0001ガラケー記者 ★
2018/01/26(金) 22:05:18.32ID:CAP_USER9米国の北朝鮮専門ニュースサイト、NKニュースが最近、事故発生当時に江界在住だった脱北者の証言を引用し、事故の顛末を詳しく報じている。
150キロ先から見えた火炎
証言したのは、当時江界市の食糧配給の指導員として働いていたコ・チョンソン氏だ。その内容は次のようなものだ。
1991年11月30日。夜勤を終えたばかりの26号工場の組み立て班の班長、タク・チョンサンは疲れ切っていた。彼が火薬を乱暴に扱ったことで、午前9時半ごろ、小規模の爆発が起き、火の手が上がった。
歩哨に立っていた若い女性が消防に通報し、保安署(警察署)も出動した。現場に派遣された60人の保安員(警察官)は3組に分かれて、地下の工場へとつながる鉄製のドアを閉じようとした。
大爆発が起きたら、市街地にも被害が及ぶことを恐れてのことだ。一部のドアを締めることに成功したが、その過程で14人が死亡した。
そんな犠牲にもかかわらず、小さなものだった炎があっというまに大きな火柱となり、何度もの爆発を引き起こした。
爆発の衝撃で民家の窓ガラスが吹き飛んだ。発電所にも火の手がおよび、人々は赤い稲妻が空に駆け上るさまを目の当たりにした。
やがて、26号工場から赤いきのこ雲が立ち上がった。住民は敵国からミサイルで攻撃されたものと思ったという。
市の人民委員会の担当者は、スピーカー付きの車で町中を駆け回り、工場から40キロの範囲にいるすべての人に緊急避難を呼びかけた。非番の保安員、保衛員、軍人すべてが非常召集された。
数万人の人が避難を始めた。ある人はテレビを、ある人は食べ物を持っていたが、ほとんどの人が手にしていたのは金日成氏の肖像画だった。命より肖像画の方が大切とされるからだ。中にはけが人もいて、まるで戦争が勃発した直後のような状況だった。
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DailyNK Japan
2018年01月26日
https://dailynk.jp/archives/103718/3