https://tourism.travelnews.co.jp/kyusyu-okinawa/202008280931221494.html
佐賀県吉野ヶ里町の国営吉野ヶ里歴史公園では9月19日から、特別企画展「よみがえる邪馬台国」が開かれる。
12回目となる今回は「倭人伝のクニを探る」シリーズ第2弾として、大分県宇佐市など豊前地域と青銅器にスポットを当てる。
11月8日まで。
同展では、弥生時代後期の集落跡である別府遺跡をはじめ弥生遺跡が点在する宇佐市を中心とする豊前地域に注目。
遺跡の特色、出土資料から、吉野ヶ里遺跡との関係、播磨・摂津の畿内遺跡との比較などを通して「豊前の国」を検証する。
9月27日には特別記念フォーラムを開催。邪馬台国の九州説と近畿説についての基調講演、フォーラムを行う。
時間は9―17時。特別企画展観覧は無料だが、入園料は大人460円。
実在もしなかった聖徳太子たる人物を正史と餓鬼に教えるジャップに
歴史ってある?
神代もwwwwwwwwwwwww
すべて捏造、隠蔽、でっち上げだろw
[歴史にドキリ] ドキリ☆ソング『卑弥呼』 | Eテレ | NHK for School
徳島かも…
魏の一行は佐賀の松浦で上陸しそこから陸路で進んだと魏志倭人伝にある
九州で下船したのは目的地が九州の中にあったから
畿内なわけがない
>>8
徳島県の剣山に「契約の箱(アーク)」伝説が残っているんだっけ? 九州は大昔から都会やってた文化地区
関東や東北は昔は猿しか住んでいなかったw
九州と関東東北では根本的にすべてが違うw
邪馬台国はちっちゃいしょっぱい国っぽいんだよな。だから畿内では無いと思う。
>>17
本当は天照大神は神でもなんでもないただの人間で中国に朝貢して金印貰ってましたなんて
公式には口が裂けても言えないからな
あさっての方角の畿内に無理やり捏造して有耶無耶にしようと必死なのもそのせい 昔、卑弥呼は大陸から渡ってきた人達(弥生人)の王様だから、韓国人の先祖だと力説してた先生がいたんだけど
その頃はなんじゃそりゃって思ってたけど、最近はやっぱりそうだったのかなと思い始めてる
>>1
その「隙さえあれば邪馬台国スレ」何とかならんのか?
全然ニュース速報じゃないぞ? >>24
そのころのチョン人は今の民族と違うし
シナ人も違う
今の尺度で考えてはいけない 邪馬台国は北部九州地方を支配していた一勢力で、日本の諸勢力の中で中国と親交が最も深かったから記録に残っているだけ。
そしてトヨの代になってすぐ滅びていると読み取れるから、邪馬台国はヤマト王権とは関係無いと考えるのが自然だと思うけどなぁ。
邪馬台国はクマソに滅ぼされる→そのクマソは畿内のヤマト王権に滅ぼされて九州は平定される。
知らんけど。
>>26
9/19から特別企画展が開かれるというニュース速報ですね だいたい赤壁ですら大敗しちまう魏が海渡ってまともに現地にたどりつけるとおもうか???
九州はおろか対馬だってあやしいもんだわ
だから蓬莱山と一緒でいいんじゃね・・・邪馬台国は
邪馬台国は倭の連合王国なんだろ
北九州から畿内まで全部邪馬台国でしたにしときゃ丸く治る
>>17
それ、日本会議の思うツボですよ
今からでも、
日本中に天皇朝鮮人史実を暴露すべきです
>>21
アマテラスは実在していなかった
中国神話 義和 羲和 ギワ
の盗作
日本書紀は世界神話の盗作集でしかない 吉野ヶ里は1世紀に放置されて住民は北東2〜3kmの二塚山に移動
その二塚山遺跡も平原遺跡ができるころには消滅
そして3世紀に台地で高い位置にあって水場も確保できた
吉野ヶ里は再開発されて軍事要塞化される
ただ吉野ヶ里には3世紀の墓がないので
この軍事要塞は赴任派遣制だったと思われる
奴国とか各地から吉野ヶ里に赴任して守りにつく
兵役のようなものが当時すでにあったかもしれない
南の狗奴国の進行を防ぐためのもの
そんな防御基地で吉野ヶ里は邪馬台国ではない
危険なところに王を置かない
王がいたのは吉野ヶ里より北だが
奴国は奴国で伊都国も伊都国なので邪馬台国ではない
要するにこの吉野ヶ里遺跡の存在が
九州北部に邪馬台国がないことを示してる
>>28
「昔のチョンはきれいなチョン!」
んなこたーない
縄文人を虐殺したチョンは
昔から汚物なり >>11
九州だとして、果たして何処だったかだよな
今ある主要な平野は大部分が海だった訳だし >>38
それはもう古い
今は『カエルの骨が出てきたから畿内』 >>39
いや、筑後側の比較的海岸に近い場所にも弥生遺跡があるからそんなに海は入り込んでないよ
この図で一番海よりの扇ノ内遺跡や徳益八枝遺跡も弥生時代
柳川市公式ウェブサイト / 柳川の遺跡
https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kyoiku/rekishibunka/rekishi/iseki.html
>海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により
>弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。
>徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。
>調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。
>また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。
>約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。
>蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。
>先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。
>これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、
>扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。 >>32
記述からして倭は海洋民だったわけだし、使者が行き来するくらいは何の問題もないだろ >>1
なんだまだやってんのかよ
日本史スレではとっくに結論が出ているというのに
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
ジョー・マクモニーグルが透視済みなんだけど。
まだ、やってるの?
筑紫平野の主な環濠集落
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b04chikushi_kangou/photo/kangou_bunpu.jpg
この防衛ラインは奴国や伊都国を守ることを想定していることから
九州北部にとって一番重要な場所は奴国や伊都国であり
邪馬台国はない
もし仮に九州北部に邪馬台国があった場合
この防衛ラインのやり方は説明がつかない
あとやっぱり奴国は奴国であり伊都国は伊都国で邪馬台国ではない >>43
それはかなりよくできてるよな
免田式土器の分布から推定される狗奴国の範囲とも境界が一致してたし 吉野ヶ里より南に邪馬台国があったというのも破綻してるぞ
それなら防衛ラインを吉野ヶ里には作らずもっと南に作る
吉野ヶ里遺跡の存在は九州北部に邪馬台国がないことを示す証拠
>>45
それらを防衛ラインと考えるのは見方が間違っていると思う
魏志倭人伝には倭国の体制が卑弥呼を共立する約30の国々の連合体として描かれているから
それらの集落はそれぞれ独立した国だろう
邪馬台国のために用意された防衛線なんかじゃないよ 皆、大事な事を忘れてるよ。
卑弥呼には子孫が居るんだ。
今では何百人にも増えてる。
オレの身近にも10人居る。
特殊能力を持ってるのですぐ解る。
>>46
>免田式土器の分布から推定される狗奴国の範囲とも境界が一致してたし
それな
やっぱこれだけ整合性があると説得力が違うよな
752 :日本@名無史さん :2020/07/26(日) 01:45:38.02
>>751の奈文研にある資料のpdfにあった免田式土器の分布や説明に解説をつけたもの
やはりどう見ても菊池川より北は邪馬台国側のようだ 筑紫平野=投馬国(が管轄する広域)
熊本平野=邪馬台国(が管轄する広域)
熊本平野は海抜が高く海進の影響が少ない
菊池川流域は福岡の文化圏と同じ
どのみち奴国以上の都会はないのだから、卑弥呼の都は本拠地から離れた行宮とすればいい
景行天皇も仲哀天皇も戦争のため巡幸のために各地にみやこを開いている
邪馬壹、邪馬臺、祁馬臺、邪靡堆、邪摩堆、邪馬嘉
これら邪馬台の表記群の中で一番実際の地名に近いのは邪馬嘉だ
答えは熊本県の山鹿
「邪馬台国はなかった」って本が昔流行ったけど、どうなったの?
>>43
祇園山古墳て知らなかったけど殉葬者がたくさん見つかってるんだな
たしか卑弥呼と一緒に奴隷100人だかが埋められたはずだからそこが卑弥呼の墓である可能性は高いな >>55
卑弥呼を共立したクニグニの地域なんだろう
>>1の豊前もそうかな >>32
軍師同盟では司馬瑋が公孫氏(北朝鮮)を皆殺しにしたとき、倭人の使いにであった。
司馬瑋は喜んでこの使いを歓待したのが事実である。
縁起がよかったんだろうな 司馬瑋も皇帝に暗殺される可能性があった。
>>21
ついでに、読みはテンショウダイジンだから。 吉野ヶ里遺跡はともかく、邪馬台国が九州にあったのは間違いなさそうだね。
『魏志倭人伝』で言及される国ってどれも朝鮮半島南部から九州島にかけて
所在したものばかりだし、そんななかで邪馬台国だけポツンと離れた
畿内だなんて有り得んでしょ?
>>59
小さい集落がちょいちょいあったって感じなのかな。
今の平野部分はずっと湿地で金立くらいまで内陸に行かないと人が住むのに適して無かった感じなんかね。 >>30
わざわざ速報で流す程の事?
それは建前で、単に邪馬台国について議論したいからスレ立ててるようにしか見えんが? >>64
唐津の南から伊万里あたりが松浦じゃない? >>66
野暮なことをいうなよ
邪馬台国スレはニュー速+の華だぜ? >>64
あとイカで有名な呼子があるのが東松浦半島ですね >>70
どうせいつまで経っても結論なんか出ないのにようやるわ >>62
倭人伝に邪馬台国までの距離が書かれてるしね。
帯方郡から狗邪韓国まで7000余里、
狗邪韓国から邪馬台国まで5000余里
って。
この数字だけ見ても邪馬台国畿内説はあり得ないよね。 >>57
重要なのは古代日本ではほとんど殉葬という風習が見られないこと
畿内はもとより日本中の墳墓で大規模な殉葬が見つかってるのは祇園山古墳だけ
あとは糸島の平原遺跡に小規模な痕跡らしきものが見つかったくらい
そう考えると卑弥呼の墓は祇園山古墳か、その近くの未発掘の墳墓ということになるだろう
他には殉葬の文化自体が無いわけだから >>43
そんなところなのか
思っていたより南だな 吉野ヶ里か〜。
以前行ってからもう20年以上経ってもたな。
卑弥呼の後を継いだのが親族の壹與で、今でも九州東北部が「豊」の国なのは
その名残だろう
>>31
多分フェニキアみたいに、九州北部・山陽・四国北部、と瀬戸内沿岸に広がる都市国家連合だったのだろう >>37
昔の倭寇のような狼藉ばかりやったジャップと
現在の戦争で罪なきアジア人を2000万人も殺したジャップは
違うのか。
ジャップのそのうち、宇宙もジャップが創造したと主張しだすね。
さすが、サイコパス民族、ジャップwwwwwwwwwwww >>43
?
「陸行一月」は無かった事になってるの? >>29
滅ぼされたとしたら大和政権かもな。
朝鮮半島日本領維持のため、出航場所の九州北岸勢力のご機嫌取る必要あったろうからな。
九州北岸勢力「あの〜〜、あいつら反抗的でちょっとうざいんですけど〜〜」
大和政権派遣軍「じゃぁ、ちょっと行って滅ぼしてくるわ」 >>75
殉葬の跡がそこにしかないんだったらほとんど決まりみたいなもんじゃん
なんで争ってるんだ? 大分県から宮崎県を支配していたウガヤフキアエズ王朝の何代目かの当主が、天下統一を成功して神武天皇になった。
>>81
水行陸行については他の中国史書での使用例が見つかって
どちらか片方しか行わないことが判明したんだわ
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
卑弥呼なき後の邪馬台国内の内乱にも関係するのかな
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをする
各地に石が牛鬼を倒す伝承が残っている
>>83
100名以上の奴婢が殉葬されたはずなのに
殉葬溝とみられるところからは16人分のものしかみつかってないし
しかも、それが殉葬溝とは一般的には看做されていない(2017年調査結果より)
外周で検出された墓群については半世紀程度の時期のズレがある
そもそも、祇園山古墳を「殉葬墓」としてるのは、一部の九州説信者くらい どこにあるかは諸説あるが、邪馬台国が韓国の植民地ってのは定説だからな
信長の野望やってると豊前は読めるが、このまえ「とよまえ」と読んでるバカがいた
>>45
邪馬台国内で争ってた時期があるらしいからな。
この辺なんかもな。 九州が有力だと思ってるほうだけど吉野ヶ里と決めつけるのは早くねえか
>>91
むしろ吉野ケ里だと思ってる人は少数派だろ >>11
そのまま読むと太平洋に行き着くんだから、畿内説が出てきたわけで >>85
それ、「1里500m」の計算だよね?
「1里=500m」で計算したら、九州飛び出すんじゃなかった?w >>94
三国志で短里が使用されているのは東夷伝だけ
東夷伝は朝鮮半島が4千里四方だとか帯方郡から半島東南部の狗邪韓国まで7千里など一貫して短里で記されている >>96
その東夷伝には普通に里=400mで使われているんですが 神武天皇の東征なんてもののせいで日本のルーツ争いが耐えないんだ。
神武天皇など居なかった。いいね?
最古の三種の神器セットの墓が九州北部から出てるんだから確定でしょ
>>101
?
扶余・高句麗・東沃沮の各条は読んでないの?
三国志の東夷伝読んでるから、韓と倭人の条が短里だって主張してるんじゃないの? 考古学者なんて4年に1度邪馬台国の場所変えて持ち回りで小遣い稼いでるだけだよ
そろそろ沖縄か北海道辺りも候補地に名乗り上げるだろ
>>103
沖縄説はあるよ
海底遺跡がその痕跡らしいw >>105
違うよ
邪馬台国はロマンなんだよ
確定しないのは、「実際に書いてある通り」にいくと海に出てしまう
だから、適当に意訳していじくって都合の悪い部分を切り捨てて塗り替えて
自分の好きな場所に設定できる
そして、そこに古代女王がいて、そこに人々の営みがあった、と妄想できるという、すばらいロマンなんだよ >>104
それ琉球の遺跡ちゃう?
超初期の縄文遺跡みたいなもんやろ? >>43,53
へーこんなんだったんだ
じゃあ魏志倭人伝は狗奴国を含めて九州の3分の2くらいの範囲の話なんだな 吉野ヶ里は神埼郡の前身だろ
魏志倭人伝でいうところの華奴蘇奴国
弥生末期にはこの規模の集落が日本全国にわりとあったということ
>>83
畿内の学者は学閥のしがらみで雁字搦めに縛られてるからな
いまさら後には退けないのさ >>107
本も出てるしググれば色々でてくるけど
水行十日陸行一月・・・これでちゃんと入るのが沖縄であること
(九州説は距離を縮め、畿内説は方角を南から東に変えないとたどり着かない)
「倭の地は温暖で冬も夏も生野菜を食べ、皆裸足」というのが合致するのも沖縄
とかなんか、そういう一応それらしい主張はしてるで 宇佐は渡来系氏族の根拠地で瀬戸内海航路の要衝
秦王国は宇佐なのかもな
>>106
なるほどロマンか〜。おらが村も太古の昔は美少女の女王が治めていた地域とか考えると元気になるな。 >>113
実際には神懸かりの婆さんだったんだろうけどロマンは重要だなw 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>107
沖縄の海底神殿はムー文明の遺産だと聞いたぞ。 宇佐に関しては香春神社なんかもセットだからな
公孫氏の子孫を自称する赤染(常世)氏がこのあたり
>>43
筑後山門か・・・
確かにメジャーな説だけど、俺は>>54と同じく山鹿を推したい
山鹿市にある方保田東原遺跡は中九州最大の集落遺跡だし、
そこで見つかったこの家型土器を作った奴は絶対に古代中国を見て来た奴のはずだ
>>120
明らかに当時の日本の住居とは違う形をしてるな
中国帰りの使節が作ったのか? >>111
水行十日はちょっと苦しいんじゃないかと思うけどな。
水行一月陸行十日なら何とか可能性は残るだろうけど。 畿内説=学問 専門家が支持する学説
九州説=非学問 素人だけが支持してる俗説
北部九州の豊前のあたりは、
邪馬台国はどうかしらんが、何か重要なものが古代からあったと思える
地形と天候というのは実際に見に行くとよくわかる、
>>118
海面が低かったころの遺跡なら相当古いだろうな。
氷河期末期〜縄文早期といったところかな。
どのくらいの水深かでおおよその時期がわかるかもな。 >>38
桃の種が出たからではない
桃の種を使って、纒向遺跡の年代を自然科学の方法で測定できたからだ >>125
「ぼくのかんがえたさいきょうのやまたいこく」みたいなのが多いから会話がかみ合わないというw 畿内説(笑)はいきなり近畿に飛んで途中の土地は完全にスルーしている時点でトンデモ説だわな
アポロ月着陸陰謀説とか妄信している連中なら簡単に騙されそうだけど
>>128
ピクニックに来て桃食うくらい別に不思議でもないと思うけどな。
大和(橿原)の人間だったのか、銅鐸圏(天理〜桜井)の人間だったのかはちょっと気になるが。 >>130
そういうトンチンカンな感想を抱くのは、魏志倭人伝を邪馬台国旅行記だと思ってるからだな
魏志倭人伝は邪馬台国旅行記ではない 九州説は、おらが国さ、の地域おこしが絡んでくるから、九州各地に候補地が乱立する。
>>130
まさにその通り
畿内説とか唱えてるのは別の思惑がある人間とバカだけ >>120
確かに大陸風の家屋だなそれ
初めて見た >>137
そこは人間が居住していた形跡のないだだっ広いだけの資材置き場やで 纒向遺跡の解析で畿内説が有力
九州は突然わいたような感情論だから話にならん
だいたい統一勢力の大和王権が突然できるわけないし
>>139
纏向はたぶん崇神の御代に開発が始まったんやろな。
その頃人がそれなりに住んでたのはもうちょっと南だったかもな。
4世紀の遺跡を見つければいろんなものが出てくるはずだと思うけどな。 >>115-117
圧倒的説得力だな
鉄も絹も無かったくせに桃の種やカエルの骨が根拠の畿内説とかゴミですわ 邪馬台国九州説に騒いでる連中は志摩スペイン村ではしゃぐ客みたいなもん
でも本物のスペインは畿内にあったのよ
倭国大乱で特に争いが激しかった九州を鎮めるために畿内の邪馬台国が仲裁に入り
目付のために九州北部にミニ邪馬台国を作ったいうのが歴史の真実だろうな
>>140
纒向遺跡の解析でわかったことは
・中国との交流の痕跡がない
・人間が居住していた痕跡がない
・魏志倭人伝に記された卑弥呼の宮殿にあるはずの城柵や高楼がない
これらの事実から纏向は卑弥呼とは全く関係ないことが判明しただけだぞw >>145
たぶん掘りあてたのが3世紀中旬〜4世紀のだったんだよ。
4世紀のを掘りあてればいろいろ出てくるはず。 日本の建国は大和から
日本=大和だし神宮も神器も全て畿内にある
一国を収める大国が降ってわいた九州とか無いわ
当時の船って瀬戸内海を行き来出来たのかね?
今ですら難所なのに・・・
>>149
船って言っても片手で数えられる程度の人数しか乗れんようなもんじゃないの? >>151
最古の水田が紀元前1000年だから、韓国人じゃなく半島の倭人だろうけどな。 >>148
こういう知恵遅れしかいないのが畿内説の特徴
古代においては文明は西高東低
鉄器も養蚕も稲作も全部九州から始まったわけだが
降って湧いたとか無知を晒しているだけだと気づかない愚か者 ていうか、考古学なんか必要なの?古事記日本書紀で十分やろ。金の無駄
>>154
日本人としてのアイデンティティとか団結力とか、国家の存続に必要なんだって。 >>51 吉野ヶ里で2階建ての建物復元されてるけど
当時の日本であれだけのものができたのは
唐古鍵の楼閣とか池上曽根の巨大倉庫とか
纏向の大型建物Dくらい
大木を柱に加工してそれを縦につないで横にハリも必要
穴と差し込む部分の調整は道具がない当時はかなり難しいが
できる人たちがいてそれは九州北部とそこから移転した人たち
30ヶ国連合のだれでもできたことじゃない >>157
纏向遺跡の技術は僕は出雲じゃないかと思うけどな。 >>120
えらく近代的な建築に見えるな
ドアノブとか今でも同じようなのあってウケるw >>158 影響はあったと思うけど
今の大工でも難しい木をつなぐ技術は九州北部由来だと思うよ
国譲りで天皇側が出雲大社を立てるとか
建築では先を行っていたんじゃないか 伊都国と纏向で水路とか運河とか際で土砂が崩れるのを防ぐため
板で補強してるのが共通してる
伊都国
纏向の水路の板
>>160
国ゆずりは200〜300年前の話で、
九州北部側が建築費用を出しただけだと思うけどな。 >>128
遅れてるゥw
畿内厨がそう思ってイキってたらIntcalが更新されて時代が大幅に新しくなっちゃって涙目なのが現状だぞw >>85
こんなのあったのか
これだとかなり話が変わってくるな なんで保守系の人間て、魏志倭人伝を鼻で笑うように無視するん?
中国関係のメルマガをよく見ていたひとも、根拠もなくただの噂話とかで片付けててびっくり。
パヨクはもうめちゃくちゃな作り話になっててお笑いだけどw
>>161 >>162
水田稲作に関わる土木技術と言う事なら九州が進んでた可能性は僕も高いと思うかな。
ただ、纏向は数百年昔の話になるが九州出身の天皇家が独自に持ってたんじゃないかと思うかな。 魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
>>85
知らんかった
たまにこういうのがあるから5ちゃんはやめられねぇ 久々の邪馬台国スレだというのに九州説が圧倒的過ぎてスレが伸びんな
畿内説はお通夜かw
>>173
畿内説が滅んだなら、次は弥生中期〜後期神武東征九州説vs九州東遷説かな。 九州北部に中国の後ろ盾もった地域があるのに、その後すぐ畿内が西日本統一するというのも不合理な流れ
邪馬台ヤマトと読むとすっきりする
九州説はオレしかいなかったのに、
長く険しい活動が実ったな。
一切の先入観を捨ててみると、あら不思議
- 邪馬台国は九州にあった!
ということがはっきりと分かる!w
邪馬台国→大和王権
ヤマタイコク→ヤマト国
天照大神→天皇(邪馬台国の女王から男系天皇)
↑が普通だしに繋がりもあるんだよなあ
九州説なんて九州人以外誰も信じないから
本当に今日は畿内説の人がおとなしいね
>>43はそんなに効いたの? >>181
たぶん>>166だろ
Intcal20はマジで畿内説に致命傷っぽいから
今まで卑弥呼の時代だと騒いでいたのがみんな
もっと新しい時代になっちゃったからね
日本史板の畿内説論者は完全にお通夜です 畿内説の根拠は「考古学的成果」しか無いからね。
これって、出土品の年代測定を都合よく操作しているだけw
>>173
いったいどこを見て九州説が圧倒的だと見えるんだ?
現実的には九州説という学説はもう存在しない
ただのエンタメコンテンツ、あるいは素人が言い張ってるだけの俗説に過ぎない
まあ圧倒的なのは信者の数だな
5ちゃんねるに限ると、9割以上が九州説信者
頭の逝かれた異常者が5ちゃんねるに集まってきていることの証 >>185
>頭の逝かれた異常者が5ちゃんねるに集まってきていることの証
そんなに力いっぱい自己紹介しなくてもw 畿内説のc14は、
明らかにピークじゃない方を採用して
時代を偽っていたからな。
>>185
何のしがらみもない5chの人間が両方の意見を見た結果九州説が圧倒的なら九州説に圧倒的な説得力があったってことだろ
誰も説得できない畿内説とやらが貧弱すぎただけでは >>183
Intcal20とIntcal13の較正曲線の比較見たが、Intcal20はJcalに近いな
そうするとIntcal20で較正した実年代は、考古学者の土器編年とドンピシャだ
畿内説がますます確定的になったわ
いい情報ありがとう >>189
幻覚が見えてるの?
今回の改定で全体的に50年くらい時代が新しくなるから日本史板の畿内論者は絶望に打ちひしがれてるんだけどw 従来のIntcal13は
・考古学者の土器編年と矛盾はしてない
・九州説信者が言い張る根拠不明の年代とは不一致
これがIntcal20では
・考古学者の土器編年と一致する
・九州説信者が言い張る根拠不明の年代とは不一致
こりゃ邪馬台国論争も完全決着だわな
>>180
だったら古事記と日本書紀に記述があるはず
機内説は万世一系に固執する頭の硬いバカ説 >>190
試しに纒向で見つかった桃の種の年代をIntcal20で較正してみなよ
1700〜1720BPくらいになる
実年代でAD230〜250年くらいだ
考古学者の土器編年と見事にドンピシャ
つまり纒向遺跡の大型建物はAD230〜250年くらいに取り壊されたことになる
卑弥呼の死亡時期と完全に一致 >>75
殉葬するにはそれだけ権力と人口が必要で、当時の国力では難しかったのでは。 そもそも、土器編年は従来説の方が矛盾が無かった訳で、
c14が間違っている事は日を見るより明らかだった。
>>187
> 畿内説のc14は、明らかにピークじゃない方を採用
え! そうだったんですか。それは重要ですね。
そのインチキ学者の氏名と、論文掲載年を教えてください。
グーグル・スカラーで探してくる! 邪とか卑とかなんでそんなネガティヴな漢字当ててるのん?
>>198
自分を中華(一番華やか)って自慢しておいてほかを野蛮なものって名付ける程度に差別的だからな
悪い意味以外に日本の鬼とか悪という字みたいに強いという意味は含まれていてもいいかもな >>192
700年に記された記紀
6か国語をマスターしていると主張した李明博の孫が隣りにいますたとさ
でも、当時の日本語だけ読めなかったとさ 九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに並行読み。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。なぜか不思議なことに古墳だけをわざわざ大阪平野まで造りに行った。
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。
・裸國・黒歯國はハワイ
昭和の考古学が続いてるのが九州で
ちゃんと科学と統計学の年代測定を加えたのが纏向
複数の遺物の年代測定から
95%信頼区間を求めることで否定が難しいってことを
おそらく無学な九州は知らないよね
ゆとりは習ってないかもしれない95%信頼区間
滋賀の独楽スレと比べてここは伸びないなw
毎度同じパターンだからもう飽きられたか
>>164
北部九州地域が邪馬台国であったことはもう定説だな。
>>175
大和朝廷の成立は701年だよ。
>>201
九州説の主張
・里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの 。
・韓や壱岐対馬の寸法から短里で記載されている 。
・水行陸行と時間での説明になるので起点は帯方郡へ戻る 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使は呼子付近に上陸して後は陸行。
・壱岐の人口や奴国の人口の記載から推測して九州地域の人口は奈良時代と変わらない。
・関西の巨大古墳は皇室以前の地元の豪族のもの。
・裸國・黒歯國が関西。 >>62
魏志倭人伝には北九州の国々から水行1月陸行1月のぽつねんと離れた場所にあると書いてある まだ畿内説なんか信じ込んでいるアホが存在するのか
いまだに嫌儲でアベガー連呼してそう
>>208
帯方郡から水行20日+水行10日、陸行1月(日)だよ。 >>206
じゃあ、九州の前方後円墳は誰のもの?
九州の三角縁神獣鏡はどうやって入手したの? >>206
同じ行程なのに国名が違うって、言ってることが支離滅裂なんだけど 歴史は派閥論争で決着させるものではない
邪馬台国論争を見るたびそういう危険を感じる
学説(畿内説) vs 俗説(九州説)なんだから派閥論争ではないな
倭国の範囲は朝鮮半島南端、対馬、壱岐、北九州地域
邪馬台国は倭国のなかで宗教的権威を担う一国です
>>212
九州の前方後円墳は九州の豪族のもの
三角縁神獣鏡は九州で作った
>>213
投馬国と邪馬台国は韓の馬韓や辰韓、弁韓みたいなもの
その中に国邑の伊都国や奴国が在る >>201
平野が少ないにもかかわらず四千余戸ある末盧国は相当広範囲のはず。
「濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒」と形容される場所を
呼子以外のどこに比定したいの? 二世紀末に倭国大乱し、卑弥呼を擁立して統合
一部は東に逃げて、最終的に大和の土着勢力を征服して大和政権樹立
四世紀に入ると大和政権が北九州の倭国を征服
こんなところでしょう
考古学的には大和の土着勢力が銅鐸文化、倭国が銅矛文化、前方後円墳は大和政権の象徴
と考えると整合するようです
倭国は百余国から成り立っていると書かれているが100余国が九州島内を刺すのか西日本までを含めるのかが今のところはっきりしてない 邪馬台国連合はそのうちの30余国なので北部九州の事である
>>221
大乱のおかげで整理統合されたんですよ
一部は東に逃げ出しましたし 大分で道路を作ろうとすると、遺跡みたいなものが見つかることが多いんだけど、
見つかったらやっかいものが見つかったー。みたいな感じですごく嫌がられてた。
工事が遅れるからだと思う。
>>214
本州に行くのにせっかくの外洋船を九州で乗り捨てるバカがいるかよw
畿内説って本当に脳みそ無いんだなw >>193
>試しに纒向で見つかった桃の種の年代をIntcal20で較正してみなよ
>1700〜1720BPくらいになる
>実年代でAD230〜250年くらいだ
は?
1700〜1720BPだとピークは4世紀だが何言ってんだコイツ
ホケノ山古墳が4世紀だという事実を暴いたお前らの大嫌いな小枝試料が1700bp前後だぞw
小枝試料1 1710±21bp ピークは4世紀
小枝試料2 1691±20bp ピークは4世紀
桃の種が1700〜1720BPなら纏向は4世紀以降で確定だなw >>173
畿内説なんて最初から無かった
あったのは畿内願望だけ >>219
「濱山海居」が呼子の風景の描写だな
「草木茂盛 行不見前人」は東松浦半島内を通過する時の風景
「好捕魚鰒」は二丈付近の海岸だな。 >>224
呼子付近で船を降り陸路で最終目的地の伊都国へだな
500里(40km)を1日。 >>11
もうそれだけで九州に決まりじゃん
一体何を争ってたの? >>120
これは初めて見た
確かに大陸を見て戻ってきた人間にしか作れないねこれは 筑波と筑紫って筑の字がついてるけど何か関係あるのかな
>>11
明らかに畿内まで行っている裴世清も九州上陸だぞ
>>224
僕は対馬海峡横断は専門の船と専門の漕ぎ手で渡ってると思うから、
日本側の国際港みたいなとこで船と漕ぎ手とお別れだと思うかな。
その後は伊都国で用意された船と漕ぎ手で旅することになるかな。 この頃から朝貢外交を盛んに行ってたのに、文字を書くという発想って本当になかったのかな?
支配圏を拡げるにも文字が無いとどうもならんと思うし。単に見つかって無いだけなのかね。
>>220
記紀にはわざわざ九州から東征してきたって書いてある。つまり、奈良が父祖の地とは書いてない。
だから大和の勢力が九州を征服するとかはない。
おそらく、4世紀に宮崎の勢力が奈良の邪馬台国を征服し大和王朝を作ったのでしょう。
記紀の神話には隼人の伝承が多く載っている。 >>238
九州では一部の王族が文字も使ってたはずじゃないかなとは思うけどな。
出雲が文字を使ってて、大和政権に入ることで文字が使われだし、
後世に伝わった説話が崇神からあるんじゃないかなと思うかな。 >>239
僕も仲哀の時代(おそらく4世紀末)とても大和政権が筑紫を支配してたとは思えないかな。
おそらく勢力範囲は長門までだったと思う。
九州南部は既に勢力圏内だった可能性はあるかもしれんが。
神武建国が紀元前後1世紀頃、大和政権誕生は3世紀と思うかな。 >>241
ヤマトの土着勢力は大国主の出雲でしょう。そして200年前後?くらいに国譲りが行われ、
大和は三十カ国に共立された卑弥呼に譲られマキムクを中心に邪馬台国ができた。
それを4世紀に日向の天皇家が東征し邪馬台国の王の座を奪ったということです。これが神武東征。 王の座を奪った以上卑弥呼=アマテラスの神を大和に祀るのは縁起が悪いと考え、崇神は伊勢に
アマテラスの神を移し伊勢神宮を作った。
>>238
いや普通に魏に文書送ってるんだし、文字を使ってないわけない
そもそも自分たちで呉から来たって言ってて、それが当たり前のように受け入れられてる時点で察し >>201
またそうやってくだらない印象操作に逃げる
放射読みなんて言い方をするといかにも特殊なことをしているように聞こえるが
実際はただの箇条書きに過ぎない
現代の地名で例示すると
「竹芝埠頭は東京港の旅客ターミナルの1つである。東に10kmで葛西に至り、さらに東に2km行くと浦安に至る
南に海路110kmで大島に至り、南に海路なら30km、陸路なら70kmで木更津に至る。」
という文章と同じ
日本語ネイティブの人間ならごく普通の箇条書き文章に過ぎないと分かるだろう
こんな誰でも分かるものにいちいち注釈なんぞ付くわけがない
それを地図上で表示するとルートが放射状になると言うだけの話に過ぎない
魏志倭人伝ではルートが箇条書きになる箇所は動詞の使い方が変えてある
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
箇条書きの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
わざわざ書き方を変えてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所が箇条書きで、起点が前段から移動しない
地図上では放射状のルートになり起点は全て伊都国である
不彌国へのルートには前に動詞があるので前段の奴国から連続のルートとなる
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .┃
ルート分岐@ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
上の竹芝埠頭の例と全く同じ構造 >>8
九州派の土人連中って結局これと同レベルだしな 魏の時代(魏晋南北朝)の漢字の発音を研究してる中国の研究者は、
当時の発音で邪馬台を「ヤマトウ」と読んでいた。
ちなみに、大分には「耶馬溪」という町があった。
平成の大合併で町名はなくなったが。
豊前の宇佐神宮は天皇家とゆかりが深いし、同じ豊前には「京都(みやこ)郡」がある。
九州にあった「ヤマト」が東(大和)に移ったと思う。
記紀神話とも整合性があるし。
>>243
倭族と出雲族があり、元は同じルーツを持つが日本では協力体制を築けずにそれぞれが独自の勢力圏を持っていた
出雲は素戔嗚が立てた国であり、大和とは独立独歩の関係であったが、中大兄皇子が唐の武則天と密約して白村江の戦いの後に唐に出雲を攻め落としてもらった
対価として唐から武則天の身内などを朝廷の一団として大和朝廷に迎え、唐に習い大宝律令を制定して大和朝廷国家として西日本の統一国家を樹立した
記紀では国譲りという穏便な書かれ方をしているが、実は唐に都を焼かれて民は殺戮された
出雲族は北へと逃げ延びて東北に辿り着き、アラバハキを信仰する民として土着した
津軽弁と出雲弁のイントネーションが似ているのはこのせい 九州と近畿には同じ地名が多すぎるのも不思議だもんな。
魏志倭人伝作者「すまん、ウケのいいように創作したわ」
>>250
天孫族のうちヤマトゥ族は大陸からまずは沖縄に入り、黒潮に乗って淡路島、九州、近畿に勢力圏を築いていった説があるね
出雲族は朝鮮半島経由で出雲に入りそこで勢力圏を築いていったと
天孫族も流派が沢山あり、それぞれ個別に日本に入り土着していったから、天孫族の証である神器を見せ合ったりして確かめ合っていた >>247
ぐうの音も出ないほど論破されて畿内厨悔しそう >>253
劔山にはアークがあるという話があり戦後に米軍が大規模調査していたよね >>248
耶馬溪は山国谷の当て字で、1800年代になってからつけられただけ ヤマトゥは、当時の秦氏が、そこに住んでいた時に、自身を呼んでいた呼称であろう。
中国人たちは「弓月」と言ったが、彼らは「ヤマトゥ」と呼んでいた。Japanと日本のようなものである。それに「ヤマトゥ」とは、ヘブル・アラム語で、「ヤー・ウマトゥ」であり、「ヤハウェの民」の意味でもある。
秦氏が日本にやってきたのは4世紀頃であったと考えられている。日本でもちょうどその頃、大和時代が始まり、「大和、山門、倭(やまと)」と呼ぶ時代となったのは、偶然ではあるまい。秦氏が自らの故郷を偲ぶ名前を、日本に付けたのであろう。
さらに地名の話は続く。
その「ヤマトゥ」のさらに東南200km位のところには、驚くことに「ナラ」がある。秦氏が多く住んだ奈良のあたりには、外来語のような地名が多いが、その奈良もこの中央アジア、弓月からとったものなのかもしれない。
ちなみに奈良県の三輪山の近く、その北東の巻向山の一峰は、万葉集の時代から「弓月ヶ嶽」と呼ばれている。
しかもこの一帯には、聖書の「処女懐胎」とそっくりの逸話さえも残っている。
>>255
そんなのもあるのか
さすがにちょっと偶然とは考えにくいね
どうして考古学者はそういうのを見えないふりしてるんだろうか? >>246
>魏志倭人伝ではルートが箇条書きになる箇所は動詞の使い方が変えてある
ホントだ
ちゃんと書き分けがされているんだな >>255
そのリンク先はなかなか読ませるな
筑後山門は物部氏の里でもあるのか 魏と関連性が認められる遺物の出土は北九州が圧倒的だからな
普通に考えて九州にあったんだろう
三角縁神獣鏡は呉鏡というのがもう定説と言っていいだろうし
>>1
吉野ヶ里で耶馬台国展…
いや、展示会は別にいいけど、まさか耶馬台国は佐賀だったみたいな主張をしてないよね? 学会では奈良でほぼ統一されてるんだから早くあきらめろよ
しつこい!
>>256
江戸時代以降になってつけられた地名とか結構あるからな
国学が盛んになってからの胡散臭い資料も多いし色々と厄介w 現在の大分県から宮崎県を統治してた大名がウガヤフキアエズ王朝。
その73代目当主が天下統一して、神武天皇として初代天皇に就任してる。ちなみに奥様は出雲のオオクニヌシノミコトの娘。
畿内説はC14が拠り所で、
土器の編年もそれに合わせて
グチャグチャに弄ってしまったが、
今回の補正で、従来の編年通りとなったな。
まあコレで謎の150年が埋められるんだから
良かったじゃないか。
>>265
北部九州で魏との関連性が認められる遺物ってなーに? >>267
3世紀は鉄もない沼地の奈良に何が有ったというのだろうか >>272
日田から曹操の墓から出土した鏡と同じ鏡が出土
畿内には魏どころか九州や大陸のものすら3世紀には無かった 3世紀に奈良と交流が有ったのは尾張から東日本が大部分
>>274
日田から出土したなんて初めて聞いた
嘘はダメ >>275
嘘はあかん
東海山陰瀬戸内海の土器が多数 やはり福岡か。金印もあるしね。
金印もないような近畿のド田舎が邪馬台国なわけがないわなぁw
>>277
ハイハイ、嘘を指摘されて切れちゃったか >>281
3世紀の奈良に大陸の物が有るなら上げてみろ >>273
三十か国の連立国だから現地に鉄がなくてもいいんですよ。淡路島に製鉄所があった。 >>282
画文帯神獣鏡と内行花文鏡
製作場所は不明だが、三角縁神獣鏡も魏との交流を裏付けるもの
あと大陸という括りなら朝鮮半島も含まれるから鉄器も入るな
で、北部九州で魏との関連性が認められる遺物ってなーに? 曹操の陵墓(西高穴2号墓)から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式である可能性が高いと発表している
>>286
どこにも書いてないよな
日田から鉄鏡が出土したと嘘は書いてるが >>246
でも「短里」じゃないと計算あわないんでしょ? >>289
息を吐くように嘘を吐くキチガイは相手にするのはやめるわ 建国とかアホか
中韓は人の国に首突っ込むな
侵略者め
>>291
日田から鉄鏡が出土したと嘘つくのは諦めたか
で、魏と関連性が認められる遺物の出土は北九州が圧倒的だと言い張るのみで、
具体的に何があるのかと何度聞いても絶対に答えないwww >>11
卑弥呼には会わずに帰った感じがするなあ。
「卑弥呼はすごい遠いとことに居て、引きこもってて弟にしか会わない。」
てゆう言い訳が書いてある。
使者に会えば卑弥呼は「臣下の儀」を取らされる。それが嫌で会わなかったのか、
使者がこれ以上奥地まで行きたくなかったのか。 鉄器が殆ど出てないに対する反論が淡路島に製鉄の跡らしきものがあったって反論にもなってないんだが…。
畿内説を信じてるのは基地外と北朝鮮(学会)と信者だけだろ
>>298
どこがどう見苦しいの?
九州バカが魏と関連性が認められる遺物の出土は北九州が圧倒的だと嘘をついたから
その嘘を暴いてやろうと、突っ込んで質問したら一切答えられないんだけどwww >>283
淡路島の製鉄所からは北部九州式の返しのついたヤスが見つかっている
瀬戸内海を制していた北部九州の海人族の遺跡だよあれは
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
弥生時代の海の勢力図
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下 近くに高度に文明の栄えた中国があったのにこの時代の日本はなんでこんなに遅れてて、その後たかが300年でなんで発達したの?
>>272
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
>>300
奈良で所持してたのを日田に埋めたとでも言いたいのか?w
ハイハイ流石ゴッドハンドは言う事が違うわ ●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。
●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。
◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant
◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。 RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php 魏志なんぞ信用しちゃ駄目だよ
誤った前提からは何も生まれない
時間 労力の無駄
>>284
画文帯神獣鏡は呉鏡だよ
洛陽でもごくわずかに出土していて皆無ではないが長江流域に比べると著しく少ない
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
>>304
そこに挙げた銅鏡はいずれも後漢時代から魏晋時代にかけて製作されたもの
鏡の名称からでは後漢鏡なのか、魏晋鏡なのかは判断できない
安本は中国人学者が魏晋鏡として挙げた鏡と同じ名称の鏡が九州に多いと言ってるだけ
詐欺師の論法と同じ >>305
誰がそんなこと言うんだ?
嘘を暴かれた腹いせに相手を捏造呼ばわりか >>312
それ何十年前の資料だよ
今どき画文帯神獣鏡がすべて呉鏡と言ってる考古学者いるのか? >>313
生憎だがそこに挙がっている銅鏡のうち位至三公鏡については後漢代にはほぼ見られず西晋時代のものがほとんど
そしてその位至三公鏡も北部九州が出土の中心
アキラメロン >>315
そんな難癖を付けるんだったら君が最新データで反駁すればいいだけ
出来ないのならただの言いがかりでしかない
画文帯神獣鏡の出土は圧倒的に長江流域に多く、中原ではごくわずかに過ぎない
それが事実 ・邪馬台国は、あったとすれば九州のどこかだろう
・邪馬台国は、のちの大和との直接の連続性は、まず無いだろう
・大和も発祥は九州のどこか、そこから東征して畿内へ…という大筋は変わらないだろう
大筋ではこんな感じだと思っている
金印の出土がいかにも胡散臭くて、江戸時代の国粋かぶれの国学者の仕込み(捏造)だろう…と思bチたら
現荘繧フ科学で分析bオたらわりとガャ`で本物の可能瑞ォが高かったっbトいうのマジ歴試jロマン
>>1
吉野ヶ里は素晴らしいけど、ほぼ100%ヤマタイではないので諦めよう
九州にあったことは確かだが、吉野ヶ里だとすると鏡もないし、
古墳も4世紀までない
九州説を取る俺でも吉野ヶ里はないわ >>318
たぶんマイルドに文献史学とればそうなるよ
変な思想性入れなければね
がんばって天皇家の対外文献の最古の記録、魏書東夷伝に求め、
さらにそれを遡ることにして欠史八代含めて無理やり繋げることで紀元節作る連中にはウケが悪いけどな
日本書紀と古事記通りに九州でなんかあって、
ウガヤフキアエズの息子たちが東征はじめて渡来系の吉備国諦めて近畿の山にたどり着いた
古事記にバッチリ書いてあるからな
>『古事記』 編集
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、
日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、
豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。
宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。
彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、
さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。 >>273
朝鮮半島に日本領ができたのはおそらく3世紀末。
そのために活発に動いていた時期だと思うかな。 >>273
弥生時代瀬戸内と交易してたのは日向だって読んだことあるけどな。 >>296
倭人伝の人は卑弥呼に会ってないよなあれw
倭国側もそう簡単に卑弥呼と会わせることは安全上させなかったはず
関西の邪馬台国を本拠地として、大陸に対して出張その他攻撃の前線としての役割を筑紫が担ってたんだと思う
だから九州で武器に使用する鉄が出土 あれっ、アンカ間違ってるな。
>>301
弥生時代瀬戸内と交易してたのは日向だって読んだことあるけどな。 邪馬台国は阿蘇らへんが最有力みたいだね。熊本県だな。
>>302
九州・大和の農業技術は遅れてなかったと推測するし、
工業技術でも銅鐸作ってるし、その後も速攻で銅鏡製作してたっぽいし、
この頃には日本製の鋼が既に世界トップクラスだった可能性も考えられるかな。 隋書に大和が魏志倭人伝の邪馬台国だって書いてあるのにね
>>329
隋は大和朝廷を日本の代表と認めようとしなかったんだよ、きっと。
そのせいで滅んだ可能性が考えられるかな。 >>323
弥生中期には倭人の痕跡があるからもっと早かったのではないかな
大陸との交易のために根拠地は重要 >>332
その頃は九州北部とほぼ対等な独立地域だったと思うかな。
と言うか、九州北岸勢力との連合体みたいな感じだった可能性もあるかな。 >>327
熊本は出土品があまりないんよな
熊本は狗奴國でその北に位置する佐賀が邪馬台国だったんじゃないかな、とは睨んでる
ただ球磨地方が狗奴と読まれたなら熊本北部が邪馬台国となる可能性もあって魏志倭人伝の記述的にも合う
繰り返しになるけど熊本は出土品があまりないから可能性で言うなら低いとは思うけど
熊本北部には遺跡もろくにないしね
トンカラリンがいつ作られたのか分かればまた違うかもしれないけど >>323
魏志倭人伝に半島南部は倭人の領土と書いてある。
ちゃんと魏志倭人伝を読みたまえ。 ヤマトゥとはヤハウェの民という意味で天孫族は総じてヤマトゥと自身を呼称した
だから天孫族が西日本各地に拠点を築いてそれぞれがヤマトゥと名乗ったのでヤマトゥは複数ある
>>338
まあ、ヤマトゥがヤハウェは民と勝手に決めつけたのは明治の日本人だけどな 邪馬台国って所詮ソビエト中央委員会の原始朝鮮巫女シャーマンの女王国にすぎないからな
豊前国は沿海州極東州のロシア東端にある地域で
今はまだロシア中国北朝鮮大韓m金国が少し残っているが、そこに朝鮮共産党が
アメリカソビエトオカルト共産や黒魔術呪術妖術軍がせまっているのかもしれない
領域は、福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉小豆サポニン上海人の日経は要注意北区・小倉南区・門司区)、
筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域、及び大分県北部(
中津市・宇佐市)から成る。
1876年(明治9年)、豊前一国を管轄した小倉県は、全体が福岡県に編入された後、
山国川以東の2郡が大分県に編入された。しかし豊前国として共通の歴史を持つため、
現在でも文化面、生活面での結び付きが強い。
なお、豊前国豊津(みやこ町)出身の堺利彦はその自伝の中で、
「筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、
私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。
何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。
福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。
私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、
北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」と記している
>>273
三世紀は長いからねw
丹後から鉄がたくさん出るよ。
丹波一族が奈良に進出して他の氏族も奈良盆地に入って、
そして卑弥呼を共立し、都を作った。
これが三世紀初め頃だからね。
江戸には10〜15世紀のめぼしい遺物が出ないから
「江戸」はでっちあげだと言ってるのと同じなわけだ。 多分朝鮮民主主義の北方の中華人民共和国東北満州国県吉林省あたりから牡丹江
遼寧省あたりにいる日系人満州人上海人が危ないと思われる
【新華社太原8月30日】中国山西省臨汾(りんふん)市襄汾(じょうふん)県で29日に起きたレストラン倒壊事故の救急救援指揮部(対策本部)は30日、犠牲者29人の名前を公表した。
【新華社福州8月30日】中国福建省海事局によると、30日午前4時ごろ
(日本時間同5時ごろ)、同省泉州籍の漁船1隻が
台湾海峡の平潭島海域で沈没した。午前10時までに
乗組員14人のうち2人を救助したが、12人が行方不明となっている。
現場海域では、通報を受けた同省海上捜索救助センターが
現在も捜索・救助活動を行っており、事故原因の調査も進められている。(記者/林凱)
7世紀末に、豊国(とよのくに、とよくに)を分割して豊後国とともに設けられたとされる。豊前は平安時代まで和名で「とよくにのみちのくち」と読んだ。
1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で豊前国内にあった豊津藩、千束藩、中津藩がそれぞれ県となり、同年11月14日の第1次府県統合によって3県および豊前国内の日田県管地(企救郡等)が統一されて小倉県となった。
1976年(明治9年)4月に小倉県は福岡県に編入されたが、
同年8月、豊前国(延喜式8郡)のうち最南部の2郡(宇佐郡・下毛郡)は大分県に編入された。
>>302
弥生時代の巨大な銅鐸を見たことない人?
絹織物をつくり、漆を使い、伝播した鉄や青銅の製品を
またたく間に真似して自分で作るようになり、
大規模な弥生王墓を作り国家統一にむけて進んでる国が
遅れていると?
中国だって全土が進んでたわけじゃないからな。
あくまでも都がでかいわけで。 >>337
そこに住んでる倭人の領土やろ?
弥生時代始まった頃からそりゃそうでしょ。
日本書紀に大和政権の朝鮮半島との初めての交流が記述されており、
いろんな考古学的物証を考慮した紀年論から推定年代は3世紀末。
他国の歴史書ばかりありがたがっていないで
もっと自国の歴史書を尊重してみてはどうかね? >>342
そこをナラと名付けたのがその人達だよね
弓月国、現在のカザフスタンあたりから日本に来た秦氏
あしびきの山川の瀬の鳴るなべに 弓月ヶ嶽に雲立ち渡る (巻7-1088) >>323
中国の史書に半島南部は倭人の土地だと書かれている。
縄文時代から半島南部と九州北部は繋がりがある。
というか、縄文人が半島に住んでる状態。
白村江の戦いで追い出されるまで、倭人の土地だった。
取り残された人々はその後、朝鮮人のなかに取り込まれて今に至る。 >>352
白村江の戦いの後に唐軍は出雲に進軍、シュメール 末裔の天孫族ら出雲王朝が唐軍に滅ぼされたからね
ヤマトゥと武則天の密約で半島は唐、列島はヤマトゥのものとなった >>348
いろんな考古学的物証って何?
ひとつでも上げてみて >>348
日本書紀は唐国家臣の中臣鎌足の子孫の藤原不比等が、親唐国家ヤマトに相応しい歴史書としてクリエイティブしたものだから ヤマトとはいわゆるニホンと同じ
九州はニホン国ですか?そうです
近畿はニホン国ですか?そうです
現在九州は日本ですか? Yes
3世紀九州は日本ですか? No
3世紀九州は日本列島にありましたか? Yes
3世紀九州はヤマトでしたか?yes
ニホンとは誰が名付けましたか?天武天皇です
天武天皇は日本人ですか?唐生まれの日本人です
現在北京は中華人民共和国ですか? Yes
3世紀北京は中華人民共和国ですか? No
>>361
大和政権は日本と同じ王朝ですか? Yes
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は日本と同じ王朝ですか? No 大和政権発足後の大開拓時代に水せきとめてたなんかをどけられて干上がってもたとか?
>>353
魏志倭人伝によると
半島南端の狗邪韓国は倭国の一部である >>366
その原文書いてみてよ。
どっちにせよその倭国≠大和政権だろうけど。 >>367
原文は魏志倭人伝の有名な文章ですから自分で読んでください
倭国と大和政権が別物なのは常識です 倭国は日本全域(蝦夷は毛人の国)と半島南端を指す
邪馬台国やヤマト王権は倭国内の一部
三角縁神獣鏡が出土して「これが卑弥呼の墓である決定打だ!」なんて言われていた時代からだいぶ研究が進んで今元気なのは九州説を推す人達だな
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡も日本じゃ知名度がマイナーかもしれんが超一級の遺物だね
だから魏によってまるで倭国を代表してるかのように扱われてる一つの国が邪馬台国だって話でしょ
その邪馬台(ヤマト)が7世紀近くまで国号の大和(ヤマト)と同名なのも
邪馬台国の権力は後世もずっと途切れておらず連続していたのがわかる
トップは変わってるけどな
>>371
日田の鏡はもっと騒がれて、取り上げられてもいいと思うんだけどな。 >>371
山を神聖視する古代日本の地で、山に囲まれた日田の地は祭祀の中心として、これ程適した地はないと思うね
此処から鉄鏡が出土したのはある意味必然? お前らもう少し豊前の話しろよ
宇佐は瀬戸内海航路で必ず立ち寄るところだったし、宇佐八幡以外にも香春神社もある渡来系氏族が多かったところ
>>342
邪馬台国の前身は伊勢遺跡なんだろうけどなんで移転したんだろうな >>374
確かにブラタモリの奈良(?)でみたけど、
山を選んで山のそばに施設を作ったみたいね。
山に囲まれてる日田と似てるね。 こらこら、勝手に邪馬台国と結びつけるなよ。
妄想が過ぎる
>>376
臣下がみんな大和に寝返っていき、自然消滅した大勢力の1つにすぎんと思うけどな。 >>331
魏志倭人伝に奴国(博多)は二萬戸とあるから3世紀には栄えていたよ
当時の東夷では最大の都市。
>>380
白村江の戦いで倭国が唐に敗れたんで大和朝廷が日本全国を支配するようになったんだよ。 >>383
福岡の場合鴻臚館もそうだけど古代集落からそのまま発展して大都市になってるからな
吉野ヶ里みたく町が神埼に移転してりゃ発掘もしやすいけど >>383
博多がどこまでを指すのかがよくわかってないんかもしれんけど、
弥生時代はその大半が海やったんちゃう?
伊勢遺跡は古墳時代に入って弥生時代のような勢いはなくなってるとか
読んだことがあるような気がするけどな。
白村江の戦いで決定的になったのは、
九州北部勢力の巻き返しの目が完全に途絶えただけで、
磐井の乱後には大和政権の九州から関東までの支配が確定してたと思うけどな。
それからしばらくして、おそらく欽明かもうちょっと後かに大和朝廷誕生かな。
その後、平安時代に東北、江戸時代に沖縄、明治に北海道かな。
まあ、北海道には平安時代から本土人がどんどん入り込んでってたとは思うけど。
アイヌを除く原住民の中には先祖をたどれば阿波みたいなやつが結構いたんかもな。 >>386
白村江の戦いでは出雲王朝が唐軍に滅ばされたからね
九州ヤマトゥと出雲王朝の連合政権は弱体化して近畿ヤマトゥの独断場となった
そして、それは中大兄皇子の計画通りという説も... >>386
住吉神社の前まで海が入り込んでいたらしいね。
>磐井の乱後には大和政権の九州から関東までの支配が確定してたと思うけどな。
それは8世紀に書かれた日本書紀によるとだな
実際には記紀の創られた8世紀に大和朝廷が成立して
それ以前の記紀の記事は大和朝廷の正当性を示す為に創作されたものだな。 >>387
出雲王朝が唐軍に滅ばされたとかいう根拠がよくわからん。
天智は近江に宮かまえたりしてたんで北陸とは良好な関係を築いてたはずだし、
出雲とも悪かったとは思えんけどな。 伊都(怡土)が要衝だったのも糸島半島がまだ半島じゃなかったからだよな
今見るとへんな内陸部に平原遺跡だの怡土城がある
>>388
今の海岸線とそんなに変わらんのか。
じゃあ、ちょっと勘違いしてたな。
板付遺跡の近くに海岸線があったのかなと思ってた。
以前、奴国2万戸を支える福岡平野の広さに文句付けてた畿内説者いたから。
記紀には一部そういう部分もあるだろうけど、
基本みんなが史実と思えるようなもんを書いてて
天皇の権威付けに利用してたと思うけどな。
国を治める上で本当に重要な嘘もほんの少し混じってるだろうけど、
事実の中に巧みに混ぜることで効果を発揮するはずだからな。 >>401
そこ迄攻め込まれてたなら、防人九州に置けないやん! >>392
これ、僕宛かな?
そうだとしたら、弥生時代の話だから。
天智の頃もそうだろうけど、平安時代には弥生時代に海だったところが結構陸地化してたけど、
そこは中世のような賑やかさはまだなかったんじゃないかと思ってて。
遣唐使を廃止して中国船が貿易にやって来るようになってから
急激に発展したはずだと思って。 纏向、三輪山辺りにある有名な山辺の道
なぜ盆地の中では無く山の辺に道があったかというと
3世紀まで大きな湖だった為に山の辺の道が湖岸だったことが地質学的に判明している
纏向はC14の異常値だけを採用して強引に3世紀の古墳にしようとしてきたが、4世紀から5世紀が妥当
箸墓から馬具が発見された時は大騒ぎしていたのに
後から投げ込んだ物とか、後になって言い出す始末
畿内説は宗教みたいなもんだな
朝鮮半島南端から九州北部にかけて繁栄した倭国には邪馬台国を含む数十か国が存在したので
吉野ヶ里遺跡がどの国に遺跡かわからんけど、倭国の遺跡であることは間違いない
>>391
3世紀には博多駅とかわ海の底だな
奴国2万戸は筑前地方の大部分でしょうね
記紀は天皇の権威付けが目的で内容は古文書からの転記です
大和朝廷とは関係ない記事を大和朝廷の事として改竄してる
磐井の乱も九州内での出来事で大和朝廷とは無関係ですよ
記紀の完成後に基となった資料は焚書したんで
8世紀以前の日本の歴史は闇の中。 >>398
邪馬台国≒倭国でしょうね
邪馬台国の中に伊都国や奴国があった
北部九州地域全域が邪馬台国と考えていい。 >>398
それっぽいこと言ってるけど、何一つ根拠も証拠も無い話しかしてなくて、ワロタw
九州説ってこんな宗教っぽい説なの?(笑) >>398
考古遺物を見るとどう見ても邪馬台国は九州だよ
当時の近畿は九州より遥かに田舎であれだけのクニが有ったレベルじゃない
近畿にあれだけのクニが収まってたんなら当時の九州どうなってたのよw
畿内説の奴等はこの辺どう考えてんのかね >>401
九州説は確立された学説です
論考を読みたければ書籍でも論文でも好きなものを読んでください
かなり大量に出版されてますから 邪馬台はヤマトに決まってるだろが
馬鹿か
卑弥呼は箸墓古墳に眠ってるに決まってるだろが
箸墓伝説も知らないのか馬鹿チョンコ
>>399
古文書からの転記って、蘇我氏が保管してたやつが焼けてもて
覚えてた内容を書き写したとかじゃなかったっけ?
嘘八百の羅列じゃみんな馬鹿にして、天皇の権威付けなんてできんと思うけどな。
新羅が任那に侵攻したことを理由にひとまず九州に兵を送ったことになってるけど、
継体の支援勢力は新羅と太いパイプを持ってたはずだと思うので、
どう見ても茶番だったとしか思えんのよな。
その後しばらくして欽明の頃だったと思うけど百済から博士をいろいろ呼んで
朝廷作り始めてたっぽそうだし。 >>405
箸墓伝説には卑弥呼でてきいてないんちゃう? 倭人伝一書だけが邪馬台国と当て字、他はみんなヤマト、つまり倭人伝はその程度の書。村おこしもいい加減にしてもらいたい。
>>402
考古学遺物を見ると、北九州の国は後漢とのつながりが深く、金印も後漢から送られたもの。
当時後漢に朝貢した倭国王帥升は北九州の国の可能性はある。 しかし、北九州の国と魏との関連はあまり見られない。魏の年号の鏡が全国から出土してると
なると、魏と倭の関係は3世紀に一気に北関東まで広がっている。
九州説でもあまり触れられてない困った話し
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之
一大率は女王国から北を検察する為に伊都国に設置されたというよく見る文面で
九州説だと伊都国=糸島市に一大率が設置されていたと言う筋書きだけど
よくよく考えると糸島市の北って玄海灘じゃん、、、
豊前の市役所に福岡県の職員が訪問したいと言ったら間違えて豊前松江駅で降りてやがんの
豊前市役所が近いのは宇島駅だ
地元しかわからんネタ
最近九州説で面白いのは福永晋三氏だな
珍しく記紀を重視している
>>364
山削って大和川を大阪湾に直通させてから 資治通鑑 白村江
陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同コ,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,立效無日
海外=出雲に兵を留めたままにしているのは高麗を滅ぼすため
>>406
記紀を編纂した頃の大和朝廷の力は強いから嘘だって思っても怖くて黙ってる
それに記紀なんて大和朝廷の関係者以外が見る事なんて無かっただろうからな。
>>411
魏と倭の交流期間は10年と短いからね
魏の年号の鏡は後世に作られたものだな。 魏鏡に年号を彫るという事がそもそも無い
だから三角縁神獣鏡は中国の学者に否定される
>>417
なぜ、魏の年号の鏡を日本で作る必然性があるわけ?その当時の中国の政権の鏡作ればいいわけで。 >>403
九州説が学説?wwwwwwww
いったいどこの国での話ですか?
日本では九州説は俗説ですが >>412
女王国(伊都国)以北の諸国に一大率を置いて諸国を検察させてたんだよ
玄海灘の壱岐、対馬等に一大率を置いていたんだよ。 >>411
そうだよ。
邪馬台国が魏に朝貢した時、その陰に新覇権国の奈良が居た。
朝貢の成果は、奈良が頂きw
漢代には、奴国(博多)が朝貢し、その裏に覇権国邪馬台がいた。
漢衰退期(2C末?)の倭国大乱で、旧覇権国邪馬台は負けた。
和議条件として女を王位に付けさせた。これが女王「共立」だ。
男王=剣を持つ王=覇権 の放棄を科した訳だ。
魏志倭人伝のこの所の記述、女王「共立」の主語は倭国なのだが、
それを教科書では意図的に違う主語にして、みな洗脳されてるw
女王国の内紛の様な可笑しな解釈で洗脳されてるwww >>1
>>【古代】「よみがえる邪馬台国」豊前の国に迫る 吉野ヶ里歴史公園で9月19日から特別企画展 佐賀
卑弥呼の使者:ヤマトに対抗するから国と認めて金印をくれ!→→魏の役人簡略化:ヤマタイコク 仮に魏の年号の鏡を日本で作ったとしたら、魏の漢字の意味をしっているわけであり、魏と
関係があることを重視する社会であることを認めることになる
これってなんでいつまでたっても収束せんの?
ほとんどこじつけみたいな説ばかりだし
>>424
昔の人も舶来品を尊んだよ
未だ卑弥呼が魏に入朝した事が知られてた時代に大量に作られた偽物だろ。 >>425
邪馬台国はここでーすという誰が見ても明確な証拠がないからw 邪とか卑とかいかにも日本人が作った設定ではないよね
中国の創作を現実だと信じ込んで二次創作し続けてるだけなのでは?
>>425
各地の墓を調べれば邪馬台国の答えはおのずと出るんだが
管理している宮内庁が頑なに調査させようとしないんで研究者たちも批判してる状態 >>426
たいていの政権は前の政権を否定するよね。卑弥呼の時代を尊ぶということは卑弥呼の後継者という
ことなのでは? >>417
>魏の年号の鏡は後世に作られたものだな。
そういう荒唐無稽な話を創作しなければ、九州説は即死だもんな
三角縁神獣鏡は3世紀後半には出土している
三国志が世に出る前だ
三角縁神獣鏡が3世紀には製作されていたのは確実だが、
魏の年号が入った三角縁神獣鏡に限り後世に作られたって話は無理筋すぎる
さらに成分分析でも、初期の頃の三角縁神獣鏡と4世紀以降の三角縁神獣鏡には違いがあり
魏の年号が入った三角縁神獣鏡は初期の頃と同じ成分 魏鏡は存在しない年号が入っていたり中国では同型の物が見つかっていないから国産で確定している
>>421
412の文面のつづきには、常に伊都国に置くと書いてるんよ。 最近の中公新書の「日本史の論点」でもちくま新書の「古代史講義」でも
邪馬台国は北部九州にあったと断定してる
畿内説はトンデモ学説としてすでに過去の遺物です
景初四年の鏡を後世作るってありえない話
改元からタイムラグがない時期に作られたと考えられる
>>429
勿論当て字だろうが音はあってるんじゃね?
自分のことを「倭(わ)」=「私、我」と言うとか
「卑弥呼(ひみこ)」=「日巫女」とか >>437
きみ、全然わかってないね
専門家の通説、論文に基づいて書いてるんだよ 畿内説で決着なんでしょ
予算獲得のために九州説を生かしてるのだろうな
>>433
存在しない年号を後世に作るの?後世にはその年号は存在しないってわかってるよね? まともな学者で畿内説を支持する人はいない
つまり、そういうことなんです
日本の考古学は京大で生まれたらしいね
考古学界が畿内説一色なのはそういうのも関係してんのかね
>>444
九州説は東大が唱えてたのにその主張は成り立たないでしょ >>444
京大だから畿内説とかではなく、学問的に見て畿内だと推敲するから畿内説なんでしょ >>440
橿考って奈良県立だから、国からは予算出てないんだがね。 >>434
常に伊都国に置くと書はいてない、常に伊都国で治めるだから
伊都国で女王国以北の一大率をコントロールしていたんだよ。 >>441
当事者の魏では存在しない年号の鏡とか絶対に作らないな
日本からしたら他国の年号だから間違えたんだろうな。 >>431
三角縁神獣鏡を作ったのは卑弥呼政権の末裔だろうな
直ぐに滅んだんではないだろう。
>>432
根拠のない話だなw 日本全体を統べるなんて当時は不可能だろうから
あちこちにその集落の長がいて邪馬台はその一つであり卑弥呼はその一人ってだけじゃない?
たまたま辿り着いた中国人がそこの集落を邪馬台国と名付けただけなのでは
邪馬台国(やまと-こく)、古代王国の連合政権の名前
山口組(やまぐち-ぐみ)、現代ヤクザの連合政権の名前
いずれも山の門、入り口、つまり