本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。
北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。
1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。
鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。
後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。
両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。
亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。
しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。
大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。
ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。
もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。
そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。
正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。
後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。
全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
★1 2020/05/23(土) 01:16:02.50
前スレ
http://2chb.net/r/newsplus/1590164162/ 野武士が暴れ回るわ九州では倭寇になって朝鮮荒らしまくるわでかなりヒャッハーな時代なんだよな
元寇がきっかけじゃないの?
元寇で日本は勝つには勝ったが恩賞を与える事ができなくて幕府は求心力を失ったと習った
現代の人間が当時への妄想を膨らまして常識を語って意味あるのか?
さあ、夢の大地、フクシマへジャップを送り込もう!
こいつらをフクシマでバイトさせれば解決!おれ天才!大学をフクシマに作ればよいのか!
こいつらをフクシマに送り込めば解決!おれ天才!
フクシマの掃除をさせる,フクシマの過疎解決,失業対策,ゴミも死ぬ
一石四鳥!俺天才!
ゴミはゴミ箱へ!クズはクズカゴヘ!クソは肥溜めへ!
フクシマに老人ホームをたてよう!フクシマに保育園を立てよう!
フクシマに放射性廃棄物最終処分場を作ろう!フクシマに世界の放射性廃棄物を受け入れよう!
さあ、夢の大地、フクシマへジャップを送り込もう!
お前らをフクシマでバイトさせれば解決!おれ天才!大学をフクシマに作ればよいのか!
お前らをフクシマに送り込めば解決!おれ天才!
フクシマの掃除をさせる,フクシマの過疎解決,失業対策
一石三鳥!俺天才!
カエサルも始皇帝もナポレオンもみんなルーツは三河
いでよ三河の呑百姓!いつものコピペを見せてやれ
1185年 いい箱作ろう鎌倉幕府
1192年 いい国作ろう鎌倉幕府
元々人種の違う関東には公方が必要でたまたま鎌倉幕府が出来ただけで特別ではない
>>17
疑心暗鬼になってんだろうな
義経の母が、文字通りその体を使ったから助かっただけみたいだし >>17
一族根絶やしにしなければ禍根を残すことを源氏は平家から学び
逆らわず従わずで立ちまわらなければ最後に滅ぼされることを伊達は奥州藤原氏に学んだ なんか小節読んで護良親王が最後閉じ込められてた
洞穴とも呼べない横穴見に行ったな
>>22
家康もその辺はしっかりやってるな
秀頼の娘ですら、当初は殺害予定を尼にして血脈は絶ったし 元寇で損したぶん倭寇で取り返すのに皆んな忙しかったからだろ
落ち目の幕府なんて皆どうでもよかったんだよ
承久の乱みたいに反幕の動きは絶えずあり続けたけど後醍醐以前のそれらは幕府の軍事力に耐えられず一撃で簡単に瓦解してた
倒幕には有力武家の棟梁クラスの参加がどうしても必要だったけどそういう者たちに今回の反乱は見込みがある、いっちょ噛みする価値があると思わせるためにはまず最初に自力で勝ってみせねばならなかった
それが楠正成や赤松円心のおかげで可能になった
源氏が3代で途絶えたから
鎌倉幕府の歴代将軍、全部言えない
漫画のセンゴクでは経済の停滞が滅亡を招いたとなってたな(北条氏直公談)
>>25
いや秀頼の子は鬼のようなる真田が島津に連れて落ち延びた
もう1人の子も江戸で坊さんになって生き延びた 子供のころ鎌倉幕府をどれだけ面白く言えるか知恵を絞った思い出
不落の要塞のように称えられた鎌倉が呆気なく陥落したのは何というか
日本史の授業だと後期は執権ばかり出てくるけど、将軍も地味にいたの知って軽く驚いたことある
>>29
楠木や赤松などのガンバリが、鎌倉幕府倒れる原因になったが
公家も武士になり頑張った、特に護良親王
この人が司令塔となり畿内紀州を各地に転戦
殊勲賞 新田義貞
敢闘賞 楠木正成
技能賞 赤松円心
足利は大関だったので三賞は除外、倒幕には10勝ぐらいの成績だったと思うので関脇でも微妙
三賞候補の名和長利も含め、この4人が一気に幕内上位に昇進
後醍醐は足利の横綱(征夷大将軍)昇進を許さず
他の昇進組を優遇する事で、足利に対抗したが
次の天皇を護良親王でなく、阿野廉子の子にしたかったなどの理由で
足利に対抗できたのは護良親王ぐらいしいなかったのに失脚させた
護良親王派の赤松も失脚し足利派に、楠木も勢力が衰え湊川では少ない兵力に
建武の新政は無理がある政権だったが、たった2年で崩壊させたのは後醍醐と阿野廉子なんだろう >>40
ずっと「誰も皆ゆきたガールが」だと思ってた >>17
一時は兄弟を、有力御家人(特に乳母系)とかと婚姻させて、
一族融和を図ったんだけど、
その後、いろいろあったねえ。 将軍暗殺に加え、気に入らない御家人を謀反デッチ上げで次々粛清
という北条氏の恐怖政治に不満が溜まっていたところ
粛清されそうになり開き直った新田義貞に
「次は自分が粛清されるのでは」と怯えていた御家人が次々乗っかり
神がかり的に勝っちゃった
って太平記に書いてある通り、新田義貞が主役だろ
足利義昭が信長を倒せなかったのと同じく
後醍醐天皇に倒幕する力なんかなかったろ
この辺の歴史が舞台の大河「太平記」は面白かったな、尊氏直義の兄弟喧嘩の最後はYouTubeでも落涙必至
ゴダイゴテンノーが信奉していた真言密教立川流の呪詛がきいたんや
平たく言えばこう
(´・ω・`)
高時は病気がちで満足に仕事を出来る状態ではなかったようだな
太平記では「儂に出来るのは、犬と戯れる事ぐらいじゃ…」って言ってた
>>7 負けてないだけだよ。太宰府の手前まで攻め込まれてる。 >>47
独眼竜政宗や武田信玄ほど知られてないけど太平記は傑作大河ドラマだよね。
真田広之&高嶋政伸の足利尊氏&直義の真っ直ぐで懸命な生き様と片岡鶴太郎の退廃的な北条高時の対比がいい。
長崎親子のフランキー堺と西岡徳馬もラスボス&中ボス感あっていいし、何より鶴太郎の怪演した高時は絶品だった。ある意味主役の尊氏すら前半食うほどに。
あと楠木正成の武田鉄也、赤橋守時の勝野洋など涙を禁じ得ないシーン続出の名大河。 >>52
頼朝の死後、有力御家人のバトルロイヤルに勝って幕府の実権を握ったのが執権北条家。 大河太平記って絶賛されるほどに面白くはなかったよ
そりゃ最近のに比べれば遥かにいいけどさ
尊氏が挙兵するごろまでがピーク
幕府倒した後はあんまり面白くない
>>51
ですね、昨今のドラマと違い豪華なキャストに、壮大なスケールで描かれた原作は吉川英治と脚本の池端俊策は今作の大河「麒麟がくる」の原作も手掛けていて、なかなか見ごたえのある重厚なドラマでした
再放送が4月からBSでやってるけど日曜6時からと朝早いのが難点かなー なんで尊氏は直冬にあんなに冷たかったのかな。自分の息子なのに。
ちなみにおっちゃんは後鳥羽上皇が一番好き。
百人一首の藤原定家に「傍若無人」って言った人。
後醍醐天皇は馬鹿なのか有能なのかよくわからんやつだな
>>57 当時、この時代を一年で表現できるかって話しだったけど、ナレ死もなく、面白がった。豪華キャストだらけだった。 >>55
観応の擾乱あたりなんか面白かったけどな。 >>55
建武の新政がボロボロで
尊氏が背いて幕府をひらき
泥沼の南北朝騒乱
幕府内部も直義と高師直の争いでぐだぐだ
という最終回までぶっ通しで面白いやん
物語をまとめるのに最終回なんか90分の超拡大版でまとめあげたところは見事
初回の幼い頃に見た祠の木切れのエピソードを最終回に持ってきたところはグッと来た >>53
政子がチートだったからな。まぁ、実朝暗殺がなくても宮将軍路線は引かれていた訳だが。 >>58
正室が恐かったんじゃね?
のちになっても、嫁が恐くてなんて言えないじゃん >>17
源氏としてはむしろ普通だけどなゲンジバンザイ 後醍醐天皇と言えば
天勾践を空しうすること莫れ,時に范蠡無きにしもあらず
横井庄一さんはグアムで27年間潜んでいる間 小学校で習ったこれを座右の銘にしていたそうだが
まあおまえらも後醍醐天皇みたいにしぶとく生きなさいってこっちゃ
(´・ω・`)
>>64
>幕府内部も直義と高師直の争いでぐだぐだ
お互い交互に南朝と組んだり分かれたりもう分けわかめ そろそろ、尊氏後半から義満前半くらいまでで大河をお願いしたい。
「見てる方が分からなくなってきた」「敵だったのに、一回見逃したら味方になってる?」「あれ?楠木って義満の味方?」とか、視聴者を混乱させたい。
あるいは足利10代から12代将軍あたりの中央政権のぐちゃぐちゃもいい。
>>68
つっても兄弟で生前においつめたの範頼と義経だけで、
全成は頼朝死後だったか?(のこりは大概、源平争乱時に戦死)
あとか甲斐源氏を策略にはめ、従弟の木曽義仲と対立、
おじさんの行家をばっさりくらいだよ。 各地のゲリラ勢力じゃよくでも。近畿を戦乱の渦に留めるだけだったろう・・・。侍崩れの悪党が
根こそぎ打ち取られたら終わりだったんだし・・千早籠城も結構ギリギリだった。(真田広之の太平記
で武田鉄矢が熱演してたけど)。武士も謀反に走りたくても失敗したら得宗北条のしつこさは身に占み
てたからね・・・・。尊氏が六波羅倒して一気に決まったわけで・・・
国宝建造物数
関東 4(白鳳0 平安0 鎌倉0 室町2 近代2)
東京 2 (室町1 近代1)
神奈川1 (室町1) ←鎌倉時代一つも無し
埼玉 1 (近代1)
千葉 0
近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
滋賀 22(平安1 鎌倉7 室町5 近代9)
京都 51(平安7 鎌倉10 室町7 近代27)
大阪 5 (鎌倉4 室町1)
奈良 64(白鳳25 平安7 鎌倉23 室町5 近代4)
兵庫 11(平安2 鎌倉2 室町2 近代5)
和歌山7(鎌倉5 室町2 )
南北朝や応仁の乱、フランスの100年戦争とか
第一次世界大戦も
大義より参加者各々の利権争いだもんな。
>>61
ですね、ゴクミや宮沢りえ起用などイロモノと呼ばれてたけどストーリーもちゃんと繋がってたし一年内で収めたから濃縮されたようなストーリーでした
今は今で良さがあるかもしれないけど、バブルの頃だった当時の方が勢いがあった分良かったかな >>76
100年戦争もわけわからんからな
第二次大戦も参加者がイタリアと中国国民党と
中国共産党だったら同じくらいわけ分からなくなる シナが攻めて来なくても財政は破綻してたからいずれは潰れていただろ
鎌倉幕府が倒れたのは直接的には「源氏の棟梁と皆が考えた足利高氏が挙兵したから」というのは動かないのではないかな。
もちろん他の要因もあって、その機会を作った後醍醐天皇の活動や、北条への不信のような社会情勢もあるんだけど、武力という視点で。
>>81
足利尊氏は当時源氏の棟梁ではないな。
どちらかというと北条家の姻戚として勢力を伸ばしていたので、
その姻戚まで裏切るかという。 >>82
あそこが足利の名前のもとだと思ってた。
足利荘が足利市にあったのだと。(というか、地名が名前にということで。) >>75
日本人を一重の朝鮮人が殺しまくった結果だよね、一重の奴らは野蛮人 >>83
もちろん棟梁ではなかったが、そうなってくれると皆が考えた、ということだ。
だから実際に大勢の武士が味方についた、のだろう。鎌倉攻めだって、総大将は鎌倉を脱出した義詮だしな。 >>81
表面的には高氏とそれを担ぎ上げた武家なんだろうけど、彼らを鎌倉幕府に対してみきりをつけさせたのは楠木正成かな >>85
もともと少ないだけだろ w
それと、東京は近代のものがもっとあってもおかしくないが、朝鮮ならぬ白人に焼き払われた結果。 太平記の前半は
北条内部も内管領長崎円喜の専横に対して
赤橋守時や金沢貞顕らの幕府を良くしようと一枚板でないところや
長崎円喜も何とか落ち目の北条家を守ろうとしてる姿
北条高時の自分ではもうどう仕様もないという絶望ぶりも素晴らしかった
>>87
裏切った後の尊氏は次第にカリスマを発揮するけど、
裏切った直前、直後はそこまで行ってないし、
だれも、そんなことを思ってなかった。
まあ、勢力的には、北条姻戚としてそれなりの動員力はもっていただけ。
で、じっさい幕府を起こした後に、いろいろ伝説を付けくわていっただけ。 個人的には、このあたりは小学館「まんが日本の歴史」がよくまとまっていた気がする。
8巻の前半あたりだったと思う。確か7巻最後が霜月騒動前夜まで。8巻は徳政令や悪党あたりから開始。
日本の歴史の書籍はよく読んでるけど、流れは学習漫画でも十分。
>>73
その功労者の弟二人を誅殺してるからイメージ悪いわけで >>93
そこまで時代遡ったら、後世に残るような代物があったとも思えんがね。
そんな文化あったら簡単に滅ぼされるようなこともなかっただろうし。 六波羅探題は権威が弱かったのか?
江戸時代は天皇が二条城に参内し、将軍の使者に深々と頭を下げていたのに。
義朝とも義経は有能で強かったけど頼朝が小者すぎたから
雑魚に権利持たせちゃダメ
それを言うと家康も雑魚だったけど
>>89
源三位頼政は、清盛のおかげで出世できたけど、
本来の主筋の関係で、以仁王との挙兵を断れなかったようだね。 >>90
明治からのものは関東大震災でほとんど壊滅したからな
ただ帝国ホテルを自ら壊したりタリバンみたいなこともしてる >>53
乗っ取ったというか
そもそも北条のサクセスストーリーだからな
あとから源氏の系譜を名乗る将軍が天下取ったから
源氏中心になっただけで
そうでなかったら源氏なんて全部伝説上の謎人物ばかりだった >>103
旧い時代の史跡で近畿に勝てないのは仕方ないが、東京も江戸時代の建築物ですごいのあったけどね。
上野もそうだけど、芝の増上寺なんかすごい建築物だったが、全部空襲でやられた。
残ってたら間違いなく国宝。 >>98
立川から秩父辺りの大集落がなくなってるからとんでもない大虐殺があったよ 尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
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水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」
蒋介石「最強は熊本、次いで久留米」
革命とか政変が起こる原因は大体が飢饉か疫病。それに気候変動や自然災害が重なる。
>>106
増上寺は本当に惜しいことをした
ただ跡地を再建や公園にしようともせずホテル建てたり
戦後復興期の日本人は本当に心が貧しい
実際貧しかったんだろうけど、これらは民族として反省すべきこと 元寇がなかったら鎌倉幕府が続いて一気に戦国時代にいったかも
という人もいる
>>110
横っちょのホテルのデザインはどうにかならなかったものだろうか。
遠目に見て無機質で。
東京タワーは今や背景で馴染んでるけど。 東京大空襲をカンサイが嘲笑ってるってこと?
もしかするとカンサイは大戦のときユダだったのか
確かにそれだといろいろ辻褄が合う
>>73
頼朝はむっちゃ北条氏に気を使ってるよ
乳母系を嫁にさせた弟の義経範頼は粛清
ほかの源氏一族も粛清
北条婿の弟や源氏は優遇
足利が源氏の中で大族になれたのは北条との縁組で優遇されたおかげ >>71
その時その時で自分に都合の合った陣営に与していただけだよ
あんまり忠義だの小難しく考える必要なし 帝国ホテルは本当にもったいないことをしたと思う
ライトのホテルを残しておけば間違いなく世界遺産になっていたのに
いろいろ事情はあったろうが残せたし残すべきだった
それを経済的事情で破壊してしまった
物の価値がわからないやつらのやることは本当に野蛮で反吐が出る
当時の首相は佐藤栄作だった。安倍晋三共々この一族はろくなことをしない
>>13
ちゅしまwwwwwww
Tsushimaって書くんだよ低学歴 >>72
俺は太平記第一部を鎌倉方中心でやって欲しい
鎌倉武士の壮絶な自刃で幕を閉じる >>118
北条氏は頼朝を政治利用しただけの感があるね
頼朝政子一家って結局誰も残ってないんだよね
孫の代くらいで他の子達もみんな絶えた >>118
いや、マスオさんだったから気を使うでしょ。平家の中ではただの貧乏だし >>57
音楽が三枝茂彰ってのが入ってない
あれ廃盤だから復活させて欲しい 後醍醐天皇の生涯を描いた 大河ドラマでやってくれんかな
堺雅人もしくは香川照之あたりの主役でやってもらって
そもそも頼朝って挙兵したの何才よ
義経が現役バリバリの成人武者だったときその一回り以上も上の頼朝は三十半ば
つまり三十路ニートだったところを北条家に拾われたことになる
娘与えて後はやりたい放題よ
頼朝が北条に気を使って手を出さなかった弟の全成
でも息子の頼家は空気読めずにこの全成をぶち殺した
そしたら北条の返り討ちにあって自分が殺される羽目に
北条婿に手を出さなかった頼朝は賢いとも言える
>>100
義経って政治面ではMunoun極みだろ… そんなもん、草加のご本尊さま上人の陰謀に決まっているでしょ
>>127
つっても頼朝は流人だもん、しかたないじゃん。 後醍醐天皇の評価高いのは勿論なんだけど
新田義貞がチートすぎた
>>10
バンデットか
鎌倉時代末期の漫画って珍しいよね
主役は、てっきり北畠顕信あたりと合流するのかと思ってたけど
尊氏にハメられて殺されちゃうんだっけ 鎌倉幕府スレ
最近、なんか多い印象があるね鎌倉幕府スレ。
なに、世間だか2ちょんだかじゃ流行ってんの? 鎌倉時代。
なんかね、中世ブームって来ているようで来ない、
来ないようで来ているってそんな感じのナウアデイズだね。
んでさ、鎌倉時代の面白いところって
これはいかにもジャップ式だと思うんだけど、
誰が権力を握ってるかわけわかめなところね。
天皇か? 否
将軍か? 否
執権か? 否
得宗か? 否
御内人か? 否
内管領か? ってのが鎌倉幕府の末期で、御座いまして、
北条執権得宗家の、その私兵のトップが日本で一番偉いとか
なんていうかそういうイビツ極まりない権力ってさ
それは長続きしないよねwww
内管領VS天皇陛下ってそりゃ天皇が勝つでしょwww
>得宗
官位は低いけど権威は物凄くあるって面白い地位。
>>135
六波羅探題攻略あたりまでは読んだ記憶があるんだが、
その後どうなったか記憶がない >>125
そうでした、OPでは篳篥を取り入れた勇壮な曲調に仕上がっててドラマにより一層華を添えてましたね
個人的には良い所がいっぱいな大河で、最近の大河が霞むくらいの力作です >>134
新田義貞は後醍醐天皇が源氏の棟梁となりうる(かつ、そんなに強くなって自分を侵してほしくない)人物を配しただけで、単なる一武将ではないのかな。
家柄で大きく足利に劣り、鎌倉時代にも冷遇されたまま。付き従う武士も少ない。
鎌倉攻めで脚光を浴びたことで後醍醐天皇に足利対策として配されたのが、逆に彼の不幸な最期を呼んでしまったのだろう。
と言って楠木は源氏の棟梁にはなれないし彼しかなかった。 大河ドラマで見た片岡鶴太郎の北条高時がまさに怪演だったな
のちに軍師官兵衛でまたバカ殿役をやってて笑った
武士としては所領安堵してくれたら誰でもいいんで、別に新田だろうと足利だろうと護良親王だろうと構わんのだ。というか、後醍醐天皇の綸旨で安堵してくれるならそれでよかった。(実際大混乱で、それが真の鎌倉殿待望論につながる。)
でも、新田義貞はあくまで武士を警戒する後醍醐天皇の下にあるので、好き勝手に動けない。後醍醐天皇に対抗する勢力もなかった。
足利にはそれがあった。
>>123
まあもともと平家に近くて頼朝のクビはねてもよかったところ
政子が結婚したい言い張るから許した上に頼朝の挙兵に賭ける羽目に
それで嫡男死んじゃったから投資した分元はとらんと >>145
でも結局父VS息子、娘でバトルまでするという北条、こえええw >>1今悠久の時を越えて
後醍醐天皇のだいじなものうp
>>147
武士の物語ってそんなのばっかだけどな
戦国武将なんて一番理性的
その前の武士はまじでめちゃくちゃ >>38
頼朝の息子は頼家と実朝の二人だけだったと思ってる人も結構多い
実は実朝は三男で次男が寺にいた
寺にいたがだれもかつがなかったんでそのままスルー
頼朝の血筋だけじゃ権威としてダメだったわけで 足利尊氏という人物は当時のひとを惹き付ける魅力があって
やはりめちゃカリスマがあったんだろう
育ちがいいから全然、物欲ゼロ
死を恐れずいつも最前線で共に戦う姿
この殿のために死んでもいいと思わせる魅力
で、何回負けてもひとが集まってくる
>>152
物欲がないのに、なぜか北条を裏切り、後醍醐天皇とも袂をわかつという。
さらに直義とも殴り合う。
流されてるなあw 結果から見れば
得宗家に近い連中が起こした
単純に鎌倉内紛
北条家が打倒され入れ替わるだけの事変だが
な無敵の人後醍醐が西で尻馬に乗って
近畿と山奥の田舎者たちとパラダイス作ろうとしたからやん
六波羅以後の足利内紛のほうが面白い
北条義時も不思議なんだよなあ
本人のほほんとしてても周りが寄ってたかって助けてくれるんだよ
あんだけ守護力強ければ伊豆の田舎武士が天下人にもなれるってな
>>60
あれは我こそが天意なりとか真面目に言っちゃうようなガチの基地外だったと思ってる 宗教指導者によくいるタイプのキチって印象だな後醍醐
>>99
京って守りづらかったのでは
落とされた時は幕府の権威も急落しただろうな >>157
発端は息子に天皇譲りたいだけの父ちゃんなんよ。 北条裏切って作った足利幕府
でも建武式目でお手本とするのは北条義時泰時親子ですと宣言する
つまり鎌倉幕府を引き継ぐと言ってるようなもんだしな
直接は足利高氏が寝返ったからだろうけど、まあ一番信頼していた足利家が土壇場で
裏切るのはさすがに予想できんだろうしな。ちょっとついてない感じはするな
てか、とうの専門家が鎌倉幕府はなぜ滅亡したのかという問いにわかりませんというのが今の公式見解なんだよなぁ
>>7
むしろ中央政府の強大化が求められてて、結果鎌倉幕府は大きくなってるんだねぇ >>161
北条幕府は前後の時代とは
比較的に平和な善政を行ってたからな >>163
時代を下るにつれ、重要拠点が北条一門に抑えられていきがんがん盤石な体制になって
いくからな。正直不運が重なったとしか..... 醍醐天皇のイメージは菅原道真を
太宰府に流して地獄に堕ちた人だ。
後醍醐も新田にひどい扱いしたね。
>>82
源一族が多くなると「我こそは源◯◯なり」なんて言ってもどこの源さん?って事が多発して△△(地名)の源ですって感じになって行った
これが家名の生まれで足利家で言えば源義康が栃木の足利市の辺り(当時の呼び方は足利荘)を親父さんから貰って足利の源ですって名乗りだしたのが始まり 得宗の早世が続いたのも地味に効いてるな
貞時に長生きしてもらって後醍醐とタイマン貼ってもらいたかった気もするw
高時は優しすぎる
お前らそろそろキャバクラ行ってやれよ
まじで潰れちゃうぞお前らのオアシス
思えば鎌倉幕府も江戸幕府も外圧が原因で滅んだな
特にそれがなかったのに滅んだ室町幕府ってどんだけ無能だったのか・・・
>>6
あの髪型、頭の上がハゲてんのは
兜のため。髪があったら地獄てか、命にかかわるから。
ちなみに農民も意外と、ああいった髪型で頭の上はハゲにしていた。
なぜかって?
農民って基本武士だから。兜かぶって戦場にでてた。
とか戦国時代は警察とかそんなもんなくて
無法地帯だから、自分の村は自分で守らないといけないから >>170
室町幕府こそ初代から外圧を受けずにいられたことがない
外圧を内包し外圧の均衡で成り立っているから
外圧に見えないだけ
地方を治めるシステムにしても酷すぎる 室町幕府は大河の題材にはならんのだね
一度応仁の乱やったが低視聴率で
室町のグダグダ感が好きな人もいるね w
世間的な基準を離れた人間、足利義政のようなタイプが好きな人。
惣村が出来るまでの村里の
イメージが今ひとつ分からない。
足利幕府って結構長く続いたよね
江戸幕府と30年弱しか変わらん
>>170
「日本国王」ってキャッシュカード作って明を現金引き出し機にしたりなかなかのクズっぷりw
後にこのカードを部下に横取りされたり、偽造されたりするけど。 室町幕府って初期には御料所結構あったよな、あれどういう課程で15世紀後半の
少なさになったんだ?というか、三管領家を足利一門と考えると足利家で日本の大部分
領地としていたはずなのに、全然統制とれないんだもんな
鎌倉幕府が1192年じゃなくなったり、大化の改新がなくなったり、歴史変わりすぎだろ!
ドラえもんの仕業か!
>>179
戦乱続きで江戸幕府とは比較にならんがな やっぱ参勤交代が偉大だったのかな
あんなの室町時代にはなかったもんな
まあ後醍醐は天皇だから従うのはわかるが
ただの一御家人の足利風情がえらそーな顔するなよ
て空気があるからな
平和にはならんて
この時代、敗者と勝者がコロコロ変わる
逆転劇ばかりなのがすごい
他の時代ではありえないけど何故なんだろう?
>>186
室町時代は守護大名は全員、京都に詰めとります。
応仁の乱以降、下克上等で領地が心配なので、みんな一斉に帰った。
で、戦国大名化が…… >>189
天下分け目の戦いは短期間で終わるし
風向きも一瞬で変わる
みんな勝ち馬に乗ろうとして
風の流れに敏感になるから
群雄割拠だとそうはならない 「桜井の別れ」の桜井が、箕面の桜井か、島本町の方か
いまだにはっきりしない
>>174
義満の時代をやって欲しいんだがなー
どうも花の乱がコケたのがトラウマで室町時代は避けられているらしい
(というか、戦国幕末ループばかりになっちゃった)
>>178
確かに室町幕府も将軍もいた時代だけどさあ・・・・ >>138
そう、勝海舟先生もいってるけど
北条得宗家なんてのはね、日本一の実力者でありながら
官位はたかだが四位くらいだからね。
元寇ぶっ飛ばした北条時宗公なぞ、当時正五位下なわけでね
やっと殿上人になれるってあたり。
>>170
まあ室町幕府はw
幕府があったってだけで半分から後ろはgdgdだったわけでね。
いやまあ最近の中世ブームでそういう乱暴なこと言うと
在野の史学徒の皆様に怒られちゃうけどさwww
>>174
なにをおっしゃる兎さん
戦国時代って室町時代だぜあれ。
ってか大河ドラマ、戦国と幕末に依り過ぎ。
まあ室町が舞台の大河といえば「花の乱」とかアレだったからねえw
「太平記」はいうほど悪くないと思うんだけどねwww
ついでにいうと鎌倉時代が舞台の「炎立つ」、これ結構好きでねwww go die go だからな。行かないと死ぬ。進むしかない。
>>186
>>190
あの、お偉いさんが首都在住っていうのはね
これはもう平安時代の遥任貴族からこっちの日本文化みたいなもんだよね。
織田信長って上総介を自称したけど、あれなんで上総守じゃないかといえば
上総は親王任国だから。じゃあ上総に親王が来るかといえば来ないわけでねw
江戸時代もさ、大名の妻子は人質っていうんで
江戸の藩邸生まれの藩邸育ちで
つまりはどこの地方の大名であっても江戸っ子なわけw
江戸時代の初期でもなければ大名家に生まれりゃ
三代以上は江戸生まれ江戸育ちだからねwww
んで、悪そうなやつらはだいたい友達なのかどうかは知らないがw
地方は違えども同じ言葉を話す同族ギルドが大名って上級国民なわけで
そういう同質性の高い宮廷とかにいて家格その他で生活や出世が安定すると、
それはまああんまり室町みたいな戦争とかやらんよねwww
そういや聖帝安倍陛下も長州の選挙区ではあるが
そのライフストーリーの舞台はほとんど帝都東京にいるわけで
こういうのもね、なんか日本の生まれながらのおハイソ権力者様の
人生としちゃ符号的だなあと思うねwww >>198
信長はうっかり上総守と名乗った時があったけどねww >>194
厳密にいうなら「炎立つ」はほぼ平安時代の話だが。区分は色々あるだろうけど。 >>174
ま、嘘嘘w言いたいことはわかりますよw
大河としては
源平
鎌倉
南北朝
室町
戦国・安土桃山・江戸創成期
江戸
幕末・明治創成期
明治中期以降
こんな区分ですかね 日本刀の跡ついた骨いっぱいでてきたんだよな日本刀本当につかうのなヤリでいいと思うんだが
大河ドラマ偏るのは仕方ない
誰が主人公だろうと奈良時代で一年は無理だろ、、、
視聴者が付いてこれない
>>200
まったくそうだったw 失礼したwww
あれはまあ武家がふんだんに出てくるが、「東北大河」だからなあ。
しかしね、今ちょっと振り返ったらいきなり「安倍氏」とか出てきてw
これこそ聖帝安倍陛下在世のみぎりにやったら面白かろうとはこれ、思ったねwww
ともあれご教示カムサ
>>201
よかったよね。あれ。
まあね、「花の乱」とか「琉球の風」とか
あの頃の大河はクールからして変則的で(1年1本じゃないし)
主題も主題でイロモノのように扱われることも多いけど
(琉球の風なんか主人公が架空の人物でしょ?)
案外ね、ウリはねえ、いいと思うんだよなあw
あとどうでもいいが、大河信長はね、緒方信長が一番いいと思うw
これはまあ誰も賛同してくれない話だがwww >>204
ええ?奈良は見たいのいっぱいあるけどなあ
ただ天皇皇族ばっかりなのでNHKが二の足踏むんだろうかね 後醍醐天皇の執念は凄まじい。南朝が正統とされたのは朱子学的皇国史観的枠組みによってというよりこの後醍醐天皇の執念を恐れてではないかと勝手に思ってんだけどね。
>>156
そこら変は再来年の大河に凄く期待している。 中学の社会の先生がとにかく新田義貞が嫌いだった
足利尊氏や楠木正成と比較して悪口ばかり言っていた
理由はよくわからん
> 天皇家は、遅くとも承久の乱の時点できっちり滅ぼして王朝交代しておくべきだった
現代人としては、先人に「権威と権力の分離の基礎を作っておいてくれてありがとう」というしかないな。
幕末だけみても薩長が権力を握る根拠が天皇制だった。
これが無ければ薩長は倒幕の大義名分が無く、幕府側が招き入れた外国勢力と薩長軍との長い内戦 で日本中はめちゃくちゃになり、 最終的には人種差別主義の白人どもに殖民地として美味しく頂かれてたかもしれない。
権力はやがて倒される。しかし天皇という権威が残る限り、新たな権力が官軍となれば、日本はすぐにひとつになれる。
天皇という地位が連綿と継承されているコトこそが、「日出る国」が神に愛されている証拠だと俺は信じている。。。
後醍醐天皇って名前がカッコいいよな。ゴダイゴ。4文字中、濁点が3つも入ってる
学会ではなんで鎌倉幕府が滅びたかわからなくなってるらしいね
鎌倉幕府の統治は充実の度合いを増していたのがだんだんわかってきたそうな
だから歴史ってのは必然で動くとは限らないということだね。
人間のやることだから、個人のキャラクターとか偶然は歴史を大きく左右するということなんだろう
>>179
でも室町時代は安定してたのは義満末期から義教死ぬまでの40年くらい
あとの180年くらいはgdgdだったw >>216
ちょうど今が明治維新以来150年くらいだから、今が鎌倉幕府最末期だとすると明治維新くらいの時に鎌倉幕府ができたイメージ >>179
意外と長いのに印象うっすいよな
金閣銀閣羅生門
あと観阿弥世阿弥だっけ >>217
180年もgdgdできる幕府ってある意味才能というかツッコミ不在のボケというか
色々凄い存在だね >>220
初期は南北朝時代だし中期以降は応仁の乱だし
統治機構として機能していない
鎌倉の方が機能していた
直義に任せておくべきだった >>222
籤引きで将軍決めるとか、
ものすごく平等で平和的だと思う。 >>108
源頼朝は尾張じゃないぞ
熱田大宮司職を乗っ取った三河武士の家系
三河の藤姓熱田大宮司家を母方にもつ源頼朝は、鎌倉に幕府を開き、三河にいた母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵し源姓足利氏を誕生させ
その縁故で三河が足利王国になり、三河の足利尊氏はその縁故の三河の鎌倉将軍家の敵をうつ形で室町幕府を誕生させ
三河の徳川家康は、三河の足利将軍家の仇をうつ形で江戸幕府をを誕生させた
これが中世の大まかな流れだ
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏) >>216
得宗は日本史上稀に見る名君揃い
学ぶならここ >>223
いやいや、直義だと不満な武家が多かったからあの始末なわけで 人間関係には大らかなお坊ちゃんだった高氏が
なんであれだけ直冬を嫌い尽くしたんだろうね。
>>216
これは全くその通りで論語では
「陪臣、国命を執れば三世にして失なわざること希し」って言葉があるが、
普通はね、天皇の家来である将軍の又家来(=陪臣)が
国政を壟断すれば長くはもたないのが普通なんだよ。権威の正当性が危ういから。
親韓左派のウリもしばしば述べる勝海舟先生は上記の言を引用して
その上で北条得宗家が国を長く統治したこと褒めているね。
その力量はなるほど大したもんだが、しかしやはり北条治世下では
北条家内外を問わぬ血なまぐさい闘争がったわけでね。
やはり権力の正当性の危うい治世には限界があったよな。
最後は実権は執権得宗家当主の手すら離れて御内人だ内管領だって
迷走した果てに、鎌倉幕府はホロンじゃうんだから。
海舟先生はこれを「北条氏のおごり」といっているが
「平家に非ずんば人に非ず」の平氏をホロンぼした北条家も
やはり「得宗家に非ずんば」の奢りの前にホロンびたってのは、盛者必衰だよ。
安倍一強も、またかくの如しwww
>>218
尼子は父君の方ですな。緒形拳。緒形信長は緒方直人の方。
あの大河の毛利元就もね、中国(地方)大河というご当地大河の一種ですなw
あの大河はちょっと暗かった印象もあるがw
言われてみれば大抵の大河ドラマは暗いよなw 日本史が暗いからwww >>229
大河ドラマ太平記の直冬みたいに鬱陶しいやつだったんじゃね?w >>230
まあ、野党連に後醍醐天皇がいなければ
次の得宗に受け継がれるだけだな 最澄と空海の辺りを大河ドラマで見てみたいんだけど日本会議が絶対許さんわな
大河太平記は宮沢りえだから真田広之は溺愛したが
リアルで考えたら風俗嬢に息子連れてこられても愛せないだろ
南宋の皇帝が独裁して官僚社会を作ったんで後醍醐天皇が影響を受けた
>>194
室町時代でなくて室町幕府だよ
題材にならんの >>211
あの人借金王のくせに踏み倒しばっかりやってたから評判悪かったよ
源氏の名家ってのでよく知らないのは貸すんだけど
当人は完全に貰った気でいたので揉め事が絶えなかった
地方ではそれでだましとられたのが原因で没落したって
うらんでる家が多かったからね
借金に関しては室町幕府の方がえぐかったけどね
南朝倒して国内には敵なしで誰も文句を言えるのいないからと銭をつくりまくって
それでいて借金は身内にしか返さないので地方からすぐにそっぽ向かれた 室町幕府は義満やるべきなんだよ
今なら尊氏に真田広之ワンポイントで使えるだろ
>>227
まあ日本の政治家は得宗に学んで欲しいね
世界に通じるから
石坂浩二も言ってた本人は頼朝役だったがw
歴史勉強して思うことあるんだろう 鶴太郎と陣内の怪演がまた見たい
アンド
宮沢りえと尊氏が結婚すればいいのにと当時思ったな
宮沢りえを公家か家臣の養女にして尊氏と結婚、よくある方法
>>247
陣内のわざとらしい高笑いが太平記のイメージ >>245
尊氏と義満って被ってないんじゃないか?
義満の見せ場って、どこになるんだ? >>238
ちげーよ
後醍醐の理想は醍醐、村上天皇時代の延喜・天暦の治
この辺ドラマでもやらんから日本人の歴史観が繋がらんよな 鎌倉の渋滞は、鎌倉という土地に眠るであろうと思われる遺跡に問題がある
ドンドン発掘調査して、その後、新しい道路を築くべき
公家政治の理想は醍醐村上の延喜天暦
武家政治の理想は北条義時泰時の貞永貞応
なぜ貞永と貞応が入れ替わってるのかは知らん
>>255
実際は醍醐天皇なんもしてないんだけどな。
たまたま、摂関になれる藤原氏がいなかっただけで、
裏ではきっちり仕切られてたし。 後醍醐は醍醐天皇を理想として復古主義に見えるけど
実際に後醍醐を支持したのは悪党とか庶子とか体制からはみ出した連中が多いのが面白いところ
暴力団独裁体制は滅亡していない。
滅亡したのは北条組で、そいつらから
別の暴力団である足利組に移っただけだ
>>242
石には時流に便乗して調子こいてる奴特有の
イラつかせるなにかがあったなあと 自分が仕込んだなら男として責任持ておもたな
かわいそうだよ直冬
>>139
六波羅の後で巻が入って、主人公が尊氏に取り込まれそうになったところで尊氏のちょろ毛を引きちぎって打ち切り
あと、史実と作中で二度死んでる尊氏の兄貴は新田のところで生き延びてた
いい漫画だったのに惜しい事をしたな >>206
太平記で最初に直義にキャスティングされたのは緒形直人だったらしいぜ
正直そっちで見たかった 俺は本木雅弘が直義やってほしかったな
イケメン兄弟で絵になったと思う
千草で出てたけど直義じゃあかんかったんか
後醍醐天皇が親政を志したり、孝明天皇が
攘夷を望まなかったら幕府も滅びなかった
そう考えると、やっぱり天皇の国だなぁ
平家、豊臣家は没落したら臣下が東国武士団に寝返った。
でも後醍醐天皇に忠誠尽くす南朝軍が大勢いたから、尊氏は天下統一できなかった。
劣勢と知りながら多くの武将が従うカリスマ性あったんだろうね。
この人なら命捨てても守りたいという武士が大勢いたから、首取られずに天寿まっとう。
ブルボン家やロマノフ家でさえ政権転覆されたら、臣下に見放されて弑逆された。それ考えると人望ある。
いい国作ろう鎌倉幕府by源頼朝って言い出したやつ誰だ鎌倉幕府と言えば源頼朝のイメージ止まりになってしもた
>>255
執権としての格付けで考えると、御成敗式目の泰時>義時ではないかと >>261
だからちゃんとお寺に入れたじゃないか。
勝手に還俗してくるんだもん。 >>268
足利義詮が最高やったやろ
苦労して幕府作ったのに
息子は北条高時同様、苦労知らずの闘鶏にうつつを抜かすアホボン
という親の苦労がどこまでも続く話で 足利義満の子供が天皇になってるよね。今の天皇家って実は足利家の系統だよね。足利朝。
>>268
フランキー堺が西岡徳馬を虐待してたなw 鎌倉幕府や室町幕府は実際幕府と呼ばれていなかったとこの前知った
>>265
その幕府成立の引き金を引いてしまったのも元天皇の後白河だったという
高倉上皇が長生きしていたらどうなったか分からんけどね >>273
実際にはそこそこ優秀な人だったらしいけどね
関係ないが、あの大河はホームドラマ的には父と子、兄と弟が隠れテーマ的にからんでいるな 鎌倉幕府の滅亡より江戸幕府が何故に滅亡したのか?の方が問題だろう。
鳥羽伏見の戦いで慶喜と容保がトンズラしなければ薩長ごときに遅れを取ることも無かったろうに。
将軍、徳川慶喜が「朝敵としての戦いを怖れた」「国を二分するような戦いを避けた」、、、
等々後付け理由は出てるけどヘタレ過ぎだろう。
薩摩、長州をコテンパンにしておくべきだった。
この時代の御家人って今のヤクザなんかより遥かに凶悪だからな
武家諸法度
旅人をむやみに殺して金品を奪ってはならない。
旅人に面白半分に矢を撃ってはならない。
太平記面白かったな〜
NHKいま新録なくて枠空いてるなら放映してくれ
>>282
フランスの武器の方が強かったしな
水戸学の慶喜が朝敵にされて錦の御旗見て激萎えしたんだろ やはり武力が鎌倉の北条一門しか
いなかったので遅かれ早かれ瓦解してたな
全国からフルボッコにされたら
どうしようもない
関東の一部しか動員できてないしな
後醍醐と後白河が自分の中の
中世二大アクティブ天皇だ
>>287
じっさいはそうでもない
特に後白河は、いうほど策略家じゃないというのが
最近の風潮
どっちかというと場渡的対応が多くて、結果的に生き残った感じ。 >>282
小栗の通りやってれば歴史は変わってたろうな
そうすれば安倍晋三みたいなやつが首相になることもなかった 鎌倉時代ってでかい地震が多かったらしいけど
放射能の影響で滅亡した可能性はないの?
>>281
言葉自体は戦前からあった
公式名称を決めるときにも海軍から「太平洋戦争」という案が出されたそうだ >>290
ほんとだヤバイ!今からでもまた録りなおす! >>258
一か八かの賭けに出るのはそー言う連中。
信長に挙兵した足利義昭もそんなのしか集まらなかった。
まー「革命」なんて勝ち馬に乗れない連中しか集まらんわな。
数が集まりゃ上手く行くってだけ、 このスレ見てると戦国は分かりやすいなて〜思う
次いで幕末、近代、江戸、室町か
>>266
でも後醍醐天皇の取り巻きが糞
楠木正成とか祭り上げられているが典型的な無能上層部の犠牲になった有能現場指揮官じゃん。
どう考えてもブラック企業体質でそれを美徳にしている素晴らしきジャップランド。 >>285
水戸の慶喜が将軍になっちゃう状況を作り出した吉宗が悪い。 >>305
そもそも「民」を実際に支配するって発想はわりと新しいものだからね >>282
江戸幕府存続の意義があまりなかったのかもな >>301
鎌倉末期の「悪党」ってのは、新規に台頭してきた勢力だよ。 信じられないことだけど
今我々は鎌倉時代江戸時代の先にいるんだよな
これがヤバい
>>293
津波に何度も襲われてるな
大仏殿は流されたのに大仏は流されなかったという 鎌倉も室町も江戸も全て暴力で倒された
そもそも天皇の日本統一も暴力
今の日本政府も鳥羽伏見に端を発する暴力革命
>>309
いや、よくわかっていないよ。単に訴訟で相手が悪党ということにして
有利な条件勝ち取るための方便くらいのもんじゃないかね トヨタなどの系列支配って鎌倉幕府の惣領制にそっくりなんだよな
>>314
どうやら悪党って言葉の使い方は現在とあまり変わらないようですねw
訴訟とかでこいつは悪党だから土地を押領しました!って感じでw >>282
銀貨流入による金の流出と銀の暴落によるインフレと
コレラの大流行が大衆の幕府不支持を醸成し
それが維新を後押しした >>312
津波で大仏殿が流されたというのは俗説らしい
津波が来るような地震の前に既に露座の大仏を見た人の記録があるとか >>7
執権政治で鎌倉を乗っ取った北条には権威が足りなかったんだな。
都から距離もあるし、帝は担いだままだしな。足利という軽い御輿を
見つけ出したら東国の無作法な武者政治は不要なんだよ。 >>321
そんなことないよ
北条は官軍を粉砕した日本史上唯一の存在だぞ
権威ありまくり
だから滅亡寸前まで誰1人幕府が倒れるなんて思ってなかった 頼朝の息子潰して後鳥羽院ぶちのめして両統迭立して元の使者ぶっ殺して元軍海に沈めて御家人や身内も粛正しまくり
それでいて民には優しい北条
超有能
三河の足利尊氏は、三河縁故の崇徳院の怨霊に操られていた
これは我ながら使えるネタだ
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→頼氏→家時→貞氏→尊氏
崇徳院
中宮 皇嘉門院(三河国吉良荘領家、兄弟に九条兼実(三河国知行国主))
妾 兵衛佐局(三河の藤姓熱田大宮司家か、源頼朝の親類(吾妻鑑))→重仁親王(乳母は池禅尼(三河守頼盛の母))
妾 女子(源師経(三河権守)室)→女子(崇徳院妾、源頼朝・足利義兼いとこ)
矢作川流域民の能力の高さは異常
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
>>70
田舎侍がこんな故事知ってるわけないだろって 呉座勇一の本を読んだら「鎌倉幕府が滅亡した理由 わからない」と書いてあった
>>82
JR足利駅は構内に太平記オンエア以来
「ようこそ尊氏公のふるさと足利へ」
と30年間ずっと書いてある…
JRも東武も発車チャイムが森高千里の渡良瀬橋だけど
太平記のオープニングテーマに変えてほしい >>328
岡崎が水戸黄門の故郷へようこそとやるくらい間抜けだな
そもそも足利尊氏は足利に行った事すらない
自身は妾の子であり、父親から遠ざけられていたフシもある
貞氏は、鎌倉で正室と跡継ぎの高義と暮らし、妾と尊氏直義は三河に暮らさせていたんだろう
足利尊氏の生誕地は徳川家康の生誕地から直線距離で約1.5キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 足利宗家の屋敷は、三河と鎌倉にしかない
三河にあった屋敷は大門屋敷といい、大門寺という寺の坊舎の一つを屋敷にしていた
この大門寺の創建は、出土した瓦から平安末期と考えられ、大旦那は足利義兼の祖父藤原範忠と思われる
この寺は、江戸期の矢作川の氾濫で廃寺になったと思われるが、寺に立てらたと考えられる足利供養塔が矢作川堤防工事で出土し、今は近くの八剣神社に安置してある
全国の足利尊氏供養塔で銘があり、尊氏死後タイムラグ無しに安置されたのは岡崎の供養塔だけである
http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/yomoyamabanasi/01674yaturugi.html >>315
日本の覇権主義の権化を体現してきた土地柄だからな
細川郷、松平郷はそれぞれ、トヨタ本社から約5キロのご近所さんだ
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>311
平成や令和なんかの21世紀は地味過ぎて将来大河の題材にはならんだろうな
今はタブー視されてるが昭和生まれが全滅する半世紀後には
大日本帝国軍人主役の大河が解禁されるだろう トヨタ本社から足利氏の屋敷があった大門は約8キロ
トヨタ本社から家康が生まれた岡崎城は約10キロ
そして洛中でブイブイ言わせていた斯波氏の碧海荘も約12キロ
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
元寇で(雑兵として)やってきたのがクズ朝鮮人だったので勝てました。テヘペロ
後醍醐天皇の子孫で幸せな人生だった人はどのくらいいるの?y
>>303
側近も主流派でない人が多かったのかな? 後醍醐天皇は理想の政治に燃える不屈の帝という美しいパブリックイメージがあるが
実像は目を付けた女をこっそり孕ませてなし崩し的に嫁にするとか
怪しげ僧や悪党と平気で交流し素っ裸に近い姿で酒盛りするとか
かなりアレな人でもある
北条は元寇から一族で利益を独占し始めて反感をかった
初期の北条はどこの時代のどの学者にも素晴らしいといわれてる
江戸幕府も開港して利益を独占したから反感をかった
上のもんは利益を下に上手く分配しないと潰れる
>>343
他藩に外交や交易して欲しくなかったからじゃね?
西日本は密貿易で潤ってるわけだから
西日本及び、薩長の強さの根源は密貿易による収入 後鳥羽上皇も後醍醐天皇も延喜天暦の治を手本としてその時代に戻ろうとした事が大きな間違いだった
むしろ手本とするならば光孝天皇であったと思う 光孝天皇は白洲正子先生が指摘されているように平安初期不安定な時代を鎮められその後光孝天皇の血統が続いていく
非常に聡明でありながら雅溢れる方で現代ではあまり語られないが平安時代随一の名君であったと思う
>>245
今の時代ならダメ将軍義政とか面白そうだけどな。
父親のマジ基地くじ引き将軍義教暗殺のエピソードから始まって、ぐだぐだ応仁の乱をバックグランドストーリーとして、義政の趣味を目一杯語るドラマ。
へうげものっぽい作りもあるんじゃないかなぁと。 自分のライバル蹴落そうと暗殺しまくってたら嫌われた、愛想つかされた、そんな感じだろ?
源氏なんてたった3代のポンコツだし
徳川なんて260代もつづいたんだろ?
徳川の方が偉いし凄い!
>>334
激動の時代って要素がないと歴史物語としての起伏を作るのが難しいだろうからな
昭和はその点激動の昭和なんていうくらいだし題材として面白いと思う >>249
南北朝統一と北山文化の構築かな。室町幕府って義満がピークで後は落ちる一方だよな。 >>1
フレアドライブgatoで遊んでいたら自滅した説 帝抜きにいずれ足利家が討幕したのは揺るがない。
あの領国の大きさ、軍事力はずば抜けている。
同門の上杉、細川、今川、斯波の兵力も含めると北条家でさえかなわない。
豊臣家も徳川家よりも領地少なかったから、秀次が存命だったとしても簒奪されただろう。
>>17
平家が頼朝を子供だからと見逃して頼朝が平家を倒した流れがあるからなぁ
徳川家康も豊臣秀頼の子供を幼いといえども許さず処刑してるし
不安要素を排除することそれ自体は間違いとは言えない もともと藤原は王を誅殺して乗っ取って天皇を
名乗った 一族でダマして乗っ取る性質
長州チョンは日本人ダマして権力に居座る性質
が日本史
>>354
関ヶ原前は豊臣のほうが多かったはずよ
関ヶ原の褒賞で家康が各将に分配した >>282
長州征伐の時に幕府に逆らって長州と戦おうとしなかった藩が続出した時点で幕府終わりやろ 結局、一番偉大な武将は信長秀吉じゃなくて家康って事実
>>53
うん それはわかるんだが何であっさり?と思うんだよ
小学校の教科書では源氏から北条氏への一言だけ
その後はいきなり鉢の木と元寇だもん 鎌倉幕府創設期の北条の御家人バトルロワイヤルがエグすぎる仁義なき戦い
伊豆の小領主が武蔵国主の畠山を滅ぼし、和田を滅ぼし、比企を滅ぼし、三浦も滅ぼす
ニュー速に、歴史ネタのスレが立つと
必ず長文連投のやつが湧いてくるけど
これ、いつも同じやつか
>>362
武家政権初期らしい血生臭い事件が相次いだな・・・ >>360
今度三谷の大河でやるよ
まあぶっちゃけ頼朝の後継者は息子でなくて義時だったのさ
頼朝の側近で親衛隊長で20年間頼朝の側にいた
あの時代の御家人を束ねるのは実力がないと無理
政子はそれをわかってたし政子の男を見る目はすごいよ
頼朝選び義時選び泰時選んでるんだもん >>362
あの時代のバトルロワイヤルの面白さは北条が勝つことよりも
北条三浦和田畠山比企で梶原追放し
北条三浦和田畠山で比企を倒し
北条三浦和田で畠山を倒し
北条三浦で和田を倒し
北条が三浦を倒したことだよ
図式が実に美しいよ >>359
260年の平和の元だしな
同時代のエリザベス1世とかアクバル大帝とか
偉大な人たちいてもこれはできなかった 平家と源氏も 藤原の子孫で 潰しあいで
全滅したおかげで家康が儲けたのが歴史
>>368
まずターゲットを決め、敵の敵を味方にしターゲットを孤立させ
必ず自分は多数派に属し、ターゲットを自滅させるように滅ぼしていく
連合軍を倒すのに最も合理的な、個別に攻撃していく戦法の典型
信長も秀吉もここまで美しくないがやった
武田を滅ぼすのに北条の力を借りたが、後に北条も滅ぼすつもりだったんだろう
毛利を滅ぼすのに大友の力を借りていた
秀吉は敵の敵を味方にし、敵を滅ぼせば次は敵の敵を攻撃はしなかったと思う
家康は前田そして上杉、次は毛利宇喜多の予定だったが
上杉毛利宇喜多をまとめて戦う下手なやり方をしてしまった 戦国厨が湧くととんちんかんな御高説述べ始めていかんね
戦国視点からしか歴史を見られないのはぼちぼち卒業しないと。いいおっさんなんだろうし
>>334
そのドラマが放映されるトキ、日本がアルかニダのクニになってないコトを願うばかりだな。 北畠顕家というと眉目秀麗な青年貴族として描かれるけど、彼が京へ攻め上るときは
道中で兵糧を強奪して餓死者続出だったらしいな
日本史も世界史も過去にあったことを教育で学ぶ必要なくね?今生きてる現代になんの意味もない、むしろ昔の伝統とかに無意識に洗脳されて新しい発想とか生まれなくなってるのに
>>359
時間差出場バトルロイヤルだから
後から出てくる方が有利だわな 天皇家てのは本当に途絶えることなくつづいてるの?途中で入れ替わってるとかなく
今生きてる人間の9割は過去を辿れば200年も辿れず突如としてこの世に現れた人間なんだよね。純粋に家系がつづいてる人間は1割程度と言う。
>>362
泰時が聖人にされてるから反動で親父の義時が極悪人にされてる >>357
秀吉死亡直前の豊臣家の直領は約200万石
家康とその譜代大名領地は250万石。
但し、豊臣家は多くの金銀山や堺、長崎の貿易都市を
直接支配下に置いていた。
なを、豊臣秀長の領地は百万石あったが、秀長、秀保死後は
断絶していた。 >>384
家康の所領は当時の田舎が多かったからね。 >>385
関東の葦だらけの沼地を江戸まで持って行ったんだから、やっぱ才能はある人なんだと思う。
部下も優秀。 土地はいっぱいあるからね。治水が大変だったろうけど。
コロナで人々の価値観も逆転した
徳川時代こそ理想だったと多くの人が悟った
家康家光こそ稀代の英雄として今後も評価されることだろう
勝海舟(江戸)
関東というところは気風が妙だからな。
尊氏と新田でも御覧な、親類同士であーいう喧嘩だろう。
高時も悪いものかと思えばそうでない。800人も自殺してるよ。
ひとつ敵になるとなんということなしに骨肉相殺すまでに至るのが風だ。
そのかわりひとつ解けてくるとまたガラリとするのだ。
昔からああだ。九州とはよほど違う。
東北はまた愚だからね。
清河八郎(出羽)
およそ天下を遊覧せんと思ふもの、まづ土地の模様、人情の薄厚をしらざるべからず。
関東は剛直にして人を憐み、上方は柔弱にして人をあざむく。
故に関東にあそぶものは、心を淡楽にいたし、ものにうたがひをいれざるべし。
上方にいたるものは、万事繁密にいたし、手あらきのありて落所のなきよふ心得べき也。
>>391
なにが?鎖国を完成させた家光を讃えてるんだが いっやいや
徳川を称えるなら家康だろw
秀忠は関ヶ原に遅れるし家光は3代目うましうましなだけだし
政治的な実権が無かったから天皇家は続いてきたって
よく分かる事例が後醍醐。
大政に介入しようとすると後醍醐みたいに天皇でも討伐の対象となり
後鳥羽上皇みたいに島流しまでもされる
>>389
高氏は破天荒ではない完全なリアリスト
流されやすい優柔不断型の研究もあれば
目的を持って御家人の立場と武家の立場で
やるべきことをやった様にも見える
後醍醐はどの研究でもどうかしている
天皇は神だと本気で思っている様で
やってることはすごくせこいし
超がつくほどの俗人にも見える >>396
まさにね、北一輝が喝破しているように
ジャップ国の歴史って乱臣賊子の歴史なんだよwww
およそ日本史の英雄で赤心をもって皇室の安寧のため
活動した"英雄""豪傑"の類がおるかね。
ウリは親韓左派だからあんまりネトウヨみたいなことは言いたくないがw
北条氏が承久の乱で後鳥羽上皇をアレしたように、
足利幕府は後醍醐帝をアレしたし、
織豊、徳川はどうだった? 明治維新政府は? 軍閥は?
戦後のジャップ政府は今に至るまでどうだったか?
誰もガチでは尊崇などしてやいないんだよ。口先はともかく。
そんなの時間を遡ってもじゃあ平家は? 源氏は?
その前の藤原氏は? と数え上げても忠臣なんざいないねwww >>395
秀忠は自身の戦争下手を認識してたからこそ、
軍事力一辺倒の家康とは違って、軍事力だけに
頼らない統治方法を考えたと言えるだろう。
江戸幕府の重要な法律はほとんどが秀忠治世下で制定されてるし。 日本は鎌倉時代から大陸や半島と違う道を歩み始めた
とは言われるが日本人がそれを求めていたからだな
後鳥羽を島流した北条義時は公家からも僧侶からも称賛されるし
後醍醐が新政始めたらダメだコリャ言われて追い出されるし
>>399
お前が算術が苦手なだけだな。何かことが起きた時に記録される。大半はことを起こさない忠臣によって時は進む。 >>1
後醍醐天皇だけでは無いが
天皇家には鎌倉時代以降の統治能力は
全く失われてしまった >>399
天皇家には鎌倉時代以降
統治能力は無かったからね?
貴殿は親韓左派なのだろうが
戦前の日本だけが特殊なだけでは無く
全体的に日本では統治能力があった為政者は少なく
部下の中堅官僚などがうまく事を動かしていたのでは無いか? 一応鎌倉時代は二元政治で西国や公家たちの領地は
朝廷が治める手筈になってた
ところが承久の乱で幕府が上に立つとどんどん朝廷側が権力差し出してくるんだよ
しまいには皇位も幕府に決めてもらおうとあれこれ動き始める
後醍醐は傍流だから幕府潰しに行ったがw
>>396
政治的実権があって
統治能力があり過ぎだったら
家が続いていかなかったかもしれませんね? >>405
後醍醐の場合傍流という血統の背景より密教にハマったりとんでもなパーソナリティの方がその人生を大きく左右したように感じるけどな >>405
皇位も鎌倉幕府や北条得宗家が決めて
武家と同じ様に
養子の様な猶子が設定されて
猶子が天皇さんに成れる事になった
皇室にも皇位継承出来る男子が少なくなったからでしょう あとねえ、スレでは鎌倉幕府や北条氏が民政に力を入れたって話があって
これはまあそうなんだよ。なんでかっていうと鎌倉幕府って革命政権だから。
もともと平安時代以前だって関東に民百姓はいて在地の支配者はいたんだよ。
のちに武士として頭角を現す地頭とか地侍といかいったもんだけどさ。
で、何をしてたっていうと遠い京都の貴族様に
税として租庸調その他をかっぱらわれるだけの存在な。
その貴族様は遥任とかなんとかいって任地にすら来ないわけだけど。
支配者が京都の平安貴族から京都の平氏一門にかわったってフレームは同じで
そりゃ頭くるよねw 自分の土地からの収益は自分たちで分け合いたいじゃん。
その平氏政権と戦って敗れた国家公認の逆賊謀反人である源頼朝が
千葉の南端、安房に少数で流れ着いたとき、千葉県民が襲撃も捕縛もせず
諸侯が続々やってきて頼朝公の臣下として頭下げまくって源氏擁立、
関東独立の夢を見たのはこれは偶然じゃないんだよ。
そして源平争乱という史上初の関東自治権獲得革命戦争に"勝った"わけでね。
そりゃまあ内政なんかに力を入れるよね。
一所懸命とか本領安堵とかそういうノリで領国経営にあたるんだから。
そういうのはさ、任地にさえ来ないような平安貴族みたいな一方的搾取者とは、違うよ。
鎌倉幕府は訴訟扱うが道理に照らして判断していくのを宣言してて
必ずしも御家人に有利にしなかった
だから公家や寺社も幕府に訴訟もってくるわけだが
武家がオレらの味方しろと文句言わないのも凄い
個別のケースでは判決にぶーたれるが
>>342
後醍醐天皇の祖父の亀山院も中々ですよ
異母妹に子供を産ませるし、出家後も好色と記録されるくらい
息子・後宇多天皇の妻(遊戯門院)に手を出したという誤解までされたけれども
実際は別の嫁(後醍醐天皇の生母)に手を出していた
同時代に生きた後深草院二条に「とはずがたり」で亀山天皇の好色について書かれる始末 旧暦の話を今の暦でやるのはバカだと思う
旧暦のその日にやればいいのに
忠臣蔵もそう
>>219
こうしてみると鎌倉幕府って結構長く続いたんだな。北条偉い!
そこへいくとどうして細川、斯波、畠山は北条みたいになれなかった、ならなかったんだ? 元寇で活躍した少弐氏が知られてないし
何やった一族?って扱いだろ
それが答えだよ
>>409
アメリカの独立戦争みたいなものだな。
で、せっかく独立したのに、革命政府に不満を持つ一部人民が
イギリス王室に寝返って革命政府を潰した結果、もとの奴隷に
戻されてイギリス王室と貴族に文句をたれる結果になったのが建武の親政。
足利尊氏とかいう畜生は、世話になった大統領とイギリス王室の両方を裏切って
自分が大統領の座についた屑中の屑。
で、その結果、内乱だらけの国になった。 だから日本は鎌倉時代から法治主義に行って
情実やカネコネを排除してくんだが
後醍醐は幕府潰した時にその原理も壊してしまった
そんでこの頃都にハヤルモノとか言われてやっぱ武家政治がいいなーとなって
足利幕府が建武式目でオレら鎌倉幕府手本にするから言って
その後明治維新までずっと武家政権が続くことに
>>408
承久の乱以後は西園寺家や洞院家の女性が生んだ皇子が中心に即位していく
けれど、両統迭立によって皇位継承の度に幕府が仲裁に入っても収拾がつかなくなるほど
大覚寺統側が分裂したという側面もあったので
人数が少なかったというよりは、候補者が多すぎての混乱だと思う
持明院統側も分裂の危機はあったけれども大覚寺統側に比べたら混乱は少なかったかと >>374
それまで強大な力を誇っていた鎌倉幕府と同じように、
あっという間の滅亡だったな。 三方を山に囲まれてたって
時間かければそりゃ責められますって
でも市民として鎌倉という地が残ってて良かったわ。
北条も、有力氏族を滅ぼしたりして外道なんだけど、反感をもたれないように
空気を読んで御家人本位の政治をしたというのがある
没収した所領は、相続できない次男・三男坊や、敗訴した側への保証に当てたから御家人の忠誠心の獲得に成功してる
>>417
北九州で勢力を持ち実際国防に関わった一族でしょう?
詳細は知らないけれども鎌倉時代の後半に鎮西探題を設置される前から活躍していた
幕府滅亡後、最後の執権の弟がそこで戦死していたと記憶 源氏系の足利尊氏が開いたのに
そのあとはずっと平氏系の北条氏が実権を握る謎の時代というイメージ
御家人本位だが庶民のことも配慮してた北条氏
泰時なんか街道に木を植えさせただけで感謝されてる
旅人を思ってくれてのことだーとかさw
時頼は撫民を打ち出して過度な労働の軽減も
吾妻鏡だと民庶の憂いとか言ってて庶民の逆になってるのが面白い
>>1
下手くそな文章だな
どこが常識外れだったのか最初に書けよ 日本はヨーロッパ型に似てて封建制あって地方分権型。
下克上で地方の統治者だったはずの連中が権力が強化されたり、
地場勢力に突き上げられたりで独立化していく過程。
だから中国に忠実だった半島と違って、中国が作ろうとした東アジア秩序に
日本は従わずに対立したり時には逆に攻め込んだり。
世界が欧米白人に支配されつつあった中で日本は対抗して
欧米支配を破壊して日本がパイオニアとなって初めて経済的にも欧米をも支配した。
対して半島や大陸は中央集権。
毛沢東の奴隷みたいになったり北朝鮮みたいなのが
本来の中韓の姿で強者のポチになるタイプでだからずっと植民地のままだった
>>431
北条家の統治を勉強すれば、いかに善政を敷いていたか分かるよ。
家康も吾妻鑑を愛読していたから、参考にした事例が多かったのだろう。
その影響もあり、江戸時代は太平の世が長く続くことになった。
足利?裏切りもの。屑中の屑。ごみ。 訳の分からん組織に権力移動してしまうとなあ
天皇将軍執権内管領連署寄合衆
あとはやはり近畿の方が国力がある
>>434
泰時は苦労人だからその視点は御成敗式目に反映されているかもと思う
鎌倉の北条氏は有力御家人を結果的に殲滅し続けて最後斃されてしまい
室町の足利氏は幕府成立時から平和になるまで60年近くかかり
その後も権力基盤が脆弱で有力家臣を力で押さえつけられずに衰退
彼らを反面教師にして徳川幕府は基盤を構築したのでしょう
鎌倉幕府の凄いところは前例ないところからあそこまで形を作れたことと
後鳥羽上皇を配流したことだと思うw 勝海舟は北条時代の御成敗式目を江戸幕府もそのまま用いた
庶民に深く浸透してたからそれで上手くいった言ってたな
あの御成敗式目も法律が庶民や学のないものに理解されないと
官僚のいいように判決が出てしまうというので
誰にでもわかりやすいように書いて全国の地頭に配って
みんなに法の中身を伝えるようにってやった
庶民に深く浸透するのももっとも
>>418
そう、独立戦争の比喩は面白くて
まさに「代表なくして課税なし」なんだよw
この場合は京都くんだりの朝廷に代表なんていらないから
(最近毎日いってるが北条得宗家でさえ官位が低いってそういうこと)
自治権寄越せとこういう話なわけでね。
だからまあその折角手に入れた鎌倉幕府の東国自治権に
アンシャンレジームの後鳥羽上皇が手を突っ込もうとすれば
関東武士団続々集まって都まで攻め上って官軍破っちゃうわけw
まあこれもよく考えればすごい話なんだがwww
>>424
>>431
撫民に気を配ったのはある意味当然でまあ兵農未分離の時代だしねw
一所懸命や本領安堵なんていうくらいだからそこは本気で領国経営やったでしょ。
逆に言えば水争論やら山争論で揉めると怖いぞ、ともいえるわけだけど。
それに源平争乱や承久の乱に元寇なんかもそうだけど
兵站とか随分整ってた感もあるよな。あれはどういうことなのか。
ともあれそういう内政に心を配ったからこそ200年後に当地関東一円を支配した
もともと北条でも何でもない伊勢新九郎を嚆矢とする後北条氏は
その名を名乗ったわけだし、この後北条氏もまた戦国大名の中では
内政撫民に特に力を入れた領国経営で知られておりますな。 だから明治になって天皇が大元帥になって軍事権も統帥する
天皇が征夷大将軍も兼ねる形にしたんだな
>>438
今の日本政府はいつになったら内政撫民に力を入れて、四公六民にしてくれますか? 兵站は自腹だろう
いざ鎌倉で各自が備えておく
義時なんかはあんま大掛かりな事業はしてない印象ある
京と緊張関係にあったから財政的に余裕持たせたい思惑ありそうな
承久の乱終わって幕府が安定したら泰時が港作ったり
街道整備したり武蔵野開墾したりと事業やり始めた
ざっと読んて明治維新=クーデターとか言ってる馬鹿がいるんだな(笑)
鳥羽伏見の戦より先に大政奉還あったのを都合よく見えないフリして。
その時点で徳川幕府は存在してないし、征夷大将軍の職もない。
(強いて言えば鳥羽伏見の戦2日目で、仁和寺の宮様が征討大将軍となり錦旗を授かった)
今、4割税金払ってる人なんて、相当な金持ちしか居ないだろうに
バカは何処までいってもバカなんだな
>>411
その裁判に時間はかかるし判決が出ても結局当事者同士での解決方法しかないから不平不満がたまり倒れた 明治維新の実態は、江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲りだ
徳川と幕臣は公武合体させ、家格を上げてな
長州の萩が三河の萩に由来している事でいい加減分かれ
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だ
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、徳川幕府は崩壊していない
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) >>444
所得税などで直接収入の4割を納税する人は金持ちだろうけれども
更に消費税・酒税・固定資産税・自動車税などを換算するともう少し庶民寄りになりそう それでも4割なんて払ってねーよ
生命保険等、酒税ひとそれぞれのもん加えてんじゃねーよ
あと、固定資産税なんて、よっぽどの大邸宅にでもすんでなきゃ、月当たりたいした額じゃねーよ
まずはその底辺過ぎる知能どうにかしろよ
>>444
逆だよ
年収一億超えてる方が税負担率低い
かつて17段階で所得税とってたのが安倍内閣から超高所得者ほど税率下がる仕組みになってる。 サヨクってやっぱり知能ないんだ
日本語も満足に語れない
>>448
例えば、親世代が住まう家の固定資産税を子供が払うとかもあるけどね?
家族の単位が単身か、核家族か、例えば三世代家族かによって
その割合は変わるんじゃないかなと煽り抜きで思ったよ 時頼の廻国説話も善政の証みたいに言われるな
水戸黄門は時頼に著作権料払っていいぞw
>>445
御成敗式目中にすでに簡易裁判が規定されてる
書面で是非が明らかな場合は、即決 >>451
そんなケース毎の話されても
あと親の固定資産税払うって、単純に考えれば年数経ってるから家屋税はたいしたことないでしょ
それに、相続税発生は全体の8%位じゃね?
一般人からしたら、相続税が発生する程度に親から貰えるなら、ちゃんと払えやとしかいえん
その辺知らない人達を枡添みたいな金に汚いヤツが扇動してるだけ
稼いでるのだからちゃんと払えや
元々自分で稼いだ金でもあるまいと 書類の有無と
早いもの勝を混同したクソ裁判システム
所詮嫡流源氏と平氏の下部分家の北条とじゃ威厳も格も違ったからな
御家人の信頼も得られん
>>437
当時の庶民にも周知させていき、そのまま江戸末期まで伝えられていた点が
泰時が非凡な政治家と思えるんだよね 実朝の正室に、足利義兼の娘が推薦されたように、政子ちゃんは足利氏のポジションがよく分かっていた
頼朝が所有していた源氏の宝刀(源氏の宝刀はいくつかあったらしい)は、政子ちゃんから足利義氏に譲られている
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている
この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる
源義家
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→義家→公暁
正室(辻殿)
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→実朝
正室(足利義兼の女)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→女
こうなっていたら、歴史は変わっていた
尊氏と直義なんて兄弟仲が良くて手を取り合って討幕、建武の新政、北朝設立とやってきたのに最後は全国を巻き込んで戦争してるよな
源氏は呪われてる
>>464
上杉清子のとーちゃんは、1310年には三河在国なのが分かっている
恐らく、貞氏が出家した1301年?に、同じように出家して、三河に戻ったと考えられる
尊氏が生まれた1305年、清子にとって実家とは三河の実家なんだよ
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>412
好き放題できる貴族はただの糞だということを教えてくれる天皇家
結論として天皇なんてただの人で糞野郎の人格倫理破綻者が大半で最近の天皇が割りと奇跡だと教えてくれる 戦後の天皇は海外からの視線を気にせざるを得ないから
>>456
家康が吾妻鑑を愛読していた理由がそうだどしても、
吾妻鑑から多くの影響を受け、善政をしいたという事実は変わるまい。
つまり、北条家が善政をしいたということは揺るがない。 殴り合う貴族たち
という平安期の貴族の行状を見ると
高貴な人も含め暴力的すぎて面白いね
花山天皇は上皇になって親子丼して両方に子供を生ませたり
花山院の屋敷の前を通る貴族の牛車の行列に下人に命じて石礫を
投げつけさせる
貴族同士の同性愛も多い
東ローマ帝国の皇帝の半数以上が暗殺、戦死、不審死でろくな死に方をしてないのに比べると
天皇や将軍ってほとんど自然死だから平和だなあ
剣豪将軍と頼家、実朝や古代の崇峻天皇ぐらいしか暗殺の例がない
京都貴族「鎌倉の御殿は帝釈天の宮殿かいな・・・東夷の田舎者のくせにナマイキやなあ・・・我々は衣装も体躯も貧弱や(とはずがたり他)・・・悔しいニダ」
人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。
実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌詠みの公卿たちととても同日には論じがたく、
人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。
(歌よみに与ふる書・正岡子規)
鎌倉の滅亡は蜀の滅亡みたいなものでしょ。
いきなり本拠地を攻略されたため滅んだみたいな。
>>436
あそこまで形を作って行った泰時と
後鳥羽を配流した義時が
やっぱ武家政治のお手本とされるのも当然てことだな >>475
東ローマ帝国は平和な時代は世襲制だけど一度荒れると皇帝を武力で
引き摺り下ろす人が多くて独特すぎる
クジ引き将軍・義教さんも追加で 楠木正成の粘りはけっこうデカいよな。西に幕府の兵力を長期間釘付けにしたからな
関東関西、どちらに拠点を置くにしろ、本拠地を東西の交差点である三河に据えな長続きしない
北条の限界だったな
足利にしろ徳川にしろ、実は本拠地は三河
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年)
軍勢が出払ってて手薄になった京や鎌倉を攻められたのが痛かった。
>>473
藤原隆家は刀夷の侵略を退けてる剛の者だな 霜月騒動のあと、三河に進出しようとしだが、足利に危険視された
・霜月騒動の黒幕とも言われる大仏宣時が三河国重原荘の地頭職を獲得した
・六波羅探題北方に出仕して北条仲時の家人が三河守に任官された
コレが足利を怒らせた、北条の問題行動だ
こういうDQNは止めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱〜」
とか言って聞き入れなかったわ
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。
大河ドラマの太平記では近藤正臣の北畠親房と藤木孝の坊門清忠が良かったな
これは中々の良スレ
鎌倉時代は面白いしな。
日本独自の仏教文化が華開いたのも鎌倉時代だし。
>>415
反対
足利が鎌倉幕府での北条を生み出さないために源氏内の序列を明確にした
足利本家の血統が絶えた場合は吉良家が後継し、吉良から後継が出せない時は今川から出す
三管領四職は家臣の家が担い今川以上の家はこれを担わない
しかもポストは持ち回りにして独占継承をさせない
これによりまず家臣団同士で掣肘し合い各家内でも巡ってくるポストの奪い合いをさせ将軍家の仲裁という形で治めさせてポスト割り当ての主導権を握った
これにより守護大名同士の政争が絶えず相続を巡って大規模な内紛が発生しまくって将軍側近の中下位層が暗躍し3代義満死後は将軍後継でも揉め幕府守護体制は弱体化し全国的に混乱が拡大した 北条義時は極悪人かつ日本史上3本の指に入る偉大な人
一般的なイメージでの極悪人かつ有能とされる信長なんか足下にも及ばない
鎌倉武士のリアリストなとこが好み
おかしいもんはおかしいだろが、と言えちゃうような
上皇?戦吹っかけたんだから責任取るべきだろハイ島流し
てな潔さw
後醍醐天皇に物凄いカリスマ性があったのは間違いないだろうな。
尊氏も後醍醐天皇から離反した後も畏怖の念はずっと持ち続けてたし。
承久の乱の武田信光なんか最高だよな
勝つ方につくのが武士のならい
>>488
数多の武家はそのために飼うてある
愚策も愚策じゃ
藤木孝の坊門は見事だったw >>492 >>493
後鳥羽上皇が関東武士を舐めすぎてたんだよね。
これまで源氏将軍がいたから獣みたいな関東武士がまとまってただけで、
源氏将軍がいなくなって関東武士はバラバラになると思ってた。
それが予想外に結束したからアテ外れてしまった。 >>496
京都と河内は近いだろが。
河内に鎌倉政権に反抗してる強い勢力がいたら
自ずとその噂は京都にも伝わる。 >>499
イメージ的には
天皇から河川工事の生贄の命で
関東武士は素直に従うけど
大阪の商人は何でやという
何かで読んだな
故に後鳥羽上皇の行動もあながち間違いでもないのでは >>493
直接関わっていなかった土御門上皇が「父院が流されたのにこのまま京にいるのは」と
自ら配流を志願したら、形式的に配流したけれども親孝行なのでと
鎌倉幕府から厚遇されたという逸話が好き
天皇家そのものを敵対視していた訳ではないというアピールを兼ねていても好印象 >>498
近藤正臣は気位の高い人物を演じるのが上手いな >>503
リアリストだからね
関係ないなら罪に問わなくてもいいじゃん、てな
謀反人の妻でも本人知らないなら許すってのと同じで >>490
いや、将軍宣下の1192年が正しいだろ。
1192年を否定してしまうと、室町幕府成立は南北朝統一時が正しいとなってしまうし、
江戸幕府成立は大阪夏の陣終結時が正しいとなってしまう。 >>507
その通り。だから鎌倉幕府成立は1192年が正しい。
おれは、1185年を鎌倉幕府成立の年だとすると、
室町幕府成立は1334年、江戸幕府成立は1600年にしなければ
おかしいだろうという立場。 鎌倉幕府の場合は征夷大将軍関係ないよ
頼朝すぐ辞任しちゃうし
頼家もずっと征夷大将軍についてなかった
承久の乱の時には将軍不在
将軍就任にこだわると鎌倉幕府は存在してないことになっちゃうよ
>>496
素人か
大覚寺統の最大の拠点は、三河国高橋荘、高橋新荘
下司は足助氏だ
足助重範の生母は楠木正成の伯母さん、足助重範の嫁は楠木正成の娘
だから、楠木一族の伝承は三河に多い 楠木家の家紋に菊が描かれているのもそれがあるかもしれない
鎌倉武士に憧れる中世中国地方娘
↓
『田植草紙』は安芸・石見の山間部に濃密に分布しておりました田植歌の書き留め、同じような写本、田植歌本とか歌本と申しますか、そんなものがたくさん残っております。
『田植草紙』は田植歌本を代表する最も優れた一本でございまして、我せられた歌謡はほぼ中世小歌圏の中で醸成された田植歌であるという定評を得ております。
(友久武文・広島大学名誉教授)
・坂東殿ばらは弓は上手なるもの 空立つ鳥を射て落といたり さても上手や空飛ぶ鶴を落といた 若い殿御が翔け鳥射たる弓手は さても射たのふ見事や弓の姿は
→坂東武者は弓の上手、空かける鳥を射落とすそうだ。え、落したのは鶴だろうなんて冗談は無し。ほんと素晴らしいんだから。
・宮仕ひをせう坂東方へ 武士の奉公好むと人や思ふらう 武家奉公なんぼう見ては好いもの 殿に参らせ塗籠籐の弓おば
→弓と矢があれば坂東方へ赴き、武家奉公をと男の願い。女も意に添いたい風情。
→なんぼう…「何ほど」の変化形。今も関西方言に多い。どんなにか、とても多く。
・重籐巻いたる弓の振りをしてな 坂東殿原の肩に掛からばやな 弓のふりして坂東殿御に惚れたよ 何と言ふても思ふに寄らぬ我か身や いつくしいは坂東殿御の姿よ
→弓は女の暗喩として用いられることが多く、女として自分を殿の傍らに置いて欲しいの意を含むか。
(『田植草紙』新日本古典文学大系/岩波書店)
「さても上手や、空舞う鶴を落といた……見事や弓の姿」と鶴に結びつけて(坂東殿御の)弓上手を謡っている。
更に「武家奉公、なんぼう見ては良いもの」と坂東武士への憧憬につながって、「思ふ弓や、御前引かば……」と、
この憧憬が具体的なかたちに変わる。
田植歌謡圏(中国地方)に種々導入された話から、恰も映画やドラマの主人公に憧れるのと似たような形態で、
坂東武士(関東武士)に憧れたものであったろう。
「面影ばかり残して、あづまの方へ下りし人の名は、しらじらといふまじ」(『閑吟集』)とか、
「吾妻下りの殿は待たねど、嵐吹けとはさらに思はず」(狂言小歌・虎寛本・靱猿)などの気持ちである。
(『田植歌謡と儀礼の研究』、坂東憧憬と弓矢の章)
>>493
いや、そう単純でもない
鎌倉武士はリアリストだけに朝廷と戦っていいかどうか物凄く躊躇った
その流れを一気に変えたのが政子
あんたら!ごちゃごちゃ言ってないで朝廷なんてぶっ潰して来なさい!と一喝して流れが変わり、その後打って出るのか守りを固めるか悩んでたら文官の大江広元と三善入道が打って出るべし!と言い政子がそれを強く支持したんで流れが決まった。
日本の武家政権は有能で腹が据わった女と文官が居たから樹立できたというのが歴史の面白いところ
政子の人生なんて少女漫画のヒロインみたいなんだが実話ですw >>515
承久の乱のときの北条政子の演説が武士たちを動かすことに大きく影響してたな。 >>517
歴史は人で動くんよね
政子が坂東の豪族の娘で頼朝の嫁という前提であの震えんばかりの名演説しなけりゃ負けてた可能性が高い
あの演説は関係ない俺らが見てもグッと来るもん
実際の御家人が聞いたら涙流して当然だわな >>499
舐めていたとかアホか
鍵は安達盛長死後、三河守護が不設置だった可能性がある事だ
三河は東国一番西の国である一方、西国の一番東の国でもあった
三河国の分国主は院、知行国主は関東申次、そして鎌倉方の代表は鎌倉将軍
三河国においてポリティカルバランスが崩れれば、政局に突入して当たり前だ
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) >>491
御一家に設定されてるのは吉良、渋川、石橋で今川なんて全く関係ないよ
多分君が言ってるのは「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が〜」って奴だろうけどこれは今川記っていう今川が作った話だからね、他の誰も相手にしない話だよ 頼朝が兄弟殺しの薄情と言う馬鹿がいるが
生かしておいたら、この繋がりで後鳥羽院側についていたとしても、おかしくない
頼朝の見通す力の凄さだ
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇(中宮は九条兼実(三河国知行国主)の娘)
藤原経忠→信輔→信隆→坊門信清→信子(源実朝室)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)
藤原経忠→女→女→藤原公佐(室は阿野全成の娘)
これ以上庶民が貧乏になったら旗も振らなくなるような天皇なんてどうでも良いだろ
>>515
関ヶ原と一緒で家を残す為に親兄弟て別れてるかなり有力御家人の大江や三浦でさえな >>446
下層主体による明治維新によって、千年以上歴史のある被差別層が身分として消滅し
国民として統合されたし、公的に側室も否定されて今に連なる男女の一夫一妻型が
成立し、国民皆兵、女の自立と教育の権利、華族制は残っても身分差なく社会進出もできるようになった。
ただのお上の権力移行でなく、それ以前と以後では日本の歴史がはっきりと
違うレベル、世界史に残る一大革命だった。 >>515
しかも総大将の甥っ子(泰時)に「もし後鳥羽方の味方が多そうだったら土下座して詫びたらいい」と命じたとか(w >>477 くんが面白いこと引用しているけど
鎌倉武士団ってさ、まさに尚武の気風ある関東健児の益荒男、
といえば聞こえがいいが、要するに土着の無学なDQNなんだよwww
東国武士なんてまさに無学なヤヴァすぎる珍走団と思っていい。
それこそバイクの代わりに馬に乗っちゃってさw ダンビラ振り回してさwww
実際、京雀から見たところ東国武士ってそんな蛮族だったろうよ。
幕府の高位の御家人だって字が読めない奴とか普通にいたわけでねw
その書に至っては子どもっすか? みたいなさwww
んで、そういうDQNしかいないところにやってきた文弱ボーイの御曹司
源実朝って幕府幕閣内ではそうとう浮いていたと思うよw
それこそDQNしかいない底辺高校の理事長の息子の御曹司のオタク、みたいなねw
クラスの中で学校図書館に来るのは実朝くんだけ、みたいなwww
なんせ当時京都からわざわざ歌集とか取り寄せてたくらいだからね。
まわりの武士団にしてみればナヨナヨしい…どころじゃなくて
普通に「何考えてるかわからないオタク」て感じだったと思うよwww
自ら歌集を読むなんて同人つくってるようなもんでしょ?
周囲の御家人といったDQNにゃわからんと思うよw そういう文弱趣味www だからぶっちゃけドキュン関東武士まとめられるの義時ぐらいだったと思うんだよな
みんなわかってた
それこそ三浦もさ
和田に統率できるか?ムリムリwてんで三浦は和田を切ったんだろ
後鳥羽に対してもそうだったと思うよ
鎌倉武士は北条が将軍傀儡にして権力握ってるの知ってて
それを認めたんだよ他にいないから
だから政子が演説しなくても義時に味方したと思うよ自分の利益のためにw
>>528
無理
みんな動揺してどうしていいかわからなかったんだよ
義時でさえなかなか腹が決まらなかった たまにネタにされてる鎌倉武士のキチガイぽい逸話って本当のはなしなの?
そんなことないよ
政子の演説なんて一部しか聞いてない
諸国には義時の名で軍勢催促してる
政子演説後もgdgdしててとりあえず泰時出陣すれば?となってた
残念ながら事態は物語よりももっとリアルだよ
みんな生きてく方を重視するから
あと、スレを見ると北条政子の話が出てくるが
これはまあすごい女傑だよ。
彼女の前には皇室の権威も院も治天の君もなにするものだったんだからね。
だいたい北条氏の暗躍で頼家も実朝も斬殺されるわけだが、
これ二人とも北条政子の実子だからね。
夫である初代将軍頼朝の変死の後、北条氏の地歩を固めるため
実子二人が横死してもな尼将軍として君臨するってどういうことよ。
さらには政子の実父であり頼朝の義父である初期幕府の重鎮、
北条時政の失脚にだってかかわってんだから、こりゃ頼朝の変死だってわからんぞw
平氏を滅ぼし、同族の義経義仲範頼を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝の死は
公式には橋の落成式で落馬して、って武家の棟梁にはふさわしくない最後だが
これ他所の家の女に夜這いを仕掛けて、なあんて風聞もあるわけでさwww
実父実子に朝廷だって怖いものなしだった女帝にはどうも恐れ入ったことだよ。
そういう女傑の前にはしばしば比肩されて語られる日野富子も
そこまで恐れるべきことなのかな?
畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。
粋がって中央にアピールしているのを見ていると
なんか野武士集団維新吉村って感じだな
>>532
あのな
戦うこと決めた後でも打って出るか守り固めるか決めかねてグズグズしてたんだぞ
当時の武家にとって朝廷と戦うというのはそれほどハードルが高かった
グズグズしてるうちに必ず寝返り者が出て、1度出たら雪崩打つ
現に鎌倉幕府は一瞬で滅びたろ 休み中、「草燃える」借りてみてた
北条義時(松平健)が話が進むにつれてどんどん極悪になっていく
事実上の主人公だった
政子(岩下志麻)は、義時の傀儡みたいな扱いだった
三浦義村(藤岡弘)と丁々発止の謀略戦繰り広げるけど、松平健のほうが常に上手だった
>>536
関東武士甘く見過ぎ
それぐらいドキュンなんだよw
院宣出れば義時のクビ持ってくる言って舞い上がってた時に
義時に味方するの万を下らない言ってて不興を買った武士がいたが
あれが普通だったと思うね
だいたい頼朝も朝敵扱いされて軍を出したら後白河引っ込んだろ
みんな知ってるんだよ京のいい加減さを >>538
あのな
何のために頼朝担いだんだよ
武力だけで決着つける自信がなかったからだろ 太平記は大河ドラマでも急ぎ足だったからな
この時代はホント複雑怪奇
ま朝廷にビビるとおもった側が見込み違いだったのさw
他の公家はみんな反対してたろ後鳥羽の挙兵
そんなものに武士がめげると思わなかったから反対したのさ
>>9
お前が高校の時歴史への相当なトラウマがあるのはよく分かるよw >>531
鎌倉武士に限らず、日本人の気風がおとなしくなったのは生類憐れみの令以降とされている
鎌倉武士は肉も普通に食ってたから体も大きく強かった
だから元軍にも勝てた >>531
それでウリが思い出したのはアレだw
太平記でも十悪だの五逆だのさんざんdisられている結城入道のことなwww
太平記に出てくるくらいだから鎌倉末期から室町初期にかけての武士だけど
なんと「毎日生首を見ないと気分が晴れない」ってそれなんてサイコパスだよwww
本朝のエリザベート・バートリかヴラド・ツェペシュかって感じだが
まあ太平記にいわせるとこの結城入道、普通に屋敷の門前を歩いていた
善男善女をとっ捕まえて生首にしてホルホルしてみていたって
漫画の地獄甲子園じゃないんだからw
いくらなんでも太平記でもそんなことはないと思うけどなあwww
あ、ちなみに「結城入道堕地獄事」ってタイトルも、すごいよなwww >>533
政子が本当に凄かったら息子たちを生かしつつ実家もうまくおさめて
源家の幕府が続いたと思うね
実際は政子は政治力がなく実家に利用されたのさ
草燃えるはその辺りを上手く描いてたな 平安時代は藤原不比等の子孫が超上級で皇族独占して
かたわ キチガイ 多発してた
戊辰の戦のときも幕府方に北条政子みたいのがいれば結果は違ったかもな
それがいなかったから江戸幕府は滅んだ
>>438
三浦義村の判断力もまた、反北条氏の御家人達が
幕府側について一致団結する動機になったと思う
弟の胤義は京方について自殺したけれども 息子を犠牲にして婚家滅ぼして実家につくしたらすごい政治家
てどんな理屈だよて思うなw
ねーよ
>>538
後白河帝はねえ、確かに後醍醐ほどじゃないかもしれんがむろん傑物ではあるんだよ
保元平治に源平争乱と乱世の中、貴族の時代から武家の時代、
平安時代と鎌倉時代というレジームチェンジを一癖もふたくせもある
同時代の英雄、当代一の貴族や武家、寺社や皇族の中を泳ぎ切って
最終的には天皇、上皇、法皇と地位を満足してサバイブして
京の畳の上でなくなっているしね(安徳帝や後鳥羽帝の最期を想起すべし)。
ただね、後白河帝、ちょっと捕まり過ぎw
藤原信頼につかまり清盛につかまり義仲につかまり、ピーチ姫じゃないんだからw
で、まあ院宣だの追討令だの凄まれて出したり撤回したりそういうのみると、
まあ苦労の多い人生だったんだなあと思うところはあるけれどもね。 藤原のやったのは有力対抗勢力全部滅亡政策で
乗っ取りで藤原系の平家と源氏はお互い潰しあいで
滅亡が日本史
畿内において東国軍隊に対抗できる
軍隊を作らなければ天皇は政権を奪取
できない。愚かにも畿内の有力軍隊で
ある平氏を滅亡に追いやってしまった。
これが明治維新まで天皇が将軍にひれ伏す
ことになった最大の原因である
>>527
しかも、ホンモノの和歌の才能あったからな。 >>1
おかげで時代が色々進んで戦国スターが量産されたんだからいいじゃないか。 >>539
頼朝は対平家の神輿
天皇に対抗するための神輿じゃないよ >>559
平家とか関係ない
平家には武士の土地を朝廷と別個に安堵する意思も発想もないからだ。 >>422
平清盛も感染症(マラリア)で死んだという説があるな 北条が政子持ち上げるのはわかるよ
頼家引き摺り下ろして実朝に継承させるにも泰時継承も
政子に権威ないと苦しいから当然持ち上げるは
でもその北条の思惑に乗っかって政子の演説のおかげ!とか
笑ってしまうな
吾妻鏡ですら安達の代読だって言ってるのに
政子に力あったらそもそも後鳥羽が義時さえ討てば!なんて思わないって
>>560
武士が天皇の対抗馬として頼朝を担いだと思ってるの? >>546
陰謀家はそれと知られただけで三流、かねw
まあそうかもしれんがw しかし史実としてあれだけのことを
やりとげた女傑っていうのは日本史に類を見ないぞ。
そしてだね、ここからが大事なんだが、女性の独裁者ってのは古今東西いるんだが
北条政子が作り上げた北条レジームはその後も150年くらい続いた。ここが大事なんだよ。
クレオパトラでも楊貴妃でも西太后でもなんでもいいが、続かないんだよね。
我が身ひとつの秋にあらねど、じゃないけどさwww
>>551
ま、前掲の通りだけど
北条政子はあくまで"北条"政子だったってことさwww
だいたい前近代はどこも御家第一だっただろ? 個人がどうこうってことよりは。
だいたい今の恋愛結婚の時代じゃないんだから、
頼朝や婚家との間に愛があったか、これすらわからないぜwww
>>556
鎌倉なんて東夷生まれでDQN同然の無学な御家人に囲まれて
それで和歌に関心をもったというのもすごいし
だいたい誰にならったんだろうね三十一文字。
まさにナチュラル・ボーン・天才だよなw ロックスターだwww
これはウリも2ちょんでよくいうが実朝公の名歌
"大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけてちるかも"
なんてこりゃ、同時代の京雀の都人には到底読めない武士の歌だぜ。
葛飾北斎画伯の神奈川沖浪裏を和歌にすりゃこんな感じだろう。
まあ武士の歌と言っても本物の鎌倉武士にはそもそもこんな歌、
詠めないと思うけどwww >>548
幕末に西太后みたいのが出てきて恭順姿勢の慶喜公の尻をたたき
ガチで内戦やらかしたら、清朝の末期に中国が列強の草刈り場になったように
日本もまたひとたまりもなかったと思うけどwww
>>562
>後鳥羽が義時さえ討てば!なんて思わない
さすがに後鳥羽帝もプライドがあるから
「女にしてやられた」とは言えないと思うよwww
後鳥羽帝、あの時代のおハイソにしては珍しく武道の心得もあるしw
まあマジレスすれば政子が督励したなんて(そういう史実があったとしても)
これ、普通に知らなかったと思うし 結局鎌倉に大都市を形成できなかっからな。
要塞都市には限界がある。
平時になればなるほど誰も住みたがらない。
いい国作ろう鎌倉幕府
新しい物語を潰そうKADOKAWA
やっと今朝の『太平記』見終わった
鶴太郎の怪演すごすぎw
>>553
滅亡しとらんし、源氏に乗っ取られとるがな
日本赤十字社
大給亘(大給松平氏(三河国加茂郡大
給)、三河国奥殿藩)
桜井忠興(桜井松平氏(三河国碧海郡桜井))
近衛忠輝(細川護煕(三河国額田郡細川)の弟、嫁やす子(三笠宮、高木百合子(三河国碧海郡高木)の娘)
スペシャルオリンピックス
三井嬉子(松阪三井家)
細川佳代子(細川護煕(三河国額田郡細川)の嫁)
ケツ持ちはトヨタトヨタグループ
高木百合子(三河国碧海郡高木)の息子高松宮の嫁と豊田家が仲良しなのも、三河国繋がり 本当に鎌倉幕府なんてあったのかも
疑わしい
コロコロ変わりすぎ、単なる地方の豪族だったのでは?
武士社会初のきちんとした法律である御成敗式目
なお中身は凄く分かりやすく当たり前の事を諭してるだけな模様
当事がいかに無法時代だったか、そんな連中を統制するために幕府がいかに心を砕いたかが読み取れる名文
物部を滅ぼしてしまったのが
天皇が東軍司令官の臣下になって
しまった原因だ
関東の軍司令官がことごとく鎌倉軍政府に
反旗を翻したのでは、北条総統も打倒
されるしかなかった
>>574
滅んでいないぞ
実は源頼朝軍の本体は、東海地方メインなんだが
東海地方は物部氏族が土着した地域
東国の強さは関東の強さではなく、東海地方の強さであり、その中心が三河
関東御分国と物部氏族が国造の国は、大体一致している
物部氏族国造
参河国造
遠淡海国造
久努国造
珠流河国造
伊豆国造
久自国造
三野後国造
小市国造
風速国造
松津国造
末羅国造
熊野国造
源頼朝、関東御分国
三河国 (異説あり)
遠江国
駿河国
伊豆国
武蔵国
相模国
上総国
信濃国
越後国
伊予国
豊後国
下総国 アグレッシブで不屈の精神と併せ有言実行尽力の行動力凄過ぎる
歴代の天皇と比べ明らかに異色だよなひょっとして途中から影武者じゃねw
>>481楠木 正成負けたような感じするけど全体として見れば重要な役割を果たしていたんだな… なるほどなるほど
我こそは天意とか言いそう
>>30
鎌倉幕府は、北条幕府だからな。将来の教科書は北条時代と教えるかもしれん。
執権か得宗の名前を全部言えたほうが歴史の理解は深まる。 鎌倉後期の文書で将軍3代御後見文久より6代とか言ってて
元久てことは義時執権就任からってことかと思ったのだが
将軍の代と後見の代が被ってるんだよな実朝期
不思議なカウントの仕方するけど当事者には自然だったのか
>>546
賢い女性と徒然草で書かれてる松下禅尼がそんな感じだな
幼い息子を執権につけて盤石にさせて実家の安達をナンバー2に押し上げた
三浦は安達に滅ぼされて終了
政子は賢いというより感情の人だな
だから公暁を鎌倉に呼び戻すとか意味不明なこともやる
実朝に子供がいない時に実朝猶子の頼家の息子呼び戻すって
わざわざ騒動起きるようなことをなんでするかね 後醍醐天皇と鎌倉の対立であるけど、鎌倉を
滅したのが新田と足利の両源氏だったことを
考えると会社でおける創業者一族と現経営陣の
北条の争いであったのかな
>>585
後北条氏5代の盛衰の方がメリハリあって面白い思うんだけどなぁ
あれこそ、企業経営者は学ぶべき事例だろ >>120
明治村にフロントとラウンジが移築されてるから見に来てね。 後醍醐天皇だかの秀逸なコピペがあった様な気がするんだがー、なんだっけな、超面白いの
>>587
不思議か
恐らく預けた先からの要望だろ
公暁の後見人、備中阿闍梨は三河の藤姓熱田大宮司家の可能性が高い
無視できない家なのを系図で確認しろ
三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)→葉室顕頼(三河守)→藤原俊成(養子、三河守)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数 >>587
続き
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) >>587
続き
E藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)→任憲(三河国滝山寺)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・女子→源師経(三河権守)室→女子(崇徳院妾)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正) >>556
都から流れてきた貴族や同じ河内源氏で頼朝の家系に近い足利などの比較的貴種もいるから
そこまでDQNの中のぼっちではなかったはず >>537
あの松平健いいよな
暴れん坊将軍のイメージ強いだろうけど
悪人もあんなに名演してたんだな 公暁の後見人、備中阿闍梨は、事件後に所領を没収されている
没収された所領は、頼朝の叔父さん藤原範智の娘に安堵された
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
尊卑分脈の藤原範智の項には、安達盛長らしき名前が記載されていて、範智は興味深い人物
系図を眺めれば、足利が北条との血縁を通じて家格を上げたと抜かす奴が如何に馬鹿か分かる
北条側が足利を恐れて、姻戚を求めたんだろうが
安全保障の担保によ
鎌倉幕府はまだ持った方だぞw
執権政治が16代まで続いたしな。京都にも六波羅探題を置いて睨みを利かせたし。
対して室町幕府は6代将軍が暗殺されて以降は細川や三好ら有力大名に実権を握られw
権威だけで15代まで続いただけ。
大江や三善など京から来て、鎌倉幕府に関わった人がいたが
>>527の「DQNの中のぼっち」例えは極端だとはしても、実朝の鎌倉に置かれた立場を上手く表現してると思う
数代に渡って関東に土着した源氏平氏は、読み書き程度はできたとしても
和歌を詠んだりはしなかっただろうな
源氏が絶えて摂関と皇族から将軍を招いたが
子供の頃に連れて来て、大人になったら京へ戻すをほぼ繰り返した
中には大人になり打倒北条に目覚め、暗躍し発覚し追放って例も何度かあった
大人じゃなく子供を連れてきたのは、実朝の例があり
京にいた大人の貴種が、野蛮な関東に来たらお互い碌な結果にならないだろう
そう思い子供を連れきてたのかな? それは足利義満のお陰だな
足利義満は洛中に君臨した三河の王の側面があり、自分の本拠地を軍事大国化しておいた
だから、洛中内でゴタゴタするしか無かったわけだからな
三河が関所みたいなもんで、東国と連携が取れない
それは鎌倉公方も同じだが
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
日本史の中で、どのタイミングが天皇制を消滅させるのに相応しかったか?
ズバリここだったと思う。
よく天皇制を日本の安定装置と解釈してるが、薩長クーデターなど社会混乱の種でもある。
どの天皇、ミカドか知らないが
元と密通し、自作自演で元寇させたことはずっと伏せたままか
>>605
元寇の時、上皇は異国調伏祈願を全国の寺社にしてるし、
そもそも元への返書案にも書いてたと思うが
日本と蒙古とはそれまで関連もないのに
どうやって日本人が元寇起こしたクビライに関われるのかと 頼朝の愛人の男児がいて庶子だから寺に入れられて高僧となってた
実朝が殺された後に還俗させても良かったろうが
政子の子じゃないから将軍にはなれなかった
政子の晩年の相談役をしていたようだが
北条義時は自分の娘を武家に嫁がせないんだよな
公家にやってる
ドキュンと付き合うのに苦労したのかなw
キャバクラが天下を取るなんて
土台無理な話だからな
実朝は京からやってきたわけでなく鎌倉育ちだよ
全成と政子の妹夫婦に育てられてる
一人だけぼっちになるとは考えにくい
北条が京に近い家だという話もあるし政子が貞観政要読むような家だから
文に行くというのはわからんでもないが
比企に育てられた頼家は文はイマイチ
>>591
これ?
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変?」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・ >>606
知らん、チョンにでも聴け
俺も、中国共産党の中国人に襲われて、警官何十人とも乱闘して
統合失調症あつかいだ
元寇のときとなんも替わってない >>613
いやどうやって日本人が元やクビライに関われるのかも知らないのに
日本人が元と密通したりクビライに元寇させた、と言ってるのか?
ならなんで日本が元と密通してたと言えるのかと
密通の根拠自体が存在しないってことになるだろ >>614
ムキになって否定するだけ怪しもんだ
俺も創価学会と日蓮宗の騒ぎに巻き込まれ
けっきょくが、ミカドの自作自演だったで済むのに迷惑かけられて嫌になった いや歴史の話で根拠を聞くのは当たり前だし、
根拠が全くない話はそりゃ否定されるよ
それで怪しいって…
>>616
俺を警官何十人とも乱闘させるときは状況証拠だけでよくて
天皇陛下になるとエビデンス連呼でっか とりあえず太平記見てくれよ
いきなり霜月騒動で残党狩りでどよーんとして
長崎円喜めっちゃムカつくからの
沢口靖子お人形さんみたいですげーって
第一話終わります
歴史はどの話題でも根拠は必要
中心人物が源氏でも北条でも変わらんよ
ってか>>>605は状況証拠すらないじゃないか 今の若い子が見ても
沢口靖子が半端ないってのがわかる
ゴクミや宮沢りえもいるけど
>>619
それ俺の経験なんか言っても糞にもならんわな
が、天皇陛下、とくに上皇の命乞いで進化もなにもかも止められたとかなら
俺はどうすればいいんだろね
そもそも、トヨタ自動車のアキオ社長以下名古屋なんか
天皇陛下なんか糞とも思ってないけどよ
あんたらが俺ら喰わせてくれてるわけじゃねえしお >>602
源実朝は、歌人としても超一流だったし、頼朝の
和歌も新古今和歌集に選ばれている。
坂東の源氏武者ではこの二人だけだが。
実朝は京都文化への憧憬が強く、藤原定家の門人みたいな
ものだった。自分が飾り物の将軍あることを自覚していた。 真田広之がスタント無しで流鏑馬します
抜刀して軽々と馬乗ってるし
やっぱすげーです
鶴太郎は、過剰演技過ぎるな
高時が執権だったのは、1316年(14歳)〜1326年(24歳)で若い。尊氏の1つ上
愚鈍になったは、病を得て退任した後だと思う
>>623
この頃の大河はとにかく華があったな
今の大河は視聴率を基準にしてNHKの予算を減らした結果チープな仕上がりになってしまってる 鎌倉時代の名称を変えて欲しい
どうみてもまだまだ畿内の時代
鎌倉の時代と呼べるほどの政治や文化の集積は全くないからなw
田舎の首都ゴッコに過ぎん
>>627
鎌倉殿が支配する時代やからええやん
足利尊氏もはじめは京都にいても鎌倉殿と呼ばれた
義満から室町殿と呼ばれるようになった 三河と北信越と北関東は生活保護世帯が少ない。
『日本大文典』ジョアン・ロドリゲス「三河から東は、物言いが荒く鋭い」
(三河以東の)東武士は大方強敵どもなり
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。
(『甲陽軍鑑』)
・最強関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
・強国三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候
その証拠は、むくろ此方へ転たるは、うつむきになり、浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候(甲陽軍鑑)
・最弱近畿
宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww(山槐記)
於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww(吉記)
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの安兵団め
生活保護率
百済国大阪市57.1新羅国京都市32.2
最強国前橋市10.8 最強国高崎市8.0 最強国長野市7.6
三河国豊田市5.9 三河国岡崎市5.8
縄文時代 中国地方で巨石文明が栄えた時代
弥生時代 卑弥呼の時代
古墳時代 神殺しの時代 日本の歴史が改竄される
最近の説だと元寇やその対応は原因じゃないんだっけ?
日本史の教科書だと後醍醐天皇はボロカスに書かれているのに
最近、史学研究で再評価されてるのか?
wikiの後醍醐天皇の項をみたら万能チートですごい高評価、
意外だ
尊氏が惚れるのも分かる
後醍醐天皇は完全な時代錯誤で政策も現実離れした物ばかりだからな
政治家としてかなり問題がある人としか言いようがない
でも政治家としてはかなりダメなのにバイタリティが物凄い
その行動力が不満を募らせていた武士たちの神輿になって討幕に繋がったけど無策だから結局混乱に繋がった
簡単に言うと超迷惑な人w
後醍醐が立川真言とか知らなかった
〜宗がベストとかってあると思う?
歴史を考えると荘厳な思いになるね
どんだけの思いがあったのか
>>620
沢口靖子はお人形さんみたいだけど、宮沢りえはなんか芋臭いなあ
当時はそんな風に思わなかったのに >後醍醐天皇は完全な時代錯誤で政策も現実離れした物ばかりだからな
最新研究では史料を付き合わせると、むしろ後醍醐は積極的に武士を登用して
公卿が不満を覚えていた
和歌、音楽、有識故事の調査と指南書の作成、書を自分で実践して援助しまくり
伊勢斎宮の派遣、東北鎮守府、鎌倉府、九州の鎮守府への将軍の派遣、
評定所で朝6時から深夜まで臨席、判決文まで確認
とにかく家族思いで愛妻家、側室とも子供とも両親、爺さんとも仲が良い
護良親王の件も随分とかばってた
真言宗も重んじたけど、禅宗隆盛の元を開いた
元からの渡来僧にも直接会って禅宗談義
北条高時の菩提を弔う寺建築を発案
中先代の乱の後でも北条の末裔が南朝に下ると傘下に加える
とにかく人タラシ
wiki,持ち上げすぎだ
法則だけではなく
この世の真理に半歩近付きたい
>>598
松平健と藤岡弘のベストは草燃える
2人とも後半は老け役やってるが、40年後の今より2人とも老けて見えるんだよね
メイク、演出、演技、いずれも今よりレベル高かったんだろう 人間間に見えない化学反応のようなもんがあるように感じられる
>>633
研究すればするほど滅亡の原因が分からなくなってるらしい
歴史は偶然の積み重ねだと考えるとそんなもんかも >>608
おかげで今の皇室には義時の血が流れているw >>639
北畠顕家も官位に関しては指摘してるね
世の中に害を成すのは権力を持った無能の働き者なんてことは頭によぎらないよ 鎌倉には何で源氏武士の幽霊は今でも出るのだろう
東京の方が戦争でたくさん死んでるはず
>>647
後醍醐は有能すぎた
トップはお飾りに徹して諸公にバランスよく接して
実務はもっと下々の人に任せないとw 尊氏が機内鎮圧の兵を六波羅に向けて、御家人が容易に尊氏に従ったのは、
倒幕のつもりが誰にもなかったから。幕府内部の幕府再建の主導権争いにすぎないと
思っていたから。
ゆえに、初期の室町政権を主導した直義は北条泰時期への回帰を目指した。
それにNOをつきつけた尊氏と高師直が
鎌倉幕府の亡霊を成仏させようとしたのが観応の擾乱。
観応の擾乱における足利直義の死こそが事実上の鎌倉幕府の滅亡。
>>646
源氏の本流は村上源氏(久我氏)だから清和源氏は関係ないよ 後醍醐天皇も尊氏もどっちも長所も多いが短所も多い感じだな
とりあえず二人とも器量の大きさは感じる
後醍醐も沖に流されてるのに
超承久の乱との違いはどこにあるか
>>9
些細な事でも歴史を振り返って議論しないと隣の国みたいになっちゃうよ。 >>660
朝令暮改は駄目だと言って、欠陥のある憲法を全然改正しないのも良くない >>661
武士からの支持率の違いだろ。
後鳥羽<北条
後醍醐>北条
元寇の時に必死に戦った武士達に北条は充分な褒美を与えなかったから
北条の支持率が大きく下がった。 >>643
江戸幕府も悪政で滅んだのでなく
弱かったから武士に見限られたし
やっぱり、少数の楠木にいいように
やられたのが原因ではないのかな 幕府が安定してて強力だから滅びたってことか
謀反や反乱が起きればその所領を他の御家人に分配できる
僕のアイドルは早雲寺だから
このときの北条さんにはあんまり思い入れない
>>1
原因は、新型コロナみたいな疫病が流行って、
営業自粛から廃業に追い込まれただけ。
キャバクラと同じだよ。 後醍醐天皇の息子の後村上天皇も自ら大鎧をつけて最前線で奮戦とか、超武闘派だなw
http://koshaji.blog.jp/archives/72588303.html
正平七年(1352)三月、足利義詮の軍勢は前月より南朝軍に制圧されていた京都を奪還。
退却した南朝軍は後村上天皇の行在所がある男山八幡(石清水八幡宮)に籠り、足利軍を迎え撃った。
後村上天皇は紀伊の住人山本判官が献上した黄糸縅【きいとおどし】の鎧を身につけ、
栗毛の馬に白鞍を置いて跨がった。
幼い頃より北畠父子とともに戦場に出ていただけあって、さすがの堂堂とした姿だ。
木津川に沿って馬を急がせているところへ、追撃してきた備前の松田備中守と
備後の宮道仙の軍勢合わせて五百余騎に囲まれる。矢の雨が降り注ぐ中、天皇を守るため兵たちは奮戦した。
この戦いで南朝方は三百余人の将兵を失った。南朝の首脳四条隆資も討死している。
後村上天皇が河内東条( 現大阪府富田林市)まで落ち延びることができた時、
供廻りは法性寺康長ただ一騎になっていたという。天皇の鎧の胸板や草摺には何本もの矢が刺さっていたが、いずれも貫通はしていなかった。
このように戦場の前線で生命の危機に瀕した天皇は、後村上天皇を措いて後にも先にもいない。 >>666
楠木は悪党の中でも強いから少数でも馬鹿にできないよ >>633
いや、元寇は関係あるだろ。
大金かけて必死に外国の軍隊と戦ったのに褒美が
無いんじゃ北条への忠誠心は下がって当然だろ。
かつて源義家は部下に与えたい褒美を朝廷等から
得られなかったから身銭を切って褒美を支払った。
それに部下達は感激して、義家への忠誠心は大きく向上して
それが後の頼朝再起の際に大きくプラスに働いた。
北条もそれと同じように身銭を切って褒美を与えていれば
御家人の大量離反は起きなかっただろう。 後白河法皇は武士とは利用され利用し持ちつ持たれつの関係だったから一概に悪者とは言えない
後醍醐は勝者の歴史によって悪者扱いだが武士の側も無法状態で武士を冷遇するのも仕方ないという説もある
>>671
後村上天皇さんは凄い方だったんだな。
南朝の勅撰集に作品、ある? >>6
日本は男文化だと馬鹿なフェミが
言い張るが、本当は年寄り文化だ
武士と言うか、戦国から明治まで
続いたマゲなんて最たるモンでな
要するに年取って頭頂部がハゲても
それなりに格好付ける為に、男は
若者でも天辺を剃って横を伸ばすと
いう無茶な髪型になった >>673
なんか最近だと、元寇で実際に戦ったのは九州や西日本中心だけど、
鎌倉幕府滅亡時に戦ったのは関東の武士だったから
元寇で戦ってなのに恩賞もらえなかった層とは別だし
そもそも元寇から随分立ってるから世代も違うとかなんとか
まあ後者は昔の人だとおやの恨みは自分の恨みも同じかもしれないけど 北条ってあんまり自領土持ってなかったんじゃないか
幕府の領土とか渡せる立場じゃないだろ
頼朝の時は御家人が支えた鎌倉幕府、
次第に大規模有力者を順次粛清していって、一般の御家人が離れて、
得宗家を上級御内人が支える形で支持層が薄くなったとかないの?
>>671
源氏物語、平家物語、太平記は全部史実を元に脚色したファンタジー作品
三国志演義みたいなもんだから、真に受けてはいけない たまにぶっ飛んだ天皇が出現するんだよな
天武、白河、後白河、後鳥羽、後醍醐、孝明あたりか
次はいつだろう?
>>682
源氏物語は史実を元に脚色したものですらないのでは
モデルや元ネタっぽいものはあるけど基本登場するのはほぼ架空の人物だし >>682
南部氏が後村上天皇から拝領した大鎧が青森に現存しているから
村上天皇が自分の着用する大鎧を所持していたのは事実だろう >>679
やっぱり足利に人気が集まったのは
出自の低い北条がデカい顔してるのが
関東武士団に反発があったのかな 小室がワイドショーに出演することになって竹田がマジ切れしてる感じですか?
>>683
神武天皇と雄略天皇を忘れるなよ!
倭王武(雄略天皇)は宋の皇帝順帝への上表文に
昔から祖彌躬ら甲冑を環き、山川を跋渉)し、寧処に遑あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。
王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。
と書いてるから、雄略天皇は甲冑を着て戦場に立ったのは確かだろう。 足利も大した出自じゃない
鎌倉初期に足利が結城を見下した文送ったら結城が怒って
見下した文送り返した
怒った足利がオレンとこは頼朝の一族だから上だ言ったら
結城がはあ?オレとお前同等なんだが言ってケンカした
関東武士は上皇軍にも戦挑む連中だからな
関東も所領が細分化していって御家人層が貧窮してくのは同じだろう
鎌倉幕府倒れた後もずっと戦乱やっててさ
鎌倉だって何回争奪戦やってんだか
>>687
関東武士じゃない
源頼朝と頼朝の母方と繋がる武士
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>680
鎌倉末期で、38カ国の守護が北条一門
この辺が不満の原因だろう
ただ、守護だからって、一国丸々支配してたわけじゃないが 楠木は裏切り者
・中世(海津一朗先生・和歌山大学教授)
『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
>>973
元寇から50年経っており、元と直接戦った武士の子や孫の世代になっていた
北条得宗家はさらに強くなり、不満は高まっていたと思うが
後醍醐が最初に旗揚げした時に集まった武士は、畿内周辺の悪党とかが多く
西国九州の武士は立ち上がらなかった
九州では菊池が最初に反旗したが、味方に裏切られ討ち死に
六波羅や鎌倉の情勢を見て、ようやく重い腰を上げ大宰府陥落
元寇で恩賞貰えなかった末裔が、鎌倉幕府打倒に決して乗り気でなかったが
元寇によって得宗家が強大となり、他の武士たちの不満
後醍醐のような人が天皇になった事、悪党の出現
これらが絡まり滅亡へと繋がったと思うので
元寇は鎌倉滅亡終わりの始まり扱いでいいのでは? 基本的に武士は現実的
勝つ方につくこれが基本、家を残す為に両方に送り込む
元寇だって九州取られたら元につく武士はいっぱいいたと思う
倒幕してまた幕府開くて昔の人頭良くないなw
さっさと民主主義政府樹立して産業革命すりゃよかったのに
今頃ワープやタイムマシンも余裕で実現してたぞ
>>700
倒幕して調停に政治を戻そうとしたら、後醍醐さんが無茶苦茶やるから、みんな困っちゃった
で、結局尊氏さんに幕府を開いてもらう展開に >>700
倒幕でも
天皇親政したい、朝廷に政権もどしたい
北条を潰したい
とか1枚岩ではなさそうだからなあ だから、天龍寺供養参列者の一覧をみよ
出席者は霜月騒動で痛手を負った、源頼朝の母方、三河の藤姓熱田大宮司家に繋がる人々
霜月騒動を契機に、三河に進出してきた北条を危険視して足利は北条を滅ぼした
元寇の恩賞だとか間抜けな事言うなよ
霜月騒動で痛手を負った、三河の頼朝譜代
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
安達と姻戚だった甲斐源氏嫡流の伴野氏も三河に逃げてきたわな
当事者たる三河人に、聞く癖をつけよ
真実は当事者にしか分かるわけねーだろ
三河人の言う事が全て正解なんだよ
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
>>642
それと時代の潮目に乗っていたかどうか?で見ると
歴史を知る面白さが増していくと思う この時代の戦闘は軍の動きがダイナミックで面白いね
戦国時代の戦闘は局地戦ばかりでみみっちいな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変〜」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。
>>706
それだけブロックごとに割拠して軍事力も充実したって事だよね。人の領地簡単に通してもらえないw この時代、支配地は点だからな
しかも、日本各地に一門や縁者がいてややこしい
>>698
九州取るどころか上陸すらできないヘタレで
いいように夜襲かけて遊んでたよな 足利一族は何であんなに強大なの?
頼朝挙兵にいち早く挙兵したせいだろうけど、領地がずば抜けている。
同門の上杉、細川、今川、斯波含めると武家の棟梁と言える。
これじゃ北条家でさえ抑えきれないよ。いずれ鎌倉に攻め込んだのは間違いない。
突き詰めれば足利一族の領地、軍事力が北条家を凌駕したということ。
頼朝挙兵にいち早く呼応した恩賞が莫大。幕府創設時から重鎮。
同じ源氏一門でも新田、武田とは比較にならない軍閥に成長した。
軍事政権であることに何ら変わりない。
天皇は文民が担う王権国家をめざした
が、いかんせん近衛軍では東国軍閥
に対抗できなかった
>>711
鎌倉末期時点では大した事無いぞ、三河以外はショボい所領しかない
◆鎌倉末期、足利氏御領◆
■分国(知行国)
・三河国(1221年〜)
・上総国(1259年〜)
■所領一覧(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
【東北】
@陸奥国
・賀美郡(宮城県加美郡)
【関東】
A下野国
・足利庄(栃木県足利市全域及び佐野市・館林市の一部)
B上野国
・広沢郷(群馬県桐生市広沢町)
・大佐貫郷(群馬県邑楽郡明和村)
C上総国
・市東西両郡(千葉県市原市)
D安房国
・朝平郡(千葉県安房郡東南部)
E相模国
・愛甲荘(神奈川県愛甲郡・厚木市)
・宮瀬村(神奈川県愛甲郡清川村)
【東海】
F三河国
・額田郡(三河県岡崎市・額田郡)
・設楽郡(三河県新城市・北設楽郡)
・富永保(三河県新城市富永)
【北陸】
G能登国
・土田上荘(石川県羽咋郡志賀町)
【関西】
H山城国
・久多大見(京都市左京区内)
I丹波国
・八田郷(京都府綾部市)
・漢部郷(京都府綾部市)
J丹後国
・宮津荘(京都府宮津市)
K河内国
・田井荘(大阪府八尾市内か)
L和泉国
・放光寺(大阪府岸和田市)
【四国】
M阿波国
・秋月荘(徳島県板野郡土成町) >>711
続き
【中国】
N備前国
・宇甘郷(岡山県御津郡御津町)
O美作国
・宇甘郷(岡山県御津郡御津町)
・垪和東郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・垪和西郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・新野郷(岡山県津山市)
・田中郷(岡山県津山市)
・田邑郷(岡山県津山市)
・讃甘荘(岡山県英田郡大原町)
・稲岡南荘(岡山県久米都久米南町)
【九州】
P筑前国
・戸栗重富(福岡県福岡市西区戸切・早良郡早良町重留か)
不明
賀治山村、黒田保、友子荘、阿土熊 鎌倉幕府最後の日の東勝寺での話
長崎高重が同じく高時の部下の一人・摂津親鑒に杯を献じ
「私の自害を肴に一献傾けてください」といって腹を切ってみせた
親鑒も「このような肴を献じられたら下戸でも呑まぬわけには
ゆきますまい」と一献を傾け、続けて自害したという
鎌倉幕府に殉じた人達の逸話はこと欠かさないけれども
どれも哀しく美しい
しずかちゃんは
源頼朝からの
直系だよ
のび太は知らん
>>698
元寇の時よく裏切者出なかったな
南宋は手ひどい裏切りも滅亡の一因だった 平安時代は温暖期、武士の時代は寒冷期
戦国時代は最も寒かった
>>698
さすがに言葉も通じない外国人に味方しようという人はそんなにいないでしょ >>713
>天皇は文民が担う王権国家をめざした
後醍醐は自分の親政にしか興味が無く、国の統治に関する戦略など無かっただろう。 この時代の関東は強かったのに、戦国時代のあの不甲斐なさときたら
日本の皇室が他に類を見ないくらい長く続いたのは、権威と権力が分離されてたというのが大きい
中国歴代王朝や絶対王政時代のヨーロッパ諸王家のように権威=権力となっている国では、国の体制を変えようと思ったら革命で王朝ごと打倒するしかなくなる。
日本は権威と権力が分離されているおかげでそうはならなかった。
建武の新政は天皇が政治的権力も持とうとした数少ない例外であるが、そうなれば例え天皇であろうと敵対勢力からの武力的排除の対象となるというのが歴史が良く示している。
もしも建武の新政がうまくいっていれば権威と権力が同一の海外の王朝のようになり現代まで皇室が続いていなかった可能性もあり、長い目で見れば建武の新政は失敗して良かったといえるかもしれない。
>>725
戦術とかあんま関係ない天然戦闘の時代には、恐れを知らないって意味で強かったんだろうなw
名乗り上げてから戦ったりしてな。関東は蝦夷と接する辺境の地だったし。 >>725
弱くはないが、大して強くもない
平安時代から現代に至るまで、一貫して強いのは三河
実も花もあるつー奴
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 ネトウヨの先祖はこの時代になにしてたの?
俺の先祖は吾妻鏡に名前乗ってたり神主してたりしてたわ
関東土着の戦国大名って後北条氏くらいしかいないもんな
戦国マニアが多いから武将というと戦国武将を思い浮かぶ人多いけど
そもそも武士のはじまりは鎌倉時代からやろ
鎌倉武士をメインに考えるべきやろ
ということで
足利氏はあまり高貴な存在じゃない
鎌倉時代の序列は
源頼朝が上洛した時の序列がブランドやで
源頼朝以外だったら
源頼兼と平賀氏が源氏のブランドだ
御家人の中でも源頼兼は苗字を名乗らない
源頼朝と同格の存在
平賀義信は頼兼より劣る
三河武士の高師直は、吉野の御所に火を放った事で有名だが
実際に火を付けたのは、高師直軍の富永つー奴だからな
その富永は源義家軍の伴助兼で有名な三河伴氏
三河人は昔からめちゃくちゃやっとる
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
源満仲-源頼信-源頼義-源義光-平賀盛義-平賀義信
源満仲-源頼光-源頼国-源頼綱-源仲政-源頼政-源頼兼
源頼兼は源頼光から大内守護を勤めている
天皇に一番近い源氏は源頼朝よりも源頼兼かもしれない
頼兼の子の源頼茂が将軍職を狙ったのは本当かもしれない
清和源氏
摂津源氏
大和源氏
河内源氏
義家流
義光流
表に出ない事は当事者でないと分からんわな
足利義鐘は母方の親戚扱いで、ある意味別格だからな
源頼朝は足利義兼を足利荘に送り込み、寛伝を日光に送り込む事で、関東の政治と宗教を支配下に置く事を目論んだ
高野山に大塔の鐘と言う大鐘があるが、三河で作られた
計画立案は三河の源頼朝、製作は三河の寛伝、高野山で受け入れたのは三河の足利義兼
三河で源頼朝と繋がる足利氏を乗り越えられなったのは、北条だけでなく他の御家人も同じなのである
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
寛伝(三河国滝山寺僧)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田
豪華は栄職は、京を練り歩いた際の先駆だ
先駆は8人いたが、院側が6人用意して、頼朝が2人を選んだ
選んだ2人は、弟の三河守範頼と母方従兄弟の星野範清
藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→星野範清
>>571
面白いですね。
投稿全部保存させてもらいました。
尊氏の生まれは母の関係で丹波と見た事があるのですが、これについてどのようにお考えでしょうか?
また、尊氏上洛の際に吉良源氏が付いて行ったようなのですがこの頃どの様な関係だったのでしょうか。
西尾市に立ち寄って調べたのですが分かりませんでした。ちょうど休みで歴史資料室には行っていません。 >>666
強いから天下取ったやつは一瞬でも弱み見せたら終わりなんだな
足利は最初からgdgdだったから途中でgdgdになっても致命傷にはならないけどw >>733
足利は取るに足りない分家だからな。
北条の姻戚となることで、鎌倉幕府内で権力を持つようになる家で、
だれも源氏代表とか、思っていなかった。 >>746
1310年にとーちゃんが三河在国なのは確実、1305年はどうかは不明
仮に1305年に三河在国だとすると、鎌倉から上洛してきて、三河の屋敷に立ち寄りとーちゃんに挨拶して、一人で丹波に行くか?
ちょっと待てよ、清子になるだろうが
貞氏は鎌倉で正室と跡継ぎの高義と暮らし、妾と尊氏直義は三河に暮らさせていたんだろう
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>744
訂正
先駆は10人で、院が用意したのは8人、頼朝が用意したのは2人
先駆は御車の前に並ぶ栄職なんだが、源広綱(源頼政の末子、駿河守)は先駆に選ばれなかったショックで逐電した >>705時代の潮目?
家来目線の話で勝ち馬に乗れって話? なんかやたら詳しい人いるな
ニュー速+ってたまに歴ガチ勢いて面白い
>>725
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」 黒川弘務。311で日本を滅ぼした犯人。
福島県知事 佐藤栄佐久氏、プルトニウム入りの燃料を福島の原発で燃やすことに反対。
するとスキャンダルを捏造され、辞任するよう圧力をかけられる。
↓
同知事、徹底抗戦。
↓
しかし検察の残酷な尋問のため、県庁職員が二人も自殺(暗殺かも)。
↓
知事やむなく辞任。その後すぐ逮捕される(2006年)
↓
裁判の結果、前代未聞の「ワイロを0円もらった罪」で有罪。アホか。
↓
新しい福島県知事は、もちろんプルトニウム入り燃料の使用を許可
↓
311で福島の原発が大爆発。
プルトニウム入りの燃料ももちろん大爆発。日本全土にプルトニウムがばら撒かれる
↓
ジャップ終了
プルトニウムの粉末がたった数個吸い込まれるだけで、将来、肺がんが発症すると言われている。
そして、この福島県知事を「ワイロを0円もらった罪」で有罪に持って行ったのが「黒川弘務」。
ジャップじゃ 検察 >>>> 裁判所 という力関係だからな。
こんな悪魔が検察の出世街道を突っ走ってたとか、
ジャップの政治が想像以上に腐敗しまくってるってことよ。死ね。
>>697
土地に関しては防衛戦争じゃ新たな土地手に入れたわけじゃないし
叩くの気の毒な気もするなあ 佐幕を名目に人集めて上京して途中で尊皇に願える
足利尊氏のやったことって清河八郎と同じなのな
>>36
穴熊囲いの鎌倉に対して、守備の要である7一金を将棋盤の外から迂回した新田の奇手が見事だった。 まあ裏切り者だよね足利w
だから何人も将軍が暗殺されるのだ
>>741
メンタル面以外では馬と弓が強いよな
蒙古襲来でも最初の文永の役で博多に蒙古軍上陸したが
司令官がヒュンと矢を受けて慌てて船に引き上げていった
相模武蔵の二洲で日の本ほかの全部あわせた武士よりも強い言われたから
なんで相武の武士が強いのかは知らん
馬なんか? 幕府が内紛を繰り返したからでは
源頼朝も暗殺されたのだろう?
>>767
少弐景資の矢を受けて負傷した劉復亨のことなら副司令官のひとり
司令官は忽敦(クドゥン) >>768
どうだろうな
飲水の病=糖尿病だったふしがあるから落馬してもおかしくない >>1
新田義貞が挙兵してから
幕府が滅亡するまで僅か半月 北条氏が身内以外の有力御家人をとりつぶしすぎたので
足利の一門以外まともな御家人がいなくなった
高氏といっしょに出兵した北条(名前忘れた)はすぐに死んだ
高氏といっしょに出兵したやつ誰だっけ
わかる人いる?
名越高家だろ
ちなみに嫁が今川だから幼い子供は今川のもとで生存
今川那古野家となって信長の縁戚で秀吉の木下家の主君となる
という不思議な因縁が
御恩と奉公なのに
元寇に対し領土を与えられなかったからでは??
ちなみに高時の遺児の時行の子孫の方は横井氏となって尾張で生存
早雲の息子の氏綱がこの横井の娘と結婚して後北条氏となる
という流れ
>>732
地域一番店の悲劇だよな、氏政、氏直
地域スーパーチェーンの4代目総大将が
全国展開で激戦繰り返して力付けてきた相手を侮って滅亡
地域一番・技術力の結晶・山中城が半日で落とされた時点で勝負ありだよ
小田原評定なんてなかったようなもん 関東土着ではない幕府の名門伊勢氏出身の後北条氏
家は創価学会第4代会長で戦国大名では一番の出世頭
>>746
関東で生まれ三河で育った今川了俊は九州島で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った細川頼之は四国島で無双したものな。
上野で生まれ上野で育った山名時氏は北近畿山陰で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った中条長秀は京師で無双したものな。
中世史の川添昭二さんは今川了俊は鎌倉生まれで子供時代に東海地方へ移住したと書いてたな
中世史の佐藤進一さんは高兄弟は三河出身の三河武士と書いてたな
中世史の峰岸純夫さんは足利尊氏は鎌倉大倉生まれの鎌倉武士と書いてたな
中世史の海津一朗さんは楠木氏は武蔵北部出身の武蔵武士と書いてたな 天皇がいて将軍がいて執権がいてその一族に得宗家なんてのが幅を効かせてとかこんな多層権力構造が長続きするはずがない。
悠仁さまには頑張ってもらい後醍醐天皇くらいたくさん男児をこさえてほしい
地域の実験をもってる奴等がのしあがると
全国的に通用する権力をもつが
人への威圧感、迫力とかがなくなって
実務をこなしている更に下の連中に力が移っていくからか
>>779
昔はそういわれてたけど今は疑問視する新説もある
これに限らず元寇あたりの話は今はかなり変わってる >>767
鎌倉時代の相模と武蔵、特に相模と言われたら北条氏直轄の地というイメージ
そこが強いと見せつけるのは、全国の武士を士気高揚させる意味合いはあったのかも >>767
何処が?
脳内ファンタジーか?
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 北条特宗家は新田義貞に攻められた時に
鎌倉を脱出して地方所領で建て直しを図って
地方政権として生き延びる道も有っただろ。
>>791
息子が逃げてる
信濃の諏訪が匿った
鎌倉二度奪還してるから、北条支持勢力もまだまだ根強かったことが分かる
南朝に帰参してるから、恨みの対象は足利家 なぜ滅亡したのか
大概の政治機構は200年ほどでリセットされる
いろいろな問題も起こってきて、加えてみんな飽きてくるからな(´・ω・`)
明治維新からそろそろ200年たつから、大規模変革アルゼ
天皇親政また将軍が統治する幕府政治が再興する
君主制→幕府→民政→
>>649
権利というより、怨霊になってたたろうとするほど、人生について前向きじゃないんだろうな。
念仏やら題目唱えて極楽往生願うなんて、半ば人生捨てているようなものだしな。 後小松天皇の時に南北が最終的に合一した
後小松天皇のご落胤が一休宗純
太宰少弐武藤景資
後醍醐VS鎌倉 鎌倉の勝ち 後醍醐配流
後醍醐VS鎌倉 後醍醐の勝ち 北条滅亡
後醍醐VS足利 足利のほぼ勝ち 南北朝に分裂
足利兄弟対決 弟の勝ち 死にかけの南朝を利用した弟が勝つ
足利兄弟第2ラウンド 兄の勝ち 兄が南朝を利用 北朝瀕死
足利VS南朝 足利のほぼ勝ち 北朝復活 南朝衰退
この辺を上手くドラマに出来たら面白い
北畠顕家
新田義貞
足利尊氏
>1
鎌倉幕府崩壊へ。
元寇後の、ギガ戦災復興費用、
軍拡傾向 カマクラノミクス。
ここに、正応鎌倉大震災で、ギガ重税加速、
インフレ化。
スタグフレーション慢性的構造不況化。
いわゆる、
悪党がパンデミック。鎌倉幕府崩壊
南北朝動乱 戦国時代。
室町幕府後半。
太平洋上での火山巨大噴火から、
グローバル巨大飢饉。
超・狂乱物価 テラ・オイルショック。メガ ブラックアウトな事態。
スタグフレーション慢性的構造不況激化。
土一揆 打ちこわし暴動パンデミック。
室町幕府、機能停止。応仁の大乱 戦国時代へ。
江戸幕府崩壊へ、黒船襲来後、開国後。
安政江戸巨大台風 安政南海トラフ超巨大地震
安政江戸大震災。
アメリカ風邪 インフルエンザ、コレラ コロリ大流行
トクガワノミクスなギガ軍拡。超重税、インフレ激化。
スタグフレーション慢性的構造不況化。
桜田門外の変など暗殺横行。天狗党の乱 関東内戦、
戊辰戦争 長州征伐。
狂乱物価 オイルショック ブラックアウト、
取り付け騒ぎ 預金封鎖 デノミ 財産税な、
世直し一揆巨大暴動 和風ハロウィン、ええじゃないか狂い踊りパンデミック。
明治維新で、江戸幕府崩壊。
日本って「裏で実権を握る」っての大好きだね
天皇はそのままにしておいて将軍が天下を収めると見せかけて執権が裏で操っているのが
実は真の権力者は得宗と見せかけて内管領が仕切っているってどうなってんのよ?
執権というのは裏で操るというのとは違うがね
摂関家は誰が天皇になるかで権力がかわる
だから娘が皇子産まなかったら終わり
内管領も得宗がいないとダメ
得宗は誰にも何も頼らず得宗であることが権力の源泉
こういう人は天下人という
高時の後見人には安達氏や高時の生母、更に高時の後に執権を継いだ
北条氏の分家一族などもいたから、内管領が彼らを超えて強権を握れた訳でもなさそうだね
なお、安達氏と内管領が対立しても北条貞顕が仲裁役になってバランスを取っていた様子
>>733
> 源頼朝以外だったら
> 源頼兼と平賀氏が源氏のブランドだ
どっちも子供が殺されてるけどな。
数ある源氏で滅ぼされずに、また落ちぶれずに鎌倉時代を生き抜いて、
いつの間にか足利が源氏で最高の家柄ってことになったんだろう。 あのな、物を知らない田舎者
清和天皇の悠紀斎田は三河国幡豆郡で、清和天皇皇女孟子内親王に幡豆郡の所領が一身田として与えられている
つまり吉良荘は清和天皇ゆかりの荘園と言ってもよく、吉良氏の発祥地でもある
その吉良荘にあるのが御劔八幡宮だ
御劔八幡宮
西承久の乱で三河守護職・吉良荘地頭に任じられた足利義氏が、西条に城を築き、その本丸に神殿を造営し、
それまで松山というところに祭ってあった八幡宮を遷し、北条政子から伝えられたという宝剣「髭切」と、源義家が用いたという源氏の白旗とを神殿に納め、「御剣八幡宮」と呼ぶようになった
いつの間にかとかアホか
鎌倉源氏将軍断絶後、足利義氏は、政子ちゃんから源氏の棟梁認定されとるがな
>>731
伊賀のあたりで農民
一番有名な先祖は滝川一益 このスレ見てたら、
永井路子の本を読みたくなった。
>>807
承久の乱の勝利が権力の源泉だな
後鳥羽院が北条義時名指しして返り討ちしたから北条義時個人が
力を得ることになってそのポジが得宗 >>369
爆笑問題太田の考案した年号語呂合わせ、
1995年 人食い急行・地下鉄サリン
これは秀逸だと思った >>810
源氏ってだけなら別に足利だけじゃないよ
新田とか他の家系もある
まあ新田は色々やらかしたが >>810
それと足利は数ある源氏でも、頼朝の旗揚げの時点でもう
頼朝に近い親戚、初期から頼朝に強力、頼朝の妻の妹と結婚、と
かなり頼朝に近い位置にいて政略結婚でも重要ポジションにいる
鎌倉時代生き抜いていつの間にか、じゃなく鎌倉時代になる前から地盤はある
それに鎌倉時代に北条から嫁貰いまくりで得宗家との血縁関係も保ってた >>811
その刀、後の時代には安達が持ってなかったっけ?
何時の間に足利から安達に渡ったんだろう この時代生きてても何の楽しい事もなさそう
当時の武士の食事メニュー再現見たけどクソ不味そうだった
味付けは塩か味噌だけ
醤油すらない
ただ鶴はいっぺん食ってみたいな
>>821
味付けは酢や甘味もあってそれだけってわけでもない 安達泰盛が探し出した
でも髭切て今に伝わってないんでは
源家の鬼切は残っててそれを髭切みたいにして
北条の鬼丸も残ってるが皇室の私物になっちゃってる
国民のものにすべきだと思う
太平記の再放送見てる。
久しぶりにみたけど面白いわ。
架空人物の柳葉や宮沢りえの役は邪魔だけど。
あんな狭いマチに東国の有力御家人たちが屋敷構えてたら人だらけだったのでは
尊氏の魅力は気前がいいことと公平なところ
でも指導者としては一番大事な要素かも
後醍醐も直義も義貞も尊氏より色々優秀だけど尊氏の前に負けた
尊氏は、アンチも多いだろ
弟や息子すら背く
南北朝が長引いた原因
弟はアンチかどうか
尊氏も弟殺したけど、この兄弟元はものすごく仲良かったからなあ
>>738
使者斬り殺したのって13回中2回だけどな
文永の役の後の2回のみ
しかも停戦の使者とか和平の使者とかよくネットでは言われるけど
史料を見る限りそういうものはない
むしろ同時期に元は既に弘安の役の準備してて
使者を送る意図についても日本が従うかどうかの見極め >>821
柿の甘さとかは、至高だっただろうな。今食べても甘いモン。秋が凄い楽しみだろうな 源氏だったら源義平が好き
平氏だったら平重盛が好き
北条だったら北条時宗が好き
勝手に攻めてきておいて停戦の使者ワロタw
攻めなきゃ戦にならんだろ
>>828
南北分裂と息子の件の決着つけなきゃ幕府が完全に分裂しちゃうから直義暗殺で全てのけじめにしたんだよな
御家人の利益代表としての尊氏を信じて関東から京都、鎌倉、京都、九州、京都と辛酸を舐め尽くしてきた人達、その子達を納得させ反乱分子にも直義以外の処分はしないというメッセージ
これやれたから幕府は15代続いた
逆に直義生かしてたら南北動乱による幕府分裂はその後ずっと続いてもっと多くの血が流れてるみんだらけの世になってたと思うわ >>819
エエエェエエ ('o`)
得宗家と関係結びながら倒幕しちゃうのって
破天荒やなあ >>827
外ヅラがよくて気前がいい奴は家庭人としてはダメだから
結婚してはいけないみたいなw
家中が全然おさまってないよな 徒士戦の上手といえば↓にはいない九州武士。
弓射儀礼=歩射の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
1096年(京都にて)
140回中 11回命中、命中率7.9%、射手数14名 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉にて)
240回中 181回命中、命中率75.4%、射手数12名
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。
鎌倉武士は騎兵戦の達人。馬上組討無敵の猛者熊谷、畠山、金子、朝比奈に騎射で名高い那須、結城、愛甲、下河辺。
騎射の中でも難易度の高い笠懸、より実戦的な追物射の成積ならさらに圧倒的な差が付いたはず。
直義の後も、直冬が離反。南朝が京都奪還
その後も、執事細川清氏が離反。南朝が京都奪還
こんなまともな歴史説明が2chで伸びてる理由が分からん
>>830
あとはザクロ、ウリ、温州みかんか? >>821
お酒を飲むのにツマミがなくて台所にあった味噌を肴に飲んだという逸話が
確か北条時宗か北条宗宣にあったと思った
執権にしては質素すぎて笑った記憶があった >>841
それは5代執権北条時頼
障子の切り貼りに鉢の木にと教科書に出てきそうなエピソード豊富な人
今は紫陽花寺で有名な >>491
足利本家の血統が絶えた場合は吉良家が後継し、吉良から後継が出せない時は今川から出す。
これは無い、だいたい御一家って吉良氏・渋川氏・石橋氏の事で 鎌倉公方家と斯波氏を
将軍家継承を遠ざけるのが目的なんだし。 鎌倉時代って承久、元寇の他は末期を
迎えるまで戦いが少ないイメージだな。
北条が全国の守護をほぼ独占し、その反発が鎌倉幕府滅亡の要因となったが
足利の方が守護独占してないか?
関東中部近畿中国四国で、足利一門でないのは
加賀の富樫、美濃の土岐、播磨の赤松、伊予の河野、周防の大内
九州東北は少ないが、中心部独占してる
吉良、斯波、細川、畠山、一色、仁木、桃井、渋川、石橋、今川、石塔、上野
他にもまだまだあったはず
これらの守護大名が戦国時代中にほぼ全滅してる、織田時代に細川の分家が復活したけど
地盤が弱く下克上されやすい背景があったのかな?
>>844
実際には、四六時中御家人同士や身内で殺し合いがある殺伐とした時代 滅んだ原因を知って何がしたいんだ?そんなどうでも良い事知らなくても人生に
何の利益ももたらさんだろう。
鎌倉や室町時代は殺伐とした感じは中国での魏晋南北朝時代と似てるな。
>>850
幼君時に大抵執政が台頭して主筋の旗頭と政争始めてしまうからな
それに外憂加わって外部勢力を巻き込んだクーデターと粛清で強権政治、その反動で離反者続出のカオス >>846
足利市自体も難読だが、市内の
足利市利保町も。
足利も利保町もおそらく全国でこの読み方するのはここだけかと。 戦前の尊氏が逆賊扱いされてた時代に足利市の人たちは差別されたりしなかったのかな?
鎌倉幕府がなかったらそのまま律令制の残骸みたいな公家政治が続いてて、明治維新もなくそのまま
外国の植民地になってたかもしれないな
鎌倉時代には元寇あったしなあ
やっぱり元寇の防衛には役に立った面がある
新田義貞の鉄兜が北陸の田んぼに埋まっていたそうだが
史実どおりなら
末期の鎌倉幕府=従四位の北条による全国支配が終わるのは時の流れ
どちらかといえば足利の方が征夷大将軍=幕府=武家支配の制度を確立したんじゃないか
>>859
足利は武家政治のお手本は北条義時泰時の時代と名言
つまり執権政治が武家政治の理想なのだ
ここで頼朝の名前が出ないのが面白いとこだが足利によると
頼朝は武館を開いて義時が天下人になったということらしい >>819
大事な事だが、足利との姻戚関係を強く望んだのは、北条側だからな
実朝の正室に足利義兼の娘を推薦した政子はよく分かっていた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
これが明治維新にも起り、明治天皇が入れ替わった。
・・・おや?こん夜更けに誰か来た様だ。
>>845
基本的に守護は在京だから地方の支配は代官の守護代任せ
だから実権が守護代に移りやすい
複数の国の守護を勤める大名が出てきたから
強権奮う将軍が出ると守護の家督継承に口出しして
大名家の分解を図る
家臣団が派閥を作りやすく割れやすい
かんてのは聞いたことある >>846
足は葦(河原に生えてる草のあし、よし)
利は加賀(川の流れで削れた土地)
じゃないかな チンギスハーン自ら親軍で進軍して来たらその隙に鎌倉別働隊が蝦夷からサマル間道ぬけて大元占領してたキツツキ戦法
恩賞もらえなかった武士が借金こさえて徳政令でチャラにされた土蔵や金貸がもう金かさんくなってジャパンがヒッチャカメッチャカ
コロナ菌襲来で給付金令が発布された今のジャパンと何となく似てるよなw
足利義氏は政子の甥だろ
しかも政子と同母妹で何やら不幸があった?という説もある女性が母親
政子が贔屓しておかしくない
>>868
元寇の時のハーンはフビライや
まあ遠い日本に皇帝親征なんかやったらその隙に南宋が盛り返しそう 北条時宗も現地で戦った武士ももっと評価されていいよなあ
現地の武士は評価していいが、執権は時宗じゃなくても勝てたんじゃね
時宗が特筆するような指揮したのか?
>>873
クビライの国書を読んですぐに侵略の意図を察して地方に警戒を呼び掛けてる まあこの頃は若年で長老格のベテランが周りにいたから
若い時宗がどこまで自分で考えてたかわからんけど
片岡孝夫の後醍醐天皇は完璧だったな
尊氏が反逆しつつもなお尊敬し続ける説得力が半端じゃなかった
>>179
全然
実質50年で滅んじゃったよ、内常室町幕府はあっても、足利幕府は2-5代までの50年であとは他人幕府 他人幕府だと鎌倉も、頼朝の子孫は三代までだしなあ
一応4代目は妹の子孫で孫娘の婿だったが
>>873
戦の指揮がどうこうより、そこまでの準備を評価するべきだろう >>873
あと文永の役の後に使者を処刑したこと
これについては批判が多いが、文永の役直前の使者の行動見ても
使者は明らかに偵察を目的としてるから
文永の役前のように放置してたら偵察されて情報持ち帰られる つか蒙古から国書来たから連署の時宗を執権にあげたんだろ
で執権だった政村が連署に降りて入れ替わった
鎌倉幕府は得宗が執権の時が一番統制とれて強力なんだから
そういう体制にしたのさ
ガンダ〜ラ ガンダ〜ラ 愛の〜国ィ〜〜♪
このように歌って誤魔化せば済むと思ってたのが後醍醐天皇の敗因だよ
>>730
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
違う、本体は派遣社員 関東は武家の本場だからな。
これが関西に拠点がある政権だったら、蒙古のときかなり苦戦しただろ。
>>730
武田信玄に負けてクソもらしたのが徳川家康。 >>873
それと時宗の指示かわからないけど、
文永の役前の使者を九州に留めて、
偵察は止められないまでも範囲を制限したこと
使者は首都へ行きたがってたけど、
攻め込んだ時の目的地として偵察する気だったんだろうし >>879
よく調べると、日本側も戦争見越して情報戦や準備してるんだよな >>888
政権が関西に拠点があったら
武家政権だったとしても貴族政治的な性格が強いから
戦争にならないように動いたんじゃね。 >>893
戦争にならないように動くこと自体が日本からは無理だったと思う
クビライは日本に国書届けた使者の帰国より前にはもう日本を討つことに言及してるし
帰国後には戦争準備に入ってる
そのもっと後には朝廷でも返書(反論や批判あり)しようとしたこともあるが、
この頃はまだ朝廷も返書なしの決定だったし 唯一戦争を回避する方法があったとすれば
攻め込まれる前に従属することだっただろうけど、
それはそれで高麗が元寇の造船やら
兵士や船員や女の人間まで要求されてたように
日本も南宋とかの元と他国との戦争に
物やら人やら出せと言われたかもしれないから、
そうなったら戦争相手が変わるだけにしなるしな
>>888
関東が武家の本場とか、何かのギャグかな
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>887
高い正社員率地域に派遣と言われても、ピンとこんな
平成22年度生活保護率(主要自治体)
5.30% 大阪市 141,026人
4.33% 函館市 12,187人
3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人
2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人
1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、
0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 三河県豊橋市 2,278人
0.54% 三河県豊田市 2,287人
0.46% 三河県岡崎市 1,734人 >>1
今の皇室は北朝系だが、なぜか南朝が正統とされて北朝の天皇達は歴代の天皇に含まれてない
最終的に後醍醐天皇の勝利やわ 北条時頼 渡辺謙。北条時宗 和泉もとや。面白かったわ。
栄西が鎌倉茶人か
鎌倉に引き籠ってたせいでしょ
京都近辺に幕府を作ってりゃもう少しやれた
禅は鎌倉からか
けっこう禅寺舞台になったね
名越高家が赤松軍に討ち取られたのを見て、尊氏が幕府を裏切ったのも大きい
赤松円心は尊氏が南朝方に勝利するキーマン
あー後醍醐ね。そいつ、ワイ安徳の妾バラのおとーとだし
承久の乱の時に天皇廃位で新しい天皇つけたんだから
後醍醐おろして北朝天皇たてて正統としていいわけよ本来
安徳天皇だって西海で三種の神器持って健在なのに
京で後鳥羽天皇即位させたしさ
尊氏にそれする正統性がなかったのと後醍醐に後ろめたさでもあったか
物語的に言えば変革時には平穏を嫌うトリックスターがいる
この時代では佐々木道誉
幕末では吉田松陰
現代では安倍昭恵
北条氏は頼朝が生きている間は、実はさほど優遇されていない。
それ故に、頼朝が死んだ後、北条氏は、全てを独占しようとして実際にそうした。
ということで、北条の編纂した「吾妻鏡」には頼朝の死んだ頃の記述が無い。
元寇までは合戦の際
A「やぁやぁ我こそは横須賀部落出身の〇〇だべかかって来いや〜」
B「やぁやぁ我こそは川崎区の産廃地出身の〇〇だべかかって来いや〜」
と自己紹介してからバトルだったのが怒涛の攻め喰らって戦い方が変わったと習ったわ
戦前の軍隊では足利市出身の新兵は,足利市出身と言うだけで虐められた。
足利尊氏が北朝に肩入れしたが,今の天皇が南朝の子孫であるため
足利市出身者は逆臣の類縁者だと理不尽ないちゃもんを付けられたそうだ。
尊氏が北条出身の嫁さんに頭上がらなかったのは
やっぱ後ろめたかったから?
実家がいないんだから怖くないはずだけど
>>913
北条が全部滅びたわけではなくて、一族の何人かは建武朝廷に仕えたりしている
北条の領地を治める在地の武士も死に絶えたわけではなく、
むしろ彼らを使わなければ北条旧領を治めることもできなかったはず
そういった北条旧臣を従わせるのに、北条出身の嫁さんはかなり役立ったんじゃなかろうかと思う >>911
義経はそんなん無視して逆落とししてたろ 元寇15万と言われてるけども、人口1000万人おった鎌倉時代に
その程度でどう占領するつもりだったんだろうな
言葉の伝わらん異国兵が攻めてきたら農民も鍬かついでゲリラ戦するだろ
日本は山ガチだしな
山陽道無事に通るのは難しかったろう
九州も山多いからな
>>912
ちゃんと説明せんからあかんのや
足利と言えば、秀郷流足利氏、三河からきた藤姓足利氏は侵略者だとな
日光も三河からきた僧に侵略されて、徳川の日光東照宮も同じダッペ
源頼朝、足利尊氏、徳川家康は、全部三河の岡崎市ダッペとな
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏) 「東人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、まことなし」
東国の人間は、言ったことはきちんと守る。京都の人は簡単に受け合うけれど、誠実さがないというわけだ。
これに対して尭蓮上人の答えはこうだ。都の人が嘘つきなわけではない。「心やわらかに、情ある」ために、人の頼みを断り切れないのだ。
しかも貧しい人が多いから、結果的に頼まれたことが実現できないのである。
東国人は、心に含みがなく、無骨で、一途に強い気性だから、できないことは「はじめより否といひて」断ってしまう。
それでも財産・実力があるから、他人からは頼みにされるのだ。
都人を弁護する議論だからこうなっているのだが、これがもし『軍鑑』作者や朝倉教景ならば、きっとこう付け加えるであろう。
だから公家には命をあずけられないのだ、と。
武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よいような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。
頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。
(『武士道の逆襲』講談社現代新書)
上方の弓矢すえになりたる国ども、町人に相似たる侍ども、弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。
(『甲陽軍鑑』)
三河の猛将・本多平八郎忠勝(『本多平八郎聞集』)
「武士は武士臭いのが、味噌は味噌臭いのがよろしい」
「武士は上方風の公家臭いのより百姓臭いほうがマシである」
「上方風の業平侍のような女の腐ったような侍は俺は大嫌いだ」
そもそも持明院と大覚寺で言えば
持明院が兄、大覚寺が弟
普通は兄の子孫が継いでいくものを
親が弟ひいきにしたから弟が即位できただけなんで
正統は持明院なんだけどね
>>1
旧皇族で皇室と最も血縁が濃い方、皇族復帰の最有力候補
wikiより
東久邇 征彦(ひがしくに まさひこ、1973年(昭和48年)4月3日 - )は、東久邇家の第4代当主(2019年3月20日 - )。
旧皇族・東久邇信彦(皇籍離脱前は信彦王)の長男。崇光天皇の父系19世子孫で、母系で明治天皇・昭和天皇の血も引く。
次期天皇:悠仁様をお支えするに相応しい >>911
そういうの今は疑問視もされてる
名乗ったとしても味方へ功績をアピールするためとか >崇光天皇の父系19世子孫
崇教真光なんて関西にはないぞ、そっち系の朝鮮新興宗教が秘密結社に入
れれも耐えてたGHQの名残で北朝鮮の金正恩だか文正恩高を勝手に朝鮮天皇にするのは反対だな
反日日本侵略入植石原慎太郎は80代で90近いのに40代か50代にしか見えないおかしくね?
それも途中で朝鮮半島北朝鮮と大韓民国の行き来ができる特権早稲田大学で出
時期によって崇教真光だったり1970年代は霊友会で関西の日本の中小企業に嫌味をいっては
会社おつぶし手た1年神主になってな花尾アンデスインカあたりの1年神ソビエトロシアになってな
高倉健(小田剛一)が名越流北条氏(北条篤時)の子孫とか
>>927
関西には同系統の神慈秀明会があるじゃん
どちらとも熱海の世界救世教の後継者問題で分離独立した新興宗教だけど
と横から
鎌倉幕府や後醍醐天皇と何の関係がw >>917
おそらく元は日本の国土も人口も国力も把握してない
元寇の前の外交使節が一年もかけて色々調べてたから把握する努力はしてたんだろうけど
日本は使節を九州以外には行かせなかったからな 何を言いたいのかな
元寇が引き金になり鎌倉幕府が滅亡した
コロナが引き金になり自民党が滅亡すればいいとか
>>52
乗っ取られたんじゃない
元々北条政権
頼朝=海部首相
北条=竹下派
近年で言うとこんな感じ >>917
ゲリラ戦術とか近代的な思考から脱却せずにの国という概念があり国民がという概念からの考察としか
しかもゲリラ戦にしても組織化されていないと意味がないんで
ネーションの概念さえない時代にそんな民がゲリラ戦で徹底抗戦とかアホかと
つかヨーロッパを数万人規模の軍隊で席捲してジョチからバトゥに至ってキプチャク=ハン国を作っているし >>936
頼朝時代は北条政権どころかそこまで頼朝の力は強くない
といって頼朝が絶対的な力持ってたわけでもなく
御家人の力も強くはあっただろうけど
この時点だと北条は頼朝の正妻の外戚ではあっても
御家人を実質支配してたわけでもトップでもないし >>937
元寇の時の日本には既にこの国が、という意識はある
もちろん農民に至るまで徹底してたわけではないだろうけど
元寇に対しても上は国家の危機という意識で対応してるし
元の方も日本をひとつの国として見てる 源と平が長田どうとかそんなんやろ
奈良が保管勢力やねん
>>939
農民とか庶民に関しては国という概念は当時は無いんで
国家があり国民が存在し、国民は国家に帰属意識があるという近代的な国家の概念を持ち出し
ゲリラ戦術を国家の危機だと農民がするとかアホかって話
元としては統治している側を排除すればそれで充分なわけで
そして数万人規模での軍隊で各地を席捲というか
日本よりも人口も軍隊にしても巨大な金や宋を滅ぼしている訳で 日本は中央に軍がある国じゃないからゲリラ戦て話になるのさ
各地に日頃田圃耕してる兵がいる
まあ数万程度では無理だねw
でもやっぱり北条しアベレージ従四位が天下人は無理があった
足利尊氏でさえ最初から従四位レベル
北条と徳川って結構似てるね
主君筋からの簒奪、反朝廷、勤王派によって打倒
土地(所領)の現状と従来法の齟齬が出てきて御家人たちの不満MAX
たまたま欲望全開の天皇が出てきてしまってそれがそのまま神輿になった
でも御家人の土地問題をシステム的に解消するどころか
後醍醐のせいででさらに混乱して南北朝終わるまで長期で揉める羽目に
簡単に言えばこういうことだと思うが
土地を所有しなくても銭を稼いで生活できるようになったことが大きいな
北条の凄さというか怖さは天皇や将軍に頭を下げるけど生殺与奪権を握ってる
頭を下げられる方は恐怖だよ
>>937
蒙漢軍(女真など含む)は文永の役では二万五千人、
弘安の役では一万数千人程度で、
他は南宋人や高麗人と、構成が違うし、
地続きの国と渡海の必要な国では
後者の方が難しいんじゃないかな 面白ガイジエピソードと思いきやただの歴史の講釈だった
>>731
うちは代々薬師だったみたいよ
親戚に薬局とかやってるの残ってるし
村長になった人とかもいたらしい
父親は親類が選挙出て大変だったから、選挙にだけは出るな言うてるわ >>10
後醍醐天皇?
これスゲー読んでみたいわ(*´Д`) ドラマ太平記の鶴太郎演じる高時はアホ得宗だったが
実際の高時は出来る子だったよ
>>738
クビライは弘安の役の後も度々日本遠征を計画していたし、
クビライの国書は弘安の役の後ですら、従属と来朝とを求めるもので、
停戦といっても「ほらほらさっさと従属しろよ戦争は嫌だろ?」という意味での停戦
なお弘安の役の後の元の使者を日本が殺したことはない
2回やってきた使者は元への帰国は許されなかったが、
ひとりは十数年後に病没、もうひとりは高僧だったので寺を与えられた 江戸時代入るまでは侍の主従関係なんてドライだったからなぁ
もっといい条件あればすぐ乗り換えたし、金の切れ目が縁の切れ目だった
極右系が日本人精神は〜とかで間違っていいように引用して使うのが糞
国が亡ぶ要因は今も昔も未来でも2つしかない
より強い国に滅ぼされるか
内部崩壊
>>738
あと多分最新の研究打線コピペを見たんだろうけど、
あのコピペ捏造とソースなしのデマコピペで、
元寇の後の使者がどうのって話にいたっては
そもそも元寇の後の使者6回も来てない >>957
良くも悪くも家康が朱子学導入してがっちり固めたからな。
よく忠実な三河武士とか言われがちだが実際はすげー面倒くさい三河武士。 >>950
承久の乱で義時を討て!て院宣を使者に持たせて走らせたが
東山道の大将たちはその使者を切り捨てた
北陸道の大将は義時の息子の朝時だったんだが馬から降りて
院宣を読ませてうやうやしく跪いてそれを聞いた
で使者を追い返してそんで進軍を続けた
で最後は上皇島流し
なかなか怖いw >>916
というか、実際に名乗りを上げてから一騎打ちするのは、戦場から離れたところで敵味方が出くわしたときだけって聞いたぞ 一番恐ろしいのは北条時政だろう
最高官位従五位の下なのに
頼朝の名代で朝廷に乗り込んで政権奪ったのこのオッさんだからな
>>35
なんでいきなりと思ったらゴダイゴかw
時間かかったわw 清盛、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康
武家の棟梁といえど朝廷には公卿か征夷大将軍正三位以上で参内している
北条時政のおっさんは従五位の下で兵を連れて朝廷に乗り込んだ
時政のオッさんだから
孫といえど頼朝の息子だから殺したり
将軍家をすげ替えしたりモラルのないことをやれる
朝廷にとっては災害だから執権家は従四位止まりなんだよ
乗り込むのは交渉だからまだ分かるけどな
承久の乱後は鎌倉からひゅーっと馬に乗った使者がきて
はい天皇廃止、上皇3人皇子2人島流し、摂政交代ね
治天の君は守貞親王だね、え?天皇についてないのに上皇になっていいのかって?
いいよこの際頼むわ
てサクサク進むんだから怖いよ
京も征服者本人が来なくてただ指令だけって初めての経験でびっくりだろう
兵が足りなかったらオレ自身が行くけど、て手紙まで渡されたからな
時政は、子の義時に追われてるんだけど
いろいろ混同してるな
上皇ひとりは本人の希望
関係ないから流す予定すらなかった
幕府も他の2人と違って気遣いしてる
>>965
名乗るのは配下と戦って勝った時に恩賞得るためで、一騎打ちするしないは別だと思うが