本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。
北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。
1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。
鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。
後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。
両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。
亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。
しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。
大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。
ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。
もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。
そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。
正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。
後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。
全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
鎌倉育ちだけど、こんな所が日本の中心だったとか信じられんかった
片岡鶴太郎の北条高時役は圧巻だったな
あのお笑いの鶴太郎があんな凄い役者に化けるなんて誰も思わんかったはずw
鎌倉時代は御内人の長崎氏が御家人を凌ぐ実権を握ってしまったことによる原因だと思う
御内人とは北条氏の家臣
江戸時代で例えると単なる旗本が皇族を将軍にしたりしてた
長崎氏は平清盛の子孫を称する
長崎氏が滅んだ時民衆は長崎氏が滅んだのを見て喜んだとのこと
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「上方武士は馬から下りて戦う」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
近江の名族京極「西国最強は九州立花」
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」
天皇家は、遅くとも承久の乱の時点できっちり滅ぼして王朝交代しておくべきだった
おかげで中世以降の日本は上も下も二重権力三重権力当たり前のぐちゃぐちゃな状態に
NHKで再放送してる。真田広之が沢口靖子がいるのに宮沢りえと子作りしてた
>>18
それを言うなら佐倉あたりの陪臣が老中の職権で好き放題していた構図だな >>1
鎌倉幕府最後の執権は第16代の赤橋(北条)守時って習った気がする
ちなみに赤橋守時って足利尊氏の正妻の兄なんで義兄になるんだよね
(´・ω・`) 朕が新儀は未来の先例なりってね
後醍醐帝がもう少し器でかくて
部下の進言を聞ける人だったら
日本史はどう変わっただろうか
ひところ流行った架空戦記のノリで
書いてくれる作家さんいないかな(笑
>>4
意外なんだけど
ミッキー吉野が吉野つながりで
後醍醐天皇にシンパシー感じて
バンド名にしたこと
知らない人いるよね >>25
交代といっても当時の北条家は朝廷滅ぼして次の天皇かなんかになれるほどには
権力も求心力もなかったから反発する御家人の内乱になったと思うよ 国宝建造物数
関東 4(白鳳0 平安0 鎌倉0 室町2 近代2)
東京 2 (室町1 近代1)
神奈川1 (室町1) ←鎌倉時代一つも無し
埼玉 1 (近代1)
千葉 0
近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
滋賀 22(平安1 鎌倉7 室町5 近代9)
京都 51(平安7 鎌倉10 室町7 近代27)
大阪 5 (鎌倉4 室町1)
奈良 64(白鳳25 平安7 鎌倉23 室町5 近代4)
兵庫 11(平安2 鎌倉2 室町2 近代5)
和歌山7(鎌倉5 室町2 )
鎌倉時代と名乗るほどのモノは無い
取り消すべき
そんなことより、孝明天皇暗殺の件を議論しようよwww
ゴダイゴ、ややこしいことばっかりするから
日本の歴史上で1番むかつくわ
>>35
90年代とかキャバクラ幕府なんて名前の店が全国にいくつあったやら 柄本明の高師直、陣内孝則の佐々木道誉はハマり過ぎ。
北朝天皇上皇皇太子を拉致監禁
あいつキチガイでっせ
歴代天皇で断トツのキチガイ
>>37
>近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
>鎌倉時代と名乗るほどのモノは無い
>取り消すべき
すごいバカを見たw >>32
これマジなの?!
スゲー!!知らなかったわ なま倉卿や八島共神務帝始まって以来初の太罪やらかした?
>>10
安土とかねー
行ってみて
え?ここ?って感覚は楽しい 『海道記』
抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。
(新日本古典文学大系)
鹿渋苑→麁渋苑。帝釈天の城外にある武器庫のごとき園
築塩洲→塩洲。唐代ここに築かれた城壁が匈奴の侵攻を防いだ
万栄ノ花万ニヒラケ…→養由基のような弓の名人がたくさんいる
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス→死物狂いの白兵戦で敵を降伏させる
一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ→朝廷は幕府の威光によって栄え
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ→天下は幕府の威光によって平穏である
朝儀国務ノ理乱ハ→朝廷の儀式や政治の治乱は
万諸ノ機カタカタニ織ナス→機が多くの糸をさまざまに織るように、政務万端が見事に採られている
>>22
どっちでも間違ってないけど今の教育だといい箱が主流 結局、鎌倉が崩壊したのも楠木とか赤松とか
土豪がちょこちょこと抵抗していた流れに足利
や新田が乗っかったからであって、後醍醐帝は
お飾りやからなあ
BSプレミアムで太平記の再放送やってるぞ
真田広之が若くて全然貫禄がない
今とは大違いやな
あと、宮沢りえがデブい
>>39
ダウト
1.鎌倉幕府滅亡は元寇T(文永の役)の59年後元寇U(公安の役)の52年後、これが原因ならもっと早く滅亡しているはず
2.鎌倉攻めしたのは関東の武士で、元寇に立ち向かったのは九州の武士 滅ぼした当事者たる三河人に聞け
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
鎌倉武士に憧れる中世中国地方娘
↓
『田植草紙』は安芸・石見の山間部に濃密に分布しておりました田植歌の書き留め、同じような写本、田植歌本とか歌本と申しますか、そんなものがたくさん残っております。
『田植草紙』は田植歌本を代表する最も優れた一本でございまして、我せられた歌謡はほぼ中世小歌圏の中で醸成された田植歌であるという定評を得ております。
(友久武文・広島大学名誉教授)
・坂東殿ばらは弓は上手なるもの 空立つ鳥を射て落といたり さても上手や空飛ぶ鶴を落といた 若い殿御が翔け鳥射たる弓手は さても射たのふ見事や弓の姿は
→坂東武者は弓の上手、空かける鳥を射落とすそうだ。え、落したのは鶴だろうなんて冗談は無し。ほんと素晴らしいんだから。
・宮仕ひをせう坂東方へ 武士の奉公好むと人や思ふらう 武家奉公なんぼう見ては好いもの 殿に参らせ塗籠籐の弓おば
→弓と矢があれば坂東方へ赴き、武家奉公をと男の願い。女も意に添いたい風情。
→なんぼう…「何ほど」の変化形。今も関西方言に多い。どんなにか、とても多く。
・重籐巻いたる弓の振りをしてな 坂東殿原の肩に掛からばやな 弓のふりして坂東殿御に惚れたよ 何と言ふても思ふに寄らぬ我か身や いつくしいは坂東殿御の姿よ
→弓は女の暗喩として用いられることが多く、女として自分を殿の傍らに置いて欲しいの意を含むか。
(『田植草紙』新日本古典文学大系/岩波書店)
「さても上手や、空舞う鶴を落といた……見事や弓の姿」と鶴に結びつけて(坂東殿御の)弓上手を謡っている。
更に「武家奉公、なんぼう見ては良いもの」と坂東武士への憧憬につながって、「思ふ弓や、御前引かば……」と、
この憧憬が具体的なかたちに変わる。
田植歌謡圏(中国地方)に種々導入された話から、恰も映画やドラマの主人公に憧れるのと似たような形態で、
坂東武士(関東武士)に憧れたものであったろう。
「面影ばかり残して、あづまの方へ下りし人の名は、しらじらといふまじ」(『閑吟集』)とか、
「吾妻下りの殿は待たねど、嵐吹けとはさらに思はず」(狂言小歌・虎寛本・靱猿)などの気持ちである。
(『田植歌謡と儀礼の研究』、坂東憧憬と弓矢の章)
滅ぼした当事者たる三河人に聞け
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
ゴダイゴの曲をテーマに後醍醐天皇の大河ドラマやってほしいわ
君側の奸を除く、の典型みたいなモンだな。絶対後醍醐が悪いもんなw
「円喜。これでよろしいか」
「春渓尼。高時こういたしましたと母御前 にお伝えしてくれ」
ルールを強引に変えようとしたのが切っ掛けはそうだが
倒幕の気配は年中行事に忙殺されてる朝廷にすら伝わったん
だろうね。徳政令が行けなかった。破産した御家人が
増大したからね
新田義貞ごときに攻められた程度で一族郎党みんなで腹切りするような軟弱ぶりでは滅びるわ。
叡山や笠木に潜伏し、隠岐から逃げ出し、吉野に隠れる後醍醐帝のしぶとさに学んだのが
時行くらいだものな。
天皇なんて碌なの居ないのになんでお前ら天皇崇拝しとるの?
分かっている奴の答えはこうだ
霜月騒動の後、北条が手を出せなかったアンタッチャブルの三河に手を出した事を、足利氏が危険視したから
具体的には
・北条が初めて三河国の荘園の地頭職を獲得した
・北条の家人が初めて三河守になった
霜月騒動の黒幕とも言われる大仏宣時が三河国重原荘の地頭職を獲得した
六波羅探題北方に出仕してい北条仲時の家人が三河守になった
足利がようやく南朝を説得し終わるのが戦国時代の始まりだもんなあ
凄まじいわ
今東光「今だから言うが、叡山では後醍醐天皇は不徳の君主であるとするのが常識だ」
海音寺潮五郎「後醍醐天皇は我欲の旺盛な人柄だ」
とか、明治生まれの爺さんたちも戦後は後醍醐帝を批判しとるわな。
つか、太平記の冒頭でも「君主の失徳と武臣の政治の乱れのおかげで世の中が滅茶苦茶に
なっていた(大意)」とか書いてある。
戦前の学者は美化するのに大変な労力を要したんだろうな
>2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
いわゆる田分け者の語源だな
中世ヨーロッパも分割相続で身内同士で戦争ばかりしてた暗黒時代になってたな
まあ現代社会も分割相続だから他人の事いえないけど
時代が進むごとに国民が貧困化していくのはどこの国もこれが原因だな
>>65
現代で置き換えれば、韓流ドラマを見て、韓国人男性に憧れるようなものかな。
現実に会うと、想像上の理想像と、現実の野蛮なギャップに驚くことになる。 >>74
一応日本の国土全ては天皇のもので我々は金払って借りてるだけ
この建前こそが最強の武器 >>74
俺は天皇を崇拝してない
俺の先祖に天皇いるから同族意識って感じだ
ちなみに俺がこの世で一番嫌いな思想はネトウヨ 元寇によってかえって北条得宗家の力は強くなったって説もあるみたいだね
>>20
平家物語で平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡したのかと思ったら
元寇辺りで政権中枢に平氏が居て何だ、最後に生き残ったの平氏じゃんって思った 三河は東国一番西の国である一方、西国の一番東の国でもあった
三河国の分国主は院、知行国主は関東申次、共に三河の源頼朝と縁が深い
そして同じく三河の源頼朝と縁が深い三河の足利氏が、幕府では守護としてある一方、京方の下司でもあった
三河はアンタッチャブルだったんだよ
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主)
>>92
北条氏のことなら、平氏かどうかはかなり疑わしい
既に源氏とか平氏とか名乗ってても疑わしい家系が出てきてる >>51
畠山重忠が北条時政に滅ぼされなかったら執権は畠山氏になってたんだろうか? 高々数千行かない楠木正成相手にオールジャパンで挑んで一方的にボッコボコにされてたらそりゃあ失墜するわ
当時世界最強だったのかもしれんが
全く相手にならないんじゃあなぁ
北条が手を出すべきでは無かった、アンタッチャブルの源頼朝、足利氏縁故地の三河な
吉田経房(初代関東申次)
養和元年(1181年)に参議に昇進し、2年後に従三位に昇叙した頃から、一転して源頼朝の友人の一人として経房の名前が突然浮上する事になる。
今まで平氏政権の下で順調に出世し、反平氏の行動と全く無縁であった彼がなぜその地位を手に入れたのかは判然としない。
藤原俊忠
・忠成→女(以仁王妾)
・俊成(三河守、三河国竹谷荘・蒲形荘開発領主)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家)
・女(藤原顕頼(三河守)室)
・女(藤原顕長(三河守)室)
・女→吉田経房(初代関東申次)
関東申次
吉田経房(三河国知行国主)
坊門信清(源実朝正室の父)
西園寺公経(母は一条全子(坊門姫の娘)、将軍九条頼経外祖父)
近衛家実
九条道家(祖父は九条兼実(三河国知行国主)、将軍九条頼経実父)
近衛兼経(道家の娘婿、道家の補佐役)
一条実経(道家の子、九条頼経の弟、道家の補佐役)
西園寺実氏(公経の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
西園寺公衡(実兼の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、公衡病死に伴い、復職)
西園寺実衡(三河国知行国主、実兼の孫、公衡の子)
>>95
多分、北条時宗の御内人の平頼綱の事を言っているのではないかな?
源平ともに様々な系統があるのだが、平頼綱は良く言われる平家の平氏の系譜であるのは確かではあるが 元寇で勝って浮かれて滅亡した。勝って兜の緒を締めよ。はここから生まれた(´・ω・`)
実際はもう実朝が死んだ時点で滅亡したも同然なんだけどな
その後は北条に傀儡にされ、その北条も内管領の長崎氏に操られ
と、後醍醐から見たら傀儡の傀儡の傀儡の更に傀儡を闇のフィクサー操っているという恐ろしい構図
でも日本はこういうのが合ってるよね、今の官僚が牛耳ってる日本が全てを物語ってる
>>101
あーそっちか
けど元寇の時の次の執権の時に殺されてるから
最後どころか短い栄華だったね 鎌倉時代中期から主に、元寇の影響が大きかった西国を中心に悪党が現れる。 政治が乱れている証拠である
北条時頼のとき、悪党対策が取られたが、充分な成果をえられなかった。鎌倉時代末期には
御家人の中にも落ちぶれて悪党になるものがあった。 しかし悪党は、幕府と正面切って対決する力はなかった。それで朝廷に属して幕府の圧力をかわそうとし
後醍醐天皇と手を結んで倒幕に加担する。 元弘の乱を引き起こした悪党の楠木正成も、後醍醐天皇と結びついた悪党で、御家人だったといわれている
峯相記の著者は、悪党こそが鎌倉幕府滅亡の原因と言っているほどである。悪党の反乱が討幕のきっかけとなった。
>>4
ビューティフル・ネームの気持ち悪さに耐えられず
けっこう好きから大嫌悪に変わった思い出 信長も元を辿ると平氏氏族だったりする
統一直前でやられて最後源氏系(家康)に持ってかれた当たりが
清盛と一緒で持ってないなとw
>>103
何処が?
政子ちゃんの頭の中では、後継者は足利氏だ
大頼朝が所有していた源氏の宝刀(源氏の宝刀はいくつかあったらしい)は、政子ちゃんから足利義氏に譲られいる
最終的には、三河県西尾市の御剣神社の納められた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>99
後醍醐天皇はリアルランボーの巨ちんで
楠木正成とかいうハンニバルとくんでたから負けた この時代なんかコアすぎて好きじゃないと付いていけないだろ
現代の方が余程奇々怪々だが
新田義貞ってなんで有名じゃないの?
この人が鎌倉幕府滅亡させたんだろ
後醍醐天皇は結果を見ると統治の基本的な部分が何にも解っていない人だったオチだよな
妙に持ち上げられて偉人扱いされているけど
室町幕府の唐物基地外見れば支那の市場経済の影響は明らかだな。
南北朝の争いも北朝の農本主義と南朝の貨幣経済派の主導権争いだし、
その後の信長統一
明治維新
第二次世界大戦
いつの時代も争う原因は経済秩序の再編成
>>108
織田氏はいちおう清盛子孫称してる
江戸時代の系図によると >>112
いや、割と簡単だと思う
武士のトップがほしいから殺し合いを続けてた
でも結局泥沼化して足利時代でもまだ殺し合いを続け、
結局信長が中枢にいたほぼ全員駆逐するまで続いた >>113
名家に生まれただけのラッキーマンの一発屋だから
だけど忠誠心だけは高い
そこがいまの政治家とは似てるようで違う >>121
尊氏がなぁ
みんなで力を合わせて勝つタイプの主人公だったせいだよな
粛清して仲間の力を削がないから足利本家の力はそこまででもなく
力を持った仲間が多すぎた
そいつらがいちいち従わないからそりゃあ収まらねーわ 昔は源氏だと天皇を意味する御所様と呼ばれたりする
平氏も天皇の子孫なのに源氏だけ特別扱い
>>102
戦後に「ムクリコクリ」が流行ったというのは恐怖からだろう
戦地は、専守防衛で日本の北九州だったので、勝利とはいうものの戦地は日本だし、
防衛戦で田植えもおろそかにしてたろうから、得るものなく与えられるものも無く、生産力や人口は打撃を受けただけ
不満が膨らんでいく過程に入った感じじゃないかな
しかも奮戦した急襲侍が没落したあとに得宗専制で九州の守護職を軒並み北条一門にしている
足利尊氏に九州武士が味方しても致し方なし、でも北条氏もそう言われても困ったろうけど
銭の発行する能力が無く、富裕なら銭の備蓄で凌ぐということが成り立たなかっただろうと思う >>116
たしかに
強かったけど節操無かったからね
木曽義仲・陶隆房的なタイプ 北条ぶっ倒して室町じゃ将軍から守護まで源氏で独占してんな。
鎌倉時代はなんで源氏連中は大人しかったんやろ
なるほど、鎌倉後期から日本が核家族から直系家族へ移行し始めたわけか。移行期の室町時代が揉めまくったのも納得だなw
現代なら超少子化で解消しそうだけど。
>>128
頼朝超恐いからなあ
身内だろうと裏切れば絶対に赦さん人だから
力が集中してた >>55
戦国時代までは集住が進んでないから首邑といってもせいぜい数万レベルだからな
安土は灰燼に帰したから仕方ないとして、大坂、江戸と、集住によって飛躍的に都市が大きくなった
生産しない人間が集まった巨大消費都市の誕生で、経済もものすごく発展した 湊川の戦いに至る経緯もそうだし、保元の乱も確かそうだったと思うけれど、公家が
軍事作戦に容喙して武家がそれに押し切られると負けフラグが立つよね…。
まあ日本史全体では「瀬田の唐橋を落として戦えば絶対勝てる!」に勝るフラグは無い
かもしれんが。
あれなんか「戦争が終わったら結婚するんだ!」レベルの威力があるように思える
織田は物部氏とか藤原氏説が強い
徳川は征夷大将軍になる為の詐称であり決して源氏では無かった
源平合戦は足利尊氏で消息
ほぼバラバラになった平氏の落人は東北地方でひっそりと百姓になった
>>122
新田は上野に土着した源氏としては本来主流の方だったが、
頼朝への加勢に日和見して、そもそも独立性が高いから、一度滅んだ義朝の子がどれほどのもんよと読み間違っても仕方ないとは思う
そして執権政治に入っても基本冷遇は続いた。
幕府が終わるころには、足利の方が格が上みたいな認識が世間に広がっていた。
そういうなにもかもに対する不満とかをご醍醐と言う兆しに投じたんじゃないかな?
勝手な憶測で合ってなんの史実でもないけども >>132
正成の最後は悲惨すぎるわ
数は足りないし戦い方限定させられるし
そんなもん勝てるかよと >>108
後の世でも光GENJIしか売れないしな 源頼茂も将軍狙ってたんかな?
平賀氏も足利氏も苗字を名乗らされたなか
源頼朝と源頼兼の子孫だけが源氏のまま
河内源氏の嫡流の源頼朝
摂津源氏の嫡流の源頼兼
これが鎌倉時代のブランド感覚だったが
後に足利氏が台頭してきた
>>130
殺されるのみんなの総意ぽいな兄ちゃん怖す 後醍醐天皇は隠岐島から冬に脱出するくらいだから結構マッチョだよ。敵もその時期に戻って来るとは思わないよな。
>>37
これ面白いね
西側はむしろ鎌倉期に国宝建造が進んでるのは
なぜだろうかね >>123
高師直とか弟の足利直義に助けられた部分が大きかったからな
庶子の足利直冬をぞんざいに扱ったり、結構冷たいタイプ
でも御家人には大盤振る舞いしたから好かれた
が、それが災いして結局足利氏の地盤は脆いままだった
要は祭り上げられたトップの域を出られなかったのよね
太平記での佐々木道誉との関係は面白かったけど >>122
一発も実力のうちだw 鎌倉要塞と決死の北条本部武士団だから、六波羅落とすより絶対キツイ >>135
坊門なんちゃらだっけ、ドラマであくどい描かれ方をされてる人。
史実はどうあれ、あれには殺意を覚えますな そんな源氏最後の生き残りである武田も秀吉に滅ぼされ壊滅
源平は仲良く百姓になった
めでたしめでたし
>>128
三河が独占すりゃ、結果的に源氏になって当たり前だろ
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 >>58
1185にしたいのは、今の教育が天皇とかに対して攻勢的な主義な人達の手にあるからだろう
源頼朝が後白河天皇からの官軍としての承認を独占する形で坂東武士たちの神輿として内側への権威として乗っかっていた
朝廷の武士勢力の均衡に乗るという在り方を突き崩す、勝手な奥州攻め以降揺らいでいた官軍を独占する立場に対して与えられていた承認による立場の正当性が揺らいでいた
征夷大将軍に任命されることで双方が和解したというシグナルとし外にも内にも機能しただろうし
名分として形式的上位からの承認が無くては成立しない、1185説の言いたいことは解るが、両方あって成立する名分を意図的に無視するのは教育というより政治的主張だろう
天皇が嫌なんだろうけど、それをスポイルする運動を歴史学に持ち込んだんだよ >>140
鎌倉時代の建物は新田の鎌倉攻めなど
後代の戦乱なども加わって燃えてしまったから >>144
秀吉が対武田戦に参加したのって長篠の戦いだけじゃね
武田殲滅軍は信長の息子の信忠が中心だった 鎌倉幕府の滅亡ほど壮絶なものはないよな
滅亡する寸前まで盤石にしか見えなかった政権がほとんど一瞬にして消滅して果てたんだから
北条高時がアホで遊び人だったから足利尊氏に裏切られて潰されたイメージ
>>150
鎌倉カスターも一瞬で無くなるよね
多くてふた口ぐらいで喰っちゃう >>124
そりゃ源の方が平より格上だからな
源は天皇の息子が与えられるが平は孫だ 鎌倉幕府ってすごいよ
日本のトップは名目的に天皇で、天皇に代わって征夷大将軍が幕府を開いて政権運営してる
しかし鎌倉幕府ではその将軍も傀儡で、実際には北条家が世襲する執権が運営してた
しかし鎌倉幕府の後期になると北条家の家人である内管領が実力を付けてきて実権を握っていた
傀儡が何人いるんだよ!?
>>1
なぜニュースでもないスレを立ててしまうのか? >>150
あとあの時代の忠誠心が凄い。東勝寺でかなりの人数自決してるのな。戦国なら大半逃げとるよw >>157
北条一族は裏切り者ほぼゼロだもんな
たいてい反主流派は寝返るもんだが、因縁のある名越すら裏切らなかった
まあ超優秀な一族だよな
それと比べたら足利はw >>155
責任所在のわかりづらさは現代に通づる物があると思う 平氏に共通するのは海
平氏は解散し百姓になるというよりは漁師となり各地に土着
源氏は野山だな
徳川みたいに諸大名を常に監視して嫌がらせしないと長く持たないわな
>>163
家康は鎌倉室町の長所短所全部調べたでしょ。そしてあの盤石体制を思いついた。コレもまた大したもんだな >>25
それな
そのせいで豊臣も徳川もあくまで天皇から位を授けられて幕府を開いていた体になってしまったもんなー
何で公家衆もろとも天皇家を滅ぼさなかったのか理解に苦しむ >>10
鎌倉は山に囲まれてる分、都市としての発展に限界があるからな
まあ、12世紀ならアリだったのかな 平頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は
伊豆国の土人で古くからの北条家家臣の一族で得宗の執事(召使い)となる
おそらくは北条氏の私有畑ではたらいていた小作人であろう
北条さんの郎党でも、北条氏が強くなるにつれて、(実際は働かない)北条さんよりも
野良仕事や申次を請け負っていた伊豆国の土人のほうが金も権限もにぎるようになる
例えば北条義時は鎌倉を有する相模一国の守護、相模守を務めて幕府に優遇されていたが
三代将軍実朝に、「北条氏は特別なので、北条氏郎党を、侍に取り立ててほしい」と要求
これは北条義時の願いというよりも下からの突き上げ要求であろう
若い将軍は「郎党は武士ではない、郎党を御家人にするなど幕府の身分を壊すものだ」とはねつけてる
そのなかで平氏など身分を飾り、のしあがってきた
もともと郎党など、伊豆の平民以下の存在であろうが、こうして実力をつけてきた
全国の源氏平氏など9割はこのような私有畑ではたらいていた小作人
>>113
実は足利と太田の確執はこの時代から続いているわけよ
高崎と前橋の比じゃねぇんだよ
もう永遠に打ち解けねぇだろな
尊氏、足利来たことねぇんだけどなぁ・・・ >>159
足利のへっぽこっぷりはすごいからな
やや安定してたのは初代〜義持ぐらいまでで、
一貫して政権が安定しないというのは変わらなかった
尊氏なんて死ぬまで戦乱に明け暮れてたし 「目的に向かって限られた時間で効率を最大化する」
という発想があんまり無いのがデジタル化が進まない根本原因
終身雇用だから使用者はだらだら非効率な残業させてもいいし
従業員みんなメンツがあるから
自分が代替可能、果ては用無しにならないように
「俺がいないとこの会社は回らない」
って風に持っていく
>>55
安土は地政学的に悪い選択ではないとは思う
平野がそこそこ広いし、琵琶湖を使った水上交通もできるし
土地が欲しかったら琵琶湖を埋め立てて造成できるし
運が悪かったな >>165
この流れみて、そんな事すると思うか?
三河の足利、三河の徳川共に、三河の先輩源頼朝の考えに沿って行動した
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>168
伊豆北条館のすぐ近くに長崎って集落がある
だから長崎氏は北条家の古くからの家人でしょ
ちなみに北条館の近くには江間って集落があってそこが江間義時、江間泰時の本来の本拠地
狭いところから鎌倉時代の支配者が出たもんだw >>167
鎌倉
駿府
関東平野
似てる地形が時代とともにでかくなるな 北条から旧領を受け継いで本拠を小田原にしなかったのは家康の凄さだと思うわ
鎌倉といい神奈川の限界を知っていたのかな
ゴダイゴのメンバーが死んだのにこれか(´・ω・`)
>>169
尊氏だけじゃないだろ
そもそも頼氏から下は、足利に行った事は一度もない
行動範囲は三河〜鎌倉
足利尊氏も三河で生まれた
徳川家康の生誕地から直線距離で約1.5キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>173
そりゃ家康は公家衆に賂をしまくって「我こそは由緒正しき源氏長者なり」と認めさせたけど、それじゃ源氏が天皇家に取って代わろうと思わなかったのが不思議でならんのよ
名実共に国王になればいいじゃん >>172
あそこは今からじゃわからんけてど当時は琵琶湖に接する城だったんよ
長浜、安土、坂本と琵琶湖に面する城で琵琶湖の水運を押さえた
当時の近江は80万石近い大穀倉地帯だし、琵琶湖の水運で中山道方面や日本海からの物資を京に輸送する当時の日本のチョークポイントだよ
そして東国から来る連中が西に向かう時に必ず通らなければならないポイントだから東国を平定するまでは極めて大事なポイントなんだ。
東国押さえたら西の大坂に移転して海外展開する予定だった >>115
今となっては立川真言流セックス密教の教祖的なイメージが付いちゃった >>170
初代から15代まで戦争続きだよ
路線が狂ったのは義持が勘合貿易やめて財政基盤失ったのと
義教が気紛れに家臣を討伐したり、相続問題に首突っ込んだあげく
謀殺されたあたり
義教は織田信長の先駆者みたいな再評価の向きもあるようだが、
やっぱりアホだと思う >>179
違う、部外者らしいな
吉良氏の威光が輝く地の方が統治しやすいだろう
三河から来たと言えば、吉良様の三河と恐れおののき臣従するだろうと
実際、無抵抗で三河の王に臣従した
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 家康はわざわざ一旦滅亡した北条氏規に大阪で1万石やって関東で蠢動するの防ぐようなことやってるからな
>>182
だから、三河の先輩源頼朝に倣ってだろ
また、松平が日本一の親皇室の地にあった歴史も見逃せない
皇室が所有した最大面積の荘園は、三河国高橋荘、高橋新荘
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないわけだが
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる また三河キチガイが湧いてるのか
頼むからブログにでも書いておけ
リンク貼るだけでいいから
分断目的の朝鮮三河厨が湧くと歴史スレが臭くなる
さっさと北に帰って餓死しろよ
>>159
伊勢新九郎は北条ちゃうで
しかし、権現様はマジで源氏名乗っておったのだろうか???
つ〜〜のはど〜〜もうちのご先祖様が東照宮に土地献上したらしいんだが
母方の家紋は平氏なんだよな・・・
そのあと一帯の庄屋になったらしいんだが<本家は
ま、うちは分家筋だったからそのさきのことはよくわからんのだけどね
>>165
それ将門のせいじゃね???
さすがに首になってまで飛び回るってどうよって思われていただろうからね
そりゃ天皇家立てておけば、それなりに浄土にいけるのならそのほうがいいだろ
ま、信長はもう一歩のところで及ばずってなっちゃったんだよな、光秀に感づかれて・・・
>>167
当事の鎌倉って、今の鎌倉のエリアじゃなくて、小田原あたりまでの一帯が鎌倉だから
あのごちゃごちゃしてるところに永田町があっただけだからな
その当事の江戸は大田道灌が城建てるまでずっと沼地だったからねぇ・・・
それこそ天然の要害だったんじゃね???
ま、それで安心しちゃって、新田を見くびっていたのかもしれないよね >>188
氏規は秀吉の時に大坂近辺に領地もらってる
7000石くらい
1万石になったのは氏規が死んで後継の息子が自分の領地と父親の領地足した結果 >>18
御内人は北条氏の家来、陪臣
江戸時代の旗本は将軍家直臣だから御家人だよ
長崎とか安東とかの御内人は大老井伊直弼の長野主膳や宇津木みたいなもんだ >>169
世良田に「足利麺」というラーメン店が。
戦争が勃発したのかと思った。 >>197
御内人の多くは御家人兼任だよ
将軍の家来であると同時に得宗の家来でもあるの >>194
鎌倉期、三河にいた藤原さんな
伊勢氏の出自については、徳川家康も周知していだろう
後北条氏(伊勢氏)の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・三河国滝山寺僧
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 >>107
私もです
身近に共感者はいませんでした 義経が朝廷から官位をもらって、京都を中心に幕政を一気に
西日本一帯にも引いとけば、平家不在の空白地が恭順しただろに
頼朝の完全な判断ミスだよ。
頭わるかっただけな
令和は第126代天皇っていうけど
北朝の5代分の天皇はカウントされていないんだよな
南朝に正統性があるゆえに
今の天皇家は北朝の血統だけど
本来、令和天皇は血統を考慮して131代天皇っていうべきだろ
>>183
ついでにいうと、焼き討ちにした比叡山の監視のためにあの地になったそうだ
ま、秀吉を長浜に、光秀を坂本に置いたのもよくわかる差配
はじめは公家衆を味方に入れるべくそっち方面に強い光秀を置いたのだろうな
そのうち、公家集たしたことね〜〜なっていうんで光秀を難癖つけて西方に飛ばして
結果叛旗を翻すことになったんだろ
同時期、武田、上杉の脅威も無くなって秀吉も西国討伐に向かっているわけだけど
田舎から田舎ならさほど苦にならねえけど、都会から土田舎に左遷させられちゃたまったもんじゃねぇからな
そりゃ逆恨みも出るし、成果が上がらなくても仕方ねぇよなぁ・・・ 法の支配という観点から北条泰時が作った御成敗式目は日本史における文明のターニングポイントの一つだじぇ
聖徳太子の十七条憲法 徳川吉宗の公事方御定書とともに重要なもんだ
>>204
南朝が正統とか意味わからん
元々後嵯峨が兄貴の後深草より弟の亀山を溺愛したのが南朝の始まりで、後醍醐とかその南朝の傍流で中継ぎとして即位した男で、南朝自体後醍醐の兄貴の系統が継承していくはずだった
当時の両統迭立の慣習を勝手に破った後醍醐の系統が正統とか意味わからんよ 天皇が2人いるとかいうトンデモ事態を巻き起こした南北朝時代は
日本の歴史上最大のスキャンダルやで
多くの国民は忘れてしまっているだろうが
>>206
光秀飛ばす話は根拠ない
光秀は当時信長本軍の主力みたいな立場だから信長に従って中国に出陣しただけ。数ヶ月前は信長に従って武田討伐に行ってる
あれと全く同じ 建武の新政って1300年遅れでやった新の王莽の懐古主義と同じだからな
>>208
中継ぎとして即位したとしても天皇は天皇だろ
それを無視して北朝擁立とかバカバカしすぎる
北朝の天皇を歴代天皇にカウントしないことは
南朝の正統性を暗に認めている有力な証拠 >>212
次は北朝の順番だったのを破ったのが後醍醐
どこが正統なんだよ >>203
頭が悪いのはお前だろ
一番危険なのは、天皇の外祖父藤原範季が養父の源範頼だったが
義経にそんな事許したら、義経の子や孫の世代に、源範頼、源義経、足利義兼らの子や孫を巻き込んで大混乱に陥るわ
人間関係が近すぎ、被り過ぎ
先を見通す力を持つ頼朝が殺して当たり前なんだよな
足利義兼は、それを察したからこそ、気が狂ったフリをした
藤原経忠→信輔→信隆→坊門信清→信子(源実朝室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇(中宮は九条兼実(三河国知行国主)の娘)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子) >>208
>南朝が正統とか意味わからん
だって、明治天皇がそうしろって言うんだもん、仕方ないじゃん >>185
室町幕府って全盛期の義満時代でさえ
山名氏とかバキバキに歯向かって来るし
守護大名強過ぎだろ >>214
順番とかいうけど
順番が来ないから勝手に擁立とかありえんだろw
「俺が天皇」とか言ったもん勝ちとか子供の喧嘩かよ >>217
そら幕末は太平記読み全盛の時代だからな
冷静に考えたらどっちも正統だろ
変わりばんこに帝位に着くことになってたんだから
それを力で変えようとしたのが後醍醐で、最終的に力で負けたのが南朝なんだから、南朝が正統とかおかしな話 御内人を含む得宗家の勢力がまさにピークに達してた時に、
足利新田が東西で火の手をあげて、鎌倉を突かれて、ポッキリ折れた感じ。
むろん、後醍醐天皇の特異なキャラクターが引き金だが、
ピークで折れて、しかも北条一門及び御内人に裏切者はほぼなくて、見事に玉砕したのも特異だ。
>>219
後醍醐がルール破って力に訴えたわけだよ
その結果負けたんだから正統じゃないでしょ >>185
鎌倉時代も似たようなもんじゃないか?
前半は御家人同士の潰し合いで北条がのし上がってきて後半はその北条の身内で争っている >>218
義教が苦労して三管領で機内に基盤持つ畠山解体してるわけだし
赤松にやられて結局管領は細川一強になっちゃったけど >>203
頼朝の望みは貴族に口出しされないような武士の独立政権を作りたいという
東国武士の漠然とした望みを具現化することだもん西国のことなんか知らんよ
そもそもただでさえ平氏打倒の大功を挙げた義経にさらに手柄挙げさせるような危険な真似をする訳がない >>222
力に訴えたのは北朝の足利だろ
北朝を長年治めてきた鎌倉幕府が擁立したならまだ分かるが
新参の足利とか頭おかしいだろ
で、北朝を歴代天皇にカウントできない理由は? 鎌倉から室町までには基本的に、御家人の制圧とかできてないんだよ。
得宗専制体制を固めたかに見えた鎌倉幕府ですら、最後は御家人の反乱でああなったし、
尊氏はもう御家人に対する専制は無理と悟ってたのよ。
御家人ないし各地の豪族、諸大名を制圧できるようになったのは戦国のテクノロジーや、
組織上、経済上の革新があってからだろうね。
>>157
鎌倉という立地上、逃亡は困難だったのかもよ。 防衛に徹するから戦闘に勝利しても恩賞出せずに滅ぶんだよな
後の明国も同じだけど
そう言う意味では信長は茶器高騰させておいてからの恩賞茶道具とか対策抜かり無い
>>226
あのラスボス感は良かったなあ。
あのラスボスを倒すために忍従したうえで挙兵するのが、大河前半の革命物語。
後半は絶望と虚無の物語だな。 >>227
自分の息子を皇太子にする見込みがないから倒幕に出たのが後醍醐だよ
全てはここから始まる
ルールではなく力の勝負に出た以上、最終的に勝った方が正統
だから厳密には南北両方の負け
力完全に失ったからね皇室は
だけど勝った側の幕府に乗っかってたおかげで子孫に皇位を継承させることが出来たんだから普通に正統は北朝 >>227
物を知らんな
持明院統は三河国主、足利その下司
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) >>237
多数派が北朝を正統と考えるなら
北朝を歴代天皇にカウントできない理由は?
なんで子孫が皇位継承できてるのにカウントされないの? >>199
たしかに諏訪氏とか御家人が自ら得宗家に名簿を出して御内になったのは多いらしいけどね >>244
今の歴代決めた明治の頃は太平記全盛時代だからだよ
それだけのこと
わしらが太平記の史観に縛られる理由はない >>245
得宗が最高実力者なら得宗の子分になった方がお得だからね
ちなみに楠木正成も御内人だからなあ >>224
畠山に掻き回されて
最後シッチャカメッチャカにされちゃったよね >>170
違うぞ
洛中であれだけゴタゴタしていて何故230年も室町幕府が続いたのかが大事だろうが
ある意味安定していたとも言えるわけだ
その答えは、足利義満のおかげ
義満は、足利将軍家の軍隊本体を足利将軍家本拠地たる三河において、東国に睨みをきかしていたからだ
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 >>246
ということは
明治の頃は南朝が正統という認識でよろしいか? >>1
真田さんの太平記、おもしろかったなあ
平安時代から室町中期までは有力氏族、有力豪族がそのまま存在してるってことを
強く感じる
炎立つ、太平記の流れがいい
戦国時代になると平安以来の有力氏族がことごとく滅亡していく
ここで日本の血脈はいったんリセットされるというか、断絶があるよね
やっぱ実力がものをいう戦乱の時代の中でも、戦国時代は格別の影響があるんだよなあ 北条が所領独占したからだろ
御恩と奉公が瓦解して御家人が見放した
>>250
そだよ
だから今の皇室の見解も正統は南朝 (-_-;)y-~
明治維新、明治時代って、
江戸時代にくすぶっていた歴史の見直しをやってたりして面白いよな。
>>10
日本の中心だったので、古いものを残そうとした結果なのかもしれない 楠木親子ってなんであそこまで後醍醐のために尽くしたんだろう
>>254
明治の頃の大勢、及び皇室の見解も、南朝に正統性を認めているのに
あなたが北朝を正統というのは、ただの足利ファンだからということでよろしいか? 白頭山の噴火で渤海国が亡び、そこから出た武装難民が
朝鮮半島を日本海沿いに南下して、九州を襲撃。
所謂刀伊の乱で、関東に居た平家一門が動員されて
鎮西平氏に成るって話が教えられてないのは何故なんだろうな
>>257
天皇だからだろ
勝手に北朝天皇を擁立する新参天下人のトンデモ足利の言うことなんか聞けるかよw >>247
御内人とか、駿河に楠木の地名があるダッペ、北条の御内人ダッペか?
三河の足助重範の生母は楠木正成の伯母さん、足助重範の嫁は楠木正成の息子
尾張の那古野荘の足助氏の嫁は三河の安達氏
観心寺荘は旧安達泰盛(三河国小松原荘地頭)領
楠木正成の出自を探るに一番重要なのは、三河の名族足助氏に正成の伯母さんが嫁入りしている事
つまり、その縁故で安達氏領の地頭職を獲得したと考えたほうが良い >>257
楠木親子は明治維新でいう旧幕府軍
足利が薩長 南北朝合一時の後小松天皇は南朝最後の後亀山天皇から譲位をされたわけじゃないんだよね
ということは後小松天皇以降の皇位は南朝由来ではないので、南朝を歴代に数えるのはおかしい
・・→平安→鎌倉 → 後醍醐天皇(南北朝) 足利 戦国 → 徳川 → 明治 大正 昭和 平成 令和2年
吾妻鏡、北条政子演説意訳
頼朝公に忠勇なる八幡太郎の武者たちよ。各々心を一にして聞いてほしい。
これは政子、最後の言葉である。
我々は英雄の子、実朝を失った。しかし、これは終焉を意味するのか?
否!始まりなのだ! 公家勢力に比べ、我等関東の国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!関東の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は公家共にいいように使われ、関東移民にさせられた。
そして、一握りの公家が奥羽にまで膨れ上がった朝廷を支配して400余年、
関東に住む我々が自由を要求して何度公家どもに踏みにじられたか。
頼朝公が掲げた自由のための戦いを八幡神が見捨てるわけはない。
私の子、諸君らが愛してくれた実朝は死んだ。何故だ!?
新しい時代の覇権を我ら選ばれた関東武士が得るのは必然である。
ならば、我らは襟を正し、この時局を打開しなければならぬ。
我々は源家と共に過酷な関東を生活の場としながらも共に苦悩し、
錬磨して今日の文化を築き上げてきた。その恩義はシュミ山より高く、海よりも深い。
しかしながら朝廷の公家共は、自分たちが東国の支配権を有すると増長し我々に追討の偽綸旨を下す。
諸君の父も、子もその公家の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!
それを、実朝は死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、公家共に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、源家への最大の恩義となる。
坂東武者よ!悲しみを怒りにかえて、立てよ!坂東武者よ!
我ら関東武士こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種たる我らこそ日の本を救い得るのである。
この演説で武士の時代は始まったと言う学者もいるくらいだからな
三河に繋がれば、みなが腐れ縁になる
それは徳川家康も例外ではなく、家康は楠木正成の血も引いている
部外者は、家康が高家として名門を優遇したのは家康は貴種好きだったと間抜けな事を抜かすが
家康にしてみれば、三河の腐れ縁を優遇したに過ぎない
この時代、オリジナルネームじゃなく
後を付ける天皇多いな
それと、何でその先代の後を名乗ろうと思ったかってのは気になる
誰も責任をとらない国日本
天皇はとっくの昔にうわべだけの存在になり、将軍も形だけのもの、北条得宗家でさえ
傀儡になり、実際に政治を司っているのは長崎氏。しかも皇室は二派に二人の天皇の
上には上皇までいたw
太平記は今CSでやってる、日野俊基が捕まって楠木正成鉄矢に知らせが行ったところだが弟の赤井秀和が下手で見てらんない
今日最終回の秀吉では釜茹でされたけど5年たってるので演技はましだった
沢口靖子も両方出てるけど、どの役やっても同じ下手さ
若い宮沢りえは見れるけど、後藤久美子はどこにいるか分からん
もちろん真田広之は尊氏と三成で両方出てる
三成の子役で小栗旬が出てたらしい
>>276
諡は死んだ後で勝手につけられるもんよ
後醍醐は自分で後醍醐にしろと遺言したけどこれは例外
後水尾とか父親と仲悪かったんで父親に後陽成という最低の諡をつけてしまった鬼畜 >>268
後小松天皇以前の北朝の皇位は南朝由来ではない
ゆえに、北朝は歴代天皇にカウントされない
ゆえに、正統は南朝
北朝の血統の明治天皇が、南朝に正統性があるって言ってんだから
北朝フリークは、ただの足利ファンだろw 第96代 後醍醐天皇系の南朝天皇家に対して
京都の足利将軍家は北朝天皇家を立てた
室町幕府 第3代将軍 足利義満は南北朝を合一した
足利将軍家が立てた北朝天皇家は 現在の皇統でもある
まず平家と平氏の区別がついてない人、結構いるよなあ
あれ、関東平氏が源氏を責任者として担いでただけで
実質関東平氏VS伊勢平氏(平家)の平平合戦だから
足利尊氏ってあのザンバラ頭の肖像は間違いって本当?
家紋が違うとかなんとか。
『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
海津一朗・和歌山大学教授
公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている
この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる
>>284
高師直という説が有力あのザンバラは
足利尊氏だろうと言われているのは伝平重盛像で、伝頼朝像が直義と言われている だから源頼朝、鎌倉将軍家はポッチじゃねーつの
密かに、三河の母方に繋がる人材でガッチリ固め、坂東平氏など排除されていた
北条が乗り越えられなかったのは、このネットワークであり
鎌倉将軍家の後を継いだこのネットワークの親分、足利氏に滅ぼされたのさ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
>>276
後っていうのはヨーロッパ王室でいう2世だろ
よくあること
イギリスだってこの時代は
チャールズ2世
ジェームズ2世
がいたし
もちろん2世といっても1世と親子ではない
エリザベス2世はエリザベス1世の400年も後だしね
同じ系統で尊敬する人の2世を名乗ったんだろ >>107 >>202
ボーカルのタケカワユキヒデがリアルで
世界中の貧しい子を養子として引き取って育ててたからな >>255
見直しどころか中共も裸足でトンズラしかねん規模の文化大革命やらかしとりますがな 96後醍醐→97 光厳→98光明→99後崇光→100後光厳→101後円融→102後小松→…→128今上
南1後村上→南2長慶→南3後亀山
または
96後醍醐→97光明→98後崇光→99後光厳→100後円融→101後小松→…→127今上
北1光厳
南1後村上→南2長慶→南3後亀山
南朝を正統としたら後亀山がラストエンペラーになってしまう
明治維新後に長州が楠木正成に兵法教えたのが毛利だとか言い出してるしこの頃1330年前後に毛利時親は越後におったわけだけども
大江氏の軍法みたいなのがあるんだろ。
それが代々三河らへんに受け継がれてるから、
楠木正成の戦術=大江氏の兵法書 で間違いない
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
>>295
知識が乏しいな
長州の萩は三河の萩に由来する
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だ
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、徳川幕府は崩壊していない
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 大江流は礼節を守って正々堂々とっちゅう精神論的なブシドーなので山岳ゲリラ戦やった楠木とは相容れないわけなんだが
検証すべきは何故なる理由で維新後の皇国史観に於いて南朝を正統と定めたかだろ ここを無条件に盲従していたら何も始まらない
政子=政所=マンドコロ=マンコで、女の大事な所=マンコのなったって本当?
第96代 後醍醐天皇は 建武の新政に依り 京都に大内裏を復旧すること等を令ずるが
人心を得ること叶わず
室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏の方に 当時の人心が求心した
鎌倉時代は交互に天皇になってたんだから天皇の血統なんてもはや気にする必要はないだろ
>>10
>鎌倉育ちだけど、こんな所が日本の中心だったとか信じられんかった
幕府って臨時の政府って意味だから鎌倉は政庁府。ずっと都は京で地方自治。 >>303
闘戦経でググれば礼法重んじる精神論なのわかるとおもうが >>92
あくまで清盛関連の平氏が滅びただけでそれ以外は生きてたから 北条がケチで不満溜まってたとこに天皇家のゴタゴタに巻き込まれたのが敗因ってこと?
鎌倉時代は北条と後醍醐のせいでろくな印象がない
さっさと滅んでくれて良かった
大体頼朝が自分の親戚をまともに取りしきれてなくて開始されたのんだからどうしようもねーわ
土台がなけりゃそうなるわって話
きっかけではあっても結局は仲間割れでぶち壊れただけでしょ
>>92
壇ノ浦で滅んだのって、
平氏じゃなくて、その一部の平家じゃん。
(平家も、頼盛は生き残っている。) >>301
後醍醐天皇がいるのに、もう一人天皇を擁立するなんてことは許されないということ
これが第一義的なところ
後醍醐のやったこととか、性格が悪いとかは、皇統問題にとっては小さなこと
いかに嫌な奴でも天皇を引き釣り下ろすなんてことは絶対に許されない
これが許されたら天皇の地位なんて、時の政権が好き放題してもいいということになってしまうからな 後醍醐天皇のせいで話がややこしくなってるだけで
実質的には鎌倉〜三好政権ぐらいまでは一体的
支配層が北条から足利に移っただけにすぎんでしょ
>>92
滅んだのは伊勢平氏だな。
平氏は伊勢平氏以外にも一杯おるよ。 >>316
これなー
あと初期の幕府っていってもおえらいさんから権力もらってーって程度のものでしかないイメージ
偉い人からお墨付きもらったなら、変なことじゃないかぎり従ってもいいか程度の存在 >>168
大河ドラマの平頼綱みたいに、
本当にどこの馬の骨とも分からないような人なんじゃないのかな。 成功したのは源氏棟梁の足利氏が博打覚悟で立ったからでしか有り得ない
足利に比べたら後醍醐も楠木も北畠も雑魚だし新田は足利の末端支流ド田舎侍
「北条氏『一味散々(1333)』滅ぼされ」 だっけ
>>208
結局、天皇の正統性なんて、ご神体みたいなもので、
形がないものに形を与えなければいけないわけだから、
三種の神器を誰が持っていたかで決めるしかない。 BSでやってる太平記の再放送が面白すぎて早起きしてちゃんとテレビの前で見てる
>>222
最後に負けたかどうかじゃなくて、
その時に権威を持っていたかどうか。
刻々移り変わる世界記録よりも、
剥奪されないオリンピックの金メダル。 太平記では片岡孝夫演じる後醍醐天皇があまりにも神々しかった。
さすが天下の二枚目、凄まじいオーラを周囲に放ち、帝を演じるとはかくあるべし、と後世に範を示した一世一代の好演だった。
>>230
朝比奈、名越方面には逃げ道あったっぽいが。 尊氏が北朝なんて擁立したせいで戦国時代になった感あるからなぁ
権力の簒奪を武士がやっていいってなっちゃったのあれのせいだろ?
まだ建前でも権力をもらってる感はもってたのにあれで全部ぐちゃぐちゃになった
こういう議論いいよね
しかもニュース速報
いざキャバクラのぞく
>>244
それを言うなら、
日本武尊だって、今の天皇の祖先なんだから、
歴代天皇に入れろと言うことができてしまう。
光仁天皇父とか崇光天皇と後花園天皇の間とか。 >>335
源氏台頭のきっかけになった前九年の役で
滅ぼされた安倍氏の末裔が総理大臣やってるってのが面白いところ >>1
鎌倉幕府、後醍醐天皇の好物:真言宗
↑これが一番の元凶
真言宗は激しいリバウンドがあるから、必ず滅ぶよ >>250
水戸学で南朝を正統と定めて、
水戸学に基づく尊王攘夷派が明治政府の核となったから、
そういうことになるんだろうね。 >>244
足利義満が北朝をカウントしないで南朝をカウントするから三種の神器を寄越せと交渉した
これにより北朝が継いで行くが南北朝時代は南朝が正統になった >>344
それは後付け
決まったのは足利義満のとき 日曜日朝6時からNHK BS で大河の太平記をやってるよ。明日が8回目。
>>346
義満の時に「カウント」なんて考え方があったの?
未来につながらないなら、
過去の正統性を認めてもらっても仕方ないし、
次の天皇の座を約束してもらうほうが優先されそう。 >>343
真言立川流信者の
単なる性交乱交好きのエロオヤジの子沢山
何せシャレコウベに愛液つけて祈祷しながら
文観たちとセクス三昧 >>107
名曲だし大好きだったけど
そういう人もいるんだ
ちょっとショックだな >>351
義満擁する北朝に圧されてて南朝はもうダメそうだった状況
義満側がだいぶ譲歩してる 鎌倉の東にある、駅から段葛をよこぎって住宅街を歩いたとこにある、ハイキングコース
去年の台風でハイキングコースがとおれなくなってるんだけど、そのすぐ手前の
腹切りやぐら、あそこ怖いね
北条時宗以下、一族郎党が自殺した場所
今でも日が落ちると
がしゃがしゃと鎧武者が歩いて岩に染み入るように消えるとか
北条高時でした。
東勝寺跡というのかな
いまも木が茂って、当時のままの洞窟だよね
何か気が満ちている
>>353
中には変な感性の人間もいるだけだろ
何ショック受けてんだお前 >>361
まさか新田ごときに滅ぼされるとは未だに納得できないんだろう ねえねえ皆
平安京がなぜ滅びた理由知ってるー?
古代道て知ってる?今の高速道路位の道幅があったんだよー
でもなくなってしまったんだよー
平氏清盛はなぜ海の道を作ったんだろう?
でも源氏はなぜ平氏に勝ったのにすぐ滅びたんだろう?
知っている人知っているよね(笑)
県境を越える移動自粛期間中なのに無視して仕事にいったら、
クライアント到着前に義貞蜂起の地とやらがあって、一気にテンションが上がった思い出。
>>314
三河守頼盛は三河サイドだからな
この恐ろしいまとめをみよ
マジで崇徳の呪いだ
崇徳院の妾の従兄弟は、源頼朝と初代足利氏の足利義兼
崇徳院と三河
中宮 皇嘉門院(三河国吉良荘領家、兄弟に九条兼実(三河国知行国主))
妾 兵衛佐局(三河の藤姓熱田大宮司家か、源頼朝の親類(吾妻鑑))→重仁親王(乳母は池禅尼(三河守頼盛の母))
妾 女子(源師経(三河権守)室)→女子(崇徳院妾、源頼朝・足利義兼従兄弟)
源頼朝の母親の姉妹の子供、頼朝の従兄弟が崇徳院の妾になっている
もう一人の妾、兵衛佐局も三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるそうだが、その子供の重仁親王の乳母は池禅尼
池禅尼の息子が三河守頼盛だ
吉良荘は崇徳院の正室、皇嘉門院領で、寄進したのは三河の藤姓熱田大宮司家ではないかと言われている
三河の足利尊氏は、三河縁故の崇徳院の怨霊に操られていた >>355
自分が有利な状況だったのに譲歩するって事は
自分の北朝側に正統性がないってことを自覚していたからだよね 鎌倉幕府 北条得宗家 第14代執権 北条高時
犬追物 闘犬等に うつつを抜かした
>>60
大河ドラマは>>1に書いてあるような後醍醐天皇が傍流のワンポイントリリーフ天皇とか描いてないだろ >>370
自分が長崎円喜の傀儡ってことを自覚してたんだから
うつつを抜かすしかないだろうがw
誰が執権についてもそうならざるをえない
犬にいくかどうかは別としても 流されるのが趣味みたいな人だからな。
各地に醍醐桜や後醍醐ゆかりの地を作って回った
児島高徳
天勾践をむなしくするなかれ
時に范蠡なきにしもあらず
>>369
そりゃそうだ
尊氏が勝手なことしただけで後醍醐は続いてた
それに神器破壊されたらかなわんしな
穏便かつ北朝が継いで行けるやり方 ヤマトタケルは伊勢にあった草薙剣、を持っていけと渡されて、日本全国で喧嘩したわけだが
三河の源頼朝、三河の足利氏は、その草薙剣を奉じる社家に生まれたのだよ
そして足利尊氏は、三河の源頼朝と崇徳院の怨霊に操られ、北条と皇室に災難を及ぼした
歴史と言うのは、型にハマっては面白くない
俺のようにまわせ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
三種の神器持ってるとこが正統なんだよ
南朝が持ってたから南朝が正統
後小松のとき北朝に返したから以後は北朝系統が正統になった
それだけのこと
>>115
全ての書類を自分一人で決裁しようとした世界史上稀に見る馬鹿元首だからな >>379
その時に南朝の天皇から北朝の天皇に譲位されたから
これまた北朝は南朝を否定できない
水戸黄門が云々する前から決まっていた ボコボコにされて九州に敗走するもわずか半年で復活して京に攻め込む男
どんだけ人望があったんだろ
無能天皇ランキングとかあったら後醍醐天皇はかなり上位にきそう
源頼朝という身内にも容赦ない非情さと源氏の棟梁という肩書きあっての幕府その頼朝が亡くなりとたった三代で滅びた
平清盛が源氏を滅ぼせなかったのは情け深く身内にも甘いため自分の死後平氏は滅びた、
どちらにも欠点があり早く滅びた
気が付くと北条氏頼みになってた時点であかんやろ
足利なんて鎌倉幕府の中心的存在やったのに
>>386
殆どの天皇は結果的に無能だろう
後醍醐は数少ない行動を起こした無能なので面白いだけいいよ 執権政治の中心にあった北条得宗家はその成り立ち及び後鳥羽上皇を配流して以降はひたすら善政を敷いて 御家人や民衆達の心を掴んでいかなければたちまち滅ぼされる運命にはあった
実際日本史の中でも3本の指に入る名君北条泰時から時宗までは非常に優れた人物ばかりであった
一番の要因は幕府末期の執権職にあった人物達の無能さだと思う 但し北条高時のうつけぶりは明らかに誇張されているとは思うが
>>386
入るだろうな
楠木正成がいなかったらひっそり暗殺されて終わってた人 まあ、天皇家みたいな古い権勢はある意味価値があるからな
今は、日本人より外国が信奉してるだろう
今の習近平とか就任前に挨拶にくるくらい<権威付けに
>>389
中心ではないぜ
御家人の中で権威があるってだけで完全に北条一族の専制
北条高時のやる気の無さと後醍醐がいなきゃ高氏が奉り上げられることもなかった >1 ID:aHU/SF220 ID:uzuGREQ70
まあ、首都が>1壊滅しないと、日本人は、危機管理しないしなww
鎌倉時代。
元寇後のギガ戦災復興費用、西日本での、軍拡での増税加速、
インフレ激化のスタグフレーション慢性的構造不況激化。
正応の鎌倉大震災、鎌倉壊滅。
債務踏み倒しの公認、徳政令で、経済破たん。
狂乱物価 オイルショック ブラックアウト気味。
鎌倉幕府崩壊、南北朝内戦時代。
室町時代。
太平洋上での巨大噴火>1から、日本全土での、最大級のギガ飢饉。
狂乱物価 オイルショック ブラックアウト気味。
重税加速、インフレ誘因なスタグフレーション慢性的構造不況激化。
徳政令要求の、土一揆暴動が多発。室町幕府の威信低下、
統制力減衰。守護大名の専横で、応仁の大乱、戦国時代。
江戸時代 黒船襲来後。
安政南海トラフ超巨大地震、安政江戸大震災、安政江戸巨大台風での、
江戸大打撃。
桜田門外の変など暗殺横行、
天狗党の乱 関東内戦、薩英、下関戦争、長州征伐、戊辰戦争へ。
狂乱物価気味、オイルショック気味 ブラックアウト気味、
ええじゃないか狂い踊りパンデミック、世直し一揆巨大暴動。
トクガワノミクスな、テラ軍拡 ギガ増税 インフレ激化での
スタグフレーション慢性的構造不況激化。
文久の改革で、江戸一極集中の極みの参勤交代を3年に1度の、
大幅緩和。
また、大名家族の江戸抑留を、年、100日に大幅緩和。
長州征伐 戊辰戦争 世直し一揆巨大暴動
ええじゃないか狂い踊りパンデミック
明治維新で、江戸幕府崩壊へw
大日本帝国
1929年 大恐慌 昭和三陸大震災
タカハシ コレキヨノミクス 投機狂乱バブル傾向
515 226クーデター事件。
日中太平洋戦争後半。大日本帝国後半。
日本本土への空襲激化での、大都市からの、
ギガ疎開命令
メガ取りつけ騒ぎ ギガ預金封鎖、財産税 デノミ。
メンタリストDaiGo!
嫁が北川景子のGAIGO!
千鳥大悟!
吉本新喜劇の伴大吾!
5人合わせて5ダイゴー!
>>389
足利が鎌倉幕府の中心だった時なんてあったっけ?
北条氏は北条時政政子義時の3人以来中心だけど
足利はその時代はその他大勢の有力者の一人だろ? >>386
信賞必罰が曖昧で不公平
佞臣の甘言用いて、忠臣遠ざける
セックス密教に傾倒、統治領内に蔓延させる
愛人に籠絡されて息子死に追いやる
こんなイメージで合ってる? >>386
後鳥羽上皇 後醍醐天皇に共通している事はあまりに有能で実行力がありすぎた天皇及び上皇であったという事
古来よりこういうタイプの天皇が企てた事がほぼ失敗している事は知っておくべき
この辺の話は河合隼雄先生が考察している日本神話のツキヨミの存在 所謂中空の思想にも繋がっていくが 何もしないが間を取り持ち雰囲気を上手く和らげる側近がいなくなってしまった(藤原良経等)事が何れも大きな悲劇になったと思う 蒙古襲来の為に今の時代で500兆の防衛費がかかった
尚且つアメリカのような同盟国もなかったので、日本一国で
中国北部、蒙古、朝鮮連合との戦いとなった
偶然の勝利後も被災地の復旧で幕府の経済は崩壊
公務員の御家人たちに給料を払えず内部崩壊していったという
当時は朝鮮などに賠償請求するすべがなく泣き寝入り、この時の
被害者は生きたまま船に針金を通してつるされたり、食われたという
(彼らは補給がなく、自国の厳しい環境下でも共食いを行っていた)
朝鮮人はその時日本襲撃の意図がなかった蒙古を焚きつけたという
この残虐行為に対する請求を行わなくてはならない
>>391
無能なくせに、でしゃばりで余計なことしたがるから云々
太平記 NHK大河「太平記」でモリヨシ、モリヨシって散々言ってて凄い違和感だったわ。可笑しいな教科書では絶対モリナガって学んだよなぁって反発してた。対立する出典由来なんだろうが、世代的に出演者達もアレ?だった筈。
自民安倍晋三政権は何故滅亡したのか。令和天皇の御詔勅。
日本史嫌いだったなぁ。
登場人物の漢字名が読み辛く、似た様な名前も多くて覚え難かった。
>>397さんの言う通りです
大河ドラマや、小説家は想像で支配者の争いや女の取り合いを理由にして
面白おかしく捏造しますが
ほとんどの原因は天変地異や飢饉や病気の蔓延による崩壊です >>374
大河太平記だと
倒した尊氏の息子義詮が
鎌倉で闘鶏にうつつを抜かすのが
なんともw 再放送の太平記を観ているから、麒麟が来るが放送停止になっても別に構わんな。
>>350
時代背景、脚本、役者どれをとっても自分は大河の中で一番面白いと思ってる
子供の頃から鎌倉に住んでたからかもしれんが >>408
カコウトンだったりカコウジュンだったりという例もあるんで、そんなのは制作者のその時の判断だわ 第96代 後醍醐天皇は 平安時代のようなミカド日本国家を理想とした
しかし鎌倉幕府の次は 京都での室町幕府だった
南朝天皇家は 南奈良(吉野)の方に皇位の証しとしての三種の神器だけは所為して隠棲・遁世した(皇統としての正位)
しかし京都に北朝天皇家の方を立てた足利将軍家の方に利があった
>>384
プチ躁鬱な天然キャラのイメージだな
人望というよりみんなから愛されるタイプ 太平記みると麒麟はこれの焼き直しだってのがよく解るわw
南北朝描くつってそれは最後の十話くらいで鎌倉幕府滅亡までに半分の話数使ってとか、
美濃から出るまで半分近くかかった麒麟と一緒
太夫一味みたいな旅芸人の集団も出てくるし市井の人々は現代語で話すってのも一緒
池端ってのは完全オリジナルで大河やれるような作家ではないんだろw
>>408
今の若者が昔の時代劇を見て雑賀を「サイガ」と読むのに違和感覚えるらしいな
何が正確なのか正直わからないのだらけで下手すりゃ当時だって人によって読み方違ったり知らなかったりするケースなんか多々あると教えなかった放映当時の教育がよろしくないな 鎌倉幕府の歴史的役割が対モンゴル戦 だったからだよね
北条時宗 とか正にその為だけに生まれてきた様な漢
>>419
衣装が派手なのも踏襲してるね
寧ろ太平記の方が派手かもしれん 支配者や側近が無能でも、それによって国が崩壊なぞしません
飢饉で集団餓死は大塩平八郎の乱がほぼ最後です
大阪商人の商品流通が社会を大きく安定させ、明治維新になっていきます
今回のコロナが世界の商品流通を止めた場合、社会はある意味江戸時代に
戻っていくでしょう
>>415
わしは春の坂道以降から見てる。
一番とは思わんが、かなり面白いね
鎌倉炎上の回は一番と言えるほどすばらしい >>4
自分もバンドの「ゴダイゴ」って、後醍醐天皇と関係あるのかと思ったわ >>384
当時は、楠木正成と足利尊氏が一級の人物なんだろうけど、人が集まり尊氏が天下を取れたのは源氏の頭領ってのが大きいんでしょうな
戦国なんてもう自称で本人すら信じてない血筋で天下取れるからね 北条泰時が制定した御成敗式目は日本史の中でも屈指の法典でこれを元に政治を行った当時の執権及び北条一族は有能な人物揃いであったことがよく分かる
>>429
関係あるんじゃなかったか?
ミッキー吉野が、吉野→南朝→後醍醐にしたって聞いたぞ >>425
日本は、日本の番長たる三河が盤石なら、関東関西他がどうなろうと問題ない
今も昔も、三河様が日本の地理的中心、日本の人口の中心で、堂々としていらっしゃる
関東〜関西間の日本地図
年収1000万円以上世帯が8%を超える地域(「世帯の年収マップ」より)
たが三河に危機が訪れると、日本全体が社会不安に覆われた
それはリーマンショックで証明されたわな
それは先祖から受け継いだ遺伝子に刻まれたパシリ記憶だけではなく、三河の危機は国体(三種の神器)の危機に直結しているからである >>434
元々ただの伊豆の豪族なのにね
どこにでも優秀なやつはいる。寧ろ中央がポンコツなのが浮き彫りになる
中央の連中も地方に居れば能力発揮出来たパターンも多々あったろうに >>1
お家騒動で滅んだ鎌倉幕府よりも室町幕府のカスさ加減と裏切り体質は心底害悪 >>421
鎌倉時代の平均寿命は35歳です、時宗も11歳で結婚
14歳で執権補佐、18歳で執権になり
34歳で死亡しています
コロナで日本人の平均寿命は60歳を切るでしょう
てか社会が豊かになり10台の結婚を認めなくなっており
コロナで人口は激減するでしょう、哺乳動物は100年で全滅ですけどね >>421
若干18歳で就任とか、日本にもスキピオやアウグストス帝を生んだローマに匹敵するような
教育と社会があったってことだよなぁ 鎌倉近いからよく行ったけど、幕府があったなんて思えないほど
小さな街だよね。庶民はどの辺りに住んでたんだろう。
>>438
日本の歴史は 危機の時に本気出す・統一→調子乗って堕落→また危機になって地方から優秀な奴が立つ の繰り返しだからね
令和は何度目かの堕落した中央の姿w >>337
引き金だからね。
理由なんて他にも幾らでも付けようがある。 >>442
あそこは防衛に適してるから執政の場所として選ばれただけで庶民はさほどいなかったろうよ。まさに「幕府」 北条って上皇軍をフルボッコにして上皇三人くらい島流しにしたり、元寇撃退したりと歴史的にも相当強い部類と思うけど何で将軍にならなかったの?
いま太平記やってるけどギバとか宮沢りえのくだりが一ミリもいらない
今でいうと境とか岡村のところ
>>438
タダの豪族じゃない、京武者だし
また、時政の母は伴為房の娘と伝えるが、伊豆の伴氏は伊豆に流された伴善男の流れと聞く
源義家の家来、伴助兼も祖を伴善男の流れ
つまり伊豆の伴氏は、源義家の郎党と親戚
だから、東三河出身の安達盛長が、東三河の三河伴氏と繋がりがある伊豆の伴氏の親戚である時政の娘を頼朝に紹介したとの説話が残っているのだろう
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人) 当時は鎌倉「幕府」とは言われてなかったし、「鎌倉殿」とか言われていた。聖徳太子とおなじで
鎌倉幕府はなかったっていう歴史者が出てこないのがおかしな状況。
まぁ所詮は元寇のための鎌倉幕府だったんだろう
それが終わったので貴族社会から本格的に武家社会に移行するための南北朝時代、その後の戦国時代って感じ
>>450
北条は桓武平氏なんで朝廷から神輿将軍をお迎えするしかなかった 当時の政治は一般庶民のことを考えた政治じゃなかったんだろうなあ
>>459
だからこそこの時期に「村」が出来始めた 後醍醐天皇みたいなみたいな人があと数人出てたら、皇室は今日まで続いてないだろうな。
>>430
「ビバ・キャバクラ」っていうマンガのタイトルを見た時
いざ鎌倉ってフレーズがいかに日本人に浸透してるかを知った >>450
将軍の母親があの有名な北条**で、北条家は親戚関係
実権は北条氏が名目は将軍がで権力分配した
有名な女性は自分で調べてね、おもしろいからw >>454
陣内孝則と制作側が
デビッドボウイみたいなグラムロックイメージで作ったって
記事読んだ
見事にハマったけど 頼朝の源氏内の血を血で洗う粛清にも北条が一枚かんでるし
その子二代と三代の暗殺の首謀者だしな見事なまでに母屋を乗っ取ったって感じ北条
そして伊豆にいた伴氏に、伊豆の富永氏がいる
これは太平記にも出てくる足利御領の富永保を本貫とする、足利譜代家臣たる三河伴氏の富永氏
この富永氏から出たのが、家康入城前の江戸城主富永直勝だ
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
>>463
後水尾天皇や光格天皇が後醍醐並みに空気読めなかったら危なかった 大日本史では後醍醐天皇の南朝が正当で
北朝は朝敵足利尊氏に担がれた偽帝とされてる
明治以降も南朝が正当とされて、北朝子孫である今の天皇家は涙目www
北条内部が武士の不満を解消できなかったから。
もっと不満のある武士を政治参加させればよかった。
それで問題は解決できたかどうは不明だが北条だもうダメだってことにはならなかった。
簡単に言えば下級武士を散々こき使ったが恩賞は与えなかったので
不満がたまりにたまって爆発しちゃったと言う事だな
これってまさに現代の状況に似てないか?
安部や経団連もちょっと肝に銘じた方が良いぞ
鎌倉と室町の間の数年は、建武時代って認識でいいの?
>>473
幕末も構図は同じなんだよね。外敵の対処で自腹でこき使われて
モンゴルが来なきゃもう少し引き伸ばせたかもね 御恩と奉公は武士主従の相互的義務だったのに、いくら奉公しても御恩が無いという状態に陥った。
これで鎌倉幕府は死んだ。
>>81
少子化だと
ひと世代ごとに財産は倍増する >>467
母屋もなにも、頼朝の嫁が北条政子
噛むもかまないも、その子がまた将軍 元寇退けても報償ほとんど無くて不満が高まったからだろ
>>1読んでたら少し思い出してきた
後醍醐天皇である事は間違いない >>450
普通に考えて、頼朝からの家臣たる足利、安達、二階堂、大江、足助、中条(八田)、結城、土岐、佐々木、武田が将軍として臣従してくれるか?
単純に自信が無いから、ならなかったんだろう
奇襲で政敵をやっつけても、引き下がって事を収めてきたのが北条だ
自信が無かったからな
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 北条高時;安倍
長崎高資;今井
後醍醐天皇;二階
足利尊氏;菅
新田義貞;ゲル
結構謎なんだよ
鎌倉幕府が弱体化してたっていわれるが、実際はそうそうでもなかったらしい
足利尊氏の気まぐれが原因かも
北畠顕家の活躍ぶりは半端ない
あの若さでよくまぁ頑張ったよなぁ
後醍醐天皇は、評価に値しない。御家人の不満の鬱積だけ。室町幕府も鎌倉幕府を継承してる。
偽朴さんっす
規制でPCから書き込めない。
旭区大宮神社豊臣秀吉神像➡JK妻電車でOK
>>256
ないないw
内戦ばかりで何も残って無いからww
当時の建物は全部焼けて無い。
内戦ばかりしていたから滅びたの。
ある意味武士の本質。 お前ら25日(自粛解除)から室町幕府な
アイアイ・・・
なわけない
燃えて亡んだあ、明日から新時代
なわけないw
>>37
関西に住んでると国宝だらけだよな。 この寺国宝ですよとか看板とかたくさんある。 >>455
鎌倉が世界遺産登録出来なかった原因はそれだろうね
「幕府」の定義がハッキリしないし、この頃はまだ公家と武家の二重権力構造が続いていて戦国時代ほど武家に実権がなかった 天龍寺で行われた後醍醐天皇供養に参列した奴が結城文書に書かれているが、まさに勝ち組一覧が書かれているんだが
北条が乗り越える事が出来なかった、頼朝の母方縁者ばかりではないか
天龍寺供養参列者(『結城文書』天龍寺供養日記)
先陣山名伊豆前司時氏
総鞦 武田伊豆前司信武、小笠原兵庫助政長、戸次丹後守頼時、伊東大和八郎左衛門祐熈、土屋備前権守教遠東下総中務丞常顕、佐々木佐渡四郎左衛門尉秀宗、佐々木近江四郎高秀、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、吉良上総三郎、高刑部大輔師兼
帯剣(左)武田伊豆四郎、佐竹刑部丞師義、小笠原十郎次郎政光、三浦駿河次郎左衛門尉藤村、二階堂美作次郎左衛門尉政直、佐々木佐渡五郎左衛門尉高昌、海老名尾張六郎季直、逸見八郎貞有、設楽五郎兵衛尉助定、寺岡兵衛五郎師春、逸見又三郎師満、
小笠原源蔵人、佐々木出羽四郎兵衛尉、富永孫二郎左衛門尉、清久左衛門次郎泰行、曾我左衛門尉師助
帯剣(右)小笠原七郎政経、佐々木信濃五郎直氏、小笠原又三郎宗光、三浦越中次郎左衛門尉、二階堂対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡四郎高秋、平賀四郎忠経、小笠原太郎次郎行継、設楽六郎助兼、設楽二郎、
逸見源太郎清重、秋山新蔵人、佐々木近江二郎左衛門尉清氏、宇佐美三河三郎、木村長門四郎基綱、伊勢勘解由左衛門尉貞継御兄弟
御車 足利尊氏(将軍家)、足利直義(三条殿)
役人 将軍家南遠江守(剣)、長井大膳権大夫(沓)、佐々木源三左衛門尉(調度)、和田越前守(笠)
役人三条殿播磨前司(剣)、長井治部少輔(沓)、佐々木筑前三郎左衛門尉(調度)、千秋三河左衛門大夫(笠)
布衣武蔵守(高師直)、彈正少弼(上杉朝定)、伊豆守(上杉重能)、越後守(高師泰)、伊予権守(高重成)、上杉左馬助(上杉朝房)
随兵 尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介、二階堂美濃守行通、山城三郎左衛門尉行光、佐竹掃部助師義、佐竹和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽前司長房、三浦遠江守行連、土肥美濃権守高真直垂土佐四郎(高土佐四郎?)、
里見民部少輔、安芸守、山城守、大平四郎左衛門尉、摂津右近蔵人、水谷刑部少輔、長井丹後左衛門大夫、長井修理亮、佐々木能登前司、佐々木豊前権守、中条備前守、美作守、町野加賀守、武田兵庫助、武田八郎、
大内民部大夫、結城大内三郎、田中下総三郎、狩野下野三郎左衛門尉、島津下野守、土屋三河権守、薗田美作権守、梶原河内守、安保肥前権守、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉、寺尾新蔵人、
須賀左衛門尉、赤松美作権守、須賀二郎左衛門尉後陣大高兵庫助…諸人後騎以下各扈従
>>307
承久の乱からもう政権の実態無いじゃん
室町の前半100年が最後で 内管領の長崎高資がウゼーとか尊氏が太平記で言ってたけど、後に自分の執事の高師直が長崎高資と同じ状態に成ってしまうのは
どう云うギャグなんだぜ?w
足利尊氏はキチガイの後醍醐天皇から
皇統を持明院統に取り戻してくれた大恩人なのに
逆賊の汚名を着せられて可哀想だわ
遠足で鎌倉行った時後醍醐天皇の幽閉跡見た
昔とはいえあんな自然の穴蔵に入れられるなんて
恐ろしいなと思ったよ
そこに行けば どんな夢もかなうというよ
誰もみな行きたがるが 遥かな世界
その国の名はガンダーラ
太平記が面白すぎる
真田足利尊氏が中間管理職あるあるすぎてすげー身に染みるw
平安京に軍隊は入れない決まりが、あったけどね。鎌倉は、その通り 戦線基地。都ではない。
>>60
これが一番手っ取り早いな
今では史実とだいぶ異なる描き方をされてるところもあるが
とりあえず鶴太郎が一番悪いってのはよくわかる 大河太平記が名作っていうから見てるが鶴太郎高時はまだしも、楠木正成が金八な武田鉄矢、弟正季節が大根過ぎる赤井英和、Mr.オクレにストロング金剛は出てくるし、宮沢りえの学芸会の場面は今のスイーツホームドラマ大河と大差ないぞ
鎌倉って武士の理想郷で統領が住んでただけで幕府とは言えないな
いずれ、教科書も書き換えるわ
確か後醍醐って名前は死後の諡じゃなく、生前から使ってたんだよね?
こんなの後醍醐ともう1人くらいしかいなかった記憶
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。
>>512 醍醐天皇の治世をみてみるといいよ。実践してるとこもある。 >>513
北条高時は完全にやる気のない執権だったんで安倍と比定しようというのが無茶
長崎もいない >>499
幽閉されてたのは大塔宮護良親王な
後醍醐天皇の皇子で倒幕で活躍して足利尊氏を警戒するよう
ずっと進言してたのに、天皇から疎まれて足利に引き渡された 幕末だって空気読まない長州藩の存在とそんな長州が大嫌いで親幕府だった孝明天皇の急死がなければ歴史がどう転んだかわからん
片岡仁左衛門のおかげで後醍醐天皇イメージ良さ気だよな。
女官とセックス三昧してたのに
汚い海、潮風、海沿いの悪いところ
山の中、虫、動物、山の悪いところ
海と山の悪いところだけを集めた土地、それが鎌倉
ここに移住したがるのは地方出身の物を知らない田舎者だけw
幕府って名前は明治にできたから、当時は幕府なんて呼び名はなかった
>>522
如何に攻められづらいかを最優先させて選んだんだから当たり前 >>92
鎌倉は源家持ち上げた関東平氏の政権だからな。滅んだのは伊勢平氏でしかない。 長崎いるじゃん。2Fだろ。
やりたい放題やってるじゃん。
>>508
幕府軍の主力は楠木正成や護良親王を攻める為、西上していた。
関東の武士たちも新田が挙兵した時は、無名だったので様子見
尊氏の嫡子の足利義詮が倒幕を鮮明にしたので、続々と集結した >>508
あいつはたかだか前線部隊に過ぎない、あいつだけで挙兵してもさすがに潰されていたのがオチだろ
まあ幕府末期はそれでも負けそうなイメージがあるけどな、全盛期に次々気に入らない勢力を亡ぼしていった力がウソみたいに
元寇はともかく「平和」になりすぎたせいで脆弱になるのはいつの時代も同じなんだろうな 天皇が我が儘だとこうなるわ。
何十万人の日本人が死ぬ
>>500
現実でも、真田広之は手塚さとみがいるのに葉月里緒菜と子作り行為してたから 新田と足利はライバルみたいに思われてるが、圧倒的に足利家の方が上
>>529
二階なんてクソ小物が長崎とか長崎の権勢を馬鹿にしてるにも程があるw
敢えて似たようなのを探すなら大久保利通。能力は桁違いで大久保の方が上だけど >>10
中心ってわけではないけど肥前名護屋城周辺もなかなか 孝明天皇もわがままというか頑迷で幕末の政局を混乱の極みに導いた
鎌倉幕府は蒙古から日本を護ったから凄いよ
Netflixでアンゴルモア元寇合戦記ってアニメが面白い、鎌倉武士の勇猛果敢がわかる
>>539 残念ながら、豊臣政権。安定期は、徳川政権初期。と、思う。 巨大な城に住むのは戦国時代以降で鎌倉得宗も室町将軍もこじんまりとした館に住んでた
>>10
江戸幕府はともかく鎌倉幕府時代の中心は京都だろ
六波羅探題ぶっ潰されて即鎌倉幕府滅んでるし 今の世襲議員の無能さ見てると、戦いに負けたら一族を滅ぼすのが正解だと思う
天皇しかり
>>540
攘夷の旗頭として孝明天皇がいたんで倒幕勢力が死ななかったという側面があるんで結果オーライ
勅のおかげで幕府がヘマこきまくってボロ出しまくりになったしね >>22
1185年だと思ふ
ながいけんの「いい奴殺す壇之浦ライブ’85」で覚えたわけだがw >>107
すごくわかる
ガンダーラもモンキーマジックも好きだけどビューティフルネームは気持ち悪い
嫌いじゃなくて気持ち悪い 武士っていつの時代でも貨幣経済の浸透でやられてるな笑
それでもその後500年武士という階級は存在し続けだわけだが
>>438
北条家が当時他の豪族より優位に立ち且つ次々有能な人材が輩出したひとつの要因はいち早く京都の公家と積極的に交流し様々な文化を受け入れ自分達なりに昇華していったことだと思う
ここがまた面白いところで もし京都の近くであれば彼らの文化にのみ込まれて骨抜きにされていたのは間違いない
勿来の関ではないが 鎌倉が京都から遠く離れていた事で上手く良いところ取りをして北条一族の発展に繋がったと自分は考えている
もちろん足利始め有力御家人とは常に緊張状態でありひとつ道を誤ればたちまち滅ぼされる危機意識が常にあったことも要因だとは思うけどね >>548
天皇は平安時代からずっと政から離れておったのでそりゃひでーや
明治時代に急に担ぎ上げられてさ >>539
平安時代
死んでから祟ったり、蘇ったりする そろそろ鎌倉幕府なんて無かったんだ!とか言い出すヤツ出てきそう
>>552
義満さん「そうか?」
義満みたいなお金大好きじゃないけど確固たる信念持って貨幣経済に舵切った田沼や平家は潰されちゃったけどね 天皇家は江戸時代まで仏教徒だったのに明治でカルト神道に取り込まれた
>>473
恩賞が必要で戦争ばかりしてたのが内紛の
温床。最初からそうなんだよ。
だから問注所が重要だったの。
>>491
だから鎌倉時代の建物なんか何も残ってないの。
焼け跡の壁だけ飾ってあるよww 有力御家人を滅ぼし過ぎて
全国支配のマンパワーが足りなくなっただけだろう
安達が滅んだ時点でザコしか残ってない笑
>>557
武士の拠り所としてはやっぱり土地が説得力があったのだろう
それが武士を滅ぼすわけだが 日本書紀 古事記
ペテンキチガイ系なのをもとにした
クズ系統が多かった
>>539
鎌倉武士は軽騎兵
戦国武士は鉄砲隊
維新志士は軍艦
大陸浪人は騎乗射撃
昭和兵士は特攻隊
全部書いてみたオチがなかった
どれも一長一短 >>450
三浦とか他の有力御家人が健在だったから
承久の乱だって三浦義村の弟の三浦胤義は上皇方だから裏切ってもおかしく無かったのを
恩賞をちらつかせて味方につけて、なんとか勝てたような状態
三浦とかを宝治合戦で打ち滅ぼした頃にはそもそも無理して
将軍なんかなる必要なくなってたし >>552
日本は中華文明圏だから儒教の影響が強い
その儒教の考え方に金、金、金なんて言ってたら人間卑しくなっちゃうってのがあって、金銭に固執するのは良くないって教えの影響がある(特に江戸時代) 次の悠仁君が天皇に即位したら傍流からの即位というコンプレックスから天皇の権威を高めようと何かを起こすかもしれない
>>568
孝明天皇まで中華皇帝のコスプレしてたのに、そんなこと言われましても 武士たちが普段考えてることが腹へったと借金帳消しになんないかな
うちもどっかに夜逃げしようかな 疫病で死にたくない
ってくらいのとこに元寇で完全にとどめさされちゃったからね
防衛戦だから勝っても負けても恩賞なんて出しようがないし
>>434
それも紛争解決のための法典だな。
だいたい法典なんてものは判例の集積が起源で
当時の慣習等を重視して出来たものに過ぎない。
ローマ法典もハンムラビ法典もそう。 鎌倉幕府は微妙だが室町幕府はほぼないな
体制も成立してないし御所の正確な場所も不明
足利氏は貴族化していて中央集権は完全ではなかった
鎌倉は一応政権の体をとっていたが
それは結局元寇のためなんじゃないかと思う
元寇の際に課題が大きすぎて朝廷も他の者も全て鎌倉に丸投げした
そのときに鎌倉政治が確立したんだと思う
滅亡のきっかけと成立のきっかけは同じものなんでは
日本は明らかに中華文明圏
ただ島国で大陸から離れてたから誤解と緊張感のない緩さからちょっと独特になった
政府とゆうより今でいうヤクザみたいな感じだと思うけど
有力御家人を滅ぼしてしまった北条が
一族を全国に配置して支配しようとした
この体制が不徹底で不満が大きかったのだろう
誰かがミコシになれば簡単に滅んでしまったのも納得できる
朝廷というのも幕府の一つ。
皇室というのも将軍家の一つ。
1192年以降、天皇は関西の1地方大名に過ぎなかったんだよね。
こんなどうでも良いスレに熱心に書き込むバカがいる限り日本の将来は暗すぎるな
大河ドラマ 太平記に出ていた小田茜は凄くかわいかったな。
毎回ドキドキしてみてた。
>>572
室町時代は銀閣寺や金閣寺など現代に伝わるものがいっぱい残っている。 元寇が鎌倉幕府の支配体制を強化したとも言える。
つまり危機に臨んで団結。
九州を襲った蒙古軍を、東国から馳せ参じた武士団が駆逐。
これが誰の目にもわかり易い武士(東日本人)への畏怖と憧憬になった。
元寇が徳川三百年の泰平の礎と言っても過言じゃない。
今でも西日本では、東日本人を防人として崇める気風がある。
北条氏はあれだけ低い官位で日本支配し続けたのが日本史では異例だよな
初めて逆賊、朝敵になったのに返り討ちにして朝廷を屈服させたし力が全てで官位なんかどうでもいいやって感じだったんかな
>>1
この「悪党」っていうのが良くわからず、日本史に嫌気がさした 学校で習う歴史で面白そうなのがこの辺だからな
逆に、近代化以降はおざなり
大河の太平記でなんで途中からましらの石出てこなくなったん?
>>7
母方が鎌倉で子供のころからよく遊びに行ったが
ナメクジのデカさがすさまじくて泣いたわ >>584
官位というものが、既に京都地方限定のオナニーだったんだよ。
承久の乱で、東日本が西日本に据えた制裁は関ヶ原以上のトラウマ。 >>26 >>1
吉村は、菅官房長官に、マカオ疑惑を
打ち消してもらったり
検察庁改正法案に賛成した
安倍ポチだよ。 後醍醐天皇を流罪中にさっさと暗殺しとけばどってこと無かったのに。北条サイドは優し過ぎる。
>>421
イタリアの英雄達を数々取り上げている塩野七生先生が織田豊臣徳川の3人に匹敵する英傑として北条時宗を挙げて彼の物語を書いてみたいとエッセイで述べていたな 東京政府はなぜ滅亡したか
1)コロナ襲来で、医療関係者たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、政府への信頼を失った。
2)官僚たちは、汚職の繰り返しで権限が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、増長していった。
3)都内やその周辺で、「アベサポーター」と呼ばれる新興支持者が、善良な国民に抵抗するようになった。
このような動揺を鎮めるため、安倍氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます国民の不満をつのらせ
今こうして朝廷(皇室)に権威を見出そうとする人が一定数いる。
それは戦前教育(皇国史観)の残滓なんだな、と感じるよね。
幕府へのクーデターを成功させた薩長が、西日本主体の権威を欲した。
そこで千年前に歴史の舞台からサルベージした皇室を利用。
今の歴史観は、それに沿った人工的な概念なんだよ。
鎌倉幕府崩壊から南北朝の動乱は面白い
足利も後醍醐もキャラたってる奴が多いし
>>591
承久の乱のときも後鳥羽上皇とかは流罪にしたから、それにならったんかな。 >>74
天皇が重要じゃないの
天皇制という似非神話に基づいた人民統治システムが重要なの
そういう人たちにとって天皇は飾みたいなねのだから犬コロでもいいんだよ実は
ただそのシステムを利用して自らが権力を持って独裁したいだけだからね >>593
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が鎌倉時代の人だな
ルネッサンス以前に生まれちゃった近代人 とりあえず、
日本人として
最低限の教養として
後醍醐南朝の血を引く
長州田布施出身の
大室寅之助が
真の明治天皇だったという
事実は
知っておいた方がいい
>>74
バカだなあ
権威と権力を分離するのは優れた国体維持方法なのに >>584
征夷大将軍が事実上の一国の支配者としてはあり得ないくらい低い官職だからな。
源実朝なんて従五位下で将軍だ。
それと比べて見れば北条の官位も別に低くはない。 >>10
鎌倉に1度行ったことがあるけど
男も女も気位が高そうで武士みたいな感じだった >>603
サヨクは平等といいながら
独裁者望むから
自分達は良い独裁者 >>299
なんでやたら長文で地名ばかり書いてるの? >>583
同時に労役に対する褒美がほとんどなかったことによって一気に北条政権の求心力が落ちて
源直系の足利尊氏の勃興に繋がるから皮肉な話だな 新田がぜーんぶ燃やしちゃったから鎌倉は世界遺産になれないというw
木曾義仲もそうだったけど源氏て野蛮なんだよね
>>591
当時の北条家を影から支えていたあまたの僧侶達から糾弾される事を恐れたのだろう
執権北条義時は後鳥羽上皇の配流の処分について最高の僧侶と謳われた明恵上人から激しく糾弾され上人に許しを乞い彼の弟子となる事で生涯を全うした >>591
日本で天皇殺害したのは蘇我馬子だけだし
蘇我家=逆賊と後世まで非難され続けてるからな なんで皇居に南朝側の楠木像が立っているか?
つまり明治以降の皇室は南朝系だという証拠だよ
日本人はみんな騙されている
明治テロリストの捏造した歴史に
>>599
その通りだね 彼の言葉で残っているけど早く産まれすぎたのかもしれないな 摂家将軍と北條得宗家だけで150年くらい持たせたのは
ある意味で成功の部類
>>131
安土は城は灰塵だけど城下町は移転です
近江八幡が安土からの移転
こういう近くに街を作り直すのは良くある
浅井の小谷→長浜
朝倉の一乗谷→福井 >>606
天皇制を散々政治利用してきたウンコヨクが何を言うw >>583
通説の真逆だなそれ
御恩と奉公のバランスが崩れて鎌倉幕府崩壊の直接原因になったと見るのが普通なのに
鎌倉幕府に対する忠誠心なんて元からさして無いよ
自分たちの利益を代弁してくれるから従っていただけで
実態としては御家人連合というか封建領主連合みたいなもんだったろ このスレは北畠顕家の命日に合わせて立てたのか?湊川に合わせたのか?
>>586
近代化以降はおざなりなのは
今ある団体や個人に関係があるからわざと教えないんだろうな
都合が悪いことばかりだから >>157
六波羅滅亡もそうだよね
探題は自分が腹切るからこのクビ持って敵方に投降しなさい
自分は名のある武士だから恩賞もらえるよ
自分が君らに報いれるのはそれぐらい
つって真っ先に腹切ったのにその場にいた200人以上が
全員後追い自害した
戦国なら絶対だれかクビ持って投降したと思うw >>615
カルト日本会議メンバーは信じてるよ
きちがいなので ちなみにさっきググって知ったんだけど、北条支配の頃にも
ちゃんと征夷大将軍はいたんだな。
>>601
代々北条氏と婚姻関係結んでたから信頼できる同盟者と思われてたんだろ
尊氏の正室も北条氏だし 鎌倉幕府をぶっ壊した中に新田義貞と言うのが居た。
この新田義貞の配下に正田(隣の舘林が本拠地)と言うのが居た。
ちなみに新田義貞は源義貞。つまり源氏。
正田は上皇后さまのご先祖様。
新田「ねぇねぇ正田さんさぁ」「正田さんちに年頃の男の子が居るよね」「ウチ、ちょっと行き遅れのが居るんだけどどう?・・・」
「地元ではどっかで血が入ってるよね♪」ってことになっている。まぁそう言う事だ。
>>615
継体天皇の即位で王朝が交代したと自分は考えている >>629
京都から貴族の誰かをもらってきて将軍に仕立て上げる感じ >>506
太平記めちゃめちゃ面白いやんけ
今の予算のないしょぼい大河と違うのは
馬の数
子役ですら当然のように馬に乗る贅沢さ
尊氏の真田広之なんか自分で流鏑馬までやる豪華なアクション >>609
元寇の恩賞問題は戦後の内紛(霜月騒動)に負けた側の所領を配って解決している >>485
北畠顕家は凄いよね
10代前半で公卿になり16歳で従三位陸奥守として多賀国府へ赴いて南部、伊達、結城などの武士を統制し陸奥を鎮定し従二位鎮守府大将軍となる
勅命により足利討伐の為に西上、途中で関東の足利方を一蹴しつつ秀吉の備中大返しを遥かに凌駕する行軍速度で京へ攻め上り尊氏をフルボッコにし九州に落とした時が18歳
命により多賀国府に戻る途中で関東足利方を軽く蹴散らす
陸奥不在中に足利方の斯波の煽動で反乱勃発してた陸奥を再鎮定中に尊氏が再起し九州より大軍で東上してきた為に勅命により再び西上
途中で足利方関東総大将の斯波率いる足利の大軍を大破し鎌倉を陥落させ、そのまま西上し尊氏本軍と再び激突
同時に尊氏を攻めるはずの新田が越前に引きこもりの為に陸奥からの強行軍と関東での戦いによる疲労のあるまま単独で尊氏軍と戦い初戦は勝つも軍の疲労と兵力差で徐々に追い詰められ戦死…享年20歳
公家ながら10代で武士の南部、伊達、結城を統率し源氏棟梁の尊氏と互角に渡りあったのは驚嘆すべき 後醍醐天皇が悪いのかよ
タケカワユキヒデが駄目なんだな
>>168
北条家の被官て御家人や名家の家もいるのよ
諏訪氏なんかそうだろ
それを差し置いてただの小作人が大きな顔できないよ
義時が実朝に願ったのも家中に御家人と伊豆以来の家人が
混在してたからだろう
そいつらの中で一番でかい顔するのが頼綱の家で
平資盛子孫てあながち嘘ではないと思う >>636
武士の時代描くのに馬出てこんかったら
始まらん
太平記の時代は予算があるから全員が馬乗ってる
麒麟なんか1頭の馬を引くだけというショボさ
比較にならん しょっぱなから政子が自分の子供ら粛清しまくったせいなきがするがw
川崎だけど鎌倉幕府を倒した新田義貞の通った義貞道とそれを倒した尊氏道が通ってて面白いよ。義貞道は是政で多摩川を渡河し、尊氏道は京王で渡河。
尊氏道は読売ジャイアンツとヴェルディの本拠地を通り、頼朝が落馬した橋を作った稲毛三郎重成の小沢城ってのも興味深い。
>>632
おー、同志。
崇神(神武)
応神(仁徳)
あたりと、あと天武の時にも代わってるけど、天武系は多分光仁で
継体系に戻ってる感じ。 >>636
馬があればいいってもんでもないけど
麒麟は必要最低限の場面づくりすらできてないよね
合戦のはずなのに道三が単騎で突撃とか
一騎打ちも役者がヘタクソで馬に乗りながら出来ないんだろうけどわざわざ降りて戦うし
その後も光秀が単騎でウロウロしてるし
合戦シーンとして成立してない ドラマに馬出すのはめちゃカネかかる
また役者が乗馬の訓練受けてないとあかんから
短期間ではでけへん
歴史ドラマの質の低下、ショボさの象徴が馬の数
今BSで再放送してる名作太平記と
膝たて座りキラキラ衣装のバカ大河のウンコ麒麟との差はここ
>>612
室町時代までは五位の将軍は珍しくない。足利義栄なんて従五位下で終わっている。 織田は福井の忌部氏の出身、神社の神官の出らしい
北条氏は平氏
徳川は源氏で例えば源家康と署名することもあったらしい
>>643
生田緑地付近に住んでるけど、
新田義貞はグンマーの奥地から戦いながら鎌倉まで移動ってすごいよな。 >>629
北条家が自ら将軍位に就任するがどうかは当時内部でもかなり議論されたみたいだけど 藤原定家 家隆等に代表されるように文化思想は公家側が圧倒的優位であった
彼らを無視する事は北条家は到底出来ず公家と融和して文化を取り入れていく為に将軍を京都から迎え公家と協調して政治を行っていく決断をした北条家のやり方は賢かったと思う >>615
おれは信じてるよ
別に日本会議じゃないけどさ NHKは過去最高の収入があったはずだが
そのお金はどこにいっているのだろう
>>644
高校の歴史の先生が畏れ多くも継体天皇の事をボロクソに言っていて(何処の馬の骨とも分からない人物を天皇に祭り上げて·····)と言っていたw
社会人になって色々調べてみたけどやはり継体天皇で王朝が交代したと思わざるを得ないんだよなあ >>645
太平記だと
根津甚八と真田騎馬で一騎打ちしてたな
腰痛もちなのに根津さんw >>295
八幡太郎に兵法を教えたのも大江氏(毛利家祖)と言われてるね >>182
北条義時が承久の乱で上皇3人と皇子2人配流して天皇は廃位
そんで武家政権が実質支配者になったけど院政は続けさせて朝廷に
公家関係を治めさせた
その体制下で世の中が安定して武家政治の理想とされてさ
足利尊氏も義時泰時父子の政治が理想と建武式目に書いて目標にした
家康はそのあたり詳しく勉強して一番安定するやり方選んだんだろう
家康は合理主義だからな
ちなみに庶民たちには北条泰時が定めた御成敗式目がまだ使われてたらしいw >>654
継体が別王朝なら大伴金村がなぜあんなところっていっても福井だけど
からわざわざつれてきたのかよくわからない >>654
あいも変わらず継の字だからか
イメージ戦略しかないのな
継の字ではつなげたのかどうかなんて分からんよ >>650
グンマーから平野のへりをまっすぐ南下すれば鎌倉に着く。
軍隊を連れて大きな川を渡るにはその方が楽だった。 太平記は
全盛期の沢口靖子
サンタフェ直前の宮崎りえ
男装させられた後藤久美子
の美貌も味わえる
キラキラ衣装はバサラの佐々木道誉という必要なところだけで
全員キラキラ衣装のバカ大河の麒麟と大違い
>>665
その理屈は成り立たない
安閑、宣化は即位している >>107
あれ、元はNHKの「みんなのうた」でかかってたんだよな 北条氏は自害なんてせずに全国各地に散らばってゲリラ戦するって発想はなかったのかな?
そもそもボロクソに言ってるが根拠なら
サヨクが昭和天皇、明治天皇、次次天皇、のことボロクソに常に言ってるじゃん
仕組みに欠陥があっていづれは行き詰まるはずのやり方だったってだけ
>>652
万世一系と言うけど
朝鮮征伐で有名な神功皇后は旦那の仲哀天皇が死んで1年以上経ってから
応神天皇産んだと古事記に正直に書いてある
応神天皇誰の子やねん
とみな思うのを忖度するのが
日本の和の精神 >>550
衝撃だな
子どもに聞いたら1185だった
親世代は1192 >>645
戦国時代は馬から降りて戦う方が多かったんじゃないの >>672
そこを疑われてるのは知ってるけど
その相手と目される人もつながってんだよ
その人も天皇家系 北畠顕家は何なんだと
あの時代ですでにWW1後期における突破浸透戦とWW2における電撃戦をやってたという
俺は天皇の中では崇徳と後白河とこいつが一番好き♪w
今思えば大河の太平記って登場人物がみんな主役みたいなドラマだったよな
尊氏、後醍醐、高時、長崎、顕家、新田、楠木、柳葉敏郎、宮沢えりなど、なんで最近の大河は主役ばかり目立ったものになってしまうのか
>>672
そっちの話が盛ってるだけじゃん
神功皇后頑張ったってだけ
王朝交代なら大伴金村がわざわざなんでえつのくにからつれてきたんだよ >>666
三枝成章の太平記のCDの表紙は真田広之とその三人だね。 >>672
まあ、そもそも仲哀天皇や神功皇后が実在したのかってところが
怪しいんだよなあ。個人的にはそのあたりの人は九州の(小国の)
豪族だったんじゃないかと思ってる。 >>674
自分の立場を理解している点では高時の方が数段上だろ でも滅びなかったら足利尊氏とかも出てこなくて
戦国時代や江戸時代も無いつまらん歴史になりそう
>>336
いやあ「いざキャバクラへ」とか、
ベタなネタやん 滅亡の原因は飢饉でしょ。
鎌倉時代は貧しい時代だった。
>>675
1185だとさ、江戸幕府も関ヶ原で東軍勝利で1600年でもいいと思うんだよなぁ >>683
神功皇后は実在しないなら、九州各地に事跡残し過ぎなんだよな
さすがに盛ってる部分があるのは否定しないけど >>615
それも実態として血筋が途絶えていないかどうかはどうでもいいんだよ
そういうストーリーが出来てるという事が何よりも大事でそれが万世一系の本質だから
皇室なんてそもそもが畿内勢力を簒奪して成立したんだろうし一度ならず途絶えてるだろ
「継体」天皇なんて名前からして実は断絶したって臭いプンプンするじゃん せっかく元寇退けたのに潰れた鎌倉幕府
しかも近年の研究では、本当は通商を求めただけで属国になれとは言ってなかったという
悲しい色やね
>>693
1ビット脳ww
人は物事を1つしか考えないと思ってる最近多いタイプ 信長の野望が人気になって中世日本史の武家や朝廷の立ち位置がゲーム的に固まってしまったから
日本史好きなのに太平記や源平の時代の武家・皇室の立ち位置にピンと来ない人が多いんだよな
掘ってみればおもろいんだけどな
入り口としては吉川英治や北方謙三の短編があるぞ
そっから入って調べてみれば日本おもろいってなるぞ
>>1
どっちかというと清和源氏の名門である、
新田氏を冷遇したから。
>
1180年(治承4年)、伊豆に流罪となっていた義朝の子源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となる。
平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。
義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。
その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。
一族の中には、甥・足利義兼や子・山名義範、孫・里見義成など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。
頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。
義重は頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。
その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録はなく、
義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ義重がそれを拒否したため頼朝から勘気をこうむったと伝えられている(『吾妻鏡』)。
1221年の承久の乱にも惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。
これで新田氏と支流の足利がキレた
当たり前。天皇から「夷狄を払え」が命令でまだ解かれてない > 蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
こういうの筆頭に挙げちゃう時点で歴史学者ってアホだなぁって思う
自分たちの社会の存亡の危機に恩賞も糞もねぇっての
>>695
その時期の有名な小説が無いのが痛いな
故に名前聞いても、あーそんな人居たねで終る 足利義満が南北朝合一で
南朝の後亀山天皇らを京都に迎え
三種の神器を北朝側に取り上げた
南朝が主張してた譲国の儀もなく
後亀山院は不登極帝(即位しなかった帝)扱い
南朝側の貴族はみな朝廷に戻れず四散
両統交代での即位の約束も反古
で後亀山院がまた逃げ出し、後南朝の騒乱につながるけど
もう歴史の教科書には載らん扱い
>>389
でもなあ
見てると北条ぐらいしか政治できそうなのいないよ
御家人は腕っぷしは強くてもそれだけって感じだし
実際評定衆に任じられても辞退する奴多いし
長崎や足利新田が無能と言えば無能だがあれが普通だよ
北条がいたのが奇跡的
いなかったら治承寿永から戦国時代までずっと戦乱だったかも 疫病、天変地異、飢饉が政権が倒れる節目。
今だって、コロナ疫病で知事が台頭して安部内閣支持急落してるでしょ。
というより、反政権側からしたら、
疫病、天変地異、飢饉の混乱が絶好の政権転覆の好機なのかもしれん。
村同士で戦争してたとして
@他村を襲撃してあれこれ奪ってみんなでウハウハ
A他村に襲撃されて防戦したけど利益が何もない
Aで「利益ないのに怪我した、もう村長に従わねーよ」とはならんだろ・・
>>613
まだ大王時代で権威も確立してない時代に政争で一人殺した(しかも相手も殺る気マンマン)だけで延々逆賊もかわいそうだな >>697
いや見てたらわかるだろ。今の日本も同じだ
蒙古(コロナ)対策はわかるから協力する
それはそれとして恩賞(給付金)よこせ
蒙古(コロナ)がいなくなった(収まった)なら討幕(倒閣)するぜ 武家で源氏長者になったのは足利義満だから武家政治がはじまったのは足利義満からでいいよ
>>165
信長がそれやろうとして
光秀が討ったんじゃねーのとか
妄想してる 結局、「自分の財産をゼロにしてくる相手と戦うこと=結果としてプラス」って観点が抜けてる
だからこんな頭でっかちなバカ理論がまかり通る
> 多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
>>709
織田家も信長も朝廷への寄付金凄いよ
光秀は逆に天皇家嫌いじゃね? >>648
信長は平氏名乗ってなかったっけ?
徳川は新田義貞の傍流で源氏てことにした >>1
無礼講(乱交)のおかげだろ
それと楠木正成がウンコを投げたから >>704
上杉達也のライバルとして子孫が有名じゃん >>710
幕府や天皇などトップの支配層は「自分の財産をゼロにしてくる相手と戦う」だけど
地域の村々までモンゴル人がやってきて細かく支配なんてあり得ないんだから
国人レベルの支配層からしたら使える相手が天皇や幕府になるかモンゴル人になるかだけの話だよ
実際支配の仕方がアッサリしてたからモンゴル帝国は下り坂になってから凄い速さで世界から影響力を失う >>704
新田のどこの末裔かでも違ってくる
里見、山名、大館、岩松、田中など室町幕府で生き残っているのもいるわけだから 178 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 22:54:20 ID:epWRnYVI0
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変?」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。
193 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 23:05:47 ID:epWRnYVI0
>>188
いや、マジで。
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。 >>711
本能寺で信忠が籠ろうとした二条御所も信長のプレゼントだしね >>672
それ助っ人いくぞ!と船だして経由地の道後温泉で湯浴み中に百済陥落の報を受けて引き返したマヌケ? >>583
>今でも西日本では、東日本人を防人として崇める気風がある
ホンマに? 北条氏の集団自決って知らなかったわ
室町幕府や江戸幕府ではこういうことは無かったよね
やっぱり皇室を敬愛とか、天皇を崇拝と言ってる層は関西地方に偏ってるね。
明治政府のステマ虚しく菊の権威とやらは全国に浸透しなかった。
>>719
朝廷でもお家騒動があるわけだから、誰に加担しようとしたのかで変わってくる >>672
神功皇后って卑弥呼(的な巫女、宗教王)だと思うんだよね。
神がかりして宇佐神社で三韓征伐の成功を占っていたら夫の仲哀天皇が
ぽっくり急死していたという逸話からも神功は女シャーマンでしょ。
太古の日本は母系相続で女系で権力をつないでいたけど、天皇制が確立すると
男系相続に変わってしまった。
その辺の矛盾を整合性をつけるために石で腹を冷やして出産を遅らせたみたいな
バレバレの話にしたと。 >>725
明治政府は幕臣けっこうかかえているしそもそも、御三家ですら幕府を裏切ってる >>725
滋賀県米原の番場峠での六波羅探題の集団自決は日本史上最大の集団自決と言われている
関東人ばかりの集団が遠く離れた関西で孤立し、さらに敵の大軍に包囲されたのだから気力が尽きたのだろう >>716
いや、相手は言葉も通じない異民族なんで >>723
東日本人は体格に勝るし勇気あるからね。
根性の無い西日本人にとっては憧れの対象なんだよ。 >>730
官僚飲み込まないと機能しないってのを理解してたのは凄いとは思う
一見簡単に見えて、追放や殺害してボロボロになる国は多い 北条も後北条も平氏。
信長秀吉家康がクローズアップされるけど、
戦国時代は北条早雲の下克上から始まり、秀吉の小田原征伐による北条滅亡で幕を下ろした。
北条は戦国時代を語る上でキーポイントなんだよ。
清盛、北条、織田、後北条。
平氏は革新的なことをするな。
支配ほど難しいものはない
政治に支配は無理
一歩抜き出た世捨て人がやるもの
>>717
どこなんだろうな
名字はまんま新田、家紋も丸一だよ 東照大権現が皇室を完全消滅させてたら、明治維新は無かったし太平洋戦争も無かった。
歴史のIFだが、徳川幕府は後世に多大な禍根を残したね。
>>720
これ子供の頃よく言われたわ
隼シュート打ってみろって >>725
あの時代はみんなそうだよ
ただ他の家だとどっかが分裂して敵方にいたりする
平家も平頼盛のとこは離脱したしな
北条の場合は一族一緒にってんで目立ってる 鎌倉は軍事拠点ってだけで、大した文化もなかったから、いずれ滅びたと思うよ。
>>東照大権現が皇室を完全消滅させてたら、明治維新は無かったし太平洋戦争も無かった。
歴史のIFだが、徳川幕府は後世に多大な禍根を残したね。
家康のころの天皇は ほとんど存在価値がなかったのだろう
彼は信長と反対で 旧秩序を尊重する政策
文句をいうなら へんな解釈した 光圀 と へたれ慶喜だな
>>1
>なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのか
源氏から速攻で北条に乗っ取られたけどね ずっと前になんかのスレで「血統的には濃さからいうと北朝って正統なんか?」
みたいなレスしたやつに「なんでもかんでも自分たちの半島の話題にもってくキチガイ」
つうレスがついててワロタ
創業時から関東平氏に担ぎ上げられてだし、源家は身内同士の殺し合いにオカンの実家も殺しにかかってくるしw
徳川が265年も持ったのは、制裁とその子を人質に取ったからだがな。
まさか20世紀にバンドとして自分の名前が使われるとは
黄門は自分も家康の孫なのにあいつは将軍で俺は水戸35万石しかないんだ(サバ読んでる実際は28万石)
そうだ俺たちは天皇の臣下であって将軍の臣下じゃないんだ 将軍家とは天皇のもとに同列の立場だ 水戸学として子孫につたえていこう
という色々拗らせてたアホボンだったので
高倉健は北条氏の子孫
ほんとは健さんが北条義時やればよかったのさ
あんな感じだろ
あんまおしゃべりでなく真面目な空気でも結構お茶目
>>750
新羅三郎と悪源太と石和五郎の3人がひどすきたな 天皇の臣下であるのは間違いないだろ
名目上ではあるが
>>730
御三家が裏切ったのは大体、吉宗のせい。
本来、尊皇の水戸徳川家の血からから将軍は出ないように家康がしたのに、家康の西国包囲網などの対策を全部おじゃんにしたのが紀州の吉宗。 源頼朝の墓に行ったことあるが、すげえ寂れてたな。
鎌倉市の鶴岡八幡宮の隅にあったと思ったが、大河ドラマかなんかで注目されたのか、そのグッズを売っていたような出店の建物の残骸の影にあった。山のキワの薄暗いところに。酷いもんだと思った。
もう20年以上前だな。
>>605
東京の引退した金持ちが多いからだろうね
あんな魑魅魍魎が跋扈していそうな土地に自分は住めない うちのすぐそばに鎌倉街道が通ってるけど軽トラ一台通れるかどうかの砂利道なんだけどw
でもそれでもこんな埼玉の北部まで整備してたんだから昔の人は偉いよな
>>1
天皇制に都合が悪いから隠されてきた真実か・・・ 元寇への恩賞ってのが甘えすぎなんだよ
領地支配を公認してやってることが普段から与えてるご恩なんだから
いざというときは働けと。
普段給料貰ってて戦争になったら逃げる自衛隊員がいたらキレるやろ
>>760
草燃えるとか義経とか大河あったけど。
20年前に近い大河なら義経か。 隠岐に流さず、始末するか
むしろ監視しやすい鎌倉へ幽閉すりゃ良いのに
元寇への恩賞は、北条氏が持ってるやつを吐き出すか
蝦夷地や琉球などを侵略して作れ
俺はマジで思うのは
今回のような災害は天皇の守備範囲なのに
帝の声が全く聞こえて来ない。
非常時には天皇は政治に口出しして良いんだよ
奈良南部にいくと後醍醐天皇を尊ぶ風潮あるね
南朝の地だなって実感したわ
>>659
個人的には伝統だけあるモンドセレクションみたいなもんかもね。
権力者の都合のいい名誉を与えてくれる機関であれば何でも良かった訳で、当時はそれが京都にいる朝廷公家連中だっただけ。 >>506
うん、最初にキャストが発表された頃には、トレンディ大河とバカにされていた
ところがいざ始まってみたら重厚な内容でだんだん評価逆転
今では歴代大河No1とも言われるように >>697
鎌倉幕府の土台である御恩と奉公ってそういう事だもんよ
鎌倉時代は現代人がイメージするような統一状態じゃない
三国志で言えば呉の国みたいな豪族連合に近い
きちんと恩賞払ってくれて武士の利益を代弁してくれるから幕府を認めているに過ぎないんだから 平時の政治を安定させるには、武力だけじゃ無理で、権威が必要だったんだね。
「文化装置」といってもいいが、田舎の武士だとそれがない。
そうなると、やっぱり朝廷に頼るしかない。
統治には賢い方法だと思う。
>>598
穢れを押し付ける役どころだね
今は天皇の代わりにアベ()だけど
増税だの国民に都合の悪い法律押し付けまくっても
政権交代したらみそぎが済んだことになるシステム 原理主義が間違いの始まりなんだよ
足利尊氏は原理主義がないから勝ったんだな
後から見ると原理主義視点で気に食わないと思うのが居ても
同時代の人間は原理主義は迷惑千万なんだよ
>>776
平家が滅んだ時もそうだけど日本人は「空気で動く」からね
どんなに強いリーダーでも実力だけじゃ認められないし周囲が動かない
権威ってのは言い換えれば大義名分であり「空気」を動かす力がある >>780
実際はともかく、とりあえず立派であれば虚構でも必要ということだね。
文化ってそういうもんだし。 >>780
それはただの弱い者イジメ
落ち武者狩りみたいなもの 後醍醐天皇は熱心な真言立川流の信徒だった。
そう、あの儀式に性行為をも用いるというアレw
吉田兼好は、徒然草にて
後醍醐天皇の建武親政をボロクソに書いてたとの噂があるけど
そこには真言立川流にどっぷり嵌まってた事への非難もあるのかもね。
>>751
家康秀忠家光と取り巻きがちゃんと昔の歴史を理解してて
その轍を踏まないように諸制度を整備したのはすごいな 共産主義国家が短命だった原因の一つに、権力(暴力)だけあって権威がまったくなかったことだ。
権力のタガが外れると、あっという間に崩れる。
中国は昔から易姓革命の国だから、革命による王朝交代が普通。
中国共産党って、あれは王朝と考えるべき。
鎌倉幕府が滅亡した頃が実は幕府の最盛期(安定期)だったのはナイショな
>>749
まあ半島は同氏性婚に関する慣習的抵抗感を遺してたり、嫁は飽くまで別氏姓で生涯終えたりと相違点多いから。
朱子学イデヲロギーを用いた後醍醐天皇の諸業に何だか抵抗感あるのは水戸学の弊害かねえ?
真言の修法やらにハマり、ワイルドパーティで謀略を練る背徳の帝王とかキャラ付けしたら漫画には向くわな。 >今年3月29日、63歳で亡くなられた山本博文氏
えーーーーー、知らなかった;;
テレビとかよく出ている先生だったのに…
ご冥福をお祈りいたします。
朝鮮と違って、日本の朱子学なんて江戸時代から始まったにわかづくりのもの。
それより前は、禅僧が趣味がやってた程度で、一般社会にはなんの影響もない。
うるせえこと言わない足利尊氏は同時代の人は、みんなホッとしたと思うんだよね
後から「歴史」を見てる人には怪しからんと言われてもさ
>>315
こいつの言ってる一連のレス連投ムチャクチャすぎて笑えるな
ようするに維新政府とその子孫の自民様が定めた南朝正統に
イチャモンつけるマンは何でも認めないってやつだな
大体時の政権が天皇を好き勝手に〜とかアホじゃないのか
そんなもん蘇我氏や物部氏に藤原氏に平家に散々しゃぶられて
好き勝手されてきてるやん。むしろ皇室なんか藤原朝の隠れ蓑で
男系絶対視にしとけばどの天皇になろうとも藤原の血を入れときゃ
何とかなるという不比等の策謀やん。日本書紀編纂にしても 神話みたいな時代を除けば後醍醐が天皇界一のスーパースターになるのは確かだな
後醍醐が別格のスターで次点が天智、天武、推古あたりか
長いスパンでみたら、明治天皇だろう。
昭和天皇はどうしても日本が海外戦で大敗北した最初の戦争時の天皇というイメージがつきまとう。
いざという時に御家人は皆キャバクラに行っちゃってたからな
>>788
俺も最近それを知って驚いた
ついこの前まで『先人たちの底力』に出てたのにな
残念だわ
ご冥福をお祈りします >>794
近代はNGで
だいたい明治天皇も昭和天皇も実際に権力振るった訳じゃないし
クーデター企てて失敗して島流しから再起に成功して政権奪取するも今度は自分がクーデーター食らって朝廷を二つに割って・・・・・・
こんな波乱万丈な天皇は居ないw スーパースター??
教育ってのは凄いなw
ここまで洗脳できるんだw
古代より天皇=国民の誰でも知ってる有名人ってかw
ただの神社の神主がか?w
足利尊氏と楠木正成は何度も和睦しようとしてんだけど
周りが許さないってのも面白いよなw
>>208
幕末異常なまでの尊王ブームを起こるが、あれは朝廷権威の復活というより
南朝の復活ではないのか?と思う面がある
足利三代木像の斬首事件があったり、慶喜は自分が足利尊氏になるのを恐れた
日本史上最大の朝敵足利尊氏、日本史上最大の犯罪者扱い
幕末の尊王は、反徳川の人らが朝廷を神輿とした背景がある
「朝廷vs武家」討幕派はこの図式にし徳川を倒し勝利した
朝廷と武家の戦いは平将門など武士の反乱、源義仲と後白河法皇の戦いなど朝廷が常に勝利したが
承久の乱、南北朝の争乱で朝廷は負け衰退した
承久はあっさり終わったが、南北朝は長くドラマが多い
勤皇志士に南朝視点で南北朝を語れば、奮い立つ思いを掻き立てられるもんがあったろう
こうして日本史上最大の朝敵足利尊氏が誕生していく
勤皇志士がいつしか足利を徳川になり替わり倒幕の機運が高まっていった
南北朝時代は持明院統の北朝と、大覚寺統の南朝の戦いは名目上で
実質は朝廷と武家の戦い、持明院統は朝廷を裏切り武家の傀儡となった裏切り者
(この解釈では逆に、楠木や新田も武家を裏切った人達になるが)
南朝視点で朝廷を敬い、足利を徳川と見立て倒した人達にとって
南朝北朝どっちが正統なのか?の問いは、感情的にどうしても南朝になってしまう
正しい採決をし南朝を正統というより、三種の神器を持ってる事を大義に感情的にそうしたのだろう
南朝北朝和平後、不満を持って後南朝として活動したが
応仁の乱で西軍が旗頭にしたのを最後に、南朝は歴史から埋没した
南朝は肉体は滅んだが、精神は滅びず幕末になって復活し
後醍醐天皇があれほどまでに憎んだ武家を滅ぼす原動力となった 崇徳上皇は島流し。安徳天皇は入水自殺。
非業の死遂げた帝多いけど、吉野山中でなんとか天寿まっとう。
あれだけ敵に囲まれても南朝軍が守ってくれたというのは、人間的魅力あっただろうね。
応神は武家のシンボルだけど
応神は天皇というより将軍だったんかな?
武家がヤマトタケルはたいして敬わないんだよなw
建武ってタケルのダブルミーニングだけど
歴史なんて細かいところは、権力側の捏造が多い、ほどほどに。
あっさり死んでしまうからじゃね?
武士的にあっさり死ぬのは嫌だろ
醍醐天皇「迷惑な子孫だ、おれのイメージも悪くなった」
此頃都に流行るもの、夜討ち 強盗 謀(にせ)綸旨
(二条河原の落書より)
七五調で後醍醐天皇の親政をおちょくったので有名な落書だけど
当時から2ちゃんねらーみたいなノリが通用してたってことだねw
>>811
油断して戦い負傷して、それが元で死ぬからでしょ 国宝建造物数
関東 4(白鳳0 平安0 鎌倉0 室町2 近代2)
東京 2 (室町1 近代1)
神奈川1 (室町1) ←鎌倉時代一つも無し
埼玉 1 (近代1)
千葉 0
近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
滋賀 22(平安1 鎌倉7 室町5 近代9)
京都 51(平安7 鎌倉10 室町7 近代27)
大阪 5 (鎌倉4 室町1)
奈良 64(白鳳25 平安7 鎌倉23 室町5 近代4)
兵庫 11(平安2 鎌倉2 室町2 近代5)
和歌山7(鎌倉5 室町2 )
鎌倉の時代なんて無かった
名称を変えるべき
>>613
>>706
岩倉具視や大久保利通に言うべきじゃない
大久保利通なんて高麗町の人間で純粋な日本人かも怪しい >>812
醍醐天皇だって、実権は左大臣の藤原時平に握られてて
親政らしい事はやってないんだけどね。 >>814
卑怯ものがバチが当たったイメージか
でも天皇はなぜかヤマトタケルを強く推すよね 足利尊氏が変心して鎌倉幕府を討幕するのも
北畠顕家や楠木正成、新田義貞に一旦は大敗したのに勝利を収めたのも
赤松円心が重要な役割を果たしているんだよな
>>381
10年ぐらい前に車で行ったけど陸の孤島だよな >>814
しかも、女子がらみだしなw
(みやず姫に惚れた末、神器=チート武器の草薙剣を彼女の家に置いていってしまったのが敗因) >>381
奇しくも大海人皇子(天武天皇)が籠った後に反乱を起こした場所も吉野だった。
後醍醐天皇がそれをも意識してたのは間違いない。 >>380
後醍醐の生母は後宇多天皇だけでなく、その父・亀山天皇の後宮入りして
寵愛を得た曲者で、祖父帝の覚え目出度く後醍醐天皇が東宮になれたという話もある
ただ大覚寺統は、亀山天皇が寵愛した息子・恒明親王に即位させたかったし
後宇多天皇は息子・後二条天皇の子孫に継がせたかった と倒幕前から分裂していた
更に、後醍醐天皇は祖父帝や父帝の遺言を無視して自分の息子に継がせたい
ならば、まず北条氏と連携する西園寺家も潰して主導権を握らないとならない
それに反北条氏勢が便乗したけれども、最後まで後醍醐天皇の犬でいたのはごく僅か
後醍醐天皇の理想は延喜の治を再びだもの、混乱は続くわな サヨクや朝鮮人には嫌われてんの?
ヤマトと入ってるからとか?
>>823
それは嘘なw
酉の市で有名な大鳥(鷲)神社の起源のみならず
市川猿之助のスーパー歌舞伎など、創作物には事欠かない。
また、元祖男の娘だったりもするw >>295
大河ドラマの太平記には、毛利時親は出てこなかったと記憶してるが
吉川英治の原作には出てたと思う
戦前の歴史観で登場する楠木正成の兵法の師匠毛利時親ではなく
山師のような存在として登場してたかな?
結構昔読んだ本なので記憶が曖昧 >>830
それでも熊襲武は正体が男だと気がつかなかったのだから
立派な男の娘だよw
こと江戸の頃は、男が女を演じる歌舞伎のみならず
創作物でも弁天小僧や犬塚信乃、お嬢吉三といった
女装の名人がしばしば出てくる程の人気だった。 >>786
所有した所領的には北条、特に得宗家の最盛期だと思う
それが倒幕に拍車がかかった部分もあるかと >>831
大江広元の子孫が歴史の表舞台にたまにひょこっと顔を出すのが
鎌倉時代〜戦国時代にかけての面白さの一つだと思う
時代の変化に柔軟に適応した一族の一つとして >>168
足利の家人だった高師直、元は高階氏らしいが
足利は名門なので筆頭家人もそれなりの名門だが
北条はどこの馬の骨か分からん存在なので、その家人平頼綱の長崎も同じどこの馬の骨の存在なんだろうな
織田にも柴田や林や佐久間など、徳川にも酒井や大久保や本田など
家人みたいな代々仕えたのがいたけど
出世し天下取った出家を、傀儡にするようなのは出てこなかったな 三笠宮さま曰く
「うちが天皇をやっているのは(北朝を擁立した)足利のお陰」
>>836
大江広元が武士の時代を作って、末裔の毛利が武士の時代を終わらせる
大江一族の壮大な自作自演 >>838
柴田、林、佐久間って確か父親の代からの家臣じゃね?
祖父まで遡らん気がしたんだが? 家康の家臣って家康の祖父を殺害してるじゃん
彼は存在しない事になってんの?
>>790
尊氏の脚色してもしても漏れてくる人間臭さは
マジでほっとする
欲に塗れたって感じもしないんだよな
なんか超強い武士の棟梁なのに、現代の人間みたいな弱さが随所に見えてくる 尊氏が裏切らなければ鎌倉幕府はまだまだ続いてたのかな?
日本人なら知っとくべきメジャーな天皇
天智天皇、天武天皇、桓武天皇、後白河上皇、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、明治天皇、昭和天皇
>>840
幕末島津は頼朝の末裔を騙ってたから頼朝と広元の末裔ってことで同盟できたんだろうな
鎌倉の頼朝の墓の傍には毛利季光と島津忠久の墓があるよ 北畠顕家が後藤久美子 あれ
ドンパチ切りきられ好きじゃないけど あの大河は
見てたなあ
今の政治も強権をとかいうけど、そうすると滅亡するのが早くなるかもね。
抑えられないから強権を発動したがるわけだからね。
>>852
程度によるのでは
日本の土地の半分が私物化というか私物になることはあり得ないだろ >>403
後白河法皇にも同じ事が言えると思う
後醍醐と後白河、何か似てるんだな
何度失脚しても諦めず復活し、ついに打倒平家・北条を倒す事に成功するが
新たな敵源氏・足利に負けてしまう
朝廷権威権力を高めようと戦ったが、結果は朝廷権威権力を弱める事となった点
日本の組織運営は、トップは何もしない軽い神輿の方が運営は上手く周り
実質指導者は2番手が行う
権威はトップ、権力は2番手
これに逆らい権威だけでなく権力を行使しようとすると
最初は上手くいったりするが、いづれ失敗に終わってしまう
武家政権でも将軍は神輿のような存在となり、鎌倉時代では2番手であったはずの執権得宗家が神輿となり
長崎氏が鎌倉末期には実質指導者となった
足利政権でも3代と6代が、権力も行使し独裁者となったけど、その一代だけで長続きしなかった
現代の総理大臣は何もしない神輿ではないが、実質政治を動かしてるのは官僚
田中角栄のようなのが出て来ても、引きずり落される結果となった なぜもなにも頼朝が馬鹿だったからとしか
身内よりも北条なんかを信用するからそうなった
要するに一族を全国に配置してただけで
支配体制の中身はとっくにスカスカだったんだろう
>>857
リスクが少ない方が自由にできるからかもね
責任は上が取って、実務は下がこなす方が
大きな決断も、筋を通して迅速にできる 富子ちゃんの日野家て東京の日野市もなんか関係あんの?
後白河も後醍醐も自身の軍事力が無い
武家が発言力を強めれば
武家どうしを争わせたところでいずれは武家に食われる
護良親王は足利を警戒し自身の軍事力を持とうとしていたが
後醍醐はこれを遠ざけた
なんな山と海に挟まれた狭い平地に首都が成立したか不思議しかたない。
>>10
源頼朝が江戸に幕府を立ててれば初代で倒されてたと思うよ
諸国を完全に制圧できてない段階では陸の孤島に城を設けた方が絶対安全絶対安心 >>408
例えば田中角栄がタナカでなく、デンナカの読み仮名だったとして
未来の人は田中角栄をタナカと読んでたが、昭和の時代の文献にこんなのがあり
「電中角栄はロッキード事件で逮捕され」「伝中角栄と福田赳夫が争い伝中が勝利した」
もしかしてタナカでなく、デンナカなの?
護良親王を以前はモリナガが正しいと思われたが、後にモリヨシが正しいに変わった
これは上記のような例で、定説が変わったらしい 政治的中心地と同時に
天然の要塞でなければならないからな
新田に難なく攻略されたが
>>867
読み方が分からんのが、漢字の良いところでいい悪いとこだな >>868
新田義貞が攻めこんだ所こそが、唯一守りの手薄だった場所なんだよ。
そこへ行くにも、分倍河原での戦に勝っておく必要があったのだけどね。 >>838
徳川が豊臣っていう主家を傀儡にして食ったそのものじゃん ゲームオブスローンズみたいな残酷エピソードが次々起こっていたんだろうなあ
>>858
自分は革命やってついでに親の仇を果たせりゃそれでいい。あとの政はスポンサー(北条家)がオレ使って好きなようにやればいい
って感じだったのかもね >>868
天然の要塞って基本的に交通の便が悪くなるから政治をするには不向きなんだよな
そういう意味では鎌倉も地方だけど、ある程度両立できたのは奇跡的 >>865
そもそも治水技術が上がって戦国時代以降は安定して住めるようになったって話で
江戸のあたりは荒川とかのせいで洪水頻発のとても住みにくい土地っていうことじゃないか
戦国北条氏の拠点も関東平野の端っこの小田原だし 日本人にはあまり知られていない時代の話しは面白いな。
昔、大河で足利尊氏をやったが、あれも面白かった。
陣内孝則の佐々木道誉が好きだったわ。
天下統一しなければ商業が潤わない戦乱と隣り合わせの不安定な消耗都市になるからな。
秀吉か徳川時代並みに反乱分子に徹底した抑止力を発揮できなければ経済も続かん。
信長は道半ばで滅んだからな
>>876
もともと利根川が江戸湾に流れてたし香取海もあって湿地だらけだしね >>876
それよく言われるけど、東京の東部の低地側の話であって、山手側は問題なく住めるからな。
江戸湊も浅草、品川とならぶ、室町時代から武蔵の水運の重要な拠点で、港町もあり、だから太田道灌が城を築いた訳で。 >>857
後白河は、ただの場渡で幸運だっただけで、
現在は曲者というイメージは否定されてるよ >>1
ユダヤ中キリスト教派だった天皇制を三種の神器を使ってユダヤ人ユダヤ教に戻したかったんでしょ >>434
足利が天下取れたのは、名門だった事が大きく
足利が立てば自然と兵が大挙集まった
尊氏なんてよく天下取れたなと思えるほど失敗が多く
意志薄弱で行き当たりばったり
この性格が後の足利政権にも災いし、個性強過ぎ将軍と空気将軍
両極端な将軍ばかりで終始安定しない時代だった
それにひきかえ北条一族は、それぞれ個性は少ないが安定して優秀な人が多かった
実力の北条、名門の足利、自分にはこんなイメージがある
鎌倉末期は元寇で不満が増え、衰えて滅んだと思われがちだが
北条得宗家は全盛期といってよく、後醍醐側も最初は圧倒的な差で負けていた
ダーウィンの「強い者が残るのではない、変われる者が生き残れる」
の例えのように変われず滅んだ例なんだろう
北条一門には裏切り者は存在せず、一門全滅のように滅んだ
高時の遺児が後に反乱し、途中から南朝になったりもしたが最後は殺され
歴史から北条一門はほぼ完全に消滅した
尾張に細々とした末裔がおり、賤ケ岳七本槍の平野長泰、幕末の横井小楠らが出た
名越の末裔で高倉健、たまに歴史にちょっと名を残してる うちの先祖は鎌倉幕府成立に戦って頼朝の御家人として地頭の職をもらい、後醍醐天皇について鎌倉幕府を倒したまでは良かったが、懐良親王を助けて新田義貞と一緒に幕府方と戦ってたが敗れ、地頭職も取られて没落していった。
徳川も源を名乗ってんだから
源氏征夷大将軍による統治は近世まで続いてた
鎌倉幕府は室町幕府は100年ちょいで地方制御できなくなったよな
250年もばっちし支配してた江戸幕府最強
>>539
昭和の神風特攻隊は、命令を下されたら
心の準備をし、親や知人に手紙を書いたりもしただろう
いざ出陣となった時、上官や同僚に叱咤激励され飛び立つ
しかし鎌倉武士は、さあ行こか!ってノリでモンゴル軍に単騎突入を繰り返す
ユーラシア大陸を蹂躙したモンゴル軍も、こんなキチガイ武士軍団には劣勢
平家を倒し朝廷を倒しモンゴル軍を倒した最強の鎌倉武士団
この最強軍団もキチガイ天皇と、新たな組織悪党の兵法には勝てなかった >>848
仁徳天皇がいない
仁徳天皇は不況の今に通じる経済政策をやったんだぞ >>879
要らないは同意だけど一応直冬に繋がるから全く無意味ではないんだよな
駒と菊丸はどうすることやら >>846
護良親王。
淵辺義博が護良親王を首の首を取ったと
されてるが、首の形相が怖かったので、
捨ててきたというから、それは嘘で、
たぶん護良親王は生かされたはずw >>879
この前の回の藤夜叉はうざかった
見た目が美少女な分駒よりははるかにマシだけど >>894
駒は小学生にも楽しんでもらえるように設定したキャラらしいよ
そのわりに逆ハーレム設定とか乙女ゲーム好きなヲタ女向けキャラになってるけど >>892
単騎突入したのは最初だけで
後は集団戦やってたぞ >>857
よく長崎氏が指導者いうけどさ
あれは得宗が若年だったり病弱だったりして
という事情のせいだぜ
将軍が傀儡で執権が権力握ったのと全然違う
長崎氏が得宗にあれこれ手出しする権力はない >>887
足利も北条の一門みたいなもんだったんだけどな… >>381、>>821
天然の山城みたいな場所だからな
そりゃ、古人大兄の時代から負けた方が攻められないために逃げる場所だから当たり前といえば当たり前だがw >>901
北条も足利は警戒してて代々北条の嫁を嫁がせてたんだよな
尊氏の父貞氏だけ例外で上杉の嫁貰ったらその子が謀反
政略結婚て大事だねw つまりあくまで長崎氏は虎の意をかるで得宗不在では力出せない
執権は全然違うしガチの権力者
将軍いなくても平気で上皇島流したし将軍のクビを挿げ替えてた
天下の副将軍言われたが要するに天下人
>>583
元寇を撃退したのは地元の九州御家人だよ
2回とも鎌倉からの本隊が到着する前に決着がついてる 足利が天下取れたのは名門だったからではなく北条の外戚で
勢力伸ばせたから
新田が北条の外戚だったら新田が天下取れたよ
>>892
しかし、江戸の武士なんてすぐ骨抜きになったのに
武士の野蛮さを保ってた鎌倉武士はすげえな 北畠の東北勢=直前に東北へ下向した関東武士団
筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社)
>>830、>>832
あの話には無理があるよなあ
確か日本武尊って大林素子や狩野舞子よりデカいのに >>907
太平の世が続くと、気の弛みからそうなるんだよ。
鎌倉時代は、何かと御家人同士の争乱が起きていたから戦慣れしていた。 >本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日
東京大学が創ったファンタジー歴史
〇〇幕府
征夷大将軍
そもそも鎌倉の文化財は、1600年に新築した建築物
>>907
江戸の武士も幕末になると侠気染みた切り合いするようになるけどなw
血は争えない >>864
鎌倉の事か?
ありゃ、ヨーロッパの城塞都市みたいなもん(天然の山と海だけどね)
攻める方にとっては極めて難儀な場所であったので平安時代から源氏の根城だった
ただ、一度破られると逃げる場所がないという欠点が幕府滅亡のときに露呈したので、
以後は有力な勢力に攻められたときは放棄して早々に逃げるのがデフォになった 日本のライバル国であるモンゴル帝国の政情がずっと不安定だったのが、
鎌倉幕府に断続的に不安を与え、瓦解に導いたんじゃないかな。
鎌倉幕府が倒れた1333年5月20日前後と見て、モンゴルの新しい政権も
同じ1333年の7月19日に誕生し、その後35年間も続く安定政権?となった。
護良親王の霊所も鎌倉にあったな
鎌倉宮だっけ
天皇直径の血筋だから、神社本庁でなく宮内庁で今も管理しているという。立派な神社だった
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。
とくしまの南北朝
佐々木経高
近江源氏佐々木秀義の次男、母宇都宮氏。平治の乱後、相模国渋谷荘で育ち、渋谷氏の婿となる。
治承・寿永期の平家追討戦で活躍。平家滅亡後、阿波・淡路・土佐の守護となる。
次男・高兼を守護代として阿波に派遣、自らは大番として在京。
承久の乱では朝廷方に加担、敗れて自害(1221年)。
小笠原長清
信濃源氏。承久の乱後、阿波国守護。
子・長経を守護代として阿波に派遣、佐々木高兼を滅ぼす。
長経の子・長房は三好氏始祖。
細川和氏
足利氏族。相模国鎌倉出身。1334年阿波守となり阿波入国。
板野郡の秋月に居を構え、吉野川流域を侵略。
和歌の達人。
細川定禅
鎌倉若宮別当。宮内卿律師。知勇兼備の人。
1334年讃岐入国。阿波の板東・板西を押える。
細川頼之
1362年讃岐にて白峰合戦に勝利、細川一族を掌握し四国平定。
1367年管領。
勝海舟が心服した事でも知られる。
>>906
源氏は他にも武田や佐竹などいるが
最大の権力者北条と深く結び、上野だけでなく三河などにも勢力があり
祖先によって磨かれ輝いてた名門足利
新田の祖先は足利の兄であり、本来こっちの方が少し上だったが
祖先が失政ばかりし、鎌倉末期には足利の家来みたいな存在まで落ちぶれた名門
>>696に詳しく書かれてるな
新田義貞の大殊勲で、足利との立場をかなり縮めたが
義貞の軍にまだ子供だった後の二代将軍義詮が参陣しただけで、兵の数が一気に増えた
惨敗し九州まで落ち延びたのに、ここから一気に復活した背景など
足利と新田とでは当時の武士にとって、名門の大きさに差があったと思う
しかし足利尊氏にとって、自分の存在に取って代わる可能性あったのは新田義貞しかいなかったと思う
それだけに敵愾心も強かった
(弟の直義や庶子の直冬と対立したが、尊氏ブランドの方が上だったんだろうな) 鎌倉末期すごい
天皇 おかざり
将軍 おかざり
得宗 おかざり
執権 おかざり
内管領 実際の支配者
北条時宗が、元寇の後、
高麗征伐を急遽取り止めた事だ。
それによって倭寇が正当化されて、
各地の武士団が海賊化して、
富を蓄えていった。
名和長年も山陰の海賊。
尊氏が都落ちした後頼った
九州瀬戸内の武士団も海賊。
>>838
源義家の四男かなんかが養子入りしたから、男系では源氏だ
本拠地は三河国菅生郷、比志賀郷
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)
【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→
師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)
【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)
※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』) >>873
頼朝存命時に北条氏にそこまで権力ないでしょ 鎌倉時代は実に宗教思想的にみて、日本精神史に前後比類なき光景を現出した。
平安時代の四百年も決して無駄ではなかった。
いずれも鎌倉時代のための準備であった。
こんな根蔕があったので鎌倉時代の春が来た。
ここで美しき思想の草花が咲き出した。
そして七百年後の今日に至るまで、それが大体において我らの品性・思想・信仰・情調を養うものになってきた。
(『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
>>918
東国武士の頭が逝っちゃってるのはそうなんだが、
南朝は何度も何度も京都を落としてるけど
京都を守るのは基本的に無理で、京都に拘ったことがもともと寡兵の南朝の勢力を削ることになってしまった自滅だと思っている。
太平記の湊川の前の楠木の献策が事実かはともかく、守れないのは本当で
故に信長は京都をはずして安土城をつくり、秀吉は伏見城を作り、
家康が二条城を立て直してやっと安定したくらい。 貴族で固めた文化財のなかからは宗教は生まれぬ、霊性はわき出さない。
美しい女の子が生れないで尊貴の身分に近付けぬ悩み、位が上がらぬので威張れぬ悩み、
文芸の際がなく男振りがよくないので異性に持て囃されぬ悩み・・・
そんな悩みくらいで宗教は生れぬ。
なるほど宗教は現成世界の否定性をもっている。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。
霊性そのもののおののきでなくてはならぬ。
平安時代の多くの「物語」または「歌集」中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは何れも淡いものである。
人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞こえぬ。
(『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
>>923
戦国時代の尾張
守護大名斯波 おかざり
守護代織田大和守 おかざり
奉行信長 実際の権力者
尾張の奉行が、斯波の上の足利を滅ぼしてしまうんだから下克上ですな
さらに尾張の百姓に取って代わられる 外戚が源氏将軍を殺して乗っ取った政権だから、最期はそれはもう凄惨だったな
>>921
違うつーの
足利氏の貴種性は源頼朝との繋がりによるもの
三河の源頼朝は三河の源義兼に足利荘を安堵し、源姓足利氏を誕生させた
そして頼朝は、頼朝と足利義兼の従兄弟を日光に送り込み、東国の宗教界を支配下に置いた
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) 尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏(福井県剣神社の神官出身)の登場を待つ。
足利尊氏に新田が同族との認識は薄い
何故なら、当時、本当の先祖は源為朝と信じ込んでいたからだ
足利氏が親戚として尊重していたのは、為義の血を引く一族と三河の藤姓熱田大宮司一族
足利一門以外では足助氏、吉見氏、熊野別当家、佐々木氏
徳川も豊臣の対してそうだったけど
悲惨な滅び方てもなかったじゃん
>>936
三河の系図コピペさんは、冗談まで覚えたのかww
しかし、飽きないねえw 今川貞世(了俊)
出生地は相模国鎌倉。幼少〜少年期を鎌倉、次いで東海地方で過ごす。
46歳のとき九州探題に任命され、以降25年に渡り九州の地で活躍。
この天皇 趣味に走った割に 観光の足しにもなってない
>>938
梅松論、難太平記に書いてあるだろ
梅松論
足利尊氏「為朝は当家の祖神」
難太平記
今川了俊「義兼は本当は源為朝の子」 >>938
三河さんに直接レスするのは怖くてできないので、君に聞きたいのだが
源為朝といえば保元の乱で活躍し、その後太平洋の島に流され、そこでも活躍したと言われる
大きな弓を持った人だな
足利とは親戚になるが、決して近い親戚ではない
源為朝が活躍した保元の乱では、足利は天皇方に参陣してたな
「当時、本当の先祖は源為朝と信じ込んでいたからだ」
どう考えたら、こんな結論になるのか?自分の想像力では無理だった >>905
時宗が今の日本民族みたいに平和ボケ馬鹿だったら日本終わってたかもなw
時宗は2回目の撃退の後でも3回目が有るかもと考えてたんだろ 鎌倉幕府を開いた源頼朝は熱田神宮関係者の息子
歴史を紐解くと、何かしら熱田神宮が関わってくることも多々あるから、
草薙の剣のある熱田神宮は歴史的に重要だね
>>889
つっても、あいつ元は藤原だったじゃんw
家系図を捏造して源さんになっただけで
ちな、鎌倉時代には藤原氏の将軍もいる 日曜日の早朝にbsで太平記の再放送やってるよね
宮沢りえの美しさに感動してるわ
>>909
男が女装するということは単に「私はホモセックスの受け身側
です。」という意思表示に過ぎなかったのでは?
南九州では、男色の伝統が明治まで続いていた。
クマソのカワカミタケルには男色の趣味があったということでは? 奉公と恩賞の形が崩れて鎌倉幕府への信頼が崩れたからだろ
>>943
おれお信じてないから、わからんよ。
ただ為朝は人気だからな。
昔の知り合いにも為朝の子孫いるよ。
為朝の子供が佐々木氏(高綱だったけか?)に養子に入ったのが、ご先祖という人。
南部藩の高級家臣団が出自の人だけど。 >>941
観光は、流された島が・・w
しかし文化人だからね
和歌や書家としては相当な天皇 藤原氏の摂家将軍の下でも
武家の棟梁=清和源氏は維持された
佐々木さんって人がいて
もろ四つ目結の家紋で
近江源氏じゃんすげーってなったね
>>955
でも鎌倉幕府って3代まで源氏で、
2代摂家、それ以降親王が将軍だよな? >>947
片岡孝夫の後醍醐天皇が秀逸過ぎるw
あと近藤正臣の親房卿もはまってたな 旅先でしか食べられない珍しいグルメを堪能、これこそ旅の後醍醐!
>>960
建武の新政は
日本人のほぼ全員が知っていると言っても
過言じゃないからな
普通に学校に行ってれば >>953
為朝の子孫なら八丈島にいそうだな
八丈島には宇喜多秀家の末裔が数家あるそうだが >>958
源氏でなければ征夷大将軍になれない、は嘘ってことになるな
まあ、初代の坂上田村麻呂からして源氏ではないがw >>964
ウジャウジャいるのは三河
一次資料で確実なのは、足助氏に嫁いだ為朝の娘の系統
三河の鈴木氏さんは、源為朝の子孫であり
つまりイチローもそうかも知れんな
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 >>459
いやそうではない 北条泰時の治世について藤原定家の明月記には(誠にありがたく万民の父母である)と評されたほど一般民衆の事を考えた慈悲深い為政者だった
飢饉の時には蔵を放出して民を救い自分は贅沢を一切控え食事も質素を極め餓死を心配されるほどだった
鎌倉時代は飢饉が多かったが執権達は民の事を考え良い政治を行った人達が何人もいるし逸話も沢山残っている >>944
防衛だけじゃなく朝鮮半島へ反撃に出て高麗征伐も検討されてたよ >>944
いやあ、元からの親書を返事もせずにひたすら無視してた外交音痴でもあるぞ? >>965
うん、尊氏以降に源氏じゃない将軍がいないだけというのが本当のところだろうね
別に将軍になるだけなら徳川は藤原氏のままでも無問題だったと思う >>969
天皇じゃない皇族で2番目か3番目に名の知られた人だからな
(流石に一番は聖徳太子で異論はあるまい) >>92
ちょっと清盛が威張り過ぎてしまっただけ
もう少し謙虚であれば平家の時代が長続きしたかもな >>969
ヤマトタケルは近年では、焼畑を古代の日本全土に
広めた人として見る人もいるようだ。 >>967 北条執権は、名君多く、ことに 北条家は、男子が多い。内ゲバもかなり、少ない。何かよりどころが無いせいかも知れない。 後北条も兄弟の争い少ないようなイメージあるな
たんなる偶然なんだろうけど
「氏」の下位概念として「家」がある
摂家将軍は
源氏に属する鎌倉将軍家を藤原家が相続したと考えるので
武家の棟梁=源氏は維持される
長い平安時代の後の初代武家政府で鎌倉幕府自体はあまり興味が出ない
皇帝になった後の漢の劉邦にあまり興味が出ないように
鎌倉幕府は生まれた事が最大の意義だった
生まれる直前がクライマックス
権力奪取後、武士を厚遇しなかった――と非難され続けてる後醍醐帝。
けど、軍人を優遇しちゃアカンやろ!!
それを明治になってからやりまくって、大日本帝国は破滅した。
連行してきたアテルイの処遇を巡る会議から田村麻呂は締め出された。
左翼史観では、なぜだかこれを極悪な失政扱い。
軍人が政治に関与しては、絶対にアカンだろがっ!!!!!!
戦後処理は政治の決めること。軍人が口出ししてはならない。
日本に農奴制が定着しなくて良かったと思う。なぜなら、強い政権がなくては ならなくなるから。
後醍醐が尊氏と妥協してれば両統迭立はまだ続いてたのかな。
そうなれば今のような皇統断絶の危機もなかったかもしれないのに。
元寇の仕返しに皆んな倭寇で忙しくて幕府どころじゃなかったからだよ
>>12
そうかね、俺は鶴太郎が画面に映るだけで、おでんとかオスマン万マン万コンが直ぐ浮かんでダメだったけどな
チコチャン見ても、岡村風俗嬢が浮かんでもうそれだけでだめだが、 >>978
劉邦は皇帝になってからの方がすごいぞ。
功臣を粛正しまくったり、奥さんに好き放題やられたり、
あげくの果てに匈奴に捕まって土下座の命乞いしたり。
秀吉どころの騒ぎじゃねーぞ。 >>985
マイケル・ジャクソンは少年が性欲の対象の変態だったが
タケカワは人道目的で養子を養っていた >>989
中国や世界の権力者の女って凄いよな
日本で悪女と言われる日野富子なんて問題にすらならない 後醍醐JKて聞いたことないよなJK
でどうなったの
>>991
とはいえ、皇位にまで就いたのは武則天ただ一人なんだよな そういえば大河の太平記の再放送やってたの見たけど
絶望的に面白くないな
時代の問題ではなくて作りがダメすぎ
人間ドラマやりすぎて時代が動かないw
>>964
あと、琉球王尚氏も為朝の子孫を名乗ってた(本当 >>990
過去形なの?
もう巣立ったってことかな 日本が外敵からの侵入受けたのは元寇が最初じゃない
新羅の入寇で30回近くチョンが攻めてきてるからな
律令体制下で防人を大宰府に送ってるのはこれのせいだから
>>26
だからじゃねえ?
くそ高蛆は、高時にへつらい続けて、世話になりまくったくせに
裏切ったうんこ野郎だぞ。 >>982
つっても後醍醐天皇も足利も、制度の基本構造は鎌倉幕府を踏襲してるんだけどね。 lud20200906062937ca
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・【悲報】鎌倉幕府は1192年じゃなく1185年だった! [無断転載禁止]
・フビライ・ハーンは鎌倉幕府に「 」と手紙を送ったが何度も無視され日本に攻めてきた。当然知ってるよね?
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・鎌倉幕府の成立年がいつの間にか1185年になってるんだけど [無断転載禁止]
・【プレジデント】もしも鎌倉幕府に教養があったら、日本はモンゴルに襲われなかっただろう ★4 [みの★]
・【プレジデント】もしも鎌倉幕府に教養があったら、日本はモンゴルに襲われなかっただろう ★5 [みの★]
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・【埼玉新聞】来年の大河ドラマに登場 鎌倉幕府創立の立役者、比企一族のゆかりの地を巡る小冊子を作成 [みの★]
・【史学】鎌倉幕府の成立時期に6つの説!? 今では廃れた「1192作ろう」のウソ・ホント [七波羅探題★]
・鎌倉幕府第5代執権 北条時頼
・【社会】三菱東京UFJはダマされたのか〜対インド人社長「常識外れの裁判バトル」の行方 倒産した会社が慰謝料10億円を請求
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・【#自民 】#三原じゅん子 「民主党政権の負の遺産の尻拭いをしてきた総理に感謝こそすれ問責提出は常識外れ 愚か者 恥を知りなさい!」★9
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・【速報】河野太郎「子どもの貧困率が高いのは、若い内の出産が引き金だ」「政府一丸となって若い人の出産、母子家庭を減らす」★7 [スタス★]
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