https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180426/k10011418721000.html
1560年に今の愛知県で行われた桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を倒した場所をめぐる
論争に終止符を打とうと、地元の住民らが大学の研究者に依頼して古くから伝わる「おけ」を
鑑定することになりました。
「桶狭間の戦い」は、愛知県の名古屋市と豊明市にまたがる地域で行われたとされていますが、
今川義元が討ち死にした場所が歴史的に特定されておらず、名古屋市緑区の公園とする説と、
600メートルほど離れた豊明市の史跡とする2つの説があり、地元では「桶狭間論争」とも呼ばれています。
この論争に終止符を打とうと、名古屋市側の住民らでつくるグループが、名古屋大学の研究者に
依頼して公園近くの神社に古くから保管されている「おけ」を鑑定することになりました。
グループによりますと、戦の直前に義元の家臣が、本陣近くの神社に「おけ」を奉納したという逸話があり、
保管されているのがこの「おけ」と証明できれば、義元が神社の近くで討ち取られたとする伝承の
信ぴょう性が高まるとしています。
鑑定では「おけ」に含まれる特定の炭素の割合を分析して、50年から100年ほどの幅で年代を測定するということです。
「桶狭間古戦場保存会」の梶野泉理事長は「結果が出るまで不安だが、私たちの地域が義元の
最期の地だと裏付けできることを期待している」と話しています。
鑑定の結果は来月、わかることになっています。 親には死んでも見られたくない、彼氏との幸せな夜。
人間五十年
下天のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
一度生を享け
滅せぬもののあるべきか
今川よしもとは馬に乗れないほど肥満体だったから輿に乗っていたってさ
桶狭間というと狭い谷のようなイメージがあるけど、実際の桶狭間は山だったんだぞ。
>>10
センゴクの桶狭間もそうだったな
センゴクのはまさに偶然のバッタリ遭遇戦だったけど この記事書いた人はc14測定も知らなかったのか
それとも読み手を舐めているのかどっちだ
【歴史】田楽狭間の戦いの謎のカギを握る「味噌田楽」を鑑定へ。今川義元最期の地を巡る論争に終止符か
塩買坂で祖父も討ち死にしてるし、逃げないことが今川の家訓だったのかな
そもそも桶を奉納したという話が嘘だ と豊明は言うんだろうね、
永遠に続くよアホ論争
50年から100年も幅があったら、別の機会に奉納された桶じゃないの?という反論を排斥できないと思うのだが。。。
センゴクの義元のカッコよさは異常
実際信玄、謙信、氏康といったとんでもない連中が手を出せない程だから余程の大人物だったんだろうけどな
今川のよっちゃんは内気な子 わんぱく大将に負けちゃった
部下が脇道にそれて奉納したかもしれない
決定的証拠になるとは思えん
最近は再評価の流れが主流だよね
まあ、冷静に考えれば無能が海道一の弓取りなんて言われるわけない
義元ね
桶狭間公園の敷地ギリギリ、歩道まですぐのところに石柱が立っていて
「今川義元討死の地」ってあるんだよね
風林火山で信虎より若い晴信のほうが御しやすいとか言ってるくだりが好き。
昔は地名のイメージ的に狭間=谷間って説が主流だったよな
信長も情報を集めまくって戦力一点集中の神のような作戦とか言われてたw
現在は桶狭間「山」に陣取っていた義元との遭遇強襲戦が主流
冷静に考えれば谷間に本陣張るわけないしな
豊明と緑区で手打ちするには合併して桶狭間市にしたら
信長もちょっと前まで評価低かったからねぇ
無能に負ける超無能って流れだったんじゃないかね
儒教的な君臨すれども統治せずが最上級の君主評価だった時代が日本にもあった
30年くらい前までかな?
トップが独断専行でバンバン改善するのが「悪」だった時代
今の若者には信じられないだろうなぁ
上洛が目的なら、義元は沓掛城で一泊して、そのまま鎌倉街道を進軍すれば、
信長不在の清州を突くことが出来たのに、なぜわざわざ道なき谷合の続く
桶狭間を通って大高城に向かったのか? それが謎である。
歴史の真実など捨ておけ…
なんっつてんかい大僧正wwwww
ガキの頃、今川が死んだ日の朝5時、桶狭間公園には
首を探す今川の霊が徘徊すると聞かされたものだ
まあ近くに朝鮮人学校があって、そいつらの方が怖かったんだけどね
小学生一人に複数人で喧嘩売ってくる奴らだったし
桶狭間は信長の乾坤一擲の博打のように伝えられているが、信長の性格からそんなことはあり得ない。
用意周到な諜報と陰謀で成功させた戦いであった。相当な邪悪なこともやった。
>>39
30年くらい前がちょっと前とは、長生きなお方ですなあ。 日本の歴史家はどうなってんのかね。たかだか400年前の出来事なのに。
三国志ですら細かく書かれてるのに
>>40
そもそも桶狭間の戦いは義元の上京途中の戦闘じゃなく
(てか義元は「上京軍率いて天下取り」なんて考えてなかったし)
信長が仕掛けた侵犯行動に対して、義元が迎撃(味方の後詰め)に出兵してきたことで起きた国境紛争だからねえ 三国志でもよく分かってない場所は多い
韓国人はウンコ食う
ワーテルローの戦いと同じく勝ち負けは運が全てという好例
大高城を救うとかその近隣の地を確保とかは,義元がいなくても余裕でできそう
なぜ本人が出張ったのか?
>>51
日本に記録はいくらでもある。それをそのまま信じるのとは別の話。
中国だって同じ話で中国の記録が正確なわけではないから。 日本の歴史における今川の扱いって酷いよなぁ
義元も酷いけど、
息子の氏真はマジで可哀想なくらい酷い扱いだもんなぁ
大抵の小説や漫画では極悪非道でバカなヤリチンとして描かれてるんだもんwww
勝てば官軍ってやつなのかなぁ
>>28
デブでアホで1日中蹴鞠してる公卿もどきとか当時なら一瞬で侵略されるわな・・・あまりにもひどい。 >>58
当時は大将も最前線に出る時代だよ、臆病者と言われたら終わり。 >>51
中国って始皇帝死亡の下りなんかみたいに一対一の陰謀の企ても詳細まで綺麗に「何故か」判明して残ってる国やからすごいわな(棒 氏真と秀頼の扱いが同じ過ぎて笑ってしまう
ま、敗者はそんなもんだろうけど
中国の場合、歴史の編纂は次の国がやるからな
つまり勝者の視点で敗者の国の歴史を記録する
日本もそういう面があるが、中国はもっと顕著
>>49
言われてみればそうやなw 40だからちょっと前でええ?
歴史のスレだから30年はちょっと前ってことで勘弁して >>51
中国では天安門事件なんてまだついこの前の出来事なのに真実は隠蔽、葬られてるじゃん >>69
秀頼はどうしようもない
氏真は名将クラスなら盛り返したかな
DQN政宗でも四面楚歌の中で生き残ってるし
信長なんて家督継いだ時は氏真の比じゃないぐらい
厳しい状況だった この写真にグッとくるのは、きっと「尻好き」だけ。
>>73
秀頼は元服まで秀吉が生きていて関白位が継げれば家康は手も足も出なかった。
後代の慶喜が関白を長州に握られてどうしようもなかったように。 戦前には信長は天皇を守り奉る勤皇家として小説で描かれて人気あった
その後、経済発展の秀吉アゲや忍耐忍耐の家康アゲなどが有り、大分経って、出版界にアイアコッカブームが起こり日本にもトップ独断みたいな人を探して信長を持ち出した
鳴海の城の左馬之助が寝返ったので、信長が付け城をつくって、
対抗。大高城もしかり。
義元は後詰。
>>39
30年以上前にやった大河ドラマ徳川家康の役所広司の信長は最高だったぞ。当時評価が低かったとは思えん。 >>78
司馬遼太郎の「国盗り物語」がブームの火付け役 >>65
実際問題武田の南進始まるとあっけなく崩壊・・・
義元時代は対抗出来たのが余計に 桶狭間で桶を奉納とかめっちゃ後付け臭いんだが大丈夫かよ
自衛隊、シェフ、長島巨人軍、孔雀王まで配下にしている信長様やぞ
信長が国力10倍の今川を奇策で打ち破った奇跡の逆転勝利なんて言われてるけど
実際は織田は50万石程度(今川の1/2)あったし100万石の斉藤と同盟関係にあった。
まぐれで勝ったなら武田が漁夫の利で弔い合戦でいっきに東海中部一帯を支配下に置いただろう。
司馬より大分早く鷲尾雨工が信長、光秀、秀吉を書いている
当時の世相を反映して勤皇信長アゲアゲな内容
>>80
それからさらに28年前の太閤記信長の高橋幸治は、「殺さないで」って投書が殺到して
本能寺の変の回が延期されたという逸話が残ったほど人気だったらしいな >>72
中国共産党の独裁が終わって、次の時代にならないと真相はわからないんじゃね?
大陸の歴史は、そういう伝統だろうから。 >>82
雪斎存命中は国力的に今川のが強かったくらい
義元が情けないわけではなく武田が甲斐信濃を平定して強くなりすぎたのが実情
あの辺のレベルまで行くと大名の能力も大事だが最後には国力が物を言う 太陽にほえろの殿下は殉職させないでという要望が多過ぎて交通事故死とかいうマヌケな死に方にされた不幸な人w
>>97
マカロニなんて殉職でもなんでもなく立小便した後に殺されたのに、バトルフィーバーJで真似されるほど人気だったのにな >>67
朝倉大友島津あたりは当主より一門の有力者を総大将にしている印象がある >>63
日本の場合は江戸時代の娯楽が
歴史定説にしばらくなっちゃってたからななあw
中国は前の王朝の歴史書くのが使命感の役人がいるから
がんばったよねw >>91
>100万石の斉藤と同盟関係にあった。
道三は4年前に死んでる >>69
でも氏真の後半生は夫婦で旅行したり趣味の蹴鞠や和歌三昧の勝ち組だしw >>100
花倉の乱で潰しちゃったからな
いたらいたで毛利両川に守られてた
輝元みたいに微妙な感じになりそうだしw 徳川家康は桶狭間を通る時は必ず馬を降りて手を合わせていたとかで、今川の人質生活には感謝していたみたい。イジメ云々は創作
甲斐信濃から美濃尾張に進行てのは無理ゲーぽくない?
一戦で勝てればいいけど万が一引く時に苦労つーか全滅しそう
駿遠三の何処かから東海道を西進以外なかなかむずかしい
刈谷からメイニカン乗るために1号線走ってて看板見た時はおーっと思ったけど、豊明の人に聞いたら有名やのに地味なところやろ言われて妙に納得したわ
愛知の方って全国規模で有名な場所多いよね
もし、今川勢が油断せず、急襲を予想して備えを整えて、応戦ができていたら、逆に織田が滅びていた可能性が高いの?
>>39
> 儒教的な君臨すれども統治せずが最上級の君主評価だった時代が日本にもあった
儒教と「君臨すれども統治せず」は全く関係ないよ
「君主は器ならず」の文言と三国志演義の影響で、トップは「下からの意見を受け入れメクラばん押すのがいい上司」
ノ馬鹿理屈が蔓延しただけで
近鉄グループ創始者「独裁はするが独断はしない」
これこそが経営者の名言中の名言で、これを実践できた財界人は少ない >>51
三国志の編纂者は蜀の人で
まだ生前の孔明を知っている老人に取材することができた世代なんだよ
(魏の後の晋の時代に三国志時代の歴史書の編纂が始まったのだが、魏の時代は短かったため)
しかし分からないこともあった
曹操の墓は秘密だったために21世紀に入ってから発掘されていたような
細かいと言えば史記だろう
暦や地理はばっちりだ
人物伝についてはなぜか大昔の事なのに今見ているかのように描写している… >>102
江戸時代どころか信長の時代を生きた、太田牛一ですら今川軍4万5千とか有り得ない数字を盛ってる
明治以前の日本には、正確に史実を記録する概念が無かったんだろう 初陣でボロ負け、包囲され首を捕られるのは確実だったのに流れ矢が敵の総大将に当たって一発大逆転した毛利元就に比べればたいしたこと無い
しかしこういうのって負けた側はどうなるんだろ
燃え尽き症候群みたいになっちゃうの?
それとも最後まであがき通すの?
>>117
戦では勝った側も負けた側も相手を多めに記録するものですから 今川義元なんて間抜けも間抜け、超間抜け大将w
信長軍の数倍もの戦力でもって余裕の勝ち戦なのに本陣突かれてまさかの大将首取られるとかw
当時の戦国大名達は信長を称えるよりも義元の間抜けぶりを笑ってたんじゃね
武田信玄なんて腹抱えて大爆笑してたんだろw
前線で負けただけで今川帝国としてはそれほど、なんだけどね
徳川の独立を煽ったり認めたり工作しまくった織田の寝技にやられた
何か別の遺品と桶でDNA鑑定が出来りゃいいんだがな
氏真さんは勝ちやろ
嫁と仲が良いし友達の家康くんちにアポ無しで遊びに行くし
趣味いっぱいあるし 楽しく生きたやろ
今川の大軍を避けて迂回進軍してた信長と今川本陣との偶発接近遭遇戦だった訳だから
創価学会、警察と在日マフィアによる集団ストーカーの証拠動画
(警察車両ナンバー入り;)
怖ろしくてお漏らししそう´・ω・` >>91
戦国時代に、50万石やら100万石なんて石高が取れたのか? 豊明みたいな弱小市町村から、唯一の観光資源を横取りしようとする名古屋市には呆れる。
古戦場なら長久手でも宣伝しとけや!
桶狭間山に布陣だと織田軍の進行ルートが丸見えで偶発戦になり得ない
とかいう説は立ち消え?
谷原章介の義元はかっこよかったが、昇太の義元の残念感(´・ω・`)
まあその分、尾上松緑の氏真は爆上げだったが。
>>28
要は油断して不意をつかれたてことだろな
不意をついた信長も本能寺で不意をつかれて自害しているし
なんかオモロイ
驕れる者久しからずだなwww 討ち取られた時は 吉本は籠に乗って移動してたので本陣と場所は違うよ
戦国時代の終焉は信長の駿河の太守へ
の奇襲の成功から始まり幸村の駿河の
太守への奇襲の失敗により終わる。
天安門広場での民主化運動から間もなく29年。未だ民主化成らず。
トゥール ムハメット @etman09
緊急告知
日本ウイグル連盟主催
「中国のナチス型“再教育キャンプ”の即座閉鎖を求める抗議活動」
時間: 2018年4月27日 14:00集合 14:30スタート
場所:中華人民共和国駐日本大使館前
住所: 〒106-0046 東京都港区元麻布3丁目4−33
太原雪斎生きてたら少なくとも義元は討ち取られてないな
義経みたいに駆け下りて奇襲みたいなイメージが強いよね。
沓掛から大高に移動中に攻撃受けて死亡とか、
マヌケにも程があるんだが。
>>124
人質時代には大事にされ最高の教育を施されていた
隠居の地を駿府に置いたのがなによりの証拠 くだらん争いごといつまでやるんかね
通勤で朝は豊明側で帰りは緑区側を通るが
両場所ともしょぼすぎてどちらに決まってもこれ以上盛り上がらんと思うがな
豊明はあの学校が有るしな
昔読んだ童門冬二の本では、桶狭間ではなく田楽狭間だと書いてあったな
>>67
近代の戦争のように、前線の指揮官が死んでも同等の軍人が即代わりになるってわけにもいかず、
大将に対する信仰のようなモノがあったよな。
徳川家康も、三方ヶ原で最前線に打って出てボロ負けするわけだが、頼みがいのある大将と思われたそうだ。 >>117
今だってデモ参加人数とか
主催者発表と
警察発表で大きく異なるのはあたりまえだし
正確な史実を残すってのはとてつもなく困難 これが鑑定中の桶
>>117
駿河、遠江、三河を合わせて100万石
1万石あたり300人は普通の動員数だからね。無理な動員を掛ければ4万5千は無理な数じゃ無い >>144
義元の遠征は上京が目的ではなく、せいぜい尾張の切り取りまでしか考えていなかったと思う 斉藤、浅井、朝倉、六角、三好このあたりとやるつもりなんてさらさらないっしょ。
三好はつえーぞ。
>>162
信長は桶狭間の2日後に美濃尾張境で斉藤勢と合戦
今川と美濃は連携していた近江の六角も今川シンパ 信長さえ排除すれば上洛は可能 2万の兵で進軍したら、600メートルくらいの長さになるのでは?当時の隊列で大将はどの位置に並んでたのか。
真ん中より後ろってことはないだろうから、信長が急襲したなら場所は緑区内。義元が敗走して沓掛城に戻ろうとしたなら、豊明市内の可能性が高いだろ。
>>9
あくまで推測だけど 義元は足萎えだったのかもしれない 兄弟の中でひとりだけ寺に出され合戦は雪斎まかせ外出もほとんど無い 生まれつき障害があったとすれば納得がいく 名作ゲームで いろいろ試せていい時代だった。
信長に尾張を統一させた後に足利に従属させて
同盟の関係上 今川が足利を攻めることはないので今川は武田と戦い始めて
両方が減っていくさまをみれて幸せだったなと。
>>163
家格が違う
足利に跡がなければ吉良が継ぐ吉良がなければ今川が継ぐ 将軍家一門の中では今川了俊以来軍事司令官的な家柄
今川の軍は官軍 勢いの無い斉藤 六角 朝倉はこれに乗っかりたかったはず >>105
氏真 辞世の句
くやしとも うらやましとも おもはねど 我が世にかわる 世のすがたかな 義元は評価低いけど実は有能だったしね。
当時一番バカにされてた弱小の信長に負けたから小物感強いけど。
単にあれば信長は強すぎただけで、義元が弱かったわけではない。
(油断してたからこそ負けた)
現にその後の信長はとても強い大名には負け知らずだったから。
信長、秀吉、徳川をみてそれぞれ劣ってることはあっても
だから凄くない にはならない。
結局、一番強かったが故に油断が出たってところだね。
。
義元が強かったら 武田に勝つし。北条に勝つ。
そこらへんと互角くらいか互角よりは下。
政治力があったら武田北条今川同盟を動かせた。
信長の野望で織田で初めていきなり徳川を倒すような史実否定プレーが好きだったが
今川で始めるのもいいな
農民が祝い酒持参って、云われてたけど
今川本陣近くに農土に扮した配下の者から、情報逐一収集、イケる! 吉報があったんやろな
>>1
豊明市と名古屋市の桶狭間は直線距離でわずか600メートル
今川軍は数万人いたのだから確実に両エリアともに桶狭間の戦いの現場
どちらも正しい 実際は300対4000でも多いという説もあるけどな
>>172
不運は息子が無能過ぎたことだな…義元。 信長公記も戦の描写になると途端にあやしくなるからな
義元の動向なんて知る由もないのに書いてあるし
選挙よく出てた、品川司氏 って氏真氏二男................やったんか
>>39
評価が低いというより、暴君のイメージが強かったんじゃないのか?
比叡山を焼き討ちし明智光秀をイジメ、その報いで本能寺で殺された
信長のような天才型よりも、秀吉のような努力型で成り上がりの方が
高度経済成長時代は自らを省みて人気があった
バブルの頃にゲーム信長の野望が発売され、信長と秀吉の評価が大きく変わった
欧米に追いつき追い越せから、中国韓国に追いつき追い越される立場になり
保守的となり秀吉から安定の家康思考も強まり
大河見てたら思うが秀吉の評価を貶めるような内容が多い
信長志向の強まりは、自分は逆立ちしてもなれない天才を偶像化する傾向なのか? >>180
めちゃ有能ではないが父親ゆずりの政治力はあったと思う 蹴鞠等で人気者になり信長にも殺されず家康とは晩年まで親交があった 息子2人とも大名にしたし 今川品川高家 >>172
もしも桶狭間で今川義元が勝ってたら、現代の大河で
義元は化粧するようなナヨナヨ戦国大名ではなかったろう、もっと勇ましい勇姿で登場してたはず
そして殺された信長は、土民のような格好したアホ武将として描かれ
朝倉義景や斎藤龍興などと同じく評価の低いうつけ者として罵られていただろう
また最近の武田勝頼評価のように
実は信長は能力高く、家督継いで10年ぐらいで父以上に尾張を制圧し
今川に負けなければ天下統一してたかもしれない、松平清康みたいな感じで
という再評価する声がチラチラと >>176
豊明の南舘の地名も田楽狭間も、江戸時代以前の文献には存在しない
特に田楽狭間は、かつて一度も実在したことがない捏造地名
豊明の史跡は、東海道沿いに旅人のために作られた、江戸時代のテーマパーク >>172
信長はそれなりに負けてないかね?逃げる時にはすぐ逃げる
その後調略にコネで有利にして勝つみたいな >>126
そのシステムは反日パヨクが広めようとして失敗したデマ
説明の中の人、時、場所が矛盾して終止符 ミッドウェーと同じ状況だろ。
敵降爆直上ぉ〜〜〜!みたいな感じで。
くっそ優秀なのは今川氏真だと思うわ
あの状況から江戸末期まで家柄残すって相当だぞ
名古屋の飯が不味いのは織田信長の時代からそうだった
今川義元は織田信長に騙されて和平交渉の場で殺された!
…って話が案外、真実だったりする。
江戸時代から織田信長の評価は高かった。
建勲神社(たけいさおじんじゃ)が明治2年に創建されている。
え?
氏真と家康って
仲が悪かったと聞いてるけど
仲が良かったって、どこのソースよ?
ときに義元が討取られた時に、傍らにあったはずの莫大な軍用金は何処に消えたんだろうかね?
駿府から京を目指しての行軍、途中で織田や美濃、滋賀の土豪に叛旗促したり、兵たちの食糧調達なんかでも
つけ払い、出世払いなんて利かないからね
手づかみで金を蒔かなきゃ天下は取れんよ
で、義元の軍用金、織田が手にした証拠は無いのよね
>>193
そんな記録は無い
参拝に立ち寄っただけ あの義元の敗戦で一番得をしたのは誰か?勿論、信長と家康。
家康がいる大高城に向かう今川義元の場所がなぜ、ピンポイントで分かったのか?
だって、家康が最初から信長に全部教えてるんだもんwww
義元討たれた瞬間、イの一番で戦場を離脱
浜松城に帰り速攻で信長と同盟を結び今川家からの強制独立に成功する。
>>193
織田信長が熱田神宮で戦勝祈願をしている
そして戦勝後にお礼にいわゆる信長塀を寄進している 義元本陣のおけはざま山は、絵図が残ってるが、アバウト過ぎて今に至るも場所が特定できないというw
>>9
義元の愛馬が5尺馬で有名なのに何言ってんだカス お風呂戦国時代 〜下剋上から娘封建社会へ〜
「風呂桶狭間の合戦」
600メートルの違いがそんなに大事なのか
価値観て多彩だな
尾張統一し濃尾平野を手中に入れ石高、戦力を増強した織田軍
戦力差は今川と互角だった
圧倒的な戦力差を破ったという誇張
大体、輿に乗って戦場を移動とか、アホじゃネーの??
県知事が自分で自動車運転して現場訪問する方がおかしいよ。
時に永禄三年五月十九日 今川軍四万に対し信長は僅か三千の兵で挑み いずれ天下をその手につかみ取らんとしていた
>>1
緑区の公園?
あのカップル殺人事件があった緑地公園? 桶狭間って2ヶ所あるのか
観光するならどちらがいい?
なんか片方は駐車場がないらしいし
>>210
尾張南部と西部に今川の勢力範囲が食い込んでいた。 そんな近い時代の物をC14法にかけたところで、何もわからんと思うんだが
>>217
いずれにせよ肥沃な濃尾平野の大部分は織田軍団の手中
米を家臣に分配、足軽隊を短期間に大増強
圧倒的な戦力差は誇張、
電気の無い時代に暗闇の中、道路舗装されてない時代豪雨の中、
ぬかるみで動きのとれない迂回奇襲攻撃なんて
無謀な戦法はとらなかった 義元に麻呂風のイメージを最初に与えたのって誰よ?
江戸時代の浮世絵では武者風だよな
いまか゛わさま はんけ゛きをくらった
いまか゛わは しほ゛うしました
戦勝祈願で相手の首桶や棺桶奉納してついでに供養も頼むという地元の風習を
今川は戦勝新領地統治で面倒は困るので地元の風習わりと大事にするから
そういうのがあるときいてとけ込もうとして納めたのだっけ
>>159
作る人が引退してもう製造されないん
だっけ? >>154
あの学校は名古屋の主張している場所と、豊明の国の指定場所の中間点にある。
もしかしたら、あの学校の構内が義元の陣があったかもな。 >>39
信長は30年前でも人気武将の筆頭だったんだがw
勝手に歴史捏造するなよ
信長の野望は30年以上前のゲームだけど当時大ヒットしてるのが何よりの証拠w やらかしちゃった場所なんてどっちでもいいw
静岡市民より
>>200
家康も義元がどこにいるかは分かるはずがないだろ
信長が物見を放ったんだよ 谷だ山だって、あの辺り平地と散在するなだらかな丘しかあれへんやろ
義元親子は色々と不遇だとは思う
氏真も結構頑張ったけど、三河が離反してたから、武田と徳川のリンチに負けたんだよな
北条と上杉が本気出してれば武田は滅亡しただろうけど、特に上杉がお人好し過ぎて草
信長に比べて勢力拡大のスピードがのんびりに見えるから地味ではあるけどね
>>232
あのな・・・鵜殿と岡部の後詰めに向かってんだから
分からないわけないだろwwwww
ましてやその先方ですでに大高城に入場してんだぞ、家康は。
桶狭間の奇襲の前日に義元が沓掛城の入ってるのくらいは知ってるよな?
沓掛城から大高城まではもう幾らも距離がないんだよ。
大高城は鳴海城と違く、
すでに家康が付け城突き破って大高城にねじり込んでんだから
沓掛城までの連絡網は作ってあるんだよ。 ユーラシア火星宇宙ソビエトコミンテルン中国共産党軍といっても秘密外国戦闘軍団の軍閥が多くいた中国大陸で
ソビエトコミンテルン共産党カトリック教皇庁の悪魔教イエズス会のバックの
共産赤軍最先端軍事核兵器や気象兵器を持っていた織田信長のユーラシア火星中国大陸での「OK狭間の戦い」は関平あたりの四川蜀中華民国国民党軍との戦いの戦場あたりなのだろうか
蒋介石中華民国軍のバックは英国アメリカフリーメーソンや英国王室
ユダヤ長老派教会系やユダヤ銀行ユダヤ財閥ユダヤ系なのだが
当時のイエズス会ローマ教皇庁悪魔教会黒騎士戦闘軍団は強かったからな
>>226
名古屋市は豊明市を相手にしてないし、豊明市も膨大な借金を抱える名古屋市との合併には二の足を
踏むだろう。
今までそんな話出たこと無い。 今川家臣団「てか信長の野望でオレ達を強くしてほしいなぁ」
桶狭間山山頂にいた義元を大雨にまぎ
れて信長軍が急襲、慌てた義元が田楽狭間まで後退したとこを討ち取られた
ってだけじゃないの?だから最後の
土地は田楽狭間
今川義元ってマロなイメージが根付いてるけど実は200cm160kgで脂肪は無く筋肉の塊だったそうな。
愛馬は5尺もある巨大馬だったと。
義元自身の戦闘能力もくそ高いとか。
飛んでくる矢は掴んで投げ返して相手を殺し、銃弾はつまんで指で弾き返す。
刀は効かないし槍は刺さらない。
不死身の義元と言うくらいだからな。
>>244
お歯黒はあの当時の上流階級のたし
なみで軟弱のイメージにはならんし、
輿に乗ってたのは室町将軍から輿に
乗る特権認められた権威を示すため
だからな。
あの当時地方の武家で輿に乗れるの
は上杉謙信くらいだぞ今川以外では >>240
名古屋市は、岡崎の八丁味噌を取ったりと、評判悪うおまっせ!
改めた方がええんちゃいまっか? >>244
そんな化け物いるか!w
戦国無双のやり過ぎだw 義元擁護だけど輿に載ってたのは
馬に乗れないからじゃなくて権威付けのためな。
幕府から輿に載る特権もらってたから
それを見せびらかせるため。
桶狭間の戦場跡に建てられた寺、あそこマジで出るんだわ
一度工事で入ったが、夕方近くになって暗くなると変な風が起こって、不気味な声が聞こえてくる
あとで昔から心霊スポットとして有名で、霊を鎮めるために寺を建てたんだときいて、やっぱりと思った
年代が一致したとして
その桶と奉納した桶の一致はどう証明するんだ?
>>252
そこに行くのは面倒くさいけど、幽霊には本当に会ってみたい。
死んだら意識がなくなって全てが無になるのが怖くて、死後の世界が存在する証拠が欲しい。 >>235
親父の代に周辺の豪族にもう少し優しくしておくべきだった
氏真があれだとどっちにしても遠からず松平中心に反旗翻されてると思うが 中京競馬場での落馬事故は
桶狭間合戦で討死した兵の仕業
>>256
東海じゃなくて海道だけど、弓取りは武芸のことじゃなくて戦上手ってことだから
輿に乗ってたのは権威づけのためだけどね >>256
飛んできた弓矢を指2本で挟んで掴み取り、そのまま反転させて打った相手に投げ返す。
相手はその矢が額に刺さり死ぬ。
海道一の弓取りとはこの世界の海は広いがそんな神がかりな事が出来るのは義元だけ、と言う意味。 >>255
そうか?まあ史実ではないが、「おんな城主 直虎」を見ていて、あんなに謀反ばっか起こす周辺
豪族をよく我慢したよな。
って思っちゃったよ。 >>215
地名は名古屋市側
雰囲気は豊明側
名古屋市はただの住宅街になった。 2020年、大河ドラマ麒麟が確定した時点で某企業の計画倒産が確定したも同然
桶狭間はまさにその手口そっくり。(´・ω・`)
どっちにしても完全決着といえるような結果とは言えない上に、
その桶の価値が激減するリスクだけがあるのに、それでも調べようって態度は評価する
最近ののぶやぼだとヨシモンの弓適性高めだけど、なんか弓実績あるの?
桶狭間の合戦って、今川方から仕掛けたわけじゃないんだろ?
休憩中に織田に奇襲されただけだろ?
ちょっとした休憩中に、勝利祈願(?)で、
桶を奉納するなんてことなさそうなんだけど。
>>266
義元がある日太陽を撃ち抜くと言って天に向かって矢を撃った。
その矢は落ちてこなかった。
そして3年後…桶狭間の戦いの時、正面から織田軍が攻めてきたとき、3年ぶりに矢が落ちてきた。隕石に刺さって。
その隕石は織田軍を壊滅寸前まで追い詰めたが、追い詰められたことにより信長は秘めたる力を発揮して義元を倒した。 >>268
弓取りって武将という意味だから
義元が弓の達人というわけではない 弓取りは武士だろ
雑兵は槍や刀だからその技術が兵法
デブの麻呂のイメージだけどノブに討たれる前は超強かったんだろ(´・ω・`)?
>>150
山本勘助の見た目が不細工だから召し抱えなったエピソードもあるな(´・ω・`)
召抱えたら雪斎の代わりに義元守ったろうなって思った(´・ω・`)
多分創作だけど >桶狭間
昔の人の平均寿命は43歳。どうせ短い命だからと、賭にでた信長の勝利であった゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
-----
■江戸時代も何度かインフルエンザの流行があった。全て長崎など海外貿易の
ある場所から伝染した。1729年の世界的流行から1730年に流行り1733では
江戸だけで1月で8万人が死亡した。1917年スペイン風邪の流行で世界で
2300万人国内でも被害が出た
■1726年ころの平均寿命は男43歳、女44歳。
■痘瘡は江戸時代にも流行り1831年には乳児の5人に1人が死んでいる。
種痘によって100人に3人に減った。
■結核は明治以降長い間国内で多くの死亡者を出した。1882年コッホが
結核菌を発見するも被害は続いた
■ペストが最初に上陸したのは1899年、ねずみにつく蚤が人間を噛んで
感染する。ペスト菌によるもので発見者の名前から北里エルザン菌とも呼ぶ。
■日清戦争の後、帰還兵から感染症が国内に広がった。政府は以下の感染症を
法定伝染病として厳しく監視した:
コレラ、赤痢、腸チフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、ペスト
『病が語る日本史』(講談社学術文庫/酒井シズ日本医史学理事長)
>>51
歴史家ってより司令官が報告書の形で出してるのが最強
カエサルのガリア戦記とか
コルテスの報告書簡とか
コルテスの報告書簡は当時のヨーロッパで広く読まれ
部下が「本当のメキシコ征服」みたいな感じで別視点で批判的に書いてたりしてるから
補強できてなお凄い 沓掛から大高への移動中の昼食時、桶狭間山の上で今川は織田軍に襲われた。
場所は今の朝鮮学校あたりか桜花学園あたりの小高い山。
うちから見えるぜ。
地蔵池の辺までは逃げたかもな。
>>77
何よりも秀吉が内政をうまく回せなかったので、
秀吉が長生きしようが豊臣政権は短命に終わってた。 >>277
人生50年は単なる幸若舞の一説な。
信長が考えたんじゃないんだぜ。 同じ殺人現場でも一般人のならビビるけど武士のなら名所になるのな。
桶狭間の桶はアイヌ語のokで
ボトルネックのように狭まっている場所だ。
桶狭間の戦いはなかった。今川は信長と対峙する前に病に倒れてた、という新説が出てくるで
>>279
ええのう
女子大生眺め放題やんけ
桜花ってあんまパッとしたのいないイメージだけど >>252
その工事のとき、バイトで警備員やってたw
やっぱり出るんだ…… 観光バスが停まる場所を争ってるのか。
けど今川義元が打ち取られた場所なんて人が訪れるかなあ
本陣直行したのが誇張されて一点集中みたいな話になったような気がするが
丘を分捕って有利な場所で多勢と戦うつもりが、追い散らした敵が本陣だった説
尾張の土地を切り取りに来た義元
義元の命を取りに来た信長
>>287
高校のほうも可愛い子あまりいないのよね >>140
悪天候だったらしい、急に前がみえないほどの篠突く雨(土砂降り)になったらしい
でみんなあわてた、鉄砲は無論使えない、信長にとっては幸運だった