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桜島フェリーにうどんが登場して、今年で40年になる。「味の長老やぶ金」が船上で提供する一杯は、出店当時と変わらぬ懐かしい味。
片道15分の短い船旅ながら、ついつい食べたくなるソウルフードとして多くの県民に愛されている。
やぶ金は鹿児島市の中心市街地に構えた店舗で天丼を名物にしていた。桜島フェリーに進出したのは1981年。
現在の運営会社「新徳産業」(同市)の社長、新徳國公さん(78)は、販路を広げようと車でうどんの移動販売をしていた。
正月、磯海水浴場で空手の寒稽古をしていた息子たちにうどんを差し入れた。その帰り道、フェリーを待つ車の列が目に入る。
試しに売ってみると飛ぶように売れた。「これは繁盛する」。確信した新徳さんは当時の桜島町長を訪ねて直談判した。
乗り気の町長は「ぜひやってくれ」。フェリーうどんは5分で決まった。
フェリーでの営業は、町議会の賛同を得た後の3月から始まった。今と違い店は甲板にあったため、客がカウンターに置いた千円札が
風に飛ばされ海に消えていくのを何度も見た。1杯200円。「1200円のうどんはうまい」と苦笑いしながら麺をすする客は多かったという。
当時の大人運賃の2倍ながらフェリーうどんはヒットした。500円となった今も平日で400〜500杯を売り上げる。
短い時間でも多くの注文をさばけるように下ゆで済みの生麺を使っている。40年前から変わらない作り方で、かけうどんなら1杯30秒。
2年目に自身がつくった片道68杯の記録は今も破られていないという。
そして一番のこだわりは「だし」だ。実は2000年代、味が変わった時期があった。新徳さんがフェリーから離れ路面店の営業に
力を入れていた頃で、だしの味付けが変わっていた。常連客の不満の声は新徳さんの耳にも届き、06年に現場に復帰。
レシピを40年前に戻した。
「船上と陸上、どちらがおいしいうどんを出せるかと聞かれれば、陸上だ」。新徳さんはそう言いながらも
「桜島フェリーの雰囲気がおいしさを何倍にもしてくれる。『ロマンチックな潮風が最高の薬味』と言ってくれた東京の作家さんもいた」と表情を緩めた。
■12畳の工場、作り置きなし
桜島フェリーのうどんは、住吉町のビル2階の一画、工場と呼ぶのははばかれる12畳ほどの場所で作っている。
「狭くて驚いたでしょう」。案内してくれた社員の五代健さん(41)によると、毎日午前6時から3人でだし作り、製麺、下ゆでを繰り返し、
フェリーまでピストン輸送する。
繁忙期はこの作業の繰り返しで、昨夏のお盆は、午前3時から午後4時まで2500食分を作ったという。
原則作り置きはせず、その日に桜島であるイベントなどから人出を推測し、仕込む量を見極める。新徳産業本部長の新徳慎さん(46)は
「手作りは社長のこだわり。冷凍物を使えばロスは出ないのだが」と苦笑いする。
こだわりのだしには、北海道産昆布と枕崎産のカツオやサバ、ムロアジなどの削りぶし6種類を使用。
60リットルの大鍋を二つ使って約15分間煮出せば黄金色のスープが完成する。
●短い航路 汁物は不向き?
フェリーに乗ったらうどんを食べる−。鹿児島県民にとって何の違和感もない“習慣”だが、全国的には違うらしい。
「うどんを出すフェリーが今でもあるとは。珍しい」。全国のうどん事情に詳しい「日本うどん学会」の武林正樹会長(68)=香川県丸亀市=は
驚きを隠さない。
武林さんによると、うどん文化は小麦の産地で育まれるのが一般的。讃岐地方でもかつて高松と岡山を結ぶ連絡船で提供していたという。
昭和の終わり、瀬戸大橋の開通にあわせて船が廃止され、うどんも消えた。
鹿児島以外の船舶関係者に話を聞くと、桜島フェリーのような短い航路では「温かい汁物を出すという発想がそもそもない」と口をそろえる。
島原港(長崎県島原市)と熊本港(熊本市)を結ぶ熊本フェリーは、飛行機の「空弁」にあやかり「海弁」を一時販売したが定着せず、
ドリンクの充実に切り替えた。
長崎県雲仙市の有明フェリー船内で販売しているのは、カモメに与える「かもめパン」。「乗船客はターミナルで食事を済ませている」(総務課)という。
「鹿児島は“そば県”。家庭でそばを打つ風習はあるが、うどんはない」。鹿児島の食文化に詳しい霧島食育研究会の千葉しのぶさん(57)は
そう指摘し、「フェリーうどんがあと数十年続き、親子孫の3世代から親しまれるようになれば、鹿児島の新たな食文化になる」と話した。
桜島フェリーにうどんが登場して、今年で40年になる。「味の長老やぶ金」が船上で提供する一杯は、出店当時と変わらぬ懐かしい味。
片道15分の短い船旅ながら、ついつい食べたくなるソウルフードとして多くの県民に愛されている。
やぶ金は鹿児島市の中心市街地に構えた店舗で天丼を名物にしていた。桜島フェリーに進出したのは1981年。
現在の運営会社「新徳産業」(同市)の社長、新徳國公さん(78)は、販路を広げようと車でうどんの移動販売をしていた。
正月、磯海水浴場で空手の寒稽古をしていた息子たちにうどんを差し入れた。その帰り道、フェリーを待つ車の列が目に入る。
試しに売ってみると飛ぶように売れた。「これは繁盛する」。確信した新徳さんは当時の桜島町長を訪ねて直談判した。
乗り気の町長は「ぜひやってくれ」。フェリーうどんは5分で決まった。
フェリーでの営業は、町議会の賛同を得た後の3月から始まった。今と違い店は甲板にあったため、客がカウンターに置いた千円札が
風に飛ばされ海に消えていくのを何度も見た。1杯200円。「1200円のうどんはうまい」と苦笑いしながら麺をすする客は多かったという。
当時の大人運賃の2倍ながらフェリーうどんはヒットした。500円となった今も平日で400〜500杯を売り上げる。
短い時間でも多くの注文をさばけるように下ゆで済みの生麺を使っている。40年前から変わらない作り方で、かけうどんなら1杯30秒。
2年目に自身がつくった片道68杯の記録は今も破られていないという。
そして一番のこだわりは「だし」だ。実は2000年代、味が変わった時期があった。新徳さんがフェリーから離れ路面店の営業に
力を入れていた頃で、だしの味付けが変わっていた。常連客の不満の声は新徳さんの耳にも届き、06年に現場に復帰。
レシピを40年前に戻した。
「船上と陸上、どちらがおいしいうどんを出せるかと聞かれれば、陸上だ」。新徳さんはそう言いながらも
「桜島フェリーの雰囲気がおいしさを何倍にもしてくれる。『ロマンチックな潮風が最高の薬味』と言ってくれた東京の作家さんもいた」と表情を緩めた。
■12畳の工場、作り置きなし
桜島フェリーのうどんは、住吉町のビル2階の一画、工場と呼ぶのははばかれる12畳ほどの場所で作っている。
「狭くて驚いたでしょう」。案内してくれた社員の五代健さん(41)によると、毎日午前6時から3人でだし作り、製麺、下ゆでを繰り返し、
フェリーまでピストン輸送する。
繁忙期はこの作業の繰り返しで、昨夏のお盆は、午前3時から午後4時まで2500食分を作ったという。
原則作り置きはせず、その日に桜島であるイベントなどから人出を推測し、仕込む量を見極める。新徳産業本部長の新徳慎さん(46)は
「手作りは社長のこだわり。冷凍物を使えばロスは出ないのだが」と苦笑いする。
こだわりのだしには、北海道産昆布と枕崎産のカツオやサバ、ムロアジなどの削りぶし6種類を使用。
60リットルの大鍋を二つ使って約15分間煮出せば黄金色のスープが完成する。
●短い航路 汁物は不向き?
フェリーに乗ったらうどんを食べる−。鹿児島県民にとって何の違和感もない“習慣”だが、全国的には違うらしい。
「うどんを出すフェリーが今でもあるとは。珍しい」。全国のうどん事情に詳しい「日本うどん学会」の武林正樹会長(68)=香川県丸亀市=は
驚きを隠さない。
武林さんによると、うどん文化は小麦の産地で育まれるのが一般的。讃岐地方でもかつて高松と岡山を結ぶ連絡船で提供していたという。
昭和の終わり、瀬戸大橋の開通にあわせて船が廃止され、うどんも消えた。
鹿児島以外の船舶関係者に話を聞くと、桜島フェリーのような短い航路では「温かい汁物を出すという発想がそもそもない」と口をそろえる。
島原港(長崎県島原市)と熊本港(熊本市)を結ぶ熊本フェリーは、飛行機の「空弁」にあやかり「海弁」を一時販売したが定着せず、
ドリンクの充実に切り替えた。
長崎県雲仙市の有明フェリー船内で販売しているのは、カモメに与える「かもめパン」。「乗船客はターミナルで食事を済ませている」(総務課)という。
「鹿児島は“そば県”。家庭でそばを打つ風習はあるが、うどんはない」。鹿児島の食文化に詳しい霧島食育研究会の千葉しのぶさん(57)は
そう指摘し、「フェリーうどんがあと数十年続き、親子孫の3世代から親しまれるようになれば、鹿児島の新たな食文化になる」と話した。