◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【歴史】「卑弥呼は中国と外交し、邪馬台国の南にある狗奴国と戦った」 古代日本における女性、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた ★2 [樽悶★]YouTube動画>5本 ->画像>50枚
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国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉市)で現在開催中の「性差〈ジェンダー〉の日本史」(12月6日まで)展が大きな反響を呼んでいる。都心からやや距離があるにも関わらず、平日でも会場は大勢の来場者でにぎわい、メディアの取材も殺到している。
※省略
日本の古代史において、最も有名な女性は卑弥呼であることは間違いない。卑弥呼は3世紀に邪馬台国の王として君臨した。ミステリアスな存在として扱われることの多い卑弥呼が、女性ながら一国のリーダーになれた理由について、祈祷や呪術などスピリチュアルな能力に長けていたためだと信じている人も少なくないはずだ。だが、近年の女性史研究では別の面が見えてきている。国立歴史民俗博物館教授の三上喜孝さんが指摘する。
「これまでの研究では、『女性は神の声を聞くことができる』といった特別な能力が、女性リーダーの誕生する条件だとされてきました。しかし近年、スピリチュアルな言動は男女等しく行われてきたとわかってきた。すなわち、卑弥呼は呪術的な能力に優れていたからではなく、政治的な才能に長けていたからリーダーになったと考えられるのです。実際に、卑弥呼は中国の魏と外交し、邪馬台国の南にある狗奴国と戦いました。外交や戦争には政治的な手腕が不可欠ですから、単なるおまじないの能力だけでは限界があります」(三上さん・以下同)
当時の日本列島に存在した「倭国」は、男や女という性差に重きを置かず、男女が平等に政治に参加できる社会だったこともわかっている。
「中国の歴史書『魏志』の倭人伝によれば、倭国の人々は政治の意思決定の場である『会同』と呼ばれる集会に、男女や年齢の区別なく参加していたことが記されています。現存する史料からは、会同の場で参加者たちの合意を得て、政治的能力の高かった卑弥呼を王にしたことが読み取れます。当時の中国は男性優位の社会で、皇帝はすべて男だったため、女性が王になるのは信じられないこと。そのため、こうした経緯をわざわざ歴史書に記録したのでしょう」
続く古墳時代にも、女性リーダーが数多く存在したことが古墳に埋葬された人骨や副葬品などからわかる。特に古墳時代前期(4世紀)は首長の3割以上が女性だったと考えられる。男性リーダーと女性リーダーが分け隔てなく併存する時代で、性別が政治参加へのハードルになることはなかったのだ。
三上さんが「当時の女性像を知るための重要な発見」と指摘するのが、熊本県宇土市の向野田古墳だ。この古墳は全長90mの前方後円墳で、後円部中央の竪穴式石室から、数多くの副葬品とともに30代と思われる女性の人骨が見つかった。注目すべきは、女性の骨盤の一部に「妊娠痕」が見られたことだ。
「卑弥呼の“スピリチュアルな能力”が重要視されていたかつては、『未婚で子供を産む前の女性は神聖であり、だから神の声を聞ける』というイメージがありました。しかし向野田古墳に埋葬された女性には妊娠痕がある。子供を産み、しかるべき年齢になっても、社会的な経験を積んでリーダーとなり、人々から尊重されていたことを知ることができます」
※省略
性差にこだわりがなかった古代日本にとって大きな転機となったのが、7世紀から8世紀にかけて取り入れた中国の法律体系である「律令」だ。
「当時の日本は国家統一のため、圧倒的に優位だった中国の文化や制度を取り入れました。そのうちの1つである『律令』は男性優位の法体系です。君主である天皇が国を統治するために男と女を分けて区分する必要があったのです」(横山さん)
※省略
突然、社会的、行政的なルールとなった性差は、時間をかけて社会に浸透していった。国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉市)の教授で、「性差〈ジェンダー〉の日本史」のプロジェクト代表を務める横山百合子さんは、こう話す。
「古代より日本は男と女を区別しない時代が長かったので、律令を導入してもすぐに男性優位の社会になったわけではありません。奈良時代には聖武天皇が『男女が並んで仕えるのが道理だ』との詔を発し、男女とも等しく奉仕することを求めました。実際のところ、宮人も朝廷で活動していましたし、地方には女性の豪族がいたこともわかっています。(続きはソース)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20201109-00000014-pseven-soci
★1:2020/11/13(金) 16:00:18.43
http://2chb.net/r/newsplus/1605250818/ 関連スレ:
【鹿児島】「双性」巫女役の10代男性人骨、60年ぶり里帰り 精緻な貝製装身具と“再会” 南種子・広田遺跡ミュージアム
http://2chb.net/r/newsplus/1605276937/ >>2 豪族<<<<<<<<<<<<<<<<<<<王
さあて来週のサザエさんは
タラちゃん陸行水行
カツオ鬼道をもちいて衆を惑わす の巻
狗奴国ッ
よくわかない事を推測で歴史や文化にするのはよくない
>>2 どの程度の国だったかはよくわからんが貢物の量は大したもの
実際、卑弥呼の記述って、どのくらいあるん?
まさか、チャングムより少ないってことないよな。
(´・ω・`)
占い師みたいなもんだろ?女性の地位として今と比べていいものか
纒向遺跡は外部勢力による近畿地方征伐の前線基地かもな
卑弥呼は兵たちを鬼道で束ねていたんやろね
>>10 文字がないのあるわけがない
魏誌にほんのわずかあるだけや
小野妹子は女性。
とか言い出しそう
(´・ω・`)
>>1 儒教と孔子がすっげー真犯人。はっきりわかんだね。
つーか、明智光秀すら謎が多くて
実際の年齢すらわからんのに
実在しているかわからん卑弥呼のことがわかる訳ないだろ。
(´・ω・`)
卑弥呼の恋人が大陸に渡って劉備になるマンガを読んだことがある。
>>18 ある意味壮大だが劉備の設定破綻しているよな 劉邦の血筋だけが劉備の拠りどころなのに
そんなんで女性の社会的地位やら言われても無理矢理過ぎるわwww
だーかーら!卑弥呼って中国側の呼び名だから日本史に一切出てこないんだっていってるだろ!
魏志倭人伝の筆者は、実はもっと話を盛ってお立ち台の上の卑弥呼とか
実は男の娘でみてえな薄い本的に盛りまくってハアハアしてたが
ついにいかった上司によって、DQNの川流れのキャンプ場のような高床式の
倉庫で数十人率いて踊ってたちょいといかした入れ墨姉ちゃんという
真実に書き換えられるも、そのさらに上の上司がもっと夢を持たせろよと
成り上がりヤンキー漫画のノリにしてカオスになって、ついに皇帝が介入して
短い文にさしかえられた
10代 邪馬台国の女王
20代 邪馬台国の女王
30代 邪馬台国の女王
40代 AV業界の元女王
50代 AV業界の元女王
60代 AV業界の元女王
え〜〜と
昔は女性も王になれたのだから
女性天皇も有りなんじゃない?
って方向にしたいのかな???
うんちゃら道祖論のような侵略、或いは植民地支配、無茶な同盟の下地のプロパガンダではないの?
真面目に研究してんの?
地方の豪族の卑弥呼が小さい金印もらって
天皇はでっかい金印もらったけど天皇の金印は発見されてないんだよね
意味ねー記事だろ そもそも日本に独自の古代文化など存在していない
例のゴッドハンドの一件以来 従前の日本古代史などというものはすべて否定されてしまった
古代日本の成立の実態とは8〜9世紀ごろ朝鮮半島から渡来したいわゆる「高麗神族」が
それまで文字も道具も言語も持たず火すら使えず森の中を裸足で駆け回り
同族を狩り殺しその脳みそを共食いしていた倭原人を支配領導して
日本を建国したというのが現代の世界的共通認識であり
それ以前の遺跡遺物や伝承のたぐいはすべて日帝強占下における捏造の偽物偽史だとみなされている
偉い人には家来がいるから育休なんて取らなくていいもんね
バリバリですよ
今は坂上田村麻呂も百済の人って書いてるよね
むかしはそんなこと言われてなかった記憶あるけど
ここまで遡らずとも
少し前のモーレツ社員と呼ばれた「一日中働き続ける」営業ですら
朝9時から夜21時くらいのことを指してるからな
今マジで異常
誰も休めない人数しか配置されてないのが当たり前と思ってるのは異常
魏志倭人伝が途中から嘘なので、
いくら探しても出てくるわけがない
邪馬台国なんて今の日本の歴史にほぼつながりがないので、学ぶ必要はないと思うな。
大和朝廷の成立からで十分だと思う。
むしろ「邪」とか「卑」、「倭」なんて明らかに相手を蔑む漢字が使われていることをきちんと学んでおくべき。こんな蔑称をつけられているのに、嬉々として漫画やアニメ、ゲームに登場させているのは日本人として本当に恥ずかしい。
卑弥呼の前は男王の時代だし、政治は卑弥呼の弟の男が進言
13歳で担がれた可哀想な壱与の後は再び男王の時代
これで古代日本は女系社会が長かったと言い切る
最近の論調は誇張が過ぎませんかねえ?
>>1 天子を得るのが官軍の習わしとか中国を真似たのだろうが、実際は南北朝あたりで血筋は途絶えている
古事記 日本書紀に関しても後の時代にかかれた創作であるので時の威厳に利用するための物で歴史書ではない
官軍認定の為に京都で腐っていた公家を担ぎ徳川幕府を倒したまではよかったが明治あたりから昭和に初期にかけ御飾りでなくなる時期があるのも凄い
自ら御飾り宣言をだして戦犯を免れるおまけつきだが 案外歴史はいい加減なものである
当時の魏人が聞いた言葉を漢字に当てはめたのが卑弥呼
これを今の日本人がヒミコと読んでる
当時の倭国の女王名はヒミコであるとは限らない
かの国の異国語の自国語への当てはめかたは非常にいい加減で発音を異常に簡略化省略化する傾向がある
ただしミコは巫女ないし皇子=みこ のことで間違いないだろう
問題はヒ これは実は本来は日か火の意味かもしれない
太陽神や火神は太古の神話にもよくありがち
しかし魏としては蛮族の見下げた頭目に過ぎないので敢えて
卑しい意味の卑弥呼とした可能性がある
そらーあれだろ。卑弥呼が子供生んでも執務中は乳母やら周りが世話見れるからだろ。
それにそんな昔に、定時退庁とか概念がないんだから。
記紀以前に中国大陸には文明が栄えてたことを考えたら日本人が記紀よりも中国大陸の書物を研究してきた理由がわかる
>>40 >>1には特に女系の話は出てないじゃん
男女等しくと書いてある
男系、女系を気にせず長子が継いでいくのは自然だと思うが
>>49 >>134 包茎のオチンポに沢山溜まったチンカスを食べるが大好き童貞ニートです!イカ臭い包茎オチンポに沢山溜まった自分のチンカスを食べるのが唯一の趣味です!とてもイカ臭いですが、病みつきになります!是非皆さんの包茎オチンポに沢山溜まったチンカスと僕のチンカスを交換しませんか?宜しくお願いします!
http://imepic.jp/20201113/440500 ↑
イケメン過ぎるチンカス溜まりまくりの僕の顔写真だよ
ここで
ジェンダーフリー活動が
中国共産党につながったか
>>53 古い書物や漢字も使われていたんだよ
ヤマト朝廷以降に焚書されたけどね
ヤマト朝廷は革命に近いんだろうな
聖徳太子の偉業が大きいのも
過去の政権の功績を隠す陰謀があったりして
邪馬台国が存在していた時の大和王朝も、女性大君だったんだろう
だから、ごちゃごちゃになる
だが、古代天皇家と邪馬台国は無縁
邪馬台国が縄文人ならば、天皇家は弥生人だろう
>>42 これは竹田みたい人が嫌うからあまり義務教育ではやらないけど
むかしの日本って平安時代ですら今と発音だいぶ違うんだよ
卑弥呼の時代は卑弥呼=巫女とかそんなレベルじゃない
東南アジア系の外国語しゃべってる
狗奴国って球磨国かな、そうすると邪馬台国(大和)は大和の前身か、違和感無し。
>>53 その古事記も原本は行方不明知れずで、10世紀以降の写本が数点有るのみ
モンゴルって古代も栄えてたんだな
始皇帝が秦で万里の長城造ったのも匈奴(騎馬民族)今のモンゴルから守る為だし
>>64 邪馬台国が畿内にあるんだったら、天皇家と関係がある筈
邪馬台国は九州で間違いない
部下が滅ばないて
上司の王様が八つ裂きにされるWWWWW
>>66 あそこらへん、定住してないよ?
秋になると南下してきて漢民族の食べ物奪って逃げていく。
毎年毎年
>>66 騎馬民族って女も戦争に出るから優秀な戦士の絶対数において有利なんだよね
>>20 そういった倭の絶妙な外交センスや国際感覚は素晴らしいよね。
今の日本政府よりも、外交手腕は上かもしれない。
>>22 その頃日本には書がなかったので仕方ねぇ…
しかしそのおかげで実は古事記等に出てくるあの姫ちゃんがそうではないか、いやいやこの人ではないかと妄想して楽しむ余地が生まれたではないか
>>76 オカリナみたいのに決まってんだろ昔の人なんだから
クレオパトラがそうだったように、卑弥呼も国防の為に他国からの男使者の下半身を、
こういう単純原本主義者は歴史を知らないアフォですw
町おこし村おこしもそうだけども
歴史とは別の意図や何かしらのスタンスを通したいがために
考証を装って都合よく解釈してわざとらしくダシにしようとするかのような振る舞いは
控えめに言って度が過ぎるほど論外なのでは!
>>1 そもそも卑弥呼が女性だったと言う証拠はあるの?
当時、魏以外の大陸国家では
全く記録がない
「スッゲー遠くからも朝貢あるんだぜ、だからウチのボスはグレードなんだぜ」ってホラ話
確かめられると困るから
位置が滅茶苦茶だし
もう滅んじゃった(テヘペロ
で誤魔化した
なんかつべで邪馬台国公証動画を色々見てると邪馬台国が畿内にあったという説が一つもないんだよな
大和朝廷が畿内にあって邪馬台国とは別ということだろな
>>22 女王なのに卑しいっていう言葉をなぜ使ってるのか
そのあたりから何かわからないんだろうか
(´・ω・`)邪馬台国は占いで遷都していったが正しいやろや
>>89 中国以外の国はみんな汚い国名だったりするからな
>>86 真相どうこうは別としてシンプルでおもろいね(´・ω・`)
>>88 古代の日本は九州で栄えてて
その後、畿内に遷都してきたんだって百済人とかの先導で
ろくな記録が残ってないから好き勝手なこと言えるよな
>>89 卑しいじゃなくて神に使える身って意味だよ
そもそも意味はなくて当て字だと思うけど
イザナミは出産したあとにオメコ焼けて死んだけどな。
>>74 なぜかみんな無視してるけど卑弥呼も実質後継者の壱与も国書を奉じてるんで
卑弥呼あるいは別の箇所の「俾」弥呼は自称の可能性が高い
単なる中華思想だよね。
中国以外は矮小で卑しいのだ。
弥生時代なんて多産が推奨されただろうし、産んでない方が神聖とか、そんな観念は後付けだろう。
>>95 朝鮮は通過しただけで百済人とは関係ない
旅行で名古屋通っても尾張人にはならないだろ
原本が残っている前近代の本の殆ど全ては
原本として残すつもりのなかった史料が確率的に残っただけですw
我々が知る古典とは、確率的に残る事だけに任せられない至玉の本であると認められるがこそ
幾度も写本が作られ、文献として現世にまで残る事が出来たのです^^
>>93 だって毎年毎年🌾かっぱらっていくんだもん
まーた、お前らか!でしょ
>1
都合の良いとこだけ強調するのはどうかと思う。
卑弥呼は内紛が続く中で緩衝目的に立てられたという特殊事情があるし、身辺の世話する人以外は誰も部屋に入れない(言い方変えれば周囲から監禁状態にされてるとも言える)で別に直接外交したり戦争したりしていたわけではないし。
娘の代以降は結局統治がうまくいってなくてそのあと歴史が曖昧になってるし。
寄合に老若男女が参加してたことや目上の人への儀礼も拍手1回だけと簡素だったことや犯罪が少なかったことは書かれてるけど、一方で男女の奴隷がいたことも書かれてる。
外へいこうとするものを不潔な状態にし、失敗して帰ってきたら襤褸糞に扱う習慣も書かれてる。
この展示があるので歴博に女性グループが結構来ていて、一般展示も見に来てるんだけど俺が歴史資料なんだーって見ている展示物に対して、意匠や素材の特徴をすぐ見抜いてキレイーとかカワイーとかやってて、それが正しい見方だなあと思った
人間なんてのは上の人間は下の人間のことなんか悪く言うんだよ
大和朝廷も北陸の人を蝦夷だって卑しい表現してたしべつに中国に限らん
歴史さっぱりだけど卑弥呼様は外交担当の弟や優秀な家臣がいたんじゃなかったっけ
そもそもワンマン体制は本人が倒れたらあっさり瓦解するし
>>88 中国史書の旧唐書での認識では昔から知られてる倭と近年認識した日本は別の国になってる
その後日本の外交努力があったのか修正された
>>62 あれれ〜皇紀2600年とかフカしてたのと整合性取れなくなるよ?
邪馬台国は九州にあって
それと同時に自分たちの国が欲しくて関西方面に新天地を求めた人たちもいたってだけではないか
🇯🇵日本の城郭都市って
戦国の小田原が初じゃないの?
どんだけ平和やねんw🇯🇵日本
今以上に力仕事が多いだろうに男性優位にならないのは不思議だね
戦争だってやっていたんだろ?
平等と言うなら義務も平等だろうに
卑弥呼の映画とかマンガって俺の記憶の中ではないんだか、まあ記録がなければ無理か。
当時の人間は背が低いだろうから、ちっちゃくて巫女衣装を少し豪華にした娘が国の舵をとってたなんてちょっと萌えた。
多分ババアだろうけど。
>>89 でも考えて見ると古代では漢字よりも読みが重要だと聞いたことがある
だとすると、卑弥呼は日御子に置き換えられなくもない
>>90 その話てよく聞くけどもしそうならどういう顛末だったんだろね
日蝕をとんでもねぇ凶兆と受け取って混乱した世相を政敵に利用された
みたいなの聞いた記憶が(´・ω・`)
>>89 それは中国の押し付けだろ
当時の日本と中国じゃ象と蟻以上の差があったんだし
女性、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた。
歴史じゃなく政治活動板か?
>>117 男はすぐ喧嘩するから委員長みたいな女の子をトップに据えたら「こら、そこの男子たち喧嘩しない!」ってうまくまとめてくれたんだよ
>>119 そもそもそこにいた中国人しか漢字使ってねえしw
その後も200年ぐらい文字無し文化は99パー確実
そういえば思ったけど
魏志倭人伝書いた人は卑弥呼とかに対しても
容姿のこと書いたりしないのに
イエズス会の人とか白人は
浅井三姉妹が美人だったとかすごい人の見た目書くよね
卑弥呼も古墳時代も、天皇なんてただの痴呆の豪族の長でしかないのに、
そういう本当のことは言えないで何が歴史だよ。
それ以前の神話なんか後の創作。
バカチョンの5000年ファンタジーみたいに成り下がるか?w
イギリスには女の海賊がいたぐらいだからな
カリブの海にも女の海賊がいたし
能力があるから要職に就けるのは当然
能力もないのに要職に据えるのは異常
能力の有無に男女論持ってくるのこそアホくさい話
>>1 歴史がある日本が羨ましくて羨ましくて
謝罪と賠償ニダまで読んだ
>>125 空気を読んだお世辞だろ
そもそも白人なら日本人と美の感覚違ったはずだし
>>115 日本の夜を守るとされた日御崎神社を思い起こさせる
>>125 そもそも他国の歴史なんて正確に調べて書いたとは思えない
日本のことを知ってるって人から聞いた話をそのまま書いただけだろ
日本語理解して調べまくってから書いたわけがない
【歴史】「卑弥呼は中国と外交し、邪馬台国の南にある狗奴国と戦った」 古代日本における女性、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた ★2 [樽悶★]
↓
【歴史】「卑弥呼は中国と外 交≠オ、邪馬台国の南にある狗奴国と戦った」古代日本における女性 、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた ★2 [樽悶★]
卑弥呼が性交しているのかと、一瞬そうみえた(笑)
>>130 日本人だって外国人見てきれいと思うし
欧米人が日本女性と結婚することもいくらでもある
権力握ったのは50歳頃でほとんどババアだろ
イヨが本命
>>126 神話は都合のいい創作はあるにせよ、過去の事実が
関係している可能性が高い。
丸っきり創作なら、初代天皇は奈良生まれ、奈良育ちにするはず。
あるいは神聖な場所の出身。
しかし、神聖でもない遠い日向から奈良に攻めて来たというのは
創作にしては変だ。事実が絡んでいるのだろう。
>>132 せやね。場所が特定できない記述だから
聞いた話を書いただけだろう。
>>137 敵対勢力のいる九州を手懐けるため説
とかあった気がする
中国の政治状況とか勢力図をきちんと把握してて使者を送る
タイミング計ってたりとか、古代も案外情報のやりとりが
しっかりしてるよね
邪馬臺国も想像以上に栄えたちゃんとした国だったのかも
子ども歴史マンガとかのイラストの野っ原に竪穴式住居と
しょぼいロッジみたいな建物だけの村みたいなイメージだけど
イデオロギーにからめる人ってどういう思考回路してるんだろ?
>>20 公孫淵って朝鮮半島治めてたっけ?
日本とどういう関係があるんだろう
>>144 公孫淵は魏への使者を自分の所で堰き止めてた説
大勢の男どもが戦争だ〜敵を殺せ〜と叫んでいても
占いばあさんの一言「占いで戦いは凶と出た」でピタリと止まる時代
決定権を持ちも全員を従わせられる人、それを権力者と言うなら
占いばあさんなんか、まさしく権力者だわな
中国の資料じゃ奴隷が送られてきたってあるくらいだから
当然身分があったのだろう
有力な家の妻(達?)とか、娘とかが権力持っていたかもしれんな
>>125 魏の使者は卑弥呼には会ってないんじゃないかな?
魏の使者は伊都国まで行ってそこから先は進んでない可能性がある
「里」による記述も途中で終わってるし
(倭国の民は里を知らずとの記述から伊都国辺りまでは魏の使者が測ったと思われる)
>其俗 擧事行來 有所云為
>輒灼骨而卜 以占吉凶
>先告所卜 其辭如令龜法
>視火?占兆
その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、
ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。
先に卜する内容を告げるが、
その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。
火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。
>其會同坐起 父子男女無別 ←
>人性嗜酒
その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。
人は酒を好む性質がある。
>魏略曰 其俗不知正歳四節
>但計春耕秋収 為年紀
魏略いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。
ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。
宴会は酒飲んで無礼講ってことじゃないの?
男女平等スレか
弥生時代の庶民は男女平等だったかもな
縄文時代の土偶は女性が多いけど
晩期になると男性の土偶も少ないが出てくる
縄文時代 女性が偉い
↓
縄文晩期 男性も女性と平等になり始める
↓
弥生時代 男女平等
こうじゃね
邪馬台国が畿内にあったとしたら狗奴国は和歌山あたり?
今に残ってないって事はそれじゃダメだったってことだろ
過去に学べ
>>154 畿内はあり得ないんじゃないかな
当時の航海技術を考えると見えない土地に向かって進むのは無理だから
韓国ー対馬ー壱岐ー九州で九州に降り立ったのは確実
そこから畿内に行ったとは考えにくい
古代の天皇は今で言うと天皇よりたぶん総理に近いもの
>>157 魏志倭人伝の記述だけ見るとそうやね
女王を強調してるし
ちなみに熊本北部では巫女のものと思われる変形頭蓋骨が遺跡から発掘されてる
その地域に巫女による祈祷の文化があったのはほぼ確実
とにかくありとあらゆるものをジェンダーがどうのこうのって事に利用しようとしてんな。クソ鬱陶しい
邪馬台国が熊本なら南の狗奴国が鹿児島ならなんとなくわかる
今でも争ってるもんな
明治維新、自由と平等が女性の地位を下げたってことかw
>>166 可能性で言えばありだけど「巫女がいた=邪馬台国」とは言えない
邪馬壹(女王国)に属する国(恐らく伊都国も含まれる)には当然祈祷の文化はあったろうし
言ってしまえば敵対してた狗奴国に巫女文化があったとしても不思議じゃない
ただその遺跡にはまだ未調査の部分が多いのでそれ次第では邪馬台国の場所がかなり絞られるかも
>>154 今の熊野とも言われてるけどわからんね
邪馬台国は記紀に出て来ないからね
倭(やまと)の事じゃね?レベル
>>64 球磨地方免田町が狗奴国の本拠地とも言われているな
クマソ復権運動もここから始まった
せいぜい九州の北半分ぐらい支配してたかもなぐらいなんやろ?
歴博ってショップで全国の博物館の図録取り扱ってるから便利だよね
>>168 その通りなんだよな。
前近代までの農耕社会では男も女も畑や田んぼに出て肉体労働するからね。
産業革命後の近代社会は男は会社や工場に出勤して賃金を稼ぐ、女は家庭を守るに役割分担されてそれが
結果的に女性の社会的地位を下げたという皮肉な話。
邪馬台国が何処にあったかをそれこそ考古学者から、自称地元民まで含めて第論争というプロレスが楽しいのかもな。
歴史的には何処にあったのか判明すれば良いのだろうけど、もしかしたら判明しない方が良いかもね。
まあ、ロマンだよ、浪漫、Romantic。
神武東伐の奈良に行った時に熊野出てくるから
熊襲=熊野ではないと思う
>>180 農家は男女共に働くからな
だから、茨城県なんかはお婆さんが自身を「俺」と呼称する
神功皇后は卑弥呼の孫?
仮に、邪馬台国が皇室と繋がりが有るのならばだな
>>182 記紀なんて奈良時代の天武の系譜が書いた物じゃない
そもそも負けた神武が東から回り込んで攻めたら勝ったって話壬申の乱の天武の焼き直しでしょ?
国名だって当時機内はほとんど1文字で国名を表してたのを強制的に2文字にしたのも天武だし
奈良時代以前はあの周辺は「熊国」と呼ばれていてもおかしくないんじゃない?
>>120 よって、卑弥呼死す
もって、卑弥呼死す
みたいな書き方らしいからな
>>167 そやで
大和は九州のあとに勢い出てきたとこ
纏向とかひょっとすると魏じゃなく呉と国交を持っていたのかもしれない
やがて北部九州の外交権を大和が簒奪
>>18 池上遼一だな
本物の劉備が死んでその替りで
壮大というか特に後半はわけが分からなくなる感じ
大喬がヨーロッパ人だったかな
古代から近世まではガチで日本は中国・ヨーロッパなどと比べてかなり女性の地位が高かった
古墳時代では女性が被葬者となっている古墳が多く出土していて指導的な地位に立つ女性も多かったことが明らかになっている
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/jinken/danjokyodosankaku/kaigi2009/hokoku2009/bunkakai/kodaijosei.html 神話の記述でも、最高神である天照大御神が女神であることはもちろん、天孫降臨における
五神の随伴者のうち2名が女神である(天鈿女・イシコリドメ)ことや、神功皇后や飯豊青皇女などの
女性が大活躍する記述が多く見られるのも特徴
また宗教でも、キリスト教や仏教では女性の関与が厳しく制限されていた一方で、
日本神道では伊勢神宮を創始したのが女性であると伝承されていたり(豊鉏入媛命・倭姫命)
伊勢神宮へ直接奉祀する「斎宮」が女性によって独占されていたり、その他皇室祭祀においても
神社祭祀においても、女性の地位は明らかに高かったと考えられる
律令の公地公民制でも女性は男性と同じく土地が配分された(量自体が少なかったのは、女性は兵役が免除されたから)り
奈良時代には過半数の天皇が女性であったり、平安時代には女性貴族が大后となって政治面で実権を握っている
(藤原基経と対立した藤原高子や、「国母専朝事」とまで言われた藤原詮子、院政期に活躍した建礼門院など)他、
文化面でも女性による作品が数多く歴史に名を残している
中世では、北条政子や日野富子など武家の女性が政治の実権を握った例も多く、
庶民においても土地の相続は等しく女性にも認められた(阿仏尼の『十六夜日記』などに記述あり)ことや
家父長制という概念はなく、家庭における実権も女性が強く握っていたことが明らかになっている
近世に入ると、儒教が国教とされたことで女性の公的地位は低下したが、実質の面ではやはり女性の権限が強かった
家庭においては、ペリーが『日本遠征』で女性が男性の隷属的地位でないことを指摘しているし
明治期のアリス・ベーコンは「農家の女性は家庭においてその発言に敬意を払われている」と記録している
政治の面でも、表向きは男社会ではあったが、実際には平安と同じく大奥らが政治に深く介入していたことが明らかになってる
日本が男尊女卑になったのは明治時代に欧米の悪習を取り入れたからである
家父長制が強調された「明治民法」は、フランスのボワソナードが作った
当時のフランスは極めて男尊女卑社会で、フランス革命の人権宣言においてもその権利主体として女性は一切認められなかったし
「人権宣言の権利が女性にも認められる」と主張したグージュは政権によって処刑された
夫婦別姓についても、近世以前は夫婦別姓だったことが明らかになっている
>>193 コピペじゃなくてイチから自分で書いた文章なんだが…
まぁ長いから誰も読まないだろうな
漢は外国を意味するカラ以外に熱血漢のオトコを意味する。儒教一尊の漢はオトコの文化!
>>186 じゃ熊野はどこだ
成務天皇の時に熊野国造になってるけど
だいたい豪族の名前だったりするんじゃない
「呪術できますよ人知を超えた存在ですよ」
を謳い文句に
象徴として
「彼女がトップだよだから従いなよ」と据えたんでしょ。
多くの人心をまとめる一つの方法。
世界各地の宗教モラルによる統治と同じ
実際の政治は弟とかがやってたんだろうな。
中国史観は、いい加減やめようね
卑弥呼の"卑"は違うから
中国側のイヤガラセの当て字
山の国
日だよ
『日巫女』な
鏡も出てるべよ ☀を使う
呪術と言うか、困ったり悩んだりしたら「占い」で決める
それが日常の社会、という記述あるでしょ
代弁者・伝達者は、本来トップではないが、
機能としてはトップと同じことができるね
>>195 自分で書いたやつだからこそだな
いかにもアスペって感じ
>>199 邪馬台国=山の国だと畿内説が有力になっちゃうね
倭(やまと)=山の国
周辺は泉の国、木の国、津の国等で付け方が畿内風
まあ物証が出ない限り場所は想像の域を出んよ
>>204 畿内説はまず航路、行程の問題をクリアしないと
>>205 大陸に行ける能力があるのに内海の瀬戸内海を渡れないなんて道理はない
>>123 卑弥呼は巫女王だから神の神託を後ろ楯に人をしたがえてたんでしょ
多分偶然かわからないけど神託あたったりしてたと思う
神の力をかりてなんとか纏めてた感じ
卑弥呼の邪馬台国の領土って、戦国時代の龍造寺ぐらいしかないぞ?
狗奴、隼人、熊襲、土蜘蛛、大蛇、とか各部族が乱立してた時代なんだから
邪馬台国は九州で劣勢で
中国の魏に貢ぎ物をし隷属して後ろ盾を得ただけ
だから魏の皇帝から倭の王に任命され金印を拝領してる
中国で王ってのは皇帝の下の位で今で言う県知事や州知事みたいなものなんだから
楚王とか漢王とか有名じゃん?
女王の都がある国が邪馬台国
女王国の範囲には数多くの国があり、遠すぎてわからない国が20以上
邪馬台国が九州だとして、女王国の範囲に近畿国が入らない理由
なんかあるのかな。
>>206 いや魏志倭人伝の記述内容からよ
九州に降り立ってから奈良までの行程はどう考えても書かれてない
>>210 近畿まで手にした大きな女王国だとして
そこまで大きな国が争ってた狗奴国ってどれだけ大きく、どこにあった国だと言う話になる
女王国が狗奴国に対抗する為に魏に貢ぎ物をし隷属し後ろ盾を得ようとするぐらいには
狗奴国は女王国(邪馬台国)より強大だったのに
>>206 瀬戸内海って渦潮があるからな・・・
外海とは別物だぞ
>>200 原型留めてないぞw
司馬 宣王?ん?
偶然かな?
>>213 >女王国が狗奴国に対抗する為に魏に貢ぎ物をし隷属し後ろ盾を得ようとするぐらいには
>狗奴国は女王国(邪馬台国)より強大だったのに
そんなこと書かれてない
嘘ピョーンもいい加減にしろ
>>213 東海の勢力だろ
邪馬台国九州説は南を東と置き換えるから
海を越えた南とは伊勢湾超えた尾張になるから
女王国の後継者が近畿に立てば、「倭国の王」の都もまた近畿
邪馬台国と倭国、この2つを同一視しなければならない理由とは何か
>>219 まちがった
×邪馬台国九州説は
〇邪馬台国畿内説は
>>212 >魏志倭人伝の記述内容から
つまり邪馬台国は太平洋にあったっけ事でおk?
あれって常識で考えれば九州からさらに遠くにあるって解釈でいいんじゃないの?
使者も九州止まりで実際には行ってないし
>>204 隋書で阿蘇山ありと書かれてるから熊本では
奈良は盆地のイメージ
山があるなら何故山の名前が出ない
>>223 魏と隋
間に300年もあるんですが・・・
>>218 一般常識だろ?
皇帝と王と言う言葉の定義をまずはググれ
皇帝に貢ぎ物をして、皇帝から王に任命されそれを示す金印を貰う
その意味は都合を持論に都合が悪いから無視するの?
>>220 倭国とは当時の日本と言う土地の俗称
邪馬台国が魏に貢ぎ物を贈って、従属して、倭国の王に勝手に任命されただけ
要は僭称なんだよね
あの道鏡のマラにへろへろにされた女帝から女はあかんってイメージが定着したんやろうな
それまではわりと歴史に女が登場してる
この後はまともに出てくるのは北条政子くらい
>>223 ばっちり「倭国とは邪馬壹の事でありそこには阿蘇山がある」って書いてあるんよね
そんで人々は「火を噴く山を恐れ」との記述があって隋書が書かれた西暦600年頃に阿蘇山が活発に活動してたとの記録とも合う
日本書紀とか記紀になんで書いてないんだろうなぁ
都合が悪いなら捏造しちゃえばいいのに
>>224 その隋書には「中国上の記録で邪馬壹とされる場所が倭国である」と記されてる
熊襲を一体のものと考えない方がいい
景行天皇の時に息子のヤマトタケルによる熊襲征伐があるわけだが
景行天皇は襲武媛という妃を迎えている
襲君の縁者だろう
後の曽君
今の鹿児島県霧島市の豪族
邪馬台国は朝鮮半島にあったんだよ
そして、狗奴国は今の九州に
だから魏志倭人伝では狗奴国は邪馬台国の南にあったわけ
その後、畿内に狗奴国の連中が遷都してからは東と言う記述に変わったんだよ
邪馬台国→狗邪韓国と言う領有国←狗奴国
で、鉄の採掘を巡って、しだいに激突って感じ
>>220 志賀島の金印で有名な「漢委奴國王印」が卑弥呼の更に200年前
そこから久々に使者が来たので「親魏倭王」に封じた
魏の前提からして同じ場所から来た使者だと認識してた
>>223 山が書いてなければ成らないって思い込みは詭弁
犬を説明するのに「犬には髭があると書いてある本があるのに」
この説明には髭に触れてないからこれは犬じゃ無い
って言ってるレベルの詭弁
>>229 魏国にそんな記録が残ってるなんて当時は知り得なかったんじゃない?
>>233 「同じ場所」
って日本列島とか広い意味でしょ?
>>229 日本書紀って邪馬台国の成り立ちの本じゃないから
>>230 隋書の頃には恐らく今の奈良県は倭(やまと)国でしょ?
それ畿内説を補強してるとしか見えない
>>234 いやいや、さすがにばっちり「阿蘇山」って書いてあるのは大きいよ
隋書の時代には日本にも漢字は伝わってるしこれが別の山を指す可能性はかなり低い
>>236 そっそ
同じ地域と書くべきだったね
言語と方角がよく似ているくらいの感覚と考えて下さい
>>236 隋書の記述を読むに倭国とされる位置の生活圏に阿蘇山があったと読み取れる
確率で言うなら現状九州約95%畿内1%四国4%韓国0.001%ぐらいだ
上臺、中臺は皇室が使う有難い漢字。ヤマトごときに使えるか!
>>241 大航海時代にインドでは羊の成る木があると信じてたイギリス人よりはまだマシかもなー
>>244 ヤバイorヤマイだった可能性もある
ヤバイだったら矢部、ヤマイだったら八女が近いかもしれんがまあこの辺はあてにならんな
>>239 隋書ではでしょ?
魏で書いて無くても不思議では無いって話
>>250 当時の日本では敵対部族を蔑称で呼んでた
狗とか隼とか熊とか蜘蛛とか馬とか人では無い動物の名前で
>>90 卑彌呼は籠っていた。誰も見ていない。(←ココ重要)
ということは、ひょっとしたら、居なかったのかも知れない!
魏志倭人伝をちゃんと読めば、教科書で習った謎歴史とは違い、
倭国大乱が列島の大乱で、邪馬台は負け、覇権放棄の証として
女王(=剣を持たぬ王)が即位したと解る。
卑弥呼の弟(?)が政務を仕切っていて、これが実質的に王だ。
女王卑弥呼が即位したことにして、部屋に籠ってるという話を
仕立て、実際には、部屋には誰も居なかった!という可能性もw
>>252 まあ中国での伝承だからな
要するに隋書には「伝承で伝わる邪馬台国とされる場所に行ったらそこには阿蘇山があった」って書いてある訳だ
その伝承が間違ってる可能性もあるけどそれはつまり魏志倭人伝が間違ってるということだから
そこまでいったらもう邪馬台国の場所は検証しようがない
>>242 狗邪韓国、対馬国、壱支国より向こうなんでしょ?だから100%韓国だけは無い
狗邪韓国が韓国ならありだけど
邪馬台国は近畿
狗奴国は東海、ただし北陸関東まで影響力あり
>>238 都は邪馬台国
東に行くと秦王国
奈良なんかまったく書いてないのが不思議すぎる
大化の改新があったのは645年
大和政権がいつからなってるのかも不明
>>252 後から分かることってあるでしょ
600年で当時のこと書くのに何故奈良の文字がない
>>168 食糧の安定供給
治水、建築技術の向上による災害対策
医学の向上により若年死亡率が低下
それらは、出産の価値を下落させた
昔ながらに10人も20人も出産してたら
たちまち人口過剰になって食料不足からの戦争が始まる
女がなにも考えずに生みすぎた歪みを
男たちが命がけで戦争することで帳尻会わせしてきたんだよ
>>261 あの・・・今でこそ「奈良県」だけど江戸時代以前は「大和国」だよ?
さらに奈良時代以前は「倭」とかいて「やま(と?)」と呼んだ
いつから「やまと」と呼ばれてるかは古すぎてわからない
日本人じゃなさそうだから言うけど歴史が古すぎて始まりが特定できないのは周と同じだよ
武寧王の子孫らしいけど。
朝鮮半島に残った人たちは
モンゴル帝国に拉致されて全員滅んだんじゃ?
個人の主義主張のために卑弥呼を利用しているだけじゃん。
こんなん歴史でも何でもないよ。
>>266 えーと日本人ですけど
明年 上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
東の秦王国の先は倭国で至るになるんじゃないの
対馬築紫出てるのに変じゃない
>>266 少なくとも魏志倭人伝の時代には「倭」の字はないね
中国人がそう呼ぶから自分達が日本の中心であることをアピールするために名乗った可能性が高い
邪馬台国の場所を検証する為の材料にはちょっとなりにくいかな
何か他に決め手があれば材料にもなり得るんだけど
>>258 狗邪韓国は、半島から最初に海を渡った所にある
倭国北限の地。対馬よりも半島寄りだ。
狗邪 Kuja → Koejae 巨済(거제)島 だな。
邪馬台国は、海を渡り切った所の九州北西部。
韓国人が痛いのは、今の「韓国」の名は、古代の韓国
(半島南部の三韓)から取った訳だが、この三韓地域は、
日本語話してたんだよ!w マジで。弥生人の本拠地だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic 韓国人は、今の韓国と同じに思ってて、事実を知らないwww
魏志倭人伝には卑弥呼は楼観 城柵
のある宮殿に住んでおり宮殿の周りは昼夜警備兵が巡回していると書かれている 纒向遺跡には楼観跡も
城柵跡も見つかってはいない
吉野ヶ里遺跡からは見つかっている
3世紀の出来事を
中国の思い出日記から推察するしかないってのが
さみしいよな
>>278 Kuna → Kuma (熊本・球磨川)
>>279 歴史なんてそんなもんだ。
欧州だって文献資料はローマ帝国頼みだ。
さすがにこの時代はあったんじゃねえか
焚書だろうけど7世紀以前のがロクにわからんってのは寂しすぎる
交易ならわかるんだけど、
内部での権威を高めるってのは全く分からんし、外部的にも最後は殺し合いしたのに、
時間と金と人を使って中国大陸に行かせて物や称号貰ってきて権威高めるって非効率的じゃね
遠くの人からもらった称号で、おまいすげー!とかなるの?
俺には全く理解できないんだけど
キエーーーーとかポエーーーーーと叫んでる女は、みんな卑弥呼だったのか・・・
余程有能だったのだろう
ゲンダイのオンナ共に爪の垢煎じて飲ませるべき
卑弥呼は夫がいなかったし、結婚もしてない
この企画展はどうも無理があるよな
卑弥呼や邪馬台国まで出汁にして女性の地位向上を高めたいのはわかるけど、男を全員女の奴隷にするまで続くのか?これ。
>>237 箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言う人もいるじゃん、箸墓の倭迹々姫命の話は日本書紀だよ。
>>293 まあ、天照大御神が女神だからね、そうかもよ。
こんなんどうでもええわ
現実に生きてる俺はトランプの選挙見てる方が何倍もおもろい
>>273 倭の字はあるけど韓国にある倭と区別するために
奴国の表記にしてるよね
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする
伊都国で政治を行うとなってますね
三種の神器 後漢鏡 三角縁神獣鏡 倭印 ヒスイ ガラス
九州しかない鉄鏃の出土 古墳遺跡鉄の多さ
九州は全部揃ってると思う
>>294 卑弥呼の墓としては前方後円墳だしサイズがでかすぎるから却下
>>290 纏向は発掘調査した当事者が「ここは違う」って言ってるからなあ
残念ながら魏志倭人伝にも隋書タイ国伝にも近畿らしき記述が一切ないんだなあ、不思議なことにw
>>297 なんつーか、ポイント制にしたら九州大幅リードって感じよね
上でも書いたけど奈良の地名に倭があることのポイントは決して高くない
纏向遺跡に関しても吉野が里と比較したら吉野が里の方が若干上
鏡に関して言えば曹操の墓から出土した物と同型の鏡が出てる九州の方が大幅リードと言える
他になんか畿内派でポイント取れそうなのあるかね?
>>298 大和朝廷に直結しているならば、前方後円墳でもおかしくない。
額田部の姫巫女がだいたい、シャーマンなんだから、「天皇」とか「官僚制」を引いたのが天武朝以降で
同時期、大和朝廷は間違いなくシャーマンの権威つかってのした国だよ。
>>302 意味が分からん
魏志倭人伝の記述からは卑弥呼の墓は前方後円墳ではなくただの円墳だと読み取れるし
歩幅100歩だから300m近いサイズはデカすぎる
大和朝廷がどうとかここでは考える必要がない
>>264 そうやって責任を負わないから
権利もなかった
本当かよ?、卑弥呼って日本以外にも
日本国代表として影響力持ってたの?
NHKの大河ドラマみたいに
主役側だからって 豪華脚色し放題?
>>305 奴隷を送って、中国に服属しますって、売国外交をしたんだけど何か?
>>303 魏志倭人伝の数字は一切信用できないのは、倭人伝通りの場所が海上になることから明らか。
>>307
魏志東夷伝の通りにしたら別に海上にはならないよ
陸地がでかく引き延ばされるだけ
伊都国は邪馬台国に行く時の玄関口、伊都国から南の雷山の横の三ツ瀬峠を
越えたら吉野ヶ里は目の前 健脚なら1日、普通の速度でも1日半もあれば
余裕で伊都国から吉野ヶ里に到達する 非常に良い立地条件が揃っている
隋書のこれ
自竹斯國以東皆附庸於倭
附庸は宗主国に対する従属国をいう
なぜか「付属」と訳して流してるけど結構引っ掛からないか?
筑紫より東の国々はみな倭に於ける従属国である
自A以[方角]はAを含む場合と含まない場合があるらしい
いずれにしても倭国を認識するにあたって筑紫を起点にしてる点
筑紫より東をみな倭国の従属国としてる点
古来より大和を日本の王都と捉えてきたならあり得ない表現だ
間違えたこっちね
これが陳寿の描写した東夷伝の世界
>>309 おお、それはすごい、ぜひ日本の学界でその新説をもって、頂点に立ちたまえ、生暖かい目でみててあげる。
>>313 別に新説でもなんでもなく東夷伝に書いてあることそのまんまだが
>>315 学会も何も東夷伝に書いてあるそのままだってw
東夷伝読んだことねーの?
>>307 それは畿内も同じ
帯方郡から狗邪韓国まで7000里を基準で見ればいいんだよ
要約すると
卑弥呼と皇室の関係性だな
ポイントだわ
>>309 方四千里を長里で解釈すると魏よりでかくなるから短里しかあり得ないんだよなぁ
655 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 19:14:02.48 ID:y1B9e6n60
魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
ほぼ中華全土に匹敵する
当然魏国よりもはるかに大きくなってしまう
魏の国の人間が韓が自国より大きいと誤認することなどあるわけがない
東夷伝が短里であることに疑いの余地は一片も無い
>>319 俺も最初はそう思ってたけど中華本土(魏呉蜀)は方万里なんだそうだ
中華本土が方万里で韓伝が方四千里というサイズ感だとうpった地図のようになる
狗奴をコマドと読めば熊襲に似てなくもない
やはり北九州に邪馬台国はあったのかな
>邪馬台国の南にある狗奴国と戦いました。
やっぱ北九州のどっかじゃん。邪馬台国は。
南と言うと熊本か大分と戦争していたんだろう。
当時の大陸の最新情報得るには、北九州の何処かだろう。
大宰府掘り返してみようww
>>321 >俺も最初はそう思ってたけど中華本土(魏呉蜀)は方万里なんだそうだ
それは間違い
方万里は烏桓や匈奴、西域まで込みでようやく到達する数字
魏呉蜀の範囲のいわゆる中華だとせいぜい方五千里しかない
>>324 実距離がどうとかいう話じゃないからねえ
中華全土が方万里の時に韓伝が方四千里という対比で描かれてる東夷世界を図にしただけ
>>326 だからそれは西域とかまで含めた話
いわゆる中華の大きさではない
昔そこまで女性が活躍したのに
近年全然だから地位が下がってる
活躍してたらアマゾナス国家だったのに
>>329 西域の大月氏国までは洛陽から万六千里超えてるが
その大月氏国が金印貰った10年後に東夷に万二千余里の卑弥呼が金印貰ってる
>>331 >西域の大月氏国までは洛陽から万六千里超えてるが
距離の記述は直線距離ではないから当たり前
中華の範囲の話とは全く別
>>333 実距離がどうとかじゃないんだよw
中華全土が方万里という概念世界なんだから現代日本人がkm持ち出して喚いても意味がない
洛陽から帯方まで五千里、帯方から邪馬台国まで万二千余里の合計万七千里ほど
明らかに10年前の大月氏国と対比して描かれた東夷世界
その東夷世界を地図に落とすと先ほどの図のように陸地が引き延ばされるわけで
倭国はまさに東冶の東にあることになる
>>63 古代に近くなるほど
ワード1つが短音発音近づいて行く
古代という時代背景、女性の統治者とかの話を大ぴらに話してたら、またどこぞの国が反応するに1ウォン
っ
>>334 >中華全土が方万里という概念世界なんだから現代日本人がkm持ち出して喚いても意味がない
ソースは?
君の聞きかじりなんてそれこそ意味がないんだが
ジェンダー論振りかざす為なら古代の出自すらはっきりしない巫女も利用するか
邪馬台国は、三国のなかでは魏よりだったんだろうな。
同じ時期に呉の孫権が倭に兵を派兵して、結局倭には到達できなかったけど、
呉としては魏よりの倭をけん制したかったのかもしれないね。
>>320 倭を支配下において箔をつけた司馬家が魏王朝の曹家から権力を簒奪して、
晋を開いたらしいね。
まあ邪馬台国は下戸の分布を分析すれば分かるよ
紀元前660年に本当は何があったんだろうね
>>339 東夷伝序文
>書稱 、「東漸于海、西被于流沙」。
>其九服之制、可得而言也。
>然荒域之外、重譯而至。
>非足跡車軌所及、未有知其國俗殊方者也。
>『尚書』〔禹貢篇〕には、「東は海に入るまで、西は流沙に及ぶまで〔の地域に、中国の教化が広がった〕」と書かれている。
>〔すなわち〕こうした九服の制度に含まれる地域については、。ちゃんとした根拠を持っていろいろ述べることが可能なのである。
>しかし九服のもっとも外の荒服のさらにかなたの地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国にやってくることはあっても、
>中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、さまざまな土地のありさまについて知る者はなかったのである。
↑
九服の制 とか 方万里 でぐぐってくれ
>>345 寝ぼけるな
お前が主張していることのソースはお前がもってこい
そもそも九服は周代だからまだ短里だ
533 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 15:41:24.47 ID:Qc4i4ljD0
批判も多い古田氏だがこと短里の研究に関しては正解に辿り着いていたようだ
『史記』五帝本紀 第一にある方五千里を長里で解釈すると中国全土より広くなってしまう
五帝は中国全土を網羅していなかったという始皇帝の自画自賛と矛盾する
http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf > そして古田さんは、漢の司馬遷が紀元前 91年 ころに記した『史記』に、
> 夏・殷・周の≪古法≫に拠る「短里」と、秦・漢の≪新法≫による「長里」のあることを発見します。
> 次の通りです。
>
> 『史記』五帝本紀 第一の
> 【(帝舜の地は)方五千里にして荒服に至る 】の記述は、「短里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 五帝本紀第一、ちくま学芸文庫版 25頁〕
>
> 『史記』秦始皇帝本記 第六の
> 【古の五帝は、地は千里に過ぎず 】の記述は、「長里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 秦始皇帝本記第六、ちくま学芸文庫版 145頁 〕
>
> これは、同じ≪周以前の五帝の版図≫を、
> 「短里」の行われた『五帝本紀』では、方五千里と言い、
> 「長里」が新たに定められた『秦始皇帝本記』では、(方)千里と言い換えているのです。
> 『〔倭人伝を徹底して読む』1987年、朝日文庫版 190頁 〕
>
> そしてこの記述は、
> ≪古の五帝の版図≫は〔短里で言えば方五千里〕、〔長里で言えば方千里〕に過ぎないが、
> ≪始皇帝の版図≫は〔中国全土を網羅している〕、
> と誇つているのです。
>
> では、いつから?〔周以前からの短里〕が〔長里〕に改められたのか?と言えば、ズバリ、『史記』に次の記述があります。
> 【始皇帝は五行説に立ち、古の周が≪火徳≫であるとしたのに対し、秦はこれに勝つ≪水徳≫とし、水徳に叶うと言われる黒色と六の数を尊んで、
> 符節や法冠の長さは六寸、輿は六尺、一歩は六尺、乗車の馬の数は六匹とした】
624 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 18:45:32.83 ID:y1B9e6n60
>>574 戦国策には戦国七雄の領土があちこちに書かれているがどれも短里
>>346 短里でも長里でも結論は一緒だってばw
中華全土が方万里で韓伝が方四千里である以上
これを短里で計算しようが長里で計算しようが、倭国の位置はどちらも東冶の東にくる
>>312 倭国がそんな小さいとはどうやっても読めない
邪馬台国を九州だとこじつけるために、魏志倭人伝を歪曲している
戸数からでも、倭国は三韓すべての国を合計した戸数よりも多い
また伊都国付近から邪馬台国まででも2ヶ月かかり、さらにその南に狗奴国がある
方万里についての解説はこちら
とにかく司馬懿の偉大さを書き綴ったのが
倭人伝であり誇張された大国それが邪馬台国w
九州の筑紫城にずっといた漢委奴国王
初代・天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神
角杙神
意富斗能地神
淤母陀琉神
伊邪那岐神
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
その息子の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
「ヒムカ(日向)国」から東征に出発する以前に、日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘、吾平津媛(阿比良比売)と結婚し、手研耳命(たぎしみみ)と 岐須美美命(きすみみ) の二人の子をもうけていた。
日本は細長いだけで意外とデカイんだよ
中国から見て日本は東夷と呼ばれていたが
大きい弓と言う「夷」の字から察するに
すでに日本の地形は把握されていたと思って良い
弓のような形をした長い島国だと
まあ縄文時代じたい1万年以上あるしw
>>208 こいつもそうだけど、九州説って魏志倭人伝を無視した作り話が好きだな
邪馬台国が弱小勢力だとか、狗奴国の方が強大だとか、狗奴国との戦いにも劣勢だとか
ぜーんぶ作り話
>>351 つづき
あるとき
伊邪那美命から産まれていない
奈良・高天原の天照大神と出雲・葦原中国の建速須佐之男命が国譲りで、天照大神のもとに一本化して邪馬台国になり、赤ルートで朝貢、天照大神が親魏倭王になった
すかさず
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が四人の息子たちに「邪馬台国を潰してこい」と勅令
んで息子たち
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
これが
『魏志倭人伝』
正始八年(247)、倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と、素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
そして邪馬台国東征を経て
畿内説は学者の権威だけが頼りだから、学者が唱える学説の範囲を越えたとたんに間抜けに見えるね
それがわかってるから邪馬台国スレで自説を展開するのを控えてんだよ
一部のバカ以外は
>>354 つづき
そして、葦原中国(出雲)・邪馬台国の東征を経て
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
ヤマト地方の畝傍山の麓に「カシワラの宮」(奈良県橿原市)を築き、「神武天皇」として即位するに先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり
出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)」が妻に迎えられ正后となり、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人の子をもうけた
これにより
東征に出発する以前に日向の国でもうけていた子たちは嫡子から庶子の身分となり、「神武(カムヤマトイワレヒコ)」の死後、次の天皇を誰にするかで、九州と奈良は骨肉の争いを繰り広げ
527年には九州の豪族・磐井(いわい)が新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す「磐井の乱」を起こすなど
6世紀末になっても対立はまだ続いた
邪馬台国は、おまいらの心の中にある
(´・ω・`)
東征に出発する以前の、日向に居た頃の神武の家庭
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘
吾平津媛(阿比良比売)にとっちゃ
息子の手研耳命が旦那の東征に同行して共に闘い東征を成功させたんだから、
当然自分が日向から、ヤマト地方の畝傍山の麓の「カシワラの宮」(奈良県橿原市)に正后として迎え入れられる・・と思いきや
いっこうにその気配が無いどころか、こともあろうに
【息子の敵だった出雲】の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)」が「カシワラの宮」(奈良県橿原市)に迎えられ正后となり、しかもその理由が「初代天皇に相応しい正妃」
さらに、手研耳命が殺されて、次の天皇も
出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)」の子
まあ、東征に出発する以前の神武の日向の家庭は、大和には絶対に従わないよね
それが
当時の大和政権は新羅のライバル・百済(くだら・朝鮮半島南西部)と同盟関係にあったのに
福岡県古賀市の国史跡・船原(ふなばる)古墳(6世紀末〜7世紀初め)近くの土坑から、新羅(しらぎ)の王陵クラスで出土したのと同様の、玉虫の羽で装飾された金銅製の馬具が国内で初めて見つかり
船原古墳の被葬者が大和政権とは別に、独自外交を展開した可能性が浮かび上がったことで、裏付けられた
>>1 卑弥呼は未婚
神功は応神天皇の母
卑弥呼が外交してた訳ではなく
弟とされる男が外交をしていた
伊都が主要戦力拠点であり外交の要所であった
それゆえ女王は直接会えない
呉に攻められ数千人の捕虜を取られた夷州は当然砦の女王を後方に置く、壹與は伊予
狗奴国は南九州、熊ノか紀の国か毛の国か
性差別なんて合理的でない
メルケルは子供がいない
優秀かどうか
女性が子育てに力を取られるのは仕方ない
それが出来ない国は衰退するのみ
世襲と同列の話
>>348 韓国は中国に滅ばされたんじゃないの
遺跡集落数からすると九州しかないと思うが
卑弥呼が死んでその300年後の608年頃は広島あたりまで倭種だったと思う
大和政権はまだ出来上がってないように思う
暗殺されたり蘇我氏死んだり色々ごちゃごちゃあったしね
>>355 在野のまともな畿内説論者で自説を唱えてる人はいないだろうよ
まともな人は、学者の説を取捨選択して、自分が納得したものを取り入れているだけ
畿内説の自説=素人が作り出した説であり、学問でも何でもない
もちろん九州説はすべて素人が創作した珍説
>>348 戸数なんかも大月氏国の10万戸に対比するように倭国合計で15万戸だからね
陳寿が盛ったのか、魏に邪馬台国について報告した奴が盛ったのかどっちかだろうね
>>363 何の反論にもなっていない
それどころか、東夷の概念についての自分の主張を自分で否定しているのと同じ
クシャーナ朝と邪馬台国が同格なんておかしい、捏造だとかいう話をよく聞くけどさ
この時期のクシャーナ朝はササン朝に敗れて征服される寸前の状態だから
むしろこの段階のクシャーナ朝に金印の方が過大評価かもしれないと思う
クシャーナ朝の最盛期は150年は前の話だからね
>>364 俺の主張は西域の大月氏国に対抗するように東夷の倭国を意図的に大きく引き伸ばして書いたということだよ
そこに実際の距離や戸数は果たして書かれてるだろうかはなはだ怪しいと言わざるを得ない
仮に倭国までの距離が5倍に盛ってあるのなら実際の里数は二千四百里となるが
1里が500mほどだとすると帯方郡から1200kmの距離、だいたい熊本とか大分あたり
ということになる
こんな世界なら倭国の戸数だって5倍に盛ってあるかもしれない
>>348 当時の韓国にあった国ってかなり小さいぞ?
そもそも朝鮮半島って以外と小さいし
>>368 当時は奈良より伊勢の方が栄えてたからねぇ
>>366 韓の戸数がそのままで、倭国の戸数だけ盛ってるという言い分になるが
その言い分に説得力なし
>>372 司馬懿が公孫氏を討った絶妙なタイミングで朝貢したのは邪馬台国だものw
倭国までの途中の韓伝の方四千里なんか距離合わせに利用されただけだよ
曹叡の徳を慕って世界の果てから大国が朝貢してこれたのは司馬懿の功績なのよ
金印については魏晋の外夷に対する印綬授与の法則復元した論文があるな(秋山)
それによると複数の国を支配下に置いた包括的な権力を持つ王に対して金印が送られてるようだ
邪馬台国はその規定において金印が授与されてる
なので吹けば飛ぶような小規模な国ではなく広域を支配下に入れる王国であると魏が認識しているという事になる
クシャーナ朝との比較でも当時の急激な衰退期にあるクシャーナ朝と比べて過大評価というのは当たらないだろう
>>373 >倭国までの途中の韓伝の方四千里なんか距離合わせに利用されただけだよ
これはその通りだと思う
ただの帳尻合わせに過ぎない
で、だから何?
>>375 だから何だと言われたら最初に戻って
これが陳寿の思い描いた東夷世界だよっていう話だよ
>>348
邪馬台国との位置関係
【もっと北】 朝鮮半島 (狗邪韓国)
【北】 九州北部 (対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国)
【女王国】 邪馬台国
【南】 狗奴国 >>377 >これが陳寿の思い描いた東夷世界だよっていう話だよ
違う
九州だとこじつけるために、おまえが魏志倭人伝を歪曲して作ったデタラメの東夷世界
邪馬だの狗奴だの卑弥呼だの当てる漢字に人種差別しか感じられない。
支那人死ね。
三国志研究の専門家である渡邉氏も、倭国は大国として書かれていると言ってるのに
知識の乏しい素人がまともな根拠も示さず、倭国は小国だと言い張ったところで
説得力もないし、そんなデタラメな言い分に同意するはずがない
>>379 陳寿が東夷伝に書いたそのままを図にしただけだよw
>>381 そう倭国はわざと意図的に大国として書かれてるんだよ
大月氏国に対比して金印を授けるに値する世界の果ての大国が曹叡の徳を慕って朝貢してきたのは
司馬懿の功績だというストーリーが大事なのだから
>>362 57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した
天皇家の祖先の「筑紫城」は
後漢にとっては「倭奴國」漢委奴国王
しかし
220年 に「後漢」から皇帝の座を奪い取り
238年 に 司馬懿が「公孫淵」を討ち果たし
公孫氏から楽浪郡と帯方郡を取り戻した
「魏」にとっては「狗奴國」
>>374 節子、逆や
邪馬台国を倭の王に任命する事によって倭も魏の配下の国って事にしたんや
>>379,382
東夷伝などの記述の大元は帯方郡の役人の各種報告書だから
理由は不明だが帯方郡の役人だけが短い里を使っていた
もちろん普通の里しか知らない陳寿は短里なんて知る由もないから
疑問に思わずそのまま記載しただけ
>>374 あと魏の皇帝と、王は対等では無い
王を束ねる王が皇帝
楚王、燕王、斉王、韓王など皇帝の配下の1属領
>>381 もっと後年に日本は黄金の国と書かれた書物が欧州にあるんだが知ってるか?
その書物の正誤も
>>387 短い里とか長い里とかそういうのは別に考える必要ない
中華全土が方万里の時にそのまま四千里四方の四角を帯方郡の先に書けばいいだけ
どっかの近畿説みたいに日本を90度傾けるとかそういう頭のおかしいこじつけしなくても
倭国の位置はおのずと東冶の東になってる
>>383 大陸の政治のために
「実態はどうでもいいが位置的に都合のよかった日本」を活用して
「大国との繋がりポイント+1」のために日本の待遇が良いんだっけ
最高に面白い
纏向遺跡は箸墓古墳を作るために労働者が寝泊まりした飯場ということになる
原始、女性は太陽であった
ってやつ?
西洋では太陽神は男で月は女だけど、
日本では太陽神が女で月が男説女説両方あるのは
文化的な違いが感じられたおもしれーな
>>395 天照 → ゼウス
月読 → ハーデス
スサノオ → ポセイドン
こんなイメージ
こういうの「チェリー・ピッキング」と言うらしいね。
なぜ日本のリーダーになるような人物が
卑しいという字を名前に使うのか
>>29 半万年中華の属国で明治天皇以下日本人に独立させてもらったけど
支那やモンゴルの属国時代に戻りたがるチョンwww
>>368 奈良には歴代の天皇が住んだから多いぞ
奈良市内デパートの工事のために掘り返したら
長屋王の木簡が出てきたりする。
>>400 天上天下唯我独尊=お山の大将俺一人の
中華思想の支那人が勝手に書いた蔑称
委奴国も蔑称
>>373 支那の古代の規定では
倭国のような遠距離の国の朝貢は
王が交代した時に1度だけでよかった。
ワタルでも鬼斬でもザコくらいのイメージに貶められている
ドラクエに至っては悪役だ
>>403 天皇が奈良に済んだのって奈良時代までじゃね
平安時代からは京都でしょ?
阿呆だこいつら
こういう猿や中国をよいしょする猿が漬けこまれる
卑弥呼はひめのみことを中国の文字に当てたもの!
この頃日本の支配してたのは神功皇后、日本書紀にも記述かあります。
日本史上屈指の英雄だが?
男女平等とか超越してる、女性もこれくらいなると男より男になるよな
神功さんは膣の中に石を詰めて妊娠遅らせて海を渡ったというから只者じゃない
もはやキチガイ
そのうちどこかの工事現場から大量の竹簡が掘り出されて、論争にも決着がつくんでないの?
卑弥呼って、中国と対等に付き合っていたんだな。
朝鮮は属国だったのに、マジで凄くね?
其国本亦以男子為王
住七八十年 倭国乱相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑弥呼
事鬼道能惑衆
年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
その国は、元々は、また男子を王と為していた。
居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。
そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。
鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。
非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
卑弥呼にある程度の政治力があったのは認める
ただ存命中狗奴国をずっと放置したり
話せばわかるみたいな感じで理想が高すぎだったんじゃないかな
年已長大 無夫婿
こう並んでいると、女王となった時期の話に見えて
若い時からずっとそうなのかは、わからんね
>>399 それは違うよムーミン
縄文人はシルクロードを通って日本に来たギリシャ人
弥生人はインド経由で日本に来たユダヤ人
日本人の足型でDNAが確定されてる
>>410 竪穴住居に住んでた倭猿が海外領土とかネトウヨの妄想もすごいね
卑弥呼は論理的に江戸時代の神后解釈がロジックとして完全に正しいんだよね
たいし戦後の「卑弥呼固有名詞論」がこじつけ学でおかしいのよ
>>364 いや戸数が盛ってあるのは九州論云々関係なくほぼ間違いなかろ
流石に当時邪馬台国一国で七万戸はないわ
>>389 ほんこれ。
東方見聞録がアレなんだから
魏志倭人伝に書かれていることは
ほとんどデタラメと考えたほうがいい。
特に邪馬台国の記述は伊都国人のウソだよ。
それが彼らの生存戦略だったのさ。
世界はもともと母系社会だったんだけど、暴力で男が取り上げてきた
日本の伝統文化の神社の神職も歌舞伎役者ももとは女がやってた
しだいに男しかできない職や文化とか言い張り(中国や韓国の男尊女卑文化が入ってきた)、
結婚すると男の姓(家)に変えるなど、女の価値を落としてきた
>>382
それは間違い
本当は
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=55219&page=10
外から三つ目の方形左側の内側に
「九州之外謂之蕃國(一)世一見、各以其所貴宝爲執*」
「世一見」の最初に「一/壱」を補って現代日本語に翻訳する。
「尺八」が「一」尺八寸の縦笛を表わすのと同じ。
蘊蓄 一節切(ひとよぎり)とは尺八型の笛の一種。
長さ約34センチ、太さ直径約3センチの
竹製の縦笛で、節が一つある。
九州の外、之(これ)を蕃國と謂う、一世一見、おのおの其の貴重な宝を以って摯(てみやげ)とする。
*【詩·周南·關雎傳】雎鳩摯而有別。【箋】「摯」之言至也,謂情意至然而有別。
「雎鳩(しょきゅう)」はみさごで、夫婦仲がよいとされる水鳥。
詩経毛傳の「摯」の字は「至る」と通ず。其の情意深く至るを言うなり。
又執物以爲相見之禮也。與贄質通。 相見之禮也=あいまみえる(トキ)の礼なり。「摯」は贄質與(と)通(つう)ず。
<贄:シ、にえ、てみやげ>漢字検定1級レベル
贄幣=礼物、進物=贄帛、贄敬(シケイ)=初めて人を訪問するときに
礼物を贈って敬意を表す(大字源)、贄見(シケン)=礼物を持参して師にまみえる、
執贄(シュウシ・シツシ)=贄をとる、礼物(てみやげ)をもって敬意を表すること=委贄(イシ)
=委質(イシ・イシツ)に同じ。
↑を見やすくしたのが↓
魏書明帝紀が237年に公孫淵を征伐した時のことを振り返って言った
遼東半島ないし襄平迄「四千里」の征伐と
魏志倭人伝の「韓は帯方の南にあり・・・南は倭と接し、方『四千里』ばかり」
の四千里とが符合する。
結論:従来の韓の広さが4千里四方というのは間違った解釋で
「四千里」は魏が三韓支配の拠点の帯方郡が
京畿=洛陽を中心とする4千里四方の正方形の内側に納まるとの意味である。 卑弥呼=神功皇后なら天皇家も中華の封建体制の中にいたって事になるけど良いの?ネトウヨさん?
>>424 対等外交ならいいんじゃないかな
裏切りや一方的支配は嫌だけど
関わらないのがベストだけどさ
日本がお世話になったのは民族平等、男女平等の仏教が広まった時代の支那だからな。中国唯一の女帝に雅称日本を許されたという記念付き。
藤原不比等て何者なん
天皇も神社も中国関与なら必要経費中国に請求しようよ
>>413 よく嫁。 最初の「其の国」は邪馬台国だが、次の「倭国乱る」
の「倭国」は、倭人地域全体、列島全体(一部半島も)のことだ。
倭国大乱=列島大乱の当事者達が邪馬台の女王を「共立」した。
邪馬台=倭国代表との設定で魏に朝貢したから、この表現だが、
解釈すると、倭国大乱で邪馬台が負け、和議条件で覇権放棄を
受け入れたという事。女王=剣を持たぬ王=覇権放棄の証 だ。
それが証拠に、邪馬台の港を正体不明の「大倭」が監理してる。
漢代の朝貢国の奴国(←なんと邪馬台の配下だった!)を港の
所管から外し、伊都国(糸島)に「大率」を置いて監理してる。
表向き、邪馬台が大倭を使って監理しているという設定だが、
この大倭、正体不明。所在地すらも記載がない。
九州から海を渡った本州を「皆倭種」と漠然と表記している。
この中に大倭が隠されているわけだな。
もうお解りだろう。大倭とは、後世「大和」に改字する奈良!
>>415 シルクロードを端から端まで人が旅行していたわけじゃないでしょ。
バケツリレーのように物品が往来してただけ。
>>428 奴国は伊都国から百里
あまり離れてません
卑弥呼がいた時代の250年頃までは奈良ではなく九州に
その後608年にはまだ大和政権は完成されてなかったてことじゃない
だから適当に倭種てことになった
卑弥呼=神功皇后とする説か・・・
だが、天皇家ご魏皇帝に貢ぎ物なんてしないだろう
本居、新井白石あたりは同一説か?
まぁ、謎なのは継体天皇なんだけどな
西征で都に入ったのだからな
>>56 古事記・日本書紀で記載のアマテラス・岩戸神話・神功皇后の遠征のエピソードは、魏志倭人伝の卑弥呼&台与への代替わりの記述からのオマージュ
神功皇后は400年代前半の人物だぞ記録的に
で、1年2歳を1年1歳にすると
各天皇の在任期間の約が出る
(↑神武天皇記の人質が逃げたを起点に逆算)
卑弥呼がいた3世紀前半は開花天皇あたりになる
(ただ開花も政務、傾向も在任60年なのでアテにならないが
仮に、この3人が居ない前提だと考案天皇あたりになる)
神武天皇は紀元前20年あたりになる
神武天皇記ではなく、神功皇后記の記録と半島の記録を照らし合わせて起点に
>>428 違うぞ
旧唐書では
倭国はいにしえの倭奴国のことである
日本国は倭国の別種である
と、
国を示す倭国と、地域全体を示す倭を完全に分けている
↓は、邪馬台国だけのことであり、倭全体の話では無い
其国本亦以男子為王
住七八十年 倭国乱相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑弥呼
事鬼道能惑衆
年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
その国は、元々は、また男子を王と為していた。
居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。
そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。
鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。
非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
>>434 日本書記古事記は蘇我物部藤原が朝鮮に騙されて色々やってたから訳分からないようになったわけよ
それまでの日本歴史は蘇我が墓場まで持っていった感じ
残りは神社
誰も本当のことは分からない
何で老人は自己顕示欲が強いの?
老害なんだからおとなしくしとけよ
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
↑これは魏にとっての倭国つまり邪馬台国のこと
倭全体の話はそれに続く↓
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
つまり
後漢にとっては、自分が倭王とした倭奴國漢委奴国王に従属する国だけが倭国だし
魏にとっては、自分が倭王とした邪馬台国親魏倭王に従属する国だけが倭国なんだよ
だから、自分が倭王とした邪馬台国親魏倭王に従わない倭奴國漢委奴国王は倭国ではなく、呼び名も狗奴国
で何言いたいか分からないが
倭国は漢や魏と争ってたわけでないから
卑弥呼は狗奴国と争いがあるから朝鮮には行けないて断ってると思う
築紫磐井と毛野は同じ飯を食った仲間だから倭国内の派閥争い
当時は出兵しないと中国に滅ばされるため百済の救済も行くしかなかったと見た
歴史は見たわけじゃないので都市伝説として見てる
>>政治的な才能に長けていたからリーダーになったと考えられるのです
思い込みだな、イタコとか話半分で御輿だよ、実務は男王
>>442 おまえのいうことは無茶苦茶
当時ルートは、同時期に二つあった
赤が新しく親魏倭王になった邪馬台国
青が倭王の座を奪われた漢委奴国王の倭奴國
倭人伝には卑弥呼が暮らしていた宮殿には楼観(物見櫓)があり宮殿の周りは城柵で囲まれ
警備兵や日夜巡回していたとかいている 纏向遺跡には楼観跡も城柵跡も見つかっては
倭人伝には卑弥呼が暮らしていた宮殿には楼観(物見櫓)があり
宮殿の周りは城柵で囲まれ警備兵や日夜巡回していたとかいている
纏向遺跡には楼観跡も城柵跡も見つかってはいないが吉野ヶ里遺跡からは
楼観跡も城柵跡も見つかっている 卑弥呼は吉野ヶ里遺跡に暮らしていた
>>447 卑弥呼は生涯未婚の巫女だから曾孫はいないよ
>>429 そりゃ移民は一気に単年で移ったんじゃなく、10年100年単位で移動したんでしょ?
>>430 卑弥呼の邪馬台国と奈良の大和は別部族の国になんだよ
邪馬台国が大和の前身国家とする根拠が無いんだから
>>442 卑弥呼の権威の後ろ盾として魏国が必要だったんでしょ?
狗奴国に対して、自国の正当性を主張する為に
卑弥呼「我は魏の皇帝によって倭の王に任命せれている!!狗奴国はそれに逆らう賊軍だ!!」
これは研究じゃなくて文学の範疇だね
研究資料をもとに想像しているだけ
もちろんそういった試みにも価値があるけど
その想像者がどんな人間なのかみると・・・あってなる
>>446 結局だ、なぜ
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c なのかというと
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品
は
「邪馬台国」より50年から100年前の
『後漢書』では「倭奴國」
『魏志』では「狗奴国」
『唐書(新)』では「筑紫城」
の遺跡である・・に全く反論できないからなのよ
要は邪馬台国が合った頃の日本は戦国時代で
各国が独自に大陸に使者を送って交流や隷属してたって事だろ?
戦国時代に大友宗麟がローマに天正遣欧少年使節を送ってたみたいに
卑弥呼は魏に使節団を送ってただけど言う
>>459 戦国時代を終了するために卑弥呼を女王とした
魏はそう認識して倭国王と認めてわけだが
そこから疑うなら、魏志倭人伝の話は無理だね
>>460 >魏はそう認識して倭国王と認めてわけだが
魏志倭人伝のどこにそんな記述が?
>>459 それが出来るようになったのが
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠した
からだよ
それまでは、畿内の邪馬台国は
赤ルートで狗邪韓国までは渡れたけれど
そこから先は
青ルートの倭奴國・漢委奴国王と
帯方郡の公孫氏が追い返していた
>>457 おまえのヘンテコな説と同じ説を唱えてる考古学者はいるのか?
結論ではなく、説の中身のことな
>>1 キチガイにもほどがある。
脳にコロナが入っちゃったの?
>>463 はいはい
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer.
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品
は
「邪馬台国」より50年から100年前の
『後漢書』では「倭奴國」
『魏志』では「狗奴国」
『唐書(新)』では「筑紫城」
の遺跡である・・
だから
大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c それに対して九州説の反論が
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
>>463 詭弁のガイドライン
19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
>>449 吉野ヶ里遺跡からは楼観跡は見つかってはいない。
唐子鍵に負けたくないから倭人伝に合わせて捏造しただけ。
>>433 倭人伝が共立美容外科されたと書いてるのに何を根拠に
「王位簒奪」と書くのか
新撰組が影で暗躍しててハニワが攻めてきて滅んだんでしょ
先月やったよ
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國
と
238年に魏に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜った邪馬台国
考古学的には、同時代であり
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」とでも言わないと、九州の地元の文化財担当者ですら
九州に同時に存在したなんて言えないのよ
>>467 そのAnswer部分にある九州の遺跡について、考古学者がそう答えているのか?
もちろん、そんなおかしな主張をしてる考古学者はいない
おまえが訳のわからんことを言い張ってるだけ
で、あらためて尋ねる
おまえのヘンテコな説と同じ説を唱えてる考古学者はいるのか?
結論ではなく、説の中身のことな
>>457 まじで何言ってるのか分からない
なんで魏志で狗奴国出てくるんだろ
女王に属さない国として出てるのに
筑紫は色々な書物に出てくるので倭奴国で間違いないと思う
>>470 見つかってるよ
■物見やぐら
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡。内壕の内側で発見されました。吉野ヶ里遺跡は、周囲に小さな集落がいくつもあって、それらを統括していた中核集落と考えられています。物見やぐらは外からの侵略者を監視する見張り台だったようです。復元された物見やぐらは床高6.5m、高さは12m。佐賀平野を遠くまで見渡せます。
>>1 鎌倉時代は武家の女性にも相続権があった訳だがな。
紀記とか戦争で攻め滅ぼしたとき、
○○トベとか言う女性を殺してるからな。
リーダー格の女性はシャーマンとかでいたわな。
>>470 別に邪馬台国に関係ないからどうでもいいが、それってまるっきり逆だぞ
吉野ケ里は物見か楼閣の遺構が出てきた
唐子鍵は楼閣らしきものが書かれた土器がでてきただけ
遺構は無いけど楼閣は客寄せ用に作りましたってだけのこと
訂正
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國
と
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国
考古学的には、同時代であり
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」とでも言わないと、九州の地元の文化財担当者ですら
九州に同時に存在したなんて言えないのよ
>>464 ヒミカと書くのは古田武彦教祖信者の特徴
上海語で「呼」はhɔホやkhɔコ
厦門語でhɔホやkhɔコ
これら2方言は皆唇を丸くして発音する合口音。
広東語はfuフという唇歯音。
>>478 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡。
なんて言っているのは
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」なんつっている人たちだけ
地元の文化財担当者ですら、厳しい見方を示す
>>480 客寄せ用に作ったのは吉野ヶ里の方
吉野ヶ里弥生テーマパークのHPにそう書いてある
唐子鍵の物見台は現代の神輿の先駆となった意匠=デザイン。
吉野ヶ里のは現代に通じる伝統を感じられない紛い物www
>>478 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡・・なんて言っているのは
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」なんつっている人たちだけで
地元の文化財担当者ですら、厳しい見方を示す
そりゃそうだ
考古学的には
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國
と
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国
どちらの遺跡か全くわかんねーんだから
>>484 >遺跡から発掘された土器に描かれていた絵画を元に復元されました。
こんな落書きみたいのが存在した証拠になるかよ
環濠集落は日本中にあったわけだし、吉野ヶ里だけ特別なわけではない
吉野ヶ里にある楼観や城柵は日本中あちこちにあったとみなすべき
卑弥呼が生物学上の女だったのだろうか?
性別の概念ってどうだったんだろうね
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡は
卑弥呼が中国の魏からもらった鏡
>唐子鍵の物見台は現代の神輿の先駆となった意匠=デザイン
こんなこと書くやつと議論するのは憚れる
疲れるだけだから止めた
>>487 みなすのは自由だからかまわんが、その証拠(遺構)が出て来なければ
説得力ゼロ
>>489 鏡が欲しくて欲しくてたまらなかったど田舎の国が遠くまで買いに行ったか
あるいは職人雇って連れてきたのかもよ
>>492 そういう考え方もあるな
だが、吉野ヶ里は王と庶民が同じ場所で生活していた遺跡であり、従者1000人が支えるスペースがない
近くに径百歩の墓もない
まだ見つかってないという言い訳さえ通用しない
よって、吉野ヶ里は邪馬台国ではないし、九州には候補地さえ存在しない
>>485 古い時代のものから新しい三角縁神獣鏡まで九州にあるんだから
それだけ長いこと筑紫に倭国が存在したてことやん
古文書には富士王朝の時代から九州に都 神都を置くてなってるから
古い後漢鏡もなきゃだめだろ
>>494 邪馬台国ではないと言うのもそうだと言うのも自由にすればいい
違うと言うのならその論拠を述べればいいし、そうだと言うのなら
その論拠を述べればいいだけ、それをどう判断するのかは人それぞれ
学者先生様たちが100年も200年も言い合って来ても
結論出せないんだから素人の俺たちは何言ってても趣味の範疇
だからおもしろい
>>496 論拠を提示したにもかかわらず、おまえは反論さえできていない
結論が出てないと言って逃げるだけ
>>497 なぜ反論しなきゃならんのよ、あんたがそう考えてることはそれでいいじゃん
その通りだと思う人も居れば、いやそれはおかしいだろと思う人も居るやろう
結論は出てないやろ?出てるのか?
それとなんでここに来る奴は畿内派か九州派かに属さなくちゃならんのよw
畿内のそれは九州大王家一族から分れ各地に領地を与えられた諸侯王みたいなもんだな
ある程度独立性のある親藩・譜代大名みたいなもんで周王朝のモノマネ
殷は外様に囲まれて滅んだが、周は親藩・譜代で各地を固め安泰
やっぱ姫氏なんやろな
fgoでつい最近イベントやったのでマイトレンドなのよ
>>486 吉野ヶ里ホムペより
2.復元建物等の基本設計、実施設計の検討
2. 絵画、家形埴輪、家屋文鏡等調査
>当時の建物は一つも残っていないため、建物の形を調べることはとても難しいことです。
>ただ、当時の人々が使っていた土器に建物の形が描かれているもの(絵画土器)や、
>粘土で作った建物の模型(家形埴輪)、青銅の鏡の模様に表現されているもの(家屋文鏡)
>などがたくさん残っており、これらは建物の形を考える上でとても重要な資料となっています。
>鳥取県米子市の稲吉角田遺跡出土の建物が描かれた土器
>(写真)
>▲鳥取県米子市の稲吉角田遺跡出土の建物が描かれた土器
>唐古・鍵遺跡(奈良県)の建物が描かれている土器
>(写真)
>▲唐古・鍵遺跡(奈良県)の建物が描かれている土器
邪馬台国は大和国、狗奴国は熊野国。
音から簡単に類推できる。
神武天皇を祖とする男系の熊野国が邪馬台国を破って日本を治めた。
それがこの国のシンプルな歴史だ。
>>499 息を吐くようにウソを撞く南朝鮮人的発想wwwwwwwwwwww
>>498 492では根拠のある推測さえ無意味で、証拠が必要と言っておきながら
496では九州説に都合の悪い事実を突きつけられると、言うのは自由だの判断は人それぞれ、
ほとんど正反対の意味のことを言っている
こういうやつは、相手の論を否定するときは、厳密な証拠を要求するが
自分に都合の悪い事実を突きつけられると、判断は人それぞれと言い訳して、事実を認めない
状況によって180度スタンスを変えるインチキ野郎
>>1 卑弥呼はAD230年あたりだよね
イエス=キリスト様は200年前に愛を説いて
今も世界に25億人のキリスト教信徒がいるのだからすごいなあ
>>504 ほんとおまえさんのようなのがいつまでも邪馬台国論争やってる限り
まともな議論はできんやろね
勝手にレッテル貼ってなんだかんだ、あうだこうだ
よほど畿内に固執してるんやろな つまらん拘りやわ好きにやっててくらはい
ここまでのまとめ
倭人が北部九州を邪馬台国と呼んでいた可能性は非常に高い
■もともと中国にあった記録を転写した部分
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人に確認して追記した部分
帯方郡〜投馬国(半島南部)〜邪馬台国(北部九州) で(水行30日+陸行1日)
■考えられること
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
>>493 魏志倭人伝には卑弥呼は魏から銅鏡百枚を下賜されたと書いてある
鏡を買ったり職人を連れてきたとはなってないね
>>506 >まともな議論はできんやろね
二枚舌のおまえが言うな
そもそも先に反論してきたのはおまえだということを忘れるな
都合の悪い事実を突きつけられて逃げるなら、最初から反論なんかしてくるなボケ
鉄器の多い邪馬台国連合の南側に分布する
鉄器の出土量が少ない地域が狗奴国
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、
朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
弥生時代(後期〜)の鉄器出土量
>>507 >倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを全て水行と表現していた
オマエの書き方 まるで倭人が自分で「倭人伝」を書いたようだなwww
>>510 古墳時代に入ると鉄器は畿内が九州を圧倒
○ホケノ山 畿内 3世紀中期
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後期
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後期
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
畿内の古墳は1基あたり200点ほど鉄器が出る
九州で見つかっている鉄器は弥生時代を通じて千点程度
黒塚古墳から見つかってるU字形鉄製品は
臺与が魏からもらったと魏志倭人伝にある黄幢(軍旗)の骨組みではないかと言われてるね
>>513 ホケノ山古墳は庄内期だから、一般的な時代区分だと弥生時代の終わりの時期
最近は庄内期を古墳時代とみなす研究者もいるけど
>>495 57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國
の研究には「古い後漢鏡」は関係あるけど
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国
の研究には「古い後漢鏡」なんかどうでも良い
九州説の柳田康雄教授も
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品
が
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國のモノなのか
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国のモノなのか
年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題だっつってるべ
畿内は女王国の東の海を渡った先にあった倭種の国の一つでした
旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
■倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない
邪馬台国が見つからない根本原因は畿内説にあると思う。
>>518 鉄器や魏の銅鏡など
畿内からは現実にものが出てるから妄想ではないね
鉄器は、弥生時代から古墳時代にかけて、九州の相対的地位の低下を示す物証なんだよな
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡・・なんて言っているのは
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」なんつっている人たちだけで
地元の文化財担当者ですら、厳しい見方を示す
そりゃそうだ
考古学的には
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國漢委奴国王
『魏志倭人伝』に記された邪馬台国親魏倭王
どちらの国、どちらの倭王の遺跡なのか全くわかんねーんだから
九州説の柳田康雄教授も
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品
が
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國のモノなのか
『魏志倭人伝』に記された
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国のモノなのか
年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題だっつってるべ
畿内説が文献曲解や事実歪曲でゴリ押しするのはDNAのせいかな?w
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
近畿あたりが最も朝鮮人に近い
>>520 いんや
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國漢委奴国王と
『魏志倭人伝』に記された邪馬台国親魏倭王
どちらの国、どちらの倭王の遺跡なのか年代論を解決せずに
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
なんつってる九州説のせいです
>>524 実際に見つかってるものなので犯罪ではないね
>>527 4世紀の話をしても意味ありませんからw
ホケノ山古墳も4世紀濃厚
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
>>525 畿内説だから近畿人が主張してるという
弥生人以下の脳の作り
>>529 実際は朝鮮人が主張してるんですよね
だから嘘ばかり言う
>>119 日本に当時漢字がなかったのだから卑弥呼は音訳なのだろうね。
古代中国語では発音はどうだったのかね?
ベイミーフー
ビーミーフー
>>528 ホケノ山は3世紀前期から中期
ホケノ山古墳の木棺の木片サンプルを5つ炭素14C年代測定した結果
サンプル1.AD30〜244年
2.AD5〜155年
3.AD20〜215年
4.BC30〜135年
5.AD55〜235年
これによればホケノ山古墳の建造年次は3世紀の244年が上限
畿内説は纏向遺跡で出た桃の種の年代を根拠にしているがこれも歴史捏造だよな?w
桃の種が埋まっていたのは柵の下の別の遺構
よって纏向遺跡の大型建物と桃の種は関係ありません。
これも捏造考古学会による印象操作の一つです。
ちなみに箸墓で見つかった桃の種の年代は4世紀w
当時、朝貢に来た各国の使者の絵で倭の使者だけ裸足なんだよなw
>>521 そんなの九州にだってある
大きさだけなら
一貴山銚子塚古墳100m
石塚山古墳120m
那珂八幡古墳75m
1里76mだから100歩は30m前後で
祇園山古墳を推す人いるね
箸墓古墳なんて卑弥呼の時代牛馬いなかったのに
馬具出土してるから年代違うんじゃないか
考古学的には
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」への「光武賜以印綬」の記述の印綬が出土してるので
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品は
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國・漢委奴国王のモノ
邪馬台国・親魏倭王のモノでは無い
が主流なんだけど
それを九州説が覆すには、
『魏志倭人伝』の、卑弥呼や難升米や牛利や、大夫伊聲耆、掖邪狗等への印綬が出土しないとムリ
>>519 大琉球と日本の間の島だと九州っぽくね?
>>533 いやいやこいつ等の末裔でしょうw
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
>>537 畿内は九州より出土する魏の鏡や鉄器
それから古墳の大きさや数がはるかに上まわる
男王だと喧嘩が絶えないから女王を立てたと書いてあるだろうが
>>541 お前この手のスレ来るの初めてなのか?w
魏の鏡とかw
「桜井市纏向学センター」
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
〜中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
※半島南部は倭人の領土だった
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
つまり1里=約75m
>>543 ま、畿内は古墳時代の遺構が多いんだろうね
九州より
現実的にわかっている人もいる
奈良県立橿原考古学研究所企画学芸部長
坂靖氏
現在の古代史・考古学界では邪馬台国がヤマト王権に発展したという邪馬台国大和(やまと)説が有力である。
けれども著者は、中国との直接交渉を示す考古資料(遺物)が弥生時代中期から後期の畿内地方ではほとんど確認できず北部九州に集中していることから、邪馬台国北部九州説を支持する。
>>547 いやその表だと普通に兵庫とかが遺跡の数が1番になってるんだが
大分では魏王の鏡と同型の鉄鏡が発見されてるよな
この説↓も信憑性は高いぞ
山口県を投馬国とする説より
魏志倭人伝の方角基準
魏の時代の三韓の一つ馬韓50国に対し、倭国は30国
4千里四方と表現された韓国領土に対し、周旋5千里と書かれた倭
>>519 天天争いの壬申の乱ぐらいまでずれ込みますかね
>>543 纒向学研究センターでは、庄内期から古墳時代とみなしている
つまり、邪馬台国は古墳時代という見解だ
丗有王皆統属女王国
通説では「代々王あり、皆女王国に統属する」と読む
そんな伊都国は、通説では糸島市三雲を中心とした糸島平野にあったとされる
そこでは弥生中期後半から終末期まで王墓が営まれたと見られている
女王の都する邪馬台国は大和であるとするのが通説である
通説に従えば、弥生中期後半つまり紀元前後から伊都国の王は大和国に統属していたことになる
じゃあ二世紀後半の大乱より前は北部九州が優勢だったという言説はなんなのさ、となる
通説てアホみたいだろ
>>551 統一国家となったのは壬申の乱以降だね
こういう記録もあるし
「遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭腫(日本国)の使節団が中国で争いがあったと書かれてる」
>>552 そもそも畿内説は都合を考えて古墳時代という節目を捏造してるからね
古墳時代よりずっと前から古墳はあるんだよ
三角縁神獣鏡は景初や正始と魏の年号が彫ってある
景初や正始は卑弥呼が魏に使いを送った年と魏志倭人伝に出てくる
>>550の補足
大分で出土した鏡は魏王の鏡と同型でした
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 >>556 卑弥呼が鏡を貰ったのは景初2年
魏王が死去したのは景初3年の1月
国内で出土した三角縁の記年鏡には実在しない「景初四年」と刻まれたものが発見されている
明らかに国産ですねw
古墳を作った勢力と、後の大和朝廷は別勢力。
日本書紀には、古墳を造った記録が殆どない。あんな大事業なのに。
巨大古墳を作ったのが大和王朝だったとしたら、何千人の民を動員して作った と偉業として記紀に書くはずなんだよな
>>557 卑弥呼が魏に使いを送ったころは曹操はもう死んでるよ
もっとも生存年は被ってるから
曹操が倭の情報を得ていたとしたら卑弥呼の事は知っていたのかもしれない
>>554 陸奥の蝦夷の男女2名を献上
それは倭国人?日本人?
何、この政治キャンペーン
どういう利権が絡んでるのかしら
三角縁神獣鏡はすでに600枚も発見されている
大抵の古墳は盗掘されているのでその残存(出土)確率から見ても当時数万枚は存在したであろうと
卑弥呼が貰った鏡は記録では100枚だぞw
見つかる確率も相当低いぞw
>>560 曹操は魏略を読んで女王の存在を知っていたかもね
>>558 卑弥呼が鏡をもらった景初二年は
梁書や太平御覧などとつき合わせてみると
景初三年が正しかった事がわかっている
景初四年は晋書天文志などに記載があって
当時使われていた年号である事が判明している
三角縁神獣鏡を蛍光分析機で分析してみたら
魏の鏡と同じ銅で作られている事がわかった
>>564 魏略が成立したのは恐らく曹操の死後だな
卑弥呼の朝貢が書いてあるから
>>565 中国人は別物と見てる
邪馬台国は北部九州一帯と見てるね
大した資料もない存在に対してよくもまぁここまで言えるもんだ
現代からすれば呪術なんて存在しないし、ようは古代の詐欺師だろ?女麻原彰晃だろ?
>>566 スプリング8でわかるのは原料の成分のみ
鏡の産地は特定できません
おたく文系?
>>563 邪馬台国は4回ほど魏に使いを出した事が魏志倭人伝に書いてある
そして三角縁神獣鏡は国内で粘土で鋳型をとって国内でも複製品が作られていた
>>557 >日田で出土の鉄鏡
はい、嘘八百
日田で出土した「とされる」鉄鏡と呼ばれているが、出土を確認した人間は一人もいない
日田出土の信憑性は極めて低い
しかも、この鉄鏡の調査に関わった考古学者も「日田出土ではない」とする文章を最近発表している
畿内説は畿内説専門家にこれを問うべし
中国の史書には時代ごとに倭国の葬祭の様子が細かく描かれている
しかしそこには女王は登場しない
なのに何故祭祀と卑弥呼を関連付けるのか?
卑弥呼は政治的判断を担っただけの共立された占い師だぞ?
>>570 だから三角縁神獣鏡は魏の鏡に使われているのと同じ銅で作られている事がわかったと書いている
しかし三角縁神獣鏡には銅出徐州と書いてあるので
魏の領地にあった銅の産出地である徐州の銅で作られたと推定されている
>>573 卑弥呼が死んだ時に径百歩(140m)の大きな墓を作ったと
魏志倭人伝に出てくるよ
>>574 印象操作乙w
紹興出土鏡の一部と洛陽出土鏡、旧楽浪郡出土鏡の「三角縁」は「斜縁」のことだと考えていただければよいのではないかと思う。2009.04.16
33> 朝鮮と違って、日本には縄文文化と言うのが、有って、
世界最古級の土器が、方々から穴を掘れば出るのです。
捏造文化の国とは、根本的に違うのです。
>>575 卑弥呼が死んだ後の話だぞ?
卑弥呼が前方後円墳を造るよう支持していたわけではない
鏡を添える話もどこにも書いてない
なお、記紀にも書かれていない
纏向遺跡は4世紀半ばに消滅しており、4世紀末には渡来人が入植している
現行の畿内説はファンタジーw
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
『渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。』
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>578 生前に前方後円墳を作るよう指示してたのかも知れないよ
>>580 お前こそ魏の鏡なんて存在しないのに何を早合点してるんだ?w
しかも国産と同型とかw
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/ 清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。
人間社会が進化して律令が取り入れられたわけじゃなくて
戦争に負けて駐留軍が勝手に律令を制定した訳よ
今のGHQ憲法と同じな訳よ
そこんとこの認識が大間違いなわけ
日本書紀自体を傀儡が書いたものだから嘘八百な訳よ
>>568 youtubeはさておき歴代の正史は邪馬臺とヤマトを当たり前に同一視してるね
隋書しかり
>>582 九州で曹操の鉄鏡が出たとか言ってたやん
あれは嘘なの?
>>582 それ輸入した鏡を国内で粘土で鋳型とって複製したから
元の鏡と同じ傷になってるだけ
日本は男尊女卑ではなく、男女の役割がハッキリしてるだけ
GHQに家制度を壊されてしまい女性の立場が無くなってしまった
戦後の女性は家制度が破壊されて居場所がなくなり、
外国のフェミニズムに押されて本来男性の役割であったはずの役割を
しなければならなくなった。
>>584 古いネタしか持ってないのか?w
同一の場合は「いにしえの〜」と記述される
隋書の時代の邪靡堆はヤマタイのような位置づけであり、しかも国では無い
【基礎知識】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が当てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長が誤読に気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で使われていた市場の管理係「大倭」と記載されている
後漢時代の倭国は100国あったが、女王国時代は30国
残り70国が狗奴国であり、ヤマトはその一部で発生した後発の政権だろう
〜中国の記録に記された女王国の規模〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
>>553 107年の倭面土国師升なんかもこれヤマト国の王だろうし
107年に近畿ヤマトが倭国の王様してたんか?っていう話よな
>>144 公孫燕の属国
燕は朝鮮半島を支配してる
だから卑弥呼は倭は朝鮮半島の国とも言われている
>>29 >中華の属国がそんなに誇らしいの?ジャップさん?
聖徳太子が、隋に使いを遣った時に、煬帝が怒って、
『二度とあんな無礼な手紙を遣すな。』
と言った。
『日出處天子致書日沒處天子無恙云云』
意図的にも、聖徳太子は、此の様な非礼な文章を書かせたのか?何故ならば、3国時代の魏・呉・蜀
は、魏の後の西魏が隋の出自であり、そして唐もそうであるという基本的な現代の中國人考古学者の常識を、
「隋も唐も、其の王朝はトルコ民族。」
であることを日本人は感ず付いており、有りの儘を書いたのだった。
こんな実在したかもわからない人間の何が研究出来るの?
>>553 そんな伊都国は、通説では糸島市三雲を中心とした糸島平野にあったとされる?
んなこと言ってるのは九州説者だけ
だぞ?
>>590 倭面土国の「面土」はメトゥラと発音して北九州まつら国あたりにあった国と言われてる
>>596 倭を発音から落とすのも無いし
土はツラなんて発音しないみたいだぞ
土
臺
倭人伝には卑弥呼の墓は棺有り、槨(石室)無しと書かれているから卑弥呼は
棺桶に入れられてそのまま土をかぶせて墓を作ったと言う事だ。この方法は
北部九州では一般的で小規模のお墓を意味する、しかも殉死者もいるから
これに見合うお墓は現在の所は久留米市の祇園山古墳が最有力と言う事だな
奈良の箸墓古墳は石室があるから卑弥呼の墓では無いのは明らか
いろんな説があるからあくまで一つの説書いてるだけだよ
倭はヤとは発音しないだろうし、面土は今の読みだとメツチ国とも読めるって
>>603 さすがに今の読み、しかも日本語は関係ないべ
倭
面
>>553 魏志倭人伝は基本的に魏の時代の倭国について書かれている
したがって、魏の時代における伊都国のことと解釈できる
魏の時代には、代々の伊都国王は女王国に統属してた、という意味
しかも女王国と書かれてるので、これは卑弥呼が女王になった以降の邪馬台国
臺にしたってトと読ますんじゃなくてダと読ませるべきじゃねーかていう気がしなくもない
>>605 倭面土でィワミャントみたいな発音なのだろうか
いわゆる易姓革命だな。
大和朝廷により全て痕跡が消されたということ。
>>100 卑弥呼は日御子とか日巫女とかそんなんだろ
生まれた時からそういう役割が決まってたんなら本当にそういう名前なのかも知れないけど
台与(トヨ?イヨ?)は普通に名前だろうな
>>603 日本書紀:日本武尊(やまとたけるのみこと)
古事記 :倭建命(やまとたけるのみこと)
>>593 聖徳太子のブレインは秦の始皇帝の末裔を自称する秦河勝で先祖の祭祀が重要だった古代のことだからまんざらフカシでデマカセを言ってたわけでもなかったはず
隋なんか格下の蛮族扱いだったのだろう
>>604 中国語の「標準語」は当然だけどその時代に国の中心だった地域が基準になっているから今の北京語で考えても仕方ない
>>612 旧天皇家である蘇我氏の業績を、一人に集約すれば、そら聖徳太子のようなスーパーマンになるわな
中国様の歴史書でしか日本の創世記の時代の詳細が分からないという現実ワロタ
我々はもしかして我々が思っている以上に猿だったんじゃないのか?w
中国の標準語は「普通話」 これが制定されるまで同じ中国人でも
話が通じなかったらしいw
>>616 制定されてなくても少なくとも都の官僚にはなんらかの共通語が必要でそれは概ねそれぞれの王朝の首都が置かれていた地域の方言だろう
5世紀〜7世紀の勢力図
アクセント
>>618 そう、その時代の方言で史書も写本されていったから
かなりごちゃごちゃになってるらしい、客家語から始まり北京語で書かれ
上海語へと変わった
現在でも6-7つの大きな方言に分かれる巨大な国
>>615 魏呉蜀でバチバチやり合ってる時代ですら日本はまだ文字すら無いとか終わってるわな
卑弥呼は実在したかも怪しい
次の台与になった途端存在を示す文献が国内外で大量に出てくる
台与はいたんだろう
卑弥呼は架空のキャラくさい
>>619 中国語と関西弁のイントネーションが似てるのと渡来系遺伝子が関西四国に多いのは関係あるだろうな
>>623 神話とかじゃなくて実際に朝貢してきたとの記録だから伝聞の記録間違いで不正確な部分はあってもなんかそれらしい人がいたのは事実だろう
中国の古史書は基本役人による業務日誌的な記録をまとめたものだから政争や王朝の正統性とかに関わるようなところは粉飾してる可能性もあって眉唾だが、それ以外のどうでもいいところは概ね考古学的発見とも一致していて正確だ
卑弥呼は儀式だけやって実際の政治は弟がやってたんじゃないのか
>>626 そういう風に書かれてるのにフェミBBAどもと来たらw
実態は伊勢神宮の斎宮みたいなものだろう
当時は神権政治だったんだろうから最終決定権という意味では相当権力はあったかもしれないが
>>628 女王を強調してるから邪馬台国側が嘘をついてたとかじゃなければ間違いなく女
>>623 >台与になった途端存在を示す文献が国内外で大量に出てくる
これ詳しく
しかし調べれば調べるほど邪馬台国畿内説はアホらしく思えてくるな
それは違うぞ
畿内説を否定してるやつらの知識レベルが低すぎて
説明が面倒だから間違ってるところにレスしてないだけ
とりあえずホケノ山は後世に墓が追加された形跡があるだろ石棺とか
初期の古墳は埋葬したら手をつけないとかルールが曖昧だったんだろう
布留0式土器は後世の追加時のものの可能性があって
木片とか一番古いのをできた年代と考えるべきだろう
>>598 其死有棺無槨 が書かれてるのは庶民に生活について書かれているところで
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟?息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用?豆 手食
其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐
卑弥呼の墓についてはこれだけ
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
庶民の埋葬方法が魏志倭人伝に書かれているけど
卑弥呼の埋葬方法で石室が無いかは不明
てなかんじでいちいち解説するんだぞ
否定してるほうに知識が無さ過ぎるからいちいち長文になる
>>597 短期で終わった都とか山ほどあるだろ
こういうのは楽
アンカ間違えた
>>579 短期で終わった都とか山ほどあるだろ
>>637 徇葬者はいるの
祇園にはいたと思うけど
卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
に相当な人はいるの
畿内派のレスを見てると人間知識より知能の方が大事なんだな、って思う
>>636 畿内説を主張してるのってこういう知恵遅れだけなんだよなぁ
ホケノ山古墳の構造
これだけ思いっきり地下に埋められてるのに後世に掘り返して追加とか無いわw
そんなことしたら掘り返した痕跡が必ず残る
出土した小枝資料の4世紀後半がホケノ山の科学的な年代
>>572 奈良で出土したとでもいいたいのか?w
この鏡が日本で出てきた事は極めて重要な意味を持つんだがねえ
出土場所が確定できないから無かったことにとはならない
>>574 三国時代の魏晋朝領域の徐州では銅は産出していない。
徐州が銅の産出地として知られていたのは前漢・新・後漢時代のことである。
漢時代の徐州の地域は三国時代よりも広く、 銅の産出地は三国時代では呉王朝の領域
>>621 無いというのが逆に考えられないんだよな
太拍の末裔自称するほど中華圏の歴史には詳しいわけで
ならば中国を真似て記録を付けてない筈がない
>>627 卑弥呼がどうだったかは知らないが
母系社会では女性酋長=シャーマンの発言力は絶大だろ
>>642 出土場所不明、入手経路も不明
古物商がどっかから入手してきた
確実に言えるのはこれだけ
なお、白木原教授は古物商が骨董市で中国からの流通品を買いつけたものだろうと示唆している
当時は日田に骨董品の流通拠点があったのだから
太伯の後と言っても百越だろ
文字なんかないし口伝だよ
卑弥呼がやっていた鬼道とやらは
神降ろしと言われる類い
見た目は女、中身は男
それがアマテラスへと繋がっていく
要するに
俺らが戦国武将などを女人化させたりしてるが
すでに古代人もやってたってことさw
本来は男神であるが
男神を神降ろしした巫女 を崇拝してるってわけ
アマテラス信仰はw
答え出たねまたw
🇯🇵日本は野蛮な国!🇯🇵
島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。
これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。
我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである。
🇯🇵日本は野蛮な国!🇯🇵
>>29 半万年属国だったチョンには
日清戦争で支那をやっつけた日本に
劣等コンプレックスを感じずには居られないだろ
史記を書いた司馬遷みたいな人が日本にいなかったから古代史はあやふや
陳寿は日本のことなんて聞いた話を書いただけ。わざわざ創作なんかはしないだろうから当時の暮らしや風習が全部嘘ってことはないだろうけど
日本由来の神は恵比寿様ひるこが卑弥呼になったとか
やまとのあがたとする神都は九州にあっただろうけど卑弥呼はいなかったかも
邪馬台国のほうがネトウヨ日本国家よりもはるかに進歩的だったのかもね。
西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である
斯波?司馬?
>>607 支那方言で魏晋時代の発音をを現代に継承してる福建方言でト
唐末五代宋代初めの広東語などで「トーぃ」と読む
殆どの支那語方言は唐代半ばに濁音始まりの読み方が清音始まりに変化した。
だから邪馬臺はヤマトに清音化する前はヤマドだった。
宋代にまとめられた三十六字母で「台」は清音始まり、「臺」は濁音始まりと判明してる。
三省堂の「全訳漢辞海」という漢和辞典は四十一字母を使って反切で発音(音読み)を示している。
「台」は元々清音始まりで漢音「タイ」、反切「透咍」、慣用音、俗音「ダイ」
天台宗(テンダイシュウ)の場合は「台」の前に「天」の「ン」という有声音の鼻音が有るので
連濁したとされている。
「臺」の反切は「定ディアウdeng/ding+咍(客家方言toi、広東方言hoi」で
1文字目の頭子音dと2文字目の頭子音以外の部分oiをつなぎ合わせて
doiという発音を表わす。
邪馬臺國時代の日本語にはアイとかオイというような
母音連続が無かったので当時の邪馬臺國語の発音に近い発音の漢字で当て字した。
>>641 ホケノ山のあとから入れられた石棺は
橿原考古学研究所附属博物館で見れるぞ
>>665 古墳時代後期ですって
弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中してることから
邪馬台国は九州
>>664 >邪馬臺國時代の日本語にはアイとかオイというような母音連続が無かったので
>当時の邪馬臺國語の発音に近い発音の漢字で当て字した。
古代日本にはアイとかオイとかいうような発音がなかったのに
なんで魏晋人がアイとかオイとかいうような漢字で当て字してんだよ
トという発音ならトと当て字すりゃいいし、ドという発音ならドと当て字すりゃよかっただろうが
>>656 陳寿は単に過去の文献とか伝承を纏めただけで、その内容が正しいかどうかなんて気にもしてないよ。
もっと後の時代、ヴェネツィア人商人のマルコポーロもすっかり騙されてる。
東方見聞録にも中国から日本までの距離について書いてあるが、1500マイル離れていると書いてある。
メートルに直すと約2400km!
短マイルを編みだす必要がある。
中国人から見て、海の向こうの蛮族の事なんてどうでも良かったんだろうね。
>>665 土盛りにちょっと横穴掘っただけじゃねえか
横穴式石室と元の石室は繋がってないから混入は起こらない
関係ない話で誤魔化したってダメ
中国は倭人のいる地域を倭と呼んでいたが、倭人自身は何と呼んでいたか?
が重要だな
日本に来て中国人がまず感じる事といえば山の多さだな
山が多い→山多(ヤマダー)→邪馬薹(ヤマダー)
3世紀頃の中国は伊都国や奴国までの道のりはすでに知っていた。
倭人が魏へ朝貢してきたので道のりについて再確認したところ、
「帯方郡から南へ20日水行し半島南部の投馬国、
更に島伝いに南へ水行10日で北部九州に上陸。
葦の茂みをかき分け進めば1日で女王の都である邪馬台国に到着する」
という説明だった。
倭人は里を知らないから日で説明していたわけだ。
後世の隋書にもそう書かれている。
月は日の転記ミスだね。
月という単位があったか不明だし。
普段から半島南部・対馬・壱岐・呼子を行き来していた倭人にとって船で移動する事は全て水行と一括。
邪馬台国は九州で間違いないね。
魏志倭人伝には邪馬台国がある位置は会稽東治の東
つまり今でいうと沖縄とか台湾の辺りと書いている
一方畿内のヤマトには卑弥呼の時代の前方後円墳があったり
魏の年号が入った鏡が見つかる
これは一体どういう事なんだろう
>>682 会稽東「治」の東→鹿児島あたり 後漢書ではこうかいてある
会稽東「冶」の東→沖縄あたり 魏志倭人伝ではこうかかれてる
さてどちらが正しいのかはこの文が書かれてる前文を読めば
解決する
>>682 海を隔てた方角なんてまともに計測してるわけがない。
東西南北4方位のどっちかって程度の意味だよ。
>>684 後漢書には会稽東治県は中国最南部の朱崖タンジ県と近いと書いてるよ
中国の朱崖タンジ県はハワイと同じ緯度
卑弥呼の後に即位した男王(次の巫女イヨの前)って卑弥呼の息子なの?
クナ国の一族から選ばれたから内戦起きたって記事もあるけど
>>689 いくつかの古記録と出土物を突き合せれば案外わかる
魏志倭人伝と出土物が一致するのが畿内
>>686 へ〜後漢書のどこに書いてあるのか是非教えていただきたい
邪馬台国畿内説スレに書いてあったらコピペよろしく
>>692 「在會稽東冶之東與朱崖タン耳相近」
会稽東冶県の東と朱崖タン耳は相近い by後漢書
陳寿が書いた東夷伝を忠実に再現するなら
倭国が東冶の東にあるのは間違いない
>>690 夫がいないから子供もいない、とは限らないさ
キリスト教の修道女でもあるまいし
>>693 それ意味知ってて書いてる?それともそのままコピペしただけ?
習俗が今の海南島位に当たる朱崖と何て読むのか分からん地名に近いって
書いてあるんだぞ?
>>688 卑彌弓呼だろな、大概力でねじ伏せたけど余りにも反発も多かったから仕方なく壹與を担いで、邪馬台国を我が物にした
>>697 会稽東治や朱崖タン耳と同じ位置にあって
文化習俗が近いという意味
漢の時代から倭国の都は楽浪から南1万2千里のかなり南にあると想定されていた
>>699 陳寿が東夷伝にそう書いてるんだからどうにもならんよ
>>702 そんな難しい話じゃないだろ
帯方郡の先の三韓を方四千里の大きさにしたらいいだけだ
自分でツラツラとチラシの裏に地図を書いてみたらいい
ちなみに洛陽から2400qだと半島経由でちょうど九州くらいの距離だね
>>700 全然間違い 倭人伝読んでない証拠
倭人伝では会稽東治の後にしゅがい、たんじ(?)にも言及してる
その習俗は後漢書にも書かれてる通り
つまり范ようがそれ以外にも出てくる会稽東冶県人や
賊の話が三国志で出てくるから、東冶のことだろうと書いてしまっただけ
>>705 正確に真東が取れるほどの測量ができてたなら、短里なんてものは残ってない。
距離が正しくないのに、方角が割り出せるわけがない。
東ってのは、北でも南でも西でもないって程度のザックリしたものだよ。
>>698 狗古智卑狗も同じ?
呼び方が有りすぎて混乱してしまう
>>707 そう、ざっくりしたものだよ
いいから黙って帯方郡の先の三韓を方四千里で描画してみなよ
自動的に倭国の位置がおおよそ東冶の東にくるから
民族構成割合
北部九州 南方系渡来人4割 北方系渡来人2割 縄文人4割
南部九州 南方系渡来人4割 北方系渡来人1割 縄文人5割
瀬戸内 南方系渡来人3割 北方系渡来人4割 縄文人3割
近畿 南方系渡来人2割 北方系渡来人7割以上 縄文人1割以下
成果を誇張したいのと、呉を牽制したかったから距離10倍なんでしょ
1/10に修正すれば九州島に全て収まる
特段議論する必要性無し
会稽東冶の東
>>712 そう歪んで認識されていたのは確かのようだが
なぜ歪んでしまったのか、の話をしていると思うのだが
この地図と抱き合わせ(会稽東冶の東)で出すのがお約束
>>716 それ用紙が小さすぎて日本を縦に差し込むしかなかった図
しかも日本列島の部分だけ日本製
>>654 漢三国晋南北朝唐の貴族社会は中国でなく日本の天皇に残っているということです。
会稽東治の東は現在でいえば福建省福州市の東
沖縄とか台湾になるあたり
魏志倭人伝には邪馬台国はそこにあると書いている
>>719 チェリーピッキング乙
「道里を計算すれば、〜」と書いてある
陳寿はかき集められた記録の切れっぱしを適当に並べて文書化しただけ
そこに出てきた里数を合計すれば会稽東冶の東あたりだと思う、と書いてあるわけだが?
>>717 ちょっと違うけどほぼ正しい
混一にはいろんなバージョンがある
さっき出したのが一番古いやつ(龍谷大学蔵)、あなたの言った通り
日本の部分は行基図を模したと言われてる
箸墓は決して古くなく4世紀の築造だとされていました。
それが急に変わったのが、1976年。宮内庁書陵部の定期刊行物「書陵部紀要」に、
埴輪のルーツである特殊器台や特殊壺が、後円部墳丘頂上付近で出土していた事が公表されたからです。
これで一気に”最古の大型前方後円墳”との共通の理解となったようです。
土器編年で見た場合は、布留0式が出土しており、邪馬台国大和説派の石野博信氏は280年前後、
同じ考えの、纏向学研究センターの寺沢薫氏は270年以降と見られています。
吉備で発生した特殊器台、円筒埴輪が飾られた前方後円墳が大和で作られることになった。
吉備の網浜茶臼山古墳などの古墳設計図でその3倍の箸墓古墳を作成したことになる。
つまり、吉備の一部の前期古墳は、箸墓古墳より古いのではないか。
なるほど
>>720 そうつまり
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国までの行程は現実的なものではない
>>724 魏志倭人伝の行程は簡単だよ
陳寿の手元にあった記録は1里=約75mであった周の時代からコピペされてきたものであり、
そこに朝貢に訪れた倭人からの日数情報が重複して記載されているだけ
■古くから中国にあった記録を転写した部分
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
■卑弥呼の朝貢で中国を訪れた倭人からの情報を追記した部分
帯方郡〜投馬国(半島南部)〜邪馬台国(北部九州) で(合計水行30日+陸行1日)≒12000里
※月は日の間違い
倭人は里を知らず、日を以て距離を表していた(隋書より)
東夷全体が概ね5倍に引き延ばされてるが
帯方郡から狗邪韓国を経て海を渡り末路國に到達することから
それぞれ比定される地域の配置は言うほど狂ってはいない
とするならば里数日数戸数を1/5してみると実際のサイズになるのかもしれない
水行20日は4日、10日は2日、陸行1月は6日、5万は1万、7万は1万4千
>>725の補足
ただし、陳寿は1里=約400mの時代しか知らない
だから会稽東冶の東あたりだと想像したわけ
>>725 周の時代に邪馬台国が朝貢しにきたなんて記録はないね
そもそも周の時代も当時の周尺から換算すると1里だいたい350mくらい
中国は時代を通じて1里75mだった時期はないね
どの時代もだいたい1里は300から400m程度
倭国までの距離をより遠くに設定するために意図的に引き伸ばして魏に報告されてるんだろな
漢の時代に倭の奴国ははるか南1万2千里の彼方の遠い国と言う設定だった
遠い国から朝貢に来るのはそれだけ皇帝の徳の大きさを表すものだったから
魏もそれを踏襲して漢の倭奴国と同じとこから朝貢にきたとして
東にある邪馬台国を南にある遠い国とした
>>731 洛陽から帯方郡までが5千里だよ
中華全土が方万里の時の端っこということだね
そして倭国はその帯方郡からさらに万二千里の先にあるんだよ
>>732 まあ漢の時代から中国の本土が1万2千里四方
そこから先さらに1万2千里が世界の果てという世界観だった
つまり魏志倭人伝に書いてる帯方より南1万2千里で邪馬台国というのは
当時の世界観で南の世界の最果てにあるということを示す概念的なもので
実際の邪馬台国がある場所を書いてあるものではないね
>>8 武則天しか女皇帝がいない時点でまんこが能力的に劣ってるのは確定してるからな
>>733 ところが邪馬台国が朝貢する10年前、西域の果ておよそ万七千里の向こうから
戸数10万戸の大国がやってきて金印貰って帰って行った
そして10年後、司馬懿が公孫氏を滅ぼしたグッドタイミングで東から朝貢してきた国があったわけだ
魏志倭人伝は対馬〜福岡あたりまでの九州北部は現実の地理を反映してるけど
そこから先の南に水行陸行のくだりは想像上の倭の最南端とされる場所までの道のり
>>720 >そこに出てきた里数を合計すれば会稽東冶の東あたりだと思う、と書いてあるわけだが?
それでおk
陳寿の地理認識は実際には間違ってはいたが、魏志倭人伝は陳寿の地理認識と矛盾なく書かれている
>>66 そもそも中国がモンゴルに勝った事がほとんど無いからな
帯方郡より狗邪韓国 七千余里
狗邪韓国 から5千里で邪馬台国なら九州ぐらいじゃないか
隋の時代は東に広がってるだろうけど
>>694 論破済みのゴミ画像いつまで貼ってるんだ?
壊れたテープレコーダーかよ
>>739 じゃあ太平洋上だな、はいはい
話にならんw
>>742 何が論破済みだよw
陳寿が書いた東夷の姿をわかりやすく表現してるだけだぞ?
>>736 グッドタイミングというか倭に朝貢に来させたかったんだろう
三国時代で魏呉蜀が我こそは漢の後裔国と覇を競っていた時代
漢に朝貢してた倭が同じように魏に朝貢したらポイントリードができる
魏は出来れば漢と同じように倭奴国に朝貢に来てほしかったけど
そのころ倭の主権は倭国大乱で東に移って邪馬台国になっていた
なのでせめて場所だけは倭の極南界にあるという伝承の倭奴国と同じとこにあると記録した
畿内説の老害学者どもはこんなインチキいつまでやってんだろうね
纏向で桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物と桃は無関係
同時期に存在したわけではない
>>738 ああ一寸千里ね
実測されたものではないから一寸千里法というのは存在しなかった
当時実測されてたなら一寸200里とかになったはず
>>729 それはウソ
史記の中で同じ範囲の里数が始皇帝の度量衡以前と以後で5分の1に減少している
短里がなくなったのは始皇帝以後
533 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 15:41:24.47 ID:Qc4i4ljD0
批判も多い古田氏だがこと短里の研究に関しては正解に辿り着いていたようだ
『史記』五帝本紀 第一にある方五千里を長里で解釈すると中国全土より広くなってしまう
五帝は中国全土を網羅していなかったという始皇帝の自画自賛と矛盾する
http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf > そして古田さんは、漢の司馬遷が紀元前 91年 ころに記した『史記』に、
> 夏・殷・周の≪古法≫に拠る「短里」と、秦・漢の≪新法≫による「長里」のあることを発見します。
> 次の通りです。
>
> 『史記』五帝本紀 第一の
> 【(帝舜の地は)方五千里にして荒服に至る 】の記述は、「短里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 五帝本紀第一、ちくま学芸文庫版 25頁〕
>
> 『史記』秦始皇帝本記 第六の
> 【古の五帝は、地は千里に過ぎず 】の記述は、「長里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 秦始皇帝本記第六、ちくま学芸文庫版 145頁 〕
>
> これは、同じ≪周以前の五帝の版図≫を、
> 「短里」の行われた『五帝本紀』では、方五千里と言い、
> 「長里」が新たに定められた『秦始皇帝本記』では、(方)千里と言い換えているのです。
> 『〔倭人伝を徹底して読む』1987年、朝日文庫版 190頁 〕
>
> そしてこの記述は、
> ≪古の五帝の版図≫は〔短里で言えば方五千里〕、〔長里で言えば方千里〕に過ぎないが、
> ≪始皇帝の版図≫は〔中国全土を網羅している〕、
> と誇つているのです。
>
> では、いつから?〔周以前からの短里〕が〔長里〕に改められたのか?と言えば、ズバリ、『史記』に次の記述があります。
> 【始皇帝は五行説に立ち、古の周が≪火徳≫であるとしたのに対し、秦はこれに勝つ≪水徳≫とし、水徳に叶うと言われる黒色と六の数を尊んで、
> 符節や法冠の長さは六寸、輿は六尺、一歩は六尺、乗車の馬の数は六匹とした】
>>749続き
そして始皇帝以前の記録である戦国策には戦国七雄の領土が短里で表記されている
624 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 18:45:32.83 ID:y1B9e6n60
>>574 戦国策には戦国七雄の領土があちこちに書かれているがどれも短里
元資料
https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4063&file_id=19&file_no=1
当時の中華という概念にはチベットもウイグルも内蒙古も含まれないので
長里でいえば方四千里程度の範囲
卑弥呼に関して言うと、神官のような男性が一人だけ会えるだけと伝えられていて実際に実在した人間かどうかはわからないというのが実情。
さすがに邪馬台国は実在しただろうけど卑弥呼に関しては宗教的存在と考える方が普通。
どっちにしても、地の果て1万2千里からの逆算じゃね
後世に残る国家事業なんだから、
進んで常識外れして台無しにするの嫌だろさ
>>747 そういう生半可の聞きかじりは恥ずかしいからよめとけ
ちゃんと読んでからレスつけろよな、一寸千里では誤差が出ると
この先生も指摘してる、それ以外のいろんなのを提示して
三国志の時代には、所謂長里も短里も混在してたと(P5の最後読め)
結論づけてる
おまえさんどうも知識浅いね 畿内スレでしか答え見つけられん奴か?
ヤマトは何の記録も無い倭種の国の一つであり、たまたま記録に残ったのは親中派だった北部九州一帯の小国=邪馬台国
現代の日本史はまんざら嘘じゃないって結論だ
旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
■倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない
>>754 畿内派は畿内ありきでこじつけるばかり
議論にならんよ
>>744 >>346でとっくに論破されてるじゃん
>>17 247年に亡くなっていることはわかってる。
だから、皇紀2000年と言ってる輩は、
頭がおかしい
>>749 どうして度量衡の統一と言われてるのかわかるかな
中国の尺度は古来より尺や歩が使われていて
度量衡の統一以前は1歩が4〜6尺と地方によってバラバラだった
それを1歩=6尺とすると定めたのが始皇帝の度量衡の統一
もし九州説がいうように度量衡の統一以前は里の長さが5分の1だったなら
1歩=1尺というワケのわからない単位が使われていた事になってしまう
まあちなみに尺は時代によって長くなるけど1尺15〜24cmくらい
1歩は110〜140cm
1里は300〜440m
6尺=1歩で300歩が1里という単位が使われていた
>>760 どんなに御託を並べても実際に短里が使用されているという
>>751の事実は覆せません
諦めなさい
>>754 前に何回か読んだよ
千里離れた棒の影の長さが1寸違うというやつだろ
当時の尺度で実際測るとそうはならないね
時代的にギリシャのエラトステネスの行った実験が
伝聞で入って来たものだろう
狗奴国と戦ったけど邪馬台国が結局負けて
狗奴国が大和朝廷になったから男社会が始まったんだろ?
>>761 同じ資料の中に短里が使われてない事実も同じかそれ以上に出てくるはずだよ
>>744 倭は韓より戸数が多いと読み取れること、伊都国周辺から邪馬台国まで2ヶ月かかることと矛盾する
おまえは反論できずに同じ妄想を繰り返すだけ
こういうのを論破されたと普通は解釈する
しかも、おまえは383で倭国が大国として書かれていることに同意してる
それなのに、倭国が小国の画像を貼ってる
矛盾という概念さえない低脳なのか?
>>762 東京地学協会伊能忠敬記念講演で述べた教授の論文より
おまえの理論の方が正しいってか すげぇなおまえ
もうおまえには絡まん 想像以上の馬鹿じゃどうにもならんわw
>>765 周旋五千里の範囲にうじゃうじゃいんだろw
そんなもん書いた陳寿に文句言えよ
>>766 マジで?
オレはそんなに凄かったのか
まあ一寸千里の計算は九州説の古田の言う1短里76,5mに合わせるために
計算の誤魔化しもしてるんだけどね
なので1尺24cmで1歩は25,5cmだったとワケのわからない事を主張している
>>768 おうすげぇぞ 畿内スレpart351にな お前のレスそのまんま書いてあるなw
2‐3年も前のスレまで漁ってんのか大変やな畿内派くん 以上あぼん
昔は上が東なので上の方が東方面
ちょっと角度を傾けるだけで
縦線は会稽東冶から東方面に真っ直ぐw
>>765 後漢書
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。
だから韓国もそんなに多くないよ
>>769 ほお
オレと同じ意見のやつも居るんだな
>>668 絹は畿内説の補強材料だぞ
古墳時代になって絹の出土が増えるが
それは東遷したからって可能性がある
>>673 木管の埋葬が葺石が除去されて行われていることから
被葬者が入れ替えられた可能性があるのよ
仮説として2世紀半ばに権力者が変わって
元の被葬者ではない誰かと入れ替えた
>>763 それは免田式土器で否定できる
畿内説においては可能性も含めて完全に否定しないと
それは否定として成立してない
なぜならわからないことの方が多いから
九州説がいくらインチキ中国人やインチキ教授を引っ張り出してきても
畿内説の前には無駄だよ
>>754 この先生が三国志の時代には、所謂長里も短里も混在してたと結論づけてる?
おまえは権威をかさにきる言い方をしてるが、その先生は中国古代史の専門家なのか?
経歴を見る限り素人にしか見えんのだが
>>775 お前の目には素人に見えるのか じゃ誰が研究発表してても
素人の発表会なんやろな 畿内派くんたちは余程優秀な人材が居るんやな
いやー感心するわ
短里脳は脳タリンだから、東夷において古い短里が残っていたと妄想吐くやつは結構いる
しかし、中国の首都においても、三国志の時代に、公式の里と短里が両方あったと
ぶっ飛んだことを言うやつは滅多にいない
この論文は後者のように読める
学ぼうとしないアホな九州説論者を放置して
説明を簡単にするいからな
ホケノ山の前方後円墳は大型建物Dか
更に東にあった建物に向いてるようにみえる
そこには卑弥呼がいたと考えられる
卑弥呼より先に死んだ卑弥呼派閥の人がホケノ山に埋葬されたけど
権力者が変わってホケノ山の被葬者が新たな権力者に仕えた別の人物と
入れ替えられた可能性は否定できないのよ
つまり卑弥呼は晩年〜死後に
誰かに権力を簒奪された可能性がある
>>777 Wikiより
野上 道男(のがみ みちお、1937年(昭和12年)8月26日 - )は、日本の自然地理学者、東京都立大学名誉教授。
中国古代史はまったくの畑違いで、専門家とは到底思えない
この人の研究分野とは違うのだから、中国古代史については普通は素人とみなす
だいたい卑弥呼が本当に存在していたのかも疑わしいわ、その根拠は中国の魏志倭人伝なんかで国内に明確な証拠はねえんだろ
まあ九州説は、畑違いの専門家や学者がいっぱい本を書いてるわな
医者だとか弁護士だとか
しかし古代史に関してはただの素人に過ぎない
>>782 泣いてんのか?w
ホケノ山古墳も4世紀濃厚
ほんと自分で見て来たり、中国で聞いてきたような事を書くわな
しかも居るかもしれんから滅多に居ない(少数意見)とか
逃げ道まで用意して、、、、笑わせてくれるわw
阿呆が、wikiまで見たなら著作物ぐらいまで見ろやボンクラ
>>785 くやしいのかい?
霊感商法的詐欺の玄人さんw
>>783 それが反論として成立してないことに気づけアホ
母系マッタリ島国で良かったのに
いつのまに男尊女卑とその反動の歪んだ女尊男卑でギスギスな感じになったのかねぇ
>>786 ホケノ山古墳は木棺の炭素年代測定法と
副葬品の年代の両方が3世紀中盤以前の建造を示しているよ
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
<参考>
・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片の下に埋もれていた。
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
奈良は中国よりも先に馬を導入していたのだろうか?w
中国に畿内の存在を認識している様子は見られませんねw
魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に存在していたクスノキ(樹齢1800年以上)を探すと
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認
>>794 いやこいつ奥山じゃねぇと思うよ 馬鹿だもん
奥山はそれなりに知識だけはもってやがる
そもそも周髀算経に書かれていることが正しいと思い込んでるのが低脳の証
>>709 万二千里すら、ちゃんと測量できたはずもないんだがね。
後の時代になっても、マルコポーロは東方見聞録で大陸から1500マイル離れてると書いてる。
中国人がまともに日本の地理を測量したことなんて無いって事だよ。
>>786 3世紀半ばの山もちゃんとあるじゃん
可能性として残ってるから完全否定になってない
>>1 キチガイフェミってこう言うのどう思うの?
あw分かんないかwww
>>798 九州説は何か妙な妄想に取りつかれてるのかな
可能性をゼロにしないとそれは否定とは認めないからな
>>804 おお いいねいいね新手が来たよ ゼロにしないと否定ではないか
その論法で九州説否定してくれんかね ゼロにしてね
帯方郡から狗邪韓国まで7000里
狗邪韓国から邪馬台国まで5000里
1里300mで1500km
釜山から奈良まで615km 全然超えちゃうダメ
1里75m で375km
釜山から熊本山都町まで329km
最短距離だからだいたい合ってくる
畿内はどっちにしろ合わない
>>800 洛陽から1500マイルの海上ならドンピシャなんだがな
周髀算経には二十四節気での影の長さが書かれているが、
夏至と冬至での長さ以外全部間違っている
記述内容について信用に値するものではない
いずれにしても日本語は、もともと中国語を流用したピジン言語として
形成されているので、古代には、日本列島だけでなく、交易の水路に沿って
中国大陸、朝鮮半島、日本列島にまたがって共通の言語として、
その日本語の元となった言語が使われていた可能性が高い。
中国大陸、朝鮮半島でその言語が使われなくなって、日本列島だけに残り、
日本列島における統治が統一されるとともに「日本語」となった。
南にある狗奴国と書いてあるのに東海地方が狗奴国で纒向が邪馬台国になってしまうおかしな畿内説
短里脳はノウタリン
脳みそが足りないんだよ
おバカという意味
卑弥呼は女王になった後人々の前に姿を現さず
全て弟を通して指示していたと魏志倭人伝に書いてるだろ
実際に政治やってたのは弟と共立した豪族ってことだよ
卑弥呼は皆既日食を鬼道によって予測していた
だからカリスマ性において抜けた存在だったんだよ
>>778 脳タリンはおまえだよw
韓の方四千里がどんだけでかいか考えたこともないバカが
655 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 19:14:02.48 ID:y1B9e6n60
魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
ほぼ中華全土に匹敵する
当然魏国よりもはるかに大きくなってしまう
魏の国の人間が韓が自国より大きいと誤認することなどあるわけがない
東夷伝が短里であることに疑いの余地は一片も無い
>>817 当時の中国人は自分の国土を方1万2千里と思ってたから平気
>>791 木棺はただの古木効果
古木効果による誤差のない小枝は最も信頼性が高い資料の一つ
それによると四世紀
Old Wood Effect(古木効果)を理解する
https://www.radiocarbon.com/jp/old-wood-effect.htm >芯材(内側)と辺材(外側)の放射性炭素年代は異なり、芯材の方が辺材より年代が大幅に古くなります。
>炭化物や木の炭素年代測定を行う場合は、年代は特定できますが、サンプルが短命な植物や小枝がサンプルでない場合は、
>木の成長過程のどの部分をサンプリングするかによって数百年の誤差が生じる可能性があります。
>
>また、放射性炭素年代測定は試料がいつ使われたのかではなく、試料となった有機物がいつ生きていたのかを教えてくれるものです。
>測定試料と史実をリンクさせる場合は間違った結論に導かないように“古木の問題”を考慮しなくければなりません。
>伐採年とは違う年における木材の使用、木材の再利用も年代測定という観点からすると“古木の問題”となります。
>木材はいわゆる“寝かせ”の期間があります。 建築材の中には後世の建築に再利用されるものもあります。
古代出雲の出雲国に含まれる島根県松江市の
弥生時代前期末(紀元前200年)〜中期後半(紀元前1年)の三重の環濠が出土した遺跡から
朝鮮半島の北部のすずりと判明した弥生後期(西暦100年前半)の石板が出土した、ことに続き
古代出雲の出雲国に含まれる鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
対馬を使わないと海を渡れないから邪馬台国は対馬に近い九州だー
なんつっていた九州説は
【対馬を使わず、遠い出雲からでも渡れてるじゃん】m9(^Д^)プギャーwww
になっちまって発狂しとる(笑)
>>821 出雲と九州は交易してたことも知らないマヌケ畿内説w
九州との交易で得た舶載品で何を得意になってるんだ
出雲から直接朝鮮半島に渡ったという証拠を出してみろカス
http://www.yoshinogari.jp/contents4/files/1412321758_5.pdf > 玉つくり工房群の発見
> 平成 16 年度に行われた潤地頭給遺跡の発掘調査では、これまでの想定を覆す大発見があった。玉つくり工房群である。
> 調査した弥生時代終末〜古墳時代前期の 30 棟近くの竪穴住居から、碧玉、水晶などの原石、製作途中の勾玉、管玉、丸玉や剥片、叩き石や工作台、
> 玉の整形に用いた砥石、穿孔用錐など、玉つくりの工具が出土した。
> 石材の主流を占めるのは碧玉で、科学分析によってその原材が出雲の花仙山産であることが明らかとなった。
> 集落から出土した土器の中に出雲特有の土器が多く含まれていることから、この工房の運営には出雲の玉つくりの工人たちが関与していたとみられる。
> 弥生時代終末〜古墳時代前期において、これほど大規模な玉つくり工房は国内では知られておらず、当時、わが国最大規模の工房だったとされる。
>
> ところが、当時伊都国をはじめとする北部九州における装身具への嗜好は、平原王墓に代表されるようにガラスであった。
> ガラス製勾玉や大量のガラス小玉を用いた首飾りが当時の権力者たちのステイタスであり、逆に玉製装身具は伊都国での需要度は極めて低かった。
> 「倭人伝」には、当時の倭地の産物のひとつに「真珠」や「青玉」があげられている。
> 「青玉」は碧玉製の玉だったと考えられ、輸出品の一つが碧玉の玉だったことがわかる。輸出用の「青玉」つくりの最前線であった可能性は極めて高い。
> このことから、潤地頭給遺跡の玉製装身具の供給先は海を越えた大陸側にあったと考えることができる。
神武が東征するまでルートは、同時期に二つあった
赤ルートが邪馬台国で
【行き】
邪馬台国(奈良)ー投馬国(近江)ー不弥国(摂津住吉)−奴国(因幡)−伊都国(出雲)ー末廬国(松江)
【北に進んで】一大国(隠岐の島)
【北に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【西に進んで】朝鮮半島沿岸を伝いながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【西に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら黄海側にある帯方郡
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良)
>>822 九州からしか朝鮮半島に渡れなかったという証拠を出してみろカス
結局九州説って
九州からしか渡れない
九州にしか渡れない
だから邪馬台国は九州だ
なんだろ?
>>826 >>822をよく読めカス
出雲から直接輸出可能ならなんで伊都国で玉を作るんだよアホ
伊都国からじゃないと輸出できないからそうしたんだよアホ
>>828 いつから伊都国は九州になったんだ?
伊都国は、出雲だ
>>828 いつから伊都国は九州になったんだ?
伊都国は出雲だ
出雲には玉造もある、銀もある、鉄もあるし、
国譲りで王もいるし、天降った一大卒の記録もある
>>830 >出雲には玉造もある、銀もある、鉄もあるし、
後世のものを並べて何がしたいんだかw
たたら製鉄は6世紀だぞ
>国譲りで王もいるし、天降った一大卒の記録もある
譲らされた負け犬じゃん
一大率の記録なんぞ存在しねーよ嘘吐き
>>833 伊都国(出雲)にはもともと王(出雲主王)がいて
↓
『魏志倭人伝』その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。
初代出雲主王「大国主」の建国後、邪馬台国が国譲りを迫り戦争状態に
↓
『魏志倭人伝』居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た
結局出雲は国譲りに合意して天照大神の支配下に
↓
『魏志倭人伝』そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という
弟の建速須佐之男命のいる根の国が統治を助ける
↓
『魏志倭人伝』非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
邪馬台国は天津彦彦火瓊々杵尊を出雲に派遣する
↓
『魏志倭人伝』官は爾支 常に伊都国で政務を執っている
畿内の邪馬台国より北の出雲諸国の国々には、天津彦彦火瓊々杵尊が天降り、出雲諸国はこれを恐れている
↓
『魏志倭人伝』女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。
九州説は、こんな、中国正史と日本の記紀の対比すら出来ない
何の根拠もないファンタジー
つまりだ
畿内の天照大神の高天原が、出雲の大国主の葦原中国を国譲りさせて出来た【高天原と葦原中国の連合国】が邪馬台国
だけどすぐに九州の筑紫城
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國にずっといた漢委奴国王
初代・天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神
角杙神
意富斗能地神
淤母陀琉神
伊邪那岐神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
その息子の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)に東征されて潰された
中国は文明国家だったから必然的に権力=男性原理で支配者が選ばれた
(ユダヤキリスト教とかの天に神がいる国はみなこれ)
日本は「天」の概念がない野蛮国だから
「地」の概念に基づいて女性が支配者になれた
九州の筑紫城、『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國にずっといた漢委奴国王
初代・天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神
角杙神
意富斗能地神
淤母陀琉神
伊邪那岐神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
その息子の神武から続く、万世一系126代にわたって続く天皇家
にとっては
たかだか40年間ぐらいの一瞬でも、
畿内の天照大神の高天原が、出雲の大国主の葦原中国を国譲りさせて出来た【高天原と葦原中国の連合国】の邪馬台国の天照大神に
倭王の座を奪われたことは【黒歴史】なんだよ
あの時代に外交するほど海を往来できたのかよ
遣唐使の時代でさえ命がけだったのに
>>36 坂上田村麻呂の東漢氏は渡来系として記紀に出てくるから昔から知られてたんじゃないの?
卑弥呼なんてただの巫女か実は男だったんちゃう
小野妹子男だし
>>780 むしろ古代史研究家がこういった科学的検証、数学的な話は畑違いだろ
歴史的な背景を把握できてない可能性もあるだろうから古代史の解明に直結するとは限らないけどこういう科学的なアプローチは大事
>>842 このスレで何度も言ってるけど魏志の中で女王を強調してる以上
邪馬台の使者が嘘をついてるとかじゃない限り卑弥呼は女
>>830 狗邪韓国と南北で行き来できるのは九州だよ
国譲りしてるてことは九州倭国に吸収されたてこと
>>805 悪魔の証明になるから無理だ
だから岩手説やハワイ説やギリシャ説と同様に
九州説は生き残ってる
>>844 その考え方は良くない
大陸移動説を最初に提唱したウェゲナーは気象学者で
当時馬鹿にされたけどのちに証明されたし
コロナの現状把握の証明の疫学は医学と統計学の融合
どう見ても多民族国家
>>846 出雲も近畿と同じぐらいないな
対馬ー壱岐と行ってその後ワープでもしない限り
伊都国に一大卒を置いて
諸国がうんたらになるってこと?
九州勢は余裕だろうさ、鉄採掘ルート的にw
>>850 その鉄が出る地域の南側つまり瀬戸内などが狗奴国だな
>>851 鉄が出る地域の南側は鹿児島じゃん
狂ってんな
糸島から吉備・北陸・東海の土器が出土するから普通に交易はやってたっぽいな
だからと言って邪馬台国連合に入っていたとは思えんが
>>852 発掘調査よろしく
>>856 土から出てるのは新しいように思うけど
吉野ヶ里遺跡の南側にもなんか出たけど発掘調査許可が得られないでやめちゃったみたいだからな
限りなく邪馬台国は九州
三角縁神獣鏡は移動した可能性があるので
九州に譲ってあげたらどうなん
九州説はエンタメ
短里だの訳のわからん行程パズルだの珍説だらけで、こんなの学問ではない
>>843 便宜上だろ
それを言うなら九州も近畿も日本も存在してない
>>858 長里短里でも方角でも合わないのが畿内でしょ
ただのただこねてる基地外
結局、中国サイドの史書も憶測で書いてんだよね
魏略や魏志倭人伝のあとって
なんでか?
今(その当時)と話が違うから
この時点で察しでしょ
あらゆる書物を無視しないといけないのが畿内と認めればいいやん
例えば魏志倭人伝の行程もだが
随書倭国伝すら変だ
道中の秦王国ってなんだ?って話
もっとも、これは小京都みたいな
中国文化を模倣した国(地区)なんだって簡単にわかる
しかも、わざと寄った国
「これだけ中国文化を吸収してますぜ父さん」と
アピールするためだったと安易に予想出来る
阿蘇山は筑紫を通ればわかるんで
なんら九州説援護にならん
て言うか、さすがにもうこの頃は畿内政権になってる
まだ現在の日本にあったとは決まってないんじゃない
ファンタジーかもしれないし
>>863 筑紫以東は倭に属す
都が奈良にあったのならこういう表現にはならないと思う
大和政権はまだ成立してない
奥山氏の主張先はココですか?w
奥山氏は回答したくないので埋め戻したのかな?w
> ところで、奥山は纏向が消滅した4世紀半ばから4世紀末までの間、どこに引きこもってたんだ?
>
> 産経新聞(2018.11.28) 最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
>
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >
> 建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
> 渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
>>807 1500マイルは約2400km
東京辺りまで行くけど?
そもそも国と国との距離の話だし、沿岸部から沿岸部までの距離だろ普通は
>>846 600年代の遣隋使・遣唐使ですら
対馬に渡るためには
朝鮮半島の東側の新羅(釜山)ではなく
朝鮮半島の西側の百濟から船出して
対馬海流に東に流されないと
渡れませんけど
>>870 確か済州島や平戸に経由地点があったはず
元寇がその情報を利用してたし航海技術が未熟な民族にとっては一般的な航路だよ
>>871 元寇の先発隊も青ルートだし
対馬から釜山には行けるけど
釜山から対馬はムリ
狗邪韓国(釜山)から船を出せば、たどり着くのは山陰の海岸
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸に帰ってくる
曾尸茂梨が狗邪韓国であり
末廬国〜伊都国〜奴国の国々は
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)の古代出雲(葦原中国)の国々
>>860 短里だの長里だのってバカじゃないの
捏造してると白状してやがる
>>867 大和政権はまだ成立してないって本気で言ってるんかwww
九州説って中学生レベルの知識もない
>>874 あったという証拠はまだ何も出ていませんが?
現時点有力なのは葛城ぐらいでね
>>1 じゃあ、新型コロナ退治に女を生贄にして殺すか?おい
ってレベルの話してんだぞ?お前は
>>875 えーーっと
遣唐使の送使として倭国(日本)を訪問している唐の官吏は難波に来てますが?
>>877 ほんで、都は何処やねん?
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html 熊国は九州の邪馬台国を滅ぼして、妻国が畿内の邪馬台国を滅ぼしたんだろう
熊国がホオリで蘇国はホデリと仮定するなら、熊国と蘇国は縁戚で、熊襲と妻国は姻戚だな
そんでもって熊襲と妻国の合の子が東征
九州説・畿内説、両者の邪馬台国は南九州勢力により滅ぼされました。
終わり。
>>878 なんか全然歴史をわかっていないのね
だから九州説なんて信じれるのだろうが
舒明天皇2年(630年)
8月5日 - 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣。
10月12日 - 飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る。
舒明天皇4年(632年)
8月 - 唐が高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送る。
10月4日 - 唐の高表仁が難波津に到着。
結局だ
中国の正史も日本の記紀も、ろくに読んだことがないヤツらが唱えるのが九州説
中国の正史も日本の記紀も、良く読んでいる考古学者は
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>880 それ何世紀だよ?
卑弥呼時代は2世紀だぞw
>>881 はいはい佐原ねw
<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓弥生時代の鉄器出土量
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言)
>>881 はいはい記紀をよく読んでるなら知ってるよな?
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
つまり当時の1里=約75m
874 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/17(火) 14:10:51.29 ID:kthlbOTL0
>>867 大和政権はまだ成立してないって本気で言ってるんかwww
九州説って中学生レベルの知識もない
875 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/17(火) 15:03:13.09 ID:8JConXOS0
>>874 あったという証拠はまだ何も出ていませんが?
現時点有力なのは葛城ぐらいでね
877 ニューノーマルの名無しさん sage 2020/11/17(火) 15:59:03.64 ID:VnudTWlL0
>>875 えーーっと
遣唐使の送使として倭国(日本)を訪問している唐の官吏は難波に来てますが?
>>881 はいはい史書をよく読んでたなら気づくよな?
魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に確実に存在していたクスノキをピックアップすると
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・確認できず
畿内のキの字も出てこない
富士山VS阿蘇山だよ、縄文人VS弥生人ってわけ
隋書には、地勢東高西下
山岳信仰かつ縄文人が横穴で山地に暮らしていたのは
縄文時代は東日本に人口が多かったことからも察しだ
仙人が住む島とされた東方三神山も日本にあると言われている
蓬莱・瀛州、そして方丈が↓これ
太古かつては陸だったと、あくまでも俺の見解・独自理論w
878 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/17(火) 16:05:22.42 ID:fwWsjWme0
>>877 ほんで、都は何処やねん?
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html 880 ニューノーマルの名無しさん sage 2020/11/17(火) 16:45:27.18 ID:VnudTWlL0
>>878 なんか全然歴史をわかっていないのね
だから九州説なんて信じれるのだろうが
舒明天皇2年(630年)
8月5日 - 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣。
10月12日 - 飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る。
舒明天皇4年(632年)
8月 - 唐が高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送る。
10月4日 - 唐の高表仁が難波津に到着。
882 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/17(火) 16:49:44.11 ID:fwWsjWme0
>>880 それ何世紀だよ?
卑弥呼時代は2世紀だぞw
>>869 マルコポーロが元人だか誰かから聞き取った時の普通がどうなのか知らんが
もしも半島経由で旅をした時の距離なら洛陽から九州あたりまでの距離がおよそ2400km
まあ東方見聞録自体が相当誇張の多いアレなものだそうだから
中国の史書と比べるなら山海経あたりと比べたらいんじゃねーかな
>>881 はいはい史書をよく読んでるなら「別種」の意味ぐらい理解できるはずだよな?w
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった
>>887 良く読んでいたら
878 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/17(火) 16:05:22.42 ID:fwWsjWme0
>>877 ほんで、都は何処やねん?
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html なんて書き込みません
邪馬台国って大和とは別の国だし
中国に奴隷を献上してた糞ですよ
>>892 お前いつも来とるやろw
お前の誘導を端折ってやってんだよw
良く読んでいるはずなのに唐が派遣した遣唐使の送史のルートが
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 難波津 ー 飛鳥岡本宮(明日香村)
なのすら知らないって クスクスw
はいはい、はじめての方へ
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語では「シャマイ」国と読む
参考:
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトと誤読していたが、新井白石と本居宣長がこの間違いに気付いたのが邪馬台国論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
良く読んでいるはずなのに、
唐や随が派遣した遣唐使・遣隋使の送史のルートが
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら 沿岸航海して − 都斯麻国(対馬)− 東に行って一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 難波津 ー 飛鳥岡本宮(明日香村)
なのすら知らず
都はどこだと脳髄反射って クスクスw
>>895 飽きたw
そんなん知ってとるわw
おまえら低脳だから隋書以降しか出せない歴史の浅い畿内政権を大和政権と大げさに拡大解釈してるだけw
「桜井市纏向学センター」
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいないではない。
『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」
>>897 だからその何処に「ヤマト国」が出てくるんだよw
秦王国は唐もよく知らない外国人によって建てられた国家だぞ?
どう見ても統一政権は存在しまへんなw
>>899 中国の研究者による常識→後世の文献ほど改ざんが多く信憑性が薄い
とのことw
馬も居なかった時代だけに、一人の王で統制出来た領域は限られる
4世紀以降の史書には倭には5人の王が居たことが記されている
3世紀:魏志の韓伝、倭人伝に記された各国の領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・韓国の東西は海で南は倭と接する
・三韓のうちの馬韓の国数は50国
・魏と交流のあった倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
・女王国から船で南に行くと小人の住む侏儒国がある(種子島)
※女王国=邪馬台国連合
199 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2018/01/09(火) 12:42:35.38 ID:dEHNinea0
偉人伝にしても尾ひれはひれつけて超人的に伝えられてるけど
そんな超人いるわけないんだよねw
今のテレビタレントだって、マスメディアの宣伝力で持ち上げられてるだけでカスしかいないという現実
>>903 物理的に中国大陸に無いと成立しないだろこれ
ちなみに
大和政権が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使が帰国する時のルート
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら 沿岸航海して − 都斯麻国(対馬)− 東に行って一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 難波津 ー 飛鳥岡本宮(明日香村)
には
新羅が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使と、その中国側の送史も一緒に乗ってきて、対馬で一泊する
なぜか
対馬から新羅(釜山)には行けるけど
新羅(釜山)から対馬には来れなくて
先に新羅(釜山)によって
新羅が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使と、その中国側の送史を下船させることが出来ないから
対馬まで一緒に来て、そこで北の新羅(釜山)、東の一支国に別れるのさ
ちなみに
大和政権が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使が帰国する時のルート
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら 沿岸航海して − 都斯麻国(対馬)− 東に行って一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 難波津 ー 飛鳥岡本宮(明日香村)
には
新羅が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使と、その中国側の送史も一緒に乗ってきて、対馬で一泊する
なぜか
対馬から新羅(釜山)には行けるけど
新羅(釜山)から対馬には来れなくて
先に新羅(釜山)によって
新羅が唐や随に派遣した遣唐使・遣隋使と、その中国側の送史を下船させると、対馬に来ることが出来ないから
対馬まで一緒に来て、そこで北の新羅(釜山)行き、東の一支国行きに別れるのさ
まぁ、九州説者は、んなこともわからず
遣隋使・遣唐使よりも400年も前の『魏』の送史は釜山から対馬に渡ってきたはずだから、対海国は対馬だ
とかいってるのだろ?
そもそも読み下しでいいから魏志倭人伝を全文読んだやつって少ないんだよな
わけのわからん地名と何〜里進んだとかが続いてくじけちゃうのもわかるけどな
畿内説とかじゃあ邪馬台の南にあるとかいう侏儒国はどこになるんだよ
淡路島か?w
高車って強そうじゃね?w
四輪駆動とかで高速アタックして来そう
⚔🐴
合浦で釜山でも狗邪韓国の岸だからok
南北に行き来きができるのが対馬
魏は朝鮮半島の西だし
唐や隋は朝鮮半島の南だから日本海ルートは使いませんので
物証もないのに存在したことになってるのが不思議
邪馬台国が実在した、っていうのはムー大陸は実在した、っていうのと同レベルだよ
>>917 その通りだな
そもそも史書と言うのは同時代の物と比較して裏を取って妥当な姿を探るもの
単体の史書など何の資料にもなり得ない
だから考古学が用いられている
よく見受ける「倭人伝の解釈」など、どんなもっともらしいことを言っていようが、ただの想像に過ぎず一切顧みる価値は無い
ましてやどうとでも取れる行程のような文言を弄んでるような話など論外と言っていいだろう
倭人伝など参考程度にしかならないのだから、そもそも卑弥呼や邪馬台国など無いものだと考えて話をした方がまだ建設的だろう
なのでまともな歴史学者も考古学者も邪馬台国の事なんて語らない
>>884 古墳時代に入ると畿内で出る鉄は九州を圧倒
畿内で見つかっている鉄器の一部
○ホケノ山古墳 畿内 3世紀中期
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後期
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後期
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
九州で見つかってる鉄器は弥生時代を通じて千点ほど
>>917 魏志倭人伝に書いてる魏の鏡とか140mくらいの大きな墓とか
畿内には魏志倭人伝に書いてるものが存在している
>>1 で、結果滅ぼされてろくな痕跡や伝承文化が残ってない体たらく
現代日本も滅びに向かってるし、女が権力握ると国が乱れ滅ぶとはよく言ったもの
古代中国人(今のはエセ中国人)はすごいよね
正に歴史が証明してるよね
>>921 女性が権力を持った国は数年以内に滅びる−ヒトラー名言集
雌鳥が鳴くと家が滅びる−こっちかな
そりゃ雌鳥が鳴いたら事件だ
現実世界から時間遡航をした白人女性が、外見の神秘性と知識を武器に、国をまとめた。
彼女の名は当時の原住民には発音が難しく、かわりに彼女が何かを始めるときに口にする言葉here we goが広まり、いつしか彼女は卑弥呼と呼ばれるようになったのである
民明書房刊『珍説日本史 黎明編』より
>>916 送遣隋使や送遣唐使ですら新羅から対馬なんて来れなかったのに?
>>923 古墳は3世紀からあった事が判明してるよ
>>925 来れなかったて何に書いてるんですか
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00080/093000003/ 遣隋使は対馬を通るルート
遣唐使は新羅と関係が悪くなったので沖縄ルートですが沖縄から中国までのルートが深いので難所になってると思う
>>926 それ言い出したらもっと以前からありますから
韓国式畿内説と罵られても仕方ないですね
>>27 まあそういうことだろな
しかし、この三上喜孝ってひと、学者とは思えないほど頭悪いよなあ
卑弥呼がリーダーになれたのは、「スピリッチャル能力」なのか、「政治的手腕能力」なのか、って二者択一的に考えるとかバカだろw
古代の部族王ってのは政治的指導者であると同時に「祭祀王」で、祭政一致なんだから、
「スピリッチャル能力」と「政治的手腕能力」はけっきょく同じなんだよ
>>919 >九州で見つかってる鉄器は弥生時代を通じて千点ほど
どこの国の資料?2000年でさえ熊本1890、福岡1740、佐賀、大分でも
多数出てるからおそらく5000は超えてるやろね、九州関係ないが鳥取でも1000以上
(川越哲志氏 弥生時代鉄器総覧 2000年)
>>931 畿内には古墳が7000基はあるので
1基100点の計算だと70万点以上はある事になるね
>>933 考古学でたらればの話して恥ずかしくねぇの?
>>927 はいはい、どこに釜山が出てくるの?
明年 上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國
明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り
>>930 普通に対馬使ってるよね
渤海使なんてもっと後の700年ぐらいの話
>>930 一行は難波の津を船出した後、瀬戸内海を進み、途中風早浦(現東広島市)、倉橋島、分間浦(現中津市)などを経由し筑紫舘に到った。その後、韓亭(唐泊、能許亭、現能古島)、引津亭(現糸島市)から狛嶋亭(現神集島)に渡り、壱岐島、浅茅浦、竹敷浦(ともに現対馬市)を経て新羅へと向かっている。
だけど
行けたからって、同じルートで帰ってこれる訳じゃ無い
エンジンやスクリューなんかねーんだから
>>935 畿内の古墳からは鉄器が100点200点出るから仕方ないだろ
>>939 恥ずかしく思わない神経ならどうぞご自由に
その自論を展開してください 端から見ても赤面しますが、、、
遣隋使・遣唐使・中国から新羅へ向かう刺史なども、
行くときは、対馬から北上して新羅で沿岸を航行して百済
帰りは、百済から直接対馬で
中国から新羅へ向かう刺史は北上
中国から日本に向かう刺史は東の一支国
梁書によれば、梁時代は海流に流されまくりで
対馬にたどり着くことすらできず
百済から、一支国まで流されてる
>>941 梁書倭伝は魏志、魏略、後漢書、宋書、隋書の記述と、
隋、唐代に新たに入った伝聞資料を整理したもので
梁代の資料は全く含まれていません わずか6−7年で編纂されてます
遣隋使、遣唐使の時代の倭人は
海流や風の影響を考えて
行きと帰りでちゃんと別のルートを使ってる
のに
行けたから、同じルートで帰れる、なんていう九州説者は
遣隋使、遣唐使の時代の倭人よりバカ
だろーーーー m9(^Д^)プギャーwww
三国志は素直に読めば真意が伝わるように陳寿がしてある
国家の歴史書だからな
誤解が生じたら問題なので俗説や複雑化が極力ないように書いてる
この前提で三国志を読むと九州北部には邪馬台国はない
放射説とか円形配置説とか帯方郡から水行+陸行とか
これ全部歪ませた俗説
魏志倭人伝は畿内説も九州説も知らない人がはじめて読んだ
初見の印象をそのまま捉えればいいようにしてある
素直に読むと連続説になるけどそれでいい
陳寿はそういうふうにしている
素直に読むべきなのが三国志(歴史書)だってことは
三国志(歴史書)を読めばわかるってこと
>>940 じゃあ逆に畿内には鉄器がいくつあると思うの
>>946 さぁ実数など知りません 興味持って調べたことはないんでね
九州のだって実数なんて知りません
が、適当な嘘を書く輩には指摘しておかないと思って書いただけ
>>945 素直に読めば魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
会稽東治の東つまり現代で言うと福建省福州市の東で
沖縄とか台湾のあたりという事になるね
行程も九州北の博多を過ぎたあたりにあった不彌国の次は南に水行計30日陸行1月と
邪馬台国は相当南にあるという体で書かれている
>>947 嘘でも何でもないよ
畿内の古墳からは1基あたり鉄器が100点200点あるいはそれ以上見つかっています
畿内には古墳が7000基あります
さて鉄器はいくつあることになるでしょう
>>949 何を勘違いしてるのか知らんが、俺がいつ畿内の鉄器数が違うだろと
指摘したんだよ
>>931 頭冷やしてよく読め
>>929 政と書いてまつりごとと読むのだから
当然だよな
>>950 そもそもだいぶ前だけど九州説の持ってきた資料に弥生時代の九州の鉄器は1100点と書いてあったんだよ
さらにその資料では畿内で鉄器は全く見つかってない事にされていた
>>952 少しは情報アップデートしろよな この2000年でさえ畿内では鉄器13点のみと
書かれてるくらいだ その前だとゼロでもおかしくない
>>953 九州説は2000年にもなってそんなしょうもない嘘をついてるの?
畿内の古墳1基からは鉄器が100点以上は出るよ
>>954 なにかとおまえは九州説とか使うよね いつ俺が九州推しなんて書いたんだ?
勝手にレッテルはるなや まじうっとおしい
畿内では鉄器が70万個は有りますって自論なんやろ?勝手に言っとけや
>>954 出てないよ
卑弥呼は弥生時代の人だからね
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、
朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
弥生時代(後期〜)の鉄器出土量
ちなみに鉄器時代とはこういう時代だからね
・富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1 特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
>>956 卑弥呼の時代の3世紀にはすでに前方後円墳が造られていたよ
よって卑弥呼の時代は古墳時代に入っている
倭人の墓は「棺有り、槨(石室)は無し」です
行橋・長井遺跡 弥生期の箱式石棺31基出土 23日に現地説明会 /福岡
https://mainichi.jp/articles/20191121/ddl/k40/040/331000c 前方後円墳は論外ですね
中国の地理観では日本列島は九州から南に延びていたというから、南=東側ということだな
畿内にあったら、堂々と皇室は関係を発表すれば良い
皇室と無縁な邪馬台国だからこそ、謎は深まる
刺青文化は皇室にあるか?
>>959 ホケノ山古墳の副葬品と言いたいのでしょ?
海で使うヤスとかね
つまり奈良盆地の人の墓じゃないということだよ
しかもホケノ山古墳も4世紀濃厚
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
>>955 九州説と言われて何でキレてるの
さっぱりわけがわからねえ
九州説と言われるのは悪口の一種だった?
>>961 じゃあ東の海を渡った先にあった倭種の国とは?w
>>963 畿内のホケノ山古墳は埋葬されてる木棺の炭素年代測定が上限244年
副葬品の鏡の中に239年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれてない事などから
3世紀の前期から中期に造営されたものと推定されてるよ
畿内の古墳が4世紀のものだということになれば全てが解決するね
>>968 けどホケノ山古墳は木棺の炭素年代測定結果と副葬品の両方が
3世紀に造られたものである事を示している
>>943 『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』
は、すべてをチェックする
尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史
の元に編纂されてます
つまり
梁時代は海流に流されまくりで
対馬にたどり着くことすらできず
百済から、一支国まで流される
ことは、監修国史のチェックの元に書かれている
自分で嘘をつきながら相手を嘘つきと罵る九州説は
何やら怪しい気配が漂っている
>>967 考古学に精通してるのなら、副葬品じゃ年代は推定と知ってるよね?
5世紀の墓から3世紀の画文帯神獣鏡が出てたりするのも当たり前だからねw
例)熊本の江田船山古墳
>>970 梁時代て紀元前からあって何回かあるけど
いつの何に書いてあったん
>>945 帰りのルートなんか書いてないが
朝鮮半島の南だから長崎に着いた方が早いだろ
帆船なんだから問題なし
苦労したのは新羅と揉めて対馬を使えなくされた
ための南方ルートだよ
>>970 梁時代に海流強くなったのか?
梁書はただの書き写しなので詳しくは調べてないが
どこにそう書かれてるんだ?対馬に着かずに一支国まで
流されるって部分 引用頼むわ
>>972 ホケノ山古墳の場合は副葬品の銅鏡の中に
239年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれてないんだよ
ホケノ山で見つかってる銅鏡は内行花文鏡と画文帯神獣鏡の鏡片
これらは漢の時代に朝貢した時に倭にもたらされた古いものと考えられてる
つまり邪馬台国が魏に朝貢する前で副葬に使う鏡が不足していた事を示している
『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』は
すべてをチェックする尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史の元に編纂されてます
つまり
『梁書』に書かれている
対馬にたどり着くことすらできず
百済から、一気に一支国まで流されることや
『隋書』に書かれている
対馬には百済から直接渡り、新羅は経由しないこと
一支国は対馬の南ではなく東であること
は、唐の監修国史のチェックの元に書かれている
とことん胡散臭い畿内説よりこういうのがよっぽど信憑性高いよね
山口県を投馬国とする説より
魏志倭人伝の方角基準
魏の時代の三韓の一つ馬韓50国に対し、倭国は30国
4千里四方と表現された韓国領土に対し、周旋5千里と書かれた倭
>>973 >>974 結局、ろくに知らねーんじゃねーか m9(^Д^)プギャーwww
>>975 畿内の黒塚古墳からは卑弥呼が魏から与えられた軍旗
黄幢の骨組みではないかと考えられてるU字型鉄製品が見つかってるよ
硬度(ビッカース硬さ:HV換算)
黄銅80〜150
純鉄110
青銅50〜100
金22
>>979 アホみたいな煽りはええから どの文なんだよ 早く頼むわ
それとも自分でそう解釈したから文はねぇのか?
それならそう言えや 時間の無駄だからな
>>983 從帶方至倭 循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里 始度一海 海闊千餘里名瀚海至一支國
>>980 漢の頃には九州
それから倭国大乱神武東征があって魏の頃は畿内に王朝があったんだろ
様々な資料や考古学的な発見物がそれを示している
>>981 >黄幢の骨組みではないかと考えられてる
畿内ありきの超誇大妄想w
考古学者が馬鹿にされる理由がよくわかる事例w
>>985 >魏の頃は畿内に王朝があったんだろ
無いよw
「桜井市纏向学センター」
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
>>984 魏志倭人伝の写しだろ
流れたつかなかったなんか書いてない
>>985 国宝に指定された福岡県平原方形周溝墓出土品一括の中に直径46.5cmの大型内行花文鏡
が見つかってるよ
>>985 関係ない桃の種を遺跡の年代だとか、もうこれゴッドハンドでしょw
桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
>>984 ?それがその文なのか、それ魏志要約してそのままの引用だぞ
その中に対馬が出て来ないから流されたって論理なのかwww
おまえのあのちゃらけた地図同様一回頭の中掃除したほうがええわ
あまりにもお粗末 その文の後どう書いてあるんだよ
魏志同様の行程にんってるだろが 少しは頭使えや
まあ地元の人はわかってるみたいだけどw
奈良県立橿原考古学研究所企画学芸部長
坂靖氏
現在の古代史・考古学界では邪馬台国がヤマト王権に発展したという邪馬台国大和(やまと)説が有力である。
けれども著者は、中国との直接交渉を示す考古資料(遺物)が弥生時代中期から後期の畿内地方ではほとんど確認できず北部九州に集中していることから、邪馬台国北部九州説を支持する。
まあ地元の人はわかってるみたいだけどww
『奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し
「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」との見解を示した。』
卑弥呼専用の鏡ってこういうのだよね
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 魏志倭人伝や後漢書や日本書紀に書いてある事のまとめ
57年 九州福岡あたりにいた倭の奴国王が漢に朝貢 金印を貰う
107年 同じく九州の倭国王帥升 漢に生口140人献上
180年 倭国大乱 神武東征 畿内に大和国ができる
239年 畿内邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢 前方後円墳が造られる
248年 卑弥呼死去 大きな墓を作る 臺與が後継に
266年 狗奴国が邪馬台国に反乱 魏に援軍を求める
>>992 まあぶっちゃけ107年の倭面土国は白粉みたいに顔に赤土を塗る習俗のある倭国のヤマトだよな
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