これまで40年以上にわたり部落の解放問題に取り組んできた小林健治・にんげん出版代表は「日本ではハンセン病患者やHIVの患者に対する差別がきちんと批判され、国としての深い反省もなされたばかりだ。それにも関わらず、新型コロナウイルスの感染者や医療従事者、その家族たちに対する差別が蔓延している。社会意識としての差別意識が充満しているということが、この感染症を通じて明らかになったということだと思う」と指摘する。
「例えば学生の集団感染が発覚した京都産業大学は“火をつける”という攻撃を受けた。教授が感染したことが分かった郡山女子大では、付属高校の制服を着た女子高校生が罵倒された。やはり天変地異や感染症が拡大したときには、このようなことが起こりやすい。差別の裏には恐怖心があると思う」。
他方、ネット上には「可能性を潰すことが感染拡大を防ぐ方法だから仕方ない」「ただのリスク回避。みんな自分や家族が大切」「コロナ疑いの人を避けたいのは当然。これは差別じゃなくて区別」といった意見もある。
現役の公立小学校教員で、差別問題の教育に詳しい宮澤弘道教諭は「教育現場でも、“区別”と“差別”の問題はすごく気を付けて考えていることだ。単純に区別しただけでは差別にはならないが、どうしても処遇に違いが入ってしまう。そういう意味では、区別した段階で実質的には差別が用意されてしまうというところがある。やはり科学的な認識、根拠に基づくものでなければ区別といえないのではないかと思う」との見方を示した。
小林氏は、かつての同和教育こそモデルケースとすべきだと訴える。「安倍総理の記者会見で“医療従事者や感染者への差別はやめましょう”という話があり、森法務大臣もホームページで訴えているが、感情が籠もっていないと感じる。人権教育と同和教育との違いは、まず差別の現実、実態に学ぶということだ。例えば私が取り組んだ事例では、職場で恋愛結婚しようということになった男女がいたが、男性の親が身元調査をした結果、女性が被差別部落の出身ということが分かってしまい、差別を受けた。自覚がなかった女性はショックを受けて自殺してしまった。1年後に親戚が乗り込むと、男性も女性の命日に自殺をしてしまっていた。やはり“知らなければ差別は起こらない”ということにはならないし、“差別はいけない。思いやりの心を持ちましょう”だけでもダメだ。やはり実態を正しく認識していなければ、自分が差別する側に回ってしまうことにもなる」。
その上で「1950年代の初めから積極的に取り組まれてきた同和教育のスローガンは“非行は同和教育の宝”だった。つまり、なぜ被差別部落の子どもたちが非行に走るのか、というところから始まっている。しかし1970年代には“非行は差別に負けた姿だ”とスローガンが変わり、2002年に同和対策事業の法律が切れた後には人権教育という名の下に薄められ、現在では差別の実態から人権を見ていくという視点が弱いように思う。また、私たち差別団体が抗議してきたのは“表現の差別性”であって、差別語を使うこと自体が差別につながるわけではないということだ。にもかかわらず、テレビ局とか新聞社は“差別語を使わなければいい”ということで用語一覧表を作り、自主規制で排除してきた。それは大間違いで、使う時には使わなければならない。むしろ、差別をなくすために差別語を使って映画やドラマも作っていただきたい」と訴えた。
宮澤氏は「実は私の教え子にも、結婚しようという時に自分が同和地区出身だということが分かり、破談になってしまったことがあった。いまだにそういう結婚差別というものがあるということだ。また、私が家を買う時に土地が安いところについて“何でここは駅が近いのに安いのか”と聞いても、業者は“安いんです。ここは”としか言わなかった。しかし突っ込んでいったら、そこが同和地区だったということが分かった。そういう時、私が間違った認識を持っていたとしたら、差別をしてしまうかもしれない。過去に同和地区が荒れていた時代があったとすれば、なぜ荒れていたのか、という正しい知識を持つことが大事だ。しかし、そういうことを授業の中できちんと教えていないから差別してしまう」と指摘。(続きはソース)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200513-00010000-abema-soci
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