0001ニライカナイφ ★
2017/09/10(日) 23:15:32.70ID:CAP_USER9■「ならない」と「できない」の違い
北朝鮮の地政学的リスクが少しは肌で感じられるようになったせいか、与党批判は少し鳴りを潜め、批判の矛先は野党に向かったかのような気がしないでもない。
しかし、それでも未だに「9条があれば戦争にならない」という意見もよく耳にする。
この「9条があれば戦争にならない」というのは、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」という言葉と同じようものだと揶揄されることがある。
世間一般の常識から考えると「施錠すれば泥棒は入ってこない」が正しいはずなので、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」というのはどこかおかしいことになる。
○「施錠すれば泥棒は入ってこない」
×「施錠しなければ泥棒は入ってこない」
「鍵をかければ泥棒は入ってこれない」、これは物理的に正しい。
では、「9条があれば戦争にならない」はどうだろうか?
9条というものは物理的なものではなく、観念的なものであるので、目に見えない効力でもない限り機能しない。
9条が『般若心経』のような経典であれば何かしらの効力があるかもしれないが、そういうものでもない。
となると、「9条に戦争を抑止する効力がある」という言葉は、どこから出てきたのか?という疑問が生じる。
現在の日本国憲法がGHQ製であることは広く知られている。
日本の想定外の戦力(士気)に恐れをなした戦勝国側が、2度と日本に戦争を起こさせないようにするために作られたものが、現在の日本国憲法であり、9条はその中心的な役割を持った条文だった。
戦勝国側の視点に立てば、「9条があれば戦争にならない」ではなく、「9条があれば戦争できない」というのが、本当の目的だった。
この「できない」が、いつの間にか「ならない」という言葉に置き換わってしまった。
戦勝国側ではなく戦敗国側の視点から見た言葉になってしまった。
戦争することを封じるための言葉が、戦争自体が無くなるという言葉に変化してしまったということになる。
(戦勝国側)「9条があれば戦争できない」
(戦敗国側)「9条があれば戦争にならない」
この2つの言葉には、大いなる言葉の歪曲がある。
■護憲派の精神構造
都会に住んでいる人は出かける時に施錠することは常識であり、自宅の中にいる時でさえ施錠するのが一般的だが、田舎に住んでいる人は、少し近所に出かける程度なら、わざわざ施錠しない人もいる。
田舎に住んでいる人が都会に出てくると、在宅中の人でも施錠していることにカルチャーショックを覚えることがあるらしい。
わざわざチャイムを鳴らさないと玄関ドアが開かないことに違和感を感じるらしい。
ある意味、その感覚が、護憲派と言われる人々の感覚なのかもしれない。
戦後70年間も牧歌的な田舎(日本)のような空間で暮らしてきたため、都会(他国)のようにコソ泥や詐欺師の被害に遭遇する危険性もなかった。
しかし現代では、日本にも多くの文化の違う外国人が訪れ、観光地に行けば、日本人よりも外国人の方が多いというような感じになっている。
外国人が悪いという意味ではないが、いつの間にか、牧歌的な日本は、都会の喧噪の中に呑み込まれてしまう時代を迎えてしまった。
周りを見れば、人が溢れ、その中にはコソ泥や詐欺師も混じっている。
そんな状況下で、いつまでも「施錠しなければ泥棒は入ってこない」などという暢気なことを言って、本当に施錠せずにいると、気付いた時には、家財用具一式、コソ泥被害に遭うということになってしまう。
その時になって、「なぜ、施錠していないのに泥棒が入ってきたのだ!」と憤っても後の祭りであり、その泥棒が自宅に侵入した理由は、他ならぬ、自分自身にある。
そして、その盗人被害は、真面目に施錠している人々にも及ぶということを知らねばならない。
http://blogos.com/article/245330/?p=1