山一証券と北海道拓殖銀行(拓銀)が経営破綻してから今年11月で20年が過ぎた。その節目の年に、メガバンクは店舗閉鎖や人員削減など大リストラに乗り出すと表明。日銀のマイナス金利導入が銀行経営を直撃し、業績悪化を招いたといわれるが、90年代前半のバブル崩壊から、金融界は何を学んだのか。元銀行マンの作家に、銀行の変貌ぶりと将来像を聞いた。
■バブル崩壊で“目利き”が消えた
――拓銀の経営破綻は1997年11月17日でした。その1週間後には山一証券が自主廃業しています。
現在も株価はバブルだと指摘する市場関係者がいます。昨年あたりから、「住友銀行秘史」(國重惇史著、講談社)や、「バブル―日本迷走の原点―」(永野健二著、新潮社)など、バブル期を振り返るような本が相次いで出版されたことで、バブルを意識する人が増えている気がします。大切なのは、なぜバブルが起きたのかをきちんと考えることでしょう。
――バブル経済を謳歌した80年代の検証は大事ですね。
85年のプラザ合意でドル高が是正され、円高が進行しました。同じ年にNTT(旧日本電信電話)とJT(旧日本専売公社)が民営化されています。こうした自由化の流れに銀行ものみ込まれていった。住友銀行(現三井住友銀行)が吸収合併した平和相互銀行は、いわゆる金屏風事件を起こし、日本興業銀行(現みずほ銀行)は料亭の女将にすぎなかった“尾上縫の巨額詐欺事件”に巻き込まれました。
――そうしたなか株価は上昇を続け、89年12月に史上最高値の3万8957円をつけます。
当時は、日本全国の土地代でアメリカ全土が3つ買えるといわれるほど不動産バブルでした。90年代に入ると、平成の鬼平と恐れられた日銀の三重野康総裁(当時)が“バブル退治”のため、公定歩合(金利)を急激に引き上げます。一方、大蔵省(当時)は銀行に対し、不動産向け融資を制限する総量規制に踏み切ります。政府は政府で、土地バブルを抑え込むため税制改革を実施しました。それぞれの対策は正しくとも、3者はバラバラ。「合成の誤謬」(ミクロで正しくともマクロでは意図しない結果が起きる)によって、バブルは急激にしぼんだのです。例えれば、お金を透明な金魚鉢に入れ、それが徐々にあふれ出るのではなく、ガラスがいっぺんにはじけた感じです。それがバブル崩壊でした。
――90年代後半になると、銀行救済のため公的資金が大手行にも注入されました。
破綻リスクのある“30社問題”などが浮上し、金融庁は銀行の不良債権を見つけ出し、不良債権を減らせと繰り返しました。銀行サイドの集計では合計20兆円ほどの不良債権でしたが、アメリカの調査では100兆円あるとも伝わった。おそらく100兆円近かったのでしょう。銀行は生き残るため、貸し渋りや貸し剥がしをするしかなかった。金融業界の再編も進みました。バブル期の最大の問題点は、銀行から“目利き”がいなくなってしまったことです。
――目利きとは?
銀行マンは「石橋を叩いても渡らない」と教え込まれます。それほど慎重さが重要なのです。融資審査をしっかりと行い、融資した資金がどう使われるかを検証し、きちんと返済してもらったあとに、また融資する――これがあるべき姿です。ところが、バブル期はほぼ審査なしで融資が実行されました。取引先から10億円貸して欲しいと頼まれたら、いや50億円融資しますよ、となる。先方は50億円は必要ないと断るのに、いやいや使ってくださいと銀行は押し切る。そんな状態が何年も続き、だれも融資の審査をしなくなってしまったのです。
――弊害は大きかったでしょうね。
バブルが始まった当初は、目利きもまだ残っていました。しかし、真面目に審査していては営業成績が上がりません。あげくに左遷です。バブルに踊らされたイケイケの支店長ばかりが出世していく。そうなると、目利きは育たなくなり、多くの銀行マンは営業をやめてしまいます。銀行を頼る人は減少し、客は離れていきます。初めて支店長になったときは本当に驚きました。客との関係は壊れていて、客は銀行を信用していませんでした。
※全文はソース先をお読み下さい
配信2017年12月18日
日刊ゲンダイ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/219551/1
■バブル崩壊で“目利き”が消えた
――拓銀の経営破綻は1997年11月17日でした。その1週間後には山一証券が自主廃業しています。
現在も株価はバブルだと指摘する市場関係者がいます。昨年あたりから、「住友銀行秘史」(國重惇史著、講談社)や、「バブル―日本迷走の原点―」(永野健二著、新潮社)など、バブル期を振り返るような本が相次いで出版されたことで、バブルを意識する人が増えている気がします。大切なのは、なぜバブルが起きたのかをきちんと考えることでしょう。
――バブル経済を謳歌した80年代の検証は大事ですね。
85年のプラザ合意でドル高が是正され、円高が進行しました。同じ年にNTT(旧日本電信電話)とJT(旧日本専売公社)が民営化されています。こうした自由化の流れに銀行ものみ込まれていった。住友銀行(現三井住友銀行)が吸収合併した平和相互銀行は、いわゆる金屏風事件を起こし、日本興業銀行(現みずほ銀行)は料亭の女将にすぎなかった“尾上縫の巨額詐欺事件”に巻き込まれました。
――そうしたなか株価は上昇を続け、89年12月に史上最高値の3万8957円をつけます。
当時は、日本全国の土地代でアメリカ全土が3つ買えるといわれるほど不動産バブルでした。90年代に入ると、平成の鬼平と恐れられた日銀の三重野康総裁(当時)が“バブル退治”のため、公定歩合(金利)を急激に引き上げます。一方、大蔵省(当時)は銀行に対し、不動産向け融資を制限する総量規制に踏み切ります。政府は政府で、土地バブルを抑え込むため税制改革を実施しました。それぞれの対策は正しくとも、3者はバラバラ。「合成の誤謬」(ミクロで正しくともマクロでは意図しない結果が起きる)によって、バブルは急激にしぼんだのです。例えれば、お金を透明な金魚鉢に入れ、それが徐々にあふれ出るのではなく、ガラスがいっぺんにはじけた感じです。それがバブル崩壊でした。
――90年代後半になると、銀行救済のため公的資金が大手行にも注入されました。
破綻リスクのある“30社問題”などが浮上し、金融庁は銀行の不良債権を見つけ出し、不良債権を減らせと繰り返しました。銀行サイドの集計では合計20兆円ほどの不良債権でしたが、アメリカの調査では100兆円あるとも伝わった。おそらく100兆円近かったのでしょう。銀行は生き残るため、貸し渋りや貸し剥がしをするしかなかった。金融業界の再編も進みました。バブル期の最大の問題点は、銀行から“目利き”がいなくなってしまったことです。
――目利きとは?
銀行マンは「石橋を叩いても渡らない」と教え込まれます。それほど慎重さが重要なのです。融資審査をしっかりと行い、融資した資金がどう使われるかを検証し、きちんと返済してもらったあとに、また融資する――これがあるべき姿です。ところが、バブル期はほぼ審査なしで融資が実行されました。取引先から10億円貸して欲しいと頼まれたら、いや50億円融資しますよ、となる。先方は50億円は必要ないと断るのに、いやいや使ってくださいと銀行は押し切る。そんな状態が何年も続き、だれも融資の審査をしなくなってしまったのです。
――弊害は大きかったでしょうね。
バブルが始まった当初は、目利きもまだ残っていました。しかし、真面目に審査していては営業成績が上がりません。あげくに左遷です。バブルに踊らされたイケイケの支店長ばかりが出世していく。そうなると、目利きは育たなくなり、多くの銀行マンは営業をやめてしまいます。銀行を頼る人は減少し、客は離れていきます。初めて支店長になったときは本当に驚きました。客との関係は壊れていて、客は銀行を信用していませんでした。
※全文はソース先をお読み下さい
配信2017年12月18日
日刊ゲンダイ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/219551/1