【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は、来年の平昌冬季五輪への北朝鮮参加と南北合同チーム出場を実現させ、スポーツ交流をとっかかりに保守政権9年間で冷え込んだ南北関係を立て直したいと考えている。
こうした方針は、政治と無関係なスポーツ分野の交流が時として南北の対話や緊張緩和の契機になった過去のケースを踏まえたものだ。
1963年1月24日、朝鮮戦争後で事実上初となる南北会談がスイス・ローザンヌで行われた。翌年に開かれる東京五輪に南北が合同チームを組んで出場するかどうかを話し合うためだった。
戦争などで生き別れになった南北離散家族の再会に向けた赤十字会談も思うように開けなかった冷戦時代、南北がまず最初にスポーツに関する会談を行った事実は、スポーツが政治や軍事などに比べ南北にとって話し合いをしやすい分野であることを示している。
ローザンヌと香港で相次いで開かれたこのときの南北会談は、合同チーム結成という結果にはつながらなかった。
だが、88年のソウル五輪の前にも合同チーム結成に向けた会談が開かれるなど、国際スポーツ大会は南北が向き合う機会を与えてくれた。
南北のスポーツ交流が本格的に実を結ぶようになったのは、90年代に入ってからだ。90年10月、南北の選手団がソウルと北朝鮮の平壌で統一サッカー大会を開いたのに続き、91年4月に日本で開かれた卓球世界選手権では合同チームでの出場が実現した。
女子団体で合同チームが中国の9連覇を阻止して優勝すると、競技場の選手や役員はもちろん、はらはらしながらテレビで試合を見ていた韓国の国民も歓声を上げた。分断と対立が当たり前になっていた南北がスポーツで団結し、一歩前進することができた瞬間だった。
同年6月にポルトガルで開かれた国際サッカー連盟(FIFA)ワールドユース選手権でも、南北は合同チームでベスト8に進出する成果を収めた。
それ以降、合同チームは結成されていないが、南北は五輪をはじめとする国際大会の開会式で合同入場行進し、世界の人々に強い印象を残した。2000年のシドニー五輪、02年の韓国・釜山でのアジア大会、04年のアテネ五輪など、計9回の総合大会開会式で合同入場を果たした。
南北のスポーツ交流は、合同チームの結成や合同入場により同じ民族であることを思い出させるだけでなく、南北間の緊張を緩和し、他分野に交流を広げる呼び水としての役割も果たしてきた。
韓国・仁川で開かれた14年のアジア大会がその代表例だ。閉会式の当日、当時の北朝鮮ナンバー2とされた黄炳瑞(ファン・ビョンソ)朝鮮人民軍総政治局長ら実力者3人が北朝鮮選手団の激励を表向きの理由として突如来韓し、韓国政府側と対話再開に合意した。
02年の釜山アジア大会も同じだった。9月の大会に北朝鮮が選手団と「美女」応援団を派遣し、同年6月に黄海で起きた南北の銃撃戦で高まった緊張を和らげた。
08年に保守系の李明博(イ・ミョンバク)政権が発足して以降、南北のスポーツ交流は他分野と同様に冷え込んでいる。国際総合大会での合同入場も行われていない。
だが、スポーツ交流は完全に途絶えているわけではない。今年4月に韓国のサッカー女子代表がアジア・カップ予選のため平壌を訪問し、北朝鮮のアイスホッケー女子代表が平昌五輪のテストイベントを兼ねた国際大会のため江陵を訪れた。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/08/24/0200000000AJP20170824003600882.HTML
1991年の世界卓球選手権(千葉・幕張)で、朝鮮半島分断後初めて結成された南北統一卓球チームの主力選手として女子団体で優勝を果たした韓国の玄静和(ヒョン・ジョンファ)選手(右)と北朝鮮の李芬姫(リ・ブンヒ)選手(資料写真)=(聯合ニュース)
2000年のシドニー五輪で合同入場行進する韓国と北朝鮮の選手(資料写真)=(聯合ニュース)
こうした方針は、政治と無関係なスポーツ分野の交流が時として南北の対話や緊張緩和の契機になった過去のケースを踏まえたものだ。
1963年1月24日、朝鮮戦争後で事実上初となる南北会談がスイス・ローザンヌで行われた。翌年に開かれる東京五輪に南北が合同チームを組んで出場するかどうかを話し合うためだった。
戦争などで生き別れになった南北離散家族の再会に向けた赤十字会談も思うように開けなかった冷戦時代、南北がまず最初にスポーツに関する会談を行った事実は、スポーツが政治や軍事などに比べ南北にとって話し合いをしやすい分野であることを示している。
ローザンヌと香港で相次いで開かれたこのときの南北会談は、合同チーム結成という結果にはつながらなかった。
だが、88年のソウル五輪の前にも合同チーム結成に向けた会談が開かれるなど、国際スポーツ大会は南北が向き合う機会を与えてくれた。
南北のスポーツ交流が本格的に実を結ぶようになったのは、90年代に入ってからだ。90年10月、南北の選手団がソウルと北朝鮮の平壌で統一サッカー大会を開いたのに続き、91年4月に日本で開かれた卓球世界選手権では合同チームでの出場が実現した。
女子団体で合同チームが中国の9連覇を阻止して優勝すると、競技場の選手や役員はもちろん、はらはらしながらテレビで試合を見ていた韓国の国民も歓声を上げた。分断と対立が当たり前になっていた南北がスポーツで団結し、一歩前進することができた瞬間だった。
同年6月にポルトガルで開かれた国際サッカー連盟(FIFA)ワールドユース選手権でも、南北は合同チームでベスト8に進出する成果を収めた。
それ以降、合同チームは結成されていないが、南北は五輪をはじめとする国際大会の開会式で合同入場行進し、世界の人々に強い印象を残した。2000年のシドニー五輪、02年の韓国・釜山でのアジア大会、04年のアテネ五輪など、計9回の総合大会開会式で合同入場を果たした。
南北のスポーツ交流は、合同チームの結成や合同入場により同じ民族であることを思い出させるだけでなく、南北間の緊張を緩和し、他分野に交流を広げる呼び水としての役割も果たしてきた。
韓国・仁川で開かれた14年のアジア大会がその代表例だ。閉会式の当日、当時の北朝鮮ナンバー2とされた黄炳瑞(ファン・ビョンソ)朝鮮人民軍総政治局長ら実力者3人が北朝鮮選手団の激励を表向きの理由として突如来韓し、韓国政府側と対話再開に合意した。
02年の釜山アジア大会も同じだった。9月の大会に北朝鮮が選手団と「美女」応援団を派遣し、同年6月に黄海で起きた南北の銃撃戦で高まった緊張を和らげた。
08年に保守系の李明博(イ・ミョンバク)政権が発足して以降、南北のスポーツ交流は他分野と同様に冷え込んでいる。国際総合大会での合同入場も行われていない。
だが、スポーツ交流は完全に途絶えているわけではない。今年4月に韓国のサッカー女子代表がアジア・カップ予選のため平壌を訪問し、北朝鮮のアイスホッケー女子代表が平昌五輪のテストイベントを兼ねた国際大会のため江陵を訪れた。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/08/24/0200000000AJP20170824003600882.HTML
1991年の世界卓球選手権(千葉・幕張)で、朝鮮半島分断後初めて結成された南北統一卓球チームの主力選手として女子団体で優勝を果たした韓国の玄静和(ヒョン・ジョンファ)選手(右)と北朝鮮の李芬姫(リ・ブンヒ)選手(資料写真)=(聯合ニュース)
2000年のシドニー五輪で合同入場行進する韓国と北朝鮮の選手(資料写真)=(聯合ニュース)