江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。書状からは、当時、江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。
この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。
■書状の内容は
書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。
相手の藤堂高虎は今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。
大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやり取りから始まっています。
このあと、自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。
このほか、秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。
跡部さんは「幕府の中枢にいる人物の間でのやり取りの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。
■「”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性」
跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。
跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。
以下ソース先で
2018年12月20日 18時18分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html
>>1
「御居城」と「御」の字が書かれていたから大坂幕府構想、というのは
ちょっと飛躍が過ぎるのではw 0
【ヤマトゴキブリ】
日本の国虫
日本古来から日本人の象徴として冠にヤマト(日本人)がついたゴキブリ
紫式部の和歌にも詠われ、ヤマトゴキブリは日本人の歴史と共に愛された昆虫
===
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|尊..Ξ|
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ソ_ソ>'´.-!、 \ Д /
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大阪は昔から同じ事をしようとしてたのか
馬鹿かよw
250年間かけて全国の富を吸い上げて天下普請で江戸を整備したのに、ついぞ大坂を超えられなかったんよね。
これで大阪人が今度は本来幕府が大阪に内定してたのにトンキンが卑怯な手段で奪ったって言い出すよねw
まあ今の大阪城の元は江戸幕府が作ってるしな
あの巨大な石垣や堀を見たらなあ
明治になって大坂に遷都しようとしたことはある。
太政官の審理で否決されたけど
「自分が信じたい歴史」があって、その為に理屈をコネ回して「真実を知る俺凄い」と悦に入るのが歴史家という生き物
日本の歴史で最大の恥じになる所だった
大阪はこれからも日本のゴミ箱として存在し続けて欲しい
>>4
京の二条城と同じく将軍や大御所が大坂に滞在した時の居城になるってだけの意味な気がする。 大阪が居城だったら薩長に敗北しなかった
だろうな
結局、京と江戸の遠さが幕府崩壊の遠因に
なった訳だ
大坂が都になったところで特に意味はねえし
堺の連中が更にチョーシ乗るだけだろうし
>>4
江戸城や大坂城の他にも、
駿府城や二条城など将軍の持ち城は全て「御」がつくのにね >>21
室町幕府が弱体なのになかなか消えなかったのは京都押さえてたからだしな 人は記憶型と思考型に大別できる
これが実現してれば関東平野は中央に湿地帯がある状態が続いてたんだろうな
これ、昔から言われてただろ。
家康が将軍になったころ、家康は家臣と一緒に「どこに幕府政庁を置くべきか?」という討論をやってる。
その時の案が、「江戸案」と「畿内案」の2つだった。(家康自身の居城駿府が入っていないことに注意)
上方案の具体的場所は、豊臣政権の遺産を引き継いで伏見という説が有力だったが、
「秀頼を追い出して大坂にする」という話じゃないか?という説もあった。
どうやら後者だったということ。家康たちは、江戸と大坂を比較してどっちがいいか検討していたでFAだろう。
大坂時代を安土桃山時代と意味不明な呼称をつけたトンキン御用学者
家康の江戸開拓構想から見てこれは有り得ないな。
家康は秀忠にも伝えてるだろうし
小堀遠州って造園師だと思っていたら、元々は大名なんだ(´・ω・`)
可能性」は有ったのかもしれないが
「結果」として成らなかった。
それだけの事だな。w
そもそも家康が関東にこだわったのは源氏の象徴だからだ
源頼朝が、負けてから再起を図ったのも関東
家康は源氏ってものにやたらと強く思い入れがあって
日光なんていうパッと見で意味がわからないところに埋葬されたのもそれ
日光は源氏の宗教的聖地だったからな
オヤジがそこまで思い入れがあることは秀忠も知っており、
ここを離れたら源氏は名乗れねーわ、となったんだろ
徳川大坂城があまりにも巨大で凄すぎるので
小堀遠州も興奮して高虎に進言してしまった
あの城を見たらそう思うのも仕方がない
今頃日本中が、でんねんまんねん言ってたかも知れないんだな
大阪を更地にしても江戸みたいな規模は無理ですわ
どう考えても江戸幕府が正解です
天海あたりがグッジョブ
日本の首都を東京にしたのは新潟出身の前島密。
大久保利通を説得した。
明治政府は新しい首都をどこにするか検討していました。
前島密は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、
これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言しました。
この意見は大久保を動かし、その実現を見ました。
この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となったのです。
https://www.japanpost.jp/corporate/founder/ ほー。これは面白いな。経済のこと優先すれば大阪に置く選択肢が普通にあったものな。
東京一極集中の原因は華族令。
華族』は戦前に存在した日本の『貴族』です 。同年11月20日、華族は東京に居住しなけれ ばならなくなりました。
当初は華族に等級はありませんでした。1884 年、華族令が制定され、 華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位に 分けられました。
明治維新でどう変わった? - 教育のまぐまぐ! http://education.mag2 . com/osusume/2008/06/122.html
悪いのは伊藤博文。山口の田舎から東京に引っ 越すのに日本中の華族をともにさせた。 豊臣方の勢力が温存され、
既に開発された処よりも
自分たちで、真っ白なキャンパスに自由に絵を描いたほうが良いという判断では?
淀君や秀頼の幽霊がでる城なんかに
将軍が住みたいと思わないだろ
>>31
秀吉時代の政治文化の中心は京都
大坂なんて秀吉のただの私領でしかない >>37
京都に居ると足利将軍みたいに半ば公家化して弱体政権になったら、
264年も徳川幕府維持出来なかったかも もし仮に大阪幕府だったら短命だったろ
幕末まで続いたと思えないが
開国、尊王攘夷、公武合体、倒幕とかどうなったんだろう
そうそう。江戸に居城が定まったのはじっさいは3代家光以降だものな。
そもそも酒も醤油も調達できない不毛の地に幕府の本拠据えると
決めたのこそ大勇断だったわけで、勇断というより初代二代が決めたことを
墨守してるうちに自然とそうなったということのほうが大きいんだろうけど。
国歌は六甲おろし、国旗はグリコ看板になる危機的な状況だったんだな。
売国明治マセソン商会維新150年とコンプラドール国家と田布施システム
江戸時代って大阪の大名誰だったんだろ
御三家って愛知 茨城 和歌山 だったもんな
江戸初期の江戸の物流は各藩地元から各藩屋敷への仕送りがほぼ全てだったらしいからな
すでに成熟した市場があるところが良いってのは誰で考えただろうが、徳川が奇跡的にうまくやった
他スレにも書いたけど、家康にとって江戸というのは、自分の趣味に合致する都市じゃないんだよね。
家康の趣味からすれば、ほとんど奇形に近い。
秀吉に不本意にも飛ばされ、それも小田原ではなく江戸を指定され。
この、平らな土地がほとんどない場所で、
苦心惨憺の末、なんとか形にもっていた奇形都市。
いくつもの城下町の縄張り指揮をしているが、江戸と同じ構造のところは1つもない。
家康の趣味通りの城下町の形は、ずばりいえば名古屋。
北端に四角形の巨大な城を築き、その南側に碁盤の目の城下町を作る。
系統としては、豊臣秀次に始まる当時のアバンギャルド。
そう考えると、松平忠明と藤堂高虎に普請させた徳川大坂城下町のマスタープランは、この変形であることが分かる。
名古屋型(駿府型)の南北軸を東西軸に90度回転させたのが、徳川大坂城下町。
>>42
公家と距離おいただけだろ
そこまで源氏に固執するなら鎌倉幕府を再興するはずだし 大阪が首都になったたら
ゴキブリ韓国
みたいな汚い国になった
まぁ、徳川幕府瓦解の折も大阪を首都にするという構想は
大久保利通が持っていたけどな。前島密の意見でそれは
実現しなかったけど。首都にする価値はあるという事は
徳川も明治政府も持っていたという事だな。
>>63
江戸の開発なんて南光坊天海に全フリですし 関東は上から強圧的に支配されないと、すぐに反逆起こすからな。
幕府を置くしかしょうがなかったんだろ。関西は法理と道理が通用
するから、自治にまかせておけば良かった。
>>44
でんがなまんがな使ってるのは基本的に田舎 >>70
石山本願寺城の時から
要衝の地だったからなぁ グラウンドプラン的には畿内は爆薬庫だろ
朝廷ウザいし反徳川勢力も拠点持っている
江戸に中央移して畿内から経済以外の勢力低下を図った
普通に歴史知っていれば正解だったと分かる
>>73
真逆だよ
関東人は素直な田舎の人たち
権力者にとって染めやすい
大坂や京の人間は腹の底では何を考えてるかわからない都会人
心配性の家康が信用できるわけない どの道、江戸は発展するしか無かった
東日本の伊達、上杉の抑えがいるし会津重要だから
畿内の抑えに紀州に御三家置いた訳だし
>>75
神話の時代から要衝の地だよ
吉野入りで大阪からは無理だったんだから >>78
しかしその結果朝廷を抑えられなくて
幕府崩壊した訳で、もし大阪が徳川
の本拠地なら薩長は手も足も出ないから
大政奉還なんかも無かっただろう 今の大阪は低湿地で要衝ってほどでも無かったろ
源平の争い見ても湊川や瀬戸内のほうがずっとね
>>77 家康=駿府、秀忠=江戸がそのまま固定されたものと思われる。一連の大名取り潰の
粛清と島原の乱が終わって、由井正雪事件以降は浪人問題にも決着がついて、終ぞそのままと
いうのが実際じゃないのか。 >>78
むしろ、畿内では慰撫効果があってよかったようにも思うけどね。
恨骨髄の長州毛利はじめ、西国大名の監視もしやすくなるし。
東側でやらかしそうなのは、関ヶ原以降はもう伊達しかいない。
伊達家たった一家の対策として江戸に幕府を置くというのも、軍事的コスパが悪い。
江戸時代は気候寒冷化が進むミニ氷河期だったから、
深刻な飢饉は、とりわけ東日本北日本に集中した。
幕府財政が、この飢饉体質から逃れることも出来る。
ただし、朝廷対策には難渋しただろうな。
あと、史実よりさらに北関東などがヒャッハー状態になるだろうから、
政権転覆の危険はなくても、国全体としてはヤバい地域をかかえることになる。 しかし改めて考えるとそれから400年以上たった今でも大都市として存在してる大阪は凄いわな。全ての機能を東京に取られてるのにさ。
江戸が東京と名を変えて首都になれたのはひとえに江戸救済の
ためと、京大阪の土地不足のおかげ。まぁ、それで良かったんじゃ
ないかな。
>>95
もう完全に抜け殻やけどな
経済の源流となる産業が骨抜きされてもうたお 小堀遠州のこの形の花押初めて見た
徳川判に近いと言うかもろ徳川判だな
まあ遠州も思いっきり徳川方だから当たり前か
結果的に江戸という大消費地ができたから京や大坂もより繁栄できたわけで
よかったんじゃないかな
>>83 文字どころか言葉もろくに通じない山家があちこちに居るような土地が治めやすい?は??
あたまおかしーんですか?w
>>93 朝廷と距離をおいて、所司代の下に圧殺してしまうような統治方法が都合が良かったという
のもあるんでしょうね。京都支配については鎌倉の先例に沿ってるわけで。 >>75
建国前後……神武天皇の河内上陸を阻む長脛彦を背後に回り込んで捕縛し本拠地の河内・浪速を制圧して東征完了
倭の五王……難波京を建設、海上からも見える百舌鳥の丘に巨大古墳を造成して国力を誇示
飛鳥時代……恒久的な首府都市の難波京と、喫緊時以外の離宮としての宮の、二都体制
奈良時代……平城京を造成したものの交通の便が悪く、結局、副都の名目で存続させていた難波京が実質的な首都 >>98
有能であるが故に幕府にこき使われた点でなにかと気の毒な
人という印象だわ。桓武天皇に対する佐伯今毛人みたいな。 >>85
上杉はすでに牙を抜かれてる。会津は会津人が思うほど重要な土地ではない。
むしろ宇都宮のほうがよほど重要。
>>92に俺は同意したい。すでに書いたように、家康は大坂案との間で揺れていた。
その間、駿府にいたり伏見にいたりした。秀頼淀殿コンビはなかなか屈強で折れなかった。
15年かけて、ようやく大坂を手に入れることになる。
ところが、秀忠が政治家としては大変に有能だったこともあって、
関ヶ原後15年で、諸大名が江戸に集結するようになってしまった。
これが既成事実になり、家光はその遺産の上に乗って政治を行った。これで確定。 京や大阪は土地がせまいから
人口集中することなく北海道から沖縄まで栄えた日本があったんじゃないか
>>31
秀吉は賤ヶ岳以降大阪城に滞在していたが、関白になり京の聚楽第に移り住み
大阪は軍事と経済の町、京は政治の町を住み分けた
秀次に関白譲ってからは聚楽第から伏見城に
伏見城で秀吉は亡くなり、秀頼や淀もいたが死後数か月に大阪城に移った
聚楽第は秀次死後取り壊され、その後に京城ってのがあったらしい
伏見城は家康に占拠され関ケ原の戦いで陥落、その後また築城されたが
以前茶々が住んでたが廃城になった淀城を少し移動した場所に復活させ
伏見城は取り壊された >>77
大きな面積の敵地を攻略したときは、その敵の本拠地に征服側が本陣を置くというのが、戦争のセオリーだからな。
そうしないと、残存勢力が糾合して盛り返してしまう。
戊辰戦争で勝利してそのままにしておくと、奥羽同盟とか函館共和国とかの敗残者が盛り返してしまう恐れがある。
旗本・御家人連中も要警戒だったし。 東の京都だから東京都なんだろ?
大阪と京都がくっついた状態だわな。
アメリカみたいにニューヨークとワシントンに分けるなら大阪、京都もあったろう。
>>103
確かに
徳川の普請や作事、作庭に酷使され過ぎだよな >>99
所得水準で東京が大阪を上回ったのって、ようやっとこ昭和30年代後半だよ。 関東つーか要衝は親藩、譜代で固めるのが徳川のやり方だから裏切りもクソもないと思うけれども
裏切りそうな奴は奥羽やら四国やら九州に飛ばしちゃえだし
大阪は元々源氏の本拠地だしね
まぁ大阪は民と宗教の街やから、幕府は歓迎されなかっただろうけど
>>112
上方のもんは関東で2倍とか3倍で売れた
しかも関東ではモノが作れないから大都市江戸では大量に売れる
だから商都大坂として経済繁栄したという意味でしょ >>92
関が原後、豊臣家が滅びるまでは、徳川家が大名として生き残るために上方から関東を守る形で
越前尾張近江に親藩譜代を配置してるしな 東京と大阪と、エンジンが分散した形になったのは結果として良かったのかね
江戸は町民文化って言うが、つまるところ長屋住まいの貧乏人ばっかだったわけだからw
大阪が首都になってたら第二次世界大戦で更地になってたわ。
江戸幕府が無かったら寿司も無かった
お前ら寿司食えなくて良かったのか?
関東というとものすごい平野が広いからさぞや生産能力高かったんだろうと思われがちだけど
江戸城周辺の半径30kmくらいは有名な御鷹場が広がっていて関東での天領の収入は幕末
でも100万石くらいしかなかったんだ(天領全体で700万石)。江戸というのはものすごく特殊な
場所だったんだぜ。
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朝鮮部落 偽本尊(魔入り)製作所
http://56285.blog.jp/archives/51449049.html?p=2
たった一言「盗作学会」で検索すれば・・・
さぁあなたも、革命人間の世界へ!!!
号外秘密便
「本日永遠の師匠の死刑が執行されました。
埋葬場所は足りています。」
創○班って警察にテロリスト認定されてんの?w
カルト激減。佐々岡典雅って誰だ?
。 >>107
秀吉も、一瞬だけ難波遷都をガチで考えたと言われてるよね。数ヶ月間だけの話。
これは本物の遷都で、御所も公家も全部大坂に移転というもの。
御所まるごと天満に全部移転させ、淀川対岸の上町台地側に城郭と武家都市を作る構想。
あの辞世の句は、本当はこの遷都構想が夢破れた時の歌だという説すらある。
この話が無理になってからは、大坂はずっと秀吉が主として君臨する「お国の根拠地」だった。 >>109
東の京ということにして東京。
江戸府→東京府→東京都。
東京府と東京市を廃止して昭和18年7月に東京都が誕生した。
それまでは東京府、京都府、大阪府の三府(首府は東京府)。 大坂だったらもっと西国に睨みがきいたかもしれないな。関ヶ原負け組外様は西が多いw
>>1見て堺大樹の話かと思ったら全然違ってたわ
義栄のお父さんね >>119
参勤交代で地方から人が集まったが、それは男ばかりで
江戸は異様に男が多く、それで独身者が多かったらしい >>1
信長の野望 天翔記を未だにプレイしているが藤堂高虎は必ず斬首している \ \\ ____ // / /
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創○班って警察にテロリスト認定されてんの?w
カルト激減。佐々岡典雅って誰だ?
。 >「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が
へえー小堀遠州って作庭家(だけ)だとばっかり思ってた
建て直しもしてたんだ
>>133
使い切れたのが大和大納言秀長と家康なのが
性格と器量が問われるな >>135
小堀遠州は総合芸術家
江戸時代の海原雄山 仁徳天皇 難波高津宮
孝徳天皇 難波長柄豊崎宮
聖武天皇 難波宮
をみやこにしてた。
桓武天皇が平城京から長岡京にみやこを移すことになって
難波宮は解体されて大極殿などは難波宮のものを長岡宮へ移した。
>>119
今でも東京は独身男性の割合が高い都市じゃないかな。知らんけど。
しかし江戸を首都にして埋め立てや土地のかさ上げ、河川の改修や
水道の整備、苦労も多かったと思うよ。その上、地震や火山の噴火、
大火事など、これほど住むのに大変なところは無かったんじゃない? >>135
駿府とか名古屋城も遠州が普請奉行になってるよ
あとは宮中の建物なんかの普請も沢山やってる 家康はそんな愚案に乗るようなおバカじゃないよ。
地政学的に大阪に居を構える事は自殺行為だ。
>>129
京都も西京ってことにしたんだけど、定着しなかったんだよな。 >>141 おまえが馬鹿だということは文面からすぐ分かる 小堀遠州なんてへうげものを読んだことがなければ
普通の人がは知らないんじゃないの?
建築家としての小堀遠州は江戸城
名古屋城、二条城と太平時代がメインだよ
さらに各地名産の茶器製作から幕府作法指南役
料理の美観から味付けまであらゆる物を作っている
>>142
> 西京
福岡がアップを始めたようです >>143
ほぉ、どこがバカなのか指摘してくれるか?
そして何を根拠に否定的な事を言うのか言ってくれるか?
それとも構ってもらいたいだけのバカか? 大坂幕府だったら、江戸公方がしだいに自立化して
日本が東西分裂してただろうな
家光の代まで生き残っていた戦国大名の中でも関ヶ原を経験してるのはほとんどいなかっただろうしなあ。
藤堂以外だと伊達政宗とかあたりか。真田信之は徳川家綱の代まで生きてたよなあ。
伊達政宗の重臣にも家綱の代まで生きてたのもいる。
>「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」
その通りだと思うけど
じゃあ、なんで江戸に留まったのだろうか
まだ政権が安定しない中で
伝統的な勢力も強い近畿に拠点を移すのは危険だと思ったかな
大阪幕府になっていれば大阪人も少しは行儀良くなっていたかもな
>>133
鳥羽伏見の戦いでも裏切ったからな、藤堂藩は。 >>1
安土桃山時代って本当は「安土大坂時代」だよね
トンキン大学の手にかかれば大阪の存在感ゼロになるけど >>150
細川忠興
信長と面識あるってかなり貴重だろう 狭い大阪平野や更に狭い京都盆地に幕府作ってたら現在の日本の繁栄と発展はなかったろうな
四百年前に広大な関東平野に江戸開府して正解だった
まあ室町幕府の失敗があるから怖くて関西には幕府を立てられなかったとも考えられるな
>>142
E電とか高輪ゲートウェイ駅みたいなもんだな >>155
そもそも、桃山なんて地名は安土桃山時代にはなかったからな。普段文献第一とか言ってるくせに、歴史家はおかしい。 >>151
家康は吾妻鏡の大ファンだから近畿から距離を置くことの意味をちゃんと理解して江戸を維持させたんだと思う 家康を関東に行かせたのは秀吉。
家康を畿内から遠ざけたかったのだろう。
関東武士団の棟梁として関東に幕府を開く( ー`дー´)キリッ
>>161
尊敬してないだろ
鎌倉幕府の源氏将軍は3代で潰えてるw >>150
立花宗茂、毛利秀元、丹羽長重、伊達成実なんかも家光の御咄衆だな 外様大名の構想ごときで、家康や秀忠が動くかよ
スレタイが大げさすぎ
>>141
確かに。
大阪方が戦争に弱いのは、長脛彦から第八連隊まで伝統だしな。 >>163
秀次事件のせいで自爆したけどな
折角家康関東に移封して東海道筋に豊臣恩顧の浅野・中村・田中・山内・堀尾・池田・福島で固めたのに関ヶ原じゃ全員東軍だからな >>144
社寺仏閣、特に日本庭園に興味があれば知ってるだろうね >>161
家康公は「吾妻鏡または東鑑」が愛読書だったらしいね
頼朝公をモデルに研究したんだろうな 遠州公は総合芸術家であるゆえに
徳川方という訳でもなく好きなものを作れたらエクスタシーを感じる人
正直、徳川幕府でも大阪幕府でもどちらでも関係なし
黒田長政とはベクトルが違う
>>149
室町幕府の再来やね
足利が京で将軍になったのは、南朝の勢力に対抗した事が理由で
関東にも尊氏は自分の息子を関東管領として置いて統治させたが
次第に対抗意識が芽生え、関東管領から関東公方と名乗るようになり何度か京将軍と戦った
幕末の徳川でも、慶喜中心に京で一会桑が江戸とは独立したような存在となり
徳川が2分化されたような形となった 徳川家康、忠秀、家光は京都の伏見城で将軍宣下を受けた
むしろ大阪が江戸初期にあれだけ繁栄した理由が分からん
>>150
家光は伊達政宗や立花宗茂をしばしば夜伽に召してたと伝わるが > 大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと
武田氏に仕えた跡部氏の末裔?
大阪に幕府があったら長州も薩摩も京都に兵を進められなかったね。
そのかわり東北が維新を起こしてかもしれないが
>>151
結局の所、当時の徳川家の基盤は関東地方の
北条・武田・今川の元家臣達が支えている
それらを捨てて移動したらマズいのは明らかだ
北条の家臣達は秀吉にあっさり降伏して印象が薄いが、
数で圧倒的に上回る上杉方を撃退し、
武田勢の関東進出も阻んでいるように戦国最強クラスの精兵だからな
当時から近畿地方には弱兵しかいないと言われている
精兵である関東地方の家臣を捨てて、
近畿の家臣を得ても弱くなるだけだ >>175
日本海航路じゃないの?
当時は太平洋航路での交易は無理だったでしょ むしろ小堀遠州知らないとか日本人失格だろ
そちらの方が驚きだわ
ゆとり世代かよ
>>168
いや、そこはちょっと違いますね。
大坂の陣で既に堀を埋めたところにいきなり居を構えれば、
敵は家康が使った戦略を真似る、或いは似たような手法を使い攻めてくれば楽に陥落させる事が出来る。
そんな短絡的な手法で敗北していたら、腰を据えて政治は行えない。
ゆえに家康は敵を侮っていなかった。
その証拠に、後に五街道の整備が行われている。 >>169
当時家康は織田信長の後継だった織田信雄と同盟していて小牧長久手で秀吉軍と衝突するんだけどね。
秀次軍の暴走で猛将池田恒興が戦死するなど大損害。
力攻めじゃ勝てないと見て秀吉が考えたのが織田と家康を切り離しを図ったこと。
それで織田が秀吉に落ちちゃったから家康も泣く泣く降伏しかなかった。 >>177
島国なのにランドパワー思考の江戸幕府と違って、シーパワー性格発揮して、維新なんて元禄時点で起こしてたろうな。 >>179
江戸初期の西国大名は、朝鮮出兵に関ケ原で減俸させられたりで弱体化していたが
徳川にとって怖い存在は西国でなく、どちらも無傷だった東北の伊達政宗だったろう
伊達政宗は京から遠過ぎて天下取れなかったと言われてるが
江戸だと近距離で、関ケ原や大坂の陣の騒乱時に保守的な態度取ってるのを見てると
天下のチャンスを奪う度胸とか無かったんだろうと思う >『ゆくゆくは居城になる』
江戸城は本丸、西の丸、二の丸すべて火災でダメ、二条城は朝廷の「都に糞ガイジン入れるな!」で使えず。
結局、幕末の四ヶ国公使謁見で幕府の威光を示せたのは
こういう構想のもとで造られた大阪城のお陰だな。
大阪幕府があったなら東京のプライドもなかったかもな
>>187
チャンス、度胸っていうより
徹底的なリアリストだったんじゃないかな >>180
彼らは呼べば、上方でも九州でもどこにでも来るよ。すでに兵農分離は完成してるわけだし。
なんで江戸だったのか?といえば、
家康が秀頼を倒すのに要した15年の間に、
息子の秀忠が、全国の大名を、外様も含めて全員江戸に呼び寄せてしまっていたから。
これが既成事実になった。
秀忠ではなく家康自身が、江戸に人質としての女性を要求したのは前田ぐらいしかない。
あとは、政治の空気を読んで、どんどん秀忠のお膝元に集まってきた。
徳川政権は外様を政治に参加させないので、べつに江戸に行く必要はなかったのだが、
それでも我先にと大名は江戸屋敷を構えた。秀忠がいかに政治家として優秀だったかということ。 >>185
いや実際あのまま戦ってたら普通に家康負けてるよ
池田や森が討たれたのは事実だけど秀吉にしてみたら痛くも痒くもない局地戦での敗北だし実際後詰めの堀Qが見事に混乱を収めて秀次を助け出してる
秀吉がごり押ししなかったのはその後にある四国や九州に目を向けてたからだよ 江戸にしたのは政治と朝廷を完全に分離したかったからでしょ
「もし大坂幕府だったら・・・」
結局実現しなかったんだからそんな事考えても仕方ない。
>>179
逆。薩長の田舎侍が大阪京都の富裕層から御用金と称して強盗同然に召し上げた
カネのお陰で維新は成功した。
すなわち、没落した富裕層に代わって今現在京阪で景気が良いのは田舎の成金か
強盗の片棒担ぎかのどっちかしかいない。 経済では江戸時代を通して大坂のほうが圧倒的に大きかったけどな
昭和30年頃に初めて東京が大阪を抜いたけど
「はーい 例の転校生の春日局さんです」
「春日局といいます よろしくおねがい「だめだめ」
「そんな気をつかって普通の言葉でしゃべらなくていいから!
よろしゅーたのみまんがなーでいいよ」
「え…でも」
「はい!」
「…よ よろしゅーたのみまんがなー」
>>186
日本は島国と言ったって絶海の孤島だからね。
世界への窓口は九州西岸だけで、その九州西岸も地形の入り組んだ辺境ときている。
おまけに対岸の中国がこれまた北からしか入れない陸の孤島(陸の半島?)だった。
ランドパワーの発想で大正解なんだよ。 >>187
その割には、家光に掘られたりしてるんだが 公方
管領
鎌倉公方・古河公方
稲村公方・篠川公方・堀越公方・小弓公方
関東管領
奥州探題
羽州探題
中国探題
九州探題
>>187
伊達政宗が悔いたのは、距離ではなく時間だよ。俺があと10年早く生まれていれば…と悔いた。
ただ、都市としての仙台は、地理的に江戸(関東)に従属する形にならざるを得ないので、
天下取りを諦めた後の政宗が、ひたすら江戸幕府と江戸を盛り立てようとしたのは当然だったりする。
首都(政治首都)が西日本にあると、東北太平洋側は地理的に取り残されてしまうが、江戸には直結できるから。 >>188
ガイジンは嫌いだけれど、象は御所の庭に招き入れて、従四位下の宣下 >>191
その割には、女なんて人質にならんってことを大坂戦役のときに態度で示しているけどな。
孫娘の千姫の嫁ぎ先の大坂城にエゲレスからこのときのために取り寄せたフランキ砲をバカスカ撃ち込んでる。 いつも大阪は叩かれてばかりやから、何か気色悪いなぁ
裏で大阪遷都の動きでもあるんかいな
>>42
家康が埋葬されたのは久能山…
後に日光に東照宮のコピーが作られ 、遺体が移されたんじゃなかったか? 天正13年(1585) 信玄兵法の聞き取り
石原、孕石、広瀬、横瀬、西郷、曲渕、菅沼、辻⇒井伊万千代。
関西武士と関東武士が同数で戦った場合、大将の采配にもよるが、関西勢は五度に四度は負け戦になる例は、
信玄の時代より何度もあったと聞いている。
だが関東武士も剛勇ばかりではない。
関西武士も弱いものばかりではない。
第一に備えが入念でなく、物見を大事にせず、物見武者として選ばず、日頃物見の教育をせず、物見は誰でもできるものと考えている、
心無き者もいるであろう。
関西武士は物見に出ても敵情を、確り把握せず、敵を侮り高言を吐き、兵を預けても合戦になると、采配を振ること無く、
兵を残し一人抜け駆けをするのが手柄と思っており、一番槍を心がけるものである。
名将は一、二を捨て、三四をもって、勝つようにするには、敵の先陣を切り崩せば勝利を得ると心得、二、三の備えを切り崩し、
負け戦にするものである。
しかしながら年寄りも人によりけりで、戦場で預けられた人数の兵を、采配で巧みに操り、兵法に通じていると万人が認めるものなれば、
高知行で召抱えなされ。
そのような巧者の申すことなら、家中(井伊家)の若侍も納得するでござろう。
戦場で年寄りは、若侍と一番槍の巧妙を競うのは無理だが、城の留守居、国境の砦の守備を申し付ければ、敵より合戦の場数を踏んだ武功者なれば、
敵も早急には攻めてかからぬでござろう。
その時分信玄は近隣諸国の武将から、恐れられた大将であったが、諸国の高名で没落した武将の巧者な浪人を召し抱え合戦の話をさせ、
悪しきは捨て良きは採ることを、心がけたが、合戦には入念に準備してかからねば、勝ち戦は望めぬ、と信玄は常々申された。
徳川幕府できた時の大阪って誰の領地だったっけ?(・3・)
>>191
兵農分離していると移動が自由にできるとか初耳なんだが…
引越しくらいはできるかもしれないが
家臣が領地などの財産を関東地方に残して移動したら生活が大変になりすぎだろ
どこか領地を没収するか、関東地方の領地と交換するかして
家臣達の領地を近畿地方に用意するのは不可能ではないだろうが
それこそ難しいと思うぞ >>214
良く考えたらそうだったw
大阪の陣が終わった後って質問だった
天領だっけ? 信長攻めとる敵は、皆生替故か、弓矢弱き故か、城一ッ落城を見ては、近辺の城五ッ六ッもあけ候
東武士は、二度三度せりあひに遅れをとり、或は大合戦に負けたりと云へども、よはげなくて、せめては五年も六年も其所へ働、
毛作をふり、やき働き仕らざれば、降参せず候。東武士は、大方強敵どもなり。
是を信長分別して、信玄と無事をつくり、信濃より出て、美濃・尾張をとられざるため、それがし機嫌をとり、此方信玄をば生替でなき、
老攻の敵に戦ひ、其手間を入させ、己は五畿内のおさまりよき国共をとりて、信玄が年のよるを待候はん。
信玄はこう考えた。
「東国の武士は強力だ。
それを恐れる信長はしきりに武田の機嫌をとり、こちらからの攻撃に備えて家康に東の守りを固めさせている。
彼は治めやすい畿内の国々支配して、この信玄が歳をとり、衰えるのを待っているのだ。
(『甲陽軍鑑』品第三十七)
つか、大坂ナオミを打ちまくった後での文字変換には、みんな注意しろよ
>>37
京の都は、野暮ったい田舎武士には似合わないよ。
>>215
土佐に入った山内一豊が最初悩ませたのが元長曽我部氏の兵農システム一足具農だったんだよね。 >>215
1600年代なんて、家康の一声で自在に家臣団があちこっち転封してますがな。
尾張藩には、「のぼうの城」の成田家家臣、つまり純粋な関東武士がくっついていたりする。
水戸藩は、諸国の失業武士の職安みたいな状態だったし。
(このことが水戸藩を特殊なイデオロギー主義の藩にする。そうしないとまとまらないのだ。) 西国・・・特に徳川への恭順の意思が弱い薩摩への備えを考えりゃどのみち江戸一択だろ
>>216
さらっとググってみたら
徳川四天王 榊原の姫路藩の領地かな(・3・) 徳川御三家って水戸、名古屋はわかるけどなんで紀州に置いたの?
和歌山の人には失礼な話だけど紀州って貧しい土地だしあまりメリットがないように思えるんだけど…
大阪への睨みって事と徳川の威光をもってしないと収まらない難しい土地柄だったのかな?
>>185
なんか話が合わないと思ったら秀次事件を勘違いしてないか
秀次切腹事件のことであって小牧長久手は関係ない
秀次が懸命に婚姻関係を結んだり普請費用を援助したりして諸大名と良好な関係を築くため努めてたのにそれを秀吉が盛大に破壊したってこと >>215
大名も旗本も知行は飛地だらけよ。
伊達藩の領地が琵琶湖の畔にも有ったりしたんよ >>212
幕府が出来た時には豊臣直轄に決まってるだろうがw
だから、家康の「ハル・ノート」の内容が、「秀頼を大和郡山城主として大名処遇する」というものだった。
これに淀殿と秀頼がブチ切れて大坂の陣が始まる。
大坂の陣が終わった後、一時的に松平忠明が大名として入り、城下町として形を整える。
その後で、直轄領になる。 でも、ならなかったんでしょ。
関ヶ原で負けたのが全ての始まり。
>>216
領地 城主
大坂藩 松平忠明
↓
天領 歴代徳川将軍+大坂城代(初代:内藤信正〜70代:牧野貞明) >>225
姫路藩の大名(藩主)は榊原家の前に本多家だった(・3・)
というか調べてみたら姫路藩って大名(藩主)がころころ変わってるけど
その度に本多家とか榊原家を引っ越しさせてたの?
徳川四天王家も大変だな(・3・) まぁ日本列島を飲み込むように
治める地域が広がるほど
関東平野の重要性は増すだろうな
>>226
江戸と上方を結ぶ太平洋航路(後の菱垣廻船航路)を押さえるため。
この航路こそ、江戸の生命線だった。
だから、今の和歌山県のみならず、三重県側にも大きく紀州領が伸びてる。
東は三重県松坂も紀州領で、このことが三越(越後屋)の成立に深く関係してる。
むしろ水戸のほうが分からん。軍事的には水戸より宇都宮のほうが重要。 >>234
泣ける
もっと大事に扱えよな
誰のお陰で徳川の天下になったと思ってるんだ(・3・)
本多家とか無かったら、家康とかとっくに早死にしてるだろ 「秀頼も淀殿も救けるつもりだった、秀忠が勝手に大砲打ち込んだ」って山岡壮八が言ってたよ
まあ妄想だね
家康が関東に結界を張るよう遺言してるんだから
関西を本拠地にするわけない
秀忠が命じて高虎や小堀らが作った元和版徳川大坂城は、今の大阪城博物館に模型が飾ってあるが豪華な城だぞ。
>>232
藩主が死亡して幼少の跡継ぎだと転封してるとこみると、一応まじめに西国対策のための藩だったんだろう。 >>236
最終的には封建制をやめて郡県制にしたかったのかもな。
外様は怖いからまずは譜代から全国転勤のあるサラリーマンにしようとしたと。 大阪が首都なら、東京の交通網はガラっと変わったろうな
新幹線は駅すらない
>>235
なるほどなぁ
ありがとう
松坂あたりまで紀州領なら石高も稼げただろうね
太平洋航路って江戸中期以降かと思ってたけど
江戸初期からもあったんだ >>232
姫路は、ずーっと福岡の黒田家が狙ってた。だから幕府としても、譜代の名門を封じておかざるを得ない。
でも名門は幕閣になったりして忙しい。城主はコロコロ変わる。浜松みたいなもん。
西国支配の要衝ガーというけど、そこまで地政学的に重要だったかどうかは、
若干差し引いて考える必要があるようにも思う。 下品な言葉が標準語にならなくてよかった(´・ω・`)
>>245
黒田はん、まだ福岡におりましたか(・3・)
天才すぎて冷遇された男
俺みたいなやつだな・・・カワイソス(´・ω・`) >>246
てやんでえ、べらんめえが下品でないとでも? そんなことしたら家康を信頼して共に戦った東軍たちは嘸かし家康に失望しただろう
>>151
治世を安定させるという大方針があって、その政策の一環としての
大阪遷都だったんじゃね? で、治世を安定させる為には他にも色々と
やってたわけで、そうする内に江戸が中心の状態でも割と安定して
整ってしまったから大阪遷都が必要ではなくなって破棄されたのでは。
明の永楽帝が南京の建文帝を滅ぼした後に北京遷都→次の洪熙帝が
南京還都を計画→宣徳帝が中断して、そのまま北京が首都に決定した
ことなんかはそんな感じの流れ。 ゼニ相場と米物流を押さえていた大坂商人に対して云うことを聞かせたかったんだろうな
今は落ちぶれてるけど
昔の紀伊は北陸同様、石高も人口も生産力もそれなりにあったろ
>>235
水戸は、内陸那須岳山麓を源流とする那珂川の船による運輸・流通が太平洋に至る要衝。
「水運の戸口」から「水戸」が地名の由来。
室町時代にはすでにそう呼ばれており、那珂川の水運は近代まで続いたが、陸上運輸にとってかわられた。 >>245
太平記の時代も播磨の室津が西国の勢力の上陸拠点になっているし、播州の中心の姫路は地政学的に重要なんだと思う。 お前ら無知の田舎者に教えといたるけど
マクドナルドはマックやのうてマクドやからな
ビッグ・マクドにマクド・シェイクや
よう覚えとけや
店員 「ヘイ!まいど!何しまひょ」
客 「ビッグ・マクドとマクド・シェイクや姉ちゃん早よしてや」
店員 「一緒にポテトはどうでっか?」
客 「そやなホンダラそれも貰ろとくで」
店員 「おおきに」
どやこれが浪速のマクドや!!!!!!!
>三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
また、この忍者教授の珍説かよw
単に大坂城も徳川家の直轄領だから、泊まる時のことを考慮しとけ、という意味にしかとれないけどなあ。
諸大名の藩邸を置く場所を普請しろとかなら、その構想もありだが。
>>226
海、なんだろうな
紀伊水道抑えれば水軍が東へ向かうのを邪魔できる
江戸北東の守りも白河の関が重要なら宇都宮に御三家置いた方が良いが将来は水軍がメインになると予想して水戸だったかなと思う
三浦安針からの情報もあったろうし >>257
それを言ったら鬼怒川水系(ちょっと歩けば利根川水系にもアクセスできる)の出口にあたる香取を選ぶだろうに。
>>259
播州の中心というか、赤穂と須磨の2つの天然の要害に挟まれたそこそこの規模の平地だからだろうね。
西の駿府みたいなもん。 >>262
本能寺の変足利義昭黒幕説をずっと唱えてる変人だからな
いまいち信用ならんよな >>235
尾張と紀伊は政治的軍事的な役割を期待されていたけど、水戸は後の御三卿のように血統保持の役割がメインなんだと思う。頼房は頼宣の同母弟で控えの立ち位置だし。 徳川は質実剛健で、華やかな関西文化には場違い、むしろ敵意もあったろう
おかげで江戸時代は文化的に貧乏臭くてしょぼしょぼ
>>265
陸兵を大量に動員するには、海運を駆使しないと兵量を維持できない。
これは欧州も同じで、川と海を抑えると、敵軍の機動性に強力な制限を加えることができる。 水戸って元々は尾張や紀伊よりも格下でしょ
駿河や甲府が無くなったのでいつの間にか同格扱いされたけど
>>262
そもそも、三重県の観光推進(忍者を売りまくりたい)のために、
県が、拾ってきて後押しして持ち上げられるようになった人だからな。 >>267
そもそも、三重県の観光推進(忍者を売りまくりたい)のために、
県が、拾ってきて後押しして持ち上げられるようになった人だからな。
・・・・・アンカーミスしたので、もう一回。 本多忠勝の子孫を調べてみたが
家督争いや、藩主 早死にで本多家 グッダグダだったのね(´・ω・`)
>>4
庭師の庭石注文で歴史ミステリーなんて
法隆寺中門怨霊封じ込め説級のトンデモ話 >>266
江戸時代当初は利根川が蛇行していて潮来の方がメインの港だった、大洪水で流れが直進し佐原が栄える様になった
洪水の度田畑が流され揉めるのと潮来は水戸藩の飛び地で数学者もおり測量技術が高くなり伊能忠敬を輩出する事になる >>269
家康お気に入りの駿府って上方文化の影響が強い、
割と華やかなところじゃなかったの? >>276
四天王の一人榊原もぐだぐだだけどな
嗣子が居なかったり藩主が無能だったりして何回か改易の危機に直面したけど康政のお陰で助かってる 東京ラブストーリーは大阪ラブストーリー
東京枯れススキは大阪枯れススキに
大阪幕府が出来てたら我が鳥取県も衛星都市だったのに、残念。
>>243
畑と牛馬とで関東地方全体が北海道のような感じか。 >>281
それでも、明治政府さえ大阪首都化を検討したくらいだから
本当に拠点としては素晴らしい都市だったんだろうね
何を間違えてこんな病気の街になってしまったのやら >>252
北に貼り付いてないと、モンゴルや女真やオイラトが不穏な動きするじゃん。
南に行く、これ好機として、遊牧圏勢力が攻め込んでくる。 いろいろ調べてみると面白いな(・3・)
前田家、加賀藩は・・・信長、秀吉、家康の時代と同じく
幕末、明治新政府の世でも徹底的に長いものに巻かれる政策なんだな
利家のポリシーは末代まで語り継がれたw
親藩、旗本、譜代と外様の配置で日本中がメチャクチャな移動だなww
担当者は苦労するだろうなww
アホな悪党の徳川だからな
普通は京に近い大坂に幕府を開く
そりゃ水運が国家の動脈の時代なら大阪博多辺りは有力候補だろ
>>1
藤堂高虎の末裔の津藩が、鳥羽伏見の戦いで新政府軍についた理由はコレだな。
せっかく高虎が幕府の本拠として造った大坂城を、幕府の本拠にしなかったから、
その時の因縁で、徳川幕府は藤堂藩からの恨みを買ったんだろ?w ワシントンDC、ニューヨークとか
北京、上海みたく
首都と経済の中心が別々だったら東京一極集中もしなかったのにな
京都が首都のままでも良かったのかもな
>>296
,. -──- 、
,,/:::::::::::::::::::::::::::ヽ
,/'/,、::::::::::;::::::::::::::r、〈ヽ.
i/ /'゙/:::::::::;ハ::::ト:::::ヽ,ヾ ヾ;、
! ´,':;:::/|:ム 、';::|ヽ::;:::', ゙ i
| !'レ'‐l' `リーi| i::| ,'
,r‐rヘ, l ── ──-|:| 〉、_ あかん
, ‐'" ,ヘヽ >'゙| |:ヽ、/ ,/ ヽ
/ ゙ Yi゙:::::l l::::::〈,_/i ヽ \ また大阪や
'" , ‐'!::::::i:':.、 i二コ ,/!:::::::::l \
/''ヾ''|::::::l""''`i‐--‐''゙/`''|::::::::;、i`ヽ, ヽ
イ `!i;::::i. |‐ -/ i:::::;i:|/´`"ヽ ゙,
'" ||!ヽ:l、_,. |~゙`/ i::::/'リ ゙;ヽ !
``''ー-、.,_ ー-、! ` <_ i, / ,.i''|/ / _,.ノ
```'''| `''*‐''" / ,.-─''''"" >>223
そういう移動は「移動先で家臣に与える領地を確保した上でのこと」が
多かったかと思うぞ
それに「関東地方の一家臣が他地方に移住するのが大変」という話ではなく
「関東地方の全戦闘要員の家臣が他地方に移住するのが大変」という話だから
そんな小規模な例をあげても反証にならないかと思うぞ >>289
寛永以降の大名屋敷って複数あるのが普通だからね。
意外に知られていない話なんだけど、大名って基本的に「政治首都」に集住してるものなんだよ。
大名に限らず、日本史において上級国民が政治首都に集まって【いなかった】時期は、戦国時代の100年だけ。
豊臣政権期には、諸大名は基本的に京都か伏見にいた。(唐入りの最中は名護屋に集結した時期もある)
徳川としては、この、秀吉死去時点で伏見に集住する大名たちが何処に行くかこそが、
本当の意味での「政治首都の為政者」たる資格を得るかどうかの分水嶺だった。
大名たちは、秀吉死去とともに一部は大坂に移転した。
ところが関ヶ原の戦いの後、大坂にいる意味が減殺する。
ここが運命の分かれ道だったのだが、諸大名は徐々に江戸に屋敷を構え始める。
不思議なことに、駿府に住もうという大名は(家康の直接の家臣以外)いなかった。
1615年段階では、大坂にいるのは浪人だけだった。 そら直轄地の城は全部上様の為の城だからな
駿府幕府も二条幕府もありえたって話
>>144
孤篷庵が素晴らしすぎて一発で名前を覚えた 何もないところから始めて200年以上江戸時代が
続いたことで独自の文化が花開いた。
やはり結果的には江戸で良かった。
>>292
お時話によくある、王様をないがしろにする悪い大臣のとおりだな。
遠隔地の自分の領地に貴族連中あつめて好き放題。 明治以降の現代も、後世では東京時代と呼ばれるのかな
なんかしっくりこないな
家康を江戸に追いやった秀吉(・ω・)bグッジョブ やな
>>1
もし大坂に幕府を開いてたら地理的な要因から薩摩や長州も好き勝手は出来なかったかもな >>308
かわりに関東にまたぞろ半独立王国が出来て植民地になった挙げ句共産化したと思う >>301
藩内で取れた産物の多くは、一旦大阪に集められそこで商いがあったので
江戸藩邸以外に大阪にも屋敷持ってるとこが、ほとんどだったはず
福沢諭吉が生まれたのは中津藩の大阪屋敷内で、中津藩のような小さな大名でさえ
そこそこの屋敷を大阪に持ってたみたい
基本的に大名と朝廷が結びつかないように、京に屋敷を持つ事は禁じられていたが
長州藩は以前から朝廷に献金したりしてたので特別に免除
しかし幕末薩摩は京に屋敷持ってたし、京の大名屋敷はどんな感じだったのか?
坂本龍馬の寺田屋事件などで、薩摩は伏見に屋敷持っており
薩摩のような大藩は他にも大名屋敷持ってたのかな? 可能性どころか普通に江戸時代ずっと幕府予定地だぞ
大阪城代は将軍代理
大阪城主は将軍だから
大坂の品のない人々と、その品のない言葉使い、そしてケチで性格の悪い京都人、、、
変な日本にならなくて結果的にはよかったね
82うまれ で 美智子 って なまえ 、、、、、、、、、、、、、、、、、古くさいの ?
>>297
そんな巨大な大陸国家と比べてどうする
ほとんどの国が最大都市=首都だ ちなみに、これと好一対の出来事が幕末に起きる。
文久の改革で、参勤交代が「緩められる」と、諸大名は国許に帰ってしまう。
ここまではいいのだが、大名たちは単に領国に帰るだけでなく、
代わりに京都に屋敷を求めるようになる。
尾張や加賀など大藩はすでに京都屋敷を持っているが、持っていない藩も多い。
寺院が次々と間借りされ、京都は騒然となる。
このことはとりもなおさず、政治組織としての徳川幕府崩壊を待たずに、
政治の中心が江戸から京都に移動したことを意味する。
>>318
当の将軍からして京都に詰めてたから当然だわな 大阪に将軍の居城があった方が部下は贅沢できただろな
終わりかけにならんと江戸の街は物資豊富にならんし
>>317
ふむふむ
まあ千葉県民の わいは東京一極集中で利益を受ける側だから かまわないが(・3・)
首都圏の大地震だけが怖いな >>276
正信は重鎮になったとは対照的に正純は不祥事で秀忠時代に左遷。 明治維新で大名が全員あっさり出ていったから
ゴーストタウンに成り果てたのが江戸の限界
結局誰も住みたがらないのよな
>>93
貞観の富士山噴火、大震災の後、坂東ヒャッハー化して、武士の勃興、将門の乱……鎌倉幕府成立の歴史が、天明の飢饉浅間山噴火以降に再現されたかもしれないのか >>278
利根川を引いて農業用の水を引こうとやろうとしたのが印旛沼だったんだよね。 霞が関(官僚)、永田町(政治)、皇居が・・・京都、大阪にあって
経済の中心が東京ってパターンも面白かったと思うけわ
>>327
構想どころか事実だよ
常に予備地
大阪城主 = 将軍 = 大阪城代
だから >>297
明治になり大阪遷都もしくは京のままだったら>>318の言う通り
江戸は寂れて、室町時代以降の鎌倉みたいになってたかもね
江戸は東北の仙台ぐらいの扱いだったか?別の場所が関東の中心の可能性も
日本の地形上、自然的に畿内は栄える
関東を無理やりでも栄えさせる事で、関東と関西の二大勢力地図が誕生したと言える
現在は鉄道など東京中心に設備され、遷都されてもそう簡単には衰えたりしないだろうけど >>330
東北や北信越が東京飛ばしをやるから、簡単に衰える 逆に 東京=首都・・・大阪=経済の中心ってパターンも面白かったと思うけど
ちと平野が狭くて無理かな?(・3・)
廃墟の江戸を反政府勢力が拠点にしかねなかったから天皇を拉致したのよな
おかげで遷都が出来ずに正式な首都としての地位が無いという有様に
>>333
江戸時代初期は元禄文化で大阪のほうが栄えてた >>333
関東人の常々考えてる妄想だね
ロンドンの面積 = 大阪平野面積だよ 大坂を首都にする構想は織田信長が始まり
石山の本願寺はそのためにぶっ潰した
>>332
いまでも医学の分野はそうだよ?
東京では難病対応できないから大阪や岡山の病院へ北海道や東北から直行 下総坂東平氏将門の乱
収めたのが常陸坂東平氏
五代後に清盛
清盛に不満の坂東平氏が源氏を担ぐ
源氏幕府誕生
京を牽制しつつ坂東平氏を抑える鎌倉が本拠
足利は京に本拠、案の定乱れる
江戸で安定
西の外国勢力は想定していたが19世紀は北も騒々しくなる
西だ東だじゃなく公武合体で難局を乗り切る作戦が維新
ロシアを押し戻すもそこから脱線
破綻するも戦後は発展
一局集中問題起こるが周辺国も発展し国際競争力維持には東京から動き難くなった
今ここ
大坂にしたら参勤交代やっても藩主の財力潰せないから徳川は長く続かなかっただろうな
>>333
戦前まではそうで
秀吉の時代から大阪がなぜ経済の中心地に選ばれたかは
大阪は元々は上町台地以外は海と河内湖で、そこから土砂などで三角州のような土地が誕生していった経緯で
川が多く、当時の物流の移動方法である船が活用しやすかったのが大きい
しかし明治以降、船から車鉄道が中心となり、川が逆に邪魔になった
大阪の川の多くは埋め立てられ、何とか次の時代に対応していった
近江商人と呼ばれた滋賀も経済活発した地域だったが、その理由は琵琶湖だった
しかしあんな大きな湖埋め立てられないので没落
関東と比べ大阪平野の狭さは確かにあり、生駒山が邪魔
あれを破壊したら奈良も活発化されると思う 東京=首都
大阪=経済の中心
バブル期くらいまでは ある意味 こんな感じもあったよね
その後 企業の大合併が進んで東京本社化がどんどん進んだ
今なお「薩長革命都市東京」が正式な立場
石原がシュトガーシュトガーでヒス起こしてたな
>>342
幕末の上方商人は全国の富の7割を握っていた と、歴史学者の磯田が
NHKの歴史番組で言ってたな 現在の大阪市内は台地を除いて全て低地だから、
防災上の理由でも遷都しなくて良かったわな
>>342
兵庫とか滋賀にそこかしこにあった天井川もその一因かな。
石屋川や草津川などトンネルで川を越えないとならないところも。 例えば、都市銀でも昔は・・・
第一勧業、富士、三菱、三和、東海、三井、住友、太陽神戸、大和
関東と関西に分かれてたからな
>>342
平野妄想は相当古いよ
おまけに途上国の考えだね
大英帝国の出したFAは大阪平野の規模で十分 >>301
寛永以降は大名屋敷が複数あるとどうなんだ?
「関ヶ原以降、秀忠が大名を江戸に集めた」と>>191は主張していたと思うが
>>301の説明では「関ヶ原以降、大名が自発的に江戸に住み始めた」みたいな説明で
>>191と矛盾していると思うぞ >>342
それと東京政府は大ロンドン計画と同じことをやろうとして失敗している歴史
ちょっと学んだ方がいい >>335
江戸時代初期でもっとも繁栄していたのは京都とされる
江戸はまだ発展していないし、大坂は冬の陣・夏の陣で焼け野原だからな
元禄文化は大坂の復興が済んだ後の話だな >>349
昔のボーナスは都市銀行へのCM。
今はほとんどなくなった銀行ばかり。
たくぎんはなくなり、りそな 三菱UFJ 三井住友 みずほになってしまった。 400年前に進む道を間違えた日本。
東京は400年前から現在に至るまで自立出来ずに大阪の人モノ金企業を盗み続け生計を立てている情けない都市(首都)です。
まぁ大坂の役の後、一時か松平忠明が城主だったんよね
その後はずっと大坂城は将軍家が留守中の居城だったのは違いないけど、そのために大坂城代が居たわけだし
二条城や駿府城もそうだし
ただ幕府を移すかどうかは別次元のような気がするが
東北、見捨てるつもりはないんだけど
少子化で厳しいよな
南は名古屋、大阪、福岡があるから まだなんとかなるけど
北はマジで都市がないからな
どうしたら良いものか(・3・)
>>351
同じ大名家が、上屋敷を郊外に百ヘクタール単位でドーン、下屋敷も埋立地に何十ヘクタールもドーン、
ついでに中屋敷も建て、更に蔵屋敷も隅田川沿いに建てて…
というのが寛永以降ということ。これが、俺らがみる江戸の古地図。
豊臣政権時代の武家屋敷は実は100m四方ぐらいで、
そうすると全大名の屋敷が伏見ぐらいで収まってしまう。
地図で確認してみて欲しい。伏見がいかに「小さな」都市なのか。
変わった地名がある地域が旧武家屋敷エリアだが、驚くほど狭い。 もしかしたら・・・信長が天下取ってたら
安土桃山時代になってかかもしれんね!
大坂幕府が実現してたら放射能汚染も無かったかと思うと残念
徳川家康の最大のミスは、日本一有能な大坂に幕府を置かずに未開拓地の江戸に幕府を置いたこと。
>>330
> 日本の地形上、自然的に畿内は栄える
これはちょっと疑問を感じるな
近畿地方が繁栄しだしたのは弥生時代後期くらいからで
縄文時代は東北・関東に負けていたし
弥生時代前期・中期は北九州に負けていた
大坂は川だらけで土地がほとんどないし、
京都は沼地だらけで平安京以前は人口が少なかったと聞く
治水・埋め立てなどの自然に人為的な手を加える以前で、
近畿地方が発展していたのは奈良のあたりに限るらしい
人が自然に手を加えずに近畿地方が発展していた時期はごくごく短い…ということだ >>349
平成の初め頃は
北海道拓殖
第一勧銀、富士、三菱、三井、東京、協和、埼玉
東海
住友、三和、大和、太陽神戸
こんだけあったわ、それから
協和と埼玉が合併しアサヒ銀行、そこに大和が合併しリソナ銀行
三井と太陽神戸が合併しサクラ銀行、そこに住友が合併し三井住友銀行
三和と東海が合併しUFJ銀行、三菱と東京が合併し三菱東京銀行、その2つが合併し三菱東京UFJ銀行(現在は東京が取り除かれたはず)
第一勧銀と富士と日本信託だったか?が合併しミズホ銀行
北海道拓殖は倒産 なぜ日本は間違った方向へ突き進むことを繰り返すのか?自滅主義なのか?
>>356
明治に東京作るのも大阪から金借りて踏み倒したからな
戊辰戦争で金使い果たしてて外国からも借金の山だったし
江戸で再反乱起こされたら完全に頓挫してた
最終的に天皇を強制的に連れていって旗印に据えて抑えるしかなかった
結局遷都してないできてないので正統性が事あるたびに指摘されるということになってる 日本海側はもっと発展してたのは確実だな。
江戸時代でも、それなりに日本海側は人口も多かった(比率)し...
住友、三井、安田、大倉、本間、...
大金持ちも、関西〜東北まで、日本海側が多い。
>>365
縄文ガーと言いたいんだろうけど、縄文時代って、実は日本海側はごく一部を除いて極端に人口が少なかったんだよ。
日本海側を完全無視すると、確かに関東は日本の中心になる。
逆に、本格的な稲作文化が始まると、水資源が豊富で緯度が高くても冷害になりにくい日本海側は、発展の契機を掴む。
ここで近畿のポジションが生きてくるんだな。
本州島は若狭湾と伊勢湾を結ぶ線で「くびれて」いるんだけど、くびれている上に南北横ずれのような形になってる。
(本当に地球物理学上横ずれしたわけではない)
この「くびれ」と「横ずれ」の結果、近畿地方中部で太平洋沿岸の軸線と日本海沿岸の軸線が交差する。
これが近畿の地の利なんだな。
新潟、会津、秋田の今の住民は完全に勘違いしてるんだけど、
日本海側が没落したことと、東京に首都が移転したことは深い関係がある。 何年江戸で地盤を固めてきたと思ってるんだ
中枢を江戸から移すわけない
>>365
大阪冬の陣合戦屏風を見たら、阿波座辺りが大阪の西の果てで
それからかなり埋め立てられたんやろな
明治以降に多かった川の多くは埋め立てられて
心斎橋、四ツ橋、京橋、淀屋橋、肥後橋、日本橋など
大阪には橋の名が付く駅名が多く、現在橋が無いのも多い
四ツ橋は当時川と川が交差し、それぞれ4つの橋があって名付けられたらしい
伏見辺りに巨椋池という、日本最大面積の池があり、湖といって良い広さだが
あの辺りもかなり水資源ばかりの地域だった
淀競馬場隣りに淀城跡があるが、今はすぐ堕ちそうな城跡だが
当時は難攻不落と思える堀に囲まれた城だった、鳥羽伏見で淀藩の裏切りは大きかったと言える
淀城が官軍に靡いた事で、旧幕府軍の京進出は断念
巨椋池も明治以降に埋め立てられた なぜ東京は江戸時代から大坂に頼らないと生計を立てれないのか?
江戸は武家社会
大坂は商都
江戸人は刀を振り回して生きてるだけ
大坂人はお客様に喜んで貰える商品を揃えたり作ったりと寝る間も惜しん考え働いている。
江戸の侍と大坂の商人、どっちが有能ですか?
どっち手に職を持ってますか?
昔から大坂の方が有能な人が多かったんだよ。
東京は江戸時代から現在に至るまで無能人間の集まりだから大坂に頼らないと都市が成り立たない自立できない都市という状況が続いている。
日本は歴史教育にまでもウソに近い東京マンセー主義が入ってるから日本の歴史教育は信用しない方がいい。
明らかに江戸時代はおかしかった。
大坂の凄さをもっと教えるべき。
東京は江戸時代から今に至るまで、400年間ずっと大坂に頼りっぱなし、大坂のお陰で江戸東京が存在出来て来たってことを教えるべき。
都は東がいいとされてるな。太陽の関係で
家康がそれ知ってたかどうかは知らん
>>378
ですよねー
いや本当に大阪には頭が上がりません >>360
なんじゃそりゃ?
「大名屋敷=上屋敷・中屋敷・下屋敷をまとめた概念」かと思うが
すでに小規模でも大名屋敷がたくさんある状態で、各大名屋敷を拡張させただけのことを
「大名屋敷が集中した」とは表現しないと思うぞ
それと結局「秀忠が大名を江戸に集めた」根拠が全く出てこないな >>381
だから、1615年段階では、1598年当時伏見に屋敷を構えていた大名たちは、
伏見でも大坂でもなく、みんな江戸に屋敷を構えていたんですって。
それだけの話。これで話は完結する。つまり移動の話なの。
「江戸の発展」としての話を引っ張るから、寛永年間ガーみたいな話になる。 >>376
北前船あったからね
太平洋の東回りは盛んになることは無かった
今でも要注意な難所が多いから
江戸が海運で拠点になるのは非常に難しくて大阪に頼るしかなかった 危うくテーハンミングクになってしまうところだった。やばかったな。
>>385
秀吉死後、家康は豊臣の城である伏見城を占拠し、さらに大阪城西の丸に入り込む
関ケ原後大阪城に戦勝国報告に出向いたが、やがて大阪には行かないようになり
畿内に行っても伏見城そして二条城が設立し、大阪を無視するようになり
やがて各大名も自然と江戸に行くようになっていったんやろね 実際、所司代の置かれた大坂、京都は将軍の居城だったろw
日本最大の間違いが400年前にあることは間違えの無いこと。
なぜ当時高度な都市を形成していた大坂を選ばずに未開拓地で辺鄙な場所の江戸に幕府を置いたのか?
徳川家康は案外バカなのかもしれない。
>>37
既においていただろ、三河武士は
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 >>393
サンフレッチェは既に有ったから問題無い 徳川家の大坂城、明治の写真見ると凄いもんな。
江戸城よりよっぽど天下人の城って感じの威容だ。
西国への睨みの意味もあったんだろうが。
>>390
広島は日露戦争時に仮設首都した事あるけどね やっぱ江戸に落ち着いたのは大阪で滅ぼした豊臣の怨恨、
遺恨を恐れたのかね
それと東国を重視してたんだろうな
>>398
関ケ原前の徳川の領地は、常陸の佐竹以外の関東地方
関ケ原後に佐竹を秋田に追いやり、旧領土であった三河遠江駿河甲斐信濃
さらに尾張越前、伊勢の桑名に近江の彦根ぐらいまでを占拠
この地域に譜代や息子の親藩を並べた
京大阪にも伏見やさらに二条城を持ってたが、勢力範囲からは外れた地域だった
やがて西国や東北にも譜代を押し入れるようになっていくけど まあ、江戸は家康が自ら計画的に設計したとして政略上の基盤でもあるから
やはり大阪には行けなかったのかな
というかニューワールドオーダーを作るなら、古い権威のある都市を捨てて
新しい首都を構えるのが政治的には当然の選択なわけだし
>>398
江戸が独立勢力になって徳川が2つに割れるのを恐れたんだと思う >>401
徳川の政治基盤が東国にあったのはあきらかとしても、むしろ疑問なのは
大阪を軽視したことなんだけどな。西国の要石としてもう少し力を入れても
良かったのではという気はする
御三家のひとつとして畿内にないというのは考えてみると面白い
戦国時代は滋賀から京都大阪にかけて政治の中枢だったのに
>>404
それはあるのかも。でなくても実際、御三家になっちゃってたしなあw この地図の信憑性自体はソース記述通りだが、
この時点で、すでに江戸は譜代大名だけの都市ではないことは明らかといっていい。
なお付け足すと、江戸初期の拝領とする武家屋敷には、日比谷など図の外のものもかなりある。
毛利、島津などもすでに1600年代初頭に江戸屋敷を拝領してる。
>>406
最重要だったからこそ直轄地にした。長崎と同じ。
親藩を置くのは、最重要視というより1.5流のところと考えたほうがいいと思う。
尾張しかり、越前しかり、会津しかり。
譜代大名は、広さを持った重要な土地というより、交通のボトルネックに置かれることが多い。 関ヶ原の僅か七ヶ月後に伊達政宗が家康側近の今井宗薫に宛てた書状には
「秀頼様は伏見に移すか、そうでなければご幼少の間だけでも江戸に住まわせてはどうか。今後世が乱れるとしたら、誰であれ大坂に入るしか謀叛を起こす手段はありえない」とこの時期に大坂の陣を預言している
歴史を知ってる者から見たらそんなの当たり前じゃんと思うかもしれんが、この時期にこれだけはっきり物事が見えていた政宗の慧眼は何気に凄いと思う
何でこんな重要なものを一般人が茶道具店で発見できるのかな
明治政府だって首都を江戸にするか京都にするか、大阪にするか揉めてたんだぜ
京都は分かるわ。ずっと日本の首都だったんだからな
江戸も分かるわ。現首都なんだからな
大阪が挙がるのって街そのものが持つポテンシャル以外ないじゃん
凄まじい都市なんだぜ。大阪ってとこはよ
>>411
まだまだたくさんあるよ。民間の蔵で眠る新資料が。それらが図書館や大学に寄託されたり寄贈されても整理されないまま保管されてる資料も多い。
個人の研究者がそれを整理すると新たしい発見になる。 >>146
西京は山口だろ
福岡に小京都的な場所はない
あっても秋月陣屋周辺
あれを京都というバカはいない >>1
確か住民投票で否決されて構想はとん挫したんだよね? 最初に聞いたニュースで小堀遠州って言ってなかったから
なんで茶道具店が持ってたかと思った
各地方の歴史的人口密度
前6100 前3200 前2300 前1300 前900 200年 725年 800年 900年 1150年 1600年
0.5 05 11 10 9.3 08 067 063 132 143 0253 奥羽
4.7 21 46 25 3.7 48 379 472 711 779 0982 関東
0.2 03 15 10 3.1 13 155 283 328 434 0529 北陸
2.5 21 59 18 5.0 69 099 150 294 265 0348 東山
1.5 03 09 05 4.5 38 344 291 298 305 0761 東海
0.2 01 01 02 1.1 54 515 633 663 671 1975 近畿
0.2 01 01 01 0.9 30 353 446 346 358 0549 中国
0.2 00 00 02 0.4 25 233 284 258 271 0529 四国
0.7 02 02 04 2.4 39 209 261 292 295 0474 九州
※人口密度は以下より計算
面積 http://1st.geocities.jp/huhito80/F-R-Sikinaisya-r2-data1.html
人口 https://ja.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計 の鬼頭宏, 1996年
奥羽=東奥羽+西奥羽
関東=北関東+南関東
近畿=畿内+畿内周辺
中国=山陰+山陽
九州=北九州+南九州
※ 大阪弁聞いたら、いやああああ!ってなる人が多いから大阪は無理
古田織部が秀忠の茶頭として政治力あったようにその後釜になった小堀遠州も側近として影響力あった。
>>417の人口密度計算で気づいたこと
・縄文時代は奥羽=東北が一番人口が多いが、
人口密度で見ると東北より関東・東山の方が高い時期が長い
・縄文末期に関東・東山の人口密度が急減するが、東北はそれほど低下しない
・弥生時代末期は九州・近畿・関東の人口が多いが、密度で見ると東山がトップ
・奈良時代にようやく近畿が人口密度トップになるが、平安時代半ばに関東に抜かれる
・戦国時代に再び近畿が人口密度トップになる
ここから言えることは
・縄文時代末期の関東地方の衰退は「渡来人の持ち込んだ病気」が原因っぽい
「寒冷化」や「渡来人の襲撃」などでは東北地方の打撃が小さかった説明がつかないが
「渡来人の病気」だと「寒い東北にまで病原菌が広がらなかった」で説明がつく
・弥生時代の日本人の食事は狩猟採集に依存する所が案外大きいらしい
そうでないと農耕の適地の少ない東山地方の人口密度が弥生時代に高い理由が説明がつかない
・近畿地方の繁栄は弥生時代末期〜平安時代初期、戦国時代末期くらいで、
近畿政権が強かった時代に限る=近畿地方の繁栄は近畿政権による人工的なもの >>413
ていうか3.11以後は残された古文書から地震の被害を推定する方法が
かなり見直されるようになった。
(地質学だけでは都市開発されると追跡は厳しい)
少しずつだが古文書を読み解いて調べた結果、こういう話が色々見つかってる
ま、戦国時代の書類は面白いから新聞記事になる
そういう訳で今は古文書が読める大学生(特殊な訓練が必要)は
古文書解読のバイトがあちこちからやってきて結構な稼ぎになってるんだとか >>157
大阪が日本の中心だったら、生駒山地が切り崩されて、大阪湾が埋め立てられて、淡路島まで陸続きだったかも。 これから半島や上海や台湾を併合して環日本海国を作るとしたら首都は大阪だろうな。
名古屋はええて〜やっとかめ!的な大阪の歌は無いのかな
大阪が首都だったら、俺今頃大金持ちでビル賃貸だけで暮らしていけたろうな(´・ω・`)
藤堂高虎って、久宝寺長瀬川の戦いで長曽我部元親にフルボッコ壊滅寸前にされた奴やな
もっとも長曽我部元親も、大坂城帰還時に伊達正宗に追撃されてフルボッコにされたらしいがw
家康の駿府みたく引退してからの居城と言う意味かもしれねえじゃん
>>428
元親はオヤジ。大坂の陣で戦ったのは子の盛親。 >>418
住所教えろ、おまえの家に「じゃりン子チエ」や「桂米朝落語全集」のDVD送ってやる。 そりゃ本当の家康は、大阪の堺に葬られて眠ってるからな。
秀忠や家光からすれば、近くに居たかったろう。
はい、これで解決
現実になってたら大阪も今みたいに下品じゃなかったんだろうか?
でんがなまんがなが標準語とか考えただけでゾッとする
「敵は必ず西から来る」という大原則があるからな
負けると政権ひっくり返るから、退勢を立て直しやすい関東にこだわったんだろう
>>436
メディアが大阪に集まるから上品でおしゃれな部分が重点的にクローズアップされる
関東は田舎で野蛮なところだけ取り上げて上品な部分はカット 江戸っ子の方言より、大阪船場言葉の方が上品じゃん。
江戸っ子の汚い言葉ってヤクザ丸出しだし。
大阪城の辺りって直轄領だったんじゃないの?
この書状が言ってるのはそういうことで、別に幕府を大阪に置くってことじゃないだろ?
結局そのまま江戸幕府にした家康が慧眼だったということか
ホンワカパッパホンワカパッパ♪
アホの坂田やで〜w
>>398
東国には人間はいるけど何の権威も文化も存在しない荒野と同じ
関東東北民相手に至高の存在で居ることができる
近畿なんて行ったら内心バカにされっぱなしで誰も心服しない 何度も首都になるチャンスがありながら、ついには叶わなかった永遠の2番手大阪
だがそれがいい
大阪時代なら今頃、アジアはすべて日本帝国になってたのにな。
>>448
ネトウヨはそうやってすぐ日本史を捏造する。 >>161
そりゃ、三河の先輩だからな
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 慶長大地震で伏見城が壊滅してからそう年月が経ってないから関西圏を避けたと思う
でも大阪城自体造り変えてるからいつでも引っ越すつもりじゃなかったんだろうか
>>42
正確に言うと三河だからだぞ
三河の僧を送り込んでいなければ、日光にこだわらんかったかもしれん
■日光山
源頼朝がその三河の母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>428
冬の陣でもいわゆる真田丸で井伊直孝・松平忠輝が暴走して真田軍にさんざんやられた上に隣にいた
藤堂軍もとんだとばっちりされてる。
葵徳川三代で故津川雅彦家康が二人を激怒して隣にいた政宗に笑われるシーンね。 >>441
実際に歴代の大坂城主は将軍だった
この文書はそれを指してるだけだと思う >>431
取り潰された子が豊臣側だったのは長曽我部元親以外に大谷吉継の子も豊臣側にいた。
後藤は元黒田長政家臣 塙も元は別の家臣からの脱走。
大坂後最大の一揆となった島原の乱も農民の戦闘員もそうだが旧小西行長の残党兵が加わったために
緒戦で幕府軍がやられて指揮官まで戦死させた。 >>244
なるほどじゃねーよ
当事者の三河人に聞け、それが正解だ
答えは松平発祥の豊田市は、足助氏を通じて、熊野と縁が深かった
それだけだ
徳川家康は、その足助氏の血も引く
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 では何で名古屋かと言うと
名古屋は歴史的に三河の植民地
名古屋の主が足助氏だった事もある
コテコテの植民地を、足助氏の血を引く家康が完全に支配下においただけ
■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)
藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る
■鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する
■鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる
■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城
■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城
■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる
>>1
家茂就任あたりからでも大坂城に常駐してれば歴史は全然違っただろうな。 実績が大事
大阪城は二度も敗北している
豊臣、鳥羽伏見
江戸城は敗北を知らない、大砲撃ち込まれた事なし
京都は戦乱で荒廃しまくる
前科があるところは縁起悪いんだよ
>大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ
古文は苦手なんだけど、「なさるべきところ」って願望というか予想って感じじゃないの?
>>418
当時というか江戸時代は上方は文化の最先端で、呉服屋なんかでは
江戸でも上方の言葉を使っていた。
あと「くだらないもの」っていうのは「(上方から)下ってきてないもの」と
いう意味。 >>462
いや、江戸城も無血とは言え開城してるんですけど…… >>465
そこがポイント
無血開城だったから皇居になったように
淀君が最初から無血開城してたら可能性があった
歴史は采配によって構成されてる
文句あるなら淀君に >>373
巨椋池は埋め立てじゃなくて干拓な
明治以降というか昭和初期 米将軍吉宗が第二次幕府樹立した時も大阪に移っていないだろ
ポテンシャル無いんだよ
大阪城博物館の4階に飾ってある豊臣期大坂城模型、徳川期大坂城模型は見とけ。一見の値打ちはあるぞ
豊臣が隆盛を誇った場所に徳川が移転するとは思えんがなぁ
当時は畿内に政治経済の中心が集中していたから、関東に幕府を開いて良かったのかも。
元禄の時代でも、まだ大坂>>>江戸 だったんだよな
それが逆転して江戸の方が栄えてくるのは江戸中期よりあとのこと
>>449これ荒唐無稽に思えて事実
歴史って首都一つで大きく変わるものだね >>2
江戸時代でも京言葉(関西弁)こそ上品な言葉で関東の武士言葉は野蛮、と関西地方では思われていた。 >>478
関西人は今でも思ってるよ。多分これからも思い続けるよ。 元々征夷大将軍っての武家の位であって、政の中心は帝のおわす所。
つまり京都の御所ってのが思想の根底にあったからね。
京から近い大阪で幕府を開くという選択肢もあったろうし
当時であれば滋賀という選択肢や尾張ってのもあったろうな。
その中で江戸が選ばれたのは、やはり奥州への抑止の意味があったんではないかな?
世界にはIfがあって
こうすれば良かったも確かにあるよね
天皇が居る京都に作るならともかく、豊臣の影響を残さないために大坂城を
完全破壊するような徳川が、大阪に幕府を置こうって考えるかね?
>>462
負けるのがわかってたので、びびって無血開城しただけやん>江戸城は敗北を知らない 日本民主主義人民共和国だか日本人民共和国の首都は大阪になるのか
源義家から義の字を受け継いだのが足利将軍家、新田家
家の字を受け継いだのが徳川将軍家
人間ってこんなこと考えもしないけどこの世界には何がベストかってあるよね
大坂落城の際、徳川は大坂でひどいジェノサイドをやったんだろ
居心地悪かったんじゃないかね
そりゃあれだけの都市があり壊れたなりにも巨大な城があり、
御所からの考慮すれば誰でも普通に候補地の一つとして考えるだろ。
>>486
簡単に言うと、三河最強伝説なわけだな
この連続性が美しい
美しすぎる
三河最強伝説でつよね
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 征夷大将軍だから拠点は江戸だけじゃないだろ?軍営が江戸にあるだけでそれが大坂や駿府に移動することはあり得る。
それ想定して御居城としたのでは?
拠点は三河だけだ
三河に本拠を置きながら、自らは関東関西に出向いて君臨するのは足利将軍家、徳川将軍家は何ら変わらない
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
日本の全てを決めてきた田舎者憧れ山手線内、江戸城中の人
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年)
>>491
大阪城は呪われてる
慶喜も大阪城に入城さえしなければ逃走しなかった
鳥羽伏見の戦は幕府軍勝てたのに負けたからね 江戸 → 東京 (東の京都)
大坂 → 大阪
大阪は歴史のある地名なんだね
>>494
その清和源氏系はもともと大阪だし、足利尊氏は京都府綾部市の産まれ
要は、家康以外は流れ者、豊田佐吉を輩出した豊田家は農民兼大工であり、武士ではない >>501
どう考えても、足利尊氏と徳川家康の生誕地は岡崎ですな
しかも直線距離で約1.5キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 幕府幹部でなく、中の事情も語れないにも関わらず、起源を主張するところが朝鮮人ですな
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
>>499
錦の御旗出された時点で負け。あと慶喜はもともとやる気なかったから。
あれは負けるべくして負けた。 部外者らしいな、当事者たる三河人に聞けつーの
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 現代社会においても、三河が君臨している事実から察しろ
徳川は公武合体、幕臣は公家と同等の家格にしますから、実務は譲ってくださいと、三河と長州で話がついた
細川護煕氏墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 武田氏滅亡後に武田家の参謀本部全部引き抜きしたからだ
部外者らしい、そこ浅い意見だな
何で武田の家臣が徳川に臣従したのか、そこは分からんのだろうな
答えは、元々、三河武士と武田一族は仲間だ
足利尊氏が三河を離れたあと、三河に陣取り守護していたのは、細川の庶流と石和系武田氏
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
>>439
東京といったら足立区がデフォみたいに言われてただろうね >御居城「にも」なさるべきところ
「に」ではなく、「にも」だとニュアンスが違うと思うがなあ。
もし、大阪幕府のように恒久的居城になるなら、
「御居城になさるべきところ」という表現になるだろ。
「にも」という表現になると、
例えば西国での戦争が起きた時等に、
大阪城が将軍の拠点になるということだろ。
実際に幕末にそうなった。
大坂時代を経ていたのであれば その後の 第二次世界大戦で 敗戦国にならずに済んだだろうね
いまでもそうだけど 関東 東日本は頭がいかれてるからな
東日本出身が日本をめちゃくちゃにしたからね 特に 岩手が絶望的に糞
タイムマシーンがあれば東條英機をぶち殺さないと
鈴木善幸とか クールビズで半袖の背広とか 西洋社会をばかにするようなところがある田舎もんだからな
まともな 思考ができるやつは 東北にはいない
>>500
烏瑳箇→小坂→大坂→大阪
古代から由緒ある名称ですね >>473
それなら新政府が首府を江戸に定めるのもおかしいだろ。 江戸→東京→東京
京都→西京→京都
京都もプライドなく西京なんて名乗るなんてな
>>473
豊臣時代の大坂城は象徴なんで
完全に壊して作り直したんだよ
今ある大阪城は徳川が建てた大阪城 >>518
最初は京都に近い大阪って意見もあったんだけど、必要な施設が建てられないので
大名屋敷なんかが多かった東京になったという話もある。 え…そんな珍説持ち出さなくても大坂城の城主って歴代将軍だろ
それと幕府=行政府の所在は無関係
地域、階級によって言語違って標準語なんて無かったよ
>>400
それは「松平」「水野」「本多」「大久保」「酒井」「石川」「内藤」といった
関ヶ原以前から徳川の家臣っぽい人の名前がいっぱいな地図ではないか
関ヶ原前後に徳川の家臣になった大名っぽい名前は
「九鬼」「里見」「黒田」「村上」「細川」「藤堂」「羽柴」「山内」「竹中」
くらいしか僕には見つけられないな
あなたに、この地図にいる大名の名前をあげてもらいたいな
しかも1608年頃に江戸に大名が集まっていたとしても
まだ家康も元気な時期で、どうして「秀忠が大名を江戸に集めた」になるんだ?
>>407
> なお付け足すと、江戸初期の拝領とする武家屋敷には、日比谷など図の外のものもかなりある。
OKOK図外にもあるかもしれないが
そんなこといったら>>400の図の意味がないな
「全国の大名がこの図の外の江戸にいる!」でも通ってしまう
ちゃんと存在を証明できる範囲で論じてもらいたいな >>527
少し前にネットで見つけた知識を疲労してやろう。
坂は土に返るから縁起悪いんだそうな。 >>470
豊臣期大坂城模型によると、本丸から堀に向かって御殿がせり出して、清水の舞台みたいになってるのが、かっこいい。 >>398
それを恐れていたら、征服を続ける戦国大名なんてできないだろ
しかも近畿から見れば豊臣こそが新参者だしな
堺商人を強制移住させたり、
どこの馬の骨か解らないのに関白になったり、
商人・公家の反発が強かったように聞くな
徳川が関東に拘ったのは関東には、
元武田・今川・北条方の精兵がいるからだろう
「人国記」によれば戦国時代の近畿方面の人々は脆弱で戦に弱いらしい
大坂の陣まで豊臣家臣だった人間に精兵な人など聞かないしな
真田幸村のように豊臣家外部の人間の方が有名な状態だ
>>422
3.11はむしろ古文書の限界を示した話だろ
原発は「100万年に1回」に備えないといけないのに
「1000年に1回」程度を「レアケース」として切り捨てていたんだからな
とてもじゃないが古文書では対応できない 最初から淀君が無血開城する訳が無かったから
地政学とか関係なく大阪幕府はありえない
人間1人の判断で戦略視点とかスルーされる
秀頼が関白で親子京都に移住していれば
籠城など不要だった
>>532
違う、やはり三河の源頼朝は正しかったんや、関東だ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(涛。姓熱田大宮司演ニ(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 関東に武家政権を置くが、幹部を三河でガッチリ固める
結局は三河の源頼朝のやり方が正しいと判断したんだろう
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 幕府は徳川大坂城をはじめ朝廷の費用をまかない、1630年には日光東照宮をたてるほど金持っていたが、なんと1650年にはもう財政は底をついていたそうだ
>>528
外様の有名ところだけでもこんな感じ。北から順に。(慶長年間の大名および所領であることに注意)
盛岡藩南部氏 千代田区日比谷公園 1607年以前
仙台藩伊達氏 千代田区日比谷公園 1601年
山形藩最上氏 (図中)
米沢藩上杉氏 千代田区霞が関1-1 1603年
加賀藩前田氏 (図中)
和歌山藩浅野氏 (図中)
岡山藩池田氏 (図中)
広島藩福島氏 港区西新橋3-19-18 1616年以前
福岡藩黒田氏 (図中)
熊本藩加藤氏 千代田区紀尾井町4-1 1615年以前
薩摩藩島津氏 港区芝5-7-1 1607年頃
名字はしばしば賜姓により羽柴や松平になっている。古地図読解では基本だが。
現代人にとっては、歴史ネトゲのような「謎に明快な伏見の町名(小字名)」よりよほどわかりにくいわなww 徳川幕府の大阪の政庁、表部分は西の丸にあった城代の上屋敷で
本丸の御殿は将軍が在阪時だけに機能する政庁・宮殿。
二条城も名古屋城の本丸も同様。普段は空き家。
そういう意味での「居城」ってことなんだろうな。
大阪城本丸って大奥作られてないから「幕府構想」は無いよな。
>>511
省エネルックは大平正芳と羽田孜
どこから鈴木善幸が出てきたんだ? >>146
ごめんなさい。
山口ごときが西京を名乗ってごめんなさい・・・ >>180
全然関係ないけどw
上杉謙信は鎌倉府ゆかりの鶴岡八幡宮で就任式を行っている。
その土地を支配していた北条氏は妨害しなかったの? 長尾政虎は小田原城を11万5000で囲んで北条を城に封じた上で、もし城から出てきたら野戦で壊滅するつもりだったのだ
>>543
事故レスです。
「関東管領の」就任式でした。
お詫びと訂正を致します。 >>543
後北条の先祖と上杉の先祖は、鎌倉期に三河にいて、ダチの関係
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 ID:Fm3BKKsP0はあちこち噛み付いてるけど、筋悪いよ…
関東における縄文の人口崩壊は縄文後期で、気候変動によるものであって、
弥生人が疾病を持ち込んだからじゃないことがほぼ明らかになってるし、
仙台では東北大理学部がわりと文系に理解があって、
古文書などによる古い災害の研究に熱心だったことが(吉田東伍以来の伝統でもある)
女川原発が、東日本大震災でも、ほぼ震源直下かつ大津波に襲われても
なんとかセーフだったことに関係してるわけだし。
それに、人口が集中することと、その土地が交通の要衝・政治の枢要であることは
必ずしも絶対に同一になるものでもないんだな。
近畿地方は少なくとも古墳期以来、江戸中期までずっと日本の中心だったと言ってよいが、
人口が一極集中したのは、16世紀後半の一回限り。
むしろ、(往年の)首都圏であるにもかかわらず、必ずしも人口集中させない地域体質があるといってもいい。
たられば話はうぜぇだけ
大阪民国が糞な現実は変わらない
大阪幕府とか明治維新で大阪が首都だったら
西日本にしか人がいないみたいな
もっと極端な一極集中だっただろ
>>511
肌が黄色い時点でどうにもならんだろ
アメリカ倒してもソ連がいる、ナチス・ドイツがいる
日本が世界征服するまで白人は日本を全力で潰しにかかる
落としどころなんかない、史実のように戦争して屈服するか戦争せず、
植民地化されるか
後者のほうが酷い未来が待っているのは間違いない 藤堂高虎の孫 藤堂高久は大老酒井忠清の女婿。徳川綱吉が酒井忠清の死骸を検死させろと言ってきた時、高久は命懸けで拒否した。
藤堂高虎は非常に有能な人で何故そんなに沢山の仕事を完璧に出来るのかと聞かれた。
すると「やるべき事を一つ一つ表に書いてこなして行く事」と答えた。
成る程、そうだったのか!と膝を打った人たちはこのような表を以後は
藤堂リスト
と呼ぶようになった。
>>2
江戸の言葉は戦国時代の武蔵辺りの言葉そのものじゃなくて三河や上方他の影響でかなり変質しちゃってるから、むしろ幕府出来て人が流入しちゃったら船場言葉とか早期に絶滅して関西広域の言語も大分変遷してしそう。 大阪は天下の富地にして、黄金の会すること山のごとく、実に将軍家の外府ともいふべき。
すべて百姓町人などの豪富家は、黄金の番人に異ならず。
世間饑飢に苦しむとも格別の施しもいたさず、執拗して人の誹りを得、英雄豪傑の世となりては、
あへなく奪ひ取らるも知らで、いたづらに番をいたすの愚痴なるものばかり多し。
(清河八郎)
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年
江戸生まれ 73人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【大阪】
大坂は世界で一番面白くない都市です。全く平らな平野に建てられた都市で、碁盤の目のように街路が直角に交差し、薄汚くて全部同じ高さの家屋が並んでいます。
その単調さを破る高くて立派な公共建築物は全く見当たりません。
(幕末に来日した英国人医師のウィリアム・ウィリス)
【長崎】
長崎の町は高い。昇り尽くして眺める四囲の風景はまことに美事である。
これらの地に住む人々こそ、地球上最大の幸福者であるとさえ思われた。
(幕末に来日したオランダの海軍中尉カッテンディーケ)
弓も乗馬も出来ない最弱京都&大阪武士
▼弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』『吾妻鏡』)
回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140 011 07.9(%) 14 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240 181 75.4(%) 12
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。
大阪人の小出楢重「大阪弁雑談」より
もしも、大阪弁を使う弁天小僧や直侍が現れたら、随分面白い事だろうと思う。
その極めて歯切れの悪い、深刻でネチネチとした、粘着力のある気前えのよくない、欲張りで、しみたれた泥棒が三人生まれたりするかも知れない。
それならまたそれで一つの存在として見ていられるかと思う。
>>555
変質というか、江戸山手方言は、豊臣政権の共通語=近世初期の上級国民階級の畿内語が、
アクセントだけ東国化したものがベースだよね。
昨日のレスじゃないけど、少なくとも家光の頃までには江戸に全国諸侯の家族が集まっていた。
彼らは、豊臣時代には京都や伏見にいたわけだから。
もちろん、関ヶ原や大坂の陣、あるいは秀忠の冷酷な取潰し政策で入れ替えはあるけど、
階級集団として当然連続してる。
もし「大坂幕府」だったとしたら、豊臣政権の共通語がアクセントまるごとそのまま大坂の武家語になるのは確実。
上方語は保守的なので、21世紀になっても「共通語」は、
「一休さんの新右衛門さんの言葉を、京阪アクセントにした」感じになるのではござらぬか?
これも悪くないでござるね。 小堀さんは島津に拉致されて大堀さんになりましたとさ
562名無しさん@1周年2018/12/22(土) 17:44:51.79
ちなみにルー大柴は小堀遠州を始祖とする遠州流茶道の師範である
これ豆知識な
まさか、と思ってググッたらホントだった。さすがは三橋達也の弟子。ルーやるな。
>>61
豊臣亡き後初代の大阪藩主は家康の孫で養子の松平忠明
彼に命じて焼けた大阪城と大阪の街を再建させた。 武士の故郷は関東。薩摩の東郷平八郎の先祖は良文流平氏。
頼義と義家の源氏全盛期は鎌倉武士団が清和源氏に臣従してから。
違う
簡単に言うと、三河最強伝説なわけだな
この連続性が美しい
美しすぎる
三河最強伝説
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
三河のトヨタw
坂上田村麻呂の古代軍事貴族に代わって東国を平定したのが武士。名門は藤原秀郷、源経基、平貞盛、平良文、平良兼、藤原為憲、平将門の子孫がほとんどw
大和朝廷の宿敵阿弖流為や貴族政治の反乱者平将門が幕府の先駆者なんだよw
>>75
逆に、要衝の下関を天領にしなかったのは
江戸幕府の失態。 自分勝手な大阪がまとまってリーダーシップを取るのは無理がある
御居城って言葉は忠長の為って意味だと思うが、そんな西国に二重政権の元を作るような事を、秀忠、家光、土井利勝を筆頭にした幕閣が許すとは思えんけどな。
紀州だって色々怪しい動きをしている。
>>539
OKOKつまり、あなたは>>400図中にある大名で有力なのは五人しかあげられないってことだな
少なくとも>>400の図だけでは大名が集まっている証拠にはならんと言うことで良いんだな?
図外にある大名屋敷の存在の証拠も出せないらしい 徳川家の大義名分は奥州を睨むこと、でも実態は反乱が起きると面倒な坂東を直接統治する事、位置的に大坂は無い
勿論天皇家を抱き込んで大坂拠点勢力が出来るのも嫌
下手に実子を入れても対立する恐れも
結局本店分室に
もしかしたら人心まで改造したのかも?武骨な意識より目先の利に走るように、まあ軍事的に腑抜けに仕向ける
逆に実子に武田を名乗らせ水戸を与え武田の武勇を残そうとしたり
やっぱ家康は大きい存在、日本人を作り上げてしまった
嫌いな人も多いが
幕府ではないが清盛(京都) > 頼朝(鎌倉) > 尊氏(京都) > 家康(江戸)
次はいよいよ岡山だね
>>578
岡山のターンは吉備真備で使い切りました。 >>133
天翔記が現役かよw
オレもそうだがwww 明治維新でも東北関東の賊徒鎮圧の必要があった
が・・・結局政府自体が賊徒になり今日に至る
朝鮮と東日本は害にしかならんから切り捨てて別の国にするのが
最善なんだよ
>>2
別に方言は嫌いではないが今となれば大阪弁が標準語は嫌だな まあ土地の持つ潜在的な有用性は大阪の方が上だな
今からでも首都移転すれば良い
昔でも天災や戦争、不景気のモヤモヤを散らすために元号の改正や遷都は行われた
大坂遷都を停滞期平成を乗り越える起爆剤にすることは論理的にはありうる
>>144
自分がマンガしか読まないからって無茶苦茶言ってるな
戦前のドイツの建築家・ブルーノ・タウトは著書で再三
小堀遠州と桂の離宮を絶賛している >>566
復興関係ないな。秀吉時代は何もないところだからね
道頓さんの追悼で名づけられたんだな >>583
桃山時代を別名大阪時代っていうね
仁徳天皇の時代だと難波時代だな >>569
鎌倉武士団ってなんだ?
長尾氏とかの祖の鎌倉氏のことか? >>585
首都が東京で悔しいのおw 悔しいのおw 日本史を知らんアホが多すぎ
江戸時代の経済は 大坂 で回ってたのに
>>423
奈良が大阪都に編入され
三重の県境まで住宅とビル建ってただろうな 無理ありすぎ
「御居城」だけじゃ隠居城かもしれないし、あれだけ綿密に江戸の都市計画作った意味がなくなる
>>592
回っていたからなんだ? 商都と政都は合一でなければいけないって法はないだろwww
ってかさ、商都大阪の今日びの没落はどうしたwww
ウリは西国の雄の没落を切歯扼腕してみとるよ。インバウンドで商都復活?
そんな明日をも知れぬアブク銭にヨロコンブところまで神州六十余州に聞こえたナニワ商人は落ちたのかね?
ウリがヤングの頃の音に聞こえた阪神工業地帯の威風と繁栄は、もう戻らないのかねえw このスレの半分は東京大阪の言い争いで構成されています。
関西から離れて正解だったと思う
大阪だと中国暦採用したかもしれないから
>>584
確かに今はTVマスゴミのせいで大阪のイメージが無茶苦茶にされてしまったからなあ。
大阪の芸能・人形浄瑠璃文楽は江戸時代の大阪弁で語られてるけど、大阪弁ってつくづく芸術的な言葉だと実感する。
江戸時代は、文化芸能経済すべてにおいて優れてる大阪幕府にふさわしい街だったんだろうなあ。 こてこてとかメディアによるステレオタイプの押し付け
日本史に於ける大阪の軽視、大阪の歴史の隠蔽
国を挙げて、大阪の輝かしい面を隠そう無きものにしようとしているとしか思えない
>>599
大阪は江戸時代にやっと栄えた場所
大阪に幕府が移ってたら多分栄えなかっただろうね >>595
それも、江戸の大改造してた時期だからな。
大阪に幕府作るなら、江戸であんだけの大工事しないよな。 商人の買い占めと売り惜しみで暴動起きるほど
カネに汚い商業都市だから江戸も大阪もクソだよ
>>608
蓮如のころは大坂「おさか」だからな
蓮如以前は小坂か尾坂と書いていた
記紀にも烏瑳箇「おさか」で載っている >>601
難波の宮っていうのが有った時代もあるんだよ。いまの天王寺あたりな。 江戸時代初期がポイントで家康ウソの戦略
初期といえば反徳川うじゃうじゃいて、まだ戦国時代全く終わってない状況なんだよな
>>2
「おはよう」も「ありがとう」も関西弁ですが
世界最古の文学源氏物語の台詞も関西弁ですし つーか、江戸時代の間も大坂城って徳川家の持ち物だろ?
徳川幕府の大阪支店ってだけの話
>>42
家康は左遷先の江戸が嫌いで仕方がなかった
ずっと駿府で暮らしてたし遺体も遺言で久能山
日光は子孫が勝手に遺体を掘り起こして移した >>107
家康もほとんど駿府ぐらしだから苦しい言い訳 >>606
源氏って摂津源氏と河内源氏だし
源氏の総本山は兵庫県の多田神社のイメージ 平安時代からなにわは物流を牛耳っていた源氏の本拠地やわな
古墳時代から生国魂神社の境内は聖地やし、更に元を辿れば軍事拠点
四天王寺とか寺社仏閣の立ち並ぶ宗教都市であり、物流の拠点であったのがなにわ
弥生時代から常に栄え歴史の中心だよ
日光に東照大権現様がいるから、大阪には移せないだろうな
>>599
確かにね
船場言葉はきれいですわ
吉本弁はあかんけど 西郷の江戸総攻撃で江戸が丸焼けになったら
東京遷都も行われず大阪が首都になったろうな
東京になったのは大名屋敷の再利用が決め手になったらしいし
十九世紀一の…
政治家 小栗上野介 東京神田
思想家 横井小楠 熊本熊本
実業家 渋沢栄一 埼玉深谷
資産家 岩崎弥太郎 高知安芸
農政家 二宮尊徳 神奈川小田原
兵法家 平山子龍 東京四谷
剣術家 男谷下総守 東京本所
探検家 間宮林蔵 茨城筑波
測量家 伊能忠敬 千葉九十九里
策略家 勝安房守 東京本所
陰謀家 岩倉具視 京都京都
開国家 岩瀬肥後守 東京愛宕
自信家 佐久間象山 長野松代
経世家 海保青陵 東京霞ヶ関
紀行家 菅江真澄 愛知豊橋
砲術家 高島秋帆 長崎長崎
藩政家 渡辺崋山 東京三宅坂
翻訳家 杉田玄白 東京新宿
啓蒙家 福澤諭吉 大分中津
遊説家 坂本龍馬 高知高知
財政家 松方正義 鹿児島鹿児島
民政家 上杉鷹山 東京霞ヶ関
開明家 橋本左内 福井福井
革命家 高杉晋作 山口萩
戦術家 立見尚文 東京八丁堀
尊王家 蒲生君平 栃木宇都宮
随筆家 松浦静山 東京浅草
画家 葛飾北斎 東京本所
作家 滝沢馬琴 東京深川
噺家 三遊亭円朝 東京湯島
医者 華岡青洲 和歌山西野山
為政者 島津斉彬 東京芝
指導者 西郷隆盛 鹿児島鹿児島
独裁者 大久保利通 鹿児島鹿児島
国学者 塙保己一 埼玉児玉
蘭学者 緒方洪庵 岡山足守
教育者 吉田松陰 山口萩
扇動者 藤田東湖 茨城水戸
兵学者 大村益次郎 山口山口
儒学者 広瀬淡窓 大分日田
漢学者 安井息軒 宮崎宮崎
経済学者 山片蟠桃 兵庫高砂
博物学者 南方熊楠 和歌山和歌山
キリスト教教育者 新島襄 東京神田
キリスト教指導者 内村鑑三 東京小石川
西洋哲学者 西周 島根津和野
仏教哲学者 清沢満之 愛知名古屋
自然哲学者 三浦梅園 大分国東
重商主義者 本多利明 新潟蒲原
国粋主義者 平田篤胤 秋田秋田
豪胆者 山岡鉄舟 東京本所
理学者 帆足万里 大分日出
化学者 川本幸民 兵庫三田
求道者 白井亨 東京桜田
英学者 中村正直 東京麻布
本草学者 平賀源内 香川志度
幕末の大分県は人材の宝庫。儒学者の枠に収まらない傑物の帆足万里に三浦梅園、広瀬淡窓、武芸は西国一の剣客島田虎之助。前野良沢は江戸生まれ江戸育ち。
幕末維新明治スッカスカの大阪『ええじゃないか、ええじゃないか』←これ踊ってただけ
_
滋賀'すげぇえええええ 完全に大阪超えキタぁあーーーー
【現代的新しい価値・文化の創造】
1.ゆるキャラ(ひこにゃん)
2.イナズマロックフェス (西日本最大)
3.オペラ
4.ビワイチ(自転車 琵琶湖一周)、ウォータースポーツ、グランピング
5.ラッピング(路面)電車
【著名な観光地】
1.比叡山延暦寺、三井寺、石山寺、坂本・日吉大社、近江神宮、おごと温泉、びわ湖バレイ
2.彦根城、安土城
3.長浜黒壁、竹生島、多賀大社、メタセコイヤ並木、湖東三山・鶏足寺・永源寺(紅葉名所)
4.八幡堀、近江商人屋敷、水郷、ヴォーリズ建築(旧豊郷小 他多数)
5.信楽焼、琵琶湖博物館、佐川美術館、MIHOミュージアム、甲賀流忍者
【美味名物・食文化】
1.近江牛、鴨料理
2.鮎、ビワマス、ホンモロコ佃煮、ふな寿司
3.焼き鯖そうめん、近江ちゃんぽん、比叡そば、伊吹そば、来来亭
4.近江米、近江野菜、朝宮茶、近江の地酒
5.叶匠壽庵(和菓子)、クラブハリエ(バームクーヘン)
大阪 → たこ焼き(笑)串カツ(笑)ハルカス(笑)偽大阪城(笑)道頓堀(笑)橋下劇場(笑)
.
もともと日本の中心はずっと関西と九州だからなにもおかしいことはないな
むしろ日本の中心に、近い大阪の方がフサワシカッタ
阿弖流為を倒した征夷大将軍が東日本から京の都を支配したのは歴史の皮肉
大御所の居城になる可能性なんじゃないの?
将軍は東国大名、大御所は西国大名みたいな役割分担があったみたいだし
将軍の上洛行列が東国大名中心に編成されてるように
大阪人『大坂様は日本発祥の地や!』→九州人『大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い(笑)』
近代の大阪神戸
地元の大阪人より愛媛人の方が活躍しているのが滑稽。
朝ドラでも大阪商人の無能ぶりが際立つ。
その愛媛県に対し“別子煙害”で恩を仇で返した鬼畜=大阪住友。
五代→鹿児島人
今様太閤一三→山梨人
大阪の父関一市長→静岡(東京)人
渋沢→埼玉人
紡績山辺→島根人
二宮忠→愛媛人
藤田伝→山口
中野梧→東京
土居通→愛媛
今西林→愛媛
大阪に最も勢いがあった時代は戦後の
吉田松陰の一族で長州人の杉道助・商工会頭と
長州出身ではない福岡出身だが旧制山口高校卒で長州閥の赤間文三・大阪府知事のタッグ時代
ところが赤間が政界に転身し、杉が死去すると大阪を統率できるものがいなくなり衰退した
大阪は戦前も戦後も余所者依存かいな。
>>2
今の標準語の源流は三河弁だよ?
関西弁なんて無理だから 夏の陣の10年後の話か
藤堂高虎随分長生きしたもんだな
>>633
パッと思いつくとこで島津かな
関ヶ原直後に征伐軍が編成されて城を包囲してるけどいつ誰が裏切るかわからない状況だから
田舎大名の島津にいつまで関わっていられないと島津征伐を諦めてる
あと家康が加藤清正存命中に豊臣滅ぼそうとしたなら清正も対家康に転じてたと思う
他は関ヶ原勃発のきっかけともなった上杉軍 >>645
それらは反徳川じゃなくて、単なる外様じゃないの?
上杉は土下座状態だし、加藤なんてむしろ家康派では >>646
まああからさまに敵対はしてないわな
清正は言う通りこの時点では完全に家康派だし
ただ上記のような火種がゴロゴロしてる状態では天下泰平とは程遠い状況であったことは確か >>620
家康生きてた頃の江戸なんてど田舎だったろうしなぁ。 鎌倉幕府が続いたのは朝廷と離れた場所に拠点を置いたからだし、
室町幕府がグタグタだったのは朝廷の側に拠点を置いたからだろ。
歴オタの家康が安易に関西に拠点を置くとは思えないな。
>>622
まだこんなこと言ってるカッペがいるのかw 大阪都構想は正しかったんじゃねえか!
大阪の年寄りは頭悪すぎ!
>>650
東京オリンピックまでに東京の不動産を売り抜けないとババ抜きで負けるよ >>633
豊臣も別に反徳川じゃないだろ
関が原も豊臣視点からは家臣通しの争い 家康じたいは殆ど江戸に居ないのな、駿府か伏見・大坂に滞在してる。
>>653
大坂の陣を考えると反徳川だという印象だけど >>655
大阪の陣は徳川に仕掛けられたんだろ
徳川に反抗した結果ではないぞ >>656
でも戦ったんでしょ?
反徳川じゃないの? 関ヶ原に限って言えばあくまで豊臣内部の権力闘争で豊臣vs徳川じゃない
豊臣内部の徳川vs石田増田長束ら吏僚だな
現に上杉討伐も秀頼から家康に慰労金が出されてるし家康も秀頼の旗のもとという大義名分で出兵してる
茶々も三成らが挙兵した際はすぐさま家康に対応を問う使者を遣わしてる
>>647
加藤清正は関ヶ原直前に島津の伊集院騒動で家康と微妙になってたりするんだよな。
で島津は島津で実は親家康だったり。 豊臣は大人しく家康の家来になるか、領地返して公家になるかしか無かったんだよな。
>>657
そりゃ攻め込まれたら戦うだろ
けど割とぎりぎりまで家臣扱いしてたんだから反徳川じゃないだろ
お前はどこを見て徳川に反抗していると見てるんだ? 豊臣の敗因とか
必ずある
それを調べることには意味がある
もともと家康が江戸に幕府作ったのは秀吉とかが左遷した意趣返しだろ
だから遷都するにしても大阪だけは有りえねえよ。京都はワンチャンかもしれんが
>>663
いや、自分はそんなに詳しくないので質問してるだけだよ
じゃあ、豊臣は徳川には反抗しなかったということね
それで了解したよ >>624
平将門の孫を倒して桓武平氏嫡流から譲り受けた鎌倉の地に鶴岡八幡宮を建ててからが清和源氏の栄華の始まり 重大な発見なのか?
外様大名同士で好き勝手なこと言ってるだけだろ?
徳川大坂城は、謎にデカいからな。西国大名ガーというにしても、無駄にデカい。
しかも、仮に西国を敵に回した場合、難波は要衝のようで要衝でなく、もし軍勢が攻め上るとしても、
山陽道=西国街道を通り、西宮から池田や箕面のほうを難波の頭越しに素通りして通過するはずなので、
大坂にバカでかい城を建てる必要性って、よく考えると乏しい。
家康の真意をいろいろ憶測する人が、同時代的に出てきても不思議じゃない。
あと、必要以上にバカでかい城といえば、名古屋城がある。
あれもいくら秀頼対策とはいえ、あんな巨大な城を作る必要もない。福島正則が愚痴をボヤいたのも頷ける。
家康は、すでに後の東名阪3大都市の発想の原型を、脳内に描いていたのかもしれん。
慶長伏見地震とか長く続いたらしいし、関東に行くのは仕方なかったかも。
関東でも地震あったけど、16世紀中期から後期にかけて、中部から九州にかけて大地震多かったらしいし。
>>675
西国大名の力を削るためと豊臣大坂城より豪壮にすることで(全体規模では縮小したが)
徳川の力を誇示するため。
という理由じゃダメなの? >>677
上の方のレスの論争じゃないけどさ、外様を含む全ての大名は、江戸城を知ってるんだよ。当たり前の話だけど。
江戸の屋敷をいつ貰ったかはともかく、江戸城に行ったことはどの大名も確実にある。
西国街道から微妙に外れた難波の地に、わざわざ巨艦のような城を作る必要性って、よく考えると怪しい。
江戸に何か想定外の事象(戦争にしても災害にしても)が起きた際に、
いつでも幕府政庁をまるごと移動できる、という設計だったとしても不思議じゃない。
大坂と名古屋には、そういう裏設計があるんじゃないかね?
この「スペア」は、駿府でもないし、まして甲府ではない。有事の際の逃亡先というのとはまた違う。 天守が焼けて、本丸御殿から能舞台撤去したあたりで「江戸城のスペア」的な役割は終えたんだろうな…
と思ったけど、最後の最後、幕末に外交の舞台になって
寛永期の壮麗な御殿が、往時の徳川幕府の権威、威勢を海外に示せた。
家康は江戸にしても港湾都市として作ったいるし、港の価値を理解してたんじゃないか。
大阪は街道に一番近い港だろ。
実際、江戸時代の大阪の繁栄は西廻り航路の拠点だからだし。
信長の町、安土は捨て置かれて廃墟になったわけで、
いくら権力者の町でかつて繁栄してようが、地理的な価値がなければ廃れるんだよ。
>>645
我々ジャップに肯徳川も反徳川もないやろ
「強い者につく」が基本なのだから
恨みがあろうと力があれば従うし
恨みがなかろうと力の弱い側は見捨てる
豊臣政権に従った大名も
幕末の大名もほぼこの動きだろう 家康は一国一城、一国一大名を立て前としてた
徳川家は駿河だけ、たまたま坂東駐留軍の長が息子なんだよ俺は将軍辞めたし
てな態度
大坂の陣前は結城や武田を息子たちに名乗らせ統治の正当性を考えていたと思う
家康死後思ったより体制が強くなり御三家に徳川名乗らせたり大胆に
>>655
豊臣が反徳川だったら
秀吉の生前に徳川を朝鮮送りにしていただろう
「倭国伝」(2010)の『明史』日本伝より
>433
>諸大名は秀吉の暴虐ぶりを怨んで、口ぐちにこう言った。
>「秀吉の今回の計画は、大唐国を襲うためのものではなく、われわれの力を弱めようとするものにほかならぬ」
「完訳フロイス日本史5」(2000)
>279
>この朝鮮の戦いに関する関白の意向として感じられることは、朝鮮を占領し、関白職に就任させた自分の甥、
>ならびに彼とともに、日本で己れに叛旗を翻す可能性がある者をすべてかの地に送り出すことであった。
フロイスの主張通り、秀次派である伊達・毛利などが朝鮮送りされている
(秀次自身を送るのは失敗したが) >>685
秀吉は秀次なんかより能力ある家康を信じたんだろうな。
秀頼につかえてくれるなんて本当は微塵も思ってなかったろうが、自分が織田のバカ息子達をそうしたように生かしておいてはくれるだろうし、
家康が天下取れれば戦もなくなって戦死のリスクも減るだろうし。
あわよくば三法師のように名目だけでも…まさか自分が死んでまもなく三法師も若くして悲惨な末路になりましたなんて知らないわけだし。 関西は平野が狭すぎるから首都にはふさわしくないんだな
京都が都だったころも関東に人口で負けてたしな
>>686
三成がやる気出さなきゃ、徳川幕府の体制は磐石じゃなかっただろうに(´・ω・`) 大阪幕府なら鎖国路線とは違ったものに
なってただろうな
元々家康は海外貿易を志向してたから
案外ルソンとか植民地にしてたかも