https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76377?page=2
なぜ家族まで袋叩きにするのか
このように、加害者本人だけでなく、その家族も叩く傾向に最近拍車がかかっているように見える。加害者家族の責任を問い、それ相応の責任を取るまでは許さないという姿勢で袋叩きにするのだ。
とくに、加害者とその家族が恵まれた境遇にいるように見える場合、バッシングはより激しくなる。これは、大衆の胸中に潜んでいる羨望のせいだろう。
羨望とは、他人の幸福が我慢できない怒りにほかならない。東大卒で、順調に出世し、功成り名を遂げた飯塚被告は、大衆の羨望をかき立てる。同時に、飯塚被告のおかげで裕福かつ安楽な生活を送っているように見える家族も羨望の対象になる。
もっとも、羨望は非常に陰湿なので、そんな感情を自分が抱いていることは、誰だって認めたくない。
第一、羨望が自分の心の奥にあるのを認めると、羨望の対象より自分が劣っているのを認めることになる。それは、自己愛が許さない。だから、羨望の対象に何らかの過失や落ち度が見つかると、絶好の口実とばかり攻撃する。
芸能人やアスリートなどの有名人が、不倫が発覚すると、袋叩きにされる一因に、大衆の羨望をかき立てる存在だからということもあるだろう。
「ルサンチマン」と怒り
激しいバッシングにさらされる加害者家族が、恵まれた境遇にいるとは限らない。
羨望よりもむしろ軽蔑のまなざしを向けられる家族もいる。そういう場合も、加害者本人が厳罰を免れるのなら、その代わりに家族が制裁を受けるべきという正義を振りかざして攻撃する人々が少なくない。
このような正義の起源が「ルサンチマン」にあることを見抜いたのは、ドイツの哲学者、ニーチェである。
「ルサンチマン」とは、「恨み」という意味のフランス語であり、一見正義を振りかざしているように見えるが、実は「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」人間を、ニーチェは「ルサンチマンの人間」と呼んだ。
加害者家族を執拗に攻撃する人々は、「ルサンチマンの人間」であるように私の目には映る。それでは、何に復讐しようとしているのか?うまくいかない自分の人生に対してである。
人生がうまくいかず、日々欲求不満がたまっていくが、強い自己愛の持ち主ほど、自分の能力や努力が足りないせいだとは思いたくない。欲求不満を解消する手段がなかなか見つからないと、どこかで鬱憤晴らしをする必要がある。
そこで、復讐の口実を常に探すわけだが、事件や事故の加害者とその家族は格好のターゲットになる。したがって、加害者家族に処罰感情の矛先を向ける人々は「裁判官を装った復讐の鬼たち」といえるだろう。
この復讐願望の起源は怒りである。古代ローマの哲学者、セネカが指摘したように、怒りとは「復讐することへの欲望」にほかならない。
怒りは、相手が不幸になるのを待っていられず、「みずから害することを欲する」。だから、加害者家族が猛バッシングに耐えかねて、みずから命を絶つような事態になれば、「ルサンチマンの人間」としては万々歳なのだ。
論理的に考えれば、自分の人生がうまくいかないことは、加害者家族とは何の関係もないはずだ。だが、そんなことはどうでもいい。「復讐の鬼たち」は正義という言葉を常につぶやきながら、誰かを不幸にする機会を虎視眈々と狙っている。
加害者家族へのバッシングが最近激しくなっているのは、それだけ「ルサンチマンの人間」が増えているからだろう。
その背景には、格差が拡大する社会で、「いくら頑張ってもはい上がれない」と絶望感にさいなまれながら、復讐の念で揺れている人が多い現状があるのではないだろうか。
精神科医
片田 珠美
TAMAMI KATADA
1961年広島県生まれ。精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第8大学博士課程中退。京都大学非常勤講師(2003年度〜2016年度)。
精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析的視点から分析。臨床経験にもとづき、精神分析的視点から犯罪心理や心の病を研究。
前スレ http://2chb.net/r/newsplus/1602681547/
なぜ家族まで袋叩きにするのか
このように、加害者本人だけでなく、その家族も叩く傾向に最近拍車がかかっているように見える。加害者家族の責任を問い、それ相応の責任を取るまでは許さないという姿勢で袋叩きにするのだ。
とくに、加害者とその家族が恵まれた境遇にいるように見える場合、バッシングはより激しくなる。これは、大衆の胸中に潜んでいる羨望のせいだろう。
羨望とは、他人の幸福が我慢できない怒りにほかならない。東大卒で、順調に出世し、功成り名を遂げた飯塚被告は、大衆の羨望をかき立てる。同時に、飯塚被告のおかげで裕福かつ安楽な生活を送っているように見える家族も羨望の対象になる。
もっとも、羨望は非常に陰湿なので、そんな感情を自分が抱いていることは、誰だって認めたくない。
第一、羨望が自分の心の奥にあるのを認めると、羨望の対象より自分が劣っているのを認めることになる。それは、自己愛が許さない。だから、羨望の対象に何らかの過失や落ち度が見つかると、絶好の口実とばかり攻撃する。
芸能人やアスリートなどの有名人が、不倫が発覚すると、袋叩きにされる一因に、大衆の羨望をかき立てる存在だからということもあるだろう。
「ルサンチマン」と怒り
激しいバッシングにさらされる加害者家族が、恵まれた境遇にいるとは限らない。
羨望よりもむしろ軽蔑のまなざしを向けられる家族もいる。そういう場合も、加害者本人が厳罰を免れるのなら、その代わりに家族が制裁を受けるべきという正義を振りかざして攻撃する人々が少なくない。
このような正義の起源が「ルサンチマン」にあることを見抜いたのは、ドイツの哲学者、ニーチェである。
「ルサンチマン」とは、「恨み」という意味のフランス語であり、一見正義を振りかざしているように見えるが、実は「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」人間を、ニーチェは「ルサンチマンの人間」と呼んだ。
加害者家族を執拗に攻撃する人々は、「ルサンチマンの人間」であるように私の目には映る。それでは、何に復讐しようとしているのか?うまくいかない自分の人生に対してである。
人生がうまくいかず、日々欲求不満がたまっていくが、強い自己愛の持ち主ほど、自分の能力や努力が足りないせいだとは思いたくない。欲求不満を解消する手段がなかなか見つからないと、どこかで鬱憤晴らしをする必要がある。
そこで、復讐の口実を常に探すわけだが、事件や事故の加害者とその家族は格好のターゲットになる。したがって、加害者家族に処罰感情の矛先を向ける人々は「裁判官を装った復讐の鬼たち」といえるだろう。
この復讐願望の起源は怒りである。古代ローマの哲学者、セネカが指摘したように、怒りとは「復讐することへの欲望」にほかならない。
怒りは、相手が不幸になるのを待っていられず、「みずから害することを欲する」。だから、加害者家族が猛バッシングに耐えかねて、みずから命を絶つような事態になれば、「ルサンチマンの人間」としては万々歳なのだ。
論理的に考えれば、自分の人生がうまくいかないことは、加害者家族とは何の関係もないはずだ。だが、そんなことはどうでもいい。「復讐の鬼たち」は正義という言葉を常につぶやきながら、誰かを不幸にする機会を虎視眈々と狙っている。
加害者家族へのバッシングが最近激しくなっているのは、それだけ「ルサンチマンの人間」が増えているからだろう。
その背景には、格差が拡大する社会で、「いくら頑張ってもはい上がれない」と絶望感にさいなまれながら、復讐の念で揺れている人が多い現状があるのではないだろうか。
精神科医
片田 珠美
TAMAMI KATADA
1961年広島県生まれ。精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第8大学博士課程中退。京都大学非常勤講師(2003年度〜2016年度)。
精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析的視点から分析。臨床経験にもとづき、精神分析的視点から犯罪心理や心の病を研究。
前スレ http://2chb.net/r/newsplus/1602681547/