古代史連続講座で意見を交わす登壇者たち
考古学者の高島忠平氏が監修とコメンテーターを務める古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第6回フォーラムが27日、飯塚市で開かれた。関西外国語大教授の佐古和枝氏と、元佐賀県立名護屋城博物館館長の田平徳栄氏が「邪馬台国は東遷したか?」をテーマに議論。約150人が参加した。
邪馬台国の場所については、九州説と畿内説のほか、九州から畿内に移ったという東遷説がある。畿内説の田平氏は「東遷はノー。邪馬台国は魏が認めた唯一の政権で、一貫して畿内にあってヤマト王権に引き継がれた」と主張。
一方、九州説の佐古氏は「北部九州にあった論拠は、大規模集落や王墓が複数あり、大陸系の遺物が出ているからだ。ただ、九州説でも疑問点はある」と話した。
西日本新聞 2019年01月28日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/482459/
★1:2019/01/28(月) 22:24:45.70
http://2chb.net/r/newsplus/1548839246/ ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
−邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
−具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
続く
邪馬台国という発展途上国の争奪戦w
学説では仙台で決まってるのにwwwwwwwwwwwwwwww
>>4 続き
−纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
−卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
−里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。 東遷したかどうかはともかく
魏志倭人伝に言ってる邪馬台国ってのは
やっぱり畿内のことだろうと思うよ
>>8
おぅ楽しく議論できそうだ 畿内のどこ?上陸地点は? >>10
笑
ちょっと、わりーね。腹へったから、もう行く
これからメシ食わねーよ
ばいばい 水掛け論するぐらいなら掘った方が早いだろ
既存の古墳の下にあると迷宮入りだけどねぇ
すでに何かの建物が立ってる施設壊して掘ったらなにかしら出てくるかもしれんね
神社とかお寺だとか
歴史は連綿と続くわけではなく、断絶と革新もあるんだよね。つまり、いきなり奈良に王朝が
できるということもありうるわけで。
>>13
九州のどこであっても特別喜ばない
それよりも若いオッパイなのに2万からお釣りの来るソープがあることが重要 邪馬台国は東遷していない
卑弥呼も台与も九州にいた
神武の東征はまた別の話し
ある部族が豊かな土地を武力で手に入れ建国した物語
九州の卑弥呼を豊与を担いだ大和政権がぶっ潰した説に一票。
>>23
@現在日本の首都
A遺跡はないけど邪馬台国だった
どっちがいいと思う?
観光資源乞食なら、世界遺産した方がまし 3世紀前半から中盤にかけて北九州が畿内の強い影響下にあったこと、
当時の畿内には巨大な前方後円墳を建造できる国内最強レベルの勢力がいたこと
以上は確定済み
魏人は北九州まで行ったが倭国最強最大のヤマトを知らずに九州のその辺のオバハンを親魏倭王にした?
ありえない
北九州の玄関口、伊都国が既に畿内勢力と手を組んでいたのに
神武天皇の説話って九州から掠奪に行ってぼろ負けした海賊の話と、宇陀の山賊が纏向の掠奪に成功したって話をツギハギにしただけだろ。
何で邪馬台国が東遷しなきゃいかんのだ?
>>23
しかし、神武と卑弥呼は同じ一族。天照大御神を祖と仰ぐ一族。 >>28
朝鮮人から1mmでも離れたい
普通の感情だろ? 漢代、九州のやまと(邪馬台)が倭国の盟主だったが、
漢滅亡期に倭国大乱が起き、やまと(邪馬台)は破れ、
権力無き権威、形だけの盟主に。恐らく奈良が覇権を握った。
4世紀、華北が混乱に陥ると、やまと(邪馬台)の命運は尽きる。
奈良に滅ぼされ、その権威ある名を奪われた。
東遷神話は、それを覆い隠し、権威の正統性を偽装する為のもの。
>>31
タイーヤマルゼン♪
タイヤマルゼン♪🇯🇵 >>7
インチキのデパート、捏造の総合商社
・倭人一般の風習や産物として記述されているものを、邪馬台国固有のものであるように、すり替えるインチキ
・紀元前の出土品など、邪馬台国の時代とは関係ないものまで混ぜて水増しするインチキ
・逆に畿内出土のものはカウントしないインチキ
・九州で出土した後漢鏡を魏晋鏡にしてしまう捏造
・日本の考古学用語の槨は中国の概念での槨とは違うものなのに、同じ漢字を使ってることを口実にしてイチャモン
・短里とは明言してないが、架空の度量衡の捏造 邪馬台国が愛媛や和歌山じゃだめなの?
ミカンおいしいよ?(´・ω・`)ムシャムシャ
>>36
愛比売って名にしとけば盛り上がったやろな >>14
奈良はデパート建設用地掘ったら悲劇の皇族
長屋王の邸宅が出土した。 >>27
勝手に追加して申し訳ないけど
3世紀に編年される中国鏡は九州からはほとんど出土しない
伊都国の平原王墓がいい例だが、副葬品40枚の鏡うち、古い中国鏡が2枚あるだけで、残りは国産鏡で代用されている
これは中国鏡の取引で、九州が帯方郡に相手にされなかったことを示している
帯方郡に相手にされなかった現実があるのに、帯方郡を通して魏と外交をやっていたという九州説の主張は矛盾している >>38
そこに奈良漬のこと書いてあったんだっけ? >前スレ忌部氏の話をしてた人
忌部氏は元は祭具に関係してる。
勾玉を作る玉造部と隣接して祭具の忌部がおった。
物部氏の管轄だ。
物部氏の管轄ということは、同族の可能性が非常に高い。
物部氏とはそういう一族なんだよ。八十物部だから。
名前も物部と忌部のみ祭祀や神道関連の名前がついている。
>>30
伊藤忠もデサントの朝鮮べったりを嫌がってるwww ふと思ったが、邪馬壹国は場所ばかり話題になるが、卑弥呼の性質はどうだろう?
古代氏族の中で物部氏が最も似合っている。
しかし例外で皇族にも神功皇后の様な女性もいる。
どちらも好きだからどっちでもいい。
正直どっちでもどうでもいい話題
邪馬台国は日本海に沈んだでもいいぞw
近畿が九州に滅ぼされた形跡はない
三重県とかは同じ遺跡から縄文時代から平安時代くらいまで遺物が連続して出てくる。
>>47
民族が入れ替わってない証拠は、同じ墓地の領域を墓地としてずっと使っていたことからわかる。 >>18
それが古事記、日本書紀に書かれた神武東征説
>>19
イスラエルは宇宙戦艦大和のイスカンダルでオナニーしてろ 猿田彦は明らかにイスラエルであって
確実に伊勢はイスラエル
>>39
俺の認識と全然違うな そのソース頼むわ
それ見て認識改めんといかん
平原の?製鏡は4−5枚だったと認識してる 三国地誌によると伊勢の人間性は最悪だったらしい。
渡来人の巣窟だったと思われる。
伊勢の人は恩を仇で返す。親子で争いが絶えない。ともうめちゃくちゃに書かれてる。
まるでどこかの国みたいだ。
邪馬台国→ヤマト政権×
邪馬壹国→山井→岩井→磐井
邪馬壹国はヤマト政権に滅ぼされたとおもう。
奈良県民の三文の徳
早起きして鹿が家の前で倒れてたら隣の家にずらす
>>51
岡村編年だよ
少し古い資料なので平原王墓の鏡が載ってたりするから分布図から削除しないといけないが、
分布傾向は大きく変わらないだろう
>>59
そんな大雑把なもん見ずに、その古墳のを見ればええのに
>>60
何だ、平原だけのことか
その柳田氏が2000年に国産認定してるよ 鏡の材料は国産鏡も輸入鏡も
中国の銅が使われているからわからない。
緻密だから輸入鏡で、作りが荒いから
国産鏡とも言えなくて
輸入と思われていた鏡と、
国産と思われていた鏡の両方に
同じ鋳型の割れ目と思われる
筋が入っていたそうだ。
5chは既に在日チョンに買収されているのをご存知ですか?
在日チョンの5ch運営が規制してリンク貼れなくなってしまったので、
「2chの譲渡先、5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員」で検索してみてください
そして、在日チョンのバックに居るのは売国政党の立憲民主党です
在日チョンが5chを買収して、売国左翼や在日チョンにとって有利な世論誘導しようと企んでいます
5chのあらゆる板でジャップがどうのとかほざく、日本人卑下する奴とか、「アベは売国奴だー アベは統一協会だー」みたいな頓珍漢な政権批判するレスが異様に増えたと思いませんか?
売国政党の立憲民主党の支持母体の一つは在日韓国人組織の民団です
そいつらが5chを買収した在日チョンの背後にいます。↓民団と連動して動いている売国政党の立憲民主
在日チョンの帰化議員がワンサカいる売国政党の立憲民主党
↓
「竹島は日本の領土ですよね?」立民・白真勲(ハク・シンクン)議員を再直撃! 徴用工判決には「コメントできない」連発…
在日韓国人組織の民団は立憲民主党の支持母体の一つ。売国政党の立憲民主に絶対に気を許してはならない
↓
在日本大韓民国民団の中央本部新役員と意見交換 - 立憲民主党
5chの運営がチョンに買収されていると、とっくにバレている以上、完全記者制というシステム止めるべき
チョンに買収されている運営が全てのスレ立てをコントロールするとかありえない
.
.
.
+6277+967
>>63
そういえばこの前のスプリング8の分析の奴で
日本の各種神獣鏡はほぼ同時代の同一地方産の銅でできてることが示されたけど
以前の研究で三角縁神獣鏡は呉の支配下の鉱山産出の銅だと判明してるので
これで日本で見つかる各種の神獣鏡は魏の鏡でないことが明確に証明されたんだよな しかし箸墓を卑弥呼の墓とか言ってる論拠が馬鹿っぽいよな。
何かムーの記事並みだよ
>>62
マジか! この調査自体からそんなに経ってないだろうに
まるっきり違うこと言ったのかこの柳田っつう先生は
以後こいつの調査したやつは信用に値しないことにする 邪馬台国時代に魏の調査団が来たのは事実だろう。
当時の日本は倭とヤマト、さらに出雲、吉備など列国が争っていた時代。
それを一緒くたにして日本は邪馬台国の卑弥呼を担いで治められたというのは飛躍した間違い。
九州(韓半島一部)を治めていた倭のTOPが卑弥呼であって、吉備にも出雲にもヤマトにも治世は無い。
違う文献ではヤマトは倭の亜種と書かれていて、明らかに違う場所、違う統治機構、違う国。
魏志倭人伝は間違っているんだよ。
さらに言えば、魏の使者が「あなたの首都である邪馬台国への行き方は?」と聞いた時点で
答えた伊都国の役人は(正確な場所は教えられない、魏が攻め込んでくるから)と考えたのは
想像に難くない。
そしてこう答えた
この場所に上陸するのではなく、船で南に行って、そこに
上陸して10日間陸を進み、さらに1ヶ月海を進む。
これは、
ここに上陸しないでくれ、離れたところに上陸するが、軍隊が10日間船を捨て陸地を行く。
さらに、そこから大量の船を調達して1ヶ月航行しなければ邪馬台国には着けません。
これは、邪馬台国を侵略するのは不可能ですと言っているのだ。
逆に言えば、邪馬台国は伊都国の近く、伊都国周辺に上陸してすぐのところにある。
吉野ヶ里、宇和神社、その辺だろう。
>>70
え〜w 愛比売って国作りで3番目に出来た由緒正しい
素晴らしい名前なんだけどな〜 >>72
魏と交流があった日本の部族と
呉と交流があった日本の部族があったんだろうね 鏡も持ってうろうろ出来るし、三世紀の鏡がもっと後代の墓から出てくる事もよくあるし
鏡だけでは中々決定的にはならないだろな
蓋然性としては畿内の方に分はありそうだけど、まだ何とも言えないかも
鏡とか中国の蚤の市で売られていたりするから
あてになる話ではないよ
末廬国→唐津〜博多
伊都国→飯塚〜みやこ
奴国→中津
不彌国→宇佐
投馬国→岡山or高知
邪馬台国→奈良
女王国→大分〜宮崎
狗奴国→熊本〜鹿児島
>>66
それ嘘
三角縁神獣鏡の成分は後漢鏡と同じで、三国時代の神獣鏡とも同じ
三角縁神獣鏡が呉鏡系統という説は過去の説
黒塚古墳の報告書が少し前に完成し、築造は3世紀後半であり、
また出土した三角縁神獣鏡の成分も調べられ、後漢鏡や三国時代の神獣鏡と同じと発表された >>51
>俺の認識と全然違うな そのソース頼むわ
>それ見て認識改めんといかん
>平原の?製鏡は4−5枚だったと認識してる
平原1号墓の鏡を国産判定したのは柳田康雄で、前原市教育委員会発行の報告書「平原遺跡」に
詳細な検討が記載されてる
舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡 漢鏡3期
の2枚のみ >>78
さすがに嘘ではない
日本で見つかる各種の神獣鏡をスプリング8で分析した結果の話と
別で三角縁神獣鏡の産出鉱山を特定した話を合わせるとそうなる
結局日本の神獣鏡は魏の鏡ではないことは確定した
もちろん時代的に呉の鏡かそれ以前かそれ以降かはこれとはまた別の話だ >>56
>邪馬壹国
壹は子音で終わる「it」の音
上代日本語には子音で終わる閉音節はなく、すべて母音で終わる開音節だから
「邪馬壹」という音の国はないと言える
また上代日本語には母音の連続はないからyam「ai」tという音もない
邪馬壹は邪馬臺の誤記または書き換えというのが通説
邪馬壹から、ヤマイ⇒八女ヤメという人もいるが、だったら壹がどこから来るのか説明できない >>80
>結局日本の神獣鏡は魏の鏡ではないことは確定した
それはない
鈕孔が四角いのと、鏡背に乳を持つのは魏鏡の系統 >>80
どんな理屈?
そもそも、この時代は沿岸航行しかできなかったのだから東シナ海横断など不可能
畿内が呉と交流があったなど九州説論者が作った妄想 東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
和歌は日本人の心、真実の歴史は万葉集の中にある
やっぱり万葉集のこの歌に古代史は凝縮されている
真十鏡 可照月乎 【白】妙乃 【雲】香隠流 【天津】霧【鴨】
まそ鏡、照るべき月を、白栲の、雲か隠せる、天つ霧かも
照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。
「まそ鏡」は、澄んだ立派な鏡というような意味です。この歌では、月を導く枕詞(まくらことば)として使われています。
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
まあ景初4年とかあからさまにアレなことやってるからな、この時代で既にw
江戸時代でも「あの大明帝国の〜」ってんで編年あるとんだ紛い物を売ってたりしてた
>>82
そう言いたいのは分かるが肝心の原材料が
魏の時代敵国の呉の領内にあったのではどうしようもない
もちろん後漢の時代に作られてそれが魏鏡に影響を与えたのか
西晋の時代に魏鏡に影響されて作られたのかまでは分からん >>79
そうらしいな その柳田ってせんせは一切信用せん
これからは中島誠之助と変えろと思うw 万葉集の奈良時代後半の歌
月やホトトギス時鳥の来訪を心待ちする歌ばかり
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女
月夜吉み鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも
>>86
景初4年は実際にあった
(皇帝が1月1日に亡くなったため中国の暦の混乱が起きて後から修正されてなくなった)から
景初4年は魏鏡である証拠である >>87
西晋時代には日本と中国の交流は停滞してる
いわゆる空白の150年
日本は倭鏡の時代に移ろうとしてる
邪馬台国の会が4世紀に中国から鏡が入ってきたとか言ってるが嘘八百 和歌の父母
安積山【アサカヤマ】 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
安積と書いてアサカと読む、興味深い
堺の方違神社の近くに浅香という地名が残る
伊勢のサルタヒコを祀る阿射加神社、大阿坂、小阿坂
上町台地〜泉北丘陵
北から
大阪オサカ、浅香アサカ、小阪コサカと並んでいる
伊勢と大阪湾の類似性が興味深い
奈良の明日香アスカ
アサカと何か関係があるのだろうか?まねごと?
>>86
>まあ景初4年とかあからさまにアレなことやってるからな、この時代で既にw
晋書 卷十二 志第二 天文中
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。
景初四年、あるねぇ >>92
そのサイトはトンデモだよ。
科学的に銅鏡の成分の解析が終わっている。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに敗れたんだろう。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
1世紀、畿内に逃れてきた出雲族と元々畿内にいた集団が国作りを行なったんだろうな
狗奴国の建国、クナはクニだな
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、クナトの神の子。
サルタヒコ、月夜見、大国主、卑弥弓呼は同一だろう
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていたのだろうか?
>>88
>そうらしいな その柳田ってせんせは一切信用せん
いや、北部九州の編年の第一人者だぞ
柳田先生は信じていい
岡本編年はだいぶ修正されてるけどね 【八衢】、【クナトの神】で思い出すのは道饗祭
クナトは高天原で事を始めた皇御孫之命と書かれている
道饗祭
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。
>>95
とんでもな部分を教えてくれ
あといいサイトがあったらそれも >>92
>近畿説的にこれに反論はあるの?
中国にはないとされていた三角縁の神獣鏡が大陸にもあったっていう記事だろ?
それとスプリング8で舶載鏡とされていた三角縁神獣鏡は漢から三国時代の中国鏡と
見て矛盾はないっていうことに反論の必要を感じないんだが? >>87
>そう言いたいのは分かるが肝心の原材料が
>魏の時代敵国の呉の領内にあったのではどうしようもない
邪馬台国の会が魏は銅山を使えなかったから銅鏡を作れなかったと決め付けてるだけだろ?
畿内説にイチャモンつけるときは魏は銅鏡を作れなかった、九州説を主張するときは銅鏡を作れた、という見事な二枚舌www 邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図はヤマトの南の南河内と和泉だろう
元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
サルタヒコの伝承に出て来る地名が集まっている堺も含まれている
狗奴国とクナト
何か関係があるのだろうか?
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
女王国の支配に抗った狗奴国
根の国底の国の侵略に抗ったクナト
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
>>102
悪いが君のせいで読むのに要らんスクロールしないといけない
独り言はブログにでも書いてくれまいか? ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
てか、邪馬台国の研究者って三国志を全部読んでんのかお(´・ω・`)
つい数百年前の漢字の意味とかもすっかり変わるのに、執筆された時代の漢字の意味で、筆者の意図も理解してる人はいないだろうな
焚書坑儒は歴代王朝もやったし、歴史的にはつい最近もやったし、補完する資料が少ない
考古学以外の違ったアプローチも必要
>>100
ん?これはどこに該当するの??
>中国にはないとされていた三角縁の神獣鏡が大陸にもあったっていう記事だろ?
中国産の銅であっても国産の可能性があるんじゃねーのってのがそのサイトの主旨だと思うが 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と【隠坐て】とある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識である。
天とか日は関係ないのである。
なぜこういう事実を覆そうとするのか?
魏志倭人伝で言うなら、狗奴国の勢力が600年の内乱を経て倭国大乱前の有り様を取り返したと言えるだろう。
記紀なら神武東征による被害者である畿内の在地の勢力が、600年の内乱を経て平安を取り戻したと言える。
敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀(播磨)
近畿式の銅鐸分布範囲とほぼ一致する
賀は牙
旗印を掲げた拠点
防衛拠点、いわゆる関、 【天岩戸】
2世紀後半までは天岩戸で囲まれた国があったんだろう
倭国大乱で滅茶苦茶にされたんだろうな
出雲国造神賀詞から抜粋
大穴持の命の申したまはく、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。
斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか
この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い
なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう?
何をどう考えても九州だろうね
渡来するのも現実的だし
交易で栄えたと考えるのも自然
>>111
基本的には4年のものはないものとして扱うのは畿内説でも同じ
森さんが一蹴してるから >>23
東征はどの時代なんだろうね?
邪馬台国以前の話なのか?
(卑弥呼と崇神天皇は同時代でその後に大和朝廷は九州に侵攻して邪馬台国を征服)
邪馬台国後に九州のどこかの国が畿内を制圧して大和朝廷をたてたのか? 古墳やら鏡の分布からして、大学ではもう九州派の学者なんて残ってない
卑弥呼の時代には倭国の中心が畿内に遷移している
問題は、北部九州から畿内に中心が遷移した時期ときっかけだな
>>107
「2004年、中国の「上海博物館展」が日本の幾つかの博物館で開催されている。
殷・周時代から前漢・後漢・唐等に渡る時代の、特に青銅器を中心に展示されていて、
日本では初めて公開されるものも多く、人気を集めている。私も4回見に行った。
鼎(てい)や爵(しゃく)や鬲(ゆう)など、ここでは表現できない初めて見るような
漢字の器も数多く展示されていた。
その中に鏡も5,6点展示されていたが、いずれも日本初公開だった。ここに1点、
私の目を引いた鏡があった。以下に紹介する「張氏車騎神獣画像鏡」である。初め見たとき
驚いてしまった。「これは、三角縁神獣鏡じゃないのか!」 大きさと言い、神と獣の神仙画像と
言い、何よりも、周縁部の切り口は正(まさ)しく三角形に見える。中国では三角縁神獣鏡は
出土していないはずではないか。これは何だろう。」
「3回目に見た後、私はこの展示を担当している博物館の学芸員に電話をして、この疑問を
ぶつけてみた。学芸員とは10数分間話したような気がするが、彼がこの鏡が三角縁神獣鏡では
ないとした理由は、結論から言えば、
(1).これは後漢の鏡で時代が違う。三角縁神獣鏡というのは魏の鏡であり、
魏の時代のものでなければ三角縁神獣鏡とは言えない。
(2).縁は三角のように見えるが、少し丸みを帯びているようにも見える。
この鏡の断面図は無いので、三角縁と言えるかどうかはわからない。
(3).中国から(三角縁神獣鏡が)出土していないと言っても、中国で魏時代の墳墓は
まだ1基しか発掘されていないので、今後出る可能性はある。
というものだった。
そして、会話の中では、「三角縁神獣鏡」とは書けないので「張氏作」としました、
というような事も言っていた。」
三角縁神獣鏡と呼ばれていないだけで、中国にも三角縁の神獣鏡はあるんだよ >>115
>(卑弥呼と崇神天皇は同時代でその後に大和朝廷は九州に侵攻して邪馬台国を征服)
卑弥呼と崇神が大和のヒメヒコ
宝賀寿男氏の系譜研究を信じれば、卑弥呼と崇神が姉弟もあり得る >>94
中国人の見解ね
「日本出土の景初四年銘三角縁盤竜鏡」について
王仲殊
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hp-ronbun-keisho4nen-ouchuushu-yamataikoku.pdf
晋書の4年は誤記だと
故に鏡は日本製
魏とは違う。呉の職人? >>23
卑弥呼も台与も大和の斎王というのが最近の説 >>115
東征は物証がないし、逆に畿内勢力が九州を征服した痕跡もない
あるとしたら、婿入りなどの婚姻による同盟成立ではないかと
阿蘇なんかは大和から婿入りしている 安本美典先生が邪馬台国は筑紫平野と言ってた
卑弥呼の墓は平原とも
個人的には狗奴国(熊襲)除く全部の九州だと思っている
近畿は古代から銅鐸職人がいたから
呉の銅銭を銅鐸に変え、銅鐸を銅鏡に変えたんだよ
「銅鐸ネットFAQ」(昨夜、荒らしの中に飛び込んだため再掲)
-----
枝葉だけど、このスレにはFAQになるので、、、
あ、いかめしい公式の説明しか聞きたくない人はスルーで
(間違ってこのスレに来た人ぐらいだけどw)
銅鐸って何のための道具? はやし浩司(初期からのYouTuber)
急に消えたのは合わせることができるようになったから。
銅鐸の地域分布
(少ない所は、広域情報が入手可能だったか非農業文化だったため) 銅鐸は生贄の儀式に使う
今も諏訪大社で使われているはず
生贄も健在
皇室に国を譲る事に反対した人々が出雲(奈良)
から長野に移動した
さっさと邪馬台国に行って現地の人とあって
確認してこいよ ついでの卑弥呼の顔も見てきてくれ
>> 72 魏と呉に交流してたのは同じ倭国だと思う。
斉国・燕国(羌族ら)の属国だった倭国邪馬台国。邪馬台国は燕へ朝貢してた。
燕の出身者公孫氏。公孫氏は燕王を名乗り、魏に対して呉と協力関係
公孫氏は羌、鮮卑ら異民族を積極的に登用
230年 呉 孫権の将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄)へ
233年 公孫淵 呉 孫権の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害
238年 公孫淵 魏に滅ぼされる。司馬懿は遼東の成年男子7000人も虐殺 公孫淵派らは近畿や関東へ逃げる 常世岐姫神社で公孫淵を祀る
239年 公孫淵の属国だった倭国邪馬台国は魏にすかさず朝貢しはじめる
魏に乗り換えた事の功績を認めた。
317年 五胡十六国 匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の国が北東部に乱立し倭国も巻き込まれる。
千葉や兵庫に古墳が突如出現。
トウマ姓って沖縄に多いんだよな。
投馬国と関係があるかもしれんね。
邪馬台国の時代かどうかはともかく北九州には呉の人間が来てる
その骨が古墳から出てDNA鑑定で呉の人間だと確認されてる
>>13
九州だと別の王朝の可能性か跳ね上がり万世一系に悖る
本当にもう宗教だよな >>133
大和朝廷は邪馬台国のことを詳細に知ってて隠しているのか?
魏志倭人伝に出てくる事は知ってるが実態は知らないのか? 朝貢するくらい有力だった王朝の後継を僭称した方が有利になれる
って当時の政治的判断は十分理解出来るんだよ
問題はその大和朝廷自体が十分単独でも権威持つほど続いた今でも
その当時の意図もよく分からずに思考停止してそれに固執してる所だ
九州説は陰謀論がほんと好きだな
他国の国名をパクって自分の国の国名にしてしまった事例あるの?
>>66
銅鏡は銅と錫の合金。
銅が多く錫が少なければ新品の10円硬貨のような
赤銅(シャクドウ)色
錫が多くなると白銀色になる。 >>134
両方だろう
日本に人類が現れる頃邑や国が建つ頃から数百年経ってる上に
記紀を編纂した理由が
天智天皇の時代乙巳の変の影響で記録が焼けてしまった事
更に各氏族の記録には箔付けの改竄がバシバシ入ってる事
乙巳の変だの百済敗走だの壬申の乱と厄介事続きで権威回復も計りたい
なんだから、もう訳わからん事になってる物を
そういうコンセプトで纏めなさいってのが記紀 >>138
邪馬台国とは離れるけど、乙巳の変が無ければ蘇我氏が天皇を
好き勝手に決めてやりたい放題で国家統一は大きく遅れたやろね
藤原を擁護する気はないが、日本のターニングポイントだったわな >>93
奈良の明日香アスカは「ア」という接頭語に、砂洲を意味する「スカ」という言葉が付いた
難波宮(大阪)から近い南河内の飛鳥(アスカ)が「近つ飛鳥」、
遠い大和の方を「遠つ飛鳥」と呼んで区別する。 >>135
冊封体制は
国外交易と国外権益の安全と国内の富を
もたらしてくれるからね。現在でも。
と言って国内の富に王朝の一極集中はなかったでしょうな。
先ず鉄は鎌鋤になったでしょうし、
但馬、出雲に家宝をさせだせとかケチ臭い王朝だし w >>7
三国魏の第2代皇帝明帝=曹叡の時
丙寅(ひのえとら),司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之。
……
(明)帝曰:「【四千里】征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。
@三国志 魏書三 明帝紀 //ctext.org/sanguozhi/3/zh
つまり洛陽から(瀋陽、沈陽に近い)襄平まで4000里という尺度と帯方郡から邪馬臺国まで
1万2千里という尺度は矛盾する。
九州説は破綻している。 いい加減その距離数で云々するのは無意味だと知ろうぜ
別に九州に人間が魏の使節に伝えたわけじゃねぇんだから
魏の人間がどう書こうと知ったこっちゃねぇわな
群から狗邪韓国までが7000、そこからちょろちょろ動いて2000-3000
どこに着いたかわからんが、旅は全部で12000つうんだから
どこかその辺りにしかならんわ、里って単位に惑わされたらあかん
>>103
唐古・鍵遺跡の赤錆色の鉄鉱容器に入った勾玉
奈良にはかつて淡路島その他の鉄器工房から持ち込まれた大量の鉄製品があって
彼方此方(あなたこなた=あちこち)に鉄粉が飛び散り
粘土質の土に飛び散ったものは土団子を作って
中に勾玉を入れ振ると唐古・鍵遺跡出土の褐鉄鉱のような容器が出来上がる。 「邪馬臺国は九州」とこじつけるために短里に固執する九州派
長里と短里の二枚舌で書かれた魏志倭人伝を金科玉条にする九州派
吉野ケ里から楼観が出土したという証拠もないのに
倭人伝に合わせてでっち上げた九州派
ご都合主義の九州派
自今以後里程談義は禁止
なんか親の仇みたいに書いてるな
そんなに邪馬台国好きなんかw
どこに在ろうとおまえには1mmも関係ねぇんだから
そんなに熱くなるな、腹減るだけだぞ
邪馬台国が書かれている魏志を読むと畿内に邪馬台国ないよねってはなし
ゼロベースで考えた方がいいと思う
じゃあ、邪馬台国がどこかと言われたら熊本北部あたりと答えるけどね(ハート
近畿に鉄がなかったというのは九州派が奈良説を潰すための洗脳、プロパガンダ
騙されては逝けない
短い里にしろ長い里にしろ
万二千里じゃ韓国の倍でも届かないけど
畿内説が正しいよ?
長里とか短里とかじゃなくてさ
韓国から対馬とか
対馬から壱岐の島とか
そっちで「〜里」って書いてあってそれを基準にできるんだから
それで決まりだろ
こんな簡単なことをスルーしてうだうだと
バカじゃないの?
倭人伝は全てが誇張されてるってみんなわかってるじゃん。
邪馬台国は九州だよ。大きくみせてるだけww
>>89 万葉集は藤原氏に対する怨念だらけの恨み歌集なんだっけ確か 日本書紀の作為は、
・尺を伸ばしてる < 王朝の古さを強調?口頭伝承の何かの間違い?半分神代と思ってる?
・女性(巫女)の役割の縮小 < 中国とコンタクトしてから男系に切り替えたから?
・朝貢の事実の抹消 < 中華秩序からの脱却という執筆当時のイデオロギー
大和と特定できれば、日本古代史の謎は一気に解けるかと思う
素直に読めば
日本列島全体のことを記述してるとは思わんよな普通に
九州内で収まってる話だろって思うよな
韓国から末路国まではちゃんと海を渡るって書いてるんだから
九州から海に出て近畿まで行くならそういう記述するわ
魏の使節に嘘をついたのは九州の勢力が機内のことを隠そうとしたってことだよ
>>154
邪馬台国がどこであろうが、そもそも郡使は伊都国までしか行ってないのは明白
以降は伝聞に過ぎず、倭王に会った、宮殿を見た、墓を見たも嘘か、記録の混乱 女王国より北は戸数・道里を略載することが可能
って書いてるから
>>160
短里がうんぬん言うヤツは
韓国から対馬までの距離をどう説明すんの? >>150
>韓国から対馬とか
>対馬から壱岐の島とか
>そっちで「〜里」って書いてあってそれを基準にできるんだから
基準になりません
当時渡海距離を測る方法はなかったから
実際、渡海三ヶ所の距離は倍くらい違うけれど、一律で千里としてあるでしょ?
現実に距離とは関係のない机上で作った設定値なんだから、基準にはならないよ
この辺を無視して短里はありまぁーすって言い続けるから、九州説はカルト化していく 梯雋と張政両方の話を適当にまとめたような感じはするな。
しかし実際に行ってる人が言ってるんだからしゃーない
>>162
長里で計算したら
韓国から対馬までの距離が500kmになるんだけど >>161
海を渡るのは大変だから、
一回渡れば千里という表現にしてるだけ
だから、
朝鮮から対馬まで
対馬から壱岐まで
壱岐から松浦までの距離がすべて千里と表現されてる
実際はそれぞれの距離は違うだろ?
本当に距離を測ってるわけではない
そもそも、海の距離ってどうやって測る?
自分が距離を測るとして、どうやれば測れると思う?
1800年くらい前の技術力で 長さの単位なんだから、「短里」があるなら、明確な定義があるはずなんだが存在しない
実用上、表記法も変えないといけないが、「里」しかない
>>165
帯方郡から狗邪韓国までは7000余里だけど? だから、短里か誇張かの二者択一だわな
誇張説をとるなら、数値に関することは全て疑うスタンスが正しいだろう
これは正しい、これは誇張だというのは恣意的になるからね
>>169
え?は?
この会話の流れで?
何が理解できない? >>1
最初は地理的に九州から発展したのは間違いない
古代は中国との近さが国の文明発展のポイントだった >>168
陸上での距離の測り方もどうなのか分からないしね
一日歩けば何里という測り方だと
道が険しくて進みにくい山道だと実際より長くなるし
中国からの使者がメジャー持って長さを測りながら歩くとも思えないし
そもそも魏志倭人伝の記述は昔の書物のコピペだし >>170
分からんなぁ
分かるように細かく説明しなさい
それができないなら他人を説得することはできない
>帯方郡から狗邪韓国までは7000余里
だとしたら、何がどうなるんだ? >>120
>晋書の4年は誤記だと
>故に鏡は日本製
>魏とは違う。呉の職人?
王仲殊は、呉の職人が倭国に来て三角縁神獣鏡を作ったというのが根本なんだけど
その「呉の職人が倭国に来て」という部分に根拠がないし、憶測以上のものではない
景初四年の、というか正始改元のいきさつは史書に書いてあるのはその通りだけれど、
その改元の理由が先帝一周忌の弔事と、新帝最初の正月元旦の慶事の祝典を同日にはできないと
いうことであり、そのためには結局、景初三年の次の正月元旦が2回ないと解決にならない
景初三年12月の詔勅で、景初三年の12月が2回あることになるが、一月一日崩御の一周忌を
同じ年の閏(後)12月1日には結局はできないってこと 韓国から対馬までと
対馬から壱岐の島までは実際にだいたい同じくらいの距離だわ
だから末ら国の場所が今考えられてるとこと違うんじゃないの?
結局それだって邪馬台国は畿内だっていう思い込みの中で探されたんだろうし
実際はもっと西だと思うわ
>>173
長里で7000余里を計算したら3500kmになるんだぞ
お前が言ってた「海を渡ったら全部1000里にするんだろ」っていう妄想でも説明できないしどうすんの?
っていう話だろ
わからんか? あの時代は字もまともに書けないのに統一なんて無理じゃん。
予算目当ての生活がかかってる関係者が畿内押しはわかるけどね
欲がない人からしたら普通に九州ってわかるじゃんww
まぁ末ら国が松浦だとしても
対馬〜壱岐の島の距離とはそんなに変わらないけども
3分の2ってとこか?
ゾンサガの山田たえちゃんって
邪馬台の台与ちゃん?
>>173
邪馬台国の位置や大きさを偽ることで
1)呉のすぐ背後(台湾のすぐ東)に巨大な邪馬台国があると見せかけて、魏が呉をけん制した説
2)巨大な大月氏国に朝貢させた曹真の功績に司馬懿の功績が見劣りしないよう、邪馬台国も巨大だと見せかけた説
などがある
https://hajimete-sangokushi.com/2015/07/29/post-4873/
魏志倭人伝に記されている旅程距離のほとんどが里数で記されているのに、
何故だか突然、不弥国から邪馬台国までの距離だけが日数で書かれているのです。
どう考えてもおかしいですよね?
この里数から途中、「何らかの理由」で日数を故意的に魏志倭人伝に記したという説。
魏が親密な関係である邪馬台国を敵対している呉に対して、
すぐ東方海上にあるように見せかけ呉の背後に魏との同盟国が存在するという牽制(けん制)するためという説もあります。
(略)
241年の夏には孫権が大規模な魏侵攻を行いました。
諸葛瑾を呉の大将軍に就任させ、荊州方面に軍を展開し、魏の柤中まで占領しました。
魏にとっては一大事の出来事です。
少しでも呉からの侵攻を牽制させるために、
邪馬台国を呉のすぐ東方海上にあるように見せかけたいので、
魏志倭人伝の里数を途中から日数に変え、現代の我々にとっては邪馬台国の場所が特定出来づらくなったという説があります。
邪馬台国には親魏倭王、大月氏国には親魏大月氏王の称号を送った魏の皇帝・曹叡ですが….
さて、司馬懿と曹真の各異民族の朝貢を比べてみましょう。
大月氏国(クシャン朝)は国の面積も広く、邪馬台国の日本の面積と比較してしまうと
どうしても司馬懿の功績が見劣りしてしまいます。
魏志倭人伝を含む三国志の正史が作られたのは晋の時代です。
魏を正統な国家として扱い、魏から皇帝の座を引き継いだ晋の皇帝である
司馬氏の正当性を周知させるために作られた歴史書ですから、晋の礎を築いた
司馬懿の功績が曹真に見劣りしてしまうと、司馬懿による政権交代が不都合にもなります。
そこで、曹真の功績と比べても見劣りしないよう
邪馬台国がいかに遥か遠い国からやってきた巨大国であるというのを記す為に
里数を途中から日数に変えたという説です。 狗奴韓国からは目視できる距離だから、ああ対馬は1000里ぐらい、壱岐も同じ距離だな、ふむちょっと小さいけどまあいいやみたいな
>>184 に追加
3)邪馬台国が正確な位置を知られて将来攻め込まれることを警戒して、意図的に魏の使者にフェイク情報を伝えた説
(実際に、呉の孫権はその情報を鵜呑みにして大船団を送り込んで大失敗した) >>175
辺に奴国の金印が志賀島で発掘されたのが奴等を調子付かせた
コレに託けて南と書いてるのに西への大転換をするからな >>176
途中で何回か陸地伝いじゃなく、海を渡るような進み方をしたんだろ >>175
壱岐からマツラ国までの記述には方角がないんだよね。
で、壱岐から東側に同じ程度の距離を進んでいくと、宗像市
の神湊ってところがあるんだよね。 >>188
もうさ結局そんな読み方してたら最終的な12000里だって
長里だとかそういう話はできなくなるじゃん いやそもそも12000里を長里で表したら5000kmなわけで
日本の畿内どころか日本の遥か先だったわけだし
魏志倭人伝の1里は80m
公孫氏が魏に対して自国の領土を大きく見せる為に使っていた。
>>192
そもそも短里なんて他で使ってる形跡がないんだから
ただの言葉遊びのこじつけでしかない
そんなの真面目に考える方がアホらしい
12000里なんて
とんでもなく遠いという意味でしかない
12000里を、どうやって測るんだ?
言葉遊びじゃなく、真面目に考えてみろ あ、
俺は短里とか放射説は全否定するけど
それでも九州説だぞ
女王国まで12000里
その手前の九州北部は女王国ですらないんだけどね
>>196
陳寿は足し算すらできないと言うのか、、
放射説の九州説ですよろしく >>193
12000里だと日本のはるか先だ
だから「短里」だ
と考えるのがおかしい
白髪三千丈の中国だから数字は誇張されていると考えるべき
これが正解 >>178
倭人伝の「共立」が怪しんですかねぇ?
それと伊都国一大卒の「行政機能」も怪しんでしょうかねぇ? >>199
本人が行ったわけでもない
過去の書物のコピペだろうし 「水行十日、陸行一月」=「自郡至女王國、萬二千餘里」
なんだよねえ。
>>195
短里は魏志韓伝や日本書紀でも出てくるぞ。
一時的に使われていた説と、韓国や倭国わ大国に見せたかったという説はあるが、
短里を否定する説は無い。 神武の東征が実際には、いつだったのか。
それによって、邪馬台国の姿や卑弥呼という存在がよりクリアになってくると思うんだ。
>>202
過去って言ってもそんなに昔じゃなくない?
魏略と魏志は同じ資料だとは思うけど >>184
2の可能性大だが、1はありえねーな
文章上で見せかけても、呉にはまったく通じないので、何の意味もねーし
2に関しては、公孫氏の排除と、それに伴う倭の朝貢は司馬懿の偉大なる功績であって、司馬懿の孫である司馬炎
の寵臣であった張華は陳寿の大恩人なんだから、忖度はもちろんのこと、命令されて書いたまであるな そういうのを悪魔の証明って言うんだよ
ありえない事を、ありえない事を証明出来ないだろとか
九州説はあり得ると思うけど、短里があったとかいうトンデモはやめて、素直に東夷伝の距離は誇張か錯誤か淮南氏の観念数値だという事を認めた方がいいと思う
(九州説だからみんな短里を支持とも思わないけど)
九州にあったと思うのはそれなりの考古学的証拠や状況証拠からだ
魏志倭人伝にはところどころ間違いもある
それでいいじゃん
長里か短里かなんて的外れの話で意味ないんだよ。
半島から対馬までが1000里って書いてあるじゃん。
実際には50`前後なんだから、1000里が大体50`としてとらえればいい話。
>>204
魏志韓伝て、方四千里って部分?
そもそも朝鮮半島は正方形じゃないぞ >>209
そういう事
魏志倭人伝はすべて正確だ
みたいな無理やりな解釈をする必要がなくなる >>206
そのコピペ元がオリジナルかどうかも分からんわけで
それすらコピペの可能性がある >>210
そうやって考えるからおかしくなる
海を渡ることを「渡一海千余里」と表記してるだけだと
考えればいい 邪馬台国の官
@イクメ
A彌馬升
B彌馬獲支
C奴佳ティ
…ということで、崇神天皇か垂仁天皇の時代でほぼ確定。
時代によって長さは違ってくるが、古代日本に短里はない
大宝律令で大尺、小尺はある
平安時代頃から大里、小里が使われてる例はある
が、全然別の話だよね
>>213
そうかもしれんが、魏使が来たのは事実だと思う物的証拠は少ないけど。
この倭国の描写は実際見た資料があったと思うなあ >>217
魏の使いは日本には来たと思うよ
ただ、その時に測量しながら来たわけではないだろうし、
邪馬台国まで来たかどうかは分からない @末蘆→唐津周辺→佐賀
A伊都→糸島周辺→福岡
B奴→福岡周辺→福岡
C不彌→宇美周辺→福岡
投馬国、邪馬台国は遠く(ざっくり東から南の間)にありました。
本当に有難うございました。
マルコポーロのジパング記述みたいに実際に現地に行かず
伝聞を書いただけかもな。
魏志倭人伝も対馬や隠岐くらいまでは来たんだろうけど
そこで聞いた話をさも自分自身が行って見てきたように書いたんだろ。
何しろ中国人はでっち上げが得意な民族だからな。
>>218
魏使は三回きたのはなんとなく読み取れる。
最初の使いが邪馬台国まで行ったように思う。
コイツが行程をよく覚えてないのがいけなかった。 >>203
「水行二十日」「水行十日、陸行一月」=「自郡至女王國、萬二千餘里」 >>198
公孫氏は事前に自立を準備して特殊な里で勢力圏を測量してたんだ
その資料を魏が押収して陳寿が見た。 >>218
卑弥呼と魏使は対面してるから邪馬台国には確実に来てるよ
だいたい倭王に柵封されてるのに倭王本人が使者と会わないなんてことはない
魏使が測量までしたかはわからないね。 >>204
朝鮮半島の歴史を記した三国史記でも使われてるね。 陳寿は、公孫氏が滅ぼされ、魏が回復し、晋が継承した資料を見ている
>>220
>C不彌→宇美周辺→福岡
C不彌→那珂川町周辺→福岡 昭和の時代には、魏使はせいぜい伊都国で留め置きだったというのが定説だったと思うんだが、いつの間に女王国まで行ったことになったんだろう
そもそも編年自体がかなりアバウトなものなのにな
順序は分かっても絶対年代は誰にも分からない
それを根拠に語るってこと自体お察し
>>175
海上の距離は測量できなかったんでカンで一律に1000里としただけでしょう。 >>229
伊都国が卑弥呼の都ってことで全て解決
壱岐対馬の方400里と方300里も行程として計算すれば
伊都国と奴国の国境で12000里ですから女王国に着いてますよ。 >>185
陸上なら歩測による簡易測量が出来るけど海上だと不可能だからね。 http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_touyokuso/yokuso.gif
三韓 方可四千里有 = 1,700km四方。過大、250km四方と言ったところか
東沃沮 其地形東北狭西南長 可千里 = 西南に430km。大体近い
高句麗 方可二千里 = 870km四方。過大だが、扶余滅亡後の記述なら変ではない
扶余 方可二千里 = 870km四方
挹婁 挹婁在夫餘東北千餘里 = 扶余から東北に430km
千単位でざっくりな表現 >>225
会ってるよな。
楼観があり守衛がいるとまで書いてるんだから 邪馬台国が仮に九州に収まるなら豊&日向あたり。(投馬→薩摩)
九州に収まらないなら四国あたり(を含む畿内5畿)だろね。
海を渡るとまた倭種がいるって書いてあるからね。
で、どのみち邪馬台国の勢力範囲は奴国までと。
狗奴国は火の国で熊本平野あたりと。
邪馬台国の国内の描写と
行程や里程などの記述
これが同じ人が記録したとは限らないんだよね
紀貫之の『土佐日記』を見ると、土佐から京都まで2か月弱かかってる。
まあ、途中、各地で歓待を受けたり風待ちで足止めされたりしてるけど
10世紀の時代でもそんぐらいかかってるんだよ。
3世紀の時代に水行10日陸行1月ならそれほど遠くはない。
長里に決まってるけど海を渡ったら適当に千里ってする
とかなんか根拠あって言ってるの?
今みたいに天候に左右されず航海できる、動力が付いた船とか
土木工事で線形を改良され、勾配を緩やかにし、舗装され、川には橋が架かり、山にはトンネルが掘られた道とか
そういうのは昔無かったもんな
>>241
逆に聞くが、海を渡るときに距離を測れるのか? それと、邪馬台国へ行くまでは、ある場所までは船に乗り、またある場所までは陸を行き、
またまたそこから船に乗ったりと交互交互に繰り返してたんじゃないのかな?
それで、水行がトータル10日、陸行がトータル1月かかったってことだと思うよ?
>>240
集落ごとに歓待で40泊ってことだーね。 >>240
10世紀の旅は船旅だったんだよな
律令政が崩れて道の整備がされなくなると
道路が使えずに船でしか旅が出来ない。 >>243
え?測れないの?
仮に全く測れなかったら
「測れないから千里ってことで」なんてするの? >>237
卑弥呼の風体に付いても記録してるし会わないと倭に出向いた目的が達せられない。 >>247
え?
測れるの?
じゃあ海を測って千里だったとでも?
どうやって測ったの?
千里の長さがある紐でも引っ張ってたの?
予想よりも長くて千里じゃ足りないときはどうするの?
もしかして船には千里の長さのひもが何束も乗ってるの? >>247
高度な測量技術が広く知られていた時代ではないから歩測等の実測が主流の時代
測れなくても数字は入れとく必要があったんで苦し紛れでしょうね。 >>249
帯方郡から狗邪韓国まで海岸沿いで航海してるわけで
どのくらいの時間でどのくらいの距離進めるかはわかるだろ 魏の役人が本当に簡易測量してたらソウルから唐津までを1万里とかある訳ない
測量せず適当に書いたんでしょ
陳寿か魏の役人、どっちが適当かは知らないが
そもそもだ。
神武天皇は卑弥呼より前の時代の人物なのは間違いない。
神武天皇は日向から九州の東海岸を通り、瀬戸内…と東征していったわけだ。
薩摩は阿多王(海幸彦の子孫)の国。お嫁さんを貰っている。
…となると、九州は熊本あたりを除いてもともと勢力範囲だということになる。
北九州あたりは海神の国。瀬戸内は大山祇の国。みんな親戚である。
>>251
世の中どこでも同じ速度で船が進めるとでも? 海がそんだけ適当なら陸だって適当だろ
「長里で間違いないけど海は適当」って言ってるから
都合いいとこだけかいつまんでんじゃねえよって話
そもそも長里だったら日本列島どころか太平洋も横断しそうな勢いだろが
>>255
陸上も一日歩いて何里とか決まってたんだろ
使者がわざわざ測量しながら歩くとでも思ってるのか?
じゃないと500里ってなんだよ、なんですべての距離が端数なしでまとまってるんだよ >>239
だな。
投馬国と邪馬台国は伊都国あたりの記述と全然違うよね、別の人が行ってる >>254
7000里は韓を歩測した方4000里からの計算でしょう
壱岐対馬も海岸を北から南まで歩測したんでしょう
魏使は卑弥呼に会って倭王に柵封する目的がありますから
測量なんてしてる暇は無かったでしょう
それ以前の公孫氏の測量部隊が測って記録してたんでしょうね。 >>253
まぁ元々九州に居た頃の神功皇后訪ねたんじゃねぇかってのが近世までの定説だもんな
天皇は最強だから兆候なんてしてたはずがない!とかいう基地外極右に潰されたが 帯方郡から12000里を魏の里の
435 mとすると、行き先は
パプアニューギニアかマリアナ諸島になるね。
北東ならベーリング海峡付近だ。
いくら適当でも韓国から対馬を4〜500kmはないだろ
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
又渡一海千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 到伊都國
東南 至奴国 百里
東行 至不彌國 百里
↑ ここまで、九州だろ?
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
↑ たった、これだけのことが判らんのか?
>>263
邪馬台国=パプアニューギニア説
それはそれで楽しそう >>265
一行目で「東」って書いてあるけど、東だと海の上になるって当然知ってるよね? >>263
考古学的事実は置いといて、
資料を正確に読むとそうだよ
だからどの説でも何らか魏志倭人伝に加工を加える必要がある
そのまま読むとか不可能 神武天皇の御代から下ること9代。
欠史8代の間は古代戦国時代ともいうべき倭国大乱の時代。
そして、崇神天皇、垂仁天皇の時代あたりに卑弥呼がいたはずだが、
「女王」が何を意味するのか。
内親王のことなのか女王(にょおう)のことなのか。
はたまた、地方豪族の女酋長なのか。
天照の血を引く者なのか否か。
>>269
ヤマト王権は狗奴国だよ
それが一番すっきりする >>265
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。
以下国名のみ
ってあるからな
九州から邪馬台国の間に投馬国しかないことになる 海に出たら一切の距離がわからなくなる
なんて言ってたら昔の船乗りたちはどうしてたんだよ
>>133
いや畿内説でも、万世一系なんて否定してるから >>273
昔は沿岸部を伝って航海してたのがほとんど
外洋に出る船なら天測できたかもしれないが
それができる人が朝鮮にあたりにいたかは分からないし
当時の天測で朝鮮と対馬との距離が測れるのかもよくわからんな >>275
卑弥呼=神功皇后説が畿内説の多数派なんじゃないの? >>274
まず倭人伝を読むと狗奴国は邪馬台国以上に強かったし狗奴国は熊襲でない。
次に狗古智卑狗はカワチヒコだ。カワチの語源は古い。
次に後漢書では女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国になってる。
そもそもヤマト王権は邪馬台国を知らなかった >>269
>欠史8代の間は古代戦国時代ともいうべき倭国大乱の時代。
個人的には、これに同意なんだよね
2代目をめぐる跡目争いが倭国大乱
8人くらいが短期間で交代した黒歴史なんで事績を抹消
姉御の卑弥呼(=百襲姫)が出てきて混乱を収める
弟(大甥の崇神天皇)が世俗的な王位に就いて、初代にあやかり「はつくにしらししみまきのすめらみこと」
崇神・垂仁・景行の3代の宮が纒向遺跡周辺
卑弥呼死後は、崇神の娘、台与(=豊鍬入姫(とよすきいりひめ)、初代斎宮)が後を継ぐ
次代の垂仁天皇で、祭祀が伊勢神宮に移され、祭政分離が図られる すっきりしすぎちゃったかな?
以上で邪馬台国は熊襲だjk
>>272
九州から邪馬台国の間? って何?
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有 (次有、次有・・・列記21国) 此 女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
邪馬台国 は、
九州の狗奴国(不屬女王)より北にあって
可七萬餘戸で、(次有で名前を記す)全部で21国が所属して 此で国境を為す。
って、書いてあります。
自女王國以北 其戸數道里可得略載=対馬壱岐や韓諸国は戸数道理を略載済み
其餘旁國遠絶 不可得詳=この道中に無い餘旁國は遠絶で不可得詳(名前も知らん)
です。 >>281
帯方郡から邪馬台国までの国は戸数も道程も記載してるだろ
どう考えてもそれを「女王国の以北」って書いてるんだろ
それより遠くの国は詳細は書けないって言って国名だけ羅列してるんだから >>276 朝鮮南部の海外線にサバ・イワシを追う入墨した東テイ部族がいた。
拠点は沖縄〜千葉〜新潟あたりまで海洋民族。
後漢書東夷伝んは、秦の時代には沖縄・奄美の認識あり
会稽の海外に、東テイ(魚へんに是)人あり。分かれて20余国となる。また、夷洲およびセンさんずいに亶)洲あり。
伝に言う「秦の始皇(帝)、方子の徐福を遣わし、童男・童女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅(殺)を恐れ、あえて還らず。ついに此の洲に止まる」と。
世々相承けて数万家あり。人民、時に会稽に至りて市す。会稽東冶の県人、海に入り行きて風に遭い、流移してセン(さんずいに亶)洲に到る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。
徐福が後の大和国をつくった。
東テイの久米氏らが護衛隊となり、高床式の倉庫のちの熱田神宮や住吉神社・熊野神社になった。
そんなところだろう。 >>282
国名だけ羅列してる 21国は、女王の所属国です。
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
が、この国の大夫で女王の使者だったと考えられます。
奴国が2回出てくるのは
到 伊都国 までの行程 都市間里程で示す、計一万五百里
の近接100里の国として紹介されたの
と
女王所属の21国列記 なので 2回出てきます。 潮の流れを考慮して目的地に到達してるわけだから
距離も何もわからずむやみやたらに航海してるとは思えないけどなぁ
卑弥呼の時代あたりは九州と本州が陸続きだった。
(関門海峡→神功皇后の時代に開削した@記紀)
…ということは洲であるのは四国のみ?
もうこの際
群馬か栃木でいいだろ?
そもそも陸行で1月もかかったら内陸のど真ん中までいけるだろ?
>>285
伊都国とかは女王の所属国じゃないって言ってる?
そもそも素直に読む気ないよね結論ありきというか
あと奴国も別に同じ名前の国が2つあってもおかしくないと思うんだが
つい最近まで争ってたレベルの国々なんだろ? グーグルマップで、
北九州市から鹿児島市までの直線距離を測ると
254km
これを高速道路経由で測定すると
388km
高速道路を使わず、海岸線をたどるようにすると
600kmを超える
九州の古墳はほぼ掘り尽くしてるし
未発掘の古墳が多い畿内の方がやっぱ有利だよな
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
近畿説の疑問点
温暖?
冬も夏も生野菜を食べる?
冬は雪も積もるのに裸足?
>>289
伊都国 末盧國 不彌國
は 女王に属する王=大夫の居る国 ではなく
いずれかに所属するであろう、里程で示した行程中の地名、都市名です。 >>294
その記述に関しては沖縄なら問題ないが、本州でも九州でも不一致だね >>294
当時は寒冷期だったといわれているので
そこら辺考えると、九州も畿内もアウトで
それこそ沖縄くらいしか該当しなくなるんだよなあ >>294
畿内でそんな情景があり得るとしたら
和歌山の太平洋岸あたりで、奈良ではない
でもやっぱり冬は寒いだろう
九州でもやっぱり寒いはず、畿内よりマシだけど
もしかしたら、
この記述はもっとずっと昔の縄文時代の頃の記述が元になっているかもしれない
魏志倭人伝の記述がコピペらしいのは有名だし
コピペ元がいつの時代なのかは定かではないし
とか考えると楽しいよな 日本列島のどの場所選んでも冬暖かい場所なんて無いからその記述は無視していい
>>76
大分と熊本の境界域は鉄鏃がたくさん出る
異なる勢力の境界域だったことがあるのだろう
大分と宮崎は言語系統からして人種民族的には似たようなものかと思うが
大分が女王国はあっても宮崎が女王国は無いだろう
神武天皇譚では卑弥呼のような人物は一切出て来ない
それどころか女をケガレ的に考えている思想習俗が見られる
神武軍は巫術の類いを拠り所の一つにしたであろう遠征先の女酋長的な人物を虐殺している
九州というのは県境で古代先史の人種民族宗教思想勢力の境と概ね重なる >>287
wikiだと、関門海峡は「約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。」と書いてある。 >>293
逆じゃないかなあ?
未開発のド田舎が多い九州の方が発掘は進んでないと思うけど。 >>296 265からの続きなんだ、
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
又渡一海千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 到伊都國
↑ 文法的に、ここまでは、継続する行程
至はget to 到はArrive at
東南 至奴国 百里 ←動詞が無い、訳=(到達した伊都の)南東百里に奴国が有る
東行 至不彌國 百里 ←方向+至地名+距離 の語順、訳=東に百里行くと不彌國
で、同じ文法で
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
も、邪馬台国の地理的紹介だけれど、これは、そもそもが
馬韓54国 辰韓12国みたいな、邪馬台国21国なので行程の訳が無い。 しかし冬と思えんよ。九州は半袖短パンで丁度いいwww
生野菜もボリボリいけるwwwww
>>305
ド田舎だから発掘しやすい
都会だと既に家が建っているので、その下が発掘できない
関西のほうだと、立て顔の時に色々出てきて作業が止まるってのはよく聞く話。 邪馬台国の人はかなり南方も知っていたのさ。
沖縄でも弥生式土器は出てるからね。
>>307
魏志倭人伝の記述の距離は、直線距離ではないだろうと言ってるんだよ
直線距離でつないで太平洋に出ると言ってる方がバカ >>310
三輪山とか忍坂とか大和朝廷創成期の舞台
田舎だな
本当に田舎だった
しかし発祥地で先進地 当時田舎か?と云うとアレだが
平地だと思ってたところも海の底
関東平野もこれ
手漕ぎで大隅半島を南に漕ぎ出しても沖縄にはたどり着けないぞ
流されている実感は全くないまま黒潮に流されて10日で潮岬
>>103文献でもでない限り永遠に謎だよね
戦争ばかりでなくコレラとか伝染病もあるからねぇ
たたりじゃああ 不彌(ふみ)國は宇美(うみ)町
応神天皇が産まれた宇美八幡宮がある。
近畿説は関西の連中が、研究費欲しさに言っているだけだろ。本当に懲りない不誠実な連中だよ。「さすが日本三大研究不正をやらかした考古学ですね」って、他分野から笑われて、肩身がせまいわ。
>>261
記紀だけ見ると
ヤマトタケルが死んだとき兄弟の成務を天皇にしてるけど
慌てた感あるよな仲哀がまだ小さかったから
仲哀変死で後継ぎまだ生まれねえしとなると
代打の皇后が治める格付けのためには外交で結果を出すしかなかったってのは分かる、三韓攻撃にしろ中国との外交にしろ
というかやっぱただの神話、作り話と考えるにはいい感じのひねりが利きすぎだ >>317
さらに10日で野島崎あるいは犬吠埼
あとは太平洋を1年でアメリカ西海岸だ
良栄丸
ずっと乗っていたら死ぬ海流 >>317
そうだよなあ。
でも貝輪は沖縄あたりの貝が多いんだよ >>315
意外と大阪市内からすぐ超田舎(九州山地のどまんなか以上に)で、九州人は驚く。 >>266
半分ぐらいパプアニューギニア人のジャレドダイヤモンドが食いつきそうだな >>312
なんだと!?この馬鹿野郎、もっと美味しく作れよ
前方後円墳にするぞ、この野郎w 福永晋三の九州説は何となく納得できる
なんつうか元々教師だけあって
話が上手い
三輪山は福岡の香春岳
>>326
はぁ?てめえコノヤロウ
貴様も農林業にさせんぞこら >>225
使者は卑弥呼に会ってるよな。
決まって議論になる倭人伝の行程を書いた人間は
使者やその使節団の関係者じゃなく、明らかに別人なんだよな。
陳寿は使節団関係者から公的記録を入手できず、
大陸から倭国までわたったが邪馬台国までは行ってない人物の手記を参考資料にしたんだろうね。 >>310
福岡市近郊は都市化が進んで発掘調査なんて難しいな
>>324
奈良とか行くと田舎で驚くよな。
博多は弥生時代から現代まで続く日本最古の都市だな。 >>331
正直ドッチでもいいけどチョンに利用されないほうで決まってほしい >>331
九州説の一部の老人が頑張ってるけど
現在の趨勢としては、畿内
今は大ドンデン返しがあるのかどうか見守ってる感じ
今騒いでるのは九州説でも色物とバカにされてた人達だから
九州説と一緒にするのは、マトモの九州説の人がちょっと可哀想かな 普通は理由泣くわざわざ発掘なんてしないんだよ。
発掘するのは工事とかで発見されて
壊されるのが確定したときのみ。
それも建物建てるために土台を
掘り起こすときのみで、
掘り起こさない、遺跡を壊す心配がない
駐車場のようなものだったら
記録だけして埋設保存という放置。
発掘ってのは、今までの千数百年
保存されてきた遺跡を
壊す行為だからね。
壊さないで良ければできるだけ
放置するのが基本。
>>331
従来中立だった教科書もついに書き換えられたよ
山川出版社『詳説日本史B』2016年
「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている」
東京書籍『新選日本史B』2018年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
清水書院『高等学校日本史B』2017年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」 山川は教科書では控えめな記述だが、参考書(執筆者も教科書とほとんど同じ)ではここまで踏み込んだ表現をしてる
『詳説日本史研究 』 刊行:2017年8月
「邪馬台国は、魏志倭人伝の記載をそのままたどると九州のはるか南海上に存在したことになる。
したがってこれを合理的に解釈するには、九州説の場合は倭人伝の距離の記載を、
近畿説の場合は方位の記載を修正することが必要となる。
このことは魏志倭人伝には史料としての限界があることを示しており、
この問題の解決には、多くの状況証拠を提示しうる考古学の役割が大きい。
次節に述べる古墳については、出現の当初から近畿を中心に分布することが知られている。
従来、古墳の成立については、4世紀のこととされてきたから、
3世紀前半の邪馬台国問題と直接関係しないと考えられてきたが、
最近では、古墳の出現年代が3世紀後半までさかのぼると考える研究者が多くなり、
少なくとも考古学の分野では、近畿説をとる研究者が多くなりつつある。」
そういえば、山川の教科書で古代史を執筆していた佐藤信氏は東大を退官したんだな
今後も山川の教科書を執筆するかは知らんけど
イメージ的には九州だし、九州であって欲しいとは思うけど、
色々な情報を総合するとやっぱ奈良かなあ・・・?
奈良の弱点ってのは方角だけだからな。
しかし、それも当時の中国人が日本の形を90度回して認識してたとすると
全然矛盾がなくなるし・・・なんでマツラから東南に伊都国があるんだ?とかいう問題も解決する。
オレは今日から近畿説派に転向する。
>>339
お前がもともと畿内説なのはわかってるよ。
たしか印象操作をするのも畿内説拡散方針の一つなんだよな。
朝鮮式ってやつな。
かれこれ15年前から実行されてるが未だに九州派:畿内派=7:3のままだぞ。
働きが足らんな。 太陽の昇る方角考えたら古代人が方角間違えるとは思えんのよな
そういうとこは古代人というか伝統的社会のほうが敏感なイメージ
「帯方郡から邪馬台国までの距離は誰かが短里=1里70メートルを使って簡易測量したものだ」
さすがにこれは無いわ
九州説とか畿内説以前に、無い
>>337
教科書とか流行りの一周遅れか二週遅れ
聖徳太子が消えるまで20年くらいかかった >>339
方角をまるっきり間違えることはなかなかないと思うんだよ
北東から南東のあたりをまとめて東だとか、
そのくらい大雑把な捉え方になるとは思うんだが
東を南と間違えるなんて
そこまではないと思うよ
古代人ほど、現代人以上に方角には敏感だと思う >>329
倭人伝は魏時2回の使譯の報告記録、
評曰 魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
@ 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
240年 梯儁 は女王に印綬で女王宮まで到達。 魏の軍船による行軍
↓ 238年公孫氏の楽浪帯方侵略後 初の韓〜九州行軍で寄港寄宿地も不明、
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡 (印綬の女王国の国勢)
其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
・報告
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里(倭地のほんの一部です)
A 其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
247年 張政 は遣倭載斯烏越の船で、為檄告喩之と調査に来た。
伊都まで1万5百里。寄港寄宿、経由地の和名を聞いて、里程を示した。
帰国船=壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
・報告
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王 不得差錯
(一大卒の検閲を受け駐留させられた。皇帝や女王の文書や賜遺之物も検閲される) >>339
風習も墓の作りも集落の作りも違うよ
むしろ合っている箇所はどこ?って感じ
記述と照らし合わせて合っていると思われる箇所を述べよ 畿内説の人の根拠は
奈良には、卑弥呼の時代に大きな遺跡がある
というだけなのかな?
>>345
四国説というより徳島の剣山洞窟の100体のミイラ
あれ何で情報公開しないんだ >>343
そう、教科書はアップデートが相当遅い
邪馬台国論争もとっくに決着してたけど、ようやく書き換わったという感じ
あとは改訂のたびに、少しずつ畿内説の記述を強めて行くと予想してる
教科書から九州説を削除するのが理想だけど >>351
アップデートが遅いだけなら、
そのうち纏向は邪馬台国じゃなさそうだという事になっていくだろ >>350
・記事は存在する
・「徳島日報」ではなく「徳島新聞」である
・「1950年」ではなく「1952年」である
・新聞記事によると、そもそもミイラがあるという証拠はない
・都合の悪い証言は無視される >>352
おじぃちゃんの寿命とどっちが先だろうねww そもそも魏志倭人伝に書かれていることが正しいと考えるから矛盾ができるんじゃないの?
他の記述(韓国とかの他国や他の年代の日本に書かれていることとか)とか読んでも信用できる資料と言えるの?
歴史書に詳しい人教えてください!
>>353
当時の新聞記事と写真が検索しても出てこなくなってる 儂の目の黒いうちは朝鮮式流布畿内説の跳梁跋扈は許さない
古代、九州の南海上に大きな島、あるいは九州四国と地続きの地がありそこが邪馬台国だった
倭人伝を100%信用した場合これ以外考えられない
倭人伝を信用できないのなら、倭人伝に反する説も信用できない
>>355
全然
そもそも、魏志倭人伝って、本論の中に出てくるのではなく
別冊の付属資料に、一部書かれてるだけだから
本論でもなく、それだけで、論になってる訳でもない
なんでそんな論をマジメに書くと思ってるのか不思議
実際検証も出来ていない
まぁ、パズルとしては面白いのかもしれんけどね
そこから答えは絶対に出ないよ 漢から唐辺りまでの東夷に関する史書を鳥瞰すると
その背景に、共通の概念図の存在が浮き出す。
これが、諸所問題になる 月行、年行という単位の謎。東夷以外には無い。
郡から済州島は3月行、九州南北は3月行。奈良までの日本領東西5月行。
裴世清以前でだが、おそらく本州に瀬戸内海が無い。方角間違い説も無い。
畿内説なら、日本海ルートだが、どっちにしろ九州で船を降りるわけがない。
>>356
いつまでもオカルトに付き合ってられないんだろ
無限じゃないんだよ 天皇一族は朝鮮から渡来した侵略者かどうかも研究してほしいものだ。
手塚治虫の火の鳥だと邪馬台国が元々の日本の一族で
天皇一族は朝鮮から渡来した侵略者で邪馬台国を滅ぼしているんだよな。
オレもそっちの説の方が説得力あると思っている。
キングダムとか読んでいると文化レベルに差がありすぎで
侵略されない方がおかしいんだよな。
当時の地図があればかなり分かってくるだろう
今の正確な地図で記述を追っていくから方角が合わないんだと思うわ
>>359
お返事ありがとう。
真面目に議論するだけ無駄な気が…。
神話の世界を真面目に議論しているぐらいの感じなのかな。 >>362
航海術も持たない当時の朝鮮人が
大挙して船団を組んで邪馬台国に攻め込むなどできないよw 1枚大切に置かれていた画文帯神獣鏡と無造作に投げ置かれていた30数枚のその他の鏡
画文帯神獣鏡は魏鏡でなく呉鏡だよ
卑弥呼の親魏の邪馬台国は滅ぼされた
>>361
発見されたのは戦後の話であり最近のこと
どこがオカルトなのか分からんが邪馬台国と
関係ないからやめとくわ >>362
呉鏡たる画文帯神獣鏡は南チョン国からは一枚も出ない
シナ南部の浙江や江蘇などで出る
手冢氏は騎馬民族征服設など古来原初かられんめんと続いたとする皇国思観が嫌いで
朝鮮モンゴルに征服されたことにしたい願望でもあったのだろう >>350
その話は知ってる。
ミイラの顔に刺青が入ってたやつだよね。
実際には8体運び出されて、米軍が持ち帰ってそのまま音沙汰無し。 >>359
魏志があてにできないとなると邪馬台国自体がどうでもよくなるのがね
出土品の古さと変化だけ見るってのもシンプルでイデオロギー論争みたいにならないからいいのか?
銅矛、鉄の武器、銅剣、前期の銅鐸、後期の銅鐸、弥生土器、遺跡、棺、鏡
と思ったけど鏡の成分の出自やどこ製造かとかで結局水掛け論みたいになってるような・・・ 古代は国境なんてもんなかったからな。
邪馬台国は縄文系、ヤマト王権は弥生系でいいんじゃねえの?両方とも倭人だよ。
そもそも古代朝鮮半島南部は倭人がいてるし、今の朝鮮人とは違う
>>371
1400年の地図でこれかよ
300年の認識がどうか分かったもんじゃないな 国境はないと言っても、山や川とかで自然境界はできる
魏志も、各国を「国」として列挙してる
>>371
あぁ、やっぱり日本列島の向きは間違ってないね
朝鮮半島が大きい
方4000里くらいになるかも
九州島の向きが少し違う
四国はない
房総半島らしきものまで描かれてる
1400年代か
会稽東治の東 >>379
国っていうより邑かもな。
魏志東夷伝は結構整理して書かれてると思うんだけどなあ >>378
本当の原本はクビライ王が作らせたものらしい。
会稽の東に日本があるというのは、この地図でもわかるかと。 >>355
倭人伝は238年から247年までの魏と女王国の外交史が書かれている。
この部分は、日本の古代史に西暦と照合できる唯一の事実と見て良い。
ただし、女王卑弥呼が倭王である、という読み方が間違っている。
倭人伝では、女王国という一代王の名称で呼ばれる国でしかない。
数代に渡る戦国史である三国志で、帯方南東の大海の向こうの大国
日本列島がこんな呼ばれ方をするわけが無い。
帯方郡から南東ではなく、南であって、九州上陸に1万里 で
自郡至女王國 萬二千餘里 以南は狗奴国他、統一日本ではない。
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種 で
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
九州島の福岡筑紫平野内の地域しかない7万戸の国
247年以降歴史には登場しない、女王一代の国。
それが邪馬台国でした。 と書いてある。 >>387
オカルト脳にしか分からない何か
いいからオカルト版に行け 大阪の上町台地が掘ることができれば邪馬台国どころか、空白の二世紀が埋まるんだけどねぇ
今も昔も大都市過ぎて発掘できん
>>389
上に「西?」、下に「東夷」とかいてあるが? 縄文人も含め日本人の先祖が渡来したルート、黒潮に乗って鹿児島から和歌山に行ったんだよ
方角の問題は解決
>>389
これを見ると
隠岐の島や佐渡島には街道行ってるけど
徳島や長崎佐賀辺りには街道ない感じか
佐賀は鳥栖辺りにはありそうだけど 2世紀終わりからはじまる九州の衰退
代わるようにはじまる畿内の発展
そしてのちの朝廷
簡単に言うとそういうの
>>355
三国志は3世紀末頃に書かれていて、張政等の報告書など基資料を参考にして作成されていると考えられる。
陳寿は三国志を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したとされているので信用度は高いと言える
日本にはこの頃の記録は存在せず、500年後の記紀しかないので信頼で来る唯一の資料なんだ。 >>391
「朴ちゃん知ったかなんで分かりません」と正直に言え
ゴミ >>383
国邑と表記されてるね
郡、市程度の大きさだね。 >>404
朴ちゃん知ったかなんで分かりません
これでOK?
オカルト版行け なぜ畿内説で決着したか、根拠を3行で書くとこうなる
・3世紀前半には、初期ヤマト王権が成立していて、王都が纒向に置かれていた
・3世紀中頃には、北部九州は初期ヤマト王権の傘下に入っていた
・初期ヤマト王権が魏と交流があったことが物証で裏付けられた
ヤマト国を魏使の認識によるところの倭国の盟主邪馬台国とみなすのが妥当ということ
九州説がこれを上回るには、魏が騙されて九州の雑魚を親魏倭王に認定してしまった、という陰謀論を証明するしかない
自ら扶桑と言ったりする日本なのだから、扶余族と関係がありそうだ。
近畿に扶余族が流れ込んで大和王朝を築いたのかもしれん。
これと似たような説はたくさんあるよな。
GHQもそう結論づけていたような話を聞いたことがある。
日本書紀が日本国内の記述については魏志倭人伝よりも遥かに正しい
というのは年代についても事件についても日本書紀にかかれていることはほぼ事実だから
当時はその他諸々の無数の書簡が存在し日本書紀と変わらない事柄を記していた
つまり卑弥呼自身は大した存在ではなく
むしろ神功皇后こそが本当の女王=皇后だった事を示している
卑弥呼が歴史から姿を消したのはなるべくしてなったことであり
本居宣長が言うように単なる詐称の女王だったということだ
実際に中国の使節の張政が日本に来た時には卑弥呼は土の中だった
魏志倭人伝に書いてある通りだ
>>408
>・初期ヤマト王権が魏と交流があったことが物証で裏付けられた
この物証って何? >>351
アップデートするにしても反日国家のヤッカミを受け入れてる時点でゴミ よってこいつも知ったか
> ID:mdGA2mBP0
>>408
>・3世紀前半には、初期ヤマト王権が成立していて、王都が纒向に置かれていた
初期大和王権の王都がそこにあったのだろうけど、
それが倭国全体の首都機能を持つとはだれが言い始めたんだ?
>・3世紀中頃には、北部九州は初期ヤマト王権の傘下に入っていた
入ってないだろ
もしかして北九州市あたりのごく一部の話?
>・初期ヤマト王権が魏と交流があったことが物証で裏付けられた
>>413で書いてるけど
物証って何? >>413
そいつマジ基地だから相手にする必要は無い。
つねに邪馬台国スレに貼り付いて工作やってる自称研究者といあ自宅警備員だよ。 日本に当時の書物無いし、中華の書物も、聞き書きで本当かどーか、確かめようがない
これが、いろいろ混乱を招く原因
どうでもいいクソコピペを繰り返してるアホを相手するなと
5ちゃんの基本も知らないニワカだらけで草
>>413
・北部九州で出土する畿内系土器
・中国鏡
・魏の年号が入った鏡
・日本列島に自生しなかった植物の花粉
・中国式の土木技術(真円で古墳を造る技術や四角い柱)
つーか、こいつ魏志倭人伝全否定のやつっぽいからレスしても無駄かもしれんが >>421
「魏」と交流があったとする物証にはならんだろ 恥の上塗り
まるで見当違いのレスって気が付いてないの
馬鹿丸出し
仮に箸墓が卑弥呼の墓だとしても、そこが邪馬台国だったとは言い切れない
吸収も機内もありうるが、東征だけはない。
戦争の痕跡がないから
>>424
例えば中国鏡だが、畿内勢力が独占していて、九州はまったく入手できなくなっていた
従来中国鏡を独占してて各地に配布してた伊都国でさえ国産鏡で代用するほど干上がっていた
しかも、博多に畿内系住人が移り住んでいたことが土器から確認できるので、魏との直接接点もありえる
こんな状況で間接入手は考えられないってこと >>403
その書き方だと初心者には誤解を招くな
倭人条を含む烏丸鮮卑東夷伝は、膨大な三国志の中の極く極く一部に過ぎない
倭人条は王沈の魏書や郡使の報告書を資料としている可能性が高いが、信憑性が
薄い資料を排除したのは三国志全体を簡潔にまとめるという編集方針であって、倭人条に限ったことではない >>421
>・北部九州で出土する畿内系土器
畿内は土器の製造拠点
下請工場
今の日本にはMade in Chinaの製品が多いですけど
それを根拠に、日本は中国の傘下にあると言いますか?
言いません
>・中国鏡
なぜか日本にしかない中国鏡
>・魏の年号が入った鏡
流行りものだったんだろ
>・日本列島に自生しなかった植物の花粉
いきなり奈良に出現する事は無いわけで
どこかを通過してるんじゃないかな?
それはどこだろうね?
>・中国式の土木技術(真円で古墳を造る技術や四角い柱)
技術って、九州や中国地方を飛び越えて伝播するんですかね? 遺伝子的人種的に畿内人は南九州人
白血球HLAJCウィルス
福岡大分宮崎の沿岸を回るように近い
言葉が違うのは知らない
>>431
史書には鏡が重要物であったという記述がないんだから、その話は風俗史にしかならん。
続けても不毛だ。 >>431
>従来中国鏡を独占してて各地に配布してた伊都国でさえ国産鏡で代用するほど干上がっていた
伊都国は国産の鏡が流行り始めたからじゃないのかな?
>しかも、博多に畿内系住人が移り住んでいたことが土器から確認できるので、魏との直接接点もありえる
博多は国際都市だったんだろう
畿内の方では輸入してきた鏡が流行ってたんじゃないの? 中国の帯方郡
日本の伊都郡
どっちも出先機関、外交窓口。
>>433
・畿内系住人が移り住んでいたことの証拠
・はあ? こっちは漢鏡7期の鏡のことを言ってるんだが
・交流がなければ、外国語で書かれた、日本にない概念であった年号など知りえない
・畿内系住人が博多に移住してたんで直通ルート
・畿内系住人が博多に移住してたんで直通ルート、しかも九州にはそんな技術はない お前らさオタ知識をお披露目するにしても何言ってるかさっぱり分からんから
名前に畿内説派とか九州説派とかアホにも分かるようにかいて議論してくれよ
まったく気持ち悪すぎるわ
素直に読んだら沖縄か台湾にある国だけど
沖縄か台湾に小国家あったのが、100年後には跡形もなく消えていても何も不思議無い
>>435
王が存在した証だ
最終的には三種の神器にもなってる 不毛な輩は隠せると思い込む
だからこれは恥ずかしい
>>389
東夷 北狄 西戎 南蛮ってすごい方角の書き方 >>438
>・畿内系住人が移り住んでいたことの証拠
九州の人が畿内式の土器を好き好んで使ってたかもしれんだろ?
>・はあ? こっちは漢鏡7期の鏡のことを言ってるんだが
ただの流行
>・交流がなければ、外国語で書かれた、日本にない概念であった年号など知りえない
直接じゃなくても伝聞で伝わる情報だね
伊都国に住んでる人ならどの国の人でも分かる事じゃないか?
>・畿内系住人が博多に移住してたんで直通ルート
とは言っても経路上のどこかで花粉くらい落ちるだろ
伊都国で貿易してる九州人から送られたのかもしれないね
>・畿内系住人が博多に移住してたんで直通ルート、しかも九州にはそんな技術はない
見つかってないだけじゃないか?
あるいは九州じゃ流行らなかったのかもしれない >>408
・3世紀前半には、初期ヤマト王権が成立していて、王都が纒向に置かれていた
・3世紀中頃には、北部九州は初期ヤマト王権の傘下に入っていた
これで良いんだけど、倭人伝には238年から247年までの
九州筑紫の様子と 魏との国交が描かれている。
247年には、240年には無かったか、
魏軍の九州北部行軍には、口出ししてこなかった
伊都の一大卒が女王国の外交を監視ている。
250年近くまで、銅鐸の本州と九州の交流は薄い。
57年の金印は九州なので、238年魏の帯方郡占領で国交再開したと見て良い。
239年の公孫氏滅亡、246年の韓王朝滅亡、この間が 魏と邪馬台国の国交期間な訳だが、
300年(313?)以降の日本は、朝鮮半島に出兵して馬韓、辰韓を後押しして
百済新羅を建国。 350年以降、楽浪候、幽州刺史 となる高句麗と戦争、
高句麗馬牛の移入、鉄の国内生産の富国強兵で
400年までに古墳時代の繁栄期、倭の五王時代を迎える。
この日本王朝が、魏と国交を持った邪馬台国ではない、と考えるのが当たり前で、
公孫氏や韓王朝と親交があり、魏を脅威と考えたであろう畿内王朝は、
この時に、九州を平定、一大率支配を完成していなければ半島進出は無い。
考古学の邪馬台国は、日本や半島の古代史と接点あんのかな??? >>448
・どこで作った土器かは胎土で判明している
その後、北部九州でも真似て作るようにはなるが
・鏡を権力者の威信材にするのは紀元前から北部九州の伝統
・九州で見つけてから言ってくれ
・以下同文
やっぱり魏志倭人伝全否定のいつものやつだったw >>408
結論を連呼するだけで根拠が全くないなw
>>449
朝鮮半島に進出するには秀吉の朝鮮征伐の例でも分かるように
総司令官たる秀吉が北部九州に居る必要がある
関西に居たのでは連絡に時間が掛かり過ぎて命令が下せない
倭は数百年に渡って朝鮮に連続的に派兵しており
この勢力を関西の大和王権だったとは考えられない
九州と関西には別の政権が在ったと考えざるを得ない。 >>451
>・どこで作った土器かは胎土で判明している
>その後、北部九州でも真似て作るようにはなるが
やっぱりただの流行りだな
>・鏡を権力者の威信材にするのは紀元前から北部九州の伝統
九州の影響を受けてるという事だね
>・九州で見つけてから言ってくれ
流行らなければ廃れる
見つからないのはそのせいなので見つからないことに何の問題もない
という事で、
どれだけ言い訳しても無駄
>やっぱり魏志倭人伝全否定のいつものやつだったw
いいや
数字は誇張してるだろうけど
その他の記述内容は概ね正しいだろうと考えて読んでるんだよ >>452
あー
そうだよな
秀吉の時代でもそうなんだから
そりゃそうなるわな 遺伝的な遷移からすると、現状は天高原はチベット高原が妥当に見える。
その後どのように遷移したのだろうか。の一つが邪馬台国。
>>449
すまんけど、何を根拠にそう断定してるのか不明
景初や正始などの年号はその期間にドンピシャだろ?
中国鏡の編年も無視? 畿内厨の言い分はこうだ。
アップル製品のシェアが異常に高い日本はアップル社の属国だった。
>>452
1行目しか読んでないが秀吉は北九州の政権か
へえ
魏は呉や蜀や公孫淵を攻めまくりだが連絡大変だからそのたびに皇帝は首都動かしたのか
すごい大変だな もう暇すぎて議論ごっこしてるだけのハゲにしか見えなくなってきたわ・・・
>>435
日本の史書にってことかな?
要するに「記紀に鏡が重要物だと書いていないから意味がない」って言いたい?
キミがそう思うのは勝手だけど、古墳には山のように鏡が出て来るけどな。 >>455
D系統日本人の男系先祖が出地中海して西から移動してくる過程でチベットに居たのは6万年前
伝承など残るわけない
女系先祖はは悪魔の門の山葡萄石器人とその周辺土着人で満州遼東穢貊朝鮮人など >>456
すまんけど、何を根拠に、ってwww
倭人伝って、漢字飛ばして読んじゃったら判んないんじゃないか? >>463
今の日本は埋葬しないけど、
棺の中を花で満たしたりしてるから、花が重要物なんだ
と後世の人は判断するのかな?
ただの装飾なんじゃないの? ID:d5Gak2DR0はドンと来いスレに一人で書き込みしてた人だろう
大事な鏡なら、埋葬せずに自宅で保管するんじゃないか?
墓に入れるという事は、被葬者にとっては大事だけど、子孫にとっては不要なものなんだろ
>>469
自分の頭を鏡で今すぐ見るんだ
真実はそこにある まず前提として「邪馬壹国は大和政権の前身ではない」ということを共通認識にしなくてはならない
隋書だか宋書だかに倭と日本は明確に別けて記述されてるだろ?
邪馬壹国→ヤマトというバイアスに毒されてるからこそ東征だとか神功皇后だとか神話を絡めて
邪馬壹国の所在地論争が歪められている
>>458
朝鮮に兵を出している間の話だよ
数百年に渡って朝鮮に連続的に派兵してたら九州の王が常駐してないと指揮が執れない。 >>458
朝鮮に兵を出している間の話だよ
数百年に渡って朝鮮に連続的して派兵したら九州に王が常駐しないと指揮が執れない。 魏志倭人伝って支那製だし真実を書いているかどうも怪しいし
支那製が信用できないのは今も昔も同じだろ!
邪馬台国があったかどうか卑弥呼が居たかどうかも疑わしい
九州説が妥当っしょ。
大陸や半島とも近いし。
んで、空白の四世紀に朝鮮人に日本は支配されて、それが大和朝廷へと繋がっていく。
>>472
旧唐書だね。
倭人条と別に日本条として、畿内から来たと思われる遣使らの様子が描かれている。 >>464
本当に6万年前に分岐した事実はあるの? それよりもずっと後かもしれないじゃない?
何れにしろ、七世紀位には、畿内は渡来人だらけで、仏教や巨大建造物、律令制、漢文、全部中華まみれになっちまって倭人の倭の字も出てこないんだから、畿内だろうが九州だろうが乗っ取られとるわ、これを説明しろよ。
>>473
へえ、秀吉は九州にいたんだ。
てっきり京都や大阪だと思ってたわ >>476
倭の方が7世紀まで朝鮮半島に介入してたんですけど >>479
最近の日本人は和服は着なくて洋服ばかりだし
髪は染めるわ
横文字だらけ
アメリカに乗っ取られてるように見えるだろ?
でも日本人なんだよ
そんなもんなんじゃね? >>480
肥前名護屋城に住んでるようなものだった
なので、一時期はあのド田舎が日本の政治経済の中心だったわけだよ >>479
渡来人は任那や百済が滅んで、任那に住んでいた倭人が移住して来たんだよ。
>>480
名護屋城を築いて出兵の本拠地にしてたんだよ
京都や大阪だと遠すぎて戦況の把握が出来ない。 >>480
1年3か月だけといわれる。戦争中の3割ぐらいかな 政治プロパガンダをいつまで続けるんだ
内容がムー並みになってるぞ
>>482
まあ、アメリカに乗っ取られてるってのは半分真実なような気も・・・ >>482
実際、アメリカの属国みたいなもんだけど >>482
その切り替わりは戦後の話でなくて明治のときだけどな >>452
>九州と関西には別の政権が在ったと考えざるを得ない。
その通りです
出雲大社の式年遷宮の時にサイトを見たら
大国主が皇室に国を譲ったと書いてあった
皇室って初代神武天皇に国譲りしたって事
場所はど何処か?島根県なわけない >>474
>数百年に渡って朝鮮に連続的して派兵したら九州に王が常駐しないと指揮が執れない。
数百年に渡って、馬韓、辰韓、弁辰韓の南はBC200年以来、
本州の銅鐸文化を支えた倭地であって 派兵ってほどのことじゃない。
九州平定も戦争じゃなくて、進駐軍を置いたり、
海神豪族を半島に配流したりでは無いのかな。
馬韓、辰韓も戦争の相手ではなく、後の百済新羅の傀儡建国に見るように
日本はその背後で後援してる のであって、 戦ったのは、
313年四郡撤退以降、中国貴族の 楽浪候、幽州刺史となる 高句麗 とです。
魏が三国志を制しているのに対し、晋の没落が早すぎにしても
東夷での日本の 高句麗戦を利用したこの間の立ち廻りは
戦略的に、相当上手くいきすぎで、三国志登場以上の
天才的軍師が居たのではないかと思われる。
245年の郡の韓王朝滅亡戦での三国志参戦w 黄幢、檄、にすらも応えられなかった
邪馬台国のような屁タレが、この日本王朝である、なんてことは100%有り得ない。 >>439
反東征派、邪馬台国幻想派
どう考えても北部九州王朝は移動なんかしてない。 魏と交易がある北部九州にはその地域を治める王がいるというだけで
当時の情勢で、近畿から九州まで治める王がいたとは考えられない。
魏の成り立ちや情勢を知った北部九州の王が、あらゆる戦いに備えるために戦力を保持し
のちに神武天皇が東夷し、日本全体をまとめる基礎となったと思うのが自然。
>>497
普通そうなんだよな なんで神武天皇に攻め込まれなきゃいかんのよ
各家庭の煮炊きの煙が見えなくて民が可哀想 税金取らんぞって言った人なのに >>500 混乱してゴメン 全く勘違いして覚えてた >>498
>魏と交易がある北部九州にはその地域を治める王がいるというだけで
それは伊都国か奴国でしょ
魏志倭人伝には邪馬台国とは別の国と書かれている べつに空白の世紀なわけで
神武天皇も神功皇后も日本尊も素戔嗚も天照大神も
まとめてゴレンジャーで、出てきても
記紀の人なら 時系列的には、へっちゃらだと思うぞ。
古墳や七支刀、銅鏡は無理な人もいるけどwww
空白の世紀と言われてるけど
倭が朝鮮半島で高句麗と戦っていたとか碑文や三国史記に記録があるし空白でもないんだよな。
>>498
ゆる〜い平和連合国家だったのよ 畿内と九州の支配権争い征伐とか無かった
邪馬台国はフィリピンかベトナムで決着 方向違いなら千葉か群馬 >>505
多分フィリピンだろうな。
暖かくて人々は海に潜って海産物を獲って暮らしてるなんて
冬の日本では無理だし。 >>479
明治と同じ
髪型、服装、食文化、建築物が替わっていったが人は替わらない
同じ人種の日本人が模倣によってそうした だから、日本が高句麗と戦って、百済や新羅を傀儡建国した
って話や、BC200年から、倭人の投馬国240年当時5万戸が 半島南岸にあった
とか、あっちゃ、いけないから空白の世紀なんでしょうが・・・
何のために、
邪馬台国論争でお茶濁してるか判ってんのか? あん?
ホントの事言っちゃ、ダメじゃんwww
顔真っ赤にして興奮してたのはもう落ち着きましたか?
日本の大半で竪穴住居だったのが平安時代には田舎でも一気に変化が進み
家屋輪郭は四角形でかまどを備えた高床の典型的な日本家屋に近くなった
人種は変わっていない
日本人が意固地の硬直石頭ではない平均して知能の高い人種だから出来た
さらに日本ナイズドして進化させた
もはやシナに学ぶもの無しと共通認識が出来たのは平安
北九州のにある邪馬台国の対立国家のクナ国は熊襲説があるけど
大陸から見たら邪馬台国も熊襲も倭人なの?
フォッサマグナ辺りで東西に文化が分かれるらしいな
かまど文化と囲炉裏文化
>>512
そんなの読まないで、サピエンス全史でも読めよ >>512
聖徳太子の国記が 邪馬台国が東遷 とか 言うわきゃ無い。
三国志読んで、日本とは別の、古の九州の小国 って、知ってたわけで・・・
馬子が囲ってた五経博士とかが、500年辺りから持ってきてたんだろうね。
いいかみんな、聖徳太子は邪馬台国九州説なんだぞwww
卑弥呼が倭王じゃないけど・・・ 東遷は邪馬壹じゃなくて神武な
神武の東遷は古事記にも日本書紀にも書いてあるのに何故か否定されてるが
ただ東遷といっても当時の列島はまだバラバラで統一もされてないし、神武も日向の一豪族に過ぎなかったろうから東遷という言い方は実情と合ってはいない
日向の一豪族が戦闘の上大和の一隅を勝ち取ったという寓話に過ぎない
その後その子孫が列島の王になったので神武は後付けで天皇にされただけ
>>515
厨房の頃読んでた世界の名著全巻を今読み直してるから
次はそれ読むよありがとう(横だけど >>514
囲炉裏は西日本にもあったぞ
東日本の方が普及度か高かっただろうけど
現在の一戸建てでも家主の趣味嗜好で囲炉裏を備える例があるな
囲炉裏を囲んで焼いたり煮たりしながら酒を酌み交わしたいという 囲炉裏なら熊本に高森田楽という
囲炉裏の郷土料理があるぞ
西に囲炉裏がないのは嘘だ
>>514
山と山の間の深く切れ込んだ地形の名が、フォッサマグナを境にして「沢」と「谷」に分かれると
高校の頃に雑誌で読んだのを覚えてるなあ。 天孫降臨の元ネタが檀君神話だって?
こりゃマジで天皇家は半島から天下ったのかなあ?
檀君神話って13世紀の三国遺事に書かれてるらしいから
実際は神武をパクった可能性だってあるよなw
極端やな
大雑把にフォッサマグナ辺りに文化的な境界があるというだけだよ
>>514
山口県に囲炉裏山賊というドライブインがあってだな 土地も権力も嫡男がすべて引き継ぐので
追い出される次男以下はたいへんだけど
苦労した分新天地で力を持つんじゃね
宮崎のニニギ本家の山幸彦から追放された分家海幸彦が福岡を本拠地にする
古事記の釣り針の話だと
宮崎で豪雨と日照りで米の収穫ができなくて海幸彦が援助したか
大陸から来た技術で治水工事を海幸彦が協力したか
それに加えて大陸から鉄とかを取り入れて立場が逆転
海幸彦福岡覇権体制確立
↓
福岡の海幸彦の分家が尾張氏とかに
↓
次の代の海幸彦分家神武が九州各地や吉備を転々として
最終的に畿内を本拠地にする
景行天皇の九州巡幸とかで立場が逆転
畿内覇権体制確立
九州説の拠り所が安本とか古田だから胡散臭いイメージしかない
ここは、囲炉裏とフォッサマグナで独り語りするスレ
しばらくほっといてやれよ
>>531
学者が否定している纒向と箸墓にしがみついてる畿内信者よりずっとマシだ。 >>533
辛いよな
泣いていいんだぞ
何十年も九州説やってたんだろ
無駄だったな >>533
九州説ってどうしてこういう嘘書くんかね?
嘘つきは九州説の始まり 天孫降臨は宮崎でニニギやその子孫の墓の多くは鹿児島にある
でも3世紀の九州は奴国が最大勢力になってる
九州内で権力移動があったと考えるのが自然
九州爺さんたち、人生の終わりにライフワーク否定されたから分からんでもないが
>>528
宮崎は一切関係ないよ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) ニニギ一族は稲作ができる場所をさけて鹿児島に墓を作ったんじゃないかな
あと暴風から守って的な意味で南の方に
>>536
日向神話はストーリー自体が南方海洋民族の説話だから
登場するのは実在の人物ではないと考えた方がいい >>537
日本史版には一日中、畿内説のくたばり損ない爺が張り付いてるよw 名古屋にあったと思う
邪馬台国ってレゴランドの前身じゃないの?
>>541
海洋民なのは嫁に貰った豊玉媛とかだろう
神武の先祖のおうちは山幸彦の名の如く海洋民らしくはない >>523
半島から来たにしても当時更に来たに居たお前らとは無関係だから 全くよく知らんがどっちが今優勢なの?
10年くらい前に淡路島が邪馬台国だったかもとかテレビでやってたけど
考古学的には、邪馬台国は現在の埼玉県ということで決着がついています。
>>542
お前も朝から晩までご苦労
194 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/02/01(金) 08:26:36.54 ID:mdGA2mBP0 [1/27]
魏志倭人伝の1里は80m
公孫氏が魏に対して自国の領土を大きく見せる為に使っていた。 >>549
>>336
>>337
の状況みたいよ
まともな九州説の人、少しは頑張らないと20年後には邪馬台国論争自体が無くなるよ
短里だ旧唐書だの言って遊んでる人をまずは九州説内での自浄作用で駆逐しないと 畿内説は商売
九州説は宗教
よく覚えておきましょう
中国に認められるぐらい強い国が九州にあったら
数年後に近畿まで制圧しててもおかしくはないわな
>>546
山幸彦なんて実際はいないんだよ
だいたい3人兄弟なのに二人だけ出てくるのも可怪しいし >>557
日本全体を治める様な広域国家には整った官僚組織がいるけど
官僚は文字が書けないと使い物にならない
文字が普及して知識層が形成されないと関西まで制圧する国なんて作れないよ。 >>524
その仮説を論証するために
韓国から留学していた大学院生がいたわ
韓国の古代を知るには日本の古代を調べるしかないって
こういうまともな人もいるにはいるんだが少ないんだろな そもそも、邪馬台国と呼ばれた国はその後の日本に影響を与えた国なの?
伝言ゲームを思い浮かべてるなら
あれは多人数での連絡だぞ。距離は関係無い
そして、一番の問題はどうでもいい話だからだ
距離によって忘れてしまうなら、外交なんて出来ない事になる
全て文書に書く訳でもないからな
>>563
捏造された歴史を教わり
海外に行ってべらべら喋るから疎んじられ発狂して銃乱射するまでテンプレ >>1
高天原ってソウル郊外のことだろ
天孫降臨ってのは、韓民族の皇子が倭へ下った話だし、
神武東征神話はその韓民族の天皇が倭族を駆逐して大和朝廷を作った歴史的事実を神話にしたもの
事実、日本の支配者層は殆ど全て韓国系だからね
日本建国のころから、現代までずっとね >>554
短里が何かは分からんが1里80mくらいで東夷伝は書かれてるね
現在は九州説でこれを否定する人はいないだろうな。 纏向ででた紅花の花粉て
纏向が5世紀以降の遺跡だと証明したやつだろ。
掘れば掘るほど3世紀から離れてんだよな
旧唐書に拠れば列島には倭国と日本国があったと
それによると倭国は古の倭奴国とある
倭奴国とはあの金印をもらった倭奴国、これは後漢書にも記述がある
ちなみに金印は様式がテン王の印と一緒なので本物と考えていい
金印は九州志賀島から出ており倭国は九州と考えられる
一方、日本国は旧小国で倭国の地を併せたとある
おそらくこっちが近畿勢力、日本国は今も残っているから天皇家であろう
其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉
また日本国は聞き取りの中国側から申告を疑いの目で見られており、新興国の気負いを感じさせる
九州説信者は嘘つきが多すぎてなぁ
ファンタジーを現実だと信じて疑わないカルトだよ
興味のある話は、旧唐書で日本の国使が記紀前に言った
「日本舊小國 併倭國之地」
つまり「ヤマトと言う小国が(歴史ある)倭国を合併」した過程だよね。
北九州政権が近畿政権に移るまでの間の過程と言っても良い。
魏が最初「同盟国」を表す「金印」を与えて勘違いしたことや
(主に呉を)誤魔化すために「魏志倭人伝」では大国に見せかけたことなど
歴史のエピソードにすぎない。女王の墓がどこにあるか等どうでも良いこと
>>573
別にどうでもいいんだけどさ
畿内派ってなんでそう九州派をカルトとか信者とかって
呼ぶの?いつも不思議に思ってんだよな
普通に議論すると負けるから? >>568
朝鮮半島出身だけではないんだよ たとえば
百済 = 諸子「百」家と「斉」王室が「海(さんずい)」をわたって作った国
山東省から半島へ行き、そしてその後日本へやって来た
ようは日本は半島やら大陸のあちこちから有力王族や武装勢力が寄り集まってできた国家 邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。
>>579
あの国宝の馬具だけでも西都原は価値ある古墳群だと思うけど
邪馬台国の時代後だと思うけどな >>577
その「朝鮮人」というのは地理的な「半島」のことで、
文化的な実体は、支那と日本だけどね。
「半島人」というのは縄文時代から居た土着民で
文化的にはとりたてて見るものが無かった >>558
それは三貴子にしろ空気な2番目が居るのはよくある事だし
アレは隼人を無理矢理系統に入れる為って最後にゲロってんじゃん 邪馬台国がどちらかしらんが
東遷以前に明らかに滋賀や東海、熊野に神仙思想をもった文化、たぶん後の物部系があったのは間違いなく
それが纏向に土器を供給していたことは間違いないわけで
邪馬台国は神仙思想を持っていたのかどうか
>>575
九州王朝説なんかはカルトみたいなもんじゃないか?
日本の古代史を全否定して、ヤマト王権は存在しなかったと開き直ってるんだから
議論する上で共通認識となるものがないから議論が成立しない 邪馬台国スレを見る度に思うが本当に日本の古代は闇が深い
だから人々の心を捉えて離さないんだろうけど
卑弥呼の行ってたとされる鬼道が、道教の物と同じであるなら近畿東海にも邪馬台国は否定できないわけで
>>585
徐福は北九州に上陸してると思われる
が、神仙思想はどうやろね ハッキリと記録にないから
無かったんじゃないかな >>584
三貴子もそうだが、ワタツミ三神、住吉三神、宗像三女神と、
海の民が奉じる神々は三兄弟(姉妹)ばっかりだよね。
何で三が聖数なんじゃろ? >>586
こりゃまたおかしな理論をw
なぜ邪馬台国が九州王朝となり
更にヤマト王権を否定してるってことになるんだ?
邪馬台国と九州王朝(俺は存在したと思ってる)は別の話だし
ヤマト王権の存在の有無にも関係ない
と俺は思ってるよ 邪馬台国九州支持だけどね >>194
それは大間違い
無条件に1里は80mとは言えない。
魏の首都洛陽から満州の襄平(現代の沈陽)まで四千里という記述が
三国志魏書明帝紀にある。
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。
冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下摎W封爵各有差。
初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。
帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」 >>589
佐賀に上陸してその後熊野に行ったことになっているとは思うが
神仙思想が根付いてないとすると通過しただけか >>575
九州派は九州王朝説の声がでかすぎてカルトにしか見えないよ 「九州説」という言い方は、サッカーのワールドカップにおける
イギリス代表のようなもんだよな。
あくまでスコットランド代表である八女説なのだ。
纏向が卑弥呼の都だとしたら、九州から近畿までを支配する女王が、
勢力圏の端っこで内陸の不便そうなところにいるって不自然だろ。
仮に纏向が正解だとしたら、卑弥呼の勢力圏は関東ぐらいまでないとおかしいな。
>>595
金立神社って佐賀だったっけ、こんな徐福の名入り屏風?あるんだから
かなり浸透してたんやろね
>>597
三貴子は、たしかに道教の影響かも知れんよね。
でも海人の神はちと違う気がする。 なぜ太陽だけにしちゃったのだろうか?理解に苦しむというか
>>585
鏡を重要視したのはつまり道教の神仙思想の影響を受けている事にほかならない。 こんな時代に近畿の勢力がどうやって九州制圧するんだよ?
その方法と仕組みが全くない。
>>579
>>580
Wikipedia見たら3世紀前半から7世紀前半になっていた。
これはもしかするともしかするかもね。 >>592
実際、九州説には九州王朝説を主張する人が多いだろ
ヤマト王権が存在した主要な根拠が前方後円墳
5世紀には稲荷山鉄剣や倭王武の上表文など文字資料でも裏付けられている
九州王朝を主張するために九州にある前方後円墳は否定するが、
他の地域の前方後円墳はヤマト王権の証拠だと認めることになると、矛盾するだろ
九州王朝を押し通すことは、ヤマト王権は存在しない、日本はバラバラだったと主張することとイコールになる こんな時代に近畿の勢力がどうやって九州制圧するニカ?
結果、この後制圧されてるんだよ
鏡といえば
神武東征のルートを鏡で見ると
神武天皇がなぜ宮崎生まれの設定なのか謎が解けるね
まさか本当のルートが分かる様になってたとはね
倭王が天を兄とし日を弟するとかさ
普通に二朝制だったんだろ
それがアメノタラシヒコの頃には重複して王になってたんじゃないの?
アメ(天)とヒコ(日子じゃないかな?
どっちが九州系の称号かは知らんけど
九州制圧順序
初代神武 宇佐(豊前)、上県(対馬)
10代崇神 阿蘇(肥後)、火(肥後)
12代景行 葦北(肥後)、襲(日向)
13代成務 筑紫(筑前・筑後)、豊(豊前)、国前(豊後)、比多(豊後)、 筑志米多(肥前)
筑志米多(肥前)、末羅(肥前)、葛津(肥前)、天草(肥後)
15代応神 日向(日向)
16代仁徳 松津(肥前)、大隅(大隅)、薩摩(薩摩)
26代継体 壱岐(壱岐)
>>614
邪馬台国の時代はヒメ・ヒコ制だよね。姉弟や兄妹で政ごとをする体制。 >>615
それを見るとやはり神武は九州を追い出されて、後から復讐しているようにしか見えんな 纒向遺跡の祭祀に現代で一番近いのは諏訪大社じゃないかな
ニニギ自体が九州からしたらよそ者だからな、伊勢の猿田彦が連れてったんだから
>>619
大国主の国譲りに反対した人達が長野に移動して
諏訪大社を建立した
大物主は大国主 >>609
別に近畿のヤマト王権が九州で接待したのをそこが女王国だとされてるのは構わないんだよ
ただ言いたいのは魏志倭人伝を素直に読み取りや
奴等が行ったのが九州か若しくはその更に南方という話で >>622
倭人伝の行程をそのままたどれば、太平洋にドボン
素直に読めば九州だという言い分は、個人的な解釈に過ぎない
むしろ、九州は倭人伝の記述とかけ離れてると思うけどね >>582
魏志倭人伝は距離も方向も滅茶苦茶じゃないと畿内説は成り立たないからなw
>>593
>帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」
魏の明帝が言ってるんですから魏の1里400mくらいですよね
公孫氏とは関係ないですよね。 >>619
纏向の祭祀って蛇とかだと思うけど、諏訪大社も蛇なのか? >>623
あくまで方角の話、単位なんてどんな尺度使われてんのか分からんだろ >>622
畿内説だとすると、その線しかないな。
九州で見聞きしたことを「(首都の)邪馬台国もこうですよ!」と記述したんだろう。
現代なら、福岡で屋台をたくさん見たので「東京では屋台が1000件ありますよ!」
佐賀の白い砂浜を見て「東京の砂浜は一面真っ白でとても美しいです」という感想文を書くようなもん。 >>626
方角が正しいか、日数が正しいか、どちらか不明
学校で習っただろ?
実際、末盧国から伊都国の方角は90度近くズレてる
狗奴国も後漢書では東に修正されてる
古代の文献では、方角は当てにならないが結論 里は単位だから、明確な定義がないといけない
家臣に与える領地の基準にもなってくる
司馬昭が晋王(まだ魏ね)になった時の基準(晋書巻十四 地理誌上)
縣公邑千八百戶,地方七十五里
大國侯邑千六百戶,地方七十里
次國侯邑千四百戶,地方六十五里
大國伯邑千二百戶,地方六十里
次國伯邑千戶,地方五十五里
大國子邑八百戶,地方五十里
次國子邑六百戶,地方四十五里
男邑四百戶,地方四十里
>>621
大物主は櫛甕玉命
伊勢津彦は櫛玉命
饒速日は櫛玉命
伊勢津彦は国を譲って東方にさったと言われている。 櫛玉て大物主が言った幸玉、奇玉のくしたまだと思われる。
>>628
だからあくまで歴史学としてはまずその記述を負うべきなんだよ
このときに考古学的発見や別の時代の同名の単位のバイアスは排除しなきゃイけない
そしてその次に考古学的見地等々からその記述が嘘であるとわかったなら
なぜそのような嘘をつく必要だったのかを考察する訳だ >>621
昨日か一昨日に一言主と事代主との関係の話が出たが、
神武天皇の奥さんのヒメタタライスズヒメも、
・大三輪神の娘
・事代主神の娘
・大物主神の娘
という説があるのな。前二つは日本書紀、最後のは古事記の記述。
つまり、三輪の神と大国主の息子とが同一視されている。 >>633
そういう抽象的な言い方をされても意味がさっぱりわからん >>630
漢字苦手でにぎはやひしか読めない
すんません
えっと諏訪大社は今も銅鐸を使って生贄を捧げる
儀式を行っている
これは出雲でやってた儀式がそのまま移行したもの
出雲は奈良 >>634
娘さんたちの事は知らないが大物主の息子は
恵比寿さんじゃなかった? >>633
具体的に書く
九州説は魏志倭人伝の重要な記述、邪馬台国固有の記述をことごとく嘘だとしない限り成り立たない
・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ
・30ヶ国の連合は嘘だ
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ
・水行二十日、水行十日陸行一月は嘘だ
・卑弥呼の宮殿に1000人の従者が仕えるとあるのは嘘だ
・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ
・一大率が刺史に例えられているのは嘘だ
・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ
これはもう魏志倭人伝を根底から全否定してるようなもの
しかも九州には遺跡もないし、物証もない
邪馬台国の発音に近い、国に相当する地名もない >>637
その恵比寿さんが事代主なのよ。
俺は水死体つながりだと思っているw >>609
また理解できん理論が来た、、、w
前方後円墳がヤマト王権存在をどうやって定義してるのか分からん
その稲荷山鉄剣や倭王武の上表文ってやつも森博達先生らが
倭の五王の証左と絶賛してたようだけど
とんでもない誤解があると同じ古代史研究家の岸俊男(?)先生だったかが
指摘してたと記憶
また長くなるから省くけど高句麗と争ってたはずの倭って国どこだ?
って疑問から九州王朝を確信した記憶(もうだいぶ昔w) 大物主は朱矢に化けて便所に忍び込み後に嫁さんになる人の性器に突き刺さると言う変態的な行動をしている。
アジスキタカヒコネも朱矢に化けて川から流れてきて嫁さんに拾われる。
>>636
あ、そうなんだ
両方山が神体だなあ、そういえば >>639
恵比寿さんが事代主なのか
この前も書いたが台湾にも七福神(八福神)があり
日本の神様は恵比寿さんだけ
台湾は昔の中国が残っている
死体??? >>642
ずっと以前から分かっている事だが
畿内説論者が研究費貰えなくなるから言わない 他国史書の記述を根拠にするレベルの過去となると
もはや実在すら疑わしく具体的にどこにあったかなんて議論は酷く滑稽に見える
>>646
普通文献はクロスして他の文献ともすり合わせて考察するもんだけど
邪馬台国って単語が日本の文献から出てこない以上
他国の文献で考察するしかない >>643
日本のエビス信仰は、ややこしく重なりあってるもんな。
エビスとは元々、海からやってくる神だけど、イザナギとイザナミの
最初の子どもであるヒルコ(骨がない奇形児)が海に流されたことから、
エビスと習合した。とりあえず、これが水死体イメージの始まりだよね。 >>627
魏志倭人伝の風俗は邪馬台国じゃなくて倭の風俗じゃなかったっけ
福岡の土産物屋で明太子を見て「日本の名物は明太子だ」みたいなもん >>638
だから倭国の盟主ってところから日本を支配した事実のある畿内政権を持ってくる辺りが
後出しじゃんけんっていうか記述ペースで考えられてないんだよ >>648
ふーん・・・
アマテラスがイザナミの左目から産まれたのは知っているw
右目は誰だか忘れた
恵比寿さんとヒルコ?検索してみるね
サッカー始まるのでまた教えてください 高句麗と争ってたはずの倭って国どこニカ?
高句麗と争ってた百済が倭に同盟申し込んで、七支刀贈ってきてるんですね
奈良県天理市の石上神宮
>>650
後出しじゃんけんではない
後世の史料だけで仮定したのではなく、物証とすり合わせた結果だよ
3世紀前半にすでに初期ヤマト王権は誕生している
>>652
戎三郎だったかな そう呼ばれるようになってそこからえべっさん 中国史書は台与の後に男性王が立ち、その後も晋、宋、斉、梁、隋と使節を継続していると書いている
そして隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコは用明天皇として後の桓武天皇に続く系譜の上にあると示している
この事から中国は畿内にいた邪馬台国に連なる勢力がそのまま後の平安時代にまで続いていると考えているのが分かる
九州王朝も九州説も中国は全く意識していない
「九州王朝」なるものが唯一あるとすれば、奴(委奴)国なんだよね
なぜか、こっちはスルーで邪馬台国ばかりにこだわる
遠賀川の古代文化ってのは見つかってるのかいな。
明治あたりからの乱開発で遺跡潰されまくってるか、
最初からないのかってぐらいじゃないのか
>>657
継体天皇に簒奪されてしまいましてのお。 蝦夷、アテルイ
大墓公、タモ公、
大墓は太白と関係しているかもしれない
太白の末裔を自称した邪馬台国の倭人たちと関係があるかも
東海〜東北に天白、太白信仰が分布しているのも興味深い
豊あたりと思われる不弥国の官に多模があるのも興味深い
継体も凄いよな
名前に「継」の字があるだけで、簒奪呼ばわりされてしまう
>>659
ドナウ川流域と遠賀川流域には、古代史がひっくりかえる遺跡が埋まっている。
>>662
ヤマト王権を簒奪したとか知ったこっちゃない。
彼の罪は、磐井を滅ぼしたことだ。 ぜんぜんスルーしてねえよ
金印は九州から出たから一つの根拠になってるじゃん
<丶`∀´> ウリ達に都合が良いのは九州説ニダ!
だった事がバレちゃったんだよな〜
九州説の人は筑紫平野に過剰な期待を抱いてるんだろうな
あの辺は筑後川の支流に吉野ヶ里規模みたいな遺跡が十数個あっただけ
語尾にニダ付けるとかウンコがどうたらと同じやり口か
ウンコ新羅とつるんだ磐井が殺されただけで、筑紫氏は存続してるね
>>670
そこはそれ、磐井の滅亡前後で外からの記述が変わっていない以上、
磐井が担っていたポジションをヤマト王権が奪ったわけで。 磐井が担っていたポジション
筑紫国造=中央が任命する県知事です
筑紫氏の祖、大彦命が孝元天皇の皇子
その5世(3世)孫、田道命が最初任命されてる
>>658
アレは倭人伝に出てくるものかはともかく(位置が合わない)実物出ちまってるからな
とどのつまりオラが村の奴国が出来ない ボクの邪馬台国
ボクの素直読み
ボクの短里
ボクのシリーズやね
次はなんだろ?
腐しが出るってことは正解だからだな
スタップから、あんま変わらんな
継体ってホントに居たの?
既にジジイなってるのを、とりあえず大王にしたとか
継体は居ただろ
そこまでの崇神以降の代が怪しいくらいで
>>677
東遷を否定している人はあまりいないと思うが 九州から東遷は日本書紀からだから
日本書紀がトンデモてことだな
>>678
しかも即位しても中々一箇所に落ち着かない
遠縁は本当だとしても荒れきった当時の朝廷と対立して実質的に王朝交代を果たしたのは確実
出自でいやぁ桶兄弟のがよっぽど怪しいわ そもそも地方の大豪族の反乱や鎮圧の話は他にも幾らでもある
出雲、吉備、葛城、毛野、武蔵、九州
九州が何か特別な場所だったと言う事は特にない
むしろ地方全てが何らかの圧力を受けて衰退している
この中で特に重要な事件とされてるのは出雲や吉備、葛城
九州もその他の大豪族と同じように大和朝廷に服属した仮定が示されているだけの事
なぜ磐井にだけそんなに過剰な要素を求めるのかよく分からないな
>>680
時系列が逆になるからありえない
専門家で東遷説を支持してる人はいない >>685
3世紀を境に近畿の古墳に剣や鏡が入り始めた事実をどう説明するの? その磐井も前方後円墳を採用していて大和朝廷の影響下にあるのはかなりハッキリしている
この地域は磐井の前から中小の前方後円墳が継続して作られていてその地位は大したものでもない
ワカタケル大王の鉄剣の出土もアリこの地域が中央の強い影響を受けてるのは特に疑いもない
正直、そこまで何かを見出すようなものがあるとも思えない
出雲も歴史として書かずに、神話として書いてるのもよくわからん
わりとすんなり服属だったのかも
婆の正体見たりだな
ワンフレーズで誤魔化しやがって
うんこ大好きくんは九州でヤマトができて東遷した
神武が奈良に建国した記紀なんか嘘っぱち派だったのか
やっぱりうんこに馴染みの深いちょんだからここ何日もうんこ連呼してるんだなぁ
九州から西に広がる要素は稲作から後はほとんど皆無の状態
畿内いたってはゼロと言っていい程
逆に九州は周辺地域の影響を受け続けて邪馬台国の時代には畿内の生活様式、墓制に塗り替えられている
鏡も近畿で九州とは別系統の?製鏡が作られていてその系譜上に無い
東遷なんてものは考古学的に証明できない
当然、神武東征も同様
そして記紀の記載を全面的に信じると言うなら卑弥呼は神功皇后に比定されているので畿内説と言う事になる
また不可逆理論か
同じ文化採用してるから一元的な王朝てのは違うだろ
半島と列島で多元王朝だっただけじゃん
筑紫氏も滅ぼされてないからね
磐井の息子、葛子は助命。その後どうなったかはわからん
後に同族の鞍橋君(磐井の子か、孫説有)が筑紫国造に任命されてる
新羅に出兵して、百済王子が包囲された時に救出してる。弓の名手とか
筑紫火君は、百済王子が帰国する際に護衛を務めてる
継体の遠征軍に負ける磐井の筑紫人も弱いよな
またも負けたか八連隊(大阪)、それでは勲章くれんタイ(京都)とか言う割に
熊襲はかなり負かして一説には仲哀天皇を討ち取ったというのに
この辺りはどちらが正統(皇軍)という前提から内容までどれが真か偽か分からんけどな
>>688
ホケノより前に大和で副葬文化があったかどうかは不明
仮にホケノからなら九州の文化を取り入れたってこと
前方後円墳の一要素に過ぎない >>690
そりゃ明らかにヤマト王権の前の最大勢力だし
万世一系の論理からしたら根っこは同じにしとかなきゃイけない つうか記紀は時系列のすり替えのために作成されたと見るべきだろ
応神朝の東征を正当化した上で天武朝がその後継者として血統的に同じだと
これがインチキだったんだよ
磐井の乱後に出てくる筑紫鞍橋君、筑紫火君は武人のようだ
弱いわけじゃないと思う
近江毛野が率いる軍勢は、元々百済救援部隊で、公称6万人
一国単位で反乱起こしたところで、適う相手ではない
誤解されやすいのは、古墳時代の『穀倉地帯』
神田(東京)のような地形が、当時の稲作好適地で、
平野部は洪水だらけで、耕作は不可能だった
尾張がリッチだったのは濃尾平野のおかげではなく、
瀬戸物で有名な瀬戸なんかの谷間に水田が多かったせい
仲哀皇軍と熊襲軍との戦場は太宰府のすぐ南の筑紫平野の入り口
山口県から博多に至るまでに数度の襲撃を受けていることからして熊襲とは何なのか分からなくなる
磐井と熊襲と継体と仲哀
>>669
おそらく、出雲王朝には固有の暦があり、系図があったのでしょうね
大和の侵略者は、先進地域の出雲を無視できず、系図を継いだわけです
だから機嫌2600年になるわけで、あれは改変された出雲歴ですね 九州北部の勢力は大和朝廷から見るとかなり扱いの悪い地域
「外国由来の降伏してきた外様」
として扱っていて神話的な血縁の構築なども一切行っていない
朝廷が重視してるのは日向、宇佐、宗像など瀬戸内海から進出する足掛かりとなった地域
北部に皇室の由来や大和朝廷の起源と自称するような要素はむしろ他に比べて極端に少ないと言っていい
「九州だからみんな結びつける」と言うのは成り立たない
当時の海上交易ルートは日本海側がメインでした
瀬戸内海に海の王国が誕生しなかったことが謎ですね
便利だと、群雄割拠しがち?
出雲(大国主)は、あくまで国津神で、皇統ではない
ただし、国津神の最高神、外様筆頭のポジションが与えられてる
そもそもさ?卑弥呼のいたところてさ?
山なの?平地なの?いまは海の底なの?
>>703
そりゃ蝦夷と同じように何となくあの方角に居る従わない奴等
時代と共に指し示す部族は変わってくるだろ @中国は邪馬台国からその後の桓武天皇まで「同じ畿内の勢力が続いている」と認識している
A考古学的に九州方面から東に広がる要素は希薄で、逆に東の文化に九州が塗りつぶされていく様子ははっきり表れている
B古墳が畿内から広まる秩序の象徴であることはワカタケル大王の鉄剣からも明らかで、九州は磐井も含めてその中小の古墳を作る勢力の一つに過ぎない
この事から九州王朝も、九州説も日中の史書、考古学的な見地からも見いだせない
>>1
邪馬台国なんて国は無かった。
魏志倭人伝に記載されてることが、すべて正しいとは限らない。
なんてったって、中国人ですからww >>707
そりゃ天津神であるスサノオの勢力を何らかの方法で併呑してるわけで無視は出来んわな 史書、考古学が示すのは
弥生時代終末期から始まる畿内の勢力が邪馬台国となり、
それがそのまま後の大和朝廷となり飛鳥、奈良、平安と続いていくと言う事
実際、研究が進むにつれてむしろ記紀の記載が史実を反映している物だと言う事が明らかになりつつあるのが現状
当然、その系譜の実態などは史書のままとは言えないだろうが、
畿内の勢力がずっと中心として存在していたことは疑いようがない
当選!
邪馬台国当選しました!!
お呼びでないですね。
九州説で唯一成り立つのは熊襲の女酋長説だと思う
それ以外の説は九州人による願望だよ
>>715
熊襲に女酋長とかいないよ
トンカラリンの事?
熊本は今も男尊女卑が強い地域 >>685
紀元前600年くらいならあり得るかもよ
弥生時代に九州から奈良に移動した一族がいるかも知れない
日本書紀に書いてあるのがそのまま事実とは思わないが >>715
分かって書いてるだろうがあり得ないよ
伊都国は既に畿内勢力の傘下にあった若しくは連合してたのに
魏が女酋長をうっかり親魏倭王にする訳ない 繰り返しになるが「中国は邪馬台国からその後の平安時代の朝廷に至るまで畿内の勢力が継続して存在している」と理解している
なので、九州王朝や九州説などという物は最初からどこにも存在していない
>>717
紀元前600年はちょうど近畿で稲作を開始した時期にあたるか
C14基準での年代だけど
渡来系弥生人というか、すでに縄文人との混血だろうけど、入植あるいは移住はあっただろうな >>718
その謎の信頼はどこから来るんだ?
確かに自国のどうでもいいような奴のことまで詳細に記録してる奴らだが
正直蛮族についてなんてそこまで真剣に見てないだろ
伊都国が畿内の傘下だったとしてそこのトップでも主に魏使のお相手したコンパニオン的な女と
そういうプレイをして女王とか言ってるくらい適当な可能性もあるし 新唐書で日本伝にまとめられてるじゃん
また始まったよ
>>716
なら尚更、景行天皇時代の記述にある通り九州には
熊襲、土蜘蛛以外に服従してない女酋長或いは女王の国が本来最低二つはあったことになる >>702
創始期には広大な平野は芦原になるしかない不毛の地で
山間に細く延びる谷状の平地とか平野であれば山際に近い緩傾斜地
こういう所が主たる生産の場だった
ほとんど傾斜が無い広大な平地を水田化するのには灌漑技術が要るので少し後 だから後付けだろ?新唐書はさ
全くないてのは嘘だろ
どんどん捲ってやるぜ
畿内説のデタラメども
>>727
うーん
よくわからんが熊襲だけは女が頂点なのは無理無理
すごい下級扱いする
昭和の時代まで殴る蹴るとかしてたらしい
うちの爺さんや親戚の年寄り連中の事だが >>724
裸国とか黒歯国とかくっ付けただけで魏志倭人伝の他にも出てくるもの
女だけのアマゾネス国とかあったらいいなの変態的動機で適当にくっ付けている
あの時代のシナ人は東晋以後のわけの分からない雑種民族と違う漢人だったのだが
遊び心か知らないがいい加減なものだ 34
1992年、変態売国帰化朝鮮議員こと石破は半島へ渡った。
会場に駆けつけ案内人を罵倒し、「モランボン!モランボン!モランボンとシャブを用意しろ!」と連呼し、好みのモランボンを指名した。
(度々、半島へ渡るのはこの為であり、日本国民の事など頭の片隅にもなくチョメチョメだけが目的なのである。)
石破は哀れな粗チンに喝を入れモランボンとのチョメチョメをマン喫したが全て収録されていた。余韻に浸り冷麺を啜る石破の元へ委員長が歩み寄り「わかっているね? 石破君…私に逆らったらこのビデオ…」
粗チンを強く握りしめ咽び泣く変態売国帰化朝鮮議員 石破の誕生であり、現在に至る。
to be continued
熊襲には、
首領「イサオ」>幹部「タケル」
みたいな階層があったらしい
北九州では、女酋長が出てくるけど、熊襲とは明示されてない
>>724
蓋然性が高い説を認めたくないだけだな
宝クジが当たるかもしれないと言ってるのと同レベルの発言 記紀の記述は年代を除けばある程度考古学的な物と一致している。
出雲にはかなりの強大な国家があった。
そして尾張あたりと畿内で土器などの交流があった。これは饒速日が畿内に居た記述と一致する。
銅鐸文化の出雲が支配していたと思われる大和に九州的な鏡や剣の祭祀文化をもった王朝ができた。
そして元大和の文化であったと思われる文化が長野や関東に移った。
高千穂から、宮崎に出て 黒潮に乗って 紀州熊野に到着して
そっから、ヤタガラスに案内されて熊野街道を北上して、ヤマト国ができたって神話なかったっけ?
伊都国が大和に支配されていたって、
何を根拠に言ってんだ?
>>575
>畿内派ってなんでそう九州派をカルトとか信者とかって
>呼ぶの?いつも不思議に思ってんだよな
すべての根拠を無視して、がちがちの証拠を突きつけられても、
「信じない」の一言で根拠も一切示すことなく、
否定されたインチキを性懲りもなく喚き続けるからだよ
末盧国が名護屋浦だとか、伊都国が伊都GC付近だとか
末盧国−伊都国間が東南で間違ってないだとかww >>700
継体天皇の遠征軍の指揮官に向かってお前ごときに従えるかボケみたいに罵倒しているんだよな磐井は
もしかすると継体天皇自身を罵倒したのかもしれない
磐井の方が皇統に近く皇位を継ぐに相応しいとかそういう理由で 熊襲はのちのヤマト王権がつけた名前だろう。
九州に狗奴国があるのは違和感があるなあ
>>741
熊襲の卑弥呼なんてありえない
女はこき使うものとしか思ってないし
差別が激しい
昭和時代までは ぜんぜん違和感ねえよw
クマソ以外に狗奴国はねえよw
3世紀と7世紀の九州が同じ状況が前提だよな熊襲狗奴国説って
埴輪についても記紀の記述どおり、古墳に並べられていた。
そしてそれは吉備の方で作られた物であった。
魏志倭人伝は南北と東西を取り違えてる
女王国の南の狗奴国=東の毛野国のこと
これに賛同してくれる畿内説の人、いる?
熊襲女酋長は狗奴国と邪馬台国が戦っていた事に矛盾する。
隈国は男王の卑呼弓子で官は狗古智卑狗なんで間違えないようにしないと議論にならないんだが。
>>606
>こんな時代に近畿の勢力がどうやって九州制圧するんだよ?
>その方法と仕組みが全くない。
これも九州説が好むインチキ
制圧なんてしてない
卑弥呼は祭祀王で共立女王
前方後円墳祭祀をやるという首長層の合意の中心というだけで軍事的な支配は最初からない
そして北部九州最大国の奴国の首長がいち早く纒向型前方後円墳(那珂八幡古墳)に
葬られており、奴国もこの祭祀連合に初期メンバーとして参加しているのが明白
ここまではっきりしているのに、「統一国家には文字が必要」とか
「軍事的に制圧できたはずがない」とかトンチンカンなことを書き続けるのが九州説信者だよ >>743
だいたい磐井の君だもんな
オオキミは大王の元名だから
オオホドだかオオトモがオオキミに謀反呼ばわりとか
お前らが逆賊じゃないの?くらい言うよね あのねぇ、前方後円墳なんて、
大和に反乱を起こした筑紫の君磐井ですら作ってるのに、
そんなものは大和政権とはなんの関係もないんだが。
>>739
黒潮とかそんな経路の神話は知らん
大分福岡山口広島岡山と来て大阪で撃退されて和歌山に転進
女酋長数人を虐殺して熊野からヤタガラスの案内で奈良に侵入
土蜘蛛や蝦夷と交戦になり撃ち破って桜井市か橿原市かそのあたりに勢力を得るに至った神話ならある >>752
新唐書に出てくる「彦瀲の子・神武立ちて、更に「天皇」を以て号と為す。大和州に徙(うつ)り治む。」
この部分どう読む?嘘の記述? >>751
女酋長が邪馬台国なのが本居宣長の説だぞ 和式トイレがなくなって洋式トイレのが最近は多いから
日本政府はないことになるんだよw
熊襲は気性が荒々しくて女は怯えながら暮らさないといけなかった
そんな熊襲狗奴国で何が女リーダーだよ
いよちゃんのその後どうなったかだけ気になる
ぽろっと中国で書かれた石碑か書物見つかるの
期待するしかないのか
>>662
>継体も凄いよな
>名前に「継」の字があるだけで、簒奪呼ばわりされてしまう
継の字だけではなく「継体持統」という言葉から取られた諡号だからだよ
「継体の君」と称えられる天皇は、第26代・継体天皇、第49代・光仁天皇、
第58代・光孝天皇の三代で、それぞれ、武烈天皇没後、称徳天皇没後、
陽成天皇強制退位後の後継者不在を埋めるかたちで即位した天皇 >>761
ヒロミノ神子って人と結婚して幸せに過ごしたと記紀に書かれてる >>755
高千穂から日向国にでたら、
地理學的には、もう黒潮に乗るしか紀州には行けないけどなあ
航路的には、北上して宇佐美に行くほうが大変な気がするし
瀬戸内海の陸地沿いをいくんだったら、
敵地では補給は困難で、確実に兵站がつきて全滅するから
もともと友好国が瀬戸内海沿岸にあったってことだけど
そういう歴史を証明する文献がないだろ そもそも那珂八幡古墳は時代が分からない。
仮に箸墓が卑弥呼の墓なら、
卑弥呼より後の時代の古墳になるし、
それは卑弥呼の時代に奴国が
大和政権に支配されていたことを意味しない訳だが。
徐福は秦氏だろ。
秦氏の倭国融合で日本ができ
倭国が塗り替えられたんだよ
漢委奴国王の金印が博多湾の志賀島から出土しているかな
漢の時代にはすでに交易しているという事
ただその金印が魏ではないだけで
>>754
え、磐井さんて大和政権にめっちゃ関係ある人なんじゃないの
反乱起こしたからそれまで大和と無縁の独立国ってことは無いでしょ 奴国に関して言えば、
山門の支配者である筑紫の君が、
代々御倉を持っていたという日本書紀の記述が全て。
倭の五王の時代に、大和と山門が連合したのだろう。
北九州でしょうよ
んで畿内にもなんか国があったんでしょ
>>707
>出雲(大国主)は、あくまで国津神で、皇統ではない
あまり意識されていないが、皇統の母系の祖が出雲なんだよ
造化三神 高御産巣日神 神産巣日神
国産み 伊弉諾尊 伊弉冉尊
三貴子 天照大神 素戔嗚尊
地上の神 邇邇芸命 大国主神
皇統の祖 神武天皇 比売多多良伊須気余理比売
という対応関係で、皇統の父系と母系が描かれている 関係があるから支配されていた事にはならないし、
日本書紀において奴国を支配していたのは山門政権である事は確定している事実である。
返事がねぇな 畿内派の人で>>756の答え誰か頼むわ
大和州に徙(うつ)り(移りって意味ね)治む
ほんとはその前に出てくる文も聞きたいんよね
最初の王は天御中主(日本書紀に出てくる)といい32代続いてて
「筑紫城」に居るんだよって書かれてる
これもどう読むのか聞きたい 末盧国から伊都国、奴国は東南と書いてるが各種証拠から東南じゃない
従って邪馬台国の方角記載は不正確だ
以上を認めるか否かで議論する価値の無いトンデモかまともな人かの目安にはなる
>>773
邪馬台国は九州と言うのははっきりしている
畿内を治めていたのは大国主
出雲(奈良)は九州から東征した神武天皇に国弓譲りした
反対した者達は長野に移動し諏訪大社を建立した
諏訪大社は今でも銅鐸を使うし生贄の儀式もやる
ここまでは分かっている >>769
そもそも朝貢しようって感覚があるから倭国の時点で渡来人なんじゃないかって見方もあるけどな >>704
最近になって邪馬台国論争が活発化してるけど、一時停止、両者クールダウンさせるって名目で
半島有事とかのゴタゴタが終わってから再開させるべきだと思います >>764
文献は知らんが神話には岡山に至るまで交戦の記載が無いので
状況的には友好国だったと考えるしかない
岡山には7年の長期に渡って所在していたのでこの間に何かやっていたと見るべき
神話の話だがな 527年よりずっと以前から、
山門政権が奴国を支配していた事は、
歴史の事実として確定している。
それで、仮に大和政権が3世紀に奴国を支配していたとして、
どうやって、山門政権が、
その後奴国の支配権を奪ったのか、
奴国の支配権を奪われた中で、
どうやって朝鮮半島に遠征したのか、
説明する事は不可能である。
>>776
畿内説じゃなくてすまんが答える。
日本書紀を読んでまとめて書いてるぞ新唐書だし >>729
>だから後付けだろ?新唐書はさ
また出た!九州のおバカ理論ww
唐代に倭国から日本国への改号があったから、
唐代の史書では倭国伝と日本国伝の両立てになっているだけ
それは、旧唐書でも新唐書でも唐会要でも同じ
唐代以前の史書はすべて倭国伝
改号のあった唐代の史書は倭国伝と日本国伝の両立て
唐代以降の史書はすべて日本国伝
これだけの話
唐代史書の倭国伝の人物も日本国伝の人物も、どちらも大和朝廷の人間で、
続日本紀等の日本の文献とも対応が取れてる
倭国も日本国も大和朝廷だよ
九州倭国、九州王朝の出る幕はない だいたい倭国は倭奴国だってハッキリ言ってるしな
九州しかないだろ
>>770
高句麗を排除しようとした漢の「新」政権の貨幣が
南鮮から倭にわたって出土してることから、「新」の政策においても、倭・帯方郡を重視したんじゃなかろうかね。
その刺激が倭の帥升を後漢表敬の切っ掛けとなり、半島権益の取引も出来るようになった。 >>783
それはまずくないか?
記紀読むのはいいけど
確証も無く最初王は九州の筑紫にいて神武さんって人が
天皇を名乗って大和に移って治めたんだよ〜とか書くのはw いやいや倭国は倭奴国だってハッキリ言ってるじゃん
畿内説のが全く出る幕ないだろ
近畿は4世紀に吉備から埴輪君が纏向にあった
小規模集落に移住してきたのが始まりで
埴輪君が神武だよ。
だから神武から始まる近畿史は邪馬台以降の話なんだよ。
>>781
熊野も山背も友好国
高倉下や八咫烏が協力してる。 >>789
出るわけないじゃん 出ないほうが楽しいんだからねw >>787
日本書紀はそのために書いたんだからいいんじゃね?
旧唐書ではまだ混乱してるな中国人 九州一択だな 当時は大陸に高い九州が最先端なのは疑いなし
>>749
>がちがちの根拠って?どんなの?
がちがちの根拠じゃなく、がちがちの証拠な
例えば魏志倭人伝の末盧国−伊都国間の方角が間違いという点では
松浦川の河口平野で千々賀遺跡、桜馬場遺跡、宇木汲田遺跡がある唐津平野が末盧国というのは
がちがちの定説だがこれを否定するし
方角の間違いはこの写真一つでがちがちに明白なのに伊都GC付近が伊都国とかわめき続ける
>>793
いやいや 筑紫城なんて出てこないしそこから大和に移って
なんて記紀に書いてないですしw 魏志倭人伝の記述、
日本書紀の記述、
そして土器や鏡、槨と棺の分布など、
ありとあらゆる点で、
畿内説は完全否定される事が結論付けられている。
ぜんぜん混乱してないよ中国はさ
むしろ中国は慣れっこだろ
易姓革命はしょっちゅうだし
隋から唐に移ったばっかだから、すぐにピンと来たんじゃないの?
国内向けに日本は誤魔化しが成功しただけ
それの延長線に畿内説があるだけ
>>795
・・・・・そんなどうでもいいことががちがちな「証拠」なん?
はぁ、、 >>792
自治体もウハウハ
確実に女王国の可能性は無い吉野ヶ里もそこを無視して騒いでるからな >>754
>あのねぇ、前方後円墳なんて、
>大和に反乱を起こした筑紫の君磐井ですら作ってるのに、
>そんなものは大和政権とはなんの関係もないんだが。
あのねぇ、同一国家の同一文化圏の中だから、同一規格の前方後円墳を作ってるんだよ
自分でも「大和に反乱」って書いてるじゃないかww
大和朝廷の傘下だから「反乱」なんだよw
筑紫が大和朝廷の版図内であるのを自分で自白してるじゃないかw >>756
>この部分どう読む?嘘の記述?
倭国・日本から伝えられた記紀準拠の情報ってだけだよ >>796
漢文だから中国人も内容は掴めるんじゃねえかなあと思った。
証拠もないし推測でしかないんだけどね。
寝る!おやすー 畿内説は苦しいな 今が踏ん張りどころだ 精々無駄なことだが頑張って
全くスタップ連中と同じ強弁術だからなぁ
クローンが出来たとか別のパートの話で誤魔化すんだよ
>>766
>仮に箸墓が卑弥呼の墓なら、
>卑弥呼より後の時代の古墳になるし、
相変わらずデタラメなことをw
那珂八幡古墳は後円部が正円ではなく不整な円形の纒向型前方後円墳
箸墓より前だよ 俺は卑弥呼様の奴隷だったけど
卑弥呼様はパッチリ綺麗な二重瞼だったよ
あの時代は一重瞼はチョンだから警戒すんるのよ?って
毎晩クンニさせられてた
一重瞼の日本人にはチョンの血が混じってる
キンキーには日本語が難しいかな。
文化圏は支配権ではない。
トヨタの車が走り回っている日本は、
愛知県が支配しているのかって事だ。
邪馬台国が近畿だとすれば、記紀には出てこないから
大和政権に滅ぼされましたかね?
>>798
佐賀や長崎の爺の方言を目の当たりにするとチョンの言葉にクリソツ 九州説は文献チェリーピッキングと曲解で、ゴリ押ししてるだけだからなあ
物証出さないと無意味
大声で喚いてるだけ
>>809
そしたら九州の文化大和に伝播した事になるのだが?
オマエ、真性のバカか?
それこそ、前方後円墳が、
大和の支配と無関係であると自ら言っているのに、
バカ故にその理論が理解できないというマヌケブリだ。
マヌケ故にキンキーになってしまうという事を、
オマエ自身が証明してしまっている。
得意顔でな。 >>797のように具体的な根拠を示さずにただ否定されてると
連呼するだけの九州説が多すぎる
科学的に議論するための能力がなさ過ぎる
何か言いたかったら、多くの人が確認できて納得できる根拠を基礎において論じるのでなければ
ただの信仰告白と同じ
だから「九州説は宗教」とか揶揄される訳だ 畿内説のが先に無根拠に断定してたろが
中国の史書には倭国は東遷の記述はないとか
ぜんぜんあるじゃんかよ
>>800
>そんなどうでもいいこと
九州説が畿内説に文句が言えるのが「方角」だけなんだよ
その「方角が正しい」という言い分が、衛星写真一枚で否定されてる
反論があるならどうぞ
具体的に論拠を付けて、ね >>804
漢文は向こうの古語だから奴等もよく分かってなくて解読は日本が一番進んでるくらいだっての >>811
>文化圏は支配権ではない。
まだ言ってるww
九州説は、支配とか、軍事的に制圧とか、関係のないことに
話をそらしてごまかそうとするのみ
卑弥呼は祭祀連合のトップとして共立された祭祀王
最初から支配はしていない >>819
後から倭の粗末な船に乗るときに嫌がってんのに
何でこんな海伝いを陸行してんだ? >>819
あのさ どこに上陸したのかも確定してるわけじゃなく
移動距離も正確なのかも確定してない状態で
現在の地図広げて、、、アホですか? >>779
半島南部は「倭人」の地域。だから国際感覚を待ってる
本格的に組織になったのは卑弥呼が死んでからだよ 前方後円墳は奴国から伝播したが時代は不明だが、箸墓は新しい。
奴国は527年まで山門によって支配されている。
前方後円墳の分布が支配を表すとすれば、
それは山門政権の支配という事になってしまいますね。
キンキー説の為にも、
前方後円墳の分布は支配圏の範囲を意味しないと言っておいたほうがいいぞ。
>>815
>そしたら九州の文化大和に伝播した事になるのだが?
>オマエ、真性のバカか?
基本事項も抑えずに、九州説の文書やブログばかり読んでいるから
こういうトンチンカンができあがる
なぜ「纒向型」前方後円墳と呼ぶのか、ちったぁ考えてみなよ
箸墓に先行する纒向石塚古墳から累代的に作られる纒向古墳群の
墳形が纒向型前方後円墳と呼ばれているんだよ
時系列としては
纒向石塚古墳
↓
那珂八幡古墳
↓
箸墓古墳
の順番
那珂八幡古墳は、畿内纒向で始まった纒向型前方後円墳を受け入れて作られているんだよ
文化の伝搬方向は「畿内⇒北部九州」だ
ちったぁ九州説以外の「きちんとした定説」に目を通してから何かを言うようにしたらどうだ? >>819
>後から倭の粗末な船に乗るときに嫌がってんのに
>何でこんな海伝いを陸行してんだ?
この経路が、九州説のいう「末盧国から伊都国が東南陸行で正しい」と
いう理由の通りに書いた経路なんだよww
この経路で行くから東南陸行で間違っていないんだそうだ
>>819は理解できるか?w
南へ行って東へ行ったあと北へ向かうルートだし、
>>819の言うとおり陸行するのは不合理なんだがなw 後普時代、旧唐書には
日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰
日本国の物は 倭国の別(人)種なり その国日いずるを持って故日本と名を曰く
倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
倭国その名の雅ならずを悪み 改めて日本とする 日本は古い小国で(今は)倭国の地を併合した
とまで明確に書かれてるんだが、これを壬申の乱の事とする向きもあるが
それだと日本は古い小国というので疑問符が付く
倭に関しては九州(女王国)と畿内で始まった小国ヤマトが別れてて併呑したからって事にした事が書いてあるって方がいいんじゃないですかねぇ
>>824
>どこに上陸したのかも確定してるわけじゃなく
伊都国の位置は、三雲遺跡群で確定なんだから、この地図一つで
伊都国に東南陸行五百里の地点はないことが分かるだろ?
上陸地点をどこにしようと、東南陸行五百里が間違っていることは
この写真一枚でがちがちに示されてるよww 箸墓は4世紀になった時点で馬具や布留式土器などのゴミ捨て場になってたと
畿内説のバカが主張してたので当時完成してすぐに周辺住民たちに忘れ去られてたということ
となれば邪馬台国とも大和朝廷とも何の関係もない遺跡だよ
山門政権って何だそりゃw
ヤマト繋がりで苦し紛れに創作したか
もう何でもありの世界だな、九州王朝説は
魏志倭人伝と整合性をとるなら、
奴国の円墳に方墳が付け足された時代は、
卑弥呼の時代よりも後の時代。
そこから派生した箸墓は、
卑弥呼の時代よりも後の時代になるな。
既に結論は出ている様だな。
>>827
石塚古墳は槨が出ちゃってるからなあ。
残念だがそれは倭国の墓では無い。 >>830
旧唐書の倭国伝に書かれている使者が誰なのか確認すればいいのにw
又遣新州刺史「高表仁」持節往撫之。
日本書紀の舒明天皇紀に
四年秋八月、大唐遣「高表仁」送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐国使人「高表仁」等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾
とあるでしょ?
九州説お得意の旧唐書の倭国伝の倭国も大和朝廷なんだよ
周辺情報も確認せずに、気に入ったところだけピックアップするのを
チェリーピッキングって言うんだよ >>831
おえ?伊都国って糸島ってマジなん?
魏志倭人伝を読んだ中国と台湾のせんせ
二人とも糸島じゃないって言ってた気がするんだけどな
日本人が読むと糸島になるのか不思議w 魏志倭人伝に記されたころの邪馬台国は九州だったのかもしれないが
その後、程なくして近畿に遷都したとかの可能性はどうよ?
邪馬台国なんて魏人が噂話だけででっちあげた創作ですよ
>>839
それは記紀にも書かれてる事だし可能性の1つではある 唐に隋の話を聞いたらチェリーピッキングになるのか?
こういう論説のがチェリーピッキングだわ
>>836
>石塚古墳は槨が出ちゃってるからなあ。
それは大ウソ
纒向石塚古墳はとうの昔に削平されていて埋葬主体部は確認されていない
槨が出たと言いたいなら、せめてホケノ山古墳と言わないとww
>残念だがそれは倭国の墓では無い。
そして何度も書くが畿内古墳の石槨や粘土槨、石囲い木槨などは、棺を封じ込める構造であり
日本の考古学者が勝手に「槨」の字を流用しただけで
「棺の周りに人の立ち入る空間を作る構造」という槨の要件に合わない
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
槨 かく
墓制上の用語。中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,
その棺を置くところを槨といい,槨は壙の中に造られるという。
「厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。」
大正初期に棺槨論争があったが,現在は棺は用いるが,
槨という用語はあまり使われていない。
粘土槨,木炭槨という言葉は「本来の厳密な意味からは離れており」,
木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。
畿内の古墳も槨なしでいいんだよ >>839
伊都国は吉野ヶ里近辺だという説もあるよ 円墳だった時代が卑弥呼の時代。
ソレに方墳が付け足されたのが、
大和の文化が波及した時代。
つまりタイムラグがあるという事だ。
それをごっちゃにして、
前方後円墳があるから卑弥呼の時代に、
大和が奴国を支配していたというのは、
明らかな間違いだろう。
九州説を存続させるには
これぐらいの奇怪説を捻り出さないと維持するのが難しい
何々、大嘘を吐いたのは考古学者なのに
解釈したほうが嘘吐き扱いなのか?
畿内説のがいちいち変な解釈を付随させられるわ
>>842
>唐に隋の話を聞いたらチェリーピッキングになるのか?
>こういう論説のがチェリーピッキングだわ
こういう話のずらし方を見ると、火器管制レーダー照射に対する某国のやり方にそっくりだなww
旧唐書にある倭国伝の記述=旧唐書の撰者による倭国の認識であり
そこに書いてある記録が大陸王朝と大和王朝の交流の記録だっていう話なんだが?
旧唐書倭国伝の倭国は、大和王朝
こういうがちがちの証拠が認められないから、信者とかカルトとか言われるw >>843
槨という言葉は使われていますが?
発掘が進んだ結果として、
大正時代の論争が間違っていたことが明らかになっている。
吉備や伊予辺りから、
立派な槨のある埋葬文化圏である事が、
考古学において確定しています。 前方後円墳の普及と政権とは何の関係もない可能性もある
>>850
韓国レーダーとか出さないと気が済まないのかよ
朝鮮人みたいのはお前だろ
だから大和朝廷から聞いても政変があったように思われたんだろ?
徳川幕府に豊臣の顛末を聞いたようなもんだろ
それが何で連続性になるんだよ >>845
前方後円墳の方形部は方墳ではなく円墳に付属した祭祀場 >>844
>伊都国は吉野ヶ里近辺だという説もあるよ
まあ、それを主張する人もいるにはいるけれど、
基本的に相手にされていないごく少数の素人さんのブログに見られる少数説だよ
伊都国を吉野ヶ里付近に持って行ってしまうと、三雲遺跡群や福岡平野の比恵那珂遺跡や
須玖岡本遺跡が宙に浮いてしまう
末盧国 唐津平野 千々賀遺跡など
伊都国 糸島平野 三雲遺跡群
奴国 福岡平野 比恵那珂遺跡群
とするのは考古学的状況や魏志倭人伝の国名から見て鉄板の定説
これを否定する人は、カルト説だと思っていい >>837
で、五世紀前後の使者の事を含んでも古い小国ヤマトが
倭を併呑統一して日本に改名したってのとは何一つ矛盾しないが
邪馬台国を確認した魏は二世紀だぞ、その時の倭を併呑した旧い小国ってのは何処だよ
が、自分は記紀にそこまでの疑いは持ってない
二世紀までに広くあった倭を近畿ヤマトが併呑したそれでいい
なので近畿邪馬台国だけは無い >>849
>何々、大嘘を吐いたのは考古学者なのに
>解釈したほうが嘘吐き扱いなのか?
おいおい、引用した百科事典の説明にも
「大正初期に棺槨論争があったが」って書いてあるだろ?
考古学者が間違えたのは100年くらい前だぞ?
その古い情報をいつまでも頼りにして解釈している時点でチェリーピッキングなんだよ
周辺情報を調べて整合性を考えるってことをしない人じゃないと、今どき九州説なんて
やってられないww
>畿内説のがいちいち変な解釈を付随させられるわ
日本語がおかしいな
「付随させられる」っていう言い方は日本語としておかしい
添削すると
「畿内説の方がいちいち変な解釈を付け加えてくるのが癇癪怒るにだ」
って言いたいのかな? >>856
吉野ヶ里付近=伊都国説だと不彌國が不明になるぐらいだけどね。
鉄板がお好きなら仕方ないがw >>851
>吉備や伊予辺りから、
>立派な槨のある埋葬文化圏である事が、
>考古学において確定しています。
具体的に例示してくださいな
どの遺跡のことなのかな? >>854
>だから大和朝廷から聞いても政変があったように思われたんだろ?
時期的に壬申の乱による皇統の移動を想定する人はいるね
でも、天智系も天武系もどちらも大和朝廷で、九州王朝(笑)の出る幕はないよ
頼みの旧唐書からも、倭国は大和朝廷という話にしかならない >>850
>旧唐書倭国伝の倭国は、大和王朝
おいおい畿内派の人がそんなこといって大丈夫かw
「倭国の王の姓は阿毎」はどう解釈すんだ? >>858
だから考古学者が勝手にやってたんだろ?
ゴッドハンドみたいにさ
大嘘吐きを最先端とか解釈論とか蛸壺的な議論に持ちこんで誤魔化してるだけじゃないかよ
揚げ足を取り合戦に持ちこんでさ >>857
>邪馬台国を確認した魏は二世紀だぞ、その時の倭を併呑した旧い小国ってのは何処だよ
そんな話は、もっと時代の近い史書には一言も書いてないだろ?
記紀は8世紀で3世紀のことの考える参考にならないっていうくせに
10世紀の旧唐書を根拠にするから馬鹿にされるんだよ >>859
>吉野ヶ里付近=伊都国説だと不彌國が不明になるぐらいだけどね。
奴国はどこへ行くんだ?
投馬国は?
三雲遺跡群や福岡平野の遺跡は無視なのかい?
整合性がまるで取れなくなるんだよ
都合の悪いことは丸っと無視するから、九州説はチェリーピッキングと言われる >>861
だから徳川幕府も豊臣政権も同じ日本だけど
同じ権力機構じゃないだろ
それを同じ大和朝廷だと言うのは記紀の誤魔化しだわ
そこを中国の使者は見抜いてたから、ああいう記述になってる
そこを記紀の誤魔化しの部分を循環詭弁を使って騙そうしてるのが畿内説だな 私は卑弥呼=倭迹迹日百襲姫とは思っていないけど、漢字の意味を考慮すると
『倭の跡の跡の日(百は判らない)襲われた姫』
と思っていました。
この女性は力のある家系の者(倭の三代目とかの子孫)で、子孫を残すことを恐れた何者かが、子宮を刺して亡き者にしたのかと。
チェリーピッキングとやらを循環詭弁で騙そうとしてるのは畿内説だろ
先に言われたくないこと言うやり口だな
吉備の楯築遺跡などは2−3世紀、
卑弥呼の時代の槨埋葬。
吉備から波及した前方後円墳は、
ホノケ山も槨だし。
>>862
>「倭国の王の姓は阿毎」はどう解釈すんだ?
その辺は記紀準拠の情報ってだけ
天之御中主とか天照大神とかの後裔ってことになってるんだから、
それが姓だと受け取られただけだろ この論争には、天皇朝鮮人説が、絡んでいるそうですね。
それはいつまでたっても、決着しないわけですね。
>>863
>揚げ足を取り合戦に持ちこんでさ
最初に揚げ足取りを始めて話をそらし始めたのはそっちだ
完全に火器管制レーダー照射の件と同じやり口じゃないかww >>870
おまえ都合の悪いの全部それだな
なかなかの才能やわ 笑わせてもろたw
が、おまえの説は貧弱 もうええわ以上 一方、北部九州は卑弥呼の時代、
甕棺全盛の埋葬文化圏になっている。
魏志倭人伝の記述から見て、
槨のない、棺の埋葬文化圏が、
卑弥呼の時代の倭国の範囲としか言いようが無い。
>>866
>だから徳川幕府も豊臣政権も同じ日本だけど
>同じ権力機構じゃないだろ
徳川と豊臣は別の家系だろ?
天智と天武は同じ皇統の兄弟
例示がおかしいし意味をなしていない 半島も列島も倭の文化圏で多元王朝説なら
天皇が半島や列島を又にかけた王朝の縁戚で何の問題はないけど
一元王朝で連続体だって言うから、どうしても話に齟齬が出る
それが畿内説なんだよ
>>872
してねえよ
韓国レーダーとか朝鮮式な印象レッテル操作を始めたのは、お前だろ
スタップの末期もこればっかだわ 箸墓からは馬具も出ちゃったんだよねえ。
もう完全にキンキーは詰んじゃった。
>>875
徳川も豊臣も縁戚だった
それと同じ程度の縁戚だったんじゃないか
ここが記紀が怪しまれてる
明らかに中国の使者もここの権力委譲を素直に受け止めてないから、あのような報告文になってる >>865
ただ1つ、魏志倭人伝では伊都国の戸数が千と少なすぎる。
魏略では
「東南五百里 至伊都国 戸万餘 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属女王也」
と妥当で、これが女王国みたい。あとは考えてみればw >>868
>チェリーピッキングとやらを循環詭弁で騙そうとしてるのは畿内説だろ
そう言いたいなら、どこがチェリーピッキングなのか、具体的に指摘しないと
ただのミラーリングだよww
こっちはきちんと
旧唐書の「或云:日本舊小國,併倭國之地。」だけを重視して、
倭国伝の「高表仁」の倭国派遣を無視するのはチェリーピッキングの典型って
具体的に書いてるだろ?ww >>873
>が、おまえの説は貧弱 もうええわ以上
意訳
論破されて、これ以上言い返す能力が足りないので撤退します >>881
だから循環詭弁だって言ってるじゃん
使者が誰かなんだよ?
それが大和朝廷だろうが徳川幕府だろうが
政変があったと報告してるだけじゃん >>879
>徳川も豊臣も縁戚だった
>それと同じ程度の縁戚だったんじゃないか
政略結婚と同母兄弟は同列視できないだろ >>884
その記述は明らかに嘘くさいわ
全く幼少期の記述がない兄弟の皇族とかさ 箸墓は槨は間違いないだろうし、
馬の絵とか馬具とか出ちゃうだろうから、
そこで畿内説は完全終了になる。
>>864
>記紀は8世紀で3世紀のことの考える参考にならないっていうくせに
普通に記紀を参考にしてんだが
神武天皇が戦って初めて起こした国がヤマト
その後の代も四道将軍を各地に配置して本州内政に務めていたのも書いてある
景行天皇と日本武尊が九州平定を行ってほぼ統一したのであろう事も書いてある(国内向け読み物の古事記には書いてないが)
次代からは官僚が配置されて行く様子も書いてあるそれで五世紀
旧唐書は日本書紀と矛盾してないから支持してんだぞ >>883
>だから循環詭弁だって言ってるじゃん
どこが循環してるんだ?
>>883の書き込みには論理がないから話が追えない
>使者が誰かなんだよ?
使者は大和朝廷から犬上三田耜が送られ、高表仁が返礼使として大和まで来ている
この明確な大和朝廷の外交が倭国伝に書かれている
朝貢の記録は起居注に残されるから、旧唐書の倭国伝の倭国が大和朝廷なのは確定
九州王朝の出る幕はない
>それが大和朝廷だろうが徳川幕府だろうが
>政変があったと報告してるだけじゃん
そんな報告は誰もしていない
倭国から日本国への改号は唐会要に則天時、長安四年の遣唐使がそう言ったと書いてあるから
粟田真人の時だと分かる
長安四年は西暦で703年で壬申の乱は672年だから30年くらい後になる
政変の報告ではないよ
だから徳川だの豊臣だのいうのは的外れ >>880
>と妥当で、これが女王国みたい。あとは考えてみればw
伊都国が卑弥呼の都って言う一派がいるのは承知しているけれど、
九州説の中でもトンデモ度高いやつだろ?
これが女王国っていうのは、通らない
その前の吉野ヶ里が伊都国というのも結局は無理
吉野ヶ里周辺には米多郷の地名が残り、旧事本紀の国造本紀に筑紫米多国造があるから
その辺は米多国だろう
この米多(メタ)国と倭面土國王帥升の面土(メト?)国の関係を考える方がおもしろそう >>888
循環させてるじゃん
誰がどこに行ったから話から内容も大和朝廷しかないってすり替えてるだけだろ
ここがおかしいだろ
旧唐書でさ倭国から日本国に何らかの権力委譲あったって内容と
権力委譲先の日本を名乗る大和朝廷に使者があったとは関係ないだろ >>640
森博達と岸俊男では時代が違う。
同じAIでもINPUTするデータが違えば
出てくる答えも違う。
稲荷山鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」
この「支」を「シ」と読むと記紀万葉の
万葉仮名の読み方、ひいては魏志倭人伝の
「支」が表わす音と食い違うことになる。
読まないと >>832
>箸墓は4世紀になった時点で馬具や布留式土器などのゴミ捨て場になってたと
>畿内説のバカが主張してたので当時完成してすぐに周辺住民たちに忘れ去られてたということ
箸墓本体ではなく周濠だからね
それを言うなら九州説の大切な平原1号墓は、周溝が埋まる頃には
周溝にいくつも土坑墓が作られているし、あまつさえ
墳丘内にまで土坑墓が掘られている
記紀に書かれてない遣隋使が最初にあることが、別王朝があったことの証拠
初遣隋使のことを書かない理由なんかないからね
>>891
根本的に間違えてるね、森先生が岸先生の論文の一部を
使って考察したんだよ、その後にそれを否定する論文が
続いてるのをわざとかどうかは不明だが、無視してね >>890
>ここがおかしいだろ
>旧唐書でさ倭国から日本国に何らかの権力委譲あったって内容と
>権力委譲先の日本を名乗る大和朝廷に使者があったとは関係ないだろ
おかしいのは>>890の頭だよ
「倭国から日本国に何らかの権力委譲あったって内容」これがまず間違い
唐会要を見れば倭国から報告したのは日本国への改号であって、権力委譲の話はない
次に>>890は
「権力委譲先の日本を名乗る大和朝廷に使者があった」などと勝手に考えているけれど、
その考えでいう「権力委譲前の倭国」についての倭国伝に、大和朝廷との外交記録しか
書かれていないのだから、権力委譲前の倭国も大和朝廷であることが確定
権力委譲前の倭国も大和朝廷で、権力移譲先の日本も大和朝廷なんだから、
そもそも権力委譲なんてないという話にしかならない
>>890はまず旧唐書の倭国伝を読みなさい >>895
何で確定しちゃうの?
鎌倉幕府も朝廷も同じ日本みたいな理屈か? やっぱおかしいわ
兄弟喧嘩の記述はなくて
倭国が日本という小国に併呑されて改号したとしか読めない
むしろさ?畿内の地元の郷土歴史じゃないから
畿内の人たちが政権権力の時代の飛鳥時代とか平安時代のひとたちにとって
意味がない関心がない事柄だったから
まったく記述しなかったか避けてたんだろ?
つまり畿内には存在しなかったのでは?
畿内に存在してたのなら
自分の足元の歴史を残さないもんかね?
奈良の蘇我入鹿の首塚神社の地元じゃ
未だに蘇我氏びいきで天智と鎌足は嫌われてるんだってな
こういう伝わるものがないよね
邪馬台=大和だろ
中国の歴史書は周辺の地名は発音の当て字だから
>>899
鎌倉時代らしいけど、よくあんなのを首ハネを絵巻物として残したわなw >>902
将門の呪いは鎌倉時代で成立したから期待値が高まったんだろう
コンセプトが似てるしな >>643
中国語圏には「八仙過海=八人の仙人が海を渡る」という四文字熟語がある。 >>830
イミフ
「その国日いずるを持って故日本と名を曰く」
以其國在日邊 故以日本爲名は
其の国「日辺」=日の本に在(あ)るが故(ゆえ)に
「日本」をば名と爲(な)す
これが正しい訓み方だ。
小野の妹子が隋に持っていった国書のことで頭が一杯とか。
それで思い出したけど
日本書紀は「日出づる処の天使」云々の文面を記録して無いよね。
朝鮮系の藤原が日本の独立宣言を悔しがって無視したのかな。 >>867
「百襲」は百代世襲したという意味だ
もちろん誇張表現だが… >>862 >>870
「天」はアマと読んで饒速日がリーダーとなって降臨=渡来した時の
天磐船=アマのイワ船に由来する。
アマはアウトリガー・カヌーに着けられた転覆防止腕木の先端にある浮きのこと。
「アマ=浮き」という伝承が失われた奈良時代以降には
アマ>アメ=天と読み替え、書き換えが行われた。 >>905
それは九州王朝の阿毎が送った遣隋使(600年)だからね
書けんわなw 別に神武天皇が奈良に来た時そこが未開拓の魔境だったわけじゃなく
ニギハヤヒが幅をきかしてたわけだけど
記紀を読んで疑問に思ったのが部下のナガスネヒコを神武天皇に殺されても
ニギハヤヒは怒らないんだよね
現地出身の部下より同郷人を優先するというのは現在日本の海外支社を思わせるね
いや、怒ってないというか一番の腹心やられて勝てる気がしなくなっただけだろ
>>909
魏志倭人伝も日本書紀も全面的に信用することは出来ない。
国譲り神話は古代奴隷制を擁護した儒教思想の影響を無視できず
激戦地であるほど平和的に支配権の移譲が行われたと書いてると見る。 >>911
その時はニギハヤヒが屈服したとは書かれると思うよ
でもそんな嘘をつくぐらいなら橿原にいたとは書かなかっただろうね >>878
そうでもない
道教で神格化された老子が牛に乗った太上老君として描かれることが多い。
馬具ではなく「牛」具だったかも知れない
//www.nipic.com/show/13512340.html
卑弥呼は青銅鏡で大衆を惑わしていたし
神道の神棚にカーブミラーのような凸面鏡は必須
天皇の三種の神器に八咫鏡(やたのかがみ)と草那藝之大刀(又は剣(つるぎ))
がある。
鏡も剣も道教の道士の重要アイテム。日本独特なのは勾玉だけ。
そもそも「天皇」という言葉自体が「道教」で神格化された北極星の別名
最高神を表わす「天皇大帝」に由来する。 >>617
そのまま
鏡で地図の神武東征ルートを見るだけ
九州が朝鮮半島、四国が隠岐、瀬戸内海側が日本海側、紀伊半島が丹後半島 に該当するかな
宮崎は鏡の中では朝鮮半島の東になってるね
この仕掛けは作者らが意図的にやったと思うよ >>914
宮崎と言ってる時点で半可通
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>912
えっ、誰が橿原に居たって
主語をはっきりさせろよ それこそ日向を名付けたのは景行天皇だって日本書紀に書いてあるだろうに
九州平定した景行天皇以後の天皇が宇佐に言わせたって事なら
それこそ宇佐八幡創建の縁起から掘っていくと九州の氏族関係とヤマトを別けそうだがの
>>908
しかし小野妹子が隋の皇帝の返書を持って帰る途中
陸路百済を通過中にその返書をひったくられた。
「ひったくりの起原は百済ニダ」
と日本書紀に書かれている。
>九州王朝の阿毎が送った遣隋使
と矛盾するから日本書紀は九州王朝を否定してる。
とにかく魏志倭人も日本書紀もマユツバ物だ。 丹波・丹後と帯方郡が連絡していた可能性は、
旧帯方郡の後と見られる地域で発見された周溝墓だね。
倭人伝の時期よりだいぶ前だが、
これは九州をパスッシング。
卑弥呼を共立した勢力は、カグツチの血が石に落ちて生まれた勢力ですよ
石折イワサク、根折ネサク、石筒之男、甕速日、樋速日、建御雷之男(建フツ、豊フツ)、闇淤加美、闇御津羽
九州北部の住吉三神は、遠賀川上流の石筒之男、吉備(甕速日、樋速日、建御雷之男)に倒された
饒速日と物部かな
九州南部の海幸彦(隼人の祖)は、イワサク(山幸彦)に倒された
イワサク磐折は、磐割、磐余。
磐余は石村。
根の国は元々は様々な渡来人が雑居する土地であったが、根折、オオナムチにより統一された
彼らが連合して最後に攻め込んだのが近畿地方(クニ、クナ)
天岩戸という防衛拠点を突破して攻め込んで来たんです
2世紀末、彼らの侵略で播磨淡路島摂津なにわ北河内南近江そしてヤマトが陥落
魏志倭人伝当時、必死で侵略に抗っていたのは南河内と和泉ですよ。魏志倭人伝でいう狗奴国。
そして敦賀湾〜伊吹山の勢力も必死で抵抗していたんですよ。
気多大社の謂れは興味深いです。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが化鳥、大蛇を退治して海路が開けたとある
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
そうかないんか、残念
立て続けてくれた記者さんには感謝しかない
>>926
オオムナチと大国主は同一人物なのかな? ここ、IDコロコロが自演し放題だろ?
もう終わりね
>>880
魏略の方が三国志より少し古いようなので倭の状況が違うんだろうな
漢代の倭奴国が魏略の伊都国へ、魏略の伊都国が三国志では伊都国と奴国へと。 >>930
2ちゃんはIDすらなかった時代もあるのだが 邪馬台国て前後が無いのよね
◯◯が発展して邪馬台国になりましたー
でも◯◯に攻められて滅びましたーor◯◯に移転してもっと発展しましたー
が
>>931
>魏略の方が三国志より少し古いようなので倭の状況が違うんだろうな
いうほど変わらないよ
魏略の後で魏志倭人伝が書かれたと考えるより、共通の元本からそれぞれ書かれたと考えられている まぁ縄文人からして歯の内部から抽出した核DNA分類で
今の北方、中原、半島、東南アジア何処とも共通点のない
アフリカ人から直接枝分かれしたような謎の人種って事が解ってしまって
伝播トレースが暗礁に乗り上げたからな
IDがあろうがなかろうが、事実誤認は糺されるだけ
>>932の「三国志では伊都国と奴国を女王国と呼んでいるな。」
みたいなインチキはダメだと言い続けないと、ウソも百回の価値観で書き込み続けるからな
九州説の人たちは >>937
縄文人はホモサピエンスとネアンデルタールのハイブリッドだって? 三国志の陳寿と魏略の魚豢は、ほぼ同時代人
陳寿は、元蜀漢の人間で、晋に仕えた
魚豢は、魏の明帝時に郎中まで出世してる。晋には出仕してない
>>939
ホモ・サピエンス自体ネアンデルタール人と共通の遺伝情報平均2%もってるから
さすがにそれ以後ですねえ 科学ニュース板にもいくつかスレがある
新スレ建たなかったら、そっち使うのもあり
URL貼り付けられないので省略
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
【邪馬台国の九州説に新説!?】古代史の真相に肉薄した一人の天才科学者 魏志倭人伝に示された距離の単位「里」を推定[12/07]
【邪馬台国九州説】邪馬台国は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎★2
>>874
近畿だって卑弥呼の時代は皆郭なんてないよ
棺にそのまま土盛った古墳だよ >>946
やっぱりそうなのか
昨日かおととい書き込んでた人は
箸墓が卑弥呼の墓じゃなくてもそのもうひとつ前の古墳を調べればいいんだと言ってたけど
纏向に郭のない古墳は存在するの? 当時の中国人の「槨」の認識
槨を伴うような豪勢な墓を作り始めたのは吉備の連中だよ
その後畿内が真似したんだよ
それが箸墓だよ
>>951
そうなると箸墓は邪馬台国ではないという事だね 九州から東に行くほど神武天皇を祀った神社が減少し、近畿周辺が極端に少ないのは何で?詳しいエロ学者教えてくだしゃあ
>>942
前々から科学的にも九州1択って言われてたよね。
畿内説はただ大和朝廷を邪馬台国と結び付けたいだけ、それだけ(笑) 今回も九州王朝説は無敵の人だとあらためて認識したわ
今回も九州王朝説は無能の人だとあらためて認識したわ
自分で自分を褒めるって、恥ずかしくないんかね
短里
放射説
九州王朝説
それらを除外しても、やっぱり九州だったと思うけどな
>>954
大和以東の歴史を隠ぺいしてるんだよ
当時の天皇は確実に富士山の存在をしっていた。
夫婦岩からみると富士山から太陽が昇るからだ。
四道将軍やヤマトタケルも足柄峠まで行ったのに富士山を知らないはずがない。
従って東国の歴史を高天原で起こったことにして明らかに隠蔽している。
高天原の神はすべて東国にまつられているから ここ数年九州や中国の研究成果が積み重なってて畿内説には不利な状況が続いてる
巻向の扱いも大きく変わって
遺跡は古くからあったが古墳はそれより新しい時代のもの
という結論になりつつある
シンプルに九州だわな
大陸に近い
ゴムボートで官僚が渡ってこれる距離しかない
隠蔽してるニダと言いながら、日本書紀をしっかり引用
ウンコのパターン
そろそろ埋め
天文学でも邪馬台国は九州なんだよね。
畿内説って実は御用学者がうんたらかんたら言ってるだけで何もない♪
野見宿禰は出雲出身で、大和に召還、死んだのは播磨
出雲国造だったとも
そろそろ埋め
>>965
最近大人しかったな
ウンコマーン助けて!!!
w IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
そろそろ埋め
いい歳こいた大人がウンコウンコって
傍から見てるとマヌケにしか見えんよ(真実)
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
そろそろ居場所がなくなるニダ
九州王朝説に対するヒステリックな反応見るとわりと核心ついちゃってるんだろうね
確かに万世一系を旨とする天皇の権威や正統性が傷がつく
古田氏が活動する同時期に「科学的」年代測定が発達したけど、それらを使ってなんとかしてやろうと思っても無理はないね
そもそも大和朝廷はその正統性を疑われた時のために神武東征の物語を考案したんだろうに
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
そろそろ終了
スレ、もうすぐ終わりだね。+ではいつも九州優勢過ぎる。纏向も何かしら出るといいね。
ただ残念なのは、特定したから纏向外したら畿内説は終了
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
そろそろ終わりだ
こいつ、ウンコとウンチとクソの違いも理解しないでウンコウンコ喚いてんの?
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
ウンコを食べる九州王朝
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
ウンコとウンチとクソの違いが分かる男
九州優勢に見えるって、中身のないレスで連呼してるだけだろ
ただの物量作戦だよ
ID可変で「多数派」工作ができるから、この板がいいつー話でしょ
別にヤマトはヤマトで邪馬台国は邪馬台国の九州説の方が万世一系は傷付かんのだがな
倭を持って尊しと為すだよ日本は
倭は倭文(しず)という言葉があるように織り成す事
>>961
カムサハムニダ
神武天皇を祀った神社の数を見て思ったんだけど、熊本、広島、岡山の神社の数から経路が想像出来、東への移動はあったのかなと。しかし初代天皇の割には近畿、つまり奈良では大して重要視されていないのかなと。あくまでも神社の数で追った素人考えですけどね 倭文(しず)
常陸国父慈郡倭文郷
美作国久米郡倭文郷
上野国那波郡倭文郷
淡路国三原郡倭文郷
因播国高草郡委文郷
ウンコ九州は関係なし
こんなもんで誘導できると思うなバカサヨ
学問なめるな
そら倭文は織物の事だからな
倭は模様自体を指す言葉縄文でも文身でも倭
自分達自身を倭と呼ばれるのを嫌ったのがヤマト
>>987
お前たまにいいこと言ってるのにウンコウンコで喚いてる時点で台無しw IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
ウンコ扱いされてるのは一匹だけ
もうすぐ居場所がなくなる
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
ウンコ扱いされてるのは一匹だけ
もう終わり
IDコロコロ、ウンコもぐもぐの独り芝居
ウンコ扱いされてるのは一匹だけ
997
mmp
lud20190714210717ca
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