考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)
江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半〜248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2〜3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4〜23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19〜26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
http://2chb.net/r/newsplus/1625959148/ >>979
>はえー、まあ最短距離だものね
対馬海流をなめんじゃね〜よ。 @阿波 でも、橋本や丸山や小池がウダウダいうわりに責任とりたくないから抜本的な決定からにげるなかで
森さんが陛下の意嚮もくみつつ「無観客もやむなし」の決断をくだしたのをみたときは
「な?やっぱり女だとダメだろ?」っておもったよネ
世界のほぼすべての地域で、数千年の歴史にわたって男が国をおさめてた事実には理由があるんだよね
それでなんら支障なかったわけだし
残されてる史料から移動手段と日数からおおまかな距離を算出するに九州説より大和説が有力だとかなんとか
畿内説か九州説かって、ヤマト朝廷と邪馬台国に関りがあるか無いかって事だよね
そもそも魏志倭人伝の記述が少ない上の載ってる史書がずっと後に書かれたもので
記述もいい加減なんだから確定しようがないだろw
中国史で言ったら夏王朝みたいなもんやで
>>987
>名護屋城の辺りだな
名護屋城の西方が朝鮮半島へ向けての出航地だ。 そこらは「末盧国」じゅね〜よ。 @阿波 纒向はどうみてもヤマト王権の遺跡で邪馬台国とは完全に別物なのだが。
あそこを調べるのなら邪馬台国じゃなくヤマト王権の成立過程の謎!だよね。
大陸の三国時代には歴史書にあるのに日本では謎である
邪馬台国って、悠久のロマンがあるね( ^^)
畿内説と九州説でお互い起源主張っての、どこぞのあれみたいだよな。
ぶっちゃけ邪馬台=やまと=大和なんだろ?
なんでこんなに拗れんの?
>>7
関わりがあるにしても
そのヤマト王権系列の朝廷が東征神話を掲げとるしなー 今の科学力じゃすんなり分かるんでないの、両方観光地として生き残るための政治でグズグズしてるんじゃねえの
>>10
ですね。 日本書紀をもっと調べたらと思います。 >>3
はいはい対馬海流と無縁な阿波さん
魏志倭人伝の政治の記述を読めば、全てわかるのに、このザマw
邪馬台(やまと)は倭国大乱に負けて覇権放棄(女王を立てた)し、
邪馬台の博多港を謎の勢力「大倭」が押さえてる。
大倭とは、後に大和(ダイワ)と改字し邪馬台を滅ぼしその権威を継いで
大和(やまと)朝廷となのる奈良のことだわ。
邪馬台は機内では有り得ない訳w
そもそも、地政学を考えれば、邪馬台は、日田盆地→筑紫平野→博多港と
広がったことは自明。
国の起こりが山手のクニであるから「やまと(山戸=山門=邪馬台)」だ。
これに対し、博多港と博多平野が「みなと(水戸=水門)」だわ。
>>12
無視していないよ。
女王国であって、邪馬壹国の距離ではない。
よく読みましょう。 わざと遷都文化から目を逸らしてるだろ
だからセンセー様は信用ならない
>>14
いや
「倭」も「日本」も地名どっかに残ってる? >>14
邪馬台国は
魏志倭人伝からも九州とわかってるのに
なぜか畿内説を唱える人多い
大和は中部日本で安定した地域から広がっていったもの
邪馬台国は戦争絶えなかった九州内で滅亡した小国家 大陸や朝鮮半島に近いのは九州、伊都国とか先進地帯ある
九州の勢力が近畿に移動した
これで話を進めていかないと真実には辿りつかない
前レス
>>994
>卑弥はピミなのが定説
日の子がピミコにはならないような。 なんか学者って自分がそう思ったら意固地になってるとしか思えないんだが?
いや、やっぱりこっちだなって言える学者っているの?
まあ、それはそれで一旦発言したことを覆すのは問題あるかもしれんけど。真実のほうが重要だよね?
>>19
俺も日田から久留米一帯だと思う
川を物流で使ってるしな >>18
>はいはい対馬海流と無縁な阿波さん
無縁じゃね〜よ。 朝鮮半島まで鉄素材を取りに行ってるんだから。 @阿波 >>23
>魏志倭人伝からも九州とわかってるのに
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 出直してこい! @阿波 >>1
北海道の炭鉱離職一家用の住宅が船橋@千葉にもあったよ 古代史ってようするには正確なことは分らんってのが正解なんだよ
だからとりあえず史書に書かれたことをベースに考古学の見地も教えるのが無難
「記紀の記述は権力者の捏造!」っていう歴史家も
〇〇の記述は矛盾があるまでいいが、そこから自説に持ってく過程の7〜8割は
ぶっちゃけ妄想だしね
なんか、捏造しようとしてんのはむしろお前だろとw
>>34
>あれ?狗奴国の鉄はどこで?
もちろん、朝鮮半島から鉄素材を入手して、自分の所で鉄器を作ったのさ。 @阿波 邪馬台国はヤマト政権そのものだろう
纏向遺跡を見たら分かるが邪馬台国ヤマト政権は東海山陰吉備政権
卑弥呼亡き後の男王の時代の内乱で吉備とは仲違いしたんだろう
3世紀後半纏向遺跡から突然吉備の土器が消える
卑弥呼亡き後の男王は吉備系の王でニギハヤヒのモデルじゃないかな
そもそも邪馬台国ってあったのか ?
勝手に魏志倭人伝に書かれていただけで、
日本には記録なんて残っていないし
>>47
卑弥呼亡き後の男王はスサノオだ。 だから国が乱れたんだ。 @阿波 桜井はヤマト発祥地だが、邪馬台国とのつながりは不明
土器の共通性が政権領域を表すというファンタジー畿内説の屁理屈に準ずると
奈良時代よりずっと以前に九州時代がったという事になるな
遠賀川式土器は東海地方にまで広まってる
>>52
>桜井はヤマト発祥地だが
その「ヤマト」ってなんなんだ? カタカナなのか? わははははは @阿波 >>343
国譲りで、奈良が出雲を植民地にして
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
出雲から朝鮮半島に渡れるようになって
親魏倭王
漢委奴国王の先進地域北部九州しか知らない中国の役人は
未開の地の出雲に上陸させられて
西も東もわからず奈良まで引きずり回された
ちなみに
漢委奴国王の先進地域北部九州には、
公孫氏の役人や軍人が楽浪郡と帯方郡から命からがら逃げてきて
立てこもって鎖国状態
邪馬台国も中国の役人も、対馬から壱岐(一支国)に渡ることすらできず
対馬から一大国 >>53
割と共通点ある方だと思うけど
アマテラスと卑弥呼とか、三韓成敗とか >>45
倭国側にも狗奴国側にも
売る死の商人。
狗奴国側は別経路で朝鮮半島て事? >>22
倭は中国が日本に勝手につけた名称
日本は遣隋使や遣唐使などの対中華外交においての中国式自称国号 >>48
聞いたら御井だって言ってたよ
はい、論破w 卑弥呼亡き後の男王は布留の王かもな
そして台与は布留の兵たちが担いだ女王
ヤマト政権内で下剋上があったんじゃないか
鎮魂歌はその頃歌ったの歌かもしれん
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
アチメ オオオ オオオ オオオ
猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
国譲りで、奈良が出雲を植民地にして
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
出雲から朝鮮半島に直接渡れるようになって
奈良が親魏倭王
漢委奴国王の先進地域北部九州しか知らない中国の役人は
未開の地の出雲に上陸させられて
西も東もわからず奈良まで引きずり回された
ちなみに
漢委奴国王の先進地域北部九州には、
楽浪郡と帯方郡から公孫氏の役人や軍人が
命からがら逃げてきて立てこもって鎖国状態
邪馬台国も中国の役人も、壱岐(一支国)に渡ることすらできず
対馬から一大国
>>56
お前が意味不明
倭は訓がヤマトで音がワ
大は単にgreatの意味
大倭を大和に書き換えただけ 邪馬台国(やまとのくに)=大和国(やまとのくに)
卑弥呼=神功皇后
倭国大乱=三韓征伐
台与(とよ)=神功皇后の妹、豊姫(とよひめ)
ちなみに日本書紀でも興台産霊命(こごとむすび)で台=トだからね(笑)
戦後体制下で韓国に都合が悪い三韓征伐を隠蔽するためにデタラメ言ってただけだからね(笑)
今年で戦後体制完全終了だからね(笑)
近畿地方に「ヤマト王権」があって、その省庁の一つとして
「ヤマト王権外務省、九州出張所」みたいな行政府が九州にあって
そこの「大臣」または所長クラスが「ヒミコ」ってのが一番無理ないようにおもうんだけどね
>>51
卑弥呼のあとは台与だろ
第一日本の記録で言ったら、魏国の時代は、スサノオどころかヤマトタケルでもなく、ずっと後の神功皇后の時代だろ >>60
倭の字は蔑称かもしれないけどワという音はたぶん自称
ワが国又は集落を表してたんだろう 神武東征は約2700年前の出来事だと地理学、土木学、考古学で証明済みだからね(笑)
日本書紀の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だからね(笑)
橿原神宮から出土した遺跡が放射性炭素年代測定で約2700年前だからね(笑)
最古の弥生土器は鹿児島県で出土した約7000年前のものだからね(笑)
最古の稲は鹿児島県で出土した約12000年前のものだからね(笑)
神武東征時の日向国は今の鹿児島県+宮崎県だからね(笑)
約2700年前に弥生土器と稲作が広がったからね(笑)
今年で戦後体制完全終了だからね(笑)
来年から、日本神話から始まる歴史教科書を認可して義務教育で使用するからね(笑)
日本人の再生が始まるからね(笑)
>>59
>狗奴国側は別経路で朝鮮半島て事?
いや、いっしょだろうな。 不仲ではあるが、どのみち、兄弟国だ。 天照大神と須佐能だから。 @阿波 東遷説とか東征説は説得力にかける
地名の一致は確かに見られるか、硯や鉄器などの文化の継続性がない
>>64
ワという音があるのにヤマトという音をかぶせたのがわからんという話
ワそのものは自称だろう 纏向が邪馬台国だった場合、西は九州(熊本ぐらい?)までが勢力圏なのは確定。
まさか核となる国が東の端なわけないだろうから、少なくとも愛知県?関東平野?白河の関?
となると結構な大帝国だな、これを維持できる軍事力、経済力、交通網の整備とか
本当にできたのかね。
>>74
もしそうなら縄文系がずっと近畿に居座ってたという事になるが違うよね? >>53
卑弥呼はアマテラスを想起させるわな
古代において女王ってのはかなり特異な存在だろ
しかも日本の最高神は女神
考えてみれば最高神が女神って他の国にあんのかな?
大和朝廷の発祥に関連する経緯にあるのはそのとおりなんだが
邪馬台国とは明らかに別物なのに、いちいちこじつけるから変なことになる。
中国 「日本は卑弥呼が国を治め
日本 「はあ ? 卑弥呼って誰よ ?
中国 「国の名は邪馬台国
日本 「はあ ? 邪馬台国なんて国はねえよ
中国 「金印を送る
日本 「はあ ? 金印なんて貰ってねえよ、(金印は、未だ発見されていない)
日本 「嘘の記録ばかり書くなよ
>>67
>卑弥呼のあとは台与だろ
アホか。
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 邪馬台国大和説は天皇信仰だからね。
誰にも覆すことはできないw
「邪馬臺」と「ヤマト」では「ヤマ(山)が同じ音というだけ。
まるで無関係な国の名なのにさw
纏向あたりは大和ではなく、東日本よりの国だね
14世紀の日本地図
上が西、下が東 >>78
皇祖神はもともとアマテラスじゃないし
最高神なんて概念もないだろ
陳寿の書いた魏志倭人伝の通りに解釈したらいいだけ
女王国は九州しかありえないし、奈良は東に海を渡ってまたある倭種の国々のさらに外にある絶遠の国 >>67
>卑弥呼のあとは台与だろ
アホか。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 そもひも、魏国の使者は、日本に来て卑弥呼に一度も会っていない
↑
これマジ
>>1
邪馬台国との位置関係
【もっと北】 朝鮮半島 (狗邪韓国)
【北】 九州北部 (対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国)
【女王国】 邪馬台国
【南】 狗奴国 >>81
それが正しい指摘だね。
日本の記録には、卑弥呼も邪馬臺国も出てこない。
わずかに、後世に書かれた日本書紀の注釈に一言二言で来るだけ。 真実と創作神話がごっちゃになっているからな…
正直何がなんだか
>>90
少なくとも邪馬台国には来てるな
オレは多分本当に会ったんじゃ無いかと思ってるんだが
ただの想像だがね 倭の五王の時代の天皇って大和にいたのか九州王朝なのかはっきりしてくれ
>>84
アホか。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >>91
女王国以北とは女王国の北部という意味だよ
だから女王国=北部九州一帯=邪馬台国 >>66
西日本を支配する大国がなんで魏に狗奴国と対立してるから助けてと使者を送る必要がある
魏から属国を意味する旗をもらい、張政という軍事顧問まで派遣してもらって
卑弥呼は外患誘致の売国奴
負け組のやることで当然その後、邪馬台国は滅ぼされた
(おそらく狗奴国に。その狗奴国が大和に滅ぼされたから邪馬台国関連の記録は日本にまったく残らなかった)
だから以後150年、中国に日本から使者が来た記録はない
日本は畿内中心に独自に発展していってるから大陸なんかに使者を送る必要なんかなかった 当時の歴代支配者(豪族)を歴代天皇と記して血縁無いと思う
> 真実と創作神話がごっちゃになっているからな…
これがすべて
>>96
倭の五王の時代は奈良だね
西に66国を平定してるのに九州南部だけで66国ではスケールがおかしい 耶馬渓って地名が九州にあるから九州なんじゃないの?
後付けなら知らんが?
>>101
支配していないからね
共立王だからね。 狗奴は元々近畿一円に版図があった国なんじゃないか
対外的には倭国、狗奴はクニの語源かもな
勾玉と銅鐸、木棺墓の国
で2世紀末奈良に東海勢が侵攻
在地の人々の文化は無くなって、鏡と前方後円墳のヤマト政権が始まると
纏向遺跡はまだ生き残っている対狗奴国の前線基地で巫女王の卑弥呼が率いた軍の駐屯地
古墳時代の埴輪に鏡を掲げた巫女に率いられた軍隊の埴輪がある
軍を率いる、兵たちを纏め上げるのが巫女の役割やろね
>>96
九州倭国の王だよ
奴国王だね
系図が合わないし、そもそも讃だの珍だの言う天皇は居ない
九州倭国の王だとしか考えようがない 魏がアルタイ人王だと
三國志まで嘘になっちゃうからね
違うアルヨ♡🐼
>>96
大和だよ、五王の時代までは考古学的な発見で記紀は事実をもとにしたんだろうという結論になってる >>86
>最高神なんて概念もないだろ
はあ?
天津神が住んでいる高天原を総てるのは誰だよ?
馬鹿じゃね?w 現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46
大給松平家菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)o
>>104
それは近畿日本の事績をパクってるだけだろな
近畿日本も九州倭国の事績パクリまくってるからな >>95
いや、邪馬台国と言う国にも来ていない
日本の北九州まで来てそのままとんぼ返りしている 経歴がプロパガンダじゃねWW
関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長
記紀の神武東遷や遺跡から見て九州北部の邪馬台国後継勢力が近畿地方の環豪国家群を侵略した、と考えるのが妥当、
卑弥呼と天照大神は同一人物ではないか
>>90
卑弥呼に会ったとは書かれてない。
そもそも卑弥呼には特定の男子一人しか会うことができないと書いてある。 >>98
木材の切り出しを容易に行える
食糧生産豊富な久留米一帯だよ
ここは北も南も戦争大好きな部族が
ひしめく危険地帯
魏に助け求めて当然
首長も女 >>111
そんな結論は無いね
近畿パーのただの捏造
倭の五王九州倭国の王だよ
奴国王だね
系図が合わないし、そもそも讃だの珍だの言う天皇は居ない
九州倭国の王だとしか考えようがない >>117
無理無理w
そもそも「台」ではなく「臺」。 水行の起点は帯方郡であり、投馬国は半島南部の倭人居住区(のちの任那)である
例)朝貢に来た倭人曰く
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。
この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載した
(記載漏れ)倭人曰く帯方郡から
南に水行20日で投馬国
南に水行10日(計1か月−20日)で邪馬台国
(陳寿の勘違い)陸行1か月で女王の都
■参考
張楚金が書いた『翰苑』で引用されている廣志には
「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。 >>105
耶馬溪は江戸時代につけられた名前。
しかしもともと山国(やまくに)と呼ばれていた場所で、頼山陽がそれに「耶馬」とあてた
耶馬溪を流れる山国川は、英彦山(ひこさん)から中津(なかつ)市へと注ぐ川で
英彦山はもとは「日子山」と書いた。そこにある街が日田
宮崎を「日向」と名付けたのは、景行天皇が九州へ行った時と古事記に書いてある。
では本当の日向はどこか。
九州で、「日向」とつく地名の一覧
宮崎県には、延岡と日向市の2ヶ所しかない。ほとんどが九州北部に集中している。
日向は古くは「ヒムカ」と読んでいた。これを卑弥呼と関連づける人もいる。
「日向」とはその名の通り、日に向かった所。これらの中心に「日」があると考えると、
それらを線で結ぶと大分県の日田や天瀬(あまがせ)あたりが浮かび上がる。
また中津の隣の宇佐神宮は神道のルーツとも言われ、卑弥呼の墓説まであるところ。
道鏡事件のときも、天皇家の大事をアマテラスのいる伊勢神宮ではなくこの宇佐神宮にお伺いをたてている。
そして中津だが、天孫が降臨した豊葦原(とよあしはら)の中ツ国(なかつくに)こそ、
この豊前の中津ではないかという説もある。 >>112
高天原を統べると最高神なのか?
天之御中主神とか宇宙を作ったやつもいるけどw >>123
五王の時代の天皇の名が出土品から出てきてるからな
少なくとも五王の時代には天皇家が日本を支配してる >>123
倭の五王についての日本側の記録はない。
少なくとも日本書紀を正史とする王権の系列ではないことだけは、はっきりしている。 >>118
みんな気づいてるよ
歴史書からどこっていうより
地元へいかに観光話を持ってこれるか・・・
だから
畿内説は無理筋なのに、まだいってる
大和王朝が発展していく豊かな地域で
なぜ邪馬台国主張できるのか・・・w >>96
わが国では祖宗以来代々の天皇が甲冑を見に帯びて、親しく山川を跋扈せられ、寧んじ処るにいとまあらず、東の方では毛人五十五国を征し、西の方では六十六国を服し、さらに海を渡って海北九十五国を平らげたとあります。
ここに毛人とは毛の多い人で、すなわち蝦夷であります。衆夷とは熊襲、隼人など、この系統の夷族が九州地方に多くの国をなしておったのを申し、海北とは申すまでもなく朝鮮であります。
こういうこよであって、つまり五十五カ国と六十六カ国と、九十五カ国と、この多くの国を代々の天皇の御陵威によって征服して、大日本帝国は発展したとあるのであります。
この蝦夷の国五十五とは、いったい何をいったのであったか分かりませぬが、渡って海北九十五国を平らげたと申すことは、これは事実であります。
やはりシナの書物でありますが、シナの三国の時、魏の歴史に、朝鮮の南部、すなわち日本に属しておった山韓地方の国名がことごとく見えております。
その数、馬韓に五十四国。辰韓に十二国、弁韓に十二国、合せて七十八国の名称が明かに出ております。これらがことごとく日本に属してしまった。
そのほかにもまだいくらも国の名が伝わっておりまして、わが「日本紀」ぬ見えておって、右七十八国に漏れたのもいくらもありますから、右の国書にいわゆる九十五カ国は決して掛値のない数であります。
この渡って海北平らぐること九十五カ国という数に掛値がないとすれば、したがって他の数も信じてよかろうと思われます。
商売人でも掛値をしない性質のものは、いつも掛値をしない、その言うところは信ぜられるのであるが、一つ掛値をすると、ほかの正札も怪しいと言って警戒をしなければならぬ。
しかるにこの「宋書」にあるわが国書の記事は、朝鮮のことが正直に記されているので、他の東の方の毛人、西の方の衆夷の記事も信用すべきものであろうと思われるのです。 近畿しか有り得んだろ
江戸時代までずっと近畿が政治の要やぞ
讃・珍・済・興・武
こんな名前の天皇は居ない
九州倭国の王だとしか考えようがない
はい、論破w
>>117
魏の国の使者 「ここは何という国ですか ?」
山を指差して
鹿児島県人 「あれは山たい」
魏の国の使者 「やまたいですか・・」
鹿児島県人 「そう、山たい」
魏の国の使者 「やまたい国と言うらしいです」 >>68
ワが国名か
中華的に、偉大な、大きいを見得の為に追加して
ダイワ、大和か
うーん、ロマン >>130
日本の一部の支配であることしかわかっていない。
全国統一は、日本書紀を編纂した7世紀以降と考えるほかはない。 空白の4世紀を経て5世紀の倭五王
「卑弥呼?邪馬台国?知らんな。
我は東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、大倭の王である」
ニュースになった渡来人ゲノム率で分かるだろ
邪馬台国は畿内にあったからそこに渡来人が来たの
>>137
残念ながら、「邪馬台」ではなく「邪馬臺」だから、「タイ」ではなく「ダイ」としか読めない。 纏向遺跡の背後は三輪山
出雲国造神賀詞から抜粋
大穴持の命の申したまはく、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
八咫の鏡が大物主で今は伊勢にある
伊勢の神と三輪の神は一心同体
卑弥呼と卑弥呼に率いられた兵たち
アマテラスと大物主
能の三輪
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
> 「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている
「物の移動の元が中心地」というなら
朝鮮系土器が日本にたくさん流入した
弥生時代は日本は朝鮮の支配下だったのか?
それは「大和の土器が高く評価されていた」
以上の意味はないだろう
>>143
????
魏に助け求めたがちょいとしか支援されてなく
滅んでるが??? >>93
真実とっていうかそもそも真実とやらが史書の時点でぼやけてるからな
記紀が書かれた日本人にとっては大昔のことだし
魏志倭人伝を書いた人にとっては大昔の遠い場所のことでしかない やまとは国のまほろば
たたなづく青垣
山籠れるやまとし麗し
>>145
間違い
古代日本語では頭に濁音は来ない
また連母音も無い
臺與がダイヨで無い以上邪馬臺もヤマダイではない
はい、論破w ちなみに、日田市の西どなりは福岡の朝倉市
この朝倉にはおもしろい共通点がある
>>147
畿内説の思考回路はこんな感じだから
現代日本を未来の人が発掘
↓
iPhoneがザクザク出てくるので日本はアメリカの植民地だった 山陰のオオナムチ=邪馬台国官筆頭伊支馬、東海のアマテラス=卑弥呼、吉備のニギハヤヒ=卑弥呼亡き後の男王
この辺が神話のモデルなんじゃないか?
狗奴国の歴史は記紀神話では矮小化されて、黄泉の国のイザナミ、大国主スクナヒコナの国作り、ヤマタノオロチ辺りにバラバラにされたのかもしれん
>>148
記録がない。
ただ、日本書紀の注釈に「日本旧記」という歴史書があったとあるから、そこには書いてあったのかも知れない。
焚書事件で燃やされた歴史書の一つとみられる。 現代でもそうだけど
俺こんなに徹夜でさーとか
めちゃくちゃ時間かかってよ!
とか自分の苦労を盛るわけよだから距離なんて
話盛られてるだろうし
大変さアピールされてて普通。
魏志倭人伝。つまり方向しか合ってない
そもそも、邪悪なる馬の台地の国って酷い呼び方だわw
卑弥呼も、卑しい皇女 ってw
>>154
記録がない時代の発音をどうやって調べることができるんだ?
日本語の音がわかるその時代の記録というのは、「魏志倭人伝」だけだぞ? >>155
それは卑弥呼の後の邪馬台国な
安本美典が言う邪馬台国
卑弥呼の時代は御井だよ
邪馬台国は移動している >>1
アホッw 日本って歴史学が未熟ってか無いに等しいw >>162
卑弥呼を別にすれば、五王だけが中国の史書にのみ出てくる。 どう考えても卑弥呼の時代に「ヤマタイ」って発音していたわけがない。
後の時代、近畿にある大勢力の役人の誰かが魏志倭人伝に「邪馬台国」って書いてあるのを見て
「昔はこの国をヤマタイって言ってたんだ、へぇ〜」ってなって、
自分達をヤマタイ・・・ヤマトって言い出したんじゃないの?
で、既に漢字の知識はそこそこあっただろうから字面が悪い邪馬台ではなく、
他にある山門や山都でもなく意味も良い感じの「大和」にした。
>>148
讃・珍・済・興・武
こんな名前の天皇は居ない
九州倭国の王だとしか考えようがない
はい、論破w
いつもの通り荒れてますなぁ
纒向開けて調査すればいいのにね…
普通に考えれば、九州から瀬戸内海まで
大和朝廷とは直接的な関わりは無い
>>169
邪馬台をヤマタイと読みだしたのは本居宣長
その前はヤマトと読んでいた >>68
「倭は悪い文字」というのが常識になってるが本当だろうか
中国は辺境の蛮族は人間扱いせず、動物の字を当てたりしている。
なのに倭は、にんべんがある。
委は、「矮」と同じだから「小さい」という蔑称だという説もある。
だが魏にも「委」が入っている。
鬼は、日本ではいい意味で使うこともあるが、中国では
悪い意味しかないという(だから、日本鬼子などという)
倭より魏のほうが、よっぽど悪い字に見える。 >>146
面白い
大物主、後の物部がヤマト政権を握り崇神の代で祭祀の象徴であった天照を伊勢へ
なぜかというと豪族連合ではなく後の天皇に連なる系譜を創始するため
そう考えると符合する点は多い
ではこの勢力はどこから来たのか
東海と吉備と阿波
この三つの海人族系勢力の邂逅が行われて出雲勢力を駆逐したのだと思う
九州は間接的な関わりでしかなく、それは出土品にも現れているな >>170
万葉集の編纂は、7〜8世紀。
3〜4世紀の発音ではない。 >>169
そんなことはどうでもいい
連母音はない
濁音でもない
つまりヤマトとしか読めない
ヤマトと読んだら台与がトヨになるから辻褄があう
ヤマトで良い
山門のこと
>>130
倭の五王は天皇とつながってないという噂がある >>139
武と思われる雄略ちゃんのときには少なくとも埼玉まで行っとるやろ? 早く証拠出せよ あれだけ古墳あって証拠出ないておかしいだろ
>>180
五王の名前は半島や大陸向けの名前やからな。 魏志倭人伝には邪馬台国では、養蚕と絹織りが盛んと記されている。
でも、当時大和地方では、まだ養蚕はなかった。
これだけでも、邪馬台国は九州にあったことがわかる。
弥生時代というと稲作ばかり取り上げられるが、(おそらく)大陸から入ってきた物で、
養蚕は稲と同等に重要だった。
>>179
>連母音はない
>濁音でもない
まったく根拠がない。
8世紀の読みで3世紀の読みを判断するのは無理だし、そもそも地域も違う可能性が高い。 >>171
なんで論破なんだ?
四国倭王でも、山陰倭王でもいい。
て事
ハイ 論破 山の入口がヤマト 水の入り口がミナト
日本中にあった普通の地名
>>145
隋書には倭の都の大和とは魏志にある邪馬臺の事であると書いてるよ >>169
そんなことはどうでもいい
連母音はない
濁音でもない
つまりヤマトとしか読めない
ヤマトと読んだら台与がトヨになるから辻褄があう
ヤマトで良い
山門のこと
こういうの地元になーんにもないメンタル朝鮮人みたいな連中が延々とやってんだろ
最近は邪馬台国が何処かというよりも初期ヤマト政権と北九州王権との関わりについて興味がある
この部分だけが神武東征によってぼやかされて不明瞭
祭祀は共通なのに鉄が出土しやいなど出土品の点からも謎が大きい
一つ言えるのは当時の人にしても九州一つを国として語るには狭すぎるだろうということ
>>192
魏志倭人伝は魏の使者が日本語を聞き取って記録したと考えるのが普通。
当然、当時魏で使われていた漢字とその読みが充てられている。
「ヤマタイ」と聞き取ったのなら、「邪馬臺」という字を当てることはない。 >>195
畿内の大和には卑弥呼の時代の魏年号が入った銅鏡が見つかっていて
王族の墓とされる前方後円墳がいくつもあったよ 798年、太宰官符で朝廷はイズモ国造の政治的権力を完全に奪い出雲の「国譲り」を完成させる。
9世紀初頭、ハヤトの朝貢の終了で歴史から隼人の名は消滅する。
802年、アテルイ率いるエミシ軍は田村麻呂に降伏。
これにてヤマトの版図が広がり全国統一を成す。
>>198
ヤマタイと発音する国はないね
大きな前方後円墳があって
魏の年号の入った銅鏡の出土するヤマトと発音する国ならあった >>128
天之御中主神って天地開闢以外でなんかしたの?
そもそもそれ以降存在そのものが消えてるじゃん 邪馬台国は大和国
隋書にもそう書いてあって
考古学的な裏付けもある
>>189
もっとないのが九州倭王。
根拠なし。少ない戦力でどうするの?
国内はあぶなくないか? >>185
神功皇后、応神天皇の頃に『秦氏』が数万人を引き連れて渡来帰化したとあります…ご存知の通り養蚕と絹織物、薬草、砂鉄や銅等の採取や精練技術、土木技術等を日本に広めた。 >>204
魏の年号の入った銅鏡は日本製だとする説が有力。
なにしろ年が間違ってるんだから。 >>208
上位の神はそういうもん
元々の皇祖神も姿形はない >>210
書いてない
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
はい、論破w >>207
何度見ても発音わかんねーわw
魏晋時代の邪馬臺ってこれなんて発音するんだろうな?
声母が記載されてないのは不明なんかいな >>212
隋書倭国伝
『都於邪靡(摩)堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
訳:倭国の都の大和はいわゆる魏志にある邪馬臺のことである 古事記の神武天皇東征
奈良に入るまで何もない
奈良に入ったらやたら詳しくなる
本当に九州から来たんか?とか疑いたくなる
>>214
当時の日本の戦力分布はまったく分からない。
8世紀の大和王朝の記録しかないから。
もっとも、九州を軸とした国内が不安定になって、大和王権が伸長したという見かたもできる。 どこにあったのかすら分からない
つまりその程度の国だったてことだよ
鉄は九州から入ってきてるんだし、土器とどっちが重要だと思う?
倭の五王は宋書、梁書にある系図と天皇の系図を当てはめてるんだろ?
>>220
ヤマトでいいよアホw
それ卑弥呼の時代の中国語ちゃうやんかバーカww
>>220
すぐ上見ろハゲw >>221
単に発音の注釈いれてるだけなんじゃねーの
同時代に書かれた後漢書注にも訛りですよって発音の注が入ってるし
同じ国であると確認して記述したというよりも
魏志の頃のヤマトと隋書の頃のヤマトが別の国だと知らないだけだと思う >>37
何年前のハナシか知らんが遺跡ってなくそ田舎ゆえ遺るもんだろwナナメ上から阪在に到った根拠持って出直してこい >>233
一部読めてないところもあるんだよねえ。 昔テレビで、井沢元彦が中国の古代語研究家に発音してもらってたな
>>189
埼玉で鉄剣銘が出てるのは武じゃなくワカタケル大王(雄略天皇
400年代で関東に影響力があったのは明白 >>233
あなたは原文で読めるの?
あるいは万葉集の発音がわかるの?
「マンニョウシュウ」かも知れないし、「マンエフシュウ」かも知れない。
「マンヨーシュー」ではないことだけは確か。 >>231
>>232
隋が国交を持ったのは大和で間違いないよ
大和からも遣隋使を派遣したのは中学レベルの知識
その隋が大和は魏志に書いてる邪馬臺と書いてるのさ 卑弥呼は日御子
日本神話の話を聞いて実在の女王として記録しただけ
中華の周辺民族の関する記録はみんなそんな調子
海人族は3世紀の時点ですでに各地沿岸部に拠点を設けて開発と交易を進めていた
主に水銀を代表とする鉱物だな
あとは兵糧としての米
米は食料ではなく軍事物資
だから九州だけでは収まらない話
漢代から当時の王権が九州北部にはあったと思うが3世紀には各地に勢力が割拠していたと考えるべきだ
>>240
その時代に纏向は無い
邪靡堆はおそらく難波京の事だろう 倭の五王で、武は雄略が定説だがそれ以外は誰なのかよくわかってない
仁徳が比定できる程度で記紀はこの倭の五王についてなぜか書いてない
編纂者が万世一系に合わないことから倭の五王を無視したと言われてる
>>218
何が「そういうもん」だ(笑)
オリンポスの最高神がどっかに消えて行方不明かよ
最高神ってのは(神話の世界で)存在して能動的に活動するもんだろ >>240
いや隋書に書かれた倭国が奈良だというのは異存ないよ
記紀にもあるように裴世清は筑紫から難波津までおよそ二ヶ月かけて旅をしたんだろう
そのことと、隋書にかかれている
「都はヤビツイ、魏志の説に則れば、ヤマタイというなり」
は別のはなし >>219
『唐会要』て邪馬台国について書いていない。
日本に改名前倭国についてである。
当然、近畿から見るのもおかしな話。 >>245
おまいギリシャ神話知らないだろ
ゼウスがいきなり最高神で生まれたんじゃないぞ >>119
>記紀の神武東遷や遺跡から見て九州北部の邪馬台国後継勢力が近畿地方の環豪国家群を侵略した、と考えるのが妥当、
お前も妄想バカが妥当だな。 @阿波 >>81
中国「日本国王源道義(足利義満)」
日本「日本に国王なんていねえよw」
日本「嘘の記録ばかり書くなよ」 >>6
自分の都合で記述の一部を好き勝手に改変しない限り近畿にはならない >>248
馬鹿かお前
最初の最高神が誰かなんて話してねえだろ
全ての宗教や神話で創造神=最高神じゃねえんだよ、どアホ >>123
>九州倭国の王だとしか考えようがない
お前も妄想バカが妥当だな。 @阿波 遣隋使には多くの謎がある。
日本側の記録では、「607年に初めて遣隋使を派遣した」とある。
しかし、中国側の記録では、もっと前、600年に初めて使者が来たことになっている。
そして、その時の使者は
「日本の王はアメタリシヒコという男王で、妻と皇太子がいる」
と述べているのだ
だが、当時は推古天皇という女帝の時代のはず
日本側の記録になく、女帝のはずの天皇を、男だというこの使者はいったい何者なのか?
607年、今度は日中両国に記録がある遣隋使がやってくる。小野妹子を正使とする使節だ。
ここで有名な「日出づる処の天子・・・」という国書が隋の皇帝に
送られ、皇帝は激怒した話が登場する。だが、この話、中国側の史料にしかない。
日本側の記録にはそのような話はまったく書いていないのだ。
そして帰国する小野妹子と一緒に、隋の使者として裴世清(ハイセイセイ)
という人物も日本にやってきて、天皇に謁見している。
だがその裴世清の報告には、天皇は女だったとは一言も書いてない。
中国側は、男だと思っているはずだから、女帝だったら、そのように記録するはずではないのか。
>>252
ゼウスは最高神であるという逸話はあるけどアマテラスにそんなのある? >>135
>江戸時代までずっと近畿が政治の要やぞ
8世紀からな。 @阿波 >>136
>こんな名前の天皇は居ない
>九州倭国の王だとしか考えようがない
アホとしかえようがない。 わははははは @阿波 >>238
「ワカタケル」という読解自体に無理がある。
推測に推測を重ねた読み方。
>>240
隋が国交を持ったのはヤマト王権で間違いないだろう。
だからといって、邪馬臺国がヤマトであった根拠にはならない。
ヤマト王権が自身の歴史的正当性を言い募っていたことは確かだとしても。
もっとも「大和」ではなく「邪靡堆」と書いてある。
なぜ、ヤマト王権自体、自分たちの所在地を書けなかったのだろう?
遣隋使がいた以上、自分の国名や地名を文字で表記できなかったというのは、理解に苦しむところだ。 >>254
日本側の政策じゃないの?
バカ正直て必要かい? >>147
それは「東阿波型土器」が高く評価されていた」
以上の意味はないだろう。 @阿波 >>50
魏志倭人伝ってのは、日本人が大好きな三国志の一部でね
まさに、魏と呉が争っていた時代なんだよ
魏が蜀を攻めるときに南蛮に使者を派遣して蜀を背後から襲わせたように
魏は呉を攻めるために邪馬台国に使者を派遣して呉を東シナ海から襲わせたようとしたの
ところが、実際、邪馬台国に行ってみたら東シナ海から全然遠い場所で話にならない
でも、策を立案した官僚が困るから、まるで東シナ海にあるかのようなウソの記述にした
魏志倭人伝に書かれている記述を中国人がそのまま読むと
誰がどう解釈しても東シナ海にあるようにしか思えないのはそういう理由
なので、魏志倭人伝ってのは半分は創作とも言える
ヤマト国があったのが確かなだけで、場所はデタラメ >>78
太陽が女性なのは縄文とも関係が深いとされるシベリアの原住民民話とも共通している
太陽女神信仰は北東アジアには古くからある 邪馬台国は山門 朝倉 日田の土蜘蛛集団で大和朝廷とは違うでしょう
大和朝廷は天孫族で宮崎鹿児島の集団で2100年前に東征している
地方豪族と掛合わせをおこないながら力を付けていった
卑弥呼は大和朝廷の一族ではないので日本書紀には記述されてないし
神功皇后とはかなりのズレがあるよ
たぶん後々大和朝廷が邪馬台国を土蜘蛛征伐で滅ぼしたはずです
ですから宇佐神宮に卑弥呼を祀り
神功皇后と応神天皇で見張り
4拍手で出雲や伊勢に習ってるはずです
>>254
推古天皇の摂政だからだろ?
推古天皇は日本初の女帝
実質実務は聖徳太子と蘇我氏でまわしてたんだろ。 >>177
>ではこの勢力はどこから来たのか
>東海と吉備と阿波
それ全部、「忌部一族(阿波勢力)」だから。 @阿波 >>262
そのおかげで1000年後の元寇にも日本は南にあると信じて九州攻めに固執してくれた >>268
信じなければ、卑弥呼も邪馬台国自体の存在もなくなる。
日本書紀では注釈の中で触れているが。 >>185
>魏志倭人伝には邪馬台国では、養蚕と絹織りが盛んと記されている。
「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。 @阿波 >>208
中世神話(神仏習合時代)には妙見菩薩と同一視された
星辰信仰の神として存在力はあった >>78
日本の最高神は天之御中主神
ひとりでほかの神様産み出したから性別は?? 卑弥呼は剣山なんだよ。
そのあとニュージーランド大噴火と四国大津波で畿内に遷都。
>>265
天照を大和から伊勢に遷宮させた倭姫を創始とする斎宮は「いわいの宮」と言われる
ここに磐井との関連性を想起させるんだよな 磐井って倭国側の人だぞ
倭国側と大和朝廷は並立してたでしょう 入墨と無し 倭と倭種
>>222
>奈良に入ったらやたら詳しくなる
なんで神武天皇がクソ田舎の奈良盆地なんぞへ行くんだ? アホか。 @阿波 >>256
あのさあ
全ての神を統べる存在がさあ
最高神じゃなくて何なの?
高天原の天津神でない国津神だってアマテラスに征服を命じられた家来の武御雷や経津主神によって
全て征討されてるじゃん
そして国津神が納めていた地上は永遠にアマテラスの子孫(天皇)によって治められる、と
これで最高神じゃなきゃ何なんだよ? 「邪馬台国時代の日本の中心地は大和だった」としても
なんで「大和が邪馬台国」と言えるのか分からん?
「邪馬台国までの戸数は書けるが、それより先の国の個数は
分からない」のように書いてあるし、
中国側は「帯方郡から邪馬台国までの最大の大国は邪馬台国」
としか分かってないと思う
魏志倭人伝によれば邪馬台国は狗奴国と争い、
中国に介入してもらった
その後、卑弥呼が死んだ
つまり邪馬台国は狗奴国に対して
劣勢だったようにしか見えない
ということは狗奴国の方が邪馬台国より大国だった
可能性もあるだろう
>>266
そうそう 600年のやつはどっか別の勢力が派遣したんだよな
それを滅ぼして607年に派遣したが、前のとは違う国ですじゃ怪しまれそうだから
同じところですよってフリをした
だからハイセイセイには男の天皇だってことで聖徳太子が会った >>1
邪馬台国が畿内にあったなんて言っているのは
日本の学界の一部だけ
外国では邪馬台国は九州にあったというのが常識になっている >>271
信じるつーか参考にするんだわな
国内記録と考古資料のが正統 邪馬台国は九州。
九州は御託宣の神社が残る重要拠点だし、卑弥呼がいた邪馬台国にふさわしい。
宇佐八幡にはトヨ=神功皇后も祭られている。
覇権を握っていたとは別の話な。
連合国のトヨが住んでいた地。
>>280
>ということは狗奴国の方が邪馬台国より大国だった
>可能性もあるだろう
おおいに有る。 なんせ丹鉱山、海の資源、航海術など豊富な資産がある。 @阿波 >>280訂正
×「邪馬台国までの戸数は書けるが、それより先の国の個数は
○魏志倭人伝によれば「邪馬台国までの戸数は書けるが、それより先の国の戸数は >>283
日本書紀成立以前のことは、中国史料によるほかはない。
考古資料も、文献資料との照合がなければ、歴史の参考にするのは難しい。 >>283
ところが邪馬台国の時代につくられた
日本の資料なんて存在しない
それどころかその当時の日本に文字がなかったそうだ まあ戦争体験のある高齢の爺さんほど、天皇崇拝教育に洗脳されているからな。
>>283
国内記録つっても記紀は創作色が強くてあんまあてにならん >ということは狗奴国の方が邪馬台国より大国だった
>可能性もあるだろう
おおいに有る。 なんせ丹鉱山、海の資源、航海術など豊富な資産がある。 @阿波
>>198
後の宋時代の人は100%聞き取れてない
鶴林玉露 >>279
そもそも日本神話に最高神という概念が無いだろ
日本の神はお隠れになって(死んで)姿形を失う
だから現代に現れる時は依り代に宿る
アマテラスも神話の時代が変わると出てこなくなるだろ
世代交代したからだよ 大和が邪馬台国である可能性としては大和に卑弥呼がいたのではなく、漢代から続く倭の王権が北部九州にすでに存在しており豪族連合の常駐として九州に赴いていた卑弥呼が邪馬台国として独自に朝貢した、という考え方かな
その駐在地が宇佐近辺だとすると面白いな
大和に凱旋するにあたって有力な渡来系豪族である物部を引き連れて戻った
みたいな
だいたい一神教を除いて(まあ当たり前だわな 一神教は神は唯一無二(一人)だから最高も最低もないw)
多神教は創造神ってあんま重要視されないところが多いわな
ギリシャ神話もそうだしヒンドゥー教も2大人気神はヴィシュヌとシヴァで創造神ブラフマーは影が薄い
北欧神話の主催神オーディンも創造神ではない
この創造神が重要視されない傾向も不思議っちゃあ不思議だわな
まあアホは創造神=一番!と短絡的に思ってるんだろうけどw
>>293
神功皇后に神がかりして新羅遠征を命じているが 武内宿禰が300年生きたとか書いてる記紀は話半分にして読んだほうがいいぞ
かなり盛ってる
>>292
聞き取れなければ、なおさら邪馬臺国大和説にはなんの根拠もなくなるね。 >>294
そう思うなら卑弥呼も邪馬台国もなかったと言えばいい >>294
頭悪い奴だな
日本の古文書には創作どころか
邪馬台国なんて書かれている文書はゼロなんだよ
この意味わかる?
邪馬台国を論じる場合は陳寿の書いた魏志倭人伝を参考にするしかないの
お前が言うように日本側の古文書なんて存在しないんだってw 九州説ってもはや政治的な意図を持った連中しか主張してないでしょう
>>298
だから皇后を依り代にして宿ったんであって
姿形は失ってるじゃん >>246
>>259
大和は後漢書や北史にあるように
中国では邪摩堆と書かれていた
隋と国交を持っていたのは大和なので
邪靡堆は邪摩堆の誤表記とわかる
もしくは日出処の天子の国書で隋の煬帝が怒ったのであえての卑字への書き換え
いずれにしても隋書には大和は魏志にある邪馬臺と書いてある 解明しようと古墳発掘しようとすると止められるンだわ……
>>70
はいはい
朝鮮半島に近い北九州は
57年には、後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り
107年には、生口160人を献じ、安帝に謁見し
大陸との交易を象徴する大量の鉄製武器、鉄製工具他
絹および紡績用具が出土し
警備厳重な吉野ヶ里集落や
殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳が存在する
特別、先進地域
238年になっても、たった10人しか生口を献じられず
港町も街道もろくに整備されていないわけがわからないところに上陸する邪馬台国とは
根本的に違う >>290
あてにならないから使わないってことはできんからなあ
記紀を否定すると、合理的結論としては「分らない」で終わるはずなのに
たいていの歴史家は大部分を妄想で埋めてるし、そっちの方があてにならなくないか? >>304
逆だろ
畿内説なんて、なんの説得力もないし
中国では邪馬台国は九州にあったクニというのは
一般常識だよ >>282
纏向の見学会で話した研究員も言っていたけど、結局は金印みたいなものが出てこない限り決着がつかない話なんだよな
それを分かった上で論争をしている、まさにロマン
日本は平和だ >>297
ただ最高神って大体全知全能なんだよね
天照大神が全知全能かは知らんけど >>301
>>302
そーだよ
だから邪馬台国は見つからない
魏人の記録なんてまた聞きのいい加減な創作だから
実在しないから日本の記録にはない >>302
土蜘蛛田油津媛として神功皇后にやられとるがな。
卑弥呼か壱与かわからんけど >>306
>>220に当時の発音がわかる表載せてるから
後漢の書かれた宋の時代になんて発音されてたのか教えてほしい 九州説は畿内説にまともな議論で勝てないので
嘘や放言を連呼してひたすら混乱をもたらす作戦を取っている
要するに畿内説への単なる嫌がらせ
>>313
日本の記紀=ヤマト王朝が編纂した歴史書なんだから
邪馬台国が記紀に載っていない=大和王朝とは別の王朝と考えるのが
ふつうの考えたか
お前のように中国側の古文書=なにも根拠のない嘘と決めつけるバカはいない >>315
倭人の発音を聞いて普通にヤマトかそれに近い発音をしてただろうね
当時の倭の都は大和で間違いないからな >>313
つまり畿内ヤマトの歴史には存在しない国だということが判明してしまったな >>312
日本における神様は全知全能ではない。
なぜなら八百万の神様と言われる通り
個々の神様がそれぞれ異なる御利益を
持ち合わせていることから証明できる。 >>306
なんで当時の王権が書いてもいないヤマトが中国で出てくるんだ?w
隋書は日本書紀とはまったく整合しない。 >>319
ヤマトかそれに近い発音をしてただろうねと言われても
後漢書を書いた当時の宋ではそのようには書き留めてないだからどうしようもない
宋の時代には「邪馬臺国」と書いてなんて発音してたんだろうねえ>>220 >>124
それはただの旧字体ですが?
台与を「とよ」と読むのだから「と」読みで何ら問題ない >>311
>纏向の見学会で話した研究員も言っていたけど、結局は金印みたいなものが出てこない限り決着がつかない話なんだよな
とっくに「阿波」で決着済み。 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>322
隋に使者を派遣した事は日本書紀を始め
様々な史料に記録があるよ
九州説は都合のいいオリジナル歴史を創作するのはやめようね 大和と書いたのは当時の日本人には文字が無かったから、後々日本人が大きな和の国の漢字を当てただけ
とっくに場所は確定してるだろ
東大と京大の利権で争ってるだけ
ダボどもが!
>>316
畿内説には記紀に卑弥呼も邪馬台国も書いてないという問題がある。
畿内にあったとすれば、ヤマト王権の歴史のどこかの出来事なので、記紀にかすりもしないのはおかしい。
逆に九州説の立場を取れば、記紀に載ってないのは単なる九州の反乱勢力の出来事なので、載ってなくても辻褄が合う。
九州邪馬台国がその後も続いたとか、東遷したというのもまず無いけどな。
2〜3世紀の北九州土蜘蛛の一派が、地の利を活かして帯方郡に挨拶に行ったに過ぎない。 >>302
まして膨大な三国志の一部。そんなに時間をかけて書いたとは思えん。思い込みや私見もある。 >>323
隋書には倭の都の大和は魏志にある邪馬臺の事であると書いてるよ
隋のころの倭の都は大和に合った事は確実なので
そうなると中国では邪馬臺はヤマトという発音だった可能性が非常に高い >>325
その「台」も「臺」だよ。
旧字ではなく正字というべき。
>>327
隋に使者を派遣した記事はあるが、中国側の史書(隋書)と整合が取れていないということだよ。
日本書紀の記述に虚偽がないともいえない。 竹内街道を通って西暦200年頃に東遷したのは間違いない。
>>309
いや記紀はダメ
黒田家譜以上に当てにならん
記紀を当てにすると逆に真実が遠のく >>330
日本書紀に邪馬台国と卑弥呼の事は出てくるよ
景初三年に中国へ朝貢を行ったと魏志倭人伝が引用されてある > 古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され
日本書記によると垂仁天皇、景行天皇は
纒向に宮殿を作ったという
(前者が珠城宮、後者が日代宮)
纒向遺跡がこれらの宮殿だとすると
むしろ邪馬台国ではないことになる
なぜなら日本書記によれば
「大和王権が朝鮮南岸を征服したのは
神功皇后の時代=垂仁天皇・景行天皇より後のこと」と
されているからだ
日本書記には、纒向に宮があった時代の
大和王権は邪馬台国のように朝鮮南岸まで
支配してたように書いてない
ネットだと九州優勢みたいな感じだけど、リアルの方では畿内説が優勢みたいだな
@阿波氏は、大和の弥生時代の遺跡の存在をかたくなに認めようとしないし、
飛鳥時代が何故飛鳥時代と命名されているかも完全に無視、
田舎の趣味のおっさんにありがちな「自分の説に都合の良い所だけ拾って悦にいる」タイプなので、
真面目に相手をしたらあきませんよ。
要素要素は面白い所を拾って来るんだけど、都合の悪い所は絶対認めないからお話になりません。
>>290
聖書の話だな。
あれを100%信じてるのはカルトに染まった人だけではあるが、
部分的には参考になる。
神が人を作ったとか、女は男の肋骨からとか、まあそこら編は宗教として、
青例外にも全部がでっち上げのうそっぱっちって訳じゃない。
中に考古学的に証明されたやつがある。
トロイの木馬の都市の発掘とか。
ユダヤ人は確かにディアスポラしたし、 正直このスレの言い争いとか見るに堪えないレベルだけど
実際歴史研究家同士でも言葉遣いに気を付けてるだけで「自説こそ正しい、お前の説は論破!」
って感じなんだろな
そりゃいつまで経っても統一見解なんて無理だわな
武内宿禰ってのは九州で生まれた応神天皇が畿内に攻め入った時に武将として活躍して、後に大和豪族の祖として崇められてた人だよな
>>342
だから、その聖書レベルのシロモノにも邪馬台国なんて出てきてないんだよ
だから魏志倭人伝しか参考資料なんて存在しないって言ってんだよw >>337
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
魏志にこんなことが書いてある。と書いてあるだけ。 >>334
整合性は取れてるよ
日本側の記録では使者として小野妹子を派遣
中国では小野妹子が蘇因高(そいんこ)と呼ばれていた事が書かれてる
そして隋から使者の裴世清がやってきた事も隋と日本の記録にある 甲斐大和か
なんで名前が付いたかというか
分からん位の僻地だぞ
>>340
>飛鳥時代が何故飛鳥時代と命名されているかも完全に無視、
なんでや? 言ってみろ。 @阿波 >>351
どこまで妄想こくのお前ら近畿パーってw >>299
それは天皇を長寿にしたからそうなってるだけで、
5代の天皇に仕えたというのはおかしくもなんともないよ。
せいぜい70代まで長生きすれば可能。 飛鳥時代
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後の明治時代に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。
>>334
何を言いたいのか分かりにくいが、
「と」という音に「臺」(現代は「台」と表記)という漢字を当てたということは同意しているようだな 畿内説は否定済みなんだから
九州のどこかって話しにしかならない
御井だけどねw
>>350
人間が無から物語を創作し始めたのはずいぶんと最近の話 >>341
>>346
ところが考古学や科学的年代測定の発達によって
畿内は3世紀あたりに中国の魏と交流していた事がはっきりしてきて
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国は大和国の事だろうということが
確実になりつつある >>344
そんなアホな。 歴とした、「阿波」の人だよ。 @阿波 大和の地が本格的に開発されるのは3世紀以後
その前は別文化の唐古鍵遺跡
どう考えても祭祀や王朝を醸成する文化ではなかった
邪馬台国が登場する以後に急速に発展することを考えると、大和は九州由来の祭祀文化である卑弥呼=天照の祭祀をこの時期に急速に取り入れたと見る
それが王朝の安定によって用済みとなった崇神期には伊勢に移動させてる
征服ではなくて遷都に近い
そのため九州と争うこともなく周辺豪族が供給を行ったのでは
「纒向遺跡=大和王権の遺跡=邪馬台国説」の問題は
「空白の4世紀」を説明できないこと
日本書記によれば、そんな長期間の
政治的空白があったようには書いてない
邪馬台国が九州の滅ぼされた国で
大和王権が九州を征服するのに時間がかかったと
見るなら説明がつく
>>343
歴史家は事実のみを語るべき。
推測を入れた見解は学者の仕事じゃないはず。
いまある事実は、魏志倭人伝には邪馬臺(壹)国があった、と書いてあるということだけ。
旅程記事の読解には諸説あるので、場所に触れる必要はない。 >>359
はっきりしてなくね?
鏡は中国にないっぽいし >>347
年代も裴世清が謁見した王の性別も合わない。 やまと(山門/戸)→邪馬台(漢人による当て字)→東征→大和(倭人による美称)
阿蘇とか高千穂あたりから連合して近畿に移民(恒久的な軍事遠征)して近畿にあった勢力を乗っ取った説を推す
>>356
「臺」を「と」読むことはない。
魏の使者は、「ダイ」と聞き取った。 >>330
天皇家と卑弥呼台与の家系が違っていて、台与の次に後継の子がいないから崇神天皇が邪馬台国ヤマト王権の王になったとする。崇神の家系だけ日本書紀に書いた可能性もあるけどな。卑弥呼や台与は天皇家の親戚に当てはめれば良い。そしたら一応話が合う。 まだやってんのかよw
畿内説は魏誌倭人伝と無関係すぎて元々検討する必要すらないんだよ。
>>359
中国鏡は大和地方からはほとんどでてこない。 九州説はまともに議論したら畿内説に勝てないので
自説に都合のいいオリジナル歴史を創作
>>359
魏志倭人伝「今、使者と通訳を通じているのは三十国」
別に魏志倭人伝には「邪馬台国だけが中国と交流していた」とは
書いてないどころか30国も交流していたように言ってる
九州邪馬台国以外の畿内の国が
その中にいてもおかしくないだろう >>332
隋書に書かれているのは
「都はヤミャツァイ、魏志の説に則ればヤマダイというなり」
という発音の注釈だと思うわ
同じ時代に書かれた後漢書注にも「訛りなり」って発音の注釈が書かれてるし
それぞれ同じことが書かれてるんだろう >>355
>現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。
その宮・都と思われている遺跡は、朝鮮半島避難帰化人街だ。 ただそれだけのことに過ぎん。 アンポンタンめ。 わははははは @阿波 >>368
ということは台与は「ダイヨ」と読むという主張だね
まぁ、主張するのは自由だ >>296
byと同じだ。
倭の国王帥 升 等で等となっている。
邪馬壹国も含むのか、またはまだ小国で
参加していないかわからないが
なんらかの連合、合議制があったかもしれない。
国力に応じて生口を出し合って160名。 欠史十代とか時系列が異常な記録は九州やまとと近畿の豪族やら神を強引に習合させたせいと見る
>>361
神功皇后、応神天皇の頃から秦氏が数万人帰化したとあります。 >>321
安倍ちゃんみたいに各担当大臣や省庁がいる中で森羅万象のトップがいるとか
ゼウスってそうだっけ? >>306
日本の首都は東京だから、大和朝廷は関東にあったみたいな論調になってないか? 考古学の学者が邪馬台国関西説を説いている
纒向を開けてみると良い
あそこは大和朝廷のみやだよ
たぶん薄々学者も気づいているので
ビビってんだよ
邪馬台国は九州で 大和朝廷は神武の東征で関西へ 天孫族
>>380
>神功皇后、応神天皇の頃から秦氏が数万人帰化したとあります。
うそこけ! 飛鳥時代だよ。 @阿波 >>366
後に近畿の植民地政府が越前や美濃の土着勢力と関係を結んで本国との関係が逆転、クーデターで近畿の方が都になった
とかなら史記にでも書いてありそうなよくある話 >>364
>>371
中国でも見つかってる方格規矩鏡や画文帯神獣鏡や
三角縁神獣鏡の魏の年号が入っているものが畿内からは見つかっている
畿内は国内で随一の中国鏡の中の魏鏡の本場
>>365
小野妹子の派遣や裴世清の来朝など
隋書と日本書紀で整合性の取れてる箇所は普通にある
整合性が全く取れないという事はない うーん、京都と
縁が深いのかもしれん
139号は岩殿山城
に行く方の道も139号だったかな
国士が2人いない訳でもないだろうけども
邪馬台国がヤマト王権に考えるのが自然。台与の次の王が崇神天皇になって、御肇国天皇。ヤマト王権の始まり。奈良だな。あんなバカでかい邪馬台国が九州にあったとしてなんで飛鳥時代とかになると衰退しまくるんだよ。
当時の軍事力の優劣は鉄器の有無でほぼ決まるところがあって
東征説に説得力があるのは、北九州の勢力のほうが大陸製の鉄器へのアクセスが容易であったろうこと
>>384
秦氏と朝鮮人を同一視してないか?
秦氏は百済系の渡来人より古い時代の渡来じゃない? >>377
「台与」ではなく「臺(壹)与」。
主張ではなく、そう書いてある。 どうでもええわwwwwwwwwwww
どうせ今滅びるしwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
人類史でこの島をカルト教がほんのちょっとだけ支配してましたw自爆してみんな餓死しましたと3分ぐらい教えるかもしれんでwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>390
北部九州も、「阿波」からの鉄器被供給地域のひとつだな。 @阿波 >>384
呉、周坊から移動だな。
飛鳥京作る為だな。 >>397
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あの猿一族がユダヤwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>387
>三角縁神獣鏡の魏の年号が入っているもの
年を間違えてる。
>小野妹子の派遣や裴世清の来朝
年代や王の性別が違っても、整合してると言えるかどうか? >>387
国産のコピー品じゃないの?
威信材だったから悪く言えば偽札 >>336
すべての真実から遠ざかるも何も都合の良いつまみ食いしかみたことないんだけど
それって「歴史を捏造しようとしてるのはむしろお前だろw」という感じがする >>390
神武東征のちに畿内に邪馬台国建国。九州はそのあと伊都国に監視を任せた >>359
どんな年代測定の結果があるん?
畿内の遺物の何かの炭素年代測定でもやってんの? 日本史で唯一重要な出来事wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
俺が生まれましたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
それ以外は糞wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>395
鉄器の国産化が進む過程で良質の鉱脈を求めて東征が行われたという話にも説得力がある
国産が主流になったら近畿のほうが有利になって九州は衰退 >>387
銅鏡は九州でも割りと見つかってるし
畿内の方が多いのはどうも国産鏡が多いためぽいしで
もう銅鏡を根拠にするのは無理やろ
日本に元号がない時代に
年号を記録したかったら
中国の元号を使うしかない
だから邪馬台国であろうとなかろうと、
銅鏡が中国産であろうと、日本産であろうと
中国の元号を使うのは当たり前やろ >>374
倭国の30国が使訳通じると言うのは
倭国を大国に見せるための創作
文献上や考古学的な根拠はなし
>>375
隋と国交していたのは大和である事がわかっているので
また後漢書や北支では大和を邪摩堆と表記しているので
随所に書いてる邪靡堆は邪摩堆の誤記で
ヤマトと発音していた事がわかる
>>382
ちょっと言ってる事がよくわかりませんね
>>399
三角縁神獣鏡に入ってる景初三年や正始元年は魏で使われていた年号
魏志倭人伝にも書いてある
>>400
三角縁神獣鏡は素材の銅を分析した結果
魏の鏡に使われているものと同じ銅で作られている事がわかった >>345
え?参考資料どころか、邪馬台国はそれしか記録はないな。
その記録の場所がどこにあったのかってのは、考古資料である程度裏付けが取れる。
現時点の考古資料は九州は論外
三世紀の日本列島の発掘は、かなり進んでるし、
残ってるものも多い。
もしも九州なら、狭い九州の北部に100の国があり
それぞれ朝貢していたことになり、なのに九州以外は全く中国とは関係を持っていなかったことになる。
それなのに貨泉が出たり、三世紀の紀年鏡が出たり
矛盾することになる。
魏がわざわざ使いをおくってくるほどの「強大な国」なのに
九州以外は全く知らず、お花畑ってことになる。 歴史の連続性から考えても、その後、古墳時代が関西で大規模に始まる。
その古墳はエジプトのピラミッドよりでかい。
そんな大規模な工事ができる条件はまず、人口の多さ。
それと指示できる権力。
この二つは昔からの持続性がなきゃ、無理じゃなかろか。
既にそこに国家と言えるほどの人口と権力がなきゃ、無理。
邪馬台国は大和国の中国風の当て字だろうし。
日本語でも大和は「やまと」とは読めないし。
中国から見たら、大和がやまと?
意味わからん字なんで、邪馬台国と当て字を当てたのも無理ない。
関西だろな、当然。
>>363
明確な史跡もないし、記述では場所は東シナ海なんだから
説は出せても特定なんてできるわけないわな >>393
だからそれは旧字体
現代は「台」に置き換えて表記するのがコンプライアンス上正しい
そんなことはどうでもよくて「臺(壹)与」は「ダイヨ」という発音だったという主張だよね?変わってるね >>392
秦氏は辰韓だっけ
つまり北方と関係のない中華流れの新羅系だと思ってた >>406
あほ猿が中国に喧嘩売って皆殺しになっただけやwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
問題は同じことを70年前にかましたのに皆殺しになってないということwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 北九州=トロスト区
畿内=王都 みたいな感じだったんじゃね?ちょうど瀬戸内海が運河みたいだし
>>392
>秦氏は百済系の渡来人より古い時代の渡来じゃない?
いずれにせよ、朝鮮半島の動乱時だよ。 それ以外に、渡来してくる理由がないだろうがよ。 @阿波 >>408
妄想ってこともないでしょ。卑弥呼や台与の時代と崇神の生きた時代は近いし、台与の次の王の可能性はあるじゃん。連合国邪馬台国がヤマト王権の元と考えるのは違和感はないし 素戔嗚尊の子の大己貴命は大和の三輪山にやってきて
自分に幸魂・奇魂をここに祀ったこと、その子の
事代主神も大和にいたはずで、日向から東征してきた
神武天皇から数代の天皇は事代主神の血筋の女性を皇后に
迎えたことが日本書紀に記されている。一方古事記では
神武天皇から懿徳天皇までの皇后は大物主神と師木県主
出身で、日本書紀と異なる見解だ。
どうやら出雲王朝は大和まで進出していており、3世紀の
大和の王朝=邪馬台国。天皇家は同時代に大和に住みついた
九州出身の豪族であって、邪馬台国に臣従する立場だったから
3世紀〜4世紀初頭までが業績なしの欠史八代になる。
邪馬台国と大和政権が同じ場所を治めた違う王朝だから
神功皇后を180年も昔の卑弥呼と重ねて邪馬台国の歴史を
大和政権の一時期であるかのように見せかけねばならなくなった。
邪馬台国の女王が九州を、大和政権の男王が大和を治めていたのなら
九州の女酋長を無視して欠史八代の業績はきちんと書けたとも考えられる。
邪馬台国が衰退すると同時に天皇家は大和の支配を進めていき、
4世紀初めの崇神天皇(318年没?)の代で正式に大和の支配者になる。
ジャップの捏造歴史
ジャップは第二次世界大戦前は未開の地だろ
>>409
景初四年の三角縁神獣鏡があるんだぞ?
天皇信者にはなにを指摘しても無駄だということはわかるが。 >>403
例えば畿内にあるホケノ山古墳に埋葬されている木棺を
炭素14C年代測定で分析したら3世紀中期以前のものと出た
卑弥呼のいた時代と同じころに畿内には前方後円墳があったという事がわかった
そして魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百歩つまり幅149mと書いてあって
畿内にはそのサイズに当てはまる3世紀の前方後円墳がいくつもある >>416
邪馬壹国とは書いていない。
倭奴国?伊都国、奴国等かもしれない >>424
景初四年も半年ほど使用されていた痕跡が
晋書天文志などに見られる 畿内説は否定済みなんだから
九州のどこかって話しにしかならない
御井だけどねw
>>1
九州は縄文人の血が濃いんでしょ?
まぁ、邪馬台国は大和だったろうね >>412
史跡というのは文献資料があってはじめて史跡の意味が分かる。
旅程記事も、普通に読めば北部九州ということになる。
>>413
現代の漢字に置き換えちゃダメだろw
「ダイヨ」かも知れないし「イチヨ」かも知れない。 >秦氏は百済系の渡来人より古い時代の渡来じゃない?
いずれにせよ、朝鮮半島の動乱時だよ。 それ以外に、渡来してくる理由がないだろうがよ。 @阿波
>>422
簡単
畿内説は既に否定済み
近畿パーがウソついてるだけ >>410
ところが魏志倭人伝が書かれた
魏があった中国の学会では
邪馬台国は九州にあったというのが定説になっているようだが?
https://cd.hwxnet.com/view/badgdjmjgklcfkjb.html
日本古国名。约公元一世纪末二世纪初出现在九州北部,公元四世纪末亡于古大和国。
↓
日本の古代の国の名前。 1世紀末から2世紀初頭にかけて北部九州に出現し、4世紀末に古代大和国で死去した。
どうやら中国の学会では
邪馬台国は九州にあった古代の国というのは
常識らしい
なんでお前は九州説は論外と言っているのか
その理由を述べられるの? >>427
強引すぎるだろw
天皇信者はなんでもかんでも強引。 魏の時代と隋の時代のあいだに中国の都がどれだけ移動したのか考えると
日本からみた大国の支配者という意味では、隋は向かい交流した魏と一緒の感覚
隋からみると、魏の時代に交流した倭国の代表という意味であって、場所や支配勢力が同じとは限らない。
むしろ、当時の情勢からすると同じ勢力であるほうが不自然。
畿内に邪馬台国があるなら、海人族な為 入墨を入れた顔で機内は溢れてたことになるけどオーケーかな?
昔は武力で決まったから九州でしょ。明治から太平洋戦争終結までも九州部隊が最強だったし。
>>425
崇神天皇の時代
畿内ヤマトはまだ九州まで勢力圏に収めてない
纏向にしても伊勢東海北陸あたりの勢力の遺跡 >>436
九州は縄文系が多く天皇に服従しなかったからだよ
以上証明した >>397
景教(原始キリスト教)を持ち込み、さらには日本の神社仏閣を建立したとされています。取り分け京都の伏見稲荷大社は秦氏が建立、神道の神社でありながらにして実は景教の教会だといった都市伝説もあります。(信じるか信じないかはアナタ次第です…) 統一された形式の巨大古墳が各地で巨大化した
これは
・共通の文化圏であった
・でありながら各地の豪族が張り合っていた
ということでは
>>445
渡来系なのは間違いはないだろ
縄文系で天皇に反抗する勢力だったとする方が無理がある >>409
隋書と同じ時代に書かれた後漢書注にはこうある
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
その大倭王はヤマダイ国に居る(今の名を案ずるにヤムァユイ※音の訛なり)
※邪摩堆であればヤムァツァイ
要するに隋書が書かれた時代には
魏志の邪馬臺国が近畿ヤマト(ヤムァツァイ)のことかどうかわかっていないものだから
「案ずるに〜」と書かれたのだろう
わかっていれば案ずる必要なんかなく断定すればいいのだから 人は愛を紡ぎながら
歴史を創るか
天地創造かと思いきや
化石みたいな人が
未だにいるぞ
>>443途中送信orz
>>14
九州にも「やまと」(山門)の地名があるんだなあ
邪馬台国を「やまと」と読むとしても
畿内とは限らない >>446
そりゃまあ縄文人も渡来系弥生人もみんなどっかから渡来してきたわけですからね >>446
天皇も卑弥呼も一部豪族でしょ?
何で天皇が日本を支配してる事になってるの? ここに来てる人は山門郡を知らないんだ
考古学の先生に騙され畿内説を唱えているんだね
>>444
武力より共立のシンボル。
要する中国と対等で独立宣言。 >>450
魏志韓伝の記述や途中の島の大きさなどを参考にすると、1里は7〜80メートル。
普通に読むと、北部九州になる。 >>434
これは畿内説論者は怖くて中国との共同研究なんてできないね
逆に九州説は予算さえあれば中国との共同研究で畿内説にとどめを刺せるんじゃないの 邪馬台国がどこかというスレが立つと延々と争ってる奴がいるよね
>>457
良い指摘だねw
「壹(臺)與」とするべきだった。 >>420
邪馬台国に臣従する立場だったから
3世紀〜4世紀初頭までが業績なしの欠史八代
これはすごい納得だわ。崇神でやっとトップになれたんだろうな。神武は欠史八代に入らないから、実在したとして、欠史八代中に卑弥呼とか台与にトップが入れ替わったんだろうな。 >>452
天皇家は古代以前は豪族。(権力)
中世に征夷大将軍を以て幕府を成立して以来、天皇は日本の象徴っぽくなってきた。(権威) >>455
不弥国までだな。
後は古い文献の転記と聞いたのみ。 旧郡が昔の小国単位。
平安時代の和名類授抄では
九州全域なら96郡となっている。
邪馬台国時代は多少増減するだろうけど
地勢の関係もあるから、そう変わりはないだろう。
>>455
水行20日、水行10日、陸行一月てあるし、これの解釈はどうすん?なんで途中から里数から変わったもわからんし、邪馬台国まではいけず伝聞と言われてる。 >>467
いやいや、日本語の省略とかわからんの?とどめを受けると言わなきゃわからんの? w >>468
別の資料から引用してきた別個の情報が混ざってるんだろうね
中国の学者さんは、そう考えてるようだ
↓
NHK諸説あり!
中国の学者達が断言 邪馬台国はここにあった!
魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない
いくつかの時代の資料が融合した可能性が高い
漢代、三国時代、西晋時代の記述が混在
刺史=監察官(漢代)、行政官(魏の時代)
魏の時代になると刺史の役割は行政官に変わり監察官ではない
にも関わらずこの文章では監察官の意味合いで使われている
つまりこの部分は魏について書かれた文章ではない
魏よりも古い時代の史実が混在している
1つの完成した史料とは言えず部分部分で内容が矛盾している
1人の人物が書いたものではない
邪馬臺国までの行程、時間で表現、距離で表現
このことから異なる時代に書かれた記事が並んでいると陳教授は指摘する
正確さよりも分かっている情報をかき集めて盛り込まざるを得なかったのではと陳教授は言う
では陳教授が信用できる部分はどの文章で邪馬台国の場所は何処なのか
邪馬台国の場所は九州が理に適う
魏志倭人伝の後半倭人についての話があるが
「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある
つまり邪馬台国の東には海があった
畿内説ではこの条件と一致しないため九州にあった
「女王国東渡海千余里」 >>468
それまで里数で書かれていた距離を
日数に変わったのは
帯方郡からの総旅程にかかる日数という意味で書かれている説を取りたい
つまり帯方郡から邪馬台国までは総距離1万2000里である
その総旅程は水行20日、10日、陸行一月かかる
という意味で書かれている 街道が整備されてないから
工程を距離で表せるのは整備された道だけ
平坦で、移動手段も選択できるなら距離で表記するほうが理にかなっている
山道のような工程なら距離など無意味
>>435
別に強引じゃないよ
魏の明帝が景初三年の元旦に死んだ事になってるけれど
実は改元を翌年ぴったりに合わせるための記録上の操作の可能性が高い
青龍から景初に年号が切り替わる時にも同じ事があった
なので明帝も同じく死亡したのは景初三年の元日ではなくて
実は半年ぐらい生きていたとするなら晋書天文志や三角縁神獣鏡に
景初四年の記載がある事の辻褄が合う
その他にも景初四年が実際は存在していた証拠も色々な所にある 畿内説はやはり不自然だよ
距離が空きすぎ
南側に滅ぼされる位の強大国なんてあるの?
あーだこーだ言う前にタイムマシーン作った方が早く解決できる
>>464
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡からジグザグコースで960q。 極端なことを言えば三日で3kmしか進めないような道は三日かかるとしか言えない
>>468
自郡至女王國 萬二千餘里
水路陸路の合計で、960キロ。 九州説の根拠は九州の方が中国に近い
中国の学者の言ってる方が正しい
学術的な事実より
中国から近ければ近いほど偉いという朝鮮式の儒教思想そのもの
まず神武(にあたる人)は安曇系海人族の一派として大和の地に乗り込み拠点とする。これが2世紀まで
神武いわれの祭祀や遺構は皆無だし欠史八代はただの在地領主
その後3世紀
卑弥呼はその末裔で九州駐在
大和他本州の資源をバックとした交易利権で九州王権連合として祭祀を握った後、魏に朝貢するも九州勢との対立により倭国大乱となり台与と物部を伴って大和へ逃げるように遷移
三輪山にて祭祀を創始し大物主と天照として君臨
その後数代
物部系の崇神が本格的に大和を開発し天照を再び遷移し天皇の系譜を創設
そのため九州系の王権祭祀は古墳祭祀へと変化した
天照と神武の系列が逆だけど、もしこういう流れであれば畿内説からのヤマト王権成立も受け入れられる
>>450
普通に読めば九州やろ
後漢書倭人伝
「後漢時代の倭国の最南端が奴国である」
魏志倭人伝
「邪馬台国の支配領域の最南端が奴国である」
隋書
「倭国は東西に広い」
中国が北九州としか交流がない後漢書の時代では
中国的は朝鮮南岸・九州=倭国なので、
「倭国は南北に広く、その最南端が奴国である」
という認識になってる
魏志倭人伝は、その認識を引き継いでいて
「女王国の支配領域は南北に長く、その最南端は奴国である」
という認識になっている
ところが中国側が畿内勢力と接触した隋書だと
「倭国は東西に長い」という認識に改まっている
昔の人の方角感覚でも畿内まで移動すれば
「倭国は東西に広い」という見解を持つし
隋書はそうなってる
魏志倭人伝が「女王国の支配領域は南北に長い」という
見解を持っている以上は、大和には行ってないし
南北に長い九州の方が妥当だろう >>471
邪馬台国までの距離は書いていない。
女王国境である。その南に狗奴国。 >>480
誰も邪馬台国が日本列島で一番偉いとは思っていない >>473
辻褄合わせは不要。
事実のみを見ればいい。
間違っているものは間違っている。 >>480
違うぞ
洛陽から遠い遠い世界の果ての蛮族が
魏の皇帝の徳を慕って朝貢してきたことに意味があるから
遠い方がいいのだよ >>420
神武が初代天皇、崇神が復権者との見解、お見事です。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 古事記と日本書紀の天皇崩御年
天皇の代数をx軸、天皇の崩御年(西暦)をy軸に取ると
日本書紀: y=66.647x −694.44(Rの2乗=0.9928)・・・神武〜仁徳(x=1〜16)まで。
履中からは古事記の直線とよく一致する。
古事記:y=12.557x +205.02 (Rの2乗=0.982)・・・崇神〜推古(x=10〜33)まで。x=1〜9の崩年干支が与えられていないが、x=1を代入すれば、神武天皇(実際には大王ではない)
のおおよその没年が求まるだろう。
邪馬台国崩壊→九州勢力の神武東征→ヤマト王権成立なのか。
それとも卑弥呼と崇神天皇は同時代の人物でヤマト王権が九州に侵攻した時には邪馬台国は崩壊していた。
どちらなんだろね。
>>490
だから、1里は7〜80メートルなんだよ。 >>485
YOUは景初四年の三角縁神獣鏡が偽物だっていう年号以外の証拠を
出さないと盛り上がらないぞw >>481
>>九州勢との対立により倭国大乱となり台与と物部を伴って大和へ逃げるように遷移
モンゴルのチンギス・ハーンになった源義経みたい… >>447
その後漢書の邪摩惟は邪摩堆と表記されてる版が発見されているので
邪摩堆の表記間違いだろうというのが定説 >>468
「水行一日、陸行一日はゆっくりだった」で説明がつくんだなあ
畿内説は水行30日、陸行一月を過大評価してる
魏志倭人伝によると
帯方郡〜邪馬台国 1万2千余里
帯方郡〜不弥国 1万8百余里
不弥国〜邪馬台国 水行30日、陸行1月
つまり「1200里くらいを水行30日、陸行1月で
行きました」というだけの話なんだ
「「水行30日または陸行1月」と読む」という意見もあるが
いずれにしろ水行1日、陸行1日は
ほんの数十里の移動に過ぎない >>493
魏の里435メートル
1/5すると87メートルになるね。 >>485
それじゃ景初三年と正始元年は実際に使われていた年号なのは確実だから
それが彫ってある畿内で見つかる三角縁神獣鏡は魏の鏡である事が確実という事でいいの? あんま先入観ないけど
まぁ議論読んでる限り九州なんだろうな
>>492
安本美典氏の天皇在位年数の推測によれば、神武天皇は3世紀後半。
邪馬台国にヤマト王権を見るのはとても無理。 >>499
同じようなものが中国で発掘されない限りは日本で作った模造品である可能性が残る 魏の1里は約440mという事は当時使われていた定規から判明してるよ
九州説のいう1里75mの短里なんて使われてなかったことは確実
>>487
なんか畿内説論者ってID:1gGFfcY70のような
邪馬台国はエライ、邪馬台国があったところが日本一だと威張っていると
思い込んでいる幼稚な書き込みが多いなw
そのせいで意地でも邪馬台国はオラが畿内に盛ってこようとしているかのように見えるw
これじゃあ客観的に魏志倭人伝を読むのは無理だよなあw
最初に畿内にありきが前提になっているんだからなw >>494
畿内の鏡に中国製が少ないというのは、すでに当の中国で結論されてるよ。 >>495
興味があるのは3世紀以後の三輪山祭祀の創設時期と邪馬台国盟主である卑弥呼との関連性なんだよね
なのでこじつけてみた
考古学的見地と文献の信憑性から見るとこの時期の大和の変化はかなり圧縮されていると感じるよ >>487
畿内説の最大の問題はそこだよな
下の畿内説学者のように
なぜか「畿内に大国があれば、
中国史書が書くはずだ」という前提があるし
だからこそ纒向が邪馬台国時代の大規模な遺跡である
というだけで邪馬台国の証拠のように思い込む
http://inoues.net/ruins2/nmakimuku2009.html
>九州にあった場合、訪れた魏の使いは
>ヤマトにあった強大な政治連合について
>把握せず、記録に載せなかったことになる
>そんなことがあり得るのか
だが魏志倭人伝を読めば
「女王国より先のことは、よく分からない」のように書かれてるし
「中国側がアクセスしやすい範囲の大国」という程度だろう >>504
いや畿内説を取っている学者も短里で表記されているというのは
否定していないんだけれどw
お前だけ学会に短里なんて使っていない!と声を上げてろよw >>503
三角縁神獣鏡は魏の領地だった中国の洛陽や
帯方に相当する処で見つかってるよ
そもそも三角縁神獣鏡は分類上は斜縁神獣鏡の一種で
斜縁神獣鏡は中国では普通に見つかる鏡
そして三角縁神獣鏡は成分分析の結果
魏の鏡と同じ銅で作られている事もわかっている >>509
陳寿が資料を書き写しているうちに
文章の順番が前後間違ってしまったのだろう >>498
魏志の1里が7〜80メートルでないとすれば、たしかに魏志はトンデモ史書ということになる。
しかし、中国の完全な正史として認められている。
>>499
中国側の見解では、日本製ということになる。 邪馬台国は九州で
大和朝廷は畿内
同時並立であったのは間違いない
今の天皇家につながるのは大和朝廷
邪馬台国は倭国連合で奴隷を送っていた
大和朝廷は入墨を入れていない
これで日本書紀も整合がとれているはず
>>497訂正
×「「水行30日または陸行1月」と読む」という意見もあるが
○投馬国〜邪馬台国間の「水行十日・陸行一月」を
「「水行10日または陸行1月」と読む」という意見もあるが 西日本を支配する大国がなんで魏に狗奴国と対立してるから助けてと使者を送る必要がある
魏から属国を意味する旗をもらい、張政という軍事顧問まで派遣してもらって
卑弥呼は外患誘致の売国奴
負け組のやることで当然その後、邪馬台国は滅ぼされた
(おそらく狗奴国に。その狗奴国が大和に滅ぼされたから邪馬台国関連の記録は日本にまったく残らなかった)
だから以後150年、中国に日本から使者が来た記録はない
日本は畿内中心に独自に発展していってるから大陸に使者を送る必要なんかなかった
>>511
さすがに短里はあった主張してる畿内説の学者はおらんよ
そもそも魏志倭人伝は計算してみると1里の長さがバラバラで
短里も長里も使われてないんだから >>474
北九州と堺港の距離なんて短いものだよ
今でも暇と友達さえあれば俺たちでも楽々歩ける距離だし
船も西から東に吹く風で楽々移動できるし >>510
書いて欲しかったんだろう
「イギリスの雑誌の編集者が考えた世界の○○トップ100」みたいな >>520
記紀によると裴世清は筑紫から難波津まで約二か月ほどかかってるな >>519
一里440mだとパプアニューギニアに行くから
短里で書かれていることは否定できない、って立場だろ >>522
あの距離2ヶ月でいけるんだ、びっくり、昔の人はすげえな >>515
科学分析の結果は
三角縁神獣鏡は中国の魏の銅で作られている
つまり中国製と出てるけど
>>523
畿内説の学者は
魏志倭人伝の行程をそのまま辿るとパプアニューギニアになるから
魏志倭人伝の行程は邪馬台国の位置を示しているものではないという立場だろ 中国語の当時の解釈は
水行は海を行くことではなく
川に限定されるんだよ
そこの解釈で日本人は間違ってしまうとの事
>>526
邪馬台国の位置を書いている記述ではないなら
何を現わしている記述なんだよ? >>523
まあパプアニューギニアの可能性もあると思うけどなw 中国で漢字が生まれた頃
日本人はドングリを取って暮らしていた
>>520
3世紀初頭は関門海峡が通っていなかった説がある
なので地理的に宇佐は瀬戸内航路の係留地として、日田街道は陸路として意味をなしてくる
航路の場合南九州迂回航路となるから西都原あたりも重要補給地となりうる >>525
スーパーボランティアの尾畠春夫さん
もっとスゴい w >>525
紀貫之は土佐から和泉の灘まで約250km(裴世清の半分くらいの距離)を39日かけて移動してる >>526
銅鏡の化学分析の結果ってどの本に載ってる? 水行のところの解釈が
違うんです
水行は海を行くことではなく
川を使うとのこと。
検索してみてください
いろいろ出てくると思います
>>526
>中国の魏の銅で作られている
肝心の中国側が否定してるけどねw
>魏志倭人伝の行程は邪馬台国の位置を示しているものではない
そんな半端な見解とらずに、魏志倭人伝は偽書だから、邪馬台国自体存在しない、と主張すればいいのにw >>89
@阿波氏 ちゃんと書けるじゃん。もっとしっかり自説を披露してよ。 古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され
日本書記によると垂仁天皇、景行天皇は
纒向に宮殿を作ったという
(前者が珠城宮、後者が日代宮)
そして『魏志倭人伝』には卑弥呼の官として
・・官有 伊支馬(いきま)
垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」
イクメ・イリビコイサチノミコト
・・次曰 彌馬升(みます)
皇后「氷羽州比賣命」
ヒバス・ヒメノミコト
・・次曰 彌馬獲支(みまかし)
皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」
ミカハシ・ビメノミコト
・・次曰 奴佳醍(ぬはだい)
皇妃「沼羽田入毘賣命」
ヌバタノ・イリビメノミコト
の名が記載されてる
>>529
スマトラ説あるよ
奄美説とかも
さすがにハワイ説は人なめてんのかって思うけど
奴国の東、百里にある戸数千戸の不弥国は糟屋郡宇美町で正しい
不弥国から南へ水行20日で投馬国との記載があるが
宇美町には狭い川があるがとても水行出来るような川では無いので水行20日は
製本化する時に挿入箇所を間違えている >>535
根拠は?
魏志などの用例をあげてみて。 なんだよ、ダンマリかよw
このように畿内説を唱えている人は
適当なその場での思い付きを言ってしまって
後の言葉がなくなってしまって困り果てるようなバカしかいないw
歯ごたえないなあw
箸墓古墳と宇佐神宮の下の古墳を発掘すりゃええねん。
答えが国内に埋まっとるのに
昔の中国の文献だけこねくり回したって百年経っても結論なんぞ出んわ。
>>504
畿内説でも「奴国は北九州」と考えているんだろ?
魏志倭人伝によると
帯方郡〜邪馬台国 1万2千余里
帯方郡〜奴国 1万6百余里
つまり短里だろうと長里だろうと
「北九州に着くまでで
邪馬台国への旅程は約9割終わり!」が
魏志倭人伝の見解なんだよ
いくら昔でも実際に中国の使者が
畿内まで行ったなら
ありえない距離感としか言いようがない 戦前の昭和初期に宇佐神宮を掘ったら石棺見つかって慌てて戻したんだよなたしか
今から1900年前だから当時の川で考えないと
2000年前の大坂は湖状態だから
今と全然違うんだよ!
>>526
「魏志倭人伝の旅程をそのまま読んだらパプアニューギニア論」は
畿内説派の意図的な誤読だろ
額面通り読めば>>544にあるように
北九州周辺にあるようにしか読めない 所詮、日本もアジアの国だし、無理やり皇国史にするためにいろいろ抹殺・改竄してる
と思うわ。そういうの得意だし。
>>547
從郡至倭 循海岸水行
海岸沿いに川があるのか?w >>419
卑弥呼と崇神の時代を合わせるのに、まず妄想が一つ必要。
そこから先も妄想全開で頑張ってるだけ。 >>535
>水行は海を行くことではなく
>川を使うとのこと。
じゃあ、[從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」も川だと言うのか? アホ? @阿波 >>538
当時本当にこういう発音だったんだろうか。
おーい、ぬはだい君、とか、変。 >>425
3世紀中頃に、奈良盆地に何らかの集団がいた事だけでは、それが邪馬台国であることの証明にはならない。 >>519
そういう事、三角測量とか千里法のバラつきだろうな。実際にどれだけ正確に垂直、水平を取ったかは定かではない。千里法にも欠点ある >>537
>@阿波氏 ちゃんと書けるじゃん。もっとしっかり自説を披露してよ。
お前がちゃんと読んでないだけのことだろうがよ。 性根を入れて「阿波」を読め! @阿波 真面目に発掘する気も無いしな。まだ中国の方が真面目に古代遺跡の発掘してるっつー。
>>548
そうだよ
一月が一日の写し間違いなだけ
んで放射読みな
御井な >>370
畿内派は天皇と邪馬台国を結びつけるからおかしくなるんよね
卑弥呼の地位やそれを取り巻く状況からも少なくとも魏志倭人伝に書かれた時点では天皇家とはなんの関係もない 水行は博多から宇佐まで九州を沿岸航法で一回りしたのではと思うけどな
まあこれは関門海峡通れない場合を想定してなのだが
>1
>邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん
な〜んだ、ただの盛り上げ役だったのかい。
持ち上げるふりして、その実、引導を渡すスレは此処でしたか、、、
倭人伝には土器の事など一言も記載が無いのにこの老いぼれは何を寝ぼけた
事を言っているんだろうか?倭人伝に記載がある楼観・城柵の有無
鉄の鏃の出土数などを考慮すれば畿内説は妄想と分かるじゃ無いか >>387
画文帯神獣鏡なら九州でも見つかってるのでそこは意味ないな
そんで三角縁神獣鏡は恐らくは日本で作られた物
年号も書かれてある文字の意味など分からないからただ模様として写した説 畿内ヤマトが九州に進出したのは
崇神の時代ではなく垂仁ののち、景行、成務、仲哀、神功のあたりだよな
倭王武の上表文にある西に66国、海を渡って北に95国というのも
まさにその時代の話だろう
>>425
なんで径百歩で148mとかとんでもない数字になるの
現代人でも一歩1m程度なのに昔の小柄な人間の一歩で1.5mもあるわけないだろ >>566
畿内の勢力とは別の集団が帯方郡に挨拶に行ったら歓迎されたってだけの話だからな。
何せ中国本土の東から西の端から端までの距離くらい離れてる所から、公孫氏が滅亡して即挨拶に来てる。
何て忠孝者だと感激したことだろうね。 >>573
ヤマト王権である天皇と邪馬台国を結びつけるのは祭祀の痕跡だけだな
三種の神器と古墳の副葬品
あとは確かに関係性を認められない
ただしこの関係性こそが王権を示すために必要な要素であったことも推察される >>544
嘘を教えんたんだよ。敵国になるかもしれないのに本部なんて簡単には教えない。そもそも、魏の使者が邪馬台国に行き着いた証明なんてない。陸行水行は倭人からの伝聞と考えれば、畿内にあっても整合は取れる 神功皇后って新羅征伐の景気づけに九州で魚採ったら鮎が取れてこりゃ珍しいって言ったんだっけ?
大和には鮎はいなかったのか
>>576
そうだけど
それ以前に畿内説は否定済み >>579
古代中国の1歩は今で言うと2歩
今でいう1歩は古代中国では半歩 お前ら、魏志倭人伝に「共立」と書いてあるからといって
邪馬台は連合国だ、という馬鹿な解釈から卒業しようなw
「共立」は、日本に限らず支那の周辺国の記述で出て来るんだと。
「私たちの国は弱小国のより集めで、異論なくこの者を王にしました」
と大陸に示し、○○国王として任じて貰う為の決め台詞だ。
支那と対峙できるような強国以外は、みな「共立」を使う。
共立ではなく、軍事力で一つになった国ならば、支那から脅威と見做され
攻撃される危険さえある。それゆえ力を隠して「共立」を使う。
実際、倭人伝の記述を見れば、倭国大乱で邪馬台が破れ新覇権国に権力を
奪われてるのが見て取れる。(※謎の勢力『大倭』が博多港を押さえてる!)
しかしそれは隠して、倭国が皆で共立した女王卑弥呼が遣いを送りますよとw
大和王朝の前身は記述されてんの?
邪馬台国がやっぱそれだと思うわ
>>584
下賜品受け渡しは伊都国でいいし
卑弥呼がそこに定住もある。 九州説はそのうちQアノンて呼ばれる時代がくるわ。畿内説が優勢です
>>577
三角縁神獣鏡に使われてる銅は
中国の魏の鏡と同じものが使われてると科学分析でわかってるので
三角縁神獣鏡は中国の魏で作られた鏡というのはほぼ確定的 畿内説はすでにQアノンて呼ばれる時代が来てる。
九州御井説で決まり。近畿パーはただのウソつき
>>594
むしろ畿内説がそうなるんじゃね
銅鐸銅矛文化圏というのが消えて無くなったように
前方後円墳体制というのもそのうち消えてなくなると思うわ 末盧国(唐津)の東南500余里の「伊都国・奴国・不彌国」は佐賀平野で確定。
伊都国は佐賀市大和町川上、奴国は佐賀市街、不彌国は吉野ヶ里遺跡一帯。今、文化庁の考古予算も手厚い。
>>594
畿内説は、そのうち、研究費詐欺で逮捕者が出ると思うのw
九州説にも逮捕者出ていいとは思うけどw
どっちの学説も糞過ぎるので全員逮捕して呉れると有難いw
でも邪馬台が北部九州だったのは揺るがない事実なんだけどね。 >>595
邪馬台国以外の資料をもっと調べた方がいいよ。
里と歩、尺と言った、尺貫法の成立過程は、邪馬台国を考えるのにも、結構重要だよ。 >>601
九州説でも伊都国パーとか吉野ヶ里パーとか宇佐パーとか
色々いるもんね >>573
邪馬台国の支配力も大きいし、天皇ヤマト王権の支配力も大きい、同一で考えても違和感ない。 >>595
それじゃ嘘って証拠は?
魏の度量衡が書いてある律歴志には
1歩=6尺という尺度が載っている
1尺は当時使われていたモノサシからだいたい24cm
1歩は6尺なので×6で1歩は約144cmと判明している >>605
畿内説は否定証明済み
はい、また論破w >>541
すみません
ちょっと仕事中でして
回答しますね
中島証文さんの古代中国漢字で読み解く魏志倭人伝という本がありまして
その中でかなりの実例をあげて説明されています
歴史学の先生方が大きな間違いを侵すらしいです >>607
>吉野川に棲息するょ
「阿波」の大河吉野川な。 @阿波 >>603
九州説なら伊都国推すわ。伊都国に一大率がおかれてて、みんな恐れてたとあるしな。 真相はこれっぽいけどな
;feature=share >>611
考古学や科学調査の発達で
九州説こそ否定済み
九州説の学者もほぼ居なくなった状態 末盧国(唐津)の東南500里到る「伊都国」は佐賀平野で確定。
こんな初歩的地理は、佐賀県の小中学生でもわかる。これがワカラン考古学者は、小学校からやり直し!
九州説は薩長が畿内の権威を落として
薩長東京王朝の権威を上げるためにやってるだけ
薩長東京王朝御用大学の東京大学ぐらいしか支持してないんやろ
【尿路結石予防の四ヶ条】
@十分な水分を摂る
食事以外に1日2L以上bフ水分補給をすb驍アとで大幅にャ潟Xクを減少でbォます。
=iコーヒー、紅鋳ン刄Vュウ酸を荘スく含む飲料は�ン過ぎに注意=I)
A動物性脂肪・塩分・糖分の過剰摂取はNO
腸内のシュウ酸濃度や尿中のカルシウム濃度を上げてしまう原因になります。
Bプリン体の多い食品や飲料は控えめに
過剰摂取したプリン体は体内で代謝されて尿酸となり、高尿酸血症や酸性尿を引き起こします。
C寝る前に食事をしない
食後2-4時間で尿中結石形成促進物質の濃度がピークになるため、寝る4時間前までに夕食を済ませるのが理想的です。
邪馬台国杯
本命:九州説
対抗:畿内説
穴馬:四国説
狗奴国と戦争してるのに幾内なわけないだろ
頭おかしいのか
地理の点数、佐賀県の小学生以下の考古学者多数あり、
畿内や関東や博多の大学教育はどうなってんのかねえ・・、
考古学者はほんとは場所知ってるのに金儲けのために言わないってほんと?
>>584
魏志倭人伝を読み直してみると
中国の使者は「倭国に行って女王にあった」というだけで
「邪馬台国に行った」とは明確には書いてない
ひょっとした畿内邪馬台国にいた女王が
北九州まで中国使者を迎えにいったかもしれない
しかし当時、老齢だった女王には
そんな長距離移動は難しいだろうし
やはり中国使者が邪馬台国まで行っただろう >>618
魏志倭人伝の行程を辿ると距離的にはパプアニューギニア
または邪馬台国は会稽東治の東にあると書いているので
現代の位置にすると福建省福州市の東で沖縄とか台湾になるあたりと書いてある事になる
魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は
はるか遠くにある国という事を強調して書いてあるもので
正確な位置ましてや九州を指名しているものではない
一方畿内からは卑弥呼のいた時代の魏の年号が入った
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が見つかっていて
卑弥呼の時代に魏と交流していた事は明らか
そして魏志倭人伝には卑弥呼は魏に朝貢して交流していた事が書かれている まあ、九州説はどうみても薩長土肥によるクーデターと
大和王朝の天皇を◯してすり替えた薩長土肥東京王朝の正当性を作るための捏造
当時は九州と近畿に首都級の都市が2つあったって説に一票。
現代だってあるだろ、ワシントンとニューヨーク、シドニーとキャンベラみたいな例が。
>>630
魏志倭人伝によるなら
九州は一大卒が置かれて邪馬台国に監視されていた事が書かれている >>593
ないよw
伊都国で博多港を仕切ってるのは、謎の勢力「大倭」の代官「大率」だ。
実は、この大倭こそが、倭国大乱の勝者で後に大和と改字する奈良だ。
大倭の代官「大率」は、魏の使節を伊都国で接待漬けにし、
漢の時代に倭国代表(※裏に当時の覇権国・邪馬台が居た。)として朝貢
した奴国にも行かせないし、勿論、邪馬台の本拠地・女王国にも行かせない。
おまけに九州から海を渡った本州の記述は「そこも皆倭種」とだけで、
完全に大倭(=奈良)の所在地を隠している。 全てそんな具合だ。
この魏への朝貢は、実態は、新覇権国・奈良が自身の列島覇権をより確かな
ものにする為、軍門に下した旧覇権国・邪馬台を朝貢に出したのであり、
その利は全て奈良が頂く為に、魏からの下賜品は伊都国で全部取り上げてる。
漢の時代、邪馬台が配下に収めた奴国を朝貢に出したのと同じ。 >>555
『魏志倭人伝』には卑弥呼の官として
・・官有 伊支馬(いきま)
垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」
イクメ・イリビコイサチノミコト
・・次曰 彌馬升(みます)
皇后「氷羽州比賣命」
ヒバス・ヒメノミコト
・・次曰 彌馬獲支(みまかし)
皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」
ミカハシ・ビメノミコト
・・次曰 奴佳醍(ぬはだい)
皇妃「沼羽田入毘賣命」
ヌバタノ・イリビメノミコト
の名が記載されてる
まっ
天皇
皇后
皇太子
皇太子妃
の順番で
官が列挙され
しかも
名前も4人すべてそう読める
なんて
ほとんど同一人物だろうな >>625
場所を特定できるような物証が出てこないとなんとも言えない。
邪馬台国御一行は卑弥呼の金印の他に、難升米と都市牛利が銀印を貰ってる。
この3つのどれかが出てきたら、ほぼ確定でいいんじゃないか? 古代中国語が素人でも読めると思うから失敗する
海の定義 水行の定義
大幅に間違って恥ずかしい学者だらけですよ
簡単に読めそうだけどそうではない
中島証文さんを検索してみて
本家邪馬台国
元祖邪馬台国
邪馬台国2代目
直系邪馬台国
邪馬台国オリジン
いっぱいあったんだろ
>>587
そこは本当みたいね
ちょっと認識を改める >>630
それなら、九州と畿内で戦争が起きるんだよな。倭国大乱くらいしかないし、それは卑弥呼で終わったし