高木智子2021年3月30日06時30分
「80歳のアイドル」と呼ばれたカリスマ販売員の女性が3月31日に売り場を退く。宮崎市の老舗百貨店「宮崎山形屋」の靴売り場でトップセールスを続けてきたが、「傘寿」を機に退職を決意した。長年の得意客らが続々と来店し、列をなして名残を惜しんでいる。
「本当に充実した日々だったんです。でも、デパートには若い感性が必要だとも思って……」。宮崎山形屋新館1階にある婦人靴店「銀座ヨシノヤ」の販売員、畦崎(あぜざき)ヒサ子さん(80)。明るい笑顔が売り場の看板だった。
地元宮崎の出身。1959年、高校卒業と同時に宮崎山形屋に就職した。靴やバッグの売り場で8年勤め、結婚を機に退職。20年ほど専業主婦として暮らしたが、夫と死別すると、元同僚たちから「戻ってこない?」と声がかかり、89年に靴売り場にパートで復帰した。48歳になっていた。
長年のブランクに戸惑うこともあった。
「左右違うサイズの靴をお渡ししたり、金額を間違えたり。お客様からたくさんおしかりをうけました」。失敗を繰り返すうち、「お客の声をしっかり聞く」という姿勢が身についていった。
座ったお客の前でひざをつき、低い目線でお客の趣味や注文に耳を傾ける。接客時の言動の一つひとつが美しいと、お客や同僚の間で評判が広がった。本人は「私の所作や言葉遣いは、明治生まれの母親仕込みなんです」と話す。
復帰して5年で、山形屋にもテナントを持つ銀座ヨシノヤから契約社員として迎えられた。全国に約70店を展開する同社の中でも、顧客数や売り上げがトップクラスに。社内でも「宮崎のお店に素敵な人がいる」とその名が知れ渡った。
販売の秘訣(ひけつ)は何か――。
「真心だと思うの。売ろう売ろうとせず、相手が何を求めているのか、無心でじっくりと話を聞くことです」。足や靴選びの悩みに寄り添い、親身になってお客に合う商品を探した。「お客様のことをよく覚え、その方に似合う靴を見つける名人」(銀座ヨシノヤの宮崎山形屋店の店長)として信頼を集めた。
お客が2度、3度と来店するたびに会話は深まり、靴の好みはもちろん、家庭や健康のことも打ち明けられる。お互いの人間関係が深まり、常連客は靴を買う予定のないときも、まず畦崎さんに会って話をして、それから洋服や食品の売り場へ向かうようになった。
畦崎さんは営業時間外にも努力を続けた。300人を超す常連客に、手書きのはがきを季節ごとに送った。
70歳でヨシノヤの定年を迎えると、「こんなに顧客に愛されている人はいない」と、今度は宮崎山形屋が異例の措置として特別嘱託社員として採用した。
それから10年。3月に80歳となり、一線を退く決心をした。「さまざまの事(こと)思ひ出す桜かな」。芭蕉の句とともに退職を伝えるはがきを書いた。
いま、約40平方メートルの売り場には、畦崎さんが選んだ靴を履いた女性たちが集い、畦崎さんと話すために順番待ちをしている。
https://www.asahi.com/articles/ASP3Y4ST2P3XTIPE00C.html?iref=pc_news_list
「80歳のアイドル」と呼ばれたカリスマ販売員の女性が3月31日に売り場を退く。宮崎市の老舗百貨店「宮崎山形屋」の靴売り場でトップセールスを続けてきたが、「傘寿」を機に退職を決意した。長年の得意客らが続々と来店し、列をなして名残を惜しんでいる。
「本当に充実した日々だったんです。でも、デパートには若い感性が必要だとも思って……」。宮崎山形屋新館1階にある婦人靴店「銀座ヨシノヤ」の販売員、畦崎(あぜざき)ヒサ子さん(80)。明るい笑顔が売り場の看板だった。
地元宮崎の出身。1959年、高校卒業と同時に宮崎山形屋に就職した。靴やバッグの売り場で8年勤め、結婚を機に退職。20年ほど専業主婦として暮らしたが、夫と死別すると、元同僚たちから「戻ってこない?」と声がかかり、89年に靴売り場にパートで復帰した。48歳になっていた。
長年のブランクに戸惑うこともあった。
「左右違うサイズの靴をお渡ししたり、金額を間違えたり。お客様からたくさんおしかりをうけました」。失敗を繰り返すうち、「お客の声をしっかり聞く」という姿勢が身についていった。
座ったお客の前でひざをつき、低い目線でお客の趣味や注文に耳を傾ける。接客時の言動の一つひとつが美しいと、お客や同僚の間で評判が広がった。本人は「私の所作や言葉遣いは、明治生まれの母親仕込みなんです」と話す。
復帰して5年で、山形屋にもテナントを持つ銀座ヨシノヤから契約社員として迎えられた。全国に約70店を展開する同社の中でも、顧客数や売り上げがトップクラスに。社内でも「宮崎のお店に素敵な人がいる」とその名が知れ渡った。
販売の秘訣(ひけつ)は何か――。
「真心だと思うの。売ろう売ろうとせず、相手が何を求めているのか、無心でじっくりと話を聞くことです」。足や靴選びの悩みに寄り添い、親身になってお客に合う商品を探した。「お客様のことをよく覚え、その方に似合う靴を見つける名人」(銀座ヨシノヤの宮崎山形屋店の店長)として信頼を集めた。
お客が2度、3度と来店するたびに会話は深まり、靴の好みはもちろん、家庭や健康のことも打ち明けられる。お互いの人間関係が深まり、常連客は靴を買う予定のないときも、まず畦崎さんに会って話をして、それから洋服や食品の売り場へ向かうようになった。
畦崎さんは営業時間外にも努力を続けた。300人を超す常連客に、手書きのはがきを季節ごとに送った。
70歳でヨシノヤの定年を迎えると、「こんなに顧客に愛されている人はいない」と、今度は宮崎山形屋が異例の措置として特別嘱託社員として採用した。
それから10年。3月に80歳となり、一線を退く決心をした。「さまざまの事(こと)思ひ出す桜かな」。芭蕉の句とともに退職を伝えるはがきを書いた。
いま、約40平方メートルの売り場には、畦崎さんが選んだ靴を履いた女性たちが集い、畦崎さんと話すために順番待ちをしている。
https://www.asahi.com/articles/ASP3Y4ST2P3XTIPE00C.html?iref=pc_news_list