い始めたアホは捨て、頃合いを見て再び上陸。
そしたら皆死にかけてた(笑) つまずいたっていいぢゃない 人間だものw
>>809 九州の諸部族30カ国を束ねていたのが邪馬台国?
本土が大和政権70カ国の集まりだと?
神武が間違いなく東征に出たのは高千穂からでしょう?
九州を纏めてから東征しなければならないという理由もないし、合点がいきませんね。
>>815 後漢書は後世で書かれたものだということを念頭に置いておけ
束ねてたというより主宰してたんでしょ
年に二回のお祭りで各地の酋長集めて話し合いして酒飲んで誓いの儀式みたいな
>>811 鉄は畿内では殆ど朽ち果ててしまう土壌では?
畿内に製鉄古代遺跡、、、本州にはたたらの遺跡は沢山ありますよ?
>>814 じゃあ「大和」じゃなくて「山門」とかに表現を変えろよ
まぎらわしい
男の王にしたら内乱が起きたと言ってるから、卑弥呼は文字通りの女王だったのだろう
まぁ内乱回避のためシンボルとしてのシャーマン登用だろうな
息巻いて博多あたりにやって来た人間はまるで”借りてきた猫”のように大人しくなるから手懐けるのは簡単だわ(笑)
これ地理的に九州が有力なんじゃね?
邪馬台国が大和朝廷の前身だとしても、九州から畿内に拠点をうつしただけでは?
>>816 あれ6000年前とかでしょ。
あと半島の磨製石器も8000年前。
日本の磨製石器は3万8000年前。
だから半島に土器と磨製石器が突如同時期に出てくる
だから最初に半島に新石器の文化を持ち込んだのは縄文人。
>>821 知っているよ。
でも何かの資料見ている。
>>827 有力というか九州以外ありえないでしょ
畿内説なんてどっから出てきたんだか
決定的な考古学資料がないからなー
日本側に当時の記録がないのがもどかしいよなー
弥生時代て戦乱の時代だったみたいだからいろんなエピソードがあっただろうなー
>>823 滋賀にあるが奈良含め鉄鏃はほとんど出ない。
まあ、古墳時代に入って再利用なら見つかるはずはない。
たたら?そんなに早いの?
>>831 大和朝廷が畿内
邪馬台国=大和朝廷
て思い込みのためでしょ
で、邪馬台国が大和の前身だったとしても、拠点が九州から移ったという仮説も立てないという
あ、ちなみに邪馬台国が大和朝廷の前身だと確信してるわけではないです。
全くの別物であった、とも思ってます。あくまでも色々な可能性があるなというだけの話。
>>829 魏略もしくは倭人からの伝聞だろう
伊都国には代々王が居たというのは魏志倭人伝にも書いてある
しかし史書に出てくる大倭はダーワであり、ヤマトとは読まない
考古学ってこういうレベルの低いやつが学者を名乗ってるから支離滅裂になるんだよ
『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』
>>820 こう
>
王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。 [4]
殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であり、その総数は周初で1,700、東周時代で1,200を数えたとされる。
日本における、1国=氏族を長とする邑のことだろ
対中国比で20分の1なら10億:1億程度。
妥当な数だろ
>>813 鬼界カルデラの大噴火で火山灰が近畿までいったから
縄文人が住めなくなった。
そんで九州にいた渡来系弥生人がほぼ無人だった近畿に根を張った。
よく縄文人を弥生人がジェノサイドしたとか言ってるけど、あれは妄言。
DNAでも証明されてる。それだったらY染色体のDがこんな残んないし。
ワイはやっぱり福岡のあたりかなっていう感じなんやけどな
宮崎だかどっかに、割と大規模な遺跡が発見されて邪馬台国の可能性も考慮されたが、大人の事情であまり調査されてないらしいな
土人「オトコ コロス」
未亡人「責任とれやゴミ」
土人「ハイ…」
↓平定
土人「言う通りにしました」
未亡人「じゃあお前は代役な」
土人「へ?」
未亡人「永久に拘束の計 全て契約式にしちゃる ずっと祈ってろ」
土人「ははーっ」
>>809 後漢書の読み方が未熟
漢書地理誌を参照すれば、楽浪郡に通じていた小国が100とある。
それは弥生前半の古い昔の事で、当時既に、倭の100国と半島の楽浪郡とで交流が有ったことを物語る。
それが、帯方郡が開設された三世紀には、(倭国は30に集約されて)その30国と通交していたということだ。
昔の100は楽浪郡の時代の倭、今の30は帯方郡の時代の倭、100と30では時代が大きく異なるのだ。
>>833 どこまで古いかはまだ分からないですが、弥生のあたりまでは遡れるかも。
吉備や安芸の国で製鉄があって、畿内に流れてこないはずがない。
もしかしてやはり殆どが盗掘と土壌で溶けましたか?
古代中華でも信用度が異常に高いのは史記辺りからでは?
史記は当たり前のように夏王朝の事を書いていますし。
後漢や三国の時代はそれぞれ盛る可能性はありますよ?
中華が荒れ、互いに競っていたのですから。
>>828 なんの痕跡もないんだよね?
>
櫛目文土器時代(くしめもんどきじだい)または櫛文土器時代(せつもんどきじだい)とは朝鮮の考古学的な時代区分で、紀元前8000年から1500年の頃に及ぶ。
>
無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。
この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された
なんの痕跡もないんだよね?ね?
816 ニューノーマルの名無しさん[] 2021/07/14(水) 13:53:44.35 ID:+5/1GSX70
>>721 半島にそのころ何の痕跡もないよ
8000年前くらいから土器が出てくるけど
これ縄文人の隆起文土器
応神天皇が九州で生まれて敵を倒しながら近畿入りしてるから
当時は
九州
近江越前
大和
で三勢力くらいあったのだろう
>>842 宮崎からは、大量の前方後円墳が見つかってる
邪馬台国というより天孫降臨の地と言いたいみたい
高千穂もあるし
九州とは思うが、おそらく古代史において重視されて来なかった県だと推定している。
>>809 言い換えれば、後漢書は楽浪郡の時代を記述した史書
倭人伝は、帯方郡の時代を記した書だ。はっきり分けて読み解け!
日本人はアヌンナキでありシュメール人だよな
宇宙から来た神だわ
本来九州にあった住吉の本宮は大阪にある
海人が自在に移動していた一つの例
>>850 なぜ九州だと思うんだ?
縄文系で天皇に反抗し続けてた地方だぞ
絶対にないわ
>>834 邪馬台国=大和朝廷のが辻褄合わせ大変そうだけどな
>>838 では、箸墓の3世紀(卑弥呼の活躍した時代)畿内はどうやって鉄で有利な九州を制圧できたでしょうか?
大体において、鉄が銅をしのぎ、鉄を持つものが歴史を制したことは理解しますが、
それならば、何故邪馬台国は畿内に移動したとき鉄を持っていかなかったのか?ともなります。
どの案にも私は否定的に接していませんよ?
全部皆さんの、読んでいますよ(そうかも?違うのでは?)とは思いながらも。
貴方の理論で行くと、九州が大和政権だったと説明しなければならなくなります。
>>855 そもそも邪馬台国が後のヤマト政権とは全く別の王国と考えているんだよ
>>1 邪馬台国があったのは、今でも縄文系の血が濃くいつまでも朝廷に反抗し続ていた九州でないのは確かだ
北部九州は邪馬台国の勢力下だし、
南部九州はクマソが圧力かけてくるしで、体制強化のための神武東征だろうな
邪馬台国を避けて、四国経由で畿内入りし、倭国大乱中にじっくり国力を蓄えたのだろう
そして、満を持してヤマト政権となって念願のクマソ征伐まで達成と
>>845 溶ける?
あるとしたら、再利用だ
まあ斎場でもあるから野ざらしにはしない。
>>859 邪馬台国を縄文系とするのは奇説沈設だな
邪馬台国が大和朝廷と無関係なら、邪馬台国の存在自体が日本人にとってどうでもいいものなるな
>>850 そう思うじゃん?
ところが宇佐八幡宮は九州にあり、
神功皇后の息子、応神天皇ことホムタノスメラミコトが生まれたところとして祀ってるわけ。
もともと八幡神自体は別の神で習合されただけなんだけど。
神田明神と同じ
なによりここの原神は宗像三女神。
アマテラスとスサノオの誓いで和平して降りたのに、
近畿と出雲にはない
あるのは九州と出雲の間
>>861 神武は熊襲の出だろ
大和朝廷の祖が南九州出身なのに、最後まで服属に抵抗したのが南九州。
どうやらワケアリ
>>864 いまだに「大和朝廷」なんていってるのは、歴史観が何十年も遅れてるぞ
>>855 それ熊襲じゃね?
北部九州を中心とした日本海側の海人は倭人が建国した新羅とも関係も深い勢力だぜ
前方後円墳の出現も早いし大和王権とのつながりも強い
>>851 なんで鹿児島?
隼人じゃん、それ
なんで山彦の子孫が海彦の子孫のとこにいるの?
大和なんてのは本来、西の果てには無いよ
真ん中でふんぞり返るただの”情弱”にしか過ぎん
性に合わんから見捨てているが、最後には助けてやることもたまにはある
今回はどうなるかな
>>685 >潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
>「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
つまり製造技術的に見て、当時の日本で不可能なレベルってことね
素材の銅はどれも中国産だから
日本製か中国製か区別がつかんのがネックだから
中国側が中国製と判定してくれるのは助かる
>>27 倭というのは当時の中国での発音はワに近いウァ
意味は「背の低い人間」
当時の日本人トップはそれを特に文句も言わずに受け入れてたというかスルーして自分たちのヤマトという国家名をあてていた
そのうち飛鳥の国家が台頭した時点で呉国でワと発音してた和という漢字の方が当時の国内統一を踏まえて適切かつ良い意味をもつことを知り更に強国である意思として大を頭に据え、大和をヤマトと呼ぶ当て字にすることにした
>>863 なんで奇説なんだ?
魏志倭人伝に描かれている
邪馬台国の風俗は
顔に入れ墨を入れているとか
いかにも縄文人の風俗じゃないか?
弥生系の埴輪には顔に入れ墨などない
のっぺりした顔だけれど
縄文人の残した土偶には顔に入れ墨が入っているだろ
どう見てもあの記述から邪馬台国は縄文系民族の国だろ
>>709 でも邪馬台国時代に畿内にある中国鏡よりも
ハイレベルな中国鏡が九州にあるというなら
当時の日本の対外的な代表は九州ということになるぞ
>>847 >>840 この辺の方の理論が、自然科学と東征神話の親和性が高いと思いますね。
シュメールのウルもそばに河があったからウルが繁栄した。今の姿だけ見ると砂漠にウルです。
東征とは、九州で華開きつつあった倭人文明が自然現象によって東への民族移動をも促した。その過程で出雲の国や吉備の国とも出くわしていった。融合し、気が付けば旧来の土地九州よりも強大な権力になった。
邪馬台国という地方文化よりヤマト王権が強大になった。
しかし、鉄の話になると確かにうまく説明ができませんね。
鉄の謎を説かねばなりませんね。
そもそも朝鮮南部まで自由に行き来してた北部九州の海人勢力が九州だけに引きこもってるわけがないという
>>858 記紀をとるなら東征説、新唐書をとるなら東遷説
そして大和を中心とした統一国家となったのが8世紀
日本史で教わった通りだろ
スメラ派の都知事は専門家だよ
今は大変お忙しい時期だろうから大人しくひれ伏しとけ
邪馬台国と対立して争っていた狗奴国は
熊本県だという説が根強いよな
つまり邪馬台国の南に接する狗奴国が熊本県だとすると
邪馬台国は熊本県の北部から福岡県、佐賀県、長崎県くらいの地域にあったんじゃないの?
そして熊襲=熊本県だとすると
クマソタケルを殺して、熊襲を大和朝廷に下した時代は、本当は邪馬台国の卑弥呼の時代よりも
後の時代になるんだろうなと思う
邪馬台国の場所を専門に研究してる学者に、そんなことどうでもよくね?って言ったら発狂するんかな
>>767 投馬はヅマと読んで出雲かな
まだ畿内へいくにも日本海航路がメインの時代
>>855 意味がわからない
それ宝賀の説でしょ?
> 一方宝賀寿男は、熊襲の「クマ」は「熊(羆)」のトーテムを表し、神功皇后と戦った羽白熊鷲などは、
その「熊」・「鷲」の名称や「...其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る...」といった記述から、
「熊、鳥」をトーテムとする天孫族の末裔で、邪馬台国王族[注釈 1]の子孫とする説を唱えた。
また津田左右吉らの説に反論し、狗奴国は「狗(犬)」のトーテムを表し、犬狼信仰と犬狼獣祖伝説を持つ縄文人の国であると想定した。
隼人は「吠え人」(狗のように吠える人)の意味で、狗奴国の末裔が隼人であると唱えた[5]。
>>881 発狂はしないだろ?
例えば青色ダイオードでノーベル賞とった赤崎さんに
研究中にダイオードの色が青だろうとどうでもよくね?と素人が言っても
相手にしないだけだろ
>>880 まあ、あんなに鉄鏃が出ればそうなる。
けど邪馬台国の南に狗奴国がある記はない
女王国の境、その南である。
>>885 だから、シナ人に女王国と認識されてるのは、邪馬台国のほかにないんだよ
>>846 ないよ。それ以前の。
櫛目文土器時代とか言ってるだけで
実際に土器が櫛目文出土したのは紀元前4000年で6000年前。
隆起文土器は縄文人が1万2000年前から日本列島で作り始めたもん。
半島の土器が出てくる前の時代はなんの痕跡もない
この時代を韓国の考古学会は中石器時代とかいってる。
遺跡なんてないよ。
>>877 雄略帝が埼玉で語られておるからその頃に坂東は大和王権の支配下。
坂上田村麻呂が阿弖流為を征伐したのが8世紀前後
確かに、或る意味日本国というのが確定したのは8世紀でしょう。
邪馬台国がヤマトで奈良で、卑弥呼も奈良で?でも鉄がない。
鉄がない所が九州を後に平定したことは事実。
まだまだ答えは出ないでしょうね。
>>881 熊襲討伐の記録でも天皇皇后そろって九州まで来てたりするし、ぶっちゃけどっちでもいいと思うぜ
古代日本は平安遷都までわりと頻繁に遷都してるし
>>886 だから何?
認識が違うだけ、それが正しいとは限らない。
日本古代史専門なのか?
>>882 多分そうだと思う
「出雲」は当て字だろうし、ウィキによれば伊豆毛とかいろんな漢字がかつて使われている
語源は不明だが、古代には「投馬」の文字が当てられるような発音だったのかもしれない
魏志倭人伝に踊らされ過ぎなのでは?
やはり国内の本当のヒントは古事記、日本書紀、風土記にしかわからない。
ただ、半島系の方々の我々が伝えたのだ願望はほぼほぼ現代考古学、その他の文献でも否定されるでしょう。
ヤマタノオロチ伝説や継体天皇のこともあって
邪馬台国は越前説も有力になってきているんだよな
大和は越前の邪馬台国が奈良盆地に遷都してきたのではないのかと
>>887 きみ、なんもしらんダメな子なんだね
櫛目文様土器って北九州で出土してるよ
じゃ祖国でがんばってね
>>894 古事記、日本書紀はヤマト政権の歴史が書かれている
そこに邪馬台国の卑弥呼が書かれていないことが
邪馬台国はヤマト政権とは別の政権ということを物語っているんだよ
だから名前すら出てこない古事記や日本書紀で邪馬台国を研究するのは無意味なんだよ
日本の古代にはヤマト政権以外にも多くの王国があったんだよ
>>894 魏志倭人伝はどこまでが本当かよくわからんからまぁ参考文献って感じだな
最近は弥生中期には倭人が半島南部に根拠地つくってるのもわかってきたし
想像以上に倭国領域内の行き来が盛んだったようだ
京都郡だ
何度も言うが京都だ
そのままにしている所を見ると都人とはその子孫なのだろう
>>894 何故か魏志倭人伝のみ
神聖化なんだよね。
膨大な三国志の一部なんだよね。
>>891 シナ人が邪馬台国のつもりで女王国と書いてるなら、その文献の中では邪馬台国としか読めない
>>896 上から遡って話の筋を見返しな。
頓珍漢な返ししてるから。
卑弥呼も当て字なんじゃね?
読み方がおそらくヒミコではない何か
>>900 神聖化も何も
邪馬台国を語っている文献はそれしかないから仕方がないだろ
マヌケかな?お前は
偉大なる中国古典をねじ曲げて何の学問か・・、
倭人伝、魏略、廣志の三史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里にあたる佐賀川上一帯が正真正銘の伊都国だったのだ。
この事実を押さえてから論ぜよ!
>>901 シナ人の見解に過ぎない
尖閣も取られたそうだな。
ぶっちゃけ宮崎康平に夢中になった老人世代がいなくなればもうちょっと公平に文献を読めるようになると思うよ
>>906 そりゃシナの歴史書なんだから、シナ人の見解が書いてある
日本人の見解が書いてあると錯覚してたのか?
>>894 >半島系の方々の我々が伝えたのだ願望
これのせいで古代国家の成立過程はかなり曖昧にされたまま
古代に日本の半島の支配があったってのを隠すので必死
>>904 そんなもん知っているよ
間抜け、仕方ないの意味
絶対化ではないて事でいいかい?
>>881 雑魚素人が言ってもな
世界ランク56位の錦織圭すげー!とか言ってるけど、
日本人でグランドスラム達成してランキング1位になった人知らんだろ
え?大阪?でおわる
国枝慎吾のことなんか誰も知らんよ
「それがどうしたの?(ニヤニヤ」とするが、
どうしたのと言われたやつの本は国会図書館に残り、
ニヤニヤしてるやつの記録は残らない
もしのちの発掘で確定したらあらゆる本に名前が載る
だから在野も専門外も口をだす
言ったもん勝ちだから。
邪馬臺国はグンマーだった!
今でも当時の風俗を脈々と受け継ぐ現地人に話を聞いてみましょう!
>>897 そういう事です。だから何度も邪馬台国とは九州の一部族のシャーマンの国で、熊襲に破れたことなどが書かれているのでは?
それら全てをほぼほぼ纏めてきたのがヤマト王権では?
邪馬台国と魏志倭人伝の神格化がいつの間にか日本創世記と一緒になってませんか?
>>911 邪馬台国という名称が出てくる文献が
魏志倭人伝しかないのだから
まず最初に魏志倭人伝を元に考えるしかない
つまり絶対化は仕方がないってことだよ
>>903 当時の音は、ピミクだ。
今の音に直すと、ヒメコ(お日様の娘)だな。
他国の王や邪馬台内の国の長官が◯◯ヒコ(お日様の息子)
だから、それとの類推で考えればヒメコだな。
ヒコ → 彦・比古
ヒメコ → ヒメと略す = 姫・媛
>>913 別にオレは邪馬台国が日本創世記と一緒にしたつもりはないけれど?
>>909 陳寿から聞けるわけじゃないだろー。
その人の見解だよ。
正しいとは言えないよ
>>905 伊都国理論については聞けますが、
中国古典書がすべて神格化もどうなんですか?
魏志に夏王朝のこと書いてますか?
何かの”せい”なんてまるで”チョン”と同じ思考回路だなぁ(笑)
そんなに”産業の米”である回路を止められたことは効いているのかい?
まだまだだなw
>>903 そんなの常識だろうに
卑弥呼
邪馬台国
は漢字からして誤字で違う
ダレが勝手に変えたんだろうな
そりゃみんな自分が関わってる遺跡が邪馬台国だという願望があるでしょw
>>897 日本書紀にでてくる田油津媛が卑弥呼か壱与なら邪馬台国は九州で確定できるけどね。
ヤマト王権側から見たら他所の勢力=土蜘蛛なので、その程度しか記載がなくても仕方がない。
田油津媛、たぶらつひめ・・・たぶらかすひめ
鬼道で人を惑わすにはピッタリのネーミングだね。
>>915 ところが、クヌ国の王は卑弥弓呼で男なんだよな
観光名所にしたい各地の利権の綱引きがあるからな
ただ、畿内説は無いわ
>>886 複数回出てくるよね
> 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
読めばいいのに。
> 官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、
よろしく二キー!
邪馬台国はJ民の国だった!
だからJapanというンゴ
>>917 歴史書に書いてることを根拠もなく「正しいといえない」で無視するなら、歴史書の話に口を出すべきじゃないな
>>921 表音文字が漢字だけだからだよ
「瑞典」って日本人なら読めるだろ?
「葡萄牙」は?
「露西亞」よめる?
「亜米利加」は?
聖徳太子知ってる?
ぶっちゃけ邪馬台国論争ってどこだかわかんないことにしておいた方が本は売れるし地域おこしにもなるしいいんだよなw
「九州にあった可能性も」といっておいた方が老人が喜ぶ
>>923 山門の田油津媛の事?
あれは、卑弥呼時代から100年くらい後の後継者では?
>>910 日本は堂々と箸墓古墳、その他に発掘の手を入れるべきだと思いますね。
遺伝子工学的にも、今の半島人と我々は関係ない。
日本人とは縄文系と弥生系の融合した独特の民族であることはもう確かでしょう。
その民族の総意と象徴が現皇室ならば、私は日本人としてこれ程よろこばしい事はないですけれどね。
日本書紀の東征は史実だと思う
大和政権は九州発祥よ
邪馬台国がすでに近畿まできてたか、九州にまだとどまってたかは分からんけど
南北朝的なヤマト国卑弥呼朝って感じかね?
ウチらが正当なヤマト国だから認めてねーって感じで
お墨付きを大陸に求めたのが卑弥呼一派とか
そもそも邪馬台国なんて勝手に付けられた当て字でしょ
魏って文字だけど
「委」と「鬼」なのは何で?
倭の「委」が入ってたり「鬼」って
どうしても同時代の卑弥呼の鬼道とか思い浮かべてしまう。
昔からこの「魏」の由来が気になってる
>>922 耶馬台国関連では
神武やダビデの子孫というのも
最近乗っかって出て来たようだがな
ツベでもこの人を天皇にしろと
どっかのおじさんと新興宗教信者が
必死にツベでステマしてるようだけど
そもそも邪馬台国を大和だと言い出したのは
文字読みが「やまと」と近いってことが出発点だろ?
でも邪馬台国の当時の中国人たちの読みの研究が進み
今では「やまと」とはかけ離れた発音だったことが判明している
発音
邪馬臺(台)國(国)
秦 漢
ʎia mɔ dʰəɡ kwək
魏
jia ra əї ək
つまり魏の時代だと ジャラライエク みたいな発音になっている
もしかしたら邪馬台国は前の時代の漢の読みから引き継いでいる可能性もある
だとすると イーアイエムディクエック みたいな発音だったことになる
つまり中国人が邪馬台国とされる女王国の国名を当時の倭人たちは上のような
発音で読んでいたのを当て字にしたのが邪馬台国だったのだ
「ヤマト」という発音とはかなり遠いだろう?
もう畿内説なんてトンデモ論はやめませんか?そもそもの前提である発音も全然違うんだよ
>>925 それならば、邪馬台国は日本人の夢として、永遠に隠したほうが良い。
九州各地(北部)に此処こそ、と夢を持てるし、畿内も好きなように名乗らせればいい。
ただ、魏志倭人伝の邪馬台国が大和王権に繋がるような話や半島系の方々の望んだ、
我々の子孫が日本人と皇室なのだ、のファンタジーは消して頂きたいですね。
ある程度確定してきた考古学の邪魔です。
そうですよね
他国のルーツにケチをつけるのであれば、この際だから日本のルーツの白黒をハッキリさせることも”国民の総意”として受け止められている可能性はあります。
少なくとも宮内庁ごときの役人の出番では無い
>>927 書いている事には問題ないよ
素直に読む
そのシナ人の根拠もない
>>792 前方後円墳は畿内から出雲、九州に広がってる
また遺構の存在、そして周辺国から土器が集まるほどの大きな国が畿内にあったのは考古学的事実
>>840 中国でもそうらしいが
「農耕民族がやってくる」
↓
「先住狩猟民族は農耕に適さない土地に追いやられる」
ということが起きる
縄文人の多い地域である南九州が
農耕に適さない土地を考えると
少なくとも迫害はあったろう
>>934 今風に言えば、邪馬台国(ヤマト)こそが倭王による正式な国家であるとシナの皇帝がお墨付きを与えてる
だから、のちのヤマト政権も、俺らはヤマトの正当な支配者だよと名乗ったのだろう
この子バカなの?
邪馬臺国は中国の本にしか出てこないし、
魏に送った記録ないから
日本人の書いた歴史書を元にすると近畿どころか存在しないことになってるんだけど。
新井白石が再発見するまでみんな
「え?邪馬臺国って日本のことなの?」と思ってた
だって旧唐書に書いてある
> 日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。
或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」
或云:「日本舊小國、併倭國之地。」
ID:O9u8BKCl0
>>940 素直に読めば女王国は邪馬台国じゃないか
邪馬台国のことを女王之国といってるのだから
キチンと記録に残っているから”何も怖がることは無い”
by アリア
>>930 山門の田油津媛だね。
戊子年をどう捉えるか次第かな?
>>942 争いがあったとしたら九州くらいじゃないの。
それも小規模の小競り合い程度だと思うけど
縄文末期の日本全土の人口が8万人
東京ドームに押し込んだら収まる程度しかいなかったから
争おうったって無理ある。人口密度の問題。
>>948 つまり当時の倭人たちは文字を使っていなかったので
倭人たちが女王の国を「ジャラライク」みたいな発音で呼んでいたから
当時の魏の読み方で「ジャラライク」と読める邪馬台国という文字を当てたということだよ
理解力がない奴だな
畿内野郎は邪馬台国を大国だと思ってるけど揉め事を収めるために担ぎ上げただけで実務は周辺国家がやってたと思うわ
>>934 違う。
漢の時代、奴国が「倭国代表」として朝貢してたのに、
魏になって蓋を開けてみたら、びっくり!
なんと奴国は邪馬台の配下のクニに過ぎなかった!w
そして魏志の邪馬台を見ると、どうやら倭国大乱で敗れて
覇権放棄の証として女王(=剣を持たぬ王)を立ててる。
邪馬台の港は謎の勢力「大倭」に押さえられていて、
どうやらこれが新たな裏の覇権国だ。(大倭=後の大和)
今度は邪馬台が「倭国代表」の名で魏に朝貢させられてる訳。
>>937 隋書にも魏志倭人伝の邪馬台は大和のことですってちゃんと昔の中国人が書いてるし
>>952 ジャラライクなんて言葉の痕跡が日本のどこにもないじゃねえかwwwwww
>>955 それは大和朝廷が送った使者が
邪馬台国を継承したのが我が国ですと偽証したという意味だと思うよ
邪馬台国は昔、倭人と言われた我々日本人の祖先の国。シャーマニズムや不思議な事を含みながらも女帝を立て、他国と争い、日本の大地で生きた。
そして、女王は国の為外交し、魏にも使いを出し、自らの国と国民を護り、台与に世を譲り、邪馬台国は伝説となった。
史実は東征した現皇室系日本人の祖先大和王権が5世紀の前後には関東平野まで、平安、坂上田村麻呂の頃には、ほぼ秀吉と同じく日本という国の形を確定した。
邪馬台国は、そんな我々日本人の祖先のファンタジーと実在した国と女王の国の一つであった。
これでいいじゃないですか?武力の時代に女で国を収めどれほどの心労と苦悩があったことか。魏志倭人伝はその一人の女王が実在したという史実書だと。
ここまで盛り上げておいて実は中国が作ったの空想の国ですただったら面白いw
>>956 そりゃあ邪馬台国は滅んでいるから
残っていないのは当たり前だろ
>>947 素直に読んでも
奴国、伊都国等は女王国ではないのか?
女王之国てどこに記がある?
とうに畿内なんて見放しているがな(笑)
小の小中華思想だもんなぁ
>>952 あんまり意味がないな
ゲーテを日本語で表記するに当たって、発音記号に忠実に、ギョエセとしてたのと同じ
逆に、原音から離れる
>>955 大和のことなど
一切書いてなかったが
その大和やらの原文ここに貼って
それ説明してみ?
ジャラライエクかイーアイエムディクエックが当時の呼び名とすると、日本に当てはまる地名はどこだろ?
伊都国は糸島市ではなくなる?
>>950 なるほどです
卑弥呼か壱与の可能性もあるのですね
ありがとう
>>961 奴国が女王国と、いったいどこに書いてるんだ?
書いてないことは読めない
>>943 そう。
4世紀頭に華北が異民族侵入で完全崩壊し
これに伴い東亞に朝貢秩序が消失したので、
その隙に大倭(奈良)が邪馬台(やまと)を滅ぼした。
そして半島で暴れていたが、5世紀頭、高句麗にボロ負けし、
半島南部の権益を安泰にする為、それまで無視していた
大陸の南朝に朝貢した。これが5世紀の"倭の五王"だ。
「ほら、うちら魏に朝貢してた"やまと(邪馬台)"でっせ、
国号は大倭と書いて"やまと"です。よろぴく。」
>>963 それを言うならば
魏の人が
当時の倭人たちが女王の国のことを呼んでいた発音を聞いて
文字に書き起こした
邪馬台国という文字列が大和の国のヤマトという発音と似ているから
邪馬台国=大和のことだと認識しているほうが
ジャラライクという発音で考えるよりも
何千倍も意味のない空虚な論ということになるだろ?
魏の当時の邪馬台国と「やまと」の発音はまるで違っているんだから
>>957 >>964 しかしまぁいつもの通り屁理屈しか言わんなw
これだからいつまで経っても文献を公平に読めないんだわ
>>934
もっといえば覇権をその地域に認めてるにすぎない
織田上総介信長は千葉県北部をもってないし、
斉藤山城守道三は奈良なんておさめてない
「攻めていい?」
「えー?どーしよっかなー」
「ほらこれ。珍しいでしょ?」
「え?なにそれまじすげー」
「攻めていいならあげちゃう」
「じゃ、好きにしていいよ」
が官名
だからワカタケルに征東大将軍あげちゃってる
> 421年から478年にかけて、倭の五王たちは中国南朝の宋から「倭国王」の称号とともに「安東将軍」号を、
438年には王族の倭隋ら臣下13人が「平西将軍・征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍」などの将軍号を受けた。
倭武は479年、南朝の斉より「鎮東大将軍」号を受け、天監元年(502年)の4月、南朝の梁より「征東大将軍」号
高句麗も百済ももらってる。
百済ない >>968 我々がヤマタイコクと呼んでるだけで、
邪馬臺国は邪馬台国。
他の国の話ならスレ違い
NG
>>969 ID:KeNmKPO+0(10/10)
>しかしまぁいつもの通り屁理屈しか言わんなw
初めて書き込んだんだが
この言われようで草
なんだか原文もだせず屁理屈レッテルとか
洗脳されてそう
>>965 戊子年を日本書紀通りに読むと208年
+60年すると268年でその次だと328年
268年だと卑弥呼が丁度死んだ辺りの可能性もある。
(卑弥呼の死亡年は正確には書かれてないけど247年よりも後)
壱与に代替わりした後の年号は魏志倭人伝には何もないから
壱与に代替わりした後の出来事なら田油津媛は壱与の可能性もある。
>>955 初出は旧唐書
日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。
或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」
或云:「日本舊小國、併倭國之地。」
大和などと書いてない
> 隋書の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記載があるが、倭国ではなく俀国と書かれている。
「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕る
とある。
『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、
608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての資料となる。また、
「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。
並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す
とあり、新羅と百済が、
共に、大国にして宝物の多い俀を尊敬し、常に使いを通わせていたとの記述と思われる。
>>967 こうでは?
日本では沢山の国が朝貢しましたが、
最終、倭を束ねたのは大いなる倭人の総意の国、ヤマト王権です。よろしく。
確かに邪馬台国やその他の国は大和王権成立前に、大統一の前の倭人統一の黎明期王朝の一つだったかもね。
大和地方の地名が九州北部の地名との話は、全てを束ね、大和を創ったが、倭人の国の大王である。と示したかったのかも。
奈良や九州だけでなく他の地域も名乗りを挙げることで、
邪馬台国で国内の内需を活性化できるのではないかw
ということはつまり、このスレの需要が示しているように、
この問題が決定的に解決されることは望ましくないだろう
>>978 邪馬臺国日本説
「邪馬臺国は日本にあった!」
解決。
和をもって尊しとなす。
>>505
>偽籍の代表的な戸籍とされる。
お前のねたみ感想はいらね〜。 ねたみ屋は消えろ! @阿波 >>973 だからw
頭硬いなあw
俺たちが邪馬台国と呼んでいる国は
当時の倭人たちはどういう発音だったのかということを語っているんだぞ
低能か?
その発音が魏の人の耳にはジャラライクと聞こえたので
結果的に邪馬台国という文字で書き起こしたという意味だぞ
大和とはまるで発音が違う国だったってこと
理解しろよ
>>937 同じじゃん。カタカナにするから違って見えだけw
だが、邪馬台は九州北部にあったんだよ?
邪馬台の当時の発音が「やまと」の音に近くて遠いのは
当たり前で、当時の九州方言と奈良方言との発音の違いに加え、
年代による日本語の音変化も加味して考えないといけない。
>>976 長々と書いてる割には結局屁理屈じゃねーかw
面白いけど
3世紀の畿内に7万戸の国があったと言い出すやつは頭おかしい
「纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」
以下、桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
「3世紀時点で大阪は存在していない」
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html >>976 だな
隋書の原文でも「大和」など書かれていない
>>977 てか、文献に合わせて名前変えちゃえばいいんで。
「漢から倭王貰ったのは奴国で、魏から親魏倭王とか貰ってる邪馬臺国とかあるんやけどー?」
「じゃ俺たちが倭王を名乗って、あとから統一したらよくね?
殷の都市は大邑だし、大倭ってなのろうぜ!」
「おまえあたまいいな」
日本第一党なのに韓国焼肉にユッケ復活とか言ってて、
韓国人が在籍してて、
なおかつ第一どころか最底数の議員しかいない党がある
日本第一党なるしろものは
日本人でもなく、第一でもなく、党ですらなかった。
正直に言えよ シナ氏は大陸に近い奴隷国の最前線に降り立ちそこにいた人たちを酷使させ、女の子を拉致してつれ回し、ずっと後方の東に拠点を築きながら畿内へと移動
都が完成したら西へ踵を返して再び奴隷を従わせるために征伐を行った
その後東日本北日本も征伐して西果ての奴隷国へ強制的に移住させたとな
>>978 私もそう思いますね。目くじら立てて場所探ししなくとも、間違いなく現日本人、古来名称倭人の女王の国。
確定的なものが出る日まで倭人の、我々日本人の祖先のファンタジーの国で良いではありませんか?
ただ、それと半島系の方々の望んだ野望や、邪馬台国≒大和王権という考えは捨てないと歴史の論争になると思いますけどね。
箸墓も早く発掘すべきです。大倭の頃の痕跡でしょう。邪馬台国ではないにしろ。
>>984 その辺に興味があるなら、それこそ謎の高津宮を探求されたら如何ですか?
大阪ではヒーロー扱いかも?
しかし幸い、船で沖に避難していた人たちが越前に集結して力を蓄えて団結。
日本海民の面目躍如
>>981 あのね
倭人の言葉を朝鮮半島の人間が漢訳して、
それを書いてるの
キムジョンイルと呼ぼうが関係ないの
清国の通辞に新井白石が聞いて、「ヤマタイ」と読むのであろう、と「推測」したの
ジャバウォック国でもなければ、ジャワ大国でもないの。
> なお、一説に依れば、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない[4]。
[4] 汪向栄『中国の研究者のみた邪馬台国』同成社、p.213。ISBN 978-4886214096
ヤマイなのかヤマタイなのかジャマイなのか知らんけど、
日本ではヤマタイと読むの。
きみが言ってるのは
「エカテリーナ2世じゃないよ!カタリナ2世だよ!
いやキャサリン2世だよ!いやいやカテリナ2世だよ!
いやいや。カーテローゼ2世だよ!
そんなバカなシャルロッテだろ?JK」と同じ
マガリャンでもマゼランでもマーガリンでもいいの
中国人の間では邪馬台国とは九州にあった国で後に大和に滅ぼされた、というのは常識になっているようなんだよな
中国での邪馬台国の歴史はどう記されているのかが知りたいわ
たぶん日本人よりも邪馬台国のことをよく知っているんじゃないのか?
https://cd.hwxnet.com/view/badgdjmjgklcfkjb.html 日本古国名。约公元一世纪末二世纪初出现在九州北部,公元四世纪末亡于古大和国
日本の古代の国の名前。 1世紀末から2世紀初頭にかけて北部九州に出現し、4世紀末に古代大和国で亡くなりました。
>>991 バカなのか?
日本が邪馬台国をやまたいこくと呼んだのは
新井白石以降だろ?
卑弥呼の時代の倭人が邪馬台国をなんと発音していたかが重要だろうがw
その発音を聞いた魏の人が
漢字で書き起こしたのが邪馬台国なのだから
魏の時代の漢字の読み≒当時の倭人の発音
ってことを長々書いているんだぞw
なんで江戸時代以降の発音が重要視されなきゃいけないんだよ
頭悪い奴だな、こいつ
>>992 邪馬台国が200年続いた?卑弥呼と台与が100年ずつ生きた?
無理があるなぁ、、、それだけの王朝なら日本の古事記、日本書紀にもハッキリとこれこそ!と言う記述があるでしょう。
>>995 卑弥呼の前にも邪馬台国があって
王がいたんだろ
>>992 俺は台湾に滞在してた頃に台湾人にそれ教えられたよ
>>997 正当性を名乗りたい大和王権がそれならば克明に邪馬台国について語っていなければなりませんよ?
「倭國者,古倭奴國也」。は書かないんだよ。
倭国者はつまり邪馬台国ではない。
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