https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190602-00010002-nishinpc-sctch
1639年、幕府が鎖国政策でポルトガルと断交すると、交易再開を求める船が2度にわって長崎にやって来る。
それに関する史料が近年、国内外で相次いで見つかった。2点の新史料を通して、当時の関係者の心境や
海防が強化される過程を読み解いた。
幕府は島原・天草一揆でキリスト教への警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。当時、ポルトガルはマカオを拠点に、
中国で仕入れた生糸を日本で売って利益を得ていた。1640年、マカオは交易再開を求めて使節団74人を日本に派遣するが、
長崎・出島で収監されてしまう。幕府は61人を西坂で斬首、残り13人をマカオに帰国させた。
新史料は、斬首された大使ゴンサロ・モンテイロ・デ・カルバーリョを殉教者として扱うよう、甥(おい)がローマ教皇庁に求めた
約800ページの嘆願書で、マカオ側の動揺がうかがい知れる。東京大の岡美穂子准教授(対外関係史)が2年前、ポルトガル
国立公文書館で発見した。カルバーリョの功徳や亡くなるまでの経緯、長崎の人々が使節来航に驚いた様子が記されている。
後にイエズス会宣教師が残した記録を調べた流通経済大の日埜(ひの)博司教授(ポルトガル文献学)によると、
大村藩が使節の監視役を務めた。「長崎の人々は利害関係や親近感があり、幕府が配慮したのでは」と日埜教授。
過去に来日歴があるカルバーリョらマカオの人々は、日本の、長崎の激変に衝撃を受けたであろう。岡准教授は
「この使節に関する史料は少なく、新史料は当時の様子を知る手掛かりになる」と話す。
□ □
長崎交易が途絶えてマカオが衰退すると、1647年、再びポルトガル船が長崎に来航する。7年前の来航以来、
福岡藩と佐賀藩が交代で長崎港を警備していたが、さらに九州諸藩から計約5万人が動員され、船を追い返したという。
もう一つの新史料は、1647年の来航の約1カ月前に、長崎奉行の馬場三郎左衛門利重が熊本藩家老にあてた書状。
長崎市長崎学研究所が2年前、熊本市の古書店で購入した。馬場は、カルバーリョらの来航時も長崎奉行だった人物だ。
馬場はこの書状で、藩主の細川光尚が江戸で将軍と面会したことに対する祝辞や、長崎警備の担当が佐賀藩から
福岡藩に代わったことを報告している。何げないやりとりではあるが、「幕府官僚の長崎奉行と熊本藩との親密さが読み取れる」
と同研究所の藤本健太郎学芸員(日本近世史)は言う。長崎奉行がこうした関係性を九州諸藩と築いていたからこそ、
5万人を動員することができたのだ。
中段に「CidadedeNangasachi」(長崎の町)という文字。長崎の人々は使節の来航に驚いた、と書かれているという
1639年、幕府が鎖国政策でポルトガルと断交すると、交易再開を求める船が2度にわって長崎にやって来る。
それに関する史料が近年、国内外で相次いで見つかった。2点の新史料を通して、当時の関係者の心境や
海防が強化される過程を読み解いた。
幕府は島原・天草一揆でキリスト教への警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。当時、ポルトガルはマカオを拠点に、
中国で仕入れた生糸を日本で売って利益を得ていた。1640年、マカオは交易再開を求めて使節団74人を日本に派遣するが、
長崎・出島で収監されてしまう。幕府は61人を西坂で斬首、残り13人をマカオに帰国させた。
新史料は、斬首された大使ゴンサロ・モンテイロ・デ・カルバーリョを殉教者として扱うよう、甥(おい)がローマ教皇庁に求めた
約800ページの嘆願書で、マカオ側の動揺がうかがい知れる。東京大の岡美穂子准教授(対外関係史)が2年前、ポルトガル
国立公文書館で発見した。カルバーリョの功徳や亡くなるまでの経緯、長崎の人々が使節来航に驚いた様子が記されている。
後にイエズス会宣教師が残した記録を調べた流通経済大の日埜(ひの)博司教授(ポルトガル文献学)によると、
大村藩が使節の監視役を務めた。「長崎の人々は利害関係や親近感があり、幕府が配慮したのでは」と日埜教授。
過去に来日歴があるカルバーリョらマカオの人々は、日本の、長崎の激変に衝撃を受けたであろう。岡准教授は
「この使節に関する史料は少なく、新史料は当時の様子を知る手掛かりになる」と話す。
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長崎交易が途絶えてマカオが衰退すると、1647年、再びポルトガル船が長崎に来航する。7年前の来航以来、
福岡藩と佐賀藩が交代で長崎港を警備していたが、さらに九州諸藩から計約5万人が動員され、船を追い返したという。
もう一つの新史料は、1647年の来航の約1カ月前に、長崎奉行の馬場三郎左衛門利重が熊本藩家老にあてた書状。
長崎市長崎学研究所が2年前、熊本市の古書店で購入した。馬場は、カルバーリョらの来航時も長崎奉行だった人物だ。
馬場はこの書状で、藩主の細川光尚が江戸で将軍と面会したことに対する祝辞や、長崎警備の担当が佐賀藩から
福岡藩に代わったことを報告している。何げないやりとりではあるが、「幕府官僚の長崎奉行と熊本藩との親密さが読み取れる」
と同研究所の藤本健太郎学芸員(日本近世史)は言う。長崎奉行がこうした関係性を九州諸藩と築いていたからこそ、
5万人を動員することができたのだ。
中段に「CidadedeNangasachi」(長崎の町)という文字。長崎の人々は使節の来航に驚いた、と書かれているという