ポスト・トゥルース的態度が多くの支持者を集めたことには、多様な情報が溢れ、善と悪の判断が追いつかないなかで、咀嚼しやすい“物語ポルノ”が求められた時代背景がある。世界がパンデミックに侵されるなかで、ウイルスを克服し「人類の生存」に寄与するという明確な「善」が立ち現れるなかでは、まやかしは通用しない (と願いたい)。
これまでも疫病だけでなく危機的状況一般に際して、空間にかかるテクノロジーはアップデートされてきた。例えば、ヘルスコードアプリを可能にしているGPS(全地球測位システム)、Zoomの先祖となる初期のテレビ電話システムは、湾岸戦争を機に急成長した技術である(GPSは兵士の位置を知るため、テレビ電話はビジネス目的での渡航が制限されたため)。
そして、「GreeceFromHome」(ギリシャ政府観光局とグーグルによる取り組み)や「バーチャル渋谷」など、空間のもつ「祝祭性」さえもシミュレートし、再現するような試みが生まれるなかで、わたしたちの生活に対する各空間パラメーターの「重みづけ」は変容していくだろう。
「勤務地への近接性」や「商業施設の充実度」といった「利便性」に基づく変数はもとより、「祝祭性」や「場所性」といった物質空間の特権である(ように思える)「神秘性」に関しても、シミュレート(再現)が可能になったものから順に、そのパラメーターの重みは下がり、オンライン空間で代替されていく(物質空間の神秘性に関しては、1997年のジャロン・ラニアーのインタヴューを参照)。
このように見ると、シミュレータビリティー(再現性)の低い「特質」をもつ空間の価値が相対的に向上していくことになる。シミュレート可能なことはオンラインで済ましてしまえばいいのだから。では、シミュレータビリティーの低い空間とは何か、厳密に定義するまで理解が及んでいないのだが(それゆえシミュレートできず魅惑的なのである)、細野晴臣の『アンビエント・ドライヴァー』の「気持ち良い場所とはどんな場所だろう」の一節の表現が、この「特質」を見事に言い表していると思う。
宮古島なら四月頃だろうか。一斉に虫が鳴き始める季節は海岸に出ると、背後が全面虫の声になる。その途端に瞑想状態に入ってしまう。a波が出て体の温まる感覚があり、飽きることがない。夕方、ジャングルのなかにばっかりとできた空き地に行き、あたりが薄暗くなる頃までじっと待つ。と、ある一点で卿がシャーッと鳴き始める。その一点がだんだんと広がっていき、自分を取り囲んで三六〇度全部が鳴り出す。これがいい。病みつきになってしまって、それを聴くためにまた行こうと思うのだった。(細野晴臣『アンビエント・ドライヴァー』p.58)
ガブリエル・マルセルが「人間を場所から切り離して理解することはできない。人間は場所なのである」と言ったように、空間を理解することは人間を理解することに近い意味をもち、だからこそ意義深いことだとわたしは考えている。上記の仮説のように、シュミレート(再現)が困難な特質をもつ空間に人が価値を見出し、生活圏を移していくのだとすると、その場所に人間(=場所)の「神秘性」とやらを見出すことができるかもしれない。
PQUの日本・東京セクションのわたしの寄稿文では、この場所の「特質」と東京の一極集中の関連性を、都市のもつ「密度」という神秘性の観点から記述している。邦訳し下記に転載したので、目を通してもらえれば幸いである。当記事では、すべての寄稿文については触れることができなかったが、ほかにも興味深い文章が多くあるので、時間のある方はこちらのページから目を通してほしい。緊急事態宣言下、先がまったく見えないなかで書かれた文章に、各国のその期間の空気がアーカイヴされている。
どこにでも住むことが「可能」になることと、どこに住むことを人が「選択」するのかは、まったく異なるフェーズの話であり混同してはいけない。「どこでも」住み・働けるような環境が整ったからといって、ぼくたちはオートマチックに各地に散らばっていかない。いまわかっているのは、生活する場所の「選択肢」が増える可能性は高いというところまで。特筆すべきは、選択肢が増えると場所がもつ「特質」の重要性があがること。その場所固有の価値に焦点が当たり、アクセスのよさだけに甘んじていた場所は選ばれなくなり、しぼんでいく。ウイルスによって「空間からの解放」が注目を集める一方で、大事なことは、そのときにどこが「なぜ」選ばれるかという議論である。
https://wired.jp/series/cultivating-the-city-os/chapter-3/