奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影 県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】 石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。 石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。 続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。 講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。 毎日新聞 2018年12月1日 https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra 日本の本来の呼び方もヤマト 国号はヤマトに戻すべきだろ ついでに東京も江戸に戻したほうがいい 国や首都の名前くらいヤマト言葉を使うべき
なんでどこにあるかも分からんもんを邪馬台国って言い出したんだか
しょぼw 縄文時代は1万年以上続いたのに しかも平和だったし 3世紀ってついこの前じゃねえかw
ニッポンの歴史って捏造だらけのせいで訳わかんねーな
オウムU教祖の服部直史の人相の悪すぎる顔はまるでゴ ルゴ13のようで、歯医者なのにメガネな しの、風でなびく芸能人のようなフサフサなヘアースタイルは森伸介も共通! 苦 情電話に受け身でこらえ続け意味不明な 返事はもう犯罪者にしか映らない!お前 らいつまでもこんな風に書き込まれ続けていいの?6年やろ?藤井は?4年の服 部も?1年の森も? 大勢の主婦たちの歯にチップ(思考盗聴器)=(外国の最先端スパイ工作システムについてを参照)を埋め込みプライベートを盗聴する変態歯医者服部直史は服部直人と偽名を使う詐欺師! 藤井恒次は大阪駅置石や列車に飛び込ませて3人殺しや岐阜中2女児、敷島町・尻毛町独居老女殺人事件やった。森伸介は札幌大 火災、自立支援施設放火やった。服部直史は吉川友梨ちゃん殺人事件や十三庄内門 真 放火やった! 毒入 り 女 姉 藤井美千子 アジ化ナトリウム常習者刑務所2回経験あり 保 険 金殺人常 習 者 岐阜サイドは現在大敗中で垂井の親戚の家は燃やされ親戚の女子高生も切り付 けられた! 藤井恒次は4年間 岐阜拘置支所にいて、森伸介は替え玉が働き、指名手配逃亡中 である! 闇サイト 犯罪依頼 教唆王藤 井恒次三人衆は実行犯にやらせて来た! 男 の 娘、和 製 版ビリーミリガン 森 伸 介は舞 妓 姿 のロープで 縛 ら れた フル ヌードを 掲載してやった、 天 誅! 人形 抱っこの 腹 話 術 の148cm で 奴 隷のようにいいなりになる 性 格 の藤井恒次 はオネショする こわもて メイクwww 池田市 近辺で女児性的いたずら(チンぽくわえさせやパンツに手を 突っ込み性器や尻を触る)常習者の 服部直史 三 人衆だが警察らに 賄賂でもみ消してきた 服部直史は診察室でスカトロプレイのあとウンチ付いた手で患者の口を触るのでウンコ臭 が 漂っていた り、麻酔針でエイズの菌を塗った針を注射してくるので患者が 訴 訟 中! 東 京 都 30代 女性 酪農大時代の後輩 匿名希望 服部直史偽歯科医も精子入りの水鉄砲で主婦や女児にかけてくる、歯科用の椅子で監禁したりと 主婦にキスもしてきたり主婦の胸をもんできたりと同じで妖怪みたいで キ モイ!! 宅間守の愛弟子の愛に飢えた 大富豪の服部直史と森伸介は60代のババアに求愛するヒモで自宅に帰ると民間のオリに 閉 じ 込 め ら れ 歯科医院や動物病院の出勤時にオリから解放されている!オリの中で四つんばいの手錠され柵につながれてる ひもつき首輪の素っ裸でいる状態で うけ皿のババアの食い残しの残飯を食わせて もらっているwwwオリの中で野糞状態www /::::::::ソ::::::::::゛'ヽ、 /:::::::-、:::i´i|::|/:::::::::::ヽ /::::::,,、ミ"ヽ` "゛ / ::::::ヽ __ /::::::== `-::::::::ヽ 〈 ヽ 三 | } |::::::::/ .,,,=≡, ,≡=、、 l:::::::l. \ ヽニ 〈 li::::::l゛ /・\,!!_/・\、,l:::::::! \ ≡ ヽ .|`:::| :⌒ ノ/.. i\:⌒ |:::::i 〉 \ (i ″ ,ィ____.i i i / / `ー- 、_ ヽ i / l .i i はっはっはっ!わん!わん! / ヽ ノ ヽlエlエr´ヽ、/´ (はい!喜んで!親分!次の命令を!だワン!) | |、ヽ ` ̄´ / | | ヽ` "ー−´/ | | ___ ! ノ ノ ,' |服部直史| !最終学歴:服部直史は大阪歯科短期大卒 ', /ヽー、 ノ  ̄ ̄ ̄ / | | ヽ `ー─--{ ,ノ / | l、 ', ヽ、 | _, ‐' / ゝ_i_ヽ `ー‐` ', )  ̄ | / ヽ. ( } ( ヽ, `ヽ '、 `ヽ `ー-ゝ-‐` `ー-
京都の八坂神社は新羅系。 当社は慶応4年(1868)5月30日付の神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。 創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が 新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。 http://www.yasaka-jinja.or.jp/about/ 八坂氏は朝鮮渡来系。 実は金姓は昔から日本にいた。 山城国 諸蕃 新羅 真城史 史 出自新羅国人金氏尊也 新撰姓氏録(1200年前に作られた日本の姓氏の集まり) http://www.oct-net.ne.jp/ ~hatahata/syoujirokusiragimimana.html http://www.oct-net.ne.jp/ ~hatahata/syoujirokumokuji.html ヤマトの国は奈良県だが、すぐ近くの山城国(京都)には新羅国王の子孫の金氏が住んでいた。 まぁ卑弥呼は韓国人だけどな。 日本は古来より韓国の領土だった。
天皇には新羅王子の血が流れている アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事 記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播 磨国風土記』には神として登場する。 古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の 子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理 (たぢまもり・田道間守{日本書紀})であ り、 次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神 功皇后 )の母、葛城高額比売命であるとされて いる。 しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒ ボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等 (つぬがあらしと)とされている点で異なる。 また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の 段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出 現する。 日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、 神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙 媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、 古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出 てくる話の時系列)が逆転している。 >ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」 ちょwwww 脳の病気だwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>16 今は丸和の勢いがすごい!ってNHけーがやってた! >>15 その記事見ると12人とか53人とかさ とても一大勢力とは思えないよね。 数代で消えてしまったんじゃないの? 朝鮮と大揉めすると必ずこの手の記事が出る事に気がついてる奴は純日本人 そして最終的には朝鮮を絡め静かにフェードアウトする その後どの様に解釈されたかは秘密だ
なぜだか知らんが日本に特有な墳墓形式 前方後円墳は関東に多いんだよな >>2 韓国は格差社会なだけじゃん 韓国は財閥を解体しないと、マジに将来はないよ 土器www日本人面白すぎw 日本人が自分達の歴史もまともに記録出来てなかった時代に大陸はどうだったか考えてみな? 古代世界史と古代日本史を比べると遅れ過ぎて日本人の愚行や無礼も許したくなるわ 数千年遅れた民族w
邪馬台国は、地方自治体の名称に過ぎず、日本国全体の名称ではなかった。
これは多分、真実に近いんやろな 九州のトンデモ説より説得力があるわ
もうただ祈るかのように勝利宣言だけやるサハフタソのような近畿パーであった。
今の世もある意味クロネコヤマト王国の支配下に有ると言える
畿内派=ナラは朝鮮語のクニであり、朝鮮からの侵略移民が作ったクニ 騎馬民族がヤマト王権を作り、日王は朝鮮人 つまり天皇家は朝鮮人で朝廷の支配層も朝鮮人、縄文人を奴隷として現代まで支配している 日本を作ったのも朝鮮人 九州派=九州島内の小国30あまりの連合国が邪馬壹国を名乗り、各国には王がいる 九州とは、古代中国の言葉で八方周囲を束ねる中央集権国の意味 邪馬壹国の政治は、各小国の王から代表王を選出する合議制であり、その中で男王や卑弥呼が選出された時代もあった 邪馬壹国は、争いを好まず小国で纏まることで力を強める連邦制をとり、国境を接する野蛮な隣国狗奴国に対抗する 朝鮮南部や大陸と交易を行い、鉄を輸入し鉄製品を使い農業漁業先進国だった 養蚕を行い、シルクを織り、シルクを魏に献上もしている そんな邪馬壹国の詳細は日本の歴史書には全く記録が無いのが謎であるが 隣接する南の狗奴国、男王の名は卑弥弓呼は頻繁に邪馬壹国の国境を攻め込み緊張が絶えなかった この狗奴国が畿内に侵攻しヤマト朝廷をたてたならば、謎も納得がいく 記紀に天皇家は南部九州出身とあるのが証拠である 狗奴国が畿内勢力を攻略し、後の天皇家とヤマト朝廷樹立後に九州の邪馬壹国を滅ぼし、その功績を背乗りしたとすれば謎は解けるのである
古代人、、ちょっとぐらい記録残しとけよー しゃべってたのなら文字も適当に作れたろうに
>>32 分かったから九州信者は九州に収まるように倭人伝の解釈をこねくりまわしてろ ここは考古学研究所に関するスレだから碌な遺跡も無い九州信者には無縁だぞ 倭人伝の解釈の話なんてソースにも無いだろ ニッポンは災害だらけで当時住んでた奴らは外洋へ逃げた 鎮静化したら戻るの繰り返し だから記録も無い
>>37 有ったけど大和朝廷が全部燃やしちゃったんだよ クロネコヤマト マジで本当に本気で、人生はリベンジマッチだと思う人は、聴くべきー この歌のサビはイケる ガッツだぜ、愛は勝つ、それが大事 そして2019年は 『人生はリベンジマッチ』 ↑ 名曲、ユーチューヴ検索 ★カバー、コピー大歓迎。 女性が歌ってもイイネ ヒップホップ、クラブ等で DJミックスもOK− 大受けすること、間違いナシ。 全身全霊こめての、リベンジマッチ!
稲作は日本から中国朝鮮に渡ったと動画で見たな。 朝鮮に古墳があることから昔は朝鮮も日本に支配されてたという説もあるね。
>>55 邪馬台国は当時からすでに地方自治体の名前だった。大和国と同じ意味。 魏志倭人伝は、倭国の首都が邪馬台国にあることを記述しているにすぎない。 >>51 遼東半島から持ち込んだ稲作が朝鮮半島に適さなかったので仕方なく九州山口にまで渡ってきた 原住民がいなかったので居着く→温かったので米作りに成功→食い物確保して人口が増える→そこから周囲に殖民→農耕技術の発展→朝鮮半島への逆輸入→人口=軍事力なので朝鮮半島南部に侵攻して制圧→馬を手に入れる 曹操の墓だって今世紀に入ってからの発見だから 邪馬台国とか卑弥呼の墓っても、そう簡単な話じ ゃないだろうね
>>51-52 YouTubeのネトウヨ動画に洗脳されたか。 こういう高齢者が増えてるらしいね。 >>56 何か朝鮮の不可逆理論みたいだな 大和と邪馬台国の因果関係が逆じゃないの? かつての邪馬台を捩ってつけたんじゃないの? 史料がほとんど残されてないのが残念。 邪馬台国の風俗習慣から飛鳥時代の飛躍があまりにも大きんだよね。 タイムマシン誰か作ってくれよ。
米と漢字は日本が作って輸出した 10世紀の白頭山噴火で古代朝鮮人は全滅した 今の朝鮮人はすべてエベンキ族であり古代の渡来人とはまったくの無関係 日本人は由緒あるユダヤの末裔 俺は凄い
>>61 大陸から支配者が渡ってきたか もしくは大陸に攻め込んだ時にナウくてカッコイイ大陸文化にかぶれたんだろう たぶん後者 >>60 この当時すでに倭と邪馬台国が別物として扱われているのに何言ってんの? 今でいうところの日本国と東京都の関係と同じなんだけどね。 昔は都道府県に似た地方区分を「○○国」と呼んでいたのは知ってるでしょ。 中国の正史にちゃんと倭国の遣隋使とか隋帝を激怒させた親書とか冠位十二階とかの記録があるのはさすがだと思った そこまで正確に残ってるのに聖徳太子も推古天皇も記録にないってのは何故なんだぜ?
邪馬台は当時の中国人が耳で聴いた「ヤマト」に対する当て字にすぎない。 当時の首都が置かれた地方自治体という意味にすぎない邪馬台国にロマンなどない。
倭と書いてヤマトと読むのは無理がある 中国側の記録にワではなくヤマトとして当て字されるはず 無理やりヤマトと読ませなければならないナニカがあったのだろう
>>66 後付け? まさかヤマトって名前を中国人に付けてもらったとでも思ってるの? >>67 紀元前から文明持ってた国とじゃ社会の成熟度に差がありすぎる。 あと、蘇我馬子が蔵書蔵燃やしちまったことも痛いかな。 まあ、あれがなくても今の時代まで史料が残ってたかどうか分からないけど。 仏教もいいけど、国史文化もしっかり大陸から輸入してほしかったよ。 つうか邪馬台国や卑弥呼の名が風土記にも残ってないのはおかしいな。 魏書や三国史記には残ってるのに。
>>71 邪馬台国から大和と付けたんじゃないのって言ってるだけじゃん また朝鮮式の会話不成立作戦か やれやれ >>75 それはないって話だな。 ありがとうとオブリガードがよく似てるから同じなんじゃないか説と同じで。 そもそも研究家は当時の読みは今とは全く違ってたって言ってるな。 「ヤマタイ」とは読んでなかったはずだと。 >ヤマト王権 どうでもいいけどこのいかにも90年代以降に作ったような造語やめろよ。 大和朝廷って呼び名があるだろう。
>>75 何言ってるの? 当時の日本人は漢字なんて使ってない。 ヤマトを邪馬台と勝手に当て字して魏に報告したのは中国人であって、日本人ではない。 日本人が「邪」などという否定的な漢字を自分から使うわけがない。 卑弥呼という書き方もそうだ。「卑」という卑しい意味を持つ漢字を日本人が自分で当てるはずがない。 2600年前には統一国家としての日本が成立してるのに 時系列が合わんだろ
このスレ、レベル低いな。 ヤマト王権という呼称にまでかみつくとか知識が古すぎる。
1000年後、韓国とかいてニホンと読むようにすれば 経済大国ニホンは朝鮮半島にあったことなる まぁそんなものよ
ヤマト国とそ姫巫女 つまり日本国と皇族の息女の誰かだな
ヤマトってそんな昔からあったの? 世界最古の会社じゃん
そもそも倭という漢字には、おもねる人、小さい人という否定的な意味がある。 日本人が自分の意思で倭という漢字を国名に当てるはずがない。 中国人の悪意ある文字割り当てによるものだ。
中国の記録に、同時期の倭国伝と日本国伝が同時に成立してるのは興味深い 倭と日本は別々の国だったのよ
ID:PTbWrlEYO が他人を侮辱する意味合いで朝鮮式とか書いているのは、かなりみっともない。
ワは私という呼称だな 中華思想では外国であれば相手を侮辱する文字を使うことがよくあった ヤマト国は国力で言えば当時の中華王朝を遥かに凌ぐ大国出会ったにも関わらずだ
秦の始皇帝に“皇帝”の位を贈ったのは日本の皇室だからな 格が違うよ
>>56 邪馬台(やまと)国、あれは、かつての覇権国だ。 漢の時代、隷下の奴国(博多)を使い朝貢させてた覇権国。 それが倭国大乱で奈良に敗れ、男王を禁止され、 おまけに魏に朝貢させられてた惨めな姿だ。 倭国大乱で、日本の中心は、奈良に移ったわけだ。 半島から北九州に来た連中と東シナ海から九州東南部に渡って来たやつと 元々日本にいたアイヌやツングースがいて 先に来た外来種が地元民族と一緒に後から来た外来種と戦争したんだけど アレ?ぼくら先祖が同じだね ってわかったら外来種がいきなり敵に寝返って元々の王権を抹殺して大王になったんだよ なんか目印のマークだか家紋のようなもので発覚したとかで。 どれが何氏だかはよくわかんないけど
獲加多支歯大王 ワカタケルオオキミ 第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ 空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 敷なべて 我こそ居ませ 我こそ告さめ 家をも名をも
他に例はあるのかね? 例えば自分のことをミーと呼ぶ国があって、中国の記録ではミの国とか書いてあるとか
邪馬台国 邪馬台国 って、しつけーな 魏志倭人伝よめば、どう見ても 日本にあった都市国家の一つにしかすぎん
>>88 倭国は九州のことだからな 魏志倭人伝でも倭国(女王国)から東に海を千里渡るとまた別の国があって倭人が住んでると書いてある 畿内は後発組だけど古代中国との関係が欲しいから邪馬台の名を自称しただけ >>82 それを使うのは、左翼思想に基づく歴史学者だよw 今の学会の上の方は、そういう連中だからな。 「知識」じゃないんだわ。学会の政治なんだわ。 >>88 時期的にちょうど壬申の乱が倭国vs日本国の内乱だわな もちろん勝ったのは日本 波動砲は使わないって約束したでしょ! 撃ちまくってもう
大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い 大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?) 豊橋市にある石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある 昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい 神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている 実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山)に向いているわけだな
中国の夏王朝の末裔が九州に上陸してるっぽいけど 中国でも最初に文字使ったのは殷の王朝だから その前の夏王朝は文字を使ってなかった あと呉越の連中が列島でうろちょろしてるし多分神武とかニギハヤヒとか九州から東征したのが中国の古代人で 山陰にいた権力が半島から渡ってきた連中 それ以外の地域にいたのが原住民族
>>95 というより殆どの民族の呼称は「わたし」のその民族の呼び方から来てる これは続きがある 三河の源頼朝、三河の足利尊氏、三河の徳川家康と、日本は三河の王が君臨してきたわけだな ニギハヤヒの子供である高倉下が尾張氏の祖だわな ニギハヤヒの別の子供であるウマシマジが物部氏や穂積氏(鈴木氏)で、この系統は三河に集積した だが中世、熱田大宮司職はウマシマジ系統の三河に乗っ取られ、この系統から源頼朝や足利氏が誕生した 三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流) 系図 藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍) 藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) ■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市) ・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる ・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する ・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する ・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に) ・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく ・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり) ・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める ・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑) ・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍)を生む ・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む
>>98 律令制が導入されるよりも前の政治権力を「朝廷」と呼ぶのは変でしょ。 大和朝廷との連続性が定かでないのだから、ヤマト王権と呼ぶのが正しい。 同じ愛知県出身者の政権だからと言って、織田政権と徳川幕府をごっちゃにしたらダメなのと同じ。 >>103 夏王朝って流石に中国でも史料も考古学的遺物も少なくて 存在自体があやふやじゃなかったっけ?あるにはあったろうくらいで。 そんな具体的な話がなにか史料で残ってんの? >>96 違うね。 九州に在った、かつての列島の覇権国。 魏に朝貢した時代、覇権は既に奈良に移っていた。 正しくは、朝貢したんじゃない。朝貢「させられた」んだ。 魏志の行間から読み取れるはずだ。 もう朝廷の他に勢力が存在しなかったって事にしたい宗教だな
|┃ ___ ________________ |┃三 / ( 廻)ヽ / |┃ . _r) ____ i < 話は聞かせてもらった |┃ [F:ニ:5] / //ニ三ヲ | | ちょっとイスカンダルまでいって来る |┃ ー丑丑ー / /(三三ヲ j \________________ ガラッ.|┃ マヌE[_//ヘ ヽ三ヲ / |┃ \此E沙イ ψ)\_// |┃三 ー/7T”| | / |┃. ⊥辷ノ _ノ___( |┃三 ヽ_< < ::::::::: \ |┃ ≧ニュ,, :::::: :) |┃三 . / \_:::::__:ノ |┃  ̄ |┃ |┃ |┃ |┃
ちなみに 金日成や新羅王族の子孫はY染色体C すなわち、クロマニョン人系 ローランとの関係が疑われる
中国の記録によれば倭王のいる邪靡堆の近くには火を吹く阿蘇山とかいう不思議な山があるらしいが
>>108 当時の朝貢には、主従関係の意味合いはない。 外国と贈物を送りあうことで、権力者の交友関係が広いことを領民に示す意味合いがある。 >>106 いろいろともっともらしい理屈が並ぶが、 それを信じて疑わない辺りがうぶだなあw それ、政治的目的によるものなので。 越の建国者が夏王朝の末裔なんだってさ そんで倭が大陸に送った使者に越の関係者がいるっぽい で、呉越同舟と揶揄られるほど超絶不仲だった呉の服が日本の民族服だし
>>77 違うね 邪馬台と大和は都市名だから 成語の問題じゃなくて由来の問題だ ヨークとニューヨークみたいなもんだな 当て字に大を付けて倭とするとこから 後付け成語と見ていい なんで奈良は邪馬台国にこだわるかね 奈良だったらもっと強力な証拠が残ってると思うよ
まぁ日本最古の縄文時代の都市青森の山内丸山と 弥生から渡来人との混血文化 邪馬台国ー大和とは全然無関係なんだよな 縄文ブームとか言うけど日本の縄文と邪馬台国ー大和あたりは繋がってない 縄文と繋がってんの東北とか関東とか九州とか大和に征服された方な
卑弥呼が露出多くてエロい感じだったらどこでもいいよ
>>117 由来をきちんと把握しろ 呉とは反物の種類 服になる前の半製品の種類=おそらく染め済みの絹織物 中国で新しく覇権を握ったやつがいると、その手下があちこち国を探して みんな、新しい権力者の何とか様にお祝いと挨拶の使者を送れよ って言って回った よりたくさんの国から使者を読んできたやつが新しい覇者の威光を高めるのに貢献したとかで手柄として誉められた だから手下たちは各地を巡って小国を発見しよりたくさんの挨拶の使者を集めるために競争してたらしい
>>123 倭国からの使者が○○の末(末裔)であると語っていた っていう記録でいくつか国の名前が出てた >>125 それが?どうした? 滅びた国家の名前出してもな >>121 朝に開かれる市場に外国から持ち込まれた珍品を披露して、権力の大きさを領民に示すのが朝貢の実態。 実際に主従関係がなくても主従関係があるかのように見せかける虚構だよ。 魏の朝廷に挨拶に呼んだ倭国の使者が不仲の呉の末裔っぽいことを名乗ったので 呼んできたやつがあたふたフォローしてる記録がある
北朝鮮への食糧支援を北朝鮮への朝貢であると言い張ることも、書物を独占できれば可能になる。
まったく朝貢の使者は誰も彼もが大夫(春秋戦後時代の豪族)の末(末裔)を名乗りますな! って笑ってごまかしたらしい
>>120 遺伝子分布見ればわかるけど、縄文人は沖縄まで入ってる。 縄文人に二系統あって、シベリア系と、南方系。 シベリア系は、北海道から沖縄まで入ってる。 南方系は、沖縄から青森まで入って、北海道には入っていない。 先島は、殆どが南方系で、若干のシベリア系が入ってる。 後の弥生人は、沖縄(先島を除く)から青森まで入ってる。 最後に来た倭人は、半島弥生人に北方系が混ざったもので、 九州とその周辺に限定。 >>130 考古学的には九州圧勝で結論出てるしな 畿内のゴッドハンド芸もワンパだし アイヌやツングースの文化まで遡らないと中国人の息がかかってる可能性ある
〜BC10000頃 ウホウホ生きてた BC10000〜AC900 縄文土器とか作る 貝食ってた AC900〜AC300 弥生 稲作とか AC500 豪族達のトップが天コロとなる AC600〜AC1000 藤原がイキりだす AC1100〜 平氏源氏がイキりだす AC1192作ろうキャバクラ幕府 AC1200〜 北条とかがイキりだす AC1300〜 後醍醐と足利がイキる AC1400 応仁の乱 AC1400〜1600 信長秀吉家康がイキる AC1600〜1800 徳川幕府 AC1800〜1900 薩長がイキる AC1900〜 日清日露でイキる 韓国中国でイキる AC1945 アメリカに凹られる AC1945〜2018 戦後の復興 ざっくりこんな認識だわ
>>127 何かの位に任じるという行為が何を意味するか理解できない? 古い中国人は各家系ごとにその来歴を記録した書物を伝える習慣があったもよう 神武とニギハヤヒが あれ、君も天帝の子孫?先祖同じだね! って倭国で戦争中に確認して土着民を裏切れたのもそういう目印のサインを持ってたためらしい 家紋だか合言葉かフリーメイソンの手のサインみたいなやつかは知らないけど
領民向けの演出だよ。 外国人が紫綬褒章を授与されたからといってその外国人は、天皇の臣下になるわけではないのと同じ。 まして国境を接しておらず軍事的緊張もない日本なら、中国での扱いは相当に緩い。
邪馬台国はここだ!と先に言ったもん勝ちみたいになってるな 中国の文献に名前が出てくるだけで何も見つかってないのに、やくやれるな
>>119 奈良とかさ京とか都で「みやこ」と読んで成語で京都とかさ ここら辺は可逆性を普通に認めるけど ことヤマトだけ絶対的な起源説で不可逆は許さんになるんだよなw どこの朝鮮なんだよとw うさぎちゃんは九州から抜け駆けして使者を送り、踏み台にされたことに勘づいたワニに噛まれて怪我をした 倭国での戦争で惨敗し朝廷で呉越同舟するはめになったうさぎちゃんは 苦節数十年謀略を巡らして会稽の恥をすすぐ決意を固めたのだった
>>142 今の奈良県以外の場所がヤマトと呼ばれていた痕跡が一切ないからだよ。 中国のごとく前の王朝の歴史を葬ったのが、いまの天皇家一派やからね
>>144 普通に山から取ったんじゃないの? ヤマト、ミナト、イワトと同じ類じゃないの? 他には存在すらしてないって乱暴過ぎないか? >「穂積(穂は「火」の意味とも)」の氏は、出雲積、鰐積(和珥氏の原始的姓氏)、津積(尾張氏の原始的姓氏)、阿曇(阿曇氏)などの例から見て原始的姓氏であり、物部氏ももとは穂積氏で本宗は穂積臣であって、豪族系の臣姓をもっていた。 鰐積が蘇我で穂(火)積が物部。 出雲積、安曇、津積はどれだ なんか色々ある
>>146 当時の日本人は文字を持たなかったので葬るべき歴史がそもそもなかった、というのが正しい。 口伝で残っていた郷土史を集めたのが古事記。 >>137 こうやって見ると縄文までの進歩の遅さと そっからの進歩の早さが凄いな たった三千年でウホウホからIPS細胞かよ 邪馬台=ヤマト=大和なんでしょ いい加減認めたらいいのに・・・
>>1 を読むと「纒向はヤマト王権の基礎」「纒向は3世紀の邪馬台国の時代」とは言っても、纒向が邪馬台国の遺構とは言ってないんだな 俺は九州説派だけど、上には半分以上同意するわ >>143 白(しら)兎は、因幡に出雲が匿った新羅人の隠語。 (しら=しっら・shilla・新羅) ワニは、倭の隠語。九州で半島貿易を独占してた邪馬台国のこと。 要するに、匿った新羅人を使って出雲が密貿易してたわけだ。 出雲が奈良に滅ぼされた際、新羅人は皆殺しに。 先日、DNA解析したのが、皆殺しにされた新羅人だろ。 獲加多支歯大王 ワカタケルオオキミ 第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ 空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 敷なべて 我こそ居ませ 我こそ告さめ 家をも名をも・・・
東征で神武に寝返ったニギハヤヒて九州の隼人と違うの? ナガスネヒコとかいう土着の豪族はニギハヤヒに裏切られて殺されたもよう 中国人は昔からあくどい
蘇我氏の国記と大王記を蘇我氏が焼いたっておかしいよなぁ 普通に中大兄皇子と鎌足が焼いたろこれさ
卑弥呼の時代の大きな遺跡なんて日本中どこにでもあるんだけど 畿内のアホどもだけ邪馬台国に結びつけたがるんだよな はっきり言ってゴミだよ
>>148 出雲も尾張も和邇も全部安曇の分派だと思われる 言葉の共通性から不可逆的に議論する手法てなんなん? 朝鮮とかユダヤとかヤマトとかさw 貴乃花親方まで病んじゃってさ 相撲は古代ヘブライ語のシュモーから!とか言い出してるぞw 感染力が怖いわw
半島を南進して行方不明になった古代民族の濊(ワイ)人って倭の関係者じゃないのかね
>>147 ただの地名が根拠なのかね ヤマトという地名って北海道のアイヌの地名で沢山あるよな 北海道の独特な地名はアイヌ語からそのままつけたものが多いから >>57 北周りで稲作が伝わるって非現実的 華北から遼東、朝鮮って経由してなんで日本に稲作が来るのか 華南から南回りか、タンラ経由、直接日本に伝わったと考えたほうが自然 >>154 どうも、そう読めない。 邪馬台国が基礎となってヤマト王権ができた、 と言っている。 >>163 ヤマトタケルからして可逆的に名前は移動してるから充分だと思うわ ヨークからヨーク候が生まれて ヨーク候がアメリカに土地を持ったら、そこはニューヨーク うん、あるある ワイ人てハワイアンとは全然関係ないの? ポリネシアの原住民族と日本人てDNAの一部かぶってたじゃん ポリネシアンのもとになった原始人も大陸から東南アジアなどの島々に抜けて 太平洋の島々に広がってったらしいし 日本の原住民も海洋民族だし
3世紀頃の日本列島のヤマタイ ヤマトは 畿内には第10代崇神天皇 北九州には女王ヒミコ 卑弥呼であったのであろう つまり奈良盆地磐余と北九州に 2つの「クニ」「邪馬台国」が有ったのだろう
ヤマタイコクとは日本人が勝手に読んでいるだけで 中国語では「シュマイド」
>>57 馬は、縄文期に半島にあった。 稲作導入当初は、縄文人は馬を入れなかった様子。 どうも輸入禁止していたらしい。 だが、その後、結局は入って来たんだろ? >>160 分派同士でも戦争してたんかね なんとなく山陰山陽から中部地方まで同じ民族に見えたので混乱していた 邪馬台国九州説は考古学的にはもう成り立たないとんでも説
邪馬台国畿内説は考古学的にはもう成り立たないとんでも説
>>88 倭国が九州で日本国が本州だと認識されていたようだ 339 :名無しさん@1周年 :2018/12/04(火) 14:07:37.32 ID:b5AnaISC0 明の時代(1532年)に描かれた「四海華夷總圖」では倭国と日本国がこんな風に認識されてたんだな 最古とされているシュメールだが 今は世界中の学者が日本の縄文文化を研究している
ポリネシア ミクロネシア メラネシア 何かモンゴロイドとオーストロイド混血の割合でザックリ分けてるみたいね
>>149 古事記は帝記やらを焼く前に覚えさせたもんやろ 口伝は各地に残ってる風土記で古事記に裏付けとして風土記参照みたいになってる >>173 九州邪馬台国が権勢を誇ったのは、2世紀の漢代までだよw 3世紀初頭の大乱で、権力亡き権威に貶められたんだから。 考古学者は、土の中だけ見てて他の学問分野く疎くて、 文献の行間を読めないから間違うw てか、ありゃ学問じゃなくて、学者間の政治闘争だw 縄文時代(採集・狩猟) 初代神武天皇 弥生時代(稲作) とも考えられる
近畿と九州の権力が戦争してたけど、どっちのほうが進んでてどっちのが古いかは検証が必要なもよう。 もともと九州にいたやつらと九州に上陸したやつも 別民族な感じがする
>>176 そういや紀元前に日本に来た徐福伝説は九州だね 不老不死の桃源郷である不死の山(富士山)を目指して来たけど 長い船旅で陸が見えたら上陸しちゃうだろうし >>155 白兎は新羅、鰐は倭人かあ 倭人を騙してたのがバレた新羅人が倭人の怒りをかって懲らしめられたと考えるとなんか意味が通るねw そういうの神話だったのか >>176 ああこんなんあるんだ。 近畿パーがまた発狂するなこれw どうしても畿内にしなくてはいけない理由が 彼の国の人達にあるようだ
>>183 そんな検証の必要殆どないよ。明らかだから。 朝鮮半島南部は、倭国の一部。 又、昔朝鮮半島に居た人々と今の韓国朝鮮人とは全く別物。
>>187 ワニは、倭 というより、倭人(ワニん)なんだな! 今気が付いたwwww 何度も言うけど邪馬台国の邪馬とか卑弥呼の卑とか 大陸視点で野蛮という意味を込めて 日本を貶めた言い方だからね。 こんなの自分の国の歴史教科書に採用するなよって話。 邪馬台国なんてヤマト国の訛りに決まってんだろ… ヒミコはミコだよ。厩戸皇子と同じミコ。 日出づる国の皇子。天皇。
うむ、なぜ卑弥呼が神話から除外させたのか? など、いろいろな うわ!誰だ!
>>196 除外してないよ、ちゃんと登場してる 日の巫女、ヒノミコ… >>195 だからその卑字の考えは誤りだよ。 例えば邪馬臺の臺は皇帝の居る場所と言う意味がある。 魏志倭人伝の邪馬台国倭国の九州を伝えたもの 魏国が方角を間違えて奈良に行ったとかアホな解釈に 無理がありすぎ
宇佐は比売大神だし、まあ姫は間違い無いよ。 ならもう姫子しか無い。 ただし、宇佐はトヨだけど。
芸人に卑弥呼の子孫がいるからそいつに聞けば分かるだろ。
>>164 紀元前二千年の夏王朝時代の黄河大洪水で逃げてきた稲作民が 九州の農耕民族になったんじゃないのかね 夏王朝の始祖である禹さんは水害を治めた手柄が讃えられてるもよう ちなみに >「禹」 という文字は本来蜥蜴や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神 倭国の古代民族である鰐や物部は水神を信仰する部族なのだった 使者も夏の末裔を名乗ってるし 九州で稲作してるし >>200 うむ。巫女じゃない。巫女=御子で「み」は敬語。 「み」は「みかど」(=御門)のように語頭に来るか、 「軽の皇子」のように固有名詞の後ろに来る語頭に付けないとおかしい。 姫・子 もともとは、日女子(=お日様の娘)で、日子(彦・比古)の対義語だな。 これの省略形が、日女(ヒメ)、後世、姫の字を当てたんだな。 いやいや、姫は、後の時代の宛字で、そもそも女へんに臣の字の成立は、中国でも、かなり後の方なんだよな
よくわからないけど 奈良って昔の墓地扱いじゃないの 墓がいっぱい作れた空地 だから町のはずれに作る墓地 昔から無駄に土地余ってるから そのうち宮内庁が新しい墓作る時の候補地になれるよ
アイヌって低身長なのも特徴らしいね 顔が濃いとか毛深いとか色々あるけど 蘇我毛人がエミシで蝦夷(エゾ)もエミシと読むのも偶然ではないだろうね 多分
日田で発見された鉄の鏡も志賀島で発見された金印も 魏国以前の漢の時代のもの それを鑑みて考えることだな 魏国以前から大陸と繋がっていた
>>208 そのタイミングできたのもいるだろうし 色んなタイミングで色んな民族が集まったのが 一番端っこの日本の宿命 弥生人を画一的にに見過ぎなんだよなあ 卑弥呼は、反物質エネルギーを使えるテレサみないな人。
>>211 周の王室が姫姓じゃないの? 三皇五帝のころからあるのでは? >>70 旧唐書倭国伝 日本国は、倭国の別種なり。 その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。 あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。 あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。 ↑全く別の勢力がやってきて新しく支配を始めた なりすまそうとしたが、あやしまれたということ 奈良には奈良の大物主(大国主)がいたのは事実だが 国譲りしてしまった 式年遷宮の時に出雲大社のサイトを見たが 皇室の為に頑張りますと書いてあるだけで 何故に国を譲って島根に行ったのか書かれてなかった
>>215 漢代は、おそらくは邪馬台国が覇権国で、 みなと奴国(博多)を支配して、朝貢させてたんだよね。 やまと=山・戸=山手のクニなら、日田もその本拠地候補だよね。 日田盆地から筑紫平野一帯を支配して、農業・軍事大国。 その力で、大宰府辺りを押さえて、みなと奴国の商業圏を支配。 ありえる。 黄河や長江の南域の稲作民が東シナ海から九州に渡って、 それが朝鮮半島に南側から伝わった と私は思うんだけど、どうなの 半島北部で貴族やってた北方の中国人の末裔は稲作民を百済(ペクチェ)の百姓とか白丁(ペクチョン)と呼んで奴隷と同列視してたので 倭の大臣が半島に使者を送って無礼な態度を改めさせたという 稲作してた中国人は南方のやつ
まあ、天照大神が神で、神武天皇は、政務者や武者だったわけよ でね、
>>223 そうです 日田盆地は実は筑紫平野と繋がっています 夜明けダムの横の小さな道路です 聞き飽きた 聞き飽きた 聞き飽きた 毎回毎回 もっと面白い事言えよ 小室みたいな奴も古代にいただろw(-_-#)
>>224 遣唐使とかの頃と違って、ずっと前の弥生期なら、 大陸からいきなり九州は無理かも。 それを考えると、やはり半島経由か半島と同時輸入かだろうなあ。 >>224 民俗学者・鳥越憲三郎が、倭人は江南・雲南からきたと言ってる 下駄があり、赤飯があり、ちまきがあり、鳥居があり、納豆がある とても無関係とはおもえないと… おれも鳥越説に賛成だ 下戸遺伝子の分布をみると、江南から多数の人々が畿内や能登半島に渡来したのは事実。 その数も元々の原住民の人数に近いだろうね。 >>36 古代朝鮮半島は倭族と漢族(両方に呉辰族を含む)とツングース系の陣取りゲームの地 現朝鮮半島住みのエベンキはその頃まだ北方の極寒地住み 残念でした >>221 稲作民の長が中国人から「奴隷管理人の座を委託します」って金印もらってホルホルしてたので 戦闘民族が噛みついて 「我々は魏のお友達」 っていう金印をもらいなおしてきたらしい 中国人は「前の使者と違って反抗的で生意気」って腹立ててたもよう 反抗的な派閥の要人はのちに帰化系の派閥から奸計で抹殺された 魏志倭人伝に一言書いてあるだけなのに凄く膨らませるな
邪馬台国は九州だが 邪馬台国前の金印や鉄の鏡の出土がある 経文時代はもっとあったのではないか?
神武は海人族だろけど倭国の王族の中ではそんな重要な人じゃなかったんだろな 中年になるまで辺鄙なとこまで自分の土地を探しに行ってるんだし
>>228 日本海の荒波を渡るより、東シナ海を台湾経由で北上するほうがなんか楽そうだよ あるいは北方から樺太経由で南進してくとか 紀元前660年春2月11日 大和橿原宮に於いて初代神武天皇は即位した
>>102 てことは纒向箸墓はニギハヤヒ系か(ナガスネヒコも含む) >>234 チベット人と日本人は似てるらしい 戦前、戦中、スパイとして紛れ込んで大陸を彷徨した貴重な記録 複数ある シナ人でも見分けがつかなかったらしい >>241 そうですね ちゃんと樫原神宮のサイト読め 日帝ジャップは馬鹿だから 「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」 という妄想を維持したい。 しかし、中国の史書の卑弥呼の記述は、 明らかにそれを否定している。 だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」 という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする。 その悪あがきを鑑賞して馬鹿にするのが、 5chの邪馬台国スレの楽しみかたw
>>248 うーん、西暦の紀元の紀元って、わかってる? >>243 大まかにいうと、 日本人 ≒ シベリア人 + スンダランド(東南亜)人 + 華北人 チベット人 ≒ シベリア人 + 華北人 ヤマトたい(博多弁肥後弁)→ 邪馬臺(シナ人が聞いた漢字表記) ∴邪馬台国は筑紫(福岡)から火国(熊本)あたり = 九州北部 この説が気楽でいいわ
そこで即位したってわざわざ書いてるってこと それ以前は別の場所にいたんだよね 違うやつが支配してた場所を横取りしたのか 新しく気に入った空地を見つけて旗立てたのかは知らないけど
「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読む奴は馬鹿。 「邪馬台国」は中国の史書に出てきた単語。 だから中国語で読むのが当然。 中国語としてこれを「ヤマタイコク」と読む根拠は無い。 こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w ちなみに近い隋や唐の時代の音だと「ザマダイ」か「ジャマダイ」などとされる。 この程度のことはその辺の漢和辞典にもついてる。 言っとくがジャップが勝手に「漢音」w なんて呼んでるものは 何の根拠にもならんからな。 だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で 「ヤマタイコク」と呼んで、 ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない! とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。 444
おれは邪馬台国九州説を信じてる 倭人伝の地名が一番合致するから
>>247 選挙権のない罪日ちょうせんじん… 戦後、韓国と北鮮は、負け犬の遠吠え的ウリナラマンセー教育で国民を洗脳し、日本に与えた影響力を 大いに誇張して喧伝することによって、地に落ちた自尊心を回復しようとたくらんだ (また、半島における中国の影響も、ほとんど無かったコトになっている。) それとは逆に日本では半島史研究が急速に衰退したので、連中のデタラメを無批判に信じ込む 反日サヨク教師・バカサヨク学者・バカ左翼マスゴミが言いたい放題を繰り返すことになる いい例が高松塚古墳の壁画だ。どう見ても漢人の風俗なのに、朝鮮文化だと騒いでいた ソウル・平壌を含む半島の主要地域は、B.C.108〜A.D.313まで400年間も漢人の植民地(楽浪郡 ・帯方郡)で、それ以降も半島には漢人・楽浪文化→中国のコピーが現在まで続いている。 そして半島に、朝鮮(韓国)文化らしいものが芽生え始めたのが、新羅が半島南部を統一した、 7世紀後半以降のことである 朝鮮文化が成立する前のハナシなのに、「これは朝鮮文化だ!」と喧伝するのは危痴害の戯言 以外の何ものでもない 朝鮮人が「朝鮮文化を日本に教えてやった」言っているものは、すべて漢・楽浪文化だ ようするに、313年に楽浪郡が滅ぶと、漢人達が徐々に南下してきて半島南部や日本側に渡っ て、その文化を授けたのである 代表例が、日本に漢文を大系的に伝授した王仁博士で、同じ時代に百済も漢人に漢文を教授 されている 「司馬史観」なるものも要注意だ いい小説家ではあるが彼は歴史家ではない チョンコおもねり史観のきらいがある 要注意だ >>8 >>209 の言ってる上代日本語で思い出したけど 日本に漢字以前に文字があったとされる神代文字(ヲシテ文字)。 これも江戸時代に出来た創作文字なんだよな。 まぁそんなものだよ。 ヲシテ文字も結局 今、 「古代の政治意図により、闇に葬られた文字」とか 言ってるサイトがあるくらいだからな。 >>240 冬じゃなければ日本海の荒波もないし、 それに島の間の距離が全然違う。 山東半島→島々→遼東半島 朝鮮半島→対馬→壱岐→九州、 どれも晴れてりゃ見える距離。 >>247 だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」 という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする ↑これはおまえに賛成 ヤマトという地名も北部九州から移った 考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012) 伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが 奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の 銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は 100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、 その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、 伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました 近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、 奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です 卑弥呼 永遠に馬鹿なジャップは例によって、 「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。 しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。 当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。 幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、 「ぴみは」 ないし 「ぴみか」 になる。 勝手に「ひみこ」を正当な読み方いみたいに してんじゃねーぞ、糞ジャップ
>>247 話しがややこしくなるから出てくんなバカチョンww お前は糞食ってろw 九州に日のつく地名がやたら多いから 日本 て言い出したのは九州閥だと思うよ ヤマトは違うかもしらんけど。大和って当て字したのは 大きな和解と 「俺たちは小さくねえから!!」 っていう意地を込めて文字の読めるやつが自分たちで決めたのだろう 倭人という呼び名は気に入らなかったようだ ってわざわざ中国人に記録されるぐらいだし、日出処国とか自称してわざわざ喧嘩売ってるし そのせいでクーデターを仕掛けられたんだろうけど在日中国人に。
>>256 信じなくていい。 考えなさい。 九州しか無い。 邪馬台国は絶対九州 そっから東に移って大和に、まきむく遺跡を作った 神武東征とも説明が合致する
邪馬台国って単なる地方レベルの豪族だろ あの時代に日本全国を統治する絶対権力なんて存在するわけがない 大騒ぎするほどのもんじゃないだろ
>>251 大有りだよ ■ 四国徳島の剣山で発掘されたミイラの記事が消されている?? 1950年8月26日、山本英輔という海軍大将が徳島・剣山でミイラ100体を発見したという記事が徳島日報で 配信されたのだが、徳島日報で当記事が配信された新聞ごと消されているという。これは非常に興味深い。 剣山に関するやりとりは動画の四分あたりから。 飛鳥昭雄氏がいう剣山で発掘されたミイラ100体について詳述したブログを見つけたので引かせていただく。 これが事実だとすれば、唸らずにはいられない。やもすれば、剣山の地下に、カッパドキアに匹敵する地下都市が 存在するかもしれないことを示唆しているようにも思えるからだ。 >徳島日報に載った記事と、ミイラが消えた これマジだよ。 いろんな本に新聞の切り抜き写真載ってるのに ずっと前に国会図書館で調べたけど影も形もない。 徳島の図書館にもあるはずだから誰か地元の人調べてくれないかな。 古代ユダヤというものの、実質、本流はシュメールでは? たとえば、箱舟伝説 アララト山に、ノアの箱舟が行き着いたのが、7月18日とのこと 四国剣山におみこし(じつは、アーク?)担ぎ上げる祭りがなぜか7月17日 関係ある? 初代神武天皇の東遷伝説 東征伝説にしても 出自は九州にはあるのではあろう
低知能な日本では、 歴史学や考古学の教授は 朝鮮人韓国人しかいないからな。 邪馬台国 に必死だということは、 邪馬台国 はやはり、朝鮮半島にあった 原始信仰シャーマニズム崇拝の 未開原始人の部族だったということだ。
亡くなったジャーナリストの三宅さんは、 先祖は中国の渡来人だと言ってた。
初代神武天皇の東遷伝説 東征伝説にしても 出自は九州 ← 朝鮮半島・中国・モンゴル(騎馬民族)にはあるのではあろう
そもそも大和国がチャイナに訛って伝わって邪馬台国じゃねえの
>>252 「國、何處アルか?」 「山たい!」 「ヤ、邪馬臺?」 かくして、邪馬台国は、九州で確定w >>272 日本神話の話に合致する 神武天皇は日向(宮崎県)で兵を上げて大和(奈良県)に都を置いたとある。 おまけに、まきむく遺跡からは殆ど出てないんだよ弥生時代の異物が それより百年ぐらい後のものばかり >>272 いい加減、自分の間違いに固執せず、矛のでてこない畿内ということを認めればいいのに そうすればせめて、矛のでてこない畿内ですが、それが何か?という論法の反撃もできるのに これでは、悔しさのあまり、泣き叫んでいる幼稚園児のようなものではないか。 「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない 出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない 「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない 土の虚塔である 空中楼閣である いつかはかならず崩壊する 「兵用 矛 楯 木弓」 矛のでてこない畿内はありえない 竹箭或鐵鏃或骨鏃 ↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない >>281 それは捏造。 だから記紀の編纂前に焚書が行われたの。 >>282 お前自分の間違いに固執するなよ。 幼稚園児かよw >>283 【邪馬台国はどんな国?】 「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」 ―銅矛であれ鉄矛であれ、 矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。 「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」 −邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。 「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」 −弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。 「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」 −弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。 三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」 邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 で、なんで邪馬台を素直にヤマトと読まないの? マルタイラーメンに忖度してんの?
>>283 捏造する理由がない あと纒向遺跡という明確な証拠がある ヒミコの時代と微妙に合わない 蘇我氏は馬や武器や新しい知識技術がほしくて仏教に改宗したので 神道物部氏にひどいことをされました そこで大和とか言い出したえらい人の仲裁者がすかさず神仏習合とかの案をひねりだして無理矢理和解させた もちろんうわつらだけ和解しても内心ではいがみあってたため 謀略の応酬と化して暗殺やクーデターが横行した
>>286 邪馬台国は九州にあったけど奈良県に東征したんだよ これが日本神話でも最初に語られている >>287 大ありだよ。 お前幼稚園児みたいだよなw >>290 東征も東遷も無い。 考古学的に否定された。 >>291 金印は本物で間違いない それは倭国の歴史を証明するもの だがその金印を授かっていたのは、 (故)九州王朝であり大和朝廷とはなんら一切関係がない なぜなら倭国と日本国は別種だからだ 唐の文献にもそう書いてある 確かに戦後は左翼の学者が占めるようになって、色々と考察が難しくなったのね
邪馬台国と大和朝廷が繋がると良いな。 天照大神が卑弥呼とか胸熱だよね。 でも、皇紀設定が崩れるから、確実な証拠があっても、無視される様な気がする。
東征・東遷の息の根を止めたのが、実は纏向遺跡。 纏向は古代近畿の最重要遺跡。 この纏向には西日本全域から土器が集まっているが、 九州のものは僅かしか無く、征服者としての九州勢の面影を全く見ることが出来ない。 東征・東遷は纏向遺跡によって考古学的に否定されてしまった。
邪馬台国はそれぞれの心の中にあるってことでいいじゃないか 違うこと認めることは、人生のナンセンス化に等しい 人生最終盤の爺さんどもには耐えられないことだろう
>>295 卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな! 誤りと偽りの「邪馬台国=畿内説」 (推理・邪馬台国と日本神話の謎) 2011/7/20 安本美典 (著) P175 表19 おもに「魏志倭人伝」に記されている遺物の、奈良県と福岡県の出土状況の比較 大略西暦300年以前、弥生時代の遺物 鉄剣 鉄矛 銅矛 あといろいろ ↑奈良県てなにもでてないじゃん 0が並んでるんだが ひどすぎる!! 稀代の詐話集団・畿内厨?? 平成23年出版の本だぞ 壮大なまやかし、インチキ、デマの拡散の典型例として畿内説はタメになる あれだ、在日朝鮮人強制連行によく似てる チベットは、今は中国共産党に支配されているけど、 大昔は、漢族を脅かしたほどの遊牧騎馬系の民族だったらしい。
近畿にそこそこ大きな王朝が先にあって、そこに九州から中国人とやばんじんが遠征してきた と考えるのがふつう
>>295 なのに、東遷したことにした理由を考えろや。 答は一つしかないんだがな。 東征してから建てたんだから無くても仕方ないだろ 九州北部のものはわずかに出てる 南部のものが出てこないのは逆にクナ国を彷彿とさせる
纏向には第10代崇神天皇陵 第12代景行天皇陵が存在している
>>301 イミフです。キチガイさん。 東征は記紀の捏造。 だからこそ編纂前に焚書が行われた。 >>302 東征・東遷の息の根を止めたのが、実は纏向遺跡。 纏向は古代近畿の最重要遺跡。 この纏向には西日本全域から土器が集まっているが、 九州のものは僅かしか無く、征服者としての九州勢の面影を全く見ることが出来ない。 東征・東遷は纏向遺跡によって考古学的に否定されてしまった。 >>295 関川氏 ← おまえらが大好きな纒向遺跡出土に立ち会った 関川氏は今回の講演で、そうした遺物がほとんど出土していない、と指摘された。その上で、考古 学者の立場から「邪馬台国大和説」に対して疑問を呈された。関川氏は纒向遺跡の発掘調査に従事 された考古学者である。それどころか、纒向遺跡から出土した土器を調査して、国内各地方からの 搬入状況を分析・整理された張本人である。 唐古・鍵遺跡では成人用土坑墓や木棺墓、方形周溝墓、小児用土器棺墓などさまざまな墓が見つ かっているが、弥生時代の墓には副葬品は埋納されていない。弥生中期には墓の中に壷や高坏を供 献じた例はあるが、これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺だけだそうだ。弥生時代の九州 の墓とは全然異なる様相を呈しており、武器も鏡も出ていないのだ。武器と言えば、安本美典氏の 研究によれば、弥生時代の鉄族の数を県別に比較した場合、福岡県は圧倒的に多く398個なのに 対し、奈良県はわずか4個にすぎない。 唐古・鍵遺跡では、大型建物跡が見つかっていて、その柱の太さは根元で80cmもあったという。 また銅鐸の主な生産地だったと思われ、その鋳型も出ている。だが、大陸や半島との交流を示す搬 入遺物は何も発見されていない。これが、対外交流に視点を据えて唐古・鍵遺跡を見た場合の奈良 県最大の弥生遺跡の実態である。人はこの遺跡を「弥生の王都」と表現するが、王都とするには誠 に寂しい状況である、と関川氏は指摘される。そして、これが纒向遺跡が出現する直前の奈良盆 地の実態だったと言われる。 では、纒向遺跡ではどうか。関川氏によれば、唐古・鍵遺跡と実態はそれほど変わらないという。 纒向遺跡では、断面が三角形の特徴的な木鏃が10本以上見つかっている。これは実用ではなく儀 礼用に用いられたもので、3・4世紀の日本では珍しいそうだ。朝鮮半島南部の大成洞古墳群に副 葬されているような骨鏃がモデルだったと推定されている。注目すべきは、大成洞古墳群は朝鮮半 島南部の伽耶地方に位置していて、卑弥呼が通交した帯方郡からの影響ではない。 >>305 だから、出てるっての 九州北部のもの じゃあ纒向遺跡が邪馬台国の時代と合致しないのはどう説明するんだよ 夏王朝で思い出したが、日本最高の偉人、三河の源頼朝が伊勢神宮に願文を奉納しているんだが その願文に、夏王朝の禹王、殷王朝の湯王が登場する 事績の話を書いているだけだが、よく考えると違和感がある 日本を知り尽くした男だから、何か知っていたのだろうか
奈良は、盆地で取り囲む山々が城壁代わりになったの?
>>293 「兵用 矛 楯 木弓」 矛のでてこない畿内はありえない 竹箭或鐵鏃或骨鏃 ↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない 「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない 出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない 総じて、こうした↑負け犬の遠吠え的な物言いが多い畿内厨 「本職」のガクシャどももそうだから、日本の行く末がおそろしい 獲加多支歯大王 ワカタケルオオキミ 第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ 空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 敷なべて 我こそ居ませ 我こそ告さめ 家をも名をも
>>307 東征・東遷の息の根を止めたのが、実は纏向遺跡。 纏向は古代近畿の最重要遺跡。 この纏向には西日本全域から土器が集まっているが、 九州のものは僅かしか無く、 征服者としての九州勢の面影を全く見ることが出来ない。 東征・東遷は纏向遺跡によって考古学的に否定されてしまった。 飛騨高山に出雲王朝より古い越の国というのがあったという口伝があるらしいけど、 これはどうなの
>>309 あとの時代 古墳時代だな おれは、九州説だが、答えよう 金剛山地が大きい あれで、外敵から逃れられる、シャットアウトできて内政に専念できる と思ったんだよ 古代、大阪てほとんど海と湿地 だから、奈良にあった
飛騨高山じゃなくて日田の高山だったら九州で馬飼ってた場所だけどね なんか場所が離れてるけど 移住先に故郷の地名をつけるやつは多いけど どっちが先なんだ
>>312 ただのコピペ野郎になっちゃったな よほど不都合なんだな >葬られた人と吉備に強いつながりがある。 桃姫さんを暗示させるような言い回しで 記紀の伝承が倭人伝より確かになりそうだな。
>>314 台風も高野山、金剛山で勢力が弱まるし。 >>317 お前よっぽどこれが都合が悪いんだなw 東征・東遷の息の根を止めたのが、実は纏向遺跡。 纏向は古代近畿の最重要遺跡。 この纏向には西日本全域から土器が集まっているが、 九州のものは僅かしか無く、 征服者としての九州勢の面影を全く見ることが出来ない。 東征・東遷は纏向遺跡によって考古学的に否定されてしまった。 ナラは朝鮮語で国を意味するからなw 日本は朝鮮人に支配されてたw
>>315 だから大和川の向こう側 河内方面に古代天皇陵が累々と並んでいるのである 大和は日生 河内に陵墓 奈良県からJR大和路線快速で大阪府へと抜ける崎である >>315 延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 畿内 2,087,126 山城 424,070 大和 554,600 河内 400,954 和泉 227,500 摂津 480,000 西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@ 筑前 790,063 @@@@@@@@@@ 筑後 623,581 豊前 609,828 @@@@@@@@@@ 豊後 743,842 肥前 692,589 @@@@@@@@@ 肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@ 日向 373,101 大隅 242,040 薩摩 242,500 壱岐 90,000 対馬 3920 延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない 弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。 九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。 畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 邪馬台国の時代既に近畿を中心とした巨大勢力があり古墳を作る文化が あったんだからそれが大和王朝の元なのは間違いないだろ 邪馬台国ではないかもしれんが
>>321 チョンは書き込まなくていいからうんこ食べてなさいw >>305 ボンクラ。東征と逆だわ。 漢代からの歴史的権威だった邪馬台(やまと)を奈良が亡ぼし 権威簒奪したわけだ。 だから滅ぼした相手を神々に祭り上げ、当時誰もが知る卑弥呼を 天照に昇華させ、その神々が東遷して、その子孫の自分たちが統治 している、という権威簒奪を覆い隠し自らの正統性を示す神話を作った。 飛騨高山を日田に置き換えると大体今までの仮説と一致する 北陸はアイヌ語に似た地名がたくさんあるというけど。 あと日田が切り捨てられて弾圧され被差別民族へという流れは熊襲の討伐だと考えると辻褄は合う 引用↓ (1) 古代日本には最初に「飛騨王朝」が存在した。 (2) そこから「出雲王朝」が分家した。 (3) 「出雲王朝」はオオクニヌシの腐敗により「飛騨王朝」に再び吸収された。 (4) 九州には何も無かったので、3つの外国人勢力が横取りしようと、お互いに争っていた。 (モンゴル系隼人族、朝鮮系球磨族、インド系塩土族) (5) そこで、「飛騨王朝」からニニギの命が派遣され、九州を統一した。 (6) その後、息子のサヌが大和橿原に大和国を建設した。 (7) 最後は、「出雲王朝」が新羅勢力に乗っ取られたので、「飛騨王朝」に対する逆襲と弾圧が始まり被差別民に落とされた。出雲神道は新羅信仰に変えられた ↑ここまで引用
以下はもう常識にするように。 1. 畿内説は学説として成立していない。ただのファンタジー。サンタクロースみたいなもん。 2. 東征も東遷も無い。考古学的に否定された。 3. 単に九州倭国と近畿日本の二つの国があり、後者が強大化して前者を併呑し、名前も騙ったと言うだけのこと。 旧唐書にある通り。 古代日本史に深刻な謎など無い。単に近畿パーみたいなウソつき野郎が謎があるかのようにミスリードしているだけ。
>>326 言語学者・長田夏樹は、日本の古代言語は三つの異なる地域に分けられるという すなわち、S音の北部九州、ts音の近畿、tf音の東国 魏志倭人伝を分析すると、ほとんどがS音をつかっていることが明らかであり これから推測すると、S方言圏は北部九州であり、云々 つきつめて言えば、記紀に書かれていないことが ヤマト側にとって都合がわるいこと 銅鐸 → 無視 卑弥呼 → 神功皇后 ちなみに箸墓古墳には吉備の特殊器台がたくさん置かれていた 東征の証拠
だからなんで奈良の研究者が日本書紀や古事記を無視するのだか? 戦後のGHQ(日本のことは何も知らない連中)が作ったそれこそ妄想の歴史を追従したがるのか? 日本書紀は魏志倭人伝より正確に日本の事を伝えておるぞ 方向も距離もデタラメの一度来ただけの歴史書と古代から日本に伝わる日本の歴史書 どちらが正しいかは言うまでもない しかもよく見てみると両者には合致している部分が多いのにそれには目を瞑るのな まじでGHQの犬の奈良の研究者に発掘してほしくないわ
ワシの近所に仁徳天皇陵、ニサンザイ古墳がある。 少し行けば羽曳野の応神天皇陵古墳がある。 (西村眞悟先生の近くの堺市在住)
ちなみに箸墓古墳には吉備の特殊器台がたくさん置かれていた 東征の証拠。
>>302 九州南部が何処を指すのか存じ上げないが 吉備の土器が日向で出たり、日向の土器が吉備で出たり 弥生の割と早い段階からそのようであって互いに存在を認知していた状況 球磨免田式は九州一円で出ており 九州一円で認知される状況 だから3世紀は神功皇后の時代で間違いない 今の学者は日本書紀も読まないから三韓征伐も知らないし 九州で発生した当時の反乱も知らない だから日本書紀の記述が正しいかどうかもわからない 魏志倭人伝しか読まないから両方の共通点を見出すことができない そんなGHQトリックにかかっているんだって 特に戦後は大学の研究機関がGHQの配下にあったのでこうなった わざとだよ
>>1 を読もうと思ったけど漢字多すぎてやめた スレタイすら読む気が起きなかった >>336 魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる 卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は 魏との交流を持っていないと考えられる ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然 九州で出土した副葬品の分布地図 金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが 佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である 南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった ↑明快じゃん 薩摩か熊本だよ 男王卑弥弓呼 ←菊池につながるから熊本かな? 狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人? ↑いずれにせよ、この2国の北部、(女王国は)九州北部しかありえない 正式にはヤマト大国もしくはヤマト国であって邪馬大国って名付けたのは魏でしかない 当時の日本には漢字がないのになんでいまだに邪馬大国という名前にしているのか不思議でしかない 漢字が渡ってきたのは600年過ぎだ
>>334 つまり 箸墓古墳≠ヒミコ なのだろう 箸墓古墳はヒミコと同時代的でも 第10代崇神天皇のオバに相当するような存在 >>332 物凄い色白女を沢山見かけるのは部落近く。 近畿以西はかつて東北からの強制移民、俘囚があるにはあった、 まあ短絡的にこれを部落の発祥だと言う気はない、様々な起源と事情で 今日の部落があると理解はしているが、特に羽曳野〜富田林。 隣近所の市町村と比べて明らかに肌の色が違う女が 多い。(男もそうなんだろうが単におれの助平根性で あまり男は観察してないだけだと思う。)オセロの片割れの松嶋みたいな感じ。 堺あたりに行くと色黒の農民顔ばっかりでほんとにああいう色白は見かけない。 ちなみに羽曳野と富田林の間、元PLの私有地の中に、「毛人谷(えびたに)」 という変わった地名がある。当然、毛人=蝦人と推察出来る。 何かしらこの地が東北と繋がりがあったのではないかと思ってる。 日本書紀には年代の間違いや解釈の間違いなど古くなれば数多く出てくるが それでも魏志倭人伝よりかは日本のことに関しては正確に記述している 間違えているのはむしろ戦後GHQの日本の歴史認識 いい加減に気がつけ 神武天皇と神功皇后のくだりと年代は実は正しいのだぞ 干支の暦も正しく理解されてきていた
>>327 そういうのは誰でもどうとでも出来るただの妄想 証拠がないとそうなりますわな 状況証拠が大事なんであって説はどうでも良いという >>316 「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、 な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼 あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、 その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。 仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。 中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、 弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。 奴佳鞮 ぬかて なかとみ 中臣郷 中臣鎌足 中臣郷 奴佳?(なかてい) 中臣郷 奴佳?(なかてい) 漢字も本当はもっと昔から存在していた 実は日本の漢字は殷と同じ甲骨文字から存在する つまりそれほど本当は歴史は古く日本書紀や古事記はああ見えてある程度正確に日本の歴史を書いている
近畿の場合海洋民からの派生ではなく 内陸移住の近江、唐古鍵辺りの貿易から派生している。 そもそもこれらは海に対し山の民としての国として 山戸からきてんだろ。 邪馬台はヤマではなくヤメだからな
獲加多支歯大王 ワカタケルオオキミ 第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ 空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 敷なべて 我こそ居ませ 我こそ告さめ 家をも名をも
>>346 お前はアホか 日本書紀や古事記は天智天皇が自分を正当化するために造ったただの創造物であって史実じゃない なぜ大化の改新前の書物がないのかといえば自分に悪い都合とする書物を全部消したからだ だから魏志倭人伝の方がどちらかといえば正しい 日本書紀には魏志倭人伝の事が書かれている 卑弥呼の存在を知りつつも無視を決め込んでいる これは卑弥呼の存在が日本側としては無視していい存在だったことを示している これが総てで魏志倭人伝と日本書紀をよく読めば 本居宣長のような解釈が正しいとわかるはずだ
日本人と蒙古人には蒙古斑があるが朝鮮人にはない。余ってもって日本人と朝鮮人は違う。 相撲でモンゴル人に違和感がないのは、尻ペタが一緒だからなんだ。
>>342 クマソというのは、クマとソの二部族だったらしいな。 クマ=狗奴?=熊本(人吉盆地)? ソ=阿蘇?? 両者、熊本県と鹿児島県の県境辺りだとする説があるようだが、 熊本と阿蘇と考えると、名前の上ではしっくりくるなw >ヤマト王権 「卑弥呼」「邪馬台国」、、、とは異なる王朝の話ですね。
>>352 アホはお前だ お前のようなバカがいるから今の事態が長引いている よくいるんだわ GHQ主観を元に日本書紀は捏造だと言うやつが そんなのを言い出したのはこの日本の長い歴史の中でGHQだぞ 一番の歴史の捏造をしているのはバカのお前だ >>357 お前がアホだ なんで大化の改新以前の書物が一つもないのかよく考えろアホ >>355 あきらかにこれ↓ ●免田式土器の分布 熊本県を中心とする南九州に分布する。 150ヶ所で発見されているが、熊本県は95ヶ所を占める。 特に球磨・人吉では30ヶ所あり免田式の本場であることが推定される。 県外では、北九州の行橋市、鳥栖市、八女市、武雄市、 また南は沖縄本島、具志川市でも発見されている。 アホは大蛇とか土蜘蛛の様な妖怪が実在したと信じてるからな。 記紀なんてそもそもドラゴンボールにも劣るラノベだからな。 7世紀以降の近畿人に3世紀以前の列島の歴史は存在せんよ。 何故なら近畿が渡来人派生だからだ
クマソってのは多分球磨祖だろ まあ多分球磨を中心としてそこで生活する団体 まあ実際にどこにあったかは知らんけど今も球磨が残っている九州が有力だろう
普通に考えりゃわかるが ・邪馬台国 ・卑弥呼 ・稗田阿礼 ・蘇我馬子・入鹿 こんな名前をつけるわけねえだろ これらは全て劣等の対象としてつけられた名前でしかない
>>343 >>358 お前アホか 古墳から鉄剣が出土してるぞ >>345 縄文人は、先住シベリア系と、渡来した東南アジア系に分けられ、 弥生人は、華北系と、おそらく東南アジア系の混血。 縄文シベリア系なら色白の筈だ。 西日本では縄文人の人口が少なく、弥生人に圧倒されたようだ。 西日本では、弥生>>東南>>シベリア というような、順に征服・被征服の 順列があったのかもしれんな。ちょっと悲しい。 >>358 まじでバカがうるさいわ 大化の改新前にも書物は存在したろ ただ現物では残っているものが少ないだけだわ、ボケが 日本書紀や古事記でも引用元をちゃんと記載しておるだろうが GHQの犬のごときが日本の歴史を語るなよ >>362 三隈川とかいかにもあれな名前だなあ いやいい意味で 球磨 熊本 クマモン 「あんたどこどこさ♪ 肥後さ 熊本さ・・」
>>362 あきらかに古代、集団で大分あたりから京都に移住してるよ(秦氏??) 京都弁 おおきに 大分弁 おきに 隋書には阿蘇の横にヤビタイは有ると書かれており 白村江以来近畿勢力が大陸王朝へ邪馬台が近畿だと嘘を吹聴していたことが唐書には書かれている。 近畿にあったのは邪馬台とは別の豪族
山東半島の先端に狼邪台という海を見渡せる高台が有る 何でも徐福が、その地から経ったとか 狼邪台と邪馬台、何か共通性が有りそう
日本書紀でも記事の捏造はあるのだが バカGHQの犬にはそれもわからんだろ 話しにならんほどのアホ 日本にはGHQの版の歴史研究者なんて必要ないわ ほとんどが妄想ばかりだしな いる意味ないだろ
>>367 だから証明する書物全部燃書して歴史を捏造したのが天智天皇だろうが 何を言ってんだ >>366 部落の源流 単行本 ? 1997/7 高本 力 (著) 我が国の部落問題も解放令発布以来すでに120年になる。 この長い年月が経っても牢固として部落問題のみが解決しないのは何が故か。 東北地方から移配された蝦夷の俘囚を部落の源流とする本格的研究。 移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で 強制移住させられたものである。 カイドウもさあ…(ため息) あんまり変な連中と連携すっと、この日本列島にいられなくなるよ そもそも、部落起源の江戸時代発祥説 これがインチキ 菊池山哉はご存知でしょ? 大雑把に言って、西は別所起源。東は義経追補のための関所が起源 これ最強 若手にもチョンと付き合うことの危険。危機感もってるひとがいるはず 金になるからとりあえずチョンと連携しとこう… これ最悪 日本書紀を正史としなければ運営できない 宗教団体は史実を認めようとしないんだよ。 祀られる神が実は渡来人豪族であったり 天皇とは全く関係なかったりするからな
>>355 熊襲は球磨だと思っているが 熊襲の出現範囲は山口県にも及び 福岡は熊襲テリトリーと皇統テリトリーでモザイクになっており 筑紫平野以南は全て熊襲のテリトリーのようにも見え これは大勢力だ 段々と南に追いやられ 最後に追い詰められたのが球磨盆地のなのかなあと思っている 熊襲は新羅と結んで皇軍に向かい大王を戦死せしめたが そう記述されるだけであって何処まで真なものか 本当に宗教は困るなあ 現実を認識できない 正しいものを正しいと認識できないんだから ピタゴラスは大変だっただろうな
もはや近畿の歴史は捏造でしかなく 現状の近畿抵抗勢力は地域と神社の利権でしか無い。
>>374 だからな その説さえも日本書紀や古事記から出た類推というか妄想なのだぞ 近畿と九州の豪族の両方が倭国の王を名乗ってて どうも近畿のほうが戦力は上で 歴史は九州のが古い てかんじ。 あともしかして親戚?みたいな。 多分強い兄たちたちゆうのが出雲や近畿の豪族で 弱いけど新規にやってきた中国人に味方してもらって下剋上しようとしたのが九州の古いやつ そんで用無しになった時点で征伐された
>>343 >>358 古墳から鉄剣が出土してるから、お前はウソツキ確定 >>12 そんな昔に韓国なんて存在していた訳ないだろ?! >>379 池田犬作ってとんでもないこと言ってるね >大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、二度の原子爆弾の投下をされております。 >一発は九州、一発は広島。日本の国が正法を誹謗した報いです。 (『会長講演集 第三巻』 P290) ____.... /ヾ ;; ::≡=-_ /::ヾ ~~~ \ |.::::::| | ヽ;;;;;| -==≡ミ ≡=-| ━━┓┃┃ /ヽ ──| <・> | ̄|<・> | ┃ ━━━━━━━━ ヽ < \_/ ヽ_/|. ┃ ┃┃┃ ヽ| /( )\ ヽ 。 ┛ | ( `,,' ≦ 三 | ヽ \_/ゝ'゜ ≦ 三 ゜。 ゜ ヽ ヽ \ ≧ 三 ==- \_\__-ァ, ≧=- 。 残念なことに、池田犬作先生が日蓮の生まれ変わりであることはあまり知られていない。 それについてこんなエピソードがある。 昭和52年に池田先生が千葉の清澄寺(日蓮が幼少の頃に修学した寺)を訪れた際、千年杉に向かい 木肌を撫でながら、「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟いた。 ちなみに、この千年杉の樹齢は250年であった。 >>338 邪馬台国畿内説を捨てると、記紀の課題なんかもスッキリするんだけどな。 むしろ邪馬台国を九州に押し付けた方が好都合だったりする。 ただし邪馬台国の東遷や卑弥呼=天照ファンタジー論も成立しなくなるけど、どちらも一切根拠の無い与太話だしね。 魏志倭人伝から 其人寿考 或百年或八九十年 邪馬台国の住人みんなご長寿www かと思えば 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 邪馬台国 太陰暦未実装のお知らせ。 要するに、古代日本(少なくとも3世紀の時点では)には、太陰暦を用いた1年という概念はまだ存在していなかった。 寧ろ神代の天皇の年齢二倍計算の裏付けが、魏志倭人伝にもあった訳だ。 そうすると神武東征は邪馬台国の時代よりも前であった事になる。 皇紀元年が紀元前600年とされるが、年齢を半分にすると紀元前1世紀から紀元1世紀頃に収まる。 九州倭国はまだ倭国大乱も起こっていないのんびりした時代。 宮崎県高千穂の伊波礼毘古さん23歳がサクッと北九州を通過し、本州に上陸。 船をせっせと作って瀬戸内海を東進。紆余曲折あって熊野側から奈良盆地に入り定住。 色々頑張って63歳(それでもご長寿)で波乱万丈の生涯を閉じた。 第14代仲哀天皇の頃、伊波礼毘古さんの実家のあたりが騒がしかったようだ。 >>381 あのさ 普通に考えて当時漢字を使ってたら ・邪魔台国 ・卑弥呼 ・蘇我馬子・入鹿 なんて漢字を権力者である豪族がつけようと思うか? どう考えても捏造でしかない >>384 韓国は半万年前に地球上の陸地全てを統一支配していたんだよ? >>377 第40代天武天皇は 奈良時代の天皇の皇祖皇霊となったのである 記紀は風土記を見ても捏造だとわかる 近畿はそもそも半島へ進出した九州勢力が凱旋し 列島内、近畿へ拠点を移した場所。 5世紀以降の歴史でしか無い それ以前は九州の奴隷養成所だ
>>387 邪魔台国は日本側が名乗った名前ではないし 「ヤマタイ国」ではなく「ヤマト」の「イ国」。 >>4 邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である と推古天皇8年の奈良の都のことを邪馬台国だとちゃんと隋書がいってるし、このときの使者の裴世清の足取りはわかってる >>120 日本国内で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期の 九州の田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧 鉄器も稲作農耕の始まった時期も同じらしいよ 鉄器や稲作持ってる九州の方が有利じゃね >>386 だからなんで 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 が二倍暦になるんだよ それ言い出したのは外国人だぞ そもそも魏志倭人伝は日本の事をバカにし過ぎでこれには軽蔑の念もあるからな 文字もないとか言い出す始末だし それだけ魏の使者が軽く扱われていただけだろうが 方向も距離もで >>392 だから俺はヤマト国に直せとずっと主張しているんだよ 普通に考えればわかるが邪魔台国なんて名乗るわけないだろ あれはヤマトを魏が勝手に邪魔台国に変換して記しただけだ いい加減直した方がいい 九州が勝手に中国から使者呼んで案内して金印もらってみたいにしてたから 近畿の強い兄たちが怒ってコテンパンにしたんだろうね (クソ弱い)のびたのくせに生意気だぞ みたいな。 のびた君は日田の隠喩だったか そう言われてみればあまり一般的ではない変な名前
方向も距離もでたらめな魏志倭人伝をどこまで信仰するのやら 日本書紀では少なくとも地理の矛盾はないからな 未だに外国人の適当な二倍暦を信じているやつがのさばっているのな
>>369 人吉盆地を流れる球磨川の「球磨」がクマ・ソのクマで、狗奴だよね。 >>398 可能性はあるな 現代の山田くんが過去に転生して国を起こしてのちに伝えられたという小説でも書くといい >>393 使者の裴世清の足取りはわかってる ↓歴史学者 考古学者がこれを無視しているのがわからない 又東至秦王國。其人同於華夏、 『隋書』倭国伝 ↑そこにいたのは、シナ人だった 九州東北部の神籠石のある地域だ そこが邪馬台国だ 秦氏の根拠地… 隋書倭国伝 彼 裴世清が見た「夏人(シナ人)」の国とは 卑弥呼の居城、福岡県の京都郡の神籠石 御所ケ谷のことな 卑弥呼以後、新羅文化の流入が大きくシナ人化したようだ 裴世清からみればシナ人とみえておかしくない 5-6世紀に建設された神籠石と3世紀の邪馬台国とは関係ないとの反論もあるが、200-300年程度で国(国邑)の配置が 大きく変化することはないし、神籠石が5-6世紀に建設されたとする根拠も希薄なものである。 >>395 >>399 日本書紀はだいたい正しい 魏志倭人伝よりかは正しい 魏志倭人伝は距離も方向もでたらめで何一つわからない しかし日本書紀に関して言えば地理のことはほとんど理解できるし 年代に関してもだいたいが正しい 二倍暦はそもそも外国人が主張し始めたことで 彼は魏志倭人伝の事も日本書紀の事も理解していない だから両者に存在する共通点も全く理解できずにいた >>401 邪馬台国スレではもう常連のネタだぞ 知らんか、、、 助けてドラえも〜ん ポッパッパッパ♪ じゃーん!金印!馬コプター!! みたいな。 で、兄たちとコバンザメスネ夫がやってきて なんだよ、のびた。いいもん持ってんな俺にもよこせよ って。 あれ?でもナガスネヒコって… 用無しで消されたクマソは…
>>395 邪馬台国には暦が無く、ただ春に苗を植えて、秋に収穫している。 と書いてある。 軽く見てるとかではなく、太陰暦がまだ導入されていなかったと言うことがわかるだけ。 >>378 なるほど。だんだん追い詰められたのか。 倭人は、博多方面から侵入したんだろうけど、 筑紫平野を奪うのは、なかなか大変だな。 半島との交易で鉄器があったのが大きいんかな。 歴史はどうでもいいが邪馬台国とか卑弥呼とか言う名前を使い続けてるのは全く良くない 当時日本には漢字がなかったんだからそれは魏が勝手に漢字で当てはめただけ ヤマタイコクとかヒミコにしろ まあ漢字にするなら大和国もしくは大和大国と姫巫女もしくは日巫女だ これは結構重要だと思うぞ 何で未だにそんな漢字を受け入れてるのかが謎だ
弥生の集落と古墳時代の豪族が繋がれば 邪馬台国が何処どれが天皇家とかどうでもいいんだけどな それには古墳史跡のDNA分析が不可欠 中世も弥生も分析進んできたのに古墳時代だけやらない理由はわかるよね?
山と田んぼのある国だったから山田にしたんかね ヤマトに響きも似てるし 奈良の古い地名だし ヤマティみたいな古代縄文人の言語が後世の方言でヤマトとヤマタに分かれたのかも ヤマト大国とか自称してた可能性も 大和だし。 小さい倭じゃなくて。
>>409 発音も正確に分からないから、 資料にある漢字を書くしかないんだわ。 嫌な字だが。 近畿が栄えてくるのは古墳時代から 弥生時代では九州の方が優勢 魏志倭人伝では倭国には鉄鏃があったとされるが、鉄鏃は九州北部で出土するもので奈良ではほとんど出土していない 鉄剣や鉄矛などその他の鉄器も九州北部での出土が圧倒的に多い
>>414 だからカタカナでいいと思うんだわ 当時日本には文字がなかったんだし まあ漢字にするなら大和国と日巫女がいいかなとは思うけど 中国側が勝手に卑下して名付けた漢字をありがたがるとか愚の骨頂だわ >>409 卑弥呼は日巫女 これは同意 邪馬台国は大和大国ではなく山大国だと俺は思ってる 貴殿の言う通り名前は大事 >>403 608年の都はどこだと思ってんの? あと、秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦 >>407 魏志倭人伝のいうことを真に受けるな それにどうみても魏の使者が見たのは日本の田舎だぞ ちゃんとした待遇はされていない 卑弥呼も死んでいるし 暦に関しては精度は低いが干支は昔から存在していた 魏志倭人伝の使者がでたらめな方位と距離を教えられたように魏志倭人伝の中身はかなり嘘が多い 卑弥呼と同じで日本にとっては油断ならぬ国の使者だったと考えるほうがいいのでは? >>410 大山古墳の発掘調査は進んで入るの池だ金 VIDEO >>418 いや山大国だと中国語としておかしくね だって山って日本語だけど大国って中国語だよね 名乗ったのが多分ヤマト でそれを伝えた結果ヤマト国もしくはヤマト大国になったと考えた方が自然じゃねえかな? まあ俺達にはそれを調べようもないが そもそも魏志倭人伝は中国から見た日本を書いている 卑弥呼や邪馬台国でもわかるようにその使者たちの日本に対する蔑視が含まれる内容になっている 方向も距離も都市名もでたらめ これが真実 昔は地図を国外に持ち出すことは禁止されていた 日本の当時の高官が使者にでたらめを教えていたのは言うまでもない 軍事上の機密だからな
弥生時代はまだ馬が数が少なく一般的ではなかった 魏志倭人伝にも倭国に馬はないと書かれている しかも道は藪だらけで今のように舗装されていない その状況で近畿から九州北部までの統一国家があるというのは無理があると思う
>>390 伝承は他の伝承のイメージから土地柄やその地位など都合に合わせますから、各地各人の伝承に差異がでるのは当然ですな。 そこで捏造という王権としての高度な政治解釈が行われるわけですが、現在でも通じる統治上必要な事なんでしょう。 その高度な統治捏造には現在の韓国を見てわかるとおり基本的に統治基盤というものが有ります。 その時代時代の統治基盤を理解した上で記紀を読み解く必要がありますな。 倭人伝や風土記などが記紀を読み解くために重要であるのは当然ですが、その差異に付いては考古学上の発見でなんらか知る機会が得られるでしょう。 それでも日本書紀や古事記と魏志倭人伝には共通点がある 時期も神功皇后の時代で間違いない 正解に近いのは本居宣長
ヤーマっていう可能性はあるかな でも当時のこと考えるとおそらくヤマタイコクという名前では対応してないと思うんだよな あくまでも魏志倭人伝に残ってるだけだから ヤマってのもないことはないだろうけど国としてヤマと付けるかねえ まあ山に住んでたなら可能性はないことはないだろうが 山の民族ですとか言ったりして でもそれ国じゃねえよなあ
文献が少ないから自分の説を真実かのように力説するだけのスレ
魏の使者が見せられたのは日本の田舎だけ だから文字もなく暦もないと勘違いした そして魏志倭人伝に書かれている内容は実は半分は嘘となる 事実、方位も距離も明らかにでたらめなのだから 案内する方も日本の主要都市は見せないようにしたと考えるのが妥当だ 軍事的機密を守るため それを支持したのは間違いなく武内宿禰
>>3 日本は島国だからな 独自のDNAや歴史、民族文化を形成したのはこの地理条件であり 国体はこの地理条件によって作られていると言っていい そう考えるとヤマトってのはたかだか2000年前に起こった日本の歴史の一部でしかない 弥生時代の鉄鏃出土数 福岡県398個 奈良県4個 弥生時代の鉄刀出土数 福岡県17本 奈良県0本
googleeathとかの航空写真で、 中世や古代の日本を見れたら面白いだろうなぁ
つうか普通に宇佐神宮に案内されたんじゃないのかね 魏の使者は。 九州だけでは行程が余るなら伊勢神宮もとか
>>426 事実に虚を織り交ぜて重要な事を隠すってのはよくあることだろ 重要な書物に偽の情報がまぎれているのであれば本当の話は残ってないと考えた方がいい そんなのは誰でも考え付く話だ 日本書紀とか古事記なんて神話レベルで考えた方がいい このスレにもアホがいるけど日本書紀なんか信じている奴は頭がおかしい >>409 姫巫女、日巫女、どっちも間違い。 「み」は敬称であり語中に来ることはない。 姫の語源を考えるべし。 >>164 現実↓ 日本のコメは温帯に適応した品種 弥生時代に300年も青森で稲作の痕跡 沖縄では古代に稲作をやっていた痕跡が全くない 稲作は10世紀以降からとも言われる 面倒くさいから黒猫を飼っていた、という文献がでてきた方を本家にしよう
魏の使者も 北九州の女王ヒミコが統率する邪馬台国は目撃したのかもしれない しかしそれで 第10代崇神天皇の大王家収める磐余の地までは行ったのかどうかについては?
>>437 アホはお前だろうが 日本書紀なしでどうやって日本の歴史を語るのだ? ヤマトの基礎は20世紀だと思うけどなあ(´・ω・`)クロネコ
>>427 100年ぐらい違うんだが誤差の範囲か?w >>438 俺のは推測だからな 卑弥呼という漢字がおかしいて言ってるだけだ カタカナでいいと思うけど漢字にするならそれがいいんじゃないかと言ってるだけ カタカナならお前も納得だろ? 少なくとも卑弥呼という漢字は今すぐ辞めた方がいい 九州説にしがみついてる奴は頭おかしいのがよく分かるな
>>443 捏造を元に語ってもしょうがないだろ 重要なのは正しい事実だ 疑わしい日本書紀や古事記を基にして話しても意味がない 1+1=3だという論理を元に計算しても正解は出ないのと同じ 分からないものは分からないだけだ 知ろうとするのはいいが捏造を現実にするのは間違ってるよ そんなことしてたらあの国と同じになる >>408 追い詰められたか東に伸ばして大和に達したか 記紀を読めば追い詰められたと考える他にないからね 免田式土器はレベルが高いが九州の外に広がることはなかったしね 外から見れば知らない別の勢力別の国だった 前史時代だからだろ 帝権だと完全に別な意味になるし 独自の古い時代を想起しておきたいんだよ
クロネコヤマトの宅急便 親猫黒猫が子猫黒猫の首根っこを咥えて運ぶマーク ニャンニャントラックである
箸墓古墳を調査すればいいのになぜやらないの 殉葬者が出てくれば卑弥呼の墓の可能性が高い
>>448 真に受けるのもアホだが、ほとんどのエピに元ネタがあって そこに朝廷の都合の良いバイアスが掛けられてるわけだ だから全く記紀に当たらなくなるのも同等にアホ 入鹿はまだありだけど馬子はやっぱねえなあ 豪族の子供にこんな名前つけるか? どう考えてもおかしいわな
>>447 >參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝) 一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島内以外にはあり得んだろ 近畿説とか頭おかしい 倭人在帶方東南大海之中、依山?爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ >>445 よかったんじゃねーのか? 100年まで誤差が縮まって >>1 伊勢神宮の外宮は 第21代雄略天皇が設営した >>69 地方自治体に過ぎないのにわざわざ魏に朝貢したのか 沖縄みたいだな >>453 俺は全て虚実記載だといってるわけじゃない ある程度の真実は含まれてるだろうしおそらくその大半は正しいだろ ただそうだということは重要な部分はほとんど偽者であると考えた方がいい 重要な事実を隠すときにその他の真実を伝えるのは有効な手段だしそれで重要な虚実を疑わなくなる まあ信じるのは自由だけどな 俺はそんなの信用しねえよ 信用できるのは大化の改心以降の歴史でそれ以前は捏造された可能性の方が高い >>408 広大な筑紫平野の争奪は熾烈で吉野ヶ里は最前線のような時代があったと思われ 福岡と熊本の鉄鏃の出土数は突出している 肥の国が筑紫の国で分断されているのも何かの痕跡を思わせる >>460 その頃日本は1枚岩じゃないんだろう。 タケルが九州まで征伐に行っとるやろ。 >>164 沿岸航法なだけだろ 黄海経由でないと東シナ海越えられんやろ 魏志倭人伝信者は特定の書物にしか目を通さんからな だからいろいろなおかしな矛盾点には気がつきもしない
>>462 邪馬台国は狗奴国と敵対してたというから、福岡=邪馬台国、熊本=狗奴国なのかな だから福岡と熊本の鉄器出土数がずば抜けてるのじゃないかと >>462 変だなと思った場合はだいたい地形を探るとわかるというパターン 要は筑後のあたりが水没してただけじゃね >>420 暦一つで何をそんなに必死になって否定してるんだ? 暦の概念があったとするなら、邪馬台国の長ご長寿も事実なのか? 書いてあることを、否定し続けるなら、邪馬台国も否定しといたら? ここの魏志倭人伝信者はもう少し日本書紀とその周辺調べ直した方が良い 外国人の考え出した二倍暦なんて論外な きっと思いもよらなかった事実を目の辺りにするはずだから
>>465 そりゃお前のことだろう 魏志倭人伝は逸話みたいなもの まあ事実を書いてるんだろうけどあくまでも使者の話を伝えたものでしかないからな 日記なら別だけどあれは魏国による記録でしかない 日本書紀や古事記は創作物語で神話のようなもの ただそれだけ ここの魏志倭人伝信者はもう少し日本書紀とその周辺調べ直した方が良い 外国人の考え出した二倍暦なんて論外な きっと思いもよらなかった事実を目にするはずだから
たぶん、肥前がほぼ島もどきなんだよな、むかし >>463 他のクニも中国に行って権威付けすれば良かったのにな 奈良の大和はニューヤマト 新邪馬台市とか畿内邪馬台市みたいなや感じ
>>474 弥生時代の海岸線みると面白いよね 近畿だと弥生時代は大阪はほぼ水没してて、奈良にはでっっかい湖ができてる 奈良の4分の1くらいの大きさ そのでっっかい湖の沿岸部に遺跡が集中してる >>472 日本書紀でも神代紀として神話部分と歴史は分離させておるだろうが あとは干支を暦として時期と事件を記述している お前が日本書紀を読んでいないことはわかるが お前の独自解釈を日本人に押しつけるな GHQの犬が日本の歴史に口出すな まじでうざいわ >>477 推定地形図みたらわかることおおいよね 今の地図見て話してたらずれる気はする そもそも大化の改新前の出来事も明らかに正しいんだけどな 魏志倭人伝信者にはそんな事すら理解しておらんのだろうな 日本書紀抜きで日本の歴史を語るとかバカとしか言うことできんわ
さっき、グレートトラバース観てたら、高千穂の峰に赤土が見えたわ。 倭国の山から採れ、邪馬台国のひとが体に塗っていたという朱丹はこれのことだと思ったわ。
>>474 有明海は自然の堆積や人為的な干拓で沖合陸化していった歴史があったんだね 失念してた >>477 奈良湖があって大和川のある箇所を人為的に掘り下げて排水して陸化させたとかそういう説もあるね >>443 倭猿ロイヤルは魚類の子孫だったのかwwwww 奈良湖というか 浅い湿地ね 雨季の洪水のときだけ現れる いまは河川改修でなくなった
「ヤマト」とか「ワ」てのは今で言う「国」ぽい意味合いだったて解釈はダメなの? 統率してくると必然的にそれぞれヤマトを名乗り出すとか
>>490 ヤマト ⇔ ミナト ・・ト(戸(=門)) = クニの婉曲表現 ワ = ヽ('ヮ')ノ = 我ら = 日本語話者が自らを指す語 >>495 女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、 人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。 復(ま)た国有り、皆倭種なり ←関西人 近畿のこと 又有侏儒國在其南 ↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ 石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい 江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある 横山やすしの母方の故郷 我ヶ国 = ワヶ国 = 倭国 わ =自分/自分達 ・・・単数複数の区別がない
埼玉と群馬県の辺りにあった日本国について誰か詳しく教えてくれる?
>>1 >ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった これはたぶん正しい >ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか 時代は正しいと思うが邪馬台国とは無関係 なんかいかにも邪馬台国が纏向の前身のごとく話してるけど これはあまりにもお粗末 石野先生と一緒に纏向を隅々まで調べた関川先生は ハッキリと卑弥呼邪馬台国とは無関係と言っておられるのに ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を 九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。 その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。 「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。 −邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは? 古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。 「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。 これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。 「全体をうまく説明できるのか」が大事です。 −具体的には? 考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。 「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。 弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。 「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。 全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。 最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。 私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、 奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。 −纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。 纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。 しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。 C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。 畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。 またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。 −卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう? これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。 日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。 「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。 もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。 おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。 −里程の問題からは? 帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、 同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。 記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。 とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。 全文 http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる リーベン(北京官話の現代シナ語の日本) イ、イ、委だよ ポイントは 2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝 地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝 「漢の委の奴の国王」 わ な ↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます 金印は当然、政庁におかれた 皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない 印文のルールとは、二段国名が取られていたこと 三段国名の例があったら教えてもらいたい ないだろ?? 畿内厨…
天皇は律令導入にあたって中国をマネて制定したもの 古事記にあるそれ以前の歴史は都合よく修正された神話であり後から創作されたもの 正しくは大王であり大王時代は血が入れ替わり支配していた 無理やり当てはめているので寿命も合わない
>>500 群馬県って北センチネルと双璧と言われる未開の地じゃねぇか そんなとこに日本は無い(キリッ >>507 古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962 おもしろ歴史話 法隆寺移築説 宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる尺度の 歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。高麗尺で作られていて、 当時奈良に都がなかった為に他所から移築と ↑法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された >>501 魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の状況を見れば、 (方位とか距離の記述じゃなくて、国の政治状況の記述。) 邪馬台が奈良かどこかに権力を奪われた状況だと分かる。 それなのに、なんで邪馬台=奈良って信じ込もうとするのか、 もう病気だわw 遺伝学、言語学、等々、最近の知見を併せて考えれば、 自ずと結論は見えると思うけどね。 こういうのはそういう解釈もできるという口調の方が断言されるよりもよほど信頼できる気がするわ
>>507 圧倒的な真実に古いも新しいもない 真実はつねに新しい… 「聖徳太子」はいなかった 藤原不比等によって作り出された架空の人格 20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。 地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。 古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962 おもしろ歴史話 法隆寺移築説 宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる 尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。 高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と 新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。 今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。 >>620 時期、伽藍様式が法隆寺に同等なので 大宰府の観世音寺はそんな次元じゃない 法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致 ← 法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された 鳳山社 , 1962 ← 長生きしてれば九州王朝に賛同したはず 邪馬台国に対する下賜品が書かれていて ー鉛丹というのは法隆寺の壁画なんか描くときの原料として、 密陀僧に使われています。 小林行雄先生の「古代の技術」によりますと、これまでのところ 鉛丹・四酸化鉛は法隆寺以前はどうも見つかっていないのですが ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ そういうものを各50斤もらった。 米田良三『法隆寺は移築された─太宰府から斑鳩へ』一九九一年、新泉社刊。 出雲や九州が先進地だったんだから、大陸や半島に近い日本海側にあったんじゃね? その後流れ流れて畿内に定着
そもそも中国に迎合したポチ豪族でしかないのに、当時の日本イコール邪馬台国という風潮
>>515 そんな生易しいもんじゃない 九州勢力(神武)の得意技→ 人間狩り(生口) 近畿の銅鐸勢力の反応 → 高地性集落 ←人間狩りからの避難所 神武の東征、じっさいには150年くらいかかかってる 神武→ ヤマトタケルと同じ象徴的な人物 何人かいた 捕虜の銅鐸勢力をこきつかって作りまくったのがあの壮大な古墳群 ↑こういう真実に目をつむり、「畿内説」!!! 滑稽すぎる!!! ↑先祖が奴隷としてこき使われて「畿内説」!! 憐れすぎる!! 悲しすぎて涙が出る 日本の恥 「近畿説」 ↑九州勢力=邪馬台国ではない 993 :日本@名無史さん:2015/01/06(火) 14:22:20.66 >>990 この高地性集落図は、邪馬台国が福岡から川を南に 移動した所にある証拠になりそうだな。 奈良盆地に行ってみれば分かる 四方を山に囲まれているということが、為政者にとってはどれだけ安心できるか 特に侵略者に追われて逃げ込んできたなら尚更だ まさに「山戸」 特に矢田丘陵なんて、佐保川沿いを歩くと、引き戸が動いているように見える 山戸を実感するひととき
この研究所の近くに住んでるけど、ヤマトって書かれると柿の葉寿司しか思いつかんw
>>514 神様が東征してきて、いきなり神代から人代に変わるw 要するに西にあった権威(九州やまと(邪馬台))を亡ぼして、 これを神格化し、その権威を奈良が簒奪したということだわな。 古語辞典によれば山(やま)處(と)で山處(やまと)だな
邪馬台国=ヤマト王権=飛鳥時代 と繋がるのなら邪馬台国の有った場所はやっぱ畿内? 九州邪馬台国だと前後が無くて 突然邪馬台国発生! 突然邪馬台国消失! だものなぁ
ジャ ップの歴史書信じてるのジャ ップだけだからなあ
>>24 李氏朝鮮の頃となにも変わってないな 貴族と奴隷だけの国 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。 畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。 渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。 渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。 2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。 仲良く共存し混血していったんだろう。 神武東征前のヤマトの記述。 ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。 温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。 そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征。
巻向勢力に勝つために 九州勢力が魏に朝貢したんだろ。
>>521 欠史八代といって崇神天皇より前は実在しないというのが今の主流の説。 神武の東征も結局は天皇(か豪族)の伝承を元に作り上げた話だと思う。 もちろん九州から奈良へと移動してきた伝承があったんだな。 ヤマト政権の前は倭国大乱、それ以前に男王が治める倭国があったとある。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡 政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう 中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。 おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。 面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。 神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。 伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。 夜の食国を治めたのは月夜見 農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
卑弥呼の時代より以前から奈良を中心に古墳文化が広がっていったのは確実なんだから 奈良を中心とする巨大勢力が西日本を統一し大和王朝になったのは間違いないでしょ その勢力が邪馬台国とどうかかわりがあったのかなかったのかは解らないが
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。 纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。 記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。 畿内征伐によって誕生したヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。 次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。 初期のヤマト政権に虐げられていた、元々の畿内の人々、九州北部の住吉族、関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。 神功皇后応神に該当する時代。 記紀や各地の伝承。 忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。 神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。 纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。 全て牛というキーワードが共通する。 同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
ヤマト王権は朝鮮半島南部が由来ですね 西日本の進出に成功したので日本から朝鮮半島南部までいわゆる倭人の領域になったんですね 倭はワレが元になってると妄想してみた 河内弁とか色濃く残ってるからね
また在日が朝鮮人とは何の関係もない日本民族の出雲族達の国の百済新羅の歴史をヤマト王権と絡めてデマを流す 日本本来の日本民族の真実の歴史 邪馬台国の歴史の真実は別に九州説や近畿説でもない それ以前に朝鮮半島は出雲族の日本人達の地で朝鮮人達は全く存在してない 最早全ての朝鮮自体の歴史が嘘 その当時は朝鮮半島でなく言わば日本人達が住む出雲半島 実際は朝鮮人達は12世紀末から朝鮮半島に住みだしたシベリアエベンキワイ族 本来の日本民族の歴史は古くからヘブライ文化で神道と神代文字など全てが弥生人ヘブライ人からのもの 例えば邪馬台国自体ヤマタイとは読まずヘブライ語でマタイ即ちマタイコクと読む 大和王権と邪馬台国はそもそもルーツが違う 元は同じ民族でありながら別れた同じヘブライ人達 メソポタミアから別れ西アジアに移ってエジプト文明に関わったりイスラエル王国を築いたユダヤ民族 そのユダヤ民族のユダ族こそ邪馬台国の民 そして大和王権の民こそメソポタミアシュメールの末裔 邪馬台国の民のユダ族が先に海ルートで日本へ沖縄を経て渡来 だから今も沖縄の人達はユダ族の末裔で地名もユダ族に因んで残っている また物部氏の末裔であり物部のニギハヤヒが沖縄の人達の神武天皇であり ニギハヤヒの兄ニニギの子イワレピコが神武天皇でないことを知ってるのはその為 その沖縄のユダ族こそ九州や四国へ渡った邪馬台国の民達で彼らが遊牧民であるからこそ移住する 今の四国剣山にはユダ族の儀式やゆかりのイエスキリストのものがあるとされ 現在アメリカのGHQによりアメリカ博物館へ保管されている また大和王権の民でシュメールの末裔である大和の民は中央アジアからチベット四川を経て中国で秦を建国 始皇帝自体がヘブライ人でありメソポタミア文明そのままに中国へ文化を持ち込む その後15年で秦を捨て中国東北部から朝鮮半島を経て日本へ陸ルートで渡来 その頃には中国東北部から朝鮮半島に多くのヘブライ人達が住み着き日本との関係が深くなる その彼らシュメールの民の兄ニニギの子イワレピコ達こそ大和王権の現在言われているイワレピコの神武天皇 先に海ルートで日本へ渡来したニギハヤヒ達と陸ルートの兄ニニギの子イワレピコ それぞれ出雲の戦いで大和王権が誕生する そもそも邪馬台国は馬台と書きマタイと読みヘブライ語でマタイの国という意味で 邪馬台のヤマタイをヤマトとは言わないでマタイという マタイ自体がキリストの十二使徒の一族という意味 すなわち邪馬台国の民はキリストの十二使徒の一族で海ルートから日本へ渡来したユダ族の末裔たちのこと 邪馬台国の民は言わばキリストの十二使徒の一族の国という意味でユダ族の国ということがわかる だからこそ四国剣山のイエスキリスト伝来の話につながっているわけで中国の魏志倭人伝で漢字で邪馬台国と記す これが事実 ちなみに大和のヤマトゥはヘブライ語で神の民という意味はよく知られいるが ヤマトとマタイは全く意味が違う もし邪馬台国が大和の民なら中国の魏志倭人伝に大和国と記すはず それが邪馬台国と記している以上邪馬台国と大和王権は別もの だから魏志倭人伝の邪馬台国の場所の案内が記すように何度も海を渡り四国ほどの大きさの島 すなわち九州の大きさではない四国に邪馬台国がありと記す そこは魏志倭人伝の記す邪馬台国の周辺には四国のほか九州や中国地方近畿地方など100余りの国に囲まれている それこそ九州説や近畿奈良説とは別もの 何故なら大和王権ではないから
>>507 古事記、日本書紀と言うのは、帝紀、旧辞をまとめ直したもの。 旧辞に至ってはそもそも口伝説もあり、文書としての存在が不確か。 それでも、記録を頼りにまとめたものを、そう簡単に都合よく創作だと考えるのは陰謀史観という。 >>540 卑弥呼の時代よりも前に作られた古墳って何かあったっけ 箸墓古墳ですら3世紀後半とされてるけど >>537 守山伊勢遺跡の年代特定は良く知らんが、 お伊勢さんへは、斎王への貢物で諸侯が近世でも 行ってますから、その辺が古くからあったかも知れませんね。 それ以外に五十鈴姫の伝承とか、伊勢路のウダで食の神の話も 聞きますし、磯城軍の食道を絶った神武の戦略話も気になりますよね。 ヤマト王権がいきなり力を持ったのは渡来系氏族の影響かね その前の唐古・鍵遺跡自体渡来系が強かったはずだが
つまり邪馬台国は近畿以外に存在し、国が変わったということ? 神話にある、大国主の国譲りが真実だった?
本居宣長も邪馬台国を大和と読んでいたのに、卑弥呼は熊襲の女酋長とか言い出すからややこしいことに
>>542 国力を考えても兵站を考えても九州から畿内まで制覇するってのは考えられんけどな 畿内まで補給を続けるのは至難の技 一国一国落としていって従わせながら行くには長い年月がかかるし 巨大な勢力側が威圧して従わせて行くなら話は別だが 九州勢が降伏し交流を持つようになってから土器とかが流通するようになったんじゃね >>546 稲荷山古墳の鉄剣では、文字がないと言われる時代の 7代前まで記されてわけですから、戦前と同じで w 九九のように伝わったんでしょうね。 そもそも日本ゆかりの斎王の斎や金や李や朴は元々中国の王から異教徒のユダヤ民族に許された名 斎王自体がヘブライ人の血を引く王な訳で沖縄のヘブライのユタ族の末裔であることを意味する だからこそ日本に渡来したヘブライ人達こそが渡来系弥生人達なわけでシベリアエベンキの狩猟民族の朝鮮人達ではないことは明らか
伊勢遺跡は近江。ここも但馬同様天日槍伝説がある渡来人地域だな 青谷上寺地遺跡なんかみると、新しく来た天日槍と元からいた勢力の争いが倭国大乱だったのかもしれない
>>519 九州北部の飯塚盆地がそれだよね 広くて肥沃で昔から平野 たまに文字史料も発掘されるから 邪馬台国の時代のそういうのも発掘されないとも限らない 現状だと鉄剣の文字や風土記や中国の歴史書を参照してという感じだな
邪馬台国との関係があまりにも希薄だから謎なわけだが、 必ず邪馬台国という言葉を添えるあたりに考古学者の 捏造癖が潜在していると疑わざるを得ない。
>>550 そんな余裕無いニダ 城を守るのに全力ニダ 14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。 59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。 73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。 123年 春三月に倭国と講和した。 158年 倭人が交際のために訪れた。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) 193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。 208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。 232年 夏四月に倭人が金城を包囲。 233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。 249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。 289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。 312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。 344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。 345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。 393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。 402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 405年 倭兵が明活城を攻める。 407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。 408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。 倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。 ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 そんなどーでもいいことで、メシ食って行けるって・・・ いいねwww
>>557 アメノヒボコが来たのが垂仁天皇の時で、それが倭国大乱だったらそれを 収めたはずの卑弥呼にあたるヤマトトモモソヒメはそれより前の考霊天皇 皇女だってのが矛盾しないか。 >>562 単なる話題作りというか予算獲得の涙ぐましい努力ですよ 結局邪馬台国自体がイスラエルの古代ユダヤ民族のヘブライ人達で海ルートで沖縄を経て日本へ 大和王権自体がメソポタミアのシュメールのヘブライ人達でチベット四川を経て中国の秦を建国した後15年で秦をすて日本へ 朝鮮半島を経て陸ルートで日本へ渡来したのが神武天皇の血筋の大和王権 民族は同じヘブライ人達だが邪馬台国と大和王権は全く違うルートから来た渡来人達 彼ら同じヘブライ人の弥生人達だが結局元々住んでた場所がイスラエル王国とメソポタミア 全く違うのと全て来たルートが違うことから時期が全く違うわけで 何故邪馬台国と大和王権が同じ時期になるのか 本当残念だが全て辻褄が合わない嘘 いい加減な在日考古学者自体日本の古代研究など辞めさせないと 朝鮮人が弥生人在日達がデマ振りまくのと同じでただ単に嘘を振りまくだけ
明治皇族を作ったのが伊藤博文だ小室虎之助朝鮮人は利用された
邪馬台国がどこにあったにせよ北九州はない 半島から近すぎて魏書の記載の意味が まったく通らなくなる。南九州か奈良かそれとも他かもしれんが北はねえよ
ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった 奈良判定
ただ単にスレ伸ばす為にわざとコメントでいい合ってるなら真実の結論が出るわけがない こんなこと永遠に続けるつもりなのかw
>>566 神功皇后が天日槍の子孫だから、割とつじつまは合う というか、古事記と日本書紀、風土記でまるで内容が違うから神話はあくまで参考資料だな 九州で興った邪馬台国(ヤマト国)が東に勢力を伸ばし奈良に遷都した、合理的論理的に考えたらこれ以外ありえない ヤマトを邪馬台と記述したシナの官僚が糞すぎる
>>203 ヒという言葉が日であり火であり秀でるという意味なだけだろ なんで日と火を使い分けてたと思うん >>576 東遷があったとしたらもっと前の時代でないとつじつまが合わないんだよな 邪馬台国が大和王権の基盤なら邪馬台国は奈良だね 中国の史書なんていい加減だし
今から15000年前は小氷河期で朝鮮半島から歩いて日本に渡れたらしい。 朝鮮半島は極寒地で人が暮らせず、日本に逃れた。 その後温暖になり、日本から朝鮮半島に人が暮らし始め、任那ができた。 西暦1000年あたりに白頭山の大噴火があった。朝鮮半島特に今の北は人が住める状態ではなかったらしい。 そこで歴史が中断。記録が残ってない。 まだ不明な点が多いからもっと調べてみる。日本の歴史の動きとの相関に興味がある。
>吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り 大和の人たちは奴婢になりました
卑弥呼は朝鮮からの渡来人だった。 DNA鑑定で明らかになっている。
ヤ・ウマトであるヤマトはユダヤ人由来だな。 南蛮町があった九州の言葉にポルトガル語やオランダ語由来の言葉があるのと同じ。
世界に冠たる大日本帝国の始祖が九州のクソ田舎のはずはない 大和国こそ大日本帝国の始まりです。
>>580 >中国の史書なんていい加減だし だよな 中国の史書なんかに頼らないで日本の史書に当たれば 邪馬台国の場所もすぐわかるはずなのに何で誰も調べないんだろうねw 日本人の一般感覚だと、1192年以前の歴史は史実ではなく神話。 学術的に考察する歴史ではなく、推理小説の扱い。 東日本の武士団が幕府を創るまで、日本を小集落の集合体と考察するのが自然。 あたかも朝廷というモノを日本の統一政権と看做すのは、皇国史観に立脚した拡大解釈。
>>585 おう卑弥呼の墓見つかったんだな 全て解決だ 未だに九州説を唱えている奴ってどんだけ劣等感の塊なの?
>>506 存在してたと思うよ 仮に天皇になるにしろ その辺の農民や漁民がいきなり天皇になりましたって事じゃないだろうし それなりのクニの王でしょ >>591 バカをさらすだけ いい加減にしなよ これに対して、この数年間に調査のおこなわれてきた大和古墳群での中山大塚、下池山、黒塚などの前期古墳の埋葬は いずれも木棺を壮大な竪穴式石室で囲みこんでいたし、若い日の僕が発掘に加わった櫛山古墳は石棺を竪穴式石室の おさめていた。 今回発掘されたホケノ山古墳では、木棺の外側に木槨と石室との2重の外部施設を備えていて、 倭人伝が記している倭人の葬法には合っていない。 森浩一「関東学をひらく」より 2001 朝日新聞 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 >>576 何が合理的で論理的なんだ? 帯方郡から1万2000里で邪馬台国 短里で北九州の福岡なのか佐賀なのかに着地させると言う事は 国のスケールも小さくなってしまうという事。 倭国の30国と言うのは、今で言う市町村規模にしかなれない。 九州南部は女王に従わないし、本州の事はよくわからない。 女王国の勢力圏が、福岡+佐賀規模の地方勢力であるという事。 彼らはやがて南九州の熊襲に滅ぼされたんだよ。 卑弥呼とか倭国大乱を抑えるためのおかざりだから 邪馬台国も突貫で作ったものすごく小さい国で 連合国の代表が30人集まって会議する建物とか無いし 他国の使者を向かい入れる施設も無い 卑弥呼の家とそのお世話をする人がいただけ
>>591 歳取り過ぎて引き返せないんだろ ボクの邪馬台国研究時間は全て無駄でしたってのは、到底受け入れられないんだろ >>596 それは畿内説支持者のこと 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 「棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、 「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、 「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、 「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」 などと、いちいち書きわけている。 畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。 邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。 邪馬台国や卑弥呼について、九州人と関西人しか興味を示さない理由。 全国どこの市町村にも古代史はあるし、その土地の有力者が存在した。 ただ単にそれだけのシンプルな事実。 それぞれの地元が、近所のガキ大将が全国チャンプと誇大妄想してるようにしか見えない。
卑弥呼に権力とかない ここで祭事だけやってろや ていう扱い
>>580 史書ならまだいいんだけど 別冊、付録なんだよね それもその中に、極一部数行出てくるだけ 何故か九州説の人は、作者は天才だから間違いわないキリッをやってるけどww 間違ってないなら、そもそも邪馬台国なるものに到着出来るだろとww >>588 いい加減な部分もたしかにあるが、地名の7割が 一致してるってすごいことだよ 2000年まえの本で 邪馬壹と書かれてあるのは3世紀の史書。 7世紀の史書だと邪馬壹ではなく邪靡堆と改められている。 この邪馬壹や邪靡堆という響きの言葉が、倭人に共通した特別な何かを指してるんじゃないかな。 倭種の国々がいくつかのグループを形成していて、それぞれに邪馬壹と呼ぶ纒向の様な施設を設置していたのではないかと思われる。 どこかで「馬壹を以て都とする」という文章を見たけど、この「馬壹」は「邪馬壹」の事だと思うんだよね。
>>602 魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた、支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、そのことがはっきりと書かれているのです。 「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」というのがそれで、意訳すると 「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれているのです。 つまり、九州王朝と畿内王朝は、「どちらもあった」わけです。 >>589 で、各集落国を連絡する古道を作ったのは誰? 倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった経緯 西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火) 西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 西暦182年 『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」 西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」 西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」 西暦184年 黄巾の乱が勃発 西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」 西暦184年 『梁書』によると「卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。」 こうして倭国を救ったモモソ姫が女王・卑弥呼に共立された。
>>589 >1192年以前 今は1185年な >東日本の武士団が幕府を創る 武士団の棟梁は源氏も平氏も臣籍降下した元皇族で 朝廷から官位叙任される これも皇国史観にならないか?w >>602 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。 或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。 或云:日本舊小國、併倭國之地 「旧唐書」945年 「日本国は、倭国の別種」 その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある 東にあるから「日本」と名づけた 「倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、 あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた 九州王朝だった「倭国」とは別に、本州側にも「日本国」があった 銅鐸国であろう 2つあったことはまちがいない >>600 隋書では魏志倭人伝を参考に方向が修正されてるし、文献はあくまで参考資料やね とはいえ、律令時代の地名と割と一致する記述が多い点では魏志倭人伝は貴重な資料 >>607 正確にはこういう内容な。 『旧唐書』倭国・日本国伝 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、 改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、 故中國疑焉。 (日本語訳) 日本国は、倭国の別種なり。 その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は 自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ たが倭国の地を併せたという。 そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ を疑う。 (わかりやすくまとめ) 日本の使者は異なる3つの説明をした。 A 倭国と日本は完全に別の国である。 B 倭国と日本は同じ国である。 C 日本は小国だったが倭国を併合した。 日本の使者はウソをついているようなので 中国は日本の使者の話を信用しなかった。 唐古・鍵遺跡や池上・曽根遺跡が畿内になければ九州説もわからなくもないけど 卑弥呼の時代以前から有力な勢力が居た以上、邪馬台国の時代に覇権国家となり得た国は畿内しかないだろうって思うね それが邪馬台国なのか大和朝廷かはわからんが九州を圧倒する勢力が畿内に存在してたのは間違いないでしょう
纒向から鉄器がでないのは当たり前 連合のおかざりが住むだけの場所に鉄器とかいらない
>>609 『隠された物部王国{日本ヒノモト} 谷川健一 かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」 「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか 物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ 東遷は2回あった 谷川健一がいってるように 大和国→当て字で邪馬台国 日巫女→当て字で卑弥呼→太陽神信仰→天照大神→天皇家 こう考えるのがごく普通じゃねーの?
>>607 或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。 これが事実なら2つあったことにはならんけどな。 >>602 現代の中国語でもこんなに音が違うよ コカ・コーラ → 可口可楽(クコクラ) アインシュタイン → 愛因斯坦(アイインスータン) ケンタッキー → 肯コ基(ケンドァージィ) >>609 >日本の使者は異なる3つの説明をした。 別の国でも統一して 一つの同じ国になった という説明で矛盾なくつながるがw >>584 吉備、出雲、伊勢とヤマト盆地の南東勢力は同族なんですがねw >吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか 概ねその通りだと思うけど出雲の人達はあまり関わってないと思う 邪馬台国・纏向やその後の大和朝廷に出雲系の痕跡はあまり見いだせない 邪馬台国の文化的構成要素は「吉備、河内、摂津、近江、播磨、讃岐、阿波」がメイン 出雲の要素は吉備を経由して間接的に用いられてる形 後の史書や考古学的状況を見ても出雲はかなり初期の段階から徹底的な干渉を受けて消滅に近い状態で衰退してる
>>20 そう、必ず この手のスレ が立つ。 工作員が必死‼ もうバレバレなのに。 ( ´,_ゝ`) 攻め滅ぼしたんでなく臣従させたから 天照大神を奉る伊勢神宮も 「私たち天皇のために頑張ります」 ってホムペに書いた
古書読んで議論してもケリはつかない 宮内庁よ許可出してくれ 全部発掘しよう 箸墓は盗掘されてるような気がするが
科学は残酷だよ。 歴史学者や考古学者が あーだ こーだ喚いても 人ゲノム解読で完了する話。 ( ̄ー ̄)
>>623 何処も盗掘されてるよ 何千年経ってると思ってんの >>615 普通の日本人の感覚ならBの「倭国と日本は同じ国である。」が正解だね。 おそらく『中国様が考えてくれた「倭国」という漢字が雅ではないから日本にした』という 事実を言うと殺される可能性があるので 日本の使者がびびって話が二転三転してる >>607 なるほどね、倭国から見て日の出る所かあ。 >>628 そういえば纒向遺跡には住居が無いと聞いた。 九州の邪馬台国が倭の訓読みヤマトの起源 畿内の大倭日高見国が倭の雅称日本の起源
万世一系の男子が皇位継承って言い張ってるから 歴史のはじめから倭の国の簒奪から開始してたり 権力闘争で他家の血を引く大王や臣下を殺害して入れ替えてる話とかは あんまりさわりたくないのだろう
>>629 倭国とは、倭種の国々の総称でしょうよ。 >>626 近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ? これこそ東遷の証拠じゃねえか おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う? 九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定) 〈1〉岡山市・造山古墳 〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺) 〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺 〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳 〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳 〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳 ・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか? 関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か? 阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。 その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。 >>626 平家とか藤原とか頼朝の隠し子とか詐称してきた人にとって残酷 Y染色体ハプロタイプで一発ですもの mtDNAではどうせ石器人のあれなだけで何もわからないけど >>610 西都原なんか見ると早い時期からヤマト王権と同盟関係にあるようだし、この頃には瀬戸内海沿岸をある程度掌握していたんだろう 実際、瀬戸内海沿岸にわんさかあった高地性集落がこの頃には消滅していく >>635 違う。 倭国とは倭の代表国 中国の歴史書では倭のある小国を倭国と呼んだことは一度もない ネトウヨ「皇紀2600年を否定するとはこの反日パヨク!!!」
>>632 纏向は恐らく伊勢遺跡の後継みたいな宗教施設ではないかと言われているはず 華人の末裔きどりで陰謀してるやつらも遺伝子調べたら百姓や土人の血が出てきそう
中国人きどりで書き込みしてる連中て黒板の引っ掻き音みたいな変な超音波のオーラ出してて 前からなんかやだったのだ
>>638 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」 『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士 あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。 弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。 同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。 なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、 かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が 突如として築かれる場合がある。 いまのところこの謎はちょっと解けない。 森浩一「考古学の模索」1978 学生社 銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著) 巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に 象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの 労働力とされた 巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった 古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 華人きどりと書くのが正確かもしんないけど、あえて 中国人 と生々しく呼んでみた
>>645 森浩一は同志社大学の考古学の教授だった人だけど、臼田なんたらただの歯科医やんw 要は自分の妄想を自費出版しただけやんw 在日中国人の陰謀ウザス どうせ古くからいる華人は家系ごとに作られる古事記で 春秋戦国時代の大夫 て書いてるだろうけど、古代中国の強盗団の一種だから別にえらくない
>>605 スーパーヒーローって卑弥呼男(女装)説かよw でもまあ 飢饉でそれまでの活動地域を離散せざるを得なかった人々が なんらかの理由でそれまで人が好んで住もうとしなかった地を開拓して その最大の功労者或いはその縁者が女王卑弥呼になったってのは まあまあ納得できる仮説にはなり得るかもだな >>647 高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で 近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。 森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで >集落の分布状況から、弥生中期〜後期にかけて、北部九州〜瀬戸内沿岸〜畿内の地域間で軍事衝突を伴う >政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。 >豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。 >これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。 >>651 誰もそんなこと尋ねてねーから 関わってくんな、キチガイ 中国人て海外行っても何千年経っても中国人のアイデンティティを捨ててないからな 油断できないやつらなのだ コリアンにもその亜種みたいなオーラを放ってるやつがよくいる 多分華僑だろう
>>10 >>15 >>19 西暦57年に倭人が新羅の王になってるので 新羅の王族には倭人の子孫が存在するはず。 ちなみに科学的には倭人が朝鮮半島で爆発的に増えた事実はあるが 朝鮮人が日本列島で爆発的に増えた事実はない。 また、変態毎日新聞のなんちゃって学説か。 邪馬台国のころは、人口も少なく、都市国家の群雄割拠状態だったのだから、 奈良盆地とか、大和朝廷とは関係ないと思うぞ。 冷静になれよ。変態毎日。
>>644 秦と称している人からは匈奴が出てくると思う 九州は浙江から福建のあたりから渡来が割合見られそうだけどあっちの人種は牧畜騎馬の跋扈でごちゃごちゃで痕跡は少ない >>653 兵庫県の高地性集落 神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、同県芦屋市会下山遺跡(えげのやまいせき、標高185メートル)、 同城山遺跡(標高250メートル) ↑田能遺跡も九州系の遺跡と考えてもいいと思う。 甕棺、銅剣の鋳型、木棺墓など。 弥生時代のほかの近畿地方の遺跡からするとやはり異質。 @香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 @紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡 いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか? >>609 中国に対する礼を知らんから それまでの使者とは違う部族と思われる 「初めて見る顔だな。倭から来たのか?」 「日本から来た」 「倭では無いのか?」 「倭は嫌な名前だから変えた」 「今までの奴等はどうした?」 「とっちめてやった」 「本当かよ胡散臭いな…」 という会話があったのだろう 昔は水道なかったから、川や湖のそばを選んで集落を作ったり縄張りを変えていたのだろう 馬来る前は船で移動してたらしいし
邪馬台国が畿内にあっても九州と意思疎通出来てたとは思えないので 伊都国が卑弥呼の一族だったのをいい事に九州で好き放題やってたのかもしれない 結果、邪馬台国が九州にあるように見せかけてしまった 九州には実体のない仮想の邪馬台国があり、畿内には実体を伴う本物の邪馬台国があったのでは無いだろうか
>>661 畿内には実体を伴う本物の邪馬台国があったのでは無いだろうか ↑ないない ありえねー おれの書き込みみて考え直せ だから九州に流れついたやつが日本て名乗り始めたやつで そいつらが倭人の国を併合してった過程を 記録に残したのが現存する最古の文字資料で、それより古い記録は焚書された
纒向って東海地方をはじめ各地の土器が出るのに九州産は少なく、鉄剣のような大陸製品は出ないんたとな。 九州の邪馬台国はもちろん、大和朝廷でもないような気がする。 記紀神話では神武天皇に降伏した大和国の地方政権が纒向の正体なんだろうか?
>>664 実際は100年くらいかかってる(畿内を制圧するまで) 神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる 『香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡』 http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9 >本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。 >九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたこと を示しているという。 @香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 @紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡 ↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか? ↑これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない… >>656 >邪馬台国のころは、人口も少なく、都市国家の群雄割拠状態 卑弥呼は金印もらってるから、群雄割拠状態はありえない。 中国が倭の国力を調査した結果、 邪馬台国を首都とする倭国が超大国だったので金印を与えたわけで。 農耕民族の古代ヤマトは百越の国。 アイヌとかは狩猟採集民族 あと不仲の呉と秦とツングースと新羅と
九州は先に来た渡来人で溢れてたので、 後から来た半島からの渡来人は畿内に入植した 畿内は新参の半島からの渡来人のユートピアだった そこでヤマト王権の基礎が築かれたというのは興味深いね
>>662 影響力の違い及び、まだ影響力が大きくなった事が無かったからと聞いたような この頃はまでは王家の域を出ず、王家と呼べるような勢力は複数あった その中の1つが後に朝廷になるけど、その後は影響力が落ちても別に呼び名は一緒 >>628 纏向は、荒れ地(もしくは雑木林)の丘だったところを新規に開発したんだそうだ。 すでに水田になってるところを取り上げたりしていない。 ユーラシア大陸から朝鮮半島を経由して日本の出雲の方にに辿り着いた民族がスサノオ(須佐の王)系 インドとか海を渡って日本の九州地方に辿り着いた民族がアマテラス(海照、後の天照)系 この二つの民族が日本の統治を巡って争いました。 結果、武力に勝るスサノオ系が勝利します。 そしてスサノオはアマテラスを妻に迎えました。 圧倒的な力の差があるため、アマテラス系はスサノオがいる間はおとなしくしていました。 しかし、スサノオが無くなると、今なら勝てると再び戦闘を開始しました。 所謂、国譲りと呼ばれているものです。 大国主はスサノオの娘婿です。 よって自分にはスサノオの血が流れていないので 息子の事代主と建御名方が国譲りに同意するなら 日本最大の社の建築と後の修繕を約束するなら譲ってもよいと言い、アマテラス系に国を譲りました。
>>664 >>564 を見ろ。 倭国が一方的に朝鮮に攻め込んでた時代なんだから 大陸からの侵略などありえない 定義にもよるが、日本列島で真の意味で統一政権が誕生したのは徳川幕府が本邦初。 小国の連合体から単一国家へと変貌を遂げたのは、かなり後になる。 鎌倉幕府も西の反乱勢力を完全に鎮定するに至らなかった。 (承久の乱でも、朝廷勢力を根絶できなかった)
単にしばりょうさん一味とかが「魏に使者をちょうだいね^^」て頼んで 「はい^^」 って答えた国が 「うちは倭国の巫女皇子からの使者」って名乗ってただけと思う そんでばれて「なに勝手なことやってんだペクチョン」 て狩猟採集民族が怒った
>>401 おかしいか? 何故、纒向だったのか? 答えは立地的に全国から集まり易いからだ これが関東東海中国だと、自分の本拠地から遠い近いの格差が出来てしまうからな ニギハヤヒの天孫降臨の話は、ニギハヤヒがいた場所から、一緒に河内の降臨した奴しか分からない ニギハヤヒの天孫降臨話が書かれているのは旧事本記 旧事本記の作者は興原敏久と 興原敏久は三河物部氏 興原敏久は三河物部氏だからこそ、三河に残るニギハヤヒの天孫降臨話を知っていたわけだ >>36 その頃はまだ朝鮮民族は成立してないよ。 三韓の住人は中国人や倭人が大半なんだし。 10代崇神で四道将軍を派遣して畿内から周りを勢力下に起き 12代景行で九州を征伐し、14代仲哀は九州征伐中に死ぬが 嫁の神功皇后が後を引き継いで九州と半島を征伐 その辺りが最初期の前方後円墳の分布(北九州に結構ある)に表れてる気はする ただ、邪馬台国と絡むかというと微妙だけど
現代日本では、東京政府のコントロールが全国津々浦々なされてる。 京都市役所が霞が関に反旗を翻さないし、大阪府庁が私兵(大阪府警)を使って中央に反乱を企てる時代ではない。 こうした現代の常識が構築されたのは、実は16世紀。 日本という国がその形を完成するまでに長い歳月を要した。
>>670 天武天皇までヤマト王権は有力豪族による連合政権だよね。 天武天皇の時に天皇は君主で豪族は貴族、つまり明確に臣下として制度化された。日本国ができたのはこの時。 倭国大乱、近畿征伐の前、近畿に記紀で言うスクナヒコナの国、延喜式祝詞で言うクナトの国があったんじゃないかな 狗奴クナ国は畿内の原型だろう。 魏志倭人伝当時狗奴国のヤマト部分が征伐され、初期のヤマト政権が樹立された。 応神仁徳天皇のエピソードは狗奴国の巻き返しなんじゃないかな。 仁徳天皇 大雀命 オオ【サザ】キのミコト 鳥の王様はミソ【サザ】イ 日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな 神産巣日、サザキで思い出すのは、 布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話 この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、 地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、 緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、 割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
百越だから半島の入植地も百済で農民も百姓 百百モモモモモ一族だったのだ 中国人は桃好きだけど 桃の種が出土したりモモソソナントカヒメがまとめ役で英雄だったのもモモだったのだ
日本人なんて言う政治家は日本人なりすましチョン 天皇は乗っ取り犯なの隠すために偽装家系作っただけ 邪馬台国は滅んだのもわからないのが奈良の豪族だった
>>673 倭が朝鮮半島に軍事的に干渉したのは確かだろうが、 朝鮮半島から日本列島に移民が続いていたのも、また確かだよ モンゴルの騎馬民族は半島通って馬連れてきたけど朝鮮人ではないし 半島の支配者も華僑であることで特権階級としてのアイデンティティを維持してたから厳密に朝鮮人とは言いがたいし 春秋戦国時代の大夫が台湾か半島を通って移動してきたとしても朝鮮人ではない
>>684 朝鮮半島からの移民はいただろうけど 遺伝子解析の結果では朝鮮人が日本列島で爆発的に増えた形跡はない。 古代日本は移民国家 倭人も起源は移民だしな アメリカ合衆国で例えるなら、 古参の倭人がアングロサクソン 新参の半島系移民はドイツ人やオランダ人といったところだ
縄文時代、鎌倉時代、江戸時代。 この三つさえ教育すれば、日本史の理解は事足りる。 それが一般国民が邪馬台国に関心を示さない理由でもある。
コレは別に問題無いな。 て言うか、連合の中に、奴国や伊都国が入ってないんだから、 大和政権と邪馬台国は別の国という認識だな。 一体全体、畿内説なんて言ってる奴等は、 どこのどういう奴らなんだよ??
>>686 それはどの遺伝子解析の結果を言ってるの? いや自分も朝鮮人が日本に多く来たとは思ってないんで、その根拠を正確に 知りたいだけなんだ。 天皇家自身がヒミコなんぞ知らんと言うてるのに 歴史修正主義者だけ邪馬台国と大和朝廷を結び付けようとする
>>687 日本人は朝鮮半島経由してないよ。 大陸と日本列島が陸続きだった氷河期に 中国南部から直接、日本列島に移住してきてる。 朝鮮半島は永久凍土に覆われてた。 ヤマトが大和だったり神仏習合したのは倭国大乱で血で血を洗う戦争を経たうえで 「けんかはやめて」 という意味で必死仲裁した権力者がいたためなのだ そんでかわりに娘を大王などの嫁に差し出して混血と謀略の権力闘争をすることに
>>690 カーボンテストにより、弥生時代は今から3000年前(BC1000年)に始まった事が確認されています。 よって、弥生人は渡来人となりますが、朝鮮半島、中国東北部には「O2B1」の痕跡が全くない。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ また、弥生人が持ち込んだとされる「稲」の遺伝子パターンが朝鮮半島と合わないが中国大陸とは合う。 稲作開始時期が朝鮮よりも日本の方が古い。南琉球(日本)が「DE系統D亜型D2A:4%」 「NO系統O亜型O2B1:67%」「29%不明」→南琉球人の遺伝子構成が、 日本本土からやって来たと考えると計算が全く合わず、弥生人の渡来ルートの一つとしか考えられない。 現段階では、弥生人が朝鮮半島から来た証拠は全くなく、琉球列島を通って中国大陸から直接渡来した ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 可能性の方が高いとなります。 IS0GG(遺伝的系譜国際学会 The International Society of Genetic Genealogy) 2012年公式データより 祖国では虐殺され 密入国した日本では手厚く保護されながら恩人の日本に向かって 妄想を根拠に恨みぶし どんな腐った遺伝子持ってりゃこうなるのか 腐れ民族の方、教えてけれ >>665 その後、神武は三輪のワニの娘を前妻と別れて正妻にするんですがね。 神武が死ぬと前妻の子が正妻を手篭めにして皇位を次ごうとして、正妻の子を殺そうと図る。 その時自分の子供達に急を知らせる歌があるんですが、 佐韋賀波用(さゐかはよ=狭井川の) ・・・ この狭井川が、倭人伝の「載斯烏越」の載斯(サイシ)のサイと関係あるかどうか? 例えば狭井磯とか w >>690 ハプログループD1b 日本人の約30〜40%がハプログループD1b 中国や朝鮮半島には存在しない遺伝子。 O1b2a1(O-47z) 日本人の約30%がO1b2a1(O-47z) 。 中国南部から朝鮮半島を経由せず日本に渡ってきた人から、 8000年前に「日本列島で発生した」と考えられている遺伝子。 4000年前に「日本列島で爆発的に増えた」 日本人に多く。近隣の満州民族、朝鮮民族にはあまり見られない。 「日本列島で発生した」O1b2a1(O-47z)の分布図がこれで 日本人が朝鮮半島で増えたことがわかる 待機中 >>691 日本書紀だと、神功皇后のところに倭人伝の引用がある ただ、神功皇后の事跡は卑弥呼の時代から120年程新しいって説が有力だし やってる事も倭人伝の卑弥呼と神功皇后じゃ全く違う 日本書紀の時代には卑弥呼に相当する話は既に無く、無理やり神功皇后に当てはめたんだろな 後の百済系の九州、新羅系の出雲、呉系の吉備畿内があって畿内が統一した。倭人伝の頃はちょうど九州王朝が邪馬台国に滅ぼされた頃。だから伊都国の扱いが微妙になってしまい九州説の人は色々候補を探さなければならなくなった。 伊都国=倭都のことね。北部中国と古くから交流があり、倭と呼ばれたのは九州で間違いない。
日の国の皇子でも日皇子だし 名前で彦ひこ言うのも日子っぽいし 火巫女だとしても天照大神を奉る伊勢神宮は皇家の巫女がやる伝統だし 宇佐神宮は神功皇后を奉ってるみたいだけど
日本の超古代渡来人はユダヤ人です。 シナチョン漢字文化の本格的渡来は永嘉の乱以降レベル
氷河期が終わって大きな集落ができるのは温暖な南からで 気候的にも九州よりも先に朝鮮半島の人口が増えたというのは考えられないからな
>>698 日本書紀の引用っても、魏書に倭国の使者が朝遣したって書いてある。ってだけで 神功皇后がとは書いてないのよなぁ 暗喩にもなってない気がする。 >>699 伊都国の県主は天日槍の末裔だと筑前風土記には書いてあるんだよね 同族ということで伊都の勢力は但馬まで繋がっていた可能性もなきにしもあらず 畿内説の投馬国は但馬や出雲に比定されているし、瀬戸内が安全になるまでは日本海沿岸航路がメジャー 志賀島の金印はその出土地点・印文(「漢委奴国王」)から、かつて博多湾岸に存在した奴国王が、後漢の光武帝から 建武中元二年(57)に授与されたものとされてきた。 しかし、この「漢委奴国王」の印文の読み(「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と三段に区切る読み方)は正しくない。 中国古代の印文を検証すると、そのルールは以下のようだ。 漢帰義胡長銅印駝鈕、大谷大学禿庵文庫現蔵『中国古印図録』(以下「大谷大学現蔵」と略す) 魏烏丸率善佰長二百蘭亭斉古印収蔵 魏鮮卑率善仟長銅印駝鈕、大谷大学現蔵 晋匈奴率善佰長銅印駝鈕、大谷大学現蔵 晋烏丸帰義侯銅印駝鈕、大谷大学現蔵 晋帰義羌王銅印塗金兎鈕、常延年『集古印譜』 これらを見れば、明らかに、「二段国名」である。つまり、「授与する側(中国側国号)+授与される側(部族名)」である。 中国の天子が夷蛮の長に印を与えるというのは、与える側(漢や魏や晋)と与えられる側(夷蛮の長)の二者の直接の統属関係 を示すものだから、これは当然である。 したがって、志賀島の金印を「漢の委の奴の国王」などと三段に区切って読むのは正しくない したがって、志賀島の金印を「漢の委の奴の国王」などと三段に区切って読むのは正しくない
古代イスラエルなんて中国の古代王朝とくらべたら最近出来て最近滅びた国。 ユダヤ教も流民が聞きかじりで作った経典を使ってるし 中国にユダヤ系の逃亡者がいてもただの新参もの へたすると中国人がユダヤの経典執筆で入れ知恵して陰謀を巡らしていた可能性 貿易してたし
しかし同じ考古学でも千葉にゃんの話とかと比べりゃ邪馬台国の位置なんか簡単に解りそうなもんだが利権が絡んでるとそうもいかんのだろうな〜
代々筑紫城に住んでた漢委奴国王なら日の出る方向に引っ越したよ 王様が引っ越した後の委奴国がどうなったかはお察し
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか? 仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された 「第8回金印シンポジウム志賀島」において、 「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」 『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」 と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」 と読む中国人はいないと断定している。
中国人「シルクロードで絹売ってたけどイスラエル滅びちゃったな」 中国人「国内にいるユダヤ系の商人どうする」 中国人「滅亡した国を再興したくはないか とか言って派遣したら遠隔操作の道具に使えそうだな」 中国人「なんか書かせるか」 みたいにやってた可能性。敵国を滅ぼす兵法にありそう
そもそも宗像と出雲といい、海部氏といい、日本海ルートは婚姻関係でかなり繋がってるからな 今でこそ裏日本だが、江戸時代までは日本海側の海運が盛ん
>>36 奈良と当時国があった場所は別だろうが 710年平城京だぞ なんで桜井市が奈良市じゃないのw はい論理崩壊 >>703 宇佐神宮は三神で、神功皇后と応神天皇、それと比売大神(宗像三女神 )なんだけど、比売大神が真ん中なんだよね。それに宇佐神宮は伊勢と 並ぶ皇室の祖先神ってことになってるんだけど、それ他にも天皇はたくさん いるのになんで応神天皇だけ特別なんだろうねえ。 奈良に安定した国家が有ったんなら、白村江にこだわらんだろ、朝鮮から来てるからだよ。
中国人「倭国の土人が使者をよこしたぞ」 中国人「春秋戦国時代の豪族?偉大なる我々に臣従して奴隷たちを管理する担当者というハンコでもやっとくか」 中国人「なんかまた使者がきたな」 中国人「あのちびすけは我々はこれからの国でおまえらは老害とぬかしやがったぞ」 中国人「生意気な」 中国人「現地に中国系の移民はいるか」 中国人「そいつを支援して支配させようぜ」 中国人「目障りな邪魔者は暗殺だ」 中国人「邪魔大国だ」 って言ってたかもしれない
あ、間違った。まあいいや。 ともかくワシは卑弥呼の墓が宇佐神宮で、邪馬台国系の天皇として応神天皇(仁徳天皇)が朝廷を 簒奪したんじゃないかと思っている。
>>711 民俗学者・鳥越憲三郎が、倭人は江南・雲南からきたと言ってる 下駄があり、赤飯があり、ちまきがあり、鳥居があり、納豆がある とても無関係とはおもえないと… おれも鳥越説に賛成だ べーつに短里いらんやん 移動可能距離が古代は短かったってだけの話
>>710 中世の中国の史書(宋史や元史)だと倭国は本の倭奴国であるってなってるから 後漢書にある倭奴国は、そのまま倭奴国と読むのが正しいのかね 延喜式祝詞には、 皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある 同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。 これが平安時代の朝廷の認識 伊勢とか関係ないんじゃないか? 天照大御神が皇祖神になったのは明治維新以降 明治政府が細工して国家神道を作ってから
天孫君は素行が悪く、姉に嫌われて高天原を追い出され、 刺青掘って土人の国で仲間を作って新しく建国しようとしたやつだったので 中国人に対する畏れがなく、恨みだけがあったのかもな 漢字読めるし
>>722 宮崎県に日之影町あるな やっぱりあそこは本物の天岩戸か 邪馬台国は関係ないけど 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 「棺あって槨なし。」と、明記しているのだ。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 当時 支那って土葬じゃん こんな風習を書く理由があるの? 棺あって槨なし ってことなら 「槨」がどこかに存在してたってオチだぜw 意味を読み解けなかったってことだから オカルトやペテン師歴史学者が一番良く似合うわなw
なんか色々いて生ぐさい戦争をしてたことはわかった どの派閥の肩をもつかによって うちが本家ヤマト って意見が分かれるのだな
>>722 江戸時代に流行った伊勢詣とは何だったのか? 天照大神が日本の最高神であり、その子孫が帝であるというのは、別に明治政府の工作じゃ無いよ。 >>729 くだらねえ書き込み 近畿厨のレベルが知れる とうぜん、支配階級のもんだろよ 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 「棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、 「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、 「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、 「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」 などと、いちいち書きわけている。 畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。 邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。 半島、九州が現王朝の起源だとおもうんだが なんで九州に神宮がないんだろ? 『日本書紀』では、伊勢神宮・石上神宮・出雲大神宮[1](出雲大社を指す[2][3])のみが「神宮」と記載されていた。その後、平安時代に成立した『延喜式神名帳』では、大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮が「神宮」と表記されている。
>>733 親魏倭王の金印が出てこないと、確定は無理だろうね。 たとえ盗掘を免れていたとしても、金は錆びないけど、土や石の重さで潰れてるんじゃ無いかなぁ 纏向を都とした饒速日が関係している時点でもうこの纏向が神武天皇のイワレピコの大和王権でないことが明らか 最早纏向が大和王権の地ではないことが明らかになる時点でこの在日考古学者自体の持論が嘘になる
>>731 伊勢講、富士山講 他にも色々あったけど要は観光目的 信仰は二の次 >>738 わざわざ本人の代わりに、犬に参拝させる観光なんてありえんよね? >>735 金印は出てないけど黄幢らしきものは発掘されてるな 魏の時代くらいのものがわんさか出てるのが畿内説が優位とか言われてる所以だろ マキムクに戦乱の痕跡が無いので、 東征自体が無いって事だろ? 現時点でその通りとしか言いようが無いな。
>>695 そんな腐った遺伝子が半島渡来だから 半島渡来の各地に移配された日本人が居るから気を付けた方が良いね 神社とか氏神とか見たら姓だけでも半ば判別はつく >>741 もし東征や東遷があったとしたらもっと前の時代ってことだろう >>729 それは、現在の「邪馬台国論争」の「構造」のことである 「邪馬台国畿内説」の証明はない あるのは、ただ「はじめに邪馬台国畿内説ありき」なのである ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか それはそのように教育されたからである 京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で そのような教育システムができあがっているからである その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利と なる可能性がある 「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの 問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる 「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない 出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない 「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない 土の虚塔である 空中楼閣である いつかはかならず崩壊する 「兵用 矛 楯 木弓」 矛のでてこない畿内はありえない 竹箭或鐵鏃或骨鏃 ↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない まあでもこういうのつきつめていくと日本人は朝鮮人だったという結果になってしまうんだろうね
>>743 そのもっと前の時代の戦乱の痕跡が無いって事だぞ。 神道の概念はそもそも3世紀以前には存在しない。 神道自体渡来人神話を都合よく取り入れたもの 記紀は古代に伝わる大陸、地方豪族武勇伝を全て天皇に絡みに都合良くアレンジしたものだから信用に値しないし、4世紀以前の古代史参考にはならん
>>746 名前あれだが、古代朝鮮人だし問題ないだろ >>709 魏志倭人伝の記述では少なくとも4世紀初頭の壹與の時代までは九州に倭国があったことになる。 「ここやで、トントン(はんこ押すとこを指で叩きながら)」
畿内は天皇家の地元じゃない 東遷の話もあるが、大国主を氏神とする民草の中で唯一の天照の子孫なんだから その地に降り立って支配したと考えるのが自然 そんで、魏志の邪馬臺国は、どうみてもヤマトの風俗じゃない 騎馬民族では無く、海人の風俗だ そこで考える 海人→海女(あま)→天(あま)→高天原 つまり、天皇家の故郷である高天原こそが、邪馬台国なのでは無いか そう言えば、邪馬臺や邪摩堆の臺も堆も、高い所という意味である アマ台国。これが日皇子(ヒミコ)=アマテラスの支配する所
そういえば白石太一郎なんかは出雲は連合に参加してないはずという立場だったが、>>1 だと既に参加してるという説なのかな? そうすると但馬出雲経由で北部九州ー朝鮮半島というルートも開けるが 3世紀の奈良盆地は未だ湿原ですから人なんか殆ど住んでない だから鉄器も出土しない。
そもそも邪馬台国自体の場所を探す根拠の中国の金印を探したところで所詮邪馬台国自体が中国の存在を知らなかった可能性が 何故なら彼ら元々地中海沿岸のイスラエル王国から邪馬台国の住民はアラビアから海ルートで中国を通らず短期間で日本へ渡来 方やチベット四川から中国秦を建国して日本へ渡来した大和王権の住民は中国のことを勿論知ってたわけで 大和王権自体は中国の存在を知っている為金印などを受け取ってただろうが あくまで中国が書いた魏志倭人伝で邪馬台国自体のことを書いてるが邪馬台国自体中国を知らず金印など元々受け取って無い可能性が しかも邪馬台国自体の住民は大和王権の住民より先に日本へ渡来してるため中国の存在など知る由もなく 邪馬台国自体の住民は遊牧民で山岳信仰の中で土地を移動している 結局邪馬台国自体の金印も場所も探しても無駄なのでは
>>701 日ユ同祖論 パレスチナ ↓ 中央アジア(ユダヤ人から分岐) ↓ チベット(チベット人から分岐) ↓ シナ江南(呉人から分岐) ↓ 日本 九州倭国が逃げてきてから 都市化 その前は半農半漁
結局、橿原考古学研究所も、 発掘の成果を積み上げた結果として、 邪馬台国の時代は、北部九州を含まない 連合国家である事が分かったっと言っている訳で、 後は、畿内説なるモノを称えている輩が、 どういう人間なのかと言う事でしか無い。
>>107 二里頭遺跡が夏王朝の首都ではないかと。 >>281 宮崎じゃなくて日向峠のあたりじゃないの? その辺にやまとって古い地名もあるし あまり詳しくない人からしたら、古代は畿内の方が発展してたでしょ?!だって古墳もいっぱいあるし、色々発掘されてるし大和朝廷もあったでしょ?と思うんだろうね でも畿内から実際に発掘されるものって古墳時代以降のものが多いんだよね 古墳だってそう、古墳時代以降に作られたもの 弥生時代に限っていえば九州北部の方が鉄器、絹製品、鏡などの出土が畿内に比べ圧倒的に多い 魏志倭人伝は弥生時代の倭国を描写してるんだから、九州北部の可能性が高い
九州倭国が瀬戸内海で逃げてくると 奈良が近いだけだった
しなちょんは「日出処の天子」とか生意気こいて斜陽の老害扱いした蘇我の一派を謀殺、 馬鹿 という言葉まで作って嘲る念の入れようで貶めたけど 支配地の奈良では大和の皇子を聖徳太子と名づけたり 入鹿は鹿に入って神の使いになった と美しい伝説を作ってこれを偲んだという
>>750 『魏志倭人伝』には邪馬台国は九州なんて書いてないだろ(笑) 『日本書紀』だと『魏志倭人伝』は神功皇后記に引用されたるので邪馬台国は奈良 国の名前を聞かれて 九州だから 「大和」 を 「大和たい!」 って言ったんだよね それを中国人が 「やまたい」 と聴き取って 「邪馬台」 と当て字した
>>732 「棺あって槨なし。」 当時 「槨」がなければ表記しないでしょ >>744 平安京が京都にあったから安易に考えた可能性は? >>741 神武東征だ戦乱があったとされるのは、磐余であって纏向ではないからでは? いい加減な伝承の発生を実験・考察する研究としては素晴らしいからデータ取っとけ、な?
>>764 逆だよ 一般人は九州説の方が圧倒的に多い ところが学者はほとんど全員と言っていいくらい畿内説 九州優位なのは2世紀まで 畿内と九州の出土品で比較するとき、弥生時代トータルで見せて ほた、こんなに九州は凄いでしょってやるのは、まさに詐欺師の手口 製作年代がだいたいわかる中国鏡を例にすれば、九州は3世紀以降ほとんど入手出来ていないのが事実 >>756 それ今まで一つも証拠の出てない空想上の奈良湖だからな? そもそも奈良盆地の水源は北の斑鳩の辺り、橿原や田原本、飛鳥は盆地の南 そもそもこの在日考古学者自体が邪馬台国と大和王権が別ものと考えてない時点で可笑しい 時代も場所も邪馬台国自体の住民と大和王権の住民と絡めても しかも邪馬台国自体を乗っ取り大和王権の街にしたわけでもない しかも同じヘブライ人達でもイスラエル王国から海ルートで来た邪馬台国の住民 方や中央アジア北部からチベット四川を経て朝鮮半島から陸ルートで来た大和王権の住民とは日本へ渡来する時代や場所が全く違う 何故ゆえにこの在日考古学者は一緒絡めるのか 一般の人ならともかく専門に研究しているものが・・・ 本当何を研究しているのか馬鹿丸出しとしか思えない
魏志倭人伝だと邪馬台国まで途中から水行1月と陸行1月もかかるんでしょ? 2月も移動したら九州は飛び出るんじゃないの?
まあ、古い神道より仏教のが思いやりありそげな思想に見えるから下層の民にもウケたのだろう 性格のいいやつが最低一人は蘇我氏にもいたのかも さらには新羅や中国にも抵抗してるし 土着倭国人の味方として勢力を伸ばしてたのに 口は災いのもと 金印もらったやつはさておき渡したやつは深く考えずに惰性で配ってたのかもなのに わざわざ地雷踏んだ
纒向遺跡の近所に住んでる美少女を貼るね 奈良のヤマトは洪水になって地名無かった場所 九州から逃げてきたのが治水やってヤマトと名付けた
>>777 弥生時代に限れば 魏晋鏡の出土数 福岡県37 奈良県2 となってるけど 『新撰姓氏録』には 「神武天皇の兄は、新羅王の祖である」と書かれている。 西暦57年 『新羅本記』によると倭人の脱解尼師今が新羅の王になった。 倭人の脱解尼師今は新羅の王の祖である。 西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かる。 歴史書からは漢委奴国王が神武天皇(初代天皇)と推察できる。
>>785 >魏晋鏡の出土数 >福岡県37 それならソース出して 邪馬台国の会が勝手に言い張ってる数字じゃなくて どこでどんな鏡が出たかを示してくれ >>785 古墳の鏡副葬は ・主体部近くに貴重な鏡を置く ・周辺部にはそれよりも劣るランクの低い鏡を置く と言うのが全国的にみられる傾向であるのが分かる 。 なので、三角縁も例外ではなく畿内ではランクの低い鏡であると分かる これは逆に言うと畿内で大した扱いをしてない三角縁を貴重品扱いしている九州とは力関係がハッキリと出ていると言う一つの証拠である 古墳と言うのが大和を頂点とする明確な秩序の元に作られていることが分かる。 >>704 これな。 あたかも日本書紀が卑弥呼を神功皇后だと決めつけてるように言い張るやつがいるが 実際は違う。 新羅が百済と手を組んで倭の本拠地を攻めようとしたけど 海を渡って疲弊した状態で勝つのは難しいし百済信用出来ないし… 事前の注進であきらめたみたいに言ってるけど、 実は新羅と宇佐と魏で一回ぐらい攻め入って因幡で倭に血まみれの大敗を喫したりしてたのでは 九州農耕民が百越ならこれも百済臭がするけど ご近所より現地のやつを刺客に使ったほうがいいかなみたいな 魏も使者が文句言うから友達印はあげたけど、内心は倭人が魏と対等づらしようとは生意気だぐらいは思ってたかも しかも呉の末裔とかぬかしやがったし そして連合軍はみんなで船出して因幡のしらうさぎちゃんにされた
>>704 >>790 そもそも『神功皇后記』に『魏志倭人伝』が引用されてるんだが。 『日本書紀』では邪馬台国の台与と奈良の神功皇后は同一人物 纒向学者先生も邪馬台国だと言い張るのやめて初期ヤマト王権だと方向転換し始めたかな。 まあ、今後幾ら掘っても邪馬台国であったことの決定的な証拠は出てこないばかりか、出ちゃいかん物ばかり出そうだと気付いて宗旨替えしたのかなw
>>789 「古墳時代」は畿内が栄えてたって事であってるんだよ 弥生時代の話をしてるの 九州の土器が纏向からあまり出てないことが畿内と九州の関係が希薄な根拠になってるけど、魏志倭人伝の記録を畿内説と信じるなら、少なくとも連合には参加しているはずなんだけどな その辺、最近の学者の見解はどうなんだろう
そもそも勘違いしているのが巨大な建造物を建設した文化を持つのはメソポタミアシュメールの住民の大和王権の住民で 邪馬台国の住民自体はイスラエル王国のユタ族で邪馬台国をヘブライ語でマタイといいイエスキリスト纏わる12氏族の国という意味に 即ちヘブライ人達の信仰と絡めても邪馬台国の山岳信仰と大和王権の神社などの建造物を作るとでは全く違う そもそもその時点で勘違いしている
文献だけだとよく分からんなあ 中国人の史家は日本が皇統記を提出したはずなのに転載ミスったり かなり開けた明代でも日本国王と皇室の関係が曖昧なんだろ 一番は九州以外の地理を全く知らないし興味が無いのが欠点でしょ
>>795 だから古墳作るのには数十年かかるんだから 古墳時代の中心地が大和なら、弥生時代終盤の中心地も大和だよ 新羅とは新しい国という意味なのでウサギがシラでも半島の新羅を指すとは限らないけど。 奴国が委奴国呼ばわりなのは犬の国と見なしていたから 朝鮮半島で奴隷を支配する華僑の国高麗は高句麗呼ばわりされてたけど句は狗(いぬ)の意味。
>>680 戦国末期の織田豊政権時代の天皇がいない状態みたいな感じだね。 天皇家は、さしずめ徳川かな。 初期には最有力ではなかったが、あとから逆転。 >>767 日の出るが如き勢いの日本の天子が 日が没するが如く老いぼれの支那の天子に書をいたす やっぱりこうでないと 卑弥呼? 邪馬台国を僭称した魏に媚売る土人国のインチキまじない女酋だろ 本居宣長 >>790 日本書紀の神功皇后の39年の記事 「卅九年、是年也太??己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」 即位39年。この年、太??己未でした。?? 魏志によると、明帝(メイテイ)の景初三年六月に倭の女王が 大夫(タイフ)の難斗米などを派遣して、郡(コオリ)に行き 天子に会おうと朝献(チョウケン=中国の朝廷に詣でること)しました。 太守のケ夏(トカ=人名)は吏(リ=役人)を派遣して、 京都(ケイト=ここでは洛陽)に詣でました。 倭人伝引用しまくり。あからさまに神功皇后=卑弥呼なのだ ただ、台与と思われる266年の晋への使者も神功皇后の事跡にしてるので 厳密には神功皇后=卑弥呼とは言えないかもしれない >>800 Wikipediaから 三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から既に540面以上見つかっているのに、邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土しておらず、年代が合わない。 中国人はあちこちに犬を配置して現地を奴隷支配させた よって後世でも権力者の手先は犬と呼ばれる 本物のかわいい犬に失礼
未だに馬鹿丸出しの朝鮮都合のコメントしているのか 何故朝鮮半島の日本の属国の百済新羅の住民が日本を乗っ取る話が出るのか 朝鮮半島の百済新羅の住民自体日本民族の出雲族の国が百済新羅 800万人以上の日本に高々数万人程度の住民が日本を乗っ取るなど出来るはずもなくしかも同じ日本民族 朝鮮人は11世紀末から来たシベリアエベンキのワイ族で朝鮮半島には同時から全く関係ない 本当在日は嘘平気で
>>799 うん。九州は楽浪郡以前は植民地になった時代もあって交流が深い。 畿内は九州を吸収して初めて認知された感じ。 そのために倭人伝の使節が送られたんだろう。 >>801 高句麗は中国に高駒驪と馬を付けて馬鹿にされてた事があるから たぶん動物としては駒 >>623 発掘しても特定できないよ。 「天皇陵発掘」しないのは嘘がばれるからだとか言うやつの意図がすぐわかる。 古墳を掘れば、たちどころに真実が判明するなら、誰も苦労しない。 高駒驪に 高麗(こま)が狛(こま)で駒(こま)な秘密が隠されてると思う
あのねそんなことも知らないで日本民族の歴史語って馬鹿丸出しの在日 元々縄文では日本列島に7〜8万人程度で2300年前から1800年前までに三度のヘブライ人の弥生人達が19万人程度渡来 わずか500年で自然増加とは違う爆発的な人口増加を続け奈良時代前にはもう600万人程度まで膨れ上がる 同時の中国が約3000万人程度だから日本列島がどれだけ大国がわかる その後半島の百済新羅の時代にはもう日本民族の人口は800万人程度まで増え日本自体が最早大国 朝鮮民族のシベリアエベンキ自体数がしれてる 朝鮮都合の嘘平気でばら撒いてる時点で馬鹿丸出し
>>619 オレも出雲はそれほどじゃない気がする。 吉備も過大評価というか。 過小評価だと思うのが丹波だな >>806 日本書紀には卑弥呼が神功皇后だったとは書いていない 独自解釈はするな >>149 文字が無いわけないだろ。普通に漢文輸入してるわ。 馬に関しては朝鮮半島経由でモンゴル馬を輸入してたんだよな 稲作文化は南方経由な気がするけど 長江南部や福建省で盛んだったし東南アジアにも広がってるし 馬子ちゃんとエミシは「お前の先祖には一人コリアンがいるのだぞ」とかいわれて 娘を嫁に取られた親族に裏切られて謀殺されたんだけどな ちなみにその親族は用済みになり次第、九州のやつに讒言されて殺害された
都を訪れた正史や民間人の記録は数あるけど 不思議なぐらい畿内について触れてないからなあ 九州=日本ぐらいな誤解をしてても不思議じゃない 懐良を異論無く日本国王にしたのもそのあたりかも
>>610 唐古鍵遺跡、池上・曽根遺跡、近江の伊勢遺跡、丹後の赤坂今井古墳等を見ると、 弥生末期は近畿勢力が大きくなってるね。 奈良も水田跡がいろいろ出てるし。 まあ、奈良の場合は平城京で潰されたやつも多いんだろうが。 >>807 だから何かがおかしいんだよな 放射性炭素年代測定を含めて解釈に間違いがある 約一世紀分だけ魏志倭人伝も日本書紀にも年代にずれが生じているのな そして日本書紀も魏志倭人伝にも実は共通点がる 言われているほどの矛盾点はないのな それに大学の研究機関も気がつけよ >>792 引用されてるって言うか、魏志に『倭国が朝遣したと書いてある。』と書いてあるだけで それが神功皇后の事を指しているようには読めないと言う話さ。 台与だとも原文ひっくり返しても書いてない。 暗喩にしても微妙って感想。 >>818 直接名指しをしてないだけで わざわざ神功皇后の事跡に倭人伝の引用をしてる時点で 神功皇后=卑弥呼って考えていたのは明白だろ 関係ないと考えてたならわざわざ倭人伝から引用なんてしない 本当在日は馬鹿丸出し 日本には元々神代文字が存在していたわけで お寺や神社で見かけるアラビア文字見たいなものがそう 里見八犬伝の映画でも出てくるでしょ 日本自体ヘブライ人達が入ってヘブライ語からカタカナやひらがながあったわけで 中国の漢字など大分後 本当馬鹿丸出し
ヘブライ人なんかこんな地球の反対側にそんな大量に来ねーよ 中国にユダヤの家系がほんの数家族住んでただけ 多分滅亡で帰れなくなった貿易商人だろう 日本にも貿易がてら侵入してたとして、これもまた数家族だろう 陰謀の手先働きしてたスパイ連中の中心にいた可能性は考えられる 貿易商人はどこの国にも行けるから
>>607 おもろいね。 中国の他の史記は無視するけど、「旧唐書」だけ信じてるんだw >「お前の先祖には一人コリアンがいるのだぞ」とかいわれて娘を嫁に取られた親族 娘を中国系の豪族に嫁に出した親族ね 脅迫に屈したりおだてに乗るとろくなことがないという証。 毛人ちゃんは蝦夷だから馬子の嫁は蝦夷系だったのかも
>>796 日本書紀を読め その当時は九州は熊襲を中心に反乱していて貢物を朝廷に送っておらん その後に九州は戦場となり九州北部の勢力は一時的に弱まった だから日本書紀の記述は正しいことになる 特に卑弥呼の時代と呼ばれる時代の解釈は日本書紀を元に考えても矛盾はない なぜなら三韓征伐のために一時的に日本の首都は福岡になったときが存在したから だから刀剣の類が九州には多かった >>834 横暴だね。 あんたが書いた書物なら構わんけど。 卑弥呼の少し後の時代に大量の移民が朝鮮半島から日本に来日した それを認めたのは応神天皇でいわゆる秦の先祖 それは日本書紀にも書いてある
越の国の祖は母国を追い出された無与とかいうやつだったから 邪魔台国をくれてやる予定の越のやつに 台与 って名前をくれてやったという新説はどうだろう つまりその時点で台国が乗っ取られてて 神功皇后は越のやつに嫁にされて出雲を取られた 台国とかいうと台湾に響きが似てるけど。
>>835 横暴とか今のGHQ思想に染まった大学の研究機関の人間の妄想よりマシだろ なぜなら日本書紀にはそう記されているからな 在日は日本語も読めないのか ヘブライ人の渡来が19万人程度でその後に人口が増えていく だれも何百万人もヘブライ人が渡来など書いてないがw 本当馬鹿丸出しの在日は朝鮮都合の嘘コメントなどしてないで日本語から勉強し治しなさい
出雲は評価が分かれるよな 前方後円墳の要素である葺石は出雲の四隅突出型からだし、纒向から山陰の土器も多く出てるから それなりの関与をしたのは確かだろう 一方で、出雲は古墳時代を通して前方後方墳だからヤマトとの関係は近いとは言えない そのくせ景初三年の三角縁が出てたりするから訳わからんことになる
>>605 崇神の世だったかどうかは別として、火山の噴火による気温の低下で冷夏になり、 水稲稲作地域が1993年の年のような食糧難になった可能性は高いね。 青谷上寺地遺跡の人骨だって、大陸から難民化して暴徒化した人のものかもしれん。 少しだけ寒さに耐えられる米を作っていた地域が、その後の中心を握ったとかw そもそも卑弥呼は日本の歴史に残すような偉大な人物ではなかった だから日本書紀は敢えて詳細を書かずに無視 歴史に名を残したのは本当の女王的存在の神功皇后だけだった 魏志倭人伝では偉大なる女王扱いだが 中国の使者が日本に来ると卑弥呼はなくなっていたからな これは殺されたと言っていいと思う
>>817 吉備の影響が大きく出てくるのは定型化後だな ごく最初の頃の主要メンバーは、近江、播磨、河内、摂津、讃岐、阿波だな 卑弥呼の死後の辺りから吉備の影響が大きく出てくる 丹波は渡来人受け入れの窓口としてこちらも卑弥呼の死後に少し目立つくらいかな 東瀬戸内海と近江が大和に成立した邪馬台国の根源的な部分を担ってる集団だと思う >>838 GHQの話をしたかな? 正しい解釈は君の解釈しか無いとでも言うのかね? >>599 祭事じゃなくて祭祀だろw いや、今でも世界には宗教で戦争になりますからねえ。 ヘブライ人=秦人というのは聞いたことがないな これこそむしろユダヤの妄想だろうな 遺伝子もO糸とE系だし
ふと思ったんだけど景行天皇って息子のヤマトタケルよりよっぽど好戦的だな 時代が少しずれるとはいえ九州に攻め入ってかなりの数の豪族を打っている これって九州の邪馬台国連合の残党だよね
ユダヤ教を過度に神聖視してるやつは中国人に脳を汚染されたバカ 古代イスラエルは貿易で国内に入れたモラル破壊の工作員に瓦解させられたまぬけの国で 滅亡への流れもローマと大体同じ 経典書いて残党集めてたやつがいたのは 多分中国人あたりからキリスト教国を破壊する手先として育成されてた工作員
>>785 結局、九州で魏晋鏡の出土が多いっていうのは嘘八百でいいね? そもそも卑弥呼って本当に実在したのか 閉じ籠って、一人の男としかコンタクト取ってなかったんだろ? それって普通に、祀られてる御神体じゃね?
貿易するやつのこと商人って呼ぶから中国の商王朝があやしい と思ったら商は殷の別名だったんだな 中国最古の文字文献を残した国で呪術とかやってたやつ 夏王朝の次に出来た王朝
>>550 なんでもかんでも「渡来系」っていうのはどうかなあ。 その場合の「渡来系」って、いったいなんのことだい? 水稲稲作を持ってきた渡来人? 朝鮮半島からやってきた中国人? 戦乱から逃げてきた流浪民? まさか、騎馬民族の王様? 日本の民衆や官がいつまで刺青を好んでしてたかによる あの風俗は隼人とか蝦夷ぽいけどな
結論的にはこうなる。 西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代天皇誕生。首都は奴国(福岡県) 西暦57〜181年 倭国王師升等など欠史8代の時代。銅鐸文化 西暦181年 第10代・崇神天皇。首都は大和(奈良県)。タウポ火山の大噴火発生 西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』 西暦182年 「倭国の人口の半分が死んだ」『崇神紀』 西暦181〜184年 タウポ大噴火の影響で大飢饉が発生。倭国大乱。中国では黄巾の乱が勃発。 西暦184年 モモソ姫に大物主神を祀らせたら五穀豊穣になった。倭国を救ったモモソ姫が女王・卑弥呼になる。新王朝が誕生し、銅鐸文化が消滅。 西暦200〜247年 官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇、本名は伊久米)『魏志倭人伝』 西暦248年 女王・卑弥呼が亡くなった。『三国志』 西暦248〜266年 第12代・景行天皇の息子・ヤマトタケルが熊襲(熊本)の討伐に成功。ちょうど吉野ケ里遺跡の衰退時期。 西暦266年 台与が普に朝貢した。 西暦266〜397年 記録が残ってないのか系譜が途切れたのかわからないが空白期間。大陸は戦国時代で倭もそれに参加して三韓討伐やってたようだ。架空の人物・神功皇后の時代 西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子・直支を遣わした。『三国史記』 ※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。 ※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力
ヤマト王権のスタートの地は確定だけどそこが邪馬台国というのは異議がある。 自分は邪馬台国は九州にあって後にヤマト王権に滅ぼされたと思っている。
>>852 張政っていう魏の軍人が、卑弥呼と台与に会ってるから実在。 仏教入れたら疫病流行したのは外国人が持ち込んだか あるいは海渡って戦争するのがきついから 貿易関係者か商品に伝染病のウイルスを仕込んで送り届けた呪いのプロが取引先にいたからでは
とりあえず、ヤマタイって読むのやめようや 邪馬台はヤマトと読む
日本書紀では干支が出てくるのは神武天皇の時からで 少々の誤差はあるものの年代=暦は干支でほぼ正しい 地理的記述に関してもほぼ正しい むしろ方位も距離も都市名もでたらめなのが魏志倭人伝 それでも日本書紀に次いで日本の事をかなり曖昧だが正しく描写されている 但しその解釈には蔑視がかなり含まれている 嘘と真実が半々なのが魏志倭人伝 日本書紀は魏志倭人伝とは比較にならないくらい正確に日本の過去を描いている
畿内説の人間があまりにも横暴すぎて無理強い感がある 関西圏内どうしの争いや、大阪が東京を敵視してる感じとおなじ臭さ 九州説の人はわりとたんたんとして楽しんでるのに
魏志倭人伝に女王が出てくるのは当時の日本や朝鮮半島ではもう既に神功皇后が有名だったからから 内外にその名前はとどろいていた だから魏志倭人伝も卑弥呼の名前を出すしかなかった しかし日本書紀では一言も卑弥呼が神功皇后であるとは書かれていない そこが肝要
>>854 この場合は天日槍。製鉄の技術を持って渡ってきた但馬あたりを中心に伝説が残る渡来人集団 スレ見てもわかるけど、畿内説の人はとにかく九州説を悪意を持って陥れようと必死すぎるwwwwwww
台湾て台国に向かう途中の港だから台湾なのか ちゃんと別の国があったのか 中国人は長く台湾のこと 倭寇の根拠地 として認識してたようだから、多分台湾から倭に来ることもあっただろう 逆もあるけど
>>851 九州から出土したのが魏晋鏡なんてどこにも書いてない こういう詐欺師みたいなことはやめた方がいい なぜ?神功皇后の名前がGHQのにより日本の歴史教科書から消えたのか? それは神功皇后が武人の神として源氏から日本人から崇拝されていたから また三韓征伐で朝鮮半島に出兵していたから 当時の韓国人や在日朝鮮人からGHQに強い要望があり日本の歴史からその名前は消えることとなった それが本当の所
>>548 ホケノ山古墳、纏向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、纏向矢塚古墳・・ なぜ?神功皇后の名前がGHQにより日本の歴史教科書から消えたのか? それは神功皇后が武人の神として源氏や日本人から崇拝されていたから また三韓征伐で朝鮮半島に出兵していたから 当時の韓国人や在日朝鮮人からGHQに強い要望があり日本の歴史からその名前は消えることとなった それが本当の所 実際には神功皇后は実在の人物 その夫の仲哀天皇も息子の応神天皇も実在の人物
神功皇后ってもしかして別に本人に手柄があったとかでなく 単に天孫神の戦利品として嫁に取られて 諦めてみんなに臣従を呼びかけただけの人なのでは
>>870 その神功皇后が天日槍の子孫というのが面白いところ 新羅の子孫が新羅を討伐している >>725 天皇と呼ばれる様になる前は大王(おおきみ)だった 畿内、九州などの先入観を捨てて素直にライン引きすると 奄美群島のあたりになりませんか?
そんなヤマトも、人を酷使しすぎてアマゾンからの撤退を余儀なくされた。
なんか 天照さんは岩戸から引きずり出されたあと、 旧土人の信仰の対象象徴として侵略者に監禁され 死ぬほど混血の後継ぎを出産させられたのち本当に死亡 表向き生きてることにされてたので探しに来た世話係の弟が姉の死体見つけて 侵略者の手下たちに死ぬほど追いかけられた話 がイザナギイザナミ伝説だったらこわいなーと。
馬鹿丸出しの在日馬鹿朝鮮人は古代ユダヤ人が白人系アシュケナージと同一のように誤魔化すが 実際は白人系アシュケナージではなく モンゴロイドの縄文人が古代ユダヤ民族 そもそもメソポタミアシュメールのヘブライ人とイスラエル王国のヘブライ人は言葉もヘブライ語宗教は神道と同じ 元々日本の縄文人達は日本列島に3〜4万年前から住んでいて旧モンゴロイドの縄文人 1万年前に発生した新モンゴロイドのシベリアエベンキの中国朝鮮人達とは全く違いもう日本列島に住んでいた縄文人達 日本列島自体火山噴火や地震による影響で縄文人達が住処を追われ日本列島を離れ世界へ散らばりまた戻ってくる 結局メソポタミアシュメールのヘブライ人達もイスラエル王国のヘブライ人達も同じ日本の縄文人 7300年前に桜島でのカルデラ噴火の影響が結局日本列島を離れ世界へ散らばり中央アジアチベットや地中海沿岸に住み始めた結果 縄文人達の避難ルートは出雲神社での出雲族の由来にて縄文人達のルートはわかっている 結局ヘブライ人達が弥生人の渡来人と言っても結局同じ日本民族の為民族遺伝子は受け継がれている 結果日本民族遺伝子を持つY染色体のD2遺伝子は守られアラブ人やウイグルチベットなどの血が混ざって今の日本民族遺伝子がある そこに朝鮮人の遺伝子などなく 日本の朝鮮人達の遺伝子がでるのは明治以後大量に日本へ入った結果 在日は馬鹿丸出しで日本民族遺伝子に朝鮮人達の遺伝子があると誤魔化す そもそも在日の遺伝子を調べたところで朝鮮人達と一緒なのは当然 元々日本民族の遺伝子は朝鮮人達には全く存在しないあかの他人
なんか九州や三重県愛媛県あたりの無人島に 麻薬も扱うひみつの売春島みたいのがあって 運悪く捕縛された女とかが強制乱交とかで混血出産させられてるとおぼしきこわい島があるよね 定期的にひみつの船が出てるけど部外者が立ち入ると殺されるやつ 神域とか言って
>>876 行程からはそうなる でも、そこには陸地はない 7万戸の戸数で北部九州を傘下に収めていた大国は存在できない だから、方角が間違ってて東にある大国なのか、距離というか日数が間違ってて倭国はもっと小さかったのかで 畿内説と九州説に分かれていた 近年の考古学の進歩によって、北部九州は畿内勢の傘下に入ろうとしてたことがわかって、学術的には畿内説で決着したわけ >>881 畿内勢力が九州を飲み込んでいったのは明白だけど 後はその時期では、と思う 三世紀半ば以降に飲み込まれたなら、九州説の余地はまだある気はする 庄内式土器が西新式土器を駆逐していく時期がいつ頃かに依るのでは (後は畿内勢力の象徴と言える前方後円墳の生成時期) 後気になるのは、伊都国があったと思われる糸島半島近辺からは 畿内の庄内式土器が殆ど出ない点。中央の代官として一大率を置いていたのなら もう少し出てもいいはずなんだが 最初は九州を南進して宇佐神宮まで行ってから 海沿いに北上して伊勢神宮まで行った と考えても距離は合わないの? >使者の訪日ルート
近畿大和は代々筑紫城に住んでた漢委奴国王の末裔の国だ 漢委奴国王は日の出る方向に引っ越した その後、委奴国がどうなったかと言えば大乱を経て女王が治めた 邪馬台国は九州倭国にある女王の座す都だ 日の出る方向に引っ越した漢委奴国王が新しい国を大和と名付けたのは もしかしたら故郷の名前だったのかもしらんね
イザナミの吐瀉物や排泄物からも子供が生まれたて これが天照さんの末路ならひどいことされてそう
邪馬台国の「台」は当て字 「壹、ト」だから、ヤマトノ国。 漢文を知らない先生がヤマタイコクなどと命名した
>>866 それもだけど、ひたすら持論を並べて、こうだ!と断言してるのが笑えるw そういう宗教的組織でもあるんじゃないか? やっぱりヤマト王権だよな 佐川なんて規模が違い過ぎるよ
邪馬台国はヘブライ語でマタイの国 即ちヘブライ語でマタイはイエスキリストの12支族を意味し 邪馬台国はイエスキリストの12支族の国となる 邪馬台をどうしたらヤマトになるのか 台を抜けば山の国になるがw それとも邪魔な国w そもそも邪馬台国自体中国の漢字の当て字で邪馬台をヘブライ語で発音するとマタイで中国でも邪は全く発音しない 本当馬鹿丸出し
>>881 問題は北部九州が連合に参加した時期なんだよな 魏志倭人伝の記録を畿内説として読むなら、卑弥呼の時代には既に北部九州は連合に参加していて、日本海かもしくは瀬戸内航路で畿内まで行き来することが可能になっている ヤマタイとか日本に4文字の地域名なんてありませんよ、ほとんど3文字です。
>>882 前方後円墳の築造の前に畿内系土器の浸透、つまり畿内系住人の移住がある 伊都国の王都があった三雲地区では畿内系土器が1つしか出てないが、奴国があった博多はもう畿内勢の傘下に入っていると言える その時期は久住編年でIB期で、これは3世紀前半 伊都国の王だって少なくともヤマト国の存在を認識してたことは自明 また、伊都国や奴国が他の九州勢の傘下に入っていた痕跡は皆無 伊都国は中国鏡の配布元になってたし、奴国と並んで北部九州のリーダー的存在 畿内>伊都国 かつ 伊都国>他の九州勢 であるから、九州のどこかに倭国の盟主を想定するのは無理がある そういえば白石太一郎氏も邪馬台国論争は決着済みと言ってるが、その辺わかりやすく纏まってる最近の資料とかあるのかな?
>>891 ヘブライ語がどうたらの件は知らないけど、馬台(マタイ)に注目すべきなのは同意。 >>869 卑弥呼がもらった可能性の高い「10種の魏晋鏡」の出土数 のグラフがあるじゃないの 畿内説に都合が悪いものは見えない病気かなにかなの >>892 奴国は積極的で3世紀中頃には連合に加わってたのは確実でしょう 伊都国は独立を維持しようとしたが世の趨勢には逆らえず、3世紀後半か4世紀前半に渋々参加したって感じかw >>894 皆無って程でもない。久留米の祇園山古墳は生成時期が卑弥呼の時代と言われてるが ここから出た甕棺は糸島の様式が認められてる (甕棺は末期はほぼ無くなるが、皆無って訳ではない) そして中央との関連を伺わせるのは、挙げてもらった一例しかない 編年も土器の相対年代は判るが、絶対年代までは分からん 久住氏の年代比定も周りの遺物と比較しての類推だしな だから柳田だの、甚だしいのは関川だので色々と年代が変わる 後、福岡も東側(那珂遺跡はこちら)は畿内勢力が早くから入ってるが、西側(西新町遺跡など)はそれが遅い 更に西側の糸島に至ってはもっと遅い 後は何らかの科学的手法で、絶対年代の比定が要るだろな (この時代のC14はあbワり当てにならbネいのがきついbェ) 当時はこうだったとかまるで見てきたかのように語った挙句に畿内説で確定!だってw 考古学の結論の出し方って韓国の徴用工判決みたいだなwww
>>882 魏志倭人伝の記述を見れば、3世紀頭の倭国大乱で 邪馬台が権力失ったのが見て取れる。恐らく奈良が覇権国に。 4世紀に入り、華北が崩壊。東亜に秩序無き時代が始まる。 半島で百済が地域統一し、南下。おそらく鉄の産地を押さえたろう。 これで、百済とつるんだ奈良が、列島内で圧倒的な優位に立つ。 邪馬台の滅亡、列島の統一は、この秩序崩壊の4世紀だ。 >>902 伊都国の立ち位置がよくわからんのよね 一大率が置かれていたり後の太宰府みたいな役割をしているらしいんだけど、ここが安曇の勢力なのか宗像なのか 天日槍の子孫だと風土記にある点も気になる >>901 10種の魏晋鏡とやらは安本が勝手に言い張ってるだけで、どこでどの鏡が出土したかは書いてない おまえに再三聞いたが、吉野ヶ里とかデタラメ言ってただけで、結局答えなかっただろ 倭も邪馬台国も卑弥呼も中華思想で中国が侮辱してつけた名称だからね 日本では別の名前だったが文盲だったからよくわからんのでそれを正式名称みたいに扱うしかないのが残念だな
>>907 某説だと一大率は関門海峡に置かれていた。だから伊都国もあの辺り。 ヤマト政権と邪馬台国は繋がりのないまったく別の国だと思う
>>199 臺という字があろうがなかろうが全然誉め言葉になっていない 邪悪でどこの馬の骨かも分からん皇帝のいる国、そしてそれは卑しい巫女という意味でしかない 明治維新はチョン天皇戴いて 朝鮮が出てくるインチキ歴史になった
>>904 伊都国と他の九州勢の比較で、伊都国が下位ではないだろ? 奴国の状況も考慮すると、魏使の認識による倭国の盟主とは現状ヤマト国の一択なんだよ 九州説は伊都国の王様が魏使に嘘を教えたという陰謀論でしかない あと年代についても柳田は庄内式を3世紀中頃までにしてるはず (あえて九州説のサイトから引用) 関川は北部九州との共伴を考えてないから無視でいいだろう 楽浪土器の出土が減る時期との関連なんだが、久住編年なら整合性がとれる 畿内系土器の北部九州での出土時期と楽浪土器の出土時期で重なったのは20年か30年だけど 紀年銘鏡がその時期ばっかりなのと一致する まぁ纒向が始まりと考えるのが自然 投馬国は出雲だと思うがどうだろう
邪馬台(邪馬臺)はヤマタイとは読めないらしいぞ ヤマトゥみたいな読み方になるらしい ヤマトと邪馬台は別の国ということにしたい奴が頑なにヤマタイなどと読んでいる
敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀(播磨) 賀は牙、旗印を立てた拠点、関みたいなものだろう 天岩戸だろうな 倭国大乱で吉備、尾張東海、出雲山陰に連動して、国境警備の兵が反乱を起こしたのかもしれない 香香背男(香賀)とかは最後まで反対していたが懐柔されたのかも 櫛、櫛を付けた巫女の埴輪が見つかっている 巫女の役割は民、衆、兵を纏めることだろう 卑弥呼も同じ 兵団に伴った巫女の一団の埴輪も見つかっている
>>912 そうだよ。 畿内の大和王権がわざわざ九州日向国にルーツがあると書いてる。 畿内土着政権ではないとはっきり宣言しているのに、畿内だ福岡だの、邪馬台国と繋がるはずがない。 邪馬台国よりももっと前に日向国から出発してたと考える方が無難。 倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。 土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。 昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。 戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。 倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。 また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。 いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は 中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが 今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。 倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。 その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。 婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。 皆おかっぱ頭で、裸足である。 倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。 土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。 倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。 食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。 正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。 死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。 葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流) 重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。 倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。 婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。 軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。 その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが 漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。 其の名は卑弥呼という。 宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。 文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。 晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。 「晋書」第97巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰 神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが 致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた 神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
>>6 あくまで象徴的な存在だったと思う 人前に姿を出さずに1人の男子が言葉を伝えてるんだから具体的に国を動かせると思えん 実際に政治を行なっていたのは男弟と表現されてる崇神天皇で卑弥呼は上がってきた議題に対して吉凶を占ってただけだろう 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。 皆、徒跣。屋室有り。 父母、兄弟は異所に臥息す。 朱丹を以ってその身体に塗る。 中国の紛を用いるが如し。 男子は大小無く、皆、黥面文身す。 古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。 夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。 今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み 文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。 後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり 或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。 その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。 女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。 常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。 王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が 倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。 文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。 「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰 神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが 致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた 神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
>>876 最後の長距離移動を 総距離と言う説があるんだよね。 細かく次の国、次の国と進んでて一気に移動してて途中には国がないの?って話から 邪馬台(やまと)は、九州の倭人(或いは最初に倭人化した九州人)が作った国。 半島・大陸との交易と朝貢を一手に握り、列島に覇を唱える。 その影響で、列島が広く「倭人化」し、倭人経済圏の中心が東に移動、 → 3世紀初頭の倭国大乱で、おそらく奈良が勝利。新たな覇権国に。 ※元祖倭人は、半島弥生人に少数北方民族が混ざり誕生した新言語日本語 を話す集団。 列島では、九州とその周辺にしか入っていない(遺伝子分布より)。
ヤマト王権はその後、宋にも朝貢してるんだから親魏倭王の金印は返してるだろ
いずれにしても偉かったお方の墓なんだろ。 箸墓古墳、もうちょっと整備せいや。 幼稚園の裏山かよ。
>>926 普通は返却する 奴国は倭国大乱によってヤマト王権に覇権を奪われた為に金印が残ったが 恐らく奴国は磐井で家宝としていた金印を磐井の乱の際に志賀島神社預けたんだと思う なんでヤマト朝廷じゃイカンのか? 秦の始皇帝より前の殷歴代王朝を王朝と言うクセに ダブルスタンダードだよな〜 王朝の 朝はその理屈ならそぐわないだろうに。
>>921 邪馬台国は、倭国大乱で負け、男の王を禁止された(!)。 それで、女の卑弥呼を女王にして、実権は、弟が握っていた。 卑弥呼なる存在自体、虚構だったかもしれない。 倭国大乱で勝ったのが、恐らくは、奈良だ。 4世紀、邪馬台を亡ぼした後、大和朝廷となる。。 ウリナラはヤマト! ↑ 畿内説を纏めると、まんまこれww
>>930 戦後の赤い歴史学会の「同志」たちの戦果ですよw 鎌倉幕府成立も1185年とか気違い理論www って言うか、魏志倭人伝だと朝鮮半島の端まで倭国があるんだけど 何で、学会は無視してるんだ?
邪馬台国はここにあってほしいという感情からスタートしてる時点で学問としてはダメだよね だから未だに邪馬台をヤマトと認めることすら出来ない 文系の中でも特にダメだわ
>>937 歴史学会の赤いフィルタに掛かると、 首領様辺りが発する言葉が歴史になるんだろw >>938 感情じゃなくて、漢城のほうかな、歴史学会はw いやいや、平壌の方でした。失礼w 從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里 その(倭国)北岸の狗邪韓國に到着 これ、どう見ても、倭国の北岸は朝鮮半島の南って意味だろ?
>>767 日の出るが如く勢い盛んな日本の天子が 日が没するが如く老いぼれの支那の天子に書をいたす 格好えーな 天子様はやっぱりこうでないと 卑弥呼? 邪馬台国を僭称した魏に媚売りインチキまじない女酋だろ By本居宣長 >>919 阿毎一族は代々筑紫城に住まうというのに、なぜ古事記は日向などと書いたのだろうか 1)九州北部に日向がある 2)阿毎一族とは別の一族の者 3)嘘を書く必要があった(or なんとなく嘘ついてみた) 皇室公認の公式書は日本書紀であって 貴族の教養として教科書とされたのは日本書紀であって 古事記は長い間存在すら認知されず 偽書と断じる者もかつて多くいて現在でもいる ことはどこかに留意しておく必要はある
邪馬台国ばっか言ってるが、 狗奴国も何処にあるのかはっきりさせて欲しい 俺は関東説推しだけど
>>919 今の日田市の辺りに日向という地名がいくつもあったはず。 北九州にあった卑弥呼亡きあとの邪馬台国を ニニギを首長とする朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫巫女と結ばれて王子が産まれたのが天孫降臨。 その子孫が後に東征して畿内を征服しヤマト王朝を作った。これが後の天皇家。 こんなの常識でしょ。手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある。
元々畿内にあった勢力を東征してきた神武天皇が 宮家の得意技、酒を飲ませて寝込みを襲うで潰して出来たのがヤマト王権 その前にあったの邪馬台国だわな。その他の地域に貢ぎ物出させてた一大勢力があった
2700年近くの歴史があるはずなのに1700年前のこともわからないとかどういうことかな
>>949 ケノ国という音しか手掛かりがないから難しいよ ナ行がマ行にはならないから熊襲はないけど熊野は最後ナ行だし まぁ二文字でケノに近いところだよ >>952 テョン塚氏の言うように朝鮮人なら 新羅を攻撃したり報復したり東の果てに遺棄したり チョンが反乱を起こすと鎮圧したり そういうことをしなかったろう 皇室がチョンならチョンのように一貫して額を地面に着けてシナの靴を舐め続けた チョン新羅は白山神社 >>954 まだ皇紀なんて信じてるの?おっくれてるぅ >>949 その先に小人国も必要になるんだけどどこになるの? 面白いくらい同じ事象から正反対の答えが飛び出てるな 想像ばかりでだれも本当のことはわからないんだよ 学者ははよ発掘を進めてくれ
>>915 祇園山古墳では主体部(石棺)の周りに使われてたのが糸島絡みの甕棺だから 主体部と従属関係であった可能性もなくはないだろう 奴国の状況と言っても、庄内式が始まるのが三世紀中盤だと遅すぎる(卑弥呼が死んだあたりになってしまう) 庄内式は2式の時期から北九州一円に広まるはず。最初期はほぼ那珂遺跡近辺しか無かったと思うが 少なくとも230年(三世紀始め)あたりには九州を傘下に入れていないといかんけど 庄内式の開始時期によっては合わないと考えるが 紀年銘鏡の場合、制作された時期はそれで良いとしても それがすぐ墓に埋葬されるか、という問題がある 何十年か使っている可能性も。確か古墳時代中期からも漢鏡やらが出てきてたし だから、紀年銘鏡にある年が即ち埋葬年代、という事は確実ではないと思うが >>961 宇佐は大神だから、奈良にも分布してる 神武天皇と同じく、九州から近畿だな 宇佐と吉備は同族というくらい瀬戸内海は交流が盛んだから、日向出身の者が畿内で婿入り的に王族になっても不思議はないけどね 西都原古墳群といい、かなり早い時期から日向と大和の関係は密接
なにか大和朝廷だとマズイ事情でもあったんだろうか?わさわさヤマト王権にする必要あるんだろうか
>>769 そのネタ、邪馬台国スレ5本に1レスくらいでええわ つまらんから なんならゼロがええな 数年前までは九州説が優勢だったように思うが いつの間にか近畿派が逆転して九州派を圧倒してるんだな
>>946 古事記だからなぁ ごめんよくわからない 蘇我が本来の天皇で、国を簒奪したのが天智になる中大兄と藤原の百済人コンビ また奈良時代=天武系は九州系の一時復活 だから皇室の過去帖から天武系は、除外されてる
>>972 平安時代になると中央政権になって九州ハブられるよな 半島と縁切ったら、もう敵の脅威しかないか 狗奴国は畿内そのものです 魏志倭人伝当時は、北河内、なにわ、ヤマトが征伐されて、南河内と和泉まで縮小していました
もともと宮崎 広島 岡山 大阪は血縁 でも福井の豪族に滅ぼされたのが大阪 福井から大阪まで支配したのの子分になったのが九州倭国 蘇我氏 で西日本支配の平城京できた
>>973 白村江で九州倭国が滅亡した時に百済から大量難民が来た 藤原は進駐軍で九州は沖縄みたいな扱いかも 狗奴国を募集しても誰も手をあげないから 俺が狗奴国かw 畿内説って、どうやって成り立たないわ
▼梅原猛(京都在住の哲学者) 『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』 ▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学) 『畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている』 ▼レヴィン(旧ソ連の人類学者) 『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』 ▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学) 『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』 ▼埴原和郎(東京大学名誉教授・福岡県出身の人類学者) 『私どもが行った分析から見ても近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』 ▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学) 『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』 ▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学) 『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』 ▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身) 『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』 ▼中橋孝博(九州大学大学院教授・奈良県出身の人類学者) 『例えば関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は少し背が低いものの、眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い』 ▼国民百科事典(平凡社) 『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
>>1 >ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか 邪馬台国が纒向にあったとは言わないんだな やはり撤退しつつあるのか ついでじゃ 日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮 宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている 今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う 続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった 記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている 日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している ちゃんと調べれば分かることばかり 木花咲耶姫の本名である神阿多都比売 海幸彦の子孫は隼人族の阿多君 神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹 代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島 旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話 高千穂地名の変遷 日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?) 宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。) 和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。) 大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。) (参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>977 でも、難民は不毛な関東に追いやられたんだよな >>981 貴族と姻戚結んだのもいますし関東にやられた難民もいます。高麗川とかもろあっちの名前 まあ高千穂って山の中だしな 五ヶ瀬川が作った深い谷の上に少し平坦なとこがある、てレベル 神話っぽい雰囲気はなくはないが、あそこから出ていったてのはなあ、、
潮嶽神社 ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。 神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。 隼人の祖は海幸彦。 海幸彦と山幸彦は対立していた。 海幸彦は内陸へ追いやられたとある。 山幸彦の子孫を自称する天武の時代に隼人の乱が起きたのは必然と言える。
ありがたやありがたや 流浪の韓国人強盗団その名もヤマト政権
>>983 高知尾って新しい本にしか載ってないんだな しかも苗字で多いのが関東地方 小手子とか蜂子皇子とかもそうだし、中央の権力闘争に敗れたら、関東東北に逃れたのかもしれないな
百済は太祖天智系桓武帝も認めた日本の諸蕃だからな。 野蛮国マンセー
>>987 千葉に高知尾あったり、茨城に高天原があったり 面白いよね 潮嶽神社は唯一海幸を祀ってる神社 小さいけど中々いい ただうっかりしてると通りすぎる。行く時にやらかしたなあ
>>329 >言語学者・長田夏樹は、日本の古代言語は三つの異なる地域に分けられるという >すなわち、S音の北部九州、ts音の近畿、tf音の東国 >魏志倭人伝を分析すると、ほとんどがS音をつかっていることが明らかであり >これから推測すると、S方言圏は北部九州であり、云々 これは興味深い 知らんかった 近日中に図書館に行って長田夏樹の『邪馬台国の言語』借りて読んでみる ありがとう てか、半島や中国とはなんの言葉でやりとりしとったんや?
一般的に納豆がキライなのは関西だけみたいだ九州人と関東人は似てるんじゃない?
平将門の乱と同時進行で 藤原純友の乱が太宰府で起きてる件
>>993 伊都国、奴国、不弥国、末盧国、投馬国、邪馬台国、狗奴国 ほんまや! S音ばっかや >>967 纒向箸墓説は近畿圏のBC級考古学者ばかりだから 歴史学者はいまでも九州説(佐藤信 倉本一宏 鈴木靖民)
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