この映画を撮るまでは、日本語が理解できないばかりか、日本への関心もそれほどなかった。
そんな●(=黄の旧字体)亞●(=歴の木がそれぞれのぎ)(ホアン・ヤーリー)監督(39)が手がけた8月19日公開の台湾映画「日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち」は、ほとんどのせりふが日本語で語られている異色のドキュメンタリーだ。
来日した●(=黄の旧字体)監督は「私自身、この映画を通して、日本と台湾の関係において、かつてこういう時期があったという理解を深めることができた」と振り返る。
「見た後はへとへとだった」
映画はドキュメンタリーとうたっているが、不思議な感覚に彩られている。テーマは、1930年代、日本統治時代の台湾で、日本語によるモダニズムの詩を創作していた団体「風車詩社」のメンバーの文学性にその後の運命だ。
日本に留学していた彼らは、日本の文学者と交流する中で西洋モダニズム文学に触れ、故郷の台南で同人雑誌「風車」を創刊。
日曜になると街を散歩しながら詩や文学について語り合ったが、プロレタリア文学が主流だった当時の台湾では彼らの詩は理解されず、1年半で活動を休止する。やがて戦争が始まり、日本は敗戦。戦後は国民党政府の白色テロによって主要メンバーが銃殺されるなど、歴史の陰に埋もれていた。
映画では、そんな「風車詩社」のメンバーが書いた詩を日本語と中国語の字幕付きで紹介するとともに、彼らに関する写真、時代を象徴する映像や音楽、さらには再現シーンと、幅広い手法で表現する。
驚くのは詩の朗読だけでなく、再現シーンのせりふなどもほとんどが日本語で語られることで、外国映画としては極めて珍しいといえる。
「台湾では、みんな映画を見た後はへとへとだったと言っています」と笑う●(=黄の旧字体)監督は、映画に出てくる詩人たちは当時、詩作だけでなく、日常会話も日本語だったと推測する。
「特に彼らの家族にインタビューした後に、この映画は日本語でやるしかないと思った。というのも、彼らの祖父母は台湾語で話していたと思うが、彼らの世代とその親の世代は、普段の暮らしや仕事でも日本語で話していた。当初は日常生活の中では、少しは台湾語を使っていたのではないかと思っていた。
でも風車詩社の人たちはどちらかというと上流階級に近く、経済的にも余裕があっただろうし、恐らく台湾語はあまりしゃべっていなかった。彼らはむしろ少数派で、台湾全体の文化を代表する存在ではないと思います」
距離の中から感じた現代的要素
「風車詩社」の詩人たちに興味を抱いたのは、インターネットで偶然にメンバーの1人、林永修(りん・えいしゅう、1914〜1944年)を紹介する論文に出合ったのがきっかけだった。1930年代の台湾に、こんなに進んだ思想を持っていた人たちがいたことに驚き、映画作りへと進んでいった。
「彼らの詩を読むより先に、彼らに関するいろんな文章を読んで、彼らの内面を理解するうちに、映画にしたいと思うようになっていった。彼らが日本語で書いたものを中国語に訳されるとき、どうしても失われたり新たに加わったりするものがある。
その距離の中から私が感じたのは、彼らの作品の中の現代的な要素であり、それが非常に強烈で濃厚だった。モダニズムが西洋から日本に入って日本語で表現され、それが台湾に伝わったときに、何か不思議な美しい花が咲き、独特の新しいものが生み出された。それがとても魅力的に感じたんです」
台湾中西部の彰化で生まれ、台北で育った●(=黄の旧字体)監督が映画作家を目指そうと思ったのは、高校のころのことだ。まだ自分で撮ってはいなかったが、さまざまな映画を見て、大いに触発されていた。
特に影響を受けたのは、アンドレイ・タルコフスキー(1932〜86年)やセルゲイ・パラジャーノフ(1924〜90年)、アレクサンドル・ソクーロフ(66)といった旧ソ連の監督に、ポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ(1941〜96年)だった。
台北の世新大学に進学して映画を学ぶが、卒業はせずに、独自に映画作りを探求する道を模索。
http://www.sankei.com/premium/news/170820/prm1708200001-n1.html
(>>2以降に続く)