戊辰戦争の会津藩と徳川幕府をテーマに語り合う(左2人目から)松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏、柳沢氏、左は白石氏=会津大
戊辰150年に合わせた歴史文化講演会「戊辰戦争 会津藩と徳川幕府」が21日、会津大で開かれた。会津、庄内両藩や奥羽越列藩同盟で主力を担った各藩の当主がパネル討論で同盟の意義などを語り、「先人の努力で平和な社会が成立したことを忘れず、未来につなげる役目がある」と結論付けた。
約450人が来場した。会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(64)、庄内酒井家18代当主の酒井忠久氏(72)、仙台伊達家18代当主の伊達泰宗氏(59)、二本松丹羽家18代当主の丹羽長聰(ながとし)氏(74)、米沢上杉家17代当主の上杉邦憲氏(75)、盛岡南部家46代当主の南部利文氏(48)が登壇し、在京の会津出身者でつくる「会津会」会長の柳沢秀夫氏(65)が加わった。進行役は漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長(85)が務めた。
当主らは各藩の置かれた状況を語り、戊辰戦争が新政府軍の「大義なき侵略」を目的に行われ、「義」の在り方に対する疑問が東北、越後諸藩の同盟成立につながったとした。
松平氏は「戊辰戦争は明確な侵略戦争。民に塗炭の苦しみを与えることが分かっていて、なぜ推し進めたのか理解できない」と指摘し、柳沢氏は「過去を変えることはできないが、今の時代に生きる者が何を教訓にし、未来に向けてどう生かすかが大切」と語った。
討論に先立ち、徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝(つねなり)氏(78)が「江戸時代に築かれた日本の基礎」の題で講演、「武」から「文」に大転換した江戸時代に平和の基礎が築かれたことを語った。漢字文化振興協会長の石川忠久氏(86)は戊辰戦争に関係する漢詩を紹介した。「戊辰戦争から150年、これからの街づくり」をテーマにした鼎談(ていだん)も行われた。
文化講演会は漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年記念事業実行委員会の共催、県、会津若松市、市教委、読売新聞東京本社福島支局、福島中央テレビ、ふくしまFMの後援、弓田建設、会津商工信用組合、会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローの協賛、会津まつり協会の協力。
福島民友 2018年10月22日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181022-318073.php その前に話し合わなければいけない案件が有るのではないかな?
福島県のみなさん?
列強に直に侵略されること考えれば利害を分散させて内乱で終わらせられたのは賢いで
徳川宗家が恭順した時点で最低でも親藩や普代への侵略という理屈はありえないね
徳川に絶縁状でも叩き付けてんならまだしも
親父が戦前で金なくて困ってそうといっていた。近所に住んでたから。
人は記憶型と思考型に大別できる
江戸城の無血開場で薩長の勝ちは決まった
会津攻めは無用の戦
旧勢力を駆逐し過ぎたために薩長の力が強くなりすぎた
その結果、歯止めが利かなくなった
それでも明治の間は何とかなってた
だが大正と昭和となると暴走しだす
>>1
切腹するのが嫌だからと
女子供まで死ぬまで戦わせておいて
自分はさっさと降伏して明治の世をのうのうと生きた松平容保の会津w 美化して良いのかい?無駄死にやんけって言われる今日この頃
>>11
最近歴史学者が内戦回避して偉かったとか盛んに言ってるけど
実際は腰抜けだっただけだろw 全てを敵に回して悲劇的な自滅へすすんだ会津の悲劇って、数十年後、日本全体で世界を相手に再現されたね
歴史よりも
今の現状に顔を背けずに議論した方が良いと思うよ
侵略?ならば、日本を統一した秀吉は偉大な侵略者でもある
>>20
北海道独立させてくれ。
エタヒニンと鮮人は帰す。 京都であれだけ長州藩士殺しといて、自分たちが殺されると騒ぐ。
まるでチョンみたいな奴ら。
>>25
エタヒニンこそやんごとなき血筋に近いっぽいのに おまいらなんも知らんな
まず世良修蔵について調べような
勝てば官軍 後世に語り続ける
負ければごねるとか、認めないとかも一応歴史に残るが、反面教材としてな
両親が仙台生まれだが、戊辰戦争は東北の藩の情報不足で時代に合った判断が出来なかったこと。
最近、青森旅行してきたんだけど、、、
むつ市は斗南藩の歴史を抹殺でもしたいのか??
まあ長岡もそんな感じだったから未だに賊軍扱いされたサイドは
表立って語れない雰囲気あるね(´・ω・`)
現代の価値観で評価すればそうかもしれない
しかし民草の苦しみを思えば戦う、という選択を
すべきではない、とも言える
文久の改革で成立した徳川幕府の一会桑政権に対する薩長新政府の復讐でしょ
毛利家は江戸時代に、毎年大晦日に徳川幕府討伐の軍議もどきをやっていたらしい
幹部が集まって、江戸を攻めますって殿様に進言するが、
殿様は「まだ早い」って
それを二百年以上続けてきた
おめえらが降伏してたら済んだ話w 上に立つ者の責任ってのがあるだろ。領民苦しめやがって
薩長と罪は同じだよ
>会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(64)
こいつがNHKのプロデューサーだったから
八重の桜とか歴史番組での会津アゲとかがひどかった
松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏は
徳川氏、豊臣氏、織田氏に1600年前後
お互いに侵略された負け組同志ではありませんか?
>>33
二年ぐらいしか存在しなかった藩なんて地元民でも大して関心ないだろ
大体そんな連中なんて元々の住民から見れば他所者以外の何者でもないし 理由はどうあれこういう集まりがどんどん増えるのはいい事です。
というか、もっと積極的にやるべきですね。
福岡藩もこういう事をもっと重視していれば、黒田本家がおかしな事になったりしなかったと
思いますし、今からでもやるべきだと思いますね、本当に日本の未来を憂うのなら、
未来の日本の政治にはある程度はしっかりした血統の武家が関るべきです。
温故知新という言葉が言葉だけになっちゃってるのが現代日本だからね。
私も叔父との関係を回復したら、そういう事を調べてちゃんとしたいですね。
それが本当の意味での先祖の供養になるしね。
会津藩は確かに歴史の汚点がありますけどね、
過去に名を汚した一族が活躍することでその汚名を拭い去る事も多々ありますからね、歴史には。
徳川家自体がそういう一族ですしね。
防護服着て作った作物を他県にバンバン輸出する会津土人のコメント
「孫には食わせられない」
松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏は
徳川氏、豊臣氏、織田氏に1600年前後
お互いに侵略された負け組同志ではありませんか?
お互いに負け組同志で傷の舐め合いは辞めるべし!
現代に蘇った奥羽越列藩同盟!
今度こそ薩長に勝とうずwww
とにかく女々しい。侍らしくない被害者意識、恨み言w
先祖を汚すなよ
若者死なせて殿様だけ戦後ものうのうと生きながらえて
よくこんなふさげたことが言えたもんだな
何が侵略だよ?
当時の大名は徳川の家臣であり、徳川もまた天皇の家臣なのだから、筋論で言えば徳川及び天皇の決定に逆らった会津の方が反逆者だろ?
沖縄アイヌと来て今度は会津か
まあ延々とやれれてろ
会津若松じゃ鹿児島ナンバーの車というだけで10円チョップを食らうんだろ?
頭おかしいよ。
薩摩長州が官軍になって江戸城も明け渡しちゃって徳川も負け認めた状況だけどもう戦うしかねえってことで戦ったわけでしょ?
将軍様もとっくに引きこもっちゃって負けが決まったのに義も何もないだろ
京都の公家が日本を支配している。
九州勢はその配下にある。歴史的に、東北、関東は、蝦夷地のような
非文化的野蛮な人たちと蔑視している。現在も厳然とある。
だから、東日本震災で東北は犠牲になった。東北は見捨てられた地域と言っても
過言ではない。バス1台も出さず、誤報につぐ誤報で福島を皆殺しにした。
日本を支配している連中は、東北などどうでもいいんだよ。この日本の支配構造は
絶対的なもの。時代を経て武士層が立ち上がったが、皆武士に終わっている。
それが血の血脈という宿命的な日本に支配構造。宇野正美を参照
もうわかりきったやり口
原発で酷いめにあわされた福島県民を煽ってるの丸わかり
異民族でもないのに必死で「他と違う」を意識させる
マニュアル通り
でもさすがに無理があるぞ
会津藩祖保科正之がつくった家訓には徳川家に忠誠を尽くせと言っている。徳川宗家たる徳川慶喜が新政府軍に恭順を示したのだから、会津藩も無駄な抵抗はせずに新政府軍に恭順すれば良かった。そうすれば白虎隊などの若者が犬死する必要がなかった。
あほか 時勢を読めずに勝つほうについたつもりだったんだろ
こんな田舎大名の末裔の不満分子
さっさとアベシュッツスタッフェルを差し向けて
一網打尽に逮捕しろよ
>>42
確かに地元は思い入れないだろうな。廃藩置県後、残る人は少なかったらしいし。
家割り作った跡地に唯一あった一本のノボリも会津から持参してきたものだった。
むしろ会津側がむつ市に会津を語られたくないって感じもあるかもしれない。 俺自身出身みたいなもんだけど、
巻き込んだ会津側がこんなことをするのはなぁ…と常々思う。
奥羽越列藩同盟って、大槻磐渓の脳内への情勢アップデートが5年遅れたため、
仙台藩が新政府の能力値を読み誤ってしまい、うっかり「東北でまとまっちゃった」ってだけの話なんだよ。
仙台が但木・大槻路線でまとまらなければ、列藩同盟そのものがあり得ない。
たんに徳川残党が各個撃破されて済んだ。
もう徳川宗家は恭順なんだから、義もへったくれもない。
火病化した会津からみれば「義」かもしれないが、
仙台など本来の外様が会津側に立ってしまったのは、
情報伝達の遅い東北では、新政府は頭が悪い尊攘派の野合クーデターと未だに思われていたからというだけ。
大槻は儒学者だったから、その理由付けが儒者風になった。それだけの話だ。
そもそも武から文という発想がおかしい。
文と武は両道である事が望ましいとかの司馬遷も史記で言ってますからね。
そして、それこそが常ならざる世の中で常勝を築き、国家繁栄の第一歩なのであります。
その基本を忘れてしまったのが前川のような現代日本のガリベン東大のチンピラたちであり、
自分たちの利権の為にテストのスコアで人の価値を判断したがる智恵遅れのキチガイたちであります。
文と武は国家の表と裏であり、武なき文など国家存亡の危機においては訳にたたないし、
文なき武はチンギスハーンのように7代祟られてもまだ祟られ続けるような事になりますからね。
現代日本も文を重視しすぎて歪んでしまったんです、この辺りで一回しっかり改革しなければならない。
福大大濠が正しいんですよ、ですから。
>>1
錦旗に手向かいした時点で、まごうかたなき賊軍やで あ 僕チン今住んでるところ 武家屋敷だったとこだわ
明確に日本の近代化の足を引っ張った側だし
戦後日本がなにもかもアメリカの主張に反論できないように
そもそも負けた側には名誉を回復する機会はない
会津大学とかなぜか惹かれたその次に姫路工業大学に惹かれた
結局宿敵の本拠地で2回も辞めたわ 固いやつの墓の近くが一番落ち着いた大学だたわろす
>>59
新撰組が倒幕派の志士を殺しまくったし新撰組のオーナーが会津潘だから長州に取っては恭順では許せないし禁門のクーデターで長州に屈辱を与えた恨みが有る 民友って恒三の方だっけ
実験炉受け入れた茨城県から商業炉横取り
自分は会津だから心配ないしってかあ
これ読んで会津人の小物さが良く解ったわ
スケールの大きな桜島と大海原を見て日々生きてきた薩摩隼人には永遠に敵わないよ
>>69
会津潘が恭順しても配下の新撰組に同志を殺されたし禁門の変や長州征伐での恨みが有るから収まりが付かない 松平さんはこんな所で愚痴ってないで白虎隊の墓で手でも合わせてきなさい
>>85
渡部恒三は原発利権とは絡めない 会津には水力発電しかないから 恒三には福島県の発電利権を全部仕切れるような政治力はないぞ? あくまでも会津の二番手だから(一番手は伊藤正義 >と結論付けた。
と言うけど特定の立場の人たちが特権的に発言してるように見えるんだが
>>87
ですよねー
降伏しても 皆殺しの目に合いそう >>15 の続き
松平宗家 恭順
↓
薩長が松平の分家の会津を攻める
↓
松平本家が反旗を翻す
↓
松平本家は函館で最後まで戦う
いや〜この構図がちょっと面白くてな >>83
長州側のボスだった前原一誠は人格者で藩主に責任及ばないように配慮してくれている
それを山川健次郎は裏切った 総司令官の将軍が降伏したんだから、これ以上の抗戦はただのアホ
下手すれば海外の介入を招いて印度や支那みたいに分割されかねなかった愚行
>>32
官軍やった分家の宇和島の土下座で北海道に流されるだけで住んだんやで 新政府軍による会津への報復は理不尽だけど、
会津が幕府に殉じたなんてのは言われるのは大間違いもいいところ。
だって将軍の慶喜が降参してるのにね。
>>1
>>松平氏は「戊辰戦争は明確な侵略戦争。
はぁ?黙って頭下げてたらなかった戦争。
何の大義があって抵抗した? 会津が間違ってたとまで言う気はないし同情もしないではないけど
必要以上に片意地なその性質が必要以上に事態を悪化させたという見方もできると思うねの
実際容保は生き残ってるわけで籠城まで必要あったのかと
まあ、単なる権力闘争だけどな。会津などが負けただけ
>>55
藩主が処刑されなかったのは有り得ない。
潔くない。 >>32
>>99
徳川と伊達は、スケールは違うがポジションが良く似てた。
どっちも、分家トップ(尾張&越前、宇和島)が新政府の原始メンバーで、権威と正当性を回収しちゃってる。
関東と東北の政治勢力の正当性は、それぞれ尾張と四国が代替して持ってった。
王政復古の本当の立役者は、徳川慶勝と伊達宗城なんだよ。
王政復古号令のメンバーを見た段階で、この潮目を判断できたかどうかが、各藩の勝敗を決めた。 勝海舟は江戸城を無血開城し明治政府も慶喜を処刑しませんでした
あんた等、なんの大義があって戦ったんだよ。ただの血迷った武装勢力だろうが
>>93
藩主の切腹ぐらいだな。
新撰組は北へ逃がせ。 >>103 はぁ?黙って頭下げてたらなかった戦争。
会津藩は、新政府に恭順を誓っていた。
>>何の大義があって抵抗した?
新政府軍が攻めてきたからだろ。 徳川が恭順してる以上、
お前らは賊軍だわ。
後の西郷隆盛と変わらん。
西南戦争を侵略とか言うのか?
出た〜っ
侵略〜ぅ!
もう完全にいつものパターン
もうちょっとひねれよ
レベル低すぎ、面白くない
戊辰戦争を侵略戦争と決めつけるのならば、関ケ原の戦いも徳川家の侵略戦争と言われても文句を言えなくなる。
とりあえず松平保久というバカは、新潟県内の領地も含め、会津藩士が領内の農民を苦しめた史実を直視し、反省しろ。
>>101
報復と言うのが理不尽だわ。
薩長が同盟を結べてる。
江戸城も江戸の街も焼かれなかった。
松平容保と藩士が頑固で賊軍の道を選んだ。 >>113
あと、戊辰が仇って叫んで田原坂で斬りまくって復讐も済んでるんだよねえ。
普通の感覚だと恨みあったとしてもチャラw >>83
薩摩も会津側で長州をボコボコにしてるけど? 民は苦しんだというが、会津攻めの際に農民はほとんど戦を
傍観していたそうじゃないか。戦っているのは武士だけだと
政府側の誰かが嘆いてたということだ。農民はとっくに
会津藩を見限っていたという事だろう。そんな世が続けば、
どうなっていたか。西洋列強の脅威を前にしてそれでいいと
いう訳にはいかない。
>>111
官軍と戦うなら賊軍だわ。
歯向かっとるどこが恭順。
第一次長州征伐並みに藩内を粛清してはじめて恭順だろ。 >>119
京都での出費がかさんで、
領国で締め付けて年貢やらなんやらで
いわば苛斂誅求で恨まれてたとかな。
今の会津人は苛斂誅求を忘れてるようだ。 お前らほんとに人が良いなあ
いつものパターンだろ
少数民族を煽って反政府勢力に仕立てる
日本で地域性なんてほとんど消滅してるのに
世界でやってきたパターンそのまんまやるんだもん
杜撰
女子供を戦わせて無駄死にさせておきながら自分はのうのうと生き延びたバカ殿
コイツには100回は腹切ってもらわねば日本史の汚点
スペシャルゲストに島津の当代を呼んだら、もっと盛り上がっただろうに
奢れる長州は久しからずw
人口からしたらごく一部のサムライ同士の権力闘争だろが
巻き込まれた平民からしたら迷惑この上ねえよ
>>96
平田篤胤と佐藤深淵の影響で勤王派がそれなりにいた上に長州あたりからの駐留もあったらしいしなぁ。
秋田県民歌のあまり歌われることのない3番にもその辺りが描かれてるな。 薩長 「倒幕だ!」
↓
慶喜 「大政奉還」
↓
薩長 「政権を返上しても徳川は倒す。戦じゃ!」
↓
慶喜 「戦なんかできるか!江戸に引き上げる」
↓
薩長 「くそーー!江戸まで追いかけて江戸城を総攻撃じゃ」
↓
慶喜 「戦なんかできるか!江戸城を引き渡す」
↓
薩長 「んん。。こうなったら会津じゃ!分家でも徳川は徳川だ」
↓
慶喜 「会津君、戦は止めとけ」
↓
会津 「しかしそれでは武士の面目が・・・・・」
↓
薩長 「行けーーーーー会津じゃ!」
↓
会津 「えええええ!!!」。・゚゚(ノД`)
侵略戦争ね
それに抗うの為に北海道と新潟を売り飛ばても良いんだ
ふーん
会津プロパガンダ
蛮行三昧
売国奴
これ全部工作員が何のソースもなく勝手に言ってるだけwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
どんな文献のどこにも出てきませんwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あるなら出せ、と言ってやると、
「勝手に言ってるだけなソース」
を火病りながら大量コピペwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ご覧のとおり、工作員の歴史的事実(そもそもそれが事実なのかどうかも含めて)の捉え方には極端な主観がずいぶんとウェートを占め、俯瞰的な捉え方が欠けていますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
無いものを有ったように言い、火病って大量コピペしている様がそれですwwww長州工作員のレス内容は嘘と誤魔化しばかりです信用出来ません、見なくて結構ですwwwwwwwwwwwwwwwwwwww曝しますwwwwwwwwwww
鳥羽伏見の戦いの途中で徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却
その翌日には徳川御三家筆頭の尾張徳川が新政府に恭順
結果、旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗北
それからは
徳川方の御三家、親藩、譜代も正規軍は新政府
幕府から離反した反乱分子が会津などの奥羽へ行った
徳川御三家の尾張藩は、徳川慶勝が東海道諸藩の触頭に任命され
佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かしたことで
官軍は、難なく東海道を進軍できた
徳川親藩の越前福井藩が、官軍として上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦
戊辰戦争では長岡藩に対する征討作戦にも加わり、北上して村上城を陥落させた。
庄内や会津藩とも戦闘
徳川譜代筆頭の彦根藩も戊辰戦争では官軍に加わり小山や本宮など各地を転戦
近藤勇の捕縛にもあたった
戊辰戦争の時には
薩長+徳川御三家+徳川親藩+徳川譜代 VS 反乱軍+奥羽列藩同盟になった
>>96
そんなに同盟いたっけ?日本海側はどんどん会津を見限って南部潘と松前潘くらいしか残らなかった希ガス 現代の日本の政治的なチカラ関係は、蛤御門の変当時の各藩の力関係の、完全リバースで成立している
実に興味深い
コレの上位が全国から50もの大名家当主が集まる「藩校サミット」なw
無茶やって負けたのだから反省しろよ
なんで自分たちは悪くないって現実逃避しているのさ?
>>139
恭順を表明したのに官軍から拒否されたの知らんのか?お前
まあ低学歴のゴミだから知らんだろうけど(笑) >>140
宇都宮城の戦いで幕府残党に呼応して先に軍事行動起こしているんだけどなw
恭順するといいながらこういう態度だと
真珠湾攻撃でいつまでもケチつけられる日本と同じだまし討ちだろ 大名家から施政権を取り上げたのは明治政府でしたからねw
>>129
東北の日本海側は、西日本からの情報伝達がいつも速くて正確。
豊臣秀吉の東北処分のときも、日本海側の大名は安堵、太平洋側の大名は軒並み改易。
日本海側だったのに首魁だった会津藩は、京都の情勢が逆転してしまったかなり特殊な例。
松平容保は、ただ単に、「孝明天皇の遺志を引き継いでるつもり」だった。
すでに崩御した天皇の遺志を忖度することは無益、ということがわからなかったというだけの話。 >>140
会津は恭順してないぞ
それどころか国土を売却してまで
戦争したかったのが会津だからな
会津プロパガンダの嘘はバレました >>136
ウィキ見てみ
俺が思ってた以上だったわ >>141
>恭順するといいながら
それ恭順を表明する前のまだ抵抗してる時期の話じゃねえか
低学歴チョンてこれだから www まだやってんのか?
毛利家の和解したんじゃないのw
明治維新はクーデターで成り立つた
幼い明治天皇を利用し、こき使った薩摩長州
>>150
どうこき使ったの?会津プロパガンダ洗脳者のパヨクさんwww 信用がない会津
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。
>>1
戦後時代に鉄砲を世界でもっとも生産した国なのに
江戸時代、幕末に至るまで、武士は刀、鉄砲なんて足軽の武器だもんな
武士の武器を鉄砲にしていればアメリカの西部劇みたいに
腰に拳銃ぶら下げているのが武士だっただろうに
そして刀のように拳銃の腕を磨いてれば
日本は異人や黒船なんて恐れることなく、幕末動乱時代には至らなかっただろうにな 金を貪る会津
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考)
ヤクザな会津
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は
終わった模様である。
日本の半分譲ってやるから会津に味方しろって勝手にイギリスかどっかの外国に手紙送ってたのばれてたよな
搾取・略奪の会津
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。
しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)
>>159
会津が売国の相手に選んだのはプロイセンだよ 町民に処刑される会津
個人の会津藩士による略奪も多発した
模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)
民衆を脅す会津
武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)
蛮行の会津
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。
信頼を取り戻せない会津
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。
笑われる会津
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが
よろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)
会津というヤクザ
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって
回復した。
(新潟市史通史編3)
立ち回りが悪くて滅ぼされちゃった国を義を貫くというのかねぇ
味方の領地を荒らす会津
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって
回復した。
(新潟市史通史編3)
米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。
まあ、会津は悪く言われても仕方ないね。麻生太郎も会津らしいがろくでもないからね。
というか、朝鮮人だろ、麻生一族って。朝鮮儒教文化だろ、あれ。
冗談抜きで町人文化で楽しくやってた福岡藩士と一緒にされたくないというのはありますね。
でも武家の人はこの状況を何とかしたかったら武家で集まって政治結社を作るような
やり方をしていかないとどうにもなりませんよ、本当に。俺はさっさと清算して移民ですがね。
味方に戦わせ蛮行に興じる会津
信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。
「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。
>>171
直ぐ長州に視線が行くのは会津プロパガンダ洗脳者の証拠 味方に戦わせる会津
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。
『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな?
>>173
お前のレスを抽出して確信したわ
まじで長州最悪だ 会津が郡山で放火や略奪をした史料です
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
>>177
何を確信し長州だと思うのか?意味不明だろwww これが会津だ!
英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。
蛮行の会津
英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
斗南に逃げる会津
会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。
>>182
会津プロパガンダを指摘してるだけ。
史実の会津を音読しろ。 >>179
お前はこのスレに巣食うがん細胞だよ
馬鹿みたいに連投して
このスレはお前のメモ帳と化して
まともな人はやばいやついるつってそっ閉じだよ 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。
長州の捕虜を虐殺する会津
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津ろくでもねえな
まるでベトナム戦争の韓国だ!
0022 名無しさん 2017/01/05 14:29:19
会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。
可哀想な西郷頼母
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。
家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。
会津は売国奴
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。
ID:om2+vTIO(11/39)
0025 名無しさん 2017/01/05 14:32:03
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。
会津は売国奴
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。
差別されてたと嘘をついてた会津
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
放火魔の会津
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
斗南藩史の作者である葛西冨夫は
「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……
会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は
敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって
大きなショックであったろう」と記している。
何なの?会津系の奴って。領民を犬くらいにしか見てないのか!
会津が最終的に領民から見放されたのがよく解るわ!
会津の遺体埋葬の問題について思うところがある。
新政府が会津藩兵を賊徒とみなして戦死遺体の埋葬を
禁じたというのは真っ赤なウソだ。
こうした虚構を言い広めるのは、たいがい善意に基づいてのことだろう。
そんなやり方は許せないという正義感は、裏返せば
新政府の側にあった(主として薩長の)人々への悪意になる。
もちろん悪意を向けられる歴史上の人物たちにしてみれば
まったくの言いがかりでしかない。
歴史学者大山格
もちろん悪意を向けられる歴史上の人物たちにしてみれば
まったくの言いがかりでしかない。
歴史学者大山格
ID:om2+vTIO(18/39)
0032 名無しさん 2017/01/05 14:40:15
会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。
「白虎隊」「八重の桜」
大河ドラマの主役が務まるのは女、子供って時点で終わっとるな
>>201
な、おかしいだろ?
あれがトーホグ、会津プロパガンダ洗脳者なんだよ。 駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った
福島原発が作られた当時の東電社長も福島人
東電関係者の解説 渡部氏は、東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは、福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一、第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と親交が深く雇用対策として誘致した。
会津世直し一揆
かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。
9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し
以後、領内各地に波及していった。
放火が大好きな会津
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より
「実はね、最初は会津藩主だった保科正之を大河ドラマで取り上げてくれるように運動してたんだ。
保科は江戸時代に貧しい農民に米を配るなど、封建時代に
慈悲の政治を実践した名君。保科は信濃高遠藩の藩主でもあったから
長野県知事が呼びかけ、オレは会長としてその運動をやってた。
でも、NHKの経営者っていうのは偉いもんだな。
“先生、保科正之はみんな知ってるし、大河ドラマは女性が主人公じゃないと
視聴者も喜ばない。会津の女性を主人公にしたドラマを考えるので、ご勘弁下さい”と言ってきて、できたのが『八重の桜』さ。
地元の評判は最高だな。」
渡部恒三談
明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある
会津の人食
会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。
放火がやめれない会津
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。
慶応四年八月二十一日 会津直撃を目指して
三千人の征討軍が殺到した。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所を
なくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが恨みを晴らすために
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の
下流、新潟県安田町でも
会津藩兵は六野瀬という集落を焼き払った。
その翌日の八月一日、会津藩兵は
阿賀野川に面した砦を守っていた
二十四人のうち、二十三人が戦死したのだが
六野瀬集落の人々は、「会津のやつらは……」
と言いながら、遺体を阿賀野川に投げ捨てた。
会津の民は政府の味方
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。
>11日、釜山東莱区(プサン・トンネグ)にある忠烈祠(チュンリョルサ)
>安楽書院で、韓服を着た児童が伝統文化体験教室に参加し
>壬辰倭乱(文禄・慶長の役)などをまとめた「私だけの歴史の本」を製作した。
>児童が歴史の本を広げて取材陣に見せている。
これ会津も同じような事してたよな。
会津の場合は爺が作ったんだけど。
「手作り会津史」ってやつを。
何で反日プロパガンダも会津プロパガンダも
歴史を創作して発信するんだろうな?
当事者でもないのに被害者ぶって
お金に繋げる商売ってどうなんだろ?
韓国に武士道はないけど
会津は武士道推してるんだろ?一応。
ヤフー知恵袋で原田伊織を推しアンチ長州展開をしてるsaos90lvはイジメられっ子で高校中退のヒキコモリだったwwwwww
>saos90lv
>元引きこもりです。
>なった理由は同級生からのイジメ。
>毎日何をしてたか?
>俺は資格取得の勉強と体力づくり。
>あとは家事全般でしたから、
>それなりに忙しく過ごしていましたよ^^V
>saos90lv
>まず、犯罪、家庭内暴力とニート
>引きこもりを同列で論ずること
>自体おかしな話ではないでしょうか?
>saos90lv
>いじめ から引きこもり今は
>正社員やってます。
>加害者は卒業後大手企業に
>就職したと聞きましたね
>saos90lv
>いいけど国民の義務は果たせよ
>saos90lv
>俺も小学校からイジメにあい
>高校では中退までしてしまい
>その後引きこもりになって
>今は正社員で働いてます。
>>1
戊辰戦争のキッカケは、徳川慶喜が「討薩表」を奉じ、新政府軍の3倍の軍勢で京都へと侵攻したこと。
戊辰戦争は慶喜が「薩摩を滅ぼす」と、数のチカラで旧幕府軍が必勝すると思ってフッかけた戦争。
さらに戊辰戦争を2分割した場合、東北の戊辰戦争が起きた原因は、仙台藩によるテロリズムと、それに呼応した会津藩の侵略行為。
まず仙台藩が新政府軍の味方のふりをして新政府軍を騙して油断させ、他方で密かに世良修蔵暗殺を命令し、
暗殺集団が福島城下へ入り、以前からの計画通りに世良修蔵と周囲の武士や、長州人とみられる民間人を虐殺。
計画していたかのように、仙台藩に呼応した会津藩が、その日のうちに白河城を急襲して白河城を奪取。
その後の数日間で、仙台藩はさらに仙台藩の周辺に滞在していた薩摩人を相次いで虐殺。
こうして、仙台藩と会津藩の騙し討ちによって、東北地方での戊辰戦争が始まった。
卑劣な手段で侵略や虐殺を始めたのは、仙台藩と会津藩の側。正当化できるところは1つもない。
その後の戦争でも、新政府軍が捕虜を治療したのに対し、会津藩は捕虜を非戦闘員に至るまで皆殺し。悪の権化が会津と仙台。 勘違い切腹も嘘だったしなぁwwwwww
ID:ESyAcSDf
0175 名無しさん 2018/01/26 11:04:27
悲劇の押し売り会津商魂
ID:8iQvpVSB
0176 名無しさん 2018/02/05 18:22:58
白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。
勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。
そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw
皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。
まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。
白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。
勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。
そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw
皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。
会津恨文化
>明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。
みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
晒されるようになると記事は消されました(笑)
ねっ、こうやって恨み節を
子々孫々伝えてるのが会津という地域なわけだよ。
会津恨文化
>突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。
会津恨文化
>会津という神話―二つの戦後をめぐる死者の政治学
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
会津では会津プロパガンダが蔓延し
会津恨人を生み続けています!
会津プロパガンダQ&A
Q:会津が京都守護職に就く際に天皇直々の指名があったのは本当ですか?
A:嘘です。そのような史料文献はありません。天皇が直々に朕を守って欲しいと指名したのは水戸の徳川家と萩の毛利家です。
Q:会津は天皇を守っていたんですか?
A:会津は京都市中の警備の元締めであり天皇の身兵ではありません。誇大解釈してるだけです。
Q:会津の武士は真面目、勤勉、実直ですか?
A:北越、北関東、東北、道南で蛮行三昧でした。長州の捕虜を虐殺した記録もありますし国土を外国に売却しようと企てた証文もあります。密貿易もしてましたし偽金も造っていました。
Q:会津戦争は恭順を示している会津に薩摩・長州が雪崩れ込んだのですか?
A:まず会津は恭順をしていません。戦争に躍起でした。政府の交渉人を拉致して会津から攻め行ってます。政府の主力軍は薩摩・長州ではなく薩摩・土佐です。長州の木戸や大村は会津攻めに反対していました。
Q:白虎隊は勇敢に戦いましたか?
A:薩摩兵に蹴散らされて逃げました。
Q:白虎隊は少年ですか?
A:元服を終えてるので青年です。
Q:白虎隊は城が落城してると勘違いして自刃したのですか?
A:飯沼貞吉の回顧録にそのような話は出てきません。自刃した人数も20名ではなく6名です。
Q:会津兵の死体を見せしめの為に野晒しにしたのは本当ですか?
A:嘘です。政府の命令はどの死体にも触るなというものです。死体は会津降伏後に埋葬されました。
Q:戦後会津人は差別されましたか?
A:されてません。むしろ政府は会津復興に尽力してます。長州の木戸や伊藤も個人的に義援金を出したりしてます。長州の前原を中心に会津人の救済も行われました。特にこの前原は会津人と仲が良かったようです。白虎隊の飯沼も長州で暮らしていました。
Q:会津の武士は領民から尊敬されてましたか?
A:会津は朱子学の影響が強く上が下を圧迫させるので領民からは嫌われてました。元来会津の武士は会津人ではありません。会津戦争中は農民が政府に協力したり一揆を起こしたりしました。
Q:会津の武士は斗南に強制送還されたのですか?
A:政府からは猪苗代でも良いとされてましたが会津は嫌われていたので猪苗代には住めず会津の山川の判断で斗南行きが決まりました。
Q:会津の掟は素晴らしい掟ですか?
A:上が下を圧迫し思考停止にさせる戒めです。
Q:会津の武士は斗南で鳩侍と恐れられてましたか?
A:拾い食いをしてたので鳩侍とバカにされてました。そもそも鳩が恐怖の対象でしょうか?
Q:会津の武士は永久に斗南から出れなかったんですか?
A:2年で解除されました。
反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子…星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
■キム・ヨンデ…金泉新聞で韓国は明治維新最大の被害者だと発信
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長
>今年、日本は1868年の明治維新が
>始まって150周年になる年だ。
>今の安倍総理は明治維新勢力の子孫だ。
>明治維新勢力は植民支配と太平洋戦争を
>起こし、私たち民族はその勢力の
>最大の被害者だ。
キム・ヨンデ(弁護士)
ソース:金泉新聞
会津プロパガンダと反日プロパガンダが繋がってると気づきませんか?
>>176
>“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
>の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
>の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
>はあるまいか。
これ重要だな
本来なら敵である会津藩に庶民が取り込まれている >>33
松前だって舘藩の痕跡なんて何もねーよ
幕末の混乱期に勝手に押し付けられて2年しか存在しなかった藩なんて地元からはもちろん幕末に興味ある連中からしても死ぬほどどうでもいいわ
なかった事にしたいとかってのは会津のみから見た勝手な思い込み パヨクと朝鮮人が嫌いなもの
・日本
・天皇
・日本国旗
・君が代
・豊臣秀吉
・明治維新
・長州
・伊藤博文
・山口県
・自衛隊
会津プロパガンダはパヨクです
>「苦渋の歴史、会津に誇り」 会津まつり
苦渋にしたのは当時の会津人の
失策の連続が原因だし、蛮行三昧
売国計画まで企てた会津の歴史が誇りとか…。
朝鮮人の悲劇の主張、美化の主張みたいだな。
何百年経っても会津プロパガンダから脱っせないね会津は。
会津プロパガンダを地場産業に会津恨人を生み続けるだろう。
そしてパヨクや朝鮮人が寄り付いて金儲けの材料にされるという…。
松前を襲う会津達旧幕軍
旧幕府軍(会津・新撰組含む)は箱館を攻め
十月二十五日に五稜郭を占領
二十七日には松前攻撃に移ります。
海から十一月一日に軍艦蟠龍が
松前湾から松前城を砲撃しています。
陸からは土方歳三率いる陸戦隊七百名が
知内、福島と占領し
十一月五日松前に入り激戦の末
松前城東方の馬形(まがど)台地にある
法華寺を占領しました。
>>233
禁門の変の解釈がオカシイのが会津プロパガンダ洗脳者の特徴www >>233
幕府なんて実体がどうあれ朝廷から委任されて政を任されてる以上、その時の朝廷の意思に従わないなら全部朝敵
クソ単純な話だ
御所に大砲撃ち込む撃ち込まないなんて局所の理屈でしかない >>235
京都の警備を幕府から命令されただけ。
有能な家臣は反対して窓際族に。
孝明天皇が朕を守ってくれと打診したのは
水戸徳川家、萩毛利家。 >0692 名無しさん@お腹いっぱい。
>2018/09/27 07:41:24
>薩長が作った政権が会津ホロコーストと
>アジア侵略をやらかした。謝罪せよ!!
>ID:ZVe9fd8V0(2/2)
会津ホロコーストは会津プロパガンダ
アジア侵略は反日プロパガンダ
な、会津プロパガンダと反日プロパガンダはセットだろ?
どっちもパヨクがやってんだからwwwwwwwww
会津のまともな歴史家である野口氏が
会津プロパガンダによる嘘を指摘。
>野口さんによると昭和30年代
>郷土史を研究する地元団体の冊子に
>遺体の埋葬を禁じたことが記された。
>昭和50年代になると『戊辰殉難追悼録』に
>会津若松市長が寄せたあいさつ文で
>「埋葬を長期間許さずして
>その屍を辱めた」と書いた。
>埋葬禁止説は半世紀も伝えられ
>「周知の事実」として知られるようになった。
会津バカ松は町ぐるみで嘘をついてた!!
とても長州兵には敵わないクソ雑魚なので百姓や浪人を雇って戦わせるヘナチョコSAMURAI藩の会津
白虎隊のことを再確認するためにも、まず白虎隊記念館に立ち寄る。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良と京都と共に、なぜ会津への空爆を
アメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
http://www.aizue.net/index.html
これ米軍に確認とってるの?
史料があるから避けたんだってて脳内解決だろ(笑)
会津プロパガンダ洗脳者とか制作者って
何で脳内解決しかしないの?
あとさ、会津も新潟爆撃で余った爆撃
落とされてなかったか? 戦いが終わったらすぐ民衆の事を考えて対処し、庄内で尊敬されてる西郷とは雲泥の差だな。
戦の勝敗は時の運。命を懸けて戦い、終われば相手を認めるのが武家だろ。
何だこの女々しさは。武士の風上にもおけないなw
レビューには特徴があり、その作者の本にしか
レビューをつけていないか、会津プロパガンダ本と
反原発の本にレビューをつけている。
お前ら会津プロパガンダ洗脳者
アンチ長州に言いたい。皆が皆、お前らの
工作に気付かないと思った大間違いだぞ。
2ちゃんでも、Amazonでも、ヤフー知恵袋でも
お前らの嘘を指摘する人はいるからな!
勝てば官軍負ければ賊軍
天皇家がついた方が勝つのではなく勝った方に天皇家が乗るんだから
天皇家は絶対に負けることはないし、負けた以上は賊軍を受け入れないと
元士族連中がグダグダ言ってんのならまだわかるよ
平民風情が「薩摩許すまじ!」とかもうアホとしか
>1-209
会津藩と会津軍は賊軍どころか反天皇、プロシアに北海道を割譲しようとした売国奴、越後の領民を苦しめ、長州軍を残虐に殺し、放火が好きで、自ら福一福二を誘致した、
まで読んだ