「判事任用面接はみな1、2分だが、私は30分」
韓国大統領の文在寅(ムン・ジェイン)を政治の世界へと導いたのは弁護士出身の元大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)だ。2人の出会いは1982年にさかのぼる。
文が司法試験に合格し、司法修習を終えたのはその年の8月、判事を志望したがかなわなかった。
司法試験合格者が少なかった当時では志望者全員が判事、または検事に任用されたが、文は学生運動の前歴が問題になった。
文は自叙伝「運命」でこう振り返る。「判事任用の面接はみな1、2分で終わったが、私は30分かかった。質問は『なぜデモをしたのか。それはいつのことか』だけだった」
文は、仕方なく弁護士開業を決心する。「母の面倒も見られるから釜山(プサン)に戻ることにした」(「運命」)
そこで出会ったのが盧だ。2人はすぐに意気投合、「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」をオープンした。
そのころ盧は、2件の時局事件(公安事件)を抱えていた。釜林(プリム)事件と釜山米国文化院放火事件だった。
左派勢力網羅する「釜民協」の共同発起人に
米文化院放火事件では図書館で勉強中の大学生1人が死亡、3人が重軽症を負った。首謀者は学生の文富軾(ムン・ブシク)らだったが、盧はそのうちの2被告の弁護を引き受ける。後に韓国反米運動の嚆矢(こうし)とされる事件だ。
文は当時をこう振り返る。「釜林事件と米文化院放火事件関連者らが出獄しさまざまな団体に根をおろして活動を始めた。そこで基盤がひろがり、活動も生気を取り戻した」
2つの事件を弁護したあと、合同事務所には学生運動事件や労働事件の弁護依頼が釜山以外の地域からも寄せられるようになった。
85年、釜山では、在野勢力を総網羅する「釜山民主市民協議会(釜民協)」が結成され、盧と文は発起人として名を連ねる。88年に「民主社会のための弁護士会(民弁)」が結成されると、2人は釜山地域の民弁の中心的な役割を担う。文は「人権弁護士」との異名をとることになった。
暴露された「対北人権非難決議案」棄権の決断
しかし、先の大統領選挙では文の「人権感覚」が反対陣営からの攻撃材料となった。
盧政権で外交通商相(外相)をつとめた宋旻淳(ソン・ミンスン)が出版した回顧録「氷河は動く」で、2007年、日米が主導した国連の「対北人権非難決議案」に韓国が賛成でなく棄権に転じたのは、大統領秘書室長だった文が最終的に決めたとの記述があったからだ。
同年11月15日に開かれた「安保政策調整会議」で宋は「この(対北)決議案はわが政府の要求を反映して大きく緩和された内容だ。われわれも北韓の人権状態を重視するという立場を見せるべきだ」と主張した。
しかし他のメンバーは「決議案は内政干渉になりうるし、南北関係発展に支障を来すだろうから」と棄権すべきだと主張した。
その後も政府内で議論は続くが、最終的には秘書室長の文が「とりあえず、南北経路(チャンネル)を使って確認してみよ」と結論づけた。
北朝鮮からは「北南関係発展に危険な事態を招来するだろうから表決では責任ある立場をとることを望む」という半分脅しめいた返答が返ってきた。
「記憶が…」と逃げるも証拠メモ出され逆ギレ告訴
この問題に保守系陣営は一斉に「文在寅は北朝鮮にうかがいをたてて国の政策を決めるのか」と非難の声をあげた。
文は「記憶が定かではない」と逃げ続けたが、投票間近の4月、一転して「宋が嘘をついている」と反論。宋は、文が真実を隠そうとしているとし、当時の国家情報院長がまとめたというメモ(証拠資料)を公開した。
「本当はこんなことまでするつもりではなかった。しかし、これだけ確実な証拠があるのに、歴史に目をつぶっているわけにはいかなかった」(4月21日付韓国紙・中央日報)
宋がメモを公開した日、文は「(暴露は)選挙を左右しようとする卑劣な、新北風工作だ。決して座視しない」と発言、24日に宋を検察に告訴した。=敬称略(龍谷大学教授 李相哲)
http://www.sankei.com/west/news/170818/wst1708180008-n1.html
韓国大統領の文在寅(ムン・ジェイン)を政治の世界へと導いたのは弁護士出身の元大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)だ。2人の出会いは1982年にさかのぼる。
文が司法試験に合格し、司法修習を終えたのはその年の8月、判事を志望したがかなわなかった。
司法試験合格者が少なかった当時では志望者全員が判事、または検事に任用されたが、文は学生運動の前歴が問題になった。
文は自叙伝「運命」でこう振り返る。「判事任用の面接はみな1、2分で終わったが、私は30分かかった。質問は『なぜデモをしたのか。それはいつのことか』だけだった」
文は、仕方なく弁護士開業を決心する。「母の面倒も見られるから釜山(プサン)に戻ることにした」(「運命」)
そこで出会ったのが盧だ。2人はすぐに意気投合、「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」をオープンした。
そのころ盧は、2件の時局事件(公安事件)を抱えていた。釜林(プリム)事件と釜山米国文化院放火事件だった。
左派勢力網羅する「釜民協」の共同発起人に
米文化院放火事件では図書館で勉強中の大学生1人が死亡、3人が重軽症を負った。首謀者は学生の文富軾(ムン・ブシク)らだったが、盧はそのうちの2被告の弁護を引き受ける。後に韓国反米運動の嚆矢(こうし)とされる事件だ。
文は当時をこう振り返る。「釜林事件と米文化院放火事件関連者らが出獄しさまざまな団体に根をおろして活動を始めた。そこで基盤がひろがり、活動も生気を取り戻した」
2つの事件を弁護したあと、合同事務所には学生運動事件や労働事件の弁護依頼が釜山以外の地域からも寄せられるようになった。
85年、釜山では、在野勢力を総網羅する「釜山民主市民協議会(釜民協)」が結成され、盧と文は発起人として名を連ねる。88年に「民主社会のための弁護士会(民弁)」が結成されると、2人は釜山地域の民弁の中心的な役割を担う。文は「人権弁護士」との異名をとることになった。
暴露された「対北人権非難決議案」棄権の決断
しかし、先の大統領選挙では文の「人権感覚」が反対陣営からの攻撃材料となった。
盧政権で外交通商相(外相)をつとめた宋旻淳(ソン・ミンスン)が出版した回顧録「氷河は動く」で、2007年、日米が主導した国連の「対北人権非難決議案」に韓国が賛成でなく棄権に転じたのは、大統領秘書室長だった文が最終的に決めたとの記述があったからだ。
同年11月15日に開かれた「安保政策調整会議」で宋は「この(対北)決議案はわが政府の要求を反映して大きく緩和された内容だ。われわれも北韓の人権状態を重視するという立場を見せるべきだ」と主張した。
しかし他のメンバーは「決議案は内政干渉になりうるし、南北関係発展に支障を来すだろうから」と棄権すべきだと主張した。
その後も政府内で議論は続くが、最終的には秘書室長の文が「とりあえず、南北経路(チャンネル)を使って確認してみよ」と結論づけた。
北朝鮮からは「北南関係発展に危険な事態を招来するだろうから表決では責任ある立場をとることを望む」という半分脅しめいた返答が返ってきた。
「記憶が…」と逃げるも証拠メモ出され逆ギレ告訴
この問題に保守系陣営は一斉に「文在寅は北朝鮮にうかがいをたてて国の政策を決めるのか」と非難の声をあげた。
文は「記憶が定かではない」と逃げ続けたが、投票間近の4月、一転して「宋が嘘をついている」と反論。宋は、文が真実を隠そうとしているとし、当時の国家情報院長がまとめたというメモ(証拠資料)を公開した。
「本当はこんなことまでするつもりではなかった。しかし、これだけ確実な証拠があるのに、歴史に目をつぶっているわけにはいかなかった」(4月21日付韓国紙・中央日報)
宋がメモを公開した日、文は「(暴露は)選挙を左右しようとする卑劣な、新北風工作だ。決して座視しない」と発言、24日に宋を検察に告訴した。=敬称略(龍谷大学教授 李相哲)
http://www.sankei.com/west/news/170818/wst1708180008-n1.html