韓国語は表記と発音が一致していると考えるが、必ずしもそうではない。「バス」「トンカツ」と書くが声に出して発音する時には「ポス」「トンカス」と言う。相当数の韓国人はそのような不一致を意識することもできない。
しかしある特定の単語に至り突然違和感を覚えてしまう。なぜ「チャジャン麺」という食べ物を「ジャジャン麺」と書けというのか、と。こんな時、国立国語院のような機関は袋叩きにされる。結局チャジャン麺は複数標準語になったが。
私もジャジャン麺とは何だ、チャジャン麺だろう、と不満を爆発させた人だった。だが国立国語院の説明に触れ不満のレベルは大幅に低くなった。外来語表記にはいくつかの原則があるが、その原則が「チャジャン麺」でぶつかり合った。国立国語院はその状況で自分たちがどのような価値を優先するのか忠実に説明し、賛成はしなかったがその決定を理解することはできた。
感染症の対応にもさまざまな原則があり、その原則は多くの地点で尖鋭に正面対決する。「値段が安くて質が良い物」のように、「徹底するが気楽な防疫」も最初から無理な要求だろう。当局の苦心も十分理解する。ジムで流せる音楽のテンポのような指針に対しても過度に突っ込みたくはない。
それにもかかわらず、疲労感が貯まりむずむずと違和感が上がってくる。もう私は以下の疑問に対して説明を聞きたい。しっかりとした説明を聞けばもう少し我慢できそうだ。原則を、哲学を聞きたい。理由を理解すればぱっと見では不条理に見える政策も、より開かれた気持ちで受け入れることができる。問題が解決されなくてもだ。
最初に、地下鉄は朝も夕方も人であふれているのになぜタクシーの乗客数は規制するのか。そして利用者がぽつりぽつり座ってモニターを見ているネットカフェがなぜ食堂よりさらに強く叩かれるのか。もしかして地下鉄と食堂には手を出すのが負担で、タクシーとネットカフェは与しやすいためではないのか。対象によって防疫ルールの強弱が変わると感じるのは私だけだろうか。
2番目に、なぜ数千万人に25万ウォンを支給するのか。25万人に数千万ウォンを支給すべきではないのか。いま人々が災害支援金を使えばコロナで被害を受けた業種ではなく恩恵を受けた業種にお金がさらに流れるのではないのか。被害業種を把握するのが難しいのか? 2年前の納税実績からすぐわかるのではないか。国が営業をできなくさせたカラオケ店と遊興酒店のオーナーには申し訳なくもないのか。
3番目に、この状況をなぜ「太く短く」解決すべきなのか。耐えるのが難しい人はあまりに多いが、太く短く終えようとして社会の一部分が折れたりつぶれたりするのではないのか。細く長く行くのがむしろましなのではないか。もしかして他の懸案は見ないままひたすら「感染者数を減らさなければならない」というドグマに閉じ込められたのではないのか。
感染症専門家らは自営業者の苦痛はやり過ごしやすく、経済専門家らは患者と医療陣の苦痛をどのように減らすべきかわからない。双方の苦痛はどちらも厳然とした実存のため、総体的苦痛を悩む「コントロールタワー」が必要だ。新たにできた防疫企画官がそうしたポストだと思ったが、ただの連絡官という。すると「太く短く」とは何を根拠にどこから出した戦略なのか。
昨年韓国で交通事故により死亡した人は3079人だ。その1件1件が胸の痛む悲劇だった。この死を防ぐ方法は簡単だ。自動車の運行を禁止すれば良い。しかしだれもそんな主張をしない。それによって払うことになる社会的代価がとても大きいためだ。
非情な算術だとののしることもできるだろう。私は苦痛の哲学だと呼びたい。昨年韓国で新型コロナウイルスにより死亡した人は917人だ。交通事故とは違いウイルスは感染する。もっと危険だ。しかしそれをどのラインで防ぐのかに対する厳酷な悩みは同じように必要だ。
喜びの哲学も必要だ。時にそれは衛生的に完全無欠な状態を意味しはしない。一時防疫当局が結婚式に親族だけ49人まで参加できるという指針を下した。世の中に友人を呼ばずに結婚式を挙げたい人がいるだろうか。満員の地下鉄が仕方ないならば、結婚式場に対してももっと寛大になるべきではないだろうか。
感染者が毎日数万人ずつ出ている英国で人々はマスクをはずし、欧州サッカー選手権大会を観覧した。それがうまくやったことなのかはわからない。しかし私たちの人生に結婚式の披露宴とサッカーは必ずなければならないと考える。コントロールタワーがどんな苦痛と喜びの哲学を持ってこの問題を考えているのか、説明を聞きたい。
チャン・ガンミョン小説家
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版 2021.08.04 11:32
https://s.japanese.joins.com/JArticle/281527
しかしある特定の単語に至り突然違和感を覚えてしまう。なぜ「チャジャン麺」という食べ物を「ジャジャン麺」と書けというのか、と。こんな時、国立国語院のような機関は袋叩きにされる。結局チャジャン麺は複数標準語になったが。
私もジャジャン麺とは何だ、チャジャン麺だろう、と不満を爆発させた人だった。だが国立国語院の説明に触れ不満のレベルは大幅に低くなった。外来語表記にはいくつかの原則があるが、その原則が「チャジャン麺」でぶつかり合った。国立国語院はその状況で自分たちがどのような価値を優先するのか忠実に説明し、賛成はしなかったがその決定を理解することはできた。
感染症の対応にもさまざまな原則があり、その原則は多くの地点で尖鋭に正面対決する。「値段が安くて質が良い物」のように、「徹底するが気楽な防疫」も最初から無理な要求だろう。当局の苦心も十分理解する。ジムで流せる音楽のテンポのような指針に対しても過度に突っ込みたくはない。
それにもかかわらず、疲労感が貯まりむずむずと違和感が上がってくる。もう私は以下の疑問に対して説明を聞きたい。しっかりとした説明を聞けばもう少し我慢できそうだ。原則を、哲学を聞きたい。理由を理解すればぱっと見では不条理に見える政策も、より開かれた気持ちで受け入れることができる。問題が解決されなくてもだ。
最初に、地下鉄は朝も夕方も人であふれているのになぜタクシーの乗客数は規制するのか。そして利用者がぽつりぽつり座ってモニターを見ているネットカフェがなぜ食堂よりさらに強く叩かれるのか。もしかして地下鉄と食堂には手を出すのが負担で、タクシーとネットカフェは与しやすいためではないのか。対象によって防疫ルールの強弱が変わると感じるのは私だけだろうか。
2番目に、なぜ数千万人に25万ウォンを支給するのか。25万人に数千万ウォンを支給すべきではないのか。いま人々が災害支援金を使えばコロナで被害を受けた業種ではなく恩恵を受けた業種にお金がさらに流れるのではないのか。被害業種を把握するのが難しいのか? 2年前の納税実績からすぐわかるのではないか。国が営業をできなくさせたカラオケ店と遊興酒店のオーナーには申し訳なくもないのか。
3番目に、この状況をなぜ「太く短く」解決すべきなのか。耐えるのが難しい人はあまりに多いが、太く短く終えようとして社会の一部分が折れたりつぶれたりするのではないのか。細く長く行くのがむしろましなのではないか。もしかして他の懸案は見ないままひたすら「感染者数を減らさなければならない」というドグマに閉じ込められたのではないのか。
感染症専門家らは自営業者の苦痛はやり過ごしやすく、経済専門家らは患者と医療陣の苦痛をどのように減らすべきかわからない。双方の苦痛はどちらも厳然とした実存のため、総体的苦痛を悩む「コントロールタワー」が必要だ。新たにできた防疫企画官がそうしたポストだと思ったが、ただの連絡官という。すると「太く短く」とは何を根拠にどこから出した戦略なのか。
昨年韓国で交通事故により死亡した人は3079人だ。その1件1件が胸の痛む悲劇だった。この死を防ぐ方法は簡単だ。自動車の運行を禁止すれば良い。しかしだれもそんな主張をしない。それによって払うことになる社会的代価がとても大きいためだ。
非情な算術だとののしることもできるだろう。私は苦痛の哲学だと呼びたい。昨年韓国で新型コロナウイルスにより死亡した人は917人だ。交通事故とは違いウイルスは感染する。もっと危険だ。しかしそれをどのラインで防ぐのかに対する厳酷な悩みは同じように必要だ。
喜びの哲学も必要だ。時にそれは衛生的に完全無欠な状態を意味しはしない。一時防疫当局が結婚式に親族だけ49人まで参加できるという指針を下した。世の中に友人を呼ばずに結婚式を挙げたい人がいるだろうか。満員の地下鉄が仕方ないならば、結婚式場に対してももっと寛大になるべきではないだろうか。
感染者が毎日数万人ずつ出ている英国で人々はマスクをはずし、欧州サッカー選手権大会を観覧した。それがうまくやったことなのかはわからない。しかし私たちの人生に結婚式の披露宴とサッカーは必ずなければならないと考える。コントロールタワーがどんな苦痛と喜びの哲学を持ってこの問題を考えているのか、説明を聞きたい。
チャン・ガンミョン小説家
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版 2021.08.04 11:32
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