大型建物跡が見つかった場所。案内板があるだけで、埋め戻されて草が生い茂っている(桜井市で)
大型建物跡が見つかった当時、並べられた柱列。計画では、木の柱を立ててイメージしやすくする(2009年11月)=桜井市教委提供
◇900万円目標 62本の宮殿柱跡に丸太
邪馬台国の有力候補地として知られる桜井市の纒向遺跡の整備費を、市教育委員会は30日、インターネットで資金を募る「クラウドファンディング」で集めると発表した。「卑弥呼の宮殿」との説もある大型建物跡が確認されたが、現在は草原となっており、観光客から「どこが遺跡か分からない」などと指摘されていたという。市教委は12月中に建物跡に木の柱を並べる整備に着手する。(辰巳隆博)
2009年の市教委の調査で、少なくとも4棟の建物が一列に並んでいたことが分かり、これまでに62本の柱跡が確認された。大規模な宮殿跡の可能性もあるとして、全国的に注目を集め、今も訪れる歴史ファンや観光客が多い。しかし調査後は埋め戻されており、「遺跡を実感できるように整備して」と求める声が相次いでいるという。
そのため市教委は、建物跡が分かるように、来年2月末までに、柱跡に木の丸太を立てる整備事業を企画。桜井木材協同組合から木材を無償で提供してもらえることになり、約1200万円で整備できる見込みがついた。その4分の3にあたる900万円を目標に、12月1日から来年2月末まで資金を募る。
市教委総務課は「纒向遺跡は非常に広大で、市の予算では整備に限界がある。財政的にも余裕がなく、少しでも力を貸してほしい」と寄付を呼びかけている。
寄付は、ふるさと納税として受け付ける「ガバメントクラウドファンディング」の手法を活用。サイト「ふるさとチョイス」の専用ホームページ(https://www.furusato-tax.jp/gcf/)で、2000円から受け付ける。問い合わせは市教委総務課
<纒向遺跡> 桜井市北部の東西2キロ、南北1.5キロに広がる大規模集落跡。初期ヤマト王権発祥の地とされる。3世紀初めに突如出現し、当時最大の集落遺跡とされ、日本最初の「都市」との見方もある。九州や関東など広い地域の土器が出土しており、周辺には箸墓(はしはか)古墳など初期の古墳が築かれた。
読売新聞 2017年12月01日
http://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20171130-OYTNT50284.html
前スレ:2017/12/01(金) 18:05:26.16
http://2chb.net/r/newsplus/1512223497/ この遺跡の字って確か
むくむくとかもこもこみてえな
エロい名前だよな?な?卑弥呼?と豊丸
この時すでに天皇いたはずなのに卑弥呼が女王とは、これ如何に
纒向遺跡なんてどうでもいいレベルの遺跡
単なる村興し。
直ぐクラウドファンディングとか
いうけど
出資さえの見返りは?
まさかステッカーとか
名前一覧に記載しますとかか?
>>4
宇佐神宮の地中深くに女一人、男一人が埋まってる
という話、聞いた事ある。卑弥呼と男侍従かな?
卑弥呼の塚には入れず、宇佐神宮に埋葬したとかなんとか。地中探査出来たらな〜 同じ時代に大きな前方後円墳をたくさん作ったというのは、邪馬台国の根拠になる?
魏志倭人伝にはそんなこと書いてあったか?
>>9
田布施システムって、嘘がばれて失敗したデマだよ>>9
沖縄では、自衛隊の息子という理由で、先生と生徒から
自衛隊と米軍は人殺し集団とイジメに会い、
結果9歳で首吊り自殺しました。
↑
ネトウヨのデマ
本人は謝罪してツイッターを削除
>>11
日本史上では天皇(大王)はいたことになってる >>13
近畿の歴史学者は時代考証したら不利な事は分かってるからしないというあざとさがあるからね
文献、時代考証からすると九州説しか無いと分かって、古墳が多いからとか他のとこで攻めてくる
結局近畿の古代史研究者は歴史家でなくて、邪馬台国を近畿に持ってくる会の会員なんだよ 邪馬台国が奈良のわけないジャん福岡だよ
糸島って地名もあるだろ
バカか
邪馬台国は九州北部〜山口県一部〜島根県ですよ
古墳守の子孫はエッタちゃんなのです
纒向は卑弥呼がいた大集落だな。
初期ヤマト政権の証だし、全国平定の先駆け。
倭国大乱前の倭国の証である1〜2世紀の守山の伊勢遺跡に並ぶ貴重な遺跡。
国宝として、国が整備したらいい。
纏向遺跡近辺の箸墓古墳は卑弥呼と無関係だぞ
箸墓古墳で木製の馬のアブミが発見されているが
馬のアブミが日本に渡って来たのは紀元5世紀頃とされている
卑弥呼は3世紀の人間だろ
時代的に会わない
そもそも誰でも自分の故郷を何が何でも
有名な遺跡にしたがる
ほっとくと朝鮮人みたいに既成事実作られるぞ
邪馬台国は九州だろ、諦めな
>>6
邪馬台国の話をしているのに何でヤマト王権の記述をあげてるの? >>23
畿内説の学者の神の手で3世紀になったんだよw 今時まだ畿内説と言ってる似非学者は死んだ方がいいな。
クラウドファンディングしなくても国がやればいいのに・・・ダメな理由があるのかな
伊都国から硯が出たけどなにか書いたものが出ないかな
この頃は竹簡か
朽ちてダメか
邪馬台国はヤマト国。
不思議なのは、記紀でヤマトの地の名付けのエピソードがいくつも挙げられていること。
当てられる漢字も、倭、大倭、大和と変わっていくしね。
ヤマトの地名に都合の悪い事実が隠されているのかも。
河内、山背など周辺の地名を見たら、
ヤマトのヤマは山じゃないかな。
河内、カワチ。内→チ
内の反対は外。外はトと発音することもある。
ヤマトは山外かも。
大阪湾側から見て、山の向こう側、山外。
畿内説・九州説は毎度の話題
知識をひけらかしたい能書き垂れの御仁が必死なのが微笑ましい
それより何でクラウドファンディングなんだ?本気出すなら税金使うだろ
>>35
卑弥呼は伊都国に居たんだよな
魏使も伊都国にまでしかきていない。 伊都国は伊都国。
更に魏志倭人伝に女王国に服属すると書かれている。
邪馬台国である可能性はゼロだな。
奈良は無い
魏志倭人伝に奈良を想像させる記述は無い
>>4
大和朝廷が中国に貢物をしていたことを、なかったことにしたい人がいたんだろうね >>4
極右の本居宣長が元凶
それまでは国内認識も邪馬台国は大和国だったし
卑弥呼は神功皇后だった >>36
大和がずっと奈良だと思わないほうがいいぞ
元々は一部だったのが広がってるからな
九州からの移民が付けた名前かも
九州には山門郡があるし
そこには田油津媛がいたし >>23
馬のアブミは堀の中で見つかったもので
古墳とは直接の関係はないらしいよ >>39
魏志倭人伝には伊都国が女王国に服属するなんて書かれていないよ
伊都国には王が居たと記されてる。 支配層が書いた記紀を見てたら、
邪馬台国、卑弥呼、倭国大乱などは都合の悪い隠したい事実の最たるものだろう。
今の支配層も同じ。纒向遺跡も無かったにしたい人は沢山いる。
【 広島市民へ 】
広島市は、介護事業所へ不正な請求でありながら、かまわず支払い続けている。
これは、税金の不正流失であり、消費税納税者、全員への裏切り行為である。
>>38
卑弥呼は斎場である場所にいたのかも
7万戸なんてふかしただけで
弟は伊都国にいたのかもね >>3
まあ吉野ヶ里みたいな復元を建てるのが見る側には一番インパクトあるんだろうがw
(ちなみに復元されてる建物がそのまま地中出てきたわけじゃなく
奈良から出てきた銅鏡に描かれた建物とかも参考にした想像物)
大抵直ぐに新しい資料等により新たな復元モデルとか出てくるし
一旦作るとランニングコストもかかる(吉野ヶ里も赤字)
だったらバーチャルに3DCGを使った方が修正もしやすいし良いのかもw >>51
アプリで見れるようにすれば十分なのにね
でもお金が集まろうと集まらなかろうと
柱をたてることはもう決まっているんだって >>49
皆は女王国に統属するとしか書かれていない
この皆とは倭の国々のことですよ
倭の国々は女王国に統属すていた。 >>51
吉野ヶ里に行っても閑散としていて誰もいない
みつかった時はうじゃうじゃいたんだけどね
維持費大変と思うよ >>50
7万戸は北部九州の国邑全体の戸数ですね。 女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
>>51
唐子・鍵遺跡の復元望楼が可愛くて好きw
バカボンっぽくていいよね。
九州となれば韓国起源説を主張する輩が出てきて面倒くさいから、九州住みだけど九州説以外を応援します
京終、帯解、櫟本、巻向、畝傍とか桜井線って難しい駅名多すぎ
邪馬台国は宮崎県西都原です。
日向の浜から東征して九州の地名を全部近畿で使ってる。
史書にも明記されており、大和王権の故地が九州日向なのは間違いない。
九州説が正しいなら、学会で主張したらいい。
誰も相手にしてくれないから。
嘘を広めるのは、タチが悪い。
シナ人の特徴は数字を誇大に発表する事なので倭人伝の数字を真面目に考える
方が頭がいかれている。この点が細かい事に拘る日本人とは大違いだ。
>>23
>馬のアブミが日本に渡って来たのは紀元5世紀頃とされている
Y本あたりが鬼首モノで書いてるネタだなw
鐙にも目的として二種類あって
1)馬の背に乗るための足がかり
2)乗馬中の姿勢保持もできるもの
前者は紀元前に既に紀元前5世紀頃の古代インドにあった
>紀元前5世紀頃の古代インドで発明された物に、繊維製や革製の鞍の前方からぶら下げた2本のロープの先を輪っか状に結び、
>真っ直ぐ前へ伸ばした足の親指を引っ掛け楽な状態を維持する物があった[1][2][3]が、騎乗時の保持を目的とした物ではなく現在使われている鐙と直接の繋がりは無い。
>他にも中西部アジアの遊牧民族のサルマタイ人が片鐙を取り付けて馬の背に乗る時の補助として使用した
じゃあ目の前の馬に乗るのに一々飛び乗るのかとw
後者の登場でやっと三国志(演義)に出てくるような張飛や関羽と言った豪傑が
馬上で何合も剣や槍を打ち合うアクションが可能になったとw
箸墓で出たものが単なる足がかりなら何ら矛盾はない 「クラウドファンディング」だと
「御寄進」と言えんか
だいたい、ヤマタイじゃなくてヤマトと読むんだよ。
ヤマト国の時代、倭国の中心は間違いなく九州だ。
日向から東征して吉備国その他征服して大和に熊野灘側から上陸したって書いてあるだろ。
魏志倭人伝の順路に倭の五王の一つである吉備が言及されていないのは決定的だな。
そのまま読むと九州南部の海上に出るが、あいつらの史書の数字はテキトーだから無視していい。
日本の学界は低能揃いだから西都原をロクに調べもしない。バカ揃いだ。
魏志倭人伝の写本は全て邪馬壹国(やまいこく)、若しくは、邪馬壱国(やまいこく)、
邪馬一国(やまいこく)。
旧唐書でもわざわざ「やまいこく」と注釈がある。
邪馬台国(やまとこく)と言うのは江戸時代の国学者が
勝手に当てた漢字。
このスレ見て本屋行ったら、歴史REALで邪馬台国についてやってて、買ってきた
なかなか決着つけづらい問題だね
>>62
嘘を広めてるのは畿内説を唱えてる似非学会の似非学者。 大和の字をあててヤマトと読むのは、
倭国の大王=大和=邪馬台国ということ。
こんな簡単なこともわからんのかバカどもめ。
邪馬台国がどこにあったかは意見が分かれるとして、大和朝廷の前身だったと言う共通認識で良いの
>>61
西都原は斉殿原だったのが江戸時代に変わったもの
都でもなんでもないので注意
宇佐神宮の領地があったのでそういうことをする
ついでにコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>55
まあここで纏向をこき下ろしてる九州説のゴミクズと違って
古代史好きな素人としては吉野ケ里にも頑張って欲しいが
そもそも弥生集落のデフォが環濠集落ではないし
吉野ケ里をモデルにして作られた集落発展のプロセスのモデルも
もう古くなってるし・・・
中々前途は厳しいだろうね 吉野ヶ里遺跡も邪馬台国関係の展示があったな。
吉野ヶ里は邪馬台国じゃないってことでほぼ確定しているらしいが。
>>55
吉野ヶ里は倭人伝では傍国の中の一つだな。 古墳の規模や数からして
卑弥呼の墓の可能性があるところなんて、絞られてくるだろつ
日向の浜から東征して宇佐長門吉備難波から紀伊半島迂回して、
熊野灘方面から土民の背後をついて上陸征服してダイワ王権=ヤマト(邪馬台)国王権成立。
だいたい、ヤマトの故地が日向付近なのは史書に明記してある。
畿内が故地ならば、わざわざ全く関係のない遠い日向から東征したなどという記述は不自然過ぎるので、
東征は間違いなく100%史実。日本の歴史学者はバカ揃いだからそれがわからないバカ。
>>70
あのへんのムックは広告主の意見に左右されることを忘れないように >>80
傍国の中の一つだから邪馬台国を構成する国邑ではある。 >>80
もともとキャッチコピー(笑)が
「吉野ケ里の楼閣から邪馬台国が見える」
だったからな
ブーム当時でも吉野ケ里=邪馬台国なんて考えてた学者は殆どいなかったと思うよw 邪馬台(ヤマト)国は九州を平定した後、
本拠地日向の浜から発進して九州東岸から瀬戸内海に至り、
難波に入ると土民の抵抗にあったので地元協力者の意見に従い、
熊野方面に回り込み上陸して土民の背面を突いて一気に平定して遷都してヤマト王権を誕生させました。
こういうふうに教科書に記載しろバカども。
>>86
邪馬台国は北部九州全体だから「吉野ケ里の楼閣から邪馬台国が見える」 は事実だった。 熊襲土人が大和民族自称するのやめていただけますか?
>>90
神武東征は6世紀
巨大古墳を築いていた豪族を九州からきた神武が征服した。 景行天皇が都から熊襲征伐で西へいき
日向と名づけた
日本の風俗は長らく西南日本起源であったのも九州起源説を補完する疑いのない証拠だ。
隼人舞などを見ればわかるようにヤマトは隼人との関係も深い。
吉野ヶ里は1回行ったが、テーマパークとしては素晴らしいよな。
ディズニーランドといっしょで、公園の中からは周囲のビルなどが
見えない(まあ、佐賀だしw)。本当に弥生時代のムラに居るような気に
なってくるのだ。USJのコピーじゃないけど、「弥生まみれの1日」が過ごせる。
垂仁天皇の次の代の景行天皇が
狗奴国(熊襲)を血祭りにあげてる
その景行天皇が西へいって
土人を血祭りにあげてるワケ
土人ぶっころしに宮崎までいって
景行天皇が日向と名付けまでしてるワケ
コタエはでてるに
知恵遅れたちはいつまでやってんの?
吉野ヶ里は発掘した人が一番わかってるだろ
そっ閉じしたくらいだからな
>天孫降臨
>神武東征
神話です
天孫降臨は布に包まれた主神の孫に当たる赤子が天上から降るしそ神話が
(最近何かと話題のw)モンゴルにあり
東征神話も同じプロットのものが半島にある
何より纏向遺跡がヤマト王権誕生の遺跡なら場所的に記紀では崇神垂仁の代であって
やはり欠史八代や神武は創作という話にならざるを得ない
金印は
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
の時代のものと推定されてる
狗奴国(熊襲)を血祭りにあげたのが
垂仁天皇の次の代の景行天皇
ここまで状況証拠が揃ってる
で、卑弥呼は垂仁天皇の時代の
伊勢神宮の巫女
もう畿内しかないワケ
>>77
西郷が長州と手を組んだのは菊池の血を引く後醍醐天皇の子孫に
戻したかったからと言われる
後醍醐天皇の子孫は毛利家が守り血を繋いでいた >>59
いや、九州邪馬台国説だと中国由来か縄文由来になるじゃん
畿内邪馬台国説が朝鮮由来になる 神武が旅立った日向は宮崎県じゃなくて福岡県の日向峠付近のことだな。
大和朝廷がすでに北九州を支配してたら
なんの矛盾もない
むしろ大和朝廷がすでに北九州を支配してないとおかしい
当時すでに大和朝廷は任那(半島)まで勢力を広げてるからな
半島で出土する弥生式土器や前方後円墳は
その証拠
歴史のこたわからんが、漢字勉強してる身から一言
『魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』に「邪馬臺(台)國」の表記があるんだけど、「臺」は古代中国語音では「ト」の音
「臺」と「台」は古代中国語音では同じ「ト」であったため、後々代用されるようになる
他にも、「苔」などが万葉仮名で「ト」に用いられた
万葉仮名では、二音節の「タイ」(台・苔)や「トウ」(等)「トク」(得)などを一音節の「ト」で用いるのが慣用だそうだ
つまり、当時から「邪馬台」は「ヤマト」と読んでいた
どう考えても古代日本の中央集権都市は畿内にあったことを疑う余地はないよね
天照皇大神宮をみれば分かる通り
すでに西暦200年頃には
大和朝廷が北九州を勢力の版図入れてたのは明らかだからな
西都原古墳群、ロクに調査されてないからな。わざとかもしれんが。
いずれにしろ、邪馬台(ヤマト)国は九州以外ありえん。
東端にあり最期の強敵であった畿内の倭人を平定して倭国統一は成った。
尾張よりも東側は当時異民族の土地なので、当時の倭国としては無視していい。
>>94
その傍若無人なジェノサイダー景行ですら敬意を抱いて
手を出さなかった女神が、八女の山中にいた。 ヤマト王権誕生は701年です
先祖の神武は6世紀に大和地方に入植し
欠史八代を経て日本の政権を握ったのです。
考古学者の北條芳隆(ほうじょうよしたか)氏(現、東海大学教授)はのべる。
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている……
近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが、邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、
遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、
がけっ縁(ぷち)まで追いつめられている。」
北條氏は、ここで、「邪馬台国畿内説が調査の大前提」とのべる。
それは、炭素14年代測定法や、年輪年代法などによる、本来、
自然科学的で、客観的なデータや結果でさえ、「邪馬台国畿内説」を前提とし、
その前提にとって、つごうのよい部分だけをひろいだす、あるいは、強調する、
ということになりがちとなっている。
事実をそのままの形で見ていない。そして、そのような「解釈」をマスコミに流し、
マスコミがとりあげれば、それで、証明ができたと思いこむ。
このような構造となっている。
>>62
学会なんて誰も相手にしてない
社民党みたいなもん まあ偽僭説もとるなら邪馬台国が九州にあった可能性を排除できないが
「あった」ということを証明する義務を負うのはそれを主張する側
「なかった」という証明なんかできないのだから
てかいい加減
「九州の何処が邪馬台国なのか?」
絞れよアホどもwww
天の岩戸伝説は卑弥呼(日御子)が亡くなるときに台与に権力を委譲したことを表している。
248年9月5日朝に皆既日食が起こった。
そしてその日食が見られたのは北九州だけ。
つまりその事実が判明した時点で邪馬台国はとっくに北九州と判明してるんだよ。
だから桜井市なんてどうでもいい。
「東征して故地九州からここに来ました」を正史にしている意味を軽視し過ぎ。それが間違い。
>>114
伊都国に卑弥呼の都が在り北部九州一円が邪馬台国ですよ。 祀りごと女王が統治した痕跡はあっても
政(まつりごと)で女王が統治した痕跡は
畿内からもでてくることはない
少なくとも九州からは
どっちもでてくることはない
>>104
違う
宮崎の美々津港というのははっきりしている
岩と岩の間を通って言って二度と返ってこなかったから
美々津港の漁師さん達は今も岩の間を通らない >>59
それ歴史的思考じゃないでしょ
韓国人否定しといてやろうとしてることが韓国人と一緒とか一番あざといよね やめな。
邪馬台国は徳島で決まりだ。
天皇家だけが昔から存続してる家というわけではない。
当事者の子孫がいるし、場所や本当の歴史が分からないわけないから。
だいたい、ゴッドハンドを長年鵜呑みにしていたような学会の言うことなんて全く信用ならんわ。
古事記と日本書記の方がまだマシだ。w
まず、『魏志』倭人伝に記されている事物で、
考古学的に検証できるものは圧倒的に北九州のほうが多く出土している。
福岡県と奈良県との出土品の数を比較すると、鉄の鏃(やじり)、
鉄の刀、剣、矛、絹、魏晋鏡、勾玉、いずれをとっても福岡県のほうが圧倒的に多い。
例えば、『魏志』倭人伝には、倭人は「鉄の鏃」を用いたと記しているが、
福岡県からは奈良県よりも、100倍近くもの「鉄の鏃」が出土している。
また『魏志』倭人伝は、倭人の墓制について「棺(かん)あって槨(かく)なし」
と記す。槨とは、棺の外箱のことであり、北九州の甕棺(かめかん)や箱式石棺は、
この「棺あって槨なし」に合致する。
しかし、例えば、奈良県のホケノ山古墳の場合、棺のほかに木槨があって、
『魏志』倭人伝の記述とは合致しない。
はるか東の海には ジパングと呼ばれる黄金の国があるという。
一億人もいるんだから一人ぐらい当時の事知ってる人いてるでしょ〜
邪馬台国九州説は破綻している
候補地すら定位されていないくらい曖昧、妄想
巻向、箸墓などの方がずっと説得力がある
大和朝廷が北九州を版図に治めてからも
大和朝廷と北九州の一部の豪族と争いもおきてる
北九州の豪族(チョンコもどきの土人)は新羅との関係が深かったからな
一方、大和朝廷は百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で北九州の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのもある
>>118
ヨタはどうでも良いから九州説同士でコロシア・・・ゴホゴホ、意見の集約をして下さい
邪馬台国ブームから数えて一体何十年経ったと思ってるんですか?(棒 史書にはっきりと「邪馬台(ヤマト)国ですが、九州から来ました」って書いてあるだろ。
それで話は終わりだよ。バーカ。w
方位については、馬鹿学界なんて無関係なところで、魏志が正しいと論証されてるから、畿内はないわ
九州のどこか
>>107
文字も無い畿内に古代日本の中央集権都市があったはずないよw >>112
ほー、勇気ある考古学者もいるんだなあ
その後悪の勢力どもに冷や飯食わされてないといいが 邪馬台国の位置は中国の歴史書にはっきり書かれている。
その場所は今では完全なる海。巨大な火山で沈んだ説が有力かと。
おそらくそこは伝説の竜宮城もあるかもしれん。
>>130
わかってないなあ。
サッカーの故郷イギリスでは、今も各地方ごとに代表チームが存在する。
九州もそういうことなのだ。うんうん。 半島では
日本の様式の弥生式土器の出土、日本独自の前方後円墳が次々発見されてるからな
いまどき任那府がないとかいってるのは
このスレにいる頭悪いのぐらいしかいない
北九州の豪族は新羅との関係が深かった
一方、大和朝廷は百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で北九州の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのもある
ちなみに大和朝廷による熊襲土人地域(狗奴国)の平定は
隼人の反乱まで終結してない
それまで大和朝廷は土人どもを
夷人雑類として扱っていた
わかった?
邪馬台国論争で何故か無視されること。
対馬から壱岐に向かう文において、方位は魏書は南で隋書は東である。
因みに現代の地図では対馬から見て壱岐は東南方向だ。
また、隋書では竹斯國から秦王國(周防国)へ行く方位も東である。このように方位の記述はかなり主観的だ。
三国志魏書倭人条
http://web.archive.org/web/20160421073654/http://members3.jcom.home.ne.jp:80/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
(前略)到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國(中略)又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國(後略)
隋書倭国伝
http://web.archive.org/web/20160423052423/http://members3.jcom.home.ne.jp:80/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
(前略)明年、上遣文林郎裴清使於倭國(中略)經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國(後略) 畿内説は相手にするだけ時間の無駄
煽りにすらならへんわ
>>129
渡来人の支配
「百済本紀」
*397年夏5月・・・百済王は倭と友好を結び太子の典支(てんし)を人質に出す。
*402年5月・・・倭に使者を派遣し大きな珠を求めた。
*403年春2月・・・倭国から使者がやってきたので、王は超低姿勢で彼を迎え慰労し厚く遇した。
*405年・・・太子の典支(てんし)が倭国で父王の死の知らせを聞き、泣きじゃくって帰国を請う。
うるさいので兵士100人をつけて送り帰した。
*418年夏・・・倭国に白綿10反を貢いだ。 当時の倭国は九州中心で、東端は近畿。
日向の浜を出発した後、九州東岸を北上、
瀬戸内海を東に進軍して熊野灘から背後を突いて倭国統一。
そのまま居座って大和と書いてヤマト(邪馬台)と読ませる王権の大王になった。
この話はこれで終わり。解散。
九州説を更に腐らせてるのが
「東遷説」と「九州王朝説」
この2つが邪馬台国ブームが生み出した古代史の2大ガン細胞
候補地すらない
邪馬台国の定位すらできない九州説www
ただの妄想の域をでない。稚拙すぎる
纒向遺跡で決まりだろう
美濃でセックスしまくってた景行天皇が
貢ぎ物よこして恭順しない熊襲土人を
ぶち殺しにいってるからな
コレが事実
出土したものはそのまま保存のみをして
その上からARとかで表示とかでいいんじゃないかな
西南日本の習俗が畿内に持ち込まれているので間違いなく九州起源。
畿内説は魏志倭人伝の恣意的な誤訳によるもの
正しく読めば卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
景行天皇の先代の垂仁天皇が九州にいたとか
普通にアリエナイからな
景行天皇は美濃でセックスしまくってるのに
卑弥呼は垂仁天皇の時代のミコなのは明白
中国の史書の方位と距離はエー加減なので無視。
出てくる地名だけに注目しよう。間違いなく九州だな。
九州自体が
イニシエの時代から物騒な場所だからな
熊襲とか蝦夷は粗野で野蛮だからしょうがない
>>119
確かにね。
伊勢遺跡何かは、政事の遺跡だな。
倭国大乱前の倭国が男王だった時代とも被る。
卑弥呼は鬼道にて衆を惑わすとあり、祭事。
纒向遺跡は、居館エリア以外は正に庶民の集落跡。 取り敢えず九州説は妄想や畿内説の批判否定するだけじゃなくて、
きちんと邪馬台国の候補地、定位を示してから主張すべし
否定と妄想だけで話にならんわ❗
子供の戯れ言じゃねーんだからよ❗
本当にくそすぎるわ
昔、デジタルデビル物語 女神転生ってアニメで、ナカジマとロキが奈良県桜井市で戦ってたから畿内だろ
>>151
倭人伝では方位も距離も正確に記載されている
正しく読めば卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。 >>138
渡来人の支配
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。 >>148
興味深い
九州から畿内に東征して支配したにしちゃ、地名くらいしか残ったもんが無いのが疑問だった
顔も縄文系の九州人と違って薄いブサイク朝鮮人顔だしさ >>149
>正しく読めば
九州説の常套句
曰く・・・
「正しく読めば」
「素直に読んだら」
一体九州説に行程記事の解釈が何パターンあるやらw 卑弥呼より前の時代に
任那へ倭人が侵攻してないとかいってるのは
はっきりいってこのスレにいる知恵遅れしかいない
朝鮮出兵するなら、確実に北九州を版図に治めてないと
説明がつかない
ちなみに半島では
日本の様式の弥生式土器の出土、日本独自の前方後円墳が次々発見されてる
そしてチョンコどもが発狂してる
大和朝廷が支配してた名残といっていい
コレを否定できるヤツはいないワケ
魏志倭人伝と古事記と日本書記を読めば、
邪馬台(ヤマト)国は九州起源で畿内を征服して倭国統一、
大和と読んでヤマト(邪馬台)と読ませる大和王権成立以外にあり得ない。
当時の畿内はその後1000年以上の間の関東と同じ立ち位置だな。
倭国大乱と書いてあるが、その後忽然と邪馬台国が消える
何があったか知りたいなあ
怡土国からは頭蓋骨に傷がある骨とかたくさん出てくる
しかも縄文人
東海 54,400 ← 大和朝廷の版図内(美濃でセックスしまってるのが証拠)
畿内 30,200 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
畿内周辺 70,300 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
山陰 17,700
山陽 48,900 ← 大和朝廷の版図(九州北部まで行軍してるから当然)
北九州 40,500 ← 大和朝廷の版図(九州北部まで行軍してるから当然)
南九州 64,600 ← 大和朝廷の版図外(班田収受で隼人の乱がおきて鎮圧するまで放置)
北九州だけの人口=チンカス
纒向遺跡
箸墓古墳
畿内説の方が優位だろ
九州説はどこの遺跡、古墳なのかきちんとまず主張しろ
僕の名推理じゃなくてよ
ひょっとして、史実とは関係なく、政治的か経済的かの理由で奈良に邪馬台国を誘致する運動が暗黙裡かつ公然と行われいてる感じ?w
>>111
それが史実と一番合うよね
歴史家ならそういう思考をするはずだけど、近畿の人の変なプライドが入って初めから強大な国家だとしようとしてるけど7世紀までは、大和の方が九州の分家で立場としてはまだ弱かったと思うよ
その証拠としては、年号を付ける権限は7世紀になってから大和政権が持つようになったからね >>159
九州説でも畿内説の誤訳に誘導されて変な解釈してたな
読めてしまったら何のことはない
卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。 >>162 渡来人の支配
【三国史記】脱解尼師今が立った、一説に吐解という。時に年六十二歳、姓は昔。
妃は阿孝夫人。脱解は、本来は多婆那国で生まれた。
その国は倭国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国の王女を
娶って妻とした。
懐妊から七年、大きな卵を産んだ。王が言うには「人にして卵を生む
のは不祥である。適当に廃棄せよ」。その王女は忍び難く、絹布に卵を
包み、宝物と一緒に棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、その行く
先を(潮流に)任せた。
【解説】多婆那国ですが、実在する国と考えた場合、倭国の東北一千里ですから、
日本列島以外に想定できません。具体的には、丹波国が有力です。
8世紀に丹波国は丹波と丹後に分割されます。
卵や棺(ひつぎ)は当然、「船」を意味します。卵生・箱舟神話です。
三国遺事には「船」と明記されています
以上のように、新羅の第四代王の昔脱解は、倭国の丹波(現在の丹後半島)から出航し、
対馬島を経由し、金官国への侵入に失敗した後、慶州に至り、倭人大臣から城を奪い、
ここで新羅王に成った日本人でした。
新羅は日本に人質を送っていただけで無く王自体が日本人 オレの頭皮もクラウドファンヂングで整備したいわ・・・
夷人雑類(熊襲土人等)の野蛮な地域
朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
で、当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる
>>156
伝聞だし、元になった資料の正確性も判らんだろ。
陳寿が実際に検証したわけでもない。 纏向は明確に4世紀の遺跡であり初期ヤマトの中心地です
これを邪馬台国と言い張ってる奴らは研究費目当てに
確信犯的に嘘を言っています
大倭(和)政権は九州邪馬台(ヤマト)国による統一政権。
東征ルートその他詳細に記載されており、
これにケチをつけてうにゃうにゃやるのは時間の無駄。
北九州は卑弥呼がマツリゴトする倭国の従属国であった
可能性が高い
>>175
畿内説だと倭人伝を無視しないと成り立たないからね
張政とか倭に来て直に卑弥呼に合った人の報告が基になってるから
大きな間違いはないよ。 >>169
>近畿の人の変なプライド
反日朝鮮人のプライドだろ
彼らにとって邪馬台国=大和朝廷でなければならない
大和朝廷が朝貢していた事にしたいからね 平成で解明できなかったが
次の元号内で解明されるのだろうか
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
日本には畿内以外の野蛮な地域が一杯あったからな
東征した理由は、おそらく大陸半島側から距離のある瀬戸内海最奥の地が良かったからだろう。
九州統一が済んでいたこともあり、残りの倭(和)人エリア統一もついでに、ということだろう。
元寇の時にも、山陽道には対大陸用の砦がいくつも造られている。
大陸からの侵攻に備える&倭国統一。それで東進遷都。この話はこれで全て終わったな。
>>1
たった900万ぽっち!
国会議員1人が文通費という毎月100万円も報告や領収書やが不要な金がもらえるのに!!! 邪馬台国がどこか、卑弥呼が誰かなんて探しても意味ないんだよ。
明の時代に、日本の戦国時代の話を伝聞で書いた中国の歴史書ですらも、
全然性格じゃない。
まあ、三世紀末に奈良に日本最大の豪族連合勢力があった、それだけでいいんだよ。
>>176
纒向遺跡は2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失する遺跡です。
嘘はダメだな。 卑弥呼の墓のサイズ、規模くらいは分かっているだろ
死ぬまで女王だったので、墓のある場所が邪馬台国なわけだ
それくらい分かるだろ
九州説はどこの古墳が卑弥呼の墓と説明しているのだ?
宮崎平野である可能性は70%。その他の九州のどこかである可能性30%。
ちなみに近畿である可能性は0%。
>>186
東征の理由は津波
神武東征の年代と津波がきた時期が合致する
またそろそろ津波がくる予感 >>191
そんな大昔の説は迷惑だな
伊都国が卑弥呼の都で解明されたんだよ
宮崎辺りは狗奴国。 卑弥呼の墓はですね、九州のどこかにあります。
それをこれから調べましょうという話だ。学会のバカ以外で。
>>183
畿内は倭人の集積地です。
倭人は渡来人だが、中国南部からでしょうね。 >>194
宮崎平野である可能性は0%
近畿である可能性も0% >>197
その辺の細部は後で調べればいいだろ。
九州内で移動してる可能性も高い。
畿内に遷移してからもコロコロ遷都してるしな。 >>198
平原遺跡とか糸島市付近であることは確実だな。 まあ、たぶん西都原の中のどれかだろな。
もしかしたら、古墳の上に古墳があるかもしれん。
古い古墳の上に古墳といこともあるかもしれんよ。
>>120
宮崎が言ってんのは江戸時代5つの藩に分かれてまとまりのない県をまとめるためだよ
言い伝えも歴史がないしあてにならない
だから宮内庁も日向三代の墓を鹿児島に比定している
まぁ鹿児島の墓も古代からの隼人の地ではなく熊襲の地にしているから信用出来ないと思うけど >>183
>反日朝鮮人のプライドだろ
それを言うなら九州説だろうなw
朝鮮人にとってはヤマト王権の誕生は遅ければ遅いほど良いわけでwww
ちなみに「九州王朝説」の古田の初期作品は
朝日新聞社から出てるw
『邪馬台国はなかった−解読された倭人伝の謎−』(1971年、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫に収録)
『失われた九州王朝−天皇家以前の古代史−』(1973年、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫に収録)
『盗まれた神話−記・紀の秘密−』(1975年、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫に収録)
『邪馬壹国の論理−古代に真実を求めて−』(1973年、朝日新聞社)
『邪馬一国への道標』(1978年5月18日、角川文庫)
『ここに古代王朝ありき - 邪馬一国の考古学−』(1979年、朝日新聞社) 登記簿謄本のある日本で
今から、九州で卑弥呼の墓のサイズの古墳探します。まだ見つかってませんとかwww
笑わせんな
3世紀まで銅鐸文明だった畿内が北部九州の銅矛文明に
滅ぼされたのは確実だろうな。
畿内の象徴的な祭器である銅鐸は記紀に全く登場しないが、
北部九州の祭器である鏡や銅鐸は記紀でも象徴的なものとして
記されている。
まあ、常識的に考えて、本拠地から発進するだろ。宮崎が筆頭候補だ。
ジャップってほんと土人だよなwww
かつて国の中心であった場所が記録に残ってないとかありえないんだけどwwww
>>202
魏国からおくられた一大卒がいたのだから怡土国で間違いないよ
一大卒は今でいうアメリカ大使館の大使 本気でロマンを探求する気があるならクラウドファンディングで金は集まるだろうな
でも金を集めるだけ集めて期待を裏切った時は大変だぞ
>>208
渡来人の支配
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期〜後期(5〜6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。 >>4 >>36
「隋書」倭国伝では、その冒頭で倭国の都を邪靡堆と呼び、「魏志」の邪馬台であると言っている。 宮崎でも鹿児島でもいいよ、とにかくその辺だその辺。
日向の浜から発進するためにはその付近だ。その辺りを徹底的に調べよう。
すでに支配してる地域に
鉄製の武器があってもなにもおかしくない
そこの南には熊襲土人もいるし
海わたって朝鮮しばきにもいってるんだからな
夷人雑類がうごめくそういう場所
大和朝廷は恭順しない公民以外は皆殺しにしてる
>>210
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので仕事をしないで
呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。
ようするに、治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れているが、
朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。また、痰を吐くときは口の近くに壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、家の中の物が水に浸るが、
洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 朝廷では同じ扱いだからな
肥後、薩摩、大隅は
熊襲が住む夷人雑類地域
やはり馬だな。古墳時代と言うが、
もっと前だと思う。在来馬が生息地域。
馬(コマ)となると、九州、愛媛の範囲。
>>203
九州説ほど浪費という言葉が似合う物も無いな
月に向かって何十年も吠え続けているようなもんだ
他の事に向ければ良いだろうに 神話でもヤマトタケルノミコトが熊襲征伐してる
九州説とかいってるヤツは無教養なアホしかいないわ
>>174
でもその前から隼人族は宮中に使えていたんだよ
阿多隼人と大隅隼人 まあ、畿内起源は絶対にありえんわ。
征服された後、混ざったのを混同しているだけ。
本当の大和人は西南日本の形質を色濃く残している。
伊都国の説明に「世有王 皆統屬女王國」とあるが、これは
魏の世に王(伊都国に)がいた、倭の国々は皆、女王國に統屬いていた
の意味。
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」は
自女王國以北には特に一大率を置き 諸國を檢察させている 諸國は之を畏れ憚っている
(女王卑弥呼は)常に伊都國で(自女王國以北を一大率を使い)治めている
の意味
つまり伊都国で卑弥呼が女王國を治めている。
斑鳩、飛鳥、大和と奈良県に集中しているのに、邪馬台国が九州ってのはおかしい
開発しちゃいけない地獄を知らんくせに美味しいところだけ持っていこうとするなよ九州人よ
>>225
だから、九州の邪馬台国を侵略し
それをオロチ退治にしたかもしれないな? 次の代の景行天皇が熊襲討伐にいってるからな
北部九州はすでに大和朝廷が征服してたとみるのが妥当
なんかさ、日本の公的機関って、クラウドファンディングとかボランティアってものを良く理解してないよな。
自分たちは高給取りなくせに、一般市民にはタダ働きとか平気で要求するんだよな。
遺跡の保存があって開発できないとか
確かに地獄かも
>>217
>「隋書」倭国伝では、その冒頭で倭国の都を邪靡堆と呼び、「魏志」の邪馬台であると言っている
「中国史書ウソ付かない(だから方角は南と言ったら南!)」という主張をするなら
その隋書の邪靡堆も九州の何処かでなければならないわけw
3世紀どころか7世紀にすら中国と通行を結ぶのが九州なんて
そりゃ九州王朝説
まあ年表に(奈良時代や鎌倉時代と違い)「九州時代」「筑紫時代」なんてないものがない
九州人の僻みかな?
まあ九州人でなくとも自己のコンプを投影したアホの僻みかもしれんがw >>208
荒神谷遺跡をはじめ銅鐸と銅矛が出土する遺跡が増えているようだが、その手の文化圏は本当にあるのか? >>231
熊襲は狗奴国で南九州だな
北部九州が九州倭国。 邪馬台国があったなかったとか関係ないわ
中国の使節がどこにこようが関係ないしな
北九州地域はすでに大和朝廷の支配下にあった
それだけのことだからな
中国の使節が北九州に到着しても大和朝廷の支配地域
中国の使節が大和に到着してもそこは大和
邪馬台国があってもなくても大和朝廷は北九州までを支配地域にしてた
それだけのことだからな
>>235
この前書店で本読んだら博多時代と命名してる人がいたなw >>187
北九州説だと思うけど
解明に至ってないでしょ
邪馬台国とは別だけど
天皇の染色体、ハプロタイプ調べて欲しいわ
髪の毛拾ってこっそりできないのかな >>238
北九州地域が大和朝廷の支配下に入ったのは8世紀以降だな。 魏志倭人伝には
> 南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。
とある
古事記の景行天皇による熊襲討伐で記述されてるとおり
耳垂は御木にいる
つまり投馬国は御木
いまの福岡県三池郡あたりと比定できる
この部分についてはほぼ間違いない
隼人族に関することなら次の本が読みやすいぞ
明治以降の宮崎県の神話の国キャンペーンも詳しく書いている
中村明蔵「隼人異聞史話: 縁の下の古代史」
西インド諸島と同じ
中国の使節が大和に到着してないのに
そこを大和だと思っただけ
で、到着した場所が
大和朝廷に恭順する諸国の一つだった
コレですべて辻褄があうわ
倭人伝の正しい訳の一部
伊都国の説明に「世有王 皆統屬女王國」とあるが、これは
魏の世に王(伊都国に)がいた、倭の国々は皆、女王國に統屬いていた
の意味。
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」は
自女王國以北には特に一大率を置き 諸國を檢察させている 諸國は之を畏れ憚っている
(女王卑弥呼は)常に伊都國で(自女王國以北を一大率を使い)治めている
の意味。
つまり伊都国で卑弥呼が女王國を治めていた。
前聞いた少数意見の邪馬台国は沖縄説も一里あるような
博物館で見たその頃の倭国の倭人の風貌は縄文人だし
顔や体に刺青?みたいなのしてたし
これは南国によくあるとか?
となると沖縄じゃなくてもほど近い九州説のが
畿内説よりはやはり有力になるのかなあ
畿内説を否定するワケではないが
>>227
伊都博物館に行った時に学芸員さんが
本当の日本人は琉球と東北蝦夷と熊襲と言ってたなぁ
東北蝦夷って結局東日本も入るのだろ?
じゃあ関西を中心とした西日本人は何なんだw >>235
間違いはあるだろ
ただ三國志から400年近く後の隋の時代でも
邪馬台国とは大和国の事だと認識されてるって事だけだ >>243
間違いだよ
投馬国の水行二十日は帯方郡から
投馬国は朝鮮半島南岸の地域。 纒向遺跡だったら、女王国の東に千餘里の海が広がっているはずだが東には海はないし、
方角が90度反時計回りだと主張どおりだとしても北にも海はないし、魏志倭人伝が間違っているということ?
何でも有になっちゃうじゃん。古代史をやっている連中は、宮内庁が発掘を許可しないということもあるが
真実を議論して明らかにしようとする態度に欠けるから進歩がないんだよ。
桜井・天理の人間でも邪馬台国があったなんて考えてる奴はごく少数派や
郷土愛でもそんなこと本気でいいだしたら笑われるぞ
おらぁ、邪馬台国は沖縄か台湾だと思うんだよなぁ
習俗的に考えて九州や本州じゃないでしょう
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
↓
伊勢初代斎宮 倭姫命(ヒミコ)
コタエはでてる
女王国なんかない
女王国とか激しい妄想
>>252
クナ国東海地方説がある
東海道とは奈良から見た伊勢湾越えルートだしな >>250
>間違いはあるだろ
ダブスタ
だったら魏志倭人伝にも間違いはあるだろうって話になる >>252
水行の一部は琵琶湖 という説も無くはない
これだと東の海になる >>185
その時代だと畿内も野蛮の部類だと思うぜー >>259
魏志倭人伝にも間違いはあるだろうも
隋書に間違いはあるだろも
畿内説の人ですよ 畿内説はわざと魏志倭人伝を誤読して
魏志倭人伝は意味が分からない間違いだらけだと言ってるね。
>>256
> クナ国東海地方説がある
そんなアホな主張してるの、アホの畿内派の中でもさらにアホの少数だけだろ
ドン引きするわ、邪馬台国欲しさに狗奴国を適当に東海だの群馬だのに当てはめるんだからな >>265
邪馬台国に関しては魏志倭人伝以外にないのよ >>252
また嘘をつく。
女王国の東に海だ。
何処にも邪馬台国の東とは書かれていない。
九州説は、嘘ばかり。 ただみたいな土地に絵をかいて掘っておけば新しい遺跡のできあがり。
あとはクラウドファウンディングで騙して資金調達www
結局魏志倭人伝は単一史料
(厳密には先行史料はあるが殆ど役に立たず)
これを使おうとするなら史料批判は避けて通れないが
それをやったらあちこち切り捨てなきゃならない
が「暗号解読ゴッコ」でアームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)を気取る連中にとっては
自分の与太を組み立てる材料が減るのは我慢できないw
結局文献史学でもなければ考古学でもない
かつてメディア(出版業界)が作り上げた学問ともフィクションとも
区別の付かない似非学問の残滓が今の九州説
クナ国は、河内和泉&ヤマト。
2世紀末に伊勢と吉備にヤマトの地だけ先に征圧されたんたよ。
ヤマト国の南は河内と和泉。
>>217
索引作る目的の本やから、今あれへんで
畿内説は5周くらい遅れてる >>261
「中国からはるか遠くの大国」っていう前提で書かれただけなので、特に道程を精査しなくていいよ
司馬懿の功績を讃えるために作り出した出鱈目だから >>270
畿内説は全部デタラメ
一考にも値しない 邪馬台国や卑弥呼が登場する書物は魏志倭人伝以外にないよ
>>276
>一考にも値しない
考えなくて宜しいw
だから纏向遺跡のスレを見る必要もない
さようならwww >>270
それは畿内説も同じだっつうの。「論争」の正体は研究費目当てのプロレス。 >>1
教育委員会かよw
市からは捻出できなかったのか・・・。
厳しいもんだな、邪馬台国だろ? 奈良に西から入ったなら生駒山系を超えるけどな
結構高い山ですわ 魏志倭人伝にそんな記述はないだろ
絶対に記述から抜かす訳ないんだわ(と思う)
桜井市の教育委員会って超暇なんだね
そんなことは放っぽり出して本来の仕事をちゃんとやれ
天照皇大神宮みれば分かる通り
ヤマト朝廷は夷人雑類の熊襲しばくのにてこづってる
>>280
プロレス?
古田(九州王朝説)と安本(東遷説)のアレか?www こんな案件でクラウドファンド化か・・・
嫌な予感しかしないなw
ヤマタイ国がヤマトにあったとするなら、皇帝から下賜された絹布や
その織物がほとんど出土しない説明がつかない。
北九州からは多く出土しているにもかかわらずな。
>>206
渡来系の弥生人の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった >>206>>1
日本人のルーツは大雑把に分けて二つ
@寒冷地適応する前の縄文人
A寒冷地適応後の弥生人
九州説論者はいい加減諦めたら良いのに
もう勝ち目ないだろ
夷人雑類の熊襲が大和朝廷にさからってるのに
九州説とかわらっちゃうワケ
仲哀天皇の天照皇大神宮は
景行天皇よりずっとあとだからな
大和朝廷が熊襲土人をしばききれてないのに
熊襲土人がヤマトの首領とかないからな
ヒミコが熊襲土人の酋長なワケがない
まあ何れにせよ纏向を邪馬台国に絡めないほうが良いな
金印や封泥でもなきゃ邪馬台国の証拠にもならんし
日本という国家の誕生・黎明という重要な歴史的意義の前で
邪馬台国なんて客寄せパンダでしかない
でも、奈良って古都なんだが京都ほど華やかさにかけるというか。
ここで邪馬台国とか、ビッグなニュースになるぜ。
千葉のただの崖なんて目じゃないぜ。
>>72
神武東征譚によれば
畿内は土蜘蛛だらけで蝦夷までいるのですが… >>229
集積してるから邪馬台国とかと言うのは、歴史家の思考じゃないでしょ
美味しいとこだけ持ってくとかそういう思考自体がおかしいでしょ?
歴史は史実を求めるのであって、願望求め出したら韓国人とやってること一緒だよ 邪馬台国は、大和国。
卑弥呼は、日巫女。
これが本来の字だろ。
自国の国名や指導者が自ら、邪馬台国とか卑弥呼なんて、字をあてるわけねえだろ。
日本をバカにした中国が、邪な馬の国(暴れ馬)だとか、卑しい奴と呼ぶ(下層民)とか、女性支配者を貶めて記録したに違いない。
当時はベトナムあたりを南蛮と呼んだり、蔑んでたろ。
だから、ゆえ、邪馬台国は奈良の大和国に間違いない。
>>290
弥生時代の渡来人のルーツ、渡来時期は様々。
一括りにできない。
全く根拠ない。