https://373news.com/_news/?storyid=136127
鹿児島県立埋蔵文化財センターは23日、南さつま市金峰の中津野遺跡で2008年度に出土した木材が、約2500年前(弥生時代前期後半)の
「準構造船」の部材と判明したと発表した。国内の出土例を100年ほどさかのぼり、最古級という。
専門家は「高度な造船技術で、外洋航海が行われていたことを示す証拠」と評価する。
27日から上野原縄文の森(霧島市)で公開予定。
準構造船は丸木舟から発展し、積載量を増すため側板などを取り付けたもの。
センターの寺原徹調査課長によると、木材はカヤ製の板で、長さ2.7メートル、幅30センチ、厚さ5センチ。
18年から本格的に調査し、形状やほぞ穴から準構造船の舷側板と判断した。その後の放射性炭素年代測定で、紀元前5〜4世紀の木材と分かった。
板は水の抵抗を防ぐためか、片面が丁寧に削られている。また別の舷側板と連結した跡があり、船の全長は6メートル程度と推定される。
中津野遺跡は東シナ海につながる川に面し、弥生時代の交易を示す高橋貝塚も近い。
板の出土場所は湿地だったため、腐らずに残った。
船での役目を終え、井戸枠など別の用途にリサイクルされていたと考えられる。
弥生前期の準構造船の部材は静岡や広島でも出土。
古代以前の船に詳しい柴田昌児・愛媛大学埋蔵文化財調査室長は「他の2例は紀元前3世紀頃と推定しており、中津野遺跡の船が最古級となる」として
「東シナ海を介し、造船技術も大陸の影響を受けていたのでは」と話した。
遺跡は国道270号宮崎バイパス改築工事のため、県が06〜17年度に発掘した。出土品の整理と調査は継続中。 渡来人が伝えてくれたんだろうな。
チンチャ、カムサハムニダ、韓国兄さん。
それに比べてチンパンジーみたいな俺たちクソジャップの祖先と来たら・・・
そりゃ外洋航海できないと大陸から日本列島に弥生人が渡ってこれない
>>5
ちょうどその頃のがでてきたんだから貴重だよ パラオのファラオといつわって
フェラ男のフェニキア人が渡ってきたに違いねえ
地中に仕舞ってあったんだぜ
これに乗ってニニギは韓半島から渡って来たんだろうね
考古学は一切信用しない。だって現代人が埋めたものを発見しましたー
とかいってる作り話なんでしょw
「竜骨」はあるのか?w
船の歴史を見るだけで技術的に
日本が大韓民国に負けているのがはっきりわかるのだ
>>10
半島を持ち出してくるバカが数匹いるが多分これが正しい
呉の滅亡の時期に近いしヒミコも太伯の子孫だし 何れにせよ、長江湖南地域から
船を出せば、黒潮にのって沖縄、鹿児島、宮崎あたりに着くわな
>>21
放射性炭素年代測定ってでてるじゃん
なんで読まないの? >>12
アホw炭素式とか年代測定法が進化した現代で
そんなやり方は通用しない
て言うかお前在日だろ 韓国人が渡ってきた証拠だと騒ぎだすに10ウォン賭ける
渡来人というが、本国が地獄なので
天国の日本に逃げてきただけだからなw
朝鮮人て、入れ替わっちゃってるんでしょ。エベンギ族に。
朝鮮人に海を渡る度胸と造船技術があれば長い属国奴隷の歴史はない
>>17
日本から未開サル半島に渡海して原住民を駆除した例は多いが、逆は皆無だぞw <<呉の滅亡の時期に近いしヒミコも太伯の子孫だし
和人は 太伯の子孫と思われていた
それなら 倭人は キョウ族人ということになる
キョウ族の特徴は @天の子孫という伝説を持っている
A全体のために個人が犠牲となることを名誉と考える習慣がある
この点から 近畿ヤマト王権は太伯キョウ族かもしれない
おー、これは興味深い。
いきなり100年も遡ったように考古学的発見は
従来の常識を時にドラスティックにひっくりかえすから面白い。
そして薩摩鹿児島で弥生時代に外洋公開可能な船が出たと
いやあ、これはロマンが進むなあ。
だってのちにはね歴史時代に薩摩隼人といわれるような
中原の朝廷、これもまあ先祖を遡れば偉大なる大韓由来なんだろうが
そこから異民族と扱われる尚武の地から出たと思うとねえ。
それにしても隼人、熊襲、蝦夷のような上古の先住民族
日本の史書では一方的に悪役的な先住民族とされる彼ら彼女らが
一体いかなる氏族であったか、まったく好奇心が刺激されるよああ。いやはや。
(そして上古の神話時代の昔に大和朝廷に征服された
その薩摩の人士の後裔が明治維新の転回をなして
近代日本から現代に至るまでの「日本」の枢要を形作ったと来れば
これは歴史の皮肉でもありかつまたロマンでもあるよなあ)
>>23
宮崎からは玉壁が出てるな
熊本には阿智王の子孫とされる一族がいる
本来渡来人というのはこういう大陸王朝の末裔のことだろう
2500年前といえば太伯が興した句呉が滅んだころ
姫・紀をつけた苗字や地名はいくらでもある いや、普通に考えれば台湾からだろ?
ポリネシア人の御先祖が台湾から出たのは確定したのだし、南だけではなく北に行った人間も確実にいたはず
これで南朝鮮に倭人が渡航したわけだ
倭人の領土だもの
キノミヤ信仰もおそらく姫=紀で滅びゆく呉から逃れた人々が漂着し
神奈川〜伊豆半島あたりに勢力を持っていた名残ではないか
東アジアの古代文明の中心は中国で、日本への強い影響を与え始めたのは
春秋戦国時代だ
日本の古代史になると、すぐに朝鮮好きが作り話で日本をこき下ろし始めるが
日本も朝鮮半島も、文明は中国が由来だぞ
春秋戦国時代は中国内の戦乱で、日本に逃れて来た渡航者も継続的にいたと考えられる
造船技術の由来はそれ
バカでも分かることなんだが、日本の左翼と朝鮮系はうそをつき、右翼はアホ
どうにもなりません
藁で作った船で台湾から与那国島目指した教授がいたな 藁
当時は潮の流れで航海していたから大陸南部からだろうな。戻るには相当迂回しなければならなかった
からこれは亡命船(一方通行)とみられる。
日本の歴史学者のレベルが低すぎるんだよ
左翼の互助組織になっている
韓国では学問自体が政治キャンペーンの一種だから、話にならない
現在の地図見て話してたって。
辻褄合うわけない。
砂漠なわけないし。
何処から神武東征したのかな……みたいな。
まさか、ペルシアから?!
残念ながら、2500年前だと、鉄器も青銅器も日本にはないので、これは難破船の漂流物だな。
>>42
まあ古代中国だけではないだろうけどね
日本語のかなりの部分がポリネシア語と関連があるとも言われているし
かぐや姫をさかのぼるとインドネシアあたりの民話にたどり着くという話もあるし
秦氏はユダヤ系、シオツチはインド系じゃないかという話もあるし
地理的に様々な民族が流れ着き様々な影響を受けるのは自然なこと 日本における大陸からの影響は大和朝廷が形になって以後って感じがするんだよなぁ。
中国大陸からの渡来人が中心なら神道じゃなくて儒教中心だろうし、文書や言語が中国大陸由来のものがもっと残されていないとおかしい。
中国大陸文化の伝達はあくまで、漢字の先生として招聘した仏教僧を通じて、少しずつ伝播したと考えるべき。
紀元前5世紀ごろは、大陸での戦乱で日本へ逃れてくる人間が継続的にいたんだよ
その一例が山口の土井が浜遺跡で、ここの人骨は中国の山東半島あたりの人間の
特長を持っている。
背が高く、後頭部は絶壁、顔も彫が浅い
明治維新で活躍した人物のかなりの割合が、その子孫だとワシは考えている
東シナ海海流→九州南部→黒潮→室戸岬→潮岬→伊豆半島→房総半島
九州南部→対馬海流→日本海→能登半島
>>51
大陸といっても主流はアカ族みたいなあたりからだろう
鳥居なんてまんまだし、発掘されるやつと だから何度も言ってるだろ
縄文人=日本人
弥生人=渡来チョン
韓国人は1000年前にシベリアから、火山灰だらけの朝鮮半島に来たんだから、
この話には関係ない。
耶馬台詩
東海姫氏國(東海の姫氏の国)
…
葛後干戈動(葛後干戈動き:葛=磐井の子=姫氏)
…
猿犬稱英雄(猿犬英雄を称す:猿=袁氏、犬=狗奴国)
…
星流飛野外(星流れて野外に飛び)
鐘鼓喧國中(鐘鼓国中に喧し)
丘與赤土(青丘と赤土と)
茫茫遂爲空(茫茫として遂に空と為らん)
>>58
これが真実
エセ学問たる考古学がいくら否定しようと。
むしろ出土品のほうがエセ学問より先に進んでるんだなw >>62
つまり今の日本人はほとんど渡来朝鮮人の子孫ということになる いつもの韓国学者:船の起源は韓国、韓国語のプーネ(浮かぶ木)が語源ニダ
文化的にはイ族が日本人との分派と思えるわけだが
遺伝子がーでは違うらしい
>>52
かなりの割合って例えば誰よ?
かなりってんだから5人くらいは簡単に上げられるよな >>63
半島最古の史書である三国史記の新羅本紀には倭人が海を渡ってやって来て尼師今(王)になったと書かれてるぞ。
朴赫居世とか昔脱解とか。
朴という名前は瓢箪から取られていて、倭人は瓢箪に乗って海を渡ってくると信じられていた。 >>63
いや全く違うよ
縄文一万年こそが日本人の起源
弥生なんて、たかだか最近のことだから >>49
2500年前だと、丁度鉄器や青銅器が日本へ伝わった頃だな。 >>63
それだと日本人と鮮コロの凄まじい能力の格差と矛盾する >>3
近代になっても水車すら作れなかったくせに。 中国から来たと言っても今の中国人と2600年前の中国人では
全然違いそうだよな
陸続きだと周りから侵略されやすいから何度も何度も
2600年の間に入れ替わったり混血してそう。
>>58
無知が知ったふりしても、騙されるのはバカだけだ
遺伝子からわかるのは、日本人の基層をなしているのは縄文系
大陸からは弥生時代の初期から継続的に人間の流入があり、そのミックスというのが事実
縄文系はチベット民族と同じく、アジアに来たもっとも古いグループで、
DタイプのY染色体が特徴だ
かなり珍しい民族なんだよ
アイヌもサブグループ、琉球もそうだが、琉球は南九州からの移動らしい
な?日本から諸外国へ拡がっていったんだよ
日本はムー大陸文明の子孫だからな
>>3
無いわ稲作伝来は中国から直接船で日本に来てたんだな
おまエラ米食って無かったろw >船での役目を終え、井戸枠など別の用途にリサイクルされていたと考えられる。
つまり祖国である句呉が滅び大陸に帰ることはなくなった
この地に根付く決意の表れ
日本各地でこのようなことがあったのだろう
>>77
そうそう
韓国なんぞステンレス箸を使うまでは、それまで箸なんてものは無かった後進国だから 古代日本は朝鮮半島のどの国よりも国力で圧倒していた
理由は水田による稲作
朝鮮半島が冴えなかった最大の理由は、コメが少ししか作れなかったからだ
ヒエ、アワで国力を保つことはできない
強大な国は作れなかったが、漢民族、日本民族など多様な人間が交流できる場所でもあった。
その代表が百済だ。滅びてしまったが。
韓国の歴史学者は、幼少時から植え付けられた日本への憎悪と劣等感で、学問ができにくいと思う
最近の母系遺伝子の研究をみると日本人は8つの大きなグループに分かれるみたいやね
九州沖縄、島根鳥取、高知、徳島広島、奈良滋賀、福井新潟香川、三重静岡愛知、東北石川富山
大都市は混血
大阪京都は東北グループに一番近い混血グループという結果だった
東北からの移住者が多い東京よりはるかに東北に近い
近代以降西日本各地からの移住者が多く更に混血が強まったことを考えると古代の大阪京都は西日本に取り残された東北グループだったと言ってもいいかもしれん
つうか古代朝鮮半島の文献や史跡には、倭人が海を渡って襲ってきたり、講和したりした記録が数多く残っている。
AD173年には卑弥呼が出した使者と交渉したと三国史記に記載されている。
というか新羅始めて三韓相手に外交交渉を行い国と認めさせた時の新羅の使者は倭人の瓢公だ。
三韓自体、日本の支配圏だった可能性がある。
>>54 この大きさの船は、あまり排水量で表すことないけど。
商船は大きくても排水量は書かない。
その前提で、排水量ってのは、漕ぐときにそれだけの水を搔きわけることになるんで、軽く仕上げようとするだろ。
陸揚げとか、どうしても陸地を横切らなければならない場合もある。
その前提で。おとな5人乗りなら500kgでも無駄。多分250kg程度。 >>83 三韓のうち、敗れた百済が用なしで蛮族ばっかり住んでる日本列島に逃げてきたと見るべきじゃないかと。
これ朝鮮の博物館の展示の受け売りなんだが、百済って何語で読んでも く・だ・らってならないんだそうだ。
ところは白馬江のもう少し黄海寄りに、クドレという港があって、その地名との混交だろうと。
「今週はちょっと羽田に飛ばないとならない用があって」みたいな洒落た言い方なのかも。 >>83
統一に大きな貢献をした新羅の金庾信は日本が植民地を置いていた加羅地域の王族の血筋。
日本人の血も入ってたかもね。 >>4
ハワイまでだっけか
縄文土器の破片とか見つかってるしな 😕~~へ(.o・)ノ~~~アップアップ オッ、オボレルぅ〜!
「古代から航海技術がダメダメで海が怖かった扶余系穢族の朝鮮人」
構造船時代になっても朝鮮人は対馬海峡を渡るのが困難だった。
443年に朝鮮王朝側の使節として京都に赴いた
事があり、その後、彼の死期が近づいたとき、
当時の王であった成宗が
「何か言いのこすことはあるか」と尋ねた。
このとき、申叔舟は「わが国が日本との平和関係を
失うことがないようにしてください」と言った。
その言葉をしっかり受けとめた成宗は、早速日本との
友好関係の修復に努めようとした。
だが、派遣された通信使たちは、対馬海峡の風浪の
激しさに驚き、対馬にたどり着いたものの、すぐに引き
返してしまった。
なんとも情けない有様であった。
それ以来、朝鮮王朝は使節を日本に送らず、日本から
やって来る使節に対応するだけになってしまった。
海洋民族でない韓族の残念な実話でした。『海東諸国紀』 申叔舟
😕~~へ(.o・)ノ~~~アップアップ オッ、オボレルぅ〜!
「古代から航海技術がダメダメで海が怖かった扶余系穢族の朝鮮人」
構造船時代になっても朝鮮人は対馬海峡を渡るのが困難だった。
443年に朝鮮王朝側の使節として京都に赴いた
事があり、その後、彼の死期が近づいたとき、
当時の王であった成宗が
「何か言いのこすことはあるか」と尋ねた。
このとき、申叔舟は「わが国が日本との平和関係を
失うことがないようにしてください」と言った。
その言葉をしっかり受けとめた成宗は、早速日本との
友好関係の修復に努めようとした。
だが、派遣された通信使たちは、対馬海峡の風浪の
激しさに驚き、対馬にたどり着いたものの、すぐに引き
返してしまった。
なんとも情けない有様であった。
それ以来、朝鮮王朝は使節を日本に送らず、日本から
やって来る使節に対応するだけになってしまった。
海洋民族でない韓族の残念な実話でした。 『海東諸国紀』 申叔舟
🌟新羅本紀🌟
弥生後期〜古墳時代
高句麗が調子乗り出すまで 百済を瀕死まで虐め抜いた残虐新羅が
当時の日本国にボッコボコにされている様子、朝鮮半島側の記録
戦後長い間、韓国忖度が続いてだれもが議論しなかっただけで
当時の百済人に呪われるほど憎まれた新羅が倭国人からボッコボコ状態
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年
春 王が臣下に向かって
『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見
はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が
「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
これに対して、舒弗邯、弘権が、
▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを
恐れます」
※ 当時から海に不慣れな新羅人が明確。
この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。
>>81
縄文の温暖期は朝鮮半島では稲作始まっていたんだよ
縄文後期から寒冷化に伴い朝鮮半島もむろん寒冷化で稲作には適さず食糧危機
日本列島に韓人が移動し稲作を伝える 朝鮮半島の遺伝子は・・・・・・
中国人のO2が 多数派
次に多いのがO1b2 L682
このざっくり大まかに弥生系といわれているO1b2に関しても
日本と韓国では全く違う! ←ココ重要 !!!!!(韓国には実質水稲遺伝子が無い!)
韓国では水稲文化と関係がないO1b2のタイプの L682
(旧 XO-47z)が35%で、対照的に日本ではたった8%
日本では水稲遺伝子と言われるO1b2a1a
旧47z (O-47zが多くで日本で30%もある
これは韓国には少なくて、だから朝鮮半島には水稲が少ない
次いで朝鮮半島では≪エベンキのC2≫ ←ココ重要 !!!!!!!
で構成されている
日本は〔D1b縄文遺伝子〕が多数派 ←ココ重要 !!!!!!!
(これが朝鮮半島や中国東北部と、日本人との決定的な違い)
次に多いのがO1b2の中でも水稲耕作遺伝子のO1b2a1a
次が中国人のO2
★エベンキのC2は日本ではごく僅かしか発見されない ←ココ重要 !!!!!
(これが朝鮮半島や中国東北部と、 日本列島人との決定的な違い)
2017/1/24 23:22
縄文時代晩期
【 三千〜二千数百年前 】
の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる
土器片が、沖縄県北谷町の米軍返還地にある
平安山原B遺跡で出土したと24日、
同町教育委員会が明らかにした。沖縄での発見は
初めてで、西日本でも出土は限られている。
製作地や沖縄に運ばれた
背景を巡り、大きな議論を呼びそうだ。
北谷町では、縄文時代にアクセサリーとして重宝された、新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の
翡翠も別の遺跡から出土。町教委は「当時の広域交流がうかがえる重要な発見」としている。
亀ケ岡式土器は、沖縄から約2千キロ離れた亀ケ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)で
出土したことに由来し、工芸品のような精緻な模様や作りが特徴。同じ頃の東北では精巧な
漆器や遮光器土偶なども作られ、「亀ケ岡文化」として各地に影響を及ぼした。
※ポイント
・伊豆諸島神津島の黒曜石が「海上輸送により」日本各地(相模、伊豆、遠州、能登)
の古い遺跡にもたらされてることから、2万7千年前にはすでに神津島と本州との間
(最短でも往路150キロ)を船で行き来してた。
・木製なので腐食しやすく残りにくいが、それでも
7千5百年前の外航用の丸木舟が
千葉県市川市雷下遺跡から出土している。
千葉県からはこのような丸木舟が150隻出土。
・琵琶湖でも数隻出土。
.
・現時点では朝鮮半島からは丸木舟がまったく出土しない。
朝鮮半島から伝わったと明確に言えるのは九州の陶磁器ぐらいなんだよな。
それも別に日本で作れなかったものじゃ無いし。
現代でも韓国人は海事の通信簿が0点
『韓国海軍に所属する軍人の約2万6000人が
このほど、水泳テストを行ったところ、63.5 %が
「まったく泳げない」もしくは「5分しか泳げない」
ということが分かった。4日、環球時報が伝えた。』
これもはや海軍じゃないだろコレwww
>>92
何だよこれw
古代から韓国海軍は日本海軍と真逆で最弱かよw
いくら海に弱くて泳げないエベンキ系海軍にしても果てしない大草原不可避wwwww
対馬海峡40キロ越えただけの隣国だよな
なのに日本人と正反対の海に弱い非海洋民族で異民族エベンキ文化の朝鮮民族 >>58
半島南部は秦韓と言って、
秦の圧政から逃げた漢民族だぞ、
大陸も半島南部のさらに半分も中華系、残り半分が百済。
これだけ見ても百済人が渡来したパーセントが低いことがわかる 日本から朝鮮に伝えた物の方が多かっただろうな
日本に流れ着いた人達が、大陸を目指すのに黒潮の逆行は無理だからな
朝鮮半島を経由し黄海を渡った
歴史的に見ると朝鮮では、稲作はじめ手間隙かかるものは発達して来なかったんだよね。
100年まで洞窟に住み、箸も無かったような生活だから。
そのぶん発達してきたのは人を騙し利用する詐術
いかに怠けて楽に生きるかだけを発達させてきた連中なんだよな
「高天原はどこか」
縄文人は自然の恵みに感謝して、あらゆる自然物を祀る祭祀を行なっていた。
これが神道の原形であるが、神道は稲作の始まりと共に日本に稲作を伝えた江南
(中国の長江下流域)の祭祀を取り込んで大きく発展した。
「記紀神話」に描かれた高天原とは、その神話を創作した人々の先祖が生きた
弥生時代の日本であったとも、日本の稲作の故郷と呼ぶ古代の江南であったとも
考えられる。
「航海民が祭った大物主神」
少彦名命が海の果てに去っていった後で、「新たな神が海からやって来て大国主
命を助けた」といわれる。
『古事記』に次のような話が記されている。
「大国主命が海岸であれこれ先行きのことを悩んでいるときに、美しい光で海面
や空を照らしながら近づいてくる神が現われた。その神は大川主神に『私の魂を
祀って戴けるならば、あなたに力をお貸ししましょう』と語った。
そこで大国主命は、その神の意向によって大和の東方の三輪山の上にその神を
お祀りした」
この神話は、大物主神を祭神とする桜井市の大神神社の起こりを説いたもの
である。
大物主神は大国主命と同一の神で、出雲の大国主命を守る「幸魂」つまり幸運
や思いもよらぬ奇蹟をもたらす神とされていた。
大物主神は、南方に広くみられる竜蛇信仰の流れをひく神である。古代の
ベトナムや江南には「竜神」と呼ばれる蛇の姿をした水の神を祀る習俗
が広くみられる。
そのためにそのような竜神が、人間の若者の姿になって人間の女性と結婚
する「異類婚」の神話や伝説も各地に残されている。
「記紀神話の中の南方系神話」
天皇を中心とする朝廷の人々が最も愛着をもっていた物語が「記紀神話」である。
だから「記紀」神話を読み込むことを通じて、皇室の源流となる地域がどこで
あったかを知る事ができる。
さまざまな話を集めた「記紀神話」中のかなりの部分が、南方的な信仰や文化の流
れをひいている。
前に紹介した北方的な要素は一部の神話だけに見られるもので、騎馬民族の文化
の影響は表面的なところに限られている。
そこでこのあと、日本神話の中の南方的要素を持ち込んだのはどのような
人びとだったかを考えていこう。
「日本に移住した江南の航海民 」
皇室の日向に対する思い入れ『古事記』と『日本書記』の中に、日本人が北方
から来たという発想はみられない。
「記紀神話」などには、南方を日本文化の故郷とする意識が見え隠れして
いる。江南の航海民は日本の南方から来て南方系の文化を伝えた。
そして「記紀神話」がまとめられた時代の大和朝廷の勢力の最南端が、
日向であった。
それゆえ皇室の祖先にあたる二ニギ尊が降臨した地は、日向の高千穂の峰で
なければならず、磐余彦は日向から大和に来て初代の天皇になったとされた
のである。
皇室の先祖は、江南から来た移住者の首長であろうか、あるいは江南系の文化
を学んだ日本に古くからいた縄文系の首長であろうか。
武光誠 2019
稲作だってもう中国大陸からきたわけじゃないのも分かってるしな
≪天皇は縄文人(アイヌや沖縄や蝦夷や隼人に色濃い)と同じY染色体がD1bであったと確定している≫
健康診断で全国民のDNA調査をした結果は、男の9割以上がY染色体がD2(D1b)であった。
ちなみに朝鮮人韓国人はD1bは無い。
N253487/ Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
http://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
http://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代 ・ 東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2 (旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2 (旧D1b1)、(チベット系D1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、 日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、 天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 この形、いみわかんね
//373news.com/_photo/2021/04/20210423S231143-upload_image_3.jpg
しっかし、状態はかなりよさそうだな
//373news.com/_photo/2021/04/20210423D212001-OptimizedCNTS2021042302498-20210423211824-1_M.jpg
//373news.com/_photo/2021/04/20210423D212000-OptimizedCNTS2021042302494-20210423211807-1_M.jpg
日本は「東海の姫氏の国」
周および2500年前に滅んだ句呉の流れを汲む国
>>74
だから、🌊海水面が上昇して
高台に住んでいた人達だけ生き延びたんだろw 日本人が航海してから1800年後
日本に来れなかった無能な隣国がいる
>>98
百済や新羅は舟の扱いや海での航行能力が基本的に欠如
新羅の場合は唐の水軍の船を使わせてもらうようになって
からは少しは海運力はついたがそもそもはからっきしダメ
これは今の韓国海軍にまで続いてる半島の民族的伝統
この場合は海軍においては致命的マイナスの伝統
いまだに真球がつくれずよって潜水艦が性能悪くて
実戦では音もダダ洩れでとても使い物にならない
対照的に世界一といわれる日本海海軍の掃海技術を頼りに
大勢の旧日本海軍の兵士が朝鮮戦争で秘密裏に召集され機雷除去で命を失った
韓国の教科書に一行もないし日本が設立したソウル大学でも梨花女子大でも習わない
どうしたものか 日本にあるものは日本人を含め全て韓国由来とするのがウリナラファンタジーだからなぁ
そうしないと自分らが惨め過ぎる存在で火病って死んじゃうんだよね。
↓
954 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2020/04/22(水) 06:19:30.50 ID:skzbNqXE0
>>886
【朝鮮史】
1世紀 秦の亡命者が建国
2世紀 漢に侵略され分割植民地化される
4世紀 日本の属国である百済・新羅による支配
7世紀 唐の属国になる
9世紀 後唐の属国になる
9世紀 九州侵略を狙うも迎撃ちにあい壊滅
10世紀 内戦で自滅
11世紀 女真族の手先として日本侵略を目指すが返り討ちにあい敗北 ←石器時代に戻される
11世紀 契丹に全国土を焼かれる
13世紀 モンゴル帝国に征服される
13世紀 モンゴルの手先として日本侵略を目指すが船が沈没して全滅
14世紀 倭寇に全国土を焼かれる
15世紀 明の属国になる
15世紀 対馬侵略を狙うが反撃され将軍戦死
16世紀 豊臣秀吉に全国土を焼かれる
17世紀 満州族に侵略され土下座して許してもらう
19世紀 ロシアの勢力下に入る
20世紀 日本に併合される
21世紀 アメリカと中国による分割統治状態
はずかしくてこんなの教えられないわなチョン 日本では縄文時代から引き継がれる精神文化がある
古社の祠や山の頂きや中腹や奥津城に数千カ所ある日本神道の原型の巨石磐座
それとはまるで正反対の精神文化で全く磐座や磐座信仰もない朝鮮半島
朝鮮半島では近現代に日本国が鉄道を敷設した山間部などには山はあるのに
磐座も巨石信仰や巨木信仰がまったく無いという日本とは異郷過ぎる半島ワールド
そういう精神文化の痕跡も無い
朝鮮半島人は日本人からはあまりに遠すぎる異界の非海洋民族
それが朝鮮半島人
〚 蒙満人が朝鮮韓国を丸ごと塗り替えた 〛
大陸北方の騎馬民族に侵略され蹂躙された朝鮮半島
日本と比べて朝鮮はオリジナル要素がまるで無い
半島の文化や風習も含めていったん鴨緑江や豆満江を超えて
やってきたツングース系のエベンキ近縁族にかなりが
消されたんだろう
だから朝鮮半島は農業でも何でも発展がない上から押しきせの奴婢社会
北朝鮮などは今現在でも農業がまともにできず餓死者大国
韓国のそれも日本の指導か日韓併合以降か現在のイチゴなどにみられるパクリ
日本の場合は海人勢力が強く、朝鮮半島のように北方勢力に侵略支配される
ことはなかった
だが世界屈指の海人族の縄文人や弥生水耕倭人という日本列島原人のような
存在がいなければ朝鮮半島と同じように海から陸から征服されたり蹂躙されたり
はなかっただろうが何度もピンチの連続であっただろう >>3
残念ですが、今のゴキチョンとは別人種です。 大阪は丸餅を煮て食べる
奈良は丸餅を焼いて食べる
江戸は角餅を焼いて食べる
酒田は丸餅を焼いて食べる
新潟は角餅を煮て食べる
関西の大阪は日本人は丸餅を煮て食べる
韓国人(朝鮮人)は正月から内臓を取り出して食べる
弥生時代っていまはいつから?
BC3世紀からAD3世紀くらいと思ってた。
安本美典教授 〔1〕
韓国や北朝鮮の方々には、とかく、日本の言語も、文化も、
天皇家なども、ほとんど全てが、朝鮮半島からきたはず
だという、 強い『思い込み』があるようにみえる。
しかし、 そうであって欲しいという『願望』は、必ずしも、そうで
あるという客観的事実と一致しない。
※ 『』は本文そのまま
安本美典教授 〔2〕
韓国の言語学者でも、ソウル大学の李基文教授は、
『日本語と朝鮮語との比較作業の結果、確実にいえる
ことは非常に少ない』
と述べている。
安本美典教授 〔3〕
さて、さる六月に、私の主催している「邪馬台国の会」が
開かれた。その会で、韓国出身の統韓鮮氏が、「『万葉集
論争』を論評する」というテーマで発表を行なわれた。
その発表のなかで、私の先の文章をとりあげて、統韓鮮
氏はいう。
「安本先生は、ご本のなかで、この文章のように述べて
おられますけれども、日本の古代の文物のなかで、朝鮮
半島を通じてこなかったものには、何があるのでしょう。
私が答える。
「私も、朝鮮半島の古代の文物について、非常にくわし
いというわけではないので、ご存知であれば、この機会
に、教えて頂きたいと思うのですが、ふつう、日本の神社
建築の、高床式建築法、千木、 鰹木などは南方から来た
習俗といわれています。
現在でも中国の西南部の雲南省などにすむタイ族な
どの住居には、高床式建築法、千木、鰹木などが見られる
といわれます(その写真なども、よく本にのっています)。
また、下駄なども中国の南部でみられるといいます。
◆ 近年の学術研究結果のまとめ
@日本ヤマト最初の国家官製規格の前方後円墳ができたときの纒向では朝鮮半島の遺物がほとんど出ない
Aその時代から同一モデルを含め複数と考えられる半島王子と名乗る者が「聖人君子が日本におられると聞きまして参上いたしました」と
訪日するが、どれもよそ者でかろうじて任那からきたソナカシチは纏向染めの絹を土産に持って帰らせてもらっている
B倭王・武の雄略天皇は、 宋から半島の軍事顧問を任されている
C古墳全時代を通して朝鮮半島の使者で都まであがって天皇と会えた人間はほとんどいない
ほとんど全てが北九州で追い返しか、大阪湾の内湾南の難波館止まり
D厳格な都の中での肉食禁止令を徹底
E八乙女にしても八十島まつりにしろ、 国家祭祀の中心から外縁までの全てが
海洋性神話にもとづく内容
F伊勢内宮のアマテラス大神の御神体の八咫鏡がおさめられてる箱も御船代
G大嘗祭で建てられる高床式の屋代家屋の屋根が温帯〜南洋の葉の束 (一昨の秋は秋篠宮様実費削減提言に沿って板葺き)
H古墳時代の天皇や大王級の御遺体を古墳に運ぶための葬送儀礼用の舟形木製箱
※ 朝鮮半島の文化要素がほぼゼロ
縄文人は海の民だったからな。マダガスカルから南米までは庭だった。農耕もしていたし、巨大建造物も立てた。
そこに中国南部から政争に敗れた弥生人が大移動してきた。縄文人にとって日本列島は庭の一つにすぎないため、縄文人は弥生人との争いを避けて日本列島からは距離を取ることになった。
そもそもだよ
日本の最初はオノゴロ島だっけ
海をかき回した矛の先から滴り落ちた海水の雫が固まってできた島が云云のイザナギ・イザナミ神話からして典型的な海洋民族の神話
律令時代になっても高官の名前で出てくるのが檳榔とかね
仁徳天皇時代を描いた絵には檳榔が描かれているから、これには誰もが驚くよ
宮廷内に檳榔が育っていたのかとかそれを自然なものとして描き込む当時の背景のことね
【歴史】
「新羅から連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来人の祖先に」
朝鮮半島からの渡来人の存在示す遺構、奈良・御所の南郷
柳原遺跡
ヤマト王権を支えた中央豪族として名を残す葛城氏。 5世紀ごろ
の王権のあり方を考える上で非常に重要な存在だ。
日本書紀は、その祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)について
朝鮮半島との関わりが深い人物として描いている。
神功皇后5年、襲津彦は朝鮮半島への一時帰国を望む新羅の
人質を引率したが、対馬でだまされ、逃がしてしまった。襲津彦
は怒って新羅の城を落とし、連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来
人の祖先になった--。書紀はこう説明する。
●弘仁新羅の乱 (朝鮮渡来の難民部落の騒乱)
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に
移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱
を起こし、日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧でき
なかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、
全員が降服した全て
かつて朝廷(日本国)は、全ての流民の新羅人に
口分田まで与えて帰化を認め寛大に遇して恩を与え
たが朝鮮渡来の流民たちは恩を仇で返し博多など
に土着して本国と違法な交易を目論み、それを見透
かされ東国に移されたことを逆恨みした。
この乱以降、 北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、 群馬を中心に関東各地、 東北にも少数住ま
わせる事になった。
八丈島にも縄文遺跡があるけど、八丈島くらいだと外洋にはならない?
西北九州弥生人は大陸式の支石墓を使っていたから骨が沢山見つかっているんだっけ
日本の土壌だと骨が残りにくいから古墳時代に入る以前の調査は難しいんだよな
>>93
だからどうやって縄文期に移動したんだ?
普通で考えてみろよ?先に何があるかわからん海行くより大陸を移動した方が安全、
対馬が見える場所なんて限られてんだからな >>116
何が言いたいのかわからんが、餅が丸いか角かなんて
弥生時代からそうなんかね?
正月限定なのはなんでだ?あと焼いて食べる地域に雑煮文化がないって認識持ってるのか?
自分の考えに合うだろうこじつけばかり集めてくるのは、某民族的特性なのか?血は争えんなw 丸木一本キールのやつ?
韓国人にはダブルキール箱船を造れない野蛮な倭人の貧相な小舟とか云われてたやつ?
>百済って何語で読んでも く・だ・らってならないんだそうだ。
クダラ、シラ
狗陀羅、新羅といった名称の倭人邦だったんです後に隋に冊に封じられて百済の国号を授かりました
🇭🇺ハンガリーが面白い
何?あの人達w🇯🇵日本語空耳だらけ
もともとはアジア系なんだろうけど
突厥?匈奴?
紀元前300年〜西暦200年頃の匈奴があったとされるモンゴルの地域からのいくつかのサンプルからY染色体のハプロタイプを調べたところ、これまで2つからC2、他にQ-M242、N1c1、R1a1a-M17 が見つかっている。
新疆バルクルからのサンプルでは3つ全てからQ1a3a-M3が見つかった。ハプログループQは現在のユーラシアではケット人やトルクメン人に多く分布するが、これまでのサンプル数からは断定的なことはなにも言えない。
>>128 石室は廟葬だからアジアでは南方文化だよ北方が土葬 ウイグル4000年の歴史w
>>135
正確な漢字の読み方は🇯🇵日本語から推測するしか無いんだけど >>12
そう、あのゴッドハンド事件以来こういうのは一切信用できん
地元は地元で話題作り名所作りのために捏造に目を瞑るし
日本の歴史学考古学ってのは真実究明のための学問ではなくて
現代人の都合に合わせた過去を創作するものと成り果ててる 唐の時代から、韻図の改竄が全く無いと言えるのなら。
でも、どんどんどんどん継ぎ足していった辞書のようで。
>>123 当時はアウトリガーなんて略式に行き着いて無くて未だ双胴船似のtied boatだったんじゃないかな
ドラゴンボート競走とか組み合わせる船足の並みを揃える目的で行われたのが起源だし
さようならが「ハロー」だぞw
この国🇭🇺借用語がめちゃくちゃ >>136 Hun族ってのがどれくらい東から来たんだろうね?トルコは突厥(Turkish)でほぼ間違い無いと思うけど >>145
トルコってモンゴル帝国の先遣隊だろ?
もともとは。
王様の伝説とモンゴル軍の進軍がピッタリ合う!
って宮脇淳子先生が言ってたな。 >>144 アロー?節分?ジェシーと。はどこの国だったっけ >>146 へー現地にはハーンとして来たんだ8〜9世紀から移動し始めたって話しか知らなかったもんで途中経過知らなかった >>144 イヤイヤこれは参りました○○○○ファンタジーが膨満しそうな音感じゃあーりませんかw? おいおい出土品は舷側板と船首部だけだろ?
両側支持架浮きの丸木舟から構造船への劇的変化か
当時の周辺海域はジャンク船やダウ船ばかりなのに
ゴッドハンドかよw
このスレみて思ったんだが、韓国人て自分らが古代朝鮮の末裔だと思ってるのかw
キレて囲碁盤ひっくり返して帰ってっちゃうもん
こいつら大丈夫か?w
🇭🇺ハンガリーの人も見てるだろうから。
どういう事なの?
古ハンガリー語まで含めて大アルタイ語族なのか?
鷹狩りの埴輪もあるしイラン、インド辺りから船で来た人々もいるんじゃないか
>>159
熊本辺りにいる中東人みたいなのがそれかもな >>153
基本的には北九州説支持なんだけど、どちらもヤマトのくにで、前期と後期に別れてるのかなと
魏志倭人伝の邪馬台国=山門国、畿内の大和朝廷=畿内に遷都した山門国と考察する >>163
時期的に台与の少し後くらいに民族大移動の痕跡があるらしいね
854 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/25(日) 16:41:20.86 ID:LE6hm1QV0
>>799や>>832のように、九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない
九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期〜終末期
古墳時代前期
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃 だーかーらー
22m
日本側で確認出来た海面上昇の値
(要議論)
最古で、16500年前にアメ大陸に行ってたらしいし
日本しかないらしいね、土器の形状とか、いける民族で
>>166
遷都説を補強するに良い情報だね、ありがとう
北九州説、畿内説のどちらかが正しいかというよりも昔北九州にあったヤマトの国が南部のクマの国との争いに負けたか劣勢に追いやられたかして止むを得ず安定的に治められる東の地に移って、後の時代に失地回復(筑紫国君討伐)したというストーリーがしっくりくるんだよね、個人的に ヒマラヤ山脈南周りルートでやってきた東ユーラシア集団はほとんどが沿岸航海だったと考えられてて
そのおかげでヒマラヤ山脈北周り集団より早くやってこれたのよね
この時代は全て手付かずの原生林だから巨木もいっぱいあって船作りには困らなかった
縄文時代の造船所跡はいっぱい見つかってる
高度な造船技術もその積み重ねだったりして
こんなので外用航海できるの?
波浪で側板の接合部が破断しそうだけど
>>107
2重構造で下の船の部分に奴隷が乗り
船を漕ぎ
上の部分に権力者が乗ってたのかな 縄文時代から南西諸島の往来が活発だった事が分かっているんだが。
>>166
破鏡は鏡割りとして現代にも残っている神事。 >>166
>弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国
ここが推測にすぎないしなあ。 >>170
最初はごく少数の移動だったのかもしれないよ。
鉄器や文字といっしょに九州から移動してきた少人数の
人の中から奈良の部族をまとめる人(崇神)がでたと。 狗奴国はいわば昔の堺県で奈良征伐でできたヤマト政権が邪馬台国でしょ
中国から外洋航海で日本に来たんやろ
2500年前って日本で言えばウホウホ期だけど中国だと秦とかあるやん
>>180
日本は縄文時代から南西諸島の貝が
全国に流通していた事が分かっている。 種子島という地名が、侏儒国が起源であり、
これらの南西諸島の小人は、既に、
前4世紀から既に大陸へ往来していた様だ。
舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が
関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されている。
日本人の外洋進出は既に旧石器時代から始まっていた様だ。
中東でバビロニアが滅んだ頃だな
遺伝子にシリア系の人が入ってきた痕跡はあるそうだが
ちなみに神武(崇神)の東征のところで、ニギハヤヒが迎撃してるんだけど、
ここで神武(崇神)とニギハヤヒが同族だって記述がある。つまり神武
(崇神)が東征してくる前にすでにニギハヤヒが移り住んでいて、少なく
とも人を指揮する立場になっていたってことだよね。
さらにこのニギハヤヒの風体が狗奴国のものだという説もあって、つまり
神武(崇神)も狗奴国系の人だった可能性がある。
で、肝心の邪馬台国が出てこないんだけど、それは日本書紀で卑弥呼だと
注釈されている神功皇后とその息子とされている応神のことだと思っている。
つまり、邪馬台国と狗奴国の両方の人が移り住んできていて、最終的に
邪馬台国系が天皇になっていると考えている。
弥生時代初期から、
ゴボウラ貝は沖縄で採って、
南九州で取り引きし、
北部九州で加工して
東北まで飾りとして流通していた。
定期的な海の道が日本を縦断していた事が、
考古学的に確定している。
>>152
準構造船と書いてあるだろ。準構造船は丸木舟の一種だぞ。 邪馬台国の長官副長官が伊支馬と彌馬升と彌馬獲支であり、
コレが生目=垂仁、御間城=崇神とその分家で間違いないだろう。
そして、生目は日向生目の豪族である。
宇佐の山手に神武が東征の際に逗留した場所が、
妻垣という地名として伝承されている。
妻=投馬国であり、日向の豪族が、
垣を作って留まった場所であり、
日向が古い時代に妻、投馬と呼ばれていた事も確定したと言っていい。
宮崎南部で中国の穀璧が見つかったりするから外洋航海はあったんだろう
不彌国から投馬国まで水行20日で投馬国に着いた。
投馬国の長官副長官が彌彌、彌彌那利であり、
コレが美々津、耳川の豪族で、
美々津の港付近が投馬国の都であったことが分かるし、
船で港まで行き来していた結果としての
水行20日である事も分かる。
2500年前って・・・中国では春秋三国時代だから
まあ、あり得るよね。>>1 >>4
大韓民国が日本とハワイに文化を伝えたんだな >>70
確かに今や日本はIT後進国の劣等民族だもんな 邪馬台国の水行10日、陸行1ヶ月は
宇美からの行程であり、
投馬国の半分の水行10日は宇佐であり、
そこから陸行1ヶ月は唐書の記述に基づきおよそ150キロである事が分かっているので、
宇佐から150キロ陸を行った地域=山門八女である。
>>1
たぶんこれだろ
当時の中国で一般的に使われていた構造船の一種
>>139
逆に建設現場では遺物が出てくると工事遅れるから埋め直す事がよくあると現場監督やってた親父が言ってたw 古代の日本と半島と大陸の関わりは中世のヨーロッパ史みたいで面白いんだけど、
各国のネトウヨみたいなのが現代の視点で自分に都合の良いように解釈して暴れるからまともに話せないのが残念
狗奴国の長官は狗古智卑狗であり、
コレは久々知=菊池の豪族であるので、
狗奴国=隈国=熊本であることが確定し、
南を熊本と接する、宇佐から150キロのポイントは山門八女になる。
古代の日本は、既に縄文時代に朝鮮半島南部に進出していた事が、
朝鮮半島南部の縄文土器の出土によって明らかになっており、
また後漢の時代には既に狗邪韓国という国を、
金官伽耶周辺で営んでいた事が分かっている。
このニュース:紀元前500年頃
邪馬台国:2〜3世紀
時代が700年違いまよ。。。
また、水稲は六千数百年前に、
北部九州と朝鮮半島南部の倭国の地域に伝わっており、
そこから、日本列島や朝鮮半島中部に
伝播したことが分かっている。
水稲の伝播は食糧の増加=人口の増加を示しているので、
朝鮮人のルーツは倭人と言うことになる。
秦始皇帝に敗れて、敗走した一部が日本にたどり着いた
船に乗り、台湾、沖縄、南九州にたどり着いたのが弥生人
今の日本人は、混血
縄文人は人口が増えない文明で、弥生が入って一期に人口が増えた
米作を持ち込まれたことで、定住する農耕が出来るようになったのが大きな進歩に繋がったと思う
つまり朝鮮人は日本人だったのか
どうりで両国とも民度低い訳だ
このニュース:紀元前500年頃
始皇帝:紀元前200年頃
時代が300年違いまよ。。。
天皇家はD1a系の縄文系の部族であることがわかっており
天孫降臨時、既に藤原氏=O1b2の祖先を従えていた事が分かっているので、
既に高天原=博多湾周辺に勢力をはっていた奴国の時点で、
縄文人と渡来人は融合していたと考えられる。
>>12
藤村新一は石ころ(石器)だから簡単ごまかせた。
こんな大きなものごまかすのは組織的のやらないと無理。
藤村氏の一件から、考古学の資料の調査は慎重になってるので、
ほいほい人を騙すような発表はできなくなったと思いたい。 朝鮮に文明らしき歴史が残ってるのは
2000年前からなんだけどね
それの大部分がファンタジー
古代に畿内に西日本から異文化がもたらされた時代は、
奴国の安曇族が銅剣銅矛文化をもたらした弥生後期と、
天皇家が東征をして大和政権を誕生させた古墳時代前期がある。
神武の東征以前に、大和には饒速日命が天孫降臨をしていたと言う事で、
饒速日命=奴国の安曇族であり、
これと天皇家が同じ地域の出身であると言う事で、
天皇家もまた、奴国から、日向の地に
移住していった事が分かる。
弥生時代の船による流通は、
ゴボウラ貝文化圏として、
沖縄から北海道南部まで既に確立されていた事が分かっている。
また前4世紀には、既に南西諸島の小人が、
大陸へ往来していた様だ。
貝の道を担当していたのは、
この南西諸島の小人達であり、
C1a1系の部族で、
外洋航海の技術は、
客観的に見て、
この南西諸島のC1a1系の部族から
伝わったものだろう。
🇯🇵日本語はやっぱりアルタイ語系?
母音が多過ぎるとか言う人いるけど
🇭🇺ハンガリー語14もあるじゃん 漢字の読みには呉音と漢音がある
呉音は弥生時代の漢字の読みだろ
>>25
神の手は
炭素年代測定では判別できないんだが
馬鹿かwww >>181
南西諸島っていっても宮古島から断絶だろ
縄文土器も宮古島から以西には出ない
300キロ離れてるからね
だから台湾の遺伝子と沖縄の遺伝子が混ざってない >>170
クマの国が南部だとしてそこにヤマトが争いで負けたのなら
どうして北九州にクマの国が入植してないんだ? 縄文人は漁業と海運業中心で、海岸線沿いに定住してた感じなんだろうね。
だから陸生文化を持つ弥生人が内陸部に入植し易かったんだろう。
んで、農業中心で定住すると土地の所有権争いが避けられないからヤマト大乱に繋がると。
>>222
現在の稲作はそうだね。
唐を攻めようと半島に渡った戦国大名たちは、食料が現地で調達できずに苦労してる。
半島人は水車が作れなかったので、灌漑の技術が低かった。 鳥取県の青谷上寺地遺跡の弥生人のDNA分析により、
2人がC1a1系、D系が1人、1人がO系である事が分かった。
貝の道を担当していた南西諸島の部族が、
既に日本各地に根ざしていた事が分かる。
天皇家を日向に案内したC1a1系の部族の猿田彦は、
その後伊勢に帰って行ったと言う。
当時から、C1a1系の部族の行動範囲の広さを物語っている。
ネトウヨが日本人の遺伝子は固有で日本列島で発祥したと言っていた
世界最古の磨製石器は日本から出土している。
この磨製石器が、木材の加工技術の発達をもたらし、
外洋進出をいち早く成功させたのだろう。
>>187
ニギハヤヒこそが邪馬台国の王だと思うよ
だから物部氏=卑弥呼の邪馬台国の子孫
物部氏は古代から続く神道の守護者
卑弥呼の鬼道が神道の原型かもしれないし >>230
ムー大陸からの難民が日本にたどり着いたのかもな スンダランドからはもっと太古から来てるだろうし、あっちには2万年以上前のピラミッドあるから三輪山やクロマンタなどの山岳信仰はそこからだろ。
>>232
説によれば、🇭🇺ハンガリー人は自分が👽宇宙人だということを隠しているが、それでも隠しきれない3つの特徴があるという。その特徴が本説の根拠となっている。特徴の1つは、🇭🇺ハンガリー人には放浪癖があることである。2つ目はその言語で、ハンガリー語は周辺諸国のどの言語とも類似性が無い。3つ目は🇭🇺ハンガリー人の並はずれた知能である[1][5] もう稲作が半島経由でやってきた
という妄想は廃棄されたんだな
>>236
ゴッドハンド藤村の件が有ってから、考古学は怪しい科学に成り下がったよな 中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説がある
2500年前といえば太伯が建てた句呉が滅んだ頃
王族を含む多数の国民が日本各地に流れ着いたのだろう
そして大陸に戻ることを諦め、日本に根付くことを決意し、船を分解してリサイクルした
姫や紀のつく地名や苗字はたくさんある
松のつく苗字のうち何割かは太伯の子孫だろう
よく調べれば周の風習が日本に根付いていたりもするだろう
>>12
石をいくつか埋め戻したのと全く違うからw
発掘報告書も出していないようなのを
「世紀の発見!!」とか新聞の一面トップに書いてた新聞社がバカだっただけ。 昔ベトナムのボートピープルの乗ってたボロ船もかなりの数が日本に漂着してたから
江南から来るのはもっと簡単でしょうね。台風シーズンは避けないといけないけど。
縄文文化、中国南部東南アジアの文化、中東の文化、インドの文化が合体したのが日本な気がするな
巨石信仰、樹木信仰、稲作発酵食品、烏帽子狩衣鷹狩り方違、仏教
近年では森安孝夫や李正宇らの研究によって、821年の長慶会盟の際に唐とチベット帝国とウイグル帝国による「三国会盟」が締結されたことが分かってきている[8]。
対等同盟?
>>238
藤村が旧石器にこだわったのは、石器に対しては科学的な測定法がないから
土器が出る縄文以降は、放射性炭素測定法があるので年代をごまかせない
🇰🇷🇰🇵何百年も前から鈍ってるw喋れないw 特に春秋以降数百年程度は多くの国々が滅び、その都度王族や国民たちが脱出しただろう
海へ逃げると黒潮や対馬海流に乗って自然に日本に流れ着く
九州に流れ着いた人々のうち
呉の姫氏(のちのヒミコ、磐井など)
陳の袁氏(のちの継体など)
楚の熊氏(のちの熊襲?)
が勢力を拡大し連合王国のようなものを築いた
この王国は大宰府を首都とし福島あたりまで勢力を拡大した
種々の事情により副都として前期難波宮を置いたところ、こちらの勢力が拡大した
一方で大宰府を首都とする本家は白村江の戦いで急速に力を失った
701年には難波宮勢力による大宝律令制定を許し
720年には本家の残党が完全に滅ぼされた
>>97 なぜかテストの日に生理を訴える水兵が多かったのではないだろうか >>249
銅鐸なんかは周王朝の青銅器にそっくりなのあるしな
春秋戦国時代って背景から日本に逃れたって感じがしないでもない つかさ、自分の国の資料すら
ろくに調べずに🇯🇵日本人バカにしてるの?
>>242
1万年以上つづいた縄文文化を基礎とし
中国南部、東南アジア、中東、インドその他からいろいろ流入したのだろう
ただ、バカな学者や教科書どもが何となく主張するように
どれかが他を塗りつぶしたとかいうことはなく
縄文の上に降り積もった感じだろうな
その証拠に日本語の由来がいまだによくわからない
ポリネシア語ヘブライ語etcの影響を受けているという話はあるが
系統的に直系のご先祖といえるものが見つからない
もしある文化が他を塗りつぶしたのならこんなことにはならないだろう
日本列島に漂着した人々は郷に従いつつ定着する決意をし、
日本語を身に着け、日本に様々なものをもたらした >>251
日本人の多くが太伯の末裔と主張しているのは漢人だしな
日本人とも太伯とも関係ない第三者の漢人たちが、そう主張している キノミヤ信仰が漂着物を祀るというのは
自分たちの祖先たるキ=姫氏が漂着してきたからではないか
春秋で落ちのびてきた太伯の末裔の一部は伊豆半島〜神奈川西部に流れ着き
ある程度の勢力範囲を築くに至り数か所に「姫の宮」を設けた
この信仰には周の風習がある程度保存されている可能性がある
>>255
25才で子をもうけても、最低でも100世代は経ってるな
16才だと156世代
だね 原始時代の東シナ海から沖縄あたりは遠浅で渡ってくるのにそれほど困難は強いられなかったと聞いた
>>239
ID:tso6miQ70
819: ニューノーマルの名無しさん 04/25(日)19:11 ID:tso6miQ70(1)AAS
まぁでもこれだけの美少女なんだ
誰だってマンコ画像あったら写真撮るよな?
教頭に罪はないと思うぜ 「呉服」とか「越国」とか江南起源っぽいのが今も残っているしな。
昔の「蛇頭」やベトナムボートピープルの件から考えても、渡来人が100%半島経由と言うのは
あり得ないね。別に半島は半島で来てただろうし、それ自体は問題ではないが。
春秋以降に九州に流れ着いた人々のうち
呉の姫氏(のちのヒミコ、磐井など)
陳の袁氏(のちの継体など)
楚の熊氏(のちの熊襲?)
が勢力を拡大し連合王国のようなものを築いた
これらのうち袁氏と熊氏が組み姫氏勢力の追い落としを図った
この策略は成功し、磐井の子である葛子は消息不明となり
以降姫=紀氏は権力争いからいったん脱落した
いまだに謎だらけの耶馬台詩はのちの姫=紀氏一族の誰かが
このへんの勢力争いを語ったものである可能性がある
耶馬台詩
東海姫氏國(東海の姫氏の国)
…
葛後干戈動(葛後干戈動き:葛=磐井の子=姫氏)
…
猿犬稱英雄(猿犬英雄を称す:猿=袁氏、犬=狗奴国=熊氏)
…
星流飛野外(星流れて野外に飛び)
鐘鼓喧國中(鐘鼓国中に喧し)
丘與赤土(青丘と赤土と)
茫茫遂爲空(茫茫として遂に空と為らん)
🇯🇵日本人に教えてあげたカタカナwwwww >>177
そこらへんは日本史板で研究され尽くしてるところだから
狗奴国の土器である免田式土器が古墳時代に入ると後継の形式も残さず消滅することから
狗奴国は邪馬台国によって滅ぼされたというのが有力
751 :日本@名無史さん :2020/07/26(日) 01:44:14.55
免田式土器という弥生土器のグループがある
卑弥呼の時代に作られた土器であり、古墳時代に入ると消滅する
その分布を見ると、免田式土器は狗奴国の土器であると考えられる
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同lじ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇地域
菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれはそこで生産されたのではなく交易などによって散発的に拡散したものだろう >>265のつづき
752 :日本@名無史さん :2020/07/26(日) 01:45:38.02
>>751の奈文研にある資料のpdfにあった免田式土器の分布や説明に解説をつけたもの
やはりどう見ても菊池川より北は邪馬台国側のようだ
753 :日本@名無史さん :2020/07/26(日) 01:58:13.05
>>751-752を総合すると、魏の使者が上陸した九州北岸から熊本の菊池川以北が共立国を含めた女王の勢力圏であり
菊池川以南の熊本平野、人吉盆地、阿蘇地域が狗奴国の主な国邑だろう
狗古智卑狗=菊池彦からの推論で菊池は狗奴国というイメージが強いが、菊池と呼ばれる地域は南北に広く、
菊池川よりもっと南の白川流域にも熊本県菊池郡が存在しており、狗古智卑狗の本拠地はそちらと考えられる
菊池市の菊池川以北に肥後の山門(肥後國菊池郡山門郷)があるのも無関係ではあるまい
これらから考えられる邪馬台国の位置は>>190に近いものとなるだろう 稲作すらできない紀元前ジャップに造船ができるわけがない
はい論破
ネトウヨはTikTokやったほうがいいわ
ビビるぞ
韓国人の背を5cm低くしたような劣化版ジャップの姿に
顔のブサイクさだけは朝鮮人譲りだが、それでいて背は低いという
まさにゴミのような劣化ウンコ人種がチョンジャップ
ジャップ体型の特徴は、四肢が十分に発達しておらず、身長が終わってることだが
これはなぜかというと、ジャップが毎日食べている大豆のイソフラボンがエストロゲンと同様の働きをするため
すでに学界ではエストロゲンに身長の伸びを止める作用があることが大々的に報告されたが
大豆を主食にしてしまったジャップの身長が伸びることは永久にないw
氷河期が終わって、東南亜の水没大陸からスンダランド人が
船で大量に渡ってきて、原住のシベリア人と混血して縄文人
になったのが既に知られているのに、弥生期なら船余裕。
物で証明できることは普通に良い事だと思う
スレタイを見た時はなんかうさん臭いと思ったけれどw
朝鮮人みたいに「だからおらの民族は優秀ニダー」とか言い出さないのならばぜんぜんOK
>>1
中津野遺跡から出土された国内最古級の船材でできた2500年前の「準構造船」を撮影の際は、下記の決まりを遵守願います。 インスタ映えすること請け合いです。
■◇◎◇■◇□◎撮り船の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・お天気の良い日に、背後に太陽のある角度で、連写せずに一発撮り、つまりバリバリ順光でサクッと「バリサク」で撮りましょう。
決まりその2・船の側面を7・前面を3の比率で撮れるよう、つまり「シチサン」で船が収まるように、立ち位置をしっかり決めましょう。
決まりその3・大好きな船です。船が構図いっぱい「カツカツ」になるようにズームしまくりましょう。
決まりその4・主題はあくまでも船舶です。画面の真ん中に、つまり「日の丸」のように堂々と入れましょう。
決まりその5・撮影地での撮影前には、下記の撮り船のお題目を復唱し、正統的な船舶写真が撮れるようにしっかり復習しましょう。
バリサク・シチサン・カツカツ・日の丸
バリサク、シチサン、カツカツ、日の丸
バリサク・シチサン・力ツ力ツ・日の丸
バリサク、シチサン、力ツ力ツ、日の丸
バリサク。シチサン。力ツ力ツ。日の丸。
バリサク,シチサン,力ツ力ツ,日の丸
バリサク.シチサン.力ツ力ツ.日の丸
バリサク*シチサン*力ツ力ツ*日の丸
■◇◎◇■◇□◎三脚の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・三脚を使って撮影する撮り船は、手持ち撮影に慣れてない「初心者」ですから、あたたかく見守ってあげましょう。
決まりその2・撮影地ではベストポジションで撮影したいものです。事前に「置きゲバ」して自分の場所を確保しましょう。
決まりその3・置きゲバした三脚が自分のものだとわかるように、“熊出没注意”とか“弱冷房船”といったシールを「ベタベタ」貼って、しっかり目立たせましょう。
決まりその4・置きゲバに使う三脚は、他の撮り鉄に盗まれたり壊されたりしてもいいように、「安物」を使いましょう。
初心者・置きゲバ・ベタベタ・安物
初心者、置きゲバ、ベタベタ、安物
初心者。置きゲバ。ベタベタ。安物
■◇◎◇◇◇□◎船拍照的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・在美好的一天,讓我們在幕後以一定的角度拍攝一張照片而不進行連續拍攝,也就是説,讓我們快速拍攝直射陽光“上低音薩克斯風”。
規則第2部分・讓我們決定站立位置,以便船可以在“7:3”處進行,以便船的一側可以在7處,前部以3比率進行。
規則第3部分・這是我最喜歡的火船。讓我們放大火船,使它“幾乎”充滿了構圖。
規則第4部分・該主題是一隻航路船到最後。讓我們把它放在屏幕的中間,就像“日本國旗”。
規則第5部分・在拍攝地點拍攝之前,讓我們回顧下面拍攝的拍攝對象並仔細檢査,以便拍攝合法的航路照片。
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風,7:3,炸肉排炸肉排,日本国旗
■◇◎◇◇◇□◎三脚架的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・用三脚架拍攝拍攝船是一個不習慣手持拍攝的“初學者”,所以讓我們熱情地觀看。
規則第2部分・我想在拍攝地點拍攝最佳位置。讓我們提前“提前”確保“你的位置”。
規則第3部分・正如可以看出哥巴三脚架的地方是他們自己的事情,密封件,如“熊出沒注意”或“弱空調船”“黏黏”,讓我們堅定地站在。
規則第4部分・讓我們使用“便宜的東西”,以便用於你的位置的三脚架可以被其他射撃船器盗走或摧毀。
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者。你的位置。粘粘。便宜的東西 >>1
中津野遺跡から出土された国内最古級の船材でできた2500年前の「準構造船」を撮影の際は、下記の決まりを遵守願います。 インスタ映えすること請け合いです。
■◇◎◇■◇□◎撮り船の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・お天気の良い日に、背後に太陽のある角度で、連写せずに一発撮り、つまりバリバリ順光でサクッと「バリサク」で撮りましょう。
決まりその2・船の側面を7・前面を3の比率で撮れるよう、つまり「シチサン」で船が収まるように、立ち位置をしっかり決めましょう。
決まりその3・大好きな船です。船が構図いっぱい「カツカツ」になるようにズームしまくりましょう。
決まりその4・主題はあくまでも船舶です。画面の真ん中に、つまり「日の丸」のように堂々と入れましょう。
決まりその5・撮影地での撮影前には、下記の撮り船のお題目を復唱し、正統的な船舶写真が撮れるようにしっかり復習しましょう。
バリサク・シチサン・カツカツ・日の丸
バリサク、シチサン、カツカツ、日の丸
バリサク・シチサン・力ツ力ツ・日の丸
バリサク、シチサン、力ツ力ツ、日の丸
バリサク。シチサン。力ツ力ツ。日の丸。
バリサク,シチサン,力ツ力ツ,日の丸
バリサク.シチサン.力ツ力ツ.日の丸
バリサク*シチサン*力ツ力ツ*日の丸
■◇◎◇■◇□◎三脚の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・三脚を使って撮影する撮り船は、手持ち撮影に慣れてない「初心者」ですから、あたたかく見守ってあげましょう。
決まりその2・撮影地ではベストポジションで撮影したいものです。事前に「置きゲバ」して自分の場所を確保しましょう。
決まりその3・置きゲバした三脚が自分のものだとわかるように、“熊出没注意”とか“弱冷房船”といったシールを「ベタベタ」貼って、しっかり目立たせましょう。
決まりその4・置きゲバに使う三脚は、他の撮り鉄に盗まれたり壊されたりしてもいいように、「安物」を使いましょう。
初心者・置きゲバ・ベタベタ・安物
初心者、置きゲバ、ベタベタ、安物
初心者。置きゲバ。ベタベタ。安物
■◇◎◇◇◇□◎船拍照的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・在美好的一天,讓我們在幕後以一定的角度拍攝一張照片而不進行連續拍攝,也就是説,讓我們快速拍攝直射陽光“上低音薩克斯風”。
規則第2部分・讓我們決定站立位置,以便船可以在“7:3”處進行,以便船的一側可以在7處,前部以3比率進行。
規則第3部分・這是我最喜歡的火船。讓我們放大火船,使它“幾乎”充滿了構圖。
規則第4部分・該主題是一隻航路船到最後。讓我們把它放在屏幕的中間,就像“日本國旗”。
規則第5部分・在拍攝地點拍攝之前,讓我們回顧下面拍攝的拍攝對象並仔細檢査,以便拍攝合法的航路照片。
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風,7:3,炸肉排炸肉排,日本国旗
■◇◎◇◇◇□◎三脚架的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・用三脚架拍攝拍攝船是一個不習慣手持拍攝的“初學者”,所以讓我們熱情地觀看。
規則第2部分・我想在拍攝地點拍攝最佳位置。讓我們提前“提前”確保“你的位置”。
規則第3部分・正如可以看出哥巴三脚架的地方是他們自己的事情,密封件,如“熊出沒注意”或“弱空調船”“黏黏”,讓我們堅定地站在。
規則第4部分・讓我們使用“便宜的東西”,以便用於你的位置的三脚架可以被其他射撃船器盗走或摧毀。
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者。你的位置。粘粘。便宜的東西
。。。、、
『魏略』や『晋書』、『新撰姓氏録』など各史書が記すとおり、紀元前473年、中国・揚子江(長江)河口の北側にあった呉国が対岸の越国に滅ぼされ、支配者層が船に飛び乗って列島へ逃亡してきたのだ。
紀とか木、基、記などいろんな漢字で表されている姫氏の本貫地は九州の西北部分だったのだ。ただ、漂着した紀氏は呉国の紀氏だけではなかろう。中国の戦国時代、中国のあちこちに50ケ国近くあった紀氏の国は次々と秦によって滅ぼされた。記録はまだ見つからないが、このうちいくつかの国の人々は故国を捨てて列島に逃げたのではないかと思われる。故国に止まっていても悲惨な運命が待ち受けているだけだからだ。
沖縄の先着民はスンダランド系南方人で多くの人骨が発掘されてるのちに大陸や東南
アジア系が混じったのが沖縄人、九州と沖縄は世界一激しい黒潮が隔てて断絶してた
古来から大陸人は沖縄近海で色んな貝を採取してた貨幣目的もあった、沖縄で秦王朝から
から清までの多くのコインが発掘されてる、沖縄各地の城から大陸や東南アジア朝鮮の
物品が大量に発掘されてるが九州文化発掘されてない、沖縄各地の城も九州や本土と全く
ひらがなの教科書ですら、
間違ってるぞ🤣🤣🤣
アホや、あいつらw 方角を間違えたとする邪馬台国畿内説は大嘘つきだな
魏志倭人伝における行程の謎:陳寿の編集ミス
■中国における既知の情報
郡
↓約7000里
狗邪韓国(半島南部)
↓
対馬海峡 約3000里
↓
末盧国
↓500里
伊都国(福岡県糸島市)
↓100里
奴国(福岡県博多湾付近)
↓100里
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
■魏に朝貢した倭人から得た情報
帯方郡から←この一文が欠落している
↓船で南に二十日
投馬国(半島南部)
↓船で南で十日
邪馬台国(北部九州)に上陸後伊都国で入国許可を待つ
↓
卑弥呼に会えるまでに一月かかる
(陸行一月ではなく、上陸後一月という意味)
相変わらず準構造船の形がまともに浮きそうも無くて納得いかない
まぁ縄文時代から大陸と盛んに交流してるわけだからな
外洋に出られないというのがそもそもおかしいわけで
外洋を渡る船がないと言うのはありえない
鶴林玉露(1248)中国
訛り発音の変化が見えてくる。
()内は日本語翻訳
「牧隊(?)安撫」
「在国司(?)通判」
「殿羅罷(ヒ デル?罷殿羅の間違いかもしれない)秀才」
「黄榜(オボウ)僧」
「松蘇利必 (スズリ)硯」
「分直(フデ)筆」
「蘇彌(スミ)墨」
「加是羅(カシラ)頭」
「提( テ ) 手 」
「媚( メ ) 目 」
「窟 底( ク チ ) 口 」
「皮 部(ヒフ)顔」
「母児(ムネ)胸」
「叉児(スネ)脛」
「下米(アメ)雨」
「客安之(カゼ)風」
「洗和(シオ)塩」
「沙嬉(サケ)酒」
中国へ日本語伝えたのは
お坊さんなんだから(安覚)
「ん」喋れるんじゃ?
ところで、
パスパ文字からハングルへ借用語無いの?
>>279
邪馬台国の末裔だったら別に卑弥呼の直径じゃなくてもいいだろう。
邪馬台国=物部王国
ってしておくと何気にシックリくる。物部氏が大和王権で重要な地位を占めて天皇家とも
繋がり深い別格の豪族なのも前王朝の末裔と言うならあり得る。 つか、🙏宗教をやるのに
文字無くてできるのか?
政治的理由あるのか、
重要な部分隠してね?w
🇯🇵日本人ってテュルク系なのかな…やっぱり。
つか、🇷🇺👀ぐーぐるあーす
で全部丸見えだろw
カッコ悪いwwwww
C1a1系の部族の猿田彦?
妄想前提で語りすぎですよ
歴史だけでの詰めもやってないとか?
その上諸学からの探求も必要
鈿女とのペアの2重性などで考えてC1a1?
1つの説ね
C1a1系の歴史上の有名人は豊臣秀吉がいる。
豊臣秀吉の別名は猿。
C1a1系の部族は猿に似た風貌をしていることが分かる。
また、鳥取県の青谷上寺地遺跡の弥生人のDNA分析により、
2人がC1a1系、D系が1人、1人がO系である事が分かった。
実際にC1a1系の部族が、
日本列島に広く分布していた事が分かる。
弥生時代に沖縄から北海道南部まで、
定期的な航路である貝の道を
作り上げていたC1a1系の部族。
その行動範囲の広さは、
まさに、高天原=博多湾周辺から日向に道案内をし、
伊勢に帰って行った猿田彦を輩出した
部族と言っていい。
ひらがなや訓読み漢字じゃなくて、
なんで中国語で記録したの?
考え方によっちゃ、朝鮮以下の学力じゃね?w
中国語をそのまま輸入していれば今頃日本は北朝鮮のように中国の属国だったろう
中国語を日本語で読み下すというテクを編み出したことによって
日本は古代中国の良いとこ取りをすることができた
読み下しの発明は句呉や陳などから脱出し日本に移住した人々が
日本人として生きていく覚悟のあらわれでもあっただろう
こんな昔から倭寇が平和の東海を荒らしていたなんて、
戦犯国民として恥ずかしい
>>240
考古学学会もそれにガッツリ乗っかって、
教科書すら書き換えてるから
無能の集まりなんだよこの業界は >>86
韓国人のガイドが
「新羅はしらぎ、なんて日本語でも朝鮮語でも読まないのに!」って怒ってた >>86
百済
日本語ではクダラ
朝鮮語ではペクチュ
中国語ではバイジ
共通点何にもないな >>86
蛮族ばっかりとかw
白村江の戦いの時は日本に全面依頼だぞ
それ以前からだけど
三国史記読んでみ
百済新羅は日本にずっと人質出してたからね
なんかあると倭軍が半島行って収めてたんだよ
数日で首都包囲してね
朝鮮人が書いたもんだからなw
昔なチョンは今よりマシだったんだな >>302
百済は日本語だとヒャクサイとも読めるな >南さつま市金峰
ググると九州の南西の端っこだな
隼人の先祖が乗ってたのかな
>>301
🌾上代日本語聴くとおったまげるぞ。
別言語で 古代日本が蛮族というのは事実だろ
倭人が大陸に進出しようと何度も半島に戦争しかけようとした事実からそれははっきりしてる
野蛮だからこそ攻撃的だっただけ
>>284
物部ってハニトラうまいよな
卑弥呼の国なら妙にあうw 2500年前でこのレベルなら
3000年の海洋国家の証拠だ
>>240
あれあのおっさんだけのせいじゃないからな
その師匠筋たちから続く一連の流れ無視しても意味ない 抱合語(incorporating language/polysynthetic language)
アイヌ語
「私が魚をとった」
を「kani(私) cep (魚)ku=koyki(私がとった)」
動詞の中に取り込むこと(名詞抱合)も可能
「ku=cep-koyki(私魚とる)」
>>17
丸木舟にアウトリガーつけた東南アジアや南洋諸島によく見られるやつだろ ついたのが日本列島なら当たりだけど
風船おじさん以上のチャレンジだよな
そんなに祖国がいやだったのか
>>308
百日紅:さるすべり
百両金:からたちばな
百足:むかで
百舌:もず 「我々のまとめ役は当代の姫巫女さまです」
「なるほど、倭王の名は卑・弥・呼と書いておこう」
>>312
神武東征で前に立ちふさがった大国で邪馬台国に相当する国はニギハヤヒの物部王国しかない
神武東征で物部王国はほとんど戦わずして降伏して、国家は統合された
物部氏は天皇家と婚姻関係になり同族みたいになる。
物部氏が古代から続く神道の守護者として仏教より重視したのは、邪馬台国の末裔の
誇りがあったからだと思うね。ニギハヤヒは台与の子孫かもね。 ふと検索で調べてたんだが
日本各地のまんこの呼び方/方言
オハコ(鹿児島市)
マンジュウ
マンズ(鹿児島市)
マメ(鹿児島市)
ボボ(鹿児島市)
オマンコ(鹿児島市:女児)
モッチョ(種子島)
ヒー(名瀬市)
鹿児島は呼び方の種類が他県より豊富だね
>>323
2500年前といえば大陸は春秋戦国時代
陳や呉などが滅んだころ
とくに支配層はそのままいてもほぼ確実に命がなかったろうし
海に逃げるしかなかったんじゃないかな
そして流れ着いた見知らぬ土地で、まずは生きるために井戸を掘った
乗ってきた船を解体して孔壁補強の材料とした
大陸への未練など無かっただろう この当時の弥生系と思われる人骨は西の方に向いているのが多いんだよな。
故郷が大陸にあるからなんだと思う。
縄文系はそんな事ないけど。
>>332
ところが大和朝廷成立後まもなく
日本の支配層と大陸の支配層との混交を示す資料が禁書扱いになった
この時点で大陸への未練を断ち切ったのだろう 根本的にチナは関係ないんだよ。
コレは沖縄から北海道南部まで連なる、
貝の道を担った定期船の船だからな。
>>3
縄文時代から日本海側は行き来激しかったっぽいけどね
新潟産のヒスイとか北は青森まで見つかってるんだから >>333
郷に入っては郷に従え
はまさに日本らしい思想
半島や大陸からやってきた人たちは生まれ故郷への未練を断ち切り日本人として生きていく道を選んだ
世代を重ねればもうそこが故郷
戦乱を逃れてきたボートピープルであった子孫たちとはもう違う >>3
え!?
朝鮮人に造船技術とか無かったけど??? >>12
韓国の考古学はそんな感じだな。
本当にイジるのが好きな民族だよw >>335
房総以南でしか取れないイモガイで作られたアクセが北海道で出土したり太平洋側の方が往来が激しいイメージ