ローマ市内を流れるテヴェレ川の中州にティベリーナ島という小さな島がある。
この島にあるファーテベネフラテッリ病院にはかつて、「K症候群(K Syndrome)」という正体不明の病気の治療を受ける患者たちがいた。
聞きなれないけれども、どこか結核(Koch Syndrome)を思わせる病気で、ナチス兵たちも感染を恐れ、K症候群患者が収容される病棟には近づかなかった。
ユダヤ人を救った知られざる歴史をイギリスの歴史雑誌「ヒストリー・トゥデイ」が伝える。
■捏造された病
1943年10月16日、ナチスはローマのユダヤ人ゲットー(強制居住区)や、市内のさまざまな施設でユダヤ人の一斉検挙をおこなった。約1200人が連行され、戦後、生還したのはわずか15人と言われる。
この日からファテベネフラテッリ病院には、「K症候群」の患者がだんだんと増えはじめた。
だがこの患者たちというのは、実はナチスの迫害を逃れた人々だった。K症候群は、当時の医長ジョヴァンニ・ボロメオが他の医師たちの協力のもと、ファシスト党政権に反対する人々やユダヤ人を救うために考案した偽の病気だったのだ。
1898年生まれのボロメオは筋金入りの反ファシスト。ファテベネフラテッリ病院の医長になる前にも、2つの病院から医長のポストをオファーされていたが、それらのポストに就くにはファシスト党のメンバーになる必要があったため、申し出を断っていた。
ファテベネフラテッリ病院のオファーを受けたのは、ファシスト党に属さなくてもよかったからだ。ここは、カトリック修道士たちによって運営されており、教会とファシスト政権との合意によって国の規制が適応されない私立病院に分類されていた。そのため、職員が政党に属す必要がなかったのだ。
ボロメオはさまざまな理由から政権に差別された多くの医師を採用した。そのなかには10月16日の一斉検挙を逃れた人々を病院内にかくまったユダヤ人医師のヴィットーリオ・エマヌエーレ・サチェルドティも含まれている。
■病院が抵抗の場に
一斉検挙から続く数ヵ月間、病院は政治的な抵抗の拠点となった。ボロメオとその仲間たちは修道士たちと協力して院内にラジオ局を設置し、パルチザンと連絡を取って彼らの戦いに協力した。
ボロメオたちは、ナチスがラジオ電波の発信地を特定したことを知ると、ラジオ機材のすべてをテヴェレ川に投げ捨てたりもした。
病院の近くにユダヤ人ゲットーがあったことから、ナチスは病院を怪しむようになったが、ボロメオたちは来るべきナチスの捜索に向けて準備を進め、院内のユダヤ人や抵抗運動に携る“政治的な患者たち”をK症候群患者として正式に登録していった。
だが「K症候群」というその病名自体が、そもそも危うい冗談だった。K症候群の「K」はボロメオが、アルベルト・ケッセルリンク(Kesselring)またはヘルベルト・カプラー(Kappler)にちなんでつけたものとされる。
ケッセルリンクはナチスの南部軍総司令官で、当時ゲシュタポ(国家秘密警察)のローマ長官だったカプラーに、ローマ郊外のアルデアティーネ洞窟における虐殺を命じた人物だ。この虐殺の結果、335人の市民や兵士が命を奪われている。
戦後、ケッセルリンクもカプラーも戦犯容疑で裁かれ、有罪判決を受けている。
■ナチスの捜索を切り抜ける
病院はローマが連合軍によって解放されるその日まで、ナチスに追われた人々を受け入れ続けた。だが、一度だけ、ナチスの捜索を受けたことがあった。
ボロメオの息子ピエトロ・ボロメオによると、1943年10月末、予想されたとおり、ナチスは病院内に潜伏するユダヤ人や反ファシストの捜索に訪れた。
ボロネオはナチス兵に院内を案内しながらK症候群の悲惨な病状を詳細に語って聞かせ、その上で病棟を捜索するよう促した。
すると、医師1名を同伴して訪れたナチスは病棟の捜索を中止し、それ以上、取り調べすることなく病院を後にしたという。
ナチスがいかにして病院内を捜索したかや、ボロメオがいかにしてナチスの気をそらしたか、また病院に救われた人の数については諸説ある。だがどの説もK症候群の“発明”を裏付ける。
ピエトロ・ボロメオは、すべては計画に基づき組織的に実行されたと主張するが、医師のオッシチーニやサチェルドティによれば、たいていはその場で臨機応変に対処した結果であり、独裁に対するさまざまな形の非組織的で自発的な抵抗行為の1つだったという。(続きはソース)
3/15(日) 12:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200315-00000002-courrier-int
この島にあるファーテベネフラテッリ病院にはかつて、「K症候群(K Syndrome)」という正体不明の病気の治療を受ける患者たちがいた。
聞きなれないけれども、どこか結核(Koch Syndrome)を思わせる病気で、ナチス兵たちも感染を恐れ、K症候群患者が収容される病棟には近づかなかった。
ユダヤ人を救った知られざる歴史をイギリスの歴史雑誌「ヒストリー・トゥデイ」が伝える。
■捏造された病
1943年10月16日、ナチスはローマのユダヤ人ゲットー(強制居住区)や、市内のさまざまな施設でユダヤ人の一斉検挙をおこなった。約1200人が連行され、戦後、生還したのはわずか15人と言われる。
この日からファテベネフラテッリ病院には、「K症候群」の患者がだんだんと増えはじめた。
だがこの患者たちというのは、実はナチスの迫害を逃れた人々だった。K症候群は、当時の医長ジョヴァンニ・ボロメオが他の医師たちの協力のもと、ファシスト党政権に反対する人々やユダヤ人を救うために考案した偽の病気だったのだ。
1898年生まれのボロメオは筋金入りの反ファシスト。ファテベネフラテッリ病院の医長になる前にも、2つの病院から医長のポストをオファーされていたが、それらのポストに就くにはファシスト党のメンバーになる必要があったため、申し出を断っていた。
ファテベネフラテッリ病院のオファーを受けたのは、ファシスト党に属さなくてもよかったからだ。ここは、カトリック修道士たちによって運営されており、教会とファシスト政権との合意によって国の規制が適応されない私立病院に分類されていた。そのため、職員が政党に属す必要がなかったのだ。
ボロメオはさまざまな理由から政権に差別された多くの医師を採用した。そのなかには10月16日の一斉検挙を逃れた人々を病院内にかくまったユダヤ人医師のヴィットーリオ・エマヌエーレ・サチェルドティも含まれている。
■病院が抵抗の場に
一斉検挙から続く数ヵ月間、病院は政治的な抵抗の拠点となった。ボロメオとその仲間たちは修道士たちと協力して院内にラジオ局を設置し、パルチザンと連絡を取って彼らの戦いに協力した。
ボロメオたちは、ナチスがラジオ電波の発信地を特定したことを知ると、ラジオ機材のすべてをテヴェレ川に投げ捨てたりもした。
病院の近くにユダヤ人ゲットーがあったことから、ナチスは病院を怪しむようになったが、ボロメオたちは来るべきナチスの捜索に向けて準備を進め、院内のユダヤ人や抵抗運動に携る“政治的な患者たち”をK症候群患者として正式に登録していった。
だが「K症候群」というその病名自体が、そもそも危うい冗談だった。K症候群の「K」はボロメオが、アルベルト・ケッセルリンク(Kesselring)またはヘルベルト・カプラー(Kappler)にちなんでつけたものとされる。
ケッセルリンクはナチスの南部軍総司令官で、当時ゲシュタポ(国家秘密警察)のローマ長官だったカプラーに、ローマ郊外のアルデアティーネ洞窟における虐殺を命じた人物だ。この虐殺の結果、335人の市民や兵士が命を奪われている。
戦後、ケッセルリンクもカプラーも戦犯容疑で裁かれ、有罪判決を受けている。
■ナチスの捜索を切り抜ける
病院はローマが連合軍によって解放されるその日まで、ナチスに追われた人々を受け入れ続けた。だが、一度だけ、ナチスの捜索を受けたことがあった。
ボロメオの息子ピエトロ・ボロメオによると、1943年10月末、予想されたとおり、ナチスは病院内に潜伏するユダヤ人や反ファシストの捜索に訪れた。
ボロネオはナチス兵に院内を案内しながらK症候群の悲惨な病状を詳細に語って聞かせ、その上で病棟を捜索するよう促した。
すると、医師1名を同伴して訪れたナチスは病棟の捜索を中止し、それ以上、取り調べすることなく病院を後にしたという。
ナチスがいかにして病院内を捜索したかや、ボロメオがいかにしてナチスの気をそらしたか、また病院に救われた人の数については諸説ある。だがどの説もK症候群の“発明”を裏付ける。
ピエトロ・ボロメオは、すべては計画に基づき組織的に実行されたと主張するが、医師のオッシチーニやサチェルドティによれば、たいていはその場で臨機応変に対処した結果であり、独裁に対するさまざまな形の非組織的で自発的な抵抗行為の1つだったという。(続きはソース)
3/15(日) 12:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200315-00000002-courrier-int