伝説のキャバレー「ハリウッド」、60年の歴史に幕閉じる…その栄華と高度経済成長遂げる昭和
2019.01.29 Business Journal
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昭和の薫りを残すキャバレー「ハリウッド」は2018年12月30日、東京都内の北千住店と赤羽店を閉店した。最盛期に全国に44店あり、サラリーマンらが生バンドに合わせてダンスに興じたが、平成最後の年の瀬に2店舗の灯りが消え、約60年の歴史に幕を閉じた。
営業最終週は常連客で大盛況だった。日本唯一となった生バンドの演奏とともに美女2人が繰り広げるなまめかしいバーレスクダンスショーを楽しみながら、最後の夜を惜しんだと、スポーツ各紙をはじめとするメディアが報じた。
キャバレーの歴史を振り返ってみよう。
第2次世界大戦後、進駐軍向けのキャバレーが生まれた。日本においては、1960年代から70年代に大流行した。
キャバレーとは、ホステスが客をもてなす飲食店のこと。料金は時間制で、ショーを行うステージや生バンド付きのダンスホールでもあった。演歌歌手は一発ヒット曲を出せば、全国のキャバレー回りをすれば食っていけるといわれた時代だ。
73年のオイルショックでネオンサインの自粛や経費節減のムードが広がり、客足が遠のき、次々と廃業していった。76年頃からディスコが台頭。キャバレーの存続自体が難しくなった。80年代半ばからはキャバクラなどの新たな業態に押され、キャバレーは衰退を早めた。
2000年代以降、生バンド付きのキャバレーは絶滅危惧種となり、「ハリウッド」北千住店や赤羽店がこれまで存続したのは奇跡といわれた。
■「キャバレー王」と謳われた福富太郎
日本におけるキャバレーの歴史は、「キャバレー王」と謳われた福富太郎氏(本名・中村勇志智)と共にあった。福富氏は1931年10月、東京で生まれた。中学2年生で敗戦を迎えた“焼け跡世代”だ。学校を中退後、16歳で銀座のキャバレー「メリーゴールド」のボーイとなる。これがキャバレー人生の始まりで、その後さまざまなキャバレーを渡り歩いた。
57年に26歳で独立。神田に「21人の大部屋女優の店」という名前のキャバレーを開店した。次々とキャバレーを手がけ、64年に銀座8丁目の帝国博品館勧工場の跡地に大型キャバレー「銀座ハリウッド」を開店し、「キャバレー太郎」の異名を取った。
全盛期は直営店29店、チェーン店15店を誇ったハリウッドグループを率い、長者番付1位にまで上り詰めた。福富氏は2018年5月に86歳で死去し、昭和の社交場だった「ハリウッド」は平成とともに終焉の刻(とき)を迎えた。
@中略
■「キャバレー太郎」は銀座の歴史に名をとどめる
「ハリウッド」の本店である「銀座ハリウッド」は、銀座の歴史を語る時には必ず登場する。
もともとは1899年創業の帝国博品館勧工場。勧工場とは百貨店の原型で、今日のショッピングセンターのように全館がバラエティに富んだテナントによって構成されていたという。明治時代の東京名所を描いた土産物の版画(錦絵)の中に、博品館の時計塔を見ることができる。
1921年、4階建ての近代ビルへ改築され、銀座の商店で初めてエレベータを設置して評判になった。「百貨店」という言葉を初めて使ったことでも知られる。関東大震災で百貨店の営業を断念。戦前は、その地に著名なカフェ「銀座パレス」があった。そして戦後、一時期「銀座ハリウッド」が店を構えた。
78年、博品館は創業80周年を機に、現在の10階建てのビルを新築し、玩具店「博品館TOY PARK銀座本店」や「博品館劇場」として営業を再開して今日に至っている。
福富氏は「銀座ハリウッド」で大成功を収めた。まぎれもなく、昭和と平成の時代を駆け抜けた銀座人士であった。
(文=編集部)