◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【古代】三重・熊野灘沿岸で発見の土器片、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」で作成か 「ヤマト王権の航行おさえる拠点」★3 YouTube動画>2本 ->画像>11枚
動画、画像抽出 ||
この掲示板へ
類似スレ
掲示板一覧 人気スレ 動画人気順
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1560523150/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
調査の結果、3世紀後半にさかのぼる近畿中央部系の物が含まれていることが判明した土器片=三重県大紀町教委提供
三重県大紀町の沿岸部で1950年代に発見された土器片の中に、3世紀後半に近畿中央部で作られたとみられるものが確認された。調査に当たった桜井市纒向(まきむく)学研究センターの橋本輝彦・統括研究員は「(現地は)ヤマト王権にとって熊野灘の航行をおさえる重要な拠点だったのでは」と見ている。
土器片は地元の中学生らが見つけた後、現在は町が所蔵している。橋本統括研究員はうち20点余りを分析。その結果、20点が3世紀後半〜4世紀中ごろの近畿中央部系の「庄内式・布留(ふる)式土器」の破片で、うち5点ほどは3世紀後半にさかのぼると判明した。近畿中央部で作られた土器が、大紀町へ運び込まれたと考えられるという。
3世紀後半は邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)の最盛期に当たる。橋本総括研究員によると、同様の土器片は瀬戸内海や福岡県博多湾沿岸などで見つかっているが、紀伊半島の熊野灘沿岸では初めて。橋本統括研究員は「ヤマトとの関係を示す証拠と言える」と話す。
調査された土器片は大紀町役場錦支所で公開されている。問い合わせは、大紀町教委。【藤原弘】
毎日新聞:2019年6月8日
https://mainichi.jp/articles/20190608/ddl/k29/040/458000c?inb=ra 関連記事:6/2(日) 11:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190602-00000609-isenp-l24 ★1:2019/06/11(火) 20:03:48.44
http://2chb.net/r/newsplus/1560408101/ やはり国名はヤマトに戻すべきだな
日本なんてしょせん中国語
大卒38歳
夏の賞与は38万
2019年は多分年収500万届くか届かないか
悔しいよ…
毎日毎日詰められて、感情殺して働いて、この程度だよ、、
裴世清は水行二か月でも筑紫から難波までしか移動できなかったことを思えば
近畿説のこの理屈だと、水行陸行で二か月だと奈良には到着できそうもない
むしろ邪馬台国は九州にあっても良さそうじゃね?
↓
989 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 23:27:33.56 ID:7quy8Xxy0
>> 911
漢時の朝貢の時は北部九州の奴国の朝貢でその当時は漢土方千里と考えられていたから
北部九州までが萬里に設定されている
卑弥呼の朝貢までに大陸の哲学、世界観が淮南子で整理され、
大陸王朝の直轄地=中央之極も、東の世界の果てまでの距離・東方之極も
萬二千里と考えられるようになった
これは大陸知識人の常識だから陳寿もこれを踏まえて書いている
魏への卑弥呼の朝貢では北部九州からさらに水行陸行で2ヶ月進む
二千里の移動としては妥当な日数
>3世紀後半は邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)の最盛期に当たる。
何時から纏向遺跡は邪馬台国の最有力候補地になったの。
前スレ
>>989 「旧唐書」では一万四千里ですが?
■倭國条
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国也)
※倭奴国=漢から金印を貰った国
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南海に在り、郡から一万四千里)
※九州〜山陰あたりか?
■日本条←畿内政権
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、日本使者の言い訳が続く
以其國在日邊,故以日本爲名。
(日出る国だから改名した)
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
(字が嫌いだから改名した)
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
日本徐福協会は徐福文化の世界遺産登録を目指しているらしい。
邪馬台国論争も世界遺産登録を目指したらいい。
奥山連呼は棄民白丁 ID:ZfmozoRI
572名無しさん@1周年2019/06/14(金) 12:29:20.20ID:ZfmozoRI0
>>570 邪馬台国は3世紀末に滅びてる。
ヤマト王権とは別物だよ。
畿内だけでそこを探ると朝鮮色が濃くなる。
だから九州由来を主張して天皇の正当化をはかったと考えられる。
もとはよそ者だったんだろう。
韓国の国籍法
出生者で決まる
父親・母親の一方が韓国籍である場合その子供は韓国籍
1.出生当時に父親、又は母親が韓国国民である者は韓国籍
2.出生前に父が死亡した場合でも、死亡当時の父が大韓民国国民であった者は韓国籍
韓国の国籍法改正では広範囲に韓国籍と複数国籍を認めた一方で
兵役記録が無い者に対して韓国国籍離脱が禁じられています
九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。古墳だけ川内まで造りに行った。
・裸國・黒歯國はハワイ
前スレ
>>996 地元近いねぇw
自分は香椎宮でラジオ体操やってた。
不老水裏の武内一族が普通に同じ小学校にいたw
素直に読めばいいだけでしょ、狗邪韓国が邪馬台国の北限、一大率(税関)、で数量などチェックして伝達、、各島国でも官がチェック、本土伊都国で最終チェック、たぶん卑弥呼の弟。卑弥呼はひきこもり。出身は邪馬壱国、邪馬台国の最南端は奴国、ここまで郡から一万二千里。
畿内説の行方は?
・〜2世紀 : 唐古鍵遺跡
・(〜3世紀末:邪馬台国消滅)
・〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 邪馬台国は九州確定。
東征の有無、欠史8代の真偽、纏向遺跡の謎、銅鐸文化消滅の経緯など大和朝廷はどうやってできた?
話を聞く限り、大和朝廷は東海勢力によって設立され崇神天皇の頃に他地方への進出を開始。
ところが王位継承をめぐるゴタゴタで九州からやってきた一団に王位を簒奪された。
これが現在の天皇家で、その時期は神功応神仁徳あたりの時代。
こんな気がする。
中心は伊都国だから伊都からいろいろ案内されたんだろ、投馬いったり、卑弥呼の里案内されたり、のんびりしたいい国だと思うよ
畿内は倭国ではなかったという事実。
■魏志韓伝より
國出鐵穢韓倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
「国には鉄が出て、韓、穢、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」
3世紀頃、鉄は貴重なものでお金として使えるほどだった。
その時代の畿内の遺跡からは鉄が出土しない。
■推測されること
・畿内からは採りに行ってない
・九州に分けてもらえなかった
(一大率は畿内を無視?)
・畿内は倭国の一部ではなかった
北部九州と畿内の関係は希薄だったという事実。
それは纏向で出土した土器の産地からも分かる。
■纏向遺跡出土の土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
倭国と並行して別の連合国が存在していた
=>それが西日本と合併し日本国誕生か?
>>14 一大卒はそのとおり北、つまり対馬海峡ルートを監視する出先機関だと思う。
外交、国防、民間交易の管理などの目的で。
これで三重県が東海地方ではなく近畿地方だという事が確定したな。
>>24 いやいや、奈良が東海だという事が確定したんだよ
>>21の土器参照
>>25 読みやすいから時々コピーしてるけど、手元のやつも更新しなきゃw
後半は観光もかねてよ、だから風俗なんかも細かく出てる、ジサイなんて説明受けなきゃ解んないよ。そんなこんなで一月。まさに魏史倭人伝じゃない?
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この「短里で萬二千里」に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ
>>30 で結局は畿内までは届かないとかw
あんたも吉備説に移行すれば?
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
伊都国で政務を行う、此処が中心。一番偉い長官はたぶん弟。卑弥呼は裏の宮殿でひきこもり。邪馬壱国出身。
>>31 届いてるだろ?
このレベルでいいから九州説の案を示してよ
>>30 近畿説だと方角も嘘、万二千里も嘘
水行陸行二か月のみが信用できる情報だったのに
裴世清の例をみると水行二か月でも難波までしか行くことが出来ない
どうやっても奈良には到着できないねえ
東日本大震災の震災瓦礫が丁度一年でハワイに漂着している。
裸国、黒歯国は侏儒国(高知西部の幡多)から舟で一年で、東南にある。
ピッタシ。
>>38 お前脳みそ腐ってるだろ
なんだそのネタはw
>>34 何度もコピペしてご苦労なことだが
「邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある」
これが大嘘
その軍事的に統括していたとかいう一大率の率いる軍事組織はどこに何人駐留しているんだ?
>>15 十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い
>>42 魏志倭人伝
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>38 ここまで文法無視するとどこでも邪馬台国になるな
畿内説派に中国人学者いねぇの?居るわけないか
まるっきり読み方無視なんだからなw
>>21 毎回この嘘コピペ貼り付けてる九州説は普段日本史板に常駐してるやつなのか?
>>43 間違いないとか100%ないとか、根拠なしの決めつけが大好きだな、この御仁はw
陳寿は原典主義だから、駢儷文の観点などは二の次だ
>梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
梁書が魏志倭人伝のパクリだと分かっているなら、梁書が間違えたってだけだろ?
陸行一月日は、駢儷文の観点から見てあり得ないんじゃないのかww
>>50 またシャーシャーとこのウソつき野郎が。
魏志倭人伝は駢儷文の典型例だウソつき野郎が。
>>38 超特急な過密スケジュールすぎない?
そんな不自然な山越えルートなんかよりも
由良川経由して福知山行く方がまだマシじゃね?
旧街道ですらこんなルートよ?
近畿パーの野郎もうただのベタなウソつき野郎でしか無い。
カスにもほどがあるだろこいつらは。
北九州の1か所に5000人も住んでいるだけでウザいぞ 、1000人も居れば鬱陶しくてたまらない
俺なら、新天地を求めて一日で50q程度楽々歩ける
10人も仲間が居れば、わずか500q歩くなんて楽しくて仕方ない。
じやあ間違い、郡〜7500里、半島南が一大率、伊都国が政務で弟が仕切る。邪馬壱国が都で卑弥呼在住ひきこもり。邪馬台国の最南端がド国で郡〜一万二千里、4500里(海含む)が邪馬台国の大きさ。
ちなみに裴世清と同じペースで水行30日すると出雲まで到着できない
近畿説は最後陸行のみが正しく、
方角やその他は間違い説いているもん。
文献にも間違いもあると思うけど最後のみで運用している。早い黒潮に乗って、
伊勢方面が速いけど、陸路が難所。
豊後・瀬戸内なると海流や満ち干きが難所。
ジサイが近畿じゃダメよ、チェックも伊都から遠すぎるだろ、邪馬壱はひきこもりだけいりゃあ、いいんだから。
九州時計周りで一周に近い状態で
対馬海流に乗って帰路もありうる。
使者の役割と倭国調査目的も兼ねているだろな。
瀬戸内海は、波おだやかで海流が遅い
対馬海峡(玄界灘)は海流が速く、波も激し過ぎる難所。
仲間と新天地を探しに徒歩や船で旅行に出るなら
山口や広島方面に行く方が楽しいし、素人でも行ける。
よお〜く考えたら1ヶ月も歩くとこないし、歩く奴居ないな、帰るのやんなっちゃうもん。近畿は歩くんだって?1日十キロでも300キロだぞ。
当時の航路て季節によって大きく左右される。日本に行くときは、北風が吹く季節がいいが帰路は時間かかる。日本から戻る場合、南風が吹く季節がいい。
行くときは、北風が吹き、帰る時には、南風が吹く季節の変わり目がいい。
そうすると1〜2カ月はかかる日程になる
>>62 豊後は複雑だ。瀬戸内は座礁多いよ。
衝突も多い。
>>40 裸国、黒歯国は1年って
・実際は一月だけど一年と誤写。昔の崩し字体が似てるためオリジナル
の倭人伝から書き写す時に間違った(書き込みで初めて見た)。
・そのまま一年。
・倭人は1日を午前午後でそれぞれ1日と数えていたため実質は180日。
・ひたすら進むという意味で具体的数字ではない。
>>68 年齢も倍になる。卑弥呼は190歳位、
その後の天皇も100〜200歳になっている。暦を知らないとなっている。
あったらと思うけどなぁ
嘘はいかんし確証の有無は、はっきりしとかんとな
倭人は紀元前二千年には首都から南東全部倭人と総称していたのだが、
温厚で争わない多部族連合体
倭人夏王朝が揚子江の南からベトナムまで干拓をしたが、
殷に滅ぼされベトナム越人、東方大和人、内陸呉人などある程度部族の連帯が進んだ
しかし日本の倭人は周の時代に確実に交流があり、日本は九州に関しては古代中国と同等の成立だった可能性がある
このジサイがまさしくそうでしょ、直接中国に向かうんだから、これは中国南に行こうって話よね。だから近畿はお呼びじゃないのよ。
そして乱立する邪馬台国候補地
まあ、魏の役人が対馬の向こうのずっーと遠くって言いたかっただけなので、日本ではない可能性が高い
刺青を正装に入れる文化なんて日本にないもの
卑弥呼の少し前にベトナムで倭人姉妹が反乱を起こしてるから、知ってたな。
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>68 東日本大震災の震災瓦礫が丁度一年でハワイに漂着している。
裸国、黒歯国は侏儒国(高知西部の幡多)から舟で一年で、東南にある。
ピッタシ。
>>71 周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。
殷を倒して王朝を開いた。
3000年前から800年間も周王朝が存在したんだな、人口はどんどん増えただろうな
綺麗な人も多かったみたいだ。
侏儒国、裸国、黒歯国の記述を見ると
陳寿が天才なのが良く分かる。
正確無比。
夏侯湛が陳寿の「三国志」を見て、自らが執筆中だった「魏書」を破り捨てたと言う逸話がある。
宜なるかな。
>>1 てめえ同じようなスレ何度建ててるんだよ
こいつ剥奪しろ!
九州のゴキチョンコは日本から出ていけ!
日本の歴史にお前らは関係ない
>>81 女王国から海を渡ること東の和種の国(四国西岸)、そこから南への侏儒国。
これらの国は日数ではなく里表記だけど、倭人は里を知らず日で表すとのことから
邪馬台国の向こうの彼らの国に行った中国人はいるんだろうか?
>>83 いいから糞食って死ねよウソつきバカチョン野郎
>>85 キンパーの朝鮮人
日本の歴史を冒涜する反日民族は日本から出ていけ!!
>>84 少なくとも本居宣長の見解では、この当時近畿へ行くのは舟で海路で行くのが当然だった。
これは彼が近畿説を否定する根拠になっている。
言い換えると近畿くらいまでは行って当然だったと言うこと。
>>87 糞食って死ねよ日本の歴史を冒涜するウソつき近畿パー
熊野の近くに天の岩戸とされる場所があるんだよね
当時交易が盛んで畿内にあった邪馬台国の卑弥呼が
熊野付近を訪れていた可能性もあり
そこで彼女は謎の心傷?失恋?心に病を得た
そして彼女は岩戸の中に引き篭もる
困り果てた重臣たちが飲んで歌えの大騒ぎをして
気になって岩戸を少し開いた卑弥呼をぐっと中から引っ張り出す
神話の出来事は過去に起きた真実だったのかも知れない
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。
いずれも倭人である。
(これが恐らく四国のこと。)
その南に侏儒国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。
(狗邪韓国から末盧国までが三千里。邪馬台国(御井)から侏儒国(高知西部の幡多)までが4千里。良く合う。)
また、その東南に裸国や黒歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。
(東日本大震災の震災瓦礫が丁度一年でハワイへ漂着した。また、幡田は足摺岬があり、ここは日本で唯一黒潮が直接海岸へ接岸している場所。)
倭の地と比較してみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
(ハワイは大陸から最も離れた場所にある絶海の孤島。また、ハワイ島が実に周囲が短里で五千里。)
陳寿の歴史書編纂者としての才能は驚嘆に値するもの。
天才。
彼は三世紀などと言う時代にこのような正確無比な記述をやってのけた。
信じられほど高品質な記述。
持衰で倭は繋がっているんだということも倭人伝は付け足したんだな、スパイでもある。卑弥呼は越の南経由?帥升は北かな?北倭人と南倭人が争い乱れたんだな。卑弥呼の南は何処の流れで倭人?
卑弥呼は、各国に共立され統一的な王権を樹立したわけだから、邪馬台国はある程度、国として規模が大きくなければならない。
話しが合わない。
そうすると、やはり近畿にあったと考えざるを得ない。
恐らく、邪馬台国は九州出身で、奈良のあたりに都を置いた国なんだろう。
つまり、やまと国。
近畿のデカさは財力、武力、馬が無いとなり立たないよ。五王以降。
卑弥呼は狗奴国(球磨国)を除く九州全域と山陰と四国の西部、また恐らく山陽の西部も影響下に置いた。
西日本の西半分を従えた画期的な大帝国を作り上げた。
邪馬台国が大月氏などと同等の待遇を受けたのは当然だろう。
>>96 ニュアンスはその通りだけど、正確に表現すれば
足利尊氏でも武田信玄でも織田信長でも
力ある大名は皆、日の本の中心である畿内で政治を司ろうとし
そして、目指したんだ。
かつて邪馬台国はその地に栄え、大和王権はその地を目指した。
神武東征こそ邪馬台国が畿内にあった一番の証拠だよ。
神武は彼女の治めた地を欲した。
故に彼女は神話になった。天照大神こそ邪馬台国の女王、卑弥呼だよ。
有り得ない、伊都国で政務。ここが霞が関。近畿じゃあ最終チェックにならないんだよ。投馬に20日、後10日、29回チェックする場所が必要。そして最終チェック場所が必要。それと持衰。
はっきり言って近畿は理屈に全くあっていない。そう願いたいだけ。
ウソつき糞食い近畿パーがうんこを美味しく頂きながら一句
↓
>>105 初めて日本を訪れた中国人観光客が東京ディズニーランド行こうとして
東京を右往左往する。全くどこ行っても見当たらない
困り果ててその地の在り処を聞けば、千葉という別の場所にあるというではないか
彼らの記憶に残るのは距離であり日数だよ。方角とか知らんがな
故に邪馬台国は畿内にあった。途中道を聞いたのが九州であってもな
願いたいではない。事実として電車で何駅か乗り過ごした
そして言われて降りたその駅で出会ったのだよ。目指す夢の国に。
邪馬台国は畿内にあった。
じゃあまず投馬国行くまでのチェック場所は何処よ?1日目わ?2日目わ?
もう決着してますよ
九州説みたいな学術的根拠のない俗説はどうでもいいです
九州説は所詮、古代史エンタメに過ぎない
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 弥生時代になると、朝鮮半島を経由して多くの北方系のモンゴロイドが渡ってきます。
彼らはコメや金属の道具を伝えました。
彼らは縄文人と混血して、その子孫が九州北部から瀬戸内、近畿にかけての地域に多く住んでいました。
鉄は超貴重なので、再利用されたのだろうな。再製すると新品の刀剣に成ります。
>>38 陸行1月のところ現代でも電車は通ってるが山だらけだぞ?
邪馬台国の時代に歩くとかいくらなんでも無理だろ常考…
>>115 小田原から箱根まで走る方が300倍苦しいよ。
自動車に乗った事がないのか?
●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。
●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。
◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant ◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>93 侏儒国が高知の幡多、
裸国、黒歯国がハワイ
これはまず間違い無い。
問題は扶桑が何かだが、普通はこんなもの分かるわけが無いが
ハワイだと確定した以上は状況が根本的に変わっている。
オレはハラフルーツを推す。
自信あり。多分正しいよハラフルーツで。
>>55 そう、1ヶ月も歩き続けるなんて無いわな
途中にどっかの国に寄るだろ
そしたら、その国の名前を書くわな
文化庁で1980年代にまとめられた全国遺跡地図に基づく
3世紀の遺跡数と出土物から推計された人口推計
東北 遺跡数 597 推定人口 33,400
関東 遺跡数 1,768 推定人口 99,000
北陸 遺跡数 370 推定人口 20,700
中部 遺跡数 1,503 推定人口 84,200
東海 遺跡数 987 推定人口 55,300
近畿 遺跡数 1,934 推定人口 108,300
中国 遺跡数 1,050 推定人口 58,800
四国 遺跡数 538 推定人口 30,100
九州 遺跡数 1,877 推定人口 105,100
合計 遺跡数 10,624 推定人口 594,900
*北海道と沖縄は除く
当時九州だけが発展してたというのが妄想だとはっきり裏付けられるデータであり
日本のどこにも魏志倭人伝に書かれているような戸数を抱えられない事の証明でもある。
魏志倭人伝の記述は過度に盛られていると理解した方がいい。
>>125 ホントこれ
7万戸なんてリアリティのない数字を根拠にして論ずるのはいい加減止めて欲しいわ
>>112 >なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
晒し物にするのに相応しい浅はかな根拠やなwww
>>127 三角縁神獣鏡って500枚出てる国内鏡でしょ?
なんで根拠になるの?
なんでヤマト政権の文化庁の数値が信用できんのよ?中国が5000万以上(納税対象戸籍数から奴隷省く)、千代田区の人口が七万、何人居たか何てわからんし、往来頻繁、半島に近いほうが多いわ
>>125 3世紀には北部九州は鉄器文化圏
他の地域と同じ条件で推計したのが間違いなんだ
魏志倭人伝の記述では北部九州6か国だけで3万戸(1戸5人として15万人)で既にこの推定人口 105,100を越えている。
>>126 だから女王の領域は山陰含むつってるだろ猿
瀬戸内海は潮の干満が激しくて、これをうまく利用すれば漕がなくてもすばやく移動できる。
瀬戸内海は古代では海のハイウエイと呼ばれた。
・誤記説 ・短里説 ・誇張説 ・南は東説w
・放射読み・里数日数併記説 ・邪馬台国広域説
他にあるかな?
曲芸読みと言えばいいのか、こういうアクロバット解釈は少なければ少ないほどいいだろう
ただしゼロだと台湾だフィリピンだとなってそれはそれで破綻してしまう
数字に誇張があるというのは、畿内説九州説共に認めやすいのではないか
>>131 女王の領域が山陰まで含んで可七萬餘戸とすると、
可五萬餘戸の投馬國はどこ、山陽?
>>124 「宇宙戦艦ヤマト」往復29万6千光年の記録。
第2話 地球を出発
第10話 太陽系脱出(0.00005光年)
第20話 バラン星(7万4千光年の中間地点)
第25話 イスカンダル星(14万8千光年の折り返し地点)
第26話 地球に帰還
旅の後半になると、書くのに飽きちゃうのよw
>>125 当時の近畿は河内湖や奈良湖の名残りがあって人の住めない土地や土地自体も少なかったのに
九州より多い人口とかあり得ないな
この数字にはゴットハンド特有の作為を感じるな。
これは土器編年研究の進歩で、そのどきが近畿式で、しかも3世紀のもの、というのがわかったという記事。
纏向遺跡の造成年代も弥生時代にさがってきたので、この点でなかなか面白いんじゃないの?
神武東征も熊野方面から入ってるし、ヤマト王権との関わりが初めから強かったんだろう
北部九州から瀬戸内海、紀伊半島南部が同盟勢力で畿内の一部が反同盟だったかと
>>125 だからそれは推計値が古い。
最近の研究では奈良時代の耕作面積と三世紀の耕作面積とはそれほど違わないことが分かっている。
ザックリ2/3
奈良時代の人口が600万人台だから、三世紀の人口はザックリ400万人台。
九州+山陰の人口は奈良時代でザックリ100万人強。
その2/3はザックリ70万人くらい。
一戸四人としたら17.5万戸。
九州がこの当時最先進地域であることを考えたらもう少し多くてもいい。
奴国が二万戸、女王の領域が七万戸、投馬国が五万戸、狗奴国が三、四万戸くらいか、その他諸々が一万戸。
別にギリで入るが?
>>140 行ってるよ。秦王国が九州倭国から見た近畿日本の呼称。
秦王は秦河勝のこと。近畿日本の天皇は秦氏のことを親しみを込めて秦王と呼んでいた。
この当時既に落ちぶれ貴族になっていた九州倭国側が
背伸びして「あんなものは正統ではない。秦王の財力で作った秦王国だ」と言ったわけな。
>>134 裴世清の倍速で航行するのも入れよう 倍速航行説 とかなんとか
>>137 低湿地帯の方が、開墾が楽では
堤で仕切って水せき止めて、平らに均せばできあがり
今は田から水を抜く手段必須だけど、それ近代農法よ
前近代では抜かない、田んぼで魚取りとかしてる
倭人の風俗として記録されたものを見る限りでは、九州方面のものが多い感じ
あと万二千里はテンプレ記述なので実際の距離とは無関係説の人もいたな
>>125 いつまでもこういうデタラメを言い張る奴が出るのは
一つは、女王の領域は山陰を含むと言うことが分かって無いバカばかりだと言うことと
最新の研究では三世紀の人口はそんなに少なくないと言うことが分かっているのを知らないこと。
>>134 陸行一月は陸行一日の写し間違い。
伊都国基点の放射読みが正しい。
短里も正しい。
残念でしたww
>>134 ・誤記説 ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・短里説 ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・誇張説 ←何これ?w
・南は東説w ←これは近畿パーw
・放射読み ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・里数日数併記説 ←何これ?w
・邪馬台国広域説 ←何これ?w
・畿内説←否定証明完了済みwww
唐古・鍵の大環濠集落は700年間も継続したんだぞw
一万二千里は、当時の遠距離を測る一寸千里法で計測されたと考えるのが自然だろな
他に測る方法は(当時は)無いのだし
伊都国基点の放射読みが正しい。
魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留するのなら、それ以降を放射読みするのは
あったりまえ。
w
陸行一月は陸行一日の後代の単なる写し間違い。
十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。
短里は現に使われているのだから、バカが何言ってるか分かんねー
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>152 いや測ってないだろw
中国の文献って結構距離方角滅茶苦茶よ
技術として存在するのと実際にそれが使われてたかはまた別の話
>>142 推古天皇時代に来日した裴世清が会見した倭王が男だったことから
それは蘇我馬子で聖徳太子は実在しなかったとか、
九州王朝の王で畿内大和朝廷ではなかったとか変な説あるよな。
それ聖徳太子だって。対外的には王として振舞っていたんだよ。
>>155 一応延喜式にはモモソヒメの墓として大市墓てなってるから
それが合ってるなら女性の墓だが、、実際はどーなんだろか
それを確かめる為にも掘ってみたい
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
ヤマトの南、大和川の南に広がる河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう
>>158 なんで測ってない、と言い切れるか判らんのだがな
当時、既に太陽高度と影を利用して測量する技術はあったし、そういう技術書もあった
(地球の丸みを考えない為、遠距離になるほど誤差が酷いとはいえ)それを利用していない、てのは考えにくい
ただ遠い、て事を表したいなら一万みたいなきりのいい数字でも良かっただろうに
邪馬台国を構成していたのはどういう勢力だったんだろうな
邪馬台国の官筆頭、伊支馬
何者なんだろう
生駒や島根の生馬神は火の神と関係があるみたいだ
島根の生馬神社には、「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり幹に藁が巻き付けられている
牛の神とも関係があるのだろうか?
卑弥呼がどのような勢力に共立されたか?
女王国の版図はどうなっていたか?
>>130 実際に存在する遺跡の規模、人口、遺跡間の密度などからきちんと出ている数字
鉄器文化だからこうに違いないという思い込みと現実で、貴方が自分の期待値を優先しているだけで
それが実態とは一致していない。
>>137 近畿と書いたし、上がっている遺跡数は、推測の数ではなく
実際に発掘された「現実」に存在する遺跡の数。
>>141 この数値は出挙稲数ではないし、3世紀の全国の出挙稲数の
実測データなんて存在しない。
>>147 山陰を含む含まないにかかわらず、魏志倭人伝の数値を真に受けるのは
自分の頭で考えない思考停止だよ。
そして最近の研究という名の、魏志倭人伝の戸数を根拠とする
邪馬台国人口論という、ロクでもない嘘にしがみつかざるを得ないんだな。
実際に存在する遺跡よりも、魏志倭人伝に書いていることを安易に妄信する。
史書に疑問を持たない事がどれほど危険か解り易い反応。
>>164 遠隔地における計測法があったのに、それを使用せずに適当に書いた、ていう
合理的な理由を知りたいがな
魏志倭人伝は
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日。
出発点から一万二千余里、出発点から伊都国まで一万五百余里だから、言い換えると伊都国から千里〜千五百里。
卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
邪馬台国は、筑紫平野の御井で間違い無い。
>>166 中国の史書の他の国の位置がどれ程正確にかかれてるか調べてみるといいよw
使っててそれならもう測量そのものに問題があると思った方がいい
>>165 お前が思考停止。
また自己紹介か?
w
>>142 秦王国は親王国の事で筑紫に置かれた外交育成施設
水行で東行してないし陸行で海岸に出たと書いてる。
これは倭京が置かれた九州京都群のことで現在の行橋から豊津辺り。
纏向遺跡だけをみたら初期大和朝廷は東海勢力が築いたが
その後やってきた九州勢力に乗っ取られた印象を受ける。
九州勢力の神武天皇に負けた大和国の先行勢力ナガスネヒコの正体は
東海勢力の王、実の崇神天皇だったりとか。
>>125 だからそれは推計値が古い。
最近の研究では奈良時代の耕作面積と三世紀の耕作面積とはそれほど違わないことが分かっている。
ザックリ2/3
奈良時代の人口が600万人台だから、三世紀の人口はザックリ400万人台。
九州+山陰の人口は奈良時代でザックリ100万人強。
その2/3はザックリ70万人くらい。
一戸四人としたら17.5万戸。
九州がこの当時最先進地域であることを考えたらもう少し多くてもいい。
奴国が二万戸、女王の領域が七万戸、投馬国が五万戸、狗奴国が三、四万戸くらいか、その他諸々が一万戸。
別にギリで入るが?
>>165 こうして見ると九州説の奴は軒並み馬鹿で嘘吐きだらけだな。
魏志倭人伝は
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
・邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日。
・出発点から一万二千余里、出発点から伊都国まで一万五百余里だから、言い換えると伊都国から千里〜千五百里。
・卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
邪馬台国は、筑紫平野の御井で間違い無い。
纒向遺跡は、巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鍬ではなく鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないか
>>165 こうして見ると畿内説の奴は軒並み馬鹿で嘘吐きだらけだな。
畿内説は否定証明完了済みだと何度言っても誤魔化すしな。
糞食って死ねよウソつきチョン野郎。
九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに並行読み。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。古墳だけ川内まで造りに行った。
・裸國・黒歯國はハワイ
殊更纒向を邪馬台国と結び付けるような発掘では無いと思うが
何気ない記事にもこうした煽り、プロパガンダが浸透しているんだよな
>>169 3世紀の出挙稲数の全国データがあるなら教えて欲しい。
念の為改めてワードを変えて検索してみたが、やはり8世紀以降のものしか見つからなかった。
>>178 マスメディアはなぜ纏向を邪馬台国認定したがるのか?
>>168 いや、当時の測量方法自体にはかなり問題があったんだよ
地面を平らとして考えてたから、遠くになればなるほどおかしくなる
つまり、遠くになればなるほど不正確になっている当時の記録は
逆に言えば、当時知られていた、今から見たら不正確なやり方で計測されてたから、と見なすべきだろう
>>127 景初や正始といった魏の年号が入った鏡という意味だが、
畿内が魏とは無関係の地域だとしたら、魏の年号の鏡が存在する合理的な理由を説明できるか?
屁理屈や非現実的な話ではなく、合理的な理由をな
>>182 景初4年の年号の入った鏡のことですか?w
存在しない筈の年号が入ってる鏡が存在する合理的理由の方が知りたいですが?
纏向は4世紀に開発された墓地用施設だから
九州から石棺と銅鏡が持ち込まれてるだけだし
葬儀場に桃と蛙が供えられただけで
邪馬台とか言い出すのは基地外
巫女さんたち
「卑弥呼様の埋葬は、身内だけでひっそりとやりましょうね」
「お墓は10数メートルくらいの墳丘墓で十分よ」
「若い人10人くらいで、10日ほどで造ってもらいましょう」
‥‥これが後の九州平原遺跡であった。
>>183 それは普通に日本でコピーした奴がいるということで説明できるんじゃないかな
>>185 「殉葬に百人ぐらいぶっコロしましょうよ」
巫女さん物騒だな
九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに並行読み。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。古墳だけ川内まで造りに行った。
・裸國・黒歯國はハワイ
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。←(※NEW)
>>125 3世紀の人口については、小山氏はその後の発掘を根拠に100数十万人にしてるね
現在は、鬼頭氏は220万人、小澤一雅氏は180万人と推計してるらしい
後者2人については、考古学講義っていう本の中で紹介されてた数字
>>190 こらこらキチガイ。
済んだまのを出すなキチガイ。
>>150 一大率が軍事的に制圧している証拠とかいう人は、
その一大率の軍兵がどこにいたのか具体的に示してね
まさか一大率が one man army, 一人軍隊とは言わないだろ?
卑弥呼が住む場所は九州にあった
女王国は連合体であり、連合領域は近畿・東海まで含む
そう考えて問題はなくね
九州説の人は、山陰は含めても山陽は拒否する
21カ国も方角距離わからない国があるのに、なぜなのか
>>190 こらこらキチガイ。
済んだものを出すなキチガイ。
>>150 >>183 他の人がすでに答えているが、景初四年については勇み足で作ってしまったという理由が可能
あらためて尋ねるが、畿内が魏とは無関係の地域だとしたら、
魏の年号の鏡が存在する合理的な理由を説明できるか?
>>193 こらこらキチガイ。
済んだものを出すなキチガイ。
>>45 魏志倭人伝
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。
ドキドキ土器っていう土器を擬人化したソシャゲをスタートさせよう。
>>196 関係無くても年号真似るくらいお茶のこサイサイ。
はい、論破w
>>165 こうして見ると畿内説の奴は軒並み馬鹿で嘘吐きだらけだな。
畿内説は否定証明完了済みだと何度言っても誤魔化すしな。
糞食って死ねよウソつきチョン野郎。
熊野地方には、女酋長ニシキトベ、徐福、高倉下(尾張氏の祖)の伝承があるね。陸運が発達した現代とは違い、開けていた土地だったのだろう。
>>52 これで纒向まで陸行距離は170キロだから、30日で行くには1日6キロ弱
1日おきに10キロちょい進めばいいだけだから、特に過密スケジュールってことはないと思うけど?
このルートで根拠が薄いのは福知山と亀山の間
この間は川沿いに進むルートが選んである
因みに
侏儒国は高知西部の幡多。
裸国、黒歯国はハワイ。
これで正しいよ。
近畿パーは真実が大嫌いだがww
冠位十二階も九州倭国のやつ近畿日本がパクってるしな。
魏の年号くらいなんなのかとww
九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに並行読み。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。なぜか不思議なことに古墳だけをわざわざ大阪平野まで造りに行った。
・裸國・黒歯國はハワイ
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。←(※NEW)
>>191 筑摩の考古学講義なら俺も持ってるが、何ページ?
>>196 鏡の用途が判らんと説明は出来ないね
しかし曹丕の死を知らないという事は魏から送られたものでない事は確かだねw
それだけ沢山のレプリカを作ったのだから実用的な意図があったのだろうが
そもそもこの鏡が中国で作られていたって証拠あるの?
出土すらしてないのに?
まあ結局言える事は鏡を理由に邪馬台国が畿内に在ったと言える根拠など何処にもないという事
それともあるのか?あるのなら是非教えてもらいたい
箸墓は槨がある前方後円墳。
魏志倭人伝に槨が無く棺のみで、土を盛っただけと書いてあるので箸墓の可能性はゼロ。
卑弥呼の墓の候補が箸墓しか無い畿内説は可能性ゼロだから嘘ばかりついている。
>>180 カスゴミって基本ウソで儲けてる構図だからな。
邪馬台国に限らんねえ。
これ見ろ。エコノミストがこれだから。
紀年銘鏡だと
景初3年(239)の銘の三角縁神獣鏡(島根県神原神社古墳出土)
景初3年(239)の画文帯神獣鏡の大阪府黄金塚古墳
景初4年(240)の斜縁盤龍鏡(京都の広峯15号墳、兵庫県出土?の二枚)
正始元年(240)の三角縁神獣鏡(群馬、兵庫、山口で出土)
この辺りがちょうど卑弥呼の貰った時代に被る
で、これらは陳是作鏡(陳氏が鏡を作った)という銘も入ってる
ただ、中国から出た鏡では陳という姓の人が作った鏡が出てない
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html を見ると、中国だと
尚、蔡、王、周、為、呂など。こうなるのは何故か
>>206 こらこらキチガイ。
>>150 ・誤記説 ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・短里説 ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・誇張説 ←何これ?w
・南は東説w ←これは近畿パーw
・放射読み ←そうだよ正しいよ。決着済みw
・里数日数併記説 ←何これ?w
・邪馬台国広域説 ←何これ?w
・畿内説←否定証明完了済みwww
間違えた、一大率本部は伊都国、おもに狗邪韓国〜邪馬壱国間を張ってんだよ
>>209 文脈から曹叡の勘違いだとして、往復に数ヶ月かかるのだから、
改元されてることを知らないのは当たり前のこと
あらためて尋ねるが、畿内が魏とは無関係の地域だとしたら、
魏の年号の鏡が存在する合理的な理由を説明できるか?
逆質問するのは先に答えてからにしてくれ
>>206 ・註釈なしに放射読み 。←何度も出すなキチガイ。解決済み。
・註釈なしに短里 。←何度も出すなキチガイ。解決済み。
・註釈なしに並行読み。←何だこれはキチガイ?
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。←イミフ
・投馬国は朝鮮半島に存在。←は?西都原の妻だキチガイ
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。←イミフ
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。←ただの間違い。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。←は?イミフ
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。←まるでイミフ。脳みそ腐ってる?
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。←卑弥呼の墓は祇園山古墳。イミフ。
・倭の五王も九州人。なぜか不思議なことに古墳だけをわざわざ大阪平野まで造りに行った。←まるでイミフ。
・裸國・黒歯國はハワイ←正しい。その通り。
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。←(※NEW)←イミフ
チョン君が地理的に近い九州説にしようとして必死だな
近畿パーって勝手にイミフなことほざいてはい論破見たいなこと言うの止めてね。
ねえそんなことより、近畿パー知ってた?
畿内説って否定証明完了済みだったんだよ。
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>216 だから説明できないって言ってんじゃん
だから何だよ?
そもそも畿内が魏と無関係だなんて主張は一回もしてないんだが?
邪馬台国の位置論争の根拠としあげる証拠としては余りにもお粗末といいたいだけだ
なんでそこまで突っかかってくんのよ?w
糞食いチョン君が町おこしで畿内説にしようとして必死だな
>>217 何度も同じ説明させんな近畿パー。
↓これ読め。
>>125 だからそれは推計値が古い。
最近の研究では奈良時代の耕作面積と三世紀の耕作面積とはそれほど違わないことが分かっている。
ザックリ2/3
奈良時代の人口が600万人台だから、三世紀の人口はザックリ400万人台。
九州+山陰の人口は奈良時代でザックリ100万人強。
その2/3はザックリ70万人くらい。
一戸四人としたら17.5万戸。
九州がこの当時最先進地域であることを考えたらもう少し多くてもいい。
奴国が二万戸、女王の領域が七万戸、投馬国が五万戸、狗奴国が三、四万戸くらいか、その他諸々が一万戸。
別にギリで入るが?
>>55 途中で接待を受けながらのんびり進めば一月で170キロってのは妥当だと思うよ
ただ九州だとその170キロが取れるルートがない
150〜200キロもあればいいのだけれど
とある九州説の人の個人サイトでは、熊本の方から宮崎まで九州を横断してたけれどそれなら
水行を延長して回り込んだ方がいい
黒歯国は沖縄だろ?倭五王が確か黒歯氏なんてのを連れてたような気がしたが
>>213 日本で出ている紀年銘鏡の製作者の名前(陳)は、中国で出土する製作者の名前には見えない
つまり、日本で出ている紀年銘鏡は、陳という姓名を持つ鏡の製作集団が
ちょうどこの時期に日本に渡ってきて作成した可能性もあり得る
>>216 えーっとよく知らないんだが当時の中国では年号を入れる時は制作年を入れるのではなく未来の年号を入れる習慣でもあったのか?
それも教えてもらいたいわ
>>220 だって近畿パーって否定証明完了済みなんだもんw
箸墓(唯一の4段築成):親魏倭王:格上 > 格下:大仙陵古墳(3段築成):安東将軍倭国王の誰か
箸墓は、大王より格上の人物の墓で、
それは親魏倭王である卑弥呼しかいない。
畿内は邪馬台国のときは無関係だよ。持衰の風俗が合わない、意外とこれが決定的だよ。九州西岸の姿に相応しい。
>>225は
>>216宛だったw
紀年銘鏡は出てるけど、その鏡を作った「陳」と呼ばれる製作者の鏡は
中国からは出てきていない
これは、紀年銘鏡が日本で作成された、という傍証にはならないだろうか
>>220 >だから説明できないって言ってんじゃん
>邪馬台国の位置論争の根拠としあげる証拠としては余りにもお粗末といいたいだけだ
説明できないのに、証拠としてはお粗末と言い切るのは、明らかに矛盾している
難癖をつけたとしか見えない
>>233 もうアホとしか・・・
だからなんでこんな身元不明の鏡根拠に邪馬台国の位置の根拠にしてんのよ?
日本語不自由な方ですか?
それとも関係者?
噛みつき方が異常だわ
>>215 一大率は女王国以北に置かれたと書かれてる
一大率本部は伊都国なんて捏造するな!
伊都国では女王国以北の諸国を一大率を使い常に治めていたんだよ。
>>223 一月で170キロってのは遅すぎるな
170キロくらいなら1週間か10日だな
一月あれば関東くらいに着くな。
何十回も書き込んで脳内勝利してるキチガイがいるけど
これだから九州説言い出すチョンは怖いねえ
>>233 でそこまでいうなら、そっちこそちゃんと答えてくれよw
この鏡が出てくる事でなんで邪馬台国が畿内って事になるんだ?
合理的な理由を是非教えてもらいたい
何十回も書き込んで脳内勝利してるキチガイがいるけど
これだから畿内説言い出す糞食いチョンは怖いねえ
>>243 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>235 >晒し物にするのに相応しい浅はかな根拠やなwww
学者が挙げた根拠に対してこんな罵倒をしてるから、その理由を追求してるだけだが?
何十回も書き込んで脳内勝利してるキチガイがいるけど
これだから畿内説言い出す糞食いチョンは怖いねえ
紀年銘鏡については、これを作ったと銘が入っている陳という製作者が
中国で全く出て来ない事が気になる
尚、という製作者(もしくは製作集団)は、中国にも日本にも良く出てくる
大仙陵古墳(3段築成)を築いた倭の五王(安東将軍倭国王)の誰かより格上の人物が、
箸墓(唯一の4段築成)に葬られている。
さらに日本書紀には、箸墓の被葬者が女性であるとの記述もある。
故に箸墓の被葬者として当てはまるのは、親魏倭王卑弥呼しかいない。
>>1 いまどき正常な知能の人物で邪馬台国九州説を唱えてる人はいない
畿内統一王国大和に侮蔑的な当て字を用いて邪馬台と書いただけ
>>62 対馬海流に夢を見すぎている人多すぎ
対馬海流は黒潮の分流で対馬海峡の部分ではそれなりの流速があるが、
海峡を抜ければ広い日本海に拡散してしまいごく弱い流れになる
日本海沿岸の表層流で0.2ノット以下くらい、秒速10センチ以下ってこと
普通の公園の手漕ぎボートでも秒速50センチ〜1メートルくらいは難なく出せる
対馬海流の沿岸付近の流れは、日本海側の沿岸航行=水行の邪魔にはならないよ
>>225 王さんって中国人の学者が陳さんは呉の工匠って
論文書いてたね。
>>197 こういうの読むとやっぱり魏志倭人伝は北九州の狭い範囲の国を記述しているとしか思えんな
>>64 1日おきに10キロだよ
1日歩いて一日休みくらいのペース
>>232 その可能性はあるね
そもそも三角縁神獣鏡は数が多過ぎるから国産と考えた方が現実的だと思う
魏と外交を行った結果の人材派遣みたいなものか?
>>248 そりゃなるだろ
学者がこんな浅はかな判断したらダメでしょ
なんでこれを鵜呑みに出来るのか?
つかちゃんとお前も答えろよ
これが邪馬台国の根拠になるならさ
合理的な理由を是非とも頼みたい
わかってないね、一大率は軍隊であり警察であり取り締まり役所だろ、伊都国に本部がありその長が卑弥呼の弟じゃないの?各所に署があんだよ
>>1 いまどき正常な知能の人物で邪馬台国畿内説を唱えてる人はいない
否定証明完了済みなのに。
畿内統一王国大和に侮蔑的な当て字を用いて邪馬台と書いただけ←バカイミフ
九州説の主張
・註釈なしに放射読み 。
・註釈なしに短里 。
・註釈なしに並行読み。
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。
・投馬国は朝鮮半島に存在。
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。
・倭の五王も九州人。なぜか不思議なことに古墳だけをわざわざ大阪平野まで造りに行った。
・裸國・黒歯國はハワイ
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。
・畿内からは魏の年号が記された鏡が出土しているので、邪馬台国は畿内ではなく九州。←(※NEW)
何十回も書き込んで脳内勝利してるキチガイがいるけど
これだから畿内説言い出す糞食いチョンは怖いねえ
>>261 ・註釈なしに放射読み 。←何度も出すなキチガイ。解決済み。
・註釈なしに短里 。←何度も出すなキチガイ。解決済み。
・註釈なしに並行読み。←何だこれはキチガイ?
・註釈なしに水行陸行は帯方郡起点 。←イミフ
・投馬国は朝鮮半島に存在。←は?西都原の妻だキチガイ
・魏使様たちは中国製の大型帆船からわざわざ倭船のハニワ船に乗り換え、シラミだらけで悪臭を放つ持衰と一緒に対馬海峡を渡る。←イミフ
・2C中ばの日本人口は約60万人。
そして3Cの九州だけで100万人以上に人口大爆発。←ただの間違い。
・奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は全て九州に入るが、人口が足りない分の戸数は全て「倉庫」。←は?イミフ
・末盧国は松浦ではなく呼子。
その後魏使様たちは山中をレンジャー部隊のように12〜16時間強行軍。
輿に乗った場合はさらに速度を増して11〜15時間の強行軍。
理由は伊都国(糸島市)まで何としても陸行一日で行かなければならないから。←まるでイミフ。脳みそ腐ってる?
・魏国の度量衡では1歩は左右合わせた長さで、1歩=6尺。
他方、径100余歩の卑弥呼の墓を10数mクラスの墳丘墓に比定。
なので1歩は10数センチと言うガンプラ並みの長さ。1尺は2〜3センチ≒1寸。←卑弥呼の墓は祇園山古墳。イミフ。
・倭の五王も九州人。なぜか不思議なことに古墳だけをわざわざ大阪平野まで造りに行った。←まるでイミフ。
・裸國・黒歯國はハワイ←正しい。その通り。
・纏向遺跡は霊園であり、出土品は全て九州から持ち込んだ。←(※NEW)←イミフ
>>254 呉の人の可能性が高い気はする
ヤマト政権は意外に呉との繋がりがあるし
ただ、時期的には晋になってからかな、、とも思えるけども
>>258 学者がどういう論理展開をしてるかも確認せずに、
畿内説の証拠を認めたくないから、浅はかだのとひたすら罵倒してるだけだよな
老いてもなお左翼思想を忘れられないように、邪馬台国畿内説に青春をかけてきた人たちにとっては三角縁神獣鏡はその象徴であって簡単に捨てるわけにはいかんのだろうね
>>257 まあそういう事だなw
国産の偽造品がいくら出てきた所でなんの根拠にもならない
お前も判ってんじゃん
水行は、仮に時速10kmとして1日10時間の航海で100km進むことが出来る。
魏志倭人伝に帯方郡から半島南端の狗奴韓国まで7千里。狗奴韓国と壱岐と対馬と九州北端の末盧国の間が、それぞれ約千里と書いてある。
半島南端と九州北端の3千里が約180kmなので、千里が約60km。時速10kmでも6時間で着く。
天候の影響を加味して、1日の航海距離を千里とすると帯方郡から水行10日が1万里なので、水行10日の場所は帯方郡から1万里である九州北端の末盧国。
帯方郡から南に水行20日は、その倍の距離になるので鹿児島になる。
水行20日の場所は、投馬国=殺馬国=薩摩国、で鹿児島で間違いない。
帯方郡から水行10日陸行1月は、まず水行10日は上記の通り、九州北端の末盧国。当時は馬も道も橋もトンネルも無い。草が生い茂り前も見えない中を歩いて行ったと書いてある。
九州北端から日田を経由して女王国がある東側に海がある宇佐までが陸行1月に合致する。
魏志倭人伝に帯方郡から邪馬台国まで1万2千里で東側が海という記述に合致する場所は宇佐しかない。
>>257 人材派遣か、公孫淵が滅ぼされた後に、その地に居た魏人が行ったか
公孫淵と同盟を結んでいた孫権の部下を貰ったら、その中に鏡職人がいたか
若しくは単に、公孫淵と司馬懿との争いを避けて日本に亡命したか
まあ色んな考えがあるかも
魏志倭人伝は
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日。
出発点から一万二千余里、出発点から伊都国まで一万五百余里だから、言い換えると伊都国から千里〜千五百里。
卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
邪馬台国は、筑紫平野の御井で間違い無い。
魏志倭人伝は
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
・邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日。
・出発点から一万二千余里、出発点から伊都国まで一万五百余里だから、言い換えると伊都国から千里〜千五百里。
・卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
邪馬台国は、筑紫平野の御井で間違い無い。
>>272 だから、学者の論理も調べずに、ひたすら罵倒だろ?
どんな証拠を提示しても、認めず罵るだけだという九州説の議論スタイルだな
>>279 いいから反論しろよカス
↓
>>246 >>254 王氏によればそもそも鏡に製作年を入れるのは呉の文化らしい
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/ > 2.4. 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている
> 中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。
> そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。
>
> 問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである。魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、
> 中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、
> おおよそありえない国辱的行為である。
>>276 鏡の頻繁なデザイン変更も考えると、楽浪郡付近で作った可能性もあるだろうな
いずれにしても、その後も魏と何らかの関係を維持していたと考えられる
九州に上陸してからは、移動するだけが目的ではない
各地の王と交流したり伊都国では数日間検閲を受けたりするし天候による足止めもある
旅程の全行程で1月ほどの時間を要するという報告書。
日数での報告書と距離の報告書は全く別人による別記録、時代のずれもある。
税関が邪馬台国北境の狗邪韓国、ここに一大率の官が配置されてんの、でいざ出発!途中寄港地点でも検察、で伊都国でよくおいでになりましたと、こっからが問題。水陸行が不明、畿内拒否は、持衰がどうしてもおかしい。九州西岸から海を来た中国を目指すほうが自然な姿。
>>281 ちょうど見てたw
呉から渡ってきた人による制作っぽいね
魏とは無関係なのは確かだが
当時畿内に呉人が渡ってきてたのか
畿内勢力は鎖国状態ってイメージあったが、そういうわけでもないのか
邪馬台国がヤマト政権の前身とするには、余りに魏や晋との接点が後の歴史に残ってないのがな
記紀は無理矢理卑弥呼と神功皇后とを結びつけた為に、時期が合わなくなってしまってるし
(まだ三韓時代で、楽浪郡や帯方郡が半島を押さえてた時代に、高句麗・新羅・百済を従えた事になってる)
逆に言えば、記紀の時代には卑弥呼の情報なんて皆無だったんだろう
しかし、政権が続いてたなら、あれだけ魏や晋と通交してた時の情報が
全く残らないのは不自然すぎる
(ちなみに倭の五王については、それに対応するような記事が日本書紀にある)
ヤマト政権は邪馬台国を継いでいないか、もしくはヤマト政権が邪馬台国を滅ぼしたかの
いずれかだったのでは、と思う
>>279 いやそこまでいうならお前がその論理を説明してくれればいいじゃん
ひたすら罵倒するだけでなしにさw
何らかの根拠を見つけたんだろ?
もったいぶらずに教えろよw
>>285 地理的に考えれば呉人も最初は九州に着いただろうけど、九州は魏との関係があったから受け入れ拒否したんじゃないか
で、仕方なく畿内に行ったと
>>213 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡じゃなく後世に作られた日本製なのがはっきりしているのよな。
中国年号の入った鏡の出土例はごく少ないのにそれがことごとく邪馬台国時代のもの、かつ全国に散らばってる。
なんじゃこりゃ?
不弥国(宇美町)からそう遠くない宝満川を南に水行してたどり着く御井辺りは投馬国だね
書紀には治者として水沼の県主、水沼の君(水間の君)がいる
今でも三潴ミヅマの地名が残るが古くはミツマ、ミヌマとも言った
ツマ=ヌマとはこの地域の地理的特徴から見て広大な干潟のことだろうと思う
御井の由来となった朝妻の清水、八女の上妻郡、下妻郡などツマの地名が集中している
ベースとしてこの地方はツマと呼ばれていたのは想像に難くない
ツマとヌマの転訛は他にないから筑後弁だろう
八女たいの冗談をたまに見かけるが投馬国こそ方言由来だったというオチ
>>288 倭人は呉の末裔自称してるけど
そういや三国志の呉は全くの別物だったなw
人種からして違いそうだし、馬が合わなそう
畿内は絶対に持衰が説明つかない。このジサイが結構美しい姿なのよ。倭人伝として重要な部分よ。これが畿内では全くダメ。
>>281 青龍三年もあるけどな
ただ出土してるのはコピー鏡っぽいけど
オリジナルはどこかにまだ眠ってるか、盗掘されてるか、だろう
>>288 「親魏倭王」が敵国の呉の人間を受け入れたら裏切り認定されて公孫淵の二の舞になりかねないもんな
知多半島に小人の人骨出てるから侏儒で間違いないし
東のの海を越えた別種が近畿で4000里が愛知知多半島辺りだろ。
魏志は普通に正確な記述で何も問題ないじゃないか
何で近畿は邪馬台でもないのに捻じ曲げようとするんだ
なんで毎回毎回九州説は連投しまくる奴いるんだよ同じ奴か?
奈良だって、銅鐸勢力、古墳勢力、埴輪勢力と何度も勢力が入れ替わり、さらに天皇に近い勢力になってからも神教派の物部一族から仏教派の蘇我一族に乗っ取られ、さらに藤原一族にクーデターで乗っ取られて入れ替わっている。
邪馬台国=大和朝廷なんてバカの妄想。
>>278 距離から時間に変わった時点で起点は帯方郡に戻る
壱岐対馬の外側を半周するから伊都国、奴国で既に12000里に達している
陸行一日は末盧国(呼子付近)から伊都国の宿泊地までの東南陸行五百里のこと
伊都国が女王卑弥呼の都で邪馬壹國とは伊都国、奴国などの6か国と傍国20か国で構成される北部九州の連合体の名称。
>>296 帯方郡から一万二千里が邪馬台国だから九州しか有り得ない。
>>295 鏡が呉の様式ならますます畿内は邪馬台国から遠のく罠
>>202 舗装された二車線道路じゃあるまいし藪こきしながら山越えルートを一日6km30日間とか無理だわ
>>300 女王国は宇佐か豊津、行橋辺りだよ。
京都郡があった国府辺りが邪馬台と見てる。
これは魏志から隋書まで一貫した場所。
景行天皇なんてのは後から近畿向けに作られた偶像
王都は白村江の敗戦まで九州にあり
>>302 道なき道でも1日24kmが日本陸軍の通常の行軍速度
強行軍なら1日40km以上も進んだ
軟弱者!
>>303 なんか合点がいった
九州説の人が絶対九州から出ないマンなのは、
九州王朝説の人だったからなんだね
舟で近くの海岸にも寄れない、1ヶ月も歩いていきなり七万もおるとこなんて無いよ。海産物も食えんしそんなとこ住もうなんてのもいない。何かの間違い。
>>303 女王(邪馬壹國)の東の端が宇佐か豊津、行橋辺りだよ
めんどーだな
畿内=邪馬台国
九州=邪魔大王国
でもうええやん
間違いじゃなきゃ行きが水行帰りが陸行。海っぺりだね。
>>302 贈り物や物資も運ぶ、護衛も必要な。
使者は籠で移動だな。迎える側は大変だな。やっぱり、転機ミス。
http://2chb.net/r/newsplus/1560408101/441 >>441 >ネイティブ
支那人は自称漢民族であって
殷墟から出土した甲骨文字を使ってた民族の子孫ではない。
古代支那語と現代支那語では英語とドイツ語ぐらい違うと言って良い程の別物。
例えば漢文の教科書によく出てくる晩唐の詩人杜牧作七言絶句「山行」
この絶句の結句「紅葉紅於二月花」を現代支那語に翻訳すると
http://ftp.nssh.ntpc.edu.tw/china/chinese/06/ 山行.htm
經霜的楓葉比二月的花朵還要紅艷
となる。
ここで注目するのは語順である。
杜牧の原文は日本語の学校文法でいう文節単位で見ると英語と同じだ。
>>286 邪馬台国と倭の五王は200年の差があるし、倭の五王のころは文字も入ってきてたはず
それなのに、倭の五王で記紀にそれらしい記述があるのは雄略天皇くらい
そもそも記紀には大王もすべて記載されてるわけではないだろう
記紀に卑弥呼や魏との外交の記載がないのを根拠にするのは弱いと思うが
>>205 なんていう鏡よ
それを示してもらわないとあると言われても
>>312の続き
元の詩
https://kanbun.info/syubu/sanko.html
「比二月的花朵」が比較の基準の二月の花=桃
注目:纏向から桃の種子
現代支那語では「主語」、比較の基準、形容詞という順。
「比」は動詞由来の「介詞」で比較の基準を導く前置詞のようなもの。
「介詞」が英語前置詞のように基準となるものの前に置かれるのを除けば
文節単位では支那語と日本語と同じ語順で唐代とは語順が違う。
現代支那語がアルタイ化、ツングース化したといえる。 >>274 >半島南端と九州北端の3千里が約180kmなので
公孫淵討伐の洛陽〜襄平間の行軍距離が三千里=1500〜1600km
はい論破
>>290 不弥をどういう語呂合わせのテクニック使ったら
宇美に変換出来るのか、タネ明かしよろしく。
それとも誰かの受け売りか、猿真似か
>>297 ロジックやエビデンスでなく、声の大きさだけで既成事実化を図ろうとしてるんだろう。
哀れで滑稽だよね。
>>152 「周計算書」?卑弥呼読んで理解しているよ。天才少女だ。当時既に中国では蝕のおこる日を計算で知っている。
>>307 だから内陸の盆地なんだよ。
船で行けるところは極力船で行こうとするから。
陸行一月は、女王の都する場所が内陸の盆地であることを示す証左。
熊野で近畿地方の土器片が見つかったから邪馬台国うんぬんて
女王國まで残り二千里の末盧から700里陸行
⇩
後、南に300里だから纒向はない
>>320 女王国までの総行程が一万二千里で、末盧国までで既に一万里
どこをどうひっくり返しても畿内は無い
三角縁神獣鏡を呉の鏡だなどといまだに言ってるのは九州説の素人連中だけだろ
>>308
はい、又古田病ウィルス感染者発見
(´・ω・`)
/ `ヽ. ワクチン接種しましょうね〜
__/ ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\
(´・ω・`)
/ `ヽ. 今度カウンセリングも受けましょうねー
__/ ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\
カウンセリングは次のページへドーゾ
明代官話朗讀,神似西南官話 Mandarine in Ming Dynasty
「一=壹」という字の発音が何回もでてくるけどit(iyatとも聞こえる)
卑弥呼や陳寿の時代の倭人語にヤマイッコクのような
詰まる音=促音は無かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 邪馬台国の言語
はい論破 >>317 奴国の東にあり、地名が似てる、くらいしかないが
他に代案ある?
>>324 そもそも(一)万二千里が架空、デタラメだからね
>>330 そういう理屈の場合やはりこれも架空になるの?
>東南陸行五百里 到伊都國
>東南至奴國百里
>東行至不彌國百里
数字に関しては誇張表現してるんだと思うよ
中国ってそんな国じゃん
>>233 日本史の中ではね、古代でも中世でも近世でも
「これがかの大漢帝国の〜」「これがかの大唐帝国の〜」
てんで昔っからなんら関係ないのに偽った物品が出てるのね
こうしたことが大昔からあったから森浩一なんかは鏡が出ても疑問視してたわけで
>>333 あれは突き詰めると年輪年代法の問題になるような・・・
前スレでも書いてる人いたけど、光谷さんが鬼籍に入らないと・・・・・て感じかと
>>152 船の上では使えないテクニックw
緯度や南北方向は使えるけど東西方向には使えないw
卑弥呼に会って帰りが陸行一月だな。倭人伝の倭人の姿に川や山で暮らす姿が無い、奈良を思い浮かべられない。倭人伝にならんよ。海に向かい、先祖からの言い伝えを持ち持衰を行っていた倭人の姿を書き残したんだよ。九州西岸のどっかだよ卑弥呼の都は。墓は近畿かもしれんが
>>313 それはその通り
だらか政治体制で4世紀後半からの倭の勢力と卑弥呼とを
繋がってるとは見なすのはかなり困難なのね
記紀の編纂者も大分苦心したと思うw
>>330 架空てより誇張かもしれない。
陳寿は属国は広くて大きく見せたい。
なぜなら、陳寿は自国の晋の巨大さをアピールする。
戸数だってそうと思う。でも人口1万人の米や野菜を
耕すには相当な広さが必要、なると九州になる。
奈良は開拓が始まった時期なので、除外になる。
記紀は、作者達の創造物に過ぎないと言い切りたいほど酷い。古代なぞ倭五王武か、大武神をモチーフに書いたフィクション。
>>337 持衰の話は面白いね
もう完全に海の民の習慣だ
ひょっとしたら卑弥呼もこれに近い立ち位置に居たという説もあるね
形を変えて今でも日本に根付いてる習慣
天皇家の役割もこれに近いんじゃとか妄想してみるテスト
福岡のオノコロ島、熊本のしらぬい湾を望みながら
一句詠みたい気分だ
日本人の6割以上が、九州説を支持していると言う現実www
2007年3月14日(水)の夜、NHKのテレビ番組「その時歴史は動いた」(松平定知、上田早苗司会進行)で、「邪馬台国はどこか−近畿説vs九州説−」を放映していた。
この番組は、「双方向企画・歴史の選択」と題し、番組放映中に視聴者が、近畿説と九州説とのどちらを支持するかを、調査していた。
投票結果
九州説支持 35087票 (62.4%)
近畿説支持 21102票 (37.5%)
合計 56189票 (100%)
結果は九州説の圧勝である。近畿を中心とする考古学者はこれまで、なにか大きな発掘があると、ほとんど邪馬台国と結びつくとは思えないことまで、「邪馬台国近畿説」と結びつけて発表し、新聞をはじめとする報道機関も、それを大報道してきた。
それは、ほとんど近畿説プロパガンダの一種のようにさえ思えた。やや忿懣をおぼえるところであった。
にも関わらず、国民は九州説を支持している。
プロバガンダでは国民は納得しないというところか。
.
>>340 中国の文献と一致する所もあるから、
史実を織り込ませ、時の権力者に有利な物語を書いた。
しかし狗奴国との関係はどうなったんだろう。
266年(トヨ)まで記録がある。災害で国を捨てどこかへ?
狗奴国との戦争に負けたとしても狗奴国が貢と思うけど
記録もない。或いは内乱状態150年。
>>341 つまりこういうこと?
近畿は、辺境な北九州のちっぽけな漁村で持衰が行われていただけだというのか?卑弥呼の足元の姿は、何処にもないぞ、川でどうやって魚採ってたんだ?近畿が何にも解らない?近畿倭人伝になってないだろ?近畿なんてデタラメ。五王からの墓地。
>>337 倭人条の雰囲気からすると、海に近い場所だったのが窺えるよね。
5千里の島って言ってるし。風俗が畿内ではない。
持衰って海洋民族の文化。ちなみに唐代は必ず壱岐対馬のト部という持衰の流れを
組む人達が遣唐使船に乗っていた。
隋書でさえ竹斯から十余国で海岸に〜って言ってるし、倭人の葬送で
船を陸で引くってあるしね。
>>348 近畿説も結局、短里計算て所がかわいい。
近畿説とか使って近畿や畿内全体が邪馬台国みたいなレッテルを貼ろうとしている輩がいる
タチが悪い
邪馬台国はヤマト国、他の畿内は関係ない
ガラケーで連投してるやつがいるが、日本語不自由すぎじゃないか
伊都國までは往来もあり、道行き風俗が詳しい
そこから先はその情報が乏しく、明らかに情報源が違う
ならば、伊都國から邪馬壹國までの情報は張政がもたらしたもの
張政は軍所属だから道行き風俗の情報は重要視しない
必要なのは、移動時間と徴兵可能人数
魏は戦争中であり、倭人は兵に取られることを予想できた
そこで陸路の困難さを、男手が少ないことをアピールする必要があった
一月の距離って隋書や唐書にものってるやろ
日本アルプスから九州の端までで五月の距離だよ
俺は九州を知らない、倭人伝はまあ正しい数値だとおもう、伊都国から西海岸線20日で投馬、そこから海岸線を徒歩1ヶ月が卑弥呼の都。探して下さい。
>>308 そこが倭京だろうし卑弥呼から天多利思比孤までそこを王都としてる。
何故か記紀で景行という架空の人物を創作し九州を平定した話に改編しているが。
まあ天武以降の創作だろうけど
中國最難懂的五種方言,你的家鄉話上榜了嗎?
中国人でも難しい方言ベスト(ワースト)5
温州方言
大家都説「天不怕地不怕,就怕温州人説鬼話」
みんなが云うには「天も恐くない、地も恐くないけど、恐いのは温州人が「鬼の言葉を喋ること」
出ました、「鬼」。鬼=幽霊、死霊。
「天不怕地不怕」は「オマエラが好きな後漢書」楊震伝「天知る,地知る,我知る,人知る・・・四知を恐れる」を
パロディーにしたもので今でも支那人がよく使うフレーズだ。
潮州方言
潮州人は語調≒声調が豊富で語法(文法)も特殊
潮州のどこかの県(支那の「県」は「市」の中に幾つかあって日本で言えば「区」)で
いくつかの潮州方言の言い回しをヤットコサ覚えても他の県(=区)へ行くと解らない。
広東方言(粤語)
カラオケに行って広東語の歌を1〜2曲歌えないと肩身が狭い。
広東語は9声6調(この分け方はちょっと???)あって古語(中唐、晩唐)の特徴を最もよく保存している。
客家方言
旅行に行くなら古都の雰囲気の残る町だよね。中国の古都ならどこでも客家方言しゃべる人がいる。
こういう言葉は南宋の言葉が基本になってると研究者が認めている。
第五位は閩(←門の中に虫)南語ミンナンゴ
雷州とも呼ばれタイ語とよく似てる。
我輩の意見としては魏晋時代の発音を残しており記紀万葉の万葉仮名の借音仮名と一致する部分が多い。 >>338 記紀編纂した人は中国史書読んで倭の五王が書かれてること知ってて
中国側に頭を下げた事実は意図的に記紀に書いてないと聞いたぞ。
>>68 淮南子:墬形訓 に
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;
とあるからそこから概算で書いてるんだよ
自東南至東北方が三万六千里という世界観
>>352 近畿説も九州説も邪馬台国は地名だということをちゃんと認識するべきだね
>>88 >言い換えると近畿くらいまでは行って当然だったと言うこと。
これが分かってて、九州説を主張するんだから凄いよな
弥生後期から終末期は各地の首長が成長し、ただ一人のための墓に多大な労力を
つぎ込むようになり、それがそのまま古墳時代に繋がっていく
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型古墳群ではこの当時の最大の墳丘墓を作っており
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
しかし北部九州はこの時代の流れに取り残されている
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の首長墓としては、
どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
隣の奴国の那珂八幡古墳も墳丘長86メートル
逆に古い時代を見ても、三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
>>98 財力・武力は、巨大な墳丘を持つ大王級古墳が畿内にしかないことで明確だろ?
大墳丘墓が作れるのは巨大な動員力とその労働者を食べさせるだけの経済力があることを示すし
職業軍人がいる時代ではないのだから巨大な労働力はそのまま巨大な兵力を意味する
馬は倭国のどこでも等しくいないのだから、その有無は王権の所在とは関係ない
>>104 >有り得ない、伊都国で政務。
伊都国に邪馬台国の都があるなら、中央の官が一大率の業務をこなせばいいだけ
邪馬台国と伊都国が「通える」程度の距離でも同じ
一大率が置かれていること自体が、伊都国と邪馬台国が遠く離れた遠地であることを示しており、
実際魏志倭人伝では片道2ヶ月の距離と書かれている
九州説の人の論理はこの部分がどうしようもなくおかしい
>>355 そうなると裸国や黒歯国はどこ?になるよな。
倭人伝記述どおりの1年なら北海道東北、
誤植の一月なら徳島淡路か?
>>366 一大率はどうみても対馬海峡を監視する国防外交のための出先機関
>>115 弥生時代に出雲で畿内の土器が出てるし、畿内で出雲の土器が出ている
出雲と畿内の往来があったのは考古学的に確定
あとはそのルートを考えるだけだが、海に出るポイントが丹波というのもほぼ確実
>>38はその丹波までのルートの一つの私案
大和から亀山までは問題なくこのルート
丹波から福知山までもそうそう他のルートはないだろう
亀山から福知山までがちょっと自信がないが、川沿いで高い峠のないルートを選んである
九州説でも、不確かな私案でいいから九州説のルートを示してみてよ
>>363 その強大な吉備、出雲勢力を抑えてるのに
南の狗奴国との交戦報告を魏に行う理由って何だろう。
南の狗奴国なんて西日本全域を支配してた邪馬台国に
とってどうでもいいよね。
ましてや、魏使が畿内に到達してれば尚のこと。
魏が呉の牽制で徴兵したい目的でも為政者なら
「狗奴国と戦ってるの?畿内のことでしょ?じゃあ九州の国から出兵してよ?」
ってならない?この辺の事情が知りたい。
日本海ルート説は放射説と同じだろ?
短里と放射説は自分に都合よく解釈しすぎだぞ
>>124 >途中にどっかの国に寄るだろ
>そしたら、その国の名前を書くわな
投馬国・出雲と邪馬台国・ヤマトはすでに広域連合段階だから、
途中の集落も、投馬国や邪馬台国の範囲内なんだよ
まあ、丹波(丹後)の地名を書き残しておいてくれてたら、話が簡単だったのだけれど
>>126 奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸というのは魏使の感覚だろうね
それぞれ、北部九州、中国地方、近畿の最大国っていう捉え方で十分だと思うよ
>>368 皆津に臨んで捜露すみたいな文言から
伊都国の役人が巨大な魏船の船影を港で目視して
魏船が来たぞおおおお!ってなイメージがあるw
後の文言から通関なんだろうなってのはわかるけども。
やっぱ一大率のトップは難升米なのかな。
この人、魏でも将軍職みたいな位の銀印もらってるよね。
>>128 なぜ500枚も作らなきゃ行けなかったか?を考えると、
魏と交流のあった広域連合の存在が想定されるからだよ
近畿説を主張するなら奴国の位置をもう一度見直した方がいい
>>347 邪馬台国は狗奴国は戦争状態で苦戦してるから魏に助けを求めてるのに
その後狗奴国に負けたとも勝ったとも書いてない。
卑弥呼亡き後に男王が国を纏められず内戦で犠牲者多数、トヨが王位について纏まったで終わる。
こんな時に狗奴国に攻められたらイチコロで負けるよね。
でもそうなってないってことはトヨは狗奴国と和睦したんじゃないかということ。
倭人伝にあるように狗奴国王の卑弥弓呼は卑弥呼が王位につくことに反対して
彼女と個人的に対立していたわけでトヨの即位には反対しなかったんじゃないかと。
>>376 こうやって無理やり方向を間違えてることにしないと畿内説は成立しないもんなぁ
>>136 宇宙戦艦ヤマトは一年間52週の予定で作っていたのに、
視聴率が取れなくて半分で急遽打ち切りになったものだから
あまりよい例ではないぞ
後半はガミラスの残存艦隊と戦いながら帰ってくるプロットが用意されてた
その最後のデスラー艦との白兵戦だけ無理矢理突っ込んだ
>>375 女王国の統治方法に理由があると思う。
女王国の支配に入ると卑弥呼を司祭として宗教的な統治をするために神に繋がる媒介として鏡を支配下の小国ばらまいた。
範囲が広がると足りなくなって国内で増産したんじゃないかな
>>359 雄略に呉から朝貢したっていう凄い変な書き方になってる
これ書いたの渡来漢人1世だから、かなり違和感持ってたか
或いは虫麻呂らによる潤色かのいずれかだろうね
狗奴国とは仲が悪かったけど、全面戦争じゃないよ
国境で小競り合いがある程度
邪馬台国の存亡に関わる規模なら暢気に150メートル級の墓なんて作らないよ
兵が必要なのに100人の殉葬なんてしないでしょ
>>152 一寸千里の法を使えば、北部九州でも畿内でも、洛陽と緯度が変わらないことが分かって、
会稽東冶之東などと書かれるはずがないってことにしかならないんだよ
>>375 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られているらしい
>>281 制作者は呉から渡ってきた職人である可能性が高い
交流があったとするのならこっちやね
>>162 >ただ遠い、て事を表したいなら一万みたいなきりのいい数字でも良かっただろうに
そのキリのいい一万里を後漢代の奴国の朝貢の時に使って倭国上陸までを一万里としてる
そこからさらに水行陸行かけて行く分が2000里という勘定で、地の果てまでの距離の
萬二千里が当てられているんだよ
渡一海千里
というのも、海を渡るのは大変だという意味程度しかないんだよ
>>166 周髀算経のことが言いたいのだと思うけれど、大陸でも何度も計測して
書かれてあることがあてにならないってのは周知のことだったんだよ
正しくないと既に分かっている方法を利用しようと思うやつなんていない、と
いうのが実際の測量には使われなかったことの合理的なというか当然の理由
>>179 >3世紀の出挙稲数の全国データがあるなら教えて欲しい。
3世紀に出挙の制度はないし、そもそも文字記録がないし、
推計値としても存在するはずがないと思うけれど?
里数だけではないのだけど、
赤壁の兵力、魏80万、呉10万みたいなファンタジー数字があるしなぁ。
現実は魏20万、呉3万とかなんだっけ?これでも盛ってるんじゃないのか、とも
思ったりする。
>>382 たかが小競り合いに魏から檄文もって使者が来るとでも?
>>183
晉書/卷012 天文中
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。
大陸の正史でも景初四年を記したものがある
そもそも景初末〜正始元年の改暦は、景初三年一月一日に亡くなった明帝の一周忌と
新帝の践祚の祝賀を翌年の正月一日に行わなければならないためだ
どちらも「一月一日」でなければならないことから、景初四年の正月一日と
正始元年の正月一日を別の日に行う必要があった >>194 そう考えると、その連合体の中でより大きな実力者が複数あるのに
相対的に小物の北部九州が倭国を代表する王に就く合理的な理由がないんだよ
>>390 難升米に仮授した黄幢を持って来ただけだよ
2年後にね
暢気なもんだろ
>>197 いやいや、なんの説明にもなってないだろ?
畿内説では軍事的な制圧があったなどとは考えないから、
一大率は女王の名代としての権威で諸国を検察し諸国はこれを畏憚したと読む
>>197の近畿パー連呼厨のID:ST49tW8t0は軍事的に制圧したっていうんだから
その軍事的裏付けを論証しないと
軍政官が一人でいたら軍事的に制圧された側の報復ですぐに殺されるぞ?
で、一大率の軍隊はどこにいるんだい?
>>199 関係なかったら、年号をまねる理由がない
これを合理的、具体的に説明できない時点で、何も考えていない無能であることが確定
>>385 >東南陸行五百里 到伊都國
>東南至奴國百里
>東行至不彌國百里
じゃあこれどうすんの?
>>205 具体的に、どれ?
平原一号墓には1枚も魏の鏡がないのは確定
46センチ鏡は表面に磨いた痕跡がなく映らない鏡で実用品ではなく
割るためだけにただ大きく作った手抜き鏡
柵は防衛拠点だが、
柵、城は『き』と呼ばれていたらしい
高城たかき 石城いわき
というような例がある
神話におけるスサノオが木を植える話とかどういう意味なんだろうか?
兵を集めて拠点を作ったのかもしれない
古代において、【兵】【巫女】【櫛】【鏡】はセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女や鏡を掲げた巫女の埴輪も見つかっている
木、兵、巫女、櫛、鏡
これが邪馬台国、初期のヤマト政権の起源かもしれない
更に興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
賀は牙
旗印を掲げた拠点 、国境の防衛拠点、関
◎伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に石の【城】を作っていたという伝承もある
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
>>208 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。「常治伊都國」。
伊都国は狗邪韓国だったんだ!
新説だね!
学会で発表してきたら?
>>394 戦争状態だったの卑弥呼存命中じゃん
>>邪馬台国の存亡に関わる規模なら暢気に150メートル級の墓なんて作らないよ
>>兵が必要なのに100人の殉葬なんてしないでしょ
時期が違うぞw
>>209 三角縁神獣鏡でひとまとめにされているけれど、最初期に編年されるものは「斜縁」神獣鏡
斜縁神獣鏡は大陸でも出土しているよ
纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鍬ではなく鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地だったんだね
>>183 鏡なんて使者が来たその日に鋳るもんじゃない
おそらく先の年号を記したストックがあったはず
本来なら廃棄になるゴミも土人国家にならあるいは…
>>211 前にも訊いたけれど発掘されていない箸墓の埋葬主体の構造をなぜ知っているの?
まあその前に畿内の初期古墳で見られる竪穴式石室は槨じゃないんだけどね
槨というのは棺を容れる空間、人が立ち入ることができて追葬ができる構造をいうから
棺を封じ込める竪穴式石室は槨にあたらない
西京雜記卷六
魏襄王冢。皆以文石為槨。高八尺許。廣狹容四十人。
魏(戦国の七雄の魏)の襄王の冢は皆文石を以って槨と為す 高さは八尺ばかり、
広狭は四十人を容れる
これが晋の時代の槨という言葉の使い方の実例
さらにその前に有棺無槨は倭人の習俗の紹介であって、王の埋葬の記述ではない
其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
停喪十餘日では王の墓は作れないだろう?
>>405 年賀状みたいなもんかもね
前の年に用意して新年に新しい鏡をおろす、みたいな感じかも
説明が難しいんだが、文献学において大陸民と島国民の根本的な解釈だとか
感覚の違いを理解しないと難しいものがあると思う。
邪馬台国の場所だけではなくて。
そこは記紀と倭人条を比較して論じる人には理解されない気がしている。
あるいは倭人条と考古学の人とか。ある意味この人は正統か。
文献にあったから掘ってみよう→出てきたよ!だし。
何が言いたいかと言うと現代日本人が短里、長里、戸数等で論議するのは、
結論には導かれないだろうな、ということです。
>>404 畿内説じゃ九州北部から畿内までつながっているんでしょ?
纒向は東海や北陸ともつながりがあるし
>>対狗奴国の前線基地
なら狗奴国はどこになるの?
>>249 日本史板にも論理的な思考、回答ができずに、延々と決まり文句を書き続け
九州説を畿内説に入れ替えただけのオウム返しでしたり顔をしている九州説(古田流九州王朝説)が
いるんだが、九州説ってのはどこでも同じなんだなww
>>409 九州説は遺跡を確定しろ、というなら
畿内説は狗奴国を確定して欲しい。
じゃないと全く説明つかないよね。
>>257 >そもそも三角縁神獣鏡は数が多過ぎるから国産と考えた方が現実的だと思う
かなりの部分は踏み替えしなどで作った模倣鏡、コピー鏡だろうが、
そのもととなった鏡が魏からの下賜鏡、いわゆる「卑弥呼の鏡」だろうということ
中国からオリジナルが入ってきて
それを国内で大量にコピーしたという認識だったんだが
いつの間に国内ですべて作られたことになったんだ?
古墳の形式について
■魏志
・韓伝,夫余伝:「槨あって棺なし」
・高句麗伝:「石を積みて封となす」
・東沃沮伝:「大木の槨を作る、長さ十余丈」
・倭人伝:「棺あって槨なし。」←卑弥呼の墓
■畿内説が卑弥呼の墓と言い張る
箸墓古墳(前方後円墳)の形式は
「棺あって槨あり」
※ちなみにホケノ山古墳は
「木槨あり木棺あり」
横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大きく
分けられる。
■「九州型」は
4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に
前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後
5世紀には九州各地へ拡がっていく。
普及する過程で「肥後型(熊本県)」や
「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、
地域色がみられるようになる。
九州外へもわずかに拡散するが、肥後型石室の
構造をよく残しているのは岡山市の千足古墳である。
■「畿内型」は
5世紀終わり頃に出現するが
6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。
>>68 1年は12日を12月と誤写されたものを12月⇒1年としたんだと思います。
>>357 倭京は太宰府だよ。
>>68 >>373 投馬国五万戸、邪馬台国七万戸は可が付いてるから不確定要素が含まれてるが
奴国の二万戸は有と確認された数字だから大きくは違わないはずだぞ。
ゴッドハンドふたたび
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<木製倭鐙の出土状況>
濠の底に埋められていました。
つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
<箸墓古墳の年代>
@四世紀の中ごろ(西暦350年前後)
関川尚功氏(元奈良県立考古学研究所員)
A三世紀のおわりごろ(西暦280年〜300年ごろ)
寺沢薫氏(桜井市纒向学研究センター所長)
B五世紀(西暦400年以降)
俺氏 輪鐙の年代と堆積層の堆積年数から推定
<参考1>
半島で見つかった最古の鐙が5世紀のもの。
国内各地で出土した鐙も5世紀のもの。
<参考2>
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
>>415 2万戸存在したとして
誰が数えたの?
とか
戸籍みたいなのが当時存在してたの?
というのが疑問
大雑把にその程度ってレベルの話じゃないの?
>>259 >一大率は軍隊であり警察であり取り締まり役所だろ、
つまり、一大率は職名ではなく、組織の名称だという主張なんだね!
それは思い当たらなかったよ
脱帽する
3世紀時点で、そこまでしっかりした統治組織が存在したっていうのは
「まったく前例のない新説」だよ!
ぜひ、学会で発表して、
>>259がバカにしまくっている学者さんたちの鼻を明かせて欲しいww
しかも
>>259は山陰まで含む広域だと主張していたし、
その各地に組織的に展開しているって言うんだから、
3世紀段階では東アジア全体で見ても圧倒的な先進国だww
それだけの統治機構を作れるほどの先進的な社会基盤があるのに
どうして九州にはしょぼい墓しかないのか不思議だね!
>>401 何言ってんだ?
一大率が狗邪韓国にいたら何で伊都国は狗邪韓国なんだ?
一大率は女王国以北に置かれたんだから狗邪韓国にもいたかもしれないよ?
君は頭変だよ?
>>417 崇神天皇が戸数調査をしているから、その数字を伝えただけだよ
狗奴国は三重県だと考えられるぞ
300年前の本居宣長の独断説よりも、今の俺の方が情報も豊富で資料も多い
過去の中国人は、新天地の場所を、はっきりと国内の人々に教えたくなかったため
東という方角を、作為的に南と書き換えたと思われる。
>>281 しかし、呉では鏡背の模様に乳を作ることはない
三角縁神獣鏡が呉鏡の様式というのは既に否定されている
昼寝しちゃったよ。あのねこれは、魏の為の倭人伝なんだよ、魏にこういう人達って解らす伝なの。まず狗邪韓国の入り口から説明して検察官が配置されててそいつらの中心が伊都国にあってそっから卑弥呼がいるとこ、その風俗は持衰を行う人達、奈良の山川とは描いてないの。
畿内で出土する銅鏡は中国製では無いことが判明!
こんな模様は中国にはありません!
>>290 >宝満川を南に水行してたどり着く御井辺りは投馬国だね
川の水行はない
それにそんな近くに投馬国を置いたら、奴国二万戸と投馬国五万戸がどうやっても入らなくなる
>>417 徴税の為に倭人の役人が把握していんでしょうね
戸や家が徴税の単位なんでしょうね。
>>418 「於國中有如刺史」ですから官職の名称ですよ。
>>420 そうなるとおかしいんだよ
倭人たちの国は小国が乱立してて
卑弥呼はその小国が共立した女王で夫が存在しないんだわ
という事はその時点で倭人の国は今の天皇家とは関係が無い事になってしまう
崇神天皇の戸籍調査はもっと後の時代の話だよ
>>427 そこまで高度な社会だったとはとても思えないんだが
卑弥呼が貰った可能性が高い銅鏡の出土状況
ダントツで福岡
>>426 たまに宝満川を南に水行とか不可能なこと言う人いますね
一度現地に行って見てみると諦めが付くんですけど
何時までも強引に主張し続けてますね。
奈良は狭いんです。
可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
耕作可能な土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。
>>293 持衰がーって言い続けている人がいるけれど、
畿内説では倭国・女王國は北部九州を含む範囲だから何も困らないんだけれど?
実際、北部九州最大国の奴国の中心比恵那珂遺跡群で畿内様式土器を作っているし
その首長墓である那珂八幡古墳は前方後円墳
第2埋葬主体からは三角縁神獣鏡も出土している
(主張が葬られた第1埋葬主体は未発掘)
>>429 それは日本人をバカにし過ぎ
北部九州では紀元前から3世紀頃までの硯が次々と出土してるから既に文字社会ですよ
魏志倭人伝の記述でも「傳送文書賜遺之物詣女王」と書かれており
文書で物品を管理していた事が分かる。
>>430 熊本が0なんだな
やっぱ狗奴国は熊本か
>>299 >距離から時間に変わった時点で起点は帯方郡に戻る
そんな書き方をした史書は他に一例もないし、なんの注釈もなくそんな書き方をしても
普通に読んでたらそうは読まない
史書は判じ物でも暗号書でもないのだから、
「起点は帯方郡に戻る」のような突飛な思いつきがなければ読めないような書き方はしてない
俺にケチつけたってしょうがないだろ?魏史倭人伝を読むとそう書いてあんだから、近畿だあ!って風俗何処よ?これ読んで近畿倭人伝だあって思うの?JTBにこういうとこが奈良ですよ、よいご旅行をっ言われて信じる?
>>433 >畿内説では倭国・女王國は北部九州を含む範囲だから何も困らないんだけれど?
近畿説の人の場合「但し、瀬戸内は含まない」ってなるのどうして
畿内纏向説は「妄想」です。
■魏志倭人伝、晋書倭人条の記述
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝の記述
「筮竹を使って占う」
■畿内纏向説の妄想
桃をお供え物として穴に埋め、
カエルをかじって占います。
こういう記事が続けて出るって事は邪馬台国は学術的には奈良に確定してるのだろ
>>405 本国やその他の国から出ていないんだよ。
ましてや儒教なんだし、礼節に反する。
先に訪問時期、事前通知するだろ
日本だけに存在する景初4年の年号。
近畿説も九州説も、邪馬台国への道順の各地名と現在地は一致してるんだよな
中国東北部(楽浪郡)から朝鮮半島を南下して、海を渡り、現在の対馬(對馬国)を経て、
唐津市松浦(末盧)に上陸、福岡県糸島(伊都国)を通る
そこまでは近畿説も認めてるのに、なぜかそこからすっ飛んでいきなり奈良県に邪馬台国があったと主張
もし本当にそうなら、道順に九州から本州に渡る記述なり瀬戸内海を船で通過しただとかのルートが書かれているのが自然じゃない?
>>428 崇神天皇は「漢委奴國王」の金印を貰った北部九州の王だったんだよ
その金印を巡り倭国の乱が起き
伊都国の王の卑弥呼を邪馬台国全体の王として共立
大和朝廷の先祖の神武天皇は5世紀以降に奴国と伊都国の境の日向峠付近から東征へ
記紀編纂時に神武天皇の後、天武天皇の前に九州の歴史を入れたんだ。
>>441 自分としては自分の愚問が全て解決できれば畿内で
良いんだけど、強大国である吉備出雲を徹底的に
無視して、畿内の痕跡も全くない倭人条に戸惑いがある。
>>300 それは短里が前提でしょ?
3世紀に短里を使う人も知っている人も、一人もいないんだよ
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」
梯儁や張政は、魏の役人だから、魏皇帝の公定尺の度量衡以外を使う理由がない
むしろ、異なる単位系を使うのは、皇帝権力の否定になる
公孫氏は、最後の最後に反旗を翻すまでは、漢朝の公職・左将軍の地位にあり
また、公孫氏自身が漢人で漢の度量衡で生まれ育っているので、
漢の公定の度量衡以外を使う理由がない
最後に自立したからと言って、戦時に新たな度量衡を使う理由がない
使ったところで混乱するだけだし、国力を損なうことになる
倭人はそもそも里を知らないので魏晋里、短里(があるとして)ともに
使う理由がない
隋書巻81俀國傳に「夷人不知里數,但計以日」とあるとおり
韓人は楽浪、帯方二郡の影響下にあると見るなら、魏晋里あるいは秦漢里
以外を使う理由がない
国家形成前の小国分立期なので、度量衡は持っていないと見るべきだし
どこにも韓における計測についての情報はない
隋書の「夷人不知里數」の「夷人」には韓人も入るだろう
もし仮に、韓地に独自の距離単位が存在したとしても、その場合は
中華皇帝が定める距離単位「里」と同じ文字を使って記録する人はいない
ということで「短里を使う理由のある人がどこにもいない」んだよ
反論があるならどうぞ
>>439 木管か竹管でも見つかればいいんだがな
硯はどは残り安くないからな。
>>451 短里が無くても残りは1300里しか有りませんから九州からは出られないですよ。
>>302 集落のある平野部、盆地伝いに行くルートだから、薮こぎ山越えの部分はそんなにないんだよ
山越えも川沿いに進んでいって最後に低い峠を越えるだけ
それに薮こぎしながらでも6キロ進むのにそこまで時間はかからないよ
陸行一月には短すぎるという意見が多い中で、一月では付けないという意見は貴重w
どうあっても纏向を邪馬台国にしようとする鉄の意志を感じる
三重で土器が見つかったから何なんだよw
>>453 伊都国が卑弥呼の都だと考えてます
崇神天皇は「漢委奴國王」の金印を貰った倭の最初の王
神武天皇は東征して大和朝廷を建国した王。
短里?について
[魏志韓伝より]
韓在帯方之南, 東西以海為限南與倭接,
(韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。)
方可四千里有(およそ四千里四方)
実際は300kmなので
一里=0.075km
魏志倭人伝もこの縮尺で記述されているので、
デファクトスタンダードでよろしく。
>>450 >強大国である吉備出雲を徹底的に無視して、畿内の痕跡も全くない倭人条に戸惑いがある
まあ普通に読んだら九州という結論にしかならんからなあ
>>458 なら魏志倭人伝では
伊都国が邪馬台国だと書かれてないとおかしいじゃん
>>322 九州内の移動は萬二千里に入ってないよ
九州説のとある一派だと、書いてもいない島巡りの距離なんてのを「発明」して
九州上陸+αで萬二千里なんてやってるけど
>>456 >薮こぎしながらでも6キロ進むのにそこまで時間はかからないよ
山道は藪こきしながらだと相当時間かかるでしょ
上でレスしてる人いるけど
>贈り物や物資も運ぶ、護衛も必要な。使者は籠で移動
こういう感じだと平野でもかなり時間かかりそう
>>330、
>>331 いろんな情報がつぎはぎになっているんだよ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
>>464 >卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
なんぞこれ
どっからどこまでの日程よ
なーんで、どうあっても奈良を邪馬台国にしたいんだ?
全然つながらないし
>>461 伊都国の説明に「世有王」
魏の世には倭王が伊都国に居たとか書かれている。
>>339 >奈良は開拓が始まった時期なので、除外になる。
弥生時代にこれだけの集落遺跡があるんだけど?
物的証拠なんて奈良には出土しないのにな
九州は魏志倭人伝と一致する遺物が出てくるのに
>>467 それ、
卑弥呼が共立される前の王の話じゃね?
>>330 仮に一万二千里が架空、デタラメだとしても
計算の合わない事は陳寿は書かないよ。
>>470 魏志倭人伝に前とか後とかそんな記述ねーよw
勝手に時系列を差し込むな
>>468 奈良に住んでいたのは渡来人です。
・〜2世紀 : 唐古鍵遺跡
・(〜3世紀末:邪馬台国消滅)
・〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 畿内纏向は、ヤマト政権の権力者
各地から土器集め、土器年代もいろいろ集まる。
蘇我氏、物部氏、大伴氏かな?
飛鳥に移った。
>>470 魏書の中で世有と書かれていますから魏の世を指します
張政が倭に滞在していた期間のことです。
古代の奈良は倭国ではありませんでした。
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
倭国より古い時代の国名=北部九州
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南海に在り、郡から一万四千里)
※九州〜山陰あたりか?
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、日本使者の言い訳が続く
以其國在日邊,故以日本爲名。
(日出る国だから改名した)
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
(字が嫌いだから改名した)
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
奈良には神武が来る前には物部氏の祖先がいたってのも興味深い
本当、神武はどこからやってきたんだろう?
>>472 ん?
魏志倭人伝に書かれてる?
じゃあ君たちの解釈間違いだろ
倭王が伊都国にいたとしても、
卑弥呼は邪馬台国の王だぞ?
その違いを理解しろよ
>>367 山海経に書いてある時点で、大陸の古い「伝説」だよ
実在を探ることに意味はない
>>477 代々筑紫城に住む一族なので北部九州だろね
でもなぜか宮崎から出発したことにする必要があったぽい
これまでに分かったこと
倭王は伊都国にいた
卑弥呼は倭王ではなく邪馬台国の女王
なんだ、天皇家のルーツは伊都国王なのか
>>469 そもそも九州は邪馬台国の候補となる遺跡がないんだから物的証拠はゼロだぞ
伊都国や奴国で何か出てきても、邪馬台国の場所を特定するには無関係
そして、奈良からは黄幢が出てきたり、150メートル級の墓があったり
考古学的な物的証拠は圧倒的に多い
>>478 何を言いたいのかわかんねーw
伊都国にも邪馬台国にも王がいたって話だろうが
どうやったらそれを「伊都国の王が卑弥呼の前の王」って解釈になるんだよ
つかそもそも伊都国は一大卒やニキがいたりとわざわざ書いてあって特別な存在なんだよ
倭の五王(サンチンセイこう武)も5世紀前半前後だしな
西暦400年までの130年間程度に何があったのか知りたい
奈良に邪馬台国候補の遺跡はありません。
「奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝
によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも
使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流して
いたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に
少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や
刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されて
おらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。」
>>370 対狗奴国戦争の支援の要請をしてるんじゃなくて、
倭国が帯方、楽浪二郡による対韓戦役に協力した形跡がなく、
その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある
>>478 卑弥呼は伊都国にいた
卑弥呼は奴国や伊都国、傍国に共立され邪馬台国の王となった
卑弥呼は魏から倭王に任命された
>>483 奈良のほうこそないんだよなあ
楼閣や環濠を持つ遺跡なら九州にあるが
>>484 は?
お前の指摘を受けて
考え方を変えたんじゃないか
そんなことも理解できないのか?
前とか後とかは無しにして
伊都国王は伊都国王として存在してて
邪馬台国の女王は別に存在しているという当たり前のことを書いただけだが
理解できてないの?w
>>488 いや
卑弥呼が伊都国にいたかどうかは問題じゃなくて
邪馬台国がどこだったのかが重要なんじゃないの?
で、邪馬台国というのは倭人たちの国々の中の一つだぞ
魏志倭人伝であって、魏志邪馬台国伝ではないんだよ
>>371 >日本海ルート説は放射説と同じだろ?
どこが?
同じだと思う理由の具体的な解説プリーズ
北部九州まで来て、そこから
そのまま水行20日で投馬国、出雲
さらに出雲から水行10日で丹波、陸行一月で邪馬台国
というルートだから、どこも放射読みはしていないけれど?
>>484 頭の悪い奴だな、しかも魏志倭人伝も読んでないな
魏志倭人伝の記述では一大率は伊都国に居たなんて書いてないよ
女王国以北に一大率は置かれたとある
邪馬台国の女王卑弥呼が伊都国に居たんだよ
>>493 読んでないとかお前じゃないんだからね
ちゃんと調べようね
女王国以北に一大率は置かれてるという文書の後に常に伊都国にいると書いてあるから
>>491 邪馬台国というのは倭の国々が共同で作った国だよ
卑弥呼が倭の国々に共立されたので出来た国
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国から成るのが邪馬台国。
>>378 投馬国から伊都国の時点で方角は実際に間違っているだろ?
>>376 陸行距離は近ければ百里、ちょっと遠ければ五百里っていうアバウトな数字なんだよ
短里はない
>>9
>郡から一万四千里
去京師一萬四千里は
京師を去ること一万四千里」と読み
京師=京都(ここでは唐の首都長安)から一万四千里
長安=現在の西安は魏の都洛陽から西へ直線距離で350km弱、昔の道なら520km余り
つまり二千里で割ると1里が0.26km=260m
>日出る国だから
『山海経』海経第4巻 第九 海外東経
湯谷上有扶桑,十日所浴。
湯谷の上に扶桑があり、十個の太陽が水浴びをする。
郭璞注:“扶桑,木也。” 郭璞(276年 - 324年)注す「扶桑は木なり。」
郝懿行笺疏:“扶当爲榑。 郝懿行(1757年−1825年)の笺疏に曰く、「扶」は当然「榑」とすべきもの。
《説文》云:“榑桑,神木,日所出也。” 説文解字に云う「榑桑は神木にして日の出る方向なり。
ここで漢文のお勉強
所も處(処)も「ところ」と読むけど「所」は単なる「場所」以外に
動詞の前に置いて,動作の受ける対象となる事物を表わす関係代名詞の機能を持つ。
「所得」=what you get「得るところのモノ」つまり「お金」
「所向無敵」は「向かうところ敵なし」
「所詮」は「詮索するところのもの=詮索した結果」 しっかり覚えよう。
邪馬台国までの道のり
(魏志倭人伝より)
博多湾から
↓
南至[投馬國]水行二十日,〜〜,可五萬餘戸。
↓
南至[邪馬壹國],女王之所都,水行十日・陸行一月,
〜〜可七萬餘戸。自女王國以北、〜〜
↓
其南有[狗奴國],男子爲王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。
>>487 黄鐘持ってきた張政の立場を踏みにじる愚行ですねw
>>492 九州に上陸しないといけない理由は伊都国の税関に立ち寄るためだろ?
畿内が目的地なら船でそのまま行けばいいのに九州に上陸して伊都国に立ち寄った後
なぜか船に戻らず、奴国や不弥国へ陸行している
頭おかしいだろ
伊都国で用事を済ませたら同じルートで松浦まで戻って底から畿内まで船で行くのが常識だよ
>>495 >邪馬台国というのは倭の国々が共同で作った国だよ
では邪馬台国とは西日本全体とかそういう話?
そうであるならこれ以上話すことは無い
>>496 方角もデタラメ距離もデタラメときたかw
で、日数はどう言い訳するの?
>>494 捏造するなよな
「常に伊都国にいる」なんて書いてないよ
「常に伊都国で治めている」とある
倭王卑弥呼が女王国以北の諸国を一大率を使っていたんだよ
一大率は女王国以北にいるのに同時に伊都国にはいられない。
<参考>
[扶桑國]←日本の事ではない。
扶桑在大漢国東二万余里,地在中国之東,其土多扶桑木,故以為名。
(扶桑国は大漢国の東二万余里に在り、土地は中国の東に在って、其の国土には扶桑の木が多く、故に国名とする。)
>>501 当時の倭は北部九州地域だけですから
邪馬台国は北部九州の倭の諸国が卑弥呼を共立して建国した国です。
>>503 「常に伊都国で治めている」
こう書いてあることは認めるのに一大卒は伊都国にいないって解釈になるのか
よく分からん思考回路だ
そもそも魏志倭人伝での伊都国と邪馬台国の位置関係さえ分かってなさそう
畿内説も九州説も
倭国、女王国、邪馬台国を
ちゃんと使い分けないと
ごっちゃにするからテキトーな解釈になる
特に九州
>>505 >邪馬台国は北部九州の倭の諸国が卑弥呼を共立して建国した国です。
違うと思うわ
>>504 扶桑國は日本だと思ってた…大樹伝説がどうとか
>>508 魏志倭人伝には卑弥呼は共立されたとわざわざ書いてあるだろ
倭の国々で卑弥呼を共立した結果、女王卑弥呼を共立した国々が邪馬台国として纏まったんだよ。
>>411
畿内説での狗奴国は大体三説くらいにまとまる
1.濃尾平野を中心とする東海
朝日遺跡で銅鐸の鋳型が出ていることもあり三遠式銅鐸の範囲を狗奴国の領域と見る
2.先代旧事本紀の国造本紀に見える久努国造の国を中心とする東海
久努国という文字記録があり現在まで久努郷の地名が残るが、現代の読みは「クド」
上記、1.2は共通して東海の範囲を考え、古墳時代初期に盟主墳に前方後方墳を作る地域を
一つの勢力と見る
3.関東の毛野国
関東には200メートル超の大古墳を作る勢力があり、地名の類似からも狗奴国の候補となる
どれも伊勢から渡海千里で向かう地域だからこのうちのどれでも構わない >>510 ただ地理の記述からして明確に邪馬台国は伊都国や奴国とは場所的には別のところにあるんだよなあ
最初に紹介した国々を内包するな書き方じゃない
>>506 一大率は「檢察諸國」と書かれており検察官
治とは支配すること
明らかに「常に伊都国で治めている」のは一大率ではないですよ。
>>512 それが大きな勘違い
日本の3世紀に7万戸の都なんて無い。
>当時の倭は北部九州地域だけ
それだけは絶対に有り得ない
当時の人でも5000人も10000人も同じ所に住んでいれば、そこに住むのをウザく思い
歩いてでも新たな居住地を求めるグループは必ず存在したはずです。
200qでも300qでも500qでもその気になれば楽に歩けます。
500qでも15日もあれば楽々歩いて
新たな家で楽しく暮らしたグループは必ず存在します
税金も取られないだろうし幸せな暮らしをした男女10人〜20人
>>517 考古学者は見解を出していません。
まず、見解を出す資格が無いのです。
しかも文盲です。
邪馬台国までの道のり
(魏志倭人伝より)
博多湾から
↓
南至[投馬國]水行二十日,〜〜,可五萬餘戸。
↓
南至[邪馬壹國],女王之所都,水行十日・陸行一月,
〜〜可七萬餘戸。自女王國以北、〜〜
↓
其南有[狗奴國],男子爲王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。
>>424 その笠松文様、魏から与えられた「黃幢」なんじゃないかという説もあるね
まさに魏との交流を伝える下賜鏡にぴったりだ
>>518 魏志倭人伝に邪馬台国というワードが何回出てくるか知っているか?
>>451 長里使うと九州・近畿も否定される事は共通
推測
外交に関して短里使うてと大きく見せる事になる。
内政につい長里使うと税、徴収が見かけ上小さくなるけど
取高は大きくなる。
外交で日本以の文献みると短里で千里区切り
https://zh.wikisource.org/wiki/三國志/卷30?uselang=ja#夫餘
>>499 魏の役人A「帯方郡が攻められた時、倭人は助けに来なかったぞ」
魏の役人B「どうする?問題にして攻める?」
魏の役人A「いやいや、そんな余裕ないよ」
魏の役人B「じゃあ、内戦でそれどころじゃなかったことにする?」
魏の役人A「いいね。黄幢でも贈って形つくるか」
という可能性、あると思います
祭祀について
■魏志倭人伝、晋書倭人条
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝
「筮竹を使って占う」
■考古学者のコメント(根拠不明な説明)
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に
出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
しかし、当時の人たちが日常的にカエルを食べて
いたかどうかは資料が少なく、さらなる調査が
必要だ」としている。
https://www.sankei.com/life/news/190425/lif1904250019-n1.html 時代を考えれば方角や距離は間違いもあるだろう。
でも日数は間違わないよな。
10日というなら10日かかったのだろうし1月というなら1月かかったのだろう。
どこかは知らんがそれだけの日数がかかる場所にあった。
一大率?とか細かい事も大事だけども、取り敢えず場所ね、伊都国迄は分かり易い、問題はこっから、水行1日が何れ位か俺はわからん、で卑弥呼にあったあと帰路1ヶ月で投馬?とするかな、持衰するから大海原に向かう西は確か。九州の地理は知らん、頼みます。
>>518 数字は誇張してるので特に気にしなくてもいい
>>523 成分が銅鐸でした。
というか銅鏡に関する議論は既に終わっています。
糸冬
>>527 嘘コピペ貼り付けに人生かけてる九州爺さん、今日は起きるの遅かったなwww
>>515 それなら「常に伊都国で治めている」っていう、この部分は誰についての説明なんですかねえ?
主語は誰ってことです
前文を見れば女王か一大卒どちらかになるが
女王は伊都国とは地理的には別の邪馬台国にいるから違う
そしたらあとは分かりそうなもんだが
>>428 弥生末から古墳時代初期はヒメヒコ制を思わせる痕跡が多い
魏志倭人伝の卑弥呼と佐治国男弟もヒメヒコと見なせる
ヒメヒコは王族の男女ペアであればその関係は問わない
タケハニヤスの乱では対となるハニヤスヒメは彼の母になる
倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇のヒメヒコが、卑弥呼と佐治国男弟で少しも困らないよ
>>430それインチキなのは確定
平原一号墓の仿製鏡32枚を勝手に十種の魏晋鏡に入れているだけ
>>529 ていうか突然、距離じゃなくて期間で表現されてる謎
現存する魏志がいつの時代の写本かは知らないが記述が変容してるとしか思えない
なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?
■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・
畿内で出土する銅鏡の年代が軒並み4世紀である理由
「西晋の時代に北では五胡十六国時代となり、西晋が滅ぼされたため、
南に移り晋の国を建国した。これが東晋(317〜420年)である。
この東晋の時代が画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が日本で大流行した。
東晋は中国の南にあり、この画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は南のデザイン
であり、南の銅が使われた。」
>>441 ???
瀬戸内、吉備も含むけど?
魏使の経路としては、倭国第二の大国、投馬国・出雲を経由する日本海航路を使っただろうというだけ
>>445 通信手段もないのに事前通知なんて不可能
卑弥呼の都周辺はおそらく太古中国から直接海を渡って来たグループ。狗邪韓国半島倭人らは、漢書地理史に見られる楽浪から東南の倭人グループ、んで沖縄から流れてきた卑弥呼に組みしないグループ。と今は思う。
>>447 >道順に九州から本州に渡る記述なり
書いてあるよ
水行二十日がそれ
関門海峡は海峡内で曲がっているから沖合から見ても海峡には見えない
>>539 別に経由する必要なくね?そこで出雲に寄る合理的な理由がわからない
倭人伝に書かれてるから無理やり遠回りルートにしましたってだけじゃん
元々浪速は関門海流のこと言ってたんだろ。
つまり難波は行橋近辺
記紀古代史において近畿は全て捏造である。
過去を隠蔽するために敢えて作り上げた悪意ある史書と言えよう。
yahooは犯罪企業です。
様々な理由から考えて、通常の司法手続きでは正義を全うするのが
困難だと判断しましたので、私刑を執行します。
来週行われる株主総会で、プラスティック爆弾と毒性のある液体を持って出席し
爆弾を爆破させて、液体を会場内に拡散させます。
警察はもう私には手が出せません。
私は無敵です。
>>450 無視してないよ!
投馬国五万戸が出雲!
北部九州の二万戸の大国、奴国(那珂)から
中国地方の五万戸の大国、投馬国(出雲)を経て
畿内中枢の七万戸の大国、邪馬台国(ヤマト)に至ると書いてある
>>510 実際の政治?祭祀?は、別な所かも?
貿易が盛んな所か?
祭祀にふさわしい場所とか?
7万戸の穀倉地帯てどの位の耕作面積だろうか?
保管場所もあるし、貿易も盛んで宿泊設備、宗教施設も考えられる。
推定だろな。
>>547 畿内に7万戸も置けませんw
可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
耕作可能な土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。
>>467 「世有王」て代々世襲の王がいるって意味じゃねーんか?
>>455 なぜ?
短里ではなく魏晋里435メートルを使えば1300里で565.5キロになる
福岡から畿内まで直線距離で500キロちょうどくらいだから問題なく着けるよ?
>>458 >伊都国が卑弥呼の都だと考えてます
ではなぜ伊都国に着いたところで「女王之所都」と書かれないのでしょう?
女王国は水行で十日
陸行で一月掛かりますよと言う水陸両方から行ける場所。つまり九州京都郡
対して投馬国は水行20日行程のみで陸からは行けなかったと書いてある。
そこから出雲だろう。
東へ渡海1000里の別種倭人国とは近畿だが、出雲からの出向者がいたため倭人、侏儒の存在情報を確認していたということだ
>>369 いや往来あったとしてもそれは地元のやつの話だろ
それこそ途中で餓死してるやつもいるだろ
魏から招いた大切な客を獣が出るような歩く道すらないような山々を越えさせんのかよw
>>540 交易はしているんだから
大使がいる。
役人に通知すればいい。
>>517 考古学者の見解て誰?
考古学者もいろいろ。
>>463 薮こぎで大変なのは最初の先頭の人だけ
先頭の人が藪を払いながら道を付ければ後ろの人はそこを歩くだけだし、
先頭の人が疲れたら交代しながら進めばいい
それに出雲と大和の間の往還路なら、人跡未踏の地の薮こぎみたいなことにはならないよ
>>558 考古学者のサンプル
>>527は奈良女子大の宮路淳子教授
>>465 これ
南至投馬國、「水行二十日」。
南至邪馬壹國、女王之所都。「水行十日、陸行一月」。
日数で示してある部分
とにかく「纒向学研究」に載せるネタが欲しいのです。
そろそろ融資が止まってしまいますので!
ソース
読売新聞YOL
21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>>561 それが、誰がどこからどこまで行った日数なの?
>>467 それ倭王じゃなくて伊都国王
魏略だと
「至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。
南度海至一支國、置官至對同。地方三百里。
又度海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。
東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰洩渓觚、柄渠觚。
『其國王皆』屬王女也。」
となっていて、伊都国以外の王も『皆』女王に属すると書いてある
伊都国王が倭王というのは暴論
>>493 邪馬台国は「南至邪馬臺國女王(卑弥呼)之所都」と倭人伝に書いてる。
邪馬臺國は環濠を巡らし女王卑弥呼が「都する所」=卑弥呼が起居する処、卑弥呼が政務を執る処
>>497に書いたように所は動詞「都」を導く関係代名詞で
伊都国は郡から邪馬臺國に至る途中にある、又は邪馬臺國を取り巻く国(平安の律令制の下(もと)では)郡(こほり)に相当する。
>>563 福岡から出雲で水行20日
出雲から大和が水行10日と陸行1月
ぴったやね
>>560 どういうグループのサンプル?
1998年には会員数が3,300名を超える
いつのデータ?前提条件、定義や手法など知りたいな。
>>471 陳寿的には計算が合ってるんだよ
計其道里、當在會稽東冶之東と書いているくらいだからね
ただ同時に、陳寿は日本の地理を正確に把握している訳ではないこと
九州上陸後にはるか南の会稽東冶之東まで水行陸行合わせて2ヶ月進むほど、
日本列島が南北に長いと認識していたことが分かる
その南北に長い列島上の長距離移動は南向きでなければならない
陳寿の認識では邪馬台国へは南行きでないといけない
だから南って書いてあるんだよ
誤記や転記ミスではない
おまえらホントに邪馬台国好きだな
それとも同じ奴がレスし続けてるのか?
>>561 そこからわかるのは魏の使者は都である邪馬台国には行ってないてことだわな。
隋書にあるように倭人は里数を知らなくて日数で距離を計るから、それを倭人に聞いて記したということ。
つまり魏の使者が接遇を受けた伊都国からは簡単には行けない距離に邪馬台国があるということ。
魏志倭人伝は
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
・邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日。
・出発点から一万二千余里、出発点から伊都国まで一万五百余里だから、言い換えると伊都国から千里〜千五百里。
・卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
邪馬台国は、筑紫平野の御井で間違い無い。
まじめな話、纏向は邪馬台国時代に
畿内にあった「三輪王朝」だろ?
箸墓は崇神天皇でさあ。
>>566 水行三十日陸行一月じゃ裴世清や紀貫之の倍のスピード出さないと奈良まで到達しないぞ
>>496 >陸行距離は近ければ百里、ちょっと遠ければ五百里っていうアバウトな数字なんだよ
末盧国から島根沖まで行く距離が近くとちょっと遠いねえ・・・
(長里で500里は約200q〜250q、100里は約40q〜50q程度)
>>552 >短里ではなく魏晋里435メートルを使えば1300里で565.5キロになる
いやまてw
末盧国から残り2000里という設定だろ?
じゃあ長里を採用すると800q〜1000qとなって
上越、長野、静岡の先くらいになるぞ奈良なんかスルーよスルー
そうすると今度は里なんて無視って言い出すんだろうけど
方角は90度ねじ曲がってもおkだし里数は完全無視してもおk
日数は紀貫之や裴世清の倍のスピード出して過密スケジュールで瀬戸内を無視して日本海を遠回りして奈良まで
これが近畿説か
>>489 はて? 邪馬台国に環濠があるなんてどこに書いてあったかな?(スットボケ)
3世紀代には、日本のどこでも環濠は廃れてるんだが?
吉野ヶ里にある楼閣は、わざわざ邪馬台国風になるように「唐古鍵遺跡出土の絵画土器の絵」を
参考にでっち上げたものなんだが?ww
九州説はそんなのが誇りなのか?ww
魏志倭人伝は、
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
>>585 放射読みでも水行十日と行ってる団塊で九州にはないよw
魏志倭人伝では、伊都国が出た後すぐ、「郡からの使いは全てここに駐留する」と明白に書いてある。
駐留したと明言しているのだから、
それ以降を放射読みするのは
あったり前だ、カタワども。
十日だの二十日だの書いておいて、
三十日だけ一月と書くと言うことは、
駢儷文の観点から言って100%無い。
また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、
陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。
そのような長距離は必ず水行するのであり、
これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
>>589 陳寿のミスでは無く、写本した者のミス。
>>526 卑弥呼は公孫氏が滅亡する前に魏に使者を送ってるよ。
>>529 続けて読むから意味が分からない
里から日に変わったんだから日も帯方郡起点だよ。
>>533 伊都国に居るのが倭の女王卑弥呼だよ
国を治めてるのは王だからね。
邪馬台国とは卑弥呼を共立した倭の国々全体の名称
伊都国も共立国一つで邪馬台国の都。
>>551 「世有王」であって「世世有王」じゃないから代々の訳は正しくない
この場合の世は魏の世を指します。
>>553 だから「世有王」と書かれてる。
>>495 それは違う
邪馬台国も伊都国、奴国、投馬国と並列の倭国の中の一国で、ある意味倭国の中の地名(地域名)
卑弥呼の共立で作られたのが倭国
それまでは各国分立状態だったのが、一応一人の王を戴く形になった
祭祀王、祭祀連合であって武力統一ではないし、一大率は軍隊ではないけれどw
その祭祀王卑弥呼がいる場所の地域名が邪馬台国ということ
>>595 放射読みでも水行十日と言ってるから九州にはない
>>500 しばらく前から何度か書いているけれど、九州の国の話は地誌情報であって
魏使の旅程を記したものではない
末盧国には上陸どころか寄ってもいないよ
伊都国で通関したあと、そのまま船で奴国、投馬国へ向かうのが合理的だしそうしたのだろう
女王の都にするとこ、ここ迷うとこなんよ、政務は伊都国で行うとなってるから、単なる出身地とも言える。ただ官が増えてくからいただろうとも取れる。ただ全体が海の民の話だから近畿なんて全く関係ない。中国は一億居てもおかしくから荒れた時に相当流れて来ただろう。
>>564 魏略「其國王皆屬王女也」
魏志倭人伝「皆統屬女王國」
魏略では「其國(倭国)の王は皆、女王に属するなり」
魏志倭人伝では「(倭の国々は)皆女王国に統属する」
この説明は伊都国の説明だから女王国とは伊都国を都とする国
>>503 >「常に伊都国で治めている」とある
漢文の読めない人だな
常治の「治」は、治所の意味
帯方郡治は帶方太守の役所のある場所だよ
>>586 紀貫之と同じペースだと水行十日で約64km 志賀島から関門海峡直前くらい
裴世清と同じペースだと水行十日で約88km 志賀島から関門海峡抜けたくらい
>>503 >一大率は女王国以北にいるのに同時に伊都国にはいられない。
伊都国も投馬国も、陳寿の認識では女王国以北なんだから、
女王国以北の伊都国に一大率の治所があって何の問題があると言うんだい?
>>593 倭の国の内、投馬国と邪馬台国、狗奴国の3つは都市国家ではなく都市国家の連合体だよ
邪馬台国は伊都国、奴国を中心とした北部九州の国
投馬国は朝鮮半島南部、狗奴国は南九州
今使譯所通三十國も北部九州の6か国と傍国20か国
狗邪韓國、侏儒國、裸國、K齒國で30か国のことで計算があう。
>>504 ただ、日本国内では扶桑國は日本のことという観念があって、
それが比叡山の僧・皇円の私撰史書である「扶桑略記」という書名にも採られている
>>601 半島と九州を往復できた時代にそんなに短いかな?
>>600 太守は地方を治める長官だが一大率は監察官であり治を使うのは間違い
君は常識がないね。
>>588 伊都国は、外務省みたいなもんだろうな
貿易や入出国管理担当国だろうな。
卑弥呼は内閣府(祭祀・歳時記)
分業共和国制度。卑弥呼になって納まるから国同士の相互援助が活発で
温厚な人々多かったんだな。
>>602 陳寿がどんな認識してたと思ってるの
君の言ってる意味が分からんな。
女王国と女王の都にする国を一緒にしてはいけない。卑弥呼には弟がついて助けるとあるから、伊都国で政務を取ってたのが弟かもしれないし、常に一緒かもしれないし色々あるとこ
>>597 魏志倭人伝の記述は魏使の旅程を記したもだよ
地誌が書けるほど詳しく倭の地理は分かっていない。
最近近畿パーがただのベタなウソつき、ただのベタなキチガイになっててワロロン。
伊都国から水行十日陸行一日。
筑紫平野の御井です。
本当にありがとうございました。
侏儒国が高知の幡多、
裸国、黒歯国がハワイ
これはまず間違い無い。
問題は扶桑が何かだが、普通はこんなもの分かるわけが無いが
ハワイだと確定した以上は状況が根本的に変わっている。
オレはハラフルーツを推す。
自信あり。多分正しいよハラフルーツで。
最近、畿内説がおしている感じだな。
北部九州説論者はもうちょっとがんばれ。
>>536 >現存する魏志がいつの時代の写本かは知らないが記述が変容してるとしか思えない
いやいや陳寿は倭国の専門家でもなんでもなくて、いろんな資料を漁って
つぎはぎして倭人伝を撰述しただけ
光武帝への漢委奴國王の朝貢や、倭面土王帥升等の朝貢は、北部九州からのものだから、
北部九州の里程、地誌情報がまずあって、
それとは別に魏代の卑弥呼の朝貢に対する除正使の
日数で記録された旅程資料があったということ
最近、畿内説が破綻している感じだな。
北部九州説論者はもうちょっとだ、がんばれ。
>>412 ただの妄想だけど、まだ見つかってない下賜鏡が存在するのかなと思ってる
三角縁神獣鏡があれだけ大量生産されたのは、何らかの特別な理由があったはずだが、
その理由として最も可能性が高そうなのが、魏の皇帝から三角縁神獣鏡を下賜されたからかと
今までに発掘されている三角縁神獣鏡のどれかを下賜鏡とみなすという意見もあるが、正直なとこと線引きが難しい
景初三年鏡も鉛同位体分析では他の鏡と違いがなかった
全て中国製とみなすと数が多すぎるし、すべて国産とみなすと製作技術や動機が不明すぎるし
どのシナリオでも矛盾を抱えてしまう
結局、卑弥呼の鏡がどれかはまだ謎のままってところでしょうか
>>2 ヤマトと日本(ヒモト)は語源が同じ(ジャモト)という見解もあるけどな
伊都国から水行十日陸行一日。
筑紫平野の御井です。
本当にありがとうございました。
おいおい低身長の人骨出土で実績のある
伊良子を差し置いて侏儒は語れないだろ。
つまり愛知が侏儒で確実だろ。
そこから辿れば近畿は邪馬台と別種の国
そして九州が邪馬台で間違いない。
もうアホの近畿は滅びろよ
コークリ君がどういう意味があるのか知らないけれど誰かと勘違いしてるよ
侏儒国が高知の幡多、
裸国、黒歯国がハワイ
これはまず間違い無い。
問題は扶桑が何かだが、普通はこんなもの分かるわけが無いが
ハワイだと確定した以上は状況が根本的に変わっている。
オレはハラフルーツを推す。
自信あり。多分正しいよハラフルーツで。
>>627 邪馬台国は伊都国じゃ無いよアホ。
筑紫平野の御井だ。
そもそも纏向てまだ全然発掘してないだろ
今なん%ぐらい発掘したのか
>>551
そうだな「世」は元々「十」を三つ(廿の上に「十」を重ねた漢字で
1世代30年。「代々」王が居たことを表わす。
強調するときは「世世」と使う。
項羽本紀 項氏世世為楚將,封於項,故姓項氏。
項氏は代々楚の將(軍)だった。項に封ぜられた、故に項氏を姓とする。
ここで「姓」は動詞である。 >>544 それが魏使のお仕事だからだよ
西暦107年の倭面土國王帥升等の朝貢から百年以上経ってるから、金印詔書を携えた除正使の
建中校尉梯儁さんとしては、倭国の中で本当に卑弥呼が倭王にふさわしいか、
倭国内で王と認められているか、確認して情勢報告しないといけない
そのためには、九州最大国の奴国、中国地方最大国の投馬国を経由するのは必須事項なんだよ
投馬国が山陰にあるから日本海経路が必然
合理的理由を一言で言えば、投馬国に寄るのが魏使のお仕事だから、ってことになる
>>590 その通りですね
3世紀頃の日本では陸行一月できる道は無いですね
日本全土を統一した強い権力がないと広域道路は整備されませんね。
>>554 >女王国は水行で十日
>陸行で一月掛かりますよと言う水陸両方から行ける場所。
こんな水陸両方の行き方が書いてある例は大陸史書には一例もない
これも結論ありきのインチキ読みの典型
>>631 魏書の中で「世有」が使われている場合は魏の世を指してますけど
魏の世では○○だった。
>>632 100年も経って投馬国がでかいとかいつ知ったんだよっていう話だけども
裴世清は出雲を無視したw
九州説の根拠は方角と日数だけ。
古代外国人のほら話を脚色した虚言伝
を信じちゃっていいわけないよ。
>>620 三角縁神獣鏡は中国で出土しないし
形式も違うから全て国産鏡だね。
>>638 近畿説は方角も里数も日数もデタラメじゃん
>>430 ソースは邪馬台国の会wwwwwwwwww
それ何十年か前に中国人の学者がどれが魏晋鏡になるか、鏡の名称を定義したものに基づいて
その名称の鏡の数をグラフ化したものだけど、
魏晋鏡と定義された鏡は、後漢の時代から魏晋時代まで作られ続けていた
だから鏡の名称からでは、後漢鏡なのか魏晋鏡なのかは判別できない
鏡を個々に検証していかなければならない
したがって、このグラフに載ってるのは、魏晋鏡と名称は同じだけど
実際は後漢鏡かもしれないし、魏晋鏡かもしれない
ちなみに考古学者の元データを見る限り、ほとんどが後漢鏡として掲載されている
>>555 往来があったことまで認めるなら話は簡単
個人で行くときには行き倒れもあるだろうけど、国家権力が介入して食糧を調達すれば
難なく行き来できるだろ?
畿内は大古墳を作る大人数の労働力を支えるだけの食糧生産力があるんだから
魏と晋の金印と国内の書簡がありゃ、決定する。
印の出土だけじゃ、時の権力者が移動させたり、古い書簡の処分もある。
他に虐奪、盗品、難破等もあるから確定できない。
>>556 その役人への通信手段がないんだけど、どーするの?って話
>>638 陸行一月が陸行一日の誤記でその他の記述は全て正しいと考えてますけど
畿内説のように方角も距離も戸数も魏志倭人伝の記述は嘘ばっかりとかしてません。
>>557 方角は、陳寿が南向きだと認識していたから、で説明済み
根拠は計其道里、當在會稽東冶之東
根拠なしで「バーカ」とか言いだしたら、余裕がない証拠だな
>>642 魏では銅が不足していたから卑弥呼には後漢鏡を与えた可能性もある。
>>638 60日も移動続けてたら、南方海上にでてしまうよ
結局、小学校で習ったことが正しいんだよ
方角を誤りと仮定すれば畿内、日数を誤りと仮定すれば九州
行程以外の方法で解明しなければならないということ
>>563 倭王除正使の建中校尉梯儁さんの記録で、邪馬台国まで行ってる
のちに遣塞曹掾史張政さんも、邪馬台国まで行ってる
>>640 別にどっちの説もどーでもいいけど
バカ丸出しだねおまえ
>>648 自分の発言に根拠が無いって開き直ってるw
>>565 >邪馬臺國は環濠を巡らし女王卑弥呼が「都する所」=卑弥呼が起居する処
「環濠を巡らし」って、どこに書いてあるんだい?
>>577 ID:qKmUvz3K0(52/72)だってww
現時点で「72」ww
一人で軽く1割を超えてるww
きっと大切な人を邪馬台国スレに殺されるかなんかしたんじゃないかな?
>>645 意味不明、交易はしているんだよ。
先行する船があるだろ?
魏、晋⇔朝鮮⇔日本
それぞれ、外国人居住地もある。三航路往路しているんだよ。
>>579 それはない
建中校尉梯儁さんは、親魏倭王の金印と皇帝詔書を携えた倭王除正使
途中までしか行かず、そこから封泥で封じた皇帝詔書を倭人に託すなどあり得ない
子供の使いじゃないんだから
近畿説の根拠は無し。
古代外国人のほら話を脚色した虚言伝
を信じちゃっていいわけないよ。
>>489 吉野ヶ里みたいな環濠集落は小豪族の居所
庶民が王様のすぐそばで生活してるのに、侍女1000人はどうやっても入らない
7万戸の大国にいる倭王の宮殿ではありえない
今日もボコボコにされる糸クズ
糸くずって中卒だから文法がダメダメで
毎回学卒者に漢文の文法教えてもらって
忘れる → 教えてもらうの無限リピート
しかし、ここまで邪馬台国の所在が畿内だったとハッキリして行くと
じゃあ、九州北部のあれは何なのかね?疑問に感じてくるよね
故に、自分は九州北部にも邪馬台国はあった説を提唱するね。
そう。それは邪馬台国が九州諸豪族の争いを鎮めるために設けた駐屯地
鎌倉幕府における六波羅探題のような機能を果たしていた場所ではなかったのか?
>>659 正解
使者は卑弥呼に謁見しているよ。
陳寿は、使者や航海士等から情報得て編纂。
>>583 要するに距離はあてにならないってことだよ
萬二千里は淮南子の世界に果てまでの距離準拠の「設定」で現実の地理とは無関係な値なんだから
淮南子 時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
>>664 嘘ばっかり言うから俺が正しい漢文教えてやってるんだよw
嘘を言い張ってるだけじゃねえかwww
さて、邪馬台比定地は北九州と確定し
近畿との不毛な論争に終止符が打たれたわけだが
では何故虚偽による記紀と言う怪文書が平然と現代に至るまで史書として存在し、九州王朝を過去から消し去ったのか、そろそろこの核心に迫るこの国の闇に議論を進めるべき時期に来ている。
しかし、ここまで邪馬台国の所在が畿内じゃ無かったとハッキリして行くと
じゃあ、九州北部のあれは何なのかね?と疑問が無くなっていくよね
故に、自分は九州北部に邪馬台国はあった説を提唱するね。
そう。それは邪馬台国が九州諸豪族の争いを鎮めるために設けた首都
鎌倉幕府における鎌倉幕府のような機能を果たしていた場所ではなかったのか?
>>667 つまり魏志倭人伝は嘘っぱちなんだろ?
じゃあもう近畿説は邪馬台国なんてなかったでいいんじゃね?
>>604 >日本国内では扶桑國は日本のことという観念
違う。
支那でも「日の本」を表わす意味で「扶桑」を使ってる。
[mystic island,usually indicating Japan]∶伝説中的東方海域的古国名,我国=(支那)相沿以為日本的代称
扶桑の由来は
>>497 >>671 畿内説ってもう完全に否定されちゃいましたもんね。
同感です。
>>665 魏志倭人伝に伊都国や奴国、末盧国だとはっきり書いてあるよ
九州説の人は伊都国や奴国、末盧国の遺跡や出土品を九州邪馬台国に投影してしまうことが多い
伊都国や奴国、末盧国のエリアで何が出ようと、九州に邪馬台国があった根拠にはならないよ
>>672 必殺「邪馬台国なんてどうでもいい」
炸裂しましたね。
頂きました。
>>670 畿内説の人達は記紀を信仰してる狂信者だね。
伊都国から水行十日陸行一日。
筑紫平野の御井です。
本当にありがとうございました。
>>670 中卒は大学行けなかったから確定の意味がわからないんだよな
確定済み連呼の中卒も爆笑
侏儒国が高知の幡多、
裸国、黒歯国がハワイ
これはまず間違い無い。
問題は扶桑が何かだが、普通はこんなもの分かるわけが無いが
ハワイだと確定した以上は状況が根本的に変わっている。
オレはハラフルーツを推す。
自信あり。多分正しいよハラフルーツで。
近畿がこうも真実を隠そうとする理由は一つだろう。
それは倭人では無いから
これに尽きる
陳寿が伊勢のとこを大和と間違えただけじゃないか?
そうすると伊勢の海人が勝手に中国と交易してたんだろう
>>636 「世有」という字句の前の何処に「魏」と書いてあるんだ。
オマエの妄想を開陳してくれ
>>667 残念賞
同じ淮南子の天文訓に影がなくなる太陽の真下まで南に二万里と明記されている
淮南子 天文訓
南二万里则无景,是直日下也。
>>588 >「郡からの使いは全てここに駐留する」と明白に書いてある。
「駐留する」というのが明白な誤解釈
駐 《康熙字典》
【唐韻】中句切【集韻】【韻會】株遇切,音注。
【說文】馬立也。【玉篇】馬止也。
【釋名】駐,株也,如株木不動。
【正字通】天子行在之所曰駐蹕。
又【集韻】㕑遇切,音柱。義同。
もともと、馬が立つ、馬を止める、馬をつなぐ木(株)のこと
馬を止めて立ち寄るというのが本義
長々と駐留するなどという意味はない
現代的な言い方をすれば「入国管理局に必ず立ち寄らなければならない」というのが
臨津搜露の任を持つ一大率の常治する伊都国に、郡使往來常所駐の意味
>>665 邪馬台国は卑弥呼を共立して結成された北部九州の国々の連合体だったんだ
伊都国もそのメンバーの一つで、卑弥呼が住んで居た場所
>>684 三国志の魏書では「世有」とあれば「魏」と書いてなくても
魏の世を指します。
>>598 >政務は伊都国で行うとなってるから
そんなことは書いてない
政務は佐治国男弟や邪馬台国の四官「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」が
当然邪馬台国で行う
>>665 まず畿内は海人である倭人の居住地であった事を証明すべきだと思うの
>>678 伊都国から水行十日?
これ無理ですよ。
>>599 >この説明は伊都国の説明だから女王国とは伊都国を都とする国
これが間違い
特に魏略では、「其國王皆」屬王女也と、國王が複数存在するので伊都国だけの話ではない
>>680 何の痕跡もない近畿を未だに邪馬台比定地として妄言を吐き続けることは既に常軌を逸した狂人の戯論レベルだし金儲けを企む詐欺行為ではないのかね
>>620 お前さんは妄想を語る前にすることがあるんではないかい?
>>640 近畿説
強大な力があったから近畿に違いない
魏志倭人伝との関連は?知らん
>>697 そうだよ。
邪馬台国では無いと言うだけ。
九州説は一部のアレなのは別としてみんなそう言う意見。
>>603 >投馬国は朝鮮半島南部、
これを見るとがっかりする
まだこんなことを言う人が存在するのか、と
>>640 九州説も同じ
短里で無理やりこじつけるだけ
具体的な邪馬台国の位置を示せないし
「大作冢徑百餘歩」も何処に有るか判らない。
杜牧の「山行」という七言絶句の冒頭に
遠上寒山石徑斜
遠く寒山に上れば 石径斜めなり
とあり
「石径」は 石が転がってる小道だ。
円墳に限ったものではない。
九州倭国と近畿日本の二つの国があって
後者が強大化して前者を併呑し、
名前(ヤマト)も騙った。
それだけのこと。
旧唐書にある通り。
>>686 >如株木不動
の字が見えないのかね?
不動なるものの比喩としても使う字だろが
で、
>>685は見えないふりかね?
>>603 >投馬国は朝鮮半島南部、
これで行くと、対馬海峡の3渡海を水行10日に当てることになるが、
陳寿は渡海と水行をはっきり区別しているから、まずここで破綻している
次に渡海三回に10日かけると、海上で夜明かしすることになるが、それは遭難して海の藻屑になるだけ
いずれにしても投馬国を半島南部に置くのは矛盾だらけで成立しない
>>489 吉野ヶ里の楼閣は柱跡だけ見て
唐古・鍵を猿真似して捏造。
楼閣があったという唐古・鍵の絵画土器ほど確実な証拠は無い。
近畿に強大な勢力はあっただろうけど
それが即ち邪馬台国って訳でもない気はする
なんせ後漢は、たかだか博多一帯しか支配してなかった奴国にも金印をやってるしな
九州一帯を支配下に置いてたとはいえ、日本全体から見たら最大ではなかった可能性も
ちょうど南北朝時代に、九州を抑えていた懐良親王が明から「日本国王」に封じられたように
>>694 魏略「倭の国々の王は皆、女王に統属する」
魏略の当時は倭に王を自称する者が多くいたが
女王に統属していた
魏志倭人伝「倭の国々は皆女王国に統属する」
魏志倭人伝では王ではなく国が国に統属する
王は卑弥呼一人。
>>695 ちゃんと自己分析できてるじゃないか
エネルギーがあっても超えられない馬鹿の壁
学歴でアホを出世できないようにする合理性
このスレ読めばよくわかるよな
九州倭国と近畿日本の二つの国があって
後者が強大化して前者を併呑し、
名前(ヤマト)も騙った。
それだけのこと。
旧唐書にある通り。
>>696 おまえは、どんな証拠を提示されても(自分が理解できないことでさえ)、
汚い言葉で罵って、そんなものは根拠にならないと自動返信する九州説botだろ?
そんなやつどうでもいい
>>606 於國中、有如刺史てあるし、臨津搜露。傳送文書、賜遺之物も行う行政官でもある
治所として何も問題ないだろ?
治めると読むのが間違いってのはいいな?
監察官だと主張するならなおさらだ
九州倭国と
近畿日本の二つの国があって
後者が強大化して前者を併呑し、
名前(ヤマト)も騙った。
それだけのこと。
旧唐書にある通り。
魏志のいう「女王国」の指している範囲だな。
「邪馬台国」と使い分けているように見えるし、してないようにも見える。
>>711 いや何一つ証拠なんて提示してないだろお前は
出せないならそう言えよ
>>705 渡海は水行に含まれる
水行10日には渡海と島の半周が含まれている
狗邪韓国と各島の北と南、末盧国で一泊するので6泊
4日は休息日、予備日
>>627 コークリ君というのは、自称じゃなくて、
ニュー速の日本史板に大量投稿して、ヤマト王権は渡来人が作ったという珍説を
人に話も聞かずに大量投稿する人の別称だよ
あなたでしょ?
>>630 6%くらいだってさ
まだまだだね
尾崎花地区の発掘が進むのを期待している
>>712 「皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物」の皆は一大率ではない
この皆は卑弥呼の直臣のことですよ
一大率は女王国以北に居て諸国を検察してますから。
>>707 九州説が生き残る道はそこしかないだろう
九州王朝説とか、東遷説とかは、現在の考古学や自然科学も含めて学問を全否定してるから論外だし
>>633 橋がないから陸行できないっていうのが、意味不明なんだよ
川沿いが歩きやすいから川に沿って進むことになる
集落も川沿いにあるし
> ヤマト王権は渡来人が作った
あながち間違いではないと思うけどな。方形周溝墓の集団移動や
石切劔箭神社伝承(神武東征直前の大和盆地の様子)などなかなか興味深い。
甕棺つくりながら1000年くらいのんびりやってた列島の弥生人とはちょっと毛色の違う人らが
新しく畿内に入植して、またたく間に支配者に躍り出た感じだ。
>>715 https://zh.wikisource.org/wiki/讀史方輿紀要/卷七十八
>沈約《志》:「汶陽郡,陸行去荊州四百里,水行去荊州七百里。
荊州に海はありませんが?
>>637 裴世清の頃には出雲は一地方になってるからね
当然だろ?
>>725 そんな命懸けで行くような秘境に女王国なんて作るわけねえだろ馬鹿
短里でも長里でも奈良にたどり着けない近畿説
方角を90度べつの方向に捻じ曲げないとたどり着けない近畿説
日数を裴世清の倍のスピード出さないとたどり着けない近畿説
ここまで魏志倭人伝の記述を無視するくせに
なぜか奈良が邪馬台国だと言い張る謎のこだわりw
>>637 伊都国、奴国まで来れば、出雲の人も来てるし、出雲が大国だって分かるだろ?
そこで魏使様が出雲を見たいと言えば、それに逆らえる人はいないよ
>>723 人に明後日の方向から散々噛みついておきながら
自分はダンマリですか・・・
>>537 もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・
コイツの何処に論理性があるん?
妄信してる奴の気がしれんわ
>>728 邪馬台国の頃も近畿から九州までごっそりヤマトの支配下っていう理屈どこ行ったw
>>725 川が渡れないと遠回り
それだったら、始めから船で行く。
>>706 全くだね。
唐子・鍵遺跡のような楼閣があったであろう遺跡は、
一番は、唐子・鍵遺跡そのもの、
そして二番は、唐子・鍵遺跡から僅か4km南東で、少し時代が下る纏向遺跡だ。
>>731 見てきたように嘘を吐くレベルになってきたなw
>>639 斜縁神獣鏡を無視するなって
三角縁神獣鏡が大陸では出ないっていうのは用語のマジックなんだよ
>>727 伊都国から筑紫平野の御井までは海を回らないと行けませんよ。
>>723 別に生き残るとかそういう話ではないが
畿内にしても、纒向遺跡と同時期における九州との繋がりの薄さの問題はあるだろう
後、記載されている倭人の風俗は九州に近い(絹を産するとあるが、絹製品の出土量は九州が圧倒的
親子兄弟で居が異なる、という記述に合う花弁型縦穴式住居はほぼ九州のみ、など)
九州説で弱いのは規模だろうな
女王国を巨大勢力って誰が残してるの?魏に朝貢してる1グループの話だろ?デカイ必要もないだろ。最後に地を聞くに州島周りぐるり海だから九州だよ。近畿は少し頭が変。
>>641 出雲は四隅突出墓の文化圏、丹波以西の中国地方日本海側の祭祀連合だよ
だからひと目で戸数の見積もりができなくて「可」五萬餘戸という書き方になっている
>>744 そうやって嘘をつくことしか出来ないのですね
畿内説はいつもそうですが
>>745 俺は伊都国が卑弥呼の都だと言ってるよw
実際にその様なルートは存在しませんよ。
>>739 >畿内にしても、纒向遺跡と同時期における九州との繋がりの薄さの問題はあるだろう
まさいつも貼られてるコピペを信じてたとは・・・
逆方向の流れはものすごく太いんだけど
>>647 古墳時代は違うってことにしてごまかしたいのは痛いほど分かるけれども、
残念ながら当時日本最大の墳丘墓、100メートル級の纒向石塚古墳は
3世紀初めの造営で卑弥呼の遣使よりも数十年も先行する
これだけの大墳丘墓を作る労働力を支えられるだけの食糧調達力があるんだから、
魏使さまたちの往来を支えるのは余裕でできるな!
>>746 そうですか
不弥国と目される宇美町からすぐ南に宝満川の源流があります
ここから川を下れば筑後川に合流し有明海までつながりますよ
コークリ君とは、どう言ってんのかしらないげど、考え方は似てそうだね。でもてんで勘違いだと思うよ。
数重の大環濠に守られた要塞のような唐子・鍵遺跡も、
倭国乱が終わった後は、環濠が不要になってだんだん廃れたのだが、
纏向が栄えた時代に人口ゼロかと言えば、そこまで極端ではないだろうし、
環濠自体は残存していただろう。
丹後半島から陸行で南下して来た魏使様たちは、
廃れた唐子・鍵集落を目にしたことだろう。
たった4km北西で、纏向とは街道で繋がっていただろうから。
>>747 実際、纒向の出土品に九州関連の産物の割合はかなり低いだろう
それとも、実は結構高い、というソースをお持ちなのか
今日も畿内さんが大張り切りでんな
ほんま不思議やわ いの一番の行き先案内で
つまずくのにごろが似てるから、大都会だからで
畿内に持っていきたがる
外人が京都に着いて、東京タワーはどこですか?と聞くようなもんだw
>>747 >逆方向の流れはものすごく太いんだけど
それも嘘だよw
お互いに交流は殆ど無かった。
>>653 根拠なしなのは、大量投稿で「バーカ」って書いてる人だよ
>>653は日本語の読み取りが苦手な人ですか?
ID:L/vNYcd70さん済まん
ID被ってしもた 以後ROMっとく
ちなみに唐子・鍵遺跡の環濠は凄いよ。
まるで戦車師団でも迎え撃つかのような数重の大環濠。
吉野ヶ里遺跡の環濠など目じゃない。
>>656 交易と外交は別だろ?
商人にこのあと倭王の使いが来ますって伝えさせたとして、
そのあといつ来るか分からない倭王の使いが来ると信じて郡太守がずっと待ってるのか?
倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。
の書き方を見る限り、難升米がいきなり郡に来たように書いてあるぞ
>>752 北部九州は3世紀中頃には畿内の傘下に入ろうとしていた
>>379 むう…。
ちょっと西遊記を読んでくる。
>>749 陸行1日で宇美町までは不可能でしょう
仮に宇美町から宝満川を遡れたとしても
筑後川との分水嶺があり、また1日以上は陸上移動ですよ
宝満川自体の水量も少なく川を遡るのは不可能なんですけどね。
>>757 勿論その通り
>>715が川の水行はないと根拠なく断言しているのでその反証
>>660 理由も根拠なしで、違うと「思います」って書いてなんか意味があるのか?
小学生でも意見には理由を付けて言うって習ってるぞ
邪馬壹の瀬 =志摩伊勢
山内-山途-河内
大和へは仁徳天皇が河内の関を開発する前は船が出入りしにくく
、伊勢から大和入りする
投馬国は但州、琵琶湖経由で二ノ瀬京都ルートが第二の大和へのルート
これは徐福の二回のうちの1つのルートでもある
>>762 川というのは底に土砂が溜まりだんだん細く浅くなっていくものです
1800年前は今よりずっと大きな川だったはずですよ
>>760 古墳の年代決定が出鱈目だからその図は意味を持たない。
さて、そろそろ本命の沖縄説の出番かな。
北海道も手を挙げてるぞ
>>766 水量が少ないんだよ
舟が航行出来るような量がない
それで途中に堰を設けて水を溜めてある。
唐子・鍵遺跡を見れば、纏向以前から既に、
奈良盆地には大人口がいて、多くの富が集積されていたことが良く分かる。
吉野ヶ里遺跡を引き合いに出して、
(過疎の奈良盆地には楼閣も環濠もないだろう)
とドヤ顔をする滑稽さよ。
その楼閣は元々、唐子・鍵遺跡のものだっての。
>>767 畿内説にイチャモンつけるときの典型的なレスだな
↓これと同じ輩
>九州王朝説とか、東遷説とかは、現在の考古学や自然科学も含めて学問を全否定してるから論外だし
>>770 それは現代のお話
土砂で埋まる前の1800年前はもっと大きな川なのでね
>>771 吉野ケ里遺跡を見て真似して唐子・鍵遺跡の偽復元を作ったくせにw
>>760 普通の知力と判断力のある人間がこれを見たら、
「一目見て歴然」だよね。
>>723 お前科学を全否定してるよな近畿パーww
>>739 7万戸なんて当時の日本じゃ有り得ない数字だし
記載の習俗鑑みても大規模な都市機能があったとはとても思えない
規模が小さいのは寧ろ妥当なのでは?
弥生絹は今の所福岡佐賀長崎辺りだっけ?
越からの倭人の移住がどの程度進んでたのか知らないが、他の史跡の状況も鑑みるに長い間九州北部で止められていた可能性が高い
倭人伝の範囲ってかなり限定されてると思うんだけどねえ
>>760 九州の庄内式は纒向三式の形式辺りから急に広まるが
これは纒向編年だと三世紀半ば辺りだろ
それまでは西新式が九州の土器。そしてそれが徐々に駆逐されていく
つまり、卑弥呼の死後あたりから畿内勢力の九州への浸透が始まったように見える
大体、卑弥呼が即位したのは2世紀末。その時点で倭に平和がもたらされたのだから
その時点で九州まで抑えてたなら、庄内式の最初期型が大量にあったり、三世紀頭の纒向式前方後円墳があってもおかしくないはず
しかし九州にあるのは三世紀末の初期前方後円墳からで、しかも九州各地に一斉に出来る
ちょうどこの時期(三世紀末から四世紀)に、畿内勢力に呑まれた、と考える方がまだ合理的
>>773 土砂は関係なく水が無いの
舟が通るには水がいるの。
>>724 つか、九州王朝関係無しに近畿説が自爆してるだけだけどね。
実態は、九州説が畿内説を打ち負かしたんじゃ無くて、
九州説の不戦勝。
w
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
仮にね近畿でいいよ、でもそれならそれに見合う遺跡の残した姿を倭人伝で描いてる筈なの。奈良なら山菜食ってるとか栗がどうとか、あんでしょ、近畿じゃ倭人伝として失敗作でしょ
>>685 太陽の影がなくなるのは夏至の北回帰線だから、そんなもんだろ
なんにしても、淮南子も周髀算経も、一歩=六尺、一里=300歩=1800尺の
普通の度量衡で書いてあるし、一尺の長さも通常
つまり短里などはないんだよ
>>774 唐子・鍵遺跡の楼閣をパクったのは吉野ヶ里だ。
どこまで図々しく、厚顔無恥で、息を吐くように嘘を並べて立てるんだ。
畿内説はそもそも成り立って無かった、
そもそも学説として存在して無かった。
これが現実。
九州説が畿内説を打ち負かしたんじゃ無くて、
九州説の不戦勝。
畿内説は実は、リングに立って無かった。
こういうこと。
>>784 しかし長里だとどうやっても奈良にはたどり着けない罠
>>784 話を逸らすなよ
南の果てが一万二千里という世界観ならどうして南二万里なんて数字が存在するのか言ってみろ
水行については俺も持論がある(賛同者は皆無だが)。
水行と対になる陸行の「陸」の字義は堅固な大地。
湖沼やラグーンが連続する湿地帯は、中原の民にとっては「陸」ではないのだ。
つまり、魏使の御一行様は、筑後川下流域の湿地帯を「水行」したのだと。
>>778 これは纒向編年は使ってないよ
北部九州の年代は北部九州の土器編年
3世紀前半から本格的に進出が始まり、3世紀中頃は博多湾沿岸は畿内文化どっぷり状態
邪馬台国が魏と外交をやってたと書かれている239年〜247年は含む
>>792 唐子・鍵遺跡の出土品に描かれていた楼閣デザインを、
吉野ヶ里がパクって復元したんだよ。
それで、
(畿内には吉野ヶ里のような楼閣はないだろう)
とドヤ顔をする滑稽さ。
伊都国から水行十日陸行一日で邪馬台国。
御井です。
>>796 それはおかしい
畿内から入って来た(事になってる)庄内式なんだから
纒向編年と同じか、若干遅れるのが普通だろ
九州独自に纒向より先んじた形式になった、て事なのか
>>795 俺もそう思う
久留米あたりから熊本方面に水行してる気がする
畿内説はそもそも成り立って無かった、
そもそも学説として存在して無かった。
これが現実。
九州説が畿内説を打ち負かしたんじゃ無くて、
九州説の不戦勝。
畿内説は、実はそもそもリングに立って無かった。
こういうこと。
>>698 魏志倭人伝に卑弥呼という広い範囲に共立された王がいたと書いてあって
その時代の広い範囲から人が集まる王都と見なせる遺跡があって、
そこに列島最大の墳丘墓があり倭国の最大勢力なのが確定
そしてその大遺跡で出る土器と共通のものが北部九州の最大国、
奴国の中心で模倣製作されているから奴国もその大遺跡の勢力と協調関係にあり無縁ではない
さらに北部九州全体が同じ土器様式を受け入れ、祭政一致に時代にそれまでの北部九州の墓制と
根本的に異なる前方後円墳が九州全域の首長墓・盟主墳としても採用される
これだけの確定事項を前に、未だに九州説を支持できるっていうのは、
たぶん宗教的な信念があるのだと思う
大切な人を邪馬台国スレに殺された恨みがあるのかも知れないけれど
神武が畿内まで来てるのは事実で
それがこの時代か紀元前なのかはどうでも良い話だが
九州から畿内の統一国家が有ったのも事実
倭国大乱で離れた出雲だとしても共立して建てた女王を畿内に置いて
朝鮮出兵のための軍事都市に難升米を置いても不思議ではない
>>795 俺は全然そう思わない
伊都国あたりから久留米に水行してる気がする
>>809 畿内は邪馬台国では無い。
否定証明完了済み。
>>778 久住編年は有名だからとりあえず置いておいて、
柳田氏も畿内との併行関係をこう考えている
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-6.pdf この論文の40ページ
庄内式は年表のメモリで220と265を3等分して2/3くらいだから250まであたりか?
>>811 倭人が水行してたからその伝聞を書いた。
伊都国から、
水行十日陸行一日で邪馬台国、、、、、
御井です。
唐子・鍵遺跡の多重環濠は、対戦車砲でも配置して、
ティーガー戦車でも迎え撃つのかと思わせるような凄まじいもの。
倭国乱がどれほどの戦乱だったかが良く分かるし、
当時の奈良盆地に富や人口が如何に集積されていたかが分かる。
環濠と楼閣の本場は、吉野ヶ里なんぞではなく、奈良盆地なんだよ。
>>803 纒向編年がコンサバすぎるんだよ
土器編年は北部九州の方が精度が高い
その北部九州の年代観で3世紀前半には、すでに畿内系土器は北部九州で出土してたってこと
まだやってたのかよw九州で決まったんじゃなかったのかよwもう10年単位で回していけよw
>>808 まさにこれが、現在の学問的常識ですな。
>>817 ということは畿内系と言われている土器は実は九州発祥だったって事だね
それが畿内に伝わって大流行と
やっぱり畿内は九州に服属してたわけだ、これで謎は解けた
>>820 ゴッドハンドが教科書に載ってた学問レベルなので
魏からの使いは二度来ている。
一回目は伊都国に留まって、倭人の伝聞を聞いた。
「ここから水行十日陸行一日で邪馬台国です。」、、、、
御井です。
二回目は、太宰府を通って直接行った。
伊都国までで一万五百余里。全体で一万二千余里。
つまり、伊都国から太宰府通って千里〜千五百里くらい。、、、、
御井です。
>>806 だよねだよね。
「久留米あたりから」はちょっと微妙かも知れんが、ともかく
筑後川下流域は古代から遺跡はあるけど、ヤマト王権からは「陸」だとは
見なされていなかったのは確からしい。だから佐賀が肥前で熊本が肥後なのだ。
肥前から肥後に行くのに筑後を通らなきゃいけない、という現代の地図は
どう考えても変だよね。
>>810 針摺の瀬戸(
https://lunabura.exblog.jp/16018354/)か。
それはそれで面白いけど、地理学的にはどうなんじゃろ。
>>821 庄内式が九州発祥って、邪馬台国の会www
トンデモに興味ないので、信者さん同士で好きにやってください
>>825 ほとんどカルト宗教並みだよね、妄想もここまで来ると。
>>813 庄内式の開始が200年くらいで、終わりが250から260年弱?となってるのか
土器の編年自体は出来るが、絶対年代の比定が難しいのは周知の通りだけど、上げすぎな気はする
土器そのものの焼成年代を調べない限り、最終的にはなんとも言えないと考えるけど
後は、230年辺りに畿内が九州を呑み込んだとして、238年にすぐ使者を送れるか、のあたりになるか
魏からの使いは二度来ている。
一回目は伊都国に留まって、倭人の伝聞を聞いた。
「ここから水行十日陸行一日で邪馬台国です。」、、、、
御井です。
二回目は、太宰府を通って直接行った。
伊都国までで一万五百余里。全体で一万二千余里。
つまり、伊都国から太宰府通って千里〜千五百里くらい。、、、、
御井です。
御井には祇園山古墳があって、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述とバチバチ合います。、、、、
御井です。
ただの通り道にすぎない以下の国々は
↓
対馬国:大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、
道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。
船で南北岸の市へいく。
一大国:官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。
3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、
南北から市へいく。
末廬国:4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、
前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
伊都国:長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚。1000余戸が有る。
世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
ところが謎の執着を見せてわざわざ遠回りまでしたという設定の出雲(投馬国)は
↓
投馬国:長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。
↑
たったこれだけ
これが近畿説のいう日本海ルートの主張の要w
ていうかほんとに投馬国行ったの?何も見てないレベルだぞこれ
>>825 三世紀前半に畿内系土器が九州にあるというのはさすがに無茶苦茶すぎるな
古いタイプの畿内式土器が単独で出てくることが少ないので考察できるサンプルがほとんどない
それならまだ朝鮮半島の土器のほうが当時の北部九州に広まってるので
そちらを考察したほうがいい
持衰を取り上げてるのはここに住んでる人達の出地まで表現してんでしょ、奈良じゃどっからどうして此処にいるのか解らんだろ?遺跡があるとか舟で十分いけるとか、鏡がどうとか、当時じゃ関係ない事柄だよ。近畿は破綻してるよ、話が。
魏からの使いは二度来ている。
一回目は伊都国に留まって、倭人の伝聞を聞いた。
「ここから水行十日陸行一日で邪馬台国です。」、、、、
御井です。
二回目は、太宰府を通って直接行った。
伊都国までで一万五百余里。全体で一万二千余里。
つまり、伊都国から太宰府通って千里〜千五百里くらい。、、、、
御井です。
御井には祇園山古墳があって、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述とバチバチ合います。、、、、
御井です。
一月の行程は
それより時代が後の支那の史書に○月表記が使われているんだから
そっちで潰すべき事案や
>>830 高良大社のあるとこだろ
高句麗系とか熊曽の匂いがするんだよな
>>829 >後は、230年辺りに畿内が九州を呑み込んだとして、238年にすぐ使者を送れるか、のあたりになるか
そこまでは進んでないだろう
230年あたりだと本格的進出がちょうど始まったころ
それでも、畿内ヤマトを差し置いて、他の九州勢力が朝貢できるはずないだろ?
伊都国や奴国がグルになって、畿内ヤマトも魏も騙したなんてありえない話だってこと
>>829 3世紀前半に畿内系土器が出土した北部九州の遺跡
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
より抜粋
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf 多々良込田遺跡
IA期 伝統的V様式甕が3点
IB期からIIC期にかけて 庄内系甕少数
博多遺跡
IB期 庄内系甕が出現する。
比恵・那珂遺跡群
IA期 伝統的V様式甕が2点
IB期
比恵36次調査SDO1溝下層,比恵7次調査SE16井戸,那珂12次調査第1号井戸,那珂20次SE37井戸,那珂21次SC71住居で出土している。
比恵7次SE16井戸では,庄内甕と吉備の下田所式の甕が共伴している。那珂12次調査第1号井戸では,報告された甕7点の内,
2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣した上,胴部外面にハケメ調整を施したものである。
那珂20次SE37井戸では,報告の4点の甕の内1点が庄内大和型甕であった。
西新町・藤崎遺跡群
2次調査H区SCO2住居で伝統的V様式甕の底部が1点出土している。
三雲遺跡
IB期 庄内大和型甕
松木遺跡・仲遺跡
IA期 伝統的V様式甕の口縁部破片1点,底部破片3点
IB期 伝続的V様式系甕が12点
筑後
小郡市内出土資料でIB期と考えられるのは,津古西台ピット66出土の庄内甕である
津留遺跡
1区溝2からは畿内系は7〜8点,II区溝4からは畿内系が6〜8点,溝4覆土中からは畿内系が1点,
溝5からは畿内系が少なくとも3点,H区の10区溝2からは畿内系が1点
時期は久住IB期の可能性が高い
>>38 凄く良いと思う。
ただ、丹後の手前から氷上回廊通って播磨に抜けてると思う
播磨も邪馬台国の勢力範囲だしちょうどいい
近畿は一体何人がいつ、どういう理由でその地に根をおろし、どうやって巨大な遺跡をこの時代に造り上げていったのか?説明してくれ?まず何人だよ?
土器程度の食器か物流コンテナの拡散が支配王朝の証になるわけねえだろ。
それ以前から翡翠の流通があんのに、単に近畿交易路が開拓されただけ。
それより鉄武器持った支配層が九州から日本海ルートで近畿、関東へ遷移して行ってる現実を直視しろ。
これが九州王朝東征の物証。
高良大社が、肥前肥後をつなぐ
筑紫との最前線で、筑後川の北が筑紫。
南が肥。
ここを突破して、高良山を獲ったのが
筑紫の景行天皇。
それでも一筋縄では行かなかったようで
筑後川を下って強襲、大善寺玉垂宮に
上陸拠点を構築している。
のちに上津の高良台に上津天満宮を確保。
そこを拠点にして高良山を獲った。
当時は禿山だったらしく、
上津から高良山に松の苗木を運ぶ神事が
今でも行われている。
ポイントとしては、高良山が禿山だったということは
多くの人間が木材を利用していた事を意味し
当時から人口が多かったことを示唆するものである。
>>840 その辺りは進出の前期だろ
比恵・那珂遺跡は、那珂八幡古墳が示すように
畿内勢力の進出先だろう。旧来の奴国は岡本遺跡とその周辺、井尻や雑餉隈あたりだろな
後、三雲のを入れてるが、糸島の庄内式はそれ一つだったかと
糸島にはほぼ庄内式が無い
>>778 >しかし九州にあるのは三世紀末の初期前方後円墳からで、しかも九州各地に一斉に出来る
そもそも、これを認めるなら、現在の土器編年を認めてることになるんだけど
久住氏は那珂八幡古墳をかなり早い段階に位置付けてるからそこだけは例外だが
>>842 最初はいつも1人。
1人で頑張っていれば、必ずみんなが助けてくれるのじゃ。
近畿説は合理的だと思う
九州説は。。。卑弥呼が九州の人であって欲しい的な願望
>>846 久住氏の数年前の論文で紹介されてるけど
福岡のIA期とされる石棺から三国期と推定される鏡が出てきてる
あまりそれに頼るのは危険
>>846 その那珂八幡が早すぎだろ、と思う
四世紀だったのが、今じゃ三世紀半ばだ
他のとの比定とあわせて、三世紀末あたりが適切では、とは思うが
ただ絶対年代は判らんのも確かだけど
九州説は合理的だと思う
畿内説は。。。卑弥呼が畿内の人であって欲しい的な願望
>>845 3世紀の奴国の中心は比恵・那珂遺跡だよ
岡本遺跡は寂れてきてる
博多の専門家である久住氏もそう書いてる
三雲に庄内は今のところ1つしかないが、伊都国の王様が魏使に畿内ヤマトの存在を隠す嘘をつくなんて考えられないだろ?
伊都国も最終的には畿内の傘下に入るんだし
魏からの使いは二度来ている。
一回目は伊都国に留まって、倭人の伝聞を聞いた。
「ここから水行十日陸行一日で邪馬台国です。」、、、、
御井です。
二回目は、太宰府を通って直接行った。
伊都国までで一万五百余里。全体で一万二千余里。
つまり、伊都国から太宰府通って千里〜千五百里くらい。、、、、
御井です。
御井には祇園山古墳があって、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述とバチバチ合います。、、、、
御井です。
今日は最後にするは、競馬の予想で忙しい。魏志倭人伝が近畿なんてありえません、魏の王にこんな海人族の話ばかりのものを見せません。
>>844 朝鮮半島の例でもわかるように、古代の禿山は製鉄の痕跡だよね。
粗鉄を10トン作るために、1ヘクタールの山の木を刈りつくさなきゃいかん。
たとえば磐井が継体に敗北して差し出した糟屋の屯倉には
タタラ(多々良)川が流れているんだが、その支流の宇美川の上流
(不弥国の比定地にして応神天皇誕生の地)には、「炭焼」というという
地名が残っているのだ。
魏からの使いは二度来ている。
一回目は伊都国に留まって、倭人の伝聞を聞いた。
「ここから水行十日陸行一日で邪馬台国です。」、、、、
御井です。
二回目は、太宰府を通って直接行った。
伊都国までで一万五百余里。全体で一万二千余里。
つまり、伊都国から太宰府通って千里〜千五百里くらい。、、、、
御井です。
御井には祇園山古墳があって、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述とバチバチ合います。、、、、
御井です。
>>853 那珂八幡を動かしても編年自体は動かないよ
トヨまでは記録があるけど、
その後の150年間に何かあったしか言いようがないな。
>>860 印や書簡が出てくるといいね。
記紀以前の書簡がでれば、世紀の発見になる。でも宮内庁管轄の古墳に移動されているかもしれない。
>>864 金印は仮綬されたものだから返却してる。
日本には無い。
>>751 弥生中期後半から末にかけての洪水で埋まった環濠を再度掘ってるだろが
環濠があるという事はすなわちその集落が安心して住めない
戦乱の時代を経験したことに他ならない。
以下ウィキより
>北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と
>修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争があったと推定されるが、
>南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。
>北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。
とりあえず、御井のあの無駄に広い筑後国府跡はとても怪しい。
あの下に何かある。
>>867 宮内庁指定なのか?
じゃなきゃすでに掘ってるよ
>>855 伊都国も最終的にはヤマト政権の下に入るのは間違いない
が、庄内式の出方からしても、それは博多よりも若干遅いのでは、と思うが
(土師器に変わった辺りでは?と思える。残ってる古墳も四世紀からだったかと)
倭人伝であれだけ重要視され、一大率まで置かれている伊都国に
庄内式の時代に既に畿内の傘下に入っているなら
もう少し某かの庄内式の遺物があってもいいのでは、と思える
傍証でしかないが、記紀では糸島は仲哀天皇の時代に服属してて
景行天皇の時代より後になっている
糸島がヤマト政権に取り込まれたのは若干遅いのでは?、と思える
尤も、遺跡が見つかってないだけの可能性もあるけど
>>865 返却があったという記述もないし
漢印は、あった。輸送途中で難破?
>>861 編年は動かないが、絶対年代は変わるだろ
邪馬台国が御井なのは100%間違い無い。
祇園山古墳が卑弥呼の墓だから。
なら、とりあえず筑後国府跡はめちゃくちゃ怪しい。
>>876 さずけたんじゃ無くて仮のもの。
返すのが普通。
仮綬。
卑弥呼の墓が発見されたら殉葬された人間が何百人いたのか興味がある
>>859 そうとも限らん。
鉄を溶かす前に木炭を作った。
木炭を発明する前に日干しにした乾燥薪として伐採したため
森林資源が枯渇して神武東征し
「大和は国のまほろば」云々の和歌が詠まれた。
行橋が女王国だよ。
近畿の京都以前に九州に京都郡として都としている。
魏志、隋書の行程にも合致し筑紫、広島、出雲を統括するには抜群の立地。
>>878 国内に持ち込めなかったてこと?
漢印は、国内にて発見。
台与の後はスサノオ王朝やな
一は一宮、国常立神、卑弥呼瀬織津比売、男王速開都比売、台与気吹戸主
↓
二は日光東照宮、縄文系速佐須良比売 、スサノオ系かな
三は讃岐の金比羅山、物部系かな
↓
四は信濃の善光寺、百済系、蘇我氏
外部勢力による王朝
>>869 伊都国に他の九州勢力が何らかの影響を及ぼしていたのなら、その反論は可能だけど
現状は何もないでしょ
伊都国に影響を及ぼしていた「唯一の」勢力は畿内ヤマト
対抗馬も存在しない
九州説を押したいなら、まず伊都国に影響を及ぼしてた九州勢力を見つけることが先だと思うよ
余談だが、一大率の痕跡がいまだに見つかってないから今後の発掘に期待するしかないが
三雲より海沿いだろうな
>>882 お前は何キチガイ見たいなこと言ってんの?
>>871 変わらないよ
那珂八幡を他のすべてに優先して基準にしろってのは無理
矛盾が1000倍、1万倍出てくるだけ
もう議論は終わった。
卑弥呼の時代は邪馬台国は御井で100%間違い無い。
問題は、御井のどこか。
>>886 意味不明?返却不可能の場合もあるだろ
返却途中で、難破とか?
やっぱり万葉集のこの歌に古代史は凝縮されている
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
まそ鏡、照るべき月を、白栲の、雲か隠せる、天つ霧かも
照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。【倭国大乱】
それとも天の霧が隠しているのでしょうか。【壬申の乱】
>>889 お前はうっとおしいから出て行けよ糞食い野郎
>>700 >「石径」
それはちょっと指摘として不適
径に小径(こみち)という意味があると言うだけ
それをたてに、「平原一号墓までの参道の長さが百歩、径百歩は長さ百歩のこみち」って
言い出すやつまでいる
だが、「その小径はどこが起点なんだ?」って訊くと黙るんだがな
もう議論は終わった。
卑弥呼の時代は邪馬台国は御井で100%間違い無い。
問題は、御井のどこか。
>>877 さっさと掘れよ
出てこなかったらお笑い種(グサッ)
>>884 伊都国に畿内が影響力を及ぼしていた、ていうのが具体的に何を指すのかが判らん
三雲遺跡は古すぎだし、平原遺跡は方形周溝墓と見なすべきだし
発掘物からも畿内の影響というのは感じられないが
逆に伊都国の影響がみられる、という意味では
久留米の祇園山古墳の甕棺が伊都国の終末期の影響を受けている、というのはあるが
>>869 なるほどですね。
副官が卑奴母離でないのは、伊都国、投馬国、邪馬台国のみ。
これも伊都国の特殊性の証左かもですね。
>>701 それもウソ
則天時に改号を申し出た時点で既に大和朝廷であり、旧唐書の倭國も日本國もどちらも大和朝廷
>>895 種とクサをかけたわけね。
面白い面白いwww
糞食いにしてはね
褒めてつかわすぞ糞食いwww
もう議論は終わった。
卑弥呼の時代は邪馬台国は御井で100%間違い無い。
問題は、御井のどこか。
>>880 燃料が節約できたのは、炭もそうだけど炉の工夫が大きいよね。
ともかく、古代の製鉄の律速となるのは、砂鉄や鉄鉱石じゃなくて木材なのだ。
風の属性の神であるスサノオが、新羅から木の精霊の息子の五十猛神を伴って
木の国(紀伊)に降臨したのもそうだよね。後にこの地に盤踞した鉄の民、雑賀衆の
「サヒ」も鉄の意なのだ。
久しぶりに熊野につながったw
>>703 これも何度も言っているが、投馬国は戸数道里略載の女王國より以北の国というのに矛盾する
魏志倭人伝の方角記述は無視するというならそれでもいいがな
>>899 伊都国が特殊な位置にあったことに疑いのあるヤツなんて糞食いぐらいじゃね?
>>904 そんな矛盾は存在しない。
投馬国は西都原の妻。
>>704 それは馬止めの木から来ているものだろ
それに魏使が伊都国で「株の如く不動」だったらおかしいだろうがww
反論するためなら何でもありか?ww
>>896 >伊都国に畿内が影響力を及ぼしていた、ていうのが具体的に何を指すのかが判らん
あーこれは言い過ぎだった、失礼
その後の歴史を考えると、最終的に参加に入るわけだから、それなりの存在感はあったはず
少なくとも存在は認識していた
>久留米の祇園山古墳の甕棺が伊都国の終末期の影響を受けている、というのはあるが
それ、序列として逆でしょ?
意味ないよ
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
>>707 それは九州最大国の奴国が畿内とずぶずぶの関係という時点でない
奴国が従う奴国以外の九州勢力などはないのだから
>>854 それは邪馬台国が九州であってほしい願望では?
時代は下り、壬申の乱
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
万葉集のこの歌も興味深い
【にほ鳥】の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
息長タラシ系の最後は大津皇子かもしれない
辞世の句
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
磐余と鴨を恨んでいるのだろうか?
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
草薙剣に祟られた天武
こういう経緯があったからかもしれない
>>912 むしろ方角も里数も日数も魏志倭人伝はデマだらけと主張する近畿説こそ
邪馬台国なんか気にしなきゃいいのに
>>909 そういうのは予断を入れすぎだと思うが。現実の糸島に対する畿内の影響力としては庄内式が一点だけなのだし
一大率が居たにしては余りにも影響が少ないのでは
勿論、まだ遺跡が出てない可能性もあるから、断言はしないが
甕棺については、久留米近辺と、糸島の国とに相互に関連があったという証明としては 十分と思うが
少なくとも現時点の品では、糸島と南の久留米との関連性が畿内より
より強かった可能性は高い、と類推出来るのでは
>>910 伊吹山とか伊福部氏とかは「吹く」んだよね。
つまり、タタラ製鉄が伝わる以前のネーミング。
福岡の多々良川はそのあとの新進製鉄地なのだ。
あるいは製鉄ではなく、青銅の民だったかも知れんけど。
>>914 ん?近畿説って方角が間違ってるだけなんじゃないの?
>>710 九州説は同じことをコピペするから無駄に邪馬
唐代の史書に倭國傳と日本國傳があるのは、唐代(正確には則天時の武周)に
倭国が日本国に改号したため
倭国名義での外交が倭國伝に日本国名義での外交が日本國伝に書いてあるだけ
旧唐書では倭國伝に「倭國者,古倭奴國也」とあり、日本國伝に「日本國者,倭國之別種也」と
倭国の別の呼び名と書いて始めている
新唐書では日本國伝のみで「日本,古倭奴也」で始まっている
同じ国だよww
>>915 序列としては、伊都国>久留米近辺でしょ?
それをもって伊都国は久留米近辺の勢力に従属してたというのは暴論
というか、ほとんどトンデモの類
邪馬台国は九州にあった
女王国の範囲は出雲・吉備・奈良を含む、説
賛同者はいないようだが、別にかまわん
>>917 短里でも長里でも奈良にたどり着かないので
近畿説では里数は実際の距離を無視してるそうだよ
また日本海経由の距離を水行三十日陸行一月で奈良までいくには
裴世清の倍速で進む必要がある
長里を使えば、
最初の七千里で日本を通り過ぎてしまって
日本国内では無くなる。
それは南だろうが東に曲げようが同じこと。
なので長里は最初に可能性が無くなる。
>>920 参道はしないが頑張れ。
俺も頑張る。いや、やっぱ頑張らん。つか飽きた。
>>921 なるほど、もう邪馬台国は台湾沖にあったってことで良いんじゃないかな…
日本海経由の距離云々は投馬国=出雲だと良い感じなんじゃない?
>>924 水行三十日だと出雲までたどり着かないよ……
>>919 いや、糸島が畿内と久留米近辺の国と
どちらとより密な関係を結んでるかの話だろ
糸島から技術者が派遣されて、祇園山古墳の甕棺を作ったのか
久留米の国から依頼されて作ったかは判らないが
双方にはそれだけの交流があったって事
それは、(甕棺終末期という事を考えて)少なくとも三世紀頭〜半ばあたりまでは
畿内より強いのでは?と類推出来るように見える、て事だが
>>713 本当にbotと変わらないな、この人は
人としての知的能力を感じない
>>3 39歳
夏のナスボー70万
年収800万
結婚して子供いるとカツカツだよ。
近畿はないな。後の権力者だから、
地方から持ってこられる。
発掘されるものも地域も年代も広くなる。4世紀ごろで、建設やめたのは、
飛鳥に移動した為かな
本来なら九州北部と畿内は仲が良い筈なんだけどなぁ
九州北部の住吉さんは大阪の守り神として大切に祀られているし
鹿島の鹿さんも神の使いとして大切に祀られている
なんか邪馬台国題材にした漫画あったよな
東遷説だっけ?
>>912 それは邪馬台国が畿内であってほしい願望では?
>>716 女王國は基本的には倭人の領域の中の卑弥呼の共立に乗った国の範囲=女王国連合
ただ自女王國以北の2カ所は、女王國が女王之所都=邪馬台国
もう議論は終わった。
卑弥呼の時代は邪馬台国は御井で100%間違い無い。
問題は、御井のどこか。
>>930 畿内は、初期の段階かも、東側の勢力
を取り入れながら、力を蓄えていたかもしれない。出雲の国譲りは、元々邪馬台国の範囲を奪取して九州征圧の起点一部となったかも?
>>928 お疲れ様。個人的には、糸島のあたりがヤマト政権に呑まれた時期が
どうしても博多あたりより若干遅いのでは?という疑念が抜けない
なお、糸島半島にヤマト政権の影響が本格的に見られるのは
御道具山古墳(三世紀末?)、端山古墳(四世紀頭?)辺りからと思える
>>940 後は決定的な魏・晋印と書簡出て来れば、確定する。殉教者とみれれる70体近い遺体もあるし。
>>718 それはない
水行という用語を大陸史書で地誌、旅程記事に初めて使ったのが陳寿
その初出が循海岸水行だ
九州説では「水行は川も含む、海を行くときは循海岸など海を示す言葉が付く」という人もいるが、
そうではなく、循海岸水行は、海岸沿いの沿岸航行を水行で示すという初出に伴う説明だ
そもそも日本に20日も水行できる川はない
渡海は渡河と対応する用語で流される危険が内包されている
渡海と水行ははっきり区別されている
>>945 だから金印は仮綬だから普通考えて無い。
返却してる。
>>945 とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だから。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
>>915 一大率が伊都国に居たとか妄想だから
>>877 な。
>>877 御井は邪馬台国の一部に過ぎないよ。
>>699 投馬国は朝鮮半島南部これを否定するのは朝鮮人
>>943 また妄想かよw
>>947 だから返却された記述もないだろ。
漢印が糸島で発見された。
普通に考えて、返却できない場合もある。印を持つ国が戦争に負けたり、災害もある。後の出てくると五王は印を返却したという記述あるのか?
>>947 「漢委奴國王」印と同じで返却はしてないだろ
漢から魏へも、魏から晋へも禅定だからな。
>>948 伊都国に居た卑弥呼の墓を祇園山古墳に造るかな?
>>946 つか、「渡海」と「水行」とを同じ文脈で解釈しようとするから
おかしなことになるんじゃないかと。
「海を渡る」「川を遡る」「山を越える」なんかは、イベントの記述だよね。
一方、「陸を行く」「水を行く」は、ルートの記述。
これらを一緒くたに考えてるから、循海岸水行で悩むハメになる。
>>941 国譲りは、神話の時代に出雲を譲って貰ったにも関わらず
天皇の時代にまた四道将軍を送ったりしてるので
崇神の時代の各地の征服を神話化したのかも知れない、なんて思ったりする
(少なくとも古墳時代までは、出雲はヤマト政権とは別系統の葬送形式を持っていたように見えるし)
傍証でしかないが、記紀では10代崇神の時に四道将軍を送って各地を制覇し
(この時西側は吉備、出雲まで勢力下に)
その後12代景行で九州を征伐するから、某かの事実があるなら
四道将軍で畿内勢力を広げ、力を蓄えてから
吉備、出雲、と来て長門、そして九州の順で制覇していった、のかもしれない
>>722 王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。
この皆は
倭王が京都(洛陽)帯方郡や諸韓国に使いを送るときも、
郡が倭国に使いを送るときも「皆」だ
みんなで皆臨津搜露する訳じゃないよ
>>937 女王國とは伊都国と奴国のこと
女王卑弥呼を共立した中心国
邪馬台国(女王)とは女王卑弥呼を共立した結果、結成された共立した北部九州の国々の連合体
伊都国と奴国を中心に対馬国、一大国、末盧国、不弥国、及び傍国20か国
近畿の魏鏡とか言ってる仿製鏡って日本中で出土してるんだよな
>>953 それとなく記紀に忍ばせているのかな。
伊勢は卑弥呼、出雲は、その弟、
豊鍬はトヨとか?
>>955 2つの事柄で皆は無いですよ
3つ以上じゃないと。
親魏倭王の印綬か封泥が出れば
ちなみに倭人伝には正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す
とあるから、印綬自体は邪馬台国まで行ってるけど
卑弥呼に渡ったかは「拝仮」だから判らんかも
むしろ、部下が貰った銀印が出る可能性があったりするかも
>>951 仮綬じゃ無いだろがそれは。
お前魏志倭人伝読んで無いのバレバレだなw
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
倭国大乱(146年-189年)
卑弥呼(-242〜248年
垂仁天皇(壬辰→西暦212年)
┣景行天皇(辛未→西暦251年)
┃┗倭姫命(トヨスキリヒメ)
┗豊鍬入姫命(ヒミコ)
ぴったり一致
AD 238
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 明帝
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(倭王とか一杯いろんなもん)← 明帝「いいもんくれた オマエを倭王にしてやる」
AD 240
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(仮の倭王とかいろんなもん)← 斉王「まえのヤツは死んだ 挨拶だ おまえのことよく知らんから一旦仮の倭王にしてやる」
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →(お、ありがとな)→ 斉王
AD 244
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ドレイとかいろんなもん)→ 斉王「おい だれか黄色い旗刺しでもやっとけ ん? もってけるやつがいないのか?」
AD 247
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →(クマソどもぶっころしにいった キャハ)→ 斉王
AD 248
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 斉王
以後、ずっと交信記録なし
コレもぴったり一致
>>960 だ・か・ら、光武帝は印を以って賜ったもの。
親魏倭王の印は仮綬したもの。
どうみても記述では
卑弥呼:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
台与:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
コレですべて辻褄があう
※ 伝承によって記述が逆になった
卑弥呼:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
台与:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
だったのが伝承で変な伝わりかたして
記述の内容が逆になった可能性が高い
つまり、トヨスキイリヒメの時代に倭国大乱がおきてる
> 其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿
つまりこの部分
卑弥呼の時代、
すでにチンカスの北部九州の土人地域は大和朝廷の版図内
新羅系のチョンコもどきの土人は
倭国大乱で駆逐されたあと
>>138 ← 疑いようがない
邪馬台国大和説以外、説明しようがない
ヒミコは伊勢斎王さま
神の子以外は天子さまにもミコにもなれない
皇族は神の子
皇子
皇女
親王
御子
神子
コレ全部ミコと読む
古代の祀り事(マツリゴト)は政(マツリゴト)
ヒミコも神の子
ヒミコはヤマトヒメノミコト
わかりましたか?
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
纏向の発掘進捗は5%もいってない
これだけでもこんな広範囲な年代の遺物が検出されてる
チンカスみたいな九州の土人遺跡集落とは規模が違うからな
卑弥呼の時代
奈良には超巨大な帝都があったからな
新羅系のチョンコもどきが群がってた未開の土人地域の北部九州に
そんなんあったの?
コレがすべて
倭 在帯方東南大海 中、依山島為国 。(魏略)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるほうが
どうかしてるからな
>>958 日本書紀には神功皇后の記事に、倭人伝の卑弥呼の記事を混ぜてる
日本書紀の編者は、神功皇后=卑弥呼では?と考えてた節がある
ただ、台与では?と思われる266年の晋への使者も記事に組み込んでるから
かなり無理がある記述になってたりする
それに卑弥呼の時代には存在しないか、国としては大した事無かった、三韓(高句麗、百済、新羅)征伐を神功皇后がやった事になってるので余計におかしな事に
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真)
九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。
コレが現実だからな
>>971 単に本当に分からなくなっただけでは無いかと思う。
卑弥呼は九州倭国の人間で、近畿日本にはどうでも良い人間だから。
廿五年春二月丁巳朔甲子 詔阿倍臣遠祖武渟川別 和珥臣遠祖彦國 中臣連遠祖大鹿嶋
物部連遠祖十千根 大伴連遠祖武日 五大夫曰 我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇 惟叡
作聖 欽明聰達 深執謙損 志懷沖退 綢繆機衡 禮祭~祇 剋己勤躬 日愼一日 是以
人民富足 天下太平也 今當朕世 祭祀~祇 豈得有怠乎 ○三月丁亥朔丙申 離天照大
~於豐耜入姫命 託于倭姫命 爰倭姫命求鎭坐大~之處 而詣莵田筱幡 【筱此云佐佐】
更還之入近江國 東廻美濃到伊勢國 時天照大~誨倭姫命曰 是~風伊勢國 則常世之浪
重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故隨大~ヘ 其祠立於伊勢國 因興齋宮于五十鈴
川上 是謂磯宮 則天照大~始自天降之處也 【一云 天皇以倭姫命爲御杖 貢奉於天照
大~ 是以倭姫命以天照大~ 鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之 然後隨~誨 取丁巳年 冬十
月甲子 遷于伊勢國渡遇宮 是時倭大~ 著穗積臣遠祖大水口宿禰 而誨之曰 太初之時
期曰 天照大~悉治天原 皇御孫尊 専治葦原中國之八十魂~ 我親治大地官者 言已訖
焉 然先皇御間城天皇 雖祭祀~祇 微細未探其源根 以粗留於枝葉 故其天皇短命也
是以 今汝御孫尊 悔先皇之不及而愼祭 則汝尊壽命延長 復天下太平矣 時天皇聞是言
則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大~ 即渟名城稚姫命食卜焉 因以命渟名
城稚姫命 定~地於穴礒邑 祠於大市長岡岬 然是渟名城稚姫命 既身體悉痩弱以不能祭
是以命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣】
倭姫命 = ヤマト ヒメノミコト(ヤマトコクの女王と使節が勘違い)
ヒメノミコト ⇒ ヒミコ
コレ以外ない
>>973 猿は自己紹介激しすぎwww
光武帝は印を以って賜ったもの。
親魏倭王の印は仮綬したもの。
>>1 在日エベンキ奴隷は同じようなスレばかり建てるな
おまエラは日本の歴史になんの関係もない
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
ヤマトは奈良しかない
邪(ヤ)馬(マ)台(ト)は奈良
>>974 畿内説は否定証明完了済み。
これが現実。
>>964 うん、だから判らんと書いた。まあ拝仮だし、渡してないかも
ただ日本まで持って来てるのは確定だから
もしかしたら封泥くらいはあるかもしれない
部下の銀印はほぼ貰ってるのが確定(しかも複数人)だから
こっちの方がもしかしたら見つかるかも
>>726 >甕棺つくりながら1000年くらいのんびりやってた列島の弥生人とはちょっと毛色の違う人らが
甕棺墓の時代はそんなに長く続かない
盛行するのは板付遺跡から桜馬場遺跡までくらいの時間幅だし
分布もほぼ九州西北部に限られる
偏った知識、偏った見方からは間違った想定しか出てこないよ
>>981 普通考えて無い。
倭国と中国はその後もずっと行き来してるんだから、
普通考えて返却してる。
>>972 大半の考古学者はすでに邪馬台国と証明するのは不可能って言ってるよw
あとは畿内説の学者がパズルしてるだけw
解答が纏向になるようように色々捏造してw
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
>>980 48レスとか、証明できたのは
お前が只の基地害というだけw
>>975 自分は九州説に近いから、その可能性が高いのでは?とは思う
ただ、近畿説でも、河内王朝への移管時に存在は抹消され、アマテラスという神として
祀り上げられた、なんて考え方も出来そう
>>729 日本の低い峠越えのどこが命懸けなんだ?
本当に根拠なしの言いがかりしかしないな、九州説の人は
>>990 涙拭けよ否定証明完了済みの近畿パーwwww
蜻蛉日記にはアマテラスは河辺に住む河伯とある
河伯は黄河の神、黄河文明の流れを引くのかな?
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
→アマテラスは河伯でもあり石でもある
牛鬼伝説に通じる
石に倒された海神牛鬼は石の子を生むようになる
石は石棒のことか?
アマテラスは殷系の母系と石棒系の父系かもしれない。
>>992 お前本当に根拠無しの言いがかりばっかだよな近畿パーwww
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
>>733 畿内説は祭祀連合というまとまりとしかいっていないんだが
ID:ST49tW8t0のbotの勢いが強すぎてこのスレも終わりだな
>>998 涙拭けよ否定証明完了済みの近畿パーwww
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 23時間 27分 18秒
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/ ▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
lud20241231050505caこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1560523150/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
TOPへ TOPへ
全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ |
>50
>100
>200
>300
>500
>1000枚
新着画像
↓「【古代】三重・熊野灘沿岸で発見の土器片、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」で作成か 「ヤマト王権の航行おさえる拠点」★3 YouTube動画>2本 ->画像>11枚 」を見た人も見ています:
・【邪馬台国】「ヤマト王権のルーツは、邪馬台国ではない」「纒向遺跡を有力候補地とすることに疑問」 奈良県の坂さん、新説を披露
・【邪馬台国】「ヤマト王権のルーツは、邪馬台国ではない」「纒向遺跡を有力候補地とすることに疑問」 奈良県の坂さん、新説を披露 ★2
・【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 ★2 [樽悶★]
・【古代】邪馬台国の人はカエルを食べた? 奈良・纒向遺跡で骨が大量出土 「神への供え物にカエルが使われた」
・【邪馬台国】被葬者は卑弥呼率いるヤマト王権の対抗勢力の首長? 高尾山古墳保存を議論 文化財協議会、静岡・沼津で全国大会★2
・【歴史】今や推定地50超、邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 九州説、畿内説、東遷説の有力3説 [樽悶★]
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★2
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
・【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
・【国際】 コンゴ共和国で大統領選、野党の最有力候補がコロナで死去 [朝一から閉店までφ★]
・【サッカー】<ハリルジャパン>次期主将めぐる“熱きバトル” 現在はDF吉田麻也が“主将代行”を務め、次期候補の最有力
・邪馬台国の卑弥呼からヤマトの天皇制の間って何があったんだ
・邪馬台国畿内説の討論会
・邪馬台国はここだ!
・邪馬台国は九州説が正しい
・♪邪馬台国東遷説 その15
・邪馬台国畿内説 Part651
・邪馬台国畿内説 Part720
・邪馬台国畿内説 Part821
・邪馬台国畿内説 Part598
・邪馬台国畿内説 Part814
・♪邪馬台国ドンと来い!♪126
・邪馬台国畿内説 Part376
・邪馬台国畿内説 Part424
・邪馬台国畿内説 Part400
・邪馬台国畿内説 Part397
・邪馬台国畿内説 Part488
・邪馬台国畿内説 Part462
・邪馬台国畿内説 part500
・邪馬台国畿内説 Part323
・邪馬台国畿内説 Part481
・邪馬台国畿内説 Part534
・邪馬台国畿内説 Part507
・邪馬台国畿内説 Part453
・邪馬台国畿内説 Part343
・邪馬台国畿内説 Part425
・邪馬台国畿内説 Part303
・邪馬台国畿内説 Part508
・邪馬台国畿内説 Part415
・邪馬台国畿内説 Part465
・邪馬台国畿内説 Part467
・邪馬台国畿内説 Part470
・邪馬台国畿内説 Part656
・邪馬台国畿内説 Part597
・邪馬台国は九州にあった67
・邪馬台国畿内説 Part654
・邪馬台国 畿内説Part219
・邪馬台国畿内説 Part493
・邪馬台国畿内説 Part422
・邪馬台国畿内説 part510
・邪馬台国畿内説 Part542
・邪馬台国畿内説 Part295
・邪馬台国畿内説 Part421
・邪馬台国畿内説 破綻のpart
・邪馬台国に拘る贅六、知的障害説
・邪馬台国は四国徳島だった!2
・邪馬台国は阿波だった part6
・邪馬台国畿内説 次回のスレッド
・邪馬台国畿内説、令和元年に消える。
・(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
・邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
・邪馬台国畿内説 Part86 [無断転載禁止]
・邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
・邪馬台国畿内説 Part109 [無断転載禁止]
・邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]
・邪馬台国が何処にあったのかを教えて下さい
00:40:59 up 9 days, 1:44, 0 users, load average: 75.24, 66.18, 56.12
in 1.3732440471649 sec
@1.3732440471649@0b7 on 012214
|