南北朝時代から戦国時代にかけて、瀬戸内海に覇を唱えた能島(のしま)村上氏にかかわる資料を収集・展示している「今治市村上水軍博物館」(愛媛県今治市)が4月、「今治市村上海賊ミュージアム」に名称を変更する。
なぜいま「水軍」から「海賊」に名称変更するのか。そこには人気漫画「ワンピース」の大ヒットなどを背景に、本来の村上氏の活動を正しく伝えたいとの思いがあった。
「日本最大の海賊」
村上氏は3家あり、本土側から因島(いんのしま)村上、能島村上、来島(くるしま)村上と称される。史料に村上氏が登場するのは16世紀半ば以降で、それ以前は「野嶋」「能島衆」などと記されてきた。
同博物館の学芸員、大上幹広さんによると、瀬戸内海では漁民の長は「ムレギミ」と呼ばれており、転じて「村上」になったのではないかという説がある。
南北朝の動乱期、村上氏は南朝方として戦い、室町時代にかけて瀬戸内海の海上生活者らをまとめ、一大勢力となっていった。
戦国時代になると、「能島」に村上武吉が登場して最盛期を迎える。陸では戦国大名が林立して互いに激しく争っていた。国家としては公共機能が失われ、治安維持が困難な状態といえるが、一方で経済活動は活発化しており、物流の大動脈として瀬戸内海の重要性は時代を追って大きくなってもいた。大上さんは「小さな政府で瀬戸内海に警察機能がない時代だからこそ、村上海賊の存在が要請された」と話す。
瀬戸内海のほとんど全域を支配し、要所に多くのとりでを築いた村上氏。航行する船舶に関税を課し、「帆別銭」「駄別銭」といわれる通行料を徴収。見返りに「過所旗」を与えて通航の安全を保障した。地形や潮流を熟知していたから、水先案内の役割も果たした。漁業や商業にも携わり、文化人としての一面さえあった。
荒くれのパイレーツとは違う、日本独特の海賊像。日本を訪れたポルトガル人のルイス・フロイスは著書「日本史」で、武吉を「日本最大の海賊」と評した。
海軍が兵法を参考に
こうした経緯があるにもかかわらず、村上氏は「水軍」とされてきた。大上さんはその背景に日本海軍の存在があるという。
明治期に新設された海軍は江戸時代の水軍の兵法を熱心に研究し、水軍を自らの前身と位置付けていた。日露戦争の日本海海戦で、連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った際に用いた「丁字戦法」は、東郷平八郎の参謀が村上水軍の兵法を参考にしたとされ、水軍の呼び名が有名になっていった。
一方、平成16年10月に開館した博物館の名称が「水軍」だったのは、「当時は海賊という言葉にマイナスのイメージがあり、水軍を使ったのではないか。水軍は『水軍太鼓』など、言葉として定着していたから採用されたのだろう」(大上さん)。
日本独特の海賊
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