新潮社 フォーサイト 1/4(木) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180104-00543183-fsight-soci
日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。
そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。
■神武天皇と「九州の海人」
近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。
一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。
それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。
また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。
しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。
たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。
連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。
畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。
「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」
とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。
続きは>>2
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180104-00543183-fsight-soci
日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。
そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。
■神武天皇と「九州の海人」
近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。
一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。
それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。
また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。
しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。
たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。
連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。
畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。
「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」
とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。
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