この碑の前では毎年9月1日、民間主催で朝鮮人犠牲者追悼式典が行われ、都知事の追悼文が届けられてきた。ところが今年、小池百合子都知事がこれを出さないと決定したことが、大きな問題となっている。
きっかけは今年3月2日に古賀俊昭都議が都議会で行なった質問だ。
この日、古賀都議は朝鮮人追悼碑の碑文や追悼式典の案内文に、「6000人に上る」朝鮮人が殺されたと書いてあることなどを問題視し、「今後は追悼の辞の発信を再考すべき」だと小池知事に迫ったのだ。これを受けて小池知事が追悼文送付を取りやめたのだという。
なるほど、たしかに虐殺された朝鮮人の数は確定できない。内閣府中央防災会議の専門調査会が2008年にまとめた「1923関東大震災【第2編】」では、朝鮮人、中国人、そして間違えられて殺された日本人の数について、千人から数千人と幅のある推定を示している。
しかし検証が進む近年まで、震災後に朝鮮人留学生10数人が関東全域を踏破して行なった調査に基づく「6000人」という数字が、歴史書や論文などで有力な推計として一般的に使われてきたのも事実だ。
「新しい歴史教科書をつくる会」の理事を務めた保守的な歴史学者である伊藤隆・東京大学名誉教授も、1989年に出版した本の中で「ほぼ6000人といわれる朝鮮人が殺された」と書いている。つまり、73年に建立された追悼碑に「6000人」と刻んであるのは、全く自然なことなのだ。
現在も、被害者数は最大で数千人にのぼる可能性があると考えられている。古賀都議は「6000人」ではなく「数千人」と書いてあれば文句はなかったのだろうか。
そんなことはないだろう。実は古賀都議はこの日の質問の中で、犠牲者数だけでなく、朝鮮人が「誤った流言蜚語によって」殺されたという碑文さえも「事実に反する」のだ、日本人への「ヘイトスピーチだ」なのだと主張している。
彼によれば、朝鮮人独立活動家が「震災に乗じて」「不法行為」「凶悪犯罪」を行ったので自警団が彼らに反撃したというのが真相だという。つまり虐殺の引き金となった「朝鮮人暴動」の噂は「流言蜚語」ではなく事実だったというのである。
ばかげている。先に紹介した中央防災会議の報告は「朝鮮人の迫害は、同時代には誰の目にも明らかであった」と書いている。「流言の根拠がないことがわかった後の回想や評論では、誤解による悲惨な事件として回顧され」てきたともある。
実際、「朝鮮人暴動」が根拠のない流言蜚語だったということは、当時の司法省や内務省、警視庁の文書などでも明確にされているし、政府要人や軍幹部なども書き残していることだ。当時を知る人々が生きている間は、そんなことは常識だった。
虐殺された朝鮮人の数は確定できなくても、「朝鮮人暴動」なるものが存在しなかったこと自体は確定的なのである。
ところが古賀都議は、常識的にも歴史学的もお話にならないトンデモ陰謀論的な「歴史観」に立って、追悼文を送るなと都知事に求め、都知事はなんとこれに応じたわけだ。
虐殺犠牲者への冒涜であることはもちろん、日本の歴史がゆがめられ、日本の歴史研究の蓄積が侮辱されているのである。歴史学者は抗議すべきだ。【加藤直樹】
加藤直樹(かとう・なおき)
1967年東京都生まれ。出版社勤務を経て現在、編集者、ノンフィクション作家。『九月、東京の路上で〜1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)が話題に。近著に『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)。
http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-55146/
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東京・両国駅近くの横網町公園内にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」。追悼式典の2日後も花が供えられていた(9月3日撮影 加藤直樹)