資料を広げて「筑紫平野連合説」を説明する片岡さん
今なお所在地を巡り、近畿説や九州説などで論争が続く「邪馬台国」について、小郡市埋蔵文化財調査センターの片岡宏二所長(64)が唱える「筑紫平野連合説」が注目されている。邪馬台国を含むクニの連合が福岡、佐賀両県に広がる筑紫平野にあったと見る説で、講演依頼が増えたり、全国放送のテレビ特集で取り上げられたりしている。
片岡さんは北九州市戸畑区出身で、早大で考古学を専攻。小郡市に入庁後も邪馬台国を長年研究。発掘実績などを基に、北は筑紫野市、南は大牟田市、東はうきは市、西は佐賀県武雄市まで広がる筑紫平野で確認された数十か所の環濠集落がネットワークを形成し、邪馬台国連合をつくっていたとする説を約10年前から唱えている。2011年と19年には関連本を出版した。
同連合説は、3世紀頃の日本を書いた中国の歴史書「魏志倭人伝」に、「倭には三十国あり、そうした国々が共同で擁立(共立)したのが、邪馬台国の女王卑弥呼」と表現している点に着目した考えだ。
筑紫平野の集落遺跡では、鉄や青銅器などを1か所で製造せず、分担してそれぞれのクニで製造し互いに供給していたとみられることが、「一つのクニの連合だった証しになる」という。
ただ、卑弥呼の墓とも言われる「箸墓(はしはか)古墳」(全長約280メートル)のある纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)などを根拠にした近畿説の研究者からは、筑紫平野には3世紀頃の大規模古墳がないことから、「筑紫平野に限ると、邪馬台国のスケールが小さ過ぎる」との批判もある。
これに対し、片岡さんは「『共立』とは同規模の多くの国が共に立てたことを意味する。大きな古墳を造れる強国が一つあれば、『共立』は使わない」と主張する。
「邪馬台国は強国」とのイメージを覆す片岡さんの説は、1月に放映されたNHKのBS番組で紹介。オンラインで東京のカルチャーセンターの講師を依頼されるなど反響を呼んでいる。
片岡さんによると、邪馬台国論争では、近畿説が優勢だったが、最近、関西でも九州説を支持する研究者が出てくるなど盛り返してきたように感じるという。
片岡さんは「強い国がリーダーというのは現代的な考え方。古代には同規模のクニがたくさんあり、話し合いで女王が選ばれた。今の日本人にも、社会のあり方を考えるいい機会になると思う」と話し、今後も新著で自説を紹介する考えだ。
読売新聞 2021/05/26 05:00
https://www.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/news/20210525-OYTNT50072/
★1:2021/05/29(土) 23:05:41.25
http://2chb.net/r/newsplus/1622340278/
崇神天皇は東西に四道将軍を派遣してるし
倭の五王は東に55国、西に66国、海を渡って95国を平定している
邪馬台国の時代に九州北部から東海までを勢力圏とする巨大な連合を想定するのは難しい もっとも古い文献には卑弥呼は在日朝鮮人だと記載があるんだよな
ヤマトという音との繋がりからすると、近畿だろうねえ
この時代の国なんて100人とか200人規模の村だろ。
西日本は邪馬台国好きだよな
自国の歴史を明らかにするのは歴史的にも考古学的にも重要な事だとは思うが熱意に引くわ
邪馬台とか卑弥呼とか、あまり良い漢字じゃない雰囲気。
残念だが共立では無い。
要害の地、高良山を支配した丹波氏が、
女王を立てて、各国に一大率を派遣し、
北部九州を支配していた。
>>8
凄い妄想の図だなw
東に55国・・・中国、四国地方
西に66国・・・九州地方
海を渡って95国・・・朝鮮半島南部
倭王武の時代にも関西は未開の地だな。 ぼくの 妄想
カササギは外来種として九州北部に生息する
この鳥は、一定の地域にとどまる習性がある
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、どこから来た鵲なのかルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
こういう場合の「国」の定義ってなんなのかね?
アメリカのインディアンのナバホ族とかアパッチ族みたいな部族集団程度だろ?
ここでこの人が言ってる「国」って
>>15
中国人は異民族に良い名前なんて付けんだろw 女王国連合が筑紫平野にあったのは良いとして、肝心の邪馬台国は
どこなん? 個人的にはやっぱり日田市が気になるんだよなあ。
>>8
海を渡って北の95国を平定しているが
関西視点だと朝鮮半島南部は西だからな
明らかに九州中心に上奏文は書かれてるな。 女王国は吉備阿波、九州南部、東海、山陰の飛び石状連合政権だろうね
邪馬台国はその都、つまり女王がいる処で対狗奴国の前線基地
これが奈良の纏向遺跡、巨大な軍の駐屯地だな
奈良は元々勾玉と銅鐸の地だったんだが、東海山陰吉備の侵略を受けて勾玉銅鐸は消え、東海山陰吉備の外来系土器が多数出土するようになりアイデンティティの最たるものである墓制も変わる
当時の福岡の遺跡からも東海と吉備の土器が多数出土している 畿内の土器はない
九州北部は女王国の機関、一大卒の支配下にあったんだろう
伊都国には別の王がいるから九州北部は女王国ではなく女王国に従属する国々やろね
ひみこちゃんは学問というより、郷土史愛好会
アニメでひみこちゃん やってほしい。
<はじめに>
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46
大給松平家菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
>>16
魏志倭人伝には一大率を対馬国から末盧國等の諸国に置いて伊都国で治めていたと書かれているよ。 邪馬台国は中心地は高良山周辺の山門八女である。
そして通路として、日田や宇佐、大分も支配していた。
北九州ならすぐ着くだろ
そもそもヤマト(邪馬台)の漢語名が倭
卑弥呼がいたところがヤマトでなく都があったところだろ
>>24
女王国とは伊都国と奴国の事だよ
伊都国と奴国が邪馬台国の首都圏だな
女王国を共立したのが伊都国と奴国なんだ。 魏志倭人伝は、盛りに盛ったでっち上げ
事実を織り混ぜて真実味持たせてるだけ
だから位置関係が壱岐から先でおかしくなり
呉の真東の海上にあるような話になる
陸行1ヶ月は約150キロと決まっているので、
凡そ九州を横断する距離になる。
戦国時代と同じく倭国大乱で東海勢が覇権を握ったということ
奈良を征伐しヤマト政権を打ち立て、ヤマトタケルが伊吹山で倒れるまで全国平定に取り組んでいたんやろね
巫女が王とかショボ過ぎるもんな
奈良みたいな奥まった所で構える体制じゃないわ
近畿にあってこそ光り輝く邪馬台国伝説
なんだよな・・
狗奴国は元々近畿地方にあった銅鐸と勾玉のクニ
倭国大乱で侵略され版図を縮小し、魏志倭人伝当時は纏向遺跡の南に広がる南河内と和泉になっていたんじゃないか
>>20
対馬国、一大国は島が「国」
末盧国は東松浦半島から二丈付近まで
伊都国は糸島市南東部
このくらいの大きさが当時の「国」だな
邪馬台国はこれらの「国」の連合国家だ
投馬国も朝鮮半島南部の連合国家だな。 人は記憶型と思考型に大別できる
『晋書』
咸寧二年(276)・・・東夷八國歸化
東夷八国が晋に服属したってことだな
この時点で女王国は滅んでる
或いは求心力を失い倭を束ねることができなくなってる
>>37
>近畿にあって
関西人の願望w
邪馬台国は九州だよ
当時の関西は未開の地 纏向は吉備の豪族が進出し、
物部氏の娘と婚姻して、
中国地方〜関東各地に兵を派遣していた。
コレは纏向の外来土器の出土状況で
ハッキリ裏付けられている。
これが崇神の四道将軍である。
崇神は御間城であり、
邪馬台国の副長官の彌馬升である。
中国地方〜関東に勢力を張りながら、
邪馬台国では副長官という地位を与えられる立場だったと言うのが、
当時の倭国の現実だったという事が、
魏志倭人伝から読み取れる事である。
>話し合いで女王が選ばれた
これを今の日本に適用しろと言うことか?
それって、平成12年に青木、野中、亀井らが赤坂プリンスで「話し合い」をして森を総理大臣にしたケースを理想とするもの。(「森 赤プリ五人組」で検索)
とんでもない話だよ。
日本のトップを「話し合い」で決めようとしたら、1億もの人間が「話し合い」をするなど無理なので、選ばれた者(=選民)がトップを決めることになる。
現代の日本では、トップを決めるのは、「話し合い」ではなく、選挙であるべき。
最近は、言葉の上っ面(うわっつら)だけに浮かれ、きれいごとにはしゃぐ馬鹿が多すぎる。
もっとまじめに考えろ!
>>34
3世紀の日本国内に陸行1月も出来る道は存在していないから
陸行1月は陸行1日の誤記ですよ。 >>33
位置関係がおかしいのは東夷全体だよ
東夷全体が巨大に書かれてるから同じように倭国もサイズがでかい
陳寿が描写した東夷、倭国をそのまま地図に書き起こしてみるとこうなる
つまり倭国は会稽東冶の東にある >>11
神功皇后が
九州の「山門」の田油津媛と言う女王の国を制圧してる
…この田油津媛が、卑弥呼から数代後の女王なんじゃねぇかって個人的に思ってる >>45
ソレは恥ずかしい反論だ。
唐書に日本は東西五ヶ月行、
南北三ヶ月行と明記されている以上、
陸行1ヶ月行は約150キロで確定している。 >>8
5王のは、中国の古典でよく使われる言い回しを使ってるだけで、
私は将軍職に相応しいのでその職につかせてくださいっていうのが言いたいだけやぞ
数字とか方角とか場所とか全く意味のない世界や >>50
唐書の日本は東西五月行も東西五日行の誤記だよ
東西五月行が本当なら日本は大陸だな。 >>41
九州ならすごく小規模だろう
中国が史書に残すようなレベルじゃないんだよな >>40 の続き
(276)は続きがあった。 東夷十七國內附
咸寧三年(277) 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附
鮮卑と倭の区別はあるみただな >>8
倭国と邪馬台国は別物の政体だよ
邪馬台国は後継者指名型の連合体だが
大和は万世一系型の国家
邪馬台国は文字を持たないため卑弥呼の次代であるイヨから歴史が消えてるが(中国人がイヨがトップになってから帰国した)
次代の巫女を立てられずに衰退したと思われる >>51
正確な数字はわからないが、古墳から証拠は出てるからかなり意味あるぞ 筑紫は入口。瀬戸内海を含んだ西日本全体が邪馬台だってば。
>>19
唐の土地台帳が敦煌から(←w)発見されたから
話の進展あるかもよ?
実際は西にズレてるんじゃ?記述内容が。 >>53
生口10人、30人は結構小規模な貢物だと思うが
記録に残ってるぞ
「海の向こうの蛮族」から貢物があったと言うのは、皇帝の威光を示す上で重要だからかもな >>56 の続き
咸寧四年(278) 東夷六國來獻・・・・・是歲,東夷九國內附
おいおい、毎年のように倭の各国が続々と晋に顔を出すようになってしまった
間違いなく女王が死んだんだな >>61
3世紀の日本にそんな広域国家は存在していないよ
九州では文字が使われているのに関西では未だ未使用だから
九州と関西の間での交流も殆ど無いな。 これが一番しっくりくる
28 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/29(土) 23:24:13.93 ID:XCtg9/0f0
じゃあいつものやつを
日本史板での結論
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
一ヶ月行は長いから九州ではなく大和
というデタラメな論がまかり通っていたのが、
邪馬台国論争のいけないところだな。
隋書や唐書に倭国は東西五ヶ月行南北三ヶ月行と明記されている以上、
陸行1ヶ月は150キロ程度の距離で、
大和ならば二〜三ヶ月行と記述されていなければいけないと、
明確に否定されているべきなのである。
「童貞のくせにバカにしやがってよぉぉぉ!! 何がクニだよ クンニしろオラァァァ」
>>49
佐賀にも大和(ヤマト)って地名が残ってる。
吉野ヶ里より西に10キロの位置。 >>66 の続き
太康元年(280) 東夷十國歸化・・・・・東夷二十國朝獻
いや〜20国もかよ >>59
魏志倭人伝には邪馬台国では文字が使われていたとあるから
文字を持たない関西じゃないな。
>>69
>陸行1ヶ月は150キロ程度の距離で
1日にたった5キロかw
小学生でも1日15キロは歩くぞwww
常識的に見て最低陸行1月は450キロは行くな。 >>66
そりゃ女王の占いでなんとか平和を保ってる国なんて長く持たず滅びるわな >>72
あそこは春日村や川上村といった村々が合併した時に大和町になったよね
大和の由来は何だったんだろう 上陸後一か月てのは着いてすぐ女王に会える訳ないから
先遣隊が往復そして巫女に謁見な訳だ
ちゃんと魏志倭人伝に留まるところと書いてあるだろ
>>72
それは気にせんでいいです。
昔の地名じゃないんで。
佐賀市大和町民。 筑紫平野の連合?
狂走連合
邪悪
久留米蝮族の事か
>>68
かなりいいよ
だから不弥国と侏儒国が違うって言ってるじゃん ねーよ
卑弥呼はどれだけ強力な兵力を持ってたんだ?
信長並の力がなけりゃ部族統一なんてできるわけない
>>985
お前はアホか。 南北へ自由に航海しているのは、それぞれの島内での沿航行にきまってるだろううがよ。
対馬海流をなめるんじゃねえよ! @阿波 伝聞記事を書物に収めたしかも大昔の内容だから
細かい記述はわりとどうでもよくて、
邪馬台国という国があって大乱があった、中国と交流があったらしいという内容ぐらいが重要
古来、日本では邪馬台国をヤマトと読み、
卑弥呼を皇室の祖先だろうと思ってた
しかし、畿内説を否定しはじめたのは、むしろ江戸時代から流行りはじめた皇国思想家
皇国史観だと、大和の皇室の祖先が中国に金印もらって王に命じられたらまずい
畿内説の本性
「グフフフ文部省やマスコミにわいろを使って畿内説有利と書かせ
九州説を絶滅に追いやってくれる」
>>986
>奈良にはいつ移動したの?
8世紀文武天皇の御宇から。 白村江の戦で大敗し、唐軍の侵攻を恐れて、山奥の奈良盆地へ遷都した。 @阿波 >>68
これはかなりいいが、
不弥国(宇美国)は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)
(つまり志賀島は伊都国領ではなく不弥国領)
あと、侏儒国が全然違う
侏儒国は高知西部の幡多(はた)
ワダツミとは幡多つ宇美で宿毛湾のこと
宇美は海の語源で元々は博多湾のこと
海の中道とは宇美の中道のこと
>>86
不弥国は那珂川市、春日市方面だな
>>89
最近の3世紀以前の遺跡の発掘成果で硯とか文房具が北部九州地域で大量に出土してるのに対して関西では全く出土しない
3世紀の九州と関西での交流の痕跡もない
3世紀に中国人が関西まで行ったとは到底考えられないから
邪馬台国は九州で略決まりなんだ。 >>76
wwwじゃない。
キチンと基本的な事を勉強しなさい。 >>68
これはかなりいいが、
不弥国(宇美国)は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)
(つまり志賀島は伊都国領ではなく不弥国領)
あと、侏儒国が全然違う
侏儒国は高知西部の幡多(はた)
ワダツミとは幡多つ宇美で宿毛湾のこと
宇美は海の語源で元々は博多湾のこと
海の中道とは宇美の中道のこと
佐賀大和には肥前国庁跡があり近くには非常に歴史の古い東名遺跡がある。
つまり古来よりこの周辺が重要な位置だったと思われる。
>>8
四道将軍は卑弥呼前のことだし
倭の五王は自分の先祖もやったことだとしてるからなー
でも五王が唐突に自慢しだした所を見ると
そんなに前の話ではないだろうな >>68
これはかなりいいが、一部違う
不弥国(宇美国)は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)
(つまり志賀島は伊都国領ではなく不弥国領)
宇美は海の語源で元々は博多湾のこと
海の中道とは宇美の中道のこと
あと、侏儒国が全然違う
侏儒国は高知西部の幡多(はた)
ワダツミとは幡多つ宇美で宿毛湾のこと
>>96
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺) @阿波 古代日本人「大和(ヤマト)国の日御子(ヒノミコ=天皇)から貢物を献上しに参りました」
古代中国人「邪馬台(ヤマタイ)国の卑弥呼(ヒミコ)というように、差別的な漢字を当てちゃおっと」
つまり現代日本人は、中国人が考えた蔑称を嬉々として使っているのであった。
>>92
>>96
不弥国は行程記事の距離、方角から考えて那珂川市、春日市方面だよ
旧糟屋郡+能古島では方角も距離も全く合わない。 >>83 の続き
問題はバラバラになった邪馬台国をいつ大和(近畿)が掌握したのかだ 九州、畿内どちらにしても
学者は結果ありきでパズルを組むだけ
一度真っ白にすべき時がそろそろ来てるのでは
末盧国(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
伊都国(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」
奴国(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」
不弥国(築上町辺り) : 「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」
投馬国(宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「田村遺跡」・「居徳遺跡群」他 @阿波
>>68
これはかなりいいが、一部違う。
不弥国(宇美国)は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)
(つまり志賀島は伊都国領ではなく不弥国領。また旧糟屋郡の最南端が現在の宇美町。)
宇美は海の語源で、元々は博多湾のこと。
海の中道とは宇美の中道のこと。
あと、侏儒国が全然違う。
侏儒国は高知西部の幡多(はた)。
ワダツミとは「幡多つ宇美」で宿毛湾のこと。
邪馬台国は南の狗奴国と戦争していたというけど
九州にはその痕跡がはっきり残ってるんだよな
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
末盧国(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
たとえば「今川遺跡」
発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。 @阿波
>>106
隋書や新旧唐書をキチンと読み込んで、
古代の1ヶ月行がどういう距離か、
明言できるようになってから書き込みなさい。 >>105
魏志倭人伝に書かれている通りに解釈すると北部九州地域全域が邪馬台国なんだけど
皆、自分の所に邪馬台国を誘致したいみたい
特に畿内説の学者は生活が掛かってるからな。 >>105
何故かイチさいころから当たり前のように邪馬台国=九州と思い込んでいて
大人になってふと調べてみると、その根拠が薄弱でびっくりしたわ
なんか40年位前に邪馬台国ブームがあって、その時に九州説が主流だったから
それを鵜呑みにしてる40代以上が多いみたいやね
自分もその1人だけど
じゃあ、畿内説が有力なのかというと、こっちもなんかイマイチなんだよなあ
確かに九州か畿内か、の二択にする理由が現状無い気がするわ >>111
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>112
「書かれている通りに」解釈したら、海の上にでるだろ
九州説も畿内説も、魏志倭人伝の一部を勝手に改変しなきゃ成立しない >>113
>確かに九州か畿内か、の二択にする理由が現状無い気がするわ
今は「阿波」が主流だよ。 @阿波 200q 釜山〜博多
450q 北九州〜大阪
いくら瀬戸内海は外洋ではないとはいえ
この時代には気軽に長距離の航海は出来ないと思うけどなあ
平清盛が大宰府から福原に拠点を移そうとしたのが
1000年ぐらい後の話だったりするし
畿内説は当時のスケールを大きく取りすぎな気がする
どこにあったとしてもいいじゃないか
歴史学者って、どうしてこんなに熱くなってるんだ
邪馬台→大和
邪馬台→山門
みたいに
ダジャレみたいに地名を当てはめるには
三世紀にその土地がその名前で呼ばれてたことをまず証明する必要がある
そこを省いてるのは間抜け
というか、そもそも当時の地形すら明らかじゃないからな
地理的にみると今より陸地がもっと狭かった説が主流だし
地形もかなりかわっていただろうしね
「今の地形」で議事倭人伝を読み解いても、間違った場所に誘導されそう
魏志倭人伝で紹介されている倭国は間違いなく九州である
行程の謎は:陳寿の編集ミスまたは勘違い
例)奴国が2回紹介されている
■中国における既知の情報
郡
↓約7000里
狗邪韓国(半島南部)
↓
対馬海峡 約3000里
↓
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
↓100里
不弥国(馬韓の情報が混入?)
■魏に朝貢した倭人による行程説明(倭人は里を知らず日数で表現)
帯方郡(記載漏れ)
↓船で南に二十日
投馬国(狗邪韓国含む半島南部)
↓船で南で十日
邪馬台国(北部九州)に上陸後伊都国で入国許可を待つ
↓
実際に卑弥呼と面会するまでに一月を要する
このことから、邪馬台国は福岡〜熊本のどこかに在ったと考えられる >>116
中国語は幾通りにも読める
どう読むかなんだ
1つの読みしか認めず、それ以外は改変としてしまう
あんさん頭が固すぎる >>118
> 今は「阿波」が主流だよ
それは無い >>119
>いくら瀬戸内海は外洋ではないとはいえ
瀬戸内海の潮流は、世界屈指の難所だよ。 先日も事故で死者が出ただろ? @阿波 >>113
とりあえず後世に書かれたものながら中国の隋書には「邪馬台国には阿蘇山あり」と書かれてる
邪馬台国絡みで現代に受け継がれている具体的な地名はこれだけじゃなかろうか >>118
@阿波さん、阿波邪馬台国と大和との関係はどうなってるんでしょうか? >>113
何となく畿内対九州の構図だと思ってたら
九州説は素人の思いつきの寄せ集めだから説なんて呼べるもんじゃない
という話をネットで見て調べたらその通りだった >>125
距離や方角、月日なんかはどう読んでも同じだろw
畿内説は方角が違うし、九州説は短里なんてものを捏造しないと成立しないんだぞ
さらに九州説は陸路1月だとはみ出てしまうというオマケつき >>126
「阿波」に歯が立たないくそ学者がテレビに出ているようだな。 わははははは @阿波 400年前の明史にさえ、
薩摩の出身の秀吉が、家臣にうたれた主君の関白の信長の後継者の関白になって
日本の支配者になったとか書いてあって、
あらすじはあってるけど細かいところはガバガバだぞ
1200年前の海の向こうの記録とか相当ガバガバどろ
>>133
「短い里」は日本書紀にも書かれている
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
これも魏志倭人伝と同様に1里=約75mと推測される >>122
ゆうてたった二千年だしそこまで変わらんやろ
当時の日本が「狭かった」のであれば地層を調べれば地形の歴史は分かるし >>130
>阿波邪馬台国と大和との関係はどうなってるんでしょうか?
8世紀の奈良遷都までは、「阿波」に王都が在った。
8世紀文武天皇の御宇から。 白村江の戦で大敗し、唐軍の侵攻を恐れて、山奥の奈良盆地へ遷都した。 @阿波 卑弥呼亡き後の男王の時代の内乱
3世紀後半纏向遺跡から吉備の土器が突然消える
吉備と東海山陰勢が仲違いしたんだろう
卑弥呼の次の男王は吉備系の王だったのかもしれないね
吉備津彦の仲違いした吉備退治に繋がるんじゃないか?
>>128
随書に書かれているのは「倭国」の説明だぞ?
邪馬台国に阿蘇山あがるなんてどこに書かれているのかw >>133
陸路1ヶ月では九州から出ることはない
徒歩で九州1周をやった人のブログを読むと1ヶ月半掛かってる
当時の整備されてない道を使うなら1ヶ月でも九州の半分がいいところだろうな >>109
これは説得力あるよね
地域内抗争というよりは
地域間抗争の規模だろうし >>137
ですよね
ただ短里は一里=100mだよ
いずれなぜかは説明するけど
これ実は魏志倭人伝の陸行の記録を元にかなり正確にはじき出せる
陸行は正確だから距離に「余」がついてない
ここから出せるんだよね 『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、
朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体=邪馬台国連合であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
しかし古代に女がトップで諸国がまとまるんだろうか?
>>139
例えば邪馬台国の頃はまだ大阪に河内湖が残ってたはずだし、
奈良湖は消滅していたかもしれないが湿地として通行しにくい
場所だったと思われる。
能古島が淤能碁呂島のこと
オノコロ島→ノコロ島→ノコノ島
ではなぜ淤能碁呂島が強国奴国の領地ではなく
不弥国の領地なのか?
これは実は重大な事実が裏に隠されている
オレがやった例の重大な発見に関連している
>>147
魏志倭人伝にいう。
卑弥呼の没後に男の王が立ったが、
100年の戦乱がおこり、
トヨ又はイヨという女王をたてて収まった
俺たちの女王が浜辺美波なら言うこと聞くだろ?
「喧嘩はやめてよ、ね?」って言われたらお、おうになる >>145
短い里は周の時代からの伝承をそのまま受け継いできただけじゃないかなと思う
特に修正もせず、まずその伝承を記載し、新しい情報を追記しているし >>142
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
倭国の都は邪馬臺であると書かれてある
邪馬臺は邪馬台国のことじゃねーよ、ってんならまた別議論になるが
まだ例の重大な発見っての公表してないんだけど
やったほうがいいんでしょ?
それとも自分で発見する?
>>140
なんで淡路島から唐に近いとこに移動するの? >>137
当時の中国の書物山ほどあって
短里なんて使われてないという事実はガン無視で成立する主張をされても・・・(困惑
>>139
全然違ったみたい
例えば、福岡の吉野ヶ里遺跡は割と海に近い位置にあったとされている
東津あたりまでは海だったとされているし
「地層を調べれば地形の歴史がわかる」のなら、まず、その「当時の地形がわかる地図」を提示したうえで
議論すべきことじゃないのかな 証拠がないとコジツケになるからなあ
マルクス経済学みたいに
筑紫平野は無いだろ。この時代の王国は背後に山があるし。
山=権力だしよ。それに筑後川とか氾濫して辺り一帯が湿地か沼地だろ
邪馬台国が九州の暴走族連合で
ヤマト王権が畿内の指定暴力団みたいなものだろ
まだ例の重大な発見っての公表してないんだけど
やったほうがいいんでしょ?
日本史がひっくり返るレベルのものだけど
それとも自分で発見する?
その調子じゃオレ以外永遠に発見出来ない可能性がある
>>135
大和の古地名や由来がないんですよね。
川上村、尼寺村、(久池井村)、松梅村が
合併した記録ならあるようですが
大和とはかすりもしませんし。 >>155
その文だと邪馬臺は楽浪郡または帯方郡に並び、
会稽から東に1万2千里あるとなるが >>158
短里は他の中国史書でも使われているという事実をガン無視されましても
431 :名無しさん@1周年 :2019/08/12(月) 01:28:53.99 ID:Ywvq8iNY0
>>427
合理的な根拠:魏志倭人伝以外でも使用されている
魏志韓伝:「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有」
後漢書韓伝:「地合方四千餘里 東西以海為限 皆古之辰國也」
隋書百済伝:「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」
三国史記新羅本紀:「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」
すべて現実の地理と比較すると短里でなければ説明がつかない
こうした事実からひたすら逃げ続けるだけなのが畿内説w >>158
これが1300年ごろの地図らしい
大体大雑把に見るところでは現在と変わらんよね
700年で変わってないからその1000年前もそんなに大きく変わらないだろ
その1000年で極端に地形が変動したと考える方が不自然
あと、オレの書き込み以外は全部無視な
ほぼ全部ただのウソだから
正しい推論をしているのはオレだけだからね
卑弥呼=渡来系(半島)
のイメージがある。
それでいくと近畿に邪馬台国があったと考えた方が自然。
近畿=渡来人だろうし。
しかしその時期の纏向遺跡に日本全国の土器が集まってるのはちょっと気になる
>>147
卑弥呼台与辺りまではシャーマンだろから担がれてそんな不思議はない
まあシャーマンっても外れない占いが出来るとかじゃなく
天候や農業に関する部族としての記憶を口伝で伝承するのが主業務だろうけど
卑弥呼とか知識を与えるときのパフォーマンスに優れてたんじゃね >>168
ちなみに関ヶ原がなんであんなに北のほうにあるのか
考えてみたら面白いと思うぞ。
まだ例の重大な発見っての公表してないんだけど
やったほうがいいんでしょ?
日本史がひっくり返るレベルのものだけど
それとも自分で発見する?
その調子じゃオレ以外永遠に発見出来ない可能性がある
返事しろよカスども
ここまで沖縄説レスになし
1年を通じて温暖 じゃなかったっけ
>>137
80000kmじゃウラジオストクじゃないよな…w 言葉が発達してない時期に、国内で邪馬台国なんて名前をつける訳がない。
国名は一文字か二文字に決まってる
>>164
地域の古い呼び名から来てるって可能性も在るし。
湧いて出た様には付けられない筈だって事ね。
近くには東名遺跡みたいなヤバイ遺跡も在るしねw >>97
確かに大和町には肥前国の国府、国分寺、尼寺、印鑰神社、一ノ宮があり、肥前国の政治的中心であった事は間違いないが、それは律令制に移行してからの話しかだからなあ
卑弥呼の時代とは関係は無いでしょ
当時はあの辺りは佐嘉国だったんじゃないかな
オレがやった発見ってのは
自分で簡単に確認出来るもの
聞く気があるんならいずれ説明してあげる
こんなものを誰も発見出来ずに
オレがやっちゃうってのが
今の日本史の現状ね
>>165
「昔からこう伝わってる」って話みたいだからその辺は間違いじゃねーかな
帯方郡から一万二千里は魏志倭人伝と合ってるし行程としては対馬壱岐島経由で間違いなかろ
そこから距離を読み取ると少なくとも畿内までは行かない
行ってせいぜい広島までだろ
その辺の理由からもやっぱ畿内はないわ 当時の航海技術がどんなものかは分からんが
瀬戸内海の端から端まで把握した人物が大勢いたとも思えんし
来島海峡みたいに難所もある訳だから
今のフェリーのように最短距離で九州〜大阪は結べないのでは?
どうも現代人の感覚で考えている奴が多い気がするんだよな
畿内説というものは
風任せの当時の船で瀬戸内海を横断してみれば
自分達が無理言っている事も皮膚感覚で分かるんじゃなかろうか
自分たちの頭がいかに腐っているか
よーく自覚したほうがいいよお前らは
だいたい歴史に出てくる重要な人物は
神社などでまつられるものだが
卑弥呼なる人物のものはない
新しい神社はあるが
卑しい王と邪な国かw
畿内説の主張する位置関係
方角めちゃくちゃ(笑) >>3 おめこをひめこと言い換えたと魏志倭人伝編集部の校正委員が 玄界灘を越えた後は上陸して、日本の平べったい水陸両用の船で移動だよ。
それで海岸沿いを行ったり、川を渡ったりするのだよ
>>182
東名遺跡の頃から人が住んでた訳だから態々水場も
豊富で肥沃な大地を捨てて行く事は無いと思うよ。
つまり古来より人が多く居付いた地域って事。 もしかしたら卑弥呼は陰部に箸が刺さって死んだかもしれないだろ
歴史が解明されないのは古墳の発掘をさせない宮内庁のせいってことにしよう
今でこそ海図もあるし人工衛星から撮った航空写真なんかで
瀬戸内海を一望出来たりするけれど
当時の人間の感覚からすれば
それが内海だという意識があったかどうかも疑わしいし
海岸線が見えるように移動するとなれば
ますます行程距離は伸びるよね
無寄港で九州~大阪を移動出来たかどうかも分からず
水や食料を求めてあれこれしてたら日も伸びる
朝鮮半島〜九州の往来よりもずっと少なかったんじゃないのかね
平原古墳からは中国製の鉄刀が出土したが 当時の武器は刀は銅剣で鏃のみが鉄製、
鏃の鉄は少量で済むから北部九州でも鉄製品は貴重品だから鉄剣には使っていない
畿内特に奈良からは鉄の鏃は全く出土が無い、4個ほど出土したと言っているが
弥生時代のものか古墳時代のものか判断が付かないと言っているが古墳時代のもの
の可能性が高い、それにしても僅か4個だぞww
>>137
正確には分からないが1里は80mくらいだな
三国史記にも使われている
公孫氏が東夷の地誌を記録するのに使っていたようだ。 不弥国(宇美)から御笠川〜宝満川〜筑後川の水行だと10日程かかるかもね。暗くなったら動けないだろうし。
>>194
機内はそれだけ平和だった証拠だ。
強大な権力に守られた中心地じゃねえとあり得ない話だ。
逆に九州は戦争の最前線って様相だよな。 >>194
奈良県桜井市の纒向遺跡からは馬具やベニバナの花粉が出土してるのに3世紀の遺跡だって強引に主張してるな
普通に考えて5〜6世紀の遺跡だな。 卑弥呼の母は、別のクニから嫁いできた。
だからこそ他国も擁立に同意した。
>>165
楽浪郡または帯方郡を
起点に会稽まで広げ、コンパスで円を描くと畿内になる。 >>191
勿論、大和町周辺が重要な地域であったであろう事を否定はしないよ
ただし、現在の「大和」と言う地名を持ってして邪馬臺と関連付けるのは根拠薄弱だと思う >>185
現実に邪馬台国の時代より遥か以前に貨泉が畿内まで来てるのに何言ってるんだ?
そもそも倭人の行動力を舐めるなよw 昔はものすごく人口が少なかった
国と言っても一国の人口は少なく、支配地域はものすごく狭かったと思う
>>198
吉野ヶ里の1国で六千人位人口居たらしいね。 >>203
どこが薄弱なんだよwww
邪馬台国と大和国w
むしろこれを別のものと言い切れる思考回路の方が異常だろwww >>184
俺は北九州説なんで、
まあ畿内にはならんと思うよ
少なくも邪馬臺はな
そこから神武東征したのか、
あるいは筑紫政権として残ったのかは知らんけど >>195
> 正確には分からないが1里は80mくらいだな
> 三国史記にも使われている
> 公孫氏が東夷の地誌を記録するのに使っていたようだ。
なるほど
地理感も無い状況で陳寿がその記録を引用した可能性の方が高いね >>167
>隋書百済伝:「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」
これも「其南海行三日有耽牟羅國」の誤記だな
朝鮮半島南部から済州島までは丁度3日くらいだ
日と月の誤記は非常に多いな。 >>207
魏志倭人伝に書いてあるよ
「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
『国国有市 交易有無 使大倭監之』 >>204
それならばより重大な証拠が出て来ても良いと思われるがなあ
往来が容易であるならば不明瞭にはならんだろう 大和とはもともと大倭国で、倭国の小国家が集まった連合国家
当時日本に、連合国家群がいくつもあって、それが離合集散して、宗教的な権威として確立できた奈良の大王家に結局権力集中
こんな流れ?
>>212
あんな奈良盆地でどうやって交易を監視できるんだよw >>212にある女王国に使われていた「大倭」の末裔がのちに畿内に移り住んだというなら分かる >>207
まず東夷伝には
「一年間雪が降らず温暖で、裸足で過ごす」とある
この時点で奈良の山の中はない
邪馬臺がヤマトなのかヤマイなのかヤマタイなのかも異説があるが、
大和盆地はヤマノトだろうな
まあこの辺は日本人にしかわからない言語常識なんで、
近畿のチョンがなんと思おうと構わないけどな
少なくとも天皇家の先祖に邪馬臺国はない
神武東征と矛盾しすぎる
日本書紀が嘘だとするなら成立するが、
その場合には天皇家の由来含めて広開土王碑とも矛盾する >>170
邪馬台国に圧迫された南九州の部族が海沿いに北上して
近畿で大和朝廷打ち立てたんじゃね? >>214
俺はその説だね。
江戸時代と似たような感じだ。
だから九州の勢力であった神武帝が機内に攻め上って政権を奪取したことも不思議ではないんだよ。 >>206
吉野ケ里遺跡の3倍以上の面積を持つ集落跡が中国地方の最高峰、妻木晩田(むきばんだ)遺跡
投馬国候補。 >>213
畿内には九州にはない丹山もあるし何が問題あるんだよ?
鬼道に必需品である神獣鏡もあるし畿内以外に邪馬台国はない。 >>214
ヤマトは「女王国の東の海の向こうにあった倭種の国々」の連合だろうね 邪馬台国と大和王権の大和が同じなら、
大和王権が表舞台に出てくるまでの歴史が消されることはないわな
>>207
佐賀県大和町が大和国なんて呼ばれた事はない
卑弥呼の時代、大和町周辺は佐嘉国であったのではないかと推定されており、「大和」村になったのは1955年に春日村や川上村等が合併した時
少しは調べて書き込んだら? >>214
日本書紀に従うと、
後半の
連合政権の一つであった、奈良政権ヤマト王朝が連合政権のリーダーになった
※多神教における最高神
その後朝廷として神事王権付与を担ったはほぼ当たり
その元になるものは日本書紀では大分日田あたりにあって、
火山噴火による飢饉などにより神武東征したことになる
んでこの時に筑紫国は別に存在してるから、こっちが邪馬臺か、あるいは別の国かは不明
少なくとも日本書紀には魏の国に人を派遣した記録がない >>221
九州の松浦〜佐世保は水銀鉱脈だよ
佐世保は特に掘らなくても丹は出る 昔は人をまとめるのに、宗教・宗教的権威の存在が大きかったと思う
大王家の歴史書に、先祖は九州から来たと書いてあるのだから、卑弥呼国とは違った九州の一族が大和(奈良)を侵略し、支配体制を乗っ取った位が無難では
勢力少なくても、宗教的権威を握ってしまえば勝ち
>>217
九州北部も雪は降るぞwwwww
「一年間雪が降らず温暖で、裸足で過ごす」ってのは魏の願望なんだよ。
魏は呉の攻略に倭国を利用したかったんだよ。
だから倭国は位置的に呉の真東に位置していて欲しかったんだよ。
そこはちょうど沖縄あたりになる。
鯨面文身ってのも完全に南方の風習だろ?
そのあたりは使者が自分の功績を盛って報告するために捏造した可能性もあるね。 >>215
交易の監視に好都合なのは福岡市西区下山門だろうね。
元寇防塁も傍に在るw >>217
畿内説は河内平野も含むだろw
水銀朱もある紀伊半島南部が条件的に一番ハマるしな。
日本海側の北部九州なんて畿内より寒い印象もあるぞ。 >>213
というより、畿内説とるとまったく証拠がない
まず有力とされる箸墓なのだが、
ここから出てる鏡は魏志倭人伝に比べると数が少なすぎる
また生産が国内銅
魏から100枚もらったのと矛盾する
なにせ発掘主導の東大教授が自分で
「これは少なくとも卑弥呼の墓ではない」と公式に会見する
レベル
魏志倭人伝の大きさとも矛盾 >>227
血縁者ってのも考えられるしね。
実際に継体帝は朝廷の血縁者を名乗り越前から興って軍事力で大和朝廷を継承したわけで。 >>155
隋書の邪靡堆も北部九州地域の事だな。
>>205
対馬や壱岐くらいの広さが一つの国だな
市、郡くらいの広さが一つの国。 >>226
丹生神社の大元は吉野。
鉱脈だけではなく畿内からは水銀朱を使ってた痕跡が沢山あるが?
未だに弥生時代の九州からは何も確認されないんだぞw >>226
国東にもあるが両方とも痕跡、遺跡がない。
発見はずーと後の時代。 >>228
第一史料にして唯一の記述が使者の嘘なら、
そもそも邪馬臺は存在しない
あと縄文海進の話してるので、
奈良の場合の標高なら確実に雪は降る
奈良の吉野にふれる白雪
少なくとも機内は絶対ありえない
あ、そもそも嘘なんだっけ?
まあおまえが日本人なのも証拠ないよ
本貫ないし >>224
卑弥呼が佐嘉国を中心地としても不思議では無い。
だって連合国のトップなんだからw
海にも山にも川にもアクセス最高だぞ。
真上に突っ切ると伊都国やら在るぞw >>236
魏志倭人伝には水銀朱を魏から貰ったとはあるが
倭で産出するとはかかれていないよ。 >>181
東名遺跡ってやばいんですかね?
海岸あとの縄文遺跡ですよ。 日本て4世紀以前の記録がまったくないから
まちがいなく邪馬台国時代の日本人て文字使ってなかったんだろうな
>>234
古代の河内は最高の港湾都市だったんだよ。
巨大な内海は外洋を航行するレベルの大きな船を何艘も係留できる天然の良港。
瀬戸内海から河内湖への入り口は岬に挟まれ監視がしやすい構造になっている。
上陸し生駒山脈を越えればそこは邪馬台国の首都である纏向があるわけだからな。
これほど古代の都市国家の理想の地はないぞ。 >>205
原文は30邑なんだよな
1邑は一族ってこと。中国では一家族の血縁だけで村を作るので。
そう考えると30家族、100戸しか家がない
10人家族でも1万人規模ということになる
となると日本では村一個から町規模 >>239
んなわけねえだろwww
佐賀みたいな辺境の地w >>220
その妻木晩田の名前の由来が孝霊天皇の嫁取り話なんだよな。だからツマ。
その孝霊の娘が卑弥呼候補であるモモソヒメ。
だから投馬国、ツマ国とも合致してるよ。
丹後半島にある籠神社にモモソヒメの別名が日女命、つまりヒミコと書いた文献まであるから確定だよw >>238
九州も雪が降る。
両説共倒れ。
会稽と同じと錯誤、推測での記だろうね >>242
8世紀の記紀編纂時にそれ以前の国内文献は焚書されてるね
記紀が新たに創作したイデオロギーに合わなかったんだな。 >>239
佐賀県内に存在した国の中では、考古学の見地から末盧国と三根国が強大であったであろうと推測されている
>>241
縄文早期の遺跡なのに保存状態がやばい >>236
弥生時代の九州
ってのが謎だな
その頃の奈良にもなんもないんだけど。
www.travel.co.jp/guide/article/34848/
ここから主要なもの出てない
www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/yayoi_shousai.html
7つしか遺跡ないとか
やはり日本書紀のとおり、誰もいなかったから移住したんだな
一番面白いのは畿内説って畿内には証拠が豊富だと思ってるとこだよな
逆に決定的な証拠がむしろ畿内にはない >>235
まず三国志読んでこい。三万や五万戸は資料では半島大国レベルだw
北部九州に14万戸なんてどんな頭してんだよ? 邪馬台国の頃、、中国大陸では三国志時代あたり、、既に中国大陸では文字もあり学問もあり詩もあり
数学も地政学も様々な文化か科学や言葉や文献や日誌もあったというのに、日本には文字さえない
だから未だにどこにあったかさえ分からないという、、この文化の差、この遅れ方、やはり島国ってこうなってしまうんだな。
卑弥呼は、不特定と性関係もったらしたら男女とも欲望が渦巻いて、王国のコントロールが難しくなるので
やたらとはしてないだろう。
美女の巫女様キボン
魏の使者は伊都国まで来ており、伊都国には魏の役人が常駐していた。
伊都国までは歩数、距離で割と正確な旅程が書かれていのに、いきなり
伊都国から邪馬台国までは歴史家がとまどう曖昧な日数月数換算となっている。
>>205
当時の国の概念は柵で囲った内側やからね
今で言う集落程度の規模だよ >>247
南九州が縄文海進時に雪が降るって話なのに、
いまで判断するバカ
ちなみに田原坂の戦いの時、鹿児島では100年ぶりに雪が降った、とある
チョンは知らないことだ >>243
纏向は関係ないね
難波京の方が遥かにデカイ >>229
呼子付近が当時の中国船寄港地だよ
湾になってて深いから大型船から直接荷物を陸揚げ出来る。 >>245
佐賀大和は律令制肥前国の中心地
何も調べもしないで馬鹿な事ばかり書くのはやめた方がよい >>243
しかも巻向は鬼道を用いる宮としてこれ以上最低な場所はないからな。
水銀朱と神獣鏡がそろってるし、桃の種も多量に出る。そもそも三輪山は御倭山だ。 >>254
そこまでは記録、
そっからは伝聞なんだろうな
現地人にどのくらいの距離なの?と聞いたら時間距離で答えてもおかしくない
当時の日本は度量衡統一されてない
一里という概念もない
>>253
独身腐女子ババアです
巫女だしな
それよりトヨちゃん13歳にはあはあだわ >>250
九州説なんてただ倭人伝を曲解してるだけだろw
そもそも倭人伝であり邪馬台国伝じゃない、根本的に勘違いしてるのが九州説だよ。 >>257
少なくともあそこじゃないよ
そもそも日本人ならケとハレわける
古墳だらけの墓の街に都を立てるわけがない
現に平安でも天皇家の菩提寺は遠くにある
延暦寺や興福寺だからな
あ、チョンだとしたら直ぐ近くに葬るって概念はわかる >>254
基の報告書では里数、日数で統一されて書かれていた
不統一の報告書なんて上司に怒られる
つまり別の資料の繋合わせなんだ
距離での報告書の後に別の日数での報告書も継ぎ足した
同じ行程の報告書が里数と日数のがあったので併記したんだ
連続して読むから意味が分からなくなっている
何方も帯方郡から女王国までの距離と日数
12000里行くのに31日掛かるんだ。 >>256
鹿児島以外は?
特殊な例ひとつで誤魔化す。
北部九州で雪が20年降らないことあるの? >>251
北部九州には邪馬台国の7万戸だよ
14万戸はダブルカウントしてる。 >>215
古代は軍事拠点が重要であり、交易は二の次。
関中(長安)とかが中原に対する軍事基地で、古代中国王朝は関中から起こって、下流洛陽に侵出するのが普通。
鎌倉とかも軍事要塞で交易には向かない。 >>262
倭人伝なんてないよ
東書夷人伝、東夷伝という。
魏志倭人伝てのは日本側の通称に過ぎない
きみちゃんと歴史勉強してから参加してね
河内平野とか爆笑したわ
>>264
よくあるから仕方ない
あと距離説、方位説の二派に分かれてるのが有名なんだが、
距離説の場合は移動速度、特に陸路は道がない
ここで正確な距離はない推測だけ
じゃ方位説だとすると方角がおかしいのだが、
磁気測定ならズレてる可能性あり
地軸が移動するから この説があたっていれば日本にも
西洋の古代と同じように
民主制があったことになる
中国韓国が嫉妬で発狂するな
そういや朝鮮に同和の本部ヤクザ福岡に
卑弥呼というレディースあったな
卑弥呼ソープランド
>>267
まあ鎌倉三浦は明らかに軍事的な理由だよな
なわりに上州坂東武者の新田義貞にはあっさり負けたけど、
北条氏が武家ではないからだろう
南からの備えは硬いんだけどな
それからすると江戸は攻防と貿易考えてるからな
少なくとも邪馬臺が人工都市とは言えないんじゃないか
人工都市なら港がある
なんであんなに港から遠いのかってのは海進が引いていったからだと思われる
実際、畿内も滋賀大津からだんだん大阪平野へと広がっていくしな
難波津からあがり、大阪が無主地なのも海の底だからだろう >>227
唐書にも日本は小国だったけど倭国を併合したって書いてるしその通りなんだろうね
磐井の乱の頃までは九州と同格に近い関係だったのかなと思う >>236
阿南市の加茂宮ノ前遺跡は?
弥生中期の水銀生産拠点という触れ込みだけど。 〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・後漢時代の倭は100国だった
・魏の時代の倭は30国(あとは狗奴国と東の倭種の国)
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
>>268
まともに読んでれば九州説なんてバカな考え方はしないよw
そもそも戸数はどんな解釈しようが北部九州に14万戸はないからな。
倭の海人の集落なら河内平野周辺しかない、物部や蘇我が本拠地としてるのにw >>268
東夷伝では距離は短里80mくらいだね
方角も15〜30度程度のずれだね
だいたい合っているな。 >>267
俺がなぜ奈良盆地が古代の中心地だったかと考える理由は防御というよりも災害の少なさなんだよね。
九州なんて現代でも毎年のように大災害に見舞われているだろ?
んなもん、高床式の時代なんて災害によって発展を維持できるわけがない。
その点、奈良盆地は台風被害も少ない、地震被害も少ない、火山も無い、水害も無い。
これは寝ていても他地域と差がつくよ。 もはや九州説ってただの逆張りレス乞食みたいなものだろ
>>269
?
原始共産制だろう
部族制合議社会は18世紀のインディアンもしてるしな
ヨーロッパ人は族長を王として、土地を売り渡されたと捉えていたが、
インディアンには土地所有の概念はないから、
「おお、皆とともに住んで良いぞ」と考えたというのが近年の学説だ
宗教的巫女を立てたとはいえ、ヤマト王権は五国の合議で政決めてるしな >>276
北部九州に14万戸とか畿内説が自分で作ったものだよ
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20国の合計が7萬戸で
邪馬台国の戸数
ダブルカウントしてるから丁度二倍になる。 >>274
邪馬台国は七万戸な時点で阿波ではあまりに小さい。まあ畿内や淡路島を含めて邪馬台国という可能性ならあるよ。
モモソヒメは淡路島から讃岐まで行動してるしな。 >>236
畿内で水銀朱を大量に使った痕跡は希薄だよ
ほとんどベンガラだった
九州では水銀朱をふんだんに使った遺跡が発見されてるけど
まがいの金印作って埋めとけば任意の場所を耶麻台国に捏造可能なのになんで誰もチャレンジしない?
>>277
近畿派だと長里説をとるんだが、
そうなるとヤマトに合わせてるために無理が出るんだよな
海路がおそらしく長くなる
単里説はほかの同時代中国文献から割り出してるので、
そちらの方が科学的には確からしいよな
まあそうなるとやはり九州にあったんだろうな、と。
その後神武東征で移動した若い分家であるヤマト政権と、
もとの実家である九州ウガヤフキアエズ王朝の末裔が筑紫国または日田にあった、二朝説もあながちデマとは言えない >>278
3世紀の奈良盆地に大陸との交流の痕跡とか皆無だから
邪馬台国畿内説は諦めた方がいいよ。 北部九州は邪馬台国の前から大陸や半島とつながりがあったからな、
人や物が入ってくるアドバンテージは大きい。
>>260
畿内説だけど、卑弥呼の宮殿はない。
邪馬壹国は近畿。卑弥呼が
に共立され、九州で生涯 終え、冢もあった。
冢の移動で奈良に。 純粋な民主制ではない、
中国の周王朝の末期のよう
でもない、力がないのに支配する
象徴天皇制のような
まあ大陸とは違う
>>281
アホくさ、チラシ裏レベルなおバカな話だ。
そもそも大陸側の資料、高句麗で三万戸だぞw >>278
じゃあ未だに奈良の人口が少ない理由は? >>283
中国産の水銀朱も北部九州地域からしか出土しないな
卑弥呼が魏から貰った大量の水銀朱は畿内説だと九州で使って関西へは贈られなかったw >>279
でもない
文献だけによれば、九州説しかない
その批判は「実際に遺物がでてねーじゃねーか!」だったが、
吉野ヶ里が見つかってから大逆転
畿内でも吉野ヶ里並みの大規模な集落遺跡はほとんどない
まあ当たり前で、縄文時代の遺跡は極めて少なく、
弥生になって急に増える通り、縄文海進があったからな
京都にも巨椋池があったほど。
オグラなのに巨大と書いてある
要するに九州の発掘は金ないし、興味ないからやってないだけってのが現在の考古学の通説 >>288
三世紀巻向周辺が神仙思想の影響下なのは否定しようがないけどな。
三世紀以降畿内の神獣鏡は誰が持ってきたという話になるよ。
また作るには神仙思想知識や思想の裏付がないと鏡なんて作れない。 >>290
3世紀の高句麗は小国だからな
馬韓は十萬戸だからな
北部九州地域七萬戸の邪馬台国に問題はないな。 >>286
銅もあるがね。大量にある銅はどこから?
鉄だけしかみない阿保。 後の大和朝廷と結びつけたいだけの畿内説
今は田舎だけど大昔は発展してたとロマンを見たい九州説
>>294
絹もね
畿内説だと都のはずの畿内になぜか貴重品が全く送られない謎の国になってしまう
畿内説はネタと言われる所以 >>292
少なくとも卑弥呼の邪馬臺国ではないだろう
無論。別政権があったかもしれんし、
きちんと神武東征で征服はしてるが、
山国の奈良大和が魏まで渡海するルートの方が不自然で、
奈良から日本海側抜けて朝鮮半島に渡ることになる
山陰出雲やその東の吉備国を通るしかない
神武東征で出雲は下したが、吉備国は通過するだけなのに。
朝鮮半島経由だろうから、
出雲か北九州しかありえないんだよな
遣隋使とは違って >>287
畿内や東海からみれば、北部九州は只の中継地に過ぎないから。
現実には邪馬台国の数世紀前から河内辺り貨泉や鏡は出土してるし秤まであるんだからな。
九州説の連中は本当に九州以外の知識が全くないだろw >>295
纏向遺跡とか明らかに5〜6世紀の遺跡なのに3世紀の遺跡だと畿内説の学者は嘘吐いてるからな
巻向も〜6世紀の遺跡だろうな。 <魏志に記された半島〜倭
ポイント:韓国領土は、東西は海に面し、南は倭と接する
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里〜」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭人が鉄を取りに来ていた
■魏志倭人伝より
・倭の国数は30国(後漢時代は100国あったが倭国大乱で分裂した?)
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
>>292
捏造にも程があるな、まあ九州説の常だがw
卑弥呼は水銀朱なんか魏からは貰ってないのだが?
まあ鉛丹はそもそも水銀朱じゃないぞw >>302
河内は北部九州の海人族の属領だからな
淡路島からも北部九州の海人族の足跡が見つかっている
301 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 22:50:58.33 ID:t3VPUgZu0
>>283
淡路島の製鉄所からは北部九州式の返しのついたヤスが見つかっている
瀬戸内海を制していた北部九州の海人族の遺跡だよあれは
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
弥生時代の海の勢力図
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下 >>297
それじゃだめなのかねぇ
自然司る神の信仰をどっかが支配者崇拝に結びつけたらキリストみたいにエリアバカでかくなると思うんやけど >>302
畿内説の学者は神の手を使い遺跡の年代を200年くらい古く比定しているな
纏向遺跡の馬具やベニバナの花粉問題で明らかだな。 中国も安定的に日本を訪問してたら記録が残ったが、戦乱で人口5000万→1000万まで縮小する三国時代だから余裕なかったのか
>>294
鉄は淡路島で出てるから、それ考えたらなくもないのだが、
その頃は京都に政権あるしか
奈良からは出てない
下手するとワカタケル鉄剣が上野国、崎玉古墳群の行田から出てきちゃう笑
>>300
絹を始めて天皇家が教わるのは吉備国において。
ばっちり日本書紀に書いてある
この辺嘘だと日本に歴史はない
>>304
韓国ってのはおかしいし、
三韓としてもソウルはねえぞ
わけわからん >>303
まったく、デマだ。2〜6世紀だよ。
再開発などあった痕跡。 >>305
またまた嘘ばっかり
畿内説は本当に息を吐くように嘘をつくね
698 :名無しさん@1周年 :2018/11/24(土) 00:36:37.87 ID:xixdUv0Y0
>>690
ベンガラも丹と呼ばれていた
丹は赤色顔料の総称扱いで、それのみではどの種類だか分からない
書き分けが必要な場合、魏志倭人伝では水銀朱は真朱(珠)として書き分けている
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/117/5/117_5_948/_pdf
> 朱という言葉は一般に硫化第二水銀を指すのだが,考古学関係者は水銀朱という名称を用いることがある。それは,古代に用いられた
> 無機赤色顔料化合物に朱(硫化第二水銀),ベンガラ(酸化第二鉄),鉛丹(四三酸化鉛)の三種類があり,これらを厳格に
> 区別していない場合があるからである。
> 例えば,硫化第二水銀は,辰砂,朱砂,丹砂,丹,朱,銀朱,真朱,真赤土,水金,水銀という呼び名があり,
> 酸化第二鉄はベンガラ,ベニガラ,鉄朱,丹,鉄丹,朱丹という別名を有する。また,四三酸化鉛も鉛丹,赤鉛,丹,光明丹,黄丹という別名がある(市毛, 1998)
> さらに魏志倭人伝文中にある「真珠・鉛丹各50斤」という記述の真珠は硫化第二水銀(真朱)のことであると解釈されている。
>>698に更に追記すると、倭国がもし真朱の名産地であったならば、かの曹操が建てた魏ともあろう国が倭国への下賜品として
相手国の特産品を選ぶようなヘマはするまい
中国における白粉の如く体に塗りたくっていたという魏使の報告を見て「ああこれはベンガラの事だな」と分かったから
真朱や鉛丹を倭国への下賜品としたわけだよ 女系主義の女は基本セックスしまくりなんだよ
女の腹から生まれた子どもは自動的に女の一族となるんだから
それ自体が一族の繁栄となる
ニューギニア東部の女系種族の女が集団で精通したかしないかくらいの
男の子どもをつかまえて逆輪姦している写真がこの板で何度も貼られてるだろ
北部九州は邪馬台国がニューフェイスと思えるくらい、
古い国の存在がはっきりしてるからね。国として三種の神器も持ってたくらいだからよ。
畿内にそんな古い国がきっちり存在してんのかよ。
>>300
巻向は絹は出てるけどな。そもそも水銀朱や鏡は三世紀以降圧倒的に奈良盆地南部の古墳から大量に出るのは考古学で一般常識だw 畿内説はほんとやばいよな、普通に書いてあること読めば絶対にありえないのに。
>>305
真朱とは真の朱、つまり水銀朱の事だよ
真朱5000斤を魏から貰っているな
丹山は赤い山、赤水の地名がある様に阿蘇山のことだな。 弥生末期の船は漕ぎ手が20人以上はいただろう
1日に漕ぐ距離は50〜60kmは行っただろう
>>309
そもそも遼東は公孫氏、江南は呉と、土人国家が抑えていたから交流とか無理でしょ 松浦で船を降りて歩いている時点で、目的地は九州内なんじゃないの。
>>302
当時の北部九州と畿内は交易の断絶があったので同じ勢力とみなすのには無理がある
ヤマト建国の中心になったのは畿内東海勢力だろうけどね 3世紀の女王国30国 vs 東の倭種の国70国の名残りは7世紀頃まで引きずっていたと考えられる
■旧唐書より※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている中国史書
<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった
私こそ卑弥呼の生まれ変わりです。
質問は受付ません。
>>307
だめ
日本書紀にヤマト王権は
筑紫、吉備、ヤマト、毛野、越からなると書いてあるから。
西日本だけで三カ国あることになる
これらが邪馬臺国から分離したか、いずれが邪馬臺の後継国とすると、
いまの議論と大差ない
西日本全域を支配してたら話は楽 >>321
普通に考えるとそうだよね
近畿まで行くならあの辺まで船で行きそう このスレが3スレ目まで伸びてることが地味におもしろいw
お前らこの時代好きなんだなw
>>303
ボクのかんがえた理想の考古学、ですかw
頭大丈夫? >>327
もううんざりするくらいいつもの事やぞw >>314
弥生中期の西日本最大の水田跡は今の時点でも奈良の葛城なんだけどね。 いまだに魏志倭人伝とかウソを言っている時点でダメだろ
魏志東夷伝の倭人の項目と言わんか
>>315
畿内ではごく僅かなその絹に包まれていたのは畿内説ご自慢の三角縁神獣鏡ではなく
北部九州に多い内行花文鏡だがな
北部九州から絹の袋に入れて持ってきたんだろうね
408 :名無しさん@1周年 :2018/01/08(月) 07:34:41.37 ID:rGLHEl0q0
墳墓に鏡・剣・玉の三種の神器を埋葬する文化はもともと北部九州のもの
畿内で出土する鏡の中には平原遺跡の大型内行花文鏡に匹敵するような巨大なものはなく、当時の文明度は明らかに九州の方が上である
また、下池山古墳からは平原のものより二回りほど小さい内行花文鏡が、畿内ではほとんど出土しない貴重な絹に包まれて副葬されていた
つまり内行花文鏡こそ九州邪馬台国を象徴する鏡であり、九州邪馬台国から派遣された人物が畿内の支配者になった証でもある >>323
昔の本調べて出典明らかにして、
〇〇書にはこうあり、と書いてるから当たり前
原文読めよ
漢字を忘れたミンジョクでないなら読める
>>321
だよねー 笑
そうじゃないならスサノオみたいに出雲から上がるし、
奈良であれば瀬戸内から船で行くルートあるしな >>321
正解。投馬国、邪馬壹国には行っていない。
当時、交流地が九州北部、卑弥呼もそこ生涯を終える。 >>321
だよな、おかしすぎるんだわ、畿内説だと途中が抜け落ちすぎでしょってなる。 >>319
ベンガラだと書いてあるだろ
字が読めないの?
>中国における白粉の如く体に塗りたくっていたという魏使の報告を見て「ああこれはベンガラの事だな」と分かったから
>真朱や鉛丹を倭国への下賜品としたわけだよ >>310
淡路島は鉄の工房らしきもので鉄は殆ど出てないな
>>311
ベニバナが中国西部へ西域から伝来したのが3世紀なんだが
纏向遺跡でベニバナの花粉が出土したのに纏向遺跡も3世紀だって滅茶苦茶だろw >>326
遠方だから検問するため伊都があると書いてるのに? 武論尊の超三国志の方が面白いし本宮ひろしの行雲流水の方がまだ浪漫がある。皇族の方々の見解ってどうなんだろ?それが正しい日本史かもしれない。
ポイント
・後漢時代は100国あった
・魏に朝貢した卑弥呼の傘下国は30国
・他に反卑弥呼派の狗奴国、東の海を渡った先にも倭種の国があることは書かれている
つまり卑弥呼の邪馬台国連合は30国、その他70国という時代であり、東の果てに畿内政権があったとしてもおかしくは無い
>>333
あんまかわっとらんやんけ
三国志正史魏書右岸鮮卑東夷伝倭人条な そもそもまともな文献がないからな
最古の確実な文献は漢書だけどほとんど記述がなくて詳細不明
次が魏志だけど倭人のところなんて誰かが適当なことほざいただけ
後漢書はもう作った時代が離れすぎて論外
まず朝鮮半島の一部が倭の国でしょ?それ理解してないやつ多いんだよな。
>>348
ホントそれな
韓国は嫌がるだろうが、事実は認めるべきだよな >>327
定期、定期
毎回畿内説が足りない知識で頑張って、
九州説が物量で圧倒する
畿内説ってローマ帝国がローマにあったから、
現在のヨーロッパの中心はイタリア、みたいな話してんだもん
そもそも今は東京だろうが。
あとは近畿説はなんか知らんけど攻撃的かつ罵倒ばっかなんで、
面白くもなんともないんだよね
一番わかんないのは近畿説は学者の90%が信じてる!とかいうヨタ抜かすんだけど、
論文ベースだとそんなことない
まあ、うちの先祖が悪いです、ごめんなさいって感じ
> 新井白石は著書の中で、
「古史通或問」 → 邪馬台国の場所を大和国
「外国之事調書」 → 邪馬台国の場所を九州・山門郡
と説いています。 神功皇后が卑弥呼1世だろう
中国側にしてみれば「日(の)巫女」であって個人はどうでもいい
卑弥呼1世のあとをついだ臺与が卑弥呼2世
しかし皇家の内乱で卑弥呼系は排斥されて紆余曲折のすえに仁徳天皇が皇統を継ぐ
この内乱の時期に朝廷が九州からはじめて東征した可能性もある
史実には後世の都合のいい改変がつきもの
>>348
そう、当時の朝鮮半島は倭人の居留地だった
完全に追い出されたのは白村江辺りか >>338
九州の古墳の中はベンガラで真っ赤だな
相当古い時代からベンガラを使用していたのだろうな。 >>338
ベンガラは代赭、丹ではないと4世紀初頭の抱朴子に書いてあるから丹ではないなw
弥生時代後半九州や吉備にはベンガラら沢山とれるが辰砂、水銀朱は四国と紀伊半島にしかない。
丹生の神社の大元が高野山にある時点で、丹山は紀伊半島だとバカでも判るわw
しかも高野山の丹生神社は伊都郡だぞ、つまり北部九州から紀伊半島へ丹山ラインがあったのは確定。しかも河内には水銀朱の付着した秤まである。 国というより集落というレベルなんだろうな。その集落が灌漑などを
行ったり、水利権とか村落の境界を定めたりするのにある種の共同の
議会を設定した。そのシンボル的な存在が卑弥呼だったんじゃないの?
男性を定めてもまとまらなかったというのは男性はしがらみが強いもん
だしな。一方で天皇がどこから来たかという議論も興味深いが、
これは邪馬台国とはあまり関係が無さそうだ。
>>349
畿内説の出所ってそういうことだと思うんだよ、朝鮮系が嫌がってんじゃないの?
はなしがめちゃくちゃなんだよな。無茶苦茶すぎて政治的捏造っぽいんだよ。 >>348
投馬国は狗邪韓国を含む朝鮮半島南部の倭地だ
投馬国が後の任那だな。 >>333
すごーく正確には
魏書 東夷伝 倭人の項 となる
魏史なんて言い方もしない
魏志倭人伝という通称は百済観音くらい、はなはだ不正確である
しょうがねえよ
だって茶釜に半日本とか刀にへし切り長谷部とか名前つけるんだもん
>>344
それの方が正しいけど、そもそも「正史」とは書いてない
東晋の時代に書かれて、晋が認定しただけ
演技との区別ね >>339
考古学の発見なんて一時的なもんだ。
伊勢遺跡なんて煉瓦技術が通説より数世紀早いんだからなw >>234
ちなみにその図にある大和川は江戸時代に新しく掘られた川で、
実際には河内湖のほうへ北上していたからね。 >>351
宇佐神宮の二之殿(本殿)に祀られてるのは比売大神(姫、日女?)
神功皇后が卑弥呼なら、この地にはそれ以上に敬われるべき存在が居たことになるね
或いは封印し、存在を抹消したい対象か・・・ >>356
九州説は半島系の人が多いんだよ。主張も何でも九州発祥説が多くて一致してるだろ。 >>55
中国国内の王朝は基本的に地名
魏も地域名 >>348
倭の国だと間違い
倭人の国なら正解
南部である、三韓の後継国、
百済と新羅は天皇の親戚、任那は直轄地とされるが、
任那日本府はごくごく短時間、大使館を置いて、
自営してたレベルかもしれん
日本の学者でもその存在に自信は持ってないよ
三韓征伐は本当で広開土王碑に書いてあるから、
一時期支配してたけど高句麗に負けた >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>362
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
>>360
現在の八尾市辺りが弥生時代中期の遺跡の集積地だからな。そこが物部の郷でもある。
だから河内南部辺りが国だね。
冬も寒くなくて倭の海人の住む国、池上曽根遺跡もあるからな。 水行=平地・川越え
陸行=山越え
くらいのもんだろ
>>368
という事は、交流があった証拠
つまり、大陸との交流がまったくないという
九州説は、デタラメ。 >>360
そんな図なんてどうでもいいから見てもいねえわ
江戸時代以降どうしようが邪馬臺国には関係ない
利根川が家康によって変えられたのと、
伊勢物語の関連話してるようなもん
どーでもいいね
江戸時代以降の図しかねえし
論文出した方がいい?
>>355
揉めた時に宣じたんだろ
スパルタも300人をガウガメラに送る時にアポロ神殿の宣託受けてるしな
法が発明される前は仕方ない >>362
いやそりゃそうだろ、機内は否定できても九州に文明がないとか全く否定できないんだから。
本州より、九州のほうが歴史が古いことぐらいわかるよね?
あと半島系とか言うが、それも当たり前といえば当たり前だわ、全員半島系だぐらいあるわ。
過去にさかのぼって、日本から湧いて出たとでも思うか?
>>364
つまり倭の国なんだよな、なんで否定の論理に使えるのかが分からない。
韓国人だからか?としか思えないんだよな。 卑弥呼がシャーマンで今でも巫女と名前が残っている。
古日本語の語彙に今に残っている高句麗地区の語彙とかなり重複部分があるらしい。
百済は高句麗を建国した扶余族が建国したらしい。日本語の形成には朝鮮半島で滅亡した扶余族百済系の語彙が大きく関わっている。大和朝廷の共通の言葉が文化・技術の先進地の百済の語彙で統一されていった可能性がある。
明治維新後に日本で産まれた和製漢語が広く朝鮮語に広がり、台湾経由で現代中国まで広がった事と同じケースかなと思われる。
解るのは、卑弥呼がシャーマンで今でも巫女と名前が残っている。
伊都国、奴国まで判明。
古事記と日本書紀編纂は天智天皇の子を殺して最終的に日本を武力でまとめたのが天武天皇なので
その都合で編纂されているらしい。天武朝の編纂。継体王朝から天武朝に繋がりは確かと思われる。
百済が倭人と扶余族の共同経営国家だった可能性がある。百済復興の白村江の戦まで遠征している。
>>366
鬼道使いの宮が戦場であってはダメだしね。
北部九州に丹山もないし。
大体北部九州に女ばかりの宮を造れる訳がないw >>354
>ベンガラは代赭、丹ではないと4世紀初頭の抱朴子に書いてあるから丹ではないなw
またそうやってすぐ嘘をつく
ベンガラは丹ではないなんて抱朴子のどこにも書かれていない
>丹生の神社の大元が高野山にある時点で、丹山は紀伊半島だとバカでも判るわw
またそうやって知能障害を起こす
倭国が水銀朱の産地なら魏が倭に水銀朱を下賜するわけがない
相手国の特産品を渡してどうするんだよ阿呆 >>375
魏志倭人伝には卑弥呼の宮殿は城柵で厳重に守られ、武器を持った衛兵が守備していると物々しい様子が書かれている
狗奴国と戦争してるんだから当然だがね
平和な畿内は邪馬台国ではありません >>373
正確には東北の縄文文化はどうなんだ?
古いと思うけどねw
ちなみに橿原神宮辺りの弥生時代遺跡からは遮光式土偶の破片が出てるが、これが今のところ一番西の出土例だよ。 >>372
何を怒ってるのか知らないが、単に大和川の川筋は違ってるって
話だけだよ。 ひみこみこみこひみこみこ
定期的に邪馬台国すれニュー即+にでるな
九州説で間違いないよ
後で神武のときに近畿に東遷した
これですべて辻褄が合う
卑弥呼は天照大神のモデルで確定
天皇は卑弥呼の末裔
邪馬台イコールヤマト
絶対に間違いない
>>367
>古代では距離や方角を常時
水盆に磁石浮かべるのは漢の時代に発明済み
おわり
>>361
宇佐は一番初めじゃないよ
> 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、
筥崎宮の神託を引いて、
「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、
筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。
宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説や、
大分県中津市の薦神社(こもじんじゃ)も元宮として有力視されている。
宗像三女神なので、福岡時代に勧請したもの
宇佐は三神として神功祀ってるから、お参りしたあとに創建か、
勧請 >>368
朝鮮遺伝子L682は北海道から沖縄まで分布してるからな
畿内の密度が高いだけで >>374
高句麗地区は
元々、倭人がいたんだろうね。
北方民族の進出、白頭山の活動(10世紀以前の記録がないが?)。で南下。
戦前の調査で祇園山古墳と類似の墳丘墓。
或いは祇園山古墳は渡来人かもしれない。 >>379
鬼道使いの痕跡が皆無だからな、北部九州は。
巫女100人の裏付けもないしな。三輪山の麓は豪族の娘を集めていた事は日本の記述にもある。また巻向は神獣鏡と丹山がそろってる時点で鬼道使いの宮としてこれ以上の場所はない。 そういう仮説でもいいわけだ。
なんで、連合国なら代表を女性にしたか。
それが興味深い。
実質的な王のかわりに、表にでる女王?祭祀?
をたてるのが、いかにも日本人ぽいと思う。
>>152
>神武の東征はどう解釈するん?
記紀は、もちろん「阿波」国内での出来事。 神武東征は、大吉野川北岸勢力を、阿波市→鳴門市へと東征した戦闘記。 @阿波 >>389
お前いってることが、でたらめもいいとこだよな? >>379
第二次世界大戦のときも日本は焼け野原だったのにアメリカは平和だったんだから
戦地から距離が離れてたら平和なのはべつに不自然じゃない もともと女の方が家を継いだりうする風習だったのでは
>>381
どうでもいいからね
何をドヤしてんのかさっぱわかんねえし
ここが江戸時代のスレならよかったな
>>379
平和な畿内?
神武東征で兄弟がナガスネヒコにやられてるだろ
>>386
そもそもいつ渡ってきたのかわかんねえしな
戦後鶴橋にチェジュからきたのか、
戦前労働者として大阪や北九州、京都、東京に渡ってきたのか、
いわゆる渡来人として高句麗、渤海、百済、新羅が滅びた時に渡ってきたのかまったくわからない
まあほら、なんとか朝鮮=畿内にしたいんだろうけど、
関東人なら高麗郡に高麗神社あって、天皇家が参拝しーの、
銅を初めて発見した重要地だと知ってるんで、
日本人じゃねえんだよ 当時すでに出雲や吉備もちろん大和にも大きな国があったのに
それを無視して組み立てられた九州説は問題外
>>388
噴火で痕跡はかなり消えただろうな。
蘇我は元々東北に基盤があるだろう、だから蝦夷なんてのもいる。 >>354
魏志倭人伝には鉛丹が書かれているが
鉛丹の産出する山は「鉛丹山有」じゃなくて「丹山有」だ
鉄丹(ベンガラ)の出る山も「丹山有」だな。 >>157
>なんで淡路島から唐に近いとこに移動するの?
何を言ってんだ? 日本語で頼む。 @阿波 邪馬台国民族は呉越の出身
畿内ヤマトは半島出身
だから文化圏が2つあったんだよ
どうみても天皇の先祖だろw
違うって言い張るけど根拠が弱いよw
北部九州は争乱の歴史、連合を作ることで和議、女王を立てる、
離れた国との戦争、後ろ盾ほしくて大陸に使者を、
で筋が通る。
畿内に圧倒的な強国があって支配してたんなら、
狗奴国なんかすぐ滅ぼせる
>>185
「瀬戸内海を通し航行できるようになったのは、五世紀 雄略天皇の時期」
瀬戸内海は、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所。
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと、瀬戸内海は通し航行できなかった。
瀬戸内海沿岸諸国を制圧・統制する体制が整い、そういった潮待ち設備が整ったのは、五世紀頃の雄略朝を待たなければならなかった。 @阿波
長野正孝著 『古代史の謎は「海路」で解ける』 参照 >>397
筑紫国と豊前豊後はないの?
磐井の乱とかおまえの知能にはないの?
日本人か?おまえ
>>400
白村江の戦いでボロ負けしてるから、
太宰府作って北九州守ってるのが防人
阿波国、徳島もしくは遺跡の存在する淡路島とした場合に、
敵に近い方に遷都するのはおかしい
やっぱ日本の歴史知らねえのか >>366
大量には出ていないな
矢じりとか小物だけだな
鉄斧とか大物が無いから量的には極わずか。 畿内説だと、九州から機内まで全部が邪馬台国であるってことになるでしょ?
意味わかんねぇんだけど。
>>404
>>畿内に圧倒的な強国があって支配してた?
近畿説だけど、それはない。
共立なのに。 中華帝国人が「倭人」を「倭人」として識別する最大の基準は
「顔中体中赤い入れ墨だらけ」なこと
魏晋期には中華帝国域外の雲南・華南でしか見かけたことがない
この珍しい「赤い入れ墨族」を司馬仲達が連れて来たってんで
わざわざ魏帝曹叡の寝所でご拝謁
この寝所は当時の漢語で「臺」
拝謁を記念して与えた称号が「臺国」
「邪馬」という卑字に臺という貴字がくっついてるんじゃなく
国の名前は「邪馬-臺国」
>>397
3世紀には未だ関西には大きな国は存在していないな。 関西が発展したのは神武東征後の5〜6世紀頃からだろうな
辺境の大国となって白村江の戦以後に日本を統一。
>>221
>鬼道に必需品である神獣鏡もあるし畿内以外に邪馬台国はない。
鬼道の必需品は、大麻。
大麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 偉い学者先生が畿内説でほぼまとまっているのに、素人さんたちがこぞって九州説をとなえるという妙な構図。
>>399
鉛丹は人工的な熱加工物だよw
抱朴子には酸化鉄は丹ではない、代赭とあるのは事実だからな。
丹生神社が紀伊半島にあり伊都郡、これはかなり明確な目的場所である証拠だよ。 >>230
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 「阿波」で確定済み。 @阿波 >>418
畿内に巨大な古墳があるだけで
それが邪馬台国や卑弥呼と言う確たる理由ではないがね >>401
呉服って知ってる?
>>377
ぐうの音も出ない
丹生神社が523年創建で、
723年に大仏建立のために水銀が出るよう祈って出てから、
丹生明神とされた
てことは723年までは出てない 北部九州の平地は海か湿地帯が多くて
遺跡もあまりないけど
ちょっと標高が高い山裾だと遺跡でギッシリよ。
弥生遺跡数
福岡県 4000件
奈良県 600件
>>371
大陸から人が大量に流入したのは5世紀以降だから
参考にはならんな。 >>367
まあ邪馬台国が九州北部にあったら議論にはならんわな
すぐ分かる
伊都国や奴国は比定される遺跡も明確で所在地地に争いなんか無い
伊都国奴国よりはるかに大きな投馬国や邪馬台国で急に記載が曖昧になる時点で、投馬国や邪馬台国が九州北部から遠く離れているのは明らかなんだよな >>141
倭国大乱は、邪馬台の内乱に非ず。列島の大乱である。
(教科書には、内乱と書いてある。…全くのお花畑w)
大乱の勝者は、博多港を押さてる謎の勢力「大倭」。
その前の漢の時代、奴国が倭国代表として朝貢(後漢書)。
しかし、魏志倭人伝を見ると、奴国は、邪馬台の領内のクニw
つまり、漢の時代、邪馬台は配下を倭国代表の体で朝貢させ、
自らは漢の臣下と成らずに、朝貢の利だけ得て、列島に君臨。
これを参考すると「大倭」が大乱勝者だと容易に理解できる。
自分は正体を隠し、敗者邪馬台を倭國盟主の体で魏に朝貢させた。
(これ誰? 奈良でしょ!… その後を考えると他はほぼ無理。)
大乱で大倭(奈良)に敗れた邪馬台は、覇権放棄を約し、
その証として、女王(=剣を持たぬ王)卑弥呼が即位した。
なぜ女王「共立」とした? そりゃ、邪馬台=倭国盟主だから
魏には「みーんなで仲良く選んだ」ってw(信じちゃ駄目!w)
卑弥呼の死後に男王が立つ=和議条件を破り覇権復興を試みた。
しかし、また破れ、再度、女王(=覇権放棄の証)に戻した。
・・・もう二度と邪馬台に覇権が戻ることは無かった・・・ >>418
畿内説だった学者先生は
纏向学という地元考古学に転向したよ。 >>412
成程
邪馬壹國の壹は委=倭というのもあるし、これなら壹と臺の表記の違いも矛盾なくなるね
面白いから採用w >>408
当然だよ。再利用で古墳に埋めている。
古墳時代のデータ出さない九州説
九州ではほとんど鉄武器だろー。
それも、乱雑だ。 >>234
ニギハヤヒが鳥船で降りたという交野市の磐船神社、
4世紀は海岸線付近だったのかな? >>418
学者と言えど一般人より偏差値低い連中の学問ごっこサークルだからな 九州の鉄器は農具とか包丁なども多い。
吉野ヶ里は戦闘の痕跡も多いが
農具などの出土も多い。
鉄が入手しやすかったんだろうね。
>>424
俺に言ってもしょうがない。
そのデータ出した阿保だな。 >>418
偉い学者さんは史料の殆どなく、何の成果も期待できない邪馬台国なんか相手にしません >>429
古墳時代になると鉄は国産化されてるから多過ぎw
3世紀には輸入品だからね。 >>20
外国に外交使節団を派遣するくらいの発想のある国だよ
少なくともお前の言う部族とかのレベルではない >>432
近畿もな。農具、剣も出る。
弥生時代に鉄がある。
巨大化古墳時代に使って大事に奉納。 >>418
偉い学者さん(文系)がやってることは、政治です。
学問じゃありません。科学でもありません。
だから、あの世界で”偉く”成れるんですwww 邪馬台国は九州にあって
その権威を畿内勢力が再利用した
国名も、銅鏡(天照大御神)も
その権威を再利用して、諸国を取り込み
ヤマト王権による統一国家が、ほぼ出来上がる
これが正解
遷都ではなく
これが正解
>>377>>422
明弘蒲池『邪馬台国は「朱の王国」だった』 (文春新書)は面白かったな。
要検討の仮説ばかりだったけど、朱の産地の情報は良かった。 >>428
壹與も倭與との説もあるな
ヤマ倭国が邪馬壹國なのかもな。 基本を忘れるな
・倭人は呉・越の末裔である
・後漢時代に朝貢していた倭は100国だった
・魏に朝貢した卑弥呼の傘下国は30国のみ
・魏志倭人伝には他に反卑弥呼派の狗奴国、東の海を渡った先に倭種の国があることが書かれている
・倭人に関しては海洋民族と思われる風習が描かれている
・倭人の墓は棺に直接土を盛り、塚と成すと書かれている
・魏志韓伝では半島に倭人が鉄を取りに来ていた様子が書かれている
・当時の鉄器が多い地域は九州〜山陰である
・半島南部は倭に接すると書かれている
・魏志倭人伝では倭の北岸に狗邪韓国と書かれている
・狗奴国は男王を立てていた←これが神武天皇では?
>>431
サークルよりもっと醜い政治の世界
しかも偏差値低いw 畿内説とかぶち上げたら学者として一貫のを終わりだよな
共同擁立となると自動的に 邪馬台国=纏向 になってしまう
中央行政庁の地理的都合は極めて重要な要素だからな
昔の人だって馬鹿ではないから
>>418
箸墓から卑弥呼の証拠ゼロだしね
近畿説が多数の学者らしいが誰か出てこない
箸墓古墳が最大唯一の証拠だが、出てこないんだよな
専門家ほど懐疑的なんだわ
> 広瀬和雄は「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べている[21][22]。
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」としつつ[17]、
卑弥呼の墓である蓋然性は高いとする見解を示している[23]。
石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓[19]とし、
「纒向遺跡。二世紀末に突然あらわれ、四世紀中頃に突然消滅したこの大きな集落は、邪馬台国の有力な候補地として浮かびあがってきた」としている[19]。
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は「壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこよう」と評価している[11]。
宝賀寿男は古代氏族研究を通じて古代においても男性優位であった状況を踏まえ、
女性陵墓説を退けて実質的な王権設立者である崇神天皇の真陵説を唱えている[24][25]。 >>445
ならない。スガさん、秋田県。
首都は秋田県になるのか? >>437
関西の3世紀弥生時代鉄は極僅かだからな
鉄が国産化された古墳時代にならないと増えないな。 >>446
中国
当時は中国産の銅しかなかった時代
しかし魏の時代は不足していたらしい >>437
古い九州様式に近い前方後円墳の
ホケノ山や桜井茶臼山古墳から
いくらか鉄が出るくらいで
新しい定形式古墳からは
5世紀以降にならないと
鉄は非常に少ないか皆無だそうですよ。 宮内庁を解体して箸墓を調査すれば良い
小室君の立ち回り方によっては意外と早く実現するかも
>>445
纏向は5世紀以降の遺跡が決定してるから100%ないな。 >>449
根拠ないな。あの古いデータかな?
国産て?原材料の事? 怡土の平原からは三種の神器の八尺鏡がでてるよ。
日田のダンワラからは卑弥呼が貰ったとされる
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡も出ている。
つまりさ、九州が日本で本州は日本じゃないってなるのを嫌がってるだけなんだと思うんだよ。
歴史の一貫性がなくなるからさ。
なんかがくしゃって真ん中から湧いて出たような歴史を信じたがるよね。
>>427
馬具やベニバナの花粉が出土した時点で真面な学者は畿内説を見限ったな。 箸墓は、モモソ姫の墓で
宮内庁の言う通り合ってるよ
ただし、正確には
オオモノヌシの墓であり、モモソ姫も一緒に葬られているだけに過ぎない
オオモノヌシの墓なら、納得する墓の大きさだ
>>455
ソースなしだな。決定していないよ。
混雑はしている。 >>460
その2点は思いっきり5世紀のキーワードだもんなw >>460
馬具の中国の出土が5世紀前半
紅花が日本に入ってきたのが5世紀ですからね。 >>434
畿内説の学者はもう研究したくないんだよ
研究が進めば進むほど畿内説の旗色が悪くなる。 >>449
倭人伝には鉄に関する記述はないけどなw
それに淡路島と近江に2世紀の大規模鉄工房なら既にある。3世紀には信貴山にもある位だ。
九州爺さん、いつまで30年前の頭なんだよ? >>444
在野が多いんだよね
まともな大学だと畿内説は危ないから手を出さない
証拠がゼロ
>>440
ありがとう
読んでみよう
古代鉱物学には興味あるしな
>>430
そこは単に珍しくでかい岩があるからだと思う
> 交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、
「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。
本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。
神社の起源は不明であるが、
天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って
河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。
おそらく違うだろう
www.sankei.com/article/20190520-HQBMSUNS6NIWTAVUYYFMK77JHM/ 畿内説はもう纒向学とか言って逃亡しちゃったんだろ
性懲りも無くまたゴッドハンドやらかしてしまって黒歴史確定じゃん
>>228
縄文海進の逆もあるだろ
大陸と繋がっていた時期。 >>453
そうですよ?ソースなしかな?
滋賀の遺跡あげている。九州に遺跡あるのか? 実は、大宰府に残されていた文献に邪馬台国の場所が記されています。
◆張楚金の『翰苑』 660年以前に成立。平安時代初期(9世紀)頃に転記。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※中国の史書において連続した行程の場合は「又〜至る」と記述される
※伊都国は福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
偉い学者がみんな畿内だって言ってるんだから畿内でいいだろカスども
>>467
骨や石鏃と同じ扱いだねw
倭人伝で一番重要な鉱物は丹、何度も記述にはあるからな。 >>425
そうそう、投馬国や邪馬台国は遠く離れていて距離も正確にはわからないから水行、陸行日数で書いたのだろう
だから邪馬台国までの距離1万2千里も全くあてにならないし、まして現在の正確な地図を使って距離を足し引きすることは馬鹿げている ここ近年見つかってる証拠でほぼ畿内説で確定しつつあるんだけど、
九州説は色々理屈をこねまわして最後の反撃試みてる段階
>>474
畿内説の偉い学者はもう居ません。
最後に論文や書籍が出たのが2011年くらい。 >>459
というか、
「大和朝廷は万世一系、日本が生まれたときから天皇家の先祖は日本の支配者」って言いたいんだが、
そうするとオノゴロ島に降誕したことから、
「東に攻め込んだ」ことまでおかしくなってくる
天皇が万世一系、神の子孫であるという明治神話と、
天皇家の公式歴史書である日本書紀と
どっちを信じるかって話
どっちでも不敬だよ 446 ニューノーマルの名無しさん ▼ New! 2021/05/31(月) 12:48:34.95 ID:zt6uozaE0 [19回目]
>>442
で銅は?どこから輸入?
輸入ではなく、忌部の郷、高越山の高越銅山の産だろう。 @阿波 >>72
神奈川県大和市「もしかして」
東京都東大和市「うちかも?」 >>474
自称偉い学者のほとんどが偏差値30台だから
特に文系は学者と言えど頭の悪い人がほとんどだよ
まあ理系でもサプリとかに手を出してる連中も低能だが >>425
里数の行程と日数の行程を続いて読むから訳が分からなくなる
何方も帯方郡からの行程で、同じ行程を距離と時間で説明しているだけのことだよ
投馬国が狗邪韓国、邪馬台国が伊都国に対応している
投馬国、狗邪韓国は朝鮮半島南部
邪馬台国、伊都国は北部九州地域だな。 魏志倭人伝は解釈が間違ってるだけで記述に大きな間違いは無いと思うけどな
あやふやだと分からないとからしいと書いてあるんだし
方角や距離が全く違うんなら記述全部が信用出来なくなる
>>479
ちょっと意味を正確に取れてないかもだけど、それな!
明治神話で相当捻じ曲げてる感じはある。 >>475
>倭人伝で一番重要な鉱物は丹、何度も記述にはあるからな。
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 何で邪馬台の読みがヤマタイだと勝手に決めつけられてるか分からん。
どう考えてもヤマトだろ。
邪馬台国=大和。
漢字には意味は無い。
当時文字のなかった日本の言葉を漢字表記するのに
中国人が音を聞いて適当に漢字をつけただけ。
つまり邪馬台国は九州でなく関西
あと卑弥呼=火巫女、つまり卑弥呼は太陽神天照大御神につかえる巫女だ。
学者って基本的に社会に出たことの無い世間知らずだからねえ
>>469
関西では河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)とは二上山という説もある。まあ河内堅上には信貴山もあるし大県という銅鏡出土場所、また鉄の神である金山姫、金山彦神社のある場所だからな。
大県辺りは弥生時代末期からたたらをやっていたらしく金糞なら今でも出る。 どっちでもいいわ
今や修羅の国に大阪民国じゃ
卑弥呼だろうが天照だろうと号泣だな
>>1
連邦国家制の倭なのだ
なんで連合国家化したがるんだ?? >>477
近年見つかってる証拠って北部九州地域の硯とか
纏向遺跡のベニバナの花粉や馬具w だから記述内容は西にズレてるんだろwwwww
敦煌から書物出てるってことは。
ウイグル人とか邪魔だわな
>>487
ヤマトの意味は地名かどうかも分からん
倭国全体で使われる一般的な言葉かも知れん >>487
ヤマトと呼ぶ地域は沢山あったんだと思うよ
カモメが飛んでいた地域とか
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
例)
大倭(オホヤマト)には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。 >>473
糸島なんか全部地名朝鮮絡みじゃねーか
テキトー抜かすなキチガイ
創価に朝鮮に福岡キチガイだわw >>439
そういうこと。
九州の邪馬台(やまと)は、漢の時代の列島覇権国。
漢への朝貢と鉄輸入の独占で、列島に君臨した。
※ 邪馬台が半島で政治工作し、鉄と漢への朝貢を握り、博多港の
旧支配者(宗像)を政治的に下し 地域覇権(ひいては列島の
覇権)を握るプロセスは、海幸彦・山幸彦の神話に書いてある。
釣針(=鉄)綿津見神(海神)の宮殿(=半島)玉(=朝貢の権利)
これらがキーワード。 → 一部、天照とスサノヲの誓約に再掲。
しかし、朝貢秩序による地域の安定の中、貿易独占と経済優位が
徐々に崩れて行き、漢の権威が不安定になった漢末、倭国大乱が
起き、大倭なる勢力(ほぼ奈良で確定)が実力で邪馬台を下す。
4世紀頭、華北崩壊で朝貢秩序完全消失。もう邪馬台は用済み。
奈良は邪馬台を滅ぼし邪馬台(やまと)の名を頂きその権威を継いだ。 >>489
いちおう、現在の知見では
たたら製鉄は5世紀以降。
精錬(不純物や炭素量の調整)や鍛冶は
弥生時代からやっていた。 >>482
九州説の民間爺さん、未だにバリバリ考古学やってる若い人に銅鐸、銅矛圏とか言い出すんだぞ、マジで有り得んわw 邪馬台国問題が解決したら、記紀がますます信憑性がなくなる。
そうなると天皇家や日本の歴史が疑われてしまう。
そうならないために、文科省はあえて確定できない畿内推しをしてるんだと思う。
これは国策だ。
>>496
ま、なんとか銀座、なんとか富士も
たくさん。 そのころ九州では日本刀の基礎技術を進めていました
・富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
>>490
>え?分析で外国種も出ているよ。
それじゃ、銅鐸の銅も外国産だと言うのか? @阿波 >>477
古墳の地域ごとに鏡の加工後が一致してしまって
日本で製造してた可能性が濃厚になってしまった三角縁神獣鏡w
最近の研究は畿内説に容赦がないな 銅鐸は九州でも出土し鋳型も発見されたが
数は多くなく、形状も中国の原型に近い。
畿内で独自に発展を遂げ、巨大化した。
邪馬壹國の壹が倭なら邪馬壹國はヤマ倭国
大和がヤマトだから大はヤマ
邪馬壹國は単に大倭国の事だな。
>>493
だから、ここ掘れわんわん状態の「阿波」 だと何度言えばw @阿波 >>501
畿内説でなければ学者になれない環境をつくってきたのが今の学者
当然馬鹿しか集まらない
歴史捏造事件が起きたのも当たり前だ >>474>>482
偏差値でいうと、もっと高いだろ。
偏差値60以上の大学に受かり、
学部の時にきちんと就職できず、
大学院に「入院」した優秀大学の落ちこぼれ達から「偉い学者」が出るんじゃ? いつもの〜福岡は〜一番でー
いいんじゃね!福岡邪馬修羅の国
で
>>496
香具山とは籠山、神山色々説がある。まあ二上山を香山と読んだというはなしを聞いた事もあるがこれはソースがない。
まあ二上山や信貴山なら眼下は昔は結構近くまで海だろうけどな。 >>508
>日本で製造してた可能性が濃厚になってしまった三角縁神獣鏡w
「阿波」で製造間違いなし! @阿波 九州説も近畿説も、どちらも異常。
地政学から自明な話だが、邪馬台は日田盆地→筑紫平野→博多と
広がって行くわけだが、しかし、今の九州説は、全くのデタラメ。
特に朝鮮系の学者が、狂った朝鮮価値観で歪めるから、ほんと迷惑。
一方、近畿説は、全くの論外。
個人的倫理観で言えば、彼ら全員、"研究費詐欺" w(あくまで倫理の話)
「連合」だのなんだのは司馬仲達が自身の
一番大きな軍功トロフィーを飾るためのセリフだぞ
「宿敵呉の後背を襲う地域に位置する強力な巨大な蛮族を魏朝の配下にした」
これが「司馬仲達英雄伝」別名三国志正史のストーリー(嘘だけど)
>>509
>畿内で独自に発展を遂げ、巨大化した。
「阿波」だろうがよ。 @阿波 >>516
ヤマト=奈良ありきの説をベースにするから学問にならないんだよ >>513
で、賢い九州説の爺さんは銅鐸圏とか未だに言い出すんだw
知識が昭和にも程があるぞ。 >>516
>香具山とは籠山
小松島市の籠山だ。 @阿波 >>501
鉄もな。古いデータしかない。
鉄のことばかりだな。 >>478
2020年に本が出てるな
奈良県立橿原考古学研究所で約40年にわたって纒向含む近畿の遺跡を掘りまくった考古学者の関川尚功の結論は
「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」
だってさw >>522
粟の名を冠する国がか?
稲作文化が入るのが遅れたイメージだが。 >>520
チョッパリ見栄っ張りのあんたが論外
福岡最狂でおっけー >>508
三角縁神獣鏡なら国産で当たり前だろ、鬼道使いが諸国に配るんだからなw
九州説の爺さん連中、もう少し頭切り替えしろよ。 >>525
銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
纏向センターより
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。 >>497
「西は衆夷を服すること六十六国」
夷とは東夷の自分達の倭人のこと
衆とは民、多くの人
だから東夷の民の九州のことですよ。
「東は毛人を征すること」
東に住む人を毛人と呼んでいる。 >>470
俺が特捜部なら、こいつら研究費詐欺でとっ捕まえてやりたいと
思うだろうが、だが、学問の自由に権力が介入することを国は
控えているから、それをわかってて、嘘八百やりたい放題www
学会の政治に自浄作用なんて無しw 結論から言うと、九州だけが日本を名乗っていいんだよな。
>>528
北部九州には主に西日本各地から拠点の為人が集まって豪族化しただけの話。
結局ただの中継地だよw >>530
関川さんの解説は論理的だったよ
畿内説しか頭に無い馬鹿学者とは全く違う >>530
関川さんは鬼道の知識は皆無なんだよな、残念ながらダメだねw >>536
久留米が怪しいんだよなあ。
神崎荘は中世まで海外貿易の重要拠点だし。 >>533
三角縁に限らないよ
鏡の形式に関わらず畿内の古墳から出る鏡はみんな国産だとさ
今どきの歴史:三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。 >>539
だから遺跡調査より先に「考古学会」の体質調査が必要な時期なんだよ
そろそろまた捏造事件起こすぞ 卑弥呼が泣いている
アタシのためにアタシのために
福岡も関西も柄悪い都市一番争いなんて
>>541
そうやって根拠のない妄想に逃げるから畿内説は敗れ去ったんだよ アホか 大きな力無しに統一王朝なんかできない古今東西ありえない
>>501
未だ銅鐸、銅矛圏とか言いう人いるの?
何時の話? 北部九州には全国各地の物品が運び込まれ
遺物が見つかるが、畿内では九州のものは
殆ど無い。
九州様式の土器の破片が一つだけ見つかって
ニュースになってたくらい。
司馬仲達の公孫氏撃滅以降の専横ぷりがおもしろくなくかつ
倭の件も嘘くせーと思っている連中は
「んなふかすならその入れ墨族とやらに呉を攻撃させろよ」と反発
それに対する仲達の言い訳が「今たまたま入れ墨族同士でもめてまして・・」
実体は呉の後背とはまったく見当違いの場所に
バラバラ入れ墨族の小邑があっただけ
>>543
関川とか通名じゃねーかw
捏造韓国みてーだな茶番劇 万世一系のイデオロギー先行学者にとっては、邪馬台国を九州に、卑弥呼をアマテラスに比定したほうが記紀との整合性がとれていいと思うんだが何で畿内にこだわるのかね
>>548
畿内説は妄想に妄想を重ねて出来上がってるな
何の根拠も無い妄想を真実だと思い込んでる。 >>551
こうやって息を吐くように嘘をつくw
纏向遺跡から西日本全域の遺物が出ている
逆に北九州は現地産か朝鮮産 >>551
ランチャーにトカレフ、ウージー
手榴弾ルートか
福岡最恐だわw >>545
オレもずっと以前から三角縁神獣鏡は国産だといい続けてきたからな。
埋蔵出土品ばかり見てる学者連中とは違う。
水銀朱や宗教学見ないといけないと言ってたんで、関川さんなんか全くダメだと思ってたんだ >>551
邪馬台国は中国から貰ってきた貴重なもん持ってるからな 卑弥呼をヒメコとすると
卑弥弓呼はヒメクゥコで姫喰子となる
畿内説の偉い学者さんは、畿内説から撤退して
引退したり纏向学に転向したりしたから
もう畿内説には触らない傾向だな。
>>550
それが関係ない説明会に邪馬台国自説ぶちあげる人いるんだよ、未だにw >>554
過去に自分達の言ってきた事が全部間違いだった事になるからだな。
>>556
纏向遺跡から九州の物何か出た?
馬具やベニバナの花粉はどう説明? >>556
そちらで見つかる遺物は
東海、北陸地方が主力ですね。
西より東の方のつながりが大きいですよ。 銅は魏の時代には魏から産出しなかった。
500枚以上ある三角縁神獣鏡が、
卑弥呼に贈られた鏡など、
軽々に言う事ははばかられる話しだ。
昔は九州と朝鮮が陸続きだったからな
だから山大国は朝鮮にあるよ
>>556
>>551は正しいぞ
君は騙されているか嘘をついているかのどちらか
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki.htm
> 「搬入土器の出身地割合」は、図表で示され、北から順に、関東系5%、東海系49%、近江系5%、北陸・山陰系17%、河内系10%、紀伊系1%、
> 吉備系7%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、とされる。
> <留意点>これを多い順から並び替えると、
> 東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%とされる。
> この数値でちょうど100%となるから、各数値に四捨五入があるとしても、九州関係は皆無に近いということである。
> 全体が123個ということは、1%未満だと最大限で1個あった可能性しか考えられない。
図表のどこにも九州は無い <ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎縁だと判明した
>>116
「書かれてる通りに解釈したら海の上になる」ってよく言われるけど
「帯方郡から邪馬台国まで1万2千里」
「帯方郡から北九州沿岸まで1万里」
「北九州沿岸から700里、水行30日、陸行一月で邪馬台国」
=「1300里を水行30日、陸行30日で移動」
=「水行一日+陸行一日は43.3里の移動」
=対馬国=対馬、一大国=壱岐とすると、
その間、約50kmを千里としてるから一里=50m
=「水行一日+陸行一日」は2165m
=水行一日は最大で2km程度でしかない
という話なんだよ
「書かれている通りに解釈したら、海上になる」
「水行30日、陸行一月」を高く評価しすぎの誤読に過ぎない
最大一日2kmの水行+陸行を30日した所で60km
九州内に余裕で収まる 仏教、火薬、羅針盤、活版印刷など、特許料を朝鮮半島に対して支払うべきだろ。
>>563
畿内説の偉い学者さんが死に絶えないと
学会では思ってる事も言えないんだろうな
普通の頭があるなら邪馬台国は明らかに北部九州地域だな。 >>567
まあ三角縁神獣鏡の一部オリジナルがあった可能性は否定出来ないよ。
画文帯神獣鏡の可能性もあるからな。それらをサンプルに国産で大量に作ったのが三角縁神獣鏡なのは間違いない。 >>572
当然だな。周濠だろ。2〜6世紀が混雑。
水害、再開発もありゃ、混ざる。 >>1
魏志倭人伝の魏の使者が倭国に来た目的は何か?
これを考えていないのは珍説なんだよ
ちょうど三国志の時代で、魏は呉と戦争してたわけ。
長江を挟んで魏から攻撃すると同時に、その背後、
東シナ海から呉を攻めるように倭国に使者を送った。
これが真相なの。
蜀を攻撃する時には南蛮に攻撃させたのと同じ。
米を作る以外に取り柄のない農耕民族の九州王朝にそんな使者を送るわけがない。
青銅・製鉄技術を持ち、剣・盾の軍備と兵士を持っていた出雲王朝こそが当時の派遣国であり、魏の使者が訪れた邪馬台国=ヤマト国なんだよ
出雲王朝は製鉄に必要な砂鉄を採る為に朝鮮半島も支配してたから魏にも一目置かれた存在だったんだよ 文書はしっかり読みましょう
魏志倭人伝の記述
「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴」
対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されていますね
そして邪馬台国はこの視点で見て南の方にあったということです
さらにその南には狗奴国があり、卑弥呼時代には戦争状態であったとのこと また証拠なしの妄想かw
妄想で金がもらえるって楽だな
>>573
当然だろー。疎遠というより遠距離
わざわざ、くることはない。 >>581
それじゃ不正解、そもそも壱岐からマツラには方角記述がない。また奴国の南側に狗奴国があるという記述も無視出来ないよ。
傍国が何もずらっと南に並んでた訳じゃないからな。 >>579
馬具もコンタミだと?
しかし畿内説馬鹿は馬具の年代をあり得ないほど古く報告してしまいましたw
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。 バカ「邪馬台国は九州にあった!」
俺「じゃあ大和朝廷はなんで近畿に出来たんだよ」
バカ「ぐぬぬっ!」
北九州戸畑 片岡
もろドラゴン、そっちの民族
話にもならない初めからよくみとけば良かった
>>578
中国からもらったのは画文帯神獣鏡クラスじゃないかな
三角縁神獣鏡は、中国由来の技術を持つ工人に協力してもらってつくった倭国オリジナルの宗教アイテムの可能性は?
奈良の墓に大量に含まれていたときの埋葬状態見てそんな気がした >>584
3世紀には九州と関西の交流は遠すぎて皆無ですね。 >>587
>奴国の南側に狗奴国があるという記述
そんな記述はありません >>570
いい加減認識を改めるべし
纏向は倭人伝の記述とは余りにもかけ離れている >>588
可能性だな。否定も肯定も
どうにでも言える。
骨など見つかったら別。 >>588
別に問題ない記述だろ、硯だって発見の度に古くなってるのと同じで。
それに箸墓の比定記述は古墳上にある吉備系の特殊器台だからな、いつもの九州説連中の只の難癖、妙な主張は自分たちにも帰ってくるんだからなw >>588
4世紀に馬の骨とか日本で見つかってないはずだが?
5世紀後半が最古のはず。 畿内の王朝と邪馬台国を無理やり結び付けるからややこしくなるんじゃね?
>>597
そう、半島や中国ですら馬を使っていたと確実に言えるのは5世紀以降 >>597
発掘して過去出土品より古い例が出ないとでも?
考古学、古代史研究今すぐ辞めた方がいいぞw 志賀島だかで金印
麻生セメントに作らせたんだろ
福岡人ならやりかねない
遺伝子が朝鮮人と同じだからだ
>>603
遺跡調査について
畿内しか調べず、九州には無いと言ってる学者も辞めた方が日本のためだな >>11
魏志倭人伝では「邪馬台国」ではなく「邪馬一国」と書かれてるらしいよ
古い字体だと「臺(台)」と「壹(一)」は似てて、魏志倭人伝よりずっと後に書かれた中国の歴史書では「邪馬臺(=台)国」の表記になってるらしい
当時の「壹」の読み方がどうだったのかは分からないけど
三十余国が連合してひとつに纏まったのなら「邪馬一国」と名乗っててもおかしくはないかも知れないね
(※旧字体が文字化けしてたらごめん) >>597
半島、大陸に馬というのがいて、
こういう道具を使っていたとか。
一部を土産品として持ってきたとか
いろいろ、あるわな。 >>598
ヤマト朝廷とヤマト国(=邪馬台国)は全然違うんだけど、その真相を日本人は認めようとしないからね
ヤマト国(=邪馬台国=出雲王朝)は白村江の戦いで惨敗し、唐に本土まで攻め込まれて滅亡したの
太平洋戦争で負けてGHQに支配されたようにして、唐の進駐軍に支配され、その傀儡として作られたのがヤマト朝廷
国譲り神話とはヤマト国(出雲王朝)の王権を唐が奪い取ったこと(=禅定)を語り継ぐものなんだよね
だけど、日本人はその不都合な真実を認めようとしない スレの流れ読んでないけど
惨劇の畿内派のみなさんの断末魔の叫びを愉しむスレってことでおk?
>>608
18世紀の雲仙噴火が起き、有明海で津波が発生し、熊本の古墳が2つほど消えた
そんな九州で弥生時代のものが現代まで残ってる方が珍しい >>607
3世紀の関西には九州や大陸と交流の痕跡がないのに? >>605
邪馬壹国は近畿。
卑弥呼は九州で生涯終え、冢もある。
どこに邪馬壹国で卑弥呼が生涯 終え
冢とか柵とかあるの記があるの?。
女王所の都しかない。住んでいる記はない >>606
壹と一は別の字だよ
弐と二、参と三が別の字と同じ
壹は、もっぱら(一つの事に集中する。一つの事を主とする。)の意味。
豆が壺の中で煮詰まっている形らしい。 >>361 >>385
宇佐家当主が本を出したらしいぞ
宇佐神宮の本当の主祭神は神功皇后と武内宿祢の不義密通の子らしいぞ >>612
あるだろう。若狭沿岸からも鉄、
銅鐸、鏡、滋賀の遺跡
原材料はどこからだよ。 侏儒国が徳島辺りで裸国黒歯国は和歌山辺りで良いのかな
>>620
舟行陸行水行の期間が全部おかしいのよ
解釈が間違ってるんじゃないかな >>618
若狭沿岸の錐だろ
数は多いが小さいから量的には大したことは無いな
若狭沿岸まで来ても奈良の方には鉄は来てないな。 >>16
「一大率」とは、
一人の「大率」ということな。 >>610
いつも思うに畿内説の人は纏向遺跡に桃の種が2000個出た事や水銀が南で採れることが根拠として挙げ自信満々に語ってるけど
桃は南でも採れるし水銀も四国や佐賀で採れているので根拠に全くならないのよな この前のTVの番組で近畿説ってのが完全に確定したじゃん!
やっぱり卑弥呼は奈良に居たのさ そしてそこが中央政権だ
なにせ全ての地方の土器が奈良に集まっていたんだからそこがしっかり中央政権だったことがハッキリ伺えるよ
九州の拠点とか言うのは奈良から中国へ向かう時に使者が長旅で一時的に使う休憩や物資補給の立ち寄り場にしかすぎず
船なんかもそこで作らせておいてそこからサッと乗り込んで中国へと行ったのが最も合理的で確実な見解だろう
その最終寄り場から来たことを倭人伝には書かれていただけなのさ シナは全てを書き留める気が無かったようで
日巫女→卑弥呼 ヤマト大国→邪馬台国 と何事もテキトーに記されてたように全部がエエカゲンな記録なわけなんだし
場所すらもエエカゲンに書いたものなのさ まぁどーでもイイもんね小国の使いの者の話なんて 別にシナチクからすれば
しかしこれでやっと終止符が打てたね! 九州の超ド田舎な地方政権が日本のトップだなんて余りにも笑わせると思ったよ
やっぱし中央政権の場所は近畿説で大正解さ! 九州は単なる1拠点のくせにもう2度とデカイ顔するんじゃないよ!!
この論争に決着有った! ハイそこまで!!
>>621
メガーズとか古田武彦とかは1年をそのまんまとらえて
裸国黒歯国は南米だ!日本で出土した土器と似てるものが出土してる!と主張していたようだが
あなたは邪馬台国はどこだと思っているの? >>622
根拠は?
滋賀の遺跡は?
銅は?
まったくないわけでもない鉄も出土するよ。 桃の種は中国由来の神仙思想、道教と密接に関連する
三国志研究の先生も、卑弥呼が鬼道を使うという魏志の記述と、箸墓で桃の種がおそらく儀式用に大量に出土した関係は興味深いと言ってたな
>>630
近畿説だけど、
吉備でも祭祀用と思われる桃も大量に出る。 保守界隈の主張を通すなら
卑弥呼は女だから天皇家の系統とは違うことなるので
大和であると不都合かもね
九州で桃の種が大量に出土したとこってあるの?
卑弥呼の鬼道は、もしかして日本では新しいスタイルだから人々の耳目を集め、権威となりえた?宗教革命?
あるいは、道教と掛け合わせた卑弥呼による新スタイル?
倭地全部で5000里と言ってるんだしどう考えても舟で1年も掛かる訳無い
>>625
哀愁の畿内説にとって水銀は桃の種、馬の骨に次ぐ秘儀のつもりなのだろうが
ミズハノメを祀る神社も辰砂の鉱山跡も九州北部に複数あるというのに
まったくもって遺憾の極み >>487
ヤマトと読んだのは新井白石なのだが、
「臺」は臺灣と台湾にも使う、台の古字
だから素直に万葉仮名だとヤマタイ
のちの文献で
似た字で「イ」という漢字とも誤字してるので、
ヤマイ説もあるが。
卑弥呼が火巫女って説は実に新しいな
日巫女か姫巫女のことだと思うのが日本人
そもそも日巫女の場合問題があるのは、太陽信仰 >>633
そもそも倭人伝に葬祭の描写はあるが、
桃の話は一切記載されていない >>638
臺ではなく壹をトと読んだんじゃないか?
豆という文字があるからトウと読み間違えたという説 畿内説の主張は魏志韓伝や魏志倭人伝をガン無視した想像論ばかり
畿内説の主張する位置関係
■畿内説よるロジカルな説明が不可能な韓国式主張一覧
(某反日民族の歴史歪曲と同じ手法)
・倭人伝の南は実は東だったニダ
・奈良も鉄器社会だったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠ニダ
・纏向建物の柱穴より深い他の遺構で出土した桃の種が3世紀なのできっと卑弥呼の宮殿ニダ
・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だったニダ
・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道程は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道程も無人地帯だったニダ >>639
鬼道との関係だけだな。
葬祭の描写は、卑弥呼以前のもんかも? >>598
まずは切り離して考えるべきよね
文字もなかった時代の、それこそ土人と呼んでいい部族の一つに過ぎないんだから
ちなみに日本で文字が使われたのは熊本で見つかった物が最古らしい >>642
桃は鬼を追い払うもの
鬼道ではなく道教の象徴
古事記で桃を投げて鬼を追い払うだろ? >>638
九州は元々肥国(火国)と呼ばれてたね
火巫女とするなら益々以て九州の可能性が高まるw >>643
まあ土人とはいってもヒミコは姫氏なので太伯の血筋なのだが >>644
鬼道も道教だよ。
まあ、諸説あり。不確定要素が多い魏志。
記紀同様に原理主義にはならない。 >>626
魏志倭人伝に倭国の風習に「男子は身分関係なく入れ墨をしている」と書いてありこれは海南島と九州にある風習なのよ
本来もしかしたら邪馬台国は九州じゃねと思うのがどおり 崇神天皇の巻の 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が
尻もちをついて女陰を突きさして亡くなった話の箸は食べ物を食べるための
箸じゃなくて、ウンコを放出した後の肛門の周囲に付着したウンコを拭い去
るのに用いられた専用のウンコ箸だと思うんだが。
崇神は河内の陶工一族とも関係を持つが、古代はウンコを拭き取るのに小さ
な専用の陶器が使われたことがあったという。
>>648
だから何?
それらも南下だな。交流ありていう事だな。 邪馬台国には直接関係ないけと古代北部九州の女神信仰は異常
宗像の3女神とか有名だし
失われた4世紀について解明出来るかもしれない沖ノ島の存在とかわくわくする
地方の拠点の所もヤマト大国の支店だからそりゃあヤマト大国だとは一応勝手に名乗れるわな
でもヤマト大国の本社と言えば奈良に1つだけ有るってことなのさ
その辺が少し難しいとこだね 虎の威をかる地方拠点w
でも日巫女の名前を出してる以上は日巫女の古墳が有る奈良こそが真のヤマト大国ってのは絶対だからな
しかもその日巫女が国を治めていると書いてあるんだし奈良に中央政権が有ったことはもう間違いない
九州は資材置き場だったんじゃない? 多すぎて重くて持って帰れないから九州に置いてったのさww
船だってそこまでだったわけだし陸路ではたくさんは持ち歩いて運べないよ
それでなんだかんだで色々と発掘されまくるだけのこと そうなりゃ話の辻褄だって綺麗に合ってくるよ!
>>650
飛騨の口碑によれば百襲姫はダンナが新羅であることに気づいて絶望し
中絶のために箸でホトを突いたという
だから箸墓はもともと百襲姫の墓
それを怒り狂ったダンナが取り壊し自分の墓にした
だから箸墓古墳はオオタタネコの墓 BC770年 春秋戦国時代
│
BC221年 秦(キングダム)
│
BC206年 漢(項羽と劉邦)
│
184年 三国時代(三国志)
│ ←────────────卑弥呼
265年 晋
│
439年 南北朝(蘭陵王)
│
589年 隋
│
618年 唐
>>651
残念だけど奈良盆地は孤立していたんだわ
包囲される奈良盆地の図
この図の伝阿曇居住地(水色の丸印)を見てごらん
北部九州の海人によって畿内は完全包囲されていたんだよ
独立を最後まで保ったのは山に囲まれた奈良盆地だけで、盆地の外の河内とかはもう北部九州に占領されていたわけ
だから製鉄遺構も盆地の外ばかりにしかない
つまり近畿の製鉄遺構は進出してきた北部九州勢のものだったってこと
中心地のはずの奈良に鉄製品が僅少なのはそのせい
実際、畿内の目と鼻の先の淡路島の製鉄遺構からは九州系のカエシの付いたヤスや九州製のヤリガンナが見つかっている >>653
そうやって妄想で確定論を放ち畿内説をディスる新手の九州説かい?w >>653
邪馬壹国は近畿だけど中央集権などないよ。
共立された卑弥呼に集権だな。
九州で生涯終え冢を作る。
後から古墳に移動だな。 >>634
ならアマテラスから問題
まあ元々、男だった説があるが。
平安までは少なくとも男の服
>>635
そもそも魏志倭人伝にヤマタイ国には桃がたくさんありました、などと書いてない
単に年代測定したら「お!近いじゃん」となっただけ
> 名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、
基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。
卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。
もともとヤマトモモソヒメの墓だって言われてたんだから、
モモが出てきて当たり前
それより魏からもらった鏡なり、中国製のものがゼロってなんだよ >>620
12日と書いてあったのを12月と見間違えて1年になったのではないかな。 俺も前から筑紫平野しかあり得ないと思ってた。昔の交通を知ってれば当たり前だよな。
>>649
倭人伝なんかはデタラメだって 大体国が違っててお互いに正確に言葉なんて通じていないだろ
全く信憑性が無いよ まして風習なんてよりなおさらにな そんなもん嘘書いててもバレないだろw
それより古墳が有るとかの形の有る物の方がエビデンスとしては遥かに確実だ
なにせ日巫女の墓だぜ! ウソではあんなにも大きな古墳をわざわざ作らんし作れんよ
デカイ墓なんだけど小物が眠ってますとかw絶対にありえん >>531
>稲作文化が入るのが遅れたイメージだが。
お前のイメージなどどうでもよい。
日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。 根拠:「庄・蔵本遺跡」、「南蔵本遺跡」
日本のイネは、日本固有種。
倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。 @阿波 >>535
>四国もけっこう顔料で豊かだったらしいぞ
けっこうだと? 「阿波」の専売特許を知らんのか、アンポンタンよ。 @阿波 >>468
ひみこさん、こんな感じの漫画お願いします >>659
わざわざ死体を運ぶなww
ヤバいぞ実際にやったら 冷蔵庫すら無い時代なんだからさ
そうなると余計に最初から奈良に居たことがよく分かるな >>657
九州の土器はないんだろう?
孤立?南下は開拓だよ。
東海、吉備、近江 土器がほとんど。 纏向で桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
土坑は建物の柱穴より深く、関連性は不明
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない >>655
TV見てねぇのかよw
見りゃ分かるわ 日巫女のお墓
まあ再放送するかもな >>558
>水銀朱や宗教学見ないといけないと言ってたんで
水銀朱や古神道といえば、「阿波」一択だろうがよ。 @阿波 >>568
>原材料も国産かい?
忌部の郷、高越山の高越銅山産だろう。 @阿波 >>671
熊野古道、近隣に三重の丹山や奈良の宇陀もあるね >>661
魯魚の誤りを乱用した挙句そんなつまらん結論を導くとはイミフすぎ
古田の南米説のほうがロマンがあってええわ >>578
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 倭国の集団が最初九州に上陸して、最終的に畿内に落ち着いたのは確実なんだよ
問題は邪馬台国はどの時点にあったのか?って話
>>591
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>1
九州土人の、妄想詭弁を唱え続けてて既成事実化しようとする腐った発想、いい加減にやめろよ >>677
3世紀だと九州だな
倭人が日本列島全体へ広がったのは5世紀以降だな。 >>657
>近畿の製鉄遺構は進出してきた北部九州勢のものだったってこと
アホか。 鉄器王国 倭国(阿波)の領分である淡路島がなんで九州ふぜいが関係するというのか。 あほらしい。 @阿波 >>680
九州から東へと広がったとは限らない
半島から近畿への渡来人入植は4世紀末から >>668
>東海、吉備、近江 土器がほとんど。
それ全部、「東阿波型土器」。 @阿波 >>653
おかしい
神功皇后の三韓征伐ではナガアガタ(福岡博多)の橿日宮(現・香椎宮)で
熊襲征伐より新羅を攻めろと神託が出た
仲哀天皇は海から新羅は見えぬから、
その後熊襲を攻めて橿日宮で死んだ
そのあと住吉神社の神託で対馬から船で出てる
住吉だと福岡、山口、大阪
大阪の住吉大社だとすると686年に創建されたことになる
日本書紀が出鱈目だとすると、卑弥呼に該当する人物が一人も出てこない
無理筋とおすな、禁忌人 >>674
>熊野古道、近隣に三重の丹山や奈良の宇陀もあるね
アホか。 そんなものと「若杉山辰砂採掘遺跡」をいっしょにすんな! @阿波 とにかくアフリカの北端エジプトでもメソポタミアでも中国文明でもあれだけの文明と文字があったのに
日本はついこないだまで文明といえるものが無かったんやから、1番の野人国家で土人国家よね
文明とは最低でも文字がないとならないからね、受け継がれないと人類文明が受け継がれない。
>>663
近畿説の人は追い詰められると俺達に都合よく書かれてない魏志倭人伝と古事記と日本書記は全てウソと逃げる
それはもう学問ではないのよ >>684
任那滅亡に伴う半島南部の倭地から入植だろうな >>688
>文明とは最低でも文字がないとならないからね
なんという偏見
文字を持たぬ文明なんてそれこそ沢山あるだろうに
それはそうと日本には文字有ったよ
そして記紀編纂前より歴史書は存在した >>688
そのいずれの文明も滅びてしまっておるのうw >>689
放射読みや陸路加える古田説みたいだな。
近畿説の一部だよ。
全部は否定していないよ。 九州の田舎なんて小さなムラしかなったのに邪馬台国のわけがない
>>691
紀元前後くらいから北部九州地域では文字が使われ始めてたみたいだから
記録や歴史書も存在したたんだろうが
記紀編纂時に焚書されてしまったみたいだな。 >>694
お前んちでは福岡と奈良だと福岡の方が田舎なのかw >>623
確か成人なのにかなり小さな人骨が出たんだったんだよね >>691
明治維新直後に政府は廃仏毀釈と称し神社にも押し入り書類を焼いたり持ち去ったりした
まあ何回か書かれていることだが
宮内庁は大分自動車道山田SAの建設のためにつぶされるはずだった長田大塚古墳を守った
同古墳の地主は自分のしがない柿畑が高く売れると喜んでいたのに宮内庁の横やりに呆然としたらしい
宮内庁は同古墳の正体を知っている
その手掛かりとなる資料、おそらく旧記か何かを秘蔵している >>689
近畿説の人は真実の追及じゃなくて
如何に畿内説に資料を合わせるかだからな。 >>700
古田みたいなもんが一部
近畿説にいるだけだよ。 >>662
筑紫平野は怪しいな
鎌倉時代までは干拓されてなくて、海の底だ
しかも筑後川のせいで氾濫が多い
縄文海進と合わせても地形的に無理がある >>696
続日本紀には有力豪族に墓碑等を提出させたこと
日本後紀には皇族と海外の王族との血縁を記した文書を没収したことが記されている
ひょっとしたら宮内庁や文化庁あたりがいまだに持っているかもね >>650
続きだが、
卑弥呼の名前の頭の「卑」は卑弥呼が糞尿と関係が
あったからかも。 >>699
宮内庁だか天皇家のどこかかは知らないけど、誰も見た事の無い未解読の文献が多数保存されているらしい
だから宮内庁による判断は重視した方がいい
少なくとも考古学者よりは遥かに頭いい人たちによる判断だから >>688
んならフェニキアが発明したアルファベットを借りてる、
ローマ含めて西洋の文明は全滅だがな
ギリシャもないぞ
おまえバカだろ
>>699
廃仏毀釈なのにどーして神社に攻め込むんですかー?
寺じゃないんですかー?
それからたった3年でやめちゃったのにどうやって全日本の20万から30万の末社までつぶしたんですかー? >>702
それ間違いだって★1で既出
37 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/29(土) 23:34:21.86 ID:zRdr1JR10
>>31
それ言うと「当時は筑紫平野の大半は海の底だったのだーっ」て言い出すキチガイが湧くぞ
実際には後世の干拓地を除けばそう大差なかったわけだが
47 :名無しさん@1周年 :2020/03/11(水) 23:41:23.04 ID:5zQbFqEe0
>>46
いや、筑後側の比較的海岸に近い場所にも弥生遺跡があるからそんなに海は入り込んでないよ
この図で一番海よりの扇ノ内遺跡も弥生時代
柳川市公式ウェブサイト / 柳川の遺跡
https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kyoiku/rekishibunka/rekishi/iseki.html
>海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により
>弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。
>徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。
>調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。
>また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。
>約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。
>蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。
>先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。
>これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、
>扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。 >>703
んなことより文書管理してた曽我氏が滅ぼされたことで、
都の文書が全滅したことを示したらどうよ?
つっても残存する風土記はあるけどな
>>691
記紀編纂より前の文書なんてありまへん
稗田阿礼の記憶頼りでおま >>708
廃仏毀釈といいつつ神社にも押し入った
だから特に徹底された茨城や鹿児島には国宝が極端に少ない
ここにいる者は大体知っている基本事項
無知にもほどがある >>686
なんでその時代に ロクに地図は無いし 正確な方角は分からない 距離だってまともに測れない
そもそも他国と言葉は違うし シナ人が日本全土を見て回って書いたわけでなしの又聞きなのに
それでどうしてその文献の内容が完璧で正確だと言いきれるんだ? せいぜい参考にするくらいだろ
そうなると物証のほうが遥かに確実だわ 3世紀ですでに東北まで文化や技術が伝播していて同等な
古墳までが有るしそれを見ても九州から東北まで広く交流があった確実な証拠になる
さらに地方土器の総コレクションだって多くと交流してた証拠だ そうなると文献自体が怪しすぎるわ
つまり日巫女は奈良において思ったよりも広範囲を支配してたわけさ ちょうど真ん中の所だし普通はそう
はじっこで支配なんてしないよw >>711
稗田阿礼の記憶って焚書した言い訳だよ。 黒髪ロングで切れ長の吊り目で、中分けおでこヘアスタイルの古代日本の卑弥呼様である オマケに色白巨乳ですね ハアハアハアハア(*´Д`)
>>713
日本の古墳の年代決定がいい加減だな
ちゃんと科学的調べて決めてもらいたい。 近畿のもんは九州のこと何も知らないから近畿1択と妄信してる
九州もんも近畿のこと何も知らないから九州1択と確信してる
歴史なんてこんなもん
>>678
画文帯神獣鏡は被葬者の胸の上にあったりして格上な気がする >>710
高台なら遺跡は残るよ
例えばこんなのも。
www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/odekakemap/bunkazai-map/shishitei/si9.html
なにせ松戸は縄文海進のとき高台にあったから山の中に貝塚がある
もちろんグンマーにも赤城山山麓に貝塚がある
www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2015121800086/files/h21renkeiten1.pdf
当然、北九州なら東名遺跡、佐賀平野になる
>本遺跡は、佐賀平野の中部[1]、現代における佐賀市街の北に位置する。
現在の海岸線よりも12kmほど内陸にあるが、
縄文海進極大の直前であった約7,000年前(較正年代約8,000年前)当時の海岸線は遺跡付近にあり、
近くには大きな河川があって遺跡はその左岸と推定される[1]。
遺跡は現在の標高 T.P.3mから T.P.-3mにかけての低湿地にあった[1]。
無理だな
www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf 実際、邪馬台国時代の日本を見たら、しょぼくてがっかりするんだろうなwww
よく、何とか神獣鏡ってのが博物館とかに置いてあるやん?
でも、あれって鏡なわけだから、裏側っていうの?反対側はツルツルしてて顔がうつるわけじゃん
その顔がうつるほうの面を見たことないんだけど、私が博物館とかで適当に流し見しちゃってるからなのかな
鏡の面もちゃんと見れるもんなの?
>>711
その古事記に、以前の歴史書の誤りを正し、歴史書を編纂しなおすと書かれてるのよ >>720
海退期の弥生時代の話をしてるのに海進期の縄文時代の話でごまかそうとするとか詐欺師の手口だな >>712
んじゃ聞くけど、神田明神は明神さまって言われるよね?
なんで? 鏡の少ない地域に鏡を使った宗教システムを入れたら、宗教的権威になれる
九州は鏡が大量に出るから、鏡の存在の優位性は意外と低かったかも
大切なのは量と大きさだったりして
>>724
といいつつ、実はその古事記も初版からだいぶ改竄されているらしいぞ
平安時代にはウガヤが14代にわたって記述されていたらしいぞw >>723
副葬用として作られた映らない鏡がほとんど >>714
んじゃ風土記もどうにもなんねえな
日本国ができたのは1946年だからそこからの歴史だけ覚えとけ また韓国人の嘘に右往左往してんの?
邪馬台国はヤマト国だぞwwww
>>724
編纂し直すと書いてあるのは日本書紀だろ
古事記は帝紀と先代旧事本紀だからな
風土記集めたのはそのあと >>727
しかし魏志に限らず倭人伝には葬祭の様子が記載されているのだが、棺に鏡を添えるという記述は全く無い
卑弥呼が貰った鏡は副葬用ではなく、生活用具としての鏡(映る鏡)だったと考えられる 卑弥呼が中国から貰ってきたものを各地の豪族におすそ分けしてたのよ
>>68
いつもの反論としては3世紀に平野部に国は作れない
おわり 焚書されたとは言うけど
寺や豪族に残されたと思われる文書で
九州年号らしきものがたくさん書かれているんだな。
大和朝廷が制定していない年号で
各地の古文書から2000箇所の
年号が発見されていて
実は日本書紀にもあったりする。
古書からの引用のときに
消し忘れたんだろうね。
有名な白鳳時代の白鵬も
大和朝廷年号にはなく
九州年号と言われている。
だからマシン英雄伝にワンピース掛けたら事情の説がでてくるで
>>739
海の底だから。
科学的に明らか
ameblo.jp/blob-shima-jiiya/entry-11996290635.html >>31
北九州は卑奴母離(ヒナモリ)=夷守(辺境警備隊)です 天皇制続いてるから機密ってだけで、根拠のない強さでなんか戦後は持ってるkらヤクザ体制のままなんじゃないあk
>>732
いやいや古事記もそう書いてる
諸々の家に伝わる歴史書は偽りが多く事実ではない、故に正しく定め後の世に伝えよう云々 三世紀だとしてこう
現在より海抜は20m高い
flood.firetree.net/?ll=33.3902,130.8444&z=8&m=20
北九州説をとるとしても、
「平野部に邪馬臺国ガー」は無理
>>738
自称学者研究者どもは「私年号」などという拙い用語を作り出して無視しようとしているけどね
古代の自称学者研究者ほど学問から遠ざかり尊敬に値しない専門家というのも珍しい
こやつらは存在理由が不明ですらある(大阪歴博等、一部を除く) >>733
魏志倭人伝の頃の鏡は、そうだったんじゃないの?
中国でも鏡は鏡として使用がメイン
でも当時、今は想像もできないけど、夜は暗く闇は深く、死の世界はかなり身近
光り輝く太陽のかけらのような鏡を、死の世界に持って行けたら、それは当時の人のものすごい魂の救いだったのでは
そこに太陽信仰につながる、日本の原初的宗教のありようが見えるような見えないようなw
日本に来て鏡は新しいアイテムとして受け入れられ、性格づけられ広まり、それが倭の国家群の、まとまりたいという流れとマッチしたのかなあ
なんて考える
素人ですw >>1
この工作員はずっと九州説とやらの捏造記事でスレを立てまくっているだろ
九州朝鮮人を日本から排除しないといけない
新幹線を止めろ
ワクチンを配布するな
こいつらの捏造の歴史は朝鮮人とそっくり >>741
おじいちゃんそれはとっくに>>710で論破されてるでしょ
扇ノ内遺跡のある柳川市西蒲池は川沿いで高台なんかじゃないよ >>744
これだろ?
www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/basic_knowledge/index.html
> 『古事記』序文に編纂目的が記されています。
それによると、“諸家に伝わる記録や神話・伝承・歌謡に間違いが多く、虚偽も加わっている。
天武天皇はこれら「邦家の経緯」(国家行政の根本組織)、「王化の鴻基」(天皇徳化の基本)である『帝紀』(皇室の記録)と『旧辞』(神話・伝承・歌謡)を考究して、
正しいことを後世に伝えるよう命じた。
これをもって編纂事業が始まった”とあります。
日本書紀だとこう
> 編纂開始については、自ら本書中に記されています。
『日本書紀』天武天皇10年(681)3月17日条に、
天武天皇が川嶋皇子・忍壁皇子ら12人に『帝紀』と上古の諸事(旧辞と同義か)を
記定(異説を検討して史実を確定して記録する)するように命じたことに始まるとあります。
違いは日本書紀は複数文献比較してること >>745
そうやってすぐ嘘をつくから畿内説は誤りなんだってみんなにバレちゃうんだよ >>745
関西も河内湖や奈良湖で土地が無いな
邪馬台国は単一の国じゃなくて国の連合国家だな
韓での馬韓、弁韓、辰韓の様なものだな
北部九州地域全域が邪馬台国だな。 >>1
まあそうなんじゃない。
で畿内のが大和政権の母体 >>753
九州全体が、は怪しいが、
北部の連合王国ならありえるかもな
南は隼人族にあげたと日本書紀に書いてある
少なくとも近畿説は縄文海進から考えて無理がありすぎる
可能なものとして奈良大和や熊野三輪山としても、
標高はかなり高い
この子のダメなのは低地湿地帯に都を作ってしまってるとこ
>>68
ハザードマップ見てみればわかることなのに
そもそも稲作まだ始まってないのに低地に住む意味なし
鹿島と香取見ても思いっきり山だから >>742
女王の住む伊都国には卑奴母離はいないなw >>1
統一はしていない
大陸と仲が良かっただけ
数十のクニの一つで、強くもない 近畿に旅行に行っては行けない
金を落とすな!
嘘つき近畿パーが増殖するぞ!
>>757
ハザードマップ云々は君の妄想でしかない
>>710のとおり現在の海岸線にほど近い場所にも弥生遺跡が存在し
今より大きく海抜が高かったなどという事実は存在しない >>747
卑弥呼時代だと鏡はもう珍しく無い時代だよ
銅鏡の国産が始まってから何百年も経ってるんだから
参考:福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元前2世紀ごろ
(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。
これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。
専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。2015/05/27 >>756
新羅だとすると新羅郡に集めちゃってんだよね
新羅神社が必ずそこにある
武蔵国新座郡(にいくら)だろうな >>753
奈良湖って未だに証拠の出てこない空想の産物よ? 巫女同士の繋がりと弟の諜報活動のおかげ
なかなか顔を見せなかったとの事だから相当な不細工だと思ってる
朝鮮南部にも、日本にしかなかったはずの前方後円墳があって
「ウリらが起源ニダダニダニダ!」ってウッキウキで調査したら
「埋葬されていたのは日本人だった」ってことが発覚し
その古墳を破壊して埋めるというヘイトクライムを行った下朝鮮
>>758
>周旋五千里
陳寿は倭人の最後をこう締めてる
古代中国の「周」に掛けてる
粋な筆法 >>748
↑
この工作員はずっと畿内説とやらの捏造記事でスレを立てまくっているだろ
近畿朝鮮人を日本から排除しないといけない
新幹線を止めろ
ワクチンを配布するな
こいつらの捏造の歴史は朝鮮人とそっくり 弥生時代の遺跡として極めて有名な板付遺跡ですら、
「標高12m」必要だしな
どう考えても筑後川氾濫原に家屋はない
bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/430
福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。
御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。
遺跡は弥生時代が主であるが、
それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳〜中世の遺跡もある複合遺跡である。
台地上には幅2〜4m、深さ約2〜3m、断面X字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある。
環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしている。
また、土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、
稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに日本で最も早く稲作農耕が開始された。
www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/remains_map.html
i.imgur.com/B13DvOT.jpg
渡来人とかトライガンとかよく言うが
「当時の朝鮮南部に住んでいたのはほぼ日本人」
今の朝鮮人の祖先はもっと北にいた
だから新羅だのなんだの、あまり気にすることはない
今の朝鮮人の祖先が来たわけじゃねえから
史書に登場する倭人は中国の呉・越の末裔だと書いてある
同じ倭人でも一旦半島を経由してから遅れてやってきたのが渡来人であり、ヤマト王権と深い関りがあると見られる
参考:ハプログループ
い以(又近移)
ろ羅
は法(平声又近排)
に宜
ほ波(又近婆)←🤔?
へ別(平声又近奚近靴)
と多(又近駄)
宗教って様々なグッズを使ったパフォーマンスが大事だよね
密教なんてそんな感じ
ありがたく感じちゃうw
>>763
そうかwww
でもそこに何かしら付け加えると、新しく流行作れるような気がする >>737
>阿波風土記って何?
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみ。
「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。 @阿波 >>29
わざわざカタカナ表記ってことはそっちで盛り上げたかったんだろうな >>771
倭人と呼ぶべきで、
北九州から朝鮮半島南部まで同じミンジョク
だから白村江で筑紫の国の乱を起こして抵抗した
まあそんで、天皇の血縁(日本書紀 神功皇后)の新羅に全土統一されたんだから、
日本人が朝鮮統一したんだよ
んで百済王族が桓武天皇産んだから、日韓併合は旧領回復したわけ
天皇が朝鮮人の末裔じゃなかったら日韓併合は非合理ということになる
これはドイツ帝国がオーストリア併合したのと同じ理屈なので他国に責められることではない
やったね朝鮮人!日韓統一できたよ! >>770
博多湾岸には海沿いの低所にも西新町遺跡や藤崎遺跡といった弥生遺跡が存在している
君がどう妄想しようと考古学はそれを否定している
当時の海抜が現在より高かったなんて根拠は何も無い
後漢書「奴国は倭国の最南端にある」
三国志「奴国は『北九州』と『女王国の最南端』の2つにあり、
最南端の方のさらに南に狗奴国がある」
隋書「倭国の土地は東西に広い、ヤマトが都だが、
これは三国志の邪馬台国と同じ」
後漢書・三国志は「倭国を南北に広い」と考えていたぽいが
隋書は「倭国は東西に広い」と考えている
後漢書・三国志の中国人は九州までしか行かなかったが
隋書はちゃんと近畿まで行ったから
そういう認識になったからだと思う
三国志・隋書の間には300年くらい年代差があるが
その間に中国の方角測量の精度が向上したことはないぽい
三国志時代の中国人も畿内に行ったら
「倭国は東西に広い」という認識を持つはずだが
そうなっていないから、畿内に行ってないんだろう
>>768
その意図なのだとしたら感動だな
井真成の墓碑銘もそうだが古代中国の文才というのはすさまじい
野馬台詩
東海姫氏國(東海の姫氏の国)⇒ 姫氏=呉
…
葛後干戈動(葛後干戈動き)
猿犬稱英雄(猿犬英雄を称す)⇒ 猿=袁氏=陳 犬=狗奴国=熊襲=熊楚
…
星流飛野外(星流れて野外に飛び)
鐘鼓喧國中(鐘鼓国中に喧し)
… アジア文明の中心は常に中国。
中国に近い所から文化文明は花開く。
だから、九州に日本で最も早く文化文明が花開いたのは必然。
「阿波国風土記」
阿波国風土記写本は明治5年まで徳島藩に保管されていたが、徳島藩は明治5年に廃藩になり、その後は行方知れずになった。
筑波大学附属図書館に「阿波国風土記」全五冊がある。明治になって徳島藩では阿波国風土記編輯御用掛が組織され、
阿波国の地誌の編纂を始めたが、明治5年の廃藩により解散した。
萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。
依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」
奈佐の場所は徳島県海部郡海部町鞆浦の那佐湾か。播磨国風土記に、
17代履中天皇が阿波国の和那散(わなさ)へ行った時にシジミを食べたとある。 @阿波
>>42
狗邪韓国、對海國、一大國、末盧國、伊都国で韓国から九州に渡ったのははっきりしてるのに
また韓国に戻るとかアホか 島根県松江市宍道町上来待和名佐に和奈佐神社(祭神は阿波枳閇和奈佐比古命、あわきへわなさひこのみこと)
が鎮座しているが、海部氏関連で出雲は阿波と繋がっているようだ。 @阿波
萬葉集註釈 巻第七 「阿波国風土記に曰はく、勝間井の冷水(しみず)。此より出づ。
勝間井と名づくる故は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、
乃ち(すなはち)、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れまたひしに依りて、勝間と云ふ。
粟人は櫛笥(櫛箱)をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。」
今でも徳島市国府町観音寺に「勝間の井」があり、義経伝説では「舌洗いの池」と云われる。 @阿波
萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、
その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。」
これにより阿波国が大和国の本(もと)の国だと記している。 @阿波
※各地の風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ。 @阿波
アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申
天山 (釋日本紀 卷七)
伊予の國の風土記に曰はく、
伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。 @阿波
この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになる。
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要がある。
もちろん「倭」とは、「倭大國魂・倭大國敷神社」が鎮座する阿波である。 @阿波
まあどう見ても卑弥呼は九州のシャーマンよね
邪馬台国が畿内勢力に滅ばされる過程で空白の4世紀になるわけだ
>>792
>なんでこんな
>アバ国なの…語呂悪っ
反日には、語呂が悪いようだな。 わははははは @阿波 狗奴国連合の男王が宮崎の神武
ヤマタノオロチ=北部九州の邪馬台国連合
つまり邪馬台国は狗奴国に敗北したのです
というのも有りだな
箸墓古墳を絶対に調べさせてくれない
宮内庁が最も悪いのだと思う。
>>677
まずは奴国だろう。
その後奴国を拠点に西日本に広がって行ったんだろうね。 >>800
>>789参照
その地図で水に沈んでいるあたりに
弥生遺跡がありますぞ
5m高いも間違いやろ >>765
奈良湖は存在しなくても奈良盆地の大部分が低湿地で人の住めない場所だったことは間違いないからな。 結局、なにが出土したら、そこを邪馬台国だと断定できるんだ?
親魏倭王の金印が出土したら認める?
>>800
伊都と志摩で現在の糸島だな
伊都と志摩の間は海が入り込み細く括れていた
伊都国は糸島市の南東部だな。 >>804
奈良盆地の最も低い所が田原本〜桜井
今でもわりと簡単に水没する土地らしい
なお大阪との標高差が50mぐらいあるから河内から船で大和川を遡ったというのもおかしな話 前スレの優勝は地名のやつで
このスレの優勝は>>768 >>617
宇佐神宮の改修の時に石棺2個出て来て埋葬品の刀を
調査の誰かが持って行ったのを宮司が見てた
誰が持って行ったのかは解るって誰だったんだろうね 地名は地形に依存するケースが多いので各地に同じ地名が存在するのは当たり前だって
古代っつーか明治維新まで統一国家じゃなかったのでは?
最近、前方後円墳は水利施設だったって話もあるみたいだけど、なるほどなぁと思った。
大和は湖が消滅しつつあったかた水利施設は切実な問題だったのだろう。
その後大王達は水を求めて都を移しまくったのかな
九州も畿内もないんだわ
壱岐までそれなりに正しいのに
その先がワチャクチャ
何故か、遠方で起きた戦乱について言及があり、
それが収まったと言うなら、続きがあって良さそうなのに尻切れ
魏志倭人伝は魏の都合で
実情に尾ひれ盛りまくった
与太話
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>803
つうか、
月形に湾で山東省だけ島
じゃね? >>811
単なるコソ泥ではないんだろうなあ…
古代の権力争いって、ある程度現在進行形で続いている気がするが
とくに宇佐神宮に関してはもう敷地とか構造とか歴史的経緯とか作法とか
いろいろマガマガしくてとんでもないことになってるんじゃなかろうか ★★★猿にはわからない水行行程のなぞ★★★
文献を解読せず調査を勝手に進めてしまうのは学問にあらず公金横領事件です
行程の謎は:陳寿の編集ミスまたは勘違い
例)奴国が2回紹介されている
■中国における既知の情報
郡
↓約7000里
狗邪韓国(半島南部)
↓
対馬海峡 約3000里
↓
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
↓100里
不弥国(馬韓の情報が混入?)
■魏に朝貢した倭人による行程説明(倭人は里を知らず日数で表現)
帯方郡(記載漏れ)
↓船で南に二十日
投馬国(狗邪韓国含む半島南部)
↓船で南で十日
邪馬台国(北部九州)に上陸後伊都国で入国許可を待つ
↓
実際に卑弥呼と面会するまでに一月を要する
このことから、邪馬台国は福岡〜熊本のどこかに在ったと考えられる >>795
まだ宮崎というやつがいるとは
コピペ貼っとくから読んでね
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 淡水湖ではなく、塩湖だったとか、
海水面上昇してたと思われる跡
大陸側にもあるぞ?
>>804
証拠が出てこないんだよ。
低湿地だったら、泥炭層が見つかる筈なのに無いんだからしょうがない。
そもそも奈良湖説の発端って知ってる?
奈良盆地の東側に春日山と三輪山って山があるんだけど、その山麓沿いに、山辺の道という古道があるから奈良湖なんだぜ?
どれだけ根拠の薄い説なんだとw >>816
それ日本史板でとっくに論破されてるやつ
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 吉野ヶ里や福岡の平塚川添遺跡も湿地帯だよね。
馬や牛がいなかった古代の米作りは自然の地形を利用したんだろうね。
しかしヤマトの大王は山辺の道周辺に巨大な水利施設を作った
>>668
アホなの?
淡路島まで九州製のヤリガンナがあるのに奈良盆地内には土器含め九州のものがほぼ無いんだぜ
沿岸部は九州の傘下に入っていたけど奈良盆地だけ抵抗していた何よりの証拠じゃないか
>>657の図の通り、畿内は九州勢力に包囲されていたんだよ
そして抵抗虚しく屈服したのが3世紀末か4世紀初め頃の神武東征 >>819
楽浪郡や帯方郡の場所ってどこなんだろう >>795
ウエツフミをガン無視するから宮崎=邪馬台国みたいなすっとぼけが出てくる
宮崎大分周辺はウガヤ王朝でしょ
ウガヤにまつわる神社や遺跡がゴロゴロあるのにウエツフミを無視するのはいかがなものかね
稙田古墳が完全に破壊されたのは如何なる意図があったのだろうか >>807
海面上昇はまあGoogle Earthとかでも出来るんだけど
海面下降をシミュレーション出来るサイトが無いんだよね
現在海の底の地形を再現するのは難しいんだろうけど 三輪 朝倉のあたり
土壌が肥え水運もあり地脈もいい
香山、岩屋・岩戸 山の位置と名前が不思議なんだよ
荷物の多い使節は水行をお勧めするわ
>>819
>投馬国(狗邪韓国含む半島南部)
↓船で南で十日
>邪馬台国(北部九州)に上陸後伊都国で入国許可を待つ
ここ不思議だね
近いのに 太宰府の水城はもともと湖の水を堰き止める堤防だったって聞いたことあるな。
今は大野城を守るためのものになっているけど
>>835
ここまで海面を上げると判りやすい
大宰府の辺りが如何に重要な土地かも一目瞭然 筑後平野を、筑前・筑後・肥前の三ヶ国、筑後川流域にすると豊前を加えて四ヶ国に
分断したのは、相当統治に手を焼いた地域なんだろうな。
>>538
衆夷だから、沢山・多種の蛮族集団だろ。それも66も! 邪馬台国のスレ
まあ邪馬台国論争ねえ、畿内説と九州説、いろいろあるけど
ウリは実はそれほど関心がなかったりするんだけどw
(余談だが一部ねらーが熱狂している鎌倉幕府成立年論争も
実はほとんど関心なかったりするw)
やっぱりねえ、古代日本社会の九州の繁栄、
それはとりもなおさず圧倒的先進国である兄の国、
偉大なる大韓と近接していることが理由だが
これは重く考えるべきなんじゃないすか?
あとまあいつもいうけど古事記の天孫降臨が九州宮崎で
「ここは韓国に近いいい土地ぢゃ」と日本の神々が言うこと、
その高千穂連山の最高峰が「韓国岳」であること
これはね、重く受け止めるべきじゃないですか?
ああ、ホルホル<*`∀´*>www
>>834
半島から九州到着まで10日以上かけてるよ >>836
これなら南に水行出来そうわら
縄文海進はこれぐらいあったのかな? 畿内説派は狗奴国を関東の群馬県(毛の国)と決めたようだが邪馬台国の東
1千余里海を渡れば亦倭種の国があるとの記載はどう解釈するのか
倭種の国とはどこなのか具体的に説明しろ
今の朝鮮人はもっと北にいたんだよ。
ワイ族とか扶余族だから今の朝鮮人は鮮卑族
>>832
ソウルと平壌の間くらい?
北は楽浪郡帯方郡関連の遺跡や、高句麗、扶余系の遺跡もありそうだから、早く北を発掘したいw
案外手つかずかもしれないし 旧政権の本拠地に新首都を置いて反乱を防止するってのは
江戸→明治でも見られた事であるし
奈良は支配地ではなく最後まで残った土地だったのかねえ
>>841
壱岐対馬を攻略し、北九州での戦控えた軍船と、交易外交を目的とした船では、到達日数に違いがあるのだろうか >>829
北谷町遺跡(伊礼原遺跡)の
西に古代北谷町遺跡あるだろ?
海の中 >>843
秦〜唐の距離の単位での里は大体450〜500メートル >>849
有った。
無ければ、日本神話は今の形にならなかった。 魏の1里435mを使用した場合は
パプアニューギニアかマリアナ諸島が
ゴール地点となる。
東に曲げた場合はベーリング海峡あたり。
記紀ですら書かれてることが作為的で要注意なのに
偽書を持ち出してくるやつは何がしたいんだ
>>849
そこも論点として挙げられる事はあるね
邪馬台国の出てくるあの書物はそもそも本当の事を書いてるのか、創作ではないのかと
ただ、あの書物には何も邪馬台国の事しか書かれてない訳じゃない
むしろ長い長ーい中の一部に邪馬台国について触れられてるだけ
そして邪馬台国以外の部分に記されてた内容に関しては、実際に記されている通りの歴史的遺物が発見されたりと事実であった事が確定しているよ
つまり少なくとも事実を記してあることが確定している書物なわけで
そんな中「なんかふと思いついたから邪馬台国についてのページだけは創作してみました」は現実的に可能性が低いだろうと言われてる
ただ、可能性が低いだろうというだけで「邪馬台国に関してだけは創作だった」説も無いわけじゃないよ >>861
日本の開明度の格段に上がった、隋や唐の時分の同時代の日本に関しての記述だって結構おかしいし、
宋の皇帝だって日本の王朝が隋・唐に使節を派遣していたジフンが同一の系が続いていると知らなかったり
していたろ。 >>857
日本の神話と邪馬台国になんの関係もないよ。 >>860
記紀も古史古伝もひとしく偽書
それぞれの都合の良いように編纂されるのだから当たり前の話
記紀は古史古伝に比べればまだマシ、というウブなザマでは古代史の探求などできようもない >>865
あるよ
カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
九州説で100%間違いない。
帯方郡(平壌の南)から邪馬台国までは、1万2000里とはっきりと書いてある。
帯方郡→ 狗邪韓国(7000里)これで全距離の58%
狗邪韓国→対馬(1000里)
対馬→壱岐(1000里)ここまでで全距離の75%
壱岐→末盧国(1000里)九州本土上陸
末盧国→伊都国(500里)
伊都国→奴国(100里)
奴国→不弥国(100里)
ここまでは魏志倭人伝にはっきりと距離が書かれていて、1万700里だ。
不弥国までは九州であるということは、畿内説派も認めている。
残りは、たった1300里。
対馬→壱岐が1000里であることを考えると、1300里は、約111キロ。
だが、帯方郡の役所から港までの距離が実際には、860里あったとされるので、実際には、残りたった440里しかない。
440里だと、約38キロ。
つまり、残りたった38キロ、多めに見ても111キロしかないのに、九州にある不弥国から畿内にたどり着けるはずがない。
よって、九州説で確定である。
>>868
水行10日+水行20日+陸行一月で12000里になるそうだ ムーですらネタをネタとして楽しむ雑誌だろうに
それ以下なこと言ってるやつはネタなのかマジなのか
>>872
それは読み方が間違っている。
南に水行20日に投馬国に着くというのは、帯方郡から南に20日水行すれば投馬国に着くという意味である。
南に水行10日陸行1月は、帯方郡から邪馬台国まてま水行10日陸行1月という意味。
1300里、たった111キロに60日もかかるわけがない。 >>867
邪馬台国が山門だと?
どこからそんな話になるのさ?
邪馬台国は北九州の村々の連合で、その女首領が卑弥呼。
ちょうど仲哀天皇が熊襲討伐してた頃に、筑紫国の山門縣の土蜘蛛の女首領に田油津媛と言う呪術で人を惑わす人物がいた。
仲哀天皇の死後、神功皇后に討たれてる。
田油津媛の兄の夏羽は田油津媛が討たれて逃走した。
これがかろうじて記録に残っている、邪馬台国、卑弥呼のエピソード
神武天皇とは全然関係ない。 >>873
たとえば記紀のようなムー未満のファンタジーをマシだと思ってる連中ね
不比等の罠にコローっとひっかかる哀れな連中
1300年後もなお自分の仕掛けた罠にひっかかり続ける奴らを見たら不比等はどう思うのだろう 九州説とか無理がありすぎんだろw
邪馬台国のような大国は畿内でないと維持できないわな
九州みたいな田舎じゃ無理
俺的には多元王朝説が一番しっくりくるかなぁ
まぁそっくりそのまま全部って訳じゃないけど
ある程度の欠陥を認めたように見せつけつつ結局は偽書記紀信奉
旧態依然の化石のような脳みそ
>>878
バカ丸出しだなお前は(笑)
邪馬台国は福岡県みやま市にあったことはすでに確定している >>876
不比等が捏造したのは何故?
陰謀論、陰謀史観は、思考停止の愚者の論。
陰謀だと言ってしまえば何でも成立する超便利な「言い逃れ」 伊都国だけ華やか漢字なのはなぜ?
他は卑しい漢字を当てているのに。
>>882
感情を先走らせる奴は歴史を探求する資質に欠けると思うぞ
すこし落ち着けw 隋だけが知ってる
阿輩雞弥阿毎多利思比孤
やっぱりアパーイ国の人?w
🐴🐴💨
魏志倭人伝には「卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余歩。」とある。
「冢」は必ずしも盛り土の墓を意味しない。た単なる平坦な墓でもあり得る。
だから、仁徳天皇陵のような大規模古墳が無くても九州説を否定する理由にはならない。
>>847
それは、実力で揺るぎない政治の中心になった都市の場合だ。
江戸/東京や、インドのデリー、中国の北京のような。
邪馬台は、漢への朝貢を握り列島に君臨(海幸・山幸神話)。
決して列島内の実力勝負で覇権を握った訳では無い。
朝貢秩序による安定の中、列島経済地図も変化。倭國の地理的
中心の近畿が力を付け、漢衰退に合わせ、実力勝負で列島の覇権
を争った。倭国大乱(2C末)。
魏志倭人伝を見ると、大乱で謎の勢力「大倭」が勝利したと解る。
邪馬台の博多港を握り、邪馬台を魏に朝貢させた。(奈良だよ!)
実力で倭国の大部分を軍門に下した自身から「大倭」と号した。
その後4Cに、この大倭が邪馬台を滅ぼし、その権威を継いで、
大倭改め大和と書いて「やまと(邪馬台)」と読ませた。 記紀は多分にファンタジーだろうね
ただ、そういうファンタジーを書き記そうとした
当時の権力者達が何を考えていたのか
これを考えればそれ以前の歴史も察せるんじゃないかな
天皇という大河は数多の中小河川が合流して生まれたと言えるだろうし
権力集約の過程を解説する事で正統性を主張しているのは間違いないでしょ
それが最終的な勝利者にとって都合の良いファンタジーだとしても
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/21444
天皇は、いつ、どのような背景で成立したのか。
現在では、7世紀後半、律令国家の形成期に位置づけられる天武天皇と、その皇后、持統天皇の時代に、
従来の大王号から天皇号への転換がなされたとする説が有力である。 邪馬台を最初から「ヤマト」と訳しておけば良かった定期
>>884
狗奴国だけは別格なんだよなあ
「イヌ野郎の国」
単なる当て字ではない >>885
と、根拠が説明できないので話を逸しにかかります。
記紀は偽書だ、捏造だと言うのは簡単。
その根拠を辻褄を合わせて説明できたやつは見たことがない。 魏志倭人伝と聞く度に当時の支那文化の凄まじさに驚嘆する。
文字があり文章を作り、章立てた書物を編纂していたという。
漫画やアニメゲームの影響なのか邪馬台国ってものに過大なイメージを持たれすぎやねん
そもそもの大前提として「超とんでもなくすんげぇ国」って訳じゃないぞ邪馬台国は
記されている規模的にも九州くらいがちょうどいいと思うが
>>893
九州説を唱える学者の狂った見解を否定した上で
九州でおk >>894
それは一概には言えないんだな、向こうは最初からこっちを蛮族と蛮族の女王としか見てないからね >>892
というやつに限って古田派の活動にはアーアー聞こえなーいした上で罵倒して終わる
あいつらきっちり細かく検証しまくってると思うけどね
まあ偽書記紀信奉者に何言っても無駄か
こんなこと言うと御井の番犬が糞食って死ねば治るよとか噛みついてくるのだけど >>893
人それぞれ持論がバラバラだから到底無理
やたら記紀にこだわる奴とかお話にならない 魏としては でっかいくにが俺の庇護下にいるぞっていうはったり
邪馬台国にとっては 魏がうちのバックだぞっていうはったり
邪馬台国には魏というバックが必要だったっていうことで
バックが必要な小ささだっていえrんだわな。周り中敵だったらしいし、
中央の強国ではないだろう。
>>894
その魏もとうの昔に滅んでしまったね
高度な文字文化だけでは国を保てない >>820
詳しそうなので下を聞いてみたい
天の岩戸神社の成り立ちについて
夜神楽の成立について
もしお手隙でしたらお聞かせ願えませんか? >>826
>淡路島まで九州製のヤリガンナがあるのに
アホなの?
淡路島は鉄器王国「阿波」の領分なのに。 @阿波 >>780
てか九州から朝鮮半島経由でしかルートなかったので。
特に漢
楽浪郡があったから、北九州人に聞き取りしてんだろう
漢の奴の倭の国王印が出たのも志賀島だし
あとは把握できてるのは陸路九州島ってことになる
吉備が知られるのは出雲とソシモリの話の頃だろうが、
もう馬韓、辰漢、弁漢ではなく新羅のソシモリとなってる
>>786
そのあとまた温暖化してるから、
三世紀にはやっぱ海の底 >>895
邪馬台の規模は九州北部だけ。だが漢への朝貢を握り
加えて鉄輸入を独占。これで列島の覇権国と成った。
全国を平定した訳じゃない。あくまで覇権国だ。
邪馬台に逆らったら、漢に弓引いたことにされそうで
そうなると後が怖い。誰も正面きって逆らわない。
それが当時の列島の覇権国。 >>875
お前だバーカ
邪馬台国はヤマトで山門のこと
邪馬台国発祥の地
みんな勘違いしてるのが魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬台国ではなくヤマイ国な
ヤマイの地名は随分古い地名である事が日本書紀の記述あり
日本書紀に「この地方に女神あり、その名を八女津姫(ヤマツヒメ)といい、常に山中にあり」
すなわち今の八女市には継体天皇に反乱を起こしたとされる筑紫の君磐井の岩戸山古墳がある場所がヤマイ国
>>820
薩摩なら呉に出入りしていた倭人かも知らんな >>898
根拠を説明できないから、必死になって話を逸らすの?
是非一度、記紀が不比等による捏造である証明をして欲しい。
今まで一寸千里の法の否定とか、それなりに古田史学に対する否定は見たことがあるけど、記紀が不比等による捏造ってのは
誰も説明してくれた人はいない。
上の方の奈良湖説とかもそうだけど、証明できないことを、さも証明済みのように錯覚してるんよね。
困ったら説明ではなく、バカバカ言うしかなくなる程度のやつしかいないのよな。 機内だと、なぜ西に向かったのか?東はそうでもないねの説明付かないが、
九州だと西は漢、東は機内までで、なんとなく説明つく
西には何となく伝説結構残ってるし
>>789
佐賀平野ならわかる
筑後平野と言い出すとバカとしか言えない
>ほぼ三角形をなす両筑平野の古処馬見山地南麓部には、
主に河成礫層からなる段丘面と、Aso-4二次堆積物からなる段丘面が広がっている。
前者は、筑後川右岸側に広く発達するが、後者は、残丘状に散在している。
段丘面の下位は非海成の沖積層からなる沖積低地が広がっている。
一方、両筑平野の南部を限る耳納山地の北麓には、高位・中位・下位の計3面の扇状地が発達している。
このうち、下位扇状地上面は水縄断層系の活動による低断層崖が発達している。
段丘沖積層だし
>>820
話にならない
まず薩摩に隼人族がいるが、それが海彦の子孫だと古事記と日本書紀にわざわざ書いてある
薩摩が天孫族なら隼人族にのみ宮中警護などさせない >>912
まずは古田派の活動を見てみなさい
と指示しても見ないんでしょ?
偽書記紀信奉者ってことほどさように非学問的だよねえw >>874
福岡藩の参勤交代が伏見まで船を使っときには、博多湾を出て大阪湾に至るに11日、大阪湾から川を遡上して伏見に至るに1日の、計12日。 一時期畿内派のプロパガンダで九州説をがトンデモみたいに言われてたよな
自然に考えれば九州なのに
九州みたいな僻地に大国ができるわけないだろw
大半の学者は畿内説だよ
お前らドシロウトは偽造土器でも埋めてろ
>>910
邪馬壹国(ヤマイコク、ヤマイチコク)
が正しいのかね?
ただ、もう「ヤマタイ」で日本人は半世紀教育されてるので、
かなりの証拠出ないと、「ヤマタイ=ヤマト」から認識変わらなさそう
ググってみたら同じこと言ってる学者もいたな >>887
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、大いに冢を作る。径百余歩に徇葬者男女の奴隷を百余人。
卑弥呼の冢の近くに徇葬者を100人埋めたな。 九州説は屁理屈ばっかり
まず墓を見つけろ
古墳も無いのに話にならない
>>916
熊本から大阪まで実験航行した古代船プロジェクトは
34日間の航行のうち半分くらいは動力船で曳航してた >>920
ド素人未満のアホが畿内説学者なんだから諦めろ池沼 九州説で99%間違いない。
50歩譲っても、山口にしか辿り着けない。
理由↓
帯方郡(平壌の南)から邪馬台国までは、1万2000里とはっきりと書いてある。
帯方郡→ 狗邪韓国(7000里)これで全距離の58%
狗邪韓国→対馬(1000里)
対馬→壱岐(1000里)ここまでで全距離の75%
壱岐→末盧国(1000里)九州本土上陸
末盧国→伊都国(500里)
伊都国→奴国(100里)
奴国→不弥国(100里)
ここまでは魏志倭人伝にはっきりと距離が書かれていて、1万700里だ。
残りは、たった1300里。
対馬→壱岐が1000里であることを考えると、1300里は、約111キロ。
だが、帯方郡の役所から港までの距離が実際には、860里あったとされるので、実際には、残りたった440里しかない。
440里だと、約38キロ。
つまり、残りたった38キロ、多めに見ても111キロしかないのに、畿内にたどり着けるはずがない。
よって、九州説で確定であるが、山口までは行けた。
>>887
そうかも知れないが卑弥呼の墓は祇園山古墳なんだからもう決着済み 邪馬壹国
って、「ヤマのある一国(ある国)」や、「ヤマで一番大きい国」って説もあるな
ヤマト国にヤマイ国と、ロマンは尽きぬ
>>915
古田はダメだな
あれ引っ張るのは止めとけな
使えない議論ばっか >>910
ヤマイはお前w 冗談はさて置き
ヤマツヒメ(古典の書き方)、今風に書くとヤマッヒメ
意味は、山のヒメ(ヒメ=ヒメコ=太陽の娘)
元々ヒメコ→ヒメは女王とかの名前で、邪馬台の卑彌呼もこれ。
女神・女王と言うのは、(卑弥呼も同じだが)大概は、
どこかの軍門に下ったという事の現れ。
女神=剣を持たぬ神
女王=剣を持たぬ王
ということ。 >>887
逆に立派な古墳の方が否定材料になるんよね
そこの記述から卑弥呼の墓は円墳、それも当時の小柄な人間での100歩だから下手すると50m程度ですらあり得る
100m超の古墳は卑弥呼の墓である可能性がかなり低い ヤマタイコク=ヤマトコク(大和国)=奈良県
みんな知ってる歴史的事実
>>930
どうして番犬は古田がきらいなの?
まあ個性が強くて九州の古田派を敵に回したって話は聞くけど 日本人としては
大和国(ヤマト国)の皇女(ひめみこ)って感じであって欲しい
>>921
ヤマイ国は日本書記にもはっきり書かれていて何で邪馬台国と読ませるのか不思議なんよな >>910
岩戸山古墳ができたのが6世紀前半
磐井の乱の筑紫野君磐井が葬られるてると筑後国風土記に明記されてる、
恐ろしくはっきりした古墳
磐井なんだから白村江時代
せめて八女古墳群でとめとけ
>>909
ヤマトという言葉が「ヤマノト」とする説は確かにあるのだが、
だからヤマタイなんです、ってのは初期の新井白石くらいしか言及してない
「夜麻登(やまと)は国のまほろば〜」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、
『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である
(『紀』では倭の一字でヤマトと読ませている)。
この他、『古事記』では、山跡とも表記される。
『日本書紀』では、野麻登、椰麼等、夜麻苔などとも表記され、
『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。
ヤマノトという表記は古代にはない >>915
で、記紀が不比等による捏造で邪馬台国や卑弥呼が抹殺された証明は? >>874
南に水行10日陸行1月は、投馬国から邪馬台国までで水行10日陸行1日という意味。
5000里、400キロに11日だよ。 学者「畿内が有力です」
ドシロウト=お前ら「九州が有力ニダー!」
誰が信じんの?www
>>931
日の御子だと思うんだがね
日の御子→日御子(卑弥呼)
それからヒメコになって更にヒメ(姫)って言葉が出来たんだと思う
狗奴国の卑弥弓呼は卑弥呼が余りに有名だったから
倭語に慣れてない中国人が卑弓弥呼(彦御子)と間違えたんだろ >>939
その読み方は絶対にあり得ない。
帯方郡から邪馬台国まで1万2千里とはっきり書いてる。
帯方郡から不弥国までの距離もはっきりと書いてあり、それを全て足すと1万700里。
ということは、不弥国から邪馬台国までは、1300里になる。
1300里は約111キロだ。
あと、たった111キロしかないのに、不弥国→投馬国で20日。
投馬国→邪馬台国まで海と陸で40日。
たった111キロに60日もかかるわけがない。
したがって、
南投馬国水行20日は、投馬国は帯方郡から水行20日と読み、南邪馬台国水行10日陸行1月は、帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸で1ヶ月かかると読むべきである。 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、大いに冢を作る。径百余歩に徇葬者男女の奴隷を百余人。
漢代の1歩は1.38m
100歩では約138m
卑弥呼の墓から138mの所に奴婢100人を埋めたな。
>>936
三国志のコピーを誰かが写し間違えた可能性が高いから。
ヤマイチまたはヤマイと呼ぶのは考えにくい
病に通じるから。
あと魏書以降は全部邪馬臺。
邪馬臺は臺灣と同じで台の旧字。
昔はヤマトとなんとなく読んでた
でも新井白石が長崎在住通訳に聞いたら「ヤマタイ」と発音したので「ヤマタイかもね」と書いた
ここで初めてヤマト王権と邪馬臺国が分離した >>941
卑弥呼→フィミカ→ヒムカ→日向
という説もある。 このテーマは議論自体、意味がない。
どうにでも解釈ができるしどのみちヤマト王権につながるわけだし、邪馬台国がどこにあろうがその後の
歴史に何ら影響を与えない。
いずれも確定的な証拠なしに可能性を論じて悦に浸っているに過ぎない。
こんなもんをライフワークにする人がいるとしたら人生自体、無意味。
三国志東夷伝倭人の条に記された「邪馬臺国」の位置は
福建省の真東
距離だの方角だのは
呉の後背を襲う位置にあるというこのデタラメな記述から
逆算されたものでデタラメ以外の何者でもない
福建省の東には琉球くらいしかないんだから
倭人の条の距離だの方角だのをギャアギャア言ってるやつは全員白痴
>>944
そんなことでは全然無い
古代日本語には母音が続くことがない
これは非常に強い規則で殆ど例外がない
だからヤマイは間違い >>905
天武から奈良に移動したっていうのはもうちょっと考察を加え給え >>942
帯方郡から投馬国までが7000里(560km)で水行20日
投馬国から邪馬台国までが5000里(400km)で水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国=帯方郡から狗邪韓国
投馬国から邪馬台国=狗邪韓国から伊都国、奴国
(1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=5000) >>949
ヤマト王権の成り立ちにも繋がるかもしれないのに >>948
いや別に否定はしないよ
正しいかもね
間違いかもね
分かんない
ただ基本宮崎は妻国で隼人なんだから関係ないと考えるほうが分が良いね >>944
ヤマタイ、ヤマトは別にしてこの人の説が有力だね。
複写間違いっぽい。 >>942
短里説でいいじゃん
> 倭地、女王国について説明があり、
「倭地について參問(情報を収集)すると、
海中の洲島の上に絶在していて、
或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。
この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、
倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説[注釈 5]と、
後述する短里説によれば一周400km弱となるから九州のことだという説、及びその他の諸説がある。
> 「帯方郡から狗邪韓国までの七千余里、
狗邪韓国から末盧(まつら)国(現在の佐賀県松浦半島付近とされる)までの三千余里を合計すると、一万余里となる。
したがって、末盧国から邪馬台国までは、一万二千余里から一万余里を引いて二千里ほどとなる。
末盧国から邪馬台国までは、約千五百里から二千五百里の範囲にあることになる。 >>955
さらに言うと、日向という地名は宮崎じゃなくて福岡南部に
多いという説があるんすよ このまま誰も不比等によって邪馬台国や卑弥呼が歴史から抹殺された説明をしないまま1000行って終わるんだろうなぁ
これこそが、さも不比等による抹殺説が証明済みだと錯覚させるいつもの手。
>>953
帯方郡から投馬国まで7000里などと、どこにも書いてない。存在しない。 >>944
古田がダメなのは
古代日本語は母音が続くことは無いなんて
こんな簡単な常識すら知らずに仮説を乱造していることな
だから議論がほとんど使えないものばかり
まあ妄想ですな猿の大好きな >>960
藤原不比等は神功皇后〜仁徳天皇あたりの記述で邪馬台国を記述を残している派 >>960
どゆこと?
ちょっと何言ってるかわかんないから樽悶さんに次スレお願いしてきてw 奴国とか倭国とか邪馬台国と卑弥呼とか
中国人が付けた差別用語を喜んで使う日本人
>>960
みんな興味自体無い
記紀以前に存在した何が書いてあったかもわからない歴史書など >>965
筑紫国山門縣の田油津媛ならちゃんと書いてあるのにね。 ウエツフミという文字列を目にするだけで狂ってしまう偽書記紀行信奉者って
どういう脳みその構造してるんだろう
大和政権のための日本書紀
ウガヤ王朝のためのウエツフミ
どちらも自分たちに都合の良い編纂をしている偽書
ただこれだけの事実を直視的ないというのは何なのだろう
>>963
ヤマイの場合、ヤマ委(倭)国なんでその指摘は筋違いかと >>958
>この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、
これは間違いだな、12,000里から7,000里を引いても倭地の周旋距離にはならない
5000里は末盧国、伊都国、奴国、不弥国間の500里と100里、100里からの推測した距離だ
奴国から不弥国、傍国20国を経て奴国へが5000里
(500里+100里+100里)/3*21+100里=5000里 「邪馬臺国」の位置が福建省の真東と記されていることから確定するのは
魏晋期に実際に「邪馬臺国」を訪れた中華帝国人は誰一人いないということ
中華帝国は後漢期に中国最大の古代科学者張衡が
ほぼ正確な緯度計測の方法を発見している
経度はまだわからんとはいえこの発見により
中華帝国の地図の精度は大幅に向上した
「令和」の出典の種本を書いた張衡のこの発見により
中華帝国の役人が現地に行きさえすれば当該地の正確な緯度がわかる
魏呉両国の軍事的バランスを大きく変える可能性があった蛮族国に
赴く役人にとって地理的位置の調査は最重要の課題
にもかかわらず三国志に書かれた「邪馬台国」の緯度はまったくのデタラメ
九州説で98.5%間違いないが、山口県が1%、愛媛県の西端が0.5%ぐらいはある。
帯方郡(平壌の南)から邪馬台国までは、1万2000里とはっきりと書いてある。
帯方郡→ 狗邪韓国(7000里)これで全距離の58%
狗邪韓国→対馬(1000里)
対馬→壱岐(1000里)ここまでで全距離の75%
壱岐→末盧国(1000里)九州本土上陸
末盧国→伊都国(500里)
伊都国→奴国(100里)
奴国→不弥国(100里)
ここまでは魏志倭人伝にはっきりと距離が書かれていて、1万700里だ。
残りは、たった1300里。
対馬→壱岐が1000里であることを考えると、1300里は、約111キロ。
だが、帯方郡の役所から港までの距離が実際には、860里あったとされるので、実際には、残りたった440里しかない。
440里だと、約38キロ。
つまり、残りたった38キロ、多めに見ても111キロしかないのに、畿内にたどり着けるはずがない。
よって、九州説で確定であるが、山口県や愛媛県の西端ぐらいまでなら行けたかもしれない。
>>947
そこ疑うとあとは全部崩れちゃう
魏書を書いたのは北斉の時代で、
その後隋の時代に遣隋使が
「漢書に書いてある倭から来ました。今は大倭といいます」と言っているのを、
筆者は「うそくせー」と言ってる >>978
そう、記紀もウエツフミもホツマツタヱも偽書
それだけのことなのに 漢の倭の奴の国王が卑弥呼ってこともあり得る
なんてたって昔のことだから明確に否定は不可能
>>979
その説は文章に編集の余地がないようにWikipediaから転写したが、
同じく怪しいと思ってる
九州一周で短里説とったほうがいい >>983
いや、ホツマツタヱはともかく記紀はもちろん創作部分はあるにせよ
基本的には伝承を元にしてるだろ。 >>962
帯方郡から投馬国=帯方郡から狗邪韓国なんだよ
だから帯方郡から投馬国まで7000里なんだ。 >>970
田油津媛は卑弥呼の騙りだろな
討ったのも神功皇后なんかじゃ無くて九州倭国な
神功皇后の時代は九州倭国は健在なんだから
近畿日本が軍隊送って討伐とか到底あり得ない
騙りだから九州倭国が討った、その事績を九州倭国が滅んだ後近畿日本が神功皇后の事績として付け替えたってことね
基本、神功皇后、武内宿禰、ヤマトタケル、この三者の事績はほとんどが捏造
>>986
ウブだねえ
不比等があの世でケラケラ笑ってそう 畿内説を虐めるなよ
纏向がダメだったらもう何も無いんだから
垣根の下の地層から出た無関係の残種しかすがる物がないし金印どころか王の証の金鏡も無く500枚も有る神獣鏡が魏から貰った百枚とか嘘ぶくしかないんだから
おまけに年代間違った国産複製品だし
>>987
勝手に、帯方郡→投馬国を帯方郡→狗邪韓国にしてはいけない。
完全で明らかな捏造は頂けない。
そんな記述は存在しない。 >>992
古田派の活動は確認したのか?
宿題もせずにこんなとこに来ても仕方ないぞw >>989
出来上がった記紀を見るのは藤原不比等だけじゃないんでね。
他の偽書と違うんだよ。 まあ赤い刺青がどーのについては
これが最古の画像なので、
はたしてどうか。
同じ国じゃないかもだしな
大阪人と京都人は同じ民族ではない
↑一番左 >>993
単発ID?
何がしたいの?不比等が邪馬台国や卑弥呼を葬った理由は思いついた? >>997
だから創作や捏造や改変は否定してないよ >>998
いつになったら古田派の活動確認するのw
また逃げるのw lud20230202205800ca
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