◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【邪馬台国】「卑弥呼の墓」を素粒子で探査……奈良・箸墓古墳の内部 YouTube動画>2本 ->画像>13枚
動画、画像抽出 ||
この掲示板へ
類似スレ
掲示板一覧 人気スレ 動画人気順
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1578570483/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
「卑弥呼の墓」を素粒子で探査
奈良・箸墓古墳の内部
「卑弥呼の墓」の可能性が指摘される奈良県桜井市の前方後円墳・箸墓古墳(全長約280メートル、3世紀中ごろ〜後半)の内部構造を探るため、物質を透過する素粒子「ミューオン」を用いた探査を始めたと、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。
同古墳は宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止し、調査はほとんどできていない。
探査では石室の可能性がある空洞があるかどうかや、その位置や方向、規模を調べる。
古代史上最大の謎を秘めた古墳の内部を知る手掛かりになりそうだ。
ミューオン探査は宇宙線から生じる素粒子の一種を利用し、物体の内部をエックス線写真のように写し出す。
共同通信 2020/1/9 20:43 (JST)
https://this.kiji.is/587970300458878049?c=39550187727945729 素粒子って聞くとどうしても朝日の電波コラムを思い出してな…
古墳の内部調査ができんのは地下に宇宙船があるからよな
宮内庁はまず陛下に発掘の可否を問うべき。
おそらくオッケーだろう。
中国人盗掘団に盗まれてからでは手遅れだよ
中国では王族の墓が盗掘されまくってるんだよ
ダイナマイト使ったりして大規模だよ
代々男王がいた
↓
倭国大乱のあと、女王(斎王)をたてておちついた
ということだが、じゃあその前の男王は誰だったんだろうな
天皇の墓って奈良時代まではどれなのかわかってないのが多いよ
仁徳天皇陵だって宮内庁が勝手にそういうことにしただけで
誰の墓かわからないので、研究者が抗議して
今では大仙古墳って呼ばれている
ここがヒミコの墓なのか天皇陵なのか この地方の豪族の古墳なのか
永遠の謎でしょう
>>12 んなもん中国人じゃなく日本人の盗掘でほぼ100%やられてるよ
未盗掘は未発見の古墳ぐらいでしょ
卑弥呼(AV)の破瓜。まあ、破瓜ってそういうのじゃないんだけどね。
そもそも、居ない。
邪魔國のあまねく卑しい処の、、それがいた、のさ。
前スレ最後の方に門脇禎二の名前が挙がっていたけど
3世紀前記から中期に近畿から九州までを支配する政権が日本にあったとは考えにくいんだよなあ
魏志倭人伝の描写と合わない
>>18 初代卑弥呼は顔は良かったが歯が全部真っ黒だった
現在の神武天皇陵の位置は、幕末に宇都宮藩が中心となって行った「文久の修陵(1863)」の際に宇都宮藩の顧問団の検討により決定された
神武天皇陵が現在の地に定められる前には陵墓の候補地は六つ
最大限好意的に見てあげても皇紀主張するやつが言ってる意味での神武は実在しないとしか言えない
古墳だけじゃなく古い寺社の地下も調べられないかな
建て替えできない古い建物の下には何か埋まってる可能性がある
トゥームレイダーファーストミッションは卑弥呼の墓の話で開けちゃいけないんだよ。未来の為に彼女自身が封印したんだから。
>>20 門脇さんはずっと京大の畿内説の呪縛に苦しんでた先生
死ぬ間際になってやっと自分は九州説だと心情吐露したんだったと思う
先生の丹後王国説はなかなかおもしろい
対馬海流の関係であそこ辺りに流れ着いた民は多いと俺も思う
人は記憶型と思考型に大別できる
帯方郡(平壌の南)
狗邪韓国(順天、海 7千里)
対馬国 (対馬、海 千里)
一大国 (壱岐、海 千里)
────────────────九州北部
末廬国 (海 千里)
伊都国 (東南 五百里)
奴国 (東南 百里)
不弥国(東 百里)
────────────────不明
投馬国 (南に水行二十曰)
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)
投馬国からは出典が異なると思われる
よって起点が振り出しに戻り自郡となる
帯方郡─狗邪韓国─対馬国─一大国─末廬国─伊都国─奴国─不弥国
├──────────投馬国
└──────────邪馬台国
現在認知されている陵墓に間違いがあることが発覚してしまう可能性と
皇紀2700年が間違いであり、初代天皇が4世紀末〜5世紀の人物である可能性が出てきてしまうため学術調査を許さない
宮内庁は、2004年3月24日に開かれた第159回国会における
陵墓参考地の公開・古墳調査問題についての質疑応答で以下のように回答
古代からの陵墓につきましても、皇室、国民の崇拝の対象となっており、現に祭祀が行われておりますので
そういった陵墓管理の本義に基づきまして、学術目的での発掘あるいは立入りにつきましては、これは認められるべきではないというふうに考えております
※何が素粒子調査だ笑わせんなw
これは面白そう
ピラミッドの調査では空洞があるのを確認できたけど、
古墳の場合は石室があるのは当たり前で、新発見がどのくらいあるかは疑問
敵のミサイル基地や地下基地丸見えだねw
隠されてた軍用技術が出回り始めましたw
なるほど〜 それで敵のICBMの基地の場所がわかったわけねw
謎の女子高生の正体は?「台湾で1973年に撮影された」という1枚のモノクロ写真。
http://5ch.bounceme.net/1531.html 学部の実験でやったなーミューオンの計測
シンチレーターの窓がベリリウムだから冗談でも舐めてはいけませんと念押しされた
>>29 おまえだって自分ちの墓が荒らされたらイヤだろ。
陛下だって自分ちの墓を荒らされるのがイヤなんだよ。
竪穴石室が「あった」のは後円部中央
あんな目立つ墓が平安後期から江戸中期までほったらかしにされてて無事なはずがなく、とっくに盗掘済みだな
直接発掘したところで鏡の破片と勾玉少々が出てくればいいところ
ミューオン調査などしても予想外の何かが見つかる期待はほぼゼロ
倭人伝には有棺無槨とあるから
石室があれば卑弥呼の墓じゃないことになる。
箸墓古墳の規模で無槨と言うことは
あり得ないと思うけど。
>>1 キトラ古墳みたいに中が残ってりゃいいんだがな
未だに箸墓が卑弥呼の墓とかいってる馬鹿。
戦前の作り話に沿って歴史を作る大阪の歴史屋。
都合の悪い物が出て来たら困るから本当は調査なんてしたくないんだろな。
この実験すごいな 成功すれば
徳川埋蔵金まで見つかっちゃう
>>36 該当委員会での質問者は日本共産党の吉井英勝
回答者が政府参考人・田林均等
卑弥呼の遺跡は福岡筑後川上流域、大水害により全ては流され土砂に埋もれてしまった
だから誰も見つけることはできない。
天武天皇が日本造った。イデオロギーとかどうでもいいんだよな
畿内王朝が現在の日本の正統
>>49 あれ?違うやつか、この議員何度か質問してんだよね
麻生さんのときもやったはず
由来が解らない遺物は千年経ったら調査できるようにしろよ
【だといわれる】じゃ何も進まない
宮内庁が考古学の発展を邪魔してるだろ
ついでに近くのみむろ最中も調べてほしい。
中になにが入ってるのか気になるんで。
電子、μ粒子、τ粒子
つまり第2世代の電荷レプトン
ミューオン調査ってよく聞くけどあんまり期待できない印象
>>20 日本に滞在した元の人の文書が残っているが、その時代ですら中国人の認識は九州=日本だぜ
山と川ばっかりで平地が少なく何もないって
魏志倭人伝の記録が九州の描写なのも九州止まりだったからだと昔から言われているだろ
>>38
>直接発掘したところで鏡の破片と勾玉少々が出てくればいいところ
いや、「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱が必ず出る! わははははは @阿波 >>58 クフ王のピラミッドのときも開いて検証してないからな。
どこまで信用できるのかね
完全に内部構造が分かってるものを調べて検証して欲しい
卑弥呼固有名詞論者は知性おかしいよ
そんな歴史も証拠もないのに「卑弥呼は固有名詞だ」を強弁して実在か狙うんだぜ
知性おかしいしもうウンザリだよ
>古代史上最大の謎を秘めた古墳の内部を知る手掛かりになりそうだ。
発掘調査などしなくても、古墳の外形で「忌部はん」 のお墓と分かりそうなもんだがw わははははは @阿波
>直接発掘したところで鏡の破片と勾玉少々が出てくればいいところ
いや、「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱が必ず出る! わははははは @阿波
盗掘はとっくの昔にされているだろう。
ただの自然の山と思われていた場所が、初期大王級の古墳だと判明したが
盗掘はすでにされていたという例がある。残念だが箸墓は目立ちすぎ有名すぎ、
よほど分かりにくい副室でもない限り、保存はされていないとみるべき。
玄室は絶望的だろう。なにせそこを見つけるまでは手を止めないだろうから。
>>38
>直接発掘したところで鏡の破片と勾玉少々が出てくればいいところ
さらに、阿波の青石石棺も出る可能性がある! わははははは @阿波 箸墓が卑弥呼の墓なんて何の根拠もないんだがw
魏志倭人伝のどこに書いてるよw
>>71 畿内説の人は魏志倭人伝はたいした指標じゃないんだよ
3世紀頃の出土品がすべて
卑弥呼と同時代なんだから関係あるはず、いや違いないが始まり
>>1 勝手に卑弥呼の墓にしてんじゃねえ
カエルの骨は
しかし箸墓古墳以外には卑弥呼の墓に該当する
古墳が存在しない。
いたしかたあるまい
卑弥呼はこれだけ有名なのに
大和朝廷は有名人がいないよな
まあヤマトタケルノミコトかね
でもそんな人が実在したか怪しいし
だから卑弥呼の墓は古墳じゃないんだってば
思い込み激し過ぎじゃね?
>>74 倭人伝をいくらこねくり回したって答えが出ない事はとっくに分かってるからな
分かってないのは素人の郷土史家(笑)の皆さんだけ
>>79 古墳なら天皇家だろうし古墳が本当に天皇なのかが面白くなるな
卑弥呼卑弥呼って、そういう先入観で見てたら判るものも判らなくなる
なんとか卑弥呼の墓にしたくてゴッドハンドしまくるからあちこちに年代の歪みが出る
100人が生き埋めにされた大穴とか映ったらどうするんだろう
古墳のサイズは分かってんだから
年代絞って
他に該当するものがなかったら箸墓古墳で決まりだろうに
卑弥呼て中国の属国になって金印もらった奴じゃん
そんな奴の国がどこにあるかなんてどうでもよく無いか?
中国の書物からしても邪馬台国は滅ぼされた可能性が高い
それは壬申の乱で天武天皇が勝利した頃だ天武天皇=ヤマト王朝だからな
>>84 そうなのか?んじゃ考古学者は何を根拠に比定してるわけ?
出てきた古物に邪馬台国の壺とかって書いてあんの?
史料がなけりゃただの遺物だよ
そんなことしたら内部にハングルとか半島ゆかりの証拠がいっぱい見つかっちゃうよ。
なんで宮内庁が考古学に非協力的なのかよく考えろよ。皇室の先祖が朝鮮系なのを隠す為だよ。日本人はずーっと朝鮮人に支配されてるんですよ。
>>97 顔が香淳皇后が強いから勘違いしちゃうんだろうね
箸墓調査したら邪馬台国の位置が確定しちゃうじゃん
九州派への死刑宣告みたいなもんだよ・・・
埴輪まで置いて封印したものを暴く意味がわからない
歴史を受け止めず放り出すしかしないのに
>>96 倭人伝をひねくり回して邪馬台国が何処か答えは出たの?
もうそんな無益な事をやってるのは郷土史家(笑)だけなんだよ
明治政府が適当に比定したのを未だに天皇陵とかにしてるからな
>>100 楽しみだよね 日本書紀の正当性も試されるわけだからね
書紀ではっきり倭迹迹日百襲姫命が葬られてると書いてあるんだから
倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼となり、卑弥呼は結婚してたということにもなる
あらゆる史料を根本的に覆すことになるのかどうか楽しみ
>>103 郷土史家(ただの暇を持て余した爺さん)
そもそも畿内は魏志倭人伝とは墓の構造が異なるからね
非常に楽しみだな
卑弥呼は結婚していないよ
魏志倭人伝にそう書いてあるんだから
> 宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止し、調査はほとんどできていない
天皇関連てウソばっかなんだろうな
まあ本来は実際に発掘すべきだね
卑弥呼である百襲姫なら魏の宝飾品が山ほど出てくる
卑弥呼でない百襲姫なら何もないガラガラ
邪馬台国は祈祷師がまとめてたんだから装飾品重要と思うんだけど墓なら装飾品が必要と思う
>>103 毎年年の暮れになると小さな発見表明して
来年の発掘予算獲得してる税金泥棒の学者先生様より
よほど有益だと思うがね
学者先生様たちは何か結論出せたのか?何年も税金にたかって
そもそもこの古墳って本当に260頃なのか疑問だね
畿内ゴッドハンドで50年ぐらいズラしてないかな
>>92 何よりも殉葬がないなら卑弥呼の墓足り得ない
倭人伝にある卑弥呼の墓の特徴
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 ?葬者奴碑百餘人」
卑弥呼もって死す 大いに塚が作られる 径100余歩 殉葬者は奴婢100余人
一番大きいのは100人殉葬してるという部分
これが見つかったら、卑弥呼の墓の可能性が高い
逆になければ、違う可能性が大きい
>>117 学者を誹謗したって郷土史家(笑)の地位が上がるわけじゃないし
魏志倭人伝研究(笑)の重要性が認められたりするわけでもないぞ
いまだに倭人伝研究(笑)で大騒ぎしてるのは郷土史家(笑)だけなんだよ
崇神の行燈山が4世紀なのに
百襲姫の箸墓が260というのは本当なんだろうかね
巨大古墳作る技術が行燈山の半世紀も前にあったのか
発掘して検証すべきだよ
>>121 よくわからんこと言うね〜
誰が大騒ぎしてんの?やったぞ俺が邪馬台国比定したぞ!!
とか言って騒いでる奴居るのか?
>>123 彼は、箸墓が魏志倭人伝と一致しなくて必死な畿内説の人のようだよ
>同古墳は宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止
物質を透過する素粒子「ミューオン」を用いた探査ならOKだろ
スコップで掘ればいいのに何をビビってるのかな
韓国人が出てきたら皇室ひっくり返るからな
>>123 倭人伝からは答えが出ない事はもうとっくに明らかなので
考古学的なアプローチしか無いってのが現代の研究の主流
いくら必死に学者を貶してもそれが変わるわけじゃないよ
もちろん学者を貶せば倭人伝から答えが導き出されるなんて事も無い
心配しなくても当時朝鮮人はいない
倭人が朝鮮半島にいただけで畿内のヤマト王朝は別だろうし
無知の人間か朝鮮人の文化継承マウントなだけ
>>130 倭人伝と一致しないのにどうやって卑弥呼だと決めるんだろうね
いくらゴッドハンド畿内説でも無理があるぞ
考古学的成果を歴史解釈に反映しない歴史学者や考古学者ばかり
狗奴国が南にあるって書いてるのに何処かわかってないのに考古学しかないでしょうに
纒向の南にあり対抗できる人口を抱えられるエリアは南河内と和泉
それより南は山と本州最南端の潮岬しかない
記紀のヤマト征伐で曖昧にされているところ
そんな所に、卑弥呼は居ないよ、馬鹿がwww
魏志倭人伝の倭国の政治の記述を見て、
畿内に卑弥呼が居たと思えたとしたら、
もう、それは、重篤な脳の病気。
>>134 倭人伝の記述では狗奴国は奴国の南あるのだが。
調べるほど魏志倭人伝とズレてくる箸墓
いよいよ畿内説もオシマイだな
>>137 な、答えられないだろ
いくら読んでも答えの出ない倭人伝をありがたがってるのは
いまだに昭和を引きずってる郷土史家(笑)だけ
ID:quhqMXr60 はこのスレでも九州説論者が馬鹿なのを自分で宣伝してるのか?
邪馬台国スレって毎度こういう基地外が多いよなw
>>142 なんか必死やな
どこぞの郷土史家とかに親でも殺されたのか?w
魏志倭人伝は当時の風俗や地名の参考資料にはなるが、結局は考古学物証がないとな
魏志倭人伝の記述で、邪馬台国が畿内の可能性を示すのは、
あの意味不明な道程しかないんだよね。
それ以外の記述は全て畿内を否定する材料ですね。
>>145 倭人伝や隋書、旧唐書なんかの中国の正史以外で
どうやって邪馬台国比定出来るんだ?
考古学って文献史料学の補填分野でしかないんだぞ?
畿内でも九州でも良いけど、畿内だと
魏にとって地の利が無さすぎる気がする。邪馬台国って南の狗奴国との
争いで魏に援軍頼んでるのに畿内って
あり得るのかな?畿内だと南って河内
熊野あたりで援軍頼むなら出雲や吉備
じゃないのか?
>>112 日女子(ヒメコ)だな。
巫女は当字。音の意は「御子」。名前の途中に ミ(御)は入らない。
卑弥呼の周辺の王の名が、○○ヒコ(=日子)なので、
女王だから卑弥呼=ヒメコ=日女子 だな。 メとミの違いは、
当時の九州邪馬台方言「ミ」と、後世の畿内方言「メ」の違いかな。
後世、ヒメコのコを省略して、ヒメ(媛・姫)。
ヒコ、ヒメは、高貴なお方を示す語として長く使われ、
このうち、ヒコは、時代が下ると一般化。
>>145 意味不明だな
魏志倭人伝と一致しない畿内説は必死だなあ
>>147 だからビシッと正解を示してくれよ
倭人伝の記述から判明したのは何処なの?
魏志倭人伝だと殉葬と槨につき箸墓は一致しない
最新観測で更に明白になるから必死な畿内説が来るわけですな
>>151 いつ邪馬台国が比定出来たんだ?
それこそ大ニュースだろが、学者様たちが出来ないことを
親の仇の郷土史家が出来るわけないんじゃねぇのか?
>>141 関川氏 ← この人、畿内説みたいな邪説に関係しないからすごく冷遇されてる
関川氏は今回の講演で、そうした遺物がほとんど出土していない、と指摘された。その上で、考古
学者の立場から「邪馬台国大和説」に対して疑問を呈された。関川氏は纒向遺跡の発掘調査に従事
された考古学者である。それどころか、纒向遺跡から出土した土器を調査して、国内各地方からの
搬入状況を分析・整理された張本人である。
唐古・鍵遺跡では成人用土坑墓や木棺墓、方形周溝墓、小児用土器棺墓などさまざまな墓が見つ
かっているが、弥生時代の墓には副葬品は埋納されていない。弥生中期には墓の中に壷や高坏を供
献じた例はあるが、これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺だけだそうだ。弥生時代の九州
の墓とは全然異なる様相を呈しており、武器も鏡も出ていないのだ。武器と言えば、安本美典氏の
研究によれば、弥生時代の鉄族の数を県別に比較した場合、福岡県は圧倒的に多く398個なのに
対し、奈良県はわずか4個にすぎない。
唐古・鍵遺跡では、大型建物跡が見つかっていて、その柱の太さは根元で80cmもあったという。
また銅鐸の主な生産地だったと思われ、その鋳型も出ている。だが、大陸や半島との交流を示す搬
入遺物は何も発見されていない。これが、対外交流に視点を据えて唐古・鍵遺跡を見た場合の奈良
県最大の弥生遺跡の実態である。人はこの遺跡を「弥生の王都」と表現するが、王都とするには誠
に寂しい状況である、と関川氏は指摘される。そして、これが纒向遺跡が出現する直前の奈良盆
地の実態だったと言われる。
魏志倭人伝を読むと「邪馬台国は九州かな〜、畿内じゃないよね〜」と、なんとなく思う。
考古学的成果から「畿内には大勢力があった」と確信する。
それだけやね。
箸墓にしても 纏向にしても大和朝廷の大古墳は確定してんだから
それについて調査するならなにも問題が無い
しかしマスゴミや学会は卑弥呼に関係してるかもしれないと喧伝する
だから無意味な反発を喰らう
九州説はイデオロギーとかあると思うよ
九州説もあるだろうけど九州説の人は決め打ち九州なら都合がいいと思ってる
>>148 当然の疑問
卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな! 誤りと偽りの「邪馬台国=畿内説」 (推理・邪馬台国と日本神話の謎)
2011/7/20 安本美典 (著)
P175 表19 おもに「魏志倭人伝」に記されている遺物の、奈良県と福岡県の出土状況の比較
大略西暦300年以前、弥生時代の遺物
鉄剣
鉄矛
銅矛
あといろいろ
↑奈良県てなにもでてないじゃん 0が並んでるんだが ひどすぎる!! 稀代の詐話集団・畿内厨??
平成23年出版の本だぞ
壮大なまやかし、インチキ、デマの拡散の典型例として畿内説はタメになる
あれだ、在日朝鮮人強制連行によく似てる
>>155 関川先生は纏向発掘の第一人者やからね
膨大な資料をまとめて分厚い纏向って本もだされた
その中ではっきり纏向は卑弥呼とは無関係と言っておられる
お馬鹿なレス大量にやりゃいいってもんじゃないぞw >ID:xM/c7nNp0
毎度息を吐くように嘘をつくし、逆宣伝になってるのわからんのかな
殉葬と槨のない箸墓が透視される
いよいよ畿内説オワコンだな南無阿弥陀仏
箸墓で興味深いのは中に水銀朱がどれだけ使われているか、鏡の種類はどうかに尽きる。
金印なんて頭近くにあれば九州説は即死だろうな。
だが卑弥呼や邪馬台国云々なんてどうでもいい、邪馬台国は既に畿内で確定してるからなw
>>14 日本は文字や紙が使われるのが遅かったからな
中国じゃ歴史書がたくさんつくられてる時代に、
そもそも歴史がなかった
>>166 まぁ大体そうなんだろうけど、なぜかネット上では学会にほとんどいないオカルト九州説論者が粘着している
九州でもいいんだけど九州なら倭人は日本人に淘汰されたでいいの?
>>166 それはすごい初耳やな 畿内のどこ?その理由は?
>>167
そこまでだ 選挙権のない罪日ちょうせんじん
■中国共産党は恩知らず… 優秀な人間は母国と日本の架け橋になりうるから ならないなあ…
シナコロは大言壮語の前にその恥ずかしい国名を何とかしろ!
中華 人民 共和国
↑ ↑
日本語 日本語
↑国名の3分の2が日本語!!
日 本 な く し て、中 国 な し。 >>168 そんなにビビらなくてもいいだろw
一番個人的に期待してるのは、マジで鏡の種類なのは事実だからな、邪馬台国九州説は本当に一ミリの興味もない。
>>171 え、知らないのかよw
邪馬台国は畿内の河内湖周辺だが?
巻向が三世紀卑弥呼が鬼道で使う宮、日本側の資料で百襲が卑弥呼にあたる皇女、巫女王だよ。
>>170
畿内の名門氏族はほとんど九州からきた 隠してる
先代旧事本紀(天神本紀)
>《天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯て天降供奉る(25部隊)》
二田物部 《筑前》鞍手郡二田郷、《筑後》竹野郡二田郷、《筑後》浮羽郡二田郷、《和泉》和泉郡上泉郷二田
芹田物部 《筑前》鞍手郡芹田、《大和》城上・城下・平群各郡芹田
横田物部 《筑前》嘉麻郡横田村、《大和》添上郡横田村
浮田物部 《大和》葛下郡浮田村
疋田物部 《筑前》鞍手郡疋田、《讃岐》大内郡疋田、《大和》城上郡疋田、《大和》添下郡疋田郷、《大和》葛下郡疋田
田尻物部 《筑前》上座郡田尻村、《筑後》三池郡田尻、《和泉》和泉郡田尻、《大和》葛下郡田尻、《摂津》能勢郡田尻村
久米物部 《伊予》久米郡、喜田郡久米郷、《摂津》住吉郡榎津郡来米、《大和》高市郡来米郷
大豆物部 《筑前》穂波郡大豆村、《大和》広瀬郡大豆村
羽束物部 《摂津》有馬郡羽束郷、《山城》乙訓郡羽束郷
布都留物部
あとは、貼れない
↑寂れてはいるが、みな九州にそんざいを谷川健一氏、鳥越憲三郎氏が確認ずみ >>175 ・・・・もちっとおお?調べてみようかって返答期待したが
纏向は完全に否定されてるんだが、発掘した考古学者!!の先生にね
ファンタジー書紀を信じるのは勝手だがじゃ卑弥呼は
結婚してたんやね?箸があそこに刺さって死んだんやね?
他国と戦争中に自分は旦那さんの顔見たいわ〜とか言ってたのか
目出てぇなw
奥野正男は83年の著書で、こう述べた
「・・・邪馬台国の時代を考古学での弥生時代後期にあてる通説的年代観に立つかぎり、
中国鏡の出る地域が九州北部に限定されているので、邪馬台国畿内説は破綻してしまう。
したがって今後は、その破綻をつくろうものとして、おそらく古墳時代の開始時期を卑弥呼の時代にまでくり上げる主張が、
畿内説の新しい旗手によっておこなわれるであろう。」
この予言通りの展開になってるわな
畿内説が苦しかった時期に科学的年代測定が発達してきて、じゃあそれを使って年代を操作してやろうと思ったとしても不思議じゃない
捏造に寛容な業界でもあるし、しばらくは畿内説も生き長らえるだろう
でもそのうち破綻すると思う
そのときまた新しい詐術を考案するのかね
ちょっと楽しみではある
>>170 実際は100年くらいかかってる(畿内を制圧するまで)
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる
『香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡』
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9 >本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたこと
を示しているという。
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?
↑これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない…
>>176 そら日本人のルーツが春秋時代の呉説が有力だし九州ルーツだろう
でもね古墳から畿内がヤマト王朝なんだよねそれ置いといて語られても
だから考古学だと書いてるのに頭大丈夫なのかなw
>>169 実際現場で作業する人には本当に邪魔なんだよな。特に九州説に多い、訳のわからん妄想全開な自説に付き合う暇なんてないのに。
皇室は続いても途切れても文句は言わないから発掘調査だけはいい加減解禁してくれんかな
>>177 訳わからん事を、頭大丈夫かな?
巻向を発掘していた石野さんなら畿内説だぞw
>>178 したがって今後は、その破綻をつくろうものとして、おそらく古墳時代の開始時期を卑弥呼の時代にまでくり上げる主張が、
畿内説の新しい旗手によっておこなわれるであろう
↑至言やな
古田武彦もすごい
「風土記にいた卑弥呼」←最近再読して唸った
九州王朝除外しても、この人の論は凄い
>>183 纏向発掘はその石野さんと関川さんだよ
第一人者は関川さん
纏向遺跡の真南にあるのが箸墓
纏向遺跡の真北にあるのが黒塚古墳
黒塚古墳は、箸墓の約2分の1の大きさ
黒塚古墳は発掘調査済みで、難升米(卑弥呼の使者)が授かったとされる黄幢(黄色い旗さし)らしき金具が出土している
まあ昭和の考古学の資料しかみてない連中が
九州説に期待するのは仕方ない。
まあ可哀想だが今は2020年だぞ、あまりに
視野が狭いし資料が古い。
また考古学では鬼道に関する、所謂宗教的な見解が全くなされてなかったからな。
この時点で鉄に拘る九州説は脱落してるんだよw
>>171 そもそも大王の墓(物的証拠)が奈良にしかないからな
学者の99%は畿内説と言われているので学問的には
邪馬台国は奈良でほぼ確定済み
>>174 また嘘を言う
縄文系は日本列島何処でも最大勢力
縄文系の男系は日本列島に満遍なく分布している
>>187 黒塚では水銀朱に鏡も重要な資料だからね。
特に鏡の配置と水銀朱の使用方で、その目的や
神仙思想との関連性の研究が進んだんだよ。
>>187 マジかよ
箸墓が卑弥呼の墓で確定じゃん
ID真っ赤な奴が夜勤お疲れ様とか草なんだが
思考ロックのアホは萎える
>>190 縄文人もバカにできないよ
北九州で稲作はじめたの、なんと縄文人
最新の調査研究による
どんどん調査すればいい
九州説の助けになるばかりだろう
>>189 それがそもそもの間違いだとわざと気づこうとせんのやね
大王なのではないのだよ卑弥呼はね
あれま河内湖周辺から奈良になったのか 変わっていくのか?
邪馬台国は当時土人だからなどっちでも別にだけど
ヤマト王朝が問題になってくるのよね畿内邪馬台国継承か九州邪馬台国制圧かで
>>200 あなた何を言ってるの?
卑弥呼は金印をもらった大王だよ
箸墓はモモソ姫の墓とされているが
『日本書紀』でもモモソ姫は、最高神・大物主の妻だから天皇よりも偉い人だよ
>>201
良書 一読をすすめたい
倭人伝の文面を無視し独り歩きしている「邪馬台国」という言葉。
それを怪しまず助長する学界とジャーナリズム。
この状況を許したのは、倭人伝は所詮つじつまが合わない文献だという共通認識だった。@@@@@@@@@@@
しかしほんとうに倭人伝はつじつまの合わないものなのか。
同時代の中国数理科学文献を典拠とし、倭人伝行路記事の隠された高度の合理性を露わにし、
千七百年の謎に挑んだ意欲作。
金沢大学の半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」を拝読すると、
当時の中国の数理天文学書や数学書を典拠として魏志倭人伝の行程が
極めて合理的に論証されているので、私には半沢氏の九州説が妥当と思え、
魏志倭人伝の記述の南を東に読み変えねばならない畿内説は分が悪い気がする。
第6章 傍線読法の典拠としての中国古代数学
29 『周髀算経』における先行動詞が無い「至」
30 『九章算術』における先行動詞が無い「至」
31 『九章算術』における先行動詞が有る「至」
32 中国古代数学におけるゼロ「無入」
33 中国古代数学の語法で書かれていた倭人伝行路記事
第12章 邪馬台国大和説批判
55 邪馬台国は日本最強の勢力という思い込み@@@@@@@@@@@@@@@
56 大和説の根拠としての『日本書紀』
57 日本の王は天皇だけという思い込み
58 大和説の根拠としての三角縁神獣鏡
59 下賜鏡ではありえない三角縁神獣鏡
60 卑弥呼の墓になじまない箸中山古墳@@@@@@@@@@@@@@
61 倭人伝そのものが否定する邪馬台国大和説@@@@@@@@@@@@@@
62 前史がなかった大和@@@@@@@@@@@@@@@@@
第13章 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
63 文献から消えた邪馬台国
64 前方後円墳創出に寄与せず、やがて前方後円墳圏に入った九州@@@@@@@
65 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国@@@@@@@@@@@@ 埋葬の仕組みが違うから卑弥呼ではあり得ない
素粒子で証明とは畿内説はオシマイだわ
>>204 卑弥呼の埋葬の仕組みなんてどこにも書いてないが
>>202 ああ、そうですか それで結構です
黒蛇と結婚した天皇より偉いお姫様だったのですね
箸墓がなぜ重要かというと明らかに最高ランクの墓だから。
当時の人々は「箸墓に眠る人は天皇よりも偉い」と思っていたことはその形状から間違いない。
五段築成 箸墓
四段築成 とくに偉大な天皇の墓
三段築成 天皇の墓
大物主は八咫の鏡
出雲国造神賀詞
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
>>208 卑弥呼の墓が有棺無槨とはどこにも書いてないよ
>>207 モモソ姫は、天照大神と並ぶ最高神・大物主の妻だからね
めっちゃ偉いよ
>>203 全く論外見当外れだな、畿内説を勝手に都合よく解釈する典型的九州説だw
これも卑弥呼は鬼道使いという部分が完全に抜けている。
まあ都合悪いからだろうがw
>>212 そうですか そんな偉いお方と戦って勝っちゃった国もあるんやね
偉い割には魏に助けてよ〜と使いだしたりするんやね
だとしたら宗女の台与もさぞ偉いお姫様なんやろね
>>213 卑弥呼について書いてある魏書の東夷伝には
邪馬台国が書いてあるのに、
なんで畿内で成立したはずの日本書紀には書いてないの?
>>213 卑弥呼は鬼道使いという部分
又東至秦王國。其人同於華夏、 『隋書』倭国伝
↑そこにいたのは、シナ人だった
九州東北部の神籠石のある地域だ
そこが邪馬台国だ
秦氏の根拠地…
隋書倭国伝
彼 裴世清が見た「夏人(シナ人)」の国とは
卑弥呼の居城、福岡県の京都郡の神籠石 御所ケ谷のことな
卑弥呼以後、新羅文化の流入が大きくシナ人化したようだ
裴世清からみればシナ人とみえておかしくない
5-6世紀に建設された神籠石と3世紀の邪馬台国とは関係ないとの反論もあるが、200-300年程度で国(国邑)の配置が
大きく変化することはないし、神籠石が5-6世紀に建設されたとする根拠も希薄なものである。
>>190
言い逃れはできんよ
近畿ヤマトは渡来系と言われる(華人と縄文人の)混血弥生人の国
呉の太白の後裔
>>213
卑弥呼の居城(邪馬台国と同一とは限らない)は、福岡県の京都郡の神籠石 御所ケ谷
明治以来、何人か高名な先生も訪れて山城か、祭祀施設なのか論争あったみたいだが
中世の改築の跡を見逃してたり、とにかく朝鮮式山城にしたがってたりで、低レベル
近畿論者に匹敵する底の浅さ
鬼道をこととし、
↑御札とまじない水の怪しい土俗宗教 シナ人には、五斗米道に似て見えた
だから、鬼道という同じ言葉を使った
熊本のトンカラリンが先かもしれないが、御札とまじない水をつかった
日本神道の、禊と祓いのルーツでもある >>7 なんで調査せんといかんの?
天皇家は途絶えずずっと続いてるんやで
おまえさんは自分の先祖の墓を他人に荒らされても平気なん?
どんどん技術が進歩してゆくな
いずれ発掘調査そのものが必要なくなる日が来るかも
>>189 これ、クリアーできたらだね
日本では、その旅程記事などから一里約76メートル(これを短里と呼ぶ)とする説も唱えられており、魏志倭人伝で距離表示に短里が用いられているとすれば直径は約30メートルとなる。またこれだけ巨大な前方部が無視されている合理的な説明がつかない。
もっとも早い蓄造であっても並立王朝説などに対しては全く反論にならない上、早くとも3世紀後半という卑弥呼没年との築造年代のズレも問題がある。
殉葬跡が存在せず、箸墓古墳と同時期に築造された古墳は全て有棺有槨であるなど、倭人伝の記述と全く一致していない。
>>221 そもそも倭人伝の記述では「大王の墓は」有棺無槨であるとは書いてない
>>204 九州説はこうやって魏志倭人伝を曲解するしかないんだよな
・倭人一般の風習を邪馬台国のことだと曲解
・そのくせ、邪馬台国について書かれている部分は都合が悪いからガン無視
>>216 なんで新羅?
>景行天皇の時代、熊襲が背いたため征伐すべく、天皇自ら西に下って筑紫(九州)に入り、
豊前国長峡(ながお)県に行宮(かりみや)を設けた。そこから京(みやこ)と呼ばれるようになった。
北九州市・行橋市・築上郡との関係が非常に深い。
この地域はかつて豊前国の中心地で、国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されている。
>>215 『日本書紀』では神宮皇后記に『魏志倭人伝』が引用されてるので
『日本書紀』の編纂者は邪馬台国は奈良であると思っていたことはわかるが
>>223 そもそも倭人伝に卑弥呼の墓について書いてあるのは
『卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。』
オオキミなんて書いてない
>>215 日本書記は仏教普及の書だからだけど?
唐にむけてなんだから、昔ある大陸との関連なんて基本的に書けないだろw
だから欠史の部分が一番可能性があるという事。百襲もホトを突いて子供がいないと強調してるのはその為だろうね。
百襲には大物主の子孫がいては困るだろう。
また神道にも繋がる三輪山の大物主も、箸箱にはいるような小さな蛇だとバカにするのも、権威下げの為だね。
>>226 なら神功皇后が遣魏使送ったと書いてあるはずだよね?
こんだけ送ってるんだし。
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。
正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。
建安年間(196年-220年)公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、
後漢の遺民を集めるため公孫模や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、
後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。
この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
景初2年(238年)、魏の明帝は劉マを帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、
この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。
6月[注釈 14]または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。
帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。
-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は
女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。
また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
8月23日帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。
帯方郡と楽浪郡が魏に占領される[1]。
景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、
倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。
皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始6年(245年)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。
正始8年(247年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。
太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、
掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
>>221 あと魏志倭人伝って100里単位のかなり大雑把な記述だよ
「1里76メートル」みたいな細かい測定していたわけない
>>231 だから長里か短里かで議論があるんだろ?
謎なのは長里説だと、一切吉備国周辺の地名が出てこないことだけどな
>>229 うん、『日本書紀』に引用されてるけど
知らなかったの?
>>228 ところで遣新羅使はきみの中でどの本に書いてあることになるの?
あと遣渤海使は。
まさかそんなのなかったなんて言う?
>>226
すげぇーーーなその新説ww
卑弥呼死んだのいつ?神功皇后の朝鮮征伐はいつ?
死んだ後でもゾンビのごとく活躍して海の魚たちは
大小問わず皇后の船を背負ってくれて
強い追い風が吹いて進んだんやね いかったいかったw >>167 口伝だけで独自な文字がない。日本書記の成立年代すらほんとはわかんないんだよ
>>233 考古学的には神功皇后だと思ってないけどね?
なにせ現存もしてないしね
テキトーぶっこくのやめてみようか、チョンみたいだから
この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用される『晋起居注』(現存しない)に、
泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。
現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年に倭人が朝貢したとあるので(女王という記述は無いが)
現在では、時代的にこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の壹與であり、
魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。
>>230 遣隋使は倭の仏教普及に関連するからな。
卑弥呼は女王と書かれたのも不味い。
>>232 そもそも100里単位ってことは正確な測量をしていたとは思えないので
どっちでもいいのでは
当時は行軍速度を1日30里で計算してたりするから
船で1日を100里としていたと考えるほうが妥当
>>167 魏の使者が卑弥呼と文書のやり取りしてるから古代から文字はあったはず
大化の改新で片っ端から燃えて消えただけや
ID:y+izSIC70
畿内説は説の正しさがどうかと言うよりも、
この程度のがドヤ顔するから不利なんだよな
頭悪い擁護者が多い
5ちゃんになるとその率が跳ね上がる
>>232 議論なんてどこにもないが?
短里厨が度量衡の捏造をしようと言い張ってるだけ
>>244 あ、史学会のこと知らねえのか
じゃ素人はNG
>>242 国記や天皇記が一部燃えてしまったからな。焼け残ったのがあったと日本書紀には書いてあるんだがな
>>241 そお?
じゃなんで邪馬台国に行ってるはずなのに、北九州のあとピョンと記述が奈良大和に飛ぶの?
その間トンネルでも潜ってたの?
どこでもドア?
山陽新幹線乗ってたとか?
>>1にレスしてんの3人しかいないな
もう君らスレネタ関係なく邪馬台国の話がしたいだけなんじゃないかと
>>247 焼け残ってるのが現存する風土記でしょ?
>>238 だから中国の歴史書だと台与だけど
『日本書紀』の編纂者的には神功皇后なんだろ
歴史認識が違うなんて近代でもよくあること
>>93 邪馬台(九州)の裏に、新覇権国=畿内勢力がいる。
自分は朝貢せずに、名目上の倭国盟主邪馬台に朝貢させ、
その権威と利益を頂き、列島に君臨する。
倭国大乱で、旧覇権国・邪馬台が負けた結果だ。
その前の漢の時代は、邪馬台が列島の覇権国で、
配下の奴国に朝貢させ、漢の権威と下賜される財をもって
(及び鉄輸入独占も)、列島に君臨した。
中国側の文献から、このくらいは分かるわな。
>>245 そもそもそれらは編纂との年代が近いだろw
日本書記に載せて不具合がある訳もない。
仏舎利が変な形で伝わって高貴なのはあちこち分骨するらしいっていうので
由来のある二百ヶ所くらいに墓つくって分骨されてるんだけどな
>>248 そういうトンチンカンな感想を抱くのは魏志倭人伝を邪馬台国旅行記だと考えてる証だな
バカすぎ
>>248 あのな
伊都国には中国の役人が駐留していて外交が盛んだったんだよ
朝鮮半島から伊都国までは情報が詳細になるのは当然だろ
あまり直接的な交流のない伊都国から邪馬台国までの記述は内容が薄くなって当然だ
>>248 頭が悪いな、本当にw
北部九州で西鉄のってぐるぐるしてるのかな?
>>226 日本書記には、まず原本がない。成立年代すらほんとはわからない。
>>253 ようするに邪馬台国のことが書いてあるのにのは魏書だけなんで、
明確にそれは邪馬台国はトヨの国として書いてあるわけだ
で、それを日本書紀の編纂者は根拠なく神功皇后だと思い、
本居宣長は邪馬台国は九州で、ヤマト朝廷とちがうとし、
新井白石は初期はヤマト朝廷と考えていたが、後期にやはり邪馬台国は九州にあるとしてる
ってことだよね?
>>258 んで、吉備国には日本書紀によると絹を伝えたい渡来人がいるのね?
ならそれと同じく伝えてなきゃおかしくね?
関裕二って人面白い、神功皇后がトヨだってね
伊勢神宮も変だと思ってた、豊受が何で同じ大きさなのと
箸墓を調べられればはっきりする事が結構ありそうなんだがな。
普通に考えて地理的に見たら、
吉備国、瀬戸内海の地名がゼロってありえないでしょ?
むしろそこ示さないと意味ないじゃん
そもそも箸墓は誰の墓かというと、百襲が比定されてる訳だが、百襲は田原本辺りの生まれで
瀬戸内海に渡りその後大物主と神婚という形で
奈良に戻るという姫だからな。
つまり瀬戸内海を女王の国とすると、行程の問題も殆どクリアされているからな。
もっとも畿内説ではそんなみっともないパズルをする必要性もない。
>>270 信憑性がある内容は古事記が5割日本書記は15%ぐらいだと言われてるよ
>>271 チームリーダーの東大教授が述べているはっきりしたことは
「これは卑弥呼の墓ではない」だけどね
なにせ魏で作られた鏡がゼロ
大和は豪族の連合政権で、風と共に去りぬだね
元は出雲がデカくて、吉備の物部が神道つくって
尾張は今と同じ、関西とはついたり離れたり
瀬戸内海や畿内周辺の地名は倭人伝の傍国で説明されてるからな、それらが女王国の構成国。
畿内が邪馬台国で何の問題もないんだよw
別に卑弥呼の墓でなくてもいいけどね。
ヤマト王権がこの周辺の地域に誕生したことは疑いがないし
卑弥呼がどこにいたかは金印でも出なければ結局はわからないことだ。
>>274 だから当然、最優先は魏書や晋書になる
素直に読むと九州としかいえない
なら邪馬台国卑弥呼は九州で、
ヤマト朝廷は近畿でよくね?と思うけどね
実際、淡島や淤能碁呂島から上陸したって言ってるじゃん
バカがいたから、あるあるシリーズ追加しとくw
九州説のやつらによくある勘違い、間違った知識
・邪馬台国論争は東大が九州説で、京大が畿内説である
・邪馬台国の時代とヤマト王権の誕生の時期は100年の差がある
・畿内と北部九州は3世紀にはほとんど交流がなく疎遠だった
・桃は祭祀に使われるので、桃の種は卑弥呼が纒向にいた証拠だと畿内説が主張している
・九州には邪馬台国の証拠となる物証、中国との交流を裏付ける物証が山ほどある
・弥生時代の九州には大量の鉄器があった
・魏志倭人伝には邪馬台国の風習風土が細かく書かれている
・魏志倭人伝は短里という公式の里とは違う距離単位で書かれている
・魏志倭人伝とは邪馬台国旅行記である
・卑弥呼の宮殿は吉野ヶ里のような環濠集落でピッタリ
・南国風の記述は九州で合ってる
・狗奴国との戦争で苦戦していたので、魏に援軍を依頼するために帯方郡に使いを送った
北九州の卑弥呼が倭王を偽って
魏の使者に都はすごく遠いと適当に
それを神功皇后が滅ぼして後継者を偽る
>>274 歴史学は答え合わせのできない学問なので
推測と説で仮定するしかなく信憑性云々は
古ければ古いほど資料観測者の主観の域をでない
なのでそこは浪漫で語るしかないな
であるから歴史を語るのは楽しいのではあるが
>>278 そうそ
箸墓古墳はその後の前方後円墳のもととなり、
各地の産物と引き換えに、銅鏡や銅鐸を下賜して、各地の支配権を認める祭政一致の神殿だったと思う
これで十分
ヤマトモモソヒメって大和言葉詳しければ、
大和のたくさんの祖先のヒメってわかるはずでね。
だから全ての神社の総本社、伊勢神宮みたいなもんだったんだよ、きっと
そう考えるだけで価値は下がらないし、みんな幸せになれる
>>279 そりゃヤマト朝廷は近畿にあったんだから近畿だろ
>>276 大和豪族の連合王権なら
大和>毛野>吉備>出雲>日向になるね
>>279 でた、素直にヨンダラ教w
足りない知識で素直に読んだ気になってるだけだよ。
そもそも倭国伝では倭人伝の方角も訂正されて
古の邪馬台国はヤマトと明記してあるだろ。
>>97 バングルが古代から使われてるってよく歴史スレに書き込めるな
キチガイレベルだぞ
どこまで本当かわからん書物より出土物の方がよっぽど確実だ。
>>282 邪馬台国エクアドルでも沖縄でも好きにしたらいい
素粒子探査は火山の断層写真やってたのが画期的だったが今や県立研究所でもやるのね
今の素粒子探査は1枚きりのレントゲンみたいなもんだろう
俺がまだ若かったなら、色んな方向から撮って合成するCTで立体画像作る研究するけどな
箸墓の年代がわかるだけでもわかることは多いと思うんだがな。
3世紀半ばと終末、4世紀という説もあってそれは大違いだから。
>>287 御用学者が邪馬台国まで近畿に持ってきたがる理由を考えてみて
>>285 今東京に誰もが集まるように、いろんな地方の豪族が
交通の便も良い大和に連合政権作って、参勤交代
時々壬申の乱やヤマトタケルのように利害対立
>>283 ヤマトトトヒモモソヒメだぞ、それに大和言葉知らないだろ。
〜に違いない
とか言ってるのは学者ではないね
ただの予想屋
ピラミッドはワクワクするのに古墳だと全くワクワクしないのは何故なのか?
ご先祖様のデザイン力が低すぎたせいだ
>>294 ロマンで語るなら極端に言うならどこでもいいて話になるよ。
記紀が成立したとされる8世紀と邪馬台国の卑弥呼が死んだとされる3世紀半ばは何百年も間があるし、
箸墓の説話の箸で隠部をついて死んだとかいう説話も箸が伝来するのはずっと後である以上デタラメだし、
普通に考えればヤマトトトヒモモソヒメの墓という伝承自体、後付けのものである可能性が高い。
>同古墳は宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止
もう宮内庁なんて解体すれば?
>>304 それは極論ってものでしょ
歴史「学」の話をしてるんだから常識で考えようよ
資料あっての物種さ
>>301 田んぼの残土の盛り土だってね
仁徳天皇は灌漑事業した人だと
ピラミッドもあの周りに良い土が溜まると
>>307 信憑性がある内容は古事記が5割日本書記は15%ぐらいだと言われてる
この意味は古い文献だからほんとかどうか、わからないてことじゃなくて
記述につじつまが合わないのがあるって意味だよ
ロマンだけじゃ騙される
ハシハカと呼ばれていたなら、むしろパールシーのハシだろうと思うけどね。
ハシヒトは奈良時代は確実に奈良にいたんだし。ちなみに聖徳太子の母親もハシヒト。
大体大物主自身も海を渡ってきた、元々インド辺りの神だと言われてるのに。
そうなると大物主の正体はエジプトのトト神がルーツになる可能性はあるよ。
色んな知識や技術を持つ神。
ヤマトのトト妃なら意味も通じてしまう。
まあ、でも聖徳太子でも日本書紀より古い資料はないわけだから、本当にいたのかどうかわからないという話になる。
ビックコミックの卑弥呼は九州説だよな…
ここに書き込んでる人はは読んでるのかなぁ?
>>309 真実であるか史実であるかは別問題なので
史実上の何かについての信憑性は真実でなく史実なのだから
それはあくまで史実上の事柄でって真実とは別なんだよ
そして歴史学にロマンがあると言っているのであって
歴史学がロマンだけなんて言ってないよ
大化の改新だって記紀に書いてある以上の根拠はないわけでしょ。
その後の文献も他の伝承はあれど結局は記紀が出典である事がほとんどなわけで、
記紀しか根拠はないだろう。
>>16 同意。ミューオンで何ができるって感じ。
ピラミッドの部屋発掘と原発デブリだけでいいわ。
>>314 日本書記も朝日新聞も変わらないと思うけどまあいいや
>>317 また極論
古文書と現代の新聞を一緒にするって
学問以前の問題だよ
朝鮮人は悪魔の洞窟とかいうところから突然現れた次元侵略者であった。
関裕二を改めてお薦めする
眼光紙背とはこのこと、勝海舟だ
蘇我入鹿や道鏡は今でいう斜陽族だね、最後は負けるよ
(特撰)邪馬台国透かしてみれば平和かな
的な臭い文章が思い浮かびますね
>>319 構造は同じだよ珊瑚事件でも、ばれなかったら史実とかいうものになってた
記紀とか伝承を組み合わせてああだこうだ推測するのは楽しいけれど
言おうと思えば誰でも何でも言えるのでエンタメの域をでない。
例えば箸墓には崇神天皇の時代の人が葬られていると記紀に書いてあるけど、
掘ってみて時代が違う可能性があるわけで、
違ったら「やっぱり記紀に書いてあることは怪しい」となる。
つまり記紀とか魏志倭人伝だけみてあれこれ言うのでなく、むしろ発掘されたものの方を重視すべきだね。
>>323 それは真実の話ね
現代の話で且つ当人が認めてるんだから
史実と真実の話はしたでしょ
理解してくれ頼むから
邪馬台国を議論する人は多くても
存外読み下しでもいいから魏志倭人伝を全文読んだ人は少ないんだよな
畿内なら邪馬台国の南にあるっていう侏儒(こびと)国は何処になるんだ?
淡路島か?w
藤原鎌足の墓なんかはお宝も遺体もまるっと残ってるから興奮出来るんだけどな
仁徳天皇とか記紀に書いてあるだけで、いたかどうかすら本当はわからないわけだから。
発掘するべきなんだよ。
>>326 急に種子島に飛ぶから気にしなくていいんです(キリッ
卑弥呼が奈良に居るわけないが
女の骨が出てきたら、ムリヤリ卑弥呼にしてしまいそうな悪寒
黒歯国こそがお歯黒の先祖だからやはり畿内で正しいんだ(ドヤッ
もう誰も畿内にあったなんて思ってない予感
意地とプライドと派閥のぶつかり合いだな
奈良じゃねーよ
福岡熊本大分宮崎のどこかだろバカヤロウ
一寸千里の法とかいうけど、もし倭人伝の方角が適当なら意味ないんじゃね…
平安初期ですでに「陵墓」の正確な場所がわからなくなってる状態
陵墓の比定が誤っていても祀っていれば霊は遷っているからかまわないという宮内庁
税金で管理している訳だし
陵墓同定の根拠を示して支出の適正を精査する義務がある会計監査院も指摘すべき
魏が公孫氏滅ぼして半島が安定してない状態の時に邪馬台国が使者を送ってる。
しかもほぼ翌年とかのレベルで。
かつ邪馬台国も狗奴国と交戦中。
こういう情勢を見てみると畿内に
トップがいたら地政学的に無理がない?
畿内にも大勢力があったんだろうと
思うけど、あくまで魏書にある邪馬台国
って九州地方なのかな、と思う
>>187 黒塚古墳の黄幢って東潮が著作にあったな
「よくわからんが凄いものが出た。多分邪馬台国に関連しているに違いない。」という何時もの畿内説の思考パターンの典型だよね
魏志の韓と倭は周時代の短里で書かれてるのに、
それを認めない石頭共が言ってるだけなのが畿内説。
そのアフォさ加減にはもうアキレるしかない
>>326 女王国の東に海があり、海を渡った先にまた倭人の国があるって事も知らない人がいるよね
この勢いで岡山県倉敷市にある楯築遺跡も調べて欲しい
前方後円墳の原型
>>347 淡水の琵琶湖を海と勘違いしただけだからセーフ!
福井にちょん皇の先祖の継体がいて大和朝廷のちょんにスパイさせてのっとたんだろ?
『魏志』(倭人伝を含む)は
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いたものですから
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里 対馬國
− 海を渡る1000余里 一大国
− 海を渡る1000余里 末廬国
− 東南に500里 伊都国
− 東南に100里 奴国
− 東に100里 不弥国
− 南に水行20日 投馬国
ー 南に水行10日、陸行1月 邪馬壱國
は、ほぼその通りで、西晋は「そう感じてた」のでしょう
ただし『隋書』を書いた唐(618年 - 907年)によれば
倭人は隋(581年 - 618年)の時代でですら
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
ということですから、確実に正確なのは
不弥国から水行20日で投馬国
投馬国から水行10日、陸行1月で 邪馬壱國
という日数だけ
なので邪馬台国が九州にあったわけがないことから
大多数の考古学者は大和説です
しかし
たとえば卑弥呼がもらった金印が出てもだめで(後からよそに動かされる可能性があるから)、
邪馬台国の位置を書いた地図が中国で出ない限り、万人(九州説者)を納得させるのは難しいでしょう。
と、元館長・佐原真は九州説者を完全に小バカにしてますねm9(^Д^)プギャー
政情が安定しない時期に出家した王家の娘を連れ戻して女王にしたのが陽巫女なんでしょ
最後は皆既日食か何かが起こったせいで焼けた鉄串をぶっ刺されて殺されたらしいけど
だいたい、この辺の逸話が作り話なのかあちこちの神話を組み合わせて神聖化したのか
そもそも別人なんじゃね説まで有って謎すぎなんだよな
>>355 方位なんかわからんだろ
倭人は隋(581年 - 618年)の時代でですら
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
そんな倭人に「次の国はどっちにある」と質問し
倭人が「あっち」と指差した方角
距離は、建忠校尉の梯儁たちの当てずっぽう
現実に、海を渡るのはすべて1000余里
陸路は、500里(遠い)か、100里(近い)かしかねぇ
なので、唯一確実なのは
不弥国から水行20日で投馬国
投馬国から水行10日、陸行1月で 邪馬壱國
という日数だけ
糸島の女王墓が脳内妄想で考える弥生ジャパンを具現化しすぎてて
箸墓もよほどな発見がない限り俺の九州妄想説を覆せないな
>>357 ほう隋書を出してくる人が居るね
隋書で出てくる阿蘇山ていう天に火を噴く火山があると
書かれてるけど畿内説ではどれに該当すんの?
ただしだ
もしも邪馬台国が九州にあったとしたら、そうはいかない
九州の「漢委奴国王」の倭奴国は
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や、佐賀の吉野ヶ里遺跡などの
大型建築物の跡がバカスカ出てきて
鉄器や硯、鏡などの、大陸からの出土品もザックザクで
渡来人がアチコチに居た痕跡もワサワサ出てくる【大都会】
距離も方位も【間違うわけがない】どころか
詔書と印綬を守り携えて、帯方郡の新たな太守の【弓遵】から派遣された、建忠校尉の梯儁たちが、もしもそんな九州に行っていたとすれば
地図ぐらい持っていたとしても不思議では無い
>>357 海で正確に方角が分からないでどうすんのさ
思うんだけど倭人条の水行部分って日数
なわけで、歓待宿泊とか天候で足止め
食らった日も含まれるわけでしょ?
普通に大分あたりで残ってる遺跡を調べた方が発見がありそう
>>360 隋(581年 - 618年)の時代に、大陸から【大和朝廷】の首都(奈良)に行く行程を、
舒明天皇から630年に遣唐使を派遣された唐(618年 - 9が書いたのが、『隋書』
『隋書』は
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
という行程で
【大和朝廷】の倭国は、常に火を吹く「阿蘇山」があり
【大和朝廷】の首都(奈良)は【邪馬台国】の女王国「邪靡堆」だ
と書いている
おなじ奈良にいくのに
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が、ほぼオンタイムで書いた『魏志』は
魏(220年 - 265年)の時代に、大陸から【邪馬台国】の女王国(奈良)に行く行程を、
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬壱國(奈良)
と書いており「阿蘇山」の記載は無い
>>366 つづき
つまり
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が、ほぼオンタイムで書いた『魏志』の
大陸から【邪馬台国】の女王国(奈良)に行く行程は
九州地方は通らないんだよ
卑弥呼と大和朝廷を無理矢理こじつけるのはいい加減やめなさい
隋書には難波津って明記されてないと
思ったけど。
日本書記にはあるけど、このへん隋書と
かなり記述が違ってるから混同しちゃう
とダメな気がする。
あと、隋書は使者が阿蘇山がよく見える
地域まで行ったんだなってことだね。
>>367 ほんと都合よく省略するしどうせ分かんないだろうと適当な事書いてるね
一支国も竹斯国(筑紫国)も九州だよ、秦王国は見た中国人がびっくりするほど
中国そのものだと書いてある通り筑紫国からの距離方角考慮すれば
現在の大宰府に比定されてる
それと十余国過ぎてとあるが全然合わない、宋書において雄略天皇が
近畿以西に存在する121か国を支配していると報告している
10余国ではまるっきり合わない
ま、他にもいろいろあるがあんまり適当な事書き並べないほうがいいね
火山の件も知らないようだしね
あと対馬壱岐ルートは九州上陸するはず。
九州通らないだろうって推定されるのは
沖ノ島ルートの方じゃない?
マナの壺型古墳は卑弥呼の墓じゃねえよ
支那から下賜された物を後生大事に抱える大王があるか
大王古墳にあるそういう宝は全部倭人から奪った物だ
>>24 神社庁が管理しきれてない古い社もあるそうだから
画1もんじゃないわな
古代は大陸や半島との交流 繋がりも濃かったから もっと ダイナミック、アカデミックなもんだよ
>>28 違う、属国である朝鮮からの貢物が必ず陵墓にある。
問題は記紀の記述通りに属国からの貢物って嫁ばいいのに馬鹿丸出しで天皇は朝鮮由来とか電波ムンムンの妄想満載の寝言が始まるからだよ。
>>354 >>357 あのな。近畿説のような、漢文も読めない常識もないアフォ用に
まとめて
魏志倭人伝
「自郡至女王國萬二千餘里」(自郡から女王国まで1万2千余里)
と書いてある。"短里"でな
>>97 ハングルはネタだと思うが属国である朝鮮からの貢物は必ず埋葬されてるからお前のように歴史書も読めない低脳低学歴が喚き散らすから発掘ができないんだよ。
>>370 そうさ
舒明天皇から630年に遣唐使を派遣された唐(618年 - 9が書いた『隋書』の
一支国も竹斯国(筑紫国)も九州
しかは
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が、ほぼオンタイムで書いた『魏志』の
一大国や末廬国は、『隋書』の一支国や竹斯国(筑紫国)では無い
邪馬台国かぁ
場所が決まったら、大河ドラマで能年玲奈ちゃんに演じてもらいたいね
卑弥呼とはイメージが合わないけど、実際のことは分からないから
大仏開眼みたいな単発ドラマでもいいから邪馬台国みたいな
分からないことだらけで、また下らないギスギスした人間関係ばかりだろうけど
>>375 一大国が、一支国(壱岐)であるならば
末廬国が、竹斯国(筑紫)
韓国− 海を渡る1000余里 対馬國
対馬國− 海を渡る1000余里 一大国(壱岐)
はいいが
一大国(壱岐)− 海を渡る1000余里 末廬国(筑紫)
は、距離が全く違う
1000余里もねーよ
ほんとにみんな、あんな布袋さまみたいなダブダブの着物で
もみ上げが「i3」みたいな形だったんだろうか
考えてみたら昔の人があんなもみ上げだなんて、どうやって分かったんだ
なぜスレタイを大和政権とか百襲姫とかにできんのや?
古事記の高天原がどこにあったか?
答えは、現トルコ、当時メソポタミア文化圏のタガマ地区にあるハランという都市、タガマハランである
タガマハランはヘブライ民族の祖アブラハムの生まれ故郷であり、アブラハムの子孫であるユダヤ10氏族が古代イスラエル王国から離散したときに逃れた地でもある
失われたユダヤ10氏族が予言者イザヤとともにタガマハランに逃れ、そこからシルクロードを伝い東へ旅を続け、辿り着いた地が日本なのである
後、正式に日本という国を定めた暁に、伊勢神宮を建立して六芒星で祀り、さらに、予言者イザヤのために、伊雑宮(いざわのみや)も築いている
邪馬台国の醜い奪い合いにようやく終止符が打たれるのか?
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いた
『魏志』(倭人伝を含む)に出てくる邪馬台国は
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば中国の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほどの、国際感覚もない奈良の田舎者で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような、全く国力が無い国で
一大国という島から末廬国という本土までは
韓国− 海を渡る1000余里 対馬國
対馬國− 海を渡る1000余里 一大国
と同じぐらいの距離があり
末廬国という本土に上陸した後は、王がいる伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされ
「阿蘇山」の記載もなく
不弥国から水行20日で投馬国
投馬国から水行10日、陸行1月で邪馬壱國と
とても遠い
>>360
>隋書で出てくる阿蘇山ていう天に火を噴く火山があると書かれてるけど
嘘はイカンぜよ! 嘘つきさん。 わははははは @阿波 >>386 おそらく薄々九州北部らしいという事はわかってたが、
天皇の先祖が併合した反抗的な地域の出身であることが推測されることを
公式に大和朝廷勢力圏全域に公表することは都合が悪かったんちゃうかな。
卑弥呼の墓だとわかっていないのにイメージ植え付けようとしてるね
陳寿「ごめん、言い伝えで都合のいいように適当に書いた…」
これだろ
>>14 今皇族関係の墓とされてるのは、記紀や延喜式諸陵式に書いてある山稜を明治時代になって再認定しただけだよ。
ある程度の場所が書いてあるから、そこの現地に行ってあーこれがそうですねってやっただけ。
延喜式諸陵式は国会デジタル図書館で公開されてるから見たければググってどうぞ。
>>364 荷物川に浮かべて歩いていったらそのくらいかかるよね
>>390 失われたユダヤ10氏族の末裔が最初に入った地は沖縄ではないかと言われている
那覇はヘブライ語で休息を表し、また、神の名であるヤハウェがヤエとなり、八重〜という地名が多く存在する
神の民は、沖縄を拠点として日本列島の征服作戦を練り、実際に黒潮に乗り、九州、瀬戸内海を経由して最初に征服したのが淡路島であるゆえに、古事記では日本で最初にできた島とされる
また、日本征服計画も一枚岩とはいかず、先兵となったスサナオの勢力は縄文族と同一化し出雲族という独自勢力となったが、三種の神器を携えた本軍が一斉侵攻した際には恭順し、国譲りをした
>>343 全く意味がわからない遠いから無理って書いてるんだぞ
>>237 6世紀以前の天皇達はみんな捏造だからな
捏造大好き朝鮮人もドン引きするほど
>>1 これじゃためだな
卑弥呼の遺伝子探してクローン作るくらいのプロジェクトならいくらでもクラウドで金集まりそう
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いた
『魏志』(倭人伝を含む)に出てくる邪馬台国は
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば中国の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほどの、国際感覚もない奈良の田舎者で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような、全く国力が無い国で
一大国という島から末廬国という本土までは
韓国− 海を渡る1000余里 対馬國
対馬國− 海を渡る1000余里 一大国
と同じぐらいの距離があり
交易で訪れた民間人も頻繁に行き来しているだろうに
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされ
「阿蘇山」の記載もなく
不弥国から水行20日で投馬国
投馬国から水行10日、陸行1月で邪馬壱國と
とても遠い
まぁ、九州の国じゃねーな
>>237 日本書紀の欽明天皇のところを読んでみよう。
「帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢經遷易」
帝王本紀に古い字が多くあると書いてある。
漢字以前の文字が存在していた事は間違いないよ。
卑弥呼って韓人の妾の私生児だったし、韓人の性奴だったってのにね
韓人は倭人の可能性があって
朝鮮人は11世紀頃からなんで日本が文化を教えていたんだよ
>>401 対馬から、見島か隠岐を経由して、山陰に上陸し
出雲主王がいる出雲に立ち寄って
桃の種しか出ないクソ田舎の奈良
のほうがしっくりくるな
対馬、壱岐、松浦、伊都あたりまでは中国の文献でも確実に追えたね
卑弥呼の前は男の倭国王の時代が約80年
倭国の始祖は誰なんやろ?
大国主とスクナヒコナ?神武?
>>324 魏志倭人伝がなければ箸墓の年代をゴッドハンドする必要なかったのにな
>>407 ざんねーーん
韓国 − 海を渡る1000余里 − 対馬國
対馬國 − 海を渡る1000余里 − 一大国
一大国 − 海を渡る1000余里 − 末廬国
だから
壱岐、松浦じゃ近すぎるし
交易で訪れた民間人も頻繁に行き来しているだろうに
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、街道も整備されていないクソ田舎
だから
松浦、伊都でもないし
そもそも「阿蘇山」の記載がねーから、九州ですら無い
二千年前の地形も考慮すべき
最終氷期の海進もとまり河川の堆積がようやく優り始めたころ
低地は沼沢地ばかり
人が住むに適していなかった
>>401 弥生時代の北部九州の墳墓からは、鏡・剣・玉が多数出土し、しかもこの三点がセットになっている場合も多い。これは天皇家の三種の神器と文化的に直結する。
これに対して弥生時代の畿内の銅鐸文化は次の古墳文化にまったく接続していない。
もし邪馬台国が弥生時代に、畿内で自然発生的に、樹立され、これが大和朝廷の中にその痕跡すら無いのであろうか。大和朝廷の歴史書である記紀の神話には、鏡の事は何回も出てくるが、銅鐸については何も語るところがない。
>>408 卑弥呼の前の男王のとは後漢に朝貢した帥升だよ。
西暦57年に名前の分からない倭奴国王が後漢に朝貢してる。
その後107年に代替わりして帥升が後漢に朝貢した。
倭国大乱の後、卑弥呼が女王の座についたのは185年頃。
どこかの大学生がレーザーで年代を調べたら4世紀以降だったような?!箸墓ねw
>>414 完全に、卑弥呼が女王についた邪馬台国は
九州の
西暦57年に名前の分からない倭奴国王が後漢に朝貢してる。
その後107年に代替わりして帥升が後漢に朝貢した
国とは別物だな
邪馬台国、朝貢の相場を知らねーし、街道も整備されてないクソ田舎だから
>>1 調査はほとんどできていないのに何で3世紀中ごろ〜後半と分かるんだ?
大国主か神武が作った国を倭国大乱に乗じて卑弥呼が奪ったということかな?
>>8 天ノ磐舟が墜ちたのは大神神社の所だぞ
脱出カプセルIVAX(天ノ磐樟舟)は、天照大神が立て籠もったとき田力男がドアぶっ壊して捨てたろ
>>411 渡海の距離1000里は海上だから実測値ではない
使者の感覚で1000里くらいだな
1里80mで500里なら40km、呼子付近から糸島市までの距離だな
そもそも魏使は伊都国までしか来ていないから「阿蘇山」は見ていない。
漢委奴国は渡来系弥生人の国 → 東遷 → 近畿ヤマト
邪馬台国は縄文系弥生人の国 → 土蜘蛛 → 討伐
九州の倭奴国の「漢委奴国王」の皇統は、
伊邪那岐神と伊邪那美神から産まれた大綿津見神(豊玉彦)
島根の出雲の葦原中国の「出雲主王」の皇統は、伊邪那美神が死亡後に
伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない誰かとの間に産まれた建速須佐之男命
奈良の邪馬台国の「卑弥呼」の皇統は、伊邪那美神が死亡後に
伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない誰かとの間に産まれた天照大神
>>190 それは妄想
何故なら九州鬼界カルデラの噴火で縄文時代が吹っ飛んだエリア
縄文初期にあった遺跡に住んでいた現地縄文人は沖縄及び遠く北に逃れるしかなくなっ
実際に鬼界カルデラの噴火により以降九州ー西日本は無人状態になる
だから縄文時代の巨大遺跡の多くが東日本に集中するわけだ
噴火が落ち着いた後縄文後期ー弥生によそから人が流入し西日本で文化が芽生えていった
地学的に西日本で縄文人ってのはちょっとむずんだよ
>>326 又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」に
それらしき描写がある
もちろん、九州説からみた…
そもそも卑弥呼って実在の人物なんか
聖徳太子も実在が疑われるぐらいなのに
>>222 古墳とかって、国有地でも皇室用財産だから別に
オマイ等に関係なくね?
>>424 まっ「船に乗ってる時間」だろね
いずれにしても同じことで
一大国という島から末廬国という本土までは
韓国− 海を渡る1000余里 対馬國
対馬國− 海を渡る1000余里 一大国
と同じぐらいの距離だ
と思うほどの航海だったわけで
壱岐じゃ近すぎる
>>383 天皇由来墓だから宮内庁が鑑定を許さない
ぶっちゃけこれで発掘してみて別人の墓だと解っているのに宮内庁が取り消さず
宮内庁は別人墓を天皇陵としたまんまで
別のところから本当が見つかっているケースも多々ある
有名なところでは継体天皇陵墓
>>432 対馬海峡は流れが速いから実際よりも遠く感じたんだろうな。
>>13 おそらく、北九州の倭の奴国と大国主の出雲、吉備などの勢力が群雄割拠し、出雲が西日本を統一して奈良に都を置いた。
そこに、卑弥呼が共立され奈良を出雲から譲られたのが大国主の国譲り伝説であろう。
>>416 銅鐸文化は2〜3世紀の弥生時代後期に近畿・中部地方でもっとも盛大となり、しかも突然消滅する。銅鐸は祭器と言われているが、これが突然消滅した理由は外部勢力による征服とかんがえられ、この外部勢力とは、神武東征に象徴される九州勢力であろう。
また銅鐸が宗教的祭祀に使用されたと考えられるのに、記紀などの大和朝廷側の古伝承には、その痕跡をまったくとどめていない。
713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたが、続日本紀はその制、常に異なると書いている、また821年日本紀略、860年三大実録にもまた銅鐸が出土したが、インドの阿育王の塔鐸だと言って、昔の大事な祭器である事が忘れられていた。
この事は銅鐸をもつ大和の先住民が九州から来た天皇家とその一党達によって滅ぼされた事を雄弁に物語っている。奈良朝以降、天皇家は1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしていないのである。
これに対して、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮へ勅使が必ず使わされた。
分かりやすく言うと畿内と中部地方の先住民は、弥生時代後期に九州人に滅ぼされた。
>>97 でるのは朝鮮と関係ないもの。嘘吐きチョンコロ精神崩壊w
>>434 魏志倭人伝の卑弥呼にこだわったせいで発掘の成果をゴッドハンドしちゃったんだな……
>>433 その前に継体天皇が実在したかが問題だな。
阿蘇山は外輪山で囲まれていて
外輪山のなかに入らないと
噴火している中岳は見えない。
熊本市あたりからみても
広大な山脈が見えるだけ。
>>429 あれだけむかしの旅行記にシナ人が書き留めた
女王ってのが珍しかったんだろ
記載量の多さからみて、作者が実際に行って会ったか
どうかはおいて、書かれていることは九州の当時の現実
>>438 現在の畿内や中部地方の住民は九州人の種だな。
>>442 今は煙が出てるから中岳の位置が分かるよ。
>>438 銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む [単行本] 臼田 篤伸
単行本: 260ページ出版社: 彩流社 (2010/12/27)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた。
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。
>>429 邪の国の卑しい女って呼ばれてたんでしょ
字から考えると
>>438 第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話 を次のように伝えている。 洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、
今は 街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる
123 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/10/23(日) 12:17:44.27
野洲の銅鐸博物館に行ったとき九州からの侵略、征服などは絶対になかったと
力説してたど、で二階の踊り場にいくと被差別部落の歴史ね、ふーん。
>>423
>天ノ磐舟が墜ちたのは大神神社の所だぞ
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>1 超音波より鮮明なのかな
宇宙線なら被葬者も許容してくれそう
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた【九州の倭奴国】は
確かに、韓国ー対馬ー壱岐ー北部九州の黄金ルートを使用していただろうが
邪馬台国は別ルート
韓国ー対馬ー隠岐ー山陰の脇ルートを使ったのだろうね
>>435 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた【九州の倭奴国】は
確かに、韓国ー対馬ー壱岐ー北部九州の黄金ルートを使用していただろうが
邪馬台国は別ルート
国譲りで出雲を併合後に、古くは建速須佐之男命や、大国主に協力した渡来人「スクナビコナ」や「大物主」も使用した
韓国ー対馬ー隠岐ー山陰の脇ルートを使ったのだろうね
大湯環状列石の山も一部をレーダー探査して
石段組らしき形状を見つけたはいいが
その後パッタリ報告あがってこないし話題にもならないどないなっとる
>>427 妄想の前にただの無知はお前だな
九州でも阿波でも関西でもいいが奈良県の縄文遺跡 (青垣双書)くらい嫁
>>449 こういう出鱈目な素人の中でもレベル低いのを貼りつけるのはやっぱチョン?
九州はかなり早いうちから渡来系との混血が進んでいたと最近調査結果が出てたな
一方で渡来系の遺跡と見られていた青谷上地地遺跡は男系がほぼ縄文系だったりするし
>>396 仮に沖縄にヘブライ語の名残があったとしても、
入って来たのは10氏族の末裔とかよりもだいぶ前の可能性か高いと思うかな。
縄文系は日本列島に満遍なく分布してどの地域でも最大勢力だし共存混血を受け入れたんだろうね
>>458
失礼な おまえが、ちょうせんじん
北部九州が高地性集落の空白地帯なこと
最終的な勝者だから無敵であり、防御する必要がなくなったことを確信した
九州勢力が無駄な戦闘をするわけがない
だから闘いの痕がない
あたりまえ
あとは銅鐸奴隷を酷使して反抗できないように
さして必然性もない(作る必要がなかった)大規模古墳を
反抗を封じるために作り始めた >>418 倭奴国の系譜と卑弥呼は無関係だと思うよ。
帥升の死をきっかけに、倭奴国から国を切り取ったのが女王国。
もし女王国が倭奴国の系譜なら、自分達の正当性のアピールくらいしてるだろうから、その事が魏志倭人伝にも書かれたろうし
そうでないから倭国大乱の後に統治した勢力だと説明してるんだろう。
>>458 先住民じゃなく銅鐸民な
江沢民じゃないぞ
田原本町の唐子・鍵遺跡では銅鐸の鋳型まで見つかってる
そして廃絶のあと初瀬川上流5キロの地点に近畿厨の大好きな纏向が突如出現する
これは無関係ではあるまい?
銅鐸民を駆逐じゃなく、古墳労働者としてこきつかって
箸墓をつくったのでは??
>>51 ただ天武朝は途絶えて光仁でまた天智(継体)系に戻ったんだよね。
>>458 あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。
>>461 縄文系と言っても、大きく3つのグループがある。
北側の種族が北海道東北から東海辺りまで南下したグループ。
半島を渡ってきで北九州と日本海側に広がったグループ。
南洋を沖縄、鹿児島と流れ四国、紀伊半島に広がったグループ。
彼らの元々の人種のルーツは異なる。
>>449 >>464 クラスターチョン出没www
304名無しさん@1周年2019/12/08(日) 19:11:28.59ID:AGGczja90
太古日本列島に馬はいませんでした。
半島と日本が地続きだった時代、朝鮮民族が馬に乗って渡来し、原始的な生活を送っていた
日本人に稲作など文化を与えたのです。
https://twitter.com/syannhai1?lang=ja 934名無しさん@1周年2019/12/02(月) 20:46:09.19ID:iXWN4iIh0
江上の騎馬民族説は空想が土台になっていて
考古学的にも人類学的にも全く実証性がないもので
現在では盲説扱いとなっている
だが在日コリアンはその盲説をカルト教義のように信じたいので
こういう記事を書いたりするのだろう
彼らには客観的事実や科学的根拠は通用しないようだ
♦♦日本の超一流学者 ♦♦
・田辺昭三
この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物。
・佐原真
かつて、騎馬民族征服説という仮説がありました。
騎馬民族の王侯貴族が組織的な騎馬軍団を率いて
日本にやってきて征服王朝をたてるということはなかった。
人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに
対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、果たした
のかもしれない。
・岡田英弘
完全なファンタジーであって、なんら史実上の根拠はない。
江上波夫が創作した、新しい神話。
騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれは全くの空想。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
結局のところ、九州にも近畿(奈良)にもそれぞれ国があって、邪馬台国や
狗奴国は九州にあったっていうのが妥当な解釈だと思うけどねえ。
で、狗奴国の一部が近畿までやってきて領地を得たのがニギハヤヒ。
そのあとで再び狗奴国の一部が近畿にきたのが崇神(神武)。
さらにそのあと邪馬台国の一部が近畿にきたのが仁徳(応神)。
ついでにその後応神とも関係のあった古くからの百済の渡来人系が
近畿を支配したのが継体ということでどうか。
あ、崇神が来る前に奈良にいたのは大国主や大物主ね。で、アマテラスはやっぱり
邪馬台国系の神様で、狗奴国系の崇神朝では伊勢に追いやられたと。
高地性集落って南海トラフ大地震の津波被害にあって高台に避難しただけだったりして
>>471 そもそも、渡来人って、そんなに来てない
多くて数万てとこ
海があるから渡れないよ
最新の遺伝子研究からも、チョンと日本人は縁遠い ↓ ↓
長浜浩明氏講演『韓国人は何処から来たか』(展転社刊)2015.5.24頑張れ日本!群馬県支部設立3周年
105,702 回視聴
;t=3428s
日本の歴史学者は、朝鮮人をかばうからなのか、かばうためにうそまでついて朝鮮人になったシンパたち。
日本の歴史学会は、戦後、国学派の歴史学者を公職追放して、マルクス学派講座派の東大派閥で牛耳られてきた。
石棺らしきものが見つかってしょんぼりってことになりそう
安本美典教授 〔1〕
韓国や北朝鮮の方々には、とかく、日本の言語も、文化も、
天皇家なども、ほとんど全てが、朝鮮半島からきたはず
だという、強い『思い込み』があるようにみえる。
しかし、そうであって欲しいという『願望』は、必ずしも、そうで
あるという客観的事実と一致しない。
※ 『』は本文そのまま
安本美典教授 〔2〕
韓国の言語学者でも、ソウル大学の李基文教授は、
『日本語と朝鮮語との比較作業の結果、確実にいえる
ことは非常に少ない』と述べている。
安本美典教授 〔3〕
さて、さる六月に、私の主催している「邪馬台国の会」が
開かれた。その会で、韓国出身の統韓鮮氏が、「『万葉集
論争』を論評する」というテーマで発表を行なわれた。
その発表のなかで、私の先の文章をとりあげて、統韓鮮
氏はいう。
「安本先生は、ご本のなかで、この文章のように述べて
おられますけれども、日本の古代の文物のなかで、朝鮮
半島を通じてこなかったものには、何があるのでしょう。
私が答える。
「私も、朝鮮半島の古代の文物について、非常にくわし
いというわけではないので、ご存知であれば、この機会
に、教えて頂きたいと思うのですが、ふつう、日本の神社
建築の、高床式建築法、千木、鰹木などは、南方から来た
習俗といわれています。
現在でも、中国の西南部の雲南省などにすむタイ族な
どの住居には、高床式建築法、千木、鰹木などが見られる
といわれます(その写真なども、よく本にのっています)。
また、下駄なども、中国の南部でみられるといいます。
安本美典教授 〔4〕
統韓鮮氏がいう。
「高床式建築法、千木、鰹木などは、日本では何時頃
から見られたものですか」
私がいう。
「弥生時代からあったといわれていますが、……。」
ここで、会場の参加者から発言あり。
「銅鐸の絵画、家屋文鏡の絵からいって、弥生時代から
あったのではないでしょうか。」
ディスカッションが行なわれたが、やはり、朝鮮半島には、
高床式建築法、千木、鰹木などは、見られないようである。
>>438 銅鐸は忌部系の歴史書には岩戸開きの際に登場してるよ。
書記編纂は仏教普及の為、忌部氏の権威が落ちていたため銅鐸の記述がない。
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実@
◆【弥生系渡来人】が【江南地方】から稲作や飲茶の風習とともに
日本に渡来したこと。肉食民の朝鮮民族の渡来は想定よりも
少数で、稲作と魚介類を食し飲茶を風習とする江南から日本列島
に分布する縄文人や弥生人の文化と朝鮮民族は殆んど親和性のない
民族であること。
(稲DNAの解析による証明、古代から半島には飲茶の習慣や茶文化がない)
◆朝鮮半島南部に入植していた倭人(のちの日本人)が稲作を半島に導入したこと。
半島南部で縄文土器や弥生式土器が多数出土。
(最近の研究では縄文土器は倭人の一部をなす中国南部の江南でも出土)
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実A
◆朝鮮半島における文化的独自性の欠落。
(対馬暖流の恩恵を受ける南海島や金海平野での倭人導入による
稲作地域を除き日本に匹敵する水稲文化もなく、茶文化やあらゆる
分野での古典文献資料の不在)
→ 事実の捏造や文化の起源詐称、文学が日本のように豊かに育たない
朝鮮半島の大半は寒冷小雨でこうりゃんなどの畑作には好適だが
日本の農耕文化との大差
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実B
◆大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の
大和王権由来の前方後円墳の存在 → (日本の支配)
◆常に中国、モンゴル、日本などの直接的隷属国であった歴史のみ
◆朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと。
◆朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと。
>>474 それは十分有り得る話。上へ逃げてるんだからね。
>>267 あのな
偉い役人や政治家と一般の絹職人の違いもわからないのか
>>15 永遠の謎は謎でも
こうではないかという一般的な見方はできていくからね
そういうことに意味があるわけだから
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実C
◆近年、縄文文化が欧米の学者から最高水準の評価を得ているが
なぜか自分たちの居心地感が悪いのでどんな手段を使ってでも
縄文文化や縄文人を貶めたくてしかたがないこと。
◆縄文人に近く、朝鮮人から最も離れた雰囲気があり
最先端の科学諸分野でも想像以上の違いが明らかになり
何故か日本人の根源のD遺伝子を豊かに持っている沖縄人や奄美人
やアイヌ民族や北海道民や東北民や蝦夷が憎くて憎くて仕方
がないこと。
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実D
◆縄文人や先住民をネタに同情しているふりをして
沖縄やアイヌを日本から切り離して独立させようと
必死なこと。
◆「天皇は朝鮮人」「日本人は朝鮮人」「渡来系弥生人は朝鮮人」
「渡来系が縄文を征服した」「銅鐸民族の倭人は朝鮮民族に皆殺し」
「半島渡来人が縄文女を強姦して男は皆殺しにした」
「北海土人」「にチョン人」などと意味不明なことを絶叫していない
と火病で狂死してしまうこと。
>>463 んな力はねーよ
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いた
『魏志』(倭人伝を含む)に出てくる邪馬台国は
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほどの、国際感覚もないタダの田舎者で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような、全く国力が無い国
最近のネトウヨは縄文スゴイも加わったのか
ギリシャが都市国家作ってるときに原始農耕ではあまりいばる点がない
★在日朝鮮人が日本人に知られると困る歴史の真実E
◆ 「日本人の祖先は朝鮮人」「日本人は全員朝鮮人」など
とにかく妄想や願望めいたことを絶叫していないと精神
が錯乱し火病で頓死してしまうこと。
>>493 朝鮮半島に帰らずいつまで日本で寄生するつもり?
>>493 どこまでも関心は威張れる、威張られる
偉い偉くないなんだな
ただ日本史の解明に関心があるだけなのに
哀れとしかいいようがないね・・
>>403 古事記の成立に古い文書を参考にしたとあるか?
>>472 全く的はずれ
後漢末期より三国時代初期、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てて
九州の「漢委奴国王」の倭奴国は
204年に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあった
そして238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、
行き場を失った公孫氏政権の残党が大挙して、支配下にあった九州の「漢委奴国王」の倭奴国に逃げ込んで
帯方郡の魏が、対馬を渡って追ってきやしないかと、バリバリに警戒していた
なので
邪馬台国は、九州には存在できない
ネトウヨにとっては日本の皇室の偉い人なのでどうでもよくなさそう
日本会議だね
曹操級の鏡が九州から出たんだから、邪馬台国が九州にあったのは間違いないだろうw
魏志倭人伝に出てくる各地への方角は北、東、南のみ。
これは舞台の中心が西の端にある事を示唆している。
つまり邪馬台国は九州の何処かである。
>>498 序文にあるだろ
諸家に伝わってる各種の帝紀や旧辞を天皇によって整理統一したということ
>>502 完全な思い違い
永初元年(107年)後漢の安帝に、生口を160人も献じた「漢委奴国王」の倭奴国
なら、それくらいの鏡が出て当たり前
むしろ
壱与が266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
しか献上できなかった邪馬台国から出る方が変
24名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:33:50.68ID:5ZdreiDl0
一か月前くらいに発表された遺伝的近縁の
色合い図では、 結局 韓国よりも、 台湾や
フィリピン方面の方が日本人に近いって
判ったんだよね
29名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:38:29.88ID:es2WkNCf0
>>24 発表解説見たとき、くる日もくる日も
日本人=朝鮮人 って繰り返してる
在日韓国人キチガイ工作員が可哀そうに思えて
仕方なかった
31名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:40:50.74ID:/dwvVig30
>>29 在日台湾人は韓国人とまるで違うよ
やっぱり 日本人に近いね
在日台湾人が今までに狂ったように
現代日本人 ≒ 韓国人ニダ!!
みたいに、
現代日本人 ≒ 台湾人 とか絶叫してるの
見たことない
きっと台湾人としての自然な誇りがあるからだよ
やっぱ韓国人って頭のオカシイ人種か人間未満だね
34名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:45:34.24ID:gpRpZ7pD0
昨年の秋の鳥取県の青谷上寺地遺跡の結果は興味深かった
父から引き継ぐY染色体からは縄文人系の配列が出て
母系のミトコンドリアDNAが渡来系だったという分析結果で
支配層を表すY遺伝子が縄文系だったからな
朝鮮人には非常に残酷でショッキングな事実だった
35名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:46:16.38ID:j1MuFtQ+0
大陸から女をさらって日本に連れてきたでいいの?
47名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:56:12.48ID:zpp0EZIC0
>>34 あの遺跡でわかったことっって、
縄文人DNAいっぱいの日本列島人の縄文人や弥生倭人が半島の入植地と往来している中で
「豊かな自然環境のあなたの故郷に連れていってください
もうこんな緑の少ないハゲ山ばっかりで、豚の脂を体に
塗って冬を耐えろ、臭い血の付いた動物の肉ばかり
食べさせられて、毛穴まで臭くなってみたいなDVだらけの
半島の生活はもうコリゴリです。
おいしい魚介類や和布やお米が食べたいです!」
と懇願する半島女子たちを山陰に連れて来てあげただけのことでしょ
>>413 60年遅れてる
情報化社会もIT革命も関係なかった様子が
うかがえる
○ 銅鐸文化ではなく銅鐸銅矛の青銅器祭祀自体の終焉
中国でも青銅器祭祀禁止令があり唯一鏡が残った
>>503 魏志倭人伝に出てくる各地への方角は
倭人が指差した方角ぐらいのことで
全くあてにならない
>>495 現役の王朝だから
お墓の尊厳を守るロジック開発するのが核だよ
お墓守るためについでに調査もついでにする、というね
>>505 また、言い訳をしてからw
そんなハッタリのゴッドハンドはお呼びではないw
エジプトのミイラはDNAの調査をしているのに
日本の古墳から出た遺骨はなぜしないのか
中国行きの飛行機の中で若い中国女が機内食の後爪楊枝で歯をシーシーほじり出したのを見て
吐き気と同時にカルチャーショックを感じた
立ち入り調査はダメだけど調査自体がダメなわけではないのか
>>515 その程度でそこまで感じるお前にショックだよ。男として小さいわw女だったらすまんw
>>476
>石棺らしきものが見つかってしょんぼりってことになりそう
たぶん、阿波の青石石棺だろう。 @阿波 九州は
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や、佐賀の吉野ヶ里遺跡などの
大型建築物の跡がバカスカ出てきて
鉄器や硯、鏡などの、大陸からの出土品もザックザクで
渡来人がアチコチに居た痕跡もワサワサ出てくる
永初元年(107年)に安帝に、生口160人を献じ、謁見を請うた
倭国王に相応しい近代的な国際都市
なのに、渡来人がきちんと方位や距離を記載できない
のは変
>>516 天皇陵はするとしても
中小の古墳全調査した後にすべきだね
特に堺みたいに古墳200あったのに
半分調査をせず破壊してゴミに捨てて住宅地にするような
のが一番悪
世界遺産古墳群破壊せずに全部調査すべきだった
🌟新羅本紀🌟
弥生後期 〜 古墳時代
高句麗が調子乗り出すまで 百済を瀕死にまで虐め抜いた残虐新羅が
当時の日本国にボッコボコにされている様子、朝鮮半島側の記録
戦後長い間、韓国忖度が続いてだれもが議論しなかっただけで
当時の百済人に呪われるほど憎まれた新羅が倭国人からボッコボコ状態
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年
春 王が臣下に向かって
『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見
はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が
「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
これに対して、舒弗邯、弘権が、
▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを
恐れます」
※当時から海に不慣れな新羅人が明確。
この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。
>>449 神武天皇と日巫女の時代違うんだけど大丈夫か?
965名無しさん@1周年2020/01/05(日) 16:51:41.04ID:/7mZo+60
>>952 日本書紀では百済はわざわざ扶余と書かれている
倭国の日本人とは違うという意味
百済など朝鮮半島のツングース系穢族や同族の扶余族は
動物肉食で冬には豚の脂をこってり身体中に塗る大陸東北部の
生活習慣だな
稲作メインの弥生人と若干の小中華をともなった律令倭人は、
半島民族と遺伝的にも文化基本風習的にも最も離れた民族なわけで
畑作も日本のような根菜類はなく雑穀類だけ
正月の夕方に海岸線を走ってたら西日が眩しくてたまらんわけよ。
さすがに方角は間違えんよ、道が整備をされてない時代だから距離感は個人差だなw
卑弥呼と時代が被る、奈良王朝と言うのは250年〜320年辺りではないのかな。
これに対して、筑紫の卑弥呼は190年辺りから247年迄である。
300年以降、後の朝廷勢力は半島進出で馬の移入や鉄の国内生産を勧め、
四郡を高句麗と挟み討ち、戦闘を続けて350年の百済新羅建国の後援に成功する。
この頃には、大阪湾岸に降りて、古墳時代全盛の倭の五王時代となる。
倭の五王は、漢名を名乗っているが文字が有る以上、木簡程度は出る。
言葉通りのゴッドハンドw の盗掘はこれを消しているのではないかな?
纏向、箸墓はこの奈良王朝、238年〜280年の、魏の台頭期の東夷進出で
公孫氏や韓王朝の滅亡を見て、防衛的に後方に遷都した中央政府の痕跡である。
魏に冊封されるような、屁タレの筑紫王卑弥呼が
目指せるような富国強兵戦略なわけが無いし、
東遷どころかこんなもんに半島進出は不可能。
神功皇后以前の記紀の与太話で歴史を語るようでは日本の古代史は解けない。
>>492 力があるなんて書いた覚えはないよ。
倭奴国の頃の百余国から三十国ほど切り取っただけなんだから、少数派なんだし
卑弥呼の死後、壱与の前に代表を決めようとして内紛起こしてるくらいだから
三十国切り取ったはいいが、内部的に納得してない国もあったんだろう。
魏志倭人伝に書いてるとおり読めば、女王国が強大だなんて思うはずもない。
>>523 日本の朝鮮半島での第一回の軍事活動は367年であり、この初めての海外派兵の367年までに、倭人の九州勢力が畿内を攻め滅ぼして作った大和朝廷による日本統一がなされたと考えられる
素直に読めば女王国は倭人を統一してないし
むしろ少数派勢力だよね
>>524 欠史八代とかいうから、そのあたりの前後は関係ないのでは
>>524 ちなみに神武天皇の話が事実なら2600年前の話
劉邦が漢を建国したのが紀元前200年
始皇帝が秦を建国したのは紀元前230年前か?
神武天皇の東征したのは周王朝建国位前なのかね?
春秋戦国時代の覇者とかの前とか凄いな
文字が残って無いのがおしい
三、四世紀頃でも記紀の年代がいい加減なのに
神武年代が信用できるわけもなし
>>535 初代神武天皇はいたけど西暦300年代だと思うよ?
肥国邪馬台国は、筑紫とは一応の
不戦協定を結んでいたが、
熊襲に攻められ魏に助力を頼んだ。
魏の使者は筑紫を通らないように
唐津を通り小城、佐賀を経由。
熊本にたどり着いた。
>>536 でも神武天皇の墓あるやん
地質調査であきらかに2000年以上前の物だって出てんだろ?
西暦300年はさすがにな
まぁ〜発掘調査したら確定できるのにね
橿原神宮だっけ?天皇陛下が即位した時必ず挨拶に行くやん
神武天皇の墓
あと宮崎県の高千穂だっけ?神武東征が始まったとされる地
あそこに残ってる剣か矛か忘れたけど年代的に紀元前2000年以上前の物なんじゃなかったっけか?
5ちゃんねるの九州説って、学問を否定し、教科書レベルの日本史さえ否定することが大前提だから
ソースが凄いのばっかりだなw
どこの馬の骨ともわからん素人が書いた本とか、邪馬台国の会とか、古田史学の会とか、最近では長浜浩明とか
こいつらの主張は全員バラバラだろ
共通してるのはアンチ畿内説ってとこだけ
>>538 西暦300年とか言ってるのは根拠ねーからさ
さすがにさw
神武天皇の墓が橿原神宮にあって地質調査だっけかはやってるから
さすがにね
ただ発掘調査できたら100%確定できるんだからやって欲しいもんだ
>>541 それを言い始めると畿内説もバラバラ
箸墓古墳が卑弥呼の墓でいいのか?
それ以外の畿内説は皆無なのか?
>>541 お前古事記に神武東征って書いてあるやんけ
何が畿内説だよw
当時の天皇家が宮崎県から神武天皇の東征が始まったって言ってんだが
>>527 徒歩と船だろうからねえ
方角間違えはあり得ないね
神武天皇は盛ってるだろ100歳以上生きてんだぞ当時でだ
だから年代なんてあてにならない
>>521 穢れだらけで汚い穢人と呼ばれた穢族チョン頑張れw
>>532 そう。
ただやはり軍事力は強かったんだろう。
女王国内部でも、軍事力を持った親卑弥呼派と軍事力に劣る非卑弥呼派で別れてたんだろうと思う。
一大率が恐れられてたとの記述がそれを物語ってる。
完全に一体の体制なら、自分達の軍事力を恐れる必要はないからね。
>>542 大和朝廷も現実では西暦367年までに出来たと思う
>>540 年代云々はよく知らんけど、わざわざ記紀編纂した当時の畿内から遠く離れた辺鄙と言っていい高千穂を皇祖の故郷に設定する理由が無さすぎて、だからこそ本当じゃないかな、とは思うなぁ
>>548 いやだからさすがに100年生きたとか嘘だと思ってるよ
ただ神武天皇の墓だと言われてる樫原神宮周辺の地質調査で2000年以上前だって出てんだろ
本当に発掘調査して確定させて欲しいもんだけどな
>>552 九州からの侵略者達がが書いた神話本だから畿内に愛着なんてないからね
>>553 古墳って当時の色んな呪術の粋だろうからなぁ…破ればそれが破綻する、ってことでそういう設定を踏まえてるだろう宮内庁も認めるわけにもいかないんだろうけども、考古学好き的にはやっぱり知りたいよねぇ…
弥生時代は卑弥呼王国みたいなのが全国に沢山あったんだよ。
実際に全国統一政権となったのも7世紀以降だろ。
>>557 いや倭人の九州人が日本統一したのは西暦367年以内
中国人が書いた倭人伝はまだ倭人の九州人が日本統一する前
>>540 橿原神宮は明治時代にできた神宮で
墓ではなくて神武天皇の宮があった場所に創建した神宮
>>560 当時の中国では恐らく九州人の倭人が日本で一番強いって思い込んでたんだと思う! だけど実際日本統一前の九州人が畿内人と戦って見たらかなり苦戦したらしい
隋書だったかな?
秦王国などという外国人国家が誕生している。
当時の日本はまだ統一国家という状態にはなかったという証だ。
記紀編纂の時代には、九州南部には
土蜘蛛や類人猿しか住んでいないと信じられていたんだぜw
日本海青銅器ルートが紀元前200年でも有った奈良界隈じゃ
2600年前辺りでも、天上の神なんて存在できんだろ?
なんで海や陸作った神が縄文土器っていうか、銅剣や銅鐸作るよwww
記紀が信用できないのは、遣隋使の600年ですら
人も建物も中華同等と言う評価の斑鳩宮や法隆寺を新造した女帝の推古天皇が
700人の後宮を持ってったって、裴世清の見聞録で十分。
記紀が天皇について、意図的に嘘の記録を残してんだよ。
ほっといてやれよwww
九州が畿内を攻め滅ぼして日本統一した後の中国人が書いた本って残ってる?
現時点、箸墓古墳はモモソ姫の墓で確定しています。
卑弥呼とは無関係です。
箸墓周辺というか畿内でシャーマンや女王がいた痕跡なんて皆無なのよねえ。北部九州にあって畿内にないものはそれなのよねえ。
>>554 だが記紀では九州を未開の土蜘蛛扱いしてるぞw
>>569 モモソを日女命と記した文献なら存在してるぞ?
>>557 それの連合が邪馬台国でしょ
争ってたけど統一の女王を推戴したって魏志倭人伝に書いてあんじゃん
>>553 橿原周辺の弥生遺跡からは遮光式土偶の破片も出土してるからな。
>>572 でも現実社会の天皇家は奈良朝以降近くの伊勢神宮に1100年間も参拝すらしていない 遠い故郷の九州の宇佐神宮には何回も参拝してるけど(笑)
安田説を読んでると2世紀後半〜3世紀始めに神武即位ってのも割りと納得できるけどね
あまりにも資料が少なすぎるから全面的に信じようとは思わないけど
>>548 当時の1年のカウントが春と秋で年齢も倍にカウントされてる説
年号と無理に合わせて変になった説
複数人がまとめられてる説
色々あるな
>>530 だから
九州の「漢委奴国王」の倭奴国は
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた
その倭奴国から「三十国ほど切り取る」力なんかねーよ
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いた
『魏志』(倭人伝を含む)に出てくる邪馬台国は
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほどの、国際感覚もないタダの田舎者で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような、全く国力が無い国で
交易で訪れた民間人も頻繁に行き来しているだろうに
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、街道も整備されていないクソ田舎
もしも九州にあったら、「漢委奴国王」の倭奴国に瞬殺だ
>>575 橿原のスポーツ場から橿原神宮周辺は巨大な縄文からの複合遺跡で全国に知られる
昨年の秋には医大の移転地からも大きい弥生時代中期・後期の集落跡が出現
徹子の墓とか
いったら徹子さん座って雑談できそうだよな
>>578 でしょ?じゃないと辻褄が合わなくなるんだよ
ピラミッドの調査は手柄の事情でやらせてもらえないのかな
>>569 個人的にはモモソ姫のほうが謎なんだがマジで…
壱与から266年に遣使を派遣された西晋(265年 - 316年)が書いた
『魏志』(倭人伝を含む)に出てくる邪馬台国は
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほどの、国際感覚もない田舎者で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような、全く国力が無い国で
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、
街道も整備されていないクソ田舎
つまり、邪馬台国には、全く渡来人の影が無い
九州の国としてはあり得ない
>>573 弥生時代に訓読みはありません。
卑弥呼は当時ベイメイヒと読んでいたとのこと。
邪馬台国がすべての元凶
発掘されたものは何でもなんとか邪馬台国に結びつけようとし
年代測定すらそっちへ寄せる
日本の考古学は中国人のペラ紙1枚でぐちゃぐちゃ
>>585 そうなるんだけどね。でも逆に継体天皇即位や稲荷山鉄剣や好太王碑らへんと時代がズレてくるんよね
記紀の系譜に書かれていない天皇が存在するか空位の期間が長期存在するかしないと合わんね
>>398 大化の改新までの皇室は九州ルーツ
九州倭国最後の王子天武が一旦天智から国を取り戻すのが奈良時代
>>576 それだよ
天皇家にとってどちらが重要なのか明らかだもんな
>>595 崇神天皇が宮中で祀っていたけど、ご神威が強くて祀っていられなくなった
ということらしいから不思議ではない
>>576 つまり伊勢には卑弥呼が居るんじゃないの?
日本書記、皇室は卑弥呼を隠匿してきたんだからなw
伊勢に落ち着くまで天照は元伊勢、つまり三輪山を追い出された存在だからな。
>>589 当時の発音は確定できるものがないんだよなこれが
>>591 古字だから字体だとしても、かなり古い時代のものが混ざってるってことだから、文字を使ってなかったって事にはならんよね。
ヒミコの後継者であった箸墓の倭迹迹日百襲姫神を掘り起こしてはダメでしょ
>>580 倭奴国の帥升の死をきっかけに、分離したんだよ。
一応は鉄器が豊富にあれば、国を切り取るくらいはできるだろう。
後世、磐井の乱でもう一回やろうとしたけど、その頃にはもう鉄器の物量差が通用しなくなってたから兵の数の差で瞬殺されたんだろうけど。
>>600 周やら春秋戦国やら、秦やらの時代に来た人間は当時から見てもかなり古いだろうな
書体にしても秦のときは小篆で、漢になってから隷書だし
秦がまとめる前の漢字なんて、魏の時代の人間は読めないだろう
>>597 伊勢神宮に天照様なんかいないって天皇家が考えてたんだよ
道鏡事件の時だって本当に道鏡に天皇の位を渡して良いか神託を聞きに行った
和気清麻呂は大分県宇佐神宮に行ってる
そもそも太陽神天照を祭る神社が本拠地の西にあるっておかしな話やんけ
太陽を崇めるなら東に向かってよ
古事記でも神武天皇は宮崎県から東征してるしどうやって考えても九州から畿内に移動してる
京都府宮津市の籠神社ってあって天照様はそこに居たあとに三重県伊勢神宮に移動してる
一時期山陰の出雲とかあの足りに天皇家がいたとしか思えない
神武天皇の東征中に出雲辺りを占領して首都にしてたとかさ
天橋立(宮津市)は天照様が籠神社から伊勢神宮に移動した時にできた道なんだろ
>>601 ピラミッドだの散々掘り起こしといて
これはあかんとかよく分からん話だよな
秦の始皇帝の墓だって散々掘り起こしてるのに
>>605 日本の皇族は現役だからね
始皇帝やファラオは権威を失ってるけど
>>603 周や春秋戦国、秦ならまず確実に紀元前の文字が帝王本紀に混ざってたことになるね。
>>604 都合のよい部分だけをひらってもダメだぞ。
籠神社の前は何処にいたか知らないのか?
元伊勢の始まりは三輪山の横、桧原神社だし
その真下、西にあるのが箸墓なんだからな。
また籠神社がずっと保管していた海部氏系図には百襲姫を日女命としてある。
丹波にはそういった資料もあるんだよ。
>>569 箸墓がなぜ重要かというと明らかに最高ランクの墓だから。
当時の人々は「箸墓に眠る人は天皇よりも偉い」と思っていたことはその形状から間違いない。
五段築成 箸墓
四段築成 とくに偉大な天皇の墓
三段築成 天皇の墓
『日本書紀』の中でもモモソ姫は最高神・大物主の妻なので
モモソ姫は天皇よりもはるかに偉い。
日本の首都が筑紫城で阿蘇山を崇めてるって記載が中国の歴史書に書いてあるんだから邪馬台国は北九州で間違い無いでしょ。
白杉江の戦いで倭国が滅亡間際に大和へ天皇とともに遷都し気づいた国が日本
>>608 でも籠神社みたいに天照様が通ったので海が割れて道ができたって伝説が無いよな
籠神社だけは天橋立として日本三景に選ばれ百人一首でも選ばれてる特別な地やぞ
丹後は百人一首で残ってる歌が2首あったし特別だろ
他は疑わしいけどな
>>167 硯が多数出土してるし、魏志倭人伝にも倭人が文字を使ってとの記述があるから日本では紀元前から文字は使われていたよ。
>>540 >地質調査であきらかに2000年以上前の物だって出てんだろ?
>>576 伊勢神宮は皇室に祟ってたんだ、それで斎宮を送って鎮めていた。
>>593 九州王朝説の出番だなw
>>598 古代から昼は太陽、夜は星で方角は分かっていたよ。
初耳だな、ソースは?
>>609 箸墓は前方後円墳の初期のものだから、試行錯誤で5段になっただけだろ
>『日本書紀』の中でもモモソ姫は最高神・大物主の妻なので
卑弥呼は結婚してないんだよ
>>611 逆、3世紀の倭人伝には火山や阿蘇の記述はないから九州の可能性はないという事だよw
あれだけ風俗を描いているが温泉や火山の記述がないからな、少なくとも九州の南へは行かない証拠だよ。
九州説の人って
冬に野菜は出来ないとか
山本太郎と山田太郎は漢字が似てるから同一人物だとか
話を聞く価値が無い老害しかいないでしょ
>>616 噴火してなかったら記述が無くてもおかしくないよ
阿蘇の宮司はジンムの親戚だっけ
ま、そういうことで
>>617 冬でも生野菜を食べている
という記述だろ
なんで野菜ができないにすり替えるんだ?
こんなことするから畿内説は嘘つきだと言われるんだよ
>>615 箸墓(5段)が一番偉い人の墓だから
他の王や天皇は、4段以下しか作ることが出来なかったんだよ
『日本書紀』の中でもモモソ姫は最高神・大物主の妻だよ
人間とは結婚してないよ
卑弥呼も人間とは結婚してないよ
>>618 噴煙もないのか?それに温泉もないのは変だね。倭国伝で阿蘇の記述があるのは大和朝廷が九州南部までを支配した証拠になる。
何より邪馬台国とはヤマトの事と明記している。九州説は都合のよい解釈をしすぎだね。
>>619 阿蘇の宮は孝霊の世に出来た事になってるのに注目だな。
孝霊の娘は奈良生まれ、吉備津彦の姉百襲姫だからな。
>>617 邪馬台国なんかしらねーよw
ただ天皇家が自分の家のルーツは宮崎県から神武天皇が東征して
近畿地方を占領したって古事記に記録してる正史なんだよ
魏がどうとか言うけどあいつら西暦200年やんけ
神武天皇の墓周辺の地質調査で2000年以上古いってなってんだから
邪馬台国がどこだろうが一番日本で重要なのは天皇家なので関係無い
>>621 前方後円墳の初期に一番立派なものを作るというのはおかしい
普通に考えれば中期や後期になるほど立派になる
ただの偶然でしかない
>>622 噴煙が上がる中岳は外輪山のさらに内側なのだから、
離れたら見えないんだよ
>>625 箸墓(5段)に眠る人よりも偉い天皇があらわれなかったから
箸墓が一番立派なんだよ
今DNA考古学がすさまじい勢いで進んでいるからな
なんらかの欠片から王族の系譜がわかる可能性がある
>>611 11世紀の新唐書になって突然現れた記載で、出典とされる王年代記も残ってないのに
よくそんなもんに頼れるよなぁ
>>625 ただの偶然の可能性はない
大王は四段、並の王は三段
はっきりと王の業績を格付けしてる
>>627 土木技術としておかしいと言ってるんだよ
年代が後になるほど技術力が上がるから立派なものができるんだよ
>>624 確かに邪馬台国とかしょせんは中国人が書いた倭人伝の話しだからね?だけど俺は初代神武天皇は存在したけど西暦300年以降だと思ってるんだよ
神武天皇についてだが、クローズアップされたのは明治維新以降だからな。
江戸以前日本の有名な古代天皇は孝霊天皇なんだけどね。
当時の浮世絵、富士絵をみてみれば判る、富士山といえば孝霊五年がセットなんだぞ。
また琵琶湖でも孝霊五年だ。つまり阿蘇、琵琶湖、富士山皆孝霊天皇の世の時代の話とされていたんだよ。
九州の神武天皇が強調されたのは、維新の後、薩摩の仕事だよw
>>630 前方後円墳の初期だから、まだ4段や3段で作る技術が無かっただけだよ
撮影後の画像再構成まで含めて、どのくらい使える技術なんだろうねえ。
本番の測定以外に、テストでいろんな地下構造物撮影してくれたら、測定方法自体がまともとわかるけど。
やってると思うけど、聞かないねえ。
CTみたいな技術でもう少し鮮明になるはずかな、とはおもうけど。
>>631 だからそれが箸墓(5段)が最高ランクの王の墓の証拠だろ
土木技術力は上がってるのに箸墓より立派な墓はつくらなかった
>>636
どのみち、「忌部はん」 のお墓だからw わははははは @阿波 >>634 まあ記紀で墓の記述がある時点で百襲姫は普通の存在ではない。
ホトを突いて死ぬのは天照の妹と百襲のみだからな。
また大物主がホトを突くのは神の娘のサインだぞ。
>>638 他の人が興味深い話してる時は
阿波説は入ってくるなよ
>>637 簡単だよ
段数増やすだけで高さを稼げる
>>633
>九州の神武天皇が強調されたのは、維新の後、薩摩の仕事だよw
孝霊厨さん、その通り。
だから、乃木大将が徳島眉山に神武天皇像を建立している。 わははははは @阿波 ・神武天皇の2番目の妻
・モモソ姫
この2人は最高神・大物主の妻なんだが
神武天皇の2番目の妻は、1番目の妻(正式な皇后)よりも遥かに偉いと書いてあるんだよな
モモソ姫もそれくらい偉い
>>628 神武天皇の墓が樫原神宮にあってそこで土葬されてるなら確実にDNA確保できるよな
126代男系男子継承してたのかマジで気になる所ではある
>>641 簡単なら他にも5段や6段があるはず
地位の低い皇族は簡単な7段で充分ってことになるからね
『魏志倭人伝』には、倭人は「鉄の鏃」を使うと記されている。
そして鉄の鏃は九州のほうが畿内の100倍出土する。(福岡395個、奈良4個)
その他魏志倭人伝に登場するもの(鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈、絹製品)全てが北部九州であることを示している。
>>644 阿波君もいい加減あきらめな、邪馬台国はヤマトだ。調査、発掘は進んでるよ。
まあ今年も剣山と高知に行くけどな。
興味は既に邪馬台国所在地ではないんだよ。
>>648
『魏志倭人伝』には、女王国では「丹」や「橘」が採れると記されている。 北部九州では? わははははは @阿波 >>647 初期から中期後期になるにつれて土木技術も上がっていって
そのころには5段よりも3段の方が楽に作れるようになったという事
>>625、631を読めば分かることを何度も聞くなよ
前方後円墳の初期に作られたという事は、
それまでに何度も試行錯誤があったという事
色々やって5段になったけど、
こういうの4段でも3段でも出来るな
じゃあ3段はそこら辺の奴用
4段は上級用にしとこう
どうせ、そのくらいの認識だよ
そういうのに、気付けないかな?
>>650 豊後国風土記に
風土記が作られるよりも昔から丹が出てたとの記述があるから、まったく問題ない
>>649
>邪馬台国はヤマトだ。調査、発掘は進んでるよ。
発掘を鋭意しているだけで、めぼしい発見はないのでは、どうにもならないよ。 奈良より阿波がずっとおもしろい。 わははははは @阿波 >>648 九州であるのは間違いないけど、魏志倭人伝では鉄器が潤沢すぎるわけではなく
兵士の武器も鉄製だけでなく、骨製の鏃が混ざってる程度ではあるんだけどね。
あまり鉄があるある言い過ぎると、多すぎて失格ってこともあり得る。
竹箭或鐵鏃或骨鏃
>>654 阿波で自慢できるのは荻原墳墓群だけだしなあ
遺跡だけでいえば、福岡市周辺、岡山市周辺、大阪市周辺に、名古屋市周辺は遠く及ばないゴミみたいな地域だし
>>655 畿内説は問題にならない存在しないですな
>>656
君は初心者かい? わははははは @阿波 >>619 福岡熊本辺りから近畿に引っ越して大和王権の中枢を担った優秀な一味が今の天皇家のご先祖なんだろうな
魏志倭人伝2000文字の記述から
豪族蘇我氏までの空白地が埋まらないんじゃつまらん
せめて邪馬台国と大和政権がリンクしてて欲しい
ミューオンを使って福島第一原発の燃料デブリの位置探査した時の画像
「この辺りに何かあるな」程度の情報しか得られなそう
>>657 畿内は数個程度だから、畿内は畿内で少なすぎる。
まぁ所詮鏃はものすごく小さいものだから、確かに腐食してなくなったというのも、否定しきれるわけでもないんよな。
そんな面倒なことしないで直接調査しろよ!
天皇のことなんて気にする必要ないだろ!
何千年前の天皇の墓を未だに暴けないってこの国は頭がおかしくね?
>>663 矢の先端が無くなっても
シャフトの部分は木や竹だから残ると思うんだよね
おそらく古墳はとっくに開いてる
十数年前は近所の人は古墳の石をパクってきて建材に使ってたりしてんだろ
>>664 まずお前の家の先祖の墓をあばいてから言えよ
>>661 天照と豊受は卑弥呼と台与をモデルにしてるだろうけど結婚してないから天皇家の直接の先祖ではなさそう
>>663 九州から出るのは鏃だけじゃないですよ
畿内説は有り得ない
神話上天皇辿れば神だしな
現在は人間で何も神っぽさは無いけど怖いんじゃないの
>>669 中国の倭人伝に出てくる邪馬台国は九州にあったと思うけど当時は九州と畿内の二代文化圏でまだ九州が畿内を統一する前だったんだよ
>>1 馬台と弥呼な 邪と卑は外人が蔑むためにつけた
邪馬台国は九州と漫画で刷り込まれたので
関西説がよくわからない
ヤマタイがヤマトって事?
九州制圧派の基地外っぷり邪馬台国の時代にはもう畿内まで渡来人が制圧してたのに
邪馬台国3世紀、神武天皇紀元前7世紀大丈夫ですか?基地外ですか?考える頭ないんですか?
>>611 旧唐書に665年高宗が泰山で封禅を行った際に倭の王(酋長)が参列したとあるけど
麟コ二年,封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,高宗甚ス,擢拜大司憲
これは?
「卑弥呼の墓」を…
この表題はカッコつきでも使うべきではない。
科学的根拠が現在ではまったくないからである。
フェイクである。
>>654 面白いだけを追うと勘違いする見本だな。
簡単にいうと阿波は邪馬台国を形成する役割をしたに過ぎないんだよ。
チョンが九州説押すんだよアホだから当時チョンなんて居なくて倭人だったのに
日本はチョンが支配した国にしたいジャップコンプレックス早く捨てろや
>>602 後漢末期より三国時代初期、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てて
204年に独断で帯方郡を設置
238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠するまで
永初元年(107年)に、後漢に生口160人を献じた九州の「漢委奴国王」の倭奴国は公孫氏の支配下にあった
分割なんかさせてくれません
>>683
>面白いだけを追うと勘違いする見本だな。
すこし、阿波の遺跡わけようか? わははははは @阿波 畿内政権が中国に送り込んだ遣使は、畿内が倭国ではなかった事実を知っていた。
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる
後漢末期より三国時代初期、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てて
204年に独断で帯方郡を設置
238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠するまで
永初元年(107年)に、後漢に生口160人を献じた【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】は公孫氏の支配下にあった
九州からは
佐賀の吉野ヶ里、福岡の糸島市の三雲・井原遺跡のような、近代的なでっかい集落の跡や
鉄器や鏡などの大陸からの渡来物の出土品が、ワンサカ出て当たり前
魏志韓伝には倭人が半島で鉄を採掘していたと書かれている。
弥生時代の鉄器の出土分布≒弥生人の浸透領域
この図から卑弥呼時代の倭国の範囲を特定できそうだな。
同じ弥生人でも渡来ルートの異なる2ブロックが存在した。
銅鉾/銅鐸分布:
九州系と近畿系はそれぞれ異なるルートで日本に渡ってきたと考えられる。
阿波男は日本史板では九州説のなりすまし荒らしで有名だよ
>>690や
>>691の影響は、現代人のDNAにも引き継がれている。
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
湿潤耳垢:縄文系(南方系)先住民
一方
238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠するまで、大陸に渡ることもできず
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほど、渡来人と接触した事が無く
240年に「親魏倭王」となってからは交易で訪れた民間人も頻繁に行き来しているだろうに
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、街道も整備されていないクソ田舎で
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような
奈良の邪馬台国からは、桃の種しか出てこないのか当然だ
>>690 無理やろ
奈良や京都みたいな都会は調査できないからな
>>688 それは間違い。
中国は日本の使者の話を信用しなかった。
『旧唐書』
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。
(わかりやすくまとめ)
日本の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は完全に別の国である。
C 日本は小国だったが倭国を併合した。
※日本の使者は不誠実でウソをついているようなので
中国は日本の使者の話を信用しなかった。
>>691 銅鐸派閥が狗奴国もしくは東の倭種の国であり、九州側が邪馬台国(女王国)だな
こんなん霊能者に卑弥呼の霊を呼び出してもらって邪馬台国の場所聞きゃいいじゃん
一方
大陸への航海歴がある出雲主王が統治していた島根の葦原中国を、武力で併合したものの
238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠するまで、対馬に渡ることもできず
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、街道も整備されていないクソ田舎で
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほど、渡来人と接触した事が無く
240年に「親魏倭王」となってからは交易で訪れた民間人も頻繁に行き来していただろうに
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような【奈良の邪馬台国】
奈良からは、桃の種しか出てこないのか当然だ
資料としては魏志より古事記だな。ところで日向に天下ってから東征までの間、出雲や畿内はどんな状況だったんだろう、そこが不思議。
>>472 それはない!記紀が語る神武東征は、兄・五瀬命の戦死でも分かるように、決して楽な戦いではなかった。難波から大和に入ろうとして長髄彦の抵抗にあい、海路をたどって紀伊半島を迂回して熊野に上陸し、背後から突いてようやく大和を平定したとある。
神武東征は神武東遷とも言われるが、これはたんなる首都の平和的移転や遷都ではない。それは九州勢力と畿内勢力との軍事対決であり、征服戦争であった。
記紀が東征説になってるのは、自分たちの先祖は西から来たという伝承か何かが残っていたからじゃないのかな?
>>696 中国は、日本人の言う内容についてではなく、あれこれと辻褄の合わない言い訳ばかりするので、信用できないと言ってるだけだ。
3世紀後半〜4世紀半ば 纏向最盛期
4世紀末〜いよいよ畿内ヤマト政権の本体が渡来↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
そんな
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような【奈良の邪馬台国】
が、爆発的に高度成長したのは
上に3人も兄がいて、そのまま九州にいたのでは、自分の国など到底持てない、
【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】の第4皇子の神武が
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したあとに、奈良の邪馬台国に攻め込んで自分の国にして
【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】の支配下となったから
そんな
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような【奈良の邪馬台国】
が、爆発的に高度成長したのは
上に3人も兄がいて、そのまま九州にいたのでは、自分の国など到底持てない、
【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】の第4皇子の神武が
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したあとに、奈良の邪馬台国に攻め込んで
邪馬台国を自分の国にして
クソ田舎の奈良が【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】の支配下となったから
>>701 神武東征を本当に信じてるの?
奈良盆地の名族イスズヒメのとこに通い婚していた流れ者のイワレビコが、
元々は九州海賊の出身だったのを、
後から盛りに盛って、大東征話にしただけだぞ。
>>707 邪馬台国については一応7万戸と最大値で記述されているんだからそんなド田舎ではないだろw
ちなみに纏向遺跡には住居跡がほとんど無い。
そもそも魏志にも記紀にも前方後円墳がどうたらという記述は無い。
畿内説の主張内容を示す記録も物証も存在しないのが現状だ。
奈良から出るのは東海山陰瀬戸内の土器
瀬戸内の土器は3世紀後半には無くなる
東征じゃなく卑弥呼西征かな
卑弥呼は朝鮮渡来人である
「邪馬台国」は「呪術国家」であり、「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」
であったという。「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、
政治は男子がとっていたと言われている。これは、「古代朝鮮の各国の王の
筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいた」のと似ている。シャーマンは
「預言者(祈祷師)として政治の中心人物に含まれ極めて重要なポスト」にあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成され、
シャーマンが政治の場に重く位置していた。
朱蒙王の高句麗建国の際にも、「女性シャーマンが王によりそい、政治の
予言(占い)を行って王へのアドバイス」をしていた。「王はわからぬことがあるとシャーマンを呼び相談していた」のである。
従って、古代朝鮮のシャーマンには相当な勢力をもつ者がおり、配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。
* 朝鮮では祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく
祈祷が盛んであった。小さな田舎町(村)には決まったように祈祷をする老婆がいた。
40〜50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、
困ったことがあると霊媒師をたずねる者がいた。現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、
災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。このような祈祷による暮らしが生活に密着している国は、
先進国では、恐らく韓国・日本において最も顕著であるだろう。
北方種族によって形成された朝鮮文化(シャーマニズム)を、弥生時代以降の倭国へ持ち込んだのは渡来人である。
弥生時代 「邪馬台国」なる「国?」を作り、「卑弥呼」なる女王をもうけたのは、朝鮮からの渡来人であったと推測される。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって終焉に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、
倭国を「日本」として独立・建国させたのである。「魏志倭人伝」に記録されている「邪馬台国」の軌跡は、
日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書に等しい。
倭国の原住民から「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が生まれたとすれば、彼女を取り巻き支える倭人は
全て渡来人であったということと矛盾する。
第一、縄文人の90%が東北部に在住し、西部には一万人もいなかったであろうと言われているのに、
弥生時代に「邪馬台国」を支える原住民がいたとは考えられない。「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が
縄文人の子孫から生まれたとするだけの素地が無いのである。
なぜ「須恵器」が弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ弥生時代に盛んになったのか、
古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳と「うり二つ」であるのか、「高松塚古墳」とそっくりな古墳がなぜ朝鮮にあるのか。
「荒神谷の銅剣」はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか。
あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れがある。このような時代背景の中で、
「邪馬台国」は何を生み出したのか。「邪馬台国」は3世紀に生まれたとされているが、3世紀と言えば、
弥生時代の末期である。稲作が日本中に広がっている時代に、
わけのわからぬ「邪馬台国」がどのような存在のものであったのか、単なるある規模の大きな集落であったかもしれない。
弥生時代末期 朝鮮からの渡来人が増えたので、日本の原住民(縄文人の子孫)は10人の内1人もいなかったという。
「消えた縄文人」なる書籍まで目にするが、縄文人は弥生時代でもって終焉に近い存在となり、
倭国の住民の90%以上が渡来人によって占められたと言える。従って、「邪馬台国」なるものは、朝鮮渡来人によって作られたとしか考えられない。
「邪馬台国」についてわかりやすく言えば、アメリカの原住民のアパッチ族を拡大・高度化したような集落・集団であったかもしれない。
縄文晩期の人口が十万人にもならなかったということは、その人口を全国に散在させれば、
各集落にはスズメの涙ほどしか人が住んでいなかったことになる。殊に、縄文人は東北部に主として暮らしており、
西部には1万人も居なかったという。従って、当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる「○○国」があったなどと言うのは、
「魏志倭人伝」に書かれているということで「邪馬台国」を過大評価し、真実の姿を誤解しているのである。
「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は部下をたずさえて渡来したシャーマンであった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というようなものではなく、渡来人による大集落であったと推測される。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたかどうか疑問である。
「魏志倭人伝」が書かれてから「記紀」「万葉」が書かれるまでの約400年の間に、倭国に関するまとまった文献が一つもない。
「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものである。
このことは、現在の日本人が想像しているような国を「邪馬台国」に期待するのは思い過ごしではないだろうか。
日本国の出発点としてではなく、文字を書けない者からなる大集落であり、しいて言えば、
アメリカのアパッチ族に類するものではなかったかと推測される。
まして、酋長なる「卑弥呼」の存在を考えるとき、彼女が「霊媒師」であったことは、
当時の社会風潮からすれば、当然貴重なる存在者として崇められていたと言える。
「霊媒師」としての能力をどこで覚え、配下に部下をもつほどの指導力を携えるようになったかは、
その文化的素地を養ってくれた朝鮮にしかありえないだろう。「卑弥呼」がどのような人であったかを推測するとき、
弥生時代という時代背景を考えなければ、とんでもない推測をしてしまうことになるだろう。「魏志倭人伝」なる漢字で書かれた文献に惑わされて、
何か偉大なものが倭国にあったかのような錯覚に陥っていると言える。「魏志倭人伝」は漢字で書かれているので、
解釈において多面的な意味が生じるので、一層始末が悪く、あれやこれやと色々な解釈をあげつろって混迷に陥り、
わが説こそ正論であるかのような論文が出回っているのである。 了
蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´)
・
卑弥呼の墓は径百歩という表現なので
円墳でも特に問題ないんだよな
なぜか前方後円墳だと思い込んでるけど
神武天皇の逸話って九州豪族の息子が畿内の有力豪族への婿入りした話なんだよな
古代倭国は女系相続だったし、阿蘇などにも天皇の皇子が婿入りしてる
たまに長文をコピペする奴が出てくるけど
あれを読んでもらえると思ってるのかな?
速攻あぼーんしたわ
これでようやく倭国は、奈良から出雲、九州までが、【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】というひとつの勢力の支配下となり
奈良の大和朝廷が
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
のルートで遣隋使を派遣する基礎ができたわけだ
倭国は九州
邪馬台国は奈良
倭国は漢代から中国に入貢
邪馬台国と仲間たちが倭を滅ぼす
入貢国を滅ぼされた中国は面目丸つぶれ
邪馬台国が中国に挨拶、こんにちは倭のほうから来た日本です
中国どうでもよくなって、あっそうふーん、ですます。
こんな流れだろう
>>720 6、7世紀の話で400年も過去を語るのか?
3世紀にそんなルートがあったわけでは無い。
節目は馬が導入された5世紀頃だろう。
ちなみに箸墓古墳では馬具が出土していた。
>>709 大陸への航海歴がある出雲主王が統治していた島根の葦原中国を、武力で併合したものの
238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠するまで、対馬に渡ることもできず
末廬国という本土に上陸した後は、次の伊都国まで
500里も延々と、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないような道なき道を歩かされる、街道も整備されていないクソ田舎で
238年に卑弥呼が遣使を「魏に」派遣したときに
「生口10人、班布二匹二丈ぐらい持っていけば魏の皇帝に拝謁できるだろう」と思うほど、渡来人と接触した事が無く
240年に「親魏倭王」となってからは交易で訪れた民間人も頻繁に行き来していただろうに
266年に壱与が遣使を「西晋に」派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないような【邪馬台国】
そのものだな奈良は
『旧唐書』は、遣隋使時点での聖徳太子の使者の奏上の話をしている。
日本國者 倭國之別種也 = 日本国は倭人伝にある倭国とは別の国である。
以其國 在日邊 故以 日本為名 = その国は日出る東の果てにあるをもって日本と言う。
或曰 倭國 自惡其名 不雅改 為日本 = 倭が中国語の卑字であることを嫌い日本に改めた。
或云 日本 舊小國併倭國之地 = 日本は倭人伝以前からの小国群を併せ倭国の地を統一した。
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
しかし、日本王の使者の奏上は尊大なので中国人は相手にしたがらなかった。
つまりこれが、第一回遣隋使の話である。
聖徳太子は、倭人伝を読みそれが統一前の筑紫の小国の話であることを喝破した。
聖徳太子は倭人伝の記述に関しては、邪馬台国九州説であるwww
>>723 10世紀の資料で実物すら確認されてないものに縋って唱える九州王朝説って、滑稽を通り越してイタイよなぁ
>>724 奈良は田舎だったというより、冷害による飢饉で住めなかったんだろうよ。
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』
ということは?
北部九州で畿内式土器が出土するのは、非難民の移動経路を示しているだけであり、
卑弥呼は銅鐸文化を否定する側(=銅鉾文化圏)の人物だったということだ。
銅鉾/銅鐸分布:
<結論>
・畿内式土器の広がりは飢饉により、畿内民が各地へ移民した痕跡である。
・纏向は倭国の一部ではなく、女王国の東にあった倭種の国の一つである。
・卑弥呼は銅鐸文化圏の人物ではない。
>>727 こっちは12世紀の書物だし、、、
1000年前の記録が残ってたなら、それ以前の中国の史書に載ってるよ。
>>708 この征服戦争の為に、神武軍は大兵力と大船団と周到な準備を必要としたであろう。しかるに東征の時期を4世紀後半とすると、九州勢力が朝鮮半島での新羅・高句麗との戦争と並行して、近畿地方への東征という二大正面作戦を敢行した事になる。
しかし、これは政治的・軍事的には考えられない事態である。従って、東征は朝鮮半島での倭国の軍事活動が本格化する以前、すなわち、4世紀前半までに行われたと想定される。
また東征を4世紀後半以降とするのは、銅鐸文明の消滅時期との関連からして遅すぎると思われる。
倭国の朝鮮半島での第一回の軍事活動は367年であり、この初めての海外派兵の367年までに、九州勢力が作った大和朝廷による日本統一がなされたと考えられる。
素人の畿内説だと、最近では邪馬台国はどこになってるのだろ?
ちょっと前までは三角縁神獣鏡が出土した古墳を手あたり次第卑弥呼の墓だと言い張りまくり
調査するたびに否定され、
その後箸墓古墳がそうだと言い張り
最近はそこも卑弥呼の墓じゃないようなので纏向学とか言い始めてるよな
ルートは?
日本海?瀬戸内海?
畿内説も九州説に負けず劣らずバラバラだよな
>>709 弥生時代前期で既に奈良盆地は最大の水田が
あるんだよ。
九州ですらまだないのにねw
>>723 もちろん、
>>707 で
>>720 となったものの
600年に本当に、奈良の大和朝廷が
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
のルートで遣隋使を派遣するまては
神武の死亡後に、次を誰にするかで、本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】と奈良で、骨肉の争いになる
とか
それでメンドクサクなった奈良が、ヤマトタケルを西征させて、
本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】を平定してしまう
とか
紆余曲折はあるよ
魏志倭人伝には、卑弥呼が亡くなった頃、女王国の南にあった狗奴国と戦争状態であったことが書かれている。
狗奴国が熊本だとしたら邪馬台国はその北だよな。
◆卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
2019.9.2
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html >>723 もちろん、600年に本当に、奈良の大和朝廷が
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
のルートで遣隋使を派遣するまては
神武の死亡後に、次を誰にするかで、
本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】と
【神武が統治していた奈良】の間で
骨肉の争いになる
とか
それでメンドクサクなった奈良が、ヤマトタケルを西征させて、
本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】を平定してしまう
とか
紆余曲折はあるよ
奈良県の宇陀近辺には足跡の地名が多数残されてるのに素人は~武東征は無かったと思ってるのかなぁ
>>723 もちろん、600年に本当に、奈良の大和朝廷が
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
のルートで遣隋使を派遣するまては
神武の死亡後に、次を誰にするかで、
本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】と
その第4皇子の【神武が統治していた奈良】の間で
骨肉の争いになる
とか
それでメンドクサクなった奈良が、ヤマトタケルを西征させて、
本国の【九州の「漢委奴国王」の倭奴国】を平定してしまう
とか
紆余曲折はあるよ
大事なことなので3回書き込みました
>>1 邪馬台国は鏡の中に今もあってそこに卑弥呼もいるらしいよ
>>667 だってエジプトとかはファラオの墓を暴いて展示してるだろ?
天皇の骨も展示しろよ
昔の野郎だぜ?もう遺跡だろ
天皇のしきたりと歴史
どちらが大切?
>>739 ファラオの直系はすでにいない
天皇系は一応名目上はつながっている
その差はとても大きい
どこにあったか分からない程度の国だったってことでしょw
(1)箸墓の主=大物主の嫁モモソ
(2)モモソ=卑弥呼
なのかねえ
(2)の証明は限りなく難しい
今の考古学の主流は
>>689 >>699 で
>>707 >>720 で
>>737 しかし
たとえば卑弥呼がもらった金印が出てもだめで(後からよそに動かされる可能性があるとか言うから)
邪馬台国の位置を書いた地図が中国で出ない限り、万人(九州説者)を納得させるのは難しいでしょう。
と、
九州説者を完全に小バカにしてる状態 m9(^Д^)プギャー
>>745 そしてゴッドハンドの共犯に賛同してるという事で
畿内説もゴッドハンドの共犯
>>718 素直に『日本書紀』や『古事記』を読めばそうなる
九州から出奔した兄弟の冒険譚
少人数で知恵(謀略ともいう)を働かせ、行く先々の勢力を倒しながら、大和を目指す
大和盆地の有力者の娘と結婚してハッピーエンド
魏志倭人伝の記述の通りの弥生時代の「有棺無槨」に該当する形式の墓が続出するのは北部九州
行橋・長井遺跡 弥生期の箱式石棺31基出土 23日に現地説明会 /福岡
https://mainichi.jp/articles/20191121/ddl/k40/040/331000c >>7 キトラ古墳では開けたことにより
内部にカビを増殖させてボロボロにしたことがある
手を加えずに済むならそのほうがいい
>>745 ゴッドハンドは他所から持ってきた土器の破片を掘り出した振りをしてたのだから
>後からよそに動かされる可能性がある
という言葉そのままだし
まぁ、共犯だから知ってるわなwww
卑弥呼の墓って日本で最初の巨大古墳と考えられるんだけど
径150mを作るのに数か月しかかかってないんだよ。
この墓を見た張政は、糸島半島北岸から南東に、
早良付近の伊都まで500里(対馬〜壱岐の半分)しか歩いていない。
残って無いだろ? 逆にただの丘で未盗掘とかだとGJだね。
>>748 そこで海にも出ないところで「やっぱ帰る〜!」した兄がいるのかいないのかも地味に気になるけどもw
違う国に行きました、と帰って故郷荒らしてた鬼を見事退治しました、となってるの、どちらが事実に近いのかw
>>705 天皇が即位礼で勾玉を無視したのは、縄文系の血は引いて無いという意味かな?
東征なんかありえねえよ
中華ではタウポ火山の噴火で飢饉が起こり乱が頻繁して漢の権威が失墜
倭国でも飢饉が起こり漢委奴国王の権威も失墜して倭国大乱が発生
倭国大乱で敗北した漢委奴国王一族は大事な大事な金印もほったらかして
一族のツテを頼って大きな勢力のいなかった奈良の山奥まで逃亡し
そこで再起を図った
これくらいならありうる
魏に朝貢したのは崇神かもしれない
王権の確立のための旗印を欲して、魏のバックを請うた
当時の慣習として、クニの司祭と長と対外的代表は女(ひめみこ)であり、
政治や軍事を司るのがひめみこの夫(ひこ)
帯方郡に送った使者がこのあたりをしっかり説明してしまったので、
魏の文書に「女王卑弥呼の使者」と書き留められた
>>741 だから日本はおかしいんだよ
どんだけ臆病な民族だよ!
天皇なんてさっさと滅ぼせよ
人の家の墓を勝手に掘り出したらそれこそ国家権力の乱用だと思うけど
>>755 2世紀後半の倭国大乱は、倭人伝など漢籍の記述を唯一の根拠とする。倭人伝での倭国とは日本列島全体ではなく、
北部九州と西中国を、領域とする邪馬台国連合国家を意味する。従って倭人伝などの文献からは、九州勢力と畿内勢力が2世紀後半に激突して倭国大乱になったとの証明は何も出来ない。
>>753 「天皇家の祖は九州から大和にやって来た男で、三輪山に婿入りしたのがはじまり
その男の名をヒコホホデミという」
こうした伝承が代々大切にされたのは本当なのだろう
地名やルートが妙に詳しく生々しい
「東征」や「九州勢力と畿内勢力の衝突」など、もともと神武に軍事力があったかのような解釈は、
後付けに思える
新トゥームレイダーで卑弥呼の墓を荒らそうとしたら何にも死んだよね?
>>745 ID:vI+Xsy/V0
こいつ畿内説のガン
こいつがコピペしてる珍説を唱えてる考古学者はいない
>>763 あったらおもしろいのだが
期待して待つ
漢や魏の習慣だと、墓の主が生前に受け取った印綬は、墓に入れるからな
箸墓の主も同じ作法で埋葬されてあれば、あるいは、、、
素粒子を飛ばすの?それとも素粒子を測定するの?
どういう機械なんだお?
ミュー粒子使う話だろ
福島原発やピラミッドの調査と一緒
魏志の記述そのままの墓だったことが判明すると
少し嫌だな
殉葬の犠牲者がゴロゴロ出てくるとかな
>>761 漢委奴国王の支配領域が北部九州だけと考えればいいだけ
>其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。
>倭国は乱れ、何年も攻め合った。
>そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。
西暦57年に倭奴国王が後漢に朝貢(漢委奴国王金印)
その後107年に倭国王の帥升が後漢に朝貢
146年 - 189年ごろに倭国大乱(桓帝と霊帝の間)
卑弥呼が共立されて239年に魏に朝貢(親魏倭王金印)
ここまで全部九州の話
卑弥呼の死後、再び九州(倭国)で後継者争いが勃発した時に
近畿で再起を図っていた漢委奴国王一族が女児を連れてきて傀儡政権を打ち立てた
これが近畿ヤマトの始まり
記紀が語る神武東征は、まさに征服戦争であって、この戦争により畿内の銅鐸文明は滅亡したと考えられる。従って記紀の神武東征と倭人伝の倭国大乱は全く内容が異なり、2世紀後半倭国大乱時の九州勢力の東征は神武東征は否定される。
>>760 だって普通は他の支配者が権力握ったら前の王朝滅ぼすだろ?
何で天皇家を生かしておいたんだよ?
ありえねぇ
信長が生きてたら天皇家を根絶やしにしてくれたかもしれないのにな
>>773 西洋の王族も教会で戴冠式するでしょ
天皇家はこの教会みたいなもんで
将軍になるのに天皇のお墨付きが欲しいからだよ
>>774 イギリスのヘンリーは自分でイギリス国教会作った
天皇滅ぼして新しく作ればいいだけ
天皇はイエスみたいなもんだし宗派増設とは違う
そもそも天皇はイエスじゃないし日本神話信じてないから発掘してほしいが
>>762 高千穂地域のクニの統治者の一族で、政変みたいのがあって亡命して…とかだと面白いけどな
ミケイリヌは一度弟たちとは違うクニに亡命なり援助を取り付けになり行ってから取って返して賊を討ち果たし、別口で亡命or援助を頼みに他のクニを回ってた弟たちは畿内に至って定着…とか
今の皇族がお前ら誰なんだ?て事になるとマズいからな
>>777 政変はあったかもわからんね
なぜ九州を出奔したのか、単なる冒険心だけではないかもしれない
母系地域なら息子は出て行かねばならないだろうが、いきなり大和を目指すのは遠すぎる
神武の先々代も政変の影は記述されているね
海幸彦・山幸彦の諍いは、山幸彦が豊玉姫の一族と結んで勝利したと
そうだね
兄弟で別地域に定着は、おおいにあり得る
>>51 ひらかすわけのみこと(王朝を開いた最初の御方という意味)、は天智だ
>>778 天皇は今も昔も日本にとっては害でしかないな
象徴なんだから今更しゃしゃり出てくるな!
てめぇらも人間だろ
研究のために調査させろや
卑弥呼とかヤマタノオロチとか、もっと岐阜とか和歌山?九州寄りじゃ無いかなぁ
天草四郎とかあの辺じゃ無いの?
なんとかしろうさきとか??
朝鮮半島で出土した百済前期(4世紀前半)とされる最古の木製輪鐙は木型に鉄板を貼り馬の操縦に適した機能を持たせるなど劇的な改良が見られる。木製鐙が開発されたと考えられている高句麗周辺の壁画古墳からは5世紀以降にならないと木製鐙が確認されない。
関西辺りが産廃で捨てた所も奈良とかあった気も
天草とかあっち??記憶が、、、奈良か?
因幡のしろうさき?
因幡の白兎だよ
稲葉←は、ガレージの稲葉、100人乗っても大丈夫
ヒミコの墓は宇佐周辺だろ
近くには百人塚もあるし
現物だけで考えたら宇佐周辺
記紀を鵜呑みにするな
地名とか、邪馬台国の名残の民族性なら大和(ヤマト)
あっちは、大和と書いてたいわインター
>>784 日本で見つかったのはもっと原始的なものだろ
それに片方だけだから馬の操縦ではなく、乗り降りのためのものの可能性が高い
馬の操縦のための鐙が発明される前の時代ということ
>>790 うん、ど田舎的にもその辺かなぁ
先輩に聞いて見ないと、微妙だが
都道府県のバブルなおっさんとか掘削機とか買って発掘とか掘りたくて、、御当地の威厳を?
>>428 実際に同時代の小人が発見された種子島じゃ無いの?
まさに物的証拠なんだけど
>>781 マジでこれお前らを神と思って戦ったのに左翼天国になってるし
世界平和とか言って勘弁してくれと思ったそこは日本人の繁栄と安寧だろが
天皇の出自なんて何処だっていいじゃないか
公務をしっかり果たしてくれればいいんだよ
誰だかわからん墓にしてるほうが亡くなった人に失礼だよ
鳩山の墓が平成天皇の墓に比定されてたら嫌だろうw
宮内庁も天皇家も国民の税金で生活している訳だから箸墓古墳は天皇の娘の墓だから
調査は禁止とか生意気な事をいうんじゃないぜ、真面目な学術調査なら天皇の墓でも
積極的に調査をさせろ。
天皇の陵なのに定かじゃないとか、その天皇はえらく大事にされてないのなっていう話だな
そら実在も怪しまれるわ
卑弥呼の墓は糸島半島北岸〜早良付近の500里間にある
直系150mで数か月で盛れる円形の墳丘だって倭人伝に書いてある。
これに相当するもんは、ほぼ自然丘陵かぼた山みたいなもんだけど
古墳には見えそうもないから、盗掘されてないで出てきたら面白いだろうね。
>>570 箸墓古墳のモモソヒメはシャーマンですが?
>>796 正解です
が、畿内派の人には内緒にしてあげてください
すぐ火病るので
そもそも、モモソヒメってのは、古墳時代の姫か?
247年以降、筑紫の台与は畿内に合流して纏向の姫になった可能性は有るが
卑弥呼は190年から247年迄筑紫21国に君臨した阿蘇火山の宗教王だよ。
190年以前の奈良って、考古学成果で
卑弥呼が長期政権の王になる為のなんかあるの?
景行以下、九州系天皇や神功皇后の存在が、
完全に破綻してるのにどうしたら、記紀と倭人伝が整合すんだよ。
>>807 卑弥呼が阿蘇火山の宗教王なら倭人伝に火山の記述が無いとダメだろw
本当に九州説の連中は勝手な妄想全開だな。
阿蘇 火見王(ヒミホ・卑弥呼)
霧島 火見古王(ヒミコホ・卑弥弓呼)
火山教の教祖様達か
>>712-
>>714 トンスル酒場のチョン妄談を持ち込むのはやめて下さいねw
>>712 クラスターチョンw キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
>>807 東国を治めるには奈良が良かった。瀬戸内海の終点であり東には伊勢湾がありそれを渡ると
東国がある。また、山に囲まれているので天然の要塞であった。
大阪から山を登った先に天国があったという土地であったのだ
前方後円墳が卑弥呼の墓なわけないだろ?w
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
>>809 そういう話か?
倭人伝には日本を見た記録が建中校尉梯儁と塞曹掾史張政
魏が知り二回だけ見た238年〜247年に阿蘇の主な噴火は無かったかもな。
卑弥呼は九州ローカルで火山祭祀の王だった。
九州勢力も公孫氏を廃した魏は本当は支持していない。
日本の政権は大阪湾岸から、奈良まで引くほど中国軍を恐れ
知りながら畿内に有り、先兵の筑紫卑弥呼軍は斥候ですらない。
そもそも論で、日本は不沈空母だったのである。
>>824 三世紀当時の中国で鬼道といえば神仙思想、のちの道教だからそもそも火山は無関係。
倭人伝の記述に無いものを持ち出すのは九州説ではデフォなのか?
>>809 卑弥呼がどうした?
天皇家が認めてる日本人の正史古事記が真実、海外向けが日本書紀
魏志倭人伝とか知るかボケ
九州で火山だろ?神武天皇が宮崎県高千穂なら
桜島、霧島じゃねーの?
阿蘇山って熊本やっけか
でも大分県宇佐神宮に天照を祭ってるなら本拠地は大分県の西熊本が正しいのかな
呉帝王「俺は日本人だ」
邪馬台国はエジプト
エジプト王は日本人
そう言えばイザナギ、イザナミが一番最初に交わって産んだ島が淡路島やっけ
う〜ん神武天皇が宮崎県から東征したとして古事記には兵庫県淡路島が一番最初なんだよな
あと神武天皇の東征って言ってるけど実際指揮してたのは神武天皇の兄貴だよな
近畿地方に入った時に奈良の豪族に負けて熊野に逃げただよな
兄貴は戦死したから神武天皇が敗軍をまとめて八咫烏に導かれてリベンジして勝利するんだっけか
畿内派の倭人伝は魏志のみがデフォなんか?それでよく議論できるね
>>825 え?
畿内説は、日本書紀に無いものを持ち出して、邪馬台国だの卑弥呼だの言ってるんだろ?
日本書紀本文には、一切出てこないんだぞ?
>>828 俺もそんな気がする
神武天皇の橿原神宮周辺の地質調査で2000年以上前がほぼ確定してる以上
魏志倭人伝の時期と言えば西暦220年ぐらいの曹丕の時期やろ?
どう考えても神武天皇の東征終了してるから近畿地方は今の天皇家が支配してるし卑弥呼とか関係無い思う
>>831 邪馬台国とかどうでも良いんやけどな
曹丕の魏が建国した時には既に畿内は天皇家が支配してるんだから
日本人にとって古事記、日本書紀が正史なのに何で魏志倭人伝にこだわるんだろうね
チャンコロが嘘つきでどうしょうもないゴミだって日本人なら誰でも知ってる話なのにさ
ついでにチャンコロの王朝が歴史書を記録するのは次世代の王朝が前の王朝の話を記録するんだよな
絶対に最後の皇帝が毎回悪く書かれるのはそれが理由
悪い悪党から王朝を奪ったと正当化する為ってチャンコロが言ってたな
>>833 陳寿が直接来日して書いた訳じゃないというのは当たり前だろw
>>831 その日本書記に出てくるモモソ姫を、日女命と書いた資料が籠神社にはあるから仕方ないな、あきらめよ。
>>835 流れ着いた人や交易してた人に適当に聞いたレベルという意味や
>>834 どうでもよければ、邪馬台国は機内だ都か箸墓が卑弥呼の墓だとかいうデタラメニ固執するのやめれば?
>>835 魏志倭人伝書いたの陳寿やっけ?
あいつ元蜀臣の劉禅の配下やろ
魏志倭人伝って曹丕の時期だから
蜀が滅亡したのは曹叡の時期じゃ無かったっけか?
陳寿は司馬炎の晋にも仕えてたはずやけどな
晋の世の中だったからあそこまで曹操を悪玉にした三国志を書けたんだろ?
司馬炎のは曹一族から簒奪してるから曹操を悪く書いて劉備主人公にしても問題無かった
悪い曹一族をやっつけて司馬一族が皇帝になったと正当化したい
>>838 俺はそんな事言って無いぞ
どう考えても魏志倭人伝が書かれた西暦220年前後には
近畿地方は天皇家が支配してるって日本の正史に書かれてるって言ってるだけやけど
橿原神宮周辺の地質調査だけの話やけど
2000年以上前ってデータが出てる
記紀を云々しても古代日本の実相は何一つわからない
同時代の超一級資料である魏志倭人伝が唯一古代日本の姿を垣間見られる資料
>>771 西暦57年に倭奴国王が後漢に朝貢(漢委奴国王金印)
その後107年に倭国王の帥升が後漢に
安帝の永初元年(107年)生口160人を献じた
後継に卑弥呼が共立されて魏に
239年に生口10人、班布二匹二丈を献じた
って何かの冗談だろ m9(^Д^)プギャー
>>843 魏志が書かれたのはもっと後だが、それはともかく、日本書紀の記述を真に受ける学者はほぼ皆無だw
ま、紀元前の時点で畿内の方が水田もデカイの判ったしな。倭人の都は既に九州ではない。
つまり三世紀以降の東遷は勿論、邪馬台国九州説なんてもはや論ずる価値は何もない。
>>836 横からすまんが、「日女」=「姫」じゃなかったけか?
いわゆる万葉仮名だね。
「比売」「毘売」「日売」「日女」とかいっぱいある。
>>28 今時、皇紀なんて、誰も信じてないだろ。
それは戦前に適当に決めた紀元だからな。
>>771 西暦57年に倭奴国王が後漢に朝貢(漢委奴国王金印)
その後107年に倭国王の帥升が
107年 生口160人を献じbス
血繻pに卑弥呼が給、立されて
239年 生口10人、班布二匹二丈を献じた
って何かの冗談だろ m9(^Д^)プギャー
だから九州説はバカにされる(笑)
姫なんて長い日本の歴史の中で何百人いたと思っているんだ
>>771 西暦57年に倭奴国王が後漢に朝貢(漢委奴国王金印)
その後107年に倭国王の帥升が
107年 生口160人を献じた
後継に卑弥呼が共立されて
239年 生口10人、班布二匹二丈を献じた
って何かの冗談だろ m9(^Д^)プギャー
だから九州説はバカにされる(笑)
もしも卑弥呼が生口160人を献じた漢委奴国王の後継なら
生口10人しか連れていかないなんて無礼なこと
怖くて出来ねーよ
>>845 いやお前三国志演義って誰が主人公が調べてこいよ
蜀の皇帝劉備やろ途中から孔明になって最後ちょこっと姜維が主役
それ書いたのが明の羅漢中やっけ?
明は漢民族の王朝だから漢民族を英雄にした話を書きたかったんやっけ
その元が元蜀臣の陳寿だから曹操をクソ悪玉に書いても司馬炎は怒らないよな
司馬一族が曹一族から帝位を簒奪してるし曹一族はとんでもない悪党だったとなってた方が好都合
確かに曹丕は漢から禅譲されたし司馬炎も禅譲させたけど
そのやり方調べてみろよwwww
曹操は献帝の嫁を皇帝の目の前で絞殺して自分の娘を強引に押し付けて
司馬懿は曹真の息子始め一族を謀反の罪で皆殺し
司馬師は皇帝のわざと立ち上がらせて反抗させてから皆殺ししたんやっけかw
無茶苦茶やんw
>>851 奴国は、「あいつら奴隷しか特産物ないのかwww」ってバカにされたから、
「奴国」とか漢字をつけられちゃったんだよ。
だから邪馬台国はがんばって工業製品を持って行ったのだ。
姫は姫でも日女命こと百襲姫は瀬戸内海では神として扱われてるからなw
大物主に嫁ぐ意味わかっているのかと。
また神大市姫ともいうが、別の資料ではスサノオの嫁扱いだぞw
>>855 三国志演義は、魏志とはまるで関係ないが?
>>847 タウポ火山の噴火で天候不順が起こり飢饉と反乱の発生
漢委奴国王一族は倭国大乱で敗北して同族のツテを頼って東の方に逃亡
飢饉と大乱で荒れ放題の空白地帯となった北部九州では卑弥呼を共立
太陽信仰で再生に乗り出す
こういうバックストーリーよ
隋書に入れ墨の話出てくるけどあんな時代迄、近畿で顔への入れ墨やってたの?
>>848 そう言えば歴史学者は頭のおかしいキチガイしかいないから
発見したらうしろから蹴り入れろって竹田恒泰氏が言ってたなw
古事記、日本書紀を嘘つきだっていやいや
日本人にとって正史がそれやろ
まぁ〜正直神武天皇の墓を掘り起こしたいけどな
DNA鑑定マジでやって欲しい
特に日本の場合は婚姻制度が妻問婚だから男系男子126代やっけ
パヨクじゃなくてもマジかよって思ってします
源氏物語の主人公光源氏が天皇の女に自分の子供を産ませて
その子供を即位させてしかも自分が本当の父親だと教える事で
権力の全てを握った!ただ自分が正室にした嫁が産んだ子供は自分の親友の息子との子供なんだよな
因果応報で自分と血縁関係が無い息子に全てを奪われたって話だもんな
妻問婚はガチでやばいwww
>>553 天皇陵がどのように比定されたのか、よーく調べてみて。
あなたのいう場所、本当に神武天皇陵ですか?
>>861 違う。邪馬台国は奴国から水行1月陸行1月も距離のある離れた場所にある。
北九州論者は奴国から水行1月陸行1月はなれた場所に邪馬台国があると記述されている
事実からいつも目を背け向き合おうとしない。
現実から目を背けてはダメ!
記紀の要点は
◎ヤマト政権の前に国作りがあった
◎ヤマト征伐、東征か西征か分からないが、奈良に外部勢力が浸入することでヤマト政権が始まる
纒向遺跡は外部勢力が浸入して作られた遺跡
>>866 えーでも畿内説論者は距離も方角もデマだけど邪馬台はヤマトと読めるから畿内で間違いないていう駄洒落理論やんか
>>858 いや魏志倭人伝の話じゃないよ
元蜀臣だった陳寿が何で晋の時代に三国志を書いたのかって話
司馬一族の時代だから曹操を悪く書いても誰も文句言わなかったって話
好き勝手に劉備を持ち上げる事が可能になった
ただ孔明の北伐編で司馬懿が街亭の戦いで活躍してる話は創作で
実際は曹真の手柄らしいけどな
陳寿が司馬懿を持ち上げる為
司馬懿が曹真の息子を惨殺してるから持ち上げなかったんだよな
>>844 言語学者・長田夏樹は、日本の古代言語は三つの異なる地域に分けられるという
すなわち、S音の北部九州、ts音の近畿、tf音の東国
魏志倭人伝を分析すると、ほとんどがS音をつかっていることが明らかであり
これから推測すると、S方言圏は北部九州であり、
つきつめて言えば、記紀に書かれていないことが
ヤマト側にとって都合がわるいこと
銅鐸 → 無視
卑弥呼 → 神功皇后
>>867 神武天皇の東征と
ヤマトタケルの征西はガチやろ
古事記に書いてあるし
ヤマトタケルは熊襲、出雲を征服したあと関東まで攻め込んで征服したんだろ
>>868 奴国は儺県(なのあがた)や那津(なのつ)と呼ばれ地名が残っていた。なら、邪馬台国も
大和と残っていたとしても不思議ではない。
>>861 ナイナイ、九州説でも北部九州説なんて完全否定だわw
>>868 ヤマトという地名も北部九州から移った
考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です
>>869 『三国志演義』は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)
を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。
四大奇書の一つに数えられる。
著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。
これの話?
邪馬台国は周囲5000里の島なので畿内ではないです
九州か四国か台湾です
>>865,
>>866 こまけーことはいいんだよ。
いや、もちろん理由をつけようとすればフラクタル理論や「水行」の定義やらいろいろあるが、
なんか最近どうでもよくなったw
墓も見つかってもいないのに
九州説などあり得ない
ファンタジーかよ
>>872 ほら邪馬台がヤマトと読めるからという一点を持って
全否定する魏志倭人伝の邪馬台国と卑弥呼だけ抜き出してきて近畿だっていう主張じゃん
>>18 さすがにAV女優に処女はいないだろう (´・ω・`)
>>870 記紀には、
卑弥呼→アマテラス
銅鐸→出雲
そもそも奈良の大神神社は出雲の神を祀っている日本最古の神社。奈良には天皇家以前に
出雲族が支配していたのは濃厚。葛城地方は出雲族の支族である鴨族の痕跡がいっぱいある。
また、京都の上賀茂神社下鴨神社など京都にも出雲族は定住していた。
>>878 いやだから神武天皇の墓を掘り起こせば全て解決できるけど
あの辺の地質調査で2000年以上前に建設されたのほぼ確定
魏志倭人伝は西暦220年ぐらいの曹丕の時代なら
既に近畿地方は天皇家が抑えてるよなって話
確かに天皇家に女性天皇はいるけど卑弥呼=天照とかマジでねーわ
天皇家の九州起源説は考古学からも裏付けられます。弥生時代には、北九州から瀬戸内海におよぶ銅剣・銅鉾文化と近畿・中部を中心とする銅鐸文化の二代文化圏の存在が知られている。
ヤマトトトヒモモソヒメの別名前知らない奴が多すぎだろ。九州説は知識が足りない。
孝霊天皇の皇女で大物主の嫁、後々村上水軍も
神としている。
日女命、又の名を神大市姫だぞ。更に日神という。天照直系そのもの名前も持ってるわ。
箸墓があの大きさなのも納得だろ。
しかしお前らさチャンコロは嘘つきでとんでもないゴミだって
日本人の意識調査したら80%超えると思うんだけど
何であんな嘘つきでどうしょうもないチャンコロが書いた魏志倭人伝が事実で
日本の天皇家がこれが正史ですって言ってる古事記、日本書紀を無視するんだろうね
>>874 外山茶臼山古墳のそばの宗像神社が意味深ですね
宗像の由来は胸の部分に文身のある海人族という意味だそうですから
日本書紀と邪馬台国を無理矢理結び付けるのはやめた方がいい
>>864 平安時代に書かれた延喜式諸陵式の記載を元に、明治になって確認してる。
神武天皇の記載を抜き出すと、以下の様に書かれている。
畝傍山東北陵
畝傍橿原宮御宇神武天皇。在大和國高市郡。
兆域東西一町。南北ニ町。守戸五姻。
>>880 でも処女を演じるし、民衆はその設定を受容した上で妄想するよね。
それこそが信仰(=鬼道)だと思う。
>>874 畿内の古墳の朱は全部国産なんだよね
中国から貰った朱を使っているのは九州の墳墓
中国と交流した邪馬台国が九州なのは明らかだね
いやマジで不敬そう言うの無しにして橿原神宮の神武天皇の墓掘り起こして
調べる許可を宮内庁は出せよ
仁徳天皇陵世界遺産とかするならまず調査させて欲しい
俺は好奇心からDNA鑑定マジやってもらいたい
>>893 箸墓古墳は4世紀のホケノ山古墳よりも新しいからな
卑弥呼の墓である可能性はゼロ
>>887 多くの邪馬台国畿内大和説者が主張しているような、邪馬台国が畿内から自然発生的に樹立され、これが九州を征服して古代統一国家の原形を作ったとすれば、畿内文化の象徴たる銅鐸が九州にも移入されたはずだ。
所が、九州からは最近、初期の銅鐸が少数発見されているだけである。
>>879 畿内説がなぜ通説になってるのか基本的な知識もないのに、こんな嘘ついてイチャモンつけてんのか
もう高校生の教科書や参考書にも書かれてる基礎知識だぞ
>>885 こうやって何の関係もない事柄を並べてこれが証拠だと言い出すキチガイが畿内説w
神武天皇陵墓の事実知らない人も増えたのか
時代やね
知ってる人は橋のない川のことも知ってるやろね
取り敢えず金印が出てくれば卑弥呼の墓で確定なのかな?
中国が日本に贈った2つの金印の1つは卑弥呼が持ってるんでしょ
大国主は大きな国の主ってくらいだから、きっと代々襲名する名だろう
>>901 あの話の古田武彦の対談を読んで、氏が歴史研究家ではなくエンターテイナーであると確信したんだけどな。
>>874 資料が古いわ、地名ならむしろ畿内のが古いw
博多なんて明らかに畿内のが先だし。
また河内の八尾、亀井辺りで水銀朱を計測していた天秤、分銅が見つかっている。
これは紀元前の物だからなw
また水銀朱を使った方墳も弥生時代中期の物が近くにある、しかも貨泉も。
>>902 九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったので金印は持って移動した可能性がある
>>900 箸墓は誰の墓かな?
スレタイも読めない文盲かよw
>>905 >資料が古いわ、地名ならむしろ畿内のが古いw
こうやってソースの無い妄想をさも事実かのように断言するのが畿内説患者の典型的な症例です
付ける薬はありません
>>864
>あなたのいう場所、本当に神武天皇陵ですか?
本当の神武天皇陵
神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 ニュートリノ
ミューオン
量子論とおなじでわかわかめ博士が現れて絶対スレ潰れると思ってたのにw
違う(ある意味真っ当な)視点で伸びてる
>>898 いやいやw
近畿ヤマトがヤマト王権の祖であるという話は全然おkだよ
でもそれ魏志倭人伝にしかでてこない「邪馬台国」も「卑弥呼」も関係ない話だよね
邪馬台国も卑弥呼も近畿説が全否定する魏志倭人伝にしか出てこないよ?
大伴氏・中臣氏・物部氏などの大和朝廷の中核を形成した豪族の発祥地も九州
>>882
>そもそも奈良の大神神社は出雲の神を祀っている日本最古の神社。
「大神神社」 こりゃ、どう読んでも「おおかみ神社」だろ。 わははははは
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 基本九州の地名なんて大和朝廷の人間が持っていったもんだ。そんな簡単な事すら理解出来ないのかよw
福岡だって岡山からだぞww
ちなみに畿内にはヤマダイ郷が大倭国の時代に残っているからな、しかも複数だ。
>>904 どう思おうと勝手だが 古田史学を批判できるだけの知識は
持ってるんやろね そうじゃなきゃただの阿呆やで
>>915 >邪馬台国も卑弥呼も近畿説が全否定する魏志倭人伝にしか出てこないよ?
邪馬台國の卑弥呼とは
土蜘蛛の女酋長田油津媛だろ?
倭國王を偽僭して金印貰ってしまった。
>>884
>天皇家の九州起源説は考古学からも裏付けられます。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>916 九州の邪馬台国が東征したのは明らかだな
>>916 『隠された物部王国{日本ヒノモト} 民俗学者・谷川健一
かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」
「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか
物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ 饒速日とか
東遷は2回あった 谷川健一がいってるように
>>869 三国志演義を書いたのは陳寿じゃない。
中国の歴史書というのは、そのときの王朝の正当性を表明するために、前王朝の歴史を書いた。
書くのは官僚であり、勅命による場合もあるが、自主的に書いたものが採用される場合もある。
陳寿の三国志は後者。
>>892
>中国から貰った朱を使っているのは九州の墳墓
いや、九州特産の「ベンガラ」だろ? わははははは @阿波 >>920 それならなおさら箸墓古墳と卑弥呼は何の関係もないw
>>918 ばーか 逆だよ
記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、
大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。
>>905
その水銀朱は、「若杉山辰砂採掘遺跡」産だから。 ごめんね。 わははははは @阿波 >>915 ほらまた、畿内説が魏志倭人伝を全否定してるなどとデマを繰り返す
嘘デマ捏造は九州説のデフォだな
それに魏志倭人伝を否定してるのは九州説だろが
・倭人一般の風習を邪馬台国のことだと曲解
・そのくせ、邪馬台国について書かれている部分は都合が悪いからガン無視
三輪の伝承なら一つは瀬戸内に、一つが大和にだぞ?宇宙から降って割れて来たことになってるw
まあ大物主がトト神ならそういう伝承も伝わるのは不思議じゃない。
九州説論者は息を吐くように嘘をつく癖を直さないと誰にも信用されないぞ
>>931 丹山は解釈の問題
景初3年に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に献上した丹(朱・丹砂)は、伊都国の丹生川(嬉野町)で採取したものと考える。@@@@@@@@@@
末盧国(唐津)から伊都国(吉野ヶ里)に至る陸行の途中、佐賀県多久市の辺りから南西30キロメートルに丹の取れる
虚空蔵山がある。
魏志倭人伝の「その山には丹あり」の文章のままである。
>>904 古田武彦が延喜式すら知らないわけがないし、守戸の五姻が明治まで存続してたことも知ってるはずなのにあの発言はないわな。
古田武彦ってのは矢追純一みたいなもんだ。
箸墓古墳の埋葬者と言われている「ヤマト・トトヒ・モモソヒメ」は、4世紀中頃の人物。
卑弥呼は3世紀中頃の人物。しかも卑弥呼の墓は円墳。直径100歩、145メートル。
3世紀中ごろ、皇室の先祖は九州にいた。ちなみに神武天皇は3世紀末頃の人物。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。年代の推定が古すぎる。学者は年代推定をやり直したほうが良い。
もしも箸墓古墳が卑弥呼の墓なら、邪馬台国と大和朝廷は無関係。
>>897 初期の銅鐸が九州にあるってことは、むしろ九州から伝わった文化ということもあり得るね
>>1の箸墓から出土した特殊器台も九州発祥の器台が東に伝わるにつれて大型化していったものだし
http://www.i-rekihaku.jp/gakublo/jyousetsu/6598 ■器台の起源
器台形土器(以下、器台と呼称する)は、弥生時代中期初頭(約2200年前)の九州に小型のものが現われます。
出現期の器台は、壺(つぼ)・甕(かめ)・鉢(はち)などの土器を安定して置くための台としての役割を果たしました。
九州では、弥生時代中期中頃(約2100年前)になると、高さが80pを超える「筒形器台(つつがたきだい)」が墓地に出現します。
福岡県朝倉郡筑前町の栗田(くりた)遺跡では、54基の甕棺墓(かめかんぼ)の近くに、よく磨きあげられた真っ赤な土器
(壺・甕・器台・椀・高杯(たかつき))がまとまって納められた地点が複数見つかっており、これらは、死者を甕棺に埋葬した際の
儀礼(マツリ)専用の土器群です。より高く捧げようとした背高の器台は、この儀礼で特に重要な役割を果たしたに違いないと思われます。
■地域における普通器台の出現と展開
九州以外の西日本では、中期後半(約2000年前)に各種の土器に脚台をつけることが多くなり、大型ではない普通の器台が出現します。
瀬戸内地域では、後期初頭(約1900年前)に吉備(きび)、播磨(はりま)、河内(かわち)など吉備以東で器台が出現・展開し、
特に吉備では後期後半(約1800年前)にかけて、大型化・特殊化した独自の器台の文化が展開します。
伊予・松山平野においては、後期になって中部(ちゅうぶ)瀬戸内(讃岐(さぬき)・吉備)からの影響で普通器台が出現します。
そして後期中頃には普通器台から伊予独自の大型器台を生み出し、その後華々しい器台の展開をみせます。
松山平野内で大型器台の出土が集中する地域は久米(くめ)遺跡群とその周辺であり、このエリアは大型器台の出現地として注目されます。
>>929 そう、全く関係無いだろう。
魏志東夷伝が書き記した邪馬台國を討ち滅ぼしたのが、のちの大和朝廷というだけで。
箸墓古墳はマトリョーシカだろう
卑弥呼の墓を覆い隠すように作られた古墳時代の墳墓
>>928 酸化鉄の赤であるベンガラ(紅=鉄丹=ベネシャンレッド)は、血(ヘモグロビン)の色。
つまり命の色なのだ。だから紅は女性の化粧に多用される。
>>933 天の香久山もそうだよね。
漢の時代、列島の覇権国・邪馬台(九州)は、配下の奴国(博多)に朝貢させてた。
だが、漢の末期、倭国大乱で畿内に負け、男王を禁止(=覇権の禁止)された。
魏の時代、表向きの倭国盟主として、新覇権国・畿内から朝貢*させられ*てた。
そして、華北崩壊の4世紀頭、邪馬台は畿内に滅ぼされ、権威あるその名を奪われた。
魏志倭人伝を普通に読めば九州なのは明らか
中国の学者はほとんどが九州説
>>930 何言ってるんだ?さっぱりだぞw
全然畿内の地名より早い証明にはなってない。
ちなみに奈良盆地の古い地名ならむしろルーツは讃岐辺りと共通しているからな。
>>941
やはり、九州の古墳はベンガラのようだ。 わははははは @阿波 >>944 漢文をまともに読めない学者モドキが畿内説をでっち上げてるってことか
>>944 要するに
魏志倭人伝のみに書かれた邪馬台国=九州
ヤマト王権=奈良→ヤマト朝廷=京都
なだけの話だよな
そこで日本書紀によれば、邪馬台国の卑弥呼は神功皇后だったらいいなーって書いてあるだけ。
本居宣長が指摘した通り、そうなると神功皇后含めてワカタケルは中国の属国になると気づいたから、なかったことにしただけ
大和朝廷なんてものは、継体以前には存在しないよ。
継体以前は、各地にいろんな王や首長がいて、その時々の一番勢力のある奴を後付けで、
「この人たちは、大和朝廷の先祖の大王です」と、
フィクションで強引に男系直系につなげただけ。
魏志に書かれた鉄も絹も無い畿内が邪馬台国とか寝言は寝てから言えよな
>>944 普通に読むだけでいいのに、九州王朝説とか卑弥呼=アマテラス説みたいな根拠のないトンデモを混ぜるからいかんのよ。
で、作ったオリジナルストーリーが他の書物や実際に発掘された遺物なんかと矛盾するからバカにされる。
>>939 その可能性は大きいな。
ヤマトタケル神話が九州制圧を象徴しているのかもしれない。
>>947 そこで
「以朱丹塗其身體 如中國用粉也」
ですよ。
女性たちはベンガラを塗って血色よく見せていたと。
今の頬紅や口紅と同じだね。
>>948 つうか、連続性の話なんだよ
基本的に近畿〜畿内に「いつからヤマト朝廷があったのか」がわからない
幻の三世紀、欠史八代にあたるから。
なので考古学的発掘するのに金が必要なんで、ロマンとしての邪馬台国が出てくるだけ。
本当はヤマト朝廷の根源を探るだけの話なのに。
んなわけで、邪馬台国近畿説って史料的にも博物的にも裏付けはない
単に「もし邪馬台国があったなら、奈良になんかの痕跡があるといいな」これだけ
吉野ヶ里の真似ね
>>952 邪馬台国が九州にあったのなら、それは卑弥呼を女王とする九州王朝じゃないかw
万葉集、炎立つのことだよ
邪馬台国、卑弥呼、纒向、倭国大乱
>>944 三角鏡を国内産とした中国人の先生は畿内説だからw
ちなみに韓国人の先生も九州説が多いからな、つまりそういう事だw
まともに聴いてるとバカをみるぞ。
>>951 それな
まあそこを指摘すると畿内信者は発狂しちゃうんだが
だいたい神武東征がホントなら、なんで後になって、
何べんも何べんも大和朝廷は九州征伐に行くんだよ?
もともとの出身地と戦って征伐するなんて、おかしいだろ。
神武(イワレビコ)は、九州から追い払われた海賊のようなもんなんだよ。
>>953 んー
制圧はしてないんだよねぇ
あれ、火の国の熊襲討伐だけだろ?
ふつうに考えたら山彦の一族の隼人が薩摩なんだし、
火の国は肥国、熊本だし、
日向高千穂で、ウガヤフキアエズが北九州なら、
ヤマトタケルは九州だけで活動してんだよね
その割に各地にヤマトタケル神社あるんだけどさ
>>944 中国語ネイティブが読めば九州だと分かるように書いてあるのか
じゃあ決まりじゃん
>>958 あ、つまり
バカが畿内説ってことかな?
>>956 あースマンスマン
九州王朝説では無く、その邪馬台国による九州王朝東遷説って書きたかったんよ
>>954
ベンガラより水銀朱(朱丹)のほうがべっぴんさんになるよ。 わははははは @阿波 >>944
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか
おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?
九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)
〈1〉岡山市・造山古墳 〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳 〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。
ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。 己の無知をさらす質問で済まんのだが
卑弥呼の墓を建てましたって記録ってあるの?
>>960 だいたいにして毛野国討伐もしてないのに、
九州のいくさばかりだもんな
なんで九州攻めるのに、奈良を出て、瀬戸内渡り、吉備国すぎてから、
大分の宇佐八幡寄って、初めて北上するんだろうね
ふつうに山陰じゃなんでダメ?
>>953,
>>961 豊後、日向、薩摩、肥後あたりの南・中九州は景行パパに蹂躙された。
だが八女まで来たとき、山中に住まうヤメツヒメのオーラに気圧されて立ち去ったのだ。
>>967 魏志倭人伝ではあるよ
> 正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。
その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。
再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。
先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、
壹與もまた魏に使者を送っている。
>>961 象徴という意味が分からなかった?
全国にどんな神社があろうと、記紀以降の由緒だから古代の史実を表すことはない。
>>969 じゃあしょうがねえな
それなら熊野の風景が高天原に似てても。
>>971 象徴してないって意味がわからんのかな?
>>969 日本書紀の記述を真に受ける学者はいないw
>>971 それは妙だな
諏訪大社のミシャグジ様どうするんだろう
あと群馬県の生品神社みたいな古社は?
記紀より前に神社はなかった?
風土記は?
香取と鹿島の創建よりまえは?
宇佐は?
淤能碁呂は?
大神神社は?
>>967 魏志倭人伝に書いてある
奴婢100人を殉葬したことも書かれているが、日本では殉葬が行われた考古学的証拠は極めて少なく、
唯一、福岡県久留米市の祇園山古墳でのみ大規模な殉葬墓(見つかった分だけで66人)が発見されている
次スレ
【邪馬台国】「卑弥呼の墓」を素粒子で探査……奈良・箸墓古墳の内部★2
http://2chb.net/r/newsplus/1578660826/ >>977 神社自体の存立時期も疑問だが、まして由緒書きはずっと後代のもの。
>>966 箸墓のは芝山だけどな、しかも隣はヒルメ山、つまり天照の山。
>>960 確かに、神武東征で成立した大和朝廷が祖先の地の九州を征伐するのはおかしいとの説がある。しかし、同様の事が明治維新でも起きている。
>>990 祇園山は最有力だけど、九州だから発掘されてないのよ
その辺が変なの。この国
>>944 去年、BSでやってた特番は興味深かったな
数日前に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について中国の研究者がコメントした事でスレが立っていたけど
邪馬台国研究は中国の研究者と共同で進めるのがいいと思ったわ
>>966 熊本県が九州北部の30国の中に含まれてたと思う?
九州を北から30%分塗ったらどうなる?
古田史観に汚染されてない九州説では、邪馬台国は九州全域を制覇もしていないし、ヤマト王権にも繋がってもいない。
邪馬台国は北九州沿岸から長崎、佐賀、福岡3県ぐらいにかけ、立地条件が良かったので帯方郡に挨拶に行きやすかっただけ。
>>993 あれ殉葬なのか集合墓地なのか定まってないけどね。
後、卑弥呼の墓にしてはサイズ感が合わなかったり、方墳だったりと言う矛盾もある。
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1日 1時間 13分 31秒
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/ ▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
lud20241222235856caこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1578570483/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
TOPへ TOPへ
全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ |
>50
>100
>200
>300
>500
>1000枚
新着画像
↓「【邪馬台国】「卑弥呼の墓」を素粒子で探査……奈良・箸墓古墳の内部 YouTube動画>2本 ->画像>13枚 」を見た人も見ています:
・【古代】稲荷山古墳、前方後方墳の可能性 邪馬台国・卑弥呼の墓説ある箸墓古墳と同時期、3世紀に築造か 桜井市埋文センター
・【京都】最古級の前方後円墳に石室、向日で出土 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓説ある箸墓古墳に酷似
・【奈良】卑弥呼の後継者、台与の墓説がある西殿塚古墳に巨大な石積み方形壇 天理市 ★3
・【奈良】「邪馬台国近畿説」柱の一つ「卑弥呼の鏡」大量出土 天理市・黒塚古墳 ★2
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★7
・【奈良】初仕事は新型コロナ対策 大和郡山の卑弥呼たち [樽悶★]
・【奈良】大和の地こそ邪馬台国に相応しい 箸墓古墳と纒向遺跡、大神神社★2
・福岡で3世紀中ごろの巨大前方後円墳を発見 奈良の箸墓古墳より古いじゃねえか…
・【古代ロマン】「卑弥呼支えた渡来系集団」 奈良県立図書情報館・千田館長が自説展開
・【研究】中国製と国産が同鋳型、傷で判明 卑弥呼の鏡、製作地論争に影響[11/01]
・箸墓古墳の被葬者
・卑弥呼の使った鬼道を考察
・高天原にある卑弥呼の墓 ◆4
・天照大神=卑弥呼とするとスサノオ=卑弥呼の弟
・【大分】小熊山が卑弥呼の墓かもしれません【杵築】
・【卑弥呼の里】福岡県朝倉市を語れ Part2【小京都】
・【歴史】卑弥呼の邪馬台国と争った国「狗奴国」が熊本に? 九州説に新解釈 ★3
・【九州説!】福岡県の赤村に巨大な前方後円墳。古代史ファンは「卑弥呼の墓では?」と期待の声
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★4
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★2
・【歴史】日本国はいつ誕生したのか 天皇制につながる卑弥呼の統治 学研究所長に聞く★4
・【カリスマ性】邪馬台国って北九州にあったんだろ?それなら与田ちゃんは卑弥呼の子孫かもしれないじゃん!?【人気】
・【歴史】邪馬台国と卑弥呼の謎を解く「弥生人の大量人骨と脳」が発掘!「鳥取・青谷上寺地遺跡」が示す「倭国大乱」の証拠 ★3 [樽悶★]
・奈良古墳のローマ帝国製ガラス製品
・【奈良】古墳の埴輪(はにわ)持ち出し…たけのこ掘りの小中学生らと判明 [靄々★]
・【奈良】「飛鳥ナンバー」交付開始、キトラ古墳の朱雀が舞うプレート (読売新聞) [Twilight Sparkle★]
・【悲報】 AKB48・ ドラ2と16期が内部崩壊して、17期生の募集が早まってしまう…………………………
・【大阪】インサイダー取引の懸念も 吉村洋文府知事「イソジン会見」 内部文書 [首都圏の虎★]
・【放射能】311以降、日本人全員が内部被ばく 我孫子内部被ばく検査センター「どこに住んでいても同じ。沖縄の高校生も被ばく」★3
・【宇宙】JAXA、NHKと火星衛星探査機用の4K・8Kカメラを共同開発へ [すらいむ★]
・【宇宙】火星探査機「天問1号」の飛行中の自撮りを公開 分離装置からWiFi接続撮影 [すらいむ★]
・【科学】ヒッグス粒子が「ボトムクォーク」と呼ばれる素粒子へと崩壊する現象の観測に初めて成功 スイスの粒子加速器で
・【どうぶつ】「めえめえ牧場」で羊の出産ピーク 奈良・山添村(画像あり)
・【奈良】修学旅行で就寝時間を守らなかった生徒19人に教諭が体罰 東大寺学園
・【社会】奈良県警オービス担当はまさかの専従1人だけ…不正の温床に 他府県警から「ありえない」の指摘
・【天皇杯サッカー】J1名古屋―奈良クラブ戦、“世界的に見ても異例”PK戦やり直し 協会が17時から会見へ
・【社会】「人を殺した。被害者が枕元に立つ。仕事も手に付かなく…」と自首、殺人容疑で逮捕された男性を処分保留で釈放…奈良
・医療内部告発文?
・地球の内部には空洞がある
・内部告発文出てます。
・内部通報窓口に通報できない件について
・卑弥呼=天照大神の方が盛り上がるやん?
・早慶の内部は何故馬鹿にされるのか
・【放射能汚染】【内部被爆危険隠蔽】
・必ずトリップをつけて卑弥呼さんのことを語るスレ
・NGT内部の格差や派閥について Part.16
・4世紀後半、乗馬民族が箸墓古墳を作製
・時計内部に浸水させちゃった経験ある?
・【どんな職業でも】職場の内部告発【暴露】
・偽装請負を内部告発するつもりの俺の味方→
・指定校推薦入学・内部進学こそ勝ち組
・【合併しても】山三印刷内部事情【末路は同じ】
・ウイグル弾圧 内部告発で習近平ピンチ
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) スレ
・【食品偽装問題】内部告発【農林水産省】 P35
・【内部紛争】 相鉄バス 3【身売り間近】
・神武天皇と卑弥呼ってどういう関係だったの?
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Part469
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Part633
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Part999
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Part583
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Part490
・NHK内部告白者 立花孝志ひとり放送局(株) Par249
01:01:31 up 61 days, 1:05, 0 users, load average: 7.60, 8.92, 8.73
in 0.97928404808044 sec
@0.97928404808044@0b7 on 031514
|