■イエスの処刑を認めたピラト総督、神殿への階段を建造か、異論も
ポンテオ・ピラトは、キリスト教徒とユダヤ教徒から大いに嫌われている。理由のひとつは、紀元30年頃に行われたイエスの処刑において、彼が重大な役割を果たしたからだ。また、その冷酷な支配は、およそ40年後にユダヤ人がローマ帝国に対して蜂起したユダヤ戦争につながった。
ところが最新の調査によると、ローマ帝国各地からの旅人やユダヤ人巡礼者を数多く惹きつけたエルサレムの整備に、ピラトがかなりの時間と金銭を費やしていたという研究結果が、10月21日付けの学術誌「Tel Aviv: Journal of the Institute of Archaeology」に発表された。
考古学者らは、エルサレムの城壁のすぐ南にあるパレスチナ人居住区の地下にトンネルを掘り、「神殿の丘」のふもとへと続く階段状の道の下を発掘した。神殿の丘とは、古代にはエルサレム神殿が立ち、現在は複数のイスラム教の聖地がある神聖な場所だ。
この堂々たる造りの道は500メートル以上にわたり、幅は約8メートルで、およそ1万トン分の石灰岩の平板で造られている。「おそらくは一度の計画で一気に作られたものでしょう」と語るのは、調査を率いたイスラエル考古学庁の考古学者ジョー・ウジエル氏だ。
■ヘロデ大王か、ピラト総督か
歴史家らは長い間、大々的な建築事業によって古代エルサレムを巡礼と旅の名所に変貌させたのは、紀元前4年頃に死去したヘロデ大王だと考えてきた。ところが、階段状の道の下から見つかった100個以上の硬貨を分析したところ、工事の開始も完了も、紀元26〜27年頃から約10年間続いたピラトの治世下であったことが判明した。
敷石の下から見つかった硬貨のうち、最も新しいのは紀元31年頃のものだった。当時のエルサレムで特に多く流通していた硬貨は、紀元40年以降に鋳造されたものだ。「通りの下に紀元40年以降の硬貨が存在しないということは、つまり、この道はピラトの時代に造られたということです」。イスラエル考古学庁の硬貨の専門家であるドナルド・アリエル氏はそう述べている。
ピラトはローマ皇帝ティベリウスによって派遣されたユダヤ属州の総督であり、現代の著述家らは、彼が偶像を禁じるユダヤの教えを無視したり、神殿の資金を水道の建設に流用したりしたせいで、人々の怒りを買ったとしている。
ピラトが道を建造したのは、「エルサレムの人々の怒りを和らげるためだったかもしれません」と、論文の筆頭著者であるテルアビブ大学の考古学者ナション・スザントン氏は述べている。「同時に、大規模な建築計画の実施によって自らの名声を高めるという目的もあったでしょう」
新約聖書の福音書には、ピラトがイエスの処刑を認め、イエスは磔(はりつけ)にされたと記されている。ユダヤ戦争に参戦したユダヤ人歴史家ヨセフスによると、ピラトは、ユダヤ属州の北に住むサマリア人への攻撃を機に失脚し、面目を失ってローマに帰還した。
キリスト教の伝承によると、ローマ人総督ポンテオ・ピラトはイエスを尋問し、その処刑を認めた。(PHOTOGRAPH BY CHRONICLE, ALAMY)
紀元70年には、ローマ軍がエルサレム神殿を含め街を破壊したことにより、道は瓦礫の下に埋もれた。敷石の多くはその後、他の建築事業に再利用された。
エルサレムにあるW・F・オルブライト考古学研究所所長のマシュー・アダムズ氏は、今回の調査結果は、ローマがユダヤ属州を直接支配していた時代についての知見をもたらすものだと述べている。「これはまた、ローマ当局とユダヤ教の幹部がある程度協力していたことを示す証拠でもあります」。既存の資料は、ローマとユダヤ人の間の緊張関係を強調するものが大半だと、アダムズ氏は言う。
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ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/102300609/