邪馬台国はどこにあったのかー? 日本史最大のミステリーにこの夏、新たな説が登場した。タイトルはずばり「邪馬台国は別府温泉だった! 火山灰に封印された卑弥呼の王宮」(小学館新書・840円税別)。
著者は、従来の学説にとらわれない柔軟な思考で古代中国の文献「三国志 魏志倭人伝」を丁寧に検証している。別府温泉の湯煙を思い浮かべつつ読めば、大分県人の夢広がる一冊だ。
著者の酒井正士さん(64)は東京都出身。東大農学部卒業後、ヤクルト本社に勤務し、脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などに力を注いだ。
邪馬台国の「謎」に興味を持ったのは約10年前。「邪馬台国の秘密」(高木彬光著・カッパノベルズ)がきっかけだった。歴史には門外漢の酒井さんだが、邪馬台国に関する文献を読みあさり、在野の研究者が集う「全国邪馬台国連絡協議会」の会員になって独自の研究を進めてきた。
着目したのは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述だ。多くの学説は、古代中国の使節がまず日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としている。これは「まつろ」と「まつうら」という、地名の類似からきており、邪馬台国研究の“元祖”である、江戸時代の朱子学者・新井白石が提唱したことも大きい―と酒井さん。
同じように、使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、「九州説」「畿内説」のベースとなっている。しかし魏志倭人伝には、伊都国は末廬国の南東に位置するとの記述があり、2都市の実際の位置関係である「東」とは方向が異なる―と、酒井さんは指摘する。
「高い測量技術を持ち、古くから正しい方角を重視してきた古代中国人が書き残した魏志倭人伝は、距離や方角について正確に記載されていると思います。現代に残された“生データ”を分析し、私は末廬国を北九州市として、その他の国の場所を推定していきました。すると、現在の日向街道を別府方面に進んだ道筋が、距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」。
酒井さんは実際の地図や地形図、航空写真などの資料をインターネットなどで入手し、魏志倭人伝の記述を照らし合わせた。そして、最終的に邪馬台国は別府市街にあった―と結論しているが、その遺跡は残念なことに、貞観9年(867年)の鶴見岳・伽藍岳の大噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったのではないか―と考察している。
「別府市街地の海岸部をのぞく一帯は奈良時代と平安時代の2回の噴火によって火山灰に埋め尽くされた―と考えます。地下には、イタリアのポンペイ遺跡のように、古代の遺跡が手つかずのままに残されているのでは―。調査したら遺物が出てくるかもしれません。
9/11(金) 11:37配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200911-00010001-mjikenbo-l44
★1:2020/09/15(火) 11:33:25.01
http://2chb.net/r/newsplus/1600264638/ 邪馬、熊襲、隼人、狗奴
名称が九州特有の名付け方なんだよな
敵対国を畜生の名前で呼ぶ呼び方は
韓国の泗川が邪馬台国なのに何を議論してるの?
ネトウヨ嫉妬で脱糞ww
>>7
あ、そうか、畿内先住民のことを神武天皇が「えみし」と呼んだんだった
神武天皇は九州出身か 別府って府中(国衙)の支庁みたいな所があったからその名があるんだろ。
九州には北別府とか西別府とかの名も残る。
古代から栄えていた地であることは解る。
>>999
>阿波は全く箸にもかからんよ
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 <まとめ>
邪馬台国については魏志倭人伝、日本書紀、古事記の3つしか探るものがない。
確実な物証として漢委奴国王印が福岡の志賀島から出土し、魏志倭人伝の記載の
確かさの裏取りが出来ている。この発見についても当時の甚兵衛という百姓の
口上書、福岡藩の鑑定書、那珂郡奉行の資料など多々の古文書がありケチを付ける
のが難しい状況である。つまり、奴国が福岡市周辺であることは確証が取れている訳だ。
そうなると畿内説はあり得ず、九州の何処か、という話しか残らない。
現に北九州には古墳時代の遺跡は多くある。
では奈良県桜井市の纒向遺跡はなんぞや、という話だが、普通に日本書紀に
垂仁天皇が纒向に宮を起こすとあり、卑弥呼とは全く関係ないと読み取れる。
魏志倭人伝、日本書紀、古事記を全て並べてみれば、畿内説が歪で基地外さが
際立っている。何も物証も証拠なしにこじつけているだけだからだ。
それでもなぜ畿内説が名のある学者としても存在しているかと言えば単に
日本書紀や古事記を全否定しているとか、魏志倭人伝を否定しているとか
そういったカルト宗教の教義により見たくないものを見ずに議論しているからだ。
まぁ、基地外だな。
別府の府は国府の府なのか
温泉があって住みやすそうだ
ただの何の遺跡もでてないよな
リリーフランキーて福岡の中学から別府の高校に行ったんだよ
卑弥呼率いる邪馬台国が畿内にあって、朝鮮半島から天皇家の祖先が九州
へ渡ってきた。
その後邪馬台国を天皇家の祖先が滅ぼして畿内に定着、大和政権が誕生
卑弥呼を天照大御神と合体させて、天皇家が正当な日本の支配者である
と認めさせたって感じじゃないの?
「卑弥呼もつかった秘湯、別府温泉!」って宣伝できるなw
>>15
つーか万葉集とかにも出てくるし、別府なら温泉の記述するような >>17
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい? わははははは @阿波 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 測量が正確なら、邪馬台国の場所なんてとっくに確定してる。
魏志倭人伝は先行する資料を陳寿がまとめたに過ぎないが、その先行資料が尽く嘘ばっかりだからこんな事になってる。
日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう どっちにせよ関東に歴史がない事実は変わらないw
大和民族も住まないような荒れ果てた不毛地帯に
東北人や朝鮮人が住み着いたのが関東平野w
所詮単なる東日本のサル山の大将が東京の限界wwwwwwwwww
>>27
>その先行資料が尽く嘘ばっかりだからこんな事になってる。
そりゃ、トンデモ説だからだよ。 わははははは @阿波 >>31
トンデモ資料に基づいて、トンデモ説を唱えてるだけだからなぁ
身長三、四尺(72〜96cm)の人間なんて実在しない >>17
神武天皇お船出の場は別府の南、宮崎の日向市にあるよ
ホントか知らないけど >>15
別府の「府」は非課税の意味の「不輸の権の省符」の「符」
宇佐神宮の非課税領地だった意味の「別符」が語源 >>30
荒れ果てた土地を切り開き世界屈指の大都市に作り替えたのは凄いと思うがな まぁ、熊本の菊池川を境にするという合理的理由は分かったが
みやま市を断定するのはまだ尚早だな。
大規模な遺跡が発見されてない(万単位人が住んだ居住跡)ことと
魏志倭人伝の最後の至る道程で陸1か月という期間からして
みやま市は近すぎることだ。道程がゆっくりと主張するだろうが
それは主観に過ぎない。やはり最終的な候補地を決める最後のピースが必要だ。
なので何が言いたいかと言えば別府温泉もワンチャンありじゃね、と言いたいわけだ。
別府温泉で卑弥呼の湯とか、まぁ、いいんじゃない。決まるまでさ。
>>2
そうなんだが、それを言い出すと全ての説はただの妄想で終わる
まぁ、正しくても俺様解釈なんてものをやってるうちはたいして変わらんが 魏の人「使いのヤツにオマエはどこから来たんだ?って聞いたらソイツの出身がキューシューの○○だって言ってたって話。ヤマタイコク?大和(奈良)の国だっつってんだろ」
>>14
邪馬台国と大和朝廷が同じ国だと考えてる学者は頭おかしいよね >>39
移動説はあるんじゃね。
同じ国はなさそう。 邪馬台国に興味を持って半年の素人だが
畿内説はないわー
地方国家でもそれなり人口があれば
周囲に人口を支える農地は必要
古代の環境を考えると少し内陸の台地上が有力だね
>>17
朝鮮半島は出発地じゃなく中継地だからね
縄文人と呼ばれる人々はインド経由で日本に来たユダヤ人
弥生人と呼ばれる人々はシルクロード経由で朝鮮半島を通って日本に来た北欧人
だから全部で6種類ある足型の内
日本人の足型はエジプト型とギリシャ型と呼びれる2型が異常に多い
仏教とユダヤ教の類似性
神道と北欧神話の類似性
もこれを裏付けてる >>36
菊池川より北側だと、みやまだけじゃなくて玉名や大牟田も入るから
数千町はある広大な田園地帯だと思うぞ 朝鮮人のような嘘つきにならずに済んだのは先人たちのおかげだよね
>>41
物証ベースで検証していくようになると考え方が変わると思うよ 卑弥呼の時代は開墾なんてまだほとんど無いから
平野部は池沼や湿地ばかり
また海進の影響で平地はいまよりずっと狭く住みにくかったことを忘れてはいけない
現在の日本は千年以上かかって人間が作ってきたと思わないと
>>41
半年だったらそんなものかな?
九州、畿内それぞれの主張の裏取りしながら、魏志倭人伝を何百回も読み返してたら
こんなもんアテにして邪馬台国の場所なんてわかるわけねーだろ!ってブチ切れるようになるよ。 >>47
墾田永年私財法前後には関東一円も宇佐神宮の荘園だった説もある
宇佐上と宇佐下が訛って、うさがみ→相模、うさしも→武蔵になったという説 そもそも、末盧国の北東の糸島深江が伊都国だー、といいだした新井のじいちゃんが耄碌してたのだ
倭人伝には「東南へ行け」と書かれている
別府か、阿波か、或は・・・、
まーた、邪馬台地獄とか
新しい観光名所作るつもりだな
>>1
なんか別府温泉に入る卑弥呼って・・・ちょっと違和感あるねw
.
日本の文献が何もないのが痛いのよ
縄文人は文化は優れていたと思われるのに文字を残さなかった
いったい何故なのか
邪馬台国を1つと思うから争うんだ。
邪馬台国と思ってるとこは、全部邪馬台国でいいじゃないか。
真実なんて歴史学者だけ真面目に考えればいい
別府温泉の管理人が卑弥呼
卑弥呼が降らせたという雨の正体は間欠泉
因みに卑弥呼は男
邪馬台国論争300年とは、
上陸したとたんに方角を無視しててんでに走り出したクルーズ船の○○人観光客みたいだ。
岡に上がったら、次は東南の方角だぞ
古墳群や神話から思うと宮崎なんじゃねえのかと思うんだがな
邪馬台国とは朝鮮半島だよ
卑弥呼は朝鮮人
日本は百済(韓国)の領土だった
この魏志倭人伝への盲信ぶりがなあ
山海経と同時代の本なんだがどんだけ信頼できるんだよ
>>25-26,28
これはなかなか説得力あるな
やっぱり文献だけじゃなくてちゃんと出土品も見ないとね >>68
卑弥呼の使者が帯方郡に挨拶に来た。
その使者が洛陽まで送られて、金印、銀印を貰ったり、土産をもらって帰った。
洛陽の公文書からの転載だし、この程度は信じてもいいと思う。 >>26
やっぱり狗奴国は熊本だよな
その北が邪馬台国なんだから北部九州で間違いない >>3
それな
>>40
大和朝廷は出雲から動いてるよね
素戔嗚尊と国譲りの伝承が正しいなら >>14
都合の良いまとめ方だなw
キチガイとかばっか言うから九州説は真実味帯びないんだよねw >>66
>2013.11.24 鷲崎弘朋「宇佐神宮の主神、比売大神こそが卑弥呼」
伊都国が糸島である倭人伝的根拠がない。お門違い、方角ちがいの典型例だな。 当時の航行技術、距離感、方向性に正確さはない。かなりアバウト。
それにピッタリ一致したらハズレ。残念でした。
魏から貰った青銅鏡の大量生産には錫と銅を化合するための炭酸水が大量に必要なんでね
それと鋳造する熱源もね
だから船小屋温泉と三池の露頭炭層がすぐ近くにある山門が文字通りの邪馬台国なんだよ
寒の地獄の炭酸を使ったのは卑弥呼じゃなくて次世代の壱余だろ?
未だに九州説唱えてる人って大丈夫かよ?
いつも根拠示さないし。
ぶっちゃけあの時代のどっちにどのくらいの距離って記載当てになんのかよ?
畿内説に根拠とかあるわけ?w
ただ日本の学者が畿内って言ってるから畿内。それだけの畿内説、プッw
>>66
>2013.11.24 鷲崎弘朋「宇佐神宮の主神、比売大神こそが卑弥呼」
倭人伝に逆らい、新井白石に忖度しただけの愚説 日数については報告者が出張旅費を過剰申告したのだと思っている。
古代の出張旅費は基本前払いだと思うが、過剰にかかったので私費を出したと申告すれば、
貰えたのかもしれん。
イト国が予想以上に遠くて私物を売却して、旅費不足を補ったという申告に辻褄を合わすため。
>>26
こんなんあるんか
じゃあやっぱり九州なのかな >>28
この配置なら吉野ケ里とかは衛星国の扱いなのかな? 俺も別府でいいと思うよ
北別府投手もそんなこと言ってた気がする
>>96
さっさっと畿内の根拠を出せよ、この池沼がぁ!
出せるもんなら出して見ろよ、このど阿呆がぁ! >>95
九州説に都合の良いように情報を集めただけだろ?
遺跡も発見されてない状況で言われても納得しにくいわなw 経験者は語る:
日数については報告者が(雄琴滞在の)出張旅費を過剰申告したのだと思っている。
>>87
南行水行十日陸行一月
完全に九州内に収まらないのは確かだ。
だとすると方位が間違ってる。
そして、これだけ進んでも陸地があるのは東しかない。 諸説ともども、
伊都国が糸島である倭人伝的根拠がない。すべてお門違い、方向ちがいの妄想だ。
>>104
そもそもの行程を読み間違いのトンデモ結論 卑弥呼は蔑視された当て字だからな。
日ノ本の巫女だったかもしれないが、卑弥呼は中国語だとどういう発音?中国語の卑弥呼に近い日本語はなんだろか?
邪馬台国もな。
諸説ともども、
伊都国が糸島である倭人伝的根拠がない。すべてお門違い、方向ちがいの新井式妄想だ。
結局新たな何かが出土でもされないと全部想像なんだよ
>>80
魏志倭人伝では国の端に着くと至るや到と書かれている
帯方郡も郡の中心からでなく国の端の海岸スタート
末盧国の到着地点も末盧国の北の端の呼子付近
そこから伊都国へ向かうには東松浦半島を南下し唐津市付近から東へ500里(40km)で丁度伊都国の入り口付近に着く
方角、距離共に魏志倭人伝の記述に合っている。 新井って人もボロいよなぁ
とりあえず適当に情報作って九州説だ〜って言って本作ったらヨダレ垂らして喜ぶ人いるんだもんなぁw
古代の地図を見れば方角も距離もデタラメなんてわかりきってるだろ。
古文書の記載をGPSデータのようにして位置を推定するなんてナンセンスもいいとこ。
方位磁針の発明はずっと後のことだってのに
>>96
学者を自称する人が生活の為に嘘を吐きまくってるだけ。 おさらいだが、国の名を現代の位置を比定するとこうなる。
ポイントは不弥国→投馬国(水行二十日)
投馬国→邪馬台国(水行十日陸行一月)。
この間の距離はそれ以外の国と比べて長いことが分かる。
つまり九州内に収まらない距離だ。
末盧国→松浦
伊都国→糸島
奴国→博多(那の津)
不弥国→宇美
投馬国→鞆
邪馬台国→大和
>>104
昔と今じゃ道路の有無とか全然違うからな?
獣の警戒とかで歩行スピードも違うし >>116
学者はそれなりに根拠集めてるから発表出来るんでしょ?w
そんな事ばっか言ってるから信じにくいんだよw 観光煽りだろ?
別にどこが邪馬台国だろうと構わん。
個人的にはね。
みんななんで邪馬台国に興味ひかれるんだろうな。
>>120
同じ物を見ても解釈で変わるからな
しかも学者は自分の学説に従って情報の取捨選択をして持論に好意的な解釈を出来る物しか採用しないし >>119
それだとしても、不弥国(宇美)から、投馬国を経て邪馬台国まで、延べ水行一月もかかる距離だぞ。
どうやっても九州内には収まらない距離感だ。 >>118
>ポイントは不弥国→投馬国(水行二十日)
これが間違いなんだ帯方郡→投馬国(水行二十日)
末盧国→松浦
伊都国→糸島
奴国→博多(那の津)
不弥国→那珂川方面
投馬国→朝鮮半島南部
邪馬壹国→北部九州地域全体 >>120
9割が学者の妄想
考古学なんて専攻するやつは頭悪いやつだから妄想を推測と表現して発表するんだよ 頭悪くて飯が食えない自称考古学者説(畿内説) vs 記録に基づいた史実(九州説)
>>124
「投馬国は帯方郡から水行二十日です」
と、何処に書いてあるのですか? 里数が実際より長大になってるのだから日数も長大になってるとする方が合理的じゃないか
日数だけは正しいとする根拠を今まで見たことかない
>>107
太伯(姫氏)の子孫の意味で使者が王の名を「姫の子」と早口で言ったのが「ヒミコ」に聞こえ
「姫の彦」が「ヒミココ」に聞こえた可能性とか >>123
海流って知ってるか?
進んでは押し戻され
海が荒れれば停滞し >>118
>不弥国→宇美
これでは距離、方角共に合わない
内陸の那珂川市方面へ向かってますね。 >>129
測量具が無い時代、距離がアバウトなのは仕方ないとしても、日数は人間がカウントするから分かるだろ。 まあどうしても卑弥呼や邪馬台国の存在に目がいってしまうんだけど
「魏書」倭人条の真髄は、当時の日本(地域にあった邪馬台国)の生活文化や習慣性が
しっかり描かれていることなんよね
邪馬台国までの行程の数字はアテにはならんけど、まあそれまでの倭人諸国の存在は
ある程度信憑性があると思うんで、むしろ当時の日本の国家群ぶりを見るだけでも面白いよね
狗奴国みたいな周辺国研究からの邪馬台国へのアプローチ(考古学含)がもっとあっていいかもね
>>129
東夷伝で使われている1里は80mで統一されている >>35
大都市に造り替えたの関東人じゃないからなw >>137
昨晩いた畿内説論者はバカでもわかるような矛盾点がある教科書をソースに出してきたぞw >>136
里数が当時の度量衡からみて5倍以上大きいのに単なる計測ミスと考えてるの? あくまで「魏委倭人伝に載ってる邪馬台国という定義で言えば」九州だよ。
畿内ではない。
そもそも播磨にいたヒボコが東征前に朝貢してるんだぜ?播磨地方の国や地域名が全く出てこない時点で畿内説はアウト
この魏志倭人伝の記述から場所探すっての見るたびになぜかドラクエのフィールド思い出してしまう
>>136
測量具が無くても歩測で大体の距離は測れる
昔の人を馬鹿にしたらいかんよ >>130
ただ、中国語の当て字だから日本人が言った言葉は卑弥呼の中国読みに近くないと当てない。
卑弥呼を中国語でやはりヒミコと読むのかな? その後飛鳥が中心になったのは間違いなくて
じゃあ九州にあった政権は移住したか滅んだになるの?
>>132
具体的に何処の海流の事?
そんなに荒れ狂う海って外海ですか? >>136
「叙述トリック」とか「信頼できない語り手」
って推理小説の手法は分かるか?
水行二十日
水行十日陸行一月
これが絶対的な数字か、書き手が移動した時に掛かった数字か
って部分が明記されてない >>80
糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に
弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓が連続して営まれており、
それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。 三雲遺跡の周辺に井原鑓溝遺跡がある。
井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。
糸島市内には天孫降臨以降の神話が伝わる舞台が複数存在する。 >>141
ならなんで里じゃなく日で書かれてるんだろうね? 屁理屈では「邪馬台国グンマー説」も成り立つ気がするんで
それで一旗上げようかな
しかしまあこんな渡るのも大変そうなとこから朝貢するあたり元々中国やその文化圏に住んでた民族なんだろうなあってのはわかる
>>143
学者から相手にされないって論の方がちょっとねw 卑弥呼もきっと本名はあって、それはとても長い名前だったのだろうが、
それは公にはせず、役職名で呼ばれていたのに違いない。
>>147
だからね
その人の歩くスピードや移動時間が絶対的な物だったのか
たまたまその時はそれだけ掛かったのか >>150
君はどこを通って行ったと思ってるの?
瀬戸内海を船で抜けたと? >>128
帯方郡から女王国まで12000里と書いてるのを都合が悪いから無視するって
前にかかれてたけど本当にそうなんだな >>160
だ か ら、他にも飛鳥とか葛城とか、何でもいいけど、奈良に関係する土地の名前って一切出てこないだろ?
畿内説って、一番重要なことを全く説明してないよなw
ドコでもドアでもあったんか〜い どの説も
魏志倭人伝頼りなのが
笑える。
側から見たら馬鹿みたいよ?
そもそも、景行天皇-日本武尊-仲哀天皇までずっと九州に居すぎなのが不自然w
応神天皇が半島の渡来人を伴って近江入りでやっと畿内に到着してるwww
神代天皇は創作でそれ以降から仲哀天皇まで九州人だったとしか思えないwww
卑弥呼の居城跡が女山だよ
女王山とも言われる
嘘のような話だが本当なんだってw
まあ普通に大陸側から渡来したら九州にまず居着くだろ
どの辺で畿内に移動したのか知らんが
>>168
普通にならにいたぞ?
ヤマトに居なかったのは垂仁天皇くらいかな 今の世の中が不安だから、古代ロマンに夢を求めるね
暗いニュースばかりの中に、こういう研究を信念で続ける人がいることに敬意を表すわ
>>167
まあ本当におっしゃるとおりなんだけど
一次史料級がそれしかないのだから仕方ない
これを頼りにしないで説をぶちあげたら
「馬鹿みたい」から「本物の馬鹿」になってしまうw >>166
葛城の地名が付くのは神武天皇即位後だから、邪馬台国の朝貢より後 >>166
とりあえず畿内説の学者を説得させて九州説に変えさせたら?w >>165
目的地までを距離と時間で説明してる
単位の里が魏の里とは異なるから里だけでは情報不足なんだ。 >>175
邪馬台国事件は神武の即位の後
まんま、第一次物部東征と、第二次物部東征を一つにして神武の前に持ってきた古事記そのものの考え方じゃん
それこそがいい加減な歴史なのに >>2
邪馬台国について書いてるのは魏志倭人伝だけです
魏志倭人伝について疑うなら「そもそも邪馬台国なんてあったのか?ただの空想だろ」で終わっちゃう話なんです >>172
それが漢や唐の真似をした「羈縻政策」の一環で、九州の地名を畿内に移してる可能性があるんで、
奈良の地名だと思ってる地名が実は九州の可能性があるんだよw 免田式土器は熊本県の菊池川より南と鹿児島あたりでよく出てるし
免田式土器の全盛期は弥生後期後半 つまり卑弥呼の時代
>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素より和せず
「素」の扱いがバラバラだったけど免田式土器の出土状況から
卑弥呼は狗奴国王とはじめから和せず でしっくりくる
そうなると九州では乱がおさまってなく卑弥呼が共立の王になってない
>桓霊陂`國大乱 更相攻伐 歴年無主
>有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道
>能以妖惑衆 於是共立爲王
これは畿内の話だと思われる
>>180
いい加減かどうかは知らんがなw
残ってる資料で考えるしかないってのにw
九州説は妄想基地外かw じゃあいつもの銅鐸に残る共立のあとのこぴぺね
銅鐸の文様、製作方法などから分割消滅集約される様子
こんな感じで畿内、東海の銅鐸は2つに集約される
銅鐸出土場所からの1世紀初めの予想勢力図
右赤の近畿勢力と左青の東海勢力
飾り耳が特徴の近畿式銅鐸
はみ出す太い横線が特徴の三遠式銅鐸
ちょっと笑った
別府はねーわ
今でこそ開拓されて人が住んでるが
もともとは人が住める土地じゃないぞ(火山地帯)
>>162
水行の最短ルートは瀬戸内海でしょうね。
瀬戸内海なら一部海流の激しい所もありますからね。あと、風待ちもしたでしょう。
投馬国の比定地になっている鞆浦は風待ちの港ですし。 >>143
それはおれだが
教科書や参考書から引用したのは、九州説バカが無関係なイチャモンつけてきたが
あまりにもお粗末なレスだったので、基礎的な知識さえないと自覚させるためだ
ソースではない
で、矛盾点とは何だ? おらが村こそ邪馬台国だぁ〜の恒例
でも奈良出身の二人が「当時の奈良に他の政権があったことが分かっているから
畿内説いう奴はアホ」と切り捨てていた
>>163
帯方郡から投馬国まで水行二十日とも書いてあるのでしょうか? >>196
まぁこれも有ると思ってるなぁ
実際コッチの政権が大きくて邪馬台国はしょぼかった説 気持ち悪いなQ臭
ネズミ講発祥の地の称号だけで十分だろう
つまり要約すると、卑弥呼に温泉入浴シーンという、
新たなイメージが追加されたという事か。大発見だな。
>>168
西日本を大和王朝が支配してて
中国人がここはどこですかって聞いたから
大和国(の地方都市)ですよ
って言ったのを勘違いして邪馬台国と記述したとすれば
問題ない
卑弥呼も女王じゃなくてその都市を任されてる巫女と考えれば良い
位置が出鱈目なのもそれで説明がつく >>179
倭の報告書で里数で記したものと日数で記したものがあり
陳寿の使っている里では付き合わせると矛盾していたから両論併記したんだ そういや、いわゆる魏志倭人伝そのものの記述についての信憑性を疑うのなら
「魏書」そのものの信憑性を図るのが当然なんだけど
結論から言うと史料としての「魏書」の信憑性は(魏国バイアスが入っているものの)
これまでの様々な裏付け発見から見れば「悪くない」んで
倭人条の記述も(正史文書という位置づけからも)ある程度信憑性があるって
判断するのが妥当だろうね
まあむしろ現状では「魏志倭人伝は空想だ」っていう根拠がゼロなわけよ
魏志倭人伝の記述は距離も方角も適当だってところから始まっているのに何でこんな事になるのか
この騒動に沈黙を貫いている宮崎(日向)がかえって怪しい。
西都高千穂などがあるのに
卑弥呼が女ってのは間違いないのか?
オッサンだったら萎えるぞw
>>186
そもそも人間が150歳とか頭おかしいんじゃねーの?w
そんな事も気にならんらしいな畿内説ってのは
そんでもって、大陸の方が嘘をついてるニダとか言っちゃうんだろ?w >>203
卑弥呼は女王になったころ、すでにババアだぞ 学説が二つに分かれているのは皇国史観が影響してます。
邪馬台国を最初に研究した本居宣長は、邪馬台国を大和だと比定した。
でも、皇国史観的配慮から、それを九州の山門に変更した。
それが現代まで続いているんですよ。
>>211
知らね〜って言ってるじゃんw
あとどっちでもいい派って言ってるよねw
九州説は文字も見れないのかw >>208
このスレの一応の大義名分は、適当な距離ではないのではないか?って事だろw >>124
この考えで正しい筈
ポイントは釜山から対馬までが1000里で壱岐から九州までも1000里って事
釜山から対馬も船で頑張れば1日で着くしその方が安全なんだから水行1日の筈
壱岐から九州までは明らかに距離が短いが水行1日だから1000里でいいんじゃね?的に適当に決めたと考えるのが自然
となると邪馬台国までの水行10日は10000里になる訳でこれを帯方郡から九州までの水行10日にプラスして考えると帯方郡から邪馬台国までが20000里をゆうに超える事になって辻褄が合わない
帯方郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月と考えるしか無いよ --- 3世紀末 邪馬臺国消滅時期 ----
3〜4世紀半ば 纏向遺跡
4世紀末〜近畿民の天孫降臨↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 >>213
そうそう。バイアスの方が強い問題なんだよね、コレ >>210
日の巫女だろ
女王かどうかはしらんがシャーマンの類でしょ >>197
帯方郡から女王国まで12000里と書かれてるが
12000里=7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で
伊都国、奴国付近で12000里の説明は終わっている
里数での説明が終了し単位が日数にかわってるから帯方郡からの説明と考えるしかない。 はじめての方へ
【基礎知識】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長が間違いに気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
そのうちひょんな事から発見されるよ気長に待つしかない
いや
王国作るのに火山地帯はちょっとないんじゃないでしょうか・・・
これより古代道路の事知りたい
特に東山道武蔵路の明確なルート
>>208
テキトーだってところから始めるのがテキトーの際たる事例なんだよ 違うって証拠もないからね別府かもしれんしわかんねぇじゃん
憶測でしかないんだし
ミステリーで邪馬台国どこかみたいなやつ読んだけど結論を覚えていない
>>204
畿内は物証が乏しすぎる
卑弥呼の時代の畿内には、絹も鉄の矢じりも真竹も無い 山門であった場合まず該当する遺跡がないのと
狗奴国に近すぎるのと菊池川周辺の遺跡では防御が頼りないし
吉野ヶ里の二重環濠の方がすごいのに
吉野ヶ里は狗奴国の攻撃から山門を守ってない
戦略的に見て九州の山門に邪馬台国はない
裴世清も別所温泉でもてなされたわけか
迎賓館としてはありえるな
>>229
当時の時代に近い鏡は大量に出てるけどね そこでいいよ
元邪馬台国なんだから観光地かしててもおかしくないでしょ
魏志倭人伝は一昔前は距離の記述が全然現実と合わなくて記述どおりなら太平洋のど真ん中に出てしまうなんて言われ方をしていたけど
最近は分析が進んでそこまで矛盾なく理解出来るようになってきた感があるな
ここを問題視する人も少なくなってきた印象がある
小学生の頃邪馬台国は土佐って本を読んだことがあるから
別府程度では驚かない
そもそも魏志倭人伝には邪馬臺(台)国などという国名は記載されていません。
書いてあるのは「邪馬壹(壱)国」であり当時の中国語である呉語では「シャマイ」国と読みます。
これを漢字に疎いヤマト王権が「ヤマタイ=ヤマト」と誤読したのが諸悪の根源なのです。 旧山門郡の柳川市とみやま市の
邪馬台国にふさわしい遺跡をしめしてみよう
話はそれからだ 特別サービスで八女市でもいい
>>222
魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国というのは勘違い
倭人伝の原本そのものは遠い昔に失われ、現在に伝わるのは12世紀に写されたある写本をもとにした写しかその印刷物である。
この12世紀の写本時に、臺→壹、斗→升、のようにパロッたのが今に伝わる倭人伝の起源である。 >>240
女山神籠石って立派な古代山城と思われる遺跡があるぞ >>242
そんなこと言ったら古事記や日本書紀も写本 邪馬台国を近畿とすると
瀬戸内海沿岸諸国の説明がないのが不思議
■纏向の桃の種が埋まっていたのは建物周辺の柵列の下
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
■その他の纏向遺跡の特徴
・木製の土木用具が多数出土
・東海産の飯炊き土器および残飯が出土
・住居や農耕の痕跡はほとんどない
・九州および半島や大陸との交易の痕跡無し
・弥生時代の遺構そのものが極めて少ない
・周辺に大型古墳多数あり
・銅鐸の破片も出土
■現時点で言い得ること
・纏向遺跡は古墳建造時の土木事務所もしくは葬祭時の斎場だった
・葬祭の様子は史書に記載されており、卑弥呼とは無関係である >>244
古代ローマも温泉帝国だよ
温泉には浪漫があるな >>234
わざわざ卑弥呼時代の中国の年号入れた国産の銅鏡のこと? >>216
>帯方郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月と考えるしか無いよ
中国の学者でこういう読み方する人はいないから素人考えでしかないな。
普通に北部九州から水行10日だよ >>250
偽物って言うなら証明すれば良いんじゃね? そもそも東方見聞録が出鱈目なのに
それより遙かに前の魏志倭人伝が正確って考えるのに無理がある
距離と方角は正確で適切だ
オレ様的に違っているというやつのほうが違っている。古代人を小墓にしてるんだろ。
>>153
>ぺミフィー
古代も卑弥呼をぺミフィーと読んだとしたならそれに近い呼ばれ方をしていたんじゃないのか?
邪馬台国も大和ににているというが邪馬壱(壱の旧字)国であり、やはり古代の中国語の発音に当て字されたんじゃないの? >>246
第一次物部東征(神武朝廷成立)のときは吉備国がまだあったから通れなかった。
だから和歌山回りになって八咫烏に案内された
第二次物部東征の時は、ヒボコが播磨まで入ってきてたから通れた
だから卑弥呼は病没した時に厳島神社で荼毘に伏す事ができた >>247
桃って中国でも神聖な果物だから神聖な儀式が行われていた可能性が高い
古墳建造時の土木事務所説はトンデモ説としか言いようがないw >>216
>帯方郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月と考えるしか無いよ
海峡三千里横断が3日だから、中国帯方郡側に立って読めば、上の解釈は適切だ。 >>246
普通に日本海側のルートでしょ
投馬国(出雲の港付近の地域はかつてトモと呼ばれていた)が書かれているし はじめての方へ
【基礎知識2】
〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
〜 中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置 〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
※1里=約70m >>243 3世紀にこのタイプの城はないよ
魏志倭人伝だと邪馬台国は九州北部にならない
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
九州の人は都合の悪い部分が見えない病気なんだろうか >>88
まぁ、ご先祖さんが話の種を遺して置いてくれたと思ったら良いんじゃね? >>249
「臺(台)」が中国の朝廷を指す言葉になり使えなくなったの似た「壹(壱)」で代用した
ヤマトの中心地がイチと呼ばれていたからだろう
ちなみに箸墓はオオイチの墓と呼ばれている 推理小説家が書いたカッパの本w
ネトウヨとソースが同じだな
>>260
桃は「道教」
卑弥呼の占いは「鬼道」
道教で桃は鬼を追い払うための魔除けの意味があります。
つまり桃は反卑弥呼派(=狗奴国)が使うものです。 >>268
農民が発見した状況で九州説言われてもねぇw 物証の重要性で言ったら
銅鏡 >>>>>>>>> 鉄器
はっきり言って鉄器は邪馬台国の位置論争とはほとんど関係ない
>>266
そりゃあそうだろう
邪馬台国時代の遺構は掘らないとと出ない >>221
帯方郡から東南12000里=5000キロなら邪馬臺国は太平洋上
・魏志の里程が現実から乖離しているのか
・邪馬臺国は北太平洋の島にあるのか
どっちかしか無い コメ二回取れるところの方が国力そのものは上になる
しかし、権威がなかった。
>>236
今でも畿内説の人は魏志倭人伝を矛盾なく読む事を拒否してる
矛盾しないと関西へたどり着けないからね。 >>1
まーた「隙あらば邪馬台国スレ」やってるのか >>239
ウソをつくな
当て字だから当時の中国語でも邪馬臺はヤマタイかヤマトと読む >>273
12面の三角縁神獣鏡があるグンマーが邪馬台国ということに! 卑弥呼や弥生人は新モンゴロイド
新モンゴロイドはアルコール分解酵素に乏しい為、全く飲めないか少し飲んだだけで酒乱になり人を襲う
忌み嫌われたDNAなのです☆
>>275
東夷伝では1里80m
陳寿は東夷の1里の長さを知らなかったから
日数も併記したんだ。 当時最新の鉄器こそ邪馬台国を超一流最強の国家に押し上げたのだ
分かってねえな、歴史オンチ
>>277
今でも北部九州説の人は魏志倭人伝を矛盾なく読む事を拒否してる
北部九州から水行30日も離れた場所にあるとはっきり書かれているからだ >>35 >>30
関東の歴史性は、鎌倉幕府や後北条氏の長年の功績を徳川家が丸パクリした所為で、過小評価されてしまっている節は相当あるかと
中世から、江戸が大都会だったのは勿論、荒地湿地の開拓システムや、特に治水・水道技術は西日本を圧倒していたみたいね >>279
中国人が当て字したんだろ。
日本には当時漢字文化はなかっただろ。
日本人が発した名前に近い漢字を用いたんだろ。 ■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
内容からすると『やまと』は単に都を意味し、一か所ではない。
■結論
『やまと』が『奈良大和』であるという認識は万葉集には無い。
>>236
>最近は分析が進んでそこまで矛盾なく理解出来るようになってきた感があるな
>ここを問題視する人も少なくなってきた印象がある
>今でも畿内説の人は魏志倭人伝を矛盾なく読む事を拒否してる
>矛盾しないと関西へたどり着けないからね。
まさにその通り、 神武天皇は卑弥呼を神格化し
邪馬台国をスーパーリスペクトして作ったのがヤマト王権
卑弥呼はアマテラス
投馬国出身の神武天皇が、邪馬台国で卑弥呼と接触して
その意志を引き継ぎ東征を始めた
イザナギに、何故「邪」が付くのか疑問に思ったと同時にすぐ答えがわかった
(蛇足だが、糸島市は律令制下では怡土イト郡と志摩シマ郡だった)
(「邪」は「よこしま」とも読む)
伊邪那 岐(わかれる。ふたまた)
都馬国
国台
国
つまり、邪馬台国の位置も比定出来るw
>>288
グンマーはガチで古墳と三角縁神獣鏡がたくさんあるから、関東に歴史がないとかは関西の偏見まみれや無知な連中の思い上がりなんだよね
グンマー=邪馬台国はネタにしかならないがw >>288
そりゃ何も無い土地で大都市を真似て作ればそれなりにいいものは出来るだろうなw
結局徳川の都合で作られた都市だから不具合が多すぎて都市としては終わってるけどねw >>284
そこは「魏志の里程は誤り(観念的数値、誇張)だ」でいいと思うよ
短里で測量したとか言い出すと、ただでさえ少ない九州説の論者がますますカルトくさくなっちゃう >>287
その与太の結果、畿内説は信用を失ってしまった 素朴な疑問だけど、2000年近く前の地名がいまも残ってるのって有り得る?
魏志倭人伝だけを読むと、九州では無いとも言い切れない
ただ「短里で測量した」は無いわ
>>301
名残は有ると思うよ
今と違うから1度つけた地名はそうは変えんだろ 倭人伝を小ばかにして、距離方角を無視してきた畿内説はすでに廃墟
>>28
畿内に行くのに北部九州で上陸するバカはいません はじめての方へ
【説明が面倒くさいので結論】
大宰府に残されていた文献に邪馬台国の場所が記されています。
◆張楚金の『翰苑』 660年以前に成立。平安時代初期(9世紀)頃に転記。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※中国の史書において連続した行程の場合は「又〜至る」と記述される
※伊都国は福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている 短里説なんかとるから、畿内説も認めざるを得ない数字誇張説をとれなくなり、北部九州全体が邪馬台国だとかいう奇形解釈に逃げることになるんだ
短里説は九州説のガン
記述に邪馬国ってのがあって八女市だろうと言われてる
なら邪馬台国も八女市なんじゃねえのw
熊本近いし
>>303
そうだね
だから考古学が進展するまで、邪馬台国論争は決着しなかった >>264
当時の中国人の東夷に対する距離感、規模感、各国の位置は絶対に知っておいたほうがいい
馬韓で50国を成すのになぜ畿内説論者は30国で畿内から九州までを含む国があったと推定するのか理解に苦しむ
> ・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
> ・女王国の南には敵対する狗奴国がある
この各国の位置関係も畿内説では説明に無理がある >>275
誇張があっただけ
当時は半島とか朝鮮海峡がはるか長大なものだったという思い込みがあった
だから上陸以降はずれが少なくなる 邪馬台国は吉野ケ里だろ。畿内説だけでも迷惑してるのに
新たに説出してきて同じ九州民に足引っ張られるのはきつい。
大分は観光地たくさんあるんだから欲張らないでほしい。
そんなこと言いだしたら、どこの温泉でも当てはまるで(笑)
アマテラスは九州
ツクヨミは四国
スサノオは出雲山陰
古事記の国生みで九州の顔に「日別」が付く
日と向かい→日と別れた地
筑紫島(つくしのしま) - 九州。
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ) - 筑紫国。
豊日別(とよひわけ) - 豊国。
建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国。
建日別(たけひわけ) - 熊曽国。
大分だと、魏王の鏡と同型の鉄鏡が発見されたというのがすごいな。
■各説による邪馬台国関連遺物の出品状況(2020年時点)
[九州説]
・三種の神器(剣・鏡・勾玉)
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・鉄器各種
・絹および紡績用具
・警備厳重な吉野ヶ里集落
・漢委奴国王の金印
・魏王の鏡と同型の鉄鏡 ←大分
・複数の遺骨に囲まれた祇園山古墳
[畿内説]
・古墳建造作業員向け大型食堂
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・鉄器時代である弥生時代としては珍しいレトロな木製の土木用具一式
・東日本で流行った木製仮面
・建物を囲む垣根の下から桃の種(建物建造後の物ではない)
・同じく蛙の骨
九州にあった邪馬台国も何時の間にかなくなって
子孫なのか別の勢力なのかが九州から関西行って現地勢力凹って現在につながる
畿内説は、中国人を見下し小ばかにしては倭人伝が間違っている、信用できないという。
ならば三国志もでっち上げだというのか。
そうではないだろう。単に畿内学閥の我を押し通すために、口から出まかせを云ってるのではないか・・
>>317
海峡の距離は海を渡るごとに自動的に千里だと思う
ただし、郡から狗邪韓国まで7千里は誤魔化しようがない
韓伝も高句麗伝も短里だし だいたい短里ってなんやねんw
強引につじつまあわせようとありもしないもん作り出すなよ
自分トコの地域を圧倒的に贔屓する団塊ジジイが駆逐されない限り解決は無理
魏志倭人伝の翻訳とか簡単に言うが、その翻訳自体がめちゃくちゃ難しいらしいな
中国語のネイティブでも古語の専門教育を受けた学者じゃないと解釈は難しいし、その学者間でも解釈は色々だし
正直、その辺の中国人留学生に訳してって言って読めるくらいのものだと思ってた
勘違いされがちだが、卑弥呼の時代は狗?国との戦争や異常気象による大飢饉に身まれた苦難の時代であり、発展するどころかむしろ国が衰退していく時代だったのです。
この状況が、北部九州の遺跡には多く見られます。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。 >>332
本当の理由は「あまりにショボい」からとのことです。
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎縁だと判明した 前の国家・・・・こーんな遠いまあまあ偉大な国(ローマ)ともお友達だよー
↓
今の国家・・・・東で同じくらい離れてるかんじで捏造すっか・・・
>>333
1里500mでは説明がつかない距離の伸びがあるんだからどうしようもない
倭人伝だけでなく韓伝も高句麗伝も同様
東夷伝全体がそういう特殊な単位を使っていたのか
それとも司馬懿の功績を大きく見せるために意図的に盛ったのか >>329
それだよな。
三国志は正しいけど日本の項目は嘘だなんて考え方、通るはずもない >>333
>>264の
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
※1里=約70m >>335
そりゃ同じ中国人名乗ってても、実際は全く別の民族だから当たり前 >>332
これが畿内派のやり方か
みっともない歪曲だな >>288
おいおい、名護屋城築城の経験が江戸城築城に生きてるんだぞ
江戸城築城の普請には西日本の多くの大名が職工とともに参加したおかげであんな立派なものになってる >>342
伊都国〜奴国100里でもう破たんしてんだけど 俺の予想
徳島(山焼き農業)から近畿(稲作)にヤマト政権が移動、近畿に勢力拡大。
九州の小さい小さい国の女王が、中国に行って、中国側も間違えて金印を与えてしまうが速攻で滅亡。
つまり卑弥呼は九州、邪馬台国は近畿圏(徳島含む)なのだ
筑紫、豊 半島・中国系弥生人
熊襲 縄文人
近畿は海進、火山がない等で縄文人は
いなかった。海退により京都奈良大阪は
弥生稲作にとって「うまし国」となり、
西方から暫時植民された。天日矛、ニギ
ハヤヒ、神武などいずれも天孫降臨と
称して征服した。
いまでも畿内遺伝子は9割以上が半島系
で、酒に弱い、目が細い、ウンコ座りが
出来ないw 等々。
>>240
卑弥呼の時代、柳川市はまだ海の中か筑後川の中州程度だ
みやま瀬高にあった古墳群は開墾時に盗掘しまくりで副葬品は散逸
ただ黄金製の副葬品が多数出た伝承はある 一般日本人からの情報
・徳島(旧首都)には水銀が出る、顔の化粧はその水銀
・一大勢力を築いている (近畿圏)
↓
そこに九州の小国の女王が来る (まあ、ある意味倭人だし女王)
やったやった、倭人(近畿圏)の女王が来るくらい俺達は偉大なんだぞっと有頂天、金印授与
距離や方角なんかよく分からんから、チョット盛る
↓
ややこしい事になる
世界的には酒弱は稀少で、縄文遺伝子が
強いほど酒に強いのは非常にわかりやすい
魏志倭人伝の水行とかのくだりは
皆さんおなじみの投馬国まで水行20日なんですよ
それが邪馬台国までは水行10日陸行1月w
怠け過ぎちゃうんですか!
邪馬台国までは12000里しか無いんですよw
的な意味だろうw
宇佐説とか別府説とかふざけているとしか思えん 壱岐から呼子に船がついて呼子から伊都国の首都があった曽根付近の方角は南東になるから倭人伝の表記で間違いはない 奴国の首都は福岡市ではなく春日市の岡本付近にあったから岡本から宇美町の方角は真東で倭人伝の表記通りだ
>>240
それとみやま高田町の山の中に日本書紀に出てくるオノコロ島の元になったと思われるオノコロシという山がある >>356
邪馬台国から洛陽までが水行10日陸行1月なんだろ
記録してる張政が邪馬台国にいる時に魏志に相応しいように「邪馬台国から洛陽までの距離」を表したのが
「水行10日陸行1月」だとすると九州北部からちょうどいい感じに洛陽にたどり着ける 古代の中国語を留学生如きに翻訳させてどうなる。記紀を大学1年生に読ませ、現代語に直させるようなものだ。
それだけではない、IQ200の陳寿の文章(王朝お抱えの文書係多数も加わって手を入れたのだろうが)は、
省略も多いが、極めてよく練られた精緻高度なものである。
偏差値50未満の畿内低偏が、軽々しく見下してはイカン。
陸行1月って1日何キロ進む計算なんだろ
当時はろくな道がないのだろうから、道なき道を行ったのかな
例えば宮本武蔵の生誕地
宮本武蔵・・・・「播磨の斑鳩の郷、宮本村出身です」
↓
もう、播磨の宮本村っつったら兵庫県の太子町の宮本(すぐ北が聖徳太子が建てた斑鳩寺)
しかないのに、基地外の老害のせいで出身地、岡山だしね
地元を愛する気持ちが強すぎる限り、この手の解決は無理
いずれ、九州マスコミのツマの大分合同は、
倭人伝をおちょくったことで、大ハジを掻くことになるだろう。
魏志倭人伝 自分でも読んだけどもっと南の方じゃないと辻褄合わんだろ
仮に手柄を大きく見せるために距離を盛ったのだとしたら
日数も戸数も同じように盛ってても不思議はない
>>246
大山祇が全く無視されてるのは理解できないしな 水行10日陸行1月。この部分が畿内説に可能性があるところだな。
そもそも大倭まで行ってない可能性もあるわけだが。
>>361
天津あたりで上陸して洛陽に向かうと時速4キロで毎日8時間歩くとして30日弱
ただ直線距離での計算でな
昔の人なら時速6キロくらいでも歩き続けられるかもしれないので多少の蛇行なら1月で着けるかと >>365
魏略には太白の後(呉)、夏后少康之子(越)と書かれているのに
魏志では太白の後(呉)を削っている
より南の地域だとミスリードさせるために呉のくだりを削ったのかも知れない >>369
大牟田らへんの土蜘蛛の姫は神功皇后に秒殺されてるので却下 だから邪馬台国まで12000里くらいなんだから畿内なんか行けないって
当時の人がいくら馬鹿でも足し算くらい出来るはw古代人馬鹿にし過ぎだろw
>>288
東日本はまともに貨幣経済すら浸透していなかった地域もあるくらい遅れていた
毛利をリストラされた川村孫兵衛が北上川を整備で大きな働きをしたように
西日本の土木技術は東日本のそれを大きくリードしていた。江戸中期に入ってもこれのリードは続いており
1742年寛保の洪水で河川の普請を担っていたのも毛利宗広(萩)、池田継政(岡山) 、細川宗孝(熊本) 、藤堂高豊(津)、阿部正福(福山)
仙石政辰(出石)、間部詮方(鯖江) 、伊東祐之(飫肥) 、稲葉泰通(臼杵)、京極高矩(丸亀) と西日本の諸大名ばかり 前スレの姫氏国に衝撃
そんな呼び方されるなんてよっぽどだぞ
そりゃ金印も鉄鏡も贈られるわ
連続性が有ったのか背乗りされたのかは兎も角、邪馬台国の外交ルートをそのまま使っていたのは確実かと
>>62
宗像三女神の原形って何処にあるんだろ
卑弥呼なんかよりよっぽど古いと思うけどな >>85
畿内説こそ根拠が欲しい段階だと思うのだが・・・
もっと頑張れ!相当旗色悪いぞ!! >>378
真っ暗闇に、墨汁を浴びたカラスの状態! >>378
畿内説が旗色悪いとかどんだけ無学なんだよw だいたい東夷伝の中に一部倭についての一部下りがあるだけなのに
大して精密な情報があるとは思えん。陳寿も自分で旅行したわけでもあるまい。
こんなに時間をかけて狭い北部九州のどこであるかも比定できない程度の情報なんだから、
あまり没頭すると偏った味方に固定されてしまう。さっさと物証探しを始めたほうが
ええで。
別府より九州東岸なら普通に宮崎の方がそれっぽい
西都原古墳とかあるし
宇佐八幡があるからな
一概に嘘とも言えない
地形的に見て住みやすい場所でもある
卑弥呼さんも温泉があるところがいいよね
水道とか無くて風呂も入れないとか不便だよ
>>382
日向は伝説も色々あるし遺跡もあるんだが
何らかの国があったのは間違いないんだがな
神武東征の地もある >>385
高千穂(天岩戸)もあるしね
宮崎が一番それっぽい 教科書にあった畿内説の根拠が
畿内は九州と鉄の取り合いしてたに違いない
↓
九州に対抗するため本州で手を取り合ったに違いない
↓
これこそ邪馬台国連合に違いない
で眩暈がしたわ
畿内説はホロン部持ってるからな
いわゆる印象操作部隊だよ
壱岐住民の南北市櫂を無視して東へ流されればどざえもんになる。
別府説はその典型。
倭国に上陸後、第一歩の方角を間違って踏み出せば、ミイラ取りがミイラになる。
畿内説はその典型。
邪馬台国は朝鮮から渡来してきた弥生人が作った国だからなw
邪馬台国が宮崎なら水行10日、陸行1月で辻褄があう
狗奴国には隼人がいる
これはこれで面白い
>>311
バカですか
当時は今とは違ってまともな道路がありません 畿内説は、日本の都は近畿にあるべきという関西人(京都大学)の信念に基づいている。
>>391
弥生人は直接的には縄文人と北京人のミックス
その上、江南地方の下戸遺伝子も持ってる
下戸遺伝子は相当古い時代に混じって、その後からさらに北京人とミックスしたのだろうか? >>395
邪馬台国の描写は明らかに南方系海洋民族の末裔っぽい
少なくとも畿内で栄える渡来人系(弥生人系)の風俗・文化形態ではないね
シャーマニズムと女王という前提も朝鮮経由の大陸渡来人(弥生系)にはない
明らかに南方系
畿内説はこの点で大いに無理があるだろ >>357
その曽根って糸島市曽根のことだろ。
平原のすぐ南接で、それは呼子から見て殆ど真東だ。東南東ですらないぞ。言い訳にもほどがある。 歴史認識の印象操作は犯罪です
◆畿内派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
◆畿内説の反論「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
◆客観的見解
・要するに古墳建造を終えたので、土木事務所を取り壊し、解散パーティを開催した痕跡である
・纏向遺跡は古墳造営基地局の跡地である 記紀に出てくる「筑紫日向」は今の宮崎じゃなくて福岡県日田市近辺の
ことだと思う。「筑紫」が九州全体を指すっていう話だけど、その頃の
九州と言えば九州北部だっただけのことだと思う。
卑弥呼の容姿は、エキゾチックな顔立ちのミクロネシア系だったと思うよ
弥生系ではない
●魏志倭人伝は、魏が呉を攻める為の使者の記録である
日本人が大好きな三國志。
魏志倭人伝は、歴史書・三國志の一部であり、
魏が呉と戦争をしている時代にかかれた。
魏が蜀を攻める時、南蛮に使者を送って背後から攻めさせたように、
魏が呉を攻める時、倭に使者を送って背後から攻めさせたようとした
魏志倭人伝とは、その使者が倭を訪れた記録である
●魏志倭人伝の倭国の場所は、東シナ海のど真ん中
魏志倭人伝に書かれている倭国の場所を文字通り解釈すると、
邪馬台国の場所は、東シナ海のど真ん中になってしまう
何もない海の上であり、「こんなはずはない!」と思った人は数知れず
様々な独自解釈を生み出し、様々な場所を邪馬台国と比定した
しかし、魏志倭人伝に書かれている倭国の場所はそれで合っている
倭を訪れた使者は、あえて、そのように場所を偽って報告書を書いた
呉を攻める目的が無ければ、わざわざ魏が倭に使者を送るわけない
ところが実際に訪れてみると、呉を背後から攻めるには遠すぎた
これを正直に報告してしまうと、計画立案者の高官メンツを潰してしまう
そこで使者は一計を案じ、場所は想定通りの東シナ海沖ということにし
倭人は温厚で呉に戦争をふっかける様な人達ではない、と報告した
それが、魏志倭人伝である
魏志倭人伝をいくら読もうが、邪馬台国の正しい場所は分からないのだ
>>386
神話の施設があるって、むしろ後世のでっち上げだとしか
思えないけど。 >>386
今の高千穂は明治時代くらいに国粋主義の学者がここしかないって思い込みで付けた名前じゃないっけ? 利害関係のない第三者の国の史書を根拠もなく貶めることしか反論がないのが畿内説
そもそも出雲の複数の旧家、ヒボコに嫁をやった神床家も畿内説とってるのによww
魏志倭人伝に血の池地獄って書いてあるなら認めてやる
ソビエト委員会「魏鬼のソビエト委員会」が日本ではロシアソビエト革命で北から来たからだろうが、
>>393
お前の方が頭おかしいわww
冗談って気が付かんのかw ところが「ソビエト」とはロシアソビエト革命だけにあらず、南洋中国東南アジア
インドネシアフィリピにゃちょっと遠いがインドセイロンなどアジア世界のあちことにある
「呉」委員会は揚子江和爾ワニの白揚子江ワニは朝鮮楚辺と池田大作そうか学会に無視されてたし
もっと南の雲南四川省の蜀の四川のフランスケ小平周恩来フランス留学はもよろしくね
畿内説が無理やりすぎてまったく信ぴょう性がないことは知ってる
>>406
高千穂神社という日本で最も古い神社(1900年前創建説が有力)
があるから明治なんてずっと後だろw 纏向遺跡で最近九州式土器が発見され、登美家の三輪山の霊璽あたりまでその影響が分かってきたから邪馬台国論が出たんだよね
登美の霊璽は所謂邪馬台国の豊国とタジマノモリ、物部の連合に占領されてたから、その関係で磯城登美家は霊璽を移した。
だから奈良には三輪山の遥拝所である霊璽が二つに増えたんだよ。
倭人伝の伝える景初二年だか以降が邪馬台国の大和占領だよ。
記紀にかかれた神武東征を軸とする奴には永久に答えに辿りつくことはないし、今後も九州説を裏付けるようなものしか出てこないよ
記紀原理主義
倭人伝原理主義
二箇所ある説唱える。
>>395
しょぼかった邪馬台国と違って巨大な力持ってる大和政権が有るってんなら納得しそうだけどなぁ
当時の文献として中国に使者出してるってのが許せんってのはあるかもな 九州説ってもうこういう素人さんしかいなくなったよな?
>>413
ウィキにも書いてあった、
20年以上前に読んだ情報覚えてる俺の記憶力良すぎ
>古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)現社名に改称した。 ヤマト政権とか捏造やめろや
九州に比べて文化水準の低い原始的集落だろ
>>6
まあニホンザルが温泉に入ってるくらいだからな。 よく畿内説から、魏は列島を南北に長く伸びてる認識だったという言い方がされるけど間違ってるよな
魏志からは、半島含めて東夷世界は南北と東西それぞれ実際の5、6倍、面積にして25倍から36倍と認識していた、と読み取るべきだ
でないと畿内説も短里を認めることになる
そして日数はこのスケール感の中での数字だということ
そもそもヤマタイコクじゃないからな。
ヤマトコクだよ。
で神武東征よりはるか後の事だしな。もう九州説には無理があるんだよ。
>>414
改行入れて読みやすく書いてるつもりだろうけど、日本語の能力的に何を言おうとしてるのかさっぱりだわ 魏志倭人伝にのってる他の話では距離方角は正しいの?
昔から中国、朝鮮人はねつ造が好きだからねえ〜。
魏志倭人伝なんかも相当にねつ造されていると見たほうがいい。
そのまま解読すると別府どころか太平洋のかなたに出てしまうよ。
そこで研究者たちは当時と今とでは測量に違いあったとこじつけた。
無理やりあっちだ、こっちだとのたまいている。別府説もすでに謂われた
範疇だ。当時はいまのような温泉町など存在するわけがない。
なのでこのおっさんの説ももっともらしいがなんだかねぇ〜?。ww
>>426
そもそも現存する魏志倭人伝とか存在しないからな。
全部、後年の写しだよ。だから誤字表記だらけってことだよ。 火山灰の下に邪馬台国の遺構が埋まってるのか
ロマンがあるな
>>419
まあ俺も神武は卑弥呼の邪馬台国の中では傍系の家系で
食い詰めてか刺激求めてかで東征したんだと思うわ
ま、実在してればね
実在してないとしたら物部あたりの創作だな >>428
そんなこと言ったら記紀も同じ。原本なんて存在しない。写本のみ >>430
おまえの言ってることは無理があんだよ。
神武東征時の地名はそのまま残ってるよ。
盾津とか山のふもとなのにそこが海だったって昔の人間が知るすべとかないだろ。 >>424
扶余語で「(偉い人の)村」を「アスカ」
「国」を「ナラ」と言う
扶余が奈良に来るまで、奈良は「奈良」でもなく
神武が畿内入りするまで「大和」でも無かったんだよ ●邪馬台国=ヤマト国=出雲王朝である
倭人とは正しくは和人であり、正しくはヤマト人と発音する
大和とかいてヤマトと発音するのもこれが由来である
ヤマト人が住む国の名前をヤマト国と言い
その当て字を邪馬台国と書く
即ち、邪馬台国=ヤマト国=和の国=倭の国である
さて、ヤマト国(邪馬台国)がどこにあったかといえば、
それは今でいう出雲王朝に他ならない
●九州王朝(女王国)と出雲王朝の連合国家がヤマト国
日本人の遺伝的ルーツ、民族集団の母体は九州王朝に端を発する。
さらに遡れば、長江文明に端を発する由緒正しい民族なのだが、
北方から漢民族がやってきて滅ぼされ、各地に散らばった
その難民の一部が台湾、沖縄と島を伝って九州に辿り着いた
長江文明は稲作技術をもつ農耕集団であったので
お米の高い生産能力のお陰で繁栄し、部落がいくつも出来た
●出雲王朝のルーツは匈奴
中国大陸は、昔も今も、漢民族と周辺異民族との戦争が絶えない
漢民族が負ける時もあれば、異民族も負けることもあり、
漢民族の謀略で異民族どうしが戦争するときもある
そうした戦争で敗れた北方騎馬民族・匈奴が、朝鮮半島を経由して、
出雲に辿り着き、クニをつくった
北方騎馬民族は、文明を知らない野蛮人のように誤解されているが、
それは漢民族の罵詈雑言であり、じつは、製鉄技術を持つ文明人である
>>431
だよな。
1100年ごろが最古?
だから卑弥呼の墳丘に
当時の様子を書いた竹簡など出土したら凄いよ。 >>391
渡来人=弥生人 が誤り
だし
渡来人が日本を作ったってのも誤りだ。
日本人の源となったのは中国東南部から船でやって着た人々だ。
日本から朝鮮半島へ人々が移り住んだ。
半島は日本の物、日本の一部だった。
福岡と朝鮮は頻繁に行き来してたと思われる >>436
だからもうその話は江戸時代に確定してんだよ。
よみはヤマトコクで間違いないって。 小中学校の歴史で習う
朝鮮半島から優れた渡来人がやって来て稲作・仏教その他技術を伝えた
ってのがアメリカがこしらえた捏造歴史
韓国人を介して日本を間接支配する一環
>>12
なにを考えているんだかw
キチガイ@阿波 >>273
当時の魏は銅が枯渇しており貨幣もろくに作れなかった
銅鏡が大量に出てきたならそれはその時代のものではない
魏では代替品の鉄鏡が使用されていたので、その鉄鏡が出てきた事の意味の方が遥かに高い >>431
だから書き写しの間違い部分を言ってみろよ? >>433
前出の「高千穂神社」よろしく、明治期に天皇家の権威づけのために国粋学者どもが日本中の寺を神社にし
地名のロンダリングも行ってるので、日本書紀まんまの地名があると言ってそのまま信じるのは素人だからな >>239
>「邪馬壹(壱)国」であり当時の中国語である呉語では「シャマイ」国と読みます。
なるほど
じゃあ、語感的にはその「しゃまい」って発音に近い国が、実際の邪馬台国の名称だったんだろうな
シャマイに語感の近い地名を探そうぜw 大きいクニがあった、でも火山活動で痕跡が見つからない?
それでも近辺に邪馬台国に従属してたとみられるムラの遺跡くらいはあるだろう
ないのか?
ただの妄想じゃねーかw
>>442
そいつキチガイだから嬲って遊ぶくらいでいいと思うよw >>444
だから明治以前からその地名なのにおまえばかなのか? 糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の中心近くに細石神社の「さざれ石」、
細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と
呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社(現在は若宮神社)には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ
極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのもの
が神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っている
>>446
ないよ。大化改新?地名変更あるからね。
摂津、淡路、出雲とか二文字にしている。
卑弥呼の痕跡を消したかった? >>451
当時からシャーマンと呼んでいたとしたら驚きだなw >>430
まあ移住というか分家、殖民だろうね
分家がでかくなって本家を飲み込んだ
出雲の国譲りなんてヤマトが出雲を攻めて降伏させて、降伏条件が大国主の出家ってだけだろうしな 予感が的中したw
シャマイは古代ヘブライ語で「我が居留地」って意味だ
鳥肌立ったわwww
卑弥呼は今でいうシャーマンだからねw
シャーマンの国=シャマイ国=邪馬壱国
「別府」という地名が指す意味を知ってれば
こんな世迷い言は出ないと思うが…
古代に蝦夷なんかの俘虜を悪い土地に住まわせたのが由来だし
そんなとこに強固な氏族社会が形成されるわけがない
>>426
魏志倭人伝と魏志韓伝だけ距離感がおかしい。
魏志東沃沮伝では朝鮮半島の根本からウラジオストク辺りまでにあった、東沃沮について書かれているが
東西に細長く千里あると書かれてるけど大体400km位で、距離感はあってる。
魏志倭人伝も魏略からの転機だろうし、魏略がおかしいんだろうけど。 新羅の建国神話に倭人が出てきたり
4代目が倭人だったり
海の向こうから貴種がやってくるのはそんなに古代人のロマンなのか
>>452
バカかお前
俺が言ってるのは明治期に天皇家の権威付けのために
西日本中に日本書紀にある地名を付けて回ったバカ学者がいるってことが要点だろうが >>451
いや、だから「邪馬臺国」表記の方が古くて「邪馬壹國」表記の物は11世紀以前の物にはないから書き間違いだって話だよ。 >>466
だから、神武東征の地名がずっと使われてるのに、どうやってあとから付けたとか寝言を言ってんだよ。
お前まじでバカだよな。 >>464
どうせ在日のチョンバイトが必死に九州説を言ってるのが目に見えてるよ。 >>459
琉球以前に九州・沖縄の広範囲に連合国があった
元々九州あってその後沖縄に逃げて文化が残る?
その後、琉球三山時代に入るか? >>467
魏志倭人伝には臺と壹の両方が記載されているぞw
読み方違うからw >>468
一番最初に俺が言った高千穂が代表例だろうがバーカ 卑弥呼=シャーマン で統合失調症だからな
古代は、統合失調症も存在意義があったんだよ。
>>461
高句麗伝には方ニ千里とある 1000km四方だとでかすぎる ●九州王朝は北方異民族・鮮卑の支配に苦しんでいた
匈奴よりも前に、大陸から日本へやってきた北方騎馬民族に
胡(エビス)、鮮卑(センピ)がいる
エビスは友好的で温厚な民族であり、九州王朝に文明を与えた
いまでもエビス様、エビス大黒としてあがめられている
しかし、鮮卑(センピ)は災いをもたらした蛮族であった
略奪、強姦などを繰り返し、九州王朝の人々を苦しめた
●ヤマタノオロチ退治は、匈奴と鮮卑の戦いである
そうした時代が続いたのち、大陸から匈奴がやってくる
匈奴と鮮卑は中国大陸での仇敵同士であり、
匈奴は鮮卑と戦って、九州王朝を助けた
これが俗にいう、ヤマタノオロチ退治である
匈奴の王をスサノオと言い、九州王朝(女王国)と和合して
1つの巨大な連合国を作った。それが、和国(=倭国)である
●ヤマト国=邪馬台国=出雲王朝が誕生
匈奴は、鮮卑を易々と倒すほどの先進的な大陸文明を持ち、
おのずと主導権を得て、ヤマト国の首都は出雲地方におかれた
年に一度、秋の収穫が終わった頃、様々なクニの代表が出雲に訪れ
様々に話し合い、利害対立の解消をして、友好の絆を深めた
それが神在月・神無月、縁結び神話の由来である
>>471
どの写しを言ってんだよ?「邪馬壹國」表記の物は11世紀より前の物にはないよ。
5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」
7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」
三国志(魏志倭人伝)12世紀の宋代の紹興本 「邪馬壹國」 >>467
7世紀に書かれた後漢書注(李賢)には「邪摩惟(ヤマイ)の訛りやろなあ」って書かれてる 狗邪韓国だっけ、墓はあるみたいだけど生まれ方が神話っぽい首露王の娘が卑弥呼説ってのもあるらしいね
これまた伝説ではあるけど首露王の嫁はDNA鑑定でもインドの王女みたいだし
胡散臭いと言われてる日本語のタミル語起源説ともなんか被る気がする
>>472
だから明治以前からある地名はどうすんだって言ってんだよ。 >>413
>ウィキにも書いてあった、
>古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)現社名に改称した。
この地を治めた「三田井氏」の起こりは古い、平安のころまで遡る。
「三田井」の名は、眞名井もしくは馬臺(邪馬臺)と同じ語源だろうな。 邪馬台国 宇佐説を言い出したのは推理小説作家の松本清張 その後高木彬光も宇佐説を言い出したので本を買って読んでみたらひどい内容だった 宇佐神宮の比売大神を卑弥呼と頭から決めつけているから邪馬台国をどうしても宇佐に結びつけようとするあまりでたらめな方角にしていたから呆れてしまったよ
>>481
熊本の山鹿だと場所的にも合いそうだけどどうなんだろうね 邪馬台国以外にも国名があるから
推定できないもんかな。
信頼生に疑問あるが、新羅の文献に
丹波の国から西の方角にある記述。
はじめての方へ
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
参考:
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長が間違いに気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている >>466
>西日本中に日本書紀にある地名を付けて回ったバカ学者がいるってことが要点だろうが
出雲神社も同じ。 @阿波 >>442
@中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になったという見解をとる研究者もいる
実際、華北においても銅鏡は製作されていたので、どこまで銅不足に落ちっていたか不明
A鏡は伝世があるから遺跡の年代推定ではそれだけを根拠にしていない
主に土器編年や古墳の形式による
3世紀後半の遺跡から出土するなら、銅鏡製作はそれより前なのは当たり前
B魏の時代の鉄鏡は日本では出土していない
古物商の言い分に信憑性なし 高千穂については、宮崎ー鹿児島県境にも高千穂の峰と高千穂河原というのがある。
これが薩摩がつけた新しい高千穂だ。
邪馬台国なんて本当に存在したかどうかも怪しいのに
バカバカしい
>>476
『後漢書』『梁書』も写しだからそんなには古くないよ >>472
>一番最初に俺が言った高千穂が代表例だろうがバーカ
高千穂は天降(あまくだ)った所なんだから、少なくとも高い山地ではなく、麓・平地である。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川中流域(穴吹・阿波町) @阿波 >>450
おまえは罵ることしかできないしな
知識もなく、嘘をつくだけ そもそも「高千穂」とか「天岩戸」って神話の話で
それより時代がはるか後の大和王朝を築いた神武の話とは別に考えないと意味ないだろ。
>>474
高句麗も3世紀には未だ小国だね
東夷伝全体が1里80mくらいで書かれてますね。 >>486
論破された内容のコピペを何度も貼るなよ?
こういうところ在日業者臭いんだよ。 奴国は2万戸 投馬国は5万戸 邪馬台国は7万戸の家があるから家の数に比例した平野の広さがなければいけない そうなると邪馬台国は九州で1番広い平野 部にあったと言うことが分かる
はじめての方へ
【基礎知識2】
〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
〜 中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置 〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
倭人伝における女王国視点の記述からすると、その位置は「北・東・南」以外すなわち西=九州島となる
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
※1里=約70m >>497
チョンさんこんにちは
下図の丸で囲まれた範囲がヤマト政権=狗奴国とも考えられる。
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
参考)
DNAの違い
>>498
だから邪馬臺国の時代が紀元前だとそういう考え方が正しいかもしれないけど
西暦200〜300年の巨大古墳の時代のすぐ前の時代だから九州説とかあり得ないんだよ。 >>500
ほらなこうやってバカみたいなコピペを貼ってチョンと日本と関係づけようと必死だろ? >>496
周計算径だけ?
間違いと言うが、実際の検分と
差を補足すれば近い数値に置き換えられそう。
そういうサイト探してみる。 卑弥呼時代の倭国には馬は居なかったと記されています
魏志倭人伝より:『其地無牛「馬」虎豹羊鵲』
■箸墓古墳で馬具出土
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
■参考
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
・馬具研究史より
『樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。』
中国で鐙が開発された頃、奈良ではすでに鐙が捨てられていたと言い張る畿内教信者w
ヤマタイ国は岩手県にあった、なぜなら、八幡平
ってどっかの本で読んだ。著者は明石散人だったかな
>>501
巨大古墳と邪馬台国がいつの間にセットになったんだ?
まず殉葬100人の墓を探そう >>502
科学的事実を無視して妄想を史実と呼ぶ畿内説の方ですか?
知ってますよ、奥山って人w >>498
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州に、「広い平野部」などあっても無用の長物! わははははは @阿波 当時は大陸から近いところが栄えるのは当たり前だわな
●ヤマト国=出雲王朝は朝鮮半島を支配
製鉄技術を持つ匈奴と、農耕技術を持つ九州王朝が和合して
ヤマト国=出雲王朝は大いに繁栄した
匈奴は、大陸から朝鮮半島を経由して日本にやってきた時、
朝鮮半島の砂鉄に目をつけていた
出雲王朝ができ、大いに繁栄して強大な国力が得られると
すぐさま勢力圏を朝鮮半島に拡大し、ヤマト国の領土とした
朝鮮半島に古代日本の痕跡があるのはそれが理由である
「スサノオは朝鮮半島からやってきた」とかいう人がいるが
朝鮮半島は日本の領土だったのだから、痕跡があって当たり前だ
●白村江の戦いで出雲王朝は惨敗する
ヤマト国=出雲王朝が出来て数百年。
古代日本は大いに繁栄し、一時代を築いていたが、、、、
ある日突然、終わりを迎える
朝鮮半島は日本の領土だったのだが、
当時の中華帝国・唐が朝鮮半島に侵攻を開始する。
新羅・高句麗・百済の朝鮮半島の内乱のように思われているが
その実態は日本(ヤマト国) vs. 中国(唐) の領土戦争である
だからこそ、日本は全軍を朝鮮半島に出兵したのだ
しかし、日本は大敗する
全軍がほぼ全滅してしまったため、抵抗することも出来ず
中国(唐)は易々と出雲王朝に侵攻し、出雲王朝を滅ぼした
そもそもなんで右翼に朝鮮人が入り込むのか不思議でならない
朝鮮人右翼が畿内説にこだわる理由もまた謎
どこか確定させないままのほうがロマンがあるね
確定すると大嘘つきが大量発生しちゃう
>>498
7万戸(その一つ一つの家に何人も住んでる)も持てる大都市自体が当時の日本にないです ●国譲り神話は、出雲王朝が滅ぼされた話である
天津神が高天ヶ原からやってきて
国津神(出雲)に国を譲れとせまった
国津神ははじめ難色を示したものの、
最後は相撲を取って決着をつけた
勝ったのは天津神であり
国津神は国を譲ることにした
国津神は立派なお社を建ててくれと天津神に頼んだ
天津神はそれを受け入れ、さらにこう言った
国津神よ、あなた達は死者の国を治めよ
天津神はこの現世を治めることにする
妙にホンワカしたお伽噺風になっているがこれは
・外国から武力侵攻を受けて出雲王朝は大敗
・日本の統治権(王権)は外国の進駐軍のものになり
・出雲王朝の一族郎党は虐殺され死者の国に送られた
ということを示している。「国譲り」とは正しくは「禅譲」なのだ。
禅譲とは、中国で王朝が交代するときに行われるもので
戦争に勝った側が負けた側に王権を譲らせる屈辱的な義式である
三國志にも禅譲によって漢の皇帝(献帝)が曹否に禅譲させられた話がある
魏志倭人伝とは三國志の一部であったことをおもいだそう
これが当時の流儀なのだ
>>514
災害が多いから見つかりにくいかも?
後は文献しかない。 >>512
朝鮮歴史改変部隊がヤマト王権(天皇家)と邪馬台国を関連付け、仕上げに日本の起源はチョンだったと結論付ける作戦でしょう >>516
多分、こういう巨大な国家さえ
魏の権力が及ぶと誇張かも?実際は1/5とか? >>520
ヤマト王権からは連続するかもしれないが
魏志倭人伝の邪馬台国とつなげるにはちと厳しい >>519
逆じゃないの?
邪馬臺国→大和王権→大和朝廷
どこにチョン入り込むすきがあるんだよ。
どうも半島に近いからという理由だけの九州説の方がチョン丸出しだろ。 >>518
そんな災害の多い九州でも弥生遺跡が大量に発見されるというのに奈良は。。。
◆纏向センター
『 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の
特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、
数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。』
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」 >>524
だから古墳時代の前(卑弥呼の時代)にも奈良に政権が存在してるのが確定してんだから今さら九州説とか無理がありすぎなんだよ。 >>525
マジレスしとくけど、お前知識浅すぎて話にならんぞ >>525
半島や中国の開拓民引き連れて
神武が開拓とか?
で国の始まりは、淡路島。 ID:2t15BIj60
この粘着質な人って鮮人?こわい
出雲大社の千家家とかは秘密の文書とか持ってないんだろうか
昔からある家にはなんか手がかりありそうなもんだけどな
まぁ持ってたところで門外不出だろうけど
>>528
句読点がつかえないお前は知識とか言うなよ?(笑) >>531
あってもいいじゃないか?
邪馬台国とは別もんでね。 >>527
逆だろ?
白村江の戦いに惨敗した九州の王朝を破って全国制覇したのが奈良王朝。 >>530
ID貼る出すとかおまえいつの工作してんだよ? ●古代の日本=ヤマト国は、一度滅んでいる
ヤマト国は白村江の戦いで大敗し、唐の進駐軍に支配された
分かりやすく言うと、大日本帝国が太平洋戦争でアメリカに大敗し、
GHQの支配下に入ったのと同じことが大昔にも起きていたのだ
GHQが教科書を書き換えたようにして
唐の指導で日本書紀、古事記が作られた
GHQが日本国憲法を作ったようにして
唐の指導で大宝律令が制定された
当時の唐の指導者が則天武后であり、
当時の日本の天皇は天武天皇なのは偶然ではない
そもそも「天皇」という制度さえ、この時に作られたのだ
しかし、そうしている間に則天武后が失脚し、唐が滅ぶ
帰る場所をうしなった唐の進駐軍はそのまま日本に居続けることにし
ヤマト朝廷として政治権力を掌握し、数百年の間、日本を支配した
ヤマト国(邪馬台国)とヤマト朝廷は別物である
>>537
え?最終的にはファンタジーに逃げるのかよ? 邪馬台国は「大和の国」
卑弥呼は「姫巫女」で女性天皇を表している
>>527
倭の五王の時代に東西の国々を潰して回ってるからなあ >>534
弥生時代がどこかで終わり、古墳時代が始まったというのが畿内説のコンセプトだが、遺構や遺物は弥生時代と古墳時代が並行して進展している
つまり複数の文化圏が共存していたということだ
邪馬台国→「銅矛文化圏=九州〜出雲」は弥生文化=鉄器文化が発展し、
狗奴国→「銅鐸文化圏=吉備〜近畿〜東海」は巨大古墳文化を発展させた 縄文系からすれば雨ごい利権で幅利かせてる卑弥呼は邪道だったに違いない
>>524
卑弥呼は、古墳が定型化される前の纒向型前方後円墳の時期
台与あるいは西晋への朝貢は、定型化された前方後円墳ができた時期
定型化前も定型化された前方後円墳も、同一勢力による政治連合とみなされる
そして、この勢力が魏と交流していた考古遺物もある
したがって、この勢力を邪馬台国とみなすのが最も妥当 投馬国が大阪辺りっていうなら有りだろうが邪馬台国が畿内ってのはまず考えられない
>>548
そこまで言い張るなら邪馬台国は吉備にあったということで良さげ >>506
すでにその記述から卑弥呼の時代は古墳時代になってんだよ。
で日本の遺跡調査では奈良にその時代の古墳群があるというのが確定してるから
もう九州説とか間抜けなファンタジーでしかないんだよ。 >>547
鬼道?
奈良で桃の種発見し祭司(邪鬼を払う)?
相反するから別もんだね。 >>540
半島南部に騎馬民族が終結していた痕跡があった
そして同時期に畿内に朝鮮式文化が流入している
だからGHQは騎馬民族がヤマトだと勘違いしていた
いずれにせよ邪馬台国には馬はいなかったので他国の話だが 今日も畿内派は苦しそうだな
掘り下げられると辛くなるのは悲しい
>>541>>542
え?
白村江はどこからどう見ても史実だよ? 「呉」王朝だって「魏」王朝だって、互いに連続性のないいくつもの王家が名乗ってる(だよね?)んだから、「ヤマト」だって直接の後継でなく名乗った可能性はあるな
>>548
中国の史書には葬祭について詳しく記載されているが、そこで女王は登場しない
つまり女王と祭祀は無関係 >>550
前方後円墳の分布は吉備が中心ではない
魏との交流を示す考古遺物の分布も吉備が中心ではない >>551
単純に境目に幅を作っただけ。
墳丘の延長線上に巨大化と前方後円墳あるだけだよ >>557
邪馬臺をヤマトと読むのが無理なんだよね。
昔でもヤマダイだろ。
朝鮮だと濁音がなかったりするかもしれないけど。 >>559
白村江が史実じゃない?
そういう人ははじめてだw >>561
だから古墳の形ではないよ。
既に弥生時代では無いって話だよ。 >>438
それ弥生人な
縄文人はもっと昔から日本に居る >>565
だからお前はマンガ日本史からでも読み直せよ? >>474
じゃあ、倭人伝、韓伝、高句麗伝が距離感狂ってるね。 どこでもよくないですか?日本人はみんな半島から来たんだからさ
韓国兄さんてのは間違いじゃないんだよ
>>569
もしかすると三国志全体が短里で書かれてるのかもしれないね。 前方後円墳は前方後方墳の後継であり、古墳の起源は奈良とは言えない
>>571
これが九州説を唱えてた奴の末路だよ。
白村江の戦い 663年
大化の改新 645年
最初から九州説とか無理げーでもうチョンが寝言こいてるだけになってるよ。 >>570
そこまであったけ?100歩とあるが
解釈はいろいろ。 >>576
だから、ヤマト王朝と白村江を戦った王朝は別だと言ってるんだよ?w >>570
前方後円墳の前方部を祭壇、後円部を墓とみなせば、魏志倭人伝の記述と一致する
実際、初期の頃の埋葬施設は後円部のみ 邪馬台国から実在の天皇(大王)が朝廷を開くまで300年もの空白があるのはおかしいもんな。
邪馬台国は温泉の看板で、卑弥呼は温泉花魁と考えた方がいいのでは?
当時の中国の人は、温泉と卑弥呼の気持ちよさに浮かれて日記の様な書物を残した・・・
おかしくないだろ?
>>562
中国語には清音と濁音の区別が無い。
この両者は、短時間にくるくるかわる。
表音文字じゃないので子音の固定すら緩い。
Pekin → Beijin (P→B K→J)
この音変化が100年掛からずに起きてる。 中国人が言う南京大虐殺は否定し邪馬台国の存在は肯定する日本人(笑)
>>572
遺伝学的にはそんな事実全くないしな。
その時代も半島は土人の未開の地だよ。
だから遣隋使も遣唐使も半島を経由せずに海を渡る方法の方が安全だったんだよ。 >>582
みなさければオジャンだな。
なんせ、発見されていないからどうにでもなる。 >>582
そんな無茶なw
魏の作者、あるいは日本の官僚がそこまでバカだと?w >>570
書かれてないよ
墓の大きさを表すのに「径」という文字を使ったので、円墳ではないかと想像されているだけ
ただ、前方後円墳は、その発生過程から考えると、もともと吉備の墓から発達した円形墳丘墓であって、
前方部は後になって付け足された祭祀場なので、主体部つまり墓の役割は後円部にあったのは間違いない
いずれにしても、わざわざ郡使が記録して、それを正史に残すくらいなのだから、かなり巨大な墳墓を見たか聞いたかした筈なのは確かだろう >>562
3世紀の日本語がどんなんだったかは全くわからないんで ●天照大御神は卑弥呼ではない。唐の女帝・則天武后である。
天照大御神のルーツ・モデルは九州王朝の女王・卑弥呼である、
と信じている日本人は多い
が、しかし、よく考えて欲しい
なぜ、太陽の神様が女なのか?
太陽と月(太陰)の神様に性別をわりあてるとき、
古今東西の文明、文化、占星術のほぼ全てにおいては
太陽=男、月(太陰)=女、である
女の生理を"月"と関連させて表現するのは日本だけではない
日本にも太陽神への信仰はあり、太陽の男神様を崇め奉っていた
だからこそ、それに奉仕するのは女性の巫女なのである
日の巫女(ヒミコ)は、神様と人間をつなぐ存在であり、神様ではない
白村江の戦いで大敗し、唐の進駐軍の様々な改革が行われた
その一部にはもちろん、GHQがやったように、宗教改革もあった
GHQは、天皇を頂点とする国家神道をやめさせたが、
天皇を頂点とする国家神道を創始したのは天武天皇であり、
天武天皇にそれをやらせたのは唐の女帝則天武后である
従来あった太陽神への信仰を利用し、
天照大御神という太陽神を頂点とする信仰体系を作り上げた
則天武后の幼名を"照"という
なんのことはない、天照大御神とは則天武后のことであり、
だからこそ、天照大御神は女神になったのである
日本神話においては天照大御神が姉、スサノオが弟の関係にあり
スサノオの乱暴狼藉に苦労し、天照大御神が弟の目を潰して追放する
スサノオとは、いうまでもなく出雲王朝の王のことである
なんのことはない、やっぱり、唐が出雲王朝を滅ぼした話なのである
文字が無かったのが痛いけど口伝すら残ってないの?
やっぱ災害などで一族郎党死滅しちゃったんだろうか
>>557
呉の末裔で姫姓称したりな これ春秋の呉が周文王の叔父の末裔自称したからやし
ガチなら日清の百福はんはドえらい由緒正しい一族て事になりますな >>591
他の史書などを参考にすると、径というのは直系を表してることに間違いはない。 別府は邪馬台国の時代からはかなり地形が変わってるよね
遺物とか発見できるんだろか
山体崩壊が起きたり
島が一夜にして沈んだり
いろいろスゴイところだよね
>>598
チョンはマンガで十分だろ?
日本語もいまいち理解してないんだし。 >>589
そういうレスを返すのは、前方後円墳が鍵形の墓だと思い込んでる固定観念があるからだろだろ?
そもそも前方後円墳のルーツは円形の墓に突出部がついたもの >>599
沈だ島もあるだろうな。
四国とつながっていたかも? 名前だけからみると、別府も重要な豪族がいた地域だろう。
大宰府という名前は、いかにも中心的な地域であるように読めるね。
>>595
卑弥呼の墓が発見され
竹簡が出土されることを願う。 >>601
だからルーツであれ何であれ、卑弥呼の墓は円墳と書かれている。
もし卑弥呼が古墳時代であるとすれば、他の古墳と同等以上であるしかないから、大和周辺には比定できる古墳がない、ということだよ。 >>553
考古学で分かることは、半島の弥生人は馬を持っていたが、
縄文人は渡来する弥生人に馬の輸入を禁止していたこと。
危険な軍事物資だからな。
魏志倭人伝では、倭国に牛馬がいないと記されており、
列島に定着した弥生人も、引き続き馬輸入を禁じたようだ。
もっとも、この記述が正しいかはわからん。奈良が大乱で
負かした邪馬台から馬を全て奪った可能性はある。
だが、4世紀半島に進出した大和朝廷が、5世紀当初に
高句麗にボロ負けしたことを見ると、騎馬兵力に差があった
可能性は大いにあり、魏志倭人伝の記述は正しいのかも。 >>595
記紀には、それまでの史書はすべて焼却されたと書いてあるね。
だれが焼却したかは知らないけど。 専門家の間では吉野ヶ里で決着してんだろ?
大人の事情でわからないということにしているだけで。
それでいいと思う。
猿、鹿、熊、猪、犬、狼の記述もない。
発見出来ず?
>>608
あんたの固定観念をいくら繰り返しても反論にならない 元寇の時、朝鮮半島南部から元軍船団が出発して2日後に対馬に到着してる。
波の高さや風向きにもよるだろうけど、さらに遡る時代の船で狗邪韓から対馬、壱岐島を経て九州本土にたどり着くまでは3〜4日かかったのではないかな?
そうすると帯方郡から九州本土まで水行で10日、そこから邪馬台まで陸を歩きひと月で筑後平野辺りまで到達するというのは有り得なくもない。
投馬は九州本土に着いてから陸に上がらずそのまま船でさらに10日ほど進んだ大分辺りと考えればどうだろうか。
>>616
中国の史書で径の用例を調べてごらんよw 仮に九州に邪馬台国が有ったと仮定して、それは何処なのだろうか?
ここを口籠る九州論者は多い。
比定でき得る遺跡がらないからだ。
そして、畿内大和朝廷の存在を九州論者はどう説明するのだろうか?
ここも九州論者が口籠る所だ。
>>597
そんなことはどうでもよくて、
要は、三世紀第二・第三四半世紀頃の巨大な円墳など九州にも畿内にも存在しないということだよ
ただ、その時代以前の円形墳丘墓はいまのところ播磨と四国にのみ存在するのみ
そしてそれらが楯築遺跡中円双方墳などを経て前方後円墳に発達してゆくわけだ >>618
畿内説も円墳説だった事を知らないのか? >>617
投馬国が大分だと言う論拠、他に有りますか?例えば地名とか。
地名は重要です。
千年ぐらいでは簡単には変わらないから。
古文書に出てる地名を調べれば大体比定できる。 >>621
近畿ヤマトは東に海を渡ったところにある倭人のうちのひとつでいんでない? >>617
まあ、戦争だから状況が違うと思う。
使者で荷物も多い、安全策をとるから長くなるし
接待漬けだろな。あるいは、食料、みずの確保も
あるから、調査しながらもあるだろう。 口ごもらずに「箸墓」と答えられる鉄面皮を身に付けたい
>>28
奴国、伊都国の位置関係は良いが、邪馬台国を小さくしすぎ。
地政学で考えれば、邪馬台は日田に起こり筑紫平野一帯を支配。
海幸彦・山幸彦の神話から分かる史実は、その後、半島に渡り
半島倭人や漢人に政治工作、港の支配者宗像を軍門に下したこと。
つまり、大宰府を挟んで、博多平野側と筑紫平野側は新旧の別が
あった。由緒正しき旧邪馬台国を言う場合、>>28の地図に示
された領域だけでなく、筑紫平野一体と日田盆地までを含む。 >>621
邪馬台国とヤマト政権が100年離れていると考えられてた頃の論法をいまだに展開してるんだよな
九州説は昭和時代の遺物 >>621
>畿内大和朝廷の存在を九州論者はどう説明するのだろうか?
3世紀以降の奈良盆地に居た事が確認出来るのは、
吉備政権、東海伊勢政権、渡来人
昭和天皇は百済のことを兄弟と表現していた >>631
いや、重なる時期と見ている
奈良大和の台頭。 とりあえず、中国、台湾の学者や研究者はどこって言ってるわけ?w
それが答えじゃね?
>>573
それはないよ。
魏志東沃沮伝では、千里が400km位になってるから大体あってる。 長里(長歩?)で百余歩の円墳なんてないよな
↓
前方部を含めた長さでいいんじゃね
↓
畿内説も円墳説だよ比定する必要もないよ←イマココ
>>626
纒向だろうけど、何も証拠はないね。
九州でもいろいろ説はあるけど証拠がないのは一緒。 >>634
中国人共通の解釈
北部九州一帯が邪馬台国とのこと >>635
東夷伝ではぜんぜん合わないね。
別の物差し? >>486
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
だからそれは紹煕写本といって、12世紀に写されたあたらしいものの場合だ。
それ以前の原本・写本の逸文と比べてみると、あちこちに表現の違うところがあって、
わざと手を加え、面白可笑しく仕上げたのではないかと思われるわけだ。臺→壱、斗→升。 >>644
だからさ。統一されていないて事。
魏志倭人伝だけかな? >>621
神武東征を考えたらどこかのタイミングで九州から奈良へ遷都しているんだぜ
別に九州説にとって畿内大和王朝の存在は都合が悪いわけではない >>644
あとは、統一で換算する前かも?
まあ、わからん。 >>648
東征とは思えぬ。
東海、吉備、渡来人等で神武中心に
開拓でないの?鉄器や九州土器が見当たらない。
あの残土処理が巨大古墳に繋がるとか?
台頭し九州の覇権を握るとか? >>625
そういうこと。新覇権国の奈良は、その中に隠されている。
隠されてて全然記述に出て来ないのかと思いきや、なんと!
地域を「大倭」を*使って*監督と書かれてる!!
「收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」
大倭って、4世紀に「大和」と改字した奈良のことだわな。
倭国大乱で、倭国が(←主語重要!)女王共立=男王禁止の
和議条件=覇権放棄と読み取れるが、権力無き権威に落ちた
邪馬台の実情、奈良に朝貢・交易を完全に管理されて、表向き
の倭国盟主として朝貢に出されてた邪馬台の悲哀が生々しく
書かれていた (涙
東沃沮の正確な大きさがわからないけども
短里とは言えないとしても長里とも言い難い微妙な距離感 >>621
>ここも九州論者が口籠る所だ。
口籠る人はいないよw
大和朝廷は未だ存在していなかったと考えてる。 >>648
神武東征は、倭人伝を読んだ古事記の編者が、宮崎あたりに邪馬台国があったと考え、「邪馬台国=大和」との整合性を
取るために大和へ東征したというねつ造を行ったのだろうと思っている
八世紀代での机上の想像ゆえに、軍事的にはまずありえないおかしな攻め方や、現実的にはありえないオカルト話も平気
で書かれているわけだ
それを写したであろう日本書紀は中国へ渡すこともその目的の一つだから、余計にその必要性があると考えただろうな
そもそも宮崎あたりからはもちろんのこと、九州から畿内に政権が移動したとする考古学的な証拠は弥生時代早期を除けば
何一つないからな >>652
東沃沮は小国、短里1000里の80kmくらいで短里だろ。 >>649
短里が実際に使われたのか、書物の上だけで存在するのかも、よくわからんからねー
明らかに一部の文献で一里の距離感が違う。
これは誰がなんと言おうと揺るぎ用がない。
>>652
東沃沮は半島根本の東側からだよ。
その更に東に北沃沮があるんだけど、それが今のウラジオストクあたりから。
朝鮮半島の根本の東の端から、ウラジオストクまでで420kmくらいになるので、距離感はあってるよ。 >>655
細長いかたちの細い方なら80kmくらいでぴったり
長い方なら250qくらいある感じ 王家の血筋の人達を必用に追って虐殺しまくってたからね
>>618
径・・・こみち、ちかみち。さしわたし。
径とは道のこと
近道の意味から最短、差し渡しの意味が生まれた 近畿の畿内論者も特に邪馬台国の所在地自体には拘りが無いように見える。
邪馬台国畿内論を掲げて単に大和王朝や畿内の歴史的真実の探求を続けたいだけじゃないのかな。
こっちだって纏向やその他史跡についてよく分かってるわけではないし。
前スレ最後の方の話から考えるに、畿内にはシナ大陸から来たシナ語を話す集団が多数いたんだろうな。彼らは畿内で独自の国や文化を持ってたのかもしれない。
そして九州の天皇家が征服した。天皇家自体が畿内に大規模な集団移住をしたけど、元からいたシナ語話者の数が多いから、神社とかの読みも音読みされることが多くて、それが残ったんだろな。
天皇家はおそらく後から朝鮮半島から渡ってきてシナ語話者とは異なる民族系統だったんだろう。
どちらも大陸から渡ってきた弥生人ではあるんだろうけどさ。おそらくその前にいたのが縄文人でさ。まぁ沖縄が縄文の血を強く残す土地でありながら、日本語の系統なのがこれだと不可解だが。
>>656
北沃沮も咸鏡道内ですよw
咸鏡道内に東沃沮も北沃沮あったから
短里1000里の80kmくらいでOKだよ。 >>648
文字や鉄器が関西で使われ始める5世紀くらいが東征の時期だと考えてる。 アイヌがそうだけど、狩猟採集民族は人口増加が難しいから、農耕民族の人口侵略で負けてしまうんだよな。アイヌはまた農耕自体好まなかったようだし。
大陸からの農耕民族の弥生人が断続的に入ってきて縄文人は少しずつ同化や融和したんだろう。沖縄が縄文の血が多いのは、農耕不適で、人口侵略が難しかったからだろな。だから、相対的に縄文の血が多く残った。
残虐なのはタルムード的考えなのかな
豊おばばが乗り移ってた
スピおばさんは周りの人間を犠牲にしていって沢山殺して本当に嬉しそうだった
飼い猫まで死んでも
所詮身代わりぐらいにしか思ってなかった
畿内には違う民族がそれなりの文化文明を持った国を作っていたのだろう。
天皇家がわざわざ征服して、かつ移住するのだから、魅力的だったに違いない。天皇家はその後東北まで征服したのに、畿内を離れなかったわけだし。おそらくある程度の都市基盤が整えられてたんだろな。
たぶん俺の家だと思う。
明日から観光業始めるかな。
魏志倭人伝には豊の国が出て来ないが、
豊の姫が出てきて邪馬台国の女王になっている事から考えて、
邪馬台国は後の豊の国を含む範囲で間違いないだろう。
しかも、長官、副長官が天皇家に関わる、
妻国の生目や御間城と来ている。
山門八女から、妻国の影響で、
豊の国宇佐辺りに遷都したという考え方も成り立つ。
>>664
魏志倭人伝を読むと、邪馬台は倭国大乱(2C末?)で負け
覇権喪失、しかも「大倭」が邪馬台支配領域の博多港と港周辺
の諸国を監視監督してる。
要するに3世紀に入る頃、奈良(大倭)の列島支配権が
事実上確立してたということ。
4世紀頭に華北崩壊、朝貢秩序が消えると、表向きの倭国盟主
邪馬台を滅ぼし、奈良(→大和)がその名、その権威を継いだ。
この権威継承を正統なものとする為に、東遷神話をこしらえた。
大和朝廷は4世紀の内に半島進出してるから、列島統一は、
4世紀中には起きたことが分かる。 >>618
徑・・・道の意味に使われてるみたいだね。 ●唐の進駐軍は、唐の滅亡後、藤原氏となりヤマト朝廷を支配
>>557
その通り
"魏" を名乗る国は春秋、戦国、三国、五胡十六国、南北朝、
それぞれ時代に存在したが、その支配者一族は全然違う
中国というのは、昔から、新興勢力が権威付けをするために
何の関係もないのに昔からよく知られている名称を使う風習がある
根っからの日本人にはそういう風習がなく、そういうことをしない
さて、ということは、どういうことか?
古代の日本であったヤマト国を滅ぼしたのが唐であるとするなら、
その中国人の風習にならって、自らをヤマト朝廷と名乗るのは
すごく当然のことなのだ
もし唐が滅亡しなければ唐帝国の属国に組み敷かれていたであろうが、
則天武后が失脚して唐が滅んでしまったので、不可能になった
日本にいた唐の進駐軍は唐を名乗ることができず、
ある日突然表舞台から消え去ったようにみせかけたが、
正体を偽って、日本の歴史に登場することになる
それが藤原氏である
藤原氏によるヤマト朝廷支配がはじまったのだ 奈良に九州と共通した地名が残されたということは奈良はおそらく開拓地だったのかもな。
だから奈良とは違うところに畿内の都市があったんだろう。おそらく大阪だろね。そこを際しに東征した。その後から奈良に移り住んだんだろな。
宇佐の山手に妻垣という丘があり、
神武が東征の際に陣を張ったという
言い伝えが残っている。
記紀には宮崎が妻国だったという記述は残っていないので、
この地名は後世によるものではない。
妻国の豪族が垣を巡らせた場所を示す地名が妻垣であり、
そこに生目長官と御間城副官が居たという事であれば、
コレが神武の東征を示す記述でもあるだろう。
>>573
昔の神話にはよく120歳まで生きたって記述があるよな、聖書には2百何十歳とかあった
でその120歳を半分の60歳と読み替えると不思議ではないよな、当時だと長命だろが
で、その里程も半分にして邪馬台国の位置を測った人っているのかね、だれか暇に任せ
てやってみてくれないかな 邪馬台国は確率の波となって全国に広がっているんだよ
新説が出た瞬間だけその地点に収束するけど
しばらくすると又確率の波となって全国に広がっていくんだよ
妻国の生目長官と御間城副官が、
邪馬台国の妻垣にいた時代が
3世紀中期である事は確定した。
彼らが東征した際に、
既に天孫降臨族のニギハヤヒが
河内大和にいた事が記されているが、
コレは考古学上における、
〜3世紀の安積族の河内大和進出に合致している。
弥生の謎は全て解けたな。
人の国をウリのものニダ!
言う前に、自分の国の歴史勉強した方がいいぞw
畿内説を信じてるカルト信者ってさあ、
倭国が朝鮮半島南端から始まるって書いてあることも理解してないんじゃない?
邪馬台国って、特に政権を担ってた所とかじゃなくて
ただの集落だったんだと思うよ
それをたまたま中国人が見つけて、ちょっと交流してたってだけ
その後、ヤマト王朝まで百年以上も記述がないっていうのがおかしいじゃん
重要な役割をしてたのならすぐにどこかが引き継いでるはずだからね
邪馬台国なんて、事実がわかることあるのかね。
大多数が納得するような証拠ってどんなんだよ。
大和政権には直接朝鮮人は入ってきてない。
朝鮮ヒボコの子孫であるタジマノモリですら五世の孫。
神功皇后の頃には相当に薄まってた
>>681
俗説だけど
天照大神の天岩戸と出雲の国譲りは先住民族がジェノサイドされたことを示してるとかいうのがあったような イヤー、伊支馬と彌馬升が邪馬台国と妻国と大和をつないでくれたな。
私の様な天才が見れば、
考古学に謎は無いのだよ。
>>17
卑弥呼の時代、朝鮮半島にはなんにもなかった。 >>677だけど
倭人伝を素直に読むと台湾近くになってしまうと言うよな、
で距離を半分と見なして比定してみると見事、九州になるんじゃないのかw
そうだろみんなw >>664
九州説は俗説なんだから、これくらいのデンパを飛ばして欲しい 後は妻垣の発掘だな。
実際にいつから、
妻国の豪族の陣として
運用されて来たかだ。
3世紀中期よりもっと前で、
3世紀中期には既に大和の痕跡があるとなれば、
東征はもっと前に達成され、
畿内説もあり得るだろうな。
鬼道という原始的呪術の遺跡を探すといいのではないかと思う、多分巨石信仰の場所で安心院のストーンサークルや八面山の権現石などが候補ではないだろうか?
アメリカ大陸が欧州諸国からの入植で複数の国に分かれたように
日本も朝鮮諸国からの入植で複数の国に分かれてたんだろう
九州を支配してた国は白村江の戦いで敗れ朝鮮から断交されて衰退して近畿の傘下に入ったって感じじゃないの
最近は観光の目玉に名乗りを上げてる感じのところが増えたな
>>697
だから、言葉は?
言葉が違えば征服したんだろうけどw日本を 応神天皇が特異な天皇で実質的に始祖
それを祀っている総本山が宇佐八幡宮だから、邪馬台国が大分近辺から始まるのは間違いない
そして八幡信仰は明治まで続いているから邪馬台国と大和朝廷は連続した存在
一番の問題は大分近辺から畿内に移動したプロセス
>>677
年齢に関しては年始を春と秋にしていたという説で半分になるんだけど、
距離については根拠がないんだよね 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 ヨーロッパの方まで元が征服した証拠が、
言葉に残ってるんだな
これがw
魏書に出てくる邪馬台国は、東征前の物部連合国が偽装した都万国。
自分らの国はヤマトだよと嘘をついて朝貢したのがきっかけ
だから畿内の地名が全く出てこない結果になった
>>701
まず(恐らく狗奴国系の)何十人かが九州から畿内へ移動する(ニギハヤヒ)。
次に(恐らく狗奴国系の)何十人かが九州から畿内へ移動する(神武=崇神)。
最後に(恐らく邪馬台国系の)何十人かが九州から畿内へ移動する(応神=仁徳)。 伊岐馬は生目であり、
やはり宮崎の生目に比定できる。
生目と言えば日向出身の一族、
天皇家の垂仁天皇の名前であり、
およそ3世紀に比定できる天皇で、
時代は合う。
しかし、過去、生目神社と垂仁天皇の接点は弱い。
垂仁天皇自体、九州に勢力を拡大していたとは言い難い。
>>677
台与は6歳半で女王ですか
その調子でもっとデンパ飛ばしてください >>707
崇神ー垂仁ー景公と続くあたりもすごく怪しいんだよなあ。
特に景公はもとから九州にいたような感じがする。 魏の里をそのまま使うと
パプアニューギニアかマリアナ諸島になる。
方向をイジって東に向ければベーリング海附近。
魏の里をそのまま使えば日本にならない。
>>560
>前方後円墳の分布は吉備が中心ではない
>魏との交流を示す考古遺物の分布も吉備が中心ではない
「阿波」だよ。 @阿波 秦がシナ大陸を統一したとき、自分がそれまでの王と違う存在とアピールするために皇帝と名乗ったとされるから、天皇家もまぁそれ以降だよな。
朝鮮半島南端が倭国領土だったことは半島系の人は隠したいだろうね
だから、倭国の中心が畿内であったことにしておきたいんだろう
>>575
>古墳の起源は奈良とは言えない
「阿波」だよ。 @阿波 崇神天皇はもちろん、彌馬升=御間城に比定できる。
御間城は副官なので、
垂仁天皇の皇后かもしれない。
ただ、記紀には、コレラが、
卑弥呼やトヨに従っていた記述はないので、
妻国の伝承を拡大したと考えた方がいいだろう。
日本書紀や万世一系と辻褄を合わせようとするから謎になるって読んだことある
>>718
そう。それ。
嘘つき具合は記紀の方が凄いんだよ。
だから記紀を前提に考えるのは無理。時系列までごまかしてるもん。 邪馬台国 伊邪那岐イザナギ説(通称スーパーリスペクト説)
↓これで決まりだぎゃ
>>293
>>326 >>718
記紀原理主義、魏志倭人伝原理主義
て事だな。 そもそも魏志倭人伝は1970年代に作られた偽書。
ちなみに、邪馬台国はそのまんま中共にとって邪魔な台湾国のこと
万世一系と男子男系は、未来の皇族を守るのには都合がいいんだけど、そもそも連続性のない系譜に当て嵌めて逆辿ると、外国人でも男なら天皇陛下になっちゃうから非常に危険な考え方なんだよな。
テレビ企画で台湾人の古代中国語専門家に地図見ながら魏志を解読してもらったところ、
「鹿児島県以外に考えられない」との結論に至った
魏志を正確に読めば〜とか素人がごちゃごちゃ言ってもただの寝言
>>727
一致するところなんてないよ
魏志倭人伝に書いてある通りにいくと、海の上に出るから 九州にあった鉄鏡が
最近、曹操の墓発見されその出土品と類似とかあったけど?
偽装ヤマトが、大和を征服するのに箔をつける必要があり、直前に魏に朝貢した。
その時に貰った8本の旗が八幡、八幡神社の元になった。
全国八幡の総本社ってのは本当で宇佐八幡がそれ。
でも時代の流れには逆えず、日本書紀風の神様に変えられて、神功皇后と、応神天皇が治まる結果となった。
神改って、明治時代以前にも幾度か行われてる。
白髭神社とかは本来は新羅系で、元々はヒボコを祀る系統だったが、今じゃほとんどが諏訪神に変えられてる。
明治の時は特に朝鮮系の神様が圧迫された時期で、兵主神社ですらヒボコを祀ってたことは秘されていた。
確か昭和まで続いたんじゃなかったっけ。
表立ってヒボコを祀るのなんて出石神社位だよ
>>729
そもそも、その鉄鏡は日田の胡散臭いもんだし
専門かも明言は避けてるようなモノ
>曹操墓を調査した研究者、潘偉斌(はんいびん)さんらは
>「似ていると言えば似ているが…」と断定を避けた。 別府温泉だろうが古代エジプトだろうがここまでくると大差ない
>>727
卑弥呼が糸島市に居たのは間違いないね。 >>66
宇佐の祖神は現・中津市の薦だからそれは無い。
とは言え、この辺りも土器がボロボロ出てるんだよな。
かなり広い集落跡が見つかってる。 中国の使者は神様だと思われてたと思うよ
それが収穫祭
輿で担いで練り歩く祭り多いだろ?
日本人馬鹿だったんだよw
>>684ヤマト王朝まで百年以上も記述がない
魏志倭人伝にあるのは、3世紀の記述だ。この記述からは
邪馬台の裏に倭国大乱の勝者 大倭(奈良)の存在が見える。
4世紀に入ると華北崩壊、朝貢秩序が消え、この隙に
奈良(大倭→大和)が邪馬台を滅ぼし列島統一、三韓征伐へ。
5世紀初頭に高句麗にボロ負け。半島の権益確保の為、南朝に
朝貢を再開(倭の五王)し、半島南部の統制権を認定される。
この朝貢秩序復活まで、東亞は実力で物事が決まる世界だった。
この間1世紀半ぐらい、当然、文字で記録を残さない当時の日本
にも、日本が朝貢やめてた大陸にも、日本の記録はないわけだ。 末廬国が北九州は距離的に考えづらいわな
使者が留まるところと書かれてる伊都国までの距離と道筋はそこそこ信用に足る情報だろうし
普通に考えたら末廬国=糸島、伊都国=太宰府、邪馬台国=筑紫平野のどこかだろ
邪馬台国論争は未来永劫解決しない
なぜなら解決してしまったらもうこのテーマで研究費が出なくなってしまうからだ
古代日本の発掘調査なんて邪馬台国と卑弥呼という看板がなきゃ誰も興味持たないもん
>>735
ほう、宇佐の祖神は現・中津市の薦神社ねえ、薦こもは聞いたことがある。
それを応神天皇?の時代に宇佐に移転して、今の盛大な宇佐神宮になった、、、 景行天皇が熊襲を討ったっていうのが
狗奴国との戦いで、
神功皇后が朝貢したっていうのが豊の朝貢という流れにはなる。
だいたいこの辺の流れを妻国の豪族が、
邪馬台国の長官としてやったと考えれば、
大体合うんじゃないかな。
中津市の薦神社一帯には古〜い国衙のような区画が見える。4-5重の環濠が取り巻いていたようだ。
ここは倭人伝に記述された傍国のひとつだったのではないか。
>>682
倭王武「海北を渡り平らげたから」
日本書紀「神宮皇后が新羅を征服したから」 >>741
>それを応神天皇?の時代に宇佐に移転して、今の盛大な宇佐神宮になった、、、
【大分宇佐八幡宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡宮」(辰の宮)である。】
大分の宇佐八幡宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」の開基は、白鳳二年(674年)。 御祭神は、誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)。
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略
大分の宇佐八幡宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
よって、大分の宇佐八幡宮も、 阿波国『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 韓国語は本来の民族語がほとんど失われてシナ語由来が語彙の大半とか。日本の大和言葉みたいな民族語が消失してるんだよね。
中国人は今でも日本の言葉を中国風に発音したりするから、シナ人の影響が強いところは音読みが多くなるんだろうと思う。
大分合同新聞も、怪しげな別府説でなく、中津市の薦神社一帯の古代環濠国家を世に問うたらどうか、、
>>743
本人が行ったわけじゃないよな
大袈裟に苦労をアピールしたから距離が合わないんじゃないか >それを応神天皇?の時代に宇佐に移転して、今の盛大な宇佐神宮になった、、、
【大分宇佐八幡宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡宮」(辰の宮)である。】
大分の宇佐八幡宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」の開基は、白鳳二年(674年)。 御祭神は、誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)。
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略
大分の宇佐八幡宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
よって、大分の宇佐八幡宮も、 阿波国『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波
>>740
地域がどのあたりかは解決済みだから研究費なんて出ない
こういうのは村おこし
研究してないからやれる 記紀的には、倭姫命がヤマトのヒメみこで邪馬台国の卑弥呼だろうな。
邪馬台国人は、顔に刺青していたんだぞ。
絶対、近畿説は誤りだね。
南九州しかない。
古代中国の数字は大袈裟なのに
なんで距離、日数にこだわるのか
中国人にいわゆる魏志倭人伝読ませたら100人中100人が北九州のどこかと判断したという話があったね
別府温泉に「卑弥呼の湯」が出来るんでしょ
中国人観光客には三国志で有名な曹操ゆかりの魏ゆかりの邪馬臺国ゆかりの卑弥呼ゆかりの要は中国にゆかりのある温泉とか言って
>>755
実際に現地に行かずに適当な日数をフカしてた可能性も・・・ >>756
初耳だ
中国人のほとんどは魏志倭人伝を読んでもチンプンカンプンとは聞いたことあるが 後世から見ればその時点から見て別の府
失われた150年は別府で良いかもなw
>>757
そういうのいいね
もうコロナ前から別府温泉郷も死に体だったらしいけど
町興しでもなんでもいいから残って欲しいものだ 宇佐のあたりはもしかしたら港だったのかもしれない。
福岡から大分は今でも北九州経由がメインルート。日田から山を抜けるのは道が険しいんだよな。九州から船を使って本州に向かう場合は北九州市から大分市にかけての沿岸から出るのがよさそうではある。
大分合同新聞も、中津市の薦神社一帯の古代環濠国家を世に問うたらどうか、、
傍国の有力候補としては「都支国」、つまり、今の地名で「築城」に当たるのではないかと思うが・・・
まあ、根本的に、天皇家が実際日向の豪族で、
東征をして大和に至ったって言うのは、
考古学的に戦前に既に確定していたモノで、
ソレをベースにした皇国史観を崩す為に、
邪馬台国は大和で天皇は大和の豪族で、
記紀の東征は間違いだって言うのが
畿内説の根本になる。
>>758
古代の中国人は几帳面だったから、今のおまいのようにフカしたりはしなかった。 半島人なら記録は全てフカシもあるけど
当時の支那ならありのままには記述したかもなぁ
>>764
>東征をして大和に至った
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地にわざわざ東征する九州バカがいるらしい。 わははははは @阿波 >>767
神武東征の目的は大坂の摂津。
摂津に海→川から攻め入ろうとしたが摂津の神にフルボッコされた。
だから、和歌山県側から攻めた。
そして神武は今の大阪府の高槻市に都をおいた。 大阪南部の池上曽根遺跡では
紀元前2世紀の土器や炭化米が見つかっている
この遺跡の一番でかいいずみの高殿は
東西19.2メートル・南北6.9メートルで
直径50〜60cmの24本の柱で建てられてる
地中に埋まって残ってた柱跡を調べると
伐採されたのは紀元前52年らしい
年輪年代法でヒノキは紀元前912年までのパターンがわかってて
それに当てはめたらしい
紀元前1世紀に大型建物を作るのができるのって
九州北部勢力くらいだろう
太い大木をたくさん切るには鉄の道具がいる
あと運ぶのに人数もいる
紀元前2世紀に九州北部の技術を持った人が東に移ったと思われる
2世紀には平原を残して九州北部から王族が消えるので
移ったのは王族の分家たちで
九州北部に残るより未開の地で王になった方がいいと考えたか
しかも一部は大成功したと思われる
畿内説が無ければ、
祇園山古墳が、弥生後期の唯一の
殉死の認められる墓=卑弥呼の墓として、
発掘保存されていただろうが、
左翼の畿内説がソレを阻んでしまったのは
残念で仕方がない。
左翼は歴史を破壊する為にあるという
教訓として、しっかり歴史に残しておいてほしいものだな。
倭迹迹日百襲姫命って名前が判明してて墓まであるのに
やれ、銅鏡が出土した!これは卑弥呼が使ってました!とか
土器が出土しました!これは卑弥呼が使っていたとされる土器です!
とかあちこちで適当なホラ吹く奴がワラワラ出て
結論なんてとっくに出てるのに可能性ガー可能性ガーと
誰も証人がいないのを良い事に言いたい放題
もういい加減にしろよ
>>768
>神武東征の目的は大坂の摂津。
わざわざ、ジメジメした湿地帯の摂津に東征する九州バカがいるらしい。 わははははは @阿波 >>743
倭人伝原理主義。
反面、記紀原理主義もいる。
どちらも? 邪馬台国は九州にあったが滅んで、その後、大和で勃興した天皇家
が全国支配を成し遂げたがすっきりするよね。
>>770
ま、祇園山と共に殉死したようなものだな、心残りだろう、、 >>775
祇園山て飛鳥・奈良時代以前からある名前? 銅鐸はおかかえの製作集団によって模様が違ってる
池上曽根遺跡に住んだ人たちは勢力を広げたことが
銅鐸の広がりでわかってて
1世紀はじめには大阪、奈良、滋賀南部あたりを治めてて
2世紀後半に東海勢力の国と合併する
それが畿内式銅鐸と三遠式銅鐸の合体 上のほうにあるから見てね
個人的に10代祟神天皇系はこの最初に大阪南部に住み着いて
勢力を広げた人たちだと考えてる
のちに同族で争いになって15代応神天皇系が勝って古市もず古墳群
なんかもう諸説あることで経済効果あるなら
もう真相なんて分からなくてもいいんではないのか
とも思えてきた
でもそれでいいのか?
つまり、別府温泉で、ミス卑弥呼と混浴サービス?
なら、GOTOかな
>>747
朝鮮語は、日本語ベースの高句麗語なんだと。
mul ← みず(水)
uri ← われ(=我々)(本来「わ」は複数形「あ」が単数形→あずま吾妻)
nala 国(くに)→ 奈良
mul や uri など、まさに日本語だよ。
一方、naraは、高句麗語だ。百濟支配層の言語は高句麗語系で
西日本にいろいろ入ってる。奈良(nara)はその一つ。
当時、奈良のヤングにとって、百済語はナウくてクールなワードだったw >>772
だよな。開拓ならわかる。
水田に適しているじゃないの?
吹田の語源が水田という眉唾もんの説もある >>779
ミス卑弥呼といっても、夫無しのご高齢ミス卑弥呼だけどな
ま、おれは遠慮する >>778
だから、「阿波」で確定済み だと、何度言えばw
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>781
>水田に適しているじゃないの?
だが、卑彌呼の時代は、灌漑稲作が壊滅状態なんだよ。 @阿波 >>779
今回だけはアメノウズメの舞もサービスに付けて何と・・・・ >>770
今グーグルマップで確認した、
祇園山古墳、高速道路で真っ二つ。
建設省・国交省の技官たち、頭おかしい >< >卑弥呼宗女壹與年十三為王
宗女が親戚とかの意味なら
10代祟神天皇系と九州にいた卑弥呼は親戚で
卑弥呼は関係のない国に東遷したわけではないということになる
親戚の国
>>785
だから、九州から出ていったり、半島に
行ったりじゃないの?
阿波も壊滅なら摂津も同じかな? ちなみに祇園山古墳の山頂に鎮座する
筑紫の一の宮の高良大社の大祝家は丹波氏で、
コレは元伊勢籠神社の海部氏と同族で、
倭姫命が丹波から伊勢に遷宮したという記述と関連しているかもしれない。
不弥国までは北九州なのは、多くの人が納得してると思うけど
最大の国の邪馬台国の周辺の地名が全く出てこないのはなんでだろうね
一番考えられるのは伊都、奴、不弥あたりまで魏の使者は行ってなくて
後は、情報から得たものか、それとも魏にとって都合よく書かれているのでないか
>>789
>だから、九州から出ていったり
九州はまったく無関係だから! @阿波 >>788
宗女とは、父系・男系の女、という意味。
姉妹(=父の娘)、父の姉妹(=父の父の娘)、父の父の息子の娘、etc
父系・男系で辿れないとダメ。 >>791
使者は間違いなく行ってるよ
ただ東夷伝を書いた奴、もしくはその情報源になった奴は行ってないだろうね
あやふやな所を伝聞で埋めた可能性は高い 陳壽中盤までは何となくそうかな? 後半は適当いい加減真面目さゼロじゃなくマイナス
こげなペテン記述真に受けて何百年<<<卑屈の極み
卑彌呼(ピミコ)だぞ、当時の音は。
今の音なら、ヒメコ=お日様の娘。ヒメと略される。ヒコの対義語
ちなみに、ヒコの昔の音は、ピコ。かわいいw
>>791
伊都国の記述の中に、郡使が常に駐する所とあるだろ
後漢時代から伊都国までは頻繁に来てたんだよ
それを裏付けるように、伊都国の中枢部から大量の楽浪土器が出土している
だから、伊都国周辺の国が詳しく書かれている
一方、邪馬台国まで行ったと解釈できるのは、梯儁と張政だけ
2回しか訪問してないのだから、邪馬台国周辺の情報が少ないのは当たり前
遠いから頻繁に行けなかったとも言える >>799
それを含めて検証するのが醍醐味でしょう
記紀が何故書かれたかどういう意図を持って事実を改変し捏造を加えているかって事自体が当時を知るための資料的価値がある
それにまったくのデタラメは書かれていないでしょ
なにがしか元となる人物やエピソードを合体させたり横取りしたり事実関係を逆にしたり時系列をすり替えたりはしてるにせよ >>797
半島中南部に倭人(弥生人)=日本語話者が住んで居て、
列島に移民し縄文人と混血して今の日本人を作った。
高句麗南下により、百濟も南下、新羅も拡張、
最後に残った半島倭人地区が任那だ(加羅とも)。
奈良が列島統一した後、旧覇権国・邪馬台の地に「大宰府」を、
邪馬台の交易の相手方、半島倭人の地に「任那日本府」を置き
両地域に於いて旧勢力が盛り返さぬよう監視し、統治した。
お前は、韓国系なら劣化倭人。北朝鮮系なら知らない人w 今後の邪馬台国論争は「九州説 VS 阿波説」になりそうだな!
阿波説も結局は畿内説と同じ運命を辿ることになりそうな悪寒w
邪馬台国は台湾のことw
台湾の金門島のこと。
すでに100%確定している。
戦後に書かれたからw
伊都国で 丗有王 皆統屬女王國 これはどういう意味だろうか?
・代々王がいてみな女王国に服属していた(卑弥呼の時代に何代も王がいたのか)
・魏の時代に卑弥呼はここに居て各国は女王国に服属していた(伊都国に卑弥呼がいた)
>>803
アワなんてなーんにも北九州以下の物証量だよ。 >>385
>>386
とりあえずコピペ貼っとく
宮崎のことは知れば知るほどがっかりするぞ
NHKの所さん大変ですよでも趣味のハニワブームをやってたね
わかっててやるならいいけど信じちゃいかん
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>803
まあ、いいんじゃないの?
決定なもんが乏しい。 >>786
豊来入姫=トヨは、ウサ族だったのでウサ女とも呼ばれてた。
それが変わってウズメにされた。
椿大社で亡くなったので、猿田彦お嫁さんにされたらしいね。
旧家の伝承によれば、ホケノ山古墳に埋葬されたとの事 >>806
まあ、そう言わずいろいろ出せばいい。
近畿よりは魏志中心に考えると
記述に近い。記紀はさらに胡散臭い 別府よいと〜こ〜
いちど〜はぁおいでぇ〜♪
はぁ〜どすこいぃ、どすこいっと
>>801
じゃあコツ言うけど
普通の歴史の途中に神話的な人物が出てきたら作為タイムだ
特に時系列のすり替えが多いね 倭迹迹日百襲姫命って、二人の名前の合体したもの
モモソ姫は磯城登美家の姫で、倭姫は物部イクメの娘。
彼女が伊勢の出雲系の人間、伊雑富の命に頼って行ったのが伊勢神宮の元。
亡くなった後は箸塚古墳に埋葬されたとも言われてる。
箸塚古墳の箸は、出雲系の土師氏から来たとも言われてるね
別府湾には江戸時代に一夜にして沈んだ島もあったような
>>800後漢時代から伊都国までは頻繁に来てたんだよ
漢代は、奴国が港を管理し朝貢に出されてた。裏の覇権国が邪馬台。
だが、漢末に倭国大乱。これで邪馬台が覇権放棄させられてる。
(倭国が邪馬台女王を共立して停戦、とはそういう事。)
邪馬台は、港の管理に邪馬台の拠点大宰府に近い奴国を使ったが、
大倭(←奈良!)がこれを好まず、邪馬台の拠点から遠い港入口
の伊都国に港の管理を移し替えたであろうことがわかる。
伊都国に大倭(奈良)の官吏「大率」を置いて、港の交易や朝貢
及び港周辺諸国の監督している。
倭人伝には、「大倭」が何者か記されていない。恰も邪馬台の配下
の何者かの様な書きぶりで、分からないようにしてある。 >>58
焚かれたんじゃね?
石に刻んだヤツは残ってるだろ レコードが残ってないてことはヤマトとの連続性を感じないな
>>667
それが邪馬台国そのものです。
なので、神武天皇が征服する筈がない。
神武天皇は日向から東征して、大和に王朝を開いた。それが大和朝廷、倭人伝でいう邪馬台国です。 倭国の歴史は景行天皇と神功皇后の事績の中に埋め込まれてるよね
時系列とかバラバラだろうけど
卑弥呼の都は景行天皇が九州巡幸した際に作られた仮宮のどれか
たくさんあるけどね
>>58
縄文人は現代以上の高度文明だから
現代人が分からない方法で記録に残してる。 ちょっと中国寄りなのか怖いな
あり得ないgangstalking?
「24時間、人の声が聞こえる」中国当局によるエレクトロニック・ハラスメントの恐怖
日本では「エレクトロニック・ハラスメント」は馴染みのない言葉だ。しかし、中国当局は、幹部らの汚職行為を告発した一般市民への報復措置として、これらの非致死性兵器を使って精神的な苦痛を与えている。
エレクトロニック・ハラスメントとは、電磁波や超音波などを使い、対象者に内部障害、精神疾患と同様の症状を発病させる非致死性兵器の一種とされる。電磁波攻撃、マイクロ波聴覚効果、聴覚を介さないボイス・トゥ・スカル(V2K、脳内音声)技術などが使用される。
中国江西省に住む汪海榜さんは、08年以降、毎日24時間マイクロ波聴覚効果技術による脳内音声送信に悩まされている。汪さんは15年から北京市の中央政府に陳情活動を行った。19年、公安部(省)陳情窓口担当者は汪さんに対して、全国の県レベルの警察機関であれば、人間の脳を観察し、その思考を盗聴する設備を配置でき、マイクロ波を対象者に照射して脳内音声を送信できると返答した。
https://www.epochtimes.jp/2020/09/62127.html
警察機関であれば、人間の脳を観察し、その思考を盗聴する設備を配置でき、?
警察機関であれば、人間の脳を観察し、その思考を盗聴する設備を配置でき、!?
警察機関であれば、人間の脳を観察し、その思考を盗聴する設備を配置でき、!??
怖いでしょ? 九州説の人たちは
大和朝廷が支那に朝貢してたことを認めたく無い人たちです。
邪馬台国は大和朝廷と無関係な九州の部族が勝手に大和の名を騙って朝貢したと言いますが、そんな事があるのでしょうか?
そもそも、北九州あたりは邪馬台国の出先機関があるので、魏使が来たら大和朝廷が気付かない筈がないでしょう。
>>825
それが複数の旧家に伝承されてるって話でしょ 卑弥呼も温泉入ってたりして w
良いとこよね、支那朝鮮人いてなかったら
>>825
それだと大和朝廷が中華移民の末裔という事になるがいいのか?w >>828
どういう事かな?
日本人は遺伝学的にも言語学的にも、支那と別系統だよ。 辻褄が合わない
そりゃ後付け資料が時系列をすり替えたしかないな
近江敏郎が近江で近畿。
湯前エレジーで別府で九州。
>>820
神武天皇が奈良入りして蝦夷を狩った記述についてはどう思ってるん? 神武天皇は奈良で先住民族の蝦夷を討伐した
奈良はその当時縄文だったから弥生人の神武一行に勝てるはずもなく…
>>830
どういう事かなって・・・
魏志の中で倭人は南方中国人の移民だ
つかせめて魏志倭人伝に何が書いてあるかくらいは調べようぜ まぁ神武天皇の元になった人は板だろうね
でも大王と言えるのは第7代の孝霊天皇から
後の神武天皇のワカミケヌは鹿児島出身の奈良の片隅の村長さんだよ
下の奥さんを書きだしたのを見ればわかりやすいかな
神武天皇
皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命
綏靖天皇
皇后:五十鈴依媛命
安寧天皇
皇后:渟名底仲媛命
懿徳天皇
皇后:天豊津媛命
孝昭天皇
皇后:世襲足媛
孝安天皇
皇后:押媛
孝霊天皇
皇后:細媛命
妃:春日千乳早山香媛
妃:倭国香媛
妃:●某弟(はえいろど)
孝元天皇
皇后:欝色謎命
妃:伊香色謎命
妃:埴安媛
開化天皇
皇后:伊香色謎命
妃:丹波竹野媛
妃:姥津媛
妃:●比売(わしひめ)
崇神天皇
皇后:御間城姫
妃:遠津年魚眼眼妙媛
妃:尾張大海媛
4連休だし古墳めぐりとかいいかも
散策にはいい季節だ
>>838
福岡県民だけど奈良に『おすそわけ』しますわ。 畿内説は掘っても掘っても、
邪馬台国に関するモノが
何も出て来ないどころか、
出てきちゃいけないものが出てきたのが致命傷。
>>843
>出てきちゃいけないものが出てきたのが致命傷。
だからもうこれからは、ここ掘れわんわん状態の「阿波」一択時代。 もちろん、九州は問題外。 @阿波 記紀に邪馬台国が出てこないのは、なんで?
神功皇后のときに、それらしき朝貢話はあるけど?
いえいえ、記紀にも、ちゃんと邪馬台国は出てきます
俺が考察して説いたイザナギに隠されたメッセージ
卑弥呼はアマテラスであり、九州はアマテラスの地域
神武東征、日向日別(ひむかい ひわけ)で答え出てます、記紀から「も」
↓これ
>>293
>>326 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波
倭人伝に温泉の記述が無いのは致命的だな。
別府なら、少しぐらいは「けむりがもくもく」の記述があるはず。
>>847
阿波かどうかはともかく、九州説が欠陥だらけというのは同意できる >>845
そもそも「ヤマトコク」なんだから記載はあるよ。 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
魏志倭人伝の記述と不一致だらけ、矛盾だらけであること
・邪馬台国が30ヶ国連合の盟主の国 → 九州勢力による広域連合が存在した痕跡なし
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸 → 九州で7万戸(30万人)や5万戸(20万人)は不可能
・水行二十日、水行十日陸行一月 → 九州を飛び出してしまう
・卑弥呼の宮殿に1000人の従者が仕える → 九州に王の居所が大きい遺跡なし
・卑弥呼の墓が径百余歩 → 九州に150m級の大型墳墓なし
・一大率が刺史のごとく → 刺史とは地方役人なので、伊都国は邪馬台国から遠いことを意味する
・魏と外交をやっていた → 九州に魏との交流痕跡なし
・国名が中国語で邪馬台国の発音に近い → 九州にヤマトの発音に近く国に相当する地名なし
>>852
凄いなあ、書いてることが全部間違っているなんて、
いくら5chでも滅多に無いことだわ。 >>852
そもそも「ヒミコ」とか名前ですらないからな。 >>852
その指摘は、畿内説にも当てはまるブーメランだよ。 @阿波 >>853
じゃあ、間違ってるなら訂正してよ
証拠つきで >>843
木製の出土品の事を言ってるの?
馬のあぶみって木製なわけないよな? 投馬国は水行20日なので九州ではない
九州で7万戸は無理ってのは江戸時代の石高とか見てだろうけど
それなら畿内だって無理だぞw
>>472
やばい、こいつバカすぎる
畿内説をゴリ押す奴らのヤバさが分かる >>847
景行天皇のことは無視するの・
だいたい風土記なんてまともに残っていないし
阿波国風土記もダメだよね
四国より九州のほうが残っている風土記も多いし >>852
逆にそれ一つでも畿内に当てはまるものあるの?w >>861
>景行天皇のことは無視するの・
それがどうかしたかい? わははははは @阿波 九州説って、魏志倭人伝の中で邪馬台国の記述と不一致だらけだから
よくあるインチキは、魏志倭人伝を曲解、歪曲して
倭人一般について書かれた部分を九州説の根拠ということにする
あと短里みたいな架空の距離単位を捏造したりもする
>>861
>阿波国風土記もダメだよね
なにがダメなのかよく分からんが、
※各地の風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ。 @阿波
アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申
天山 (釋日本紀 卷七)
伊予の國の風土記に曰はく、
伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。
この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになる。
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要がある。
もちろん「倭」とは、「倭大國魂・倭大國敷神社」が鎮座する阿波である。 繰り返しになるが帯方郡から邪馬台国まで12000里なんだから帯方郡から水行10日陸行1月でないと辻褄が合わない
投馬郡はおそらく但馬丹後辺りだがこれは大阪でも辻褄が合う
>>118
>不弥国→宇美
これは大きな大間違い
古代日本語ハ行転呼の法則から逸脱してる。
ぷみpumi>fumi>humi
というのが日本語のハ行子音の歴史的変遷
放送大学「日本語学入門」でも
ハ行子音の歴史的変遷が取り上げられている。
これは定説だ。 「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波
自説をさも定説であるかのように主張する奴は信用できない
>>865
だから逸文しかないじゃん
原本に本当にあったの? >>864
短里って笑えるけどなw
九州説って勝手な解釈と妄想がエグイよなw 先ず帯方郡から7000里が狗耶韓国なら、
12000里は北部九州でしかない。
これを否定するのは、
自分が算数が出来ないパーであると言ったに等しい。
>>871
>原本に本当にあったの?
原本にない事を、どうやって引用(逸文)するんだい? わははははは @阿波 九州から東遷したんやろ
弥生時代の九州が中世における畿内なら、弥生時代の畿内は中世における関東みたいなもんや
開発の遅れた辺鄙な地やから大陸から逃げてきた銅鐸渡来民も巣食っていられたんやろ
真相はこうや
倭国大乱後に国譲り&東征、北部九州から東方へ下ったタケルの神々により銅鐸渡来民を囲っていた国々は悉く〆られた
大倭の真ん中の日ノ本畿内に新生邪馬台王権を成立させる=九州から三種の神器を携えた大斎王をお迎えし、古墳時代へと突入。
ちなみに、新生ヤマト王権は程なくして南九州で大神タケルとなっていた神武により〆られる。
おわり。
>>847
天皇と邪馬台国(卑弥呼)は別だからね
無くて当然。それも二人の女性で終わる。
男王では納得いかず臨時的なもん。 >>859
一大国で3000家、末盧国で4000戸、奴国で20000戸なんだから
北部九州地域全体なら70000戸は軽く入るはずだよな。 >>873
>自分が算数が出来ないパーであると言ったに等しい。
倭人伝の行程距離を自分の都合で足し算する九州バカがいるらしい。 わははははは @阿波 >>875
>九州から東遷したんやろ
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地にわざわざ東征する九州バカがいるらしい。 わははははは @阿波 「不彌国」は彌根国をパロったものであり、当人たちが自慢するほどの「彌」には非ざる国、
という侮蔑嫌がらせ表現
これを読んだ洛陽の貴族たちは、ウヒヒ倭人め、今夜は酒がうまいぜー、と留飲を下げたのだろう。
>>874
つまりすでに失われていることが判っている本にこんなことが書いてあったとし
自分が言いたいことに箔付けをするために嘘をつく 對馬國→対馬
一大国・一支国→壱岐
末廬國→松浦
伊都國→怡土・糸島
奴國→那の津
不彌國→宇美
投馬國→妻
邪馬壹國→山門
狗奴國→隈・球磨
侏儒国→種子島
これらの地名は全て当てはまる。
距離もいい。
>>873
魏の時代の1里が何メートルかも知らない九州バカがいるらしい >>880
でも奈良は何百年かは都だったよw
大きな災害無い地域だし今みたいに無理やり作った首都とは大違いだけどねw 元祖邪馬台国が九州
本家邪馬台国が奈良
家元邪馬台国が阿波。
奴国→金印が出た志賀島が、
安積族の氏神を祀る志賀海神社がある事で、
奴国=安積族の拠点、那の津で確定した。
別府なら「熱湯を産する」という一文が書かれているはずだ
アワビや海藻をとるという表現があるのだから
>>884
はい、バカの自白来ました。
ソウル南方からプサン近郊を7000で割る以外にこに1里を知る方法はない。
これが理解できないのは、
脳が狂っているからだけでしかない。
魏の時代の一里ガーと言ったら、
狗耶韓国は朝鮮半島南部ではなくなってしまうからな。 >>883
>不彌國→宇美
東行至不彌國百里だから不彌國は宇美ではなく那珂川市方面だよ >>820
わざわざ東に征伐しにいくという意味で東征と表現してるんだから、天皇家の支配国とは異なる国だったんだよ。
近畿の人にとって征服された土地の子孫というのはアイデンティティ的に受け入れ難いのかもしれないけど。 侏儒国は小人の国→種子島の弥生後期の遺跡、広田遺跡から小人の墓が出た。
種子島から4000里は山門八女
>>890
救いようがないバカ
狗邪韓国までの里数が正しくないだけなのに、架空の距離単位を捏造しようってのは
知能が低いだけでなく、倫理観も欠けてる証 >>891
苗字をまとめたしんせんごろくだかなんだかによると大彦系らしいですね、彼は >>895
東夷伝が一貫して短里で書かれているのに頑なになかったことにしようとする畿内説こそ捏造だろw
例えば高句麗の方可二千里を長里で解釈すると遼東は無くなってしまうw
505 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:11:52.51 ID:V7dsXfha0
>>102
夫余や高句麗の方可二千里、東沃沮の可千里は短里じゃないとその場所に収まらないよ
長里だと夫余や高句麗は約900km四方になって朝鮮半島の数倍、黒龍江省と吉林省がまるごと入るくらいの巨大国家になってしまう
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
522 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:39:48.29 ID:V7dsXfha0
>>505のついでに言うと900kmって魏の都・洛陽から蜀の都・成都までの距離に等しい
魏の都・洛陽から呉の都・建業(今の南京)までは650kmに過ぎない
夫余や高句麗の方可二千里が長里ではあり得ないことが理解できるだろう まぁ所詮は便所の落書きだからなぁw
世間的な説には何も影響が無いw
>>314
九州説の論調って昭和中頃の史学雑誌とあまり変わらないので逆に面白いw >>891
狗古智 kukochi ⇔ kukuchi 久々知? ⇔ kikuchi 菊池 倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え
←海人安積族の特徴そのもの。
倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる←弥生の北部九州は博多湾や有明海が内陸まで入り込んでおり温暖
>>880
阿波さんは一見出鱈目そうだけど、いい線付いてくるよね。
そう、出雲分家はそこに発展性を見出して開発して行ったんだってさ。
そしたら後になって西出雲王家も、海幸彦系の物部氏もついてきちゃったんだって 九州と決まっても
九州内でまた争うし
機内と決まっても
機内でまた争うwwwwwwwwwww
不毛なのは兎も角、他人を平気で罵倒する奴は相手にしないのが吉
死ぬと棺に納めるが、槨は作らず
←甕棺墓は北部九州の埋葬の特徴で、
一方畿内のホケノから槨棺墓が出た事で、
畿内説は終了した。
>>897
東夷での里数が正しくなく総じて大きな数字になってただけ
短里なんて伊都国から奴国の100里で即否定 >>871
風土記で完全な形で残ってるのは、出雲風土記のみ。
コレは記紀の編纂に藤原氏と共に、千家果安が関与してるから。
だから徐福を架空のスサノオにして出雲の神の舅に出来た。
しかし、それも原点は失われてる。
出雲王家に中身を見せろと言われてから10年間、千家果安は風土記を見せず、記紀が発表されてから風土記を書き換え、ようやく出雲王家に提出したから。
他の地域の風土記は記紀の編纂に邪魔だったので破却される方針が決まった。
丹後風土記は奇跡的に難を逃れたがそれでも完全な形ではない 女王国より北には、とくに一大率をおいて諸国を検察させている
6世紀前半の山門八女の豪族、
筑紫の君磐井は、糟屋に屯倉を持っていた事が分かっている。
もし仮に、大和の豪族が北部九州に一大卒を置いていたとしたら、
6世紀前半に、山門八女の豪族が、
北部九州に屯倉を持っている事は不自然。
>>912
>風土記で完全な形で残ってるのは、出雲風土記のみ。
その出雲風土記に、「大国主」や「国譲り」の記述が一切ないというシャレにならないお話。 わははははは @阿波 養蚕し綿を生産している←弥生の北部九州は絹の一大生産地、弥生の畿内は絹の生産出来ず。
その土地には馬がいない。
←卑弥呼の墓に比定している箸墓から馬具が出てしまった。
>>899
爺さんだから最近の知見を受け付けないし、昔ながらのこじつけ論法を延々と続けてる
魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝に曲解したこじつけ論法w >>916
>養蚕し綿を生産している
まさに、筑紫の「忌部はん」 @阿波 温泉三昧とはやはり王朝はこうでなくては夢がない
(´・ω・`)
宮室、楼観、城柵が厳設
←吉野ヶ里から楼閣が出土、
一方纒向は掘っても掘っても楼閣無し。
>>911
5倍もの差があるのは誤差では片付けられない
東夷伝が短里で書かれているのは紛れもない事実
>短里なんて伊都国から奴国の100里で即否定
全く否定されてませんが何か? >>905
証拠も文献もないから
相手を攻撃するのみ。 >>915
そのかわり、大国主やアジスキタカヒコネ、スクナビコナの正式名称が書かれてる。
それと、一応は出雲大社の前身である神社で共同運営をしてる相手が、ごめんなさい、王族を殺したのは我々千家ですなんて面と向かって書くわけねーだろw 大和はどう見ても大倭だわな。
畿内が東征されたあと、どうも東西で争ったのかもしれない。それが倭国大乱なのかもな。遷都に反対した天皇家一族がいて、あるいは九州に残って独立勢力化した一族がいて、平将門みたいに鎮圧されたのかもしれない。
>>915
更には出雲神宝事件も風土記には書かせてない。 ラクテンチはたぶん卑弥呼の神殿だったんだろうな
ケーブルカーの急こう配からして
>>923
短里があると言い張れば事実になるとでも思ってんの?
幽霊が実在すると言い張ってるのと同じ 兵は矛、盾、木弓を用いる。
竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃。
北部九州からは多数の武器としての鉄の矛が出土しているが、
畿内からは鉄の矛は出土しない。
弥生の鉄の鏃の出土は北部九州がメイン。
>>929
おまえこそ現実と向き合えよ
長里で高句麗の方可二千里を解釈すると遼東は無くなってしまうんだぞw
公孫淵はいったいどこに居たんだよw
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
ま、出雲を祭った氏族国家の中の一つが邪馬台国だったのかも
伊勢じゃないわな、伊勢は大和朝廷〜「現政権」
とり天定食発祥の地だから別府かもしれない
酢醤油にからしをつけて食べるし
大川隆法が既に卑弥呼を降臨させて聞いてるんだろ?
議論の余地もないじゃないか
倭国大乱←弥生後期の北部九州の遺跡には、戦乱を示す死体や遺構が多数出土。
一方纒向に弥生後期の戦乱の痕跡は皆無。
>>931
架空の距離単位が存在したと言い張りたければ、証明すればいいだけだ
魏晋里で合わないから短里だという言い分は論理的にもおかしい 倭国大乱は畿内がヤマトか、九州がヤマトか、争ったのかもな。それだけヤマトの支配が諸国に及んでいたのかもしれない。だから、本家争いをする。
ヤマト支配下の小国はどちらが正当なヤマトなのかわからず困るからね。西軍と東軍にそれぞれ派閥陣営ができて内戦に入ったのかもしれないわな、幕末みたいだけど。
>>925
>それと、一応は出雲大社の前身である神社
その杵築大社も、出雲長国の「八鉾神社」がの元社。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 @阿波 ID:0W7bC9om0が出してる例ってほとんど倭人一般の記述じゃん
それを邪馬台国のことだと曲解
こういうインチキばっかりやってんだな
そのうち武田信玄は邪馬台国の末裔説がでても驚かないレベルまできてる
天皇が侵略して殺した
もともといた王様達は
みんなまとめて土蜘蛛扱いだし
邪馬台国とか別に特別じゃなくね?
邪馬台国だって結局は侵略して略奪して殺して
土蜘蛛とかよんでたんでしよ?
だから記録が残ってないんだよ。オールオブゼム
大宰府の役人が風土記まとめてんだから九州は。邪馬台国なんてただの土蜘蛛の一国扱いなんだよ。それより八女の人型石像と風土記の記録がバッチリンコの豊後の国がまだ夢あるわ
安積族も天皇家に付き従って東征して、最終的に志賀島から長野県安曇野に拠点を変えたんだよな。東部開拓時代といったところか。
卑弥呼は帯方郡に使者を遣わし、狗奴国と戦闘状態である事を伝え、詔書、黄幢、檄文を授かった。
←狗奴国との戦闘に苦戦し、魏に窮状を訴え、詔書、黄幢、檄文を授かる様なパワーバランスの国は、北部九州にしか想定できない。
もし仮に大和から朝鮮半島南部まで治める国が邪馬台国ならば、
それに邪馬台国が帯方郡に窮状を訴え救いを求めるほど対抗しうる狗奴国は、
日本に想定する事ができない。
>>944
北部九州のパワーバランス?
そんなものが解明されてるとは初耳
根拠も証拠もない妄想だろうけど
ついでに言うと、邪馬台国が帯方郡に窮状を訴え救いを求めたとかどこにも書かれてない
曲解というより歪曲だ >>943
本所が志賀神社でしたっけ。
全宮司は女性で、安曇姓だったかと。
神功皇后が三冠征伐での功績をたたえ、君が代の一説を含む歌を捧げた神社。
ただその後勝ち馬に乗るのに失敗してしまい、勢力を失う。その後穂高に移転
故に海童系のお舟祭りを行う神社。長野県三の宮の片割れ。 >>935
現に短里でピッタリ合うのだから証明はされている
むしろ無いと言い張っているお前に根拠がない 畿内は掠りもしないけど詭弁の先取りを使って強気姿勢で押し切るつもりだな
卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。徇葬者は奴婢百余人。
弥生後期に多数の殉死の認められる墓は祇園山古墳しか存在しない。
墓の規模も当時の帯方郡の役人と同等程度で、矛盾がない。
北部九州の要害、高良山の麓にある事が、
弥生後期の権力者の墓である事を物語っている。
>>948
お前の負けってことだな
なにせ東夷伝が短里で表記されているのは>>897のとおり間違いないしな
まあ当然の結果だ 神武が天皇を最初に名乗るんだから、秦の統一後しばらくしてからだよな、秦の始皇帝が自らを皇帝と名乗ったのを模倣して、天皇と自称したんだろうから。
神武が日本を最初に統一した人物であるという意味を込めて、秦に倣ったのかもしれない。
卑弥呼の時代があり、その後神武の時代があり、ヤマト正統王朝争いの東西対決たる倭国大乱が起きて、神武の系譜の奈良が勝ち、ヤマトが畿内に落ち着いていったのかもな。
>>937
杵築大社の本宮は、島根県の三刀屋神社だよ。
神紋は大社と同じ花菱紋。元々西出雲王家の神門臣家が大国主の御霊を慰めていた。
出雲王朝第八代の八千鉾は交代制で運営してた際の主王である大穴持。
国譲り事件で脳の磯の洞窟で変わり果てた姿で発見された彼は、竜山近くの巨大な磐座=御陵神社
に埋葬される
その後、大社運営に際して、現在の大社裏の八雲山に移された。
阿波氏も八千鉾に目を向けてる点はさすがだが、王家の子孫は伝承を今に伝えているから阿波説はさすがにない。
>>945
オマエはまた脳が狂っている事をさらけ出してしまったな。
朝貢もせず、狗奴国と戦闘状態である事を訴え、
それを聞いた帯方郡の役人が、
わざわざ詔書、黄幢、檄文を授けたのは、
邪馬台国の使者が狗奴国との戦闘における窮状を訴えたからとしか解釈しようがないことであり、
そうとれないのは、オマエの脳が狂っているからだけでしかない。
狂っているお前の脳を、
オレにはどうすることも出来ない。 黒塚古墳のアレは黄幢かもしれないと言う人がいるけど、日本側だけではどうにもできない
中国で似たようなものが発見されれば証明になるかもしれん
黒塚古墳のが黄幢ならもう決まりだろうけど
それ以前に上のものが下のものにもの一杯あげるのは変と普通に思え
上が下に与えるのは戒律(メー)だ
水行20日と水行10日、陸行1月は後の世に書き加えられた記述だと思う。
不弥国から南で投馬、さらに南で邪馬台
それか原魏志倭人伝の内容じゃないかな。
朝貢とかを無理に捻くるから変なことになる
日本が上
支那が下
普通にこう観ろと
>>949
何が出ても屁理屈で否定されるから決まることはない 畿内説だと神武が東征した先に卑弥呼が居ることになるよな
また、纒向の外来土器に、
北部九州の土器がほとんど無い為、
纒向政権が北部九州を支配していた事が想定できない。
ま、畿内説がどんだけ他を攻撃しようと、俺は九州か瀬戸内説が正しいと思ってるし、それは何か大きな証拠でもでない限り変わらないわな
結局、畿内は水銀ありきの発展でしかないというのが俺の持論だしな
>>953
俺の推論が我ながら全然時系列が違うなw >>956
だらだら書いてるが、ただの妄想
そもそも張政が邪馬台国に来たのは正始六年の詔によるものだ 庄内期(卑弥呼の時代、漢〜魏)の外来鏡は、
圧倒的に北部九州の出土が多く、
畿内に外来鏡が多く出土するのは西晋鏡の時代から。
>>963
土器があれば支配してるんか?www
これも初耳
教科書レベルの知識もないのか、日本史そのものを真っ向から否定してるトンデモのどちらか 実際手漕ぎカヌーでも壱岐から対馬に1日(朝から夕方)で余裕で行ける
魏志倭人伝の1000里は水行1日だよ
エジプトも飛び地くさいから各地に王なに認可なりあたえてたんじゃねーの?
徳によるマツリが基本だったのなら孝弟忠信を始祖にもってただろうし
倭国大乱で敗北して逃亡した漢委奴国の一族が神武だよ
近畿ヤマトは漢委奴国の成れの果て
空白地帯となった九州で共立されたのが親魏倭王
卑弥呼の死後に親魏倭王の権威を漢委奴国が乗っ取った
>>968
このデタラメのソースは?
どこの馬の骨ともわからんやつのHPとか個人ブログか?
考古学者の見解と全然違うんだがwww >>966
魏志倭人伝に
其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。
と書いてあるのに、なぜすぐわかる嘘をつく?
舐めてるのか?? 秋田のなまはげと徐福伝説
蝦夷にとって徐福は鬼だったということ
神社を占領して家を荒らしたり人を拐っていたのは本当なのかもね
>>974
デタラメは畿内説だけだろうね
843 :不要不急の名無しさん :2020/09/17(木) 21:20:14.52 ID:aLmEXdvD0
>>841
それは基礎知識じゃなくてただの間違いだよw
もっと言えば畿内説学者によるデマ
中国鏡の年代は文字記録のある中国側で詳細に研究されはっきりしている
文字記録のない日本の年代観よりずっと正確なのは言うまでも無い
その中国の銅鏡研究者の見解では魏やその後の西晋の鏡は九州北部が出土の中心
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
>>975
魏の役人は皇帝の詔は無視するが、東夷の野蛮国からの要請には即応えたとでも思ってんのか?
そして邪馬台国が帯方郡に窮状を訴え救いを求めたとかどこにも書かれてない >>969
コレは纒向発掘の権威、
関川 尚功氏の説だが??
(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、石野博信とともに報告書『纒向』を著した。
オマエ、こんな事も知らずに、
よくもまあ邪馬台国論争しようと思ったな?
無知が畿内説を唱えている事を証明しているだけだぞ。 そもそも明史でさえテキトーな記述ばっかなのに魏書の記述なんて信用なるわけねえ
>>981
反論出来ずに愚痴を述べるだけかよw
畿内説も堕ちるところまで堕ちたな >>979
そのインチキ昨日暴いてやっただろ
しつこい >>963
奈良が九州やまと(邪馬台)の交易港博多を手に入れるのは、
倭国大乱(2C末?)で邪馬台を負かしてから。
魏志倭人伝には、大倭(=奈良)が港を管理してると書いてある。
「使大倭監之」(大倭を使って監督)
大陸向けに、邪馬台が倭国盟主という名目で朝貢させているので、
大倭(奈良)は邪馬台の下に居るような振りして正体を隠してる。 >>970
日が明るいうちに着かんと流されてまうやろからな。
日の出から日の入りまでに渡りきる必要はあったやろな。
ただ、島内の移動にも1日使ったやろし、
漕ぎ手を取り替えないなら休日も設けたろうし。
対馬海峡以外の全行程を最大スペックで行ったとも思えんけどな。 >>985
いや全然
畿内説は反論できずに逃げ惑っていただけだったが 精神科医に見放され、匙をなげられた
話を聴いてもらえない…
人生、苦しい。
心理カウンセリングなら
大橋 ひなたぼっこ 迄。お気軽にお声掛けください。
杵築大社が出来たのは716年。古事記編纂の4年後にあたる。
熊野大社も、神魂神社も実は出雲大社より数段上の古社。
熊野大社は東出雲王家が物部にやられた後に逃げ込んだ拠点で、サイの神をまつってて
今のように千家の息がかかる前はスサノオなんて全くいない神社だった
カモス神社は延期式をまとめる際に、千家がウザいことやって、杵築大社の次に並べてしまったから
社家の秋上氏が怒ってしまい「そんなんだったら載せるな」となり、出雲の国の一之宮は熊野大社と杵築大社だけになってしまった
用明天皇のころからある日本屈指の古さの神社だそうだ
>>982
で、関川氏は土器があれば支配してると言ってるのか?
言ってたとすればトンデモだ
まあ関川氏の説は他の考古学者から全く支持されてないけど >>979
そう、年代に関しては文字記録のある古代中国にはかないっこない
畿内のエセ学者がいくら捏造しても無理
魏や晋の鏡は北部九州が分布の中心 そう言えば関川の本はそろそろ出版されるんじゃないか
九州説は買って読めよ
イニエ王が物部氏出身で、北九州におり、東征したことは宇佐八幡の元社家である宇佐さんが本に書いて出してる。
原住地は筑後平野だったそうだ。
>>987
壱岐から九州は明らかに距離短いのに1000里なんだよ
これは水行1日が1000里なだけって事
こういう時休んでるんだろ lud20230204035516ca
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