新型コロナウイルスの感染拡大が続いているが、100年前にも未曽有の感染者を出したパンデミック(世界的大流行)があった。
「スペイン風邪」と呼ばれたスペインインフルエンザで、国内で約39万人が犠牲になったとされる。
岐阜県内でも再流行を繰り返し、終息までに8千人以上が亡くなった切迫した状況を市町村史や内務省報告書から振り返る。
「高山の火葬場に棺が毎日十数個並んで僧侶の読経も待たず火葬されたものもあったと云(い)う」
旧大八賀村(現在の高山市)の村史には、当時の混乱ぶりの一端が記される。
同書によると、1918年10〜12月に大野郡(旧高山町含む)で514人、吉城郡で217人が死亡。村内では35人が亡くなった。
旧丹生川村(高山市丹生川町)の村史は、18年11〜12月の流行で、小学校本校と7分教場を7〜20日間閉鎖したと記録。
全児童の9割に当たる871人が罹患(りかん)し9人が亡くなっている。
村役場を通じて家庭に配布された文書は、「悪性感冒(ウツリガイキ)」と病名に方言の注釈を付け注意喚起。
その記述からは、現在と同じように隔離や飛沫(ひまつ)感染防止の措置が取られていたことが読み取れる。
一、児童の身体に少しでも怪しいと思われる様子(頭痛・発熱)が見えたら、早く医者に見てもらうこと
一、誰でも此の感冒にかかれば、別の室に寝させ、鼻汁や痰(たん)を能(よ)く消毒すること
一、病人の咳(せ)く時は、唾が他人にかからぬ様にすること
旧藤橋村(現在の揖斐郡揖斐川町)の村史には「東西横山でも亡くなる人があり、
殊(こと)に発電所工事中で人口もふくれあがっていて工事人夫の死亡者も」と密集の影響をうかがわせる記載もある。
内務省衛生局の調査報告書の翻刻版「流行性感冒−『スペイン風邪』大流行の記録」(平凡社刊)によると、
県内の流行は18年10月上旬に始まり、19年7月末までの第1波だけで42万5351人が患者になり、
6998人が亡くなった。当時の人口は約112万人で、県民の3分の1以上がかかったことになる。
いったん落ち着いたものの、「向寒の候に及びて神奈川、三重、岐阜、佐賀、熊本、愛媛等に流行再燃の報あり」(内務省報告)として、
19年10月下旬から20年6月の第2波で1409人、21年1月から6月の第3波で78人がそれぞれ県内で死亡。終息までに実に2年半を要したことになる。
県史によれば、人口動態にも影響を与え、18〜20年の死亡率は終戦の45年に次ぐ28・4(現住人口1千人比)を記録する「近代史上特異な時期」だった。
県内死者の総数8485人は濃尾地震(1891年)の全国の犠牲者数7273人を超えている。
内務省報告書の古書を入手し、書籍化につなげた国立病院機構仙台医療センターの西村秀一ウイルスセンター長は
「未知のウイルスへの対処は今も昔も変わらない。スペインインフルエンザは集団免疫が形成され終息したが、
今回のコロナでは国民はまだほとんど免疫を持っておらず、いっとき収まっても流行はまた勃発する」と警鐘を鳴らす。
その上で、「マスク着用は効いていると思っており、次にやってくる流行でも今回学んだ対処をきちんとやれば、
光は見えてくる。ウイルスを正しく恐れ、助け合って長期戦を戦うことだ」と指摘している。
【スペイン風邪】 第1次世界大戦中の1918年3月に欧米で始まり、19年にかけて世界中で猛威を振るったインフルエンザの俗称。
世界人口の25〜30%が感染し、死者は4千万人から1億人に上ったと推定されている。
国内は2380万4673人の患者と38万8727人の死者が報告されている。
「スペイン風邪」と呼ばれたスペインインフルエンザで、国内で約39万人が犠牲になったとされる。
岐阜県内でも再流行を繰り返し、終息までに8千人以上が亡くなった切迫した状況を市町村史や内務省報告書から振り返る。
「高山の火葬場に棺が毎日十数個並んで僧侶の読経も待たず火葬されたものもあったと云(い)う」
旧大八賀村(現在の高山市)の村史には、当時の混乱ぶりの一端が記される。
同書によると、1918年10〜12月に大野郡(旧高山町含む)で514人、吉城郡で217人が死亡。村内では35人が亡くなった。
旧丹生川村(高山市丹生川町)の村史は、18年11〜12月の流行で、小学校本校と7分教場を7〜20日間閉鎖したと記録。
全児童の9割に当たる871人が罹患(りかん)し9人が亡くなっている。
村役場を通じて家庭に配布された文書は、「悪性感冒(ウツリガイキ)」と病名に方言の注釈を付け注意喚起。
その記述からは、現在と同じように隔離や飛沫(ひまつ)感染防止の措置が取られていたことが読み取れる。
一、児童の身体に少しでも怪しいと思われる様子(頭痛・発熱)が見えたら、早く医者に見てもらうこと
一、誰でも此の感冒にかかれば、別の室に寝させ、鼻汁や痰(たん)を能(よ)く消毒すること
一、病人の咳(せ)く時は、唾が他人にかからぬ様にすること
旧藤橋村(現在の揖斐郡揖斐川町)の村史には「東西横山でも亡くなる人があり、
殊(こと)に発電所工事中で人口もふくれあがっていて工事人夫の死亡者も」と密集の影響をうかがわせる記載もある。
内務省衛生局の調査報告書の翻刻版「流行性感冒−『スペイン風邪』大流行の記録」(平凡社刊)によると、
県内の流行は18年10月上旬に始まり、19年7月末までの第1波だけで42万5351人が患者になり、
6998人が亡くなった。当時の人口は約112万人で、県民の3分の1以上がかかったことになる。
いったん落ち着いたものの、「向寒の候に及びて神奈川、三重、岐阜、佐賀、熊本、愛媛等に流行再燃の報あり」(内務省報告)として、
19年10月下旬から20年6月の第2波で1409人、21年1月から6月の第3波で78人がそれぞれ県内で死亡。終息までに実に2年半を要したことになる。
県史によれば、人口動態にも影響を与え、18〜20年の死亡率は終戦の45年に次ぐ28・4(現住人口1千人比)を記録する「近代史上特異な時期」だった。
県内死者の総数8485人は濃尾地震(1891年)の全国の犠牲者数7273人を超えている。
内務省報告書の古書を入手し、書籍化につなげた国立病院機構仙台医療センターの西村秀一ウイルスセンター長は
「未知のウイルスへの対処は今も昔も変わらない。スペインインフルエンザは集団免疫が形成され終息したが、
今回のコロナでは国民はまだほとんど免疫を持っておらず、いっとき収まっても流行はまた勃発する」と警鐘を鳴らす。
その上で、「マスク着用は効いていると思っており、次にやってくる流行でも今回学んだ対処をきちんとやれば、
光は見えてくる。ウイルスを正しく恐れ、助け合って長期戦を戦うことだ」と指摘している。
【スペイン風邪】 第1次世界大戦中の1918年3月に欧米で始まり、19年にかけて世界中で猛威を振るったインフルエンザの俗称。
世界人口の25〜30%が感染し、死者は4千万人から1億人に上ったと推定されている。
国内は2380万4673人の患者と38万8727人の死者が報告されている。