◆纒向遺跡で大型建物跡を体感
邪馬台国があった場所の有力な候補の1つ、桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった女王・卑弥呼の宮殿との説もある大型建物の跡が、柱を立てるなど建物の大きさを体感できるよう整備されました。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての集落跡で、大型建物の跡が見つかるなど、女王・卑弥呼が支配した邪馬台国の所在地の有力な候補のひとつとされ、国の史跡にも指定されています。
しかし、建物跡などは発掘調査のあと埋め戻され、訪れる歴史ファンからは「遺跡がどこかわからない」などの声が寄せられていたため、桜井市は、発掘調査の成果を現地で体感できるよう遺構を整備しました。
「卑弥呼の宮殿」とも言われた大型建物を含む3つの建物の跡に、柱に見立てた高さ1メートルほどの杉の丸太、計65本が立てられ、建物の大きさや位置がわかるようになりました。
整備に当たって、桜井市はふるさと納税で全国に寄付を募り、約2000万円の整備費のうち1割程度が考古学ファンなどの寄付でまかなわれたということです。
桜井市は、「多くの人に寄付してもらい感謝したい。
当時の様子が体感できるよう整備したので、ぜひ纒向遺跡に足を運んでほしい」としています。
NHKニュース 2018/04月06日14時30分
http://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2053679891.html けっこう知らない人が多いけど魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬台国じゃなくて邪馬壱国なんだよな
議論の根本から間違ってるのに認めようとしない
九州北部=邪馬壱国
奈良盆地=邪馬台国(ヤマト)
これが正解
>>3
でっかい高床式木造建築の痕跡が発掘されただろ もうプラスに邪馬台国スレが三つもあるな
何か強烈な焦りを畿内派から感じる
税金の無駄
年寄りの喜ぶカビの生えた歴史よりも自然科学に税金投入しろ
近畿説なんてもう考古学や歴史家の大御所たちが死んだら誰も支持しないでしょ?
彼らの顔立ててるだけ
>>6
ところが「壱」は国の名前じゃないらしいんだよね
魏から見て評価が高い属国に「壱」を付けた
評価の低い属国は「弐」だったらしい
その説が正しいなら邪馬壱国の正しい国名は邪馬国になる >>12
邪馬国ってどこよ
山の国?
そんな地名の場所あったっけ? 全く関係ないだろね
記紀すら関係ないスタンスなんだからさ
>>14
卑弥呼がアマテラスオオミカミ(伊勢神宮内宮)で、姪のトヨがトヨウケノオオカミ(伊勢神宮外宮)という説もあるよ >>16
山のつく地名は山ほどあるけど、山という地名は無いよな
てか、あるんだよな、その説から言えば耶麻とかいう場所が 宇佐神宮が後付けなら伊勢神宮なんか完全に後付けだろ
>>14
卑弥呼は九州北部
ヤマトは奈良盆地
卑弥呼は3世紀
倭の五王(ヤマト)は卑弥呼の死後140年も経ってからの話 >>1
「桜井市」じゃなくて、「奈良県桜井市」だろ
ちゃんと県名も入れて報道しろよ
政令指定都市でも「神奈川県横浜市」だぞw >>18
現在まで全く変化せずに地名として残ってると考える必要はないよ 九州内で、いわゆる邪馬台国に接して圧迫を加えていたのが
大和の勢力圏である、いわゆる狗奴国だと思うな
基盤も勢力も弱い連合国家である邪馬台国は、大陸に助勢してもらいたかったんだと思う
けっきょくは神功皇后と武内宿禰に滅ぼされてしまうが
金日成は日韓併合後の平壌生まれなので日本人として生まれているね
>>21
引っ張り合いと言うけど現実には奈良説は合理的な論拠が一つも存在しない
卑弥呼が北部九州なのは本当は誰しもが理解してるけど思想的な理由(例えば万世一系など)で認めたくない
つまり学術よりも感情を優先させている >>12
邪馬台国とは別に邪馬国という国もある。
倭人伝を嫁 >>27
色々あるみたいね
福岡県内という説もあるけど魏志倭人伝の記述と整合するのか不明 >>29
逆流する理由もないし
起点もそこしかないから
豊と八幡はセットで九州から畿内でいんじゃない
そういや八幡もヤハタとハチマンて微妙な感じがするな >>33
なるほど
でもそれは邪馬壱国ではないわけね
あえて言えば邪馬弐国か >>33
だから日本には山がつく地名なんて山ほどあると言ってるだろ
何の矛盾もないよ
奴国だって2つ出てくるだろ >>32
起点の帯方郡からで計算するとピッタリ一致するみたいね 水路が発達してたんでしょ
きっと倭人伝にも書いてるよね
>>33
半島南部の倭人地区には、弁韓時代「〇〇邪馬」国があるで。
=「○○山」、即ち、山手にあった邑(くに)だな。
一方、「〇〇彌凍」国は複数ある。
=「〇〇水戸」、要するに水辺の邑だな。
列島に渡って、下の語ができたんだろうな。
やまと(山戸) = 山手(守りの堅い盆地)の邑 → 盟主の座に
みと → みなと(水戸) → のちに一般名詞化し 「港(みなと)」 に
(※ 茨城県水戸市は、そのまま古語が残ったね。) >>45
九州説は地元の同好会や商店街の町おこし担当者が5ちゃんで暴れてるだけだからな 不弥国までは九州の中だろう
投馬国からの水行をどう取るかだよなあ
里程から日程に変わっているのは何故かという疑問もあるし
>>51
間違えた
誤) 投馬国からの
正) 投馬国への >>52
投馬と邪馬台だけは遥か遠くの大国というニュアンスはあるな 場所が決まらないといつまでたっても大河ドラマにできない
>>59
場所が確定したとしても、時代考証を誰が担当するかによって、まったく別物のドラマになりそうだけど… こんな全く関係無い場所にミスリードして税金使い込んでんじゃねぇよ
考古学的には邪馬台国は埼玉県ということで決着がついている。
>>64
うむ。
東松山の和菓子屋で、「卑弥呼の鏡」を見た気がする。 近畿は距離で言うなら九州で上陸せずに海路で瀬戸内海渡って摂津迄行きゃ良いだけだろ。
近畿は根本的に狂ってる。
邪馬台国○○支部ってことで
日本全国の邪馬台国候補地が連携したほうが得なんじゃないの
たまにあつまってお祭りやって、今年の邪馬台国論争はアンケート投票により纒向が二連覇を達成しました、とか
>>56
そうでもないけど謎は解明したいのが人間心理
まあ、文字資料に登場する日本最古の支配者だから史学的な意味はあるよ
と言っても飽くまでも日本列島の一部にすぎない「倭連合国」の女王だけど >>69
確かな証拠と言える金印・支那銅鏡・絹布が九州だからね
最も重要な物的証拠が畿内からは出土しないのだからどうしようもない >>74
邪馬台国に関連する金印など出土したのか?
三角縁神獣鏡は日本中から出土してるし。 >>75
知ってて惚けてるのだろうけど福岡県で漢委奴国王印が出土してる
畿内を中心に出土する三角縁神獣鏡は間違いなく国産銅鏡
北部九州から大量に出土してるのは支那王朝から賜った支那製銅鏡
同じく支那王朝から賜った絹布の出土も北部九州が中心
つまり支那との交流を裏付ける物的証拠は北部九州に集中していて畿内からは出てこない
物的証拠が出土しないということは支那王朝との交流はなかったと考えるのが合理的 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ´∀`)-( ´,_ゝ`) - (^∀^ )ヽ <田川はやばいよ
(_) 邪 (_)| 卑 | | 田 (_)
| | .| | | ∧_∧ | |
| | ,,,,,,,,,,,,| | ∧_∧ (`ハ´ ) <周りを見るヨロシ・・・
| |ミ,,,,,,,,,,;;ミ < `Д´>/´ 魏 (___) 皆九州説に行ったアルヨ
九州 >(´<_` )∪ ヽ| / )
(_/ 鏡ヽ | |___ .(⌒\___/ /
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、纒向遺跡の外来系土器の中心である出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。また阿波や宮崎や遠賀川の石神なども卑弥呼共立に加わりました。
それらの勢力の主体は、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い渡来人系勢力です(ヤマツミ、ワタツミ)。
畿内や九州北部沿岸部の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
>>64
え?マジ!?
もしかして埼玉古墳群の中に卑弥呼の墓があるのけ? ◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。 (教化)
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
>>85
村井康彦「出雲と大和」(岩波新書)では、伊支馬、弥馬升、弥馬獲支には
それぞれ歴代天皇を充てているね。
・伊支馬はイコマだから、伊久米伊理毘古伊佐知命の垂仁天皇。
・弥馬升はミマスだから、御真津日子訶恵志泥命の孝昭天皇。
・弥馬獲支はミマキだから、御真木入日子印恵命の崇神天皇。
どっちにしろ牽強付会だとは思うがw 生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になる。
古い海神。BC1000年頃水稲栽培をもたらした勢力か?陶塤と関係あるのかな。
陶塤は、宗像以東、周防出雲丹後半島など日本海側中心に分布。
水稲栽培が伝わった時期、緯度を考えると殷からの難民がもたらしたのか。
殷に纏わるもの、亀ト、河伯信仰、生贄など。
カミイクスビ、イノヒメ
クマノクスビ
クスビは奇し火
クマは篭った、奥まったという意味か。
イノクマ、生馬、生駒、伊熊、猪熊と何か関係あるのか。イン+クマ?
>>76
当時、九州に度を越したコレクターがいて、全国からかき集めたものかもしれないぞ。 もともと宮崎にいた勢力が津波で壊滅的になったんで生き残ったのが津波のないとこ探して内陸の奈良に落ち着いたって気がする。食生活とかかなり違う。
九州にあった邪馬台国が
東方征伐で近畿まで来て
そこでヤマト王権になった
で良くね?
両方で良くね?
邪馬台国→ヤマト王権
この説が一番頭悪い
この説を土台に考えてる馬鹿(主に奈良側)が邪馬台国の位置に拘ってる
>>94
邪馬台国
ヤマト王権(大和朝廷)
なんで似た名前なんだろ? >>86
出雲国風土記をまだ読んでないんだよな
イスケヨリヒメのいた村は出雲から国譲りによる避難民の村と考えているんだけど 四国にあった邪馬台国が喧嘩別れして
俺は九州にいくからお前はついてくんなあっちいけと
吉野ヶ里辺りに邪馬台国があったんなら
末蘆国(唐津)に上陸してから
伊都国(糸島半島)やさらにその向こうに行くのは遠回りだろ
邪馬台国は奈良にあって途中無事朝貢してきたことを
投馬国(出雲)に報告してから奈良に帰る決まりだったんじゃね
>>100
唐津の南側は険しい山岳地帯で平地を通りたければ福岡平野経由しかないよ
俺は吉野ケ里ではないと思うがね
邪馬台国が奈良にあるなら唐津で上陸する意味さえなくなってしまう
唐津で船を降りて陸行したのだから行き先は九州の中だろう 邪馬台国の東側はすぐ海があって千余里行けばまた倭種の国があったんだよ
奈良は盆地だから東は山で海は無い、倭人伝ををシナ人に訳させれば上のような
解釈になる、従って頭から邪馬台国奈良説は無いと言う事だ、奈良説をいつまでも
唱えているのは知恵遅れ。
>>76
>漢委奴国王印が出土してる
漢委奴国王印と邪馬台国とになんの関連があるの?
>畿内を中心に出土する三角縁神獣鏡は間違いなく国産銅鏡
>北部九州から大量に出土してるのは支那王朝から賜った支那製銅鏡
根拠をお願いする。 >>72
食料がなくなったり他部族に襲われたりで
毎年平均で七回くらい遷都というか移動してたから
所縁の地はいっぱいあるよ
人口最盛期でも七百人くらい平均で四百くらいの部族の首長だから掘っ建て小屋か
立派な時でも今頃の過疎地の総代檀家五十くらいの寺社の規模だったんだけどな >>95
邪馬台(ヤマト)
日本語には元々、二重母音が無いので、邪馬台の当時の日本語の音は、
「ヤマタイ」 ではなく 「ヤマト」 が妥当なんだとか。
俺の妄想では、当時、邪馬台(ヤマト)の国で、ヤングだけが話したナウい発音が
「ヤマティー」 みたいな発音で、あっちの人の耳には、「邪、邪馬台?? 不知道!」
とか思われたんかな。その後、「ヤマティー国」は滅び、この音は日本語から消えた。 前方後円墳は魏志倭人伝の「有棺無槨」の記述に合わないから
邪馬台国とは無関係
纏向遺跡も無関係
魏志倭人伝の記述通りなら邪馬台国は北部九州。
>>96
大和朝廷 「卑弥呼? ・・・まあ、なんだ、それは聞かないお約束だろ。
天照って神話も作って子孫を手厚く祀ることにしたし、
まあ、それ以上は聞くなや。 大人の事情ってやつだw 」 カワチ河内、ヤマシロ山背、ヤマト。
ヤマトは山外、大阪湾から見て葛城山系の向こう側の地という意味。
国生み神話を見ても分かるように、倭人の本拠地は環大阪湾。
大阪湾から見て山の向こう側、山の外がヤマト。
日本書紀を作った天武はヤマトという地名が嫌で嫌で仕方がなかったんだろう。奈良という地名を新たに付けている。
ヤマトという地名は、元々の名付けの主体が何処にいたかを明らかにしてしまうからね。
九州とヤマトの2大勢力があったとしたら、必ずぶつかってるわな
しかも出雲、吉備、河内は北九州の土器が弥生前期で出ている
それらを持ってきた連中は九州を知っている
ま女王国の場所は、ヒミコの野望とかのゲームを作ってもらって、それぞれが納得すれば良いんじゃないかな?
邪馬台国は戸数七万戸の都市
それほどの遺跡も見つからない九州に邪馬台国があったわけなかろう。
卑弥呼の時代、ヤマトだとして橿原はどうだったんだろうね?
池が多い大湿原地帯だとすれば、
「磯」城と同じ「河岸」原だったかもしれん w
また香取と鹿島の対な関係があったかも
>>119
お前は歴史スレで嘘ばかり付いてるな。
葛城山系&生駒山地の向こう側、東側がヤマト。
奈良盆地や宇陀辺りだろう。
伊賀辺りまで含んでいた可能性もある。 >>121
言葉足らずだったけど、俺は
> 山の外がヤマト
に反論してるのよ。 山の向こう側、山外は、自然な地名のネーミングだよ。
ヤマシロ、山背と同じ発想。地形が由来。
カワチ河内も同じ発想だな。
発音的にも、山外でヤマトで問題ない。
内はチ、外はトと今でも発音するからな。
他に自然なヤマトのネーミングの由来はあるかな?
>>123
俺は通説どおりに「山戸」あるいは「山門」だと思う。
山の入り口であり、平地の終わり(=野尻)。
水利を得るのが容易な地形なのだ。
傍証としては、水圏への入り口である「ミナト」との対称性だね。
一方、山外は「山地の外」という意味で、「山の向こう」とは
ならない気がする。 高槻の今城塚も石棺が九州で、それを古代の技術で運ぶ実験したら3ヶ月かかった。
古代において九州〜畿内は遠く、まして雄略が吉備を討ち、また継体が筑紫を討って
長州と筑紫の屯倉ひとつ得たとか聞くと、朝鮮半島経営など不可能事にしか見えない。
大体古代から天皇呼称を使うのも明らかに非学問性丸出しで、古代ヤマト王権などと
いう馬鹿げた言葉も追い打ちをかけ、万世一系という幻想ができあがるわけ。
そもそもが古代史学者などは理系のカスの文系のそのまた残りカスがやってるエセ
学問だから、日本の古代史は馬鹿ばっかなんだよ。
巻向などはただの人足寄場。大和川治水と古墳の人夫。
3世紀当時北部九州では既に文字が使われていたようだが
関西ではまだ使用されていなかった
文字が無い地域が文字を使っていた地域を支配していたなんて有り得ない話し。
大和のトは乙類
戸・門も外も甲類のトで、奈良時代には別音
乙類のトというと、跡はちょっと微妙、所もまた微妙
>>125
だから百済の比重が大きくなっていくんでしょ。
単発の内乱、特に九州は後世でも良くある。 そもそも山の向こう側なんて呼び方、
他勢力が付ける呼び名だよね
向こう側なんて自称は普通しない
音変化を考えれば、いくらでも説は作れる
「山手」かもしれないしな
>>128
弥生稲作の大先進地域筑紫を「七万戸の遺跡がないから無理」とかいきなし普段
無視してる文献を持ち出す馬鹿学者www
実際は「掘れば出る」宝の山状態だが、そんな土地柄だけに古代から営々住居が
現在まで積み重なって掘れないだけ。奈良の田舎とは違う。
「以後そのような大国は存在せず、縮小化していった。」
もともと七万戸ないとか言っといて縮小ってwww
じゃあ岩井の乱は何だよ?岩戸山古墳はでかいし、何で勝ったのに長州までと筑紫の
屯倉ひとつ貰って終わりなんだよ。しかも後継者もいて盛り返してるし。
このこと一つとっても(つっても畿内説学者の最大の根拠だけどなw)、いかに畿内説
の学者の知能が低いかよくわかるわwwwwwww 乙類の音は変化しやすいので
山手の可能性もあると思う
あとはどうやって卑弥呼を古代天皇の系譜に修正するかだな
腕の見せ所
洛陽も7万戸くらいだってね
陳寿が知らんわけないわな
畿内説が根拠にしている戸数も誇張である可能性は高いよ
>>118
邪馬台国は都市ではない
北部九州の国邑の連合体
北部九州全体で戸数七万戸。 卑弥呼を中国の上古音で読むと
pe mnel qha
ペムェイクァ
なんか無理して英語をしゃべった時の発音のようだ
印綬が倭国の代表としての邪馬台国だから、全部の戸数だろうね。
なんかさ、そういう文献資料の扱いすら知らないエセ学者が多くて困るよね。
邪馬台国は卑弥呼が都を置いたところと書かれているんだが。
倭国全体のことではない。
何度も言うけど、文献資料&考古学資料&環境&地政学を総合的に判断して
魏志倭人伝の倭国は九州にあった国で
その後火山津波&中国と半島情勢で危機を感じて
先に九州から大阪に上陸してた物部氏のあとを追って
東征したのが大和朝廷になった。
みんな本当に願望と妄想ばかりでバカなのか?
一度冷静に情報とそのタリない頭整理して書きこみなよ
頭悪い
何度も言う。
文献資料&考古学資料&環境&地政学を総合的に判断して
魏志倭人伝の倭国は九州にあった国で
その後火山津波&中国と半島情勢で危機を感じて
先に九州から大阪に上陸してた物部氏のあとを追って
東征した天孫族が大和朝廷になった。
証拠と根拠出揃ってて、いまだにあの時代に奈良に邪馬台国があったとかはもう無理。
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。
>>139
「南至邪馬壹國 女王之所都」
これは邪馬壹國は女王の都の所
即ち
邪馬壹国=女王の都ではなく
邪馬壹国⊃女王の都の意味ですよ
邪馬壹国=倭国=女王国。 イタリアギリシャでは議場の大理石で現物作り直ししてるのに
なんで日本は原始的なの
柱だけって
3世紀なんて世界では文明発達してたのに
日本人は猿だったの
>>139
投馬国は女王の都の所ではなく邪馬壹国が女王の都の所との意味で
投馬国に対して邪馬壹国の方に都があると言っている。 >>142
天孫族など存在していない。
本当に、従前からの「天孫」系の権威が存在し、
実力で東征したのなら、東征を境に、それ以前を
「神代」にする必要がない。その段階の神など要らぬ。
それまで別にあった権威を消滅させ根絶やしにし、
大和朝廷が簒奪したからこそ、それ以前の真実を
「神代話」にすり替える「必要」が有り、また、そう
「出来る」のだ。 奈良県で一番うまい塩ラーメン
なぜ先祖が神なのか
それは、誰が過去にこの世界を作ったのか
西洋は創造神に答えを見出だしたが
日本人は先祖がこの世界を作ったと考えた
しかし、世界は神が作ったという外来思想、特に漢字の「神」が入ってきた時
ならば先祖=神だろうと考えた
そうであるなら、「神」の読みは先祖を意味する言葉だったはずだ
カミ(先祖)として言い伝えられてきた先祖が神となった
先祖を表すカミとは、「上(カミ)」に他ならない
甲乙の違いは言葉の原初にあったとは限らないのでこだわらない
つまり、神代(かみよ)とは上代(かみよ)の事だったんだろう
上巻に神の話が載っているのは、そういう事である
そう考えれば、天も外来思想のような気がする
なぜ「天」にアマという音をあてたのか
それは、アマを故郷とする先祖の話が伝承されていて
それがカミ=「神」と結び付いた時に
アマ=「天」となったのでは無いか
先祖がアマ族出身とも考えられる
そるならば先祖の名前にアマがたくさん付いている意味も分かる
アマとは、「海人(アマ)」では無いか
いや、海人や海女のほうがアマ族から来ているのかもしれない
アマ族が海を得意とする部族だったのなら
遠い昔に日本列島に渡って来れた理由も分かる
要は、神話はただの先祖の話に
尾ひれが付いただけの普通の話だったんでは無いか
アマの香久山は、単なる普通の山だったのかもしれない
邪馬台国は北九州国家。海人の国。
魏志倭人伝に出て来るように
男は皆「黥面文身」つまり顔にも体にも入れ墨をしていた。
しかし海に潜り鮫を避けるための全身の入れ墨も、
この頃には文化・装飾的な風習に変わっていたとも記録されてる。
また同時期半島南部も倭の影響が強く
入れ墨をした人々が多かったと魏誌に記録がある。
畿内文化ではない
>>152
アマ とは今でも言う尼さん海女さんのアマである。
ヤンキーのいう「このアマー!(怒」 のアマであるw
要するに
アマ=女=すべてを生み出す者=神宿る者=神
神(アマ)が居るのが天(アマ)であり、そこから
降ってくるのも雨(アマ)である。
もちろん、女であれば、海女(アマ)さんであったり、
尼(アマ)さんであったりする。 文身というのは呉越の風習で、呉の初代王である太伯は、周から呉へ来たときに文身したとある。
江南地域(浙江と福建)は周の昔から越人(呉人も越人の一種)の支配地域である
つまりイネを日本にもたらしたのは江南であるならば
その時日本に渡来したのは文身した越人であるはずで、
それが卑弥呼の祖先であろうな
西暦100年に生まれた男でも
北九州に住んでいれば東へ500km程度の距離は
絶対に徒歩でも船でも探検に出かけたのは間違いない。
>>154
尼さんのアマはサンスクリット語なので仏教由来
意味は女なので女(アマ)もその系統
面白い事に、沖縄にはアマミキヨという降臨の女神が伝わっていて
奄美の語源もアマミクという女神
このアマミコも、アマ族の渡来なのではないかと思われる >>1
卑弥呼は韓国からの渡来人。
大陸系の優れた知識により、日本に国の基礎を築いた。
日本は韓国に複雑な感情を抱いているとは思うが、韓国がなければ今の日本はなかった。
いわば日本の父母とでもいうべきものだということを、深く認識したほうがいい。 >>155
長江・江南は、神仙思想や竜、女禍伏義伝説の発祥としても妥当性があるからな。
ただし女禍伏義伝説にある洪水と卵生神話のうち、卵生神話は儒教を否定したようにわが国では否定されてる。
この否定のエネルギーがオリジナルな日本を形作ってる。 >>159
卑弥呼は倭国大乱の後に共立され
その前には倭奴国が漢から金印を貰ってる
韓国とか出る幕ない
しかも倭奴国、卑弥呼の時代から朝鮮半島南岸には倭人の支配地が在った。 九州説での投馬を比定している、神武神話の宮崎日向だが、
瀬戸内土器や瀬戸内でも見える支那貨銭も出土する。
そして沖縄でも出土する。
楽浪そして帯方郡をおいた半島中西部と南岸部、対馬、壱岐、そして伊都を除く北九州から瀬戸内、日向、その日向から沖縄というルートを考えてもいいな。
ここで半島と日本(対馬壱岐)で出土性格の違いが見られるという。
今で言う葬儀での銭供養的な要素で墓から多いのが半島。
住居跡などの出土で生活で使用かと思われるのが日本ってなってる。
>>145
日本語は「AはB」の解釈は
A⊆Bまたはその一部なんだけど
なんで逆なの? >>17
伊勢の場所は律令制になってから定めたもんや
伝説にならってはいても、あんま関係ないわ >>145
その「都するところ」は単なる類書解釈で、実地の考証加わってないから意味あれへんって結論出てるやろ 遺跡をおもちゃにするな
テーマパークと勘違いしてるのか?
多くの重要な文化遺産を持つ奈良がこの調子では困るな
結局あれだけ騒いだ割には
特別な指定は何にも受けられなかった
一般の遺跡として埋められた
そんだけ
ほんま役に立たへん、ふっるい学説で獺祭やってるアホンダラともが、関西勢に恥かかせおってからに
奈良は平城京を完全再現した方が観光客来るんじゃないかい?
>>169
現在多くの人が居住してるから無理
それに天平時代ぐらいになるともう面白みはない
遺跡なんて整備しない方が価値があるのに
それがわからない人たちが無用な手を加える >>170
ミステリーをもう少し増やさんといかんね w 支那伝説の女禍は三輪山にも来てた。
卑弥呼は女禍の変身の姿。
って喧伝すれば、大仏殿の支那観光客も何割か足を向けるかもね w
そういや気不要と思って忘れてた
ふるさと納税受け付けてるんだっけか
それやるか
九州から東征だろうが武器の製造拠点は半島から鉄の運搬を考えれば九州に戻るより吉備に中継地を構える方が効率よく一旦前線基地として吉備を拡張してるとは思う。
卑弥呼からの朝貢品は海産物が多かったんじゃ無かったっけ?内陸部より海の近くだったんじゃ無いの?
>>165
「女王之所都」は投馬国に対して邪馬壹国に女王の都があるとの意味です
文章が投馬国の前で切れてるのを続けて読むから意味を取り違える。 大阪湾、伊勢湾、奈良は、中国南部と並ぶ下戸の集積地なんだな。
朝鮮半島との大きな違い。
半島との行き来が多かったのは山陰だろう。
現在では随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されていたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である
>>1 いやwだから、先ずは卑弥呼について書かれてるっていう魏史倭人伝の歴史的な記録としての信憑性について検証してからにしろよ
卑弥呼が存在するっていう前提で話進めるからおかしな事になるんじゃねーか
そんなに力のある国の記録が日本の地に文字なり遺跡なり、伝承なりで残ってないのがおかしい >>133
卑弥呼は天照大神だから修正は必要無い。
勿論邪馬台国=高天原は九州に有るのは記紀にも書いて有る、
神武は卑弥呼の5代後の人物だよ。
当時の政権は平均10年で交代したとすると50年後神武東征となるな。
丁度4世紀前半で古墳時代の始まりと一致する。 >>180 それ邪馬台国という名前の国じゃなく、それっぽい有力な国が九州と畿内に有っただけっていう 卑弥呼の時代に九州に存在した倭国の中心邪馬壱国
後世に日本列島を統一する事となる畿内ヤマト王権
この二つがどのように繋がるのかさっぱり分からんのよね
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、纒向の外来系土器の中心である出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。阿波、宮崎や遠賀川の石神などもヤマト征伐に加担しました。
九州北部沿岸部の渡来人系勢力、畿内の勢力、関東東北の先住民はこれらの勢力に征伐されました。
纏向は出雲が作った都市だよ
後に神武の子孫に乗っ取られて大和朝廷になった
三輪山って絶対に登っちゃダメなんだぞ
大神神社は有料で登らせてるけど
魏志倭人伝より前。安徽省亳県所在の曹操宗族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、多量の字磚が出土。その中の一枚に倭人という字を含む文章があった。この曹胤(そういん)の墓は、後漢の建寧年間(168〜172年)。
「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」と書いている。弥生時代に、倭人、大陸行ってるんかい。
古代に中国制圧しておけば今苦労することなかったのに
古代から日本人って間抜け
視点を少しだけマクロにしてみよう。
済州島(チェジュド)に住む人々は、海女さんである。現在の日本では、7割が済州島
からの出稼ぎで持ってるとも言う。この済州島人だが、面白い話がある。と言っても、
当事者にとっては楽しい話ではないが。
彼らは、時の政府ー新羅、高麗、李氏朝鮮、いずれの時代も被差別の対象だったという。
その大きな理由が、勝手に中央政府を無視して倭人と交流するから、というのである。
第二次大戦終結後も悲惨な虐殺を食らった済州島だが、彼らは海洋民族で、明らかに半
島人とは異なっている。そして、自由に環日本海文化圏の主役の一端を担っていたという
のである。
これは、かつての倭国が何故半島にコミットしていたのかについての重要な証明となる。
そして、海洋文化のない奈良王権には全然関係のない話でもある。
更にマクロな話だが、日本語の漢字の読みは、呉音である。だから現代中国語とは通じに
くい。南朝から代々叙せられた倭の五王当時既に漢字が入ってきていたことの証左でもある。
そして、これも記紀に何も書かれていない。即ち奈良王権には関係がない。
そもそも卑弥呼の朝貢が可能となったのも、公孫氏が滅亡したからであり、三国の必死の
地理的拡大の角逐に倭国といえど人ごとではなかった。沖縄まで奴隷狩りに来た事は当然
伝わっており、公孫氏と呉とが遠交近攻策で繋がっていたのも周知のはず。
当然道が開けたとき、魏への朝貢と防衛支援を請うことは必然と言える。
そして、ここでも僻遠の奈良ではそんなことは関係がないのである。
雄略が調子にのんなと吉備をしばいたレベルで半島にまで大軍を展開する力などあろうはず
がない。
旧唐書倭国伝で倭国と日本の代表が喧嘩したという記事は、わかりやすい。
古代史の学者というなら、これに説明をつけてみろよと。
動画見たけど、もっとまともに整備できないのか?
杉の木とか使って数千万の経費でやるのなら
もう少しよく出来ただろうに
近畿の下戸は出雲系だろうな。
高床式建築と稲作、蛇は南方由来だろうが
ただ神武の東征や国譲り、統合神話は
魏志にある邪馬台の俗風とは全く違う民族との融合だよな
戦勝国が邪馬台なら刺青や珠や丹を体に塗る習慣が根付くだろうがそんな形跡もないし、天孫族やアマと言われる様な連中、鳥の舞は半島勢力だろうし、記紀は九州ではなく半島三韓の口伝だろ。
倭奴国、倭国は7世紀まで九州の地に存在していた
記紀は倭国の歴史を消し去りヤマト朝廷が昔から存在していたかの様に歴史を書き換えた
この時に邪馬台国も卑弥呼も抹殺された。
>>197
畿内説主張してる奴のが長文で必死じゃん
別にどこにあったって構わないけどさ >>189
文選所収の王褒「四子講徳論」に「嫫姆倭傀、善誉者不能掩其丑(醜)」とある。通説では、嫫姆も倭傀も古代の伝説的な醜女の名前としている。これを「嫫姆は倭人(日本人の祖先)の魁傑(すぐれた大人物)」
当時流行った歌の中に、倭人とでてきて、身体を刺青しているが、鏡を作れる力があるから、認めているのもある。当てはめるならピッタリな単語やね。 >>202
魏志倭人伝やジセンより、前に出てくるいまのところ、1番古い倭の単語出現かな。
ちなみに、嫫姆は、鏡を発明したとも言われてる。卑弥呼は、鏡を祖母山いって硬い石とってきて、つくらせてる。誰でもは、作れない。 >>203
島国からくる刺青をしたもの達を、大陸は、野蛮、あまり良くないものとした。「呉の太白がわざわざ文身した理由。周に帰らない身分」しかし、青銅を作り出す力があるとして、文選のなかの単語 倭をつかったのかな。 隋書に魏史の邪馬台は今の大和だと書いてる
これで決定でしょ
>>155
江南は春秋戦国末期には楚の領域だな
楚は優れた製鉄技術を持っていたことで知られる国だから
日本、特に北部九州で大陸とそう大差ない時期に鉄器が普及した理由も
渡来人がここの出身だったからだろうな >>205
それは地名が同じだからそうだろうと隋の使者が思いこんだだけで
特に根拠のない話
隋の時代には既に魏志倭人伝から300年も経過しているのだから、
ごく短期間訪れただけの随使の判断が正しいと考える理由は無い >>182
敗者が伝承に必ず残るはずという理論の方を
先に検証すべきでは >>191
呉音は仏教伝来の頃の漢字音
それ以前はまた別の漢字音が入ってきていた
>>200
真実から遠い気がする このY染色体ハプロタイプなるものの分布を見ると、
いろいろ見えてくる。
学者先生の説は置いといて、いろいろ考察する。
図から推測されるピュアな遺伝集団として、以下を想定。
・原先島人(淡橙O2b)
・コロポックル(薄緑D2:日本固有)=縄文人のベース・チベット近縁種
・原華人(黄O3)
・北方民族(空色C3)
押さえどころ
・南琉球にて、原先島人(淡橙O2b)が、コロポックル(薄緑D2)
と接触しているが、原華人(黄O3)と接触がない。
・原先島人(淡橙O2b)と原華人(黄O3)の混血が、 沖縄以北
の日本列島、と半島に存在。
・半島のメインは、原先島人(淡橙O2b)と原華人(黄)の混血
ここから何が見えるか?
→以下に続く >>210つづき
前述の押さえどころを総合すると、以下の順序で交雑したか。
@原先島人(淡橙O2b)が北上し、日本列島〜半島に広がる。
A北から来た圧倒的なコロポックル(薄緑D2)に日本列島を
制圧されるも、先島は死守。
B半島では、原先島人(淡橙O2b)が原華人と混血。
C半島の混血種が、後に日本列島(先島以外)に広がる。
その他
・アイヌは、コロポックルに後から来た北方民族(空色C3)が
混血したもの。
・半島に北方民族(空色C3)が多く、九州にもあり、北上する
につれ減り、青森では見られなくなる。
この点から察するに、この系統の北方民族の影響が倭人
(=日本語話者)の成立と関連か。 >>189
倭人=日本人じゃないし日本列島の倭人もルーツは大陸からの渡来人だろ
支那の古代文献に登場する「倭人」で最も古いのは紀元前1040年
日本列島では縄文時代から弥生時代に変わる頃の話
支那王朝に対し「越人が白雉を、倭人は霊草を朝貢しにきた」と書かれている
「倭人」という表現が何を意味しているのか謎だが、特定の国民や特定の民族ではない可能性もある
何故なら支那の古代文献に登場する「倭人」は大陸の南から北まで、そして朝鮮半島や日本列島に至るまで
非常に広範囲の人々に対して使われているから ただし、縄文時代に日本列島から大陸に渡ったいわゆる「縄文人」が倭人のルーツである可能性も無いとは言えない
縄文人は優秀な船乗りだったからな
ふと思ったけど、「倭人」という表現は元々は「背の低い人」という意味だった可能性もあるな
或いは言葉が通じなくて一人称の「ワ」を聴いて「倭人」と表現したとか
>>205
> 隋書に魏史の邪馬台は今の大和だと書いてる
ところが魏志倭人伝には「邪馬台国」なんて書かれていない
書かれているのは「邪馬壱国」
つまり隋書編纂者が大いなる勘違いをしている >>211
弥生土器やその後の古墳文化などは北方系文化の影響が観られるね
ただ日本の古墳文化のルーツが北方系だとしたら朝鮮半島を素通りして日本に来たことになるのは矛盾点かな
弥生土器も朝鮮土器とは形式が違うから北方系が直接日本列島に来ていたことになり矛盾点
北方系のトーテムポール文化はどうだろう
朝鮮半島にはトーテムポール文化があるけど日本列島にはアイヌ文化圏にしか存在しない
誰かが日本のトーテムポールは神社の鳥居になったとか言ってたけど成る程と思ったな >>211
ところでそのDNA解析というのは「いつ頃混じったか」という時期の特定は出来るの?
大ざっぱには分かるだろうけど特定となると難しいのではないか
時期はとても重要なんだけどな 体面を気にして、わざわざ古事記を禁書にし、その他の文献を焚書したほどかっこ
つけの大和政権の割には、伊都国、邪馬台国、倭の五王など正式に印綬を受けた
事の記録がないのは何故か。
>>200
奈良だと魏志倭人伝の記述と全く合わない。 邪馬台国九州説論者は、九州と畿内の距離が離れすぎていると思い過ぎ
北九州から大阪府までは400kmしか離れていない
強力な男が20人乗って船を漕げば時速20キロで航行できる
北九州から大阪までは1日〜2日で到着可能なのです、邪馬台国の時代、西暦200年の話。
>>205
隋書の時代の邪靡堆も依然として北部九州であった。 これワシも寄付した。
邪馬台国がどうこうよりも、プレ大和朝廷の遺跡として重要だと思ってな。
>>219
里数での説明で女王国までの行程の説明は終了して
日数での説明は同じ行程を再度説明し直しているだけ
北部九州が女王国の都のあるところ。 >>221
プレ大和朝廷の遺跡ではなく大和朝廷に滅ぼされた地元の豪族の遺跡。 >>1
九州では点々と地名があるのになぜそこからいきなり畿内に飛ぶんだ?
距離あるのに途中の地名が一切無いのはおかしい。 >>200
不自然すぎるってだけ。無理やりすぎる。 >>15
当時の大和は魏なんて国、名前も知らなかったんだろ。
新羅や任那や百済は出てくるけどな。
朝鮮半島と交流のあった筑紫なら知ってたかもしれないけど、大和では新羅すらよく解ってないから。
仲哀天皇のエピソードでも新羅の場所も名前も解ってないし(后の母の祖先に新羅人の子孫がいることになってるけど) >>14
そりゃそうだろ
邪馬台国は騎馬民族である大和朝廷に滅ぼされたんだから
よく覚えておけ >>224
筆者が適当に書いただけ… 徳川埋蔵金伝説と同じように
詳しく正しい場所を書く義務は筆者には無い。 東を南と記入するような簡単な事 >>35
ハチマンは音読み、つまり漢音読みでしょ。
奈良時代は熟語にも訓読みを当てるほどいろいろ訓読みをあてたのに、平安時代以降何でも音読みするようになったんよ。
因みに「日本」もこれで「やまと」と読んでたんだよな(例、日本武尊)。 そろそろ「日御子」って呼べよ
「卑弥呼」は中国がつけた蔑称だろ
>>228
騎馬民族征服説って何十年前のトンデモだよ。 なんかもう時代考証が滅茶苦茶だな
遮光器土偶は宇宙人のロボットってのがまだ信憑性ある
>>231
日御子なのか日巫女なのか姫子なのか姫命なのか日女命なのか比売命なのかわからないから、原典尊重で使い続けてるんだろ。 >>233
わざとそういうことをやってんだろう。
真実に近いことを議論されたら、困る奴らがいるということ。
わざと出鱈目をばら撒く。 >>224
ワシは本州には土地勘がなくて道に迷ってたと考えている。
都怒我阿羅斯人という、道に迷いながら大和に来た渡来人の伝承も、纏向の頃にあるしな。
(第十一代垂仁天皇) あれだけ大騒ぎして国の史跡どまり
補助金も付かないので地元自治体で公園作り
観光客目当てに歴史をゆがめるのは辞めたほうがいいのでは
>>223
纏向遺跡の時代から奈良時代が始まるまで大型前方後円墳の時代が続くんですが
この間に権力交代を示すような文化断絶はないよ。 文化断絶がないから、権力交代がなかったとは言えない。
>>239
大型前方後円墳は大和朝廷に滅ぼされたナガスネヒコ等の遺跡。 まったく支那人が記録をちゃんとツケないからこうなる
六分儀くらいつかってくれよと
>>232
騎馬民族征服説って久し振りに聞いたなw
今でも残っているのか? 記紀にも大和朝廷が前方後円墳なんて築いた記録はないな。
>>241
ナガスネヒコって大仙陵も作ったの?w
いくら何でも時代が合わんよ。
前方後円墳も後半になると墓誌が出てくるし、墓主の特定のできてるものもあるから、それが記紀等の伝承と大きく食い違わないのは確認できている。
一番大きな発見だったのは埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣で
雄略天皇の諱が書かれていた他に、墓主の五代祖先として大彦命の名も書かれている。
大彦命とその息子を東国に派遣したのは第十代祟神天皇であり、その伝承の正しさを証明できる。 >>245
規模からして吉野ヶ里の足元にも及ばないな。 魏志倭人伝には邪馬台国とは記載されていない。
邪馬壹と記載している。
これを壱だと言う説もあるが…壹與はとよって呼ぶ説もある。
邪馬壹国は、ヤマトと読む事だって出来る。
>>244
形状についての記述は無いが、陵の場所については初代神武天皇から全部書いてあるし、比較的新しいものは確認もできてるよ。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒巻の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
>>250
東海と吉備は四道将軍の伝承にある通り
山陰は相撲の開祖、ノミノスクネだろうね。
ノミノスクネは埴輪を考案した事でも伝承になっている。 邪馬台国は青森だと思う
キリストの墓があるくらいだから、ちゃんと探せば卑弥呼の墓もあるはず
異論は認める
>>247
纏向遺跡は、宮殿だけじゃなく、周辺の街まで含めると、吉野ヶ里遺跡どころか平城京にも匹敵するよ。 >>200
ここは日本だし某国が主張する様な
全ての歴史が奈良に有ると言わんばかりの
根拠のない妄言は認められないだろ。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波の勢力。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立 、阿波咋
国底立神。
国常立神、天香山の山頂に祀られている神。 鬼門に封じ込まれた神。 天岩戸の向こう側に追いやられた神だろう。
阿波咋。
>>257
学校のプールの改築工事や区画整理工事等で遺跡が出てくる度に調査してて、かなり広範囲に発掘されて調査結果も書籍にして出版されてるよ。
「大和・纏向遺跡」石野博信著が出たのはもう十年以上前だね。
もちろんおかまいなく工事されちゃったところもあるし、まだ手付かずのところもあるから、全体像は未だ不明だ。 卑弥呼は朝鮮半島からきた天皇率いる朝鮮軍に滅ぼされてしまう。
天皇率いる朝鮮軍は日本人になりすまし日本を制圧した。
これが隠された日本史。
>>258
まだ5%程しか発掘されてないらしいしね。 >>249
陵の場所は明治になってから適当に決めただけ
前方後円墳で確定してる陵墓は一つも無い
仁徳天皇とか「民のかまどより・・・三年、税を免ず」の逸話があるのに
巨大前方後円墳とか人民に造らせるかよw >>260
なるほど
それなら朝鮮半島は日本に返してもらわないと >>258
2世紀にそんな大きな街が纒向にあったんだ
すごいねー >>214
それは、魏志倭人伝もそう書いてる。張政も邪馬台国に関係している。卑弥呼の後の壹与に、関係して、卑弥呼と別にした表記やないの? >>260
卑弥呼は既に朝鮮半島に投馬国を獲得して進出してたんだよ
投馬国が後の任那日本府なんだ。 >>259
九州説の方が情報弱者だろう。
最近、と言ってもこの十年くらいの考古学成果を無視して主張してるんだから。
九州の遺跡は邪馬台国の時代よりずっと古いんだよ。
後漢書や徐福と絡めた方が良いと思うよ。 >>246
稲荷山の鉄剣の銘文はワカタケルと読むこともできる?程度のしろもの
しかもワカタケルなんて若大将ていどの意味しかないんだよ
こじ付けも甚だしい。 >>267
九州の遺跡は邪馬台国の時代よりずっと古く
その後もと切れることなく続いている
最近は3世紀当時の硯とかが次々と発見されてるね。 >>262
天皇陵は調査できんけど、前方後円墳は貴族豪族のもたくさんあるからね。
そっちは予算のある限り調査しまくってるよ。
予算に限りがあるから全部は調査できてないけどな。
また仏教伝来によって祭礼が変わった為、前方後円墳は作られなくなったけど、終盤は文字のある時代なので
発掘調査で文字が出てくることもあるし、発掘できない天皇陵も関連資料の信憑性が高くなっている。 >>268
ワシは大彦命の方に注目してるんだけどね。 九州は朝鮮から逃げてきた人達が建てた王朝。奈良はもともと日本にいた人達の王朝。ただし邪馬台国は九州の朝鮮から逃げてきた人達の王朝と思われる。
>>267
九州説でも、畿内説でも、東遷説でも、なんでもいいから、青銅を作るのに、絶対に、必要な錫は、どこから、きたの?その時代に、ナラに錫あるかな?ナラ大仏様は、500トン銅と10トン弱の錫。ペグマタイト鉱床とか記載がある文献は?錫の産地が力を持つと思う。 畿内説は最近は下火だね
記紀が想定されてたよりかは正しすぎてな
三世紀末から四世紀にヤマト王権に滅ぼされた国のうちの
一つが邪馬台国と考えた方が自然
>>267
まーたデタラメばっかの年代法頼りの馬鹿が出てきた
それも含めて情弱 >>275
巻向発掘の盛り上がりの勢いだけで「畿内で決まりだ!」とか馬鹿騒ぎしちゃったけど
冷静になってみれば、大規模な遺跡ってだけで、それが邪馬台国であるって根拠は特に無いからなw
頭が冷えて懐疑的な目で見る人が増えてきたのも当然 まあ、九州からはこれ以上何も出てこないし、九州邪馬台国説唱える連中は
大阪湾の海岸線の位置が変わってることすら知らないし
畿内の勢力は飛鳥と難波行き来してた事も理解してないからな
畿内には海岸がねえから船で行き来出来ないつってたのはマジ笑ったw
日本も半島と変わらず歴史捏造がけっこう好きだよねw
気が小さいせいか半島ほどおおっぴらじゃないけど
ちょこちょこと目立たないように少しずつやって
自分の都合の良い方にもってくっていうか
>>278
九州説のアレな人数人見つけて勝った!勝った!とはしゃいだとこで
畿内説がなにか進展するわけでもないんだがなあw 万世一系の我が国の皇統が支那風情に朝貢するわけがない
よって邪馬台国は九州に跋扈していた地方政権
卑弥呼は熊襲の女酋長である
ヤマト王権の前身などと唱える者はこれ全て我が国の皇統の権威を貶める売国奴であると心得よ
>>280
おいおい、旧石器時代を数十万年単位で捏造し
「日本の旧石器時代はアジアで最も古い!」とか言ってた連中のどこが気が小さいってw
日本の考古学者の歴史捏造は韓国笑えねえよ 卑弥呼や邪馬台国←これがそもそも蔑称なのに、
二千年前のタブロイド紙をありがたがる、あほ。
2,000年後、日刊ゲンダイの記事信じてるアホがでてきそうで怖いな。
>>286
蔑称もなんもどうでもええ話やろ
つまらんおっさんやな >>276
放射性炭素同位体による測定を頭ごなしに否定する方がトンデモだろ。
しかも以前の、土器編年による推定では
箸墓古墳は350年を中心に前後150年の誤差としながら、同じ論文で350年から500年としていたり
古い年代を無視するようなことをかいとっただろ。
10年くらい前に邪馬台国特集をやってた歴史読本でそんな論文見つけて何だコリャと思ったぞ。
皇国史観否定だか何だか知らないが、日本の歴史学者は古代を不当に過小評価し過ぎ何だよ。
皇国史観全肯定もおかしいけど、根拠部分をねじ曲げてはもっとおかしいことになる。 土器編年による箸墓古墳の推定年代は、350年の中心に前後“250年“の誤差だったな。
だから100年から600年のはずが、350年から600年となっていた。
で、これを根拠に箸墓古墳や纏向遺跡は邪馬台国の時代より新しいと言われてたんだ。
でも誤差の前半ならピッタリ収まっちゃうんだよ。
>>1
卑弥呼は九州だわ。
九州の北部をチマチマ移動して、一気に近畿までとか変だわ。
最後の記述は総旅程だろ。 はよ、九州説を粉砕しないと、
福永という基地外が、
聖徳太子まで九州とか言ってるぞ。
もう聞いてて憐れでかわいそうだから、はよ、
決定打発掘してやって。
>>283
伊都国が卑弥呼の都で間違いないあまたいこく
邪馬壹国は北部九州全体のことを指している
6世紀頃に北部九州の一部勢力が東征して植民したのが大和政権。 >>32
現在のような歩きやすい道を想像してるからそんなことが言えるわけで
獣道に毛が生えた程度の道で30日ならほとんど進めない >>283
伊都国が卑弥呼の都で間違い
邪馬壹国は北部九州全体のことを指している
6世紀頃に北部九州の一部勢力が東征して植民したのが大和政権。 九州の地名に引っ張られすぎ
そもそも、九州の地名の多くは逆に古典から引っ張って命名されてる。泊を付けるためにね
少弐氏や相良氏、島津氏の常套手段。とくに島津氏は薩摩大隅の地名をそれっぽく改名するの大好きだった
>>283
比定地を定める必要がない
畿内説は比定地を定めるたびに否定されてるわけで >>278
船で行き来できるなら九州に上陸せず一気に船で畿内まで行けよ
だから畿内説は信憑性がないんだよ ★在日朝鮮人が日本人に知られたくない事実
◆弥生人が江南地方から稲作や飲茶の風習とともに日本に渡来したこと
肉食民である穢族の朝鮮民族とは全く親和性のない民族であること
(稲DNAの証明・茶文化がない)
◆朝鮮半島南部の先住民が倭人(のちの日本人)であること
半島南部で縄文土器や弥生式土器が多数出土)
◆朝鮮には存在せず日本と江南にだけ存在する稲DNAがある
ことから朝鮮由来説は否定されること
◆新羅の建国時の宰相が倭人(日本人)であること
◆百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
◆百済、高句麗など朝鮮半島に広く侵入し住み着いた狩猟遊牧民の
扶余族は その歴史を通じて中国に直接的隷属する立場だったこと
◆扶余族や高句麗系の穢族は三国時代に満州北部に住んでいた民族であり
痩せた土地に定住し好戦的な肉食民で風俗は淫乱であったと記録される
◆大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の日本由来の前方後円墳の存在)
◆朝鮮半島における文化的独自性の欠落
(茶文化もなく、あらゆる分野での古典文献資料の不在)
→事実の捏造、文化の掠奪、文学が日本のように豊かに育たない
◆常に中国、モンゴル、日本などの直接的隷属国であった歴史
◆姓が漢族のものであること
◆朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと
(李朝の軍は明の将の指揮下に入り和平交渉も日本と明の間で行われている)
◆朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと
◆近年、縄文文化が欧米の学者から最高水準の評価を得ているが
なぜか自分たちの居心地感が悪いのでどんな手段を使ってでも
縄文文化や縄文人を貶めたくてしかたがないこと
◆縄文人に近く朝鮮人から最も離れた雰囲気があり
日本人の根源のD遺伝子を豊かに持っている沖縄人やアイヌ民族や
や北海道民が憎くて憎くてしかたがないこと
◆縄文人や先住民をネタに同情しているふりをして沖縄やアイヌを
日本から切り離して独立させようと必死なこと
◆「天皇は朝鮮人」「天皇率いる朝鮮軍に日本は滅ぼされた」と
絶叫していないと火病で狂死してしまうこと
◆「日本人は朝鮮人」「北海道民や東北民は土人」と意味不明なことを
絶叫していないと精神が不安定なまま火病で頓死してしまうこと
◆安倍政権を崩壊させないとなぜか不安で不安でしかたがないこと
つまるところ、九州の地名を根拠に九州説唱えるのは、オランダ村があるからオランダは長崎にあったというくらい乱暴
九州は長い戦乱で神社仏閣の大半が焼失して資料が散逸、さらに各地の戦国大名が好き勝手に歴史を創作してしまったのでめちゃくちゃ
金印だって福岡藩による捏造説があるんだし
>>301
>長い戦乱で神社仏閣の大半が焼失して資料が散逸、さらに各地の戦国大名が好き勝手に歴史を創作してしまったのでめちゃくちゃ
近畿の話だね >>302
たぶん継承権争いに敗れて落ち延びた新羅の王族 現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されており、畿内は九州王の墓所であった。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である。
>>301
>金印だって福岡藩による捏造説があるんだし
捏造説は完全に否定されてるよw
畿内説からすると金印は邪魔で仕方ないなんだなwww >>297
8世紀に記紀が編纂された時に
記紀の内容を畿内地方の出来事とする為に
元々は九州の地名を畿内地方に名付けたものだ。 >>278
その割に畿内説だって、畿内には広大な平野があるとかぬかす たまたい = やまと
と考えるのが自然ではある
九州から畿内へ遷都した可能性もあるがな
魏志倭人伝の記述をよく読めば女王卑弥呼の領土は日本列島だけでなく朝鮮半島南岸にまで及んでいたことが分かる。
>>299
普段は筑紫国と交易していて、一度だけ妨害されながら大和に来たのなら矛盾は無くなるがな。
実際そうやって大和に来た都怒我阿羅斯人という渡来人の伝承もあるし。 魏志倭人伝の最大の誤解釈は里数による行程と日数による行程を繋げて読んでしまったこと
正しい解釈は里数による行程と日数による行程は同じ行程で
行程を距離と時間で説明したもの
なので「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」の女王之所都とは
投馬國に対して邪馬壹國側に都があるとの意味
投馬國は朝鮮半島南岸の地域で邪馬壹國は北部九州。
>>267
それで畿内から支那王朝との交流を示す物的証拠は出土したの?
九州からはたくさん出てるけど >>312
> >>299
> 普段は筑紫国と交易していて、一度だけ妨害されながら大和に来たのなら矛盾は無くなるがな。
> 実際そうやって大和に来た都怒我阿羅斯人という渡来人の伝承もあるし。 >>282みたいな政治思想的な意味で恣意的に混乱させてる人が多いのが問題なんだよな
学術に政治を持ち込むなっての 何一つ正しい知識がないのに物凄い偉そうに語るのが笑えるw
「我こそが古代史の謎を解き明かした!」
とか思い込んでる典型的なヤマタイコクだけ知ったかぶってる珍説おじさんだなw
>>319
畿内説は合理的な根拠が存在しない事実から目を逸らしてるからなぁ
いくら掘っても支那王朝と交流していた証拠が出てこないのに何故畿内説を主張し続けるのか
やはり思想的な問題なのだろう 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
大きな政権交代があったと推測できる。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒巻の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
>>205
その隋書には思いっきり阿蘇山有りと書かれているわけだが。
阿蘇山が火山の意味だとしても少なくとも近畿にはそのような山はないし、
活発な活火山は離島を除けば本州には浅間山しかない。 纏向に都市が築かれる(邪馬台国の成立)
↓
九州に騎馬民族が上陸(天孫降臨)
↓
九州から大和へ向けて進撃(倭国大乱)
↓
騎馬民族が大和を征圧(大和朝廷の成立)
大和を征圧した騎馬民族は土着民を隷従させるために大土木工事を課した。
それが巨大前方後円墳の出現である。
そして副葬品には弥生時代には無かった馬具や馬形埴輪などが埋葬された。
隋書は冠位12階も載ってるし、裴(世)清という使者を倭に送った事も載ってるしな
日本書紀には裴世清で出てたりする(世は皇帝の李世民の避字だから隋書では削られてる)
ただ最初の方にある、邪摩堆に都す、所謂魏志の邪馬台なる者也、が
正しいかどうかは分からないが
九州卑弥呼王朝とヤマト王権がつながってないと何か都合が悪いのかね?
なんか決定的な証拠でも出ない限り、決着はつかないだろな
原発を停止したら江戸時代の生活に戻る
低学歴ニートはハロワ行け
近畿は北部に出雲という楽浪郡とも関係のある国家が有るにもかかわらず大陸史書に記述がない。
邪馬台が敵対した狗奴国は南部であり狗奴が出雲では位置も違う
大和と出雲は国譲り以前対立関係にある。
山陰、瀬戸内海辺りには東西戦乱の痕跡もある
そこから考えると近畿へ侵入して出雲を平定した天孫系が邪馬台とするなら朝鮮半島になる。
或いは出雲こそ邪馬台国
なんかおかしい
本来関係のないものを無理矢理結びつけようとするからおかしくなるだけ
伊都国が卑弥呼の都で邪馬台国論争なんてとっくに決論は出ている
何時まで畿内説みたいな珍説を言い張るんだよw
「古代史は何も分からない」と無知だから何も知らずに思い込んでる珍説おじさんは、何も勉強しないまま妄想を喚き散らしてドヤ顔してて笑える
邪馬台国スレはそんなおじさんの裸踊りがみられて楽しい
>>335
> 邪馬台が敵対した狗奴国は南部であり
いや、「女王の尽きるところの奴国の南」だ
これでは狗奴国の場所は断定できない >>338
日程表記は里数を再度説明したもの
距離で何里あり、時間で何日掛かる
その次の文は日程表記の続きだが
「遠絶 不可得詳」なんだ。 >>340
自女王國以北 」の原文で始まる箇所だね。で、それぞれ国がいっぱい書いてある。
スタートが、「次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國・・・・ 次有奴國 此女王境界所盡」
次に、次に、ってかいている。自女王の書き出しの「自」は、そこからスタートの意味で、北に向かっているよね。女王国の手前から北に向かった羅列。最後に奴国になるわけだ。 >>343
その奴国の北側は、玄界灘になり、国はないよね。そこから南をみても、邪馬台国から南ををみても、これほどを北にいける場所ってそうない。方角を指す単語が、北のみだからね。 >>340
奴国から不彌国、
不彌国から斯馬国、
斯馬国から已百支国へと続き
最後に奴国戻って「此女王境界所盡」
この範囲が女王国の範囲でその南に狗奴国がある。 「自女王國以北 其戸數道里可得略載」
女王国以北はその戸数、道里は略載が得て可
女王国以北とは狗邪韓國から不彌国までのことである。
畿内説を主張してる人は狂人しか思えんな
学者を自称してる人でも畿内説の人がいるなんて日本はどうかしてる。
>>345
そうかいてある魏志倭人伝でも、魏略逸文でもいきら、原文ある?奴国に返ってくる原文の箇所わからない。 >>278
と言う事は我朝廷は邪馬台国を滅ぼしたんだな。 いずれにしても、これだけの国を北へと進んでみていきましょうという時に、北への方角のみで、表記できる場所を考えたら、候補は、絞られる。
もし、「自女王国以西」とか「自女王国以東」とかいていれば、地理的選択は広がる。
「自」この中国語は、無視できない。
魏志倭人伝を読めば畿内説は否定されているんだけどなw
後の文身国が出雲だとしたら刺青してる邪馬台系倭人国家は山陰も含んでたんだね。
ただ倭国大乱エリアは九州、山陰、瀬戸内海
狗奴みたいに邪馬台に族さない同種族もいたから倭人系文身国として濃尾までそれより東も大漢国や扶桑国なんて有ったから、大和の半島種政権ができるまではベースが倭人種だったんだろうね。
それ故に大和は四道将軍派遣して倭人統一の必要があったてことか。
>>335
当事の西日本は日本神話と各地の伝承、総じて人文学と
考古学で推すしかないね。 >>350
「自」は、中国語では、介詞。自は、〜からの起点を意味して、必ず、空間語を伴う。その空間語が、「女王国」になる。起点がわかったから、「以」の漢字で、対するものがでてくる。それが「北」。口語では、「対」「往」をつかうが、書面語のため、「以」を使う。 >>348
魏志倭人伝の場合は
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」を
飛ばし読めばいいんだよ
この部分は補足説明の為に後で挿入された文だ。 >>323
話としては面白いけど、
国内を平定できる強大な権力が無い中で、
纏向の邪馬台国が倭国を代表して、
朝貢の使者を送るのは不可能だな。
必ず倭国内の妨害が入る。 邪馬台国を訪問したと言われている陳某は、結局卑弥呼との謁見はなかった。正式な魏の使いであれば普通は親書を携えて謁見するだろう。
つまり、この書の内容はあちこちから得た伝聞、推測、憶測をまとめたもの。だから倭人伝という伝をつけた。要するにB級の歴史資料。ガリバー旅行記と同類。
>>356
志賀島をいれるから、奴国が、イト国より、北になるね。 >>357
一大率は女王国以北の諸国に置かれ伊都国で治められていた
つまり伊都国に女王卑弥呼がいて一大率を使い女王国以北の諸国を検察させていたんだよ。 これよりも古い時代のピラミッドやコロッセオが現存しているって凄い事なんだな
伊都に付いては、日本書記で俺がこの国の王だよって言って、加羅からの使者を騙した穴門のイツツヒコってのがいる。
そこで加羅の使者は畿内が本当の王だとするわけだ。
イツツヒコをイトツヒコとして倭人伝と絡ませると
伊都は外交は俺の自分の役割を守った点と、
当事(おそらくトヨ以後)の四道将軍の崇神朝での西日本と九州の様相が判る。
出雲は鉄も生産できて当時近畿大半を掌握していたにもかかわらず
大国主が奈良の小国天孫族に砂浜で剣突き付けられて「いい加減国渡さんかい!」と恐喝されて泣き寝入りする理由がわからん。
近畿は神話も狂ってる。
纏向は4世紀の大和王権初期の都
邪馬台国時代ではない
出土土器を見ればバカでもわかる
>>313
朝鮮半島南岸なら任那国であって
投馬国ではないだろう >>332
証拠はもはや(いや、前から)問題ではない
安倍政権を見れば分かる >>367
卑弥呼の時代には任那はまだない
投馬国が後の任那だ。 >>356
怡土郡を伊都国とするなら、志摩郡がある >>369
朝鮮半島に倭人の地があったのなら
そう書くだろう 倭人伝の狗邪韓国が韓国南岸にあった国だろな
ここから対海国(対馬)に渡ってるし
書き振りからするに恐らく倭人の国
>>355
さすがに無理矢理すぎて笑うしかない
なんの根拠も無く自分の都合で飛ばすとか、またすげえ珍説きたなw ていうかもし投馬国が朝鮮半島内にあったのなら
対馬国(対海国)の記述の前に投馬国の記述を書くだろう
投馬国の中の国邑が狗邪韓国で
邪馬壹国の中の国邑が對馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、斯馬国・・・烏奴国。
>>375
倭接ですから対馬だと海を挟んでるんで接じゃない。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
更に古墳時代には、朝鮮半島南西部に前方後円墳が複数作られる。
倭は大陸との窓口として朝鮮半島に拠点を築いていたんだろうな。
>>374
根拠は日数に説明が変わってるから
里数での説明は完了してる
距離で説明して今度は時間がどのくらい掛かるか再度説明している
続けて読む方が頭がおかしい。 狗奴や狗邪韓国のこの狗の字は
句呉の句なんだろうな。
太伯の後系文身族だろ。
華北の大陸王朝が付ける字は嫌味たらしい。
韓もこの当時だと漢の字が本来の字なんじゃねえのか
>>359
「邪馬台国を訪問したと言われている陳某」なんて名前どっから出てきたw
「卑弥呼との謁見はなかった」とか、なんでそう思い込んだ?
ついでに魏志倭人伝ってのは、日本での研究上の通称な
「伝」って意味については、紀伝体とか勉強した覚えはないのかい? >>365
人質かかなり大事なものでもとったんかねぇ? 隋書には、倭人は里数を知らず、距離を測る時は日を以て測る、とあるから
もし更に時代が古い邪馬台国の時代もそうだったなら、魏の使者は投馬国及び邪馬台国までは
行っておらず、倭人から聞いただけかも知れない。使いが居る場所とある伊都国までしか
行ってないのかも
まあそうなると、仮綬した後、実際に渡す段になった時に金印やらはどう渡したのか、て疑問はあるけど。流石に本人が行かないとあかんだろうし
卑弥呼が取りに行ったのかもだが
>>380
今時まだこの手の、倭人伝の記述恣意的に操作して
暗号解読ごっこで場所特定しようなんて遊びしてる子が残ってるんだね
放射状説やら、南を東に読み替えるとか
そういう遊びが流行った時代の遺物かな >>380
日数に変わることと、読み飛びしていいことの関連がめちゃくちゃ。
頭がおかしいとしか思えない。 >>382
張政に関しての記述は、面白い。邪馬台国と狗奴国の調停にきて、魏に帰ろうとしたら、国の統治者が変わって、20年倭国にいるとか。 >>387
倭人を見る限り、張政は台与が擁立された後少しして帰ってるんでないの
倭人伝の最後には掖邪拘(卑弥呼の部下としても出てる)等二十人で(張)政を送った記述もあるし
266年の倭の女王からの使節は、もう晋の時代だし(前年12月の禅譲を受けて晋が出来たから、その慶賀の使者だろう) 遺跡調査は、他は止めて纒向だけやれよ
全部更地にしてよ
>>387
その張政がいたこと。大陸に戻ったこと。含めての考察。三国志を陳寿が、書いており、魏から禅譲された西普の時代。280年以降。魏が本紀伝。少なくとも陳寿と張政は、魏というもので、つながる。
そうみた場合、「自女王国以北」の原文が、更に深くなる。地図の上で、「A地点から北」のように、アバウトな表記としたら「从A地点往北」
と書く。「自」を使ってる。これは、自分を含むとき。または、結果性事実としての空間で、使われる単語。だから、原文を読んだら、読み手としたら、経験したような書き方に、感じるんよね。 だから、自女王国以北、のあとの国の羅列は、ただ単に書いてるのではなく、みてきたか、または、結果的な事実を書きますよ。と、言ってるようにみえる。「自」は、結果性事実の介詞は、調べたらでてくるよ。
なんで奈良で??
ヒミコって九州の小国の王だよね?
纏向遺跡は、邪馬台国だからではなく、初期大和政権だから重要な遺跡なのでは。
>>394
そう思う。九州をアジアへのゲートウェイに、したかったんだと思う。 >>373
『魏志韓伝』だからな重いよな
その中に「南與倭接」だろ
「東西以海為限南與倭接」は
東西は海をもって限りとなし、南は倭と接している
としか読めない
『魏志韓伝』は日韓併合直後に出版された『桓檀古記』
みたいな学術じゃ相手にされない偽書じゃないからね >>394
まあ間違ってない
モモソヒメの遺跡だからな
重要人物の
卑弥呼を連呼すると別方面からうるさいから
古代大和でしばらく黙々とやってた方がいいと思う
それでも重要なのが出るのは間違いないんだから >>391
自女王以北は置いといて、少なくとも張政については
冊府元亀っていう後代の史書に、正始八年(247年)に台与が送った掖邪拘が生口三十人や色んな財物を携えて(洛陽の)尚書台に朝貢した話が載ってるから
倭人伝の記載も合わせると、この時に張政も帰ってると考えられる
倭人伝では卑弥呼は247年に狗奴国と和せずして戦いになる事を告げ、その後張政が
帯方郡からやって来て詔書、黄幢を部下の難升米に渡しており
その後すぐ卑弥呼が死んで後継者争いになり、台与が擁立され、その後に帰ってるから
張政が倭にいた期間は極短いのでは、と考えられるかな >>394
俺は初期大和政権は精々6世紀以降だと思うんだよな
纏向遺跡は神武東征以前の地方豪族の遺跡だな。 >>391
つっこみどころだらけでめんどくせえが
とりあえず漢文の読み方の基礎でも勉強しとけ 纏向遺跡は、近くに宮を置いたとされる
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の宮の跡だったりして、なんて思ったりもする
時期も合わない事も無い気がするようなしないような
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないと語っている。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
畿内征伐の結果大和朝廷が始まったという記紀の記述通り。
>>405
8世紀に創作された記紀で2〜4世紀を語るのは如何なものか? >>401
4世紀の七支刀、広開土王碑があって倭国の半島進出が白村江での敗北まで続くのに
大和の成立が6世紀はないだろ
4世紀から7世紀まで続いた百済との同盟はどういう解釈してるんだ? >>403
漢文もなにも、中国語で読めるから読むだけ。わざわざ、一、二、レ点つけたら、中国語で、状況に応じて使い分ける単語、介詞を見落とす可能性があるわけ。「自」が使われている意味に、焦点を当てたわけ。 >>405
無学じゃなくて無知ウケルw
土木作業に従事したのが地元民じゃなくて東海などの外来の生活土器ばかりだから
考古学者が頭悩ませてんだよ
この昔から有名な特徴をデタラメとかどれだけ無知w >>409
纒向の土器で一番多いのは在来系の土器だぞ。
外来系の土器で多いのが東海や山陰。 纒向と酒が飲めない遺伝子分布が鍵なんだよな
遺伝子は吉備から畿内そして東海までに集積している
言うまでもなく、日本の支配層輩出地域だ
4世紀の百済との同盟を約束する七支刀
4世紀の高句麗と戦争を記した広開土王碑
6世紀の雄略天皇の力を示す金錯銘鉄剣と銀錯銘大刀
古墳文化は3世紀から7世紀まで続き、大和を中心に同心円状に拡がり、
仏教伝来と期に大和を中心に同心円状に廃れた
4世紀から7世紀まで百済との同盟が続き、
百済との同盟で半島進出していないと白村江の戦いでの敗北は起きようがないし、
6世紀頃のものとみられる半島の前方後円墳の説明がつかない
下戸の集積地は中国南部と広島〜岡山、大阪湾〜伊勢湾。
面白いことに飛び地で群馬に下戸が集積している。
弥生時代から既に、日本列島の勢力が朝鮮半島に進出している。
鉄を採りに。
滅亡した百済高句麗の難民はあったが、基本日本列島から朝鮮半島へ進出する方が多かったんじゃないかな。
>>365
高天ヶ原は任那(朝鮮半島南部)
国譲りによって割譲されたのは北部九州
北部九州は出雲(新羅系)が支配してたが、宗主国が任那系に取って変わられたということ
任那にいた倭人は後に朝鮮半島を追い出されて九州や近畿に住み着く >>405
>発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないと語っている
考古学者とは具体的に誰?
ちなみに寺沢は外部勢力による征服を明確に否定している >>415
そんな史実は日本中国朝鮮の歴史書に記録無し
それを伺わせる記述も無し
分からないから何でもありファンタジーが出来上がる 我が国の領土w
卑弥呼も壱与も北部九州に居たことは確定
つまり4世紀まで倭国は北部九州
高句麗と戦争をしてたのも北部九州を拠点とする倭国だし
七支刀を百済から献上されたのも北部九州を拠点とする倭国ってこと
4世紀から7世紀まで百済との同盟が続いたってことは北部九州を拠点とする倭国が7世紀まで続いたってこと。
>>1
卑弥呼は韓国からの渡来人というのが、今の定説のようだな。
だから北九州説が根強いと。
韓国がなければ日本という国は存在せず、中国の属国などになっていたのかもしれないな。 >>1
韓国から卑弥呼が来なければ、今の日本は存在しなかった可能性が高い。
そういう意味で、韓国は日本の祖父母、救い主のようなものだと言えるな。 >>396
東西には海しかなく他国と接していないが
南は海を隔てて倭と接している 一大率は使者の解釈だとして、
税を徴収した「大倭」とは聞き取りか?筆談か?
聞き取りだとすると、タヱ(タウェ−タエ)か、タヲ(タモ)?w
タモは玉網が現代語では出てくるね w
>>429
南は海を隔てて倭と接していると倭人伝の何処に書いてあるの? >>431
「倭と接している」などと「倭人伝に書いてある」と
言ったつもりはないが >>422
そんな事、日本中国朝鮮の歴史書に書いていない
卑弥呼は朝鮮の歴史書にも登場するが しかしチョンの何がなんでも朝鮮由来の願望丸出し感が酷いレス(苦笑)
倭人伝には「到其北岸狗邪韓國」とあり意味は
その北岸の狗邪韓国に到る
そのとは倭のことだから
倭の北岸の狗邪韓国に到るってこと
倭の北岸と謂うことは狗邪韓国も倭の一部ってこと
つまり朝鮮半島南岸に倭が在った!
>>437
倭の北岸なら末盧国とか対海国だろう
狗邪韓国が朝鮮半島内なら「北岸」という記述はおかしい
九州内ならわかるけど、今度は記述の順番がおかしい
>>434
>>424の「倭と接している」は>>396に対してのもの
つまり韓伝のこと >>438
その韓伝には「海を隔てて」なんて書かれていないよな?
これは誤魔化さずに認めないと。 >>439
韓伝には、文字としては書かれていないよ
解釈を示したのみ >>314
大陸と交易していたのは九州北部(筑紫国)ってのは否定してないよ。
記紀を読むと、地方を統治する為に皇族を各地の国造として派遣しているが、九州にには派遣していない。
また神武東征の神話でも筑紫に長期滞在しており、東征の準備をしていたのではと考えられる。
考古学的にも九州北部が弥生文化の先進地域だったのは確かなことで
古代の大和にとって九州は本家の本家のような存在だったのではないかと想像される。
平安時代の弓削道鏡の事件でも、皇祖神である伊勢神宮ではなく、宇佐八幡の神託だったのは、九州北部を本家の本家とする考えが残っていたからではないだろうか。
それでも2〜3世紀頃には内政の中心が大和に移り(外交の中心は筑紫)、勢力を関東に広げていたのではないかと思われる。
文字のないこの時代の統治は皇族貴族豪族の縁戚による血族統治であると考えられ
地方の自治権は非常に強くほとんど独立国のようなものだったのではないだろうか。
この為、倭人国といえば日本(大八州)全体を指すが、邪馬台国は内政を司るいち都市国家を指したのではないか。
また当時の外交拠点は筑紫国の奴国で、その伝統は日本建国よりも古いのではないかと考えている。 弁辰狗邪國は弁辰であって倭国ではない
また弁辰全体が倭人の地とも書かれていない
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。 邪馬台国、大和朝廷の始まりである。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒巻の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
即位後くらいの卑弥呼ならムクムクするだろうが
魏に使者を送った時の卑弥呼では流石に無理
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 尾張
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。 出雲
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
>>441
狗邪韓国と弁辰狗邪國は同一の国邑だなんて証拠はない
弁辰狗邪國は弁辰であって倭国ではない
狗邪韓国は倭国であって弁辰ではない。 卑弥呼関連の遺跡を挙げていくと卑弥呼の移動距離が凄まじい事になるね
>>445
4世紀には北部九州から朝鮮半島南岸に倭国があるから
神功皇后応神は神話の中の人物で歴史ではないな。 >>440
海を隔てていても「接する」と表現するなら、西側だって海を隔てて魏と接しているが、
これは「限りと為す」と書かれている。
南側だけに限り、海を隔てているのに「接する」と解釈するのは都合がよすぎないか? >>452
三国志魏書東夷伝を読むと韓と倭は陸続きと思えるな。 >>314
九州にたくさんあるという中国との交流を示す物証って具体的に何?
「3世紀」で「奴国や伊都国エリア以外の場所」で挙げてくれ
奴国や伊都国に物証があるのは当たり前
だがそこは邪馬台国とは別の国 >>455
奴国や伊都国が邪馬台国の首都圏なんですが? 日本列島から朝鮮半島への執拗な進出を恐ろしいぞ
400年かけて朝鮮半島の南半分を支配下においた
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。
>>456
そっちが首都だったのは弥生時代だな、考古学的には。
3世紀には畿内に移ってるよ。
大陸との交易拠点のため、後世でも大きな街があったけどな。 >>457
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
これは、元宝杭村一号墓の時代の「倭人あり時を持って、盟するありや否や」の曹操宗族墓群の記述が、やはり倭人やった可能性をかんじるな。 >>455
日田で見つかった鉄鏡
曹操が使っていたと言われている鏡
このレベルは奈良では見つかっていない
奈良で見つかったのは景初四年wの国産鏡
>>456
邪馬台国の中に伊都国や奴国があるという珍説を唱えてる人か?
そういう珍説には興味なし
伊都国は邪馬台国とは別の国
奴国は邪馬台国とは別の国
これが正しい解釈 >>460
漢代の装飾鉄鏡が7世紀の古墳から発見されたんだよな
つまり500年以上継承し続けていた
豊国王朝の王位継承の品だろうね
白村江敗北で滅亡かな >>460
『景初四年』鏡は京都と宮崎だけだったと思っていたが、いつ、奈良から出たの?
>>463
百済の役のどさくさで百済から盗んできたのだろうな >>466
そういうこと
九州が中国との交流を主導できたのは2世紀まで
3世紀は外交権を失っている >>467
戦利品か盗品か交易品か貢物かなんて確定はしてないな。
でも百済からの盗品ってのはどうかな?
百済との関係が悪かったという伝承はないから。
新羅とはときどきもめてるけど。 >>466
厳密に言えば漢鏡5期に編年されてる平原のやつはこの図から消さないといけない
岡村がこの編年を発表したときは平原の鏡は中国製と考えられていたが、その後国産だと改めてられたから
邪馬台国の怪の安本なんかは平原は2世紀末〜3世紀だから編年を全部ずらせと難癖つけてる 魏鏡(国産鏡である神獣鏡を覗く)と言えば、邪馬台国が北部九州なら、何故魏鏡が一枚も出ないのかが不思議だねぇ
例の漢代の鉄鏡を入手した時期はまったく不明だが可能性の大きいのは
伊都国や奴国が積極的に中国鏡を入手してた紀元前から1世紀
あるいは倭国が半島に進出していた4〜5世紀に百済から入手
ってとこなんだろうな
>>472
ほら、そうやってすぐに罵倒して逃げるw >>470
平原で四面出た内行花文鏡は日本製と思うが
沢山出た方格規矩鏡も日本製なのかな >>475
鏡になると、日本製か大陸かになる。それも邪馬台国を考察する上で、避けては通れない。
では、日本製なら、銅、錫は、その当時、どこにある?
魏志倭人伝を読む。最初は、邪馬台国に、付き添いが行かさなかったと思った。
投馬国とか邪馬台国を急に、水行、陸行に変えて表記。
今でも迷う事になる。それが、実は、魏志倭人伝の狙いかなと思う。張政は、邪馬台国の壹与には、あっている。
つまり、邪馬台国に来ていたわけで、知らないはずがない。
表記を変え場所を書いた。しかし文面には、「自女王国」の結果性事実の表記。場所は、自信を持っている。なぜかかなかったかになる。 >>475
40枚もの大量に出たのは国産という結論
成分分析したら前漢時代の鏡と同じだったから
スクラップを集めて2世紀後半頃に伊都国で改鋳したとしか考えられない 一考察だが、戦略物資の「錫」と思う。錫を民間が、取引することを禁止するくらい奈良時代には、貴重なものとして、歴史に現れて来た。国家の管理に置かれ出したわけだね。
それ以前は、その錫鉱山を隠しときたかったわけだね。銅鏡、銅鐸、青銅器全て錫が、必ず入る。
半島南部には、ペグマタイト鉱床がない。
大陸は、推測だが、青海省が源流の黄河、揚子江に溶けながら堆積して来た可能性あり。
実際に、Snは、銀より重い物質。無錫市の過去の名前を知れば、わかるはず。
日本は、高千穂の祖母山と傾山にて、取れる。
この青海省の山へ行くか日本の九州へ行くか。だね。
高千穂神話で、洞窟に入るが、あれは、るつぼ炉の作業していると思う。
祖母嶽信仰なんて、三輪山信仰のオリジナルと思う。
>>461
>伊都国は邪馬台国とは別の国
>奴国は邪馬台国とは別の国
>これが正しい解釈
珍解釈の極みだなw
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
この部分は付け足しの情報で重要ではないんだよ
そう考えると魏志倭人伝には何の矛盾も疑問もないんだよ。 >>479
寡聞にしてその論拠を知らない
論文とかあるだろか >>480
イシコリドメの八咫鏡は、祖母山に行って、原料取ってる。
安河原の上流にって、書いてあったから、その川を見て行くと祖母山に行く。
わざわざ、錫と書かず、堅い石を取ってと書いているよ。 >>482
柳田がそう言ってる
鏡の成分は紀元前だが製法技術は2世紀後半以降だと
そういう不一致が起きるのはスクラップを改鋳したからだという推測 >>479
金属を鋳潰しても、鋳潰す前の年代を測定する方法があるのか? >>484
青銅であれ、鉄であれ、一旦溶かすと酸化したり偏析が起きたりして成分が変化してしまう。
鋳潰した金属に対して、鋳潰す以前の成分を推測するのは不可能。 >>484
平原の鏡について調べたら、他の人が柳田康雄氏の結論を別角度から見てて
鏡の鉛の含有率を調べ、中国産の物と異なり、日本のや楽浪あたりと
一致するが、鏡の出土品からみて日本製であろう、とも言ってるね
面白かった。ありがとう ちなみに調べてたのは新井宏という人
金属に関してはエキスパートだそうで
>>489
鉛は銅よりイオン化傾向が大きいから溶融している状態だと、どんどん酸化されて減っていく。
また、比重も違うので坩堝の底に溜まったり、インゴットの表面に析出したりして、成分は安定しないので、どこ産の鉱石かなどを特定するのは困難。
産地の正確な特定などできない。 邪馬台国が九州の理由
1福岡から大量の銅が取れた
2錫(スズ)が九州からしか取れない
3お前らより詳しく研究した松本清張も九州説
4当時の王族しか着れなかった朱色の服
古墳の内部が朱で塗られたのは九州だけ?
5金印が九州からでた
6大分県亀山神社
これだけで近畿はないわ
九州を越える物を出せ
近畿は九州から引っ越した奴が九州を懐かしがり
同じ町同じ地名をつけただけ
以上
>>486
カミカ銅鐸で、調べられてたね。スクラップでは、難しい理論が。 >>492
邪馬台国とはなんの関連もない事柄ばかりだな。
そんなことが九州説の根拠になるなら、
・有明海は九州にしかない
・九州の方が奈良より降水量が多い
・福岡県の方が奈良県より都会
・九州には新幹線が通っているけど、奈良県には新幹線が通ってない
なんていうのも九州説の根拠になりそうだな。 >>494
奈良も同レベルやから
纏向は単なる第2吉野ヶ里公園 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
あれだけ掘って住居跡が皆無に近い「無人都市」だったっけww
盛りまくりだなw
宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。
>>492
1福岡から大量の銅が取れた → どこ? 仮にそうだとしても銅鐸は弥生中期から畿内東海でも作られていて理由にならん
2錫(スズ)が九州からしか取れない → どこ? 仮にそうだとしても銅鐸は弥生中期から畿内東海でも作られていて理由にならん
3お前らより詳しく研究した松本清張も九州説 → 素人の見解などどうでもいい。専門知識のある学者はほとんど畿内説
4当時の王族しか着れなかった朱色の服 → それがどうした?
古墳の内部が朱で塗られたのは九州だけ? → 丹(水銀朱)は当時の九州では産出してない。近畿と四国のみ
5金印が九州からでた → どこでどういう金印が出た?
6大分県亀山神社 → それがどうした? >>491
イオン化傾向ってのは溶液に溶けてる状態の金属のイオン化(酸化)の度合いって事だから
熱を加えて溶融してる状態とは関係ないと思う。
つか溶融してる状態じゃ基本的に酸素は還元されてるのでは
新井氏のをみると、鉛の含有率ではなく鉛の同位体比を見てる模様
鉛とその同位体(元素としては同じだが、原子や電子の配置が微妙に違ったりするもの)の比率は
産地によって違うから、何回溶かしたり、鉛の含有率が増減するとかは関係なく
産地をある程度特定出来るんだろな >>495
畿内説も同レベルの根拠があるなら、九州説が優位という根拠はないということだな >>500
>熱を加えて溶融してる状態とは関係ないと思う。
イオンになりやすさだから、媒質が水であるか他の溶融金属であるか関係ない。
溶融状態であればイオン化傾向が高い金属は酸化が激しい。
少なくとも鉛は溶融銅の中でも酸化が激しいよ。
>基本的に酸素は還元されてるのでは
鉄の中の炭素量を下げる方法は、鉄より炭素量のイオン化傾向が高いことを利用して、炭素を参加させて除去する。
還元する反応相手が炭素や鉛なんだよ。 ここ数日「スズこそが重要なんだ」とか喚いてる馬鹿が常駐してるな
まぁどっかの珍説サイトの内容そのままなんで誰が書いてるのか分かるがw
古代の青銅や鉄が輸入品だと知らんのかね
まさか全部国産だとか思い込んでる馬鹿がいるとか言わないよね
>>502
なるほど、ありがとう。そして申し訳ない
ただ、イオン化傾向も還元にしても
鉛の同位体比に関しては関係ないと思うんだが
鉛の同位体の振る舞いが、酸化や還元時に
普通の鉛と違うって事ならまた違うかもだが >>1
まーた町おこしレベルの擬似考古学かよ
もうニュースにすんなこんなの
文献ちゃんと読めば邪馬台国なんか日本にないの
丸わかりじゃん
みんな大喜利みたいなこじつけばっかw
もうこうなったら日本の恥だけど、海外の学者にきちんと研究してもらえ
フランス辺りならすでに日本のなんちゃって日本古代史より進んでるだろう
半島や大陸に文献読まない、読んでも都合が悪いところだけ無視するような
バカ考古学なんか学校で教える事そのものが害悪 反面教師はバ韓国のファンタジー古代史や近代史現代史だ。
捏造日本史やってる奴らはそれと同じ
便所の落書きでは、古代に日本が朝鮮半島を支配していた、とか
マジに韓国起源説並みのレベルのアホが良く登場するが、
そういうの見るにつけ、韓国人と日本人は遺伝子はだいぶ異なるが、
それぞれの国のバカ同士は本当に似てるって実感するなww
>>497
纏向遺跡から住居跡なら出てるよ。
竪穴式住居跡が出てないだけでな。 >>504
>鉛の同位体比に関しては関係ないと思うんだが
関係あるよ。
同じ産地の銅製品だけを集めて鋳潰さなきゃならない理由はないから、
スクラップである以上様々な銅製品を寄せ集めて溶かす可能性が高い。
坩堝から成分が溶け出したりもするから、燃料の灰が混入したりもする。 >>496
>一大率が伊都国に置かれているとある
書いてないよ、一大率は女王国以北の諸国に置かれているとある
>また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
帯方郡から南へ船で20日進ですよ。
>奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
博多湾を中心とした大国です。
>九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
気が狂ってるとしか言いようのない結論w 遺跡の下はほらないのか?
もっと前の遺跡があるかもしれない
>>515
遺構の重要度によっては、保存を目的に下層を掘削しない場合もあるけど、
基本的には遺構遺物が出なくなるまで(原因が建築等の場合は建物の基礎の範囲まで)は掘っているはず >>516
そういうものなのか
ここは重要遺跡だから下を掘らなかったのかな? >>513
青銅を溶かすときには融点を下げるために錫を追加投入することが多いから
錫地金に含まれる鉛に汚染される 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、纒向の外来系土器の中心である出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。阿波、宮崎や遠賀川の石神などもヤマト征伐に加担しました。
九州北部沿岸部の渡来人系勢力、畿内の勢力、関東東北の先住民はこれらの勢力に征伐されました。
纏向に邪馬台国!なんてのは、ムーミン谷がどこにあるかってセンター試験問題と同レベルやから
>>513
新井氏の資料だと鉛は銅を溶融する際に融点を下げる為、流動率をあげる為に使用したのだろう、との事
そしてその鉛の同位体比を見ると、中国や韓国、日本の鉛の産地によって違いがみてとれる、との事
確かに銅及び銅製品自体はあちこちのものを持ち寄っているだろうが
鋳造する際に添加された鉛は(元々持ち寄った銅製品に含まれている鉛含有量に比べて多いので)
ある程度鉛の産地を特定出来るとの事
平原産の鏡の鉛の同位体比は半島のものに近いが
後は半島や日本から出る出土品のバリエーションから見て、恐らく(平原産の鏡は)日本産であろう、と判断している模様
(鉛を輸入したと判断か。少なくとも中国産のものではない、と結論している)
鉛(方鉛鉱)自体がかなり広範囲に、大規模に流通してるのならあまり成り立たないと思うが
鉛に地域によって特徴があり、基本的にはその近辺の出土品に含まれる鉛の同位体比に近い以上
その土地に産する物を使ったと考えるのが妥当である、という事らしい >>519
征伐の意味わかってる?
それと弥生後期から庄内期までの土器、そして墓制にまで多大な影響を与えているのは吉備・播磨だからね
出雲や東海がそれを上回ることはない、出雲が畿央部に影響を与えるのは布留式土器製造の時以降のみ 出雲、山陰系の方墳族と邪馬台系の円墳族が連合組んでミックスされたのが前方後円墳になったんじゃ無いかと単純に思った。
珍説おじさんに事実なんて必要ないからw
おじさんの脳内の妄想を偉そうに語りたいだけだから
>>523
東海の前方後方墳のほうが現時点では早く作られてるんすよ
もともと出雲や備後(のちに北陸まで流行する)はもともと四隅突出墓文化だし >>514
「常治伊都国」ってはっきり書いてあるけどねw
「南至投馬国、水行二十日」を帯方郡から水行二十日って理解するとか
気が狂ってるとしか思えない >>520
ムーミン谷は、オボちゃんの居るところに、ありまぁす! 結局、何年か前に芸能人を広告塔に邪馬台国は奈良で決定だと言わせたわけよ。権威を使ってね。でもそれじゃメディアがまともに相手にしてくれないわけ
それは、やっぱり邪馬台国は九州だろう。と思っているからなんだよね。
だから、畿内説は断定したわけ3ヶ月いないに邪馬台国だとハッキリする証拠が出ると!しかし、その後に出たのは桃の種と、邪馬台国ではないとされる馬具だったわけ
その後、九州からは出るわ出るわ、畿内論者は顔面蒼白状態ですよ
>>529
そんな作り話書いて何したい?
芸能人を広告塔ってアホか >>530
はぁ?あんた知らんなら黙ってなよ。断言してから何年たつんだよ。独自で箸墓を測定した大学があって四世紀って発表も闇に葬ったって話もあるじゃん
なんで纏向だけ100年下げてその他は下げてないんだよ。帳尻合わせのゴッドハンドでしかないってみんな思ってんだよ。 現実と妄想の垣根が壊れてて、思い込みすぎてまるで現実かの様に騙りだしてんだろうな
>>532
アホか、NHKで放送してたわなw
他の局でもやってたけど、最後に九州推しで終了したから畿内論者は怒ってたわw
つか、自分で考える力がないのが畿内論者だしねw まぁ、畿内はないってみんなわかってるんだけど、権威に逆らうと金にならんからね。所詮はその程度ですよwww
そういえば今朝山崩れを起こした場所も「邪馬」という地名なんだよな
>>527
>「常治伊都国」ってはっきり書いてあるけどねw
「常治伊都国」これの意味わかってる?
「常に伊都国で治めてる」意味ですよ
一大率は女王国以北の諸国に置かれているから
その一大率を常に伊都国で治めてるんですよw
今まで里数で説明してたのが日数に変わってるのにそのまま繋げて読むなんて気が狂ってるとしか思えないですけどね
里数=距離、日数=時間ですよ
中国では古来より時空は分けて認識されてましたから3次元と4次元を混ぜて説明なんてしませんよ
宇宙なんて熟語も空間と時間のことですから。 耶馬溪って酒呑童子の伝説話があったような?
よくわからんけど、そんなイメージがある
>>503
輸入品であって欲しいが、
西日本の銅鐸の銅はどことなにと交換したんだろうね?
鉄の国産化は高句麗南下、新羅の勃興から半島南岸生産が行き詰った結果のような気がする。
旧帝国のパレンバン、米国の湾岸みたいなもんだったか w >>539
漢文の読解能力が無いにもほどがある…
頭が弱いなら弱いなりに、先行の研究者の訳本とか読んで参考にすりゃいいのに
なんで真性の子って、他人に学ばず俺様解釈で凝り固まってるんだろう 記紀を読む限り天照大神・卑弥呼・豊与は高天原から一歩も出ていない。
纏向に居たはずがない。居たと思われるのは磯城の主水一族だ。つまり敗者がいたんだ。
>>538
あそこはそれこそ、邪馬台国に肖るつもりで地名まで変えたみたいだよ?
耶馬溪町でggr 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 尾張
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。 出雲
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
>>544
先行の研究者が無能だから邪馬台国論争とか糞みたいなものが生まれたんだよw >>549
っ間違ってるなら反論しろよw
権威に縋るんじゃない!
無能www 錫の同位体を調べたものある。最近、調査されたもので、今後産地特定に役立つだろうと言われてる。中国の錫石と日本の錫石には、有意義な変動がある。
>>547三見は3つの山だろうな
福岡か宮崎か
宮崎阿蘇山大分県福岡
このどれかだと思う
奈良には何にも感じないんだよなあ >>25関係あるのかわからないけど
熊本は豊の字のつく名字おおいんだよな >>449
邪馬台国と大和朝廷が同一の国家だなんて証拠はない
>>452
西側の意味が分からない
それを言い出すと倭国の東側には南アメリカ大陸があることになる 他の地域の歴史を奪うのは良くない。
九州は筑紫神がいたところ。
その歴史を調べて、誇りにしたらいい。
今回、山崩れのあった「耶馬渓」って、なんか「邪馬台」と関連ありそう。
「ジャップは太古からテンコロが統一的に支配してきた」
という国家神道の嘘に対する
最も分かり安い反証が「卑弥呼」の記述。
だからゴミネトウヨが、
必死に「邪馬台国」が近畿にあったと
支持不可能な説を主張して、嘲笑われる。
この繰り返し。
2005年に中国の2つの金印が来日した際に、
九州国立博物館が蛍光X線分析にかけました。
3つが同じ金の成分比率(18金か、24金かとか)なら、
金印は本物という証拠になります。
ところが、、、、
なんと、、、、
九博は中国側が公開を拒否していることを理由に一切、公にしませんでした。
研究者の間では、金の比率が異なることかがわかったから隠していると囁かれています。
志賀島金印と廣陵王璽は共通点がある
どちらも遺跡から出た品でないことだ
廣陵王璽は塼(煉瓦)工場のゴミ捨て場から工員が拾った品。工員曰く、かんざしと何だか分からぬ塊(金印)の2つを見つけ持ち帰ったという
それが今では近所にある古墳から出た品ということにこじつけられている
志賀島金品は百姓が開墾中に拾った品とされるも、その出土地点がどこなのかすら分からない
昭和50年代以降、出土地点と推定される一帯を4度にわたり発掘したが、いかなる遺跡も出なかった
遺跡が無いのに遺物だけがあるという不自然な状態だ
通常、この種の出所不明の品は贋物と見なすべき物だと知っておくべき
58 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 6b85-VumH) Mail: 投稿日:2017/12/28(木) 12:28:11.87 ID:QEBHliC80
偽物な上に
「自分は中国の家来です」っていう証拠の金印をホルホルして国宝にするとか
JAP、ヤバない?(´・ω・`)
江戸以前のジャップは
中国人以上に凶悪で粗暴
と呂宋の役人に評されてる
当時は南方に売られたジャップが大量にいて
売春婦と傭兵となっていた
格安の傭兵だったので広く用いられたが
とにかく言うことは聞かない
反乱は起こすので使い終わったら殺されたり
無人島に置き去りにされていた
シャムではご存知の通り反乱に手を貸して
粛清されて日本人街が消え去った
朝鮮侵略と相まって最悪の連中だった
「倭寇」という言葉を聞いたことのある人はいますか。
すぐにも頭のなかに野蛮な日本人の集団が浮かび上がります。
半分裸ではだし。腰に刀をつけて海をうろつき略奪して回る連中。
しかしこれは、「倭寇」の本当の姿でしょうか。史実は大きくかけ離れています。
「倭寇」の真の姿を理解するため、
「倭寇」という言葉がいつ生まれどのように使用されたのかを知る必要があります。
「倭寇」の語が初めて使われたのは、私の見解では、高句麗の「広開土王碑」です。
この碑は鴨緑江西岸の中国吉林省集安市にあって、
それは『三国史・魏書・東夷伝』とともに、
日本の古代史を明らかにするのに最も役立つ重要な史料と思われます。
この碑文の二段目で「倭と百済」対「高句麗」の交戦記録があります。 それによると、
「倭寇潰敗,斬殺無數。」
すなわち、倭寇は完敗し、無数に斬り殺された、のです。
ここの「倭寇」の意味するところは、中世の「倭寇」とはちがって、
崩壊した「日本の侵略軍」を意味します。
「倭」は日本を指します。これは間違いありませんが、
注意が必要なのは、これは外国からの呼び名だということです。
日本人自身は「倭」と自称しません。
この呼名には軽蔑意味が多少込められています。
現在、アメリカ人やイギリス人が、日本人を Jap と呼ぶのと同じです。
「寇」は、中国の言葉では、「群れになって攻めてきて略奪する(『書経』)」ないし
「外国人が侵入する(『春秋左氏伝』)」を意味します。
日本でも「寇」は「略奪」などを意味します。
この「寇」に「倭」の文字を結合させたのが、「倭寇」です。
http://photo.chinatimes.com/20160125003183-260812 >>80天の岩戸→宮崎の高千穂狭じゃないかと思ってる
うと神宮も怪しい ワレらが自然と向き合いながら何万年も平和に暮らしていたこの列島に、ある日、朝鮮半島から一重まぶたでのっぺり顔の弥生人がやってきました。
「縄文人のみなさん、どうかお願いします。朝鮮半島が戦乱なので逃げてきました。しばらくここにいさせてください」
快く迎え、飢えているのを見かねて、魚や獣を差し入れてやったこともあります。
ところが、稲作というものが上手くいくようになると、やつらは恩を忘れ、獲物を追うワレらに、「邪魔だから田に近づかないでくれ」などと言うようになりました。
そして、朝鮮半島から来たのっぺり顔のやつらは、「この土地は昔から俺たちのものだ」と言い出しました。
それからというもの、やつらは「福は内」と言って朝鮮半島から仲間をたくさん呼び寄せ、「鬼は外」と言ってワレらに石を投げつけました。
特にひどくなったのは、飾り付けられた馬に乗った人たちが来てからです。
そして、やつらは「今日からこの列島を日本ということにした。土蜘蛛、蝦夷は鬼は外」などと言いながら、ワレらを追い払い、抵抗する仲間を殺しました。
本土で生き残った者は、前方後円墳作りを強いられ、耕作に適さない湿地や山地に追いやられました。
すぐに攻撃は東北や南九州にまで及び、東北でやつらをギャフンと言わせたワレらの英雄は、騙され、京都に連れていかれ殺されました。
ワレらの楽園は蝦夷地と琉球だけになってしまいました。
それからしばらく、蝦夷地と琉球は平和でした。
ところが、千年ほど経つと、やつらは蝦夷地や琉球にまでやってきたのです。
蝦夷地の仲間はだまし討ちにあい、土人と呼ばれ、男は強制労働、女は慰安婦にされました。
琉球は王朝を築いて発展していましたが、遂に征服されました。
その後、一重まぶたで出っ歯の弥生人は、世界に向けてワレらにしたのと同じようなことをしましたが、罰が当たって戦争に負けました。
その時、琉球のワレらの仲間は、「同じ日本人だから」というやつらの言葉を信じて協力しましたが、敵の弾除けにされたくさん死にましました。
スパイの濡れ衣で殺された仲間もいますし、泣き声で敵に見つかるからと言われ殺された赤子もいます。
挙句、やつらは、琉球を敵の統治下に差し出しました。もう訳がわかりません。
今は日本に復帰したことになっていますが、敵の基地はそのままです。
蝦夷地では、ワレらの仲間を土人というのをやめよう、先住民族と認めようということになりました。
ところが、最近は、アイヌはいない、アイヌは成りすましなどと言うのです。
それどころか、今度は琉球のワレらの仲間も土人と呼ぶようになりました。
蒙古襞があってのっぺり顔の朝鮮半島からやってきたやつらは、ワレらとは違う人種です。
それなのに、先住民のワレらと同じ人種だと嘘をつく一方で、ワレらを土人と呼ぶのです。
韓国人と見分けがつかないのっぺり顔の本土人は、「同じ日本人」と「土人」を都合よく使い分けるのです。
これが、先住民族のワレらから見た日本の歴史です。
現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。
http://sp.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html >>555
朝鮮半島の西側は渤海や黄海を隔てて魏があるだろ?
>それを言い出すと倭国の東側には南アメリカ大陸があることになる
その通り。だから、単に「接」としか書いてないのに「海を隔てて接している」なんて解釈は甚だ不自然だということ。
それを言い出すと倭国の東側には南アメリカ大陸があることになるからな。 >>555
おまえ、その反論は自分の解釈(海を隔てて接しているという解釈)を自ら批判していことになっちゃってるぞ 天岩戸は若狭〜伊吹山〜甲賀〜伊賀。
国境を守る拠点、今の言葉では関。
賀は牙。
旗を掲げた拠点。
>>559
九州説を無駄にゴリ押ししてたのはパヨだったのかw >>564
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|尊..Ξ|
|皇..Ξ| プスッ
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■ ジャップ■ ▪ ∴ ….
ii.  ̄" " ̄ii
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//;;>〈 ___ ||.__ 〉 天皇陛下バンザァァァァァァイ!!
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ソ_ソ>'´.-!、 \ Д /
τソ −! ヾ ー-‐ ィ、..
ノ 二!__―.' .-'' \
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ludludl;い7f;いyfぃyf;yふtでうk >>564
アメリカ人に銃殺される天皇 w
ざまみろ www
倭王武の上表文(478)
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
わが国は代々中国につかえて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。
自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、
天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。
そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、
使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、
百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。
しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。
そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、
高句麗の勢いをくじかないままであります。
いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。
正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、
よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。
みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います」
江戸時代の日支国交正常化プロセスで日本国王が冊封の王ではないことを双方で確認し合うまでは
秀吉の朝鮮出兵期間も含めて日本は中国の冊封体制に組み入れられていたんだよ
要となった大野城は設計したのが百済の人ってことで有名だね
まあはくすきのえ以前は半島と日本本土は対馬を経由して
文化も文明も活発な交流があった
それが記録にある遣隋使だけとするのが大きな間違いで
その500年前の卑弥呼の時代にはすでに
帯方郡を訪れているのだから
交流はずっとあった
だってさ、
北部九州からは肉眼で対馬がみえて
対馬からは肉眼で半島がみえるのだから
文化文明そして人が行き来しないほうがおかしい
>>558 邪馬台耶馬渓はまんま関係大有りですよ
漢語漢字を解する者が居ると深山風谷って表現に為る
但し部落の成立時期に依っては現在耶馬渓とされて居る地域にも単に当時言葉の通じない部落の意味で古代中世亡命半島人部落が在る場合も有るので注意 日本列島の歴史
われらの先祖の縄文人が1万年以上も平和に暮らしていたこの列島に
ある日、 朝鮮半島から、 一重まぶたでのっぺり顔の朝鮮人が、3人
乗るのがやっとの 粗末な小舟で 死にかけの状態でやってきました。
縄文人の方、どうかお願いします。朝鮮半島が中国から攻められ
戦乱なので 逃げてきました。 しばらくここにいさせてください」
縄文人や、すでに朝鮮半島以外から海を渡って来ていた弥生人が
快く迎えてやり、 稲作や様々な農耕を教えてやりました。
朝鮮半島は東北と同じくらいの高緯度のため寒冷な気候で
温暖な日本 とは違い痩せた土地と禿山ばかりで、まともな農耕を
したことがなかったのです。
朝鮮半島では獣肉食が中心で菜食ではないので 縄文人や
縄文人と仲の良い弥生人と食の好みも食文化も合わず、稲作の
こともよく知りませんでした。
朝鮮人らが飢えているのを見て、米や干し魚やなどの食べ物を
差し入れてやった こともあります。 しばらくすると、朝鮮人は
その恩も忘れ、天候の悪い季節には縄文人や弥生人の高床の
倉やネズミ除けの環濠を巡らせた稲倉の稲穂や食物を盗む
ようにになりました。
そして、朝鮮半島から来たのっぺり顔の朝鮮人は、ようやく
日本の気候や農耕を覚えるようになったころ、 水耕に適した
湿地を見つけると「この土地は昔からオレらのものだ」
と貸し出した農耕用具や儀式で使う武器を手に我が物顔で
言い出しました。
さすがに温厚な現在の日本人の先祖の縄文人も弥生人も
「福は内」と言って仲間をたくさん呼び寄せ、朝鮮人に「鬼は外」
と言って小石を投げつけて応戦しました。
特にひどくなったのは、数人ずつ小舟で乗り付ける朝鮮人が
しだいに増えたころです。
縄文人と弥生人と、朝鮮半島の一部を経営していた現在の
日本人の先祖である縄文人と弥生人たちが大きな船に乗って
中国風の飾り付けた馬に乗って帰国するようになってからです。
中国風の思想の影響を受けた彼らは、『今日から、半島からやって来た
ナラズ者たちを、肉食ばかりする穢れた者として特定の地域に押し込め
生活させ、肉体労働をさせる』ことにしました。
それ以後、半島からの子々孫々は同じ場所に住まされ、日本特有の
巨大な前方後円墳や干害対策のための大きなため池の造成の
強制労働させられました。
ところが、千年もすると、また似たことが繰り返されました。
朝鮮人がアイヌの地にもやってきたのです。
救ってやるふりを しながら日本国内での分断工作にいそしみ
だしたのです。
一重まぶたで出っ歯の朝鮮人は、その後も世界各地で日本の
評判を低下させる工作を続けていますが、諸外国の人は
卑劣な工作などをすぐに見破り、それまで通り日本に信用を置き
近年はますます日本への観光客が増加し、日本文化に対して
関心を持つ人が増えています。
今も執拗に、日本人のDNAの底に含まれるアイヌ人を、「アイヌは
日本人とは 何の共通部分も持たない、日本から独立すべ先住民だ」
などと言うのです。
沖縄でも同じことをしています。
一重まぶたでのっぺり顔の朝鮮人は、もともと朝鮮半島から命からがら
やってきて その何千年も前から日本にいたアイヌ人や沖縄人を利用
するとは、 なんという身の程知らずの悪行でしょう。
半島人の頭のおかしい所業は地獄の閻魔様も驚くばかりです。
九州に北部九州勢と宮崎県勢の二大勢力があって宮崎県勢力が津波で壊滅的になったとかで台地を求めて移動して奈良に都市を形成したんだろ。奈良は水銀も取れたから工業化して勢力拡大して全国勢力と化す。
>>572>>577
トンスル火病で頭イカレてんだろ
日本人は全員朝鮮人だー!とかなWW >>560
>>561
コピペ荒らしに反応するのもあれだが
それって普通に考えれば、廣陵王璽に問題あったから中国が慌てたんじゃねえのw 卑弥呼という名の王が実在したのなら
なぜ記紀から抹殺されたのか
あるいは、なぜ名前が変える必要があったのか
>>586
倭人伝の南を東と読まないと畿内説が成り立たないよね… >>584
「卑弥呼は当時の中国語発音の当て字なので、記憶や記録にある姫や職の名と該当するものがなかった」と
書紀の著者は考えたとすぐに想像できそうなものだが
あるいは、(ヤマト政権からみれば)奴国等の土酋だと判断したのだろう >>586
現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されていたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、縄文人のオオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
同じ紀元前後の時代。
渡来人系の丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた大阪湾の渡来人に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
アマタラシヒコ、オキナガタラシヒコ、
素クナヒコ名の分家の系統。
アマタラシヒコ、本来のアマテラス〜伊都国系、
オキナガタラシヒコ、ヤマタノオロチ族〜若狭伊吹山系
どちらも始祖の母系の違い。
サルタヒコ、月読(母系は出雲族の幸神)系は途絶える。
本当の三貴子。
倭人伝を読めば畿内説は否定されてるよね。
倭人伝の南を東と読まないと畿内説が成り立たないよね・・・。
>>566
> 蝦夷地の仲間はだまし討ちにあい、土人と呼ばれ、男は強制労働、女は慰安婦にされました。
> その後、一重まぶたで出っ歯の弥生人は、世界に向けてワレらにしたのと同じようなことをしましたが、罰が当たって戦争に負けました。
朝鮮人乙 >>579
耶馬溪って名付けたのって
江戸時代の頼山陽なんだが ID:pONNfE0l0
こいつもかなり痛いやつだな
まあ吠えてればいい
学問の世界ではもう畿内説で決着している
教科書も畿内説が有力という記述に変わってきている
教科書は改訂の度に少しずつしか変わらないが何回か改訂を重ねれば教科書から九州説は消え去るだろう
九州説みたいな俗説は月刊ムーの中でしか残らない
>>599
倭人伝を読めば畿内説は否定されてるよね。
倭人伝の南を東と読まないと畿内説が成り立たないよね・・・。
現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されていたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である。 拠り所としてるものが実は怪しくなってきたり
俺はアレだからよくわかんねーけどよ
聖徳太子いなかった可能性高いって知ってびっくらしちゃったよ
やっぱ認めたくない人間もいただろうね
そもそも皇族の初期メンなんて実在したの1人もいねーだろ?w
三国志なんてトンデモ本にしか記述がない時点で
実在したかどうかも怪しいけどな
ほとんど人前に姿を見せなかったとか言い訳じみてるし
台与の代になった途端に色んな文献に現れるから
そっちは実在したんだろうな
色々古代に関わる単語を調べていたら、ウィキみたいなとこに、面白い事書いていた。何故古代人が、銅、錫、鉛を見つけれるんだと。
現代人には、見当もつかないと思った。
銅や錫などの金属が豊富な鉱脈のある山々にくらす野生動物。その山から栄養を補給するわけ。
野生動物を捕まえて、丸焼きするときに、体内からでてくるもの、その中に金属閃光があるみたいだね。
探査機、ボーリングない時代、野生動物を焼いて、判断したんだな。
そうだよ
ほんの70年くらい前の事もようわからん事があるのに
1000年前とかドラえもんでもいないと無理だろ
空前と言える規模の古墳といい崇神が一々お伺い立ててるような記述といい
百襲姫=卑弥呼説の座りが良すぎて思考停止気味だわ
新しい測定法とかで年代観が大きく動かない限りちょっと宗旨替えは厳しい
漢鏡の変遷やらだと、前漢鏡は九州が主だけど
後漢鏡になると畿内からの方が良くでる。画文帯神獣鏡とか
畿内勢力が九州に浸透してるのも、土器の分布の変遷や
古い前方後円墳が福岡市にあったりする事からも確実
纏向の発見もあり、邪馬台国は畿内って考えた方がより可能性がある、て事なんだろう
卑弥呼が貰った親魏倭王の印綬や、部下が貰った銀印やら
もっと確実な証拠が見つかればいいんだが
>>588
九州説では距離を読み変えないと説が成り立たないよね.... >>609
昔は道路が整備されてなかったのでうねった獣道で進みが悪かったのは陸行の説明がつく。また船も今の船と違うので波や風で時間がかかって長く感じただろうと説明がつく。
ただし方角は太陽がある限り間違う事はない。当時から間違いようがない。よって畿内説は100%ありえない。 田原本にも似たような施設と道の駅が今月オープン。税金余ってるなら減税しろや。
奈良も道の駅やらこんなのばっかや。過剰もいいところやで。
邪馬台国の前から、朝鮮半島に倭が有ったの知ってる。
植民地だったんだよその頃。半分は倭だったんだぞ。
倭は、航海技術、漢字も理解して文明国だったんだぞ。
その頃から、倭国の属国だったんだよ。
>>612
朝鮮半島に倭人がいたからといって朝鮮半島が倭国の属国だったなんて言い過ぎだろ
そういうのはチョンと同じレベルの精神だわ 邪馬台は倭国大乱によって利害関係から形成された連合国で戦乱の痕跡がない地域に存在はしない。
古代戦乱の痕が残るのは九州、山陰この辺りが邪馬台圏。
何故戦乱が絶えなかったのかと言えば不安定な環境からくる飢饉だろう。
魏志には邪馬台の支配が及ばない地にも倭人の存在があったとあり、これらは出雲と中部圏の勢力で後に扶桑国と言われる連中。
邪馬台は戦乱の末分裂し滅びたんだよ。
東大の調査で、卑弥呼の時代に、
もう一つ邪馬台国規模の国があったことが解っているのに、
何故もう一つの国の方ではいけないのか
なぜこちらを有名にしようと思わないのか
>>609
もしくは、日数記述は帯方郡が起点だとか頭の悪いことを平気で言うかだな
どう読んでもそう都合良くは読めないし、もしそうであるのなら何故、陳寿
が従郡を冒頭につけなかったのか、里を日数で言い換えた記述なのに、それ
までの国と同様の説明方法と同じなのは何故か、言い換えているのに、間に
投馬国が突然記載されるのは何故か、以上の疑問に対する整合性のある説明
が必要だし、後世の挿入だと言うのなら、「女王之所都」だって挿入だと言
えることになるな >>616
あったとするなら天皇家。または卑弥呼が天皇家の皇后。 >>617
昔は道路が整備されてなかったのでうねった獣道で進みが悪かったのは陸行の説明がつく。また船も今の船と違うので波や風で時間がかかって長く感じただろうと説明がつく。
ただし方角は太陽がある限り間違う事はない。当時から間違いようがない。よって畿内説は100%ありえない。 >>14
読み方は
ヤマタイじゃないぞ
邪馬台(ヤマト)だ 倭人伝は魏志の東夷伝の一部で、東夷伝には韓についての記述もあって
当時の帯方郡(大体ソウルあたりか)に接しており
韓は大きく三種に別れてた、とある
南は倭に接すとあり、当時の朝鮮半島の日本の勢力と思われる狗邪韓国が
半島の南岸にあったのでは、と思われる
>>619
はて?
そんな説明はまったく求めていないのだが? もう一度>>617を読み直しておいで>二行目まで
比定場所が九州であろうと瀬戸内のいずれかであろうと、記述内容から郡使が実際には邪馬台国には
行っていない可能性が高い(君のお説だとそうはならないだろうけど)以上、南だろうが東だろうが伝
聞でしかないけどね>三行目
結局、実際に見ていない中国人が書いた倭人条だけで議論してもいつまで経っても結論はできないので、
これまでの発掘調査の成果と倭人の条とをどう摺り合わせるかが大切なんだよ 帯方郡から女王国まで一万二千里、という記述があり
不弥国までで一万三百里を使ってるから、そこから女王国までは千七百里しかない、と
いう事になるのかも知れない。不弥国からの水行陸行と矛盾する感じだが
倭人伝には邪馬壱国で、台与も壱与だが
他の本(隋書や北史など)では邪馬台国で、台与になってたりする
今に伝わる倭人伝(ようは三国志)は、宋の時代のものが一番古いて話だから
写本で写し間違いがあったかもしれない。
>>624
畿内って桃の種くらいしか出てきてないからなぁ・・・。 東京マスコミが変に引っ掻き回したから
触れない腫れ物のようになってきたな
>>617
里数と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したものだが
里数は明らかに通常の里とは異なり、1里80mくらいだ
魏で使われていた1里は400mくらいだから5分の1くらい
張政などの魏の使者が測定したならこんなに違うはずがない
魏略でも同じ里が使われているから魏使が訪れる前に誰かが測ったものだ
韓伝でも1里80mで書かれてる
魏が公孫を倒すまでは倭韓は公孫氏に属していたから
この1里80mは公孫氏が使っていたものだろう
日数の行程は張政などの魏の使者が新たに持ち帰った情報で
この情報を途中に挿入したのが倭人伝。 >>617
「女王之所都」は魏使が書いたもので
投馬国にたいして邪馬壱国の側に女王の都があるとの意味。 ID:pONNfE0l0=ID:Ox9Z2O0M0
こいつ知識ないのバレバレなのにID変えてまでしつこく繰り返すモチベーションはどこから来るんだろうか
このスレでも4回も同じこと言ってる(>>180>>305>>590>>600)
こいつは倭人伝をまともに読んだこともなさそう
末盧国、伊都国、奴国がどこで、それぞれどの方角になるかも検証してないだろう >>625
壱岐対馬の外寸を入れたら
伊都国と奴国の国境付近で12000里になる
伊都国と奴国の国境付近が女王国の中心地点。 最近の教科書は畿内説が有力という記述に変わっているが、
高校生向けの詳しい参考書はもっと進んでて、なぜ畿内説で決まったのか解説も載ってる
山川の日本史教科書に準拠して書かれている詳説日本史研究という参考書(去年の8月に内容改訂)
著者は4人に分かれているがうち3人は教科書の執筆者でもある
いまだに2ちゃんで九州だと喚いてるやつらは高校生からもバカにされるだろうな
伊都国と奴国の国境付近は現在の地名は日向峠
神武が東征に出発した場所でもある。
>>633
相変わらず権威に頼ってるな
証拠や理論で勝負しろよw >>610
>今の船と違うので波や風で時間がかかって長く感じただろうと説明がつく。
太陽があるなら方向は間違えないというなら、船が早く進んでいるのか進んでいないのかくらい、わからないはずはないわけだから、九州説は100%ないことになるな。
整地された道で順調に進んで歩めているか、獣道で遅々として前に進めていないかくらいわかるしな。
太陽の方角は変わらないから方角を間違える人がいないとしたら、昼間に道に迷う人はいないよな。
太陽の方角から方角を求めるには、今が何時なのかわかってないと求められない。 倭人伝を見る限りでは、
240年に魏は遣建中校尉梯儁を倭に派遣して、仮綬していた印綬や財物を倭に送ってるが
倭王(卑弥呼)はこれを拝仮してるし
感謝の意を表す際も、使に因って上表してたりする
恐らく魏使には会ってないんだろう
その後来た張政も難升米には色々授けるが、卑弥呼には会ってないように見える
伊都国までは郡使が来ている事は確実なので
もし九州に卑弥呼が居たなら会わないのは不自然では、という気もする
尤も、卑弥呼がシャーマンで滅多に人に会わない、という事から
魏使にも会わなかった、と考える事も出来るけど
>>628
おもろいなあ、誰もそんなこと尋ねてないちゅーねんw
何故、こうも頓珍漢なのか…
ついでなので、ツッコんでおくが
郡使は、大半を船で移動している以上、日数で報告しているはずなので、わざわざ計測したとは思えんな
もちろん、陸に上がってからは歩数ぐらいは数えてたかもしれんし、軍人なので日数=y里の距離の概数は持っていたかもしれんが
それと公孫氏が報告したものなら、その解釈は成り立つが、
その公孫氏を倒した側の人間が何故公孫氏の度量衡をわざわざ用いるのか? もし計測していたのならなおさらだw(これを言うと、
次は公孫氏が残した公文書を参考にしたと言いだしそうだがw)
日本の本社に報告するのに、赴任先の国が使う単位で報告する日本人海外赴任社員はいないだろ?w >>635
参考書には畿内説で決まった根拠や証拠が載ってる
こんな掲示板でいちいち書くのはめんどい >>632
それだと倭人伝の記述に合わないのがなあ
方位もだが、奴国と伊都国の間に七万戸の国を想定するのも難しいし >>631
倭人伝や記紀やら当たり前で読んでる
倭人伝をどう読んでも南を東と読まないと畿内説は成り立たない。つまり畿内はありえない。 魏志倭人伝を信じすぎ
60%くらいしか信用できない旅行記
それと日本書紀無視しすぎ
実際にかなり日本書紀は正しい
倭国大乱もヤマトタケルや景行天皇と仲哀天皇の間の事で
その間に何度も九州では戦が生じている
神功皇后も三韓征伐のために九州には長期間いたし
大分の宇佐八幡宮も神功皇后が九州の大分にまで足を運んだ証拠
本居宣長の偽称女王卑弥呼説が正しい
日本書紀にも山門ヤマトの女王が出てくるしね
隋書には、倭人は里数を知らず、日を以て距離を測る
とあるから、更に昔の邪馬台国の時代もそうだったかも
投馬国、邪馬台国までの距離は倭人から聞いた可能性もあるかも知れない
>>621
鉄也が説いてる奴 沢山勉強してくれ 南北朝鮮人
考古学屋が「卑弥呼の宮殿」だの「邪馬壹国の可能性が有りです」とか煽っても、
あの人たち旧石器と縄文石器の区別が出来ない方々だとバレてるし
日本書紀は年がおかしいことは確実
倭国大乱と仲哀は時代が噛み合わない
>>628
里数と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したものという珍説を唱えてるやつは
邪馬台国の中に伊都国や奴国があるという珍説を唱えてるやつと同一人物だろう
里での行程説明には方角は南と東の両方がある
日数での行程説明には方角は南のみ
矛盾してます
ハイ、論破 旧石器遺跡捏造事件で
竹岡俊樹共立女子大の非常勤講師や
国立科学博物館人類研究部長の馬場悠男さんの反論は無視され、
ネットが無ければ500万年前の原人遺跡などという
とんでもないものが出てきてしまうところだった
マスコミの「世紀の発見」の連発を、
冷ややかな目で「北京原人より古い?そんなバカな」
「あれって両面加工石器じゃん」「縄文石器だろあれ」
と見抜いていた人々を無視・迫害したマスコミ
聖嶽洞窟遺跡で真面目な研究者を捏造呼ばわりして自殺に追い込んだのもマスコミ
「卑弥呼」「邪馬台国」についてはマスコミがそう言ってたら眉に唾して見ることが大事
近畿で何かが古いものが発掘されたらすべて「邪馬台国」と書き散らすのが朝日新聞
とても真っ当な所見ではない
遺跡周辺に住人が住んでないのは「クニ」ではないという証拠です
纒向(まきむく)遺跡の奈良県桜井市には
神功皇后の磐余若桜宮がある
でも彼女は長期に渡り九州にもいた
そして大分にもその先の南部にも足を伸ばしていた
まあ、この部分については日本書紀には記録はないけどね
>>100
奈良は「平らにならした」場所という意味だから、もろに山を示す「ヤマト」ではあり得ない。
女王卑弥呼が居たのは筑後の奥のほう、更に奥座敷が大分の日田あたり。
ちなみに大和政権てのは「ヤマト」の名称を勝手に受け継いだだけ。 >>645
魏の時代は百済も新羅も無い時代。半島は馬韓、辰韓、弁韓の時代だよ
高句麗の好太王にある、倭が新羅やらを占拠して臣にしたのは、この時代から100年以上後の話だしな
隋書に、新羅は倭を大国と見なして貢ぎ物を持ってきた、てのは更に時代が新しい
その辺りなら、まだ倭が韓国の国々を従属させてた、てのは解るが
魏の時代は史書を見る限りまだそういう状況ではないだろう >>647
それが戦後の定説だけど
倭国大乱と仲哀天皇は時代はよく読むと噛み合うよ >>492
要は九州人は、朝鮮文化を多く受け入れて、朝鮮系渡来人を多く受け入れた朝鮮人ってことか? ギリシャやエジプト、ローマには2000年も前から、巨大神殿や闘技場があって、
支配者は現代と変わらん、衣食住の文明生活をしてるのに、
卑弥呼は粗末な建物だろ。
文明の遅れを自ら証明することは無いのにね。
>>653
倭人伝には狗邪韓国が倭の領地のような記述があるが
3世紀の時点では日本の土器が出土しなくなり倭の領地とするのはかなり怪しい状況になっているらしい
ソース
『朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉』 石丸あゆみ 邪馬台国は奈良か島根県出雲が濃厚だろ
福岡が日本の都だったとか福岡が日本の中心地だったとか聞いたことない
他県の文化、歴史をパクって自分達のものにするとか福岡人は朝鮮人かよ
てか、福岡人ってうどんもパクって自分達のものにしてるよな
うどんと言えば香川だろう
博多ラーメンとか言ってるけど、ラーメンも他の都道府県の方が美味しいし
なんか「元祖」とか言ってるけど
聖徳太子は奈良のイメージ
卑弥呼も奈良か出雲のイメージだわ
卑弥呼が福岡のイメージなんて一切ないw
他の都道府県の文化や歴史で起源主張する福岡人は朝鮮人みたいだ
>>69
実は瀬戸内海は平清盛が整備するまで大型船には難しい航路だった
だから北九州、そして北陸が窓口になったわけで >>653
百済も新羅も君が思うより古くから存在しているよ
日本書紀と別に相反することはないよ >>615
飢餓では戦乱にならない。
食いもんが余って蓄えられないと、戦争はできない。
狩猟民であれ、牧畜民であれ、農耕民であれ、
戦争は、「天高く馬肥ゆる頃」 だわ。
豊かになった地域が権力を希求するのが戦争の原因。 >>657
狗邪韓国は、極小さな領土しか持たない国だったかも知れない
(帯方郡に一番近いにも関わらず、戸数表記もないし)
ただ、史書の書き方からしたら倭に属するようには見えるけど
前にも他の人が書いてあったが、韓の南が倭に接す、てのは
ほぼ領土が地続きで繋がってるって事だろうし
傍証としては、倭人伝の最初にある魏と通交している国は三十国、とあり
狗邪韓国から倭人伝に上がっている国の数をカウントすると
丁度三十国になる、てのもあるし 卑弥呼の居た邪馬台国は九州、没後の再乱で九州を追われた一族が流れ着いたのが今の大和
卑弥呼なんていたかいないのかもわからないし
どうでもいいだろ そういう話題作りで盛り上げたいのか
>>657
列島内に倭人テリトリーが広がるにつれ、列島が列島倭人の
独自の国になり、元の半島地域との関係が薄れていく。
アメリカ植民地人が、イギリス人としてのアイデンティティー
無くしていくのと同じ。
別地域に移住すると、新しいアイデンティティーが生まれる。 >>661
馬韓、辰韓、弁韓は後の新羅や百済になっただろうから、新羅や百済がその時代からあった
(呼称が変わった)てのはあるだろうけど
倭が本格的に半島に進出するのは、卑弥呼の時代より後だろう、と考える
好太王碑や倭の五王の上奏文からしたら、四世記後半あたりから
本格的に進出したんだろう、と思う
(好太王碑からすると、391年にそれまで高句麗に臣従してた新羅や百済が
倭にやられて倭に臣従した、てあるから、この少し前あたりから本格的に進出してるんだろう) 卑弥呼なんて西暦何年に存在したかもわからない
本当に生きてたかもわからない
中国の歴史書に残ってたらしいけど本当にいたかわからない
>>661
百済も新羅も、最初は小さな都市国家だった。
3世紀の最後、華北が混乱し、高句麗が勢力拡大、
パックス・チャイナ(華北覇権による平和)が崩れて、
半島南部及び列島で、地域覇権の競争が勃発、
結果、それぞれの地域で統一が進んだんだわ。
我々が普通にいう百済・新羅は、この地域統一の結果、
都市国家ではなく領域国家となった時期の百済・新羅で、
列島の大和に相当。 >>646
無知な人間に教えてあげるが、研究テーマが異なると他のテーマの知識はたいがい持ってないよ?
大学の教員(行政内研究員の一部)は、ものすごい知識量を誇るが、一般に考古学の常識とされる
ものとは別に、己の専門である深ーい知識も有している
だけどその深−い知識は、同じテーマの研究者間でしか共有してない
例をあげると、墓を専門に研究している研究者は、都城制などの他のテーマについては常識レベルの
浅い知識しか持ってないんだよ、逆も同じで、地域や時代が異なれば、さらに細分される場合もある
旧石器は研究者が少なかったので、素人が捏造できただけのことで、他のテーマとは全然状況が異なる
いま、親魏倭王印が誰かが捏造したとする
すると、考古学、金属工学、印章学等、あらゆる日中の専門家から深い知識を根拠とした疑問を叩きつけられる
いわゆる学術的批判に耐える必要が出てくるわけだな
それはどんな品や遺構でも同じで、現代で捏造品や捏造遺構が耐えるのはまず不可能だ
それと、まともな考古学者は、文献の中の名称でしかない卑弥呼の○○だとは原則口に出さないものだよ?(シ
ンポジウム等でサービスの場合や、説明に必要な場合は出すだろうけど)
3世紀のものと聞いたマスコミが勝手に卑弥呼のか?と誇張しているだけで
ま、六行目までは、まともな大学を出ていれば、極々常識的なことだよな
>>649
帯方郡から見れば南だとか言い出すぜ?w >>656
遅れているから歴史を伏せるという感が方がなんともアホっぽい。 この手の話題はタイムマシンができるまで解決しないんだろな
「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑」魏志倭人伝の最初の文章。帯方の東南、大海の中にあるまでは、わかりやすい。
次の「依山㠀為國邑」は、
山や島(㠀を厳密にみれば、留まれる。止まれる島)によって、國邑を為すとかいている。
わざわざ國をつけている。
邑だけでは、城、都の城(都城)だが、國をつけたことで、國の都城と捉えてる。
主語が、倭國やなく、倭人やから、それぞれの國の県庁所在地みたいな意味合いやね。
國邑の単語だけみたら、首都になるからね。
>>1
暴力団の地元だから、な
補助金いくら懐に入れたかな 畿内派は、狗奴国さえ無理やり毛野にすればどうにかしのげると思ってるフシがあるが、
侏儒国だって当てはまるとこ無いじゃん
方向改ざんして、似てない地名を無理矢理当てはめて、海を湖にして、
そこまでやっても侏儒国がどこにも当てはまらないからダンマリでワロス
>>32
起点(帯方郡)からの所要日数を記録しとかないと、伝記として有意義じゃないしね(´・ω・`) >>680
山や川を迂回しまくりな獣道で30日だと、直線距離ではたいして進んでないと思うよ >>682
卑弥呼から台与に変わったのだから階級名ではないんじゃね? 纏向は物部の先祖が住んでた場所を神武が制圧して建設した都市なんだよ。
謂わば九州邪馬台大乱時の外伝的開拓使でありその後五王時代に消滅し古事記に記される内容に繋がっていくんだろ。
始度一海 千餘里 至對海國
・・・
所居絶㠀 ・・・
有千餘戸 無良田食海物自活
乗船南北市糴
この魏志倭人伝の乗船南北は、船で、南北へ行って、市糴。この糴は、売買やなく、米を買うだけの単語やね。良田ない島を表してるね。
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
また南へ海を渡るとかいてるね。で、ここも
差有田地という文章は、耕地と言うまでには、もう少し!の意味やね。「差」が、あと一歩の意味合いだね。
で、結局、ここも「亦南北市糴」同じように、
南北に乗船して、買いに行きます。とかいてるね。
「亦」は、乗船と言う同じ動作が起きていることを二回も書かず、南北に、注意を向けたいわけだね。
>>679
九州説で侏儒国を特定できてるんかよwww
根拠のないパズルやってるだけだろが >>686
船とは、でていないが。買いに行く漢字と耕作地まで、もう一歩とかいてるから。島だよね。 >>687
畿内派はパズルのピースが合わないからハサミでちょん切ったピースを無理に押し込んでるよね >>689
で、侏儒国はどこなの?
早く答えてくれ >>684
西日本の開拓は日本書記年代神武-東周(支那春秋時代)初め頃から北九州移民によって行われている。
その成果は弥生中期以降の北九州とは違う青銅器文化を銅鐸で形成する。
卑弥呼の手前から後、銅鐸からこれも北九州とは違う大型鏡に、そして銅鐸出土とは違う支配層の墓から出土する。
しかも卑弥呼の時代では、登呂遺跡を初めとする東海地方まで稲作が進んでいる。
弥生土器は東京都の弥生町を代表するように、卑弥呼より前の弥生中期以降に関東から出土する。 >>673
インターネット時代は知識より考える力が重要だ
無知でもインターネットで検索すれば大抵のことは分かる
偉そうにして畿内説とか主張してる学者を見ると滑稽でならない
>帯方郡から見れば南だとか言い出すぜ?w
朝鮮半島南岸が投馬国で九州北部が邪馬壹国だとすると
帯方郡から見れば南ですねw
投馬国や邪馬壹国は韓での馬韓、辰韓、弁韓みたいなものでしょう
倭も韓も似たような社会構造だったのでしょうね。 >>694
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南」
女王国を北部九州とすると倭種は中国地方
侏儒國はその南に在るから四国だよ。 >>687
侏儒国は種子島でしょ
魏志に書かれてるコロボックル並の人骨が出てんだし
近畿説だとハワイとかエクアドルなんだろうけど >>696
根拠を聞いてるんだが
小学生レベルのパズル当てはめごっこをやったらこうなったとか答えになってない >>698
元々侏儒國なんて殆ど情報が無いんだから根拠なんて何があるんだよ? >>697
身長3尺か4尺の人骨が出てるのか?
平均より数センチ低い人骨なら聞いたことあるが >>699
じゃ四国というのは当てずぽうで無意味ということでいいな >>701
倭人伝の記述に従ってるから当てずぽうじゃないけど
四国か中国地方の瀬戸内海側かもしれませんね
その付近ですよ。 教科書に出てるのは纒向で大きな遺跡が出土し
邪馬台国との関係で注目されているというだけで
確定的なことは何もいってないんじゃないの?
それどころか最近の調査では邪馬台国とは遠ざかるばかりで
今に纒向は吉野ヶ里と同様邪馬台国ではないとなりそうだということだけど
むしろ大和朝廷が初期段階で邪馬台国とは異なるということが明らかになると
畿内説には致命的なものになると思うけど
まぁ大和朝廷は確実に畿内発祥だろうからそっちで持っていったほうがいいと思うけどね
>>700
身長3尺か4尺の人なんて何かの間違いでしょうね。 >>693
ごく自然に読むと四国が侏儒国だね
何故侏儒(小人)と呼ばれるに至ったかと言うと
四国のような離島には背の高い渡来系が訪れにくく背の低い縄文人が多く存在し、
渡来系子孫の血が濃い北部九州から見ると四国の連中は背が小さい、
さらに島も小さいので侏儒となった説がある 尺は長さがマチマチだからな
一説では大宝以前は高麗尺が使われてたみたいだが
これだと四尺は145cmぐらいだな
北部九州全体が邪馬壹国だとすると魏志倭人伝は何の矛盾も無く理解出来るんだよな
何で辻褄の全く合わない畿内説とか未だに主張し続ける人がいるのか分からないな。
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
この文章は、この様に、3つにわけて考えるべき。
女王國の東に、海渡って千里あまり行くと、また、倭人のくにあるよ。で、ここで、東への説明終わり。
又有で、また、國があるんよと。侏儒國が。
其南のそのは、女王國を意味している。
まえの文章には、かからないから、
位置はまた、女王國に戻っての表記。
人長三四尺 去女王四千餘里 あとは、背丈だが、
次の「去」だが、難しい。女王國から、去ってとかいてるのあるが多い。
普通は、「去」は、行くんよね。女王國に向かって、四千里あまりとの意味と思う。
又有裸國黒齒國の黒歯國は、台湾の「高山族」やないかな。彼らの文化は、
結婚適齢期になると野草を歯に塗って、
だんだん黒ずんで、いくようにするよね。
>>708
四国、特に高知あたりは九州縄文とはまた別の南方血統なんじゃないかと思っていて
その民族の背が相当低かったのかな、と詳しくないので妄想だけしてます >>710
卑弥呼の国と台与の国とを両方「女王国」だと記述してるから混乱してしまう
というか中国側の使者が混乱してるんだよ
卑弥呼の時代と台与の時代とでは都の位置が違ったと考えればいい >>692
君は、大学出てるのかな
大抵のことはわかるなんて思い込んでいる君こそ滑稽だよ(苦笑)
昔よりも情報量は増えたが、インターネット上の情報なんてそれでも所詮上澄みでしかないよ?
本当に知りたい専門的なことはインターネット上には出てこない
どんな学問でも大学で基礎を学び、研究会や学会などに出ないと微細な情報やノウハウは得られない
あるいは関係図書を読みこんで、必死で独学するかだ
もちろん君の言うとおり、確かな根拠や整合性のある理由に基づいて、論理的な思考を行うことはデフォルトだけどね
だが、それを他人に要求する以上は論理的に批判、反論しないと駄目だねw
君も含め、まともな知識のない感情的な人間が多すぎる >>710
しかし、黒歯國などは、東南とかいてるからね。高山族が、台湾が、黒歯國としたら、西南だよね。一行しかかいてないが、調べていけば、何がわかるかもしれないな。 >>715
復在其東南 船行一年可至
の復が、何をいみしているかだね。
また、と言う意味だから、
何処かの文章の単語にかけてるね。
復の中国語をまだ調べてないから、
2つとして、とらえていいかわからないが。
其」は、ここでは、itのような意味で、
裸國と黒歯国を復として捉えて、2つの國。
で、「在」であるよと。
で、何処に?とききたくなるわけて、
その答えが、東=裸國 南=黒歯国 。
其」は、その島嶼地帯をあてたかな。
だから、裸國が、東に対応して、
黒歯国が南に対応している。間違ってはないかな。あの地域なら。 >>716
黒歯国裸國の順番でかいたとしたら、南東と書けるいみでもあるね。真偽はわからないが。