所属する博物館の土器を手にする甲田さん
同館にある、帝京大学八王子キャンパス(大塚)の下から発掘された遺跡
縄文時代(約1万5千年〜2千数百年前)のものとされる、竪穴式住居や野生動物を捕獲するための落し穴などが、多摩ニュータウンでは八王子市街地や近隣の府中市などと比べて数多く発掘されているという。ニュータウンエリアは当時も「集合住宅」地だったのか――。
同ニュータウンは、稲城や多摩市から町田にまたがる3千ヘクタール近くに及ぶ集合住宅地などを指し、市内では南大沢や堀之内などが含まれる。
その開発に伴って行われている発掘調査では、縄文時代のものとされる、竪穴式住居やシカやイノシシを捕らえるための落し穴などの遺跡が現在までに960カ所以上発見されているという。
考古学を研究する、大塚・帝京大学総合博物館の甲田篤郎さんは「その数は周辺に位置する、八王子市街地や府中・調布などよりも多く密集しており、当時たくさんの人が暮らしていたと推測できます」と話す。
■水源が理由
ではなぜ、多くの人が住んでいたのか――。
甲田さんによると、その理由の一つに水源に恵まれていたことが挙げられるという。現在のニュータウンがあるエリアには、多摩川や大栗川などの「元流」となる水場が周辺地域よりも数多く点在していたことから、水を求めて動物たちが、そしてそれを捕えようとする人々が暮らすようになったと思われる、と甲田さんは指摘する。
■縄文以降は平地へ
ただ現在、ニュータウンに多くの人が住むのはその「名残」ではないと甲田さんは笑う。
生活様式が変化し、食物を得る手段が、狩猟型から農耕を営む形へと変わっていったことから、縄文時代以降は、起伏に富むニュータウンエリアの多摩広陵地よりも、田畑を耕すのに適する、八王子市街地などの平地へと人々が移り住んでいったと考えられるのだという。「平安時代には、現在の府中に今でいう東京都庁のような『役所』があり多く人が住んでいたようです。その頃のニュータウンエリアには遺跡から見る限り、瓦をつくる職人などが多くいたみたいですね」と甲田さん。
■これからの指針に
多摩ニュータウンが産声を上げたのは1970年代初頭。高度経済成長期を迎え、地方から都心に人が流れてくるようになり多摩地域の居住環境を整える目的などによって開発が進み現在に至るが、甲田さんは「私たちの足元には縄文時代以降の人々の痕跡が埋まっており、それら先人たちの生活を学ぶことはこれから街づくりを進める上での指針の一つになってくれると思います」
タウンニュース八王子版 2019年3月21日号
https://www.townnews.co.jp/0305/2019/03/21/474325.html なぜそこまで高台にあったのか、だな。
ちなみに昔の街道は山の峰つたい
, -―-、、
/ ∧_∧
l < `∀´>
ヽ、 フづとノ'
`〜人 Y
レ'〈_フ
千葉ニュータウンがなかまになりたそうにこちらをみている。
日野のあたりは府中に通勤する役人とかのベッドタウンだったらしいね
高台だから水害も少ない
>>5
あそこちょっと前は池沼だし、もっと前は海底だし 巨大津波の教訓かららしいね
高台に住むようになったのは
四国あたりに住んでいた縄文人は
津波で全滅
九州の縄文人は火山噴火で全滅
逃げ延びた縄文人が関東へ
他人の掘った落とし穴に落ちた縄文人もたくさんいるんだろうな
丘陵地帯から瓦などの焼き物をどのように街中に運び出したかなのだが、
聞いた話だと、川をせき止め船を浮かべて荷を積み込み順番に下流に移動したようだよ。
尾根伝いで運び出すのは大変だものね。
このシンプルさは縄文土器でありながら弥生時代のものだな(キリッ
生活様式が変化し、食物を得る手段が、農耕型から会社勤めへと変わっていったことから、昭和時代以降は、田畑を耕すのに適する、八王子市街地などの平地よりも、起伏に富むが土地が安いニュータウンエリアの多摩広陵地に人々が移り住んでいったと考えられるんじゃないの?
永山方面に貝塚ってとこなかったっけ?元々が集落だったんでしょう。
昔、多摩ニュータウンの近くに住んでいたころ、夏祭りの盆踊り大会で近所のおっさんが縄文土器の破片を子供に配ってた
八王子南バイパスの工事に伴う遺跡調査で、土偶なども出てきた。
工事は遅れてしまったが、土偶がでたり面白い。
猪を狩るための落とし穴の底に小さめの穴がある。
聞いたところ、その穴は猪が落ちてきたときに刺さるように杭を立てた跡だとさ。
小田急の支線しか無いイメージだな
同じ支線の江ノ島とどうして違ってしまったのか…
ドキッ!
多摩ニュータウンは遺跡関連で
怖い話も多いよな
そんなに歴史があるのに家康が開拓するまで土民みたいな生活をしていた連中w
>>31
そりゃそうだな。
室町幕府が無能だから、戦ばかりしていたからね。 こんな高低差のやたらと多いところに住みたがるかねぇ?
永山駅周辺なんて駅(海抜40m)から200mくらいのブリリア(海抜100m)なんてどえらい高度差をショッピングセンターやら坂道をエッチラオッチラ上がって行くんだぜ
>>25
江ノ島→津波で住んでいる人ごとながされる
多摩→僻地なので住んでいたあとがゴーストタウンとして残る >>25
どちらかというと京王線のイメージだが
新宿線は笹塚か橋本行きが多いが、千代田線は代々木上原か本厚木だし >多摩ニュータウンでは八王子市街地や近隣の府中市などと比べて数多く発掘されている
多摩ニュータウンに人が多く棲んでいたからでなく、開発時期の関係で破壊されずに発掘される遺跡が多かったってだけじゃないかな
遺跡が出たところを開発すると地厄が起きて大変なことになるってほんと?
>>2
武蔵野台地の街道が台地上の分水嶺に沿って敷かれるようになったのは台地上がハゲ山になった江戸時代以降
古代の街道は狼煙を使って引かれたから地形と関係なく直線状のことが多い
なお、古代の山地の街道は山腹の傾斜がきつくないところを選んで敷かれることが多く、
斜面崩壊の跡にできる平たい地形に古代の街道沿いと思われる集落が点々と残ってたりする >>32
天皇は桓武(第50代/737-806年)の時に「国軍撤廃」してから
非武装中立 w で
人は平安時代から東の方が多いんだから
足利氏も京都にいたって治められる訳がない
<日本列島の推定人口の推移>
奈良時代に西に集まるが、平安時代にはもう東が多い
関ヶ原合戦前後には西に集まってる
(やっぱ秀吉は凄かったのかな) >>10
千葉ニュータウンが池沼で海底?
幕張かなんかと勘違いしてない?
あそこはむしろ頑丈な地層で有名なところで、
だからこそ金融機関のデータセンターとか
林立していると聞いたことあるけどな。 ところで関東が縄文時代案外栄えていたというのはその通りで
なんでっていえばそりゃまさに>>1だよね。
文明ってのは、もっといや人間の生活ってのは
水辺じゃなきゃできないわけでね。
五大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河、大韓)が
いずれも河畔から醸成されたのは偶然じゃない。
飲水にせよ、農耕漁業にせよ、あるいは移動交易にせよ池沼河川ってのは大事なのさ
そういうわけで関東なんて平野でそこら中に水があるんだから人もたくさんいたろうよ。
それにあれだ。あったかいしなwww 動物も豊富にいたろうよ。 多摩地区には古い時代の遺跡とか多いらしいね。
昔は都心の方は海だったしね。
水があって薪が取れて猟の獲物になる動物が多くいてクルミやトチなど主食になる木の実が大量に取れる
となると森のある台地の際に近い場所ということになる
現在稲作が行われてる平野は中世以前はそのほとんどが湿地帯で魚や水鳥は獲れるけど生活するにはいい場所ではない
>>42
千葉ニュータウンは遺跡多いよ
つかあそこら辺は遺跡だらけ
貝塚やら古墳やら、印旛沼の恵みなんだろうね >>34
ブリリアで海抜100mもねーよ
横山の道で海抜100mくらいなんだから 堀の内に住んでたけどあの辺の地形よくわからない
車で走ってると突然トンネルや急斜面あるし
その上には住宅街とか帝京大とか中央大のあれは山?
堀の内のカラフルなマンション群もそうだし
その裏の道路を東京方面に走ってると違和感しかない
毛皮をまといこん棒を振り回すしか脳のなかった俺らの祖先は、古代韓国からやってきた渡来人(弥生人)の鉄剣にボロ負けして「国譲り」したんだよなw
多摩ニュータウンは一括開発できたから遺跡の発見数が多いだけだぞ
都下含めても最大級の縄文遺跡は世田谷の桜木遺跡で、他にも同規模の遺跡が同区内に複数あると言われてる
だが住宅地がもう建ってしまってるので調べられない
古墳も南関東最大の勢力と言われてるのは世田谷の野毛大塚古墳だ
そのあと国府が府中にできてそこが中心地になっていく
昔も今も変わらない
武蔵野台地に権力者が住み丘陵地で不便なところには身分の低いものが住んだんだろう
当然身分の低いもののほうが数は多い
縄文時代は、日本列島の人口は大半が東日本側。
そして武蔵野台地は縄文時代の遺跡はとても多い。
考古学の教科書の言う通り、縄文の集落遺跡は、崖や急斜面の上の見晴らしの良い場所に多い。
狩猟生活では、見晴らしが良いと獲物の動物を見つけやすかったりするから。
武蔵野の河岸段丘の上は縄文遺跡がよくあるので、丘陵を切り開いた多摩ニュータウンに縄文遺跡があるのは当たり前。
関東は雪が少ないから昔から暮らしやすかったんだろう。
>武蔵野台地に権力者が住み丘陵地で不便なところには身分の低いものが住んだんだろう
意味がわかんね。 「武蔵野台地」の意味わかってる?
それから、縄文時代と弥生時代・古墳時代では、まったく人間の住む場所が変わるので、連続性は無い。
あたりまえだが、縄文遺跡があるような崖の上や台地は稲作農業に適さない。
しかも武蔵野台地は関東ローム層のため稲作はできず、縄文時代に集落は多かったが、弥生以降はそういう集落は無くなっていった。
>>42
古代から中世の頃、あの辺は内海だった。
今でも穴掘ると貝殻が出てくるし。 多摩センターの高台にあるダダっ広い駐車場あれ古墳っぽいよね
首都大学の場所も古墳っぽい地形
>>58
連続性の話なんてしてないよ
武蔵野台地に縄文、古墳の最大遺跡が複数存在して府中という国府があったという事実を言ってるまで
はたして多摩ニュータウンには?なにがあるの?
縄文の遺跡の数だけって明らかに古代の下町みたいな地域だよね
君こそ武蔵野台地と多摩丘陵の区別ついてる? さすがに現代と縄文時代に人間の連続性は殆ど無いだろ
サンリオピューロランド近くにある東京都埋蔵文化財センター行くと
多摩ニュータウンは縄文時代の先進地っぽかった
八王子や青梅あたりは海だったんだろう。
海の近くだから、貝も食塩も豊富にある。
縄文人にもあのへんで耳すまみたいな恋愛してたのか
胸熱だな
狸たちを追い出して造営した多摩ニュータウンは繁栄する事なく、
高齢化を迎えてた住民や移民の住処のまま朽ち果てる
そういえば再来週は金曜ロードショーでぽんぽこやるな
>>68
狩りの最中に道に迷ってしまった縄文少女が、山の向こうに建つ謎の竪穴式住居を見つけたとか?
そこに泥笛修理を生業とする謎の老人がいたとか?
昔から片割れの猫の土偶を大切にしている老人がかつて若いころに経験したコイバナを語るとか? 現代の南関東は渡来系日本人と在日が大半
縄文人は何処に行ったんやろか?
縄文系は津軽と沖縄だよ。
関東は弥生系と縄文系の混合集落跡が発見されてるよ。
弥生系は大陸から稲作とともにやってきた。
稲作は水田ってくらいだから水を張らないといけなかった。
だから次々と平野部に居住していった。
縄文系は元々赤米、黒米という斜面でも栽培できる米を育てていたから、
弥生系は平野部、縄文系は山地とすみわけしていた。
いつしか弥生人は山ん中に住む四角くて眉の濃い謎の人たちを神格化し、天狗みたいに呼ぶようになった。
赤い米の中に少し黒い米が含まれてるモチモチしためメシを神さまの食べ物として神格化し、めでたい時だけ神の飯を食べるという風習ができた。
ちなみに世田谷の桜木遺跡には攪乱された跡がない
大規模な災害は今日まで起きなかったということだ
不便で遠い多摩ニュータウンに住まなくとも災害への安心感は手に入る
縄文時代は自主独立派の少数精鋭が覇権を争う乱世の時代で、
弥生時代が集団指導体制を是とする和平の時代だったんじゃないのw
教科書でそう習った覚えがあるんだけどw
敷地から遺跡出ると文化財保護法ですげー面倒なことになるってミナミの帝王で見た
>>12
嘘つくな
九州は縄文系5割くらいいるぞ
近畿も含め何処も縄文系は4割近くはいる
むしろ東京神奈川の方が渡来系が多いんだが? 多摩センターの埋文なんてニュータウン開発時からあるんだろ、何を今更感
地下鉄サリンがあった頃に多摩センターに通勤してて、サボって埋文覗きに行ったりしたなぁ
>>84
ってことよね。うちの地域の集落跡も海が直近にあったので現在の台地を選んで作ったように見える
海岸線が遠くになってからの遺跡は平地の川筋のみ。>>1に書いてあるそのまんま うち東京都の23区外だけど
水と森が豊富なので
大きな遺跡あるわあ
縄文系遺伝子は日本男性に多い
弥生系女子とセックス出来たんだな
昔はかなり水位が高かったみたいだね
氷河期が終わり世界中の水位の上がり沢山の土地が海に沈み
大陸一つ無くなったという伝説さえあるのに日本列島だけ逆に水位が下がったという
古代中国の屯田兵家族が日本に上陸した。そこでの理想的な生活を始めようとしたが、
縄文人の男もそれなりの美男子、女性もかわいいということで、お互いに交じり合ったとさ。
多摩川の近くでも、古い地層、地下水脈は相模川なんだよ
一つ挙げると、府中のサントリービールが汲み上げる地下水は相模川砂層の中のもの
丹沢水系というやつ
大昔、相模川や多摩川は今よりもっと北を流れていたとされる
それが徐々に周りを削りながら現在の地形に落ち着いたと
まあ色々あるから調べてみると面白い
「ああ、だからそうなのか」と
繋がる事象は多い
記録にも残されている、武蔵国を支配していた王、オキもこのあたりに居たのでしょうね。
>>2
縄文時代の関東エリアの大都市は群馬だぞ
今の東京エリアなんて座ればぬかるむ湿地で生活基盤なんて出来なかった
多摩ニュータウンの辺りも湿地じゃないから集落が出来るのは納得できる >>93
群馬って関東の中ではかなり下戸が多い地域
色々謎やな >>91
現状は東京都の水源は、ほぼ利根川水系だよね
朝鮮人って本当にパンストを被ったみたいな顔をしているよね
武蔵国とか上毛野国とか結構古墳時代からすでに大国だったみたいだけどな。
九州とかより
>>101
ものの資料によれば、その辺りが海岸線だったんだと ニュータウンは丘陵をらなしたところが多くてわからんが
八王子の縄文遺跡があるところは空気(主観)が澄んでいる
>>102
地域区分としてはその後ずっと生きながらえたけど
行政組織としてはあっという間に廃れて崩壊 府中民だがなんでここに国府なんだろうな
これといって特徴がなさそうだけど
ゴッドハンドって、わざと湾曲して表現してるだけの詐欺師のことだろ
詐欺の国東京ならありえるかな
>>5
近くに龍角寺古墳群とかあるから、そんなでもないでw 東京近郊のニュータウンってだいたいが丘陵地に有る、狩猟採集の時代には、丘陵地は、近くに水場が有れば居住に適した場所であったが、
稲作が広まって水田化しやすい平地に人口が移動した。
丘の上に神社がポツンとあったりするのは、大昔の名残だったりする、大昔自分たちが住んでた場所を聖地化・・・みたいな流れで。
>>106
武蔵国北部の埼玉古墳群(埼玉県行田市)の
旧国造等の勢力圏から外れていた場所で
当時の新開地だったから国府に選ばれたんだろう >>102
世田谷はなんらかの旧王朝があったんじゃないかと言われてるね
元々あった丘陵を盛り土して成形した関西の古墳と違って、
台地上の平らなところにすべて盛土したから古墳は小さいが作業量は比較にならないそうだ 世界最古の文明て縄文らしいな
西欧や反日が認めたくないだけで
>>111
世田谷の古墳って、野毛大塚とか御岳台古墳とか、自然地形利用した古墳が多い印象なんだが、
具体的にどの古墳が平地に土盛った古墳なのかね? >>112
文字があるかないかで区別すると違うけどなあ
土器とか磨製石器とか漆は最古級みたいだけど 多摩ニュータウン辺りて多摩川下流から離れてるよな
当時から水害を避けて少し高いところに住む知恵があったのかな
そして山の木の実や水辺に集まる動物を狙ったとか
>>94
;list=PLTyRfNTuc59zUTmeqJzp1Ksn-zKxl_Czp
最近の遺伝子解析による復元。
目は茶色
髪の毛はちじれ髪
肌は薄黒目 >>53
湿度が高い島国じゃ毛皮なんて着てない
発掘されるのは繊維を編んだ服
毛皮は大陸の内地とかの衣装だよ
繊維を編むのは投網の必要性から必須能力だし >>75
教科書で習った歴史はすべて忘れろw
毎年のように新しい発見が出てきて全く変わってるから
俺らのころの教科書の縄文時代は毛皮着て定住せず狩猟だけで暮らしているような絵だった
ひどいもんだよ 江戸時代頃程久保に勝五郎っていう生まれ変わりの
有名人がいたらしい
>>113
「風は世田谷」〜第315回〜甦る武蔵の王者野毛大塚古墳(平成3年10月31日放送)
埼玉神奈川はベッドタウンなったのにタマニューはなんでさびれたかな
縄文時代から住みやすい土地だったと言えるな。
沼とか川ではなかった証明だ。
絶対バレないと思って死体埋めたのに、ニュータウン開発で出るは出るはw
>>126
大規模な用水路引かなくても
ちょっと掘れば湧き水出る地形だからね
縄文時代だと住みやすいかも
∧∧
( =゚-゚)
.(∩∩) >>123
野毛大塚なのか?
あれはビデオで専門家がもっともらしく喋ってるが、
あそこは立地がもともと丘の上なんだが、古墳の周囲がやけに平坦なので、周囲の丘を平坦に削ってその土を盛ったんじゃなかろうか?
それにしても大工事では有るな、多摩川の河原から丘の上まで玉石運び上げるのは大変であっただろう。 >>96
掘りぬき地下水だと八王子市内の地下水も丹沢水系だと聞いたことがあるな。
市内のそば製造工場の掘りぬき井戸水を調べたら、丹沢水系だそうだ。 実質、人権など全く認められていない中世ジャップランド。
警察も司法も腐りすぎ。死ね。
・自白調書だけで裁判で有罪に持ち込める
・その自白調書は、警察の作文でもOK
・作りたいだけ冤罪が作れる。
・しかしヤクザとは癒着してるからヤクザはやりたい放題。
死ね糞ジャップ
35
実質、人権など全く認められていない中世ジャップランド。
警察も司法も腐りすぎ。死ね。
・自白調書だけで裁判で有罪に持ち込める
・その自白調書は、警察の作文でもOK
・作りたいだけ冤罪が作れる。
・しかしヤクザとは癒着してるからヤクザはやりたい放題。
どこが「日本はいい国」だ、死ね糞ジャップ
1
多摩ニュータウン
↓
多摩シルバータウン ←いまここ
↓
多摩ゴーストタウン
タイトルで煽ってる割に、読み進めると、博物館の人はごく当たり前の事を言っているという
>>133
一番かどうかは知らんが、これ見る限り結構人がいたね
>>125
多摩ニュータウンの駅近は今でも若い家族連れで賑わっているし、建て替えたマンションはすぐに完売したよ
駅から遠い地域はどこも寂れる >>64
旧石器から江戸までの遺跡が出るような屋形跡とかあるし
どうなんだろう >>75,77
関東は弥生まではろくな戦闘跡がなくて
(掘割などの防御施設は伝わって来た)
西側と違って大きな争いはなかったらしい >>139
国分寺崖線はすべての時代の遺跡がでる
都内最大の縄文遺跡の桜木遺跡、都内最大の古墳の野毛大塚古墳
国府のあった府中、国分寺や南北朝、室町、戦国時代と世田谷に土着した吉良氏
江戸時代に23区唯一の藩庁を有した世田谷の喜多見氏 >>144
武蔵野台地
下総台地
大宮台地
三浦大知 でも有名な遺跡ないよな
武蔵野台地に住めなかった川向こうの住人なんだろう
いまでいう山手の内と外のような関係
氷河期終わりからの気温上昇〜ピーク〜気温下降の変化で
海岸線の移動があったんだろう
>>154
最大の海進時の海岸線がずーっと持続していた訳では無い、縄文時代は長くて約10000前から始まり、
縄文海進のピークは約6500年前〜6000年前。
江戸川区の小岩や葛飾区の立石の辺りは少し標高が有るので、陸だったり、島だったりしたのであろう。 韓国の洞窟で発見の石錘、世界最古となる2万9000年前のものと判明
https://www.afpbb.com/articles/-/3185229
漁網用の重しである石錘14個が、約2万9000年前のものと判明した。
石錘はこれまでも日本の福井県と韓国の清州(Cheongju)市で発掘されており、
いずれも約1万年前の新石器時代のものとみられている。
だが今回の発見は、後期旧石器時代でも人類は活発に漁労を営んでいたことを示唆するものだと、
韓氏は指摘した。
14個の石錘はそれぞれ重さが14〜52グラム、直径は37〜56ミリ。
韓氏は、漁網の端を結び付けるための溝が彫られており、
浅瀬で小魚を獲るために用いられたと説明している。
石錘が今回発見されるまでは、南日本の島で見つかった、
約2万3000年前に巻き貝の殻で作られた釣り針が
人類最古の漁具とされていた。
韓国のが約2万9000年前の石錘だとすると
人類の移動からしてすでに東南アジアのスンダランドで
縄文人の祖先が発明したもので海洋民族の北方進出で
半島に伝わったと考えるのが自然
つまり発明者は韓国人ではない
東南アジアでもっと古いものがみつかるはず
てのはおいといて縄文人は植物のつるなんかを編んで網にして
石のおもりをつけた簡単な漁具を潮だまりや川に仕掛けてたと思われ
あと沖縄で見つかった人類最古の釣り針はアクセサリーだという意見も >>151
かつての多摩ニュータウンは丘陵地帯というより山間部と言った方が近いもんな
大規模集落は作れない
ただ、食べ物については台地よりむしろ豊富で、ヒエラルキーは逆だったかも 多摩は丹波
日本の原点の名前をつけるからには何かある。
>>159
武蔵の国総社の大國魂神社の主祭神が大国主命だからねえ。 >>159
武蔵の国の一ノ宮も多摩にある小野神社だし何気に凄い所なんだね。 多摩ってどうやっていくの?
都下はよくわからないんだ.....
>>162
西に行くんだ、魑魅魍魎跋扈する未開の地を只西に歩いて行け。 縄文の遺跡って結構高いところ(水も有る)にあるんだよな。
江戸(東京)の前は、湿地で住めなかったんじゃないか。
日本武尊は、海を渡って房総半島へ行かれた。
小室哲哉=府中
宇都宮隆・木根尚登=立川
↓
多摩ネットワーク
↓
TM NETWORK
>>162
逆に都心部はここ数年行ってない
神奈川県や埼玉県にも >>169
間違えてないが、一つだけ注意点がある。
地下の京王新線のホームに行かない事。
京王新線で乗り間違えると都営新宿線の電車に乗ってしまい、
正反対の方角へ行ってしまう危険性がある、
京王線のホームは新宿で行き止まりなので、
間違う心配は無い。 >>170
宇都宮氏は藤原氏が1000年位前に名乗りだしたようだから
嫡流以外は各地に流れて、いろんな所にいるじゃないのかな
東大法で弁護士、共産党 都知事選候補者の宇都宮健児とか…
庶流で宇都宮を名乗ってないのも結構いる 多摩ニュータウンって、
そんなにいろいろな市にまたがっていたのか。
なんとなく、うすぼんやりとしか知らないんだ。
多摩ニュータウンの駅のすぐ近くにまで八王子だからな。デカすぎ。
大國魂神社の境内には縄文時代の遺跡がある
神道の鳥居が建つ前から聖地であったと思われる
新しい宗教が入ってくる時は古い土着の聖地の上に被せるように新しい神殿を建てるのは良くあること
>>174
鹿島とか松が谷、堰場あたりの地区は、地元住民としては
八王子市から多摩市に編入してほしいんだけど、八王子市や
八王子市議会が嫌がらせをしてそれを認めないんだわ。 >>166
東京は多摩地方から西に伸びた台地が海の際まで張り出していて(その突端が江戸城)入り組んだ谷がいくつもあるので、その台地上などに縄文〜古墳時代の遺跡がけっこうある テレビもネエラジオもネエ
おらこんな村イヤダ〜 おらこんな村イヤダ〜
多摩センター駅近くにある
「パルテノン多摩歴史ミュージアム」「東京都埋蔵文化財センター」
はどちらも面白い
どちらも入場無料
山の斜面発掘すると落とし穴は見つかるけど住居はあまり出てこない
住居は平地の方が出やすい
東京に住むなら麻布かニ子玉か多摩センターだわ
神奈川なら武蔵小杉か青葉台
街のオーラが違う
>>185
漠然と麻布じゃ広すぎw
オーラも麻布台と十番、西麻布じゃ全然違うし >>166
平安時代から室町時代まで皇居に江戸氏が館を構えてた
それ以外にも分派が大勢土着してた
そのあとの戦国時代にも江戸城を築城して太田道灌や上杉氏などがいた
東京のメディアは江戸時代しか取り上げない
しかも当時を見たこともない江戸の御用学者の寒村という言葉を鵜呑みにして、
それを報道してる始末
なので江戸以前は何もなかったかのような誤解が生まれる >>187
山内上杉家→鎌倉
犬懸上杉家→鎌倉
宅間上杉家→鎌倉〜永谷(後の横浜市)
扇谷上杉家→鎌倉〜川越
上杉一族が江戸に居を構えた印象はないなぁ 牛込氏の牛込城と近くの筑土城
渋谷氏の渋谷城・・・
築城者不明の白金長者屋敷跡・・・なんかはギリ江戸だよね。
縄文人をただの狩猟民と考えてると間違うわけで
土器もそうだが、縄文人は漆も製造したし、アスファルトも生成して石と木を接着してたわけで
ヒスイに穴をあけたり磨いたりする技術も開発したわけで
それなりの技術開発力を持っているわけで
>>185
多摩センターから都心は遠いぞ
都心に行かないならいいかもしれないが >>188
あんたがどう思おうが道灌が暗殺された後の江戸城は上杉家当主の隠居城だから >>192
日中特急で新宿まで30分!
といっても八王子や町田と大差ないんだよな