先の大戦中、従軍看護師として旧満州に渡り、終戦後は中国共産党軍の看護師として徴用された東京都葛飾区南水元に住む横内芳江さん(93)。日本と中国が国交断絶した影響などもあり、約10年間、帰国がかなわなかった。日中国交正常化から今月で45年。両国民の命を救ってきた横内さんは「命の重みはみな同じ。今後も両国の友好関係が続くことを願っている」と訴える。(植木裕香子)
長野県出身で大正13年生まれ。満州事変に日中戦争…と生まれて間もない頃から「戦争」が身近にあった。だが、兵士として戦地に送られ、たたえられるのは男性ばかり。「女性でも軍隊に入ってお国のために役に立ちたい」と、15歳の時に従軍看護師になることを決めた。
看護学校を卒業後の昭和18年に赴任したのは、満州の「琿春(こんしゅん)陸軍病院」。主に、付近に駐屯中の兵士らが演習などで負傷した際の治療にあたった。
忙しいながらも充実した日々を送るなか、迎えた20年8月15日。日本の敗戦が決まると状況は一変する。
看護師長からは「ソ連が攻め込むかもしれない。いざという時に服用するように」と青酸カリを渡され、「死」を覚悟した。院内には旧ソ連兵が乱入し、天井に向けて発砲しながら次々と日本人から時計などを脅し取った。自身も、母親が織ってくれた着物を奪われた。日本兵がソ連兵に連行される姿も目にした。「あのままシベリアへ抑留されたのかもしれない」。
翌年、中国東北部の延吉の病院に移ると、亡くなった日本兵の死体の処理に明け暮れた。最初は遺体に白い着物を着せて棺の中に入れた。だが、数が増えると裸のまま防空壕(ごう)にほうり込むようになった。「人の命の重みなんて考える余裕もなかった。今、その遺骨はどうなっているんだろう」。あの時のことは忘れたことはない。
日本人の患者がいなくなっても、帰国することはかなわなかった。戦後、中国国内では共産党と国民党による内戦も始まり、横内さんは八路軍(当時の共産党軍の呼び名)の看護師として徴用されたからだ。
配属された北京方面の野戦病院付近では、日本人の神主が殺害されたとの情報が飛び交い、夜になると、太鼓をたたいて日本の敗戦を祝う周辺住民の声が響き渡って怖い思いもした。それでも、日本人患者と同様に、中国人患者に献身的な看護を続けた。
日中間の国交は回復していなかったが、33年に帰国が実現。そのころには、中国人宅に寝泊まりし、ご飯もごちそうになるまでの関係を築いた。「辛苦了(ご苦労さま)」とねぎらいの言葉をかけられる機会も増えた。
中国での貢献が認められ、数年前からは港区元麻布の中国大使館で開催される中国人民解放軍建軍を祝う式典にも招かれ、高価な記念品も受け取っている。
「医療の現場では看護技術の善しあしがものをいう。命の重みに国籍は関係ない。若い世代に私の思いを伝え続けるためにも、日本と中国の関係が良好であってほしい」。祈りを込めて訴えた。
2017.9.19 14:03
http://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190051-n1.html
長野県出身で大正13年生まれ。満州事変に日中戦争…と生まれて間もない頃から「戦争」が身近にあった。だが、兵士として戦地に送られ、たたえられるのは男性ばかり。「女性でも軍隊に入ってお国のために役に立ちたい」と、15歳の時に従軍看護師になることを決めた。
看護学校を卒業後の昭和18年に赴任したのは、満州の「琿春(こんしゅん)陸軍病院」。主に、付近に駐屯中の兵士らが演習などで負傷した際の治療にあたった。
忙しいながらも充実した日々を送るなか、迎えた20年8月15日。日本の敗戦が決まると状況は一変する。
看護師長からは「ソ連が攻め込むかもしれない。いざという時に服用するように」と青酸カリを渡され、「死」を覚悟した。院内には旧ソ連兵が乱入し、天井に向けて発砲しながら次々と日本人から時計などを脅し取った。自身も、母親が織ってくれた着物を奪われた。日本兵がソ連兵に連行される姿も目にした。「あのままシベリアへ抑留されたのかもしれない」。
翌年、中国東北部の延吉の病院に移ると、亡くなった日本兵の死体の処理に明け暮れた。最初は遺体に白い着物を着せて棺の中に入れた。だが、数が増えると裸のまま防空壕(ごう)にほうり込むようになった。「人の命の重みなんて考える余裕もなかった。今、その遺骨はどうなっているんだろう」。あの時のことは忘れたことはない。
日本人の患者がいなくなっても、帰国することはかなわなかった。戦後、中国国内では共産党と国民党による内戦も始まり、横内さんは八路軍(当時の共産党軍の呼び名)の看護師として徴用されたからだ。
配属された北京方面の野戦病院付近では、日本人の神主が殺害されたとの情報が飛び交い、夜になると、太鼓をたたいて日本の敗戦を祝う周辺住民の声が響き渡って怖い思いもした。それでも、日本人患者と同様に、中国人患者に献身的な看護を続けた。
日中間の国交は回復していなかったが、33年に帰国が実現。そのころには、中国人宅に寝泊まりし、ご飯もごちそうになるまでの関係を築いた。「辛苦了(ご苦労さま)」とねぎらいの言葉をかけられる機会も増えた。
中国での貢献が認められ、数年前からは港区元麻布の中国大使館で開催される中国人民解放軍建軍を祝う式典にも招かれ、高価な記念品も受け取っている。
「医療の現場では看護技術の善しあしがものをいう。命の重みに国籍は関係ない。若い世代に私の思いを伝え続けるためにも、日本と中国の関係が良好であってほしい」。祈りを込めて訴えた。
2017.9.19 14:03
http://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190051-n1.html