アーバンライフメトロ2021年1月13日
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23区内に過去二つもあった
日本は積雪に恵まれた自然環境にあり、スキー場は全国に存在します。日本最南のスキー場である「五ヶ瀬ハイランド」があるのは宮崎県です。歴史上、スキー場と名のつく施設がひとつもない、もしくはなかった都道府県は、大阪府、長崎県、鹿児島県、沖縄県の四つのみ……つまり、東京都は含まれていません。
今は都内にスキー場はゼロですが、少なくとも過去にはあったのです。しかも23区内、それも昭和期と平成期でひとつずつ、計ふたつもありました。さて、これといった山がない東京23区内にあったスキー場とはどんなものだったのでしょうか? もちろん山間部に切り開かれた野外のスキー場ではありません。屋根のある斜面で人工雪を滑る、いわゆる屋内スキー場です。
ひとつめは2020年閉園の施設に
ひとつは、2020年8月に惜しまれつつ閉園となった西武鉄道グループの遊園地「としまえん」(練馬区向山)の敷地内に存在しました。その名も「豊島園インドアスキー場」。これは世界初の屋内スキー場だとされ、そのオープンは今から60年以上前の1958(昭和33)年11月と、戦後のレジャーブームの前夜でした。ここは「こども劇場」なる施設を改装して作った小規模なものでしたが、天候を気にせず都内で雪の上を滑れることは、当時としては極めて画期的だったといえます。
西武鉄道グループは更に、屋内スキー場の可能性を模索し、翌年には埼玉県狭山市により本格的な「狭山スキー場」(全長300m)をオープンさせています。豊島園インドアスキー場は、短期間でその役割を終え、いつの間にか、ひっそりと姿を消しています。そのクローズ時期は不明確で、としまえん閉園時の公式な資料でも「撤去年不明」と記されていました。
板橋にオープンした施設は3年でクローズ
23区内のふたつ目の屋内スキー場は、バブル崩壊後の1998(平成10)年11月にオープンしています。当時はスノーボード人口が増大している時期で、同年開催の長野オリンピックではスノーボードが初めて正式種目になりました。
ご存じの人も多いでしょうが、スノーボードの世界はジャンプ台やハーフパイプで飛んだり、そこでトリック(技)を決めたりするなどのカルチャーがあります。その指向が強いスノーボーダーは、スキー場の規模が大きくなくても十分に遊ぶことができるのです。この背景から、90年代の終わりに、スノーボーダーをメインターゲットとした都市型小規模屋内ゲレンデが全国各地に続々と誕生していきます。
そのなかのひとつが、東京23区内にありました。「クールバル東京」という名称で、所在地は板橋区舟渡。埼京線の浮間舟渡駅から徒歩5分ほどという立地のよさでした。クールバル東京は都内にある貴重な施設として注目されましたが、当初の見積もりほどの集客ができなかったのでしょう。残念ながらオープンから約3年後の2001年12月に閉鎖になってしまいます。
このように、過去にふたつあった23区内の屋内スキー場はいずれも短命に終わっています。なお“23区内”という縛りを外せば、都内にもうひとつ、屋内スキー場がありました。2000年頃に東京都多摩市で営業されていた「カムイ多摩」という施設です。しかし、こちらも極めて短期間で閉鎖になっています。
戦争前、後楽園球場がゲレンデになった
都内の常設屋内スキー場の元祖は豊島園インドアスキー場ですが、実はそれ以前に、東京のど真ん中でスキー滑走ができる環境が、一時的に存在したことがあります。それはなんと、第2次世界大戦前のことでした。戦争が始まる直前の1938(昭和13)年2月に後楽園球場(文京区後楽。当時は東京市小石川区)で、「全日本選抜スキー・ジャンプ大会」なる競技会が開かれたのです。
これは、スタジアムにやぐらを組んだ特設コースを設け、そこに外部から運んできた雪を敷き詰めて行ったものでした。また、その特設コースは大会前の期間(約2週間)に一般開放され、多くのスキー客を集めています。この大会は、さらに翌1939年にも行われ、さらに終戦から5年後の1950年に1度だけ復活を果たしました。
時は流れ、後楽園球場の後を継いだ東京ドームでも、同系統の大会が開催されたことがあります。2001年から2008年まで行われていた「X-TRAIL JAM」というスノーボードのイベントです。ドーム内に特設コースを設置し、ストレートジャンプとクオーターパイプの2種目が行われていました。ショーン・ホワイト(のちの3大会連続五輪金メダリスト)ら、海外トップ選手が多く出場することもあり、毎回多くの観客が集まる人気イベントでした(長文の為以下リンク先で)。